坂下町章制定さる 発 行 所 岐阜県恵那郡坂下町公民館 発行人 原 武 夫 編集者 新聞編集委員会 印 刷 所 岐阜県恵那市大井町 東濃出版印刷株式会社 作者は岩手県の長澤さん 坂下町章の正しい書き方 十 五日 発 表 と 同 時 に 賞 金 百 万円 めた 盛 岡市 の 長澤章 さん か ら 、 に 採 用 さ れ 、 見 事 に 栄冠 を 射 止 愛され 親 し ま れ 、且 力強 い ス タ ので 、 品 位 の あ る 事 、 誰 にで も イルで あるこ と に意 を 集 め 小 生 品を採 用 す るこ と に 決 定 し 、翌 次の よ うな 喜 び の言 葉が 寄 稿さ 番力の 入 って い った 作品で あ っ と して も 、 つ た な い な が ら も 一 を贈った。 生まれ で 職業 は公告 美術 社 、役 れた。 尚長澤さんは 、大正九年 入り そ の 労 が 報 いら れ 、 鬼 の 首 し み 成 し遂 げ た 我が 子 が 、 選 に 作品は我が子と申 します、若 たと思っております。 坂 下 町 章 決 定 に 伴 な い 、 町で 職関係で は 岩 手県デ ザ イナ ーク は 一月 一日 に 、各役 職及 官 公 署 長を 招 待 して 、坂下 小学 校 講堂 ラブ会長をしておられる。 採用の喜び に おいて ﹃ 町 章制 定 式 ﹄ を 行っ た 。こ れ に よ り 、 多 年の 懸 案で あ った 町 章 が 、 本 年 一 月 一 日を 快で な り ま せ ん。 我 が子 が 永 遠 を 取 っ た と 申 しま し ょ う か 、痛 に 貴 町 と 共 に 輝き ま すこ と を 思 も って 制 定 せ ら れ 、 今 後 各 方 面 うにつけ、尚 一層勉強致 さ ねば で利用せられることになった。 より招 いた 二 名の専 門 画 家 を加 尚 町 章 審 査 に 当 って は 、 岐 阜 市 と 覚 悟 を 新 に 致 して お り ま す 、 平行線各々を 引き 、図に示 えた 左の八 名 が、町 より 審 査委 宜しく 皆々 様のご指導を お 願い ︵ 一︶輪 郭の 円 の 中心0へ 垂 直、 す比率︵数字︶を求める。 申し上げます。 石 川 県 小 松 市 章 、 根 上 町 章 、島 八 村 々 章 も 小 生 の 当 選 作で す し 、 坂 下 町 章 募集を 知 り 、 時 間の 根県三 都村 章 、大阪 ガス 、 兵庫 当選採用の 栄を 受けて おり ます。 ないのを残 念 に思い ながら 七点 それ 等 の 作 品 と 共 に 又 一 つ 貴 町 等 々 全 国 に 四 十 数点 の マ ー ク が して 採 用 さ れ ま し た 由 、 誠 に 有 の 町 章 をこ の 世 に 送 り 得 た こ と 県福崎町章、北海道津別町章 利一 申 し 上 げ る まで も な く 町 章 は 難く感激に堪えません。 致 しま した の が光 栄 にも 町 章 と 森 武夫 を 立案 中四 点 を 速達 便 にて 応募 原 を 作家 と して 何より も 幸 福で あ 和 尚 、 蛇 足 で 恐縮 で す が 貴県 安 員 に 委 嘱 さ れ て 、こ れ を 決 定 し 寿朗 た。 出す。 商業美術画家 坂下町長 町の発 展と共 に永遠に輝き ます 坂下農業協同組合長 傊一 楯 以 上 責 を 果すべ く 、 と り と め もなく筆を 執 りましたが 、ご期 り ま せ ん。 そ う した 意味 に お い ると思っております。 糸魚川 坂下町商工会長 て 応募 図案 の 説 明 に も 書 き ま し 至 りで す が 当 選 の 感 想 に か え ま 待 に 反 した か も 知れ ず に 汗 顔の 末筆 ながら貴町の無限の飛躍 す。 化し、坂下町の融和団結を 太い の姿を 似 って 表現致 しま し たも 円で 、 又 雄 飛 発 展 の 町 勢 を 飛 鳥 た よう に 、 頭 文字﹁ さ﹂ を 図案 松井 恭平 坂下新聞編集委員 代理 小林 祐三 坂下町教育委員会委員長 重 も の 必 ず 良 い 作 品で な け れ ば な 坂下町議会議長 木沢 アンデパンダン常任委員 二科会所属日本 狭間 ︵ 二 ︶ 比率 に より 中 の円 二 つを ︵三︶ Aと B を各々結び 、 中央 の三角形を出す。 ︵ 四 ︶ C と D 左 右 各 々を 結 び 、 翼の左右の線とする。 各々結び、翼の上下巾とす ︵ 五︶ 左右 の CとE 、F と Gを る。 円と翼の切れ目を出す。 ︵ 六 ︶ 左右 の H と I を 各 々 結 び 坂 下 町 制 五十 周 年 記 念 行事と して 募 集 中 で あ っ た 、 坂 下 町 図 案は十 一月 末 の締切 日まで に、 六百八 十七 点 に達し 、十 二 月十 自 分の 応募作品が 、坂下町章 四 日 に 開 催 し た 坂 下 町 章 審 査会 盛岡市の、 長澤章さ ん応募の作 で 、厳 正 な 審 査 の 結 果 、 岩 手県 ― 1 ― 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (1) 九十才 慶応三年生 九 五 才 た。今 年成 人 となった青 年 は、 が 、 坂 下 小 学 校 講 堂 で 挙 行 され 一 月 十 五 日 、 恒 例 の 成 人式 典 において 、 国 庫補 助 金の 交 付が 本 事 業 に は 、 昭 和 三 十 六 年度 事を 完 了 し 続 いて 建 築工 事 は 、 九十才 ご 意 見 等 ご 遠慮 な く お 聞き 下 たものは、八十四名であった。 三 名で 、 町 主 催 の 式 典 の 列 席 し 急 ピ ッ チ に 工 事 を 進 めて 、 新 学 着 工 は 少 し 遅 れ る 模 様で あ る が 、 った。 濃 州 土 建 が 施 工 す るこ と に 決 ま 明治五年生 九十才 一五三名が成人を迎える 右 加藤かむ 可知百助 右 れた老人は次の方々である。 原 さだ 〃 に 、 近 隣 観 光 地 と 相 提携 して 、 一層の 発展 に 務 める 等 、 一 段の 前田とく 〃 見 込ま れ る 可 能 性が ある ので 、 的な振 興 策 、 椛の 湖 の開 発 と共 隆盛と繁栄の為に、町民の皆様 男八十 七名 、 女六十 六名 の 一五 げます。 と 共 に ま い 進 致 した い と 存 じ ま ︵可知さんは代理者出席︶ と発展 を 哀 心 より お祈り 申 し上 ︵盛岡市葺手町二九〇長澤章︶ 年頭の辞 す。 さ い ま して 、 ご 指 導 、 ご 鞭 撻 の 坂下町長 原 武 夫 輝 か し い 昭 和三 十 六 年 の 春を 式 典 は 、 岐阜県 教 育 長 代理、 長 野 県 西 筑摩郡 の 、 読 書 村 、 一 日 、 坂 下 小 学 校 講 堂で 町 章 制 恒 例 の 、 高齢 表 彰 式 が 、一月 事業所 長、 町 議会議 員、 自 治会 長 な ど 役 職 関 係 者 多 数 参 列 して 行わ れ 、 原 町 長の 式 辞と 来 賓 の 衆院選・当町では 回の 衆 議院 議 員総 選 挙が 、 十 一 百 日 選 挙 と いわ れ て い た 、今 楯一五〇五︵社︶を得票 交告九七五︵自︶ 謝 辞 を 述 べ 、﹃ 成 人 記 念 帳 ﹄ に 側準備の祝酒 と赤飯が振舞われ 、 って 得 票 し た と 思 わ れ る 、 社 会 当町の結 果は、組織の力によ 月二十日に執行された。 記 念 品 など も 贈 られ 、午 後 一二 党の楯兼次郎候補が 一五〇 五票 が 九 七 五 票 を 得 票 し 、こ の 二 人 を 獲 得 、自 民 党 の 交 告 弥 三 候 補 の候補者が 、坂下町 有権者 の大 尚坂下 劇場の協力で 全員に入 て 娯 楽 映 画 を 観 賞 し よき 一 日を 交告弥三 楯兼次郎 得票数 一、五〇五 ︶内 は選 挙 区総 自民 九七五 ︵六七、五九一︶ 社会 は 次の 通り ︵ 坂 下 町 の 投 票状 況 及 び 投 票 率 めることとなった。 当選 して 、 再び 国会 へ駒 を すす 田 義 雄 、 金 子 一平 両 候 補 と 共 に 半 か ら も 選 良 と して 推 さ れ 、 前 まず石 橋工 務 店により、整 地工 む ︶二 教 室 を 建築す る工 事 は 、 の 敷 地 に六 十 一坪︵ 渡 廊 下 を 含 教室不足解消を計画し、講堂前 坂下中学校 の 生徒急 増に よ る、 新学期までに建築 坂中普通教室を 過した。 場券を 贈 呈 各 時坂下 劇場 に おい 時三十分解散をした。 式 後 は 、 婦 人会 員 の 接 待で 町 全員が署名をして式を閉じた。 祝詞に 、成 人 代表の 林大 助 君が 期には間に合う模様である。 程 、 お 願 い ま して 年 頭 の 辞 と 致 吾 妻村 、田 立 村の三 ヶ村 合 併 が 定式 に 引続 いて 、来賓多 数 列 席 吉村県 議会 議 員、町 内各 官 公署 迎え 、 心か ら お詫び と お 祝 いを 倍増と 誠に 明 るい、景気 の 見 通 ろ 数 年で 月 給 は二 倍 、各 所 得は 成 りこ の 一 月 一 日 か ら 、 南 木 曽 南木曽町誕生 蘇南三村合併 します。 日本経済も輸出の増大と、内 好 調を 続け 、 本 年 は 昨 年 以 上 の 需 要 の 拡 大 に 伴 い ま して 景 気 は し と な って い ま す の で お 互 い に 数二三 一二 戸 、人口 一〇 、 七七 町として 発 足 した 。 同 町 は 、戸 経 済 成 長を 遂 げて 、 こ こ の とこ よう、 大い に工夫して 儲 けて い るす限 り、 重点的また、効 果的 町 制 の 上 に お いて も 、 財 源 の ゆ の上で 挙行され 、原町長より記 四名が表彰される 高齢の加藤さんら いる。 の 選 挙 が 行 わ れ るこ と に な って 一人。 二月 中に、新 町長と 町議 ここ の 福の 神 が素通りに ならぬ きたいと思います。 昨 年 は 心 配 した 災 害 も なく 、 続く豊 作と 景 気 好調で 、 明 るい 平 穏 な 年で あ っ た こ と は 、 誠 に 御同慶に堪えませんでした。 