角市市島家の歴史について

市島春城の生家、角市市島家の歴史について
││ 翻刻・新潟県立図書館所蔵﹃吾家之歴史﹄││
藤
原
秀
之
、 東 京 専 門 学 校 が 早 稲 田 大 学 と 改 称 さ れ た 際 に 図 書 館 長 と な っ た 市 島 春 城 ︵ 謙 吉、 一 八 六 〇 │
一九〇二年 ︵明治三五︶
1
2
一九四四︶ついては、本誌上でその日誌が連載され、それ以外の報告も毎回のように本誌に掲載されている。さらには、
春城の多くの著作も復刻されており、そうした研究や資料の多くは、春城自身の経歴や図書館長としての実績を確認
するものであり、その成果は、近代図書館研究、あるいはひろく日本近代史研究の大きな材料となっている。そうし
た視点からの研究は今後も継続して行われる必要があろう。
ただ、それら春城の言葉をもとにした研究成果がある一方で、彼自身に関する研究は、実はあまり進んでいないの
ではないだろうか。その理由の一つとしては、かつて別稿でもふれたが春城自身が自らや生家についてあまり多くを
3
語っていないことがあげられる。春城は大隈重信や早稲田大学、さらにその周辺の人物について多くの随筆を残して
いる。また自身の興味、研究対象としての近世文人や書画、博物等に関する文章も多い。ただ自身や父祖については、
そうした周辺の人物や興味の対象に比すると、あまり多くを語っていないことがわかる。春城については、春城自身
4
が自らの生涯を振り返って記した﹁春城八十年の覚書﹂があるくらいで、まとまった伝記が刊行されているわけでは
なく、周辺の人物や、日本近代史、図書館史研究等の中で断片的に触れられる程度であり、その研究の多くは彼自身
﹃市
早島
稲春
田城
大の
学生
図家
書、
館角
紀市
要市
﹄島
第家
六の
十歴
二史
号に
︵つ
二い
〇て
一五年三月︶
─ ─
125
5
が残した文章によっている。近年ようやく日誌以外の資料の翻刻が進んできたが、その数も決して多くはなく、特に
春城の生家について語られることは少ない。
︵新潟県︶有数の豪農であった市島家の分家のひとつ角市市島家 ︵以下、角市家と称する︶と呼
春城の生家は越後国
ばれる家で、今回紹介するのは新潟県立図書館が所蔵する﹁春城文庫﹂に含まれる角市家の歴史である。﹁春城文庫﹂
は、同じく新潟の県立文書館が所蔵する﹁市島家文書﹂、早稲田大学図書館所蔵の﹁市嶋家文書﹂、﹁市島春城資料﹂
とともに、市島家、市島春城研究にとって重要な資料である。本稿は、県立図書館の﹁春城文庫﹂の一点である﹃吾
家之歴史﹄︵以下、本資料と称する︶について、その全文を、今後の研究の材料として紹介するものである。
資料の紹介に入る前に、まず市島家とその分家である角市家について、既存の研究成果を踏まえて簡単に見てゆく
こととしよう。
市島家について
から敗戦後の農地改革にいたるまで、いわゆる﹁千町歩地主﹂と呼ばれる巨大地主が複数存
越後国には、江戸時代6
在したことが知られている。市島家はその中でも一、二をあらそう規模であり、その成立や土地集積の過程について
7
の研究もある程度進んでいる。
8
市島家の発祥は丹波国氷上郡市島村 ︵兵庫県丹波市︶にあるとされている。一五七九年 ︵天正七︶に若狭国高浜城主
、さらには一五九八年︵慶長三︶
の溝口家の家臣となり、溝口家が一五八四年︵天正十二︶に加賀国大聖寺︵石川県加賀市︶
に越後国新発田 ︵新潟県新発田市︶の地に移った時にもそれに従った。その後帰農し、水原 ︵新潟県阿賀野市︶の地で農
業だけでなく、売薬業等を営んだとされる。なお、水原の地について春城は﹁此郷は徳川時代天領であつて、地区は
─ ─
126
9
狭いが富豪の淵叢であつた。︵中略︶越後には由来富豪が多いが、此地は別して多﹂かった、と述べている。
塚市島﹂﹁金市﹂﹁山市﹂の分家をたて、こののち宗家と六つの分
の頃から手賀沼や福島潟の開発に私財を投じるとともに、多くの土地を
三代喜右衛門 ︵南山、一七一三│一七七七︶
集積するようになっていった。そして、その子の代になると長男の徳次郎 ︵一七三四│一八〇四︶を宗家とし、兄弟の
うち六人が周縁の地に﹁角市﹂﹁丸市﹂﹁入市﹂﹁
家からなる市島一族による大土地所有と地域開発の時代が始まることとなった。さらに丸市家から﹁諏訪前分家﹂が
分家する等、一族は一層の広がりを見せるが、詳細は既存の研究に譲り、ここでは角市家について、春城自身の言葉
等をよりどころとして確認してみたい。
角市市島家について
の長男、四代徳次郎の弟たちからは六家の分家がたてられたが、そのうち、
前述のとおり市島家三代喜右衛門︵南山︶A
南山の三男である次郎吉の家が角市家である。角市家は初代の次郎吉 ︵淳、字・武啓、一七四〇│一七八七︶の跡を弟の
。彼は家業を支えるだけでな
次郎九郎が継承し、二代次郎吉を称した ︵粛文、字・敬季、号・岱海、一七五九│一八一三︶
B
C
く、市島家の中でも﹁文学は岱海を推﹂す、あるいは﹁岱海は要するに水原儒林空前の明星﹂といわれるほどに文筆
D
活動に力をいれていたようで、その成果は﹃岱海堂文集﹄として今日に伝えられている。岱海には継嗣がなく、同じ
分家の山市家初代長次郎の子、彦太郎を養子に迎えた。三代次郎吉 ︵正光、号・三余、一七九二│一八五四︶である。角
市家は彼の時代に最盛期を迎えるが、本資料は後述するように市島三余の一代記でもある。
それではいよいよここからは、その概要について確認してみよう。
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
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127
本資料の概要
本資料は、角市家四代熊太郎 ︵正俊、号・静修、一八二二│一八四五︶と、彼の没後は弟である国太郎 ︵正路、一八二九
│?︶が記したもので、一八一三年 ︵文化一〇︶から一八四九年 ︵嘉永二︶までの角市家に関する出来事を年代順に記
述してある。この時期は、角市家の歴史の中では三余の時代と重なる。前述のように三余は、市島長次郎の子として
生まれ、角市家の養子となった。その後、本資料の最初の著者である熊太郎をもうけるが、三余の存命中の一八四五
年 ︵弘化二︶に没してしまったため、一八五四年 ︵嘉永七︶に六三歳で没するまで角市家を支えることとなった。本資
料は、
︵空︶
君市島長次郎様之御次男、岱海堂君不被入御子以て御養子たり、
正光君御事者、奉謚
了宣
という言葉から始まっていることからも、三余の存在を強く意識して記されたものと思われ、角市家の記録であると
同時に市島三余の一代記としての性格も併せ持っているといえよう。また、ここに三余の実父である山市・市島長次
郎について謚号とともに記されていることから、少なくともある部分までは長次郎の没後 ︵文政七年七月十一日、本資
料7丁裏。以下、本資料については丁数と表裏のみ記す︶にまとめて記されたものと考えられる。
E
市島三余といえば﹁貨殖は三余を推す﹂といわれるように、角市家が、もっとも栄えた時代を作り上げた人物とし
て知られている。春城は三余時代の市島家について以下のように述べている。
─ ─
128
私の家の曽祖父時代、乃ち嘉永頃に回漕業を営んだことがある。案外大規模にやつたらしいが、関係書類が何故
の 多 き に 及 び、 各 船 は 種 種 の 物 貨 を 積 ん で 諸 方 に 回 漕 し 、 帰 着 の 時 は 千 両 箱 一 個 を 齎 し 来 る の
か家に一紙も存してゐない。ただ、当時を語る記念物としては、新潟の白山神社に献じた絵馬額のみである。︵中
略︶千石船四十
を通則としたと云ふのである。四十 全部が千両を齎したかどうかは疑はしいが、仮にすべてが通則通りであつ
F
たとすると、一年四万両の金を得たことになる。
実際にどの程度の利益があったのか、本資料が一八四九年 ︵嘉永二︶で断絶しているため、その詳細を知りえないこ
船業についても﹁越後国御年貢江戸大坂御
船差配方﹂︵天保十三年十二月、 丁裏︶を申
船業による収支の概要も記されていたの
─ ─
129
とが惜しまれる。本資料は角市家の歴史のうち、比較的大きな経済活動、すなわち金銭や米穀の支出、収入に関する
内容が中心となっており、
付けられていることから、もしさらに続けて書かれていれば、おそらくは
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
それでは、本資料にはどのようなことが記されているのか、特に公的な部分での支出に注目していくつか見てゆく
ことにしよう。
ととなったが、その記述も三余最晩年までは至らず、福島潟庄屋役の任を離れる記事で終わっている。
いずれにしても本資料は、角市家の繁栄を築き上げた三余の功績を記録することを目的として、息子の熊太郎が執
筆したものと言えそうである。残念ながら、熊太郎はその志半ばで早世してしまい、執筆は弟の国太郎に託されるこ
ではないだろうか。
42
本資料に見られる角市家の経済活動
冒頭から﹁孝子御手当金﹂として金四両一分米八俵を上納しているが、こうした上納金、さらには貧者への施し等
も目につくところである。
具体的に孝行人や長寿の者等に対する手当金として記録されているのは、全体を通じて十回、総計十二両一分を支
出している。また、火災、地震の被災者に対しても米・銭を提供しており、その額は火災四件について金五八両、銭
二四九貫、米二一一俵、一八二八年 ︵文政十一︶と一八四七年 ︵弘化四︶の地震の際に総額金三八七両一分一朱、江戸
、 本 丸 火 災 に 三 百 両 を 上 納 し て い る ︵ 天 保 十 五 年 六 月、 丁 表 ︶
。また、
城 西 ノ 丸 火 災 に 五 百 両 ︵ 天 保 九 年 三 月、 丁 表 ︶
いない。本資料には、個別の両替に関する事例はあまり見られないが、かわりに年間の総額が示されており、角市家
幣を交換 ︵両替︶する必要があり、両替商だけでなく、各地の富裕層が換金作業をおこなうこととなった。市島家に
H
よる古金銀の引替については、前掲の﹁市島家文書﹂のうちのいくつかが紹介されているが、全容は明らかになって
︵文政三︶から一八三五年 ︵天保六︶までで銀三八三万両余だったという。改鋳にあたっては、当然既存の貨幣と新貨
こうした支出以外で注目されるのが、貨幣改鋳にともなう金銀の引替に関するものである。幕府による貨幣改鋳は、
改鋳にともない品質を落とすなどして生じる差益 ︵出目︶を目的として、江戸時代を通じて数次にわたっておこなわ
G
れた。文政金銀の改鋳の差益は、一八一八年 ︵文政元︶から一八二六年 ︵文政九︶までで金一八四万両余、一八二〇年
余に上っている。
それ以外には毎年のように貧窮者の対策費を支出しており、総額金三五三両、銭一〇四三貫六三〇文、米六八石三斗
47
による古金銀引替の規模がわかる。本資料に挙げられている各年の古金銀引替高を示すと以下のとおりである。
