2年ぶりのインターンシップ 気仙沼向洋高校 「厳重注意」を受けるべきは

2012 年7月9日 民主教育をすすめる宮城の会
2年ぶりのインターンシップ
気仙沼向洋高校
07 月 09 日 19 時 00 分 NHK仙台
震災の影響で去年、中止となった気仙沼市の県立高校のインターンシップが2年ぶりに再開され、9日から生徒たちが地元の
企業で職業体験を行っています。
県立気仙沼向洋高校は、生徒に卒業後の進路として地元の水産業や関連企業などを選んでもらおうと、職業体験、いわゆる
インターンシップを毎年行っていましたが、去年は震災の影響で、中止になりました。
このインターンシップが2年ぶりに再開されることになり、生徒のうちおよそ100人が9日から5日間から8日間にわたり、水産加
工業や建設業などおよそ30の企業で職業体験を行っています。
このうち、津波で工場が流され、高台で事業を再開した、船のエンジンの修理などを手がける企業には、機械技術科の2年生
の生徒8人が訪れました。
生徒たちは、まず担当者から業務内容や震災による被災状況などについて説明を受けたあと、工場を見学したり、船の部品を
洗浄する作業を行ったりしていました。
参加した男子生徒は、「震災で被災したあと、ここまで再建しているのはすごいと思った。学校で習うのより難しいですが先輩の
姿を見て頑張りたい」と話していました。
受け入れた企業の大谷寿一常務取締役は、「インターンシップを通して若い人材が地元に残って復興を支えることの大切さを
伝えたい」と話していました。
「厳重注意」を受けるべきは誰か
~NHK「ETV特集」スタッフへの「注意処分」を考える~
2012年7月号より 戸崎 賢二(放送を語る会会員)
大震災後のテレビ報道の中で、NHK「ETV特集」の「ネットワークでつくる放射能汚染地図」シリーズは、原発事故による放射
能汚染の実態と、被害を受けた人びとの悲劇を、地を這うような調査取材で伝え続け、わが国原発事故報道の高い峰を形成し
てきた。シリーズ第一回にあたる昨年5月 15 日の番組は、文化庁芸術祭大賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞してい
る。
ところが、今年4月、NHKで、この優れた番組群を主導したETV特集班のプロデューサーとディレクターが、口頭での「厳重
注意」、もう1人のディレクターが「注意」を受けていたことが明らかになった。
問題とされたのは、取材班が番組の制作記録として刊行した単行本「ホットスポット」(講談社)の内容である。
この「厳重注意」については、NHKの公式サイトで見当たらず、当事者も沈黙しているので、詳細はよくわからない。局内で伝
えられているところを総合すると、「厳重注意」の理由は、前記の書籍の中で、執筆者が、NHKが禁じていた 30 キロ圏内の取材
を行った事実を公表したこと、原発報道についてNHKの他部局を批判したこと、などだったとされる。
書籍「ホットスポット」によれば、震災4日後の 3 月 15 日、取材班は放射線衛生学の研究者である木村真三博士とともに福島へ
向かい、翌 16 日から、原発から 30 キロ圏内で、移動しながら放射線量を測定した。各地でチェルノブイリに匹敵する高い線量を
記録する中で、研究者のネットワークで、原発事故による汚染地図をつくるドキュメンタリーの企画の着想が生まれた。
この企画は、ETV特集新年度第1回の4月3日の放送分として提案されたが、ネットワークに参加する研究者に反原発の立場
の研究者がいることなどを理由に、制作局幹部によって却下される。
このころすでに、政府の屋内退避区域の設定を理由に、NHKは 30 キロ圏内の取材を禁じていた。3 月下旬、再度現地に入
ったクルーが、幹部からの命令で現地から撤退する直前、浪江町赤宇木(あこうぎ)で、高線量を知らず取り残されている住民を
発見した。住民はのちに取材クルーと木村博士の説得でこの地域を脱出することになる。
「注意処分」の理由とされたのは、このように 30 キロ圏内で取材した事実を書籍で公表したことだった。しかし、その記述がある
ことによって、当時の原発事故報道の問題点が鮮明に浮かび上がることとなった。
赤宇木のある地域の放射線量の高さは、文科省は把握していたが、地名を公表しなかった。枝野官房長官はこの報告を受け
た後の記者会見で、「直ちに人体に影響を与えるような数値ではない」と説明し、テレビ報道はこの会見を垂れ流した。
取材班は「ホットスポット」の中で、「当時の報道は大本営発表に終始し、取材によって得られた「事実」がなかった」と指摘、30