さて 、 本 年 も 昨 年以 上 の よ い 年 に 投 入 して 、 明 る い 町 民 生 活 の 念品が 贈 ら れ 、森議 長か ら お祝 で あり ます よ うに願 うと 共 に、 側溝の整備、改善、教育機 関の 向 上 を めざ して 積 極 的 に 、 道 路 、 新 春 を 迎 えて 、 長 寿 を 祝 福 さ いの詞が述べられた。 備と拡 充 、 農 商 、工 産業 の 合 理 充 実 、 衛 生 厚 生施 設 の 一 層 の 整 ― 2 ― 申上げます。 高齢被表彰者 町章制定式 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (2) 平野三郎 竣功 農 耕 、 乳 、 肉 、 モ ー 、わ た し に ﹁ ブ タ 君 の 価 が 高 い って ⋮ ⋮ 。 数列席し、学 校の子 町内知名の士 が多 の制定式があった。 元 旦 に、坂下町 章 ったいような気持ちになった。 た。︱私は 、ちょ っと、く すぐ いに、パチ パチパチ と拍 手を し 工事中 加 した 。 司会 は 役場 上 級 生 だ け 残 って 参 式を すました あと、 制定式は終了した。 議さんの祝 辞とすす み、無 事に 町 長さ ん の 町 章制 定 宣 言 、 S県 ○ 〃 供たち も 、新 年祝賀 竣功 上外地内路側工事公会堂 〃 シ︱ 乗 り か え て く だ さ い よ 。﹂ ︱ ウ 四九六 上野寺尾 〃 〃橋本屋 〃 ︵五四、〇四三︶ 中外地内 〃 自民 ︵五二、三九二︶ 外洞川護岸工事 下屋前 〃 自鐘地内路側工事 未着工 それ か ら 式 次 第 に し た が って 、 一五六 大巻橋梁修繕工事 一三七 大巻地内路側工事 ▽ △ △ 齢者の表彰式に移る。 ▽ 最 高 齢 者 の 初音 の お ば あさ ん し か し 元 気 に 、 入 場 して 来 ら れ が二人の介 添えに支 えられ て 、 ると、ひ とき わ 盛ん な拍 手 が、 ︱ あ あ 、こ の子 供 た ち は 、い が 少 して れ た よ う な よ う す で 、 奏がながれだした。 参 加 チ ーム = 福 岡 村 六 組 、坂 梶 田 敏 郎 、 松井 佐 一 伊 藤尚美 、加藤嘉朗 に 立 って い る 町 内 知 名 の 士 な ど 、 歌いはじめた のは、式場 の 両側 て ︱﹁ 君が ア 、よおわぁ ⋮ ⋮﹂ た り す る だ ろ う。 だ が 、 子 供 た く つを つけ て 反 対 し た り 賛 成 し つ いて は 、 お と な は 、 何 か と 理 な い 。 歌わ な い 、 と い う こ と に 子 供 た ち は﹁ 君 が 代 ﹂ を 歌わ い子なのだ、と私は思った。 組⋮⋮福岡村 おとなばか りで 、講 堂の 中 央を サッ とタクトが振り上 げられ ☆第二 回恵 那 郡 中学 校 駅 伝 競 走 占 めて 並 ん で い る 大 ぜ い の 子 供 郎組⋮⋮坂下町 =恵那市西中学校間︶ ち は 、 何 も 苦 に す る とこ ろ は な ︵ 十 一月 二十七 日 中 津 川駅前 準 優勝 優勝 子 供 た ち の 席 か ら 湧き 上 が った 。 タ ク ト を と る小 学 校 の S先 生 そ の ま ま 、こ ん ど は 、 町 内 高 一二八 ︵六、〇八一︶ ︵四一、五三五︶ 加藤鐐造 民社 無 可知一太 共産 金子一平 の M さ んで 、 ま ず 助 役 さ ん の 開 ︵ 一九 三 七 四 ︶ 予算 は 、 ヘ イワ 代﹂の合唱となる。 ︵五七、六〇六︶ ☆近隣町村親 睦庭球体会︵ 十一 式の辞があり、次いで﹁君が ︵六九、二三六︶ 前田義雄 自民 でよろしいが、その下につく 壇 上 に 登 ら れ 、﹁ 君 が 代 ﹂ の 前 庭︶ 八七・五六 下町四組、山口村二組 月一三日にて坂下小学校々 二八 ○ 投票総数 三、四七〇 頌 春 。 奉 祈 金棒 。 ︱ オ ニ 一同 四五 ︱ 無効投票 八八・四八% 有権者数 三、八七二 投票率 ︵内訳︶ 八九・三〇 一九六一年度、イクサナシ 第二〃 億!兆!! 八八・五七 第三〃 八八・四四 第一投票区 第四〃 ○ たち は 、 一 人 も歌わ ない 。 まわ 去 年 は 、 ダッコ ち ゃ ん を はじ 三 位 入 賞坂 下 中学 校 = 五 十二 土木事業進歩状況 め黒 い ブ ー ツ が 捲き 起 っ た 。今 吉翁の 講話を 、すな おに 、喜ん いのだ。S県 議さんや 、古 井乙 ︵一︶町単工事 ま って き いて い る ば か り で あ る 。 りの、 おと な たち の 歌声を 、だ し か し 、 そのま ま 合 唱 は す す で聞いていた。 分三十 五秒︵ 原睦保、曽我 ︱私も 、歌 って いた が 、変 なと 沖士、市脇小市、原増吉︶ まどいを覚えた。すこ しさ みし 年は白 色ブ ー ムか? ブル ブ ルブ 尚 優 勝 した 恵 那 市 西 中学 校 の くもあった。 ル⋮。 ○ った。 タイムは五十分四十二秒であ 竣功 町章が決まった ︱.町旗もつく り 、庁 舎 の 玄 関 にも 掲げ 、 町 の 〃 自 動 車 に も 書 入れ と 、ヤ レ 忙 し。 ん で 、﹁ 苔 の 、 む う す う ま あ 矢淵側溝改良工事 〃 ○ 氷坂法止石積工事 〃 泣 き び そ 山 の 名 を 採 って 、 こ ん 〃 相沢防水水槽 〃 あゝ で ェ ⋮ ⋮ ﹂ と 、 歌 い 終 わ る 新町防火水槽 自鐘防火水槽 〃 と 、 大 ぜ い の 子 供 た ち が 、 一せ 上野小学校々庭拡張工事〃 島平暗渠工事 そ鳴き そ、牧 歌の町に朝の か げ。 ど生れた南木曽町。春のな鳴き △ 伝馬町島平側溝工事 〃 ▽ 本町新町タール舗装 ︵一︶県工事 ― 3 ― 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (3) 坂下高校 新年度の問題 町民諸民に訴える らば同 日の 論で なく 甚だ 大き い 影響は全日制高校と 比較したな 対 象 と す る 定 時制高 校 に 及 ぼ す 果を も た ら し 、特 に 勤 労 青 年を の高校 の入学 生徒数 に大き な結 下 高 等 学 校 と 改 めて 新 発 足 を み 定 時 制 高 校 と して そ の 名 称 も 坂 には待 望の 県 移管が 叶って 独立 新校舎 が完成 し続いて 同 年四月 には坂 下 中学 校の校 庭の 一 隅に 多 く 坂 下 高 校 へ 進学 され る よ う 学を卒 業され る生徒を 一 人で も 期せられ る ならば 、 本年三 月中 土百年の教 育 の樹 立向上 発 展を あなた 方が 真 に郷土を 愛 し 、郷 そこ で わ が 敬 愛 す る 町 民 諸 氏 よ めた。それがこの牛である。 ら 、 牛 に つ いて イメ ージ を ま と 歩 いて 帰 っ た 。 山 道 を 歩 き な が す る 気 力 も 出 ず ブ ラ ブラ 山 道を に は 何 の 詩 情 も な い 、ス ケ ッ チ 小 屋 の 中 に 入れ ら れ て い る 牛 し か しこ こ まで の 経 路 は 書 い たのは周知のことである。 て しま えば 至 極簡単 に思 わ れ る め る 時 、 ガ ム シ ャ ラ に 猛 進 して ものと言わねばならぬ。 中で も 坂 下高校 の 如 き 山 間僻 そ して 県 下 に誇 る 坂 下 定時制 一番に 馳せ 参 じだつもり だ った 勝 野 正 男 地 の 定 時 制 高 校 に お いて こ の 影 が 、校 舎 を 新 築 し 、 設 備 を 一 応 の が ね ず み に して や ら れ る と い 表現 したら黒いカタマリにな 昭 和 三 十 六 年の 新 春 を 迎え る 響をこ うむ る こ と は 尚 更で あ る。 大な危 機を 、 理解 あ るあ な た 方 高 校 が 現 に 直 面 して い る こ の 重 切に念願するものである。 の 手 に よ っ て 救 って 頂 き た い と 枚におどら されて カッと燃 え上 う人の よさ。 又闘 牛が赤 い 布一 、 当事者 の苦 心というもの は到底 、 筆 紙 に 尽 く さ れ るも ので な く 、 って し ま っ た が 昔 、 十 二 支 を 決 に当り痛感す るこ とは すで に 紆 余 曲 折を へ て の 町 並 み に 学 校 整 え 、 それ を 県 へ 移 す ま で の 、 惜 し み な い 努 力 を 払 って 頂 き た 満十二 年の 輝 か しい 歴史 を 積み も 最 近 さ か ん に宣 伝 され て い る 県 下 の 教 育 情 勢 か ら 考 え て みて 机 上 論 の み で な く む しろ 今 年 あ 定 時 制 高 校 の 統廃 合 も あ な がち い。 重 ねて き た 坂 下 高 等 学 校 が そ の ならぬ 重大 な 問題 に 直面 して い 発展の歴史の上において 容易 代校 長 に迎 えて 坂下 小学 校 の校 下 町教 育 百 年 の 計 に よ って 樹 立 かかった。 て 、 よ うや く 一匹 の 牛 に お 目 に とが結 実 して 昭和二 十八 年二月 徒 の 切 な る 願 い と 町 当局 の 運 動 される。 しまう よう な 不吉な姿さ え 予想 い光をはなっていた。 だ け が 人の よ さ そ う なや わ ら か ッチリした大きなからだの牛は 丑 年の 者 に 通 ず るも のを あ の ガ と 落ち 着 い た 様 ⋮ ⋮ 等 々 、 何 の 神々を 背に の せた 時 の ゆ ったり うと神のつかいとして多くの が る 一 途 な 単 純さ 、 そう か と 思 文字通り血 の 滲み出るよう な努 を 思 い 出 し た が 、私 の イ メ ージ 今 まで に見た 牛の 色々 の姿態 っぱり手も足も出ない。 い ざ 牛 を 描こ う と し た ら 、 さ あまり描いたことがない。 