─ ─
130
32
文政七年︵八月以降︶
一〇五〇両、
文政八年
二六二五両、
文政九年
五一五〇両、
文政一〇年
五六六〇両、
文政十一年
三八三〇両、
文政十二年
二〇〇〇両、
には市島宗家の邸宅であった新発田市市島邸所蔵の資料なども含めて調査を進めることで、市島家、市島春城につい
て、より深い研究成果を得られるに違いない。各種資料の一層の活用と連携を期待したい。
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
131
天保元年
一二〇〇両、
天保二年
一〇六六両、
天保三年
八一〇両、
天保四年
二〇〇〇両、
天保五年
七〇〇両、
天保六年
一七〇〇両、
合
計
二七七九一両
実に三万両近くが、角市家を通じて交換されたのである。
︵天保十四年二月二十日
このほかにも、非常時の備えである﹁囲佅﹂も数次にわたり、総高三二〇〇俵に及んでいる
。さらには金毘羅宮造営のために五〇両︵文政五年条、3丁裏︶
、新道普請に三百両︵天保五年条、 丁表︶
条頭注、 丁表︶
21
以上、本資料からうかがえる角市家の活動について見てきた。ただこれは、角市家、さらには越後の豪農市島家に
よるさまざまな活動の、ほんの一端に触れたにすぎない。今後、新潟県立図書館、文書館、早稲田大学図書館、さら
など、公的な活動に多額の私財を投じていたことがわかる。
44
注
︵1︶ 春城日誌研究会﹁春城日誌﹂一∼二七、︵﹃早稲田大学図書館紀要﹄二六∼五七︶。なお、本号から翻刻が再開されると聞いた。
喜ばしいかぎりである。
︵2︶ 春城日誌研究会﹁市島謙吉︵春城︶年譜︵稿︶﹂
︵﹃早稲田大学図書館紀要﹄五七︶、金子宏二﹁﹃憶起録﹄解題・翻刻﹂、同﹁﹃枕
頭日誌﹄解題・影印・翻刻﹂、同﹁﹃慟哭録﹄解題・翻刻﹂︵﹃早稲田大学図書館紀要﹄五八∼六〇︶。拙稿﹁春城市島謙吉先生と
早稲田大学図書館﹂︵﹃早稲田大学図書館紀要﹄五七︶、同﹁早稲田大学草創期における校友会の一事情﹂︵﹃早稲田大学図書館紀
要﹄六一︶。
︵3 ︶ 拙稿﹁解説と解題﹂︵﹃市島春城随筆集﹄一一、クレス出版、一九九六年︶。
︵4︶ 原本は早稲田大学図書館蔵。一九六〇年に翻刻が刊行されている。早稲田大学図書館編刊﹃春城八十年の覚書
附・平民論﹄。
︵5 ︶ 本誌掲載以外の春城研究としては、前述の随筆集のほか、金子宏二﹁春城・市島謙吉
︵﹃早稲田フォー
その生涯と大隈重信﹂
ラム﹄五七・五八、一九八九年︶がよくまとまっている。また、古書に関する随筆をまとめた﹃市島春城古書談叢﹄︵青裳堂書
店、一九七八年︶、人物関係の随筆をまとめた﹃春城師友録﹄︵国書刊行会、二〇〇六年︶等がある。
︵6︶ 戦後の農地改革の内容を記録した﹃農地改革顚末概要﹄︵農政調査会農地改革記録委員会編、農政タイムズ、一九五一年︶に
よれば、大地主として﹁五十町歩以上の耕地所有﹂との目安を示しており︵同書八〇一頁︶、その数は一八九九年︵明治三二︶
段階で全国で七九六名︵北海道を除く︶、うち新潟県が二六一名にのぼっている。また、それをはるかにしのぐ千町歩地主につ
いては、北海道以外では全国で九名、そのうち五名が新潟県に集中していた︵後掲注︵7︶中山書参照︶。
︵7︶ 新潟県における土地集積の歴史については、中山清﹃千町歩地主の研究﹄[正]、続、三、四︵京都女子大学、一九八五∼二
〇〇三年︶、農政調査会編刊﹃千町歩地主市島家の構造﹄︵一九六一年︶、古島敏雄、守田志郎﹃千町歩地主の成立と展開﹄︵農
林省農業総合研究所、一九五七年︶、﹃新潟県大地主名簿﹄︵農政調査会、一九六八年︶等参照。
︵8︶ 市島家については、前述の春城に関するもののほかに、小林弌編﹃市島家文書﹄
︵農政調査会、一九六〇年︶、市島成一編﹃家
之紙碑﹄︵増補版、継志会、一九六五年︶、﹁市嶋家文書目録﹂︵早稲田大学図書館編刊﹃早稲田大学図書館文書目録﹄四、一
九九〇年︶等参照。なお、市島の表記については、記録や文献により、市島、市嶋双方が使われており、必ずしも一定ではない。
─ ─
132
本稿では解題中の人名等については﹁市島﹂に標記を統一したが、翻刻においては原本のままとした。
︵9 ︶ 市島春城﹁郷土自慢﹂︵﹃鯨肝録﹄二二六頁、東宛書房、一九三六年︶。
︵ ︶ 徳次郎のすぐ下の弟、松次郎は二代喜右衛門︵南山の祖父︶の弟である市島六之丞の家を継いだため六分家のうちには入ら
ない。前掲注︵8︶﹃家 之紙碑﹄参照。
︵ ︶ 坂口仁一郎﹃北越詩話﹄上︵目黒甚七、一九一八年︶七五二頁。
︵ ︶ 小林存﹃水原郷土史﹄︵水原町、一九五七年︶二六八頁。
︵ ︶ 初、二編各一〇巻、一八〇一年︵享和元︶、一八〇八年︵文化五︶刊。また、本資料の文化十一年三月十三日条に、岱海が遺
した﹁西河合集仲氏易﹂の刊行を願う記事があるが、この草稿については新潟県立図書館﹁春城文庫﹂の﹃擡言西河仲氏易草稿﹄
︵春城
一︶がそれにあたるものと思われる。このときは公刊されることはなかったが、その原稿は佐久間象山、秋月種樹の跋
文︵いずれも新潟県立図書館﹁春城文庫﹂にあり︶をえて、市島家の人々によって今日まで大切に保存されてきたのである。
︵ ︶ 前掲注︵ ︶書、七五二頁。
︵ ︶ 市島春城﹁吾家の回漕業﹂︵﹃擁炉漫筆﹄二六七頁、書物展望社、一九三六年︶。
︵ ︶ 田谷博吉﹁貨幣改鋳﹂、滝沢武雄﹁文政金銀﹂、同﹁天保金銀﹂︵いずれも﹃国史大辞典﹄︵ JapanKnowledge
版、吉川弘文館︶
参照。
︵ ︶ 前掲注︵8︶﹃市島家文書﹄参照。
11
︿付記﹀ 本稿作成にあたり、翻刻をご許可くださった新潟県立図書館に衷心より謝意を申し上げたい。図書館并びに県立文書館の
皆様には大量の資料閲覧にお付き合いいただき、特に上村陽子氏、本井晴信氏からは﹁春城文庫﹂、﹁市島家文書﹂等につい
︵ふじわら
ひでゆき
戸山図書館担当課長︶
ての貴重なお話をうかがうことができたこと、重ねて御礼申し上げる。また、吉田ゆき氏には、ご家蔵の吉田東伍と市島春
城に関する貴重な資料を閲覧させていただけたこと、御礼申し上げる。
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
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10
13 12 11
16 15 14
17
翻刻﹃吾家之歴史﹄
〇書誌事項
︿標
題﹀吾家之歴史
吾家の大事紀︵題簽による︶
︿所蔵者﹀新潟県立図書館︵春城文庫︶
丁裏の冒頭に
﹁ 家 兄 熊 太 郎 正 俊 卒 去 、 而 後 記 是 冊 者 無 之、 五 男 国 太 郎 正 路 次 而 執 筆 ﹂ と あ る こ と か ら、 こ の 部 分 か ら 国
︿請求記号﹀春城
九
︿著 者﹀市島熊太郎︵正俊、号・静修︶、市島国太郎︵正路︶。
天保十五年︵弘化元年への改元前︶までは熊太郎の筆によるもののようだが、それ以後、
太郎の手になると思われる。
︿外
題﹀吾家之歴史
吾家の大事紀
︿表
紙﹀渋格子刷毛目厚紙表紙
︿題
簽﹀白地裂地︵一九・一×四・一㎝ ︶。外題を墨書。
︿大きさ﹀二六・七×一八・七㎝
︿料 紙﹀楮紙。半面二〇・六×一五・六㎝ の匡郭が墨色で刷られている。縦の罫線はないが、上から四・六㎝ の部
分に横線が引かれている。
︿装訂・状態﹀袋綴一冊。細めの白糸一本を用いた四ツ目綴で、紫の角裂が付いている。全体の構成は次の通り。表
紙、遊紙︵白紙一丁︶、本文料紙︵無記入四丁︶、墨付料紙︵五六丁︶、本文料紙︵無記入二七丁︶、後表紙、
─ ─
134
48
総数は表紙共九〇丁。本文は墨書︵一部に朱書︶、丁付はないが、柱の一部に干支、年号、内容に関する
略記がある。表紙見返の紙から五丁ほど、上部に虫損があるが、表紙には及んでいないことから表紙︵後
表紙︶は後補の可能性がある。また、墨付料紙最終丁の袋の間に縦罫︵十三線︶を刷った紙が挿入されて
いるが、おそらくは無罫の料紙に記す際の﹁下敷き﹂としたものと思われる。
︵朱長方印、遊紙表右下︶。また墨付料紙一丁表の右上枠外に﹁ 176973
﹂の青印︵スタンプ︶と、
︿印 記﹀﹁市島文庫﹂
巻末︵無記入本文料紙の末尾︶の左上枠外に﹁閲覧室﹂の朱印︵スタンプ︶がある。
︿来 歴﹀角市家に伝来した資料は、一九五三年︵昭和二八︶一月、当時の当主である市島光子氏より新潟県立図書
館に託されたが、春城の日誌をはじめとした多くの部分が一九六三年︵昭和三八︶に早稲田大学図書館に
移された。現在、﹁市島春城資料﹂︵請求記号・イ四
一九一九、貴重書︶として登録され、そのほとんど
について古典籍総合データベースを通じて全文の精細画像を見ることができる︵ http://www.wul.waseda.
︶。県立図書館から早稲田大学図書館への移譲の経緯については、新潟日報編
ac.jp/kotenseki/index.html
刊﹃坂口献吉追悼録﹄
︵一九六六年︶、春城日誌研究会﹁﹃春城日誌﹄余滴﹂
︵﹃早稲田大学図書館紀要﹄三六︶、
および新潟県立図書館郷土文庫データベース収載の解説︵ http://www.pref-lib.niigata.niigata. jp/Collection/
︶等参照。なお、市島家に関する記録や書画、春城が蒐集した印章や一部の書簡類、総
MokurokuBunko1
数約一〇〇点︵印章については一括で一点扱い︶が県立図書館に残され、﹁春城文庫﹂として公開されて
おり、前述の郷土文庫データベースを通じて、資料の目録と一部の精細画像︵本資料は含まれていない︶
を見ることができる。
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
135
〇凡 例
﹁者﹂
﹁
・文中の旧字︵異体字含む︶は新字に統一した。変体仮名は原則としてひらがなに置き換えたが、
︵﹁江﹂﹁ニ﹂は半角表示︶はそのままとした。
・文中、あきらかな誤字、当て字には初出の部分に傍注を加え、一部に読点を補った。
﹂
﹁江﹂
﹁ニ﹂
︵ウ︶
・各半丁の区切りはカギ括弧︵ ﹂︶でくぎり、次丁の字句をその後に追い込みで表記した。また、表裏を︵オ︶
で示すこととし、墨付料紙の冒頭を一丁表=︵1オ︶とした。ただし柱に字句がある場合には、丁の区切りが文章
の途中であってもそこで改行し、柱の位置を明示するようにした。
・本文はほとんどすべて墨書であるが、一部に朱書がある。それらについては﹁
﹂で括り、冒頭に︵朱書︶と注記
した。
・本文は三つの部分から構成されており、それぞれ以下のように翻刻した。
本文=朱丸印を行頭に付し、やや大きめの文字で記してある。一部行頭に丸印がない場合もあるが、翻刻にあたっ
①
ては現物のままとした。
注記=本文の後で改行し、何文字か下げた位置からやや小さい文字で、本文の詳細や、関連文書の写を記してあ
②
る。翻刻でも同様の体裁とした。
頭注=本文に関連する記事を上部横線上欄に細字で記している。翻刻でもそのイメージのままとした。
