立ち会い 出産

最優秀賞
立ち会い出産
八年前のある日のことを私は今でも鮮明に覚え
ている。忘れられない理由がある。
姉と、私は一才違いの年子。けれども学年は二つ
違いになる。物心ついた時にはどちらが母のそばで
寝るかでケンカ。食べものを取り合ってケンカ。い
つも些細なことでケンカをしていた。そんな私達に、
母はよくお揃いの服を着せてくれたり、手作りの洋
服を着せてくれたりしたことを、覚えている。
私が八才のとき、家族が増えることになり、母の
お腹は、どんどん大きくなっていった。それでも母
は「働かんと、元気な赤ちゃんが生まれんきねぇ。」
と、看護師の仕事を続けていた。時々、私たちの手
をお腹に当ててくれて、赤ちゃんが蹴ったり、動い
たりするのを触らせてくれた。そして、折に触れて、
姉や私が生まれた時の話をしてくれたのを覚えて
いる。「母親ってね、お腹の中に赤ちゃんがいると
きは、逢うのが待ち遠しくてね。出産はものすごい
大変なことだけど、赤ちゃんが無事に生まれて来て、
元気に泣いて、お乳を吸ってくれた瞬間、その痛み
なんて忘れて、また生んでもいいなぁって思うもの
よ。」「生まれてきてくれる。それだけで子どもは
愛しいものよ。それだけで母親は幸せになれるもの
よ。」
と、よく話してくれた。
最近、テレビや新聞では虐待のニュースが絶えな
い。子どもが泣きやまないから布団を被せた。面倒
だから食事を与えない。言う事を聞かないから熱湯
をかけた。しつけだと言ってタバコの火を押しつけ
る。そんなニュースを耳にする度に「ポットのお湯
が一滴飛んで来ても熱いのに…。大人の勝手な行動
で、なんて事。」「子どもにとっては泣くことが大
事な仕事なのに…。」「自分のお腹を痛めて産んだ
子なのに、大人がくるっている。私にお金が沢山あ
って、力があったらそんな子どもたちの側に居た
い。」と、母は決まって泣きながら言うのだ。
また、私達は幼いころ、祖母が入院している先へ
よく通った。ベット上で生活の世話をしている母の
姿。爪を切ったり、目やにを抜いたり、口のまわり
の汚れをそっとふき取ったり。「どんなになっても
家族やきね。親や子どもの為にやりすぎることはな
いねぇ。」と、つぶやく。たった数分の為に通って
お世話をする。お正月や夏休みには車椅子に乗せて
連れて帰り、お風呂に入れたり、一緒に食事をした
りしていた。今考えると、嫁ぎ先へ連れて来て、私
たちと共に触れさせてくれていたのだ。父は「力が
いる時はオレがする。」と静かに話していた。私に
とっては、あたり前にある時間だった。
そんなあたり前の幸せにあふれている中で、家族
高知県 山田高等学校二年 小 松 さ 佑 み
が増えることに対し、「生まれる時は、私も一緒に
立ち合う。」と、私は母に言い続けていた。最初は
母も、私がきまぐれに言っているのだろうと大して
気に留めていないようで、「学校の時間じゃなかっ
たらねぇ。」と、あっさりしたものだった。けれど
も姉も私も気持ちは一緒で、しつこく言い続けてい
たので、そうしようということになった。陣痛が長
く、結局学校を休んだ。私たち二人は、あっさり生
まれたと聞かされていたので、痛みと格闘している
母の姿には正直驚いたし、心配もした。苦しそうだ
ったけれどもじっと我慢していた。家族みんなで分
娩室に入り、命が生まれる瞬間をともにした。
赤ちゃんが、がんばる。母も頑張る。当たり前の
ことだが、生まれたての赤ん坊は服なんか着ていな
い。血と体脂にまみれていた。元気いっぱいでうぶ
声を上げた。男の子だ。命が生まれた瞬間だった。
母は大粒の涙で「ありがとう」
「やっと会えたね」
と言った。言葉では表現できない瞬間だった。
あれから八年、弟は今、あの時の私と同じ年にな
った。弟が生まれた日、あの日のことがよみがえっ
てくる。
誕生日とは、本当は両親に感謝する日なのだ。八
年前から私はそう思う。三年前には祖母は別の世界
へ逝ってしまった。その時も母は、「ありがとう」
と言って送った。祖母はとても幸せだったと思う。
この先、いつか私も母になる日が来るだろう。
「命」
という輝く言葉を、家族が教えてくれた。
それは、いろんな形で私のまわりにあふれている。
人は、悲しくても、苦しくても、淋しくても、楽し
くても、うれしくても、愛おしくても、涙は出る。
その涙の分、幸せはやってくる。生と死、私はそれ
を大切にしたい。