ー フ に して 来 て 、 動 物 や 人 物 は 今 まで 、 花や 風 景 ば か りモチ 翠 たりからいよいよその実 行期に とを 町 民諸 氏 は忘れ て は な ら な 力 の 積 み 重 ね の 成 果 で あ っ たこ 絵と文 藤原 みれ ば 、 本 来 三 月 の 入学 生 徒 数 移 さ れ る の で は な い か と 思 って め、初 代校 長 に劣ら ぬ 人格 識見 容を 充 実 して 順 調な あ ゆ み を 進 牛 こ の 問 題 に つ い て は 今 改 めて るということである。 言 う ま で も な く 、 昨 年の 本 紙 上 火を 見 る よ り 明ら か で あ ろ う。 亡 の 運 命 が 決 す るこ と に な る は い。 そ の 後坂 下高校 は着 々 と内 十三日 第一四 八号︶伊藤校 長か 共 に高 い 水 野 校 長か ら 続 いて 現 の 結 果 如 何 に よ って 坂 下 高 校 存 ら その 理由 を つぶさ に述 べ て 町 更 に又 、最 近 の経 済 界の 好 調の のである。 伊 藤校 長を 迎 えて 今 日 に 至 った において︵ 昭和三十 五年六月二 民諸民の定 時制意教 育に対 する 波 に の って 求 人 は 殺 到 し 進 学 よ にコ ツ ン と く る よ う な 、 牛 は 浮 りも就職ということになれば こ の 様 な尊 い歴 史 を 持 つ坂下 よ う 。 何か つ か め る 。 仕 事 は そ か ば な い。 そ う だ 。 牛を 見 て こ 不 快 理 解 と 協 力 を 仰 いで お ら れ 高校がこの三 月の入学期 に際し るので 差 し 控 え るが その 要 点 だ て 、若 しも 定 員 五十 名 に 満 た な れ か ら だ。 と ス ケッ チ ブ ッ クを 益 々 入 学 生 徒 数の 激 減 に 拍 車を 振 り 返 って 往 時 を お も えば 、 い 僅か な 生 徒 数 よ り 確 保 出 来 な け を 再 び 繰 り 返 して 言 え ば 、 本 昭和二 十三 年十一月 、郷 土 に対 の い そ う な 小 屋を の ぞ いて 歩 い か か えて 出 か けた。 松源 寺 の 牛 かけることになろう。 即ち 、 本 年 と 来 年 は 、 中 学 校 卒 将 来 は ど う な るで あ ろ う か 。 坂 か った と し た ならば 果 して その 年と 来 年の 三 月 に坂 下高 校 へ志 業の生徒が未曾有に減少する時 長吉村新六氏 は内海 定正氏を初 す る深 い 教 育 愛 に 燃 え た 時 の 町 昭和三 十四 年 度卒業 生二 百 万に して そ の 姿 を 泡 沫 の 如 く 消 して され た 坂下 高 校 はあわれ 一 朝に 望 入学 す る 生 徒 数の 問題で あ る。 で あ って 全 国 的 な 数 字を 言 えば 対 し三 五年 度 は 約 一 八 〇 万 人 、 した が 、 そ の 後校 長 以下 在 校 生 舎の一部に坂下実業 高校を 創立 人 に 激 減 す る ので あ る。 こ の 膨 黒 い 大き なカタ マリ の 中に目 三 十 六 年度 に は 更 に 約一 四 五万 大 な 生 徒 数 の 激 減 は 直ち に 全 国 ― 4 ― 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (4) ガ ム シ ャ ラ で 、 そ れ で いて お ある。 も って い る よ う な 気 が し た の で る為に 、いた ずら に 他国 に追随 た 日 本 人 が 、 世 界平 和を 確 立す 史 上 は じ め て 原 爆の 洗礼 を 受 け もせず 、互 い に悪口を言 い合 っ り す ぎ る。 お 互 い 十 分話 し 合 い ⋮ 何か ぎ し ぎ し と し た 騒 音 が あ と か 、 年寄 り と 若 い 者 と か ⋮ ⋮ ぎ る。 東 西 陣 営 と か 、保 守 革 新 していきたい。 一九六 一年を 本当の 黄金の 年に ってほしい。 一九六 一年は 真に豊かな 年にな 根 菜 類 、魚 、 鳥 、獣 など 、 を 捕 た大昔は天然の木の実、草の実、 ず 家 畜 を 飼 うこ とを 知ら な か っ 出す。 人類 の 祖先が 田畑 を ★さ って 暮 ら し て お り 野 牛 狩 り は 大 極的に働き か け真の平和を 築く す るこ と を 止 め 、 世 界 の 人 に 積 ﹁ 明 け ま して お め で と う ご ざ った 。 つま り 野 牛は 険 岨 な 山 中 に つれ て 大 地 に 印 し た 獣 路 で あ った の は 野 牛 が 永 年 季 節 の 移 動 切 な 仕 事 だ っ た 。 ア メ リ カで 西 います ﹂ 新 春 を 迎え るた び に繰 牛 の 話 ゆ っ く り し て い る よ う だ が 、ち て いて は 問 題 の 解 決 は 出 来 な い 人良しで 、ち ょ っと 間抜 けで 、 べき大切な年ではなかろうか。 少 年 時 代 、青 春 時 代 の 自 分は に 十 分 な話 し 合 いが され ず 、 互 り返す言葉で はあるが、こ の言 ょ っと した キ ッ カケ で 猛 然 と 、 全 て 戦 争 で 終 わ って し ま い 、 同 い に 他 人 の 悪 口 を い って い るこ の子供 の成 長を見つ めながら、 徒の純 心な 顔を見 な がら 、 自分 主 主 義 も そ ろ そろ 板 に つ い て き い も の だ。 戦 後 十 五 年た ち 、 民 持ち た いも の だ。 又 作 って ほ し も っと も っ と 話 し合 いの 機 会 を の 一 年 一 年 俺 は 年を と っ た ん じ 年 年を と って 行 く と は い う も の で 誠 に 嬉 し い 事で あ る 。 一 年 一 と に 自 身 の 現 存 が あ ると い う訳 葉 を 繰 り 返 し て 行 け る と 言 うこ 所 が 多 い。 イ ン ド 人 は 牛 を 大 切 横 断 鉄 道 や 国 道 に な って い る 場 れ ら の 野 牛 の 歩 いた 山路 は 大 陸 知 って い た わ け で あ る 。 現 在こ で どこ が 通 れ る か 人 間 よ り 先 に 山で 道 に 迷 っ た ホ ロ 馬 車 隊 を 救 部開拓 が始 ま った 頃 、ロ ッ キ ー 級 生の 中に も 数多 く の 傷 し い犠 と が 多 す ぎ る ので は な か ろ う か 。 原 良 吉 そん な 牛を 頭 に描き な が ら 、親 突 っ 走 り だ し た ら 手 に おえ な い。 牲 者 を 出 し て い るこ と は 悲 し い い つ ま で も 平 和で あ って ほ し い て よさ そう だ の に、む しろ 逆に 町 内 の 様 子を見て も 、 お互い しみを も って コ ンテで 描 いて み こ と だ 。学 校 で 教 壇 に 立 って 生 はずだ。 た。どうもうまく描けない。 岩 戸 景 気 と か 何 と か 、 まこ と と心から祈らずにはおれない。 黄金の一九六一年に 黄 金 の 一 九六〇 年 代 の 二 年目 石 垣 明 の新春 、昨 年 は安保 とテ ロ の 年 と は 本 当 に 悲 し いこ とで あ る 。 ちで 張り切 ら んとす る哀れ な気 みの型で 所 謂 虚勢にも似 た 気持 き な牛 が、 自 動車が 走り まわ る タ の 街 に は 背 中 にコ ブ の あ る 大 に す る ので 有 名で あ る カ ル カ ッ も っと も っ と 民主主 義の 良 さ 、 の に平 然 と して 立 っ た り 座 った ゃ と消 極的 な 考え方を 負 け 惜し 日 本の 経 済 の 二 重構 造は 益 々 そ 持ち を ふ み し め る の も 又 格 別 な 後 退 し つ つ あ る よ う に 思 え るこ の 所 得 格 差 を 開 いて い る 。 こ の 民主国 家の ありがた さに気 づき に世の 中は景 気がいい話 し だが、 した 気 分 に な った が 、 ム ー ド だ の い い ム ー ド に 何か うき う き と 問題の 解決こ そ今 年の最 大の焦 と いわ れ 、 後 半 所 得 倍 増 の 景 気 けで は 所 得 倍 増 は 及 び も つ か ず 、 が いて 乳を し ぼ る 為 に ★ っ て あ り して い る 。 皆 各 々 牛 の 持 ち 主 るの だ そう だ 。 その 糞 は 公 園の ★で も あ ろ う 。 幸 い に し て 私 は 大き な 立 木 、 ★ 、 壁 な ど に べ た 本年は﹁エト﹂に当り称して ﹁丑﹂ 年生れで あるエト に 当る べ た は り つ け て 乾 か して あ る 燃 いもので あ る。 民主 主義 と は手 と 何 だ か 意 気 込 みも また 違 った 伸ば し 、 立 派 な実を む す ば せた 間がか か る まわ りく ど い 、 都合 感 じで あ る 。 一 九 六 〇 年 は あれ だ 。 福 祉 国 家 と して の 絶 対 の 条 件 、 全 国 民 が 貧 乏と 病気 か ら 解 の悪いもの だと考えて い る 一部 点で あ り 又 政 治 問題 に な り そ う オ ス の ニュ ー ス は国 際状 勢 の 激 の 人の あるこ と に 我 々 は 警 戒を の 日 本 の 空 を お お い は じ め 、ラ 動を 刻 々 と 伝 えて き て い る 。 又 つくづく思う。 放 さ れ るこ と が 何 よ り 大 切 だ と ドル防 衛の 黒 い雲が 早くも 新春 A・ A 諸 国 の 独 立が 相 次 いで 実 の 生き て い く 道を 正 し く 見 極 め 、 こ う し た 中に今 年こ そ 自 分達 が それ ぞれ の 立場で 検 討 し 会 っ 十分なる話 し合いが なされ 、皆 色 々 の 問 題 を 解 決 して い く に は 、 我々の周囲に山積している そして ありたい。 活 へ 力 強 く 一 歩 踏 み 出 す 新 春で 町も、県も 、国も自主独立の生 た ち の 頭で 、 手で 、 足 で 個 人 も 、 しなければ ならぬ。 