③
この三つに加えて、柱部分に干支、年号、内容の略記があるが、それらについては該当する位置にゴシック体で示
してある。
─ ─
136
〇翻
刻
︵表紙︶
︿題
簽﹀
﹁吾家之歴史
吾家の大事紀﹂
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
137
︵空︶
酉戌
文化十
蒲原郡飯柳新田百姓万五郎
米弐俵金弐百疋
蒲原郡田上村百姓伝十郎娘
さの
米弐俵金三百疋
︵1オ︶
蒲原郡上山屋村百姓六右衛門﹂
米弐俵金三百疋
越後国岩船郡平林村百姓源之助娘つや
米弐俵金三百疋
岩船郡畑村百姓清八郎同人倅清之丞
金五百疋
正光君御事者、奉謚
了宣君市島長次郎様之御次男、岱海堂君不被入御子以て御養子たり、
〇五月十一日、御役所 江孝子御手当金四両壱分米八俵上納、
文化十癸酉年
﹁市島文庫﹂︵朱長方印︶
︵印記・遊紙表右下︶
以下四丁白紙
︵本文︶
御代官平岡彦兵衛様
︿柱﹀
─ ─
138
ニ
当年召仕利助家作いたし候 付、金五拾両合力申付候、
︵仲︶
官板ニ
文化十一年甲戌年
〇三月十三日、厳君御出府有之、四月中旬頃御帰国 ニ相成、
付候様、御出府有之候得共、不仰付御帰宅有之候、
江
ニ
先君岱海堂様御在命中、西河合集中氏易被成下候様内分御代官平岡様 御願立有之 付、右一件被仰
〇 五 月 三 日、 双 善 寺 出 火、 前 長 屋 類 焼 い た し 候 ニ付、長屋壱軒銭壱貫文ツヽ、双善寺 江米壱俵、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
139
日数凡九十日之間
︿柱﹀
〆米壱俵銭九貫文、
︵1ウ︶
〇米価高直 ニ付、金三拾五両安米売損、日数二十五日之間売出し有之、
〇銭三拾四貫八百弐拾壱文、中島村長屋之もの共安米相願候 ニ付、﹂米壱升 ニ銭拾七文安 ニ見積間、
如斯出銭有之、
〇五月十三日朝五ッ時、おきそ様御出生有之、
文化十二乙亥年
〇八月廿六日、御役所 江孝子手当金三百疋米弐俵上納、
江
蒲原郡中新田百姓太郎兵衛娘そよ 被下分、
〇十月廿日、長男来七様御出生有之、
文化十三年丙子年
︵2オ︶
〇十月廿日、おもみ様御出生有之、﹂
亥子寅卯
文化十四丁丑年
〇六月十五日、御嫡子来七様没給ふ、謚了見君、
寿三才
─ ─
140
御代官三河只蔵様
︿柱﹀
文政元戊寅年
〇十月廿日、おのをさま御出生有之、
文政二己卯年
文政三庚辰年
︵2ウ︶
〇十二月、弐両弐分、孝行人御手当金御役所 江上納、﹂
、 同郡下条邨元秀
、 岩船郡佐々木村三吉
蒲原郡水原村西組勘六
弐百疋 弐百疋 弐
百疋 、 蒲原郡高橋新田百姓留吉
、 同郡住吉新田甚蔵
弐百疋 弐百疋、
四月、金壱両弐分、孝行人手当金御役所 江上納、
、 同郡菅谷村百姓勘助倅三次郎事勘助
蒲原郡沖山新村百姓佐次郎
金弐百疋 金弐百
疋 、 岩船郡高田村百姓平五郎
金弐百疋、
〇六月九日、おくに様御出生有之、
︵3オ︶
文政四辛巳年﹂
〇当春
金五拾両宛棚卸之節要害金相除候事相始め申候、
文政
辰巳午
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
141
︵船脱カ︶
〇金弐分、孝行人手当金御役所 江上納、四月廿四日、
江
岩郡百姓宇之助 被下分、
文政五壬午年
〇閏正月朔日、熊太郎出生、
〇金毘羅大権現之宮御建立有之、
ニ
今下条村天満宮之際 有宮則是なり、金五拾両余相懸る、
〇金弐両、孝子長寿御手当御役所 江上納、
︵3ウ︶
金弐百疋
岩船郡金屋村下三ヶ村氏神神主出雲正母まい﹂
四月
金弐百疋
蒲原郡下奥野新田百姓太郎右衛門
五月
金弐百疋
同郡同
百姓六右衛門
十二月
金弐百疋
同郡同
百姓彦右衛門母りん
十二月
文政六癸未年
︵ママ︶
㊀十二月、米価高直 ニて当難凌兼候もの四拾人余手当金五両、
文政七甲申年
︵4オ︶
〇八月中、御吹直金銀引替御用被仰付、当年引替上納高千五拾両也、﹂
─ ─
142
︿柱﹀
未申
ニ
引替方 付品々願書等有之候得共略之、請書左之通、
、 出 精 引 替 候 様 可 仕 、 尤 引 替 先 往 返 し、 度 々 道 中 筋 金 銀 運 送 方 不 取 締 無 之 様 取 計 、 万
差上申御請書之事
ニ
一、御吹直金銀引替方之儀者、銘々宅 而引替之儀者勿論、越後国之内先々へも私共其外重立候手
︵非︶
代共をも相
一悲常等 ニ而金銀不足いたし候節者、其旨銘々弁納可致旨被仰渡候、
ニ
一、 私 共 引 替 御 用 付而之諸入用不被下、銘々自分入用を以諸払之積申上候処、是 引替御用相勤
︵4ウ︶
候 者 江限引替之方 江者貫目重品故、取扱方 ニ付諸雑費も多可相懸訳を以、引替銀出高百目 ニ付為諸入
︵提︶
用銀三分ツヽ﹂被下候間、私共 江も同様引替銀之方 ニ而者出高百匁 ニ付三分ツヽ割合ヲ以、諸入用可
被下置旨被仰渡候、
候間、相用可申旨被仰渡候、
江
江
一、私共御用中為取締銘々宅 御用高張り挑灯并引替先 往返之節、御用絵符御用挑灯共御免被仰付
江
ニ
一、越後国 者私共此度御吹直金銀引替御用被仰付候 付、勝手次第相対致引替候様
︵5オ︶
侭引替、四厘以上之軽目者金目代取立候儀 ニ付、縦合者小判壱両 ニ付軽目五﹂厘 ニ候ハヽ、右之内四
︵令︶
御勘定所御触出し御差出被遊候旨被仰渡候、
ニ
一、 引 替 方 付、先々 差出金之内軽目金之儀、小判者壱両、目方三匁五分之内四厘 之軽目者其
厘之分者不差構、残壱厘之分足金目代為差越、其余之軽目も右準シ候積り、尤右足金代之儀者、目
方壱両 ニ付拾八匁八分替之積り割合を以代金取立候積り、其余鍛金等之目方三匁五分ツヽ有之分ハ
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
143
其 侭 引 替、 是 又 軽 目 分 者 前 同 様 之 割 合 を 以 取 立 候 積 り 、 且 又 壱 歩 判 之 儀 も 小 判 同 様 之 割 合 を 以 軽 目
︵字脱︶
之分ハ足金目代取立候積り、可相心得旨被仰渡候、
︵5ウ︶
ニ
一、文金以前古金引替度旨申出候節者、古金値付不案内 て難見定候間、私共 替金相渡置古金請
取御役所 江差出、其侭相定候上、増歩并諸入用共御渡し可被下旨被仰渡候、﹂
代共差出最寄市場其外 江出張、がさつヶ間敷儀無之様取計、且又在々金持 江も得と及懸合 ニ目得為致
ニ
ニ
ニ
江
一、金銀引替方之儀、先ツ銘々宅 而引替、尤宅計 而者 取申間敷候 付、先々 私共并重立候手
も相
夕七ッ半時
、手堅取計可申旨被仰渡候、
取候様可仕、且引替先 江金銀持運方之儀者、朝六ッ半時
、其外風烈強雨等
引替之儀可然、勿論銘々手代之外、親類たり共名代 ニ差出引替させ候儀者不相成候 ニ付、其心得を以
引替方
之節者見合、都而取締方入念才料人足等
同封﹂私共名前印形致置、若有之内悪金銀有之節者、座方 ニ而改候節、たかねを入、封之紙と相添
︵6オ︶
江
ニ
ニ
一、 引 替 口 古 金 之 内 悪 金 銀 之 儀、 其 時 々 引 請 人 共 損 金 相 成 候 而 者 難 儀 付、 金 者 百 両 銀 何 百 目
御返し被成、右たかね入之分者御買上ヶ直段ヲ以、夫々座方 江相納、右御買上ヶ直段不足相立候儀者、
損失之積り取計候様可仕旨被仰渡候、
︵6ウ︶
ニ
一、私共隣国、出羽、奥州辺 も相 り引替度所存 候ハヽ、当其段可申上旨被仰渡候、
江
ニ
一、私共引替先在々 金銀附送り候節者、当御役所 先触御差出被下、泊宿村 而者御金箱相封し候
侭役人 江相預ヶ、預り一札取之、翌朝右預証文と金子引替請取候様仕旨被仰渡候、﹂
被仰渡之趣、銘々手代共 江も急度申聞可置旨被仰渡候、
ニ
仰付上者、諸事入念大切 相勤、権感かさつヶ間敷儀無之様仕、万事
一、私共儀、右引替御用被
─ ─
144
間敷旨被仰渡候、
一、私共儀万一御引替金銀引負等仕候ハヽ、証拠地所御取上ヶ御払被仰付候ても、御願ヶ間敷儀申
右被仰渡候趣一同承知奉畏候、仍御請印形差上申候処如件、
当御支配所
︵宗家六代徳次郎︶
市嶋亀次郎
文政七申年八月十二日
真嶋権兵衛
近藤甚助
市嶋次郎吉
︵7オ︶
白瀬長兵衛
大貫次右衛門様
御役所
佐藤伊左衛門
︵ 山 市・市 島 長 次 郎 ︶
︵空︶
道右衛門﹂
︵ま脱︶
○三月廿三日、おやいさ生、七月十九日死去、謚妙輪、
金百
、
両余
○七月十一日、市隠君没給ふ、謚了宣君、寿六十九、
○八月中、堰場環流庵普請入用
○日光御社参 ニ付御賄料四拾両余、御役所 江上納いたし候処、御社参御延引 ニ相成、不残御返し
有之、
文政八乙酉年
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
145
︿柱﹀
︵7ウ︶
○三月七日、金弐百疋御役所 江上納、孝子手当金、﹂
ニ
蒲原郡嶋田村庄屋長右衛門役儀出精 付、
︵熊太郎弟・山市三代長次郎︶
○五月廿五日、冨次郎殿生、
○芝田追手先質店 ニて冨次郎殿名前ヲ以質取始め、
○十二月、米価高直 ニ付、下条村 江安米売出し、金四拾両余間損差出し申候、外 ニ金四両水原町
方割合 ニ上損ス、
○溝口備後守様御知行所大野町焼失 ニ付、家数弐百軒余之内極困窮之もの共百三十軒、壱軒 ニ付
銭壱貫文ツヽ、都合銭百三拾貫文手宛差出し申候、
○当年新金引替高凡弐千六百弐十五両、
︵8オ︶
文政九丙戌年﹂
〇二月十日、御役所
越後国蒲原郡下条村
銀弐枚御褒美頂戴、
酉戌
申渡
百姓
市島次郎吉
一、銀弐枚
ニ
出羽守殿被仰渡候間申渡ス、
右者在方吹直金銀引替之儀骨折候 付被下候旨、水
右之通遠山左衛門尉殿被仰渡候間、可得其意候、以上、
─ ─
146
︵8ウ︶
大貫次右衛門
戌二月十日
〇二月十九日、おちつさま 江熊蔵殿聟 ニ取迎、婚儀目出度相済申候、
熊蔵殿事者中之島惣右衛門殿次男、﹂
〇三月七日、御役所 江金弐分忠臣御手当金上納、
米百四拾石余、三分壱直段ヲ以引請納方いたし、当難為相凌候、
水原村市嶋徳次郎召仕孫四郎、
〇四月朔日、初蔵殿生 、 妾腹
〇中新田村外十弐ヶ村御 米百石余かし付、当難相凌せ申候、
〇貝屋村外弐ヶ村御
〇六月二日、おりうさ出生、
︵9オ︶
〇八月十八日、出雲崎御支配所新津町并新発田御領古田新田出火、類焼之もの弐百拾軒、壱軒
ニ
付米壱俵ツヽ手当、凡米弐百拾俵、
金三百疋被相増候、
〇九月、巌君出府有之、右者志願筋 ニ付、御出府、﹂
○十一月、新発田御役場
書状相添申越候申渡書者、
も手当米被致候由、村役人共
申出候、右者奇特之事 ニ被存候、依之乍些少被相増候、
水原町
市嶋次郎吉
一、金三百疋
江
江
先般御料新津町出火類焼、小前難渋者 手当米被致候由、其節当領古田新田類焼、小前難渋之もの
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
147
御褒美頂戴、
戌十一月
○当年、古新金銀引替金高凡金五千百五拾両余、
︵9ウ︶
文政十丁亥年﹂
○正月、銀弐枚御役所
─ ─
148
申渡
︵右︶
一、銀弐枚
ニ