そして 自分 ぶり﹂ とい うのがあ るが いかに に 、﹁ 三 椀 の 雑 煮 か ゆ る や 長 者 るこ と に な り ま し た 。 蕪 村 の 句 落ち 着 か な い ま ま に 新 春 を 迎 え れ も し た か っ た と い った 様 な 心 も し な けれ ば なら な か っ た 、 あ を して い る 。 そ れ は 寒 さ に 強 い ん な場 所で も 人 間 は 住 め る 工 夫 草 しか 生え ず 畑 は 造 れ な い 。こ 登 ると 氷河 の すぐそ ば の 荒 地 は ヤ ﹂で 海 抜 五 千 メ ー ト ル 位 まで 料 に す る の で あ る 。﹁ ヒ マ ラ 現 し 、 ま さ に 民 族の 夜 明 け の 時 大き く い え ば 日 本の 進む べ き 道 わ せ て 問 題 解 決 に 当 って こ そ 、 て 、全 部の 者 が 納得 し、 力 を あ 余りに も今 の 世は対 立が あ りす 実現出 来るので はなかろ うか。 てほしい。 一九六 一年を 真に平 和な 年にし って 毎 年 雑 煮 を 食 う た び に 思 い も 大 時 代の の んび り した ★で あ そこ の 住 人 つ ま り チ ベ ッ ト 人 種 焼 く 丑 を 放 牧 して い る の で あ る 。 代を迎えている。 を は っき り と 見 つけ る 年で は な 国 家 の 建 設 、 外 に 向 って は 人 類 かろ うか。 国 内的に は真 の 福祉 ― 5 ― 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (5) 人 類 が 牛を 飼 い は じ め た の は 、 地の話である。 くがんばりぬきたいと思います。 言 わ な いで 、 ど こ ま で も 根 気 よ そこ で わ た く した ち の 日 常 生 活 い よ う 石 垣 を 作 って そこ に 生 え の シエ ル パ 族 は 牛に 食べ ら れ な 今 か ら 7千 年 ぐ ら い 昔 、 新 石 器 新春・山談議 然 る に 一般私有 林 は 約千八百 余町歩を占 め 、その 大部 分は植 林を 完 了 した 事も 、 一部を 除き これを町有林と比較するときは、 た 草を 干 して 石 小 屋 に貯 え 、 夏 昭 和 三 十 六 年の 新 春 を 迎え お 遥か に 劣 勢で あると 存じ ま す。 大部分は舌 入不十分の観 あり、 めで た く 存 じ ま す 。 さ て 今 度 当 年位に は下 刈の実施 が最 も 急務 故 に万 難を 排除 し少 なく と も隔 小林 彦太 牛 の 皮 や 角 を 使 うこ と も あ る だ 迎えるもの に随想執筆寄 稿要望 町新聞編集 係 より丑 年の 新 春を バターを なめ 、すき 焼きを 食べ 、 めで あ る 。 そ の き さ き 乳 を と り い。 け に 家 庭経 済 が 頭か ら は な れ な は 牛と 縁 が 深 い 、 牛 乳を の み 、 バターやチ ー ズを 造 るよ う にな と考え るので ありま す。 本 事業 時 代 の こ ろ と 思わ れ る 、 は じ め 干 草を 与 え る 、 牛 郡 を つ れ て 低 った ので あろ うが 、 馬が 家 畜 化 に よ り 私 と し て は 特 にこ れ と い 分岐点 と存 じ ますので 、下 刈未 の 完璧 を 期 す る と 否 と は 興 廃 の はもち ろ ん そ の 肉や 皮を 得 るた い 谷 へ 移 動 す る ので あ る 。 草 し 特 に今 年 は﹁経 済 の 年﹂とい 当少共 参考 資料になれば 結 構と うよう な抱 負 も あり ませ ん が 、 食べさ せ、 雪が降る と、貯 えた か 生え な い 荒 地 に は 、 そ の 草を す る前 、 牛 は 交 通機 関と して 又 だ か ら と も い え ま す が 、﹁ ア メ われま す。 池 田内閣 が経 済 内閣 の 間 斜 面 に 生 え た 青 草を 自 由 に 食べて タンパ ク質に変じ 、ミル な 役 割 を 果 し た 。 そ して 馬 が 家 農 耕 を 助 け る 動 力 と して 革 命 的 る次第で あり ます。 斯す るこ と 済の箇 所 は は や に実施を 要 望す に 不 自 由 が あ るば か りで な く 牛 介するこ と に 致 しま す。 私 は以 存 じ ま して そ の 抱 負 の 一 端 を 紹 クを 出 す 牛 が いなか った ら 食料 す る﹂ と い うこ と が 、 一 番 大き リ カの ド ル 防 衛 に 積 極 的 に 協力 に よ り 必ず や 現 在 の 倍額 以 上 の 畜 に な る 以 前 は 戦 争 に 参 加 して 前 当 町 役 場 の 吏 員 と して 勤 務 を 戦車を引かされたこともある。 い 原因 だと 考 えます 。 そ の た め 易で あ る 即 ち 現 在 推 移 伐 採 量 毎 ︵拾 数 年の 後 ︶収 穫を 得 る 事容 になる。 丑年にちなんで 命ぜら れて 参 りま した。 そ の 間 年弐十 石中外 価格弐 千萬円 以上 町 有 山 林の 施 業 方 面 の 事 業 に 携 わ り逐 年撫 育 の為 に 山林 係 諸 君 に十年所得 倍 増に伴 ない 物価は あげているのが現状です。 はね上 がり 一 家の主 婦は 悲 鳴を 糞 が な か っ た ら 燃 料 も な いこ と 森 林 限 界 は 四 千 メ ー ト ルで 五 だ 。 ア フ リ カ で は ラ イオ ン を 防 千メートル になると薪が ないの 林 まさえ がへり 、近 代医学が アフリ カに が も ら え る 。 とこ ろ が ラ イ オ ン 根気 よ く口 数 少ないのが と りえ で す。 けれ ど 又 一面 辛 抱 強 く 、 とかく鈍感で スローモー ション ﹁ 牛 は 牛 づ れ ﹂ と か い って 、 ー いや だ と は いわ ず 、 小 さ な サ 政 治 、 経 済 に つ いて の 眼 を 、 モ 台所の 消費 面から大き く 日 本の 気にならないよう、常に現実の したち の 経 済 まで 強 く 響 いて 病 なるか 、いずれ にして も 、わた ます。 申す まで もなく本事業に 続 し つ つ今 日 に 至 っ た の で あ り 長旺盛 の 林 木 より 毎 年伐 採 を 継 戦 当時 頃 よ り 、伐採 齢 に 達 し成 ★来年々下 刈 間伐を 施業 し 、終 本の植 林第 一 期事業 を 完 了 し、 8 3 年 尺 林令 樹高 表︵桧︶一町歩当り︺ 五一一 石 五七七 八七九四 省略 六三〇 一〇九六 三二三六 一七〇四 二二一 二八五〇二 一四七 二三七五 一七四七八 二七八四 ― 6 ― ぐこ と がで き る強 い 土 人 だ け が 町 有 山 林 は 明治 三 十 五 年に植 ︹坂 下 町 山 林 中位 林 分収 穫 標準 ます。 中位 林 分収 穫 表 策 に 林 木 保 有石 に輸 入 は 一 一 ・ 六 % と 増 加 を 見 林を開 始 、 大 正八年ごろ 十 八年 と推定 する。 参考まで に 当町桧 一九六 一年おめで と うござい 込まれ て い る という 点か ら 見て 間に参 百参 拾 余町歩 、九拾 余萬 りました。 ます。 今年は私の年なので す。 風邪を 引く か 、ある いは 肺炎に も ア メ リ カ の ク シャ ミで 日 本 が の 援 助 を 得 て 行 動を 共 に して 参 嫁さん は牛と 交換す る風習 があ それ だ け に 大 い に 張 りき り た い 輸 出 は 九 ・ 四 % と 控 え めなの る 大体 一人 の お嫁 さ ん に 牛 二 十 と思います。 牛を 守 り 生 活 で き る 。 そこ で お 五 頭 と いわ れ る 、 そ の 代 わ り 牛 渡 って 伝 染 病 が へ り 牛 が 盛 ん に と して ﹁ す わ り 牛 は 動 か な い ﹂ 数を 示 せば 大 体 次の 通り で あり さ え 殖 え れ ば 何 人で も お 嫁 さ ん ふ えて も 、 男 女 の 比 率 は 変 わ ら と い って 牛 年 の 嫁 を 歓 迎 す る 風 積成長率 な い 。 若者 は 競 争 相 手 よ り 一 頭 よる収 穫量 は 毎年数千石 に 上り 幹材 で も 沢 山の 牛を 持 って い な いと ークルで ねば り強く 勉強 を 続け その価格も また 数壱百萬の 多額 習があるそうです。 に達し町財 源の 一大 支柱 を なし お 嫁 さ ん が も ら え な いこ と に な 一人三 合 が 飲 みほせ る平 和 な家 て い き た い 。 そ して せ め て 牛 乳 無き喜びであります。 つ つ あ る は 皆 様 と 共 にこ の 上 も し た が って わ た く し は 、 いた 庭や坂下にしたい。 って 歩 み が 遅 い 、 け れ ど モ ー 民 ないしモー建設の道へ戻 るとは 主の道はいや になったと は言わ 牛を 物交 して 必需 品を 手 に 入れ 、 生 活 を 向 上 さ せ るこ と が で き な る。こ の風習 が変わ ら ない 限り、 い の だ 。こ れ は ア フ リ カ の 未 開 13 18 23 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (6) 一〇三 三二三六 三九二九四 六七 丑 年 雑 感 うか 、 見 果て ぬ 夢を 追 って 息の 根が止まるまで あがき 回るこ と を 言 うで あ ろ うか。 とす れ ば 人 ど う ぞ 今 年 が 一 層 よ い 年で あ りますように。 丑男新春放言 付けられ蚕 の 副産 物蚕糞 を もう て ﹁ そ の節 当 地の養 蚕業 に 目を 一度 牛 に喰わ せて 飼 料 化 せ よ﹂ も 今 は 牛 テ キ な ら ず 牛で な け れ 吉 村 薫 ば人並でなくなりました 今日 の流れ と言 うかその 場産 地 坂下 それ が 動機 で した 。 しか し 時 代 る 。 考 えて み る と 人 類 の 歴 史 は 昔から 丑根性と よく言われる との教 え、俺はなるほどと想い 今 年 は 私 の 生れ 年 で あ る 。 人 一 面 勝 負 の 世 界 と い って も 過 言 が俺も 丑 年 生れのせ いか 根 性が 古井 角次郎 生 五 十 年 と 言 わ れ た の は つ いこ 万 別 の よ う に 見 え る けれ ど も 底 で はな いよ うで ある 。 一見 十 差 生は余 り に もわび し いも ので あ ゆけば ほ と ん ど 持駒 を な く した の 間 の こ と で あ る 。 こ の 勘 定で まで の 頃で は 言 知れ ぬ 物 淋 し さ を 流れ るも の は 何 時 も 何 か に勝 あまり よく な く第一 誰に も 負け どき 馬 を 買 って い る 人が 牛 根 性 こ の ご ろ こ ん なこ と を 言 う と ま 免 角 丑 年を 牛 根 性で 粘 り 強 く 長 でしょう。ハ⋮⋮。 た 牛根 性 と 人 に笑わ れ る が いま 町 政 の こ と と 物 好き に 皆 さ ん に 笑 い して い ま す。 部 落の こ と 、 過 去 の 道を 一 人 思 い 浮 か べ て 苦 の 、 造 っ た り 壊 し た り と は 、こ 嫌 いで 粘 り 強 く 、 ダ ニ の よ う な れ を 塞 の 河 原 と 言 う ので あ ろ う っか く の 人 生 を 勝 つ の 、 負 け る に 出て 財 布 の 底 が 空 に 近 く な っ 叱られ た り 笑 われ た り 過 して き 負 を 挑 んで い る か の よ う だ 。 せ た とき に 比 べ 格 別 な 寂 寥 を 感 じ か。こ ん なこ とを繰 り 返 して 二 取れ ば 牛 な ら ず ﹁ よ だれ ﹂ の 始 ま した が 其 の 丑 根 性 の 俺 も 年を も 知れ な い 。 同 じ 寂 し さ で も 旅 るのはどうしたせいだろうか。 重 な 人 生を 棒 に 振 る と は 人 間 も 度と生れて く るとは ★はれ ぬ貴 を 覚え るの も も っと ものこ とか 。 二三 七七五八四 二九 六九〇五九 三七 五九〇四八 四八 三六三五 四九六九二 三九八七 四二九八 四五七四 子供の 頃は 年を見る目を 持たな 一九 か った か ら 大 人は 大 抵老 人 か そ 四八二一 八五二二二 十六 明 け ま して おめ で と う ご ざ い 生きするとしましょう。 一、〇七八六一 三〇四一 九二六五八 五四二二 うこ と が あ り ま す が 丑 年 の 俺 に ⋮ハ⋮⋮昔から相性があうとい きました。 一 九六一年なんとな い 出を 残 し 名 残 惜 し く 去 って い ま す 。 一九 六 〇 年も 、数 々 の 思 いようで あ る。 誠に 進歩の 無い く力強く感じ られ る、私共 の年、 末 も し か ね る 今 日こ の 頃 で の オ 話で あ る 。 モ ウ こ の 辺で い い 加 は 牛 が 無 性 に 合 った 。 第 一 あわ 丑 年が 廻 って き ま し た 。 今 年 カ あんま り利口 な動物とは いえな して 頭 に 毛 の 無 い 人 間 な ど お じ 減 に 心 を 入れ 換え み ん なで 住み て ず 意 地 が 悪 いから ⋮ ⋮ 。 今 か れ に近 く見 え たもので あ る。 ま いさん の 部 類 に勘定 され た のも よ い 国 創 り に 本 腰を 入れ た ら ど 十五 八七 一、一七五九二 無理の ない話で ある。考えて み う だ ろ う か 。 自 分ひ と り で よ い 五七★八 一、二七三六〇 来て し ま っ た の だ か ら こ い つ ら ると何 時の 間 にか そ んな 時 期に けられ た十 二 支は、 時代 、国情 や はり 日 本 人 の 心に深 く 刻 み付 に十二 支の 動 物が使われ ま す。 六〇二二 八一 子になろうと考え★俚人の迷域 中は軍 馬の 育 成地 其 の坂 下で 丑 レ ンダ ーの 表 紙や 年賀状 の 版 画 幹 材 積 は 立木の 根 元 よ り上 端 ひ ねた 物だ と ビック リ す る。 時 根 性 が 誰 は ば か るこ と な く ゆ う 年 前 の 思 い 出で す が 当 時 30 坂下は 木曽馬の産地 そして 戦争 ら まで の 材 積 に つき 造 材の 場 合 は などか えり みずのさばり 歩くな が 変 わ って も 私 等 庶 民 に 最 も 親 ど も っ て の 他 と いわ ず は な る ま しませ 、其 の 年の 動 物の 性 格 な には何か大切 なものを忘れ たよ ゆ う と して や せ 牛 を 飼 い 続 け て ど思い 出して 、気 分を新 しくす う な 気 が す る し 、 ど うで も よ か い 。 い が み 合 って み た と こ で 息 堀の中嶋の寄 与増産 と二 人 ぐら 今 日 に 至 っ た 。 当時 坂 下 で は外 ︹坂下 町有 林 木及 一般私 有 林木 った と ゆ う よ う な気 も す る 。 い あるうち が 人 生と考 えた ら あん が 切れ た ら 終 わ りで あ る 。 息 の これの七割五分とする 保有高比較︺ か った と い っ た ほ う が適 当で あ や よか った と い う よ り 仕 方 が 無 ま り 馬 鹿 な ま ね も 出 来 な い ので いで し た 。 丑 年 の 俺 を お し て 知 るこ と は 、 何 と な く ゆ か し き を 約拾萬石 る か も しれ な い 。 誠 に 育 児 の 無 覚え る も の で す。 又 こ の 頃 の よ 推定保有材積 町有林面積 参百参拾余町歩 一反歩当り 三十石余 うに、年令が 満令と、数へ 年と、 か 、 寅 とか 言 えば 誰 しも よ くわ ご っち ゃ に 使 わ れ る と き 、 丑 と るべ し 、け れ ども それ も 無 意味 昭和七 年宮 脇 知事が 農村 不 況対 で 牛を 飼 った 訳で は あ り ま せ ん 。 策の 座 談会 に 坂下の 役場 へ 見 え はあるまいか。死ん だ後まで 何 た るも の お 互 い に 心 すべ き こ と を 持 って い く 気で い るか ? 人 間 ではある⋮⋮と。 にも取 り 返 し の つか ないこ とで 参拾五萬石 ある。 時た まこ ん な 事を 考 えた い 話 で あ る が 今 と な って は ど う 推定材積保有高 一反歩当り 拾九石余 り す る 。 人 生 と は 一 体 な ん だろ 私有林面積 千八百余町歩 . ― 7 ― 28 33 38 43 48 53 60 70 80 90 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (7) か って 便 利 な 場 合 が あ り ま す 。 大正二 年生れ の私共 は大 正十四 年、昭 和十 二 年、二 四年 、今 年 で 四 回 目 の 丑 年で す 。 十 年 と 言 え ば 人 生 の 一 昔で す 。 其 の 度 毎 に世の 中は 、 大き く 移り 変 り女 な ら ば 初 女 か ら 少 女 、 娘 そ して 嫁に、母、祖母、様々な呼名の 時 代 が 、 夢 の よ う に 過 ぎ て いき ます。映画の主題ではないが、 ﹁喜び も 悲 し みも幾 年月﹂ の感 慨深 き もの が ありま す。 回 り合 わ せ は 面白 い もの 、 私の 長 男も 1 二 年 生 れ の 丑 年 で す 。﹁ 牛 歩 せらず、目的 さわがず、あ 踏み締めて、 実に一歩一歩 ねばり強く着 を行く﹂牛は よく千里の途 の遅々たるも 君や 吉 村義 一 君等 と 共 に 歓 送の を け っ た の で あ った 。 古 井 忠 治 感のうちに自ら捧げて 郷里の土 る。 実 に悲 惨 な決 意 と 純 真 な情 和 一二 年十 月 の 大 動 員 召 集 で あ き なが ら ﹁ 死 ﹂ ぬ 時 がき た 。 昭 た。所 が呑 気 な私にもつ い に生 の 番 は なか な か 廻 ってこ な か っ 地で は 鉄 砲 を 空 に 向 けて 撃 ち ま び 込ん だ 我で あ る し 昮 然 と ﹁ 戦 ★て 親 に 勘 当 さ れ て 神 学 機 に 飛 考 えて み る と こ の 第 二 の 我 は 、 何処へや った !﹂ と悪 態を つく。 ら 老 い ぼれ て 。 若 い 頃 の 気 魄を る の に 出 食 う 。﹁ な ん だ 、 今 か の 我が 反 撃 の 拳を 振 り上 げて く プ の 人 生 は 決 して 去 年 の そ れ と 元 旦から始まるワ ン・ステッ ◇ 斗えと指さしてくれる。 生の 許 され る 限 り 若 き 日 の 幻を しみ満 天の 星 に似た り﹂ と ★も ﹁ 楽 し み 暁 星 の 如 く まば ら 、 苦 き って 臆 病 に な っ た 我 を 鞭 つて 、 に向って進む 人垣 に 埋れ て 駅 頭に 堵列 した 当 す!﹂ と 言 い 放 った 現 役 時 代の して 若 き 日 の 誤 り が 正 さ れ 、 成 は同 一 のも ので は な い。 未 知未 熟 した ウ ン チ ク が 注 がれ て ゆき 、 体 験 の それ が 展 開 す る の だ 。 そ や がて は 家 と 会 社 に 貢 献 す るこ 我で あ り 、 終 戦 後 ま で 食 に な っ は 生活 す る 我 と思想 す る 我 の闘 で も あ るの で あ る。 所詮 、 人 生 とになるであろう。 た つ も りで 行 商 を 始 め さ せ た 我 ◇ 家 内 の 父 は若い 時 か ら 西洋文 時の心 境は 全 生涯を 飾る厳 粛な 孫 の 恵 ま れ たこ と も 私 の 人 生 で あ って 人 はこ の 混 乱の 渦 の 中 学 に親 しん だ 人 柄の た め か 死ぬ 想い出である。 