出羽守殿被仰渡候、
右者御吹直金在方引替骨折相勤候 付、為御褒美被下候段、水
右之通遠山左衛門尉殿被仰渡候間、可得其意候、以上、
越後国蒲原郡下条村
大貫次左衛門
亥正月
役所
○四月六日、従
御公儀様其身一代帯刀御免被仰付候、
申渡
百姓
︵ オ︶
市嶋次郎吉﹂
︿柱﹀其身一代帯刀御免 亥
災有之村々 江者米銭等差遣し、当難を為相凌、利欲を離れ都而村為 ニ相成候儀心懸、年来奇特之取計
ニ
其 方 儀、 父 之 志 を 継、 貞 実 而村々貧民等を労り、年来米銭衣類等ヲ与へ、其外近郷御料私領共火
10
︿柱﹀
共いたし候 ニ付、為御褒美其身一代帯刀御免被仰渡之、
︵
ウ︶
御扶持方弐人扶持被相贈候、
右者水出羽守様被仰渡候旨、村垣淡路守殿被仰渡候間、可得其意候、以上、
大貫次右衛門
御印
文政十年亥四月六日
○当年引替高金五千六百六拾両、
○五月二日、おかねさ出生、﹂
○十二月、長岡城主牧野備前守様
江
ニ
御入用金御領分曽根組拾弐ヶ村 金子取替候 付挨拶、
文政十一戊子年
○正月七日、御役所 江孝行人御手当米弐俵上納、
蒲原郡中新田村百姓丹蔵母せん
○二月廿一日、御役所 銀弐枚頂戴、
申渡
子
市島次郎吉
銀弐枚
︵ オ︶
ニ
右者御吹直金在方引替骨折相勤候 付、為御褒美﹂
11
出羽守殿被仰渡候、
被下候之段、水
右之通村垣淡路守殿被仰渡候間、可得其意候、以上、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
149
10
越後国大地震、三条近
辺別而強候処、厳君長
岡表 江御出張有之、御騒
有之候得共、御無異 ニ
御帰宅有之、
大貫次右衛門
子二月廿一日
役所
○二月朔日、おきうさ出生、 妾腹、初蔵殿之妹
○当年者米価高直小前難渋凌兼候 ニ付、下条村者勿論水原、中嶋、外城、山口村共手当金并安
米売損其外共、凡金高百拾両余、
○十二月廿二日、御役所 江孝行人御手当金上納、
金三百疋、
蒲原郡中新田村次吉祖母さん
︵ ウ︶
○引替金高三千八百三拾両、﹂
︵ママ︶
○
文政十二己丑年
○二月七日、銀弐枚御役所
申渡
以上、
頂戴、
銀弐枚
︵路脱︶
ニ
右者御吹直し金在方引替骨折相勤候 付、為御手当被下候段、村垣淡守殿被仰渡候間、可得其意候、
林金五郎
丑二月七日
役所
○金三拾弐両壱分一朱、地震場難渋もの百人余手当テ金差出し申候、
─ ─
150
11
︿柱﹀
○金拾五両、下条、山口、水原、中嶋難渋もの 江正月
○正月
八月
安売米損間金百両、
丑
︵請脱︶
暮
︵
オ︶
手当金差出し申候、﹂
○三月廿九日、法事 ニ付施行米五拾弐俵半、直段廿俵 ニ見テ金弐拾六両壱分、
12
○八月、御勘定広木重右衛門様立毛為御見分御普役御付添御下向有之、為冥加作方も宜候 ニ付、
差出し米被仰、冥加米五拾石出米いたし候、
ウ︶
─ ─
151
○御役所 江忠孝御手当金上納金壱両、
︵
高橋新田源兵衛召仕奥次郎忠儀之趣被下候、
弥彦岡新田百姓権蔵長寿御手当金弐百疋ツヽ
越後国蒲原郡下条村
帯刀御免被仰付候、
○十月十六日、国太郎殿出生
妾腹﹂
○十二月廿七日、三ヶ村難渋もの 江手当金弐拾両、壱軒 ニ付金弐朱ツヽ、
○当年引替金高弐千両、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
百姓
市嶋次郎吉
申渡
天保元庚寅年
○正月十七日、出雲崎御役所 ニおゐて従
御公儀様孫代
12
︿柱﹀孫代
帯刀御免
︵
オ︶
ニ
ニ
其方儀、年来窮民を労、米価高直之節者安直段 売出し、亦者米銭無利永年賦等 貸渡為取﹂
寅
付、為御褒美孫代
帯刀御免被仰付候、
江
ニ
続、去々子年地震之節も米金多分合力いたし、病人 者夜具衣類等相施し、都而奇特之取計相聞候
右之趣申渡候、
銀弐枚被下置候、
雲崎 江請書差上ヶ申候、
林金五郎
寅正月十七日
但、於江戸被仰渡候者、丑十二月廿日頃之由、水出羽守様被仰渡、土方出雲守様被仰渡候旨、出
○正月廿二日、水原御役所
申渡
可得其意候、
︵ ア キ・マ マ ︶
大草太郎左衛門
寅正月廿二日
役所
○
御出立御父母様共御上京、四国、大和、伊勢、東海道、江戸
○四月十九日、御役所 江長寿御手当金上納、
荒嶋村百姓長兵衛母しよ被下候分、
會津道中、
─ ─
152
13
市嶋次郎吉
銀弐枚
︵ ウ︶
ニ
右者国々并在方吹直金弐分判引替之儀、骨折候 付、﹂為御手当被下候段、土方出雲守殿被仰渡候間、
13
︵
オ︶
虫付、俄 ニ米直段引上ヶ、壱升 ニ付九十五文相成、門前市場騒敷相聞、既
六月十七日、御役所折居村百姓勘左衛門長寿、合三百疋
○池之端御知行所地震場難渋もの 江金三百両相施、
○当七月廿八日、市
喧嘩 ニ及候由、急 ニ飯米﹂差出し、壱人五升売直段七十八文ヲ以自他之無差別売渡、白米五斗入
三百俵一市 ニ売渡、
○中嶋長屋之もの共 江壱升 ニ付銭拾文安と見積手当いたし、銭四拾八貫三百九拾文、
○十二月、下条村 江弐百五拾貫六百文余、壱人七百文ツヽ三百五十人難渋もの 江手当有之候、
ウ︶
五ヶ月之間、下条村水原長屋安売米米売損金百両、﹂
︵
○十二月、水原村、中島村、山口村、壱人五百文ツヽ銭四百貫文余手宛有之候、
十二月
○十二月、下条村再度手当百六拾人五百文ツヽ銭八拾貫文、
○八月
○引替金高千弐百両、
銀三枚御褒美頂戴、
天保二辛卯年
○正月朔日、御はゝ様御死去有之、
○二月、御役所
申渡
14
市嶋次郎吉
銀三枚
ニ
右者国々并在方御吹直金引替之儀骨折候 付被下候段、土方出雲守殿被仰渡候間、可得其意候、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
153
14
︿柱﹀御
大草太郎左衛門
卯二月
役所
︵ オ︶
○水原郡中不残、当卯年御 米征不宜 ニ付、買納相願候得共、﹂
江 戸 表 買 納 御 直 段 高 直 ニて、郡中行立不申候 ニ付、細山清七殿、熊倉控左衛門殿、御申合引請、
米買納御出府 天保
卯
下条村安売米差出し候間損金六拾五両、
四月十六日出立、出府之上納方いたし、雑用其外共四百四拾両余損、右者郡中小前難渋為相凌
八月
候儀 ニ有之候、
○正月
○当年引替金高千六拾六両余、
ウ︶
銀弐枚頂戴、﹂
︵
天保三壬辰年
○当年 郡中 相納候金納月番改方被仰付候、
○正月、御役所
大草太郎左衛門
辰正月
役所
○十二月廿七日、難渋もの手当金弐拾両弐分、人数百六十四人、
─ ─
154
15
市島次郎吉
一、銀弐枚
ニ
右者国々并在方御吹直金引替之儀、骨折候 付、被下候段、村垣淡路守殿被仰渡候間、可得其意候、
15
︿柱﹀
○引替金高八百拾両、
天保四年癸巳年
○四月、銀弐枚并御手宛金壱分弐朱、御役所
申渡
頂戴、
市嶋次郎吉
一、銀弐枚
︵ オ︶
ニ
外 別段御手当金壱分弐朱、﹂
天
辰巳
為御手宛被下候段、水野出羽守殿 江伺之上土方出雲守殿被仰渡候間、其旨可存候、
ニ
ニ
右者御吹直金引替之儀骨折候 付、被下候、并去辰十月御触後閏十一月中 引替方相進候 付、別段
大草太郎左衛門
巳四月
役所
○六月、金壱両弐朱御役所 引替金御手当金頂戴、
申渡
市嶋次郎吉
金壱両弐朱
︵ ウ︶
右者去辰年十二月 当三月中 、古文字金真字弐歩判共引替、差出高も相進骨折相勤候、引替﹂高
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
其旨可存候、
ニ応 し 為 御 手 当 被 下 候 段、 松 平 周 防 守 殿 被 仰 渡 候 ニ付、 此 上 引 替 方 出 精 心 懸 候 様 奉 行 衆 被 仰 渡 候 間、
16
─ ─
155
16
大草太郎左衛門
巳六月
役所
○七月中、下条村弐百七拾八人、水原村四百四拾弐人、都合七百廿人、
右人数壱人 ニ付金弐朱ツヽ、手当金高九拾両、
○中嶋村、山口村之儀者壱軒米五升ツヽ、家数五百軒手宛米高弐拾五石、
︵
オ︶
○ 七 月 中、 別 而 極 困 窮 之 も の 江五斗入白米百俵、壱升 ニ付銭三拾文安 ニ長楽寺門前 ニおゐて売出
ス、﹂
○安売米一件 ニ付、佐藤伊左衛門組頭善右衛門相手当取願出候一件、願趣左之通、
小前末々之もの及難儀候 ニ付、当村百姓代佐藤伊左衛門始銘々売日を定、当五月廿日
当月十日
乍恐以書附奉願上候
ニ
当御支配所下条村百姓市島次郎吉奉申上候、近年違作打続、米価高直 御座候処、当夏中 追々引揚、
安米差出候積、最初之申合 ニ御座候処、今以下落不仕、却而直段引揚候間、猶又引続差出候積、去
︵
ウ︶
ル十一日、組頭善右衛門方 ニ而寄合評議有之候処、右直段合其外之儀 ニ付、私、伊左衛門合 ニ而差縺
︵立︶
夫銭其外建替差出并例年当月廿四日、五日、
在候、然ル処去ル十八日、右善右衛門儀使を以最早安米差出候儀者勿論、相帳行司共相勤候 ニ不及
鎮守祭礼 ニ而、行司と唱儀も同様、隔年勤 ニ御座候処、当年之儀者私方右両様共相当候 ニ付、相勤罷
候儀、難出来候間、重立候者隔年 ニ而相勤、追而割合候
無之候間、矢張行違之侭 ニ取計、且又村方 ニ而相帳と唱候儀有之、右者諸万雑等之儀、其時々割合仕
候儀出来、其段再応及対談候得共不行届、右者小前救之為 ニ差出候安米之儀、素々﹂仕来と申儀 ニも
17
─ ─
156
17
︵守︶
オ︶
差当候儀、何分落意﹂不仕、右者組頭善右衛門一己之了簡 ニも有之間
︵
触当候間、相勤候処、無謂相断、殊 ニ右安米之儀私差出候分、縦令少分たりとも小前
旨申越候間、安米之儀者小前救之為 ニ差出候儀 ニ付、面々所存も有共之候得共、相帳并行司等之儀、
兼而村役人
之者凌方 ニ可相成義と、役元
敷、庄屋長右衛門儀者出府留主中 ニ付、百姓代佐藤伊左衛門等申合之取計 ニ可有之、旁一ト通善右衛
門 江及 承 候 得 共、 何 共 挨 拶 不 仕、 右 者 全 安 米 一 条 ニか ら ミ、 彼 是 相 工、 私 江迷 惑 可 相 懸 仕 向 と 被 察、
ニも無之、右場所 江
被呼付
既 ニ去ル十七日相百姓市左衛門方 ニ而重立候者寄合、私壱人相省、村別 ニいたし候積 ニ規定書 ニも可有
之哉、追々小前連中進押印、同様印形取之候趣、承り申候、尤此儀風聞
候私組合其外出入之もの之内、私方 江子細為承罷越候ものも有之候儀 ニ而、一体此節時候も不順 ニ而、
︵
ウ︶
何となく人気も不穏候儀之処、右体村役人と始おとなしからぬ事共申合、猶々人気を為任候段、重
も定而為立会申間敷、不案諸至極 ニ奉存候、依之、近頃御苦労筋奉恐入候得共、右之仕向 ニ成行候而
者、往々何様之儀申出候も難計候間、何卒格別之御儀を以善右衛門、伊左衛門両人御呼出、御糺之上、
夫銭其外諸万雑等之儀、私方 江相掛候分者見届之上、相違も無之候ハヽ、何方成共出銭可仕、御年
貢御上納物者、以来私直納被仰付被下置候仕様、左も無御座候而者、以来不案諸至極 ニ付、極重 ニも
奉願上候、以上、
─ ─
157
18
立候者 ニも不似合﹂何共難ヶ敷儀 ニ奉存候、右之次第 ニ而者、以来私儀者御年貢其外村並諸割合之節
18
下条村
市島次郎吉
天保四巳年七月
水原 ︵ オ︶
御役所﹂
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
19
○八月九日、熊蔵殿分録被申付、質渡世相始め申候、
○本家市島徳次郎殿儀、身持不宜、普請等相企候 ニ付、親類一同難ヶ敷次第 ニ付、相談之上江戸
表 江此方代又次郎、芝田市島次郎八出府いたし、上向願取之上隠居為致候積 ニて、徳次郎方 江罷
頂戴
︵
ウ︶
越 候 得 共、 聞 入 不 申、 却 而 親 類 共 乱 坊 相 振 舞 候 様、 御 役 所 江願 出 不 相 済 内 熟 い た し、 無 余 儀、
徳次郎意 ニ為相構申候、
○九月、金弐両弐朱御役所
申渡
吉﹂
市嶋次郎
金弐両弐朱
ニ
ニ
右者当巳四月 七月中 古文字金真字弐分判とも銘々引替高も相進、骨折相勤候 付、引替高 応し
為 御 手 当 被 下 置 候 段 、 水 野 出 羽 守 殿 被 仰 渡 候 ニ付、 此 上 引 替 方 出 精 心 掛 候 様、 奉 行 衆 被 仰 渡 候 間、
其旨可存候、
大草太郎左衛門
巳九月
役所
○下条村安売米買人一日可売出分三日寄無、代銭 ニて相救 江申候、十二月廿日、
十二月
オ︶
直段安 ニて日々売渡﹂候白米間損金高百七両余、
︵
○十二月廿九日、下条水原極難渋もの 江壱人金壱朱ツヽ、手当金拾弐両弐分、
○引続候違作 ニ付、正月
○引替金高弐千両、
20
─ ─
158
19
︿柱﹀庄内本間取引始
引替御手当金弐分弐朱頂戴、
天保五甲午年
○正月十六日夜、盲人共拾五人、壱人弐朱ツヽ手当、同三月二日夜十七人、金五両余相施し申候、
○二月、御役所
申渡
ウ︶
高応し﹂為御手当被下置候段、水野出羽守殿被仰渡候 ニ付、此上引替方出精心掛候様、奉行衆被仰
︵
市嶋次郎吉
金弐分弐朱
ニ
右者去巳八月 同十一月中 、古文字金真字弐分判共引替差出高も相進、骨折相勤候 付、引替金
渡候間、其旨可存候、
金 三 千 両 被 相 頼、 初 而 取 替
大草太郎左衛門
午二月
役所
○ぬか味 山盛壱升宛、三月十五日難渋もの 江いつ方 ニても相願候もの 江呉れ遣ス、凡五百四拾
五軒、
○五月、羽州鶴ヶ岡城主酒井左衛門尉様御領酒田湊本間正七郎殿
遣ス、口入人山科喜兵衛、
︵
オ︶
北国往還 江罷出候溝口信濃守様
之行程九里、近路有之、字小川通りと相唱候処﹂
○會津若松之御城主松平肥後守様御領分越後国蒲原郡津川町
御預り所同郡保田
︵阿︶
会津新道 天
午
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
至 而 細 道 険 阻 ニて、其上何賀野川を抱、四ヶ所之渡船場有之、右之内、字鈎浜と唱候処、弐拾
21
─ ─
159
20
︿柱﹀冥加上米千俵
町余長渡舟 ニ山間急流之場所 ニて至而危く、間々難船
死人等有之候 ニ付、石間村江頭次郎兵衛
松平
と申もの、右道筋切開候儀、段々領主 江も相願候得共、入用金 ニ差支候間、出金いたし呉候様相
願、右場所 江立越見分いたし候処、世上国易 ニも可相成儀 ニ付、承知いたし、水原御役所
肥後守様御役場 江御懸合 ニ相成、故障無之 ニ付、金三百両余差出し、新道普請成熟いたし、当時
︵
ウ︶
不改万船往来いたし候、尤石間村 ニ番所ヲ立、橋銭壱人前七十五文ツヽ取、然ル処、一両計打
過候処、追々道筋も丈夫 ニ相成候 ニ付、會津御領主 ニて無利々﹂々申入、他領もの ニ右様之儀為
致兼等申出相願候付、雑用金三百両受取、此方 ニ抱り無之事 ニいたし遣ス、右替り ニ者右新道往
七月
下条村水原村安売米差出候間損金弐百両余有之、
来壱ヶ年無銭札弐十人分相渡置、
○正月
○引替金高凡七百両、
天保六乙未年
︵ オ︶
○正月、為冥加上ヶ米千俵相願上納、﹂
渡候通御請仕、於私共も御趣意を承伏仕、旧臘御米蔵詰いたし置、追々川下ヶ ニも取懸り候儀 ニ御座
候、然ル処、私儀田録も相応 ニ所持仕、安穏 ニ百姓相続罷在候儀者、乍恐 御国恩と難有仕合奉存候、
─ ─
160
21
乍恐以書附奉願上候
越後国之儀、去午御物成米格別之御趣意を以、皆御 米被仰渡候処、当御支配所村々之儀者、被仰
天
未
22
ウ︶
米同様俵入其外共相仕立相納候様可仕候、依
且又去午年之儀者近年無之作柄も宜、作徳有余も御座候間、可相成儀 ニ候ハヽ、為冥加米千俵差上
︵
候様仕度奉存候、右願之通御聞済被成下候ハヽ、御
之此段奉願上候、以上、﹂
当御代官所
天保六未年正月
越後国蒲原郡下条村
百姓
市嶋次郎吉
右村
大草太郎左衛門様
水原
御役所
ニ
前之通次郎吉相願候 付、奥印仕差出申候、以上、
屋
庄
長右衛門
申渡
越後国蒲原郡下条村
百姓
市嶋次郎吉
同国同郡水原村東組
百姓
清七
︵ オ︶
其方共儀、去午年作柄宜敷、作徳有余有之趣﹂を以、御国恩為冥加四斗入米千俵宛上ヶ米相願候段、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
23
─ ─
161
22
奇特之儀 ニ付誉置、
ニ
仰渡候 付申渡間、其旨可存、
右者御勘定奉行衆被
未三月
○正月、御役所 引替金為御手当金壱両三分頂戴、
申渡
し為御手当被下候段被仰渡候間、其旨可存、
オ︶
─ ─
162
市嶋次郎吉
金壱両三分
︵ ウ︶
ニ
右者御吹直金引替御用骨折相勤候 付、書面御手当金被下候間、其旨可存候、﹂
水原
未正月
御役所
○未五月、御役所 金壱分弐朱頂戴、
申渡
23
市島次郎吉
金壱分弐朱
ニ
ニ
右者去十二月 当未三月 、古文字金真字弐分判共引替差出高も相進ミ骨折相勤候 付、引替高 応
︵
大草太郎左衛門
未七月
役所
○八月、御役所 金弐分頂戴、
申渡﹂
24
市嶋次郎吉
一、金弐分
ニ
ニ
右者当未四月 七月 、古文字金真字弐分判共引替差出し高も相進骨折候 付、引替高 応し為御手
当被下候段被
仰渡候間、其旨可存、
大草太郎左衛門
未八月
役所
○十月、御役所 金弐分弐朱頂戴、
申渡
し為御手当書面之通被下置度段、太
被仰上被下候旨、今般被仰渡候間、得其意、
拾三文安、壱人 ニ付五升七百文、
加賀守殿 江奉行衆
︵アキ・ママ、大久保︶
市嶋次郎吉
一、金弐分弐朱
︵ ウ︶
ニ
ニ
右者其方儀当閏七月 十月 、古文字金真字弐分判共引替差出し高も相進骨折候 付、引替﹂高 応
猶此上引替方出精可致候、
○七月廿八日、市白米五斗入八拾五俵町相場
○閏七月廿八日、市同七拾俵余売渡、
○九月廿四日、市四拾五俵余売渡、
○十二月、福嶋潟御新田拾三人持地、不残壱万五千両ヲ以新発田町白勢瀬兵衛方 江譲、此方持
オ︶
─ ─
163
24
日、五ヶ村難渋もの 江手当、一軒五百文ツヽ、家数三百廿八軒、手当銭百六拾四
地千百廿五両、
︵
○十二月大
貫文、﹂
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
25
水原横町
南新町
十二月
安売米間損金三拾三両、
外城
砂押
天神堂長屋 長楽寺門前
六拾八軒
夷小路 諏訪長屋
七拾五軒
中島村
八拾弐軒
下条村
四拾軒
山口村
都合
六拾三軒
○当年引替金高千七百両、
○当年正月
頂戴、
─ ─
164
天保七丙申年
○四月、金壱分壱朱御役所
被仰上被下候旨、今般被仰渡候
申渡
市島次郎吉
金壱分壱朱
︵ ウ︶
ニ
右 者 其 方 儀、 去 十 一 月 当 申 二 月 、 古 文 字 金 真 字 弐 ﹂ 歩 判 共 引 替 差 出 し 高 も 相 進、 骨 折 候 付、
被仰渡、
下条村
申渡
市島次郎吉
越後国蒲原郡
○奇特筋有之 ニ付、御褒書御役所
申四月
○二月廿九日、玄米四三入七拾五俵、此人数三千弐百廿五人、壱人 ニ米壱升ツヽ、
間、其意を得、猶此上引替方出精可致候、
江
引替高 ニ応し為御手当書面之通被下置度段、大
加賀守殿 奉行衆
25
︿柱﹀
︵
江
其方儀、平日心掛冝、是 村内近村極貧之もの共 ﹂
天申
オ︶
同様之違作 ニ而、極貧難渋 ニ而、当日之凌出来兼候もの共 江、手当として都合銭百六拾四貫文施遣し
米銭等施遣品々奇特之取計在之処、去未年之儀者諸作共出来劣、就中下条村、水原村近辺田方青立
米可
立米征も無之 ニ付、御代官様九月中御呼出候上御頼有之、拙
候段、奇特之儀 ニ付、誉置候、尤右奇特之趣者御勘定所 江も申上置候条、此上共奇特筋心懸候様可致
候、
○去未年違作 ニ付、郡中御
者方 ニ千石引請、三分壱直段 ニ引請置候処、追々下落 ニ及ひ、金百両余損分相成出金、
救筋 ニも相成候段、奇特之儀 ニ付、厚誉置候、
下条村
申渡
市島次郎吉
︵ ウ︶
右者越後国蒲原郡、岩船郡付之儀、去未年格別﹂違作之処、其方共出精いたし御 米高取計、村々
右之通可申渡旨、奉行衆被仰渡候、
︵
オ︶
民吉代人 ニ差出し、内々御出府も有之候処、格別之儀も無之、代人 ニて相済、無難 ニて相済、熊
蔵殿事者品物御取上ヶ過料銭上納過分之入用相懸り相済申候、
○大野町極難渋もの 江壱軒 ニ付銭壱貫文、都合五拾軒銭五拾貫文、手当いたし申候、﹂
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
27
─ ─
165
26
西
貞太郎
七月
︵到︶
○ 七 月、 盗 物 御 取 調 一 件 ニ付、 熊 蔵 儀 御 手 当 之 上、 江 戸 表 江御差立 ニ相 成、 此 方 も 御 差 紙 至 来、
26
︿柱﹀御買上米七千俵
○ 十 月 廿 二 日 夜、 水 原 穴 沢 忠 次 方 江、御勘定渥美武左衛門様御普請役川嶋小七郎様御止宿 ニ而、
御買上米御用被仰付、御辞退申上候得共、別而御利害有之、俵高七千俵御請仕候、
○水原龍源寺 江金五拾両相渡、為陰徳粥焚出し、五ヶ村難渋之もの共 江御施し有之、外 ニ金弐拾両、
十二月十九日
ウ︶
呼立、大工蔵 ニおゐて相振
寒 中 三 十 六 日 之 間、 白 米 三 拾 七 石 三 斗 四 升 五 合 四 勺 粥 焚 出 し、
猶又不足 ニ付、同寺 江相渡、都合七拾両、
○十一月十四日
︵
水原、下条、中島、山口四ヶ村之内困窮之もの 江、朝々粥焚六ツ時
舞遣し、当難為相凌申候、
○十二月廿日、白米七石九斗八升、右粥貰候もの 江、壱升ツヽ﹂銘々手当いたし遣ス、
此代金五拾三両永弐百拾五文七分五厘、
頂戴、
○年中安売米差出し、下条村、水原村、山口村、中島共不残日々売渡候間損金百弐拾四両、
天保八丁酉年
○四月、御褒書御役所
市嶋次郎吉
申渡
︵ オ︶
其方儀、此度御勘定渥美武左衛門、川々御普請再﹂
天
酉
納段、奇特之儀 ニ付、誉被置候旨、
─ ─
166
27
ニ
見 分 御 用 先 而、御買上米之御趣意厚申諭候処、致承伏、違作之年柄格別差働、御買上米相整可相
28
︿柱﹀三根山始
頂戴、
ニ
明楽飛騨守殿被仰渡候 付申渡之、
酉四月
〇四月、銀壱枚、御役所
申渡
︵
ウ︶
下候旨、水越前守様御差図申渡之、﹂
相渡施遣し申候、
市嶋次郎吉
銀壱枚
ニ
江
ニ
其方儀、去申年違作 て難儀いたし候もの 、米金其外相施候段奇特之儀 付、為御褒美書面之通被
七月
酉四月