の家庭も、親 て父親なき私 に 一 つ の 動 機 を 与 え た 。﹁ お じ して 、 や が て こ れ を 展 望 す る 時 で 双方 とも 失 い勝ち にな る 。 そ す。不幸にし 子の丑が仲よ な る と 嬉 し い も ので は あ る が 、 いちゃ ん﹂ と 乾 ★慕 わ れ る 様 に まで 青 年の 訪 客 が 絶 え なか った 。 くあせらずに、 期 が や って 来 る 。 私 も 今 そ の 展 みたいと想い 心境を 如 何 と も難 し い。 人 は健 を 打た れて 春 筋 に 木 枯 し の 吹く ◇ 宇宙人 生と 政 治で あ った 。 数年 訳を 担 当し な がら論ず るこ とは ど う も 年令 的 に は 一 応ピ リ オ ド わりに皆様の 青 年 を 祝 福 して ﹁ 前 途 洋 々 ﹂ 常 に 人 生を 達 観 し 、 貿 易 商 の 翻 ます。終 康 に 自 身 さ え あれ ば 青 春 時 代 は 星が一つ消えた思いがする。 前 に 彼 を 天 下 に 送 っ た 後 は 心の 望の峠に立たされているのだ。 お健 康 を 祈 り つ つ 、 モウ こ れ に あ る 。 しか し 人 生 シ ク ス テ ィ と 老 人 と して 真 に 尊 敬 さ れ 、宝 と 言 う が 事 実 若 い 時 代 は 悠 遠で も なり 過 去 を 回想 す れ ば 人 生は 寿命 に 対す る 顧慮 は 全然 不 必要 に 振 舞 って 結 構 、 世 界 を 把 握 す なもの の よ うで ある 。勝 手 放態 シクスティ﹁不死鳥﹂ 丑年を過ごしたいものである。 ール・ナッ シングで ある。 しか と さ れ る 事 を 望 み と して 干 支 の しこ の 虚 無 的 な 寂 し さ の 中 に も 自 ら の 人 生 を 顧 みて 私 は 実 にオ ス テ ィ ・オ ー ル ド と も な れ ば 魔 人 生 の 灯 が 点 さ れ て い る 。﹁ 不 実 に﹁ 短 い ﹂ ので あ る。 こ と に 私 は こ れ まで に 死 と 取 っ 組 ん な 心 持 ち に な る か ら 妙 な も ので 術師のジュ モ ンにも 懸か り そう る気 宇に満た され るもので ある。 だ経 験 は な い が その 面 前 に 引き ⋮藤 井 柳 一⋮ 据 え ら れ た こ と は あ る。 現 役 、 死 鳥 内 に あ っ て 日 夜 羽 ば た き ﹂、 予 備 と 厳 し い 軍 隊教 育を 受 け 死 絶えず 紅顔の 日の夢を掲げて飛 日 の 峻 烈 さ は 失 せて も 不 死 鳥 は 毎 朝 鏡 に 映 る自 分 の 顔を 眺 め び つづ け る 。 自 己の 欠点 にこ り 体 力 に 昔 日 の 我 な く 口 舌 に 若き が 一度 も そ れ を 考 え ず に 過 し 、 たワイ﹂と想 う、と同時 に第二 て ﹁ 俺 も 、 美 青 年で は な く な っ ぬ 訓 練 を 施 さ れ た わ けで あ った 予後備時代には友人はたび たび ◇ ある。 私 も や は り 同 類で あ った が シ ク て失礼します。 途に力強く進 希望に輝く前 表徴の動物で 丑年新春雑感・・・原 せ い 赤紙を 受けて 戦地へ赴いた が私 ― 8 ― 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (8) 第五章 其の二 落の劣 感 等 に つき ま とわ れ た 男 日 頃 か ら ラ イ バ ルで あ る 同 じ 部 かし古 墳時 代 も世の 中は 思 う様 がこ の 現 場 を ふ と し た チ ャ ン ス 声で 囁 いて お り ま す 。 と そ の 時 にはいか なか ったら しく 、 非常 から目 撃し、 頭にカーッ と血が る と 考 えて い る ほ ど で し た 。 し に運命 と言 うものは 皮肉 なもの 逆り、 そう だ 一層のこ と あの恋 伸ば す の に も 渡 りの 船 に さ え な で あ って 同 じ 部落に 生活 を 共 に 納税組合長 農事組合長 保健委員 道路委員 水道委員 昭 和 三 十 六 年 の 部 落 役 員 は 次 の 方 々 で あ り ま す 部落名 自治会長 羽根 金松 茂明 曽我 主計 羽根 金松 佐藤 喜作 茂 小林 西尾清次郎 早川 次郎 松田 幸雄 佐藤 喜作 原 町 野村 正一 新 町 藤原 信男 本 原 盛 伊藤 惣助 林 考 次 長谷川正一 吉村 重蔵 加藤 五郎 前 野 進 功 西尾 芳一 糸魚川三郎 島崎 行雄 今井 政次 彦 西尾 善一 正 夫 島平二 小池弥次郎 岩田喜忘市 原 末 一 島平一 吉村彦三郎 村 勝 原 直 男 原 敵 を こ の 世 か ら 抹 殺 すれ ば 、 あ 内記 正美 吉 助四郎 可知 正治 原 曽我 有明 吉村 太一 崎治 西尾 千美 誠 する若者との間に豪族の娘は恋 る いわ 幸 福 が 俺 に 廻 る か も しれ 原源地 亀山 元吉 糸魚川亮介 原 田 松井 安一 亮三 小椋 幸雄 糸魚川政一 沢 森 北原 銀治 小県 吉造 西尾 敏夫 吉村 新 西尾 英昭 原 吉村美濃夫 吉村 審輔 吉村美濃夫 治 一 相 田口 敏郎 糸魚川 守 才賀 豊一 茂 樹 吉村 保夫 手塚林之助 越野 智足 小県 吉造 加藤 隆幸 氷室 義一 小池 留三 吉村松太郎 後藤 義隆 吉村 末男 大沼町 小倉 五郎 吉村 良夫 西 尾 勝 佐合又次郎 森 旭 町 吉村 本蔵 守 伝馬町 氷室 英三 乙 坂 古谷 武雄 吉村 一男 安藤 田口久三男 原 におちいっておりました。 な い 、 幸 い こ こ に 鉄 ★を 五 本ほ 正 美 宮前町 深津盛太郎 佐々木 渡 与川留次郎 山下 数一 市岡 長二 市岡 長二 し か し 気 の 強 い 父 親 と して は 中之垣外 東 町 原 射殺すれば 案 外完全犯罪 ができ おり、こ の 物陰から 狙いを つけ るぞと北★笑んだ。 ど 背 負 って い る し 、 弓 も 持 って ゆか ず 、 そ の 間 にも 二 人 の 恋 愛 そ うや すや す と は 許 すわ け にも は進行していきまして、度々密 それ と は しらぬ 二 人 互 いに囁 如 何 に 最 愛 の 我が娘 と は い え 、 上 握 観 音 畑 や 樺 ノ 木 に 住 んで 会を して 親 の 目がゆ るい ところ 椛ノ湖に散るもの いる人々には 子孫が 栄えて 、丁 き を 交 わ し 終わ り 立ち 上 が った 瞬 間 第 一の 矢 が深 深 と 娘 の 胸 に で 色々 と 打ち 合わ せ ま した 。 し か しい つの 時 代にも 横 恋 慕 を す 度、当初生活を始めた人々の孫 の 時 代 と な り 、 其の 時の 樺 ノ 木 常 吉 小栗 常範 稲熊 敏男 勝 也 宗平 夫 早川 文雄 森 古井 亮輔 宮内 西方寺 小林 祐三 吉井 次雄 稲熊 礼一 高 部 林 刺さった。 し まった と残 念 がっ た が 、 撃った 弓 はど うす るこ と 握 る も の が 現 わ れ るも ので 、 邪 心 から思わぬ 事件を引き起こ す。 も 出 来 ず 、 か え って や ぶ れ か ぶ を 中心 と した 指導者 ︵小 豪 族と で も 言 う 程 度 ︶ の 孫 の 中 に 、こ 秋 も 終わ り に 近 づ い た 日 の 午 後 、 悦太郎 大野 芳男 早川 平治 楯 達 栄六 正 美 楯 美 明 西尾 重郎 松井 下 外 森 夫 鎌 田 満 忠 夫 安江磨瑳夫 小畑 貞衛 氷室 伊三 今井 昭一 中 外 森 吉村 毅一 とのほ か美 し い娘が いた 。 年は 娘 の 傍 に か け よ って 弓 を 引 き 抜 れ に第二、 第三の矢を放 った。 き 気を 確 か に と 抱き 上 げ ん と し 今日も二人が附近の木陰で低い う名が 高く 、 中津川 の高 台 に根 二 十 才 前 後で 近 在 に 美 し い と 言 拠地と する 豪 族から も是 非とも 安江三十郎 林 原 秀 夫 亀山惣左衛門 早川 静夫 原 大 三 淵 吉村 守二 前田 釣郷 原伊 三郎 原 武 芳夫 外 今井 徳一 赤 田 鎌田 一朗 吉村 寿雄 吉村 上 た 男の 左胸 に 第二の 矢が 、 第三 大 門 原 矢 と言う 願いを 、椛ノ 湖の 豪 族の の 矢が娘 の 首 筋 に 突き 刺 さ った 。 小 池 明 原 順 一 娘 は 気 丈 に 男 の 胸 の 矢を 抜 き 、 鉄 一 る と き な ど は 手 土 産 代わ り に 自 も と へ 直接 申 し 込ん で き た 。 あ 利 夫 宮夫 吉村 春夫 佐々木国翁 時 鈴 一 鎌 田 武 三好 自 分の 首 の 矢 も 引き 抜 い た 。 二 山内 春夫 原 吉村 忠夫 林 林 忘 正幸 林 寿三郎 林 英 男 本郷二 村上 千蔵 西 尾 豊 曽我 山 泉 村 考 吉村 秋雄 古 ま 前田 雅和 前田 敏郎 安江 栄治 本郷三 交告 卓★ 田口 良典 吉 西尾 留夫 山 内 静 田 護 田口 千年 鎌 田 勝 宮ノ洞 日下部寅一 好治 寺尾洞 西尾 留夫 丹羽 亮二 大 本郷一 西尾 新吉 吉 田 明 西尾 小ノ沢 吉村 春逸 鐘 原 一 夫 然 釉 の つ い た 長 ★ ★ を 持 参 して 、 樺ノ木 村 金次郎 安江 宗夫 船坂 弥平 は る ば る と 可 児 の 方 か ら や って って 、 小 笹 の 茂 る 中 を 一 歩 ず つ 人は全 身に 最 後の力 をふ り しぼ 来た と い う よ う な 具 合で 、 豪 族 歩 い た が 、 途 中で 力 尽 き て バ ッ 吉村九十九 山内 一平 の 主 張 と し て は 非常 に 良 縁 と 思 タリ 倒 れ た 。 二 人の 遺 骨 は 一∼ 豪族はその報せを受け今更の 谷のほとりで見つけられた。 