○信州戸隠山御叔母様御出有之、金五拾両呈上有之、
御誉書頂戴、
○銭九十九貫六百三拾文、中嶋長屋手当分、正月
○八月、御役所
市嶋次郎吉
申渡
ニ
江
ニ
其方儀、去申年違作 而難儀いたし候もの 米金其外相施候段、奇特 付、
︵
オ︶
水越前守様依御差図御誉被置、
○八月中、三根山領下山村次左衛門頼越し、三根山御陣屋牧野兵庫様御勝手御仕送之儀、承知
いたし遣ス、然候処、﹂
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
167
28
拾人扶持方被相送度申越、御請いたし候、
29
覚
一、拾人扶持
右者、此度旦那勝手向御仕送被下度、被致満足候、依之書面之通被差遣候、
麻上下
壱具
書面之通被相贈候、
達候処、御心志之程、旦那悉ク被致満悦候、随而重役共并勝手方役人共 ニおゐても不残忝存候、依
之御会釈之験
神戸四郎左衛門
酉十月
市嶋次郎吉殿
○十二月、新発田役場 金三百疋被相贈候、
︵
オ︶
乍軽少﹂被相贈候、
酉十二月
─ ─
168
右之通申達候様、従東武被申付越之候、
神戸四郎左衛門
酉十月
市島次郎吉殿
覚
一、 白銀
拾五枚
︵ ウ︶
江
右者此度旦那勝手向御仕送之儀、御頼申入候処、御﹂領掌之上、段々尽御所談被下候段、東武 申
29
市嶋次郎吉
金三百疋
ニ
ニ
ニ
但、当年入用金多 付、操出し方申入候処、不融通之年柄心配之上、追々出金有之用弁 相成候 付、
30
横 井 八 郎 右 衛 門 江此
方 壱ヶ年弐両ツヽ
十ヶ年合力聞済申候、
笠 柳 次 左 衛 門 江弐 両
永八百文ツヽ右同断
○当年中安売米間損金三百七拾八両三分七百八十壱文、
天保九戊戌年
○正月、御役所 為冥加上ヶ米いたし候 ニ付、御褒書頂戴、
越後国蒲原郡下条村
百姓
申渡
但四斗入
市嶋次郎吉
上米三百俵
︵ ウ︶
ニ
江
御大礼被為済候 付、﹂御国恩為冥加上ヶ米願之通申渡、浅草御蔵
右のもの儀、当酉年御代替り
相納候様取計、願之趣奇特之儀 ニ付、誉置候様可被致候、
市嶋次郎吉
下条村
百姓
酉十二月
○正月十一日、御公儀 永々帯刀御免御扶持方三人扶持被下置、其上其身一代郡中取締役被仰
付之、
申渡
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
都而取締方之儀心付候様可致、且為
オ︶
外品々奇特之取計いたし、御益筋をも相弁ひ、取救方行届候趣、相聞候間、以来郡中取締役申付、
︿柱﹀上米三百俵
永々帯刀御免
天
戌
作之処、多分之米金相施、又者無利足 ニ而貸渡、格外之救方いたし、其﹂
︵
江
ニ
ニ
其方儀、年来窮民を労り、及難儀候もの 常々救方之儀実意 世話いたし、殊 去申年之儀者稀成違
31
─ ─
169
30
御褒美永々帯刀
御免、御扶持方永々三人扶持被下之、
江
右者水越前守殿 伺之上申渡候間、得其意可被申渡候、
︵
ウ︶
酉十二月
右之通明楽飛騨守殿被仰渡候間、得其意、尚此上出精可致候、以上、
戌正月﹂
○二月五日、熊倉控左衛門殿娘しう儀、熊太郎嫁 ニ貰受、目出度婚儀相済申候、
、大和、
○当春、熊蔵殿改名安兵衛殿大野出店支配 ニ引越、安兵衛殿屋敷者冨次郎名前 ニ切替申候、
り、會津道中五月十四日帰宅いたし申候、供虎蔵、園太郎、
○ 三 月 二 日 出 立、 熊 太 郎 并 お き そ さ ま 上 京 御 許 有 之 、 路 用 金 百 両 被 下、 北 国 通 四 国
伊勢、東海道江戸
ニ
○三月、西
御丸御炎上 付、御国恩之難有奉存金五百両上金仕度段奉願上候処、
申渡
︵ オ︶
市嶋次郎吉﹂
上ヶ金五百両
︿柱﹀西之御丸炎上冥加五百両
戌閏四月
○ 差 出 し 佅 六 百 俵 五斗入、去酉年之儀、作柄も宜、且村方救方 ニ付、貯佅仕度願上候、年々預り
ニ
右之もの儀、此度西御丸御普請 付願之通上ヶ金申渡、奇特之段可被誉置候、
越前守殿被仰渡候段、奉行衆被仰渡候間、此段申渡候、
右者水
32
─ ─
170
31
方 江佅代金ぬけ置申候、
○十二月中、御役所元〆秋葉篤大夫様
︵
ウ︶
御買上米之御沙汰有之、御買上米壱万俵引受申候、﹂
市嶋次郎吉
銀壱枚、御買上米御用相勤候 ニ付被下置候、
天保十
亥年
○二月 新潟表 江長々御買上米納方 ニ巌君御詰有之申候、
○二月、御代官様
申渡
︵ママ︶
段
御用筋重心得出精致 ニ付、大石数暫時 ニ整有之、常々御国恩を厚奉存候 ニ付、急度之場合差はまりよ
オ︶
─ ─
171
32
ニ
ニ
其方儀、去々戌年十二月中御買上米被仰付候砌、年柄不宜払底、殊 銘々所持米最早売払候後 候処、
︵
く励候故之儀と一段之事候、依之為褒美遣之候、以上、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
下条
○芝田御預役所 福嶋潟兼帯庄屋役被申付、且用便 ニ相成候 ニ付、館入目見被申付候、
市嶋次郎吉
此度福島潟名請新田庄屋
御免被成下度段願出候得
天保十一庚子年
共、新田村々為取締差留、
○市嶋常三郎殿 江金弐百両御合力有之事、
︵山市︶
○四月七日、夜四ツ時直太郎出生、
︿柱﹀囲佅
御買上壱万俵
天
亥
二月﹂
33
市嶋新田外拾ヶ村并地先
新田七ヶ村庄屋兼帯申付
候、是 御預所御用向出
精 筋 有 之 用 便 ニ相 成 候 ニ
付、館入目見被申付、
︵次︶
︵
塚・市 島 勝 之 助 ︶
○おりうさ、市嶋勝之丞殿方 江嫁 ニ遣ス、
ウ︶
市嶋国太郎﹂
︵
○四男国太郎殿、池之端溝口讃岐守様御陣屋 江御代官役被申付、尤此方
付申候、
右之通宛行もの也、
︵ オ︶
子七月﹂
市嶋国太郎
省略申付並之通
借上ヶ
四人扶持
役料
外米八石
右同断
内弐石
高現米拾石
三石
内
普代 抱入給人格池端陣屋代官役申付、別紙之通宛行候、念入可相勤候、
子七月
ニ
33
天
子
市嶋次郎吉方
八百両年賦安利 ニかし
行届兼候筋 ニ付、依之向後勝手向一条者、万端後見同様被相心得申談、厚御世話之程頼入被申候旨、
ニ
此度同氏国太郎代官役被申付候処、未若年之儀故勝手向差支中 而候得共、別而都合方取計、心配
─ ─
172
但、穴沢忠治儀、同様
庄屋兼帯申付候間、御
用方申合可相勤候、
十一月
︿柱﹀池之端始
34
依之、向後弐人扶持被相仕向候、
右之趣可申入旨、今便讃岐守申付越候、
ウ︶
略之、﹂
︵
七月
追々申渡有之市嶋次郎吉儀、給人席之御取扱国太郎上席後見之儀、御頼有之、申渡書も有之候得共、
○九月十一日、恒次郎出生、
ニ
申付越候、
○十月廿五日夜、大東風之処、下条村風呂屋勘右衛門方出火有之、類焼弐百弐拾六家、手当金、
ニ
百拾家
壱家 付銭壱貫文ツヽ
下条村
家数
百拾六家
壱家 付金弐朱ツヽ
山口村
家数
○十二月廿八日、熊太郎福嶋潟兼帯庄屋役、御預役所
下条村
福嶋潟新田庄屋
市嶋次郎吉倅
熊太郎
ニ
親儀、福嶋潟新田用向出精相勤候 付、右新田庄屋父子勤館入目見申付候間、役方入念可相勤候、
︵ オ︶
子十二月﹂
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
天保十二辛丑年
○四月廿三日、御役所 御誉書頂戴、
35
─ ─
173
34
窮相救候段、奇特之儀 ニ付、誉置候、
ニ
下条村
市嶋次郎吉
江
其方儀、去子十月中下条村 致出火、山口村とも及焼失候節、類焼難渋之者共 為手当金銭相施困
平
文次郎
丑閏正月
︵ ウ︶
○冨次郎殿上京之儀、御許有之、路用金三拾壱両﹂
○吉田新田庄屋役之儀者、加茂丸川相勤候処、退役被相願候 ニ付、三男初蔵、吉田新田庄屋役
相願、聞済相成申候、
○九月廿七日、おらく出生、
今般被為仰聞御座候、凶年備貯佅出穀之儀、私儀、当丑年、五斗入佅四百俵囲佅仕度奉願上候、尤四ヶ
翌寅年四月廿二日、御手 ○十月廿九日、囲佅之御沙汰有之、五斗入佅四百俵御詰有之、
代秋山半助様御囲佅御改
有之、御封印紙弐枚有之
乍恐以書附奉申上候
申候、
年前戌年、出穀御聞済 ニ罷成、囲佅仕候六百俵と都合千俵之数仕居、屋内 ニ相備囲方仕度、其余者手
︵
オ︶
挟 ニ付、当時囲方仕兼候儀 ニ御座候、且又御支配所郡中村々凶年等之節救方之儀者当御支配中 ニおゐ
て申出候村方有之候節、手当方之儀者被為﹂
以書付当時出穀囲佅員数奉申上候、以上、
─ ─
174
35
ニ
次 第、 米 金 不限、私身分相応之儀者、救方差出御奉公可仕候、此度御聞済被下置候様仕度、乍恐
天
丑
天保十四卯年七月廿日、 従
御上様奇特之段被思召、
御褒美銀三枚被下置、右
之内弐分百九十三文上納
末 ニ委し
︿柱﹀囲佅
36
水原
︵
ウ︶
下条村
市嶋次郎吉
天保十二丑年十月廿九日
御役所﹂
天保十三壬寅年
○正月中、金弐百両上金相願候 ニ付、三月中相納候様被仰付候 ニ付、
︵
オ︶
渡、難有承知奉畏候、早々上納可仕候、尤先頃申し上候通、為冥加上金仕候儀 ニ付、身分等之儀御
加被下置候共、両様之内、私儀為冥加上金奉願上候処、今般御聞済 ニ相成候 ニ付、上納可仕旨被
仰
道御切開、御入用金之方 江御差向被下置候共、奥州南山郡中荒地起返り御手当御救筋金之内、御差
私儀当正月中、金弐百両奉上納、奥越之境界字八拾里越と申唱候嶮岨之高山、牛馬通路相成候様新
乍恐以書附奉申上候
卯八月八日、平岡文次郎
様 御 引 渡 ニ相 成 候 旨 と
申候、小笠原信助様、水
原 御 役 所 奇 特 之 儀 ニ付、
銀三枚被下置、右申渡書
︵顚︶
天末有之候間、略之、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
水原
御役所
ニ
前書之通奉申上候 付、奥印仕奉差上候、以上、
下条村
天保十三寅年二月
市嶋次郎吉
︿柱﹀南山御救金弐百両
天
寅
御支配所
郡中取締役
願筋無御座候、此段奉申上候、以上、﹂
37
─ ─
175
36
下条村庄屋
喜四郎
覚
︵
ウ︶
一、金弐百両也、
江
右者奥州南山八拾里越切開御入用、并同州村々御救助金之内 冥加差出金、書面之通上納請取申候、
以上、
可申達之旨、重役共申付候、委細者山科喜兵衛 江申含遣候条、宜預御聞取度候、
毎度御厚意 ニ預御取扱候 ニ付、今度永用向御頼被申度、依之乍聊十人扶持方被相贈之候、此段先以拙
者共
─ ─
176
橋本善三﹂
天保十三寅年三月五日
去暮水原御役所 江御懸合有之扶持方相贈度候処、
御使山科喜代蔵罷越、拾人御
ニ相成候 ニ付、此度為
市嶋次郎吉殿
〇正月廿七日、羽州鶴ヶ岡酒井左衛門様御役場
差支有之哉之趣御聞合有之、無差支御返
扶持被下用達方御頼入有之、
市嶋次郎吉
ニ
右者是 追々用向頼入候処、厚意之儀 付、今般拾人扶持方被相贈候、
寅四月
書状
︵ オ︶
未得御意候得共、一筆致啓上候、春寒之節、弥御清栄﹂珍重存候、然者是 主人方用向御頼之所、
38
寅御扶持四拾俵、
此分虎蔵引込申候、
卯御扶持四拾俵、
37
右可申入如是御座候、恐惶謹言、
酒井左衛門尉内
成瀬末吉
正月廿日
安
石井助三郎
貞
花押
─ ─
177
佐藤喜右衛門
倫
長助
林
苞
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