二 日 経 って 部 落 の 若 者 に よ って うし、まして 可児の 豪族や 中津 川 の 豪 族 、 美 濃 の 東 部 に お いて その占 める 位 置は大 いな るもの が あ っ て 、 将 来 に お いて 勢 力 を ― 9 ― 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (9) よ う に 二 人 の 仲 を 許 さ な か った こ とを くや んで 二 人 のた め に部 落の見 晴ら し の 良い 所 に塚 を 築 揮 して 石 材 を 運 び 二 人 の た め の く決心を して 松山か ら自 か ら指 二 つの 塚 を 築 造 した 。 娘 の ほ う には時々送られた長★★と自か らの指 揮刀とする長さ一メ ート ル の 直 刀を 始 め と し て 、 大 小 会 どと高 坏を 入れて 首 飾して 木棺 わ せて 八 本 の 刀 、 色 々 な 鉄 ★ な に 入れ て 葬 り 、 そ の 恋 人 の 男 の 長他 近 隣消 防 団 長ら 、 来賓 多 数 県 事務 所 長 代 理・ 中 津 川 警 察 署 の参列を得て 、訓練 、操 法、分 ○ 坂 下 町 消 防 団 長 表 彰 = 善( 行 証 書 原) 守 夫 、 田 口 因 之 、 精( 原音 次郎 、加藤利 也、古井保 久 、 古 井 達之 、 田 沢 克 己、原 勤 賞 西) 山 郷 也 、 加 藤 弘 道 、 糸魚川 亘、 早 川努、 吉村 和 敏、 磯 次郎 、 原和広 、 西 尾 朗彦、 列 行 進 など の 儀式 が 繰 り 上 げら 進 な ど を 行 い 、 坂 下 橋附 近で 放 加 藤 勝 、 原亥 留 夫 、 林 れ た が 、式 典 終 了 後 は 、 市 中 行 水訓 練 を 行 っ た が 、こ の 出 初式 悟、 で 次の 六十 六 名の団 員が 表 彰を 日下部貞夫、吉村兼夫 西尾宗太郎 山内泰弘 によって 取 付けを 完了し、冬休 安江 武 、吉村太 一、早川亮、 江俊 一 、山 内 多 己男 、原 辰 男、 放 水 訓 練 受けた。 彰︶ 〇 岐 阜 県県 知 事表彰 =︵ 功 績 表 績表彰︶ 〇 岐 阜 県 消 防 協会 長 表 彰 = ︵ 功 村久男、山内春男、安江総正 上 野 小 学 校で は 、 さ き に 僻 地 教 育 に 貢献 し た 兼で 、岐 阜 日 日 〇恵北 消防 協会 長表 彰︵ 功 績表 ほ う に は 隣 接 した塚 に 直 刀 と 杯 を 入れ て 木 棺 に 入れ て 、 い よ い 副 賞 と して テ レ ビ 受 像 機 一 台 が 新聞社から表彰を受け、その際、 譲、吉 よ 葬 る と き に 、﹁ 何 時 ま で も 娘 ︵ 勤 労 表彰 二 十 年︶ 森 を 護 って 下 さ い﹂ と 頼ん で 葬 っ 贈 ら れ るこ と に な っ て 、 表 彰 式 松武、田口千年、 鶴三 、安江総三 、原富雄、末 辰 男 、吉村 た 。 思 えば 短 い 生 命 を 現 在 の 椛 その現 物が 入 荷し、こ の 程業者 の 際 に 日 録 を 貰 って き て い た が 、 荒らされて しまった が、 昭 和二 覚 教 育 に 利 用 して い る が 、 受 像 み明けの今 学 期から 、早速 視聴 椛の湖岬に記念碑建つ メ ート ル 余 り 、 自 然 石 の 碑 に 刻 た め 水 底 に 没 した 事 実を 高 さ 三 んだものである。 原氏の﹃ガード下﹄ 春陽会に入選 原庄一氏︵新町︶の 油絵が、 中部春陽会ベ術店に入選した。 ﹁ガード下﹂で 、相沢地 内の中 央線ガ ード を 画いた もの 。 氏の 引続き三回目である。 春陽会 入選 は 、一昨 年、 昨 年に 新しい道路交通法 が十二月二十日から 実施された。今度の 改 正 法で は 、 大 人 は 子供の安全通行を保 護しなければならな いこ と。 道路で 正し く な い 歩 行を して い わないと罰せられる て、警官の指示に従 こ と 。︵ 以 上 歩 行 運転まかりならぬ事。右折 法は、 者 ︶酒 気を 帯 びて い る だ けで も の 所 有 者 ︶、 な ど が 改 正 さ れ た 。 こ の 車 は警 官 に移 動 され る ︵ 車 ― 10 ― 彰 ︶小 池 明、原 る。 そ の塚 も 中世宝 探 しで 掘 り ノ 湖の 附 近で 散ら し た も ので あ 十四年と昭和三十年の調査が行 吉 村 宏 文 、 松井 廉 夫 、 山下 尚 ︵勤労表彰 十 五年︶ 原次男、安 わ れ て 一三 〇 〇 年も 後の 陽 の 目 状 況 良 好で 、 音 質 も よ い と な か 平 、 氷 室 義 一、 原 喜 好 、加 藤 を見ました。 なかの評判である。 策 弥 、 吉 村宗 一 、 古 井 省三 、 小畑政治、西 尾重朗 、原二郎、 尚テレビ受像機の 種別は、松 下 電 気 製 品 ナ シ ョナ ル 十 七 時 の 右外小 回り が 、 右 内 小 回 り と な 上 野 向 井 水下 組 合 で は 、 椛の った。︵以上運転者︶、車の右側 湖 岬 に 、先 祖 の 業 績 を 思 う 記 念 3メ ー トル 5 0セ ン チ 以 上 の 余 吉 村 勇 、 安江 保 、 小 池 善 隆 、 碑を 建 立、 去 る十二 月三 十 日に 三 好宮 夫 、 原 重 一、 吉村 久 男 、 原 金 光 、 末 松武 、 大 山 法 男 、 つ の 潅 漑 用 留 池 を も って い た が 、 地 な き 場 所 に 駐 車 す る と 違 法で 、 新 し い 椛の 湖 の 用 地 内 に 在 った こ れ は 、 同 組 合 が 、 か つて 三 除幕式が行われた。 ○坂下町長表彰=糸魚川亘 原和夫、加藤靖三、早川昭夫 ︵ 勤 労 表 彰 十 年 ︶ 都 築 昭 和 、田 山内鉦二、 新型である。 消防団出初め式で 団員六六名が受賞 新 年出初式が、 1月 6日坂下 早くなじんで事故を防ごう 上野小・贈られたテレビで勉学 中学 校 校 庭で 挙 行さ れ た 。 恵 那 新道交法実施 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (10) 一 日 も 早 く 、 新 道 路 交 通 法を のアルコ ールを体内に帯び 定 量 ︵ 正 方で 定 め る ︶ 以 上 車輪に泥除け機を 備えるな ︵ハ︶泥はね運転を防ぐ よう、 せてはならない。 う した 条 件 を つ けて 運 転 さ 陸 海 外 首 相 下村 定 相 米内 光 政 相 相 東久邇宮稔彦王 限り強制通用力を失う。 ②流通中の日銀券は三月二月 ③ 新円 を 発 光 し旧円 と等 価 交 換 する。 主 三 〇 〇 円 、家 族 一 名 100 ④封鎖から の 現金支 払は 、世帯 中島和久平 額 五 〇 〇 円 まで 新 円 払 い 、残 円 、事業者は給与の支払が月 りました。 身につけ、車が増えて 、慌しい て い る と き は 運 転 して は な ど、必要 な措置を取らねば 軍需相 文麿 葵 昨今 に 起こ り や す い 交 通 事 故を 罰 則 は 従 前 通 りで あ る が 、 ら な い。 酔 っぱら い運転 の ならない。 宙造 りは封 鎖払 い という にあ った。 近衛 松村 謙三 岩田 文 相 法 相 戦後再発足の商工会 国務相 重光 いや し くも 、 坂下町 から は 事故 今 回から は 、酒気を 帯びて 防ぐよう、お互いに注意しあい、 発 生 の 無 い よ う 、 努 めた い も の ︵ハ︶運転方法の変更 罰則は二倍の重さとなった。 い る だ け の 交 通 違 反で も 、 新 道 路 交 通 法の 主 な 改 正点 は である。 次の通り。 で 生活で き る 新 物価 体 系を 発 表 三 月 三 日 政府は 、 五百 円の枠 蔵 相 津島 した が 、国 民 生活 は厳 しか った 。 直養 寿一 優先 順位で は、現 在普 通乗 四月 相 山崎 巌 用 車と同 順位で あ った 自 動 国務相 緒 方 竹虎 運輸省 小日山直登 内 一、行者関係 ︵一︶ ︵商工会資料部︶ ︵ イ ︶ 学 童 幼 児を 保 護 す る 義 務 慶応から明 村瀬 九 月 、 G H Q日 本 管 理 方針声 明日本陸海軍解体指令。 十 月 、 G H Q 治 安 維 持 法 廃 止。 五月 第二 次農地改革案議会を 第一次吉田内閣成立 幣原内閣総辞職 十月 通過 新 憲 法公 布 。 日 本 商工 会議所発足 十 一月 成 立、 十 一 月 、GH Q財 閥 解体 GH Q二・一ゼネ ス ト禁 止命令 二月 昭和二十二年度 十二月、労働組合法公布 党、日本進歩党結成 を指 令 、日 本社会党 、日 本自由 東 久 邇 内 閣総 辞 職 、 弊 原内閣 総選挙︵自由党第一党︶ 右 折 法で 、 右 外 小 回 り の 原 二輪車が一段下げられた。 資料鬼集を待 後を 簡 略 に振 り 返 って み ま した 。 法制局長官 察官は勿論、その他の人々 工業会発展の 業会つづいて けての坂下商 治・大正にか 駐 在 禁 止の 場 所 と して 新 しく 三、路環境に関するもの 則が右内小回りとなった。 =通学途上の 子供には、警 も 、 誘導 や 合 図で 、 子 供 を よう義務づけられた。 保 護 して 安 全 に 通 行 さ せ る 次の場所が加えられた。 扱 所 車庫 な ど に 通 じ る 出 入 ︵ イ︶ 路外 に あ る乗 降場 、 荷取 って 、 稿 を 改 め た い と 思 い ま す 。 ︵ ロ ︶ 正 し い 歩き 方 = 対 面 交 通 、 歩き 方 を して い る も の に 、 道路横断などで 、間違った り口から3メートル以内 後については、 警 察 官 が 指 示 した 場 合 、こ 本 稿で は 第二次商工 会 発展の ル以内 ︵ ロ ︶ 道 路 工 事 所 よ り 5 メ ート せられる。 の指示に従わ ないときは罰 第 一 次 農 地 改 革 実 施 、供 第一回知事市町村長選挙 ︵二︶ 四月 昭和二十年八月十五日︱。 二月 こ う い う 時 代を 背 景 に 、 激震 昭和二十一年度 ︵ ハ ︶ 狭 い 道 路で 、 車 輪 の 右 側 こ の 日を 境に︱ 、 我 が 国歴史 出に強 権発 動。 勅令施 行。 