四月十六日、御料理被下、
御 両 親 様 共 羽 州 庄 内 江御 下 向 有 之、 庄 内 御 領 分 者 御 触 達 合 ニ其 外 共 無 賃 銭 ニ継 立、 御 丁 寧 之 御 取 扱、
市嶋次郎吉様
人々御中
︵速︶
ニ
右之通申越難有御請之趣御返 いたし、早束御礼 御下向有之候積之処、彼是延引、四月六日御出立、
高橋勘助
重
高山久右衛門
義
門
相田儀︵右衛
ウ︶
良﹂
38
殿様
︵ オ︶
付 一具、紋絹 三反﹂
御紋 麻上下
当寅年御扶持米御渡有之、
ニ
本間正七郎殿 御使有之、御両君共御出 て御馳走有之、
〇初蔵殿上京之儀御許有之、路用弐拾五両、供多助、
ウ︶
扇子壱振頂戴、﹂
︵
熊太郎倅直太郎始、恒次郎、おらく三人疱疾、何れも軽く平
いたし、相悦申候、
︵癒︶
〇二月廿日、冨次郎殿婚礼相済、中村久右衛門殿娘おきくさ取迎、目出度婚儀相整申候、
〇二月十八日
〇四月、貯佅いたし候 ニ付、御代官平岡文次郎様
︵
オ︶
特 ニ而、国之元を堅養自然御趣意 ニ叶候段者格別之次第一段之儀 ニ付、厚誉置候、
たし、非常之備 ニいたし度趣申立、都合弐千六百六拾石差出、右者貧民を憐ミ救助之深志適之、奇
人命可助様無之、此儀甚心痛いたし候処、穴沢忠治始六拾弐人之もの共、銘々分限 ニ応し差出佅い
語村々 江臨時囲穀申渡候処、飢饉之後いまた古覆不致村方多く、少石数故、有来候分かへ候迚も中々
︵悟︶
申渡
ニ
其 村 々 貯 穀 之 儀、 人 別 競候て者無效、此後万一凶年来候節差支、餓人等も出来可申哉、兼而為覚
39
之儀被仰付、十ヶ年前高下無之分者壱割下ヶ、其後普請等差加宿ちんまし候分者壱割五分安、
同月廿八日早束当方長屋之もの共呼立、右之段被仰付候 ニ付、直下ヶいたし遣ス、尤御趣意之趣、
─ ─
178
39
寅四月﹂
○六月廿五日、水原、下条、中島、山口四ヶ村地主不残御役所 江御呼出し之上、地代宿賃下ヶ
当正月中 御撿約之御趣
意、厚被仰付、寛政之御
趣意ニ立帰候様ニと追々
御取締当年 諸事撿約相
聞申候、
40
ニ
被 仰 渡 書、 御 用 留 相
記し申候、
八月廿八日、御代官御替
当御代官
小笠原信助様
御元〆
坂従志賀助様
服部恵八郎様
奥野藤次郎様
公事支配
園部団次郎様
長沢辰三郎様
中村晋平様
卯四月
公事方
厚相心得候様申渡ス、
御 米 千 両 分 買 置 候 処、 右 売 払 方 と
○七月二日、御役所 江御呼立、衣服等之儀、家内之もの共心付候様申渡有之、
○八月二日出立、熊太郎庄内鶴ヶ岡 江罷下り訳者、当夏中
ウ︶
ニ帰国いたし申候、其後﹂次郎兵衛儀差越、山科喜兵衛 江引会
︵
して、虎蔵差越し置候処、内分商内いたし候 ニ付、右取締之為 ニ罷越候得共、最早多分之損分相
立 欠 落 い た し、 不 伝 い た し、 無
状差越し置申候、
△印
○ 九 月 十 日、 水 原 信 濃 助 三 郎 方 江田中八十次郎様御止宿有之、今度五街道宿々并助郷村々御救
方御取調 ニ相成候 ニ付、右御用途金 江冥加之為上金いたし候様、厚御申諭有之、左之通御請いた
し申候、
本文
上金奉願候書附
△印
天保十五辰年正月廿九日 、 小笠原信助御代官所
水原御役所 被仰聞候者、
越後国蒲原郡下条村
上金願不被及御沙汰、願
上金願
一、金弐百両
︵ オ︶
仰付候節 五ヶ年割上納、一ヶ年金四拾両宛、﹂
但上納被
書御写相成申候、願書受
百姓
取書、連印ニて差上置、
市嶋次郎吉
当寅五十二才
︿柱﹀五街道御救加金
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
41
─ ─
179
40
九月、銀壱朱判不残
停止被仰出、尤引替
座不仰付、持高支配
江
申立候様被仰付、
悉諸方差支申候、
︿柱﹀日光御参詣上金
之通上金心願御座候得共、実以少分之儀 ニ付、上金等と申唱も恐入、然共存込候儀、其侭 ニも難点止、
、 御国恩余計先祖之余沢を以可成 ニ今日を相営、難有仕合 ニ奉存、其冥加相弁、乍聊書面
右者私儀 勘 弁 申 候 処、 此 度 五 街 道 宿 々 并 助 郷 村 々 御 救 方 御 取 調 相 成 候 趣、 粗 承 及、 難 有 仕 合 ニ奉 存、 依 之、
相立、先祖 江之孝道と奉存候間、御賞誉等之儀、毛頭願筋無御座、偏 ニ上金御許容被成
年来心願之上金、御許容被成下、右御救方御用途 江御差加 ニも相成候ハヽ、先祖之申伝を守、質素之
暮方仕候、
下候様仕度、此段奉内願候、以上、
︵ ウ︶
右
市嶋次郎吉﹂
天保十三寅年九月
九月朔日、妙良君十三回法事相勤、
之ヲやつし申候、
田中八十次郎様
ニ
右 之 外、 御 尋 付、所持高家内人数奇特筋等之儀、書面申上之候得共、右者別紙写し有之間、
○八月廿九日夕
○九月八日出立、冨次郎殿出府、銀壱朱判弐百両程持参、江戸表引替座 ニて引替いたし、同月
廿五日帰宅、
○十一月、御役所 ニおゐて被仰渡、去文政八酉年中、日光山御宮御参詣被為在候 ニ付、幸手宿御
︵
オ︶
─ ─
180
41
賄料金之内 江為冥加上金有之候処、其砌者御延引 ニ相成、御下ヶ金 ニ相成居、右者明卯年日光山
御参詣被為在候 ニ付、猶上納いたし候様、被仰聞、﹂
42
︿柱﹀御
船差配方
一同御請いたし、願書差上申候、
上納
此方分金四拾五両永八百三拾三文三分
○十一月十九日七ツ半時、舅熊倉兵次殿御死去有之、
︵ママ︶
十月六日、四男秀三郎出生、
︵丸市︶
○当秋中 御 船差配之儀、豊作代人 ニいたし、江戸表差出し置、其節冨次郎并新発田市島九々
船差配方被申付、尤卯年
酉年
︵
ウ︶
吉 殿 同 道 出 府 候 い た し 候 処、 十 二 月 廿 七 日 於
井上備前守様御宅、願之通越後国御年貢江戸大
七ヶ年拝借金壱万八千両御下ヶ ニ相成、尤右返納仕候
坂御
仕法、拝借金船持共 江かし付、運賃金ヲ以テ七ケ年中皆上納之事、﹂
天保十四癸卯年
〇正月十三日、御役所
右、 船方御用御下向之
御役人者、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
先触御渡、上越後糸魚川表巌君御
船御用として御出張、尤江戸表御
─ ─
181
右御 船差配 ニ付、
取扱方水原御代官
小笠原信助様、
拝借金御請取候節、
質地証文、
御奉行所差上候節
村々者、
水原西組
簱屋村
吉田新田
42
此処 ニて囲佅都合
○十二月、水原御役所 被仰付候者、此度御公儀様 佅壱万俵越後国 江御下ヶ石 ニ相成候付、支
五斗入佅千四百俵
三度 ニ而如斯
配下身元之もの共 江差出し佅為致候様、水野越前守様御差図之趣御申諭有之、
五十公野同姓六之丞 江
︵ オ︶
十ヶ年 ニて百両合力
持蔵囲之儀御請いたし申候、﹂
一、五斗入佅四百俵
之儀、承知いたし遣ス、
43
御勘定
高橋平作様
御普請役
近藤鉄平様
有坂理十郎様
是処 ニて先々四口
囲佅惣高
五斗入三千弐百俵、
役人御下向右御請方浜々対談之上、二月十八日御立帰り相成申候、
〇冨次郎殿儀、二月三日御下ヶ金壱万五千両持参帰宅、皆弐朱金 ニ而軽尻馬三疋御役所
︵
ウ︶
者御
被仰聞有之候 ニ付、囲佅去暮御請いたし候外、千八百俵御請いた
用金絵符御先触 ニ而当着いたし申候、
〇二月廿日、御手厚御支配
し申候、
囲佅御請書之事
在候段、被為仰渡、私儀者、五斗入佅八百俵囲方御割賦被仰付、然ル処、去々丑年 ニも凶年之備四
但五斗入﹂
一、囲佅弐千弐百俵也、
御公儀も御差加御囲被為
右者去寅年之儀、越後国豊作之趣御聞被為及、奇特もの共囲佅可致、従
之残石 ニ罷成候分丈ヶ者、
百俵被仰付、囲佅御請申上候付、去冬中者四百俵囲方御請申上候処、此節猶又増囲方御手厚被仰付、
誠 ニ御支配所凡御見積御割賦御員数も被為在候処、思召 ニ不応、全御見積
格別囲方御請申上候様、御手厚被為仰聞御座候 ニ付、書面之通御請申上候所、相違無御座候、尤今
︵
オ︶
般囲佅者、御備 ニも御座候趣、右 ニ付而者見合 ニも不抱出精御請申上候様、格別之御利解奉承服御請
米佅共心配無御座候 ニ付、相備候四百俵引之残千八百俵之分者、当卯年冬
巳年冬
三ヶ年 ニ相備候
様仕度、何卒此段御聞済被成下置候様、奉願上候、且又別事と申上候段、奉恐入候得共、御城米
村仕候処、存外手張候儀 ニ而、乍去一旦奉願御
永続為致度御座候処、追々御支配様御手数 ニも可被為在候御儀 ニ奉存候、
船差配被仰付、乍恐御奉公 ニも御願申上候而、此節
下知済 ニ被成候儀 ニ付、飽
─ ─
182
43
申上、尤書面請高弐千﹂弐百俵之内去冬四百俵御請高者、兼而備 ニ仕候得共、当時御請申上候分者、
44
︵朱書︶
旁御備 ニも可相成、囲佅之儀 ニ付、奉承服御請書差上申所如件、
水原
︵ ウ︶
下条村
市嶋次郎吉﹂
天保十四卯年二月廿日
御役所
郡中取締役
﹁卯七月、被下候節銀三 〇 七 月 廿 一 日、 御 役 所 江御呼出候付罷出候処、去丑年、平岡文次郎様御支配所中囲佅四百俵い
枚受取、其内弐分百九十
三文返納いたし、其節者 たし候 ニ付、右者奇特之儀思召被為上、左之通御褒美銀被下置候段、坂従志賀助殿被申渡、
御書附御渡無之候得共、
翌辰年八月相願候処、羽
郡中惣高四千四百廿俵、
ニ
ニ
銀者差於キ
但銀壱枚 付四拾三匁、佅拾俵 付銀弐匁
此御褒美銀弐十五枚
銀 弐 枚 ニし て 御 書 附 御 渡
四分三厘二毛余、
代銀一貫七十五匁
有之申候、﹂
仕候、依之御請印形奉差上候、以上、
申渡
市嶋次郎吉
一、佅四百俵
一、銀弐枚
市嶋次郎吉
右者凶作手当為備、去々丑年
此御褒美銀九拾七匁二分八厘
囲佅いたし候段奇特 ニ付、水越前
右者平岡文次郎様御支配中、去々丑年私共凶作手当為備囲佅いたし候段、奇特 ニ被為思召、為御褒
守殿依御差図
為御褒美被下之、
︵ オ︶
美今般銀弐拾五枚被下置候段、被仰渡、書面﹂之通御割渡有之、村役人共差添罷出、銘々難有頂戴
卯七月
小信助﹂
納いたし置候処、右者奇特之儀被思召、銀三枚被下置候、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
183
44
水原
御役所
〇八月八日、御役所 江御呼出し ニ付罷出候処、去寅年中、先御支配之砌、奥州南山救金弐百両上
連印
天保十四卯年七月
45
申渡
︵ ウ︶
覚﹂
越前守殿依差図申渡、
市嶋次郎吉
銀三枚
ニ
右者、其方儀、奥州南山村々為救方金弐百両差出段、奇特 付、為御褒美書面之通被下置候段、水
御呼出し ニ付、
︵
オ︶
君 御 出 張 一 応 懸 り 合 御 調 有 之 候 得 共 、 何 も 無 差 支、
御懸合中之趣ヲ以御帰宅相成兼、十二月廿八日年帰村 ニ相成、猶又辰正月十八日出張、﹂
〇十一月、新潟御奉行所
卯八月
〇十一月、長岡領槇尾村中野祐七方 江娘かね嫁差遣し、婚儀相済申候、
但、竹川英橘と申者御調
有之処、水野越前守殿
金子御頼口入いたし候手
筈 ニ付、 拙 者 方 江合 力 願
致 候 趣 申 立、 右 者 虚 言 ニ
有之右之懸り合、書附ヲ
以始末申開、
去卯春、日光御社参御入用金之内 江上金いたし候段、奇特 ニ付、銀壱枚
被下之候、 此の仰渡書四月中相願頂戴いたし、末へ出し置
天保十五甲辰年
〇 正 月 廿 九 日、 御 役 所
46
江
江
ニ
ニ
三 月 新 潟 古 金 屋 差遣し置候きう儀、古金屋三左衛門方 養子 差遣し候 付、血縁切候積念
書取、きう廿才 ニ相成候ハヽ百両くれ候事 ニ申渡ス、
江
三月十五日、姉おきよさま加茂松之丞殿 再縁遣、
︵ ウ︶
同月十五日、槇尾中条祐七殿倅貞蔵祝言被参候、﹂
46
─ ─
184
45
此方之外連名
金五百両
市嶋徳次郎
弐百両
細山清七
弐百両
佐藤友右衛門
弐百両
近藤勘助
弐百両
真嶋権三坊
弐百両
芋川徳太郎
百両
穴沢忠次
〆
申渡
市嶋次郎吉
一、銀壱枚
右者日光
ニ
江
ニ
御参詣 付御用途之内 上ケ金いたし候為御褒美被下候段、奉行衆被仰渡候 付、可得其意候、以上、
小笠原信助
辰正月
御印
役所
─ ─
185
六月十日、御本丸御炎上之由承り及、上金相願、
乍恐以書附奉願上候
下条村
一、金三百両
市島次郎吉
︵ オ︶
右之外町方もの七人連名﹂
度、此段奉願上候、以上、
市島次郎吉
代倅熊太郎代印
之懸り合、英橘申口一件 ニ付、新潟
右
天保十五辰年七月四日
水原
御役所
九月廿二日出立、去年中
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
江戸町奉行所鳥居甲斐守様
右者此度
ニ
江
御本丸御炎上 付、御普請御用途之内 御差加相成候様仕度、尤当辰 申 五ヶ年上納被仰付候様仕
47
︵
ウ︶
御 差 出 し ニ相 成、 懸 り 合 之 儀 無 拠 出 府 尊 君 被 遊 候、 供 者 冨 次 郎、 寅 五 郎、 又 次 郎、 九 月 三 日
寛政以来奇特筋 ニ付、御褒美銀并苗字帯刀御免 ニ相成候書附写差出候様被申付、
江戸﹂着 ニ相成申候、
八 月、 御 役 所
︵ オ︶
差上申候、﹂
家兄熊太郎正俊卒去、而後記是冊者無之、五男国太郎正路次而執筆、
〇十二月、年号改元、弘化、
〇十二月廿九日夜、居村始村続五ヶ村極貧之者 江一軒 ニ付弐朱宛、金五両手当致候、
︵
ウ︶
弘化二乙巳年
〇尊君御出府、英橘一軒掛合無別条相済、二月七日御帰館被遊候、
〇六月五日、勇五郎出生、
〇姉阿周、産後難症 ニ而六月八日未中刻卒去、﹂
〇 嗣 君 熊 太 郎 正 俊、 二 月 十 日
面疔之症追々差重、七月二日辰下刻卒去、同五日、五十公野山
了 歓 君、 未 譲 家 名 十 年 余 勒 家 事
家厳許四代之主
家厳再勒家事
ニ新 ニ設墓所以儒礼葬之、諡
廿九日 、 了然君三十三回法事相勤 、 但四月可相勤処、家兄病床 ニ付延之、
三代五代之主之意也、
〇八月廿八日
48
─ ─
186
48
47
︵
オ︶
〇秀三郎、疱瘡重、十月八日死去、
二日
庄屋穴沢忠治退役致隠居、田家
江
不当申居候 ニ付、右十九人兵左衛門共相手取、江戸
御奉行所 願上、代長
法事相勤、左之通、
ウ︶
村庄屋太次兵衛、上関村庄屋寅吉両人者不束之﹂始末 ニ付、郡中向へ抱候儀御差留 ニ相成、右 ニ付、
︵
歓導君
五十回
妙輪君
廿三回
〇十月、支配御陣屋附郡中惑乱之儀在之 ニ付、郡中代水原東
妙良君
十七回
了歓君
妙歓君
一周忌
〇七月朔日
兵衛為差登候、
合地所受戻候心得
弘化三丙午年﹂
〇六月、升岡新田小作人丹蔵外十八人、去辰巳作徳米不相済、同村兼帯田嶋村庄屋兵左衛門馴
一件御調之上、相手方作
徳滞者済方取極、地所受
戻等申立候者不筋之訳熟
談済口差上、兵左衛門者
不 埒 之 廉 ニ而 庄 屋 役 御 取
放之上落着、嘉永元申年
五月帰村ス、
御代官小笠原信助様
御元〆高尾駿介様
︿柱﹀郡中立会
勤、諸入用失費者省略取締、同年割高前例
︵
オ︶
翌未年
当家年番 ニ而相
相減し、割返等も在之、郡中 ニも相悦候趣 ニ而、以
事於会所七人立会及談判、郡中入用者年番 ニ而元方いたし候積、其年
郡中取締筋猶被
仰付、当家始市嶋徳次郎殿、佐藤伊左衛門、細山清七、芋川徳太郎、佐藤友
右衛門、和泉屋忠蔵、七人都而郡中諸割物、重立候事者、立会談合取締候様被仰付候、依之諸
49
船差配向仕法替之上差配二ヶ年延、﹂
前惑乱之仕癖改正相立申候、
〇十一月、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
50
─ ─
187
49
︿柱﹀川浦地震救
来子年
年期差配 ニ相成候、相役島屋次郎八者身上向不如意、差配御免願致ス、
弘化四丁未年
〇三月廿四日夜、地震、信州善光寺辺、前代未聞之震動、同国過半山川抜崩、人馬死亡夥、
ウ︶
〇 右 地 震 ニ付、町方七人申合之上、支配御代官小笠原信助様川浦枝陣屋附災変之村々為救、金
五拾五両手当いたし、左之通御役所 江申立候、
︵
外六人連印
水原
御役所
︵ オ︶
右差上候所、川浦表 ニ而御請取御書付御渡在之、左之通﹂
下条村
市嶋次郎吉
51
─ ─
188
乍恐以書附奉願上候
金六拾両
市嶋徳次郎 一、金五拾五両
市嶋次郎吉﹂
金五拾八両
佐藤伊左衛門
ニ
ニ
金三拾七両
細山清七 右者去廿四日夜之大地震 而川浦御陣屋附村々震潰家多分有之候趣及承、右者危急之災難 而難渋之
金三拾七両
佐藤友右衛門
趣御座候 ニ付、書面之通手当仕度、尤今般 御元〆様御同所 江御出役被遊候間、佐藤友右衛門、和泉
金拾六両 和泉屋忠蔵
金三拾七両
芋川徳太郎
屋忠蔵、両人御附添、右金持参仕候様仕度奉存候、此段御聞済被下置候ハヽ難有仕合 ニ奉存候、以上、
高尾駿介様、川浦御出張、
友右衛門、忠蔵、金子持
市嶋次郎吉
弘化四未年三月廿九日
参立越、
50
速 ニ差出、其上同意之者申合、惣代両人場所 江罷越、時宜 ニ寄手当方可行届候程、猶出金可致と之志
其方儀、此度自分支配所越後国川浦陣屋附頸城郡村々地震災変之始末及承、急難為手当金五拾五両
奇特之事 ニ候、夫々渡方取計、追而其筋江可申立候、
小信助
御印
未五月
︵ ウ︶
〇七月廿四日、御役所 江御呼出、戌年西御丸御炎上﹂ ニ付、五百両上金之為御褒美、銀七枚頂戴、
御書付左之通、
申渡
市嶋次郎吉
ニ
其方儀、西丸御普請 付上納金いたし、為御褒美銀七枚被下候、
︵部脱︶
右者阿伊勢守殿御差図之趣、石河土佐守殿被仰渡者也、
小信助御印
未七月
︵ オ︶
〇七月二日、了歓君妙歓君三回忌、於菩提寺法事﹂相勤、
見被差免、是
相送候弐人扶持断り申越候、
弘化五戊申年
〇正月十三日、御役所 江御呼出、御本丸御炎上 ニ付、三百両上金之御褒美とし而銀五枚頂戴、請
書差上候、
市島春城の生家、角市市島家の歴史について
─ ─
189
51
〇十二月、溝口讃岐守様池端陣屋代官国太郎相勤候 ニ付、後見 ニ相成居候所、無差支趣 ニ而、後
52
︵
ウ︶
〇右於御席、川浦御陣屋附地震村々 江手当金差出候御褒美とし而銀三枚頂戴、請書指上候、
〇三月、長岡牧野備前守様御勝手 江、近頃及御用﹂達金候 ニ付、前 ニ被送候弐人扶持之外五人扶
持増被下、書付左之通、
水原町
市嶋次郎吉
五人扶持
ニ
右者去未年差掛才覚金御頼申候処、早速御調達格別繰合相成候 付、被相贈之候、
︵
オ︶
三月
右之段、勘定方元〆若林治部太夫殿当地 江立越被相達候、 但御勝手省略中 ニ付、五ヶ年中者半高借上
半高被送候旨申聞候、
前 々 被 送 候 拾 人 扶 持 之 外 五 人 扶 持 増 并 白 銀 五 枚 添 被 送 越 候、 右 者
同所勝手定金主之儀、近頃此方 江者断候得共、其後も金子用達候挨拶、旦勝手及改革候 ニ付、以
〇六月、三根山牧野兵庫様
〇三月廿八日、年号改元嘉永、
〇三月、国太郎儀病身之訳 ニ而、池端陣屋代官退役暇之儀相願、願之通被申付、引退申候、
右 ニ付、尊君五月十六日長岡表 江御出張、役人中 江御挨拶有之候、﹂
53
前貸金之分年延利下等相頼度、此後元形金主相頼度趣意 ニ而被送候書付左之通、
覚
加扶持
一、五人扶持
─ ─
190
52
︵
ウ︶
趣ヲ以、暮方改革滅方不取計候而者、仕送致兼候由 ニ而、規定之地盤入用金
も 繰 出 不 申、 何 分 差
白銀五枚﹂
ニ
右者当時新発田住白瀬太郎兵衛事旦那勝手向仕送致候処、追々臨時入加多 而仕送永続見居も無之
無滞地盤之入
閊当惑之至 ニ付、貴殿事者御仕送之儀及御断候節、段々御深切 ニ被仰聞候枢機も有之候事故、右改革
︵逐︶
之 所 、 月 並 入 用 金 御 調 達 被 下 度 之 旨 、 去 未 九 月 御 頼 申 入 候 所 、 宜 御 承 知 之 上、 是
︵
オ︶
用金御繰出被下、御蔭ヲ以用弁いたし候、此度拙者出府中、遂一申達候処、格別之御慈情御深志之段、
連年取続吉凶之臨時入用筋、且不作等 ニ而、領内手宛夫
貸等
三ヶ年中、旦那手元初暮方取締者勿論、元来小館之家来共給扶之内も借増等被申付、
︵
ウ︶
右取締三ヶ年中元金都而借居利米之処も、拾八俵利位 ニ歩下ヶ預御勘弁度候、右之趣、旦那初同役
共一同心痛当惑之至候、依之不本意至極 ニ者候得共、旦那勝手 江地下請 ニ而借入候金子返済、残之分
打重、弥増之大借と相成、諸金主先々 江元利夫々道附、返済方可取扱手段も無之、旦那初両表役人
厳 重 改 革 滅 方 取 扱 候 得 共、 何 分 是
来亥六月
悉被致満足、随而同役共并両表役人共 ニおゐても厚忝存候、扨勝手向之儀、両﹂及評議、当申七月
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市島春城の生家、角市市島家の歴史について
嘉永二酉年
神戸四郎左衛門
申六月
右之段、家老神戸四郎左衛門殿代官松原忠右衛門殿、当地 江立越被相達候、
口上ヲ以頼可申述候、
共并勝手方役人共﹂一同、厚御頼申入候、右旁ヲ以御会釈之給返書面之通被相送候、猶巨細之儀者
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〇九月、新発田御預御役所
︵
オ︶
代人呼立 ニ而、福嶋潟名請新田拾三ヶ村并地先新田七ヶ村兼帯庄
屋役、首尾好被差免候旨被申渡、右 ニ付、銀弐枚被下、左之通、﹂
取締万事行届出精相勤、其上新開向品々用便相成候 ニ付、銀弐枚被相贈、
下条村
市嶋次郎吉
、 年 来 御 年 貢 并 諸 上 納 物 を 始、 村 々
其方儀、御預所福嶋潟新田庄屋役之儀、此度首尾好差免候処 ︵
オ︶
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ウ︶
御頼 ニ付、右返証文致返上候 ニ付而、庄屋役﹂被申付候処、右約定
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酉九月
右福嶋潟庄屋役被差免候処、先年庄屋役 ニ被仰付候義者、福嶋潟譲渡候得共、拾ヶ年限返証文
請取置候処、新発田御役場
ニ
振れ候次第 ニ付、右御役場 江其段及申立候事、︵以下、余白︶﹂
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