金融 を 続け つつ 、 大波 動 は、 次 々国 二、者関係 上 と い う よ り 、国の 機 構 上 深 い 緊急 借 置 令 ︵ 新円 切 換二 月 十七 日 本 国 憲 法施 行 、 内 閣 首 3メートル50以上の余地 断層を 見た ので あり ますが 、い 日︶。︵米よこ せ運動に対し、輸 班に片山哲を指名。 ない場所なお、違法駐車の ささか 当時の 国情 、 大事件を列 五月 車庫 などへ 出し入れ するた 車 は 警 察 官 が 移 動 す るこ と 記 して 、 動 天 の 後 を し の ん で み 一月 輸入小麦第一船入洛 め、歩道を 使用するとき 、 ができることになった。 四、雇用者の義務 統 制 下 の 日常 生 活 、 毎 日 の よ 歩行者がある時は、一時停 ︵イ︶歩行者の保護 または横断歩道を 通行中の うに値上りを 見せる 、悪 性 イン の隅々に響いていく。 と 重要 施 設 が つづ く 。 新 円 切 換 た 。︶ 農 地 改 革 実 施 、 新 円 切 換 入小麦の第一船がはいってき 昭 和 二 十 年八月 鈴 木 貫 太郎 内 ました。 閣が総 辞職 、 八月十 七日 、 東久 和二十 一年の 後期に 、当町 の商 フレ そ の 最 中で は あ った が 、昭 時 の 顔 ぶ れ は 、 左 の よ うで あ 邇内閣が成立しました。 は ︵イ︶運転者 に安全運転を励行 させるよう務める。 ︵ ロ ︶ ス ピ ー ド 違反 を 、 せ ざ る 束 した 業 務 を 課 した り 、 そ を 得ないよう な、時間を 拘 ①予預金の支払停止とその封鎖 車 を して 歩 行 者 の 安 全 を 図 らねばならない。 ︵ ロ ︶ 酒 気 を 帯び た とき の 運 転 禁止 酒 に 酔 って い な くて も 、 一 ― 11 ― 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (11) 吉 村 義 一 ︵ 明興 既 成 服 工 業 代 工業再建の始動が、始まった。 主 納 税 組合 加 入の 件 を 議 し 、加 九 月 に 、 臨時総 会 、 恵 那 郡 民 出 し 、 部 長 三 役 を 持 って 運 営 役 七 部の 業 態 別 と し 、 各 部 長を 選 分け、 商業 部 を 八 部 、工 業 部を 監 事 は 、 吉村錦 司 部 、 古谷敏 員とした。 入をもってした。 表者 ︶田沢 清︵坂下 繊維工 業社 翌二月、三度臨時総会開催、 三 月 八 日 、恵 那 和 紙 協 同 組合 坂下町委員に、田沢清選出。 会の業務中間報告、会則制 定、 が商工 会関係 最初の 法人格 とし 長︶吉村錦 司 部︵坂下新 聞共販 商 工 会 事務 所 を 初音 方 に 設 置 所 長︶ 西 尾 宗 太郎︵ た け や 呉服 店主︶ 氏等 が 、会合 し、業 界再 を 議 し 、三 月 一日 に 、新 事 務 所 「 」 創 立 総 会 夫が就任した。 建プランがねられた。 坂 東 秀 調。 片 岡 愛 之 助 一 座 が 、 も行っている。 開演した。 こ の 年の 歳入金 一二 四 、八四 五円 八 四 銭 。 歳 出 金 一七 八 , 一 糸魚 川 太郎一、小 県 秋三朗 、吉村 錦 司 財務委員 朗 、 松田 幸 雄、 吉 村 広瀬久 一 、松井淳 義一 庶務委員 一、丹羽秋夫、加 藤 吉村 洋 一 、野 村亮 七二円 六四 銭 不足額 は 、 最 入金 観光委員 助市、永井道朗 昭和二十四年度 をもってした。 一、青木高一、吉村 と 、 部 制 を 採 用 、﹁ 財 務 ﹂ 糸 魚 四月二 十日 、第二回定時総会開 て出発。 長 吉村 義一 本蔵、吉村 茂 会 催。 九月一二日、第一次坂下町商 川 太 郎 一 、﹁ 庶 務 ﹂ 西 尾 宗 太 郎 ﹁観光 ﹂吉村 洋一が夫々 委 員長 工 業 協 同 組 合 創 立︵ こ れ は 、恵 清 那 信 用 金庫 の 前 身 ︶ 等 が 発 足 、 西尾宗太郎 会 費 は 、 前期分を ︵ 八 月 ︶に 副会長 田沢 一回の み徴 収 し、後は、 事 業収 となった。 会 八九名 一ヶ月金三十円 一一六名 之 に よ り 、 会 費 は七 階級 と し、 附議した。 予算並 び に 事 業計 画変更 の 件を 会費増額の 件 並び に 、十 五 年度 八月一三日 、臨時総会の開 催、 吉川 信之 業 界再 建の 基 礎を 、 築 いて い っ 二等級 一等級 定めた。 計 入に寄った。 前 年 に 引 続き 、 諸 物 品 が 大き 会 員 二 五八 名? 会 員 負担 額を 費であった。 事業支 出の主は、秋祭 り協賛 た。 百五十四円であった。 ︵坂下和紙協同組合の前身︶ に移った。 ︵敬称略︶ 吉村 義 こ の 年の 歳入は 、 四 万 七千三 第 二 時 坂 下 町 商 工 会 創 立総会 が 発 足 した の は 、 昭 和二 十 二 年 四月一日であった。 会 は 、 本町公会 堂を 仮 事務所 として発足した。 長 役員は 、左記のようで あ った。 会 く 動く よう に なり 、 輸 送 力 が 大 きな問題となっていった。 会 費 並 び に事務 は 、 西 尾宗太 こ とに 、木 材 方面の 現状 は 、活 清、 事 と な る に お よ んで 、 引 継 い だ 。 郎 が 行 い 、 一 部を 加 藤 正 次 が 主 田沢 末松 佑一 副会長 西尾 宗太郎 計 会 発で 、 会 は 五 月 一二 日 、 貸 車 よ 一級 一 二 〇 円 二 級 一 〇 〇 円 三 級 さて 、 発 足 当 時 の 会 員 数 は 、 何 一ヶ月金二十円 古谷 敏男 書記長 八〇円四級六〇円 級 5 四〇円六 級二十 円 七 級 十円︵ 以上 月 額 ︶ 三等級 五三名 場で 開 催 、 各 方 面 に 強 く 働 き か こ せ 運 動を 、 日 通坂 下 営 業 所 会 一ヶ月金 十円 名 だ っ た の だろ うか 。 記 録 が 定 年間一 六万 五 六〇〇 円を 計 上 し かで な い が 、 二 五〇 名 前 後 と 思 六 六 二四〇 円 と した。 広瀬久 一、吉村錦 総収入 司郎、伊 東惣助、 けた。 た。 われる。 二 月 二 十 七日第 二 回 素 人のど 九 月 三 十 日実 川 八 百 蔵 、市 川 一〇月四日秋祭り協賛等 九団治芝居 昭和二十五年度 会 長 田沢 清 四月二十二日第三回定時総会 計 吉川 信之 副会長 西尾宗太郎 会 であった。 ︵以下続稿︶ 更 正 予 算 は 、 金 四 二 万 五千 円 指し、運営に努めていった。 第二 次 商工 会 の 堅実 な発 展 を 目 会 長は 、各 役 員の 協 力を 得て 、 会 は 、田 沢新会 長を 迎 え 、新 運 動と 思 い あわ す時 、時 代 の ヘ ︵ 本 年 七 月 の 坂 下 駅 車扱 い 存 続 九 1 日には、芝居 自慢大会。 会 員 数 が 案外多 い の は 、馬車 西尾喜久司、古谷 専一、 工 に 関係 す る 全 員を 誘導 す る等 、 十 周 年 、 坂 下 駅開 駅 四 十 周 年記 十 一月 二 十日、健 康 保険実施 昭和二十三年度 念式典があった。 素 人の ど 自 慢 を開 催 した。 遠く 木 曽福 なお、九月 島からの出場があった。 大会 会 は 、 協 賛 して 会 は 、 二 年目 に 入 り 、 四月最 発企者の努力が多大であった。 ンセンを感じる。︶ 屋さん を営 む 輸 送関 係者 等 、商 運営委員 があった。 議 事 録 に よれ ば 、 会 費 徴 収 協 議会︵七月十二日︶臨時総会 ︵ 九月 一二 日 ︶には 、所 得 税・ 県 税の 件 、 秋 季祭 典 の 検 討 を 附 ら三役はそのまま、なお会を 役 員 任 期 は 、二 年で あ った か 初の定時総会を行った。 子一座を招き 開演、︱娯楽に乏 ﹁ 商 業 部 ﹂﹁ 工 業 部 ﹂ と 二 つ に 十 月 は 、 中村 福 助 、 市 松延 見 議した。 しかった地方の慰安を図った。 ― 12 ― 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (12) 公 民 館が 貸衣 裳貸出 料金 を 改正 坂 下 町 公 民 館で は 、 こ の 程 、 花嫁衣 裳の 第 六号を 新調と とも に、貸出料金を改正した。 新貸出料金次の通り、 第二号 第三号 第五号 第六号 300 500 1、000 2、000 3、000 ◎花嫁衣裳 第一号 のスケ ート を 町教 委で は禁 止し 上 な ど 設 備 や 管 理 の な い 場 所で ている。 ︵出 生︶ ◎十月 雅誌︵松吉 弐男︶新田 伸美︵良典 長男︶ 長女︶ ◎十一月 垂見 田口 成峰︵成就 ◎十二月 市枝 宮前町 下 外 松原さよ子 寛 深 谷 久子 曽我 信男 山田 深津 亀山 美彌 新 田 坂 島平一 森キクエ 乙 大前 信彦 蜂谷 幸子 び 五十嵐敬之助 お 詫 島平一 東濃出版印刷株式会社 たが宣敷お願い申し上げます。 工 場 移 転 の た め 印刷 が 遅 れ ま し 長男︶高部 宮の洞 楯 吉村 佳典︵一敏 智津美︵昇治 薫 ︵清重 弐男︶赤田 長男︶大門 原 早川 範幸︵清 300 原 100 ◎その他 喪服 長男︶下外 松源地 弐女︶ 島平一 長女︶ 帯 100 正志︵昭夫 坂 町 中垣外 東 吉村三重子 実男 丹羽恵美子 豊 乙 茶 原 満 糸魚川智恵子 楯 原 ◎十一月 ︵婚 姻︶ 早川 西尾不二子︵省三 ◎十二月 草履 右料金の二割増︶ ︵町外 の 当町 緑故者 えの 貸 出は 尚 衣 裳 の 管理 は 、 坂 下 婦人会 に 委 ね て あ って 、そ の 係 り は 、 伝 馬 町 の 吉 村 鈴江 さ ん と 、 稲 熊 な み 子 さ ん の 両 名で あ る の で 、 し込まれること。 借 着 希 望 の む き は 、 そち ら へ 申 子 供の ス ケ ー ト場制 限に つ いて ス ケ ー ト 指定地 、 馬 検場附 近 田 園以 外 、 各 河 川 、 沼地 、 道 路 ― 13 ― 昭和 36 年 1 月 25 日 聞 新 下 坂 第 154 号 (13)
© Copyright 2024 ExpyDoc