キロ圏内の取材規制も、「納得できるものではない、そこにはまだ人間が暮らしているのだ」と書いている。ジャーナリストとしてま
っとうな感覚である。
赤宇木の状況は 4 月 3 日のETV特集で紹介され大きな反響を呼んだが、3 月に測定した汚染の広がりの公表は、5月 15 日
の「汚染地図」第1回の放送まで待たなければならなかった。もし、幹部が遅くとも4月 3 日に「汚染地図」の放送を許していたら、
番組は大きな警告となって、高線量の中で被曝する住民が少しは減らせたかもしれない。
こうしてみると、「厳重注意」を受けるべきは、本来誰なのかを問い直さざるをえない。それは被災地に入り込んで取材し、住民
を救った取材班というよりは、むしろ政府発表を垂れ流した報道や、早期に放射能被害を伝えることを制約した幹部のほうでは
ないか。
番組を牽引した七沢潔氏は、本書の「あとがき」の中で、「あれだけの事故が起こっても、慣性の法則に従うかのように「原子
村」に配慮した報道スタイルにこだわる局幹部」と、NHK内部に向けて厳しい批判を加え、「取材規制を遵守するあまり違反者
に対して容赦ないバッシングをする他部局のディレクターや記者たち」の存在を告発している。
現役のNHK職員のこの異例の記述には、組織の論理よりも民衆を襲った悲劇の側に立つことを優先し、自局の原発報道を
問い直す不退転の決意が読み取れる。
このあたりの記述が「厳重注意」の理由とされたのだった。しかし、ここに表明された個々の制作者の精神の自由を「厳重注意」
によって抑圧するようでは、企業としてのNHKの「自主自律」は実体を持たない空疎なものとなる。 「ホットスポット」は一方で、
NHKは決して一枚岩の存在ではなく、良心的な番組でもNHK内においてはさまざまな圧力の中にあり、視聴者の支持がなけ
れば潰されかねないことをも示唆した。今回の「厳重注意」の動きは、視聴者にそのような重大なメッセージを伝えている。
亡き娘の真実知りたい
2012 年 07 月 08 日 朝日新聞
尊い命が二度と失われないように、真実が知りたい――。北本市立北本中1年の中井佑美さん(当時12)は2005年、自ら命
を絶った。両親が「自殺の原因は学校でのいじめだった」などとして、国と市を相手取った訴訟は9日、判決を迎える。
佑美さんは05年10月11日朝、いつものように家を出た。だが学校には向かわず、自宅から約1・5キロ離れた鴻巣市のマン
ションから飛び降りた。
机には「お母さんへ」と題した遺書があった。気持ちをつづった中に、「クラスの一部に」という言葉があった。父親の紳二さん
(62)と母親の節子さんはいじめを受けていたのではないかと考え、学校に調査を求めた。
2カ月後、学校側が報告に訪れた。「いじめがあったという情報はない」
しかし、同級生たちの証言は違った。何度も靴を隠され、所属していた美術部では「タメ(同級生)にも丁寧な言葉を使ってウ
ザイ」と言われていた。いじめはあった、というのだ。
両親は再三、調査を求めたが、学校からの回答は変わらなかった。
両親は、学校の調査に疑問を抱いていた。アンケートでは「学校に来るのが楽しいか」「心配なことはあるか」など生徒自身の
ことだけをたずね、佑美さんへの「いじめの有無」は聞いていない。両親の目には、学校が真相を解明しようとしていないように
見えた。
「本当は裁判なんてしたくなかった。真実を知りたい。ただ、それだけでした」。両親は07年2月、北本市教育委員会と文部科
学省を相手取って提訴した。
法廷でも、市や学校の対応に誠実さは感じられなかったという。遺書は「母親への手紙」だとして「遺書なし」と県に報告して
いたことが明らかになった。担任教師は指導要録に「(本来は複数で担当する)清掃では、1人でも黙々と取り組む姿がある」と
書いていたが、法廷で「いじめはない」と証言した。
紳二さんは「いじめ自殺って、心を殺された殺人なんです」と憤る。「調べてほしいと要請すると、市教委は『警察じゃないです
からね』と言って逃げる。生徒を預かる教育者として、調査する権利も義務もあるでしょう」
「学校や教師は、処分を恐れて隠蔽(いん・ぺい)しているのではないか。そもそも真実を解明するシステムができていないの
ではないか」と考えた2人は、教育を根本から問いただすため、文部科学省も訴えたという。
提訴から5年半を経た訴訟が、ようやく節目を迎える。節子さんは「判決まで長かった。でも、真実は何も分からなかった」。居
間には笑顔の佑美さんの写真が飾られている。今年、20歳を迎えるはずだった。
埼玉・北本市のいじめ自殺裁判、遺族が敗訴
日本テレビ系(NNN) 7 月 9 日(月)16 時 8 分配信
「中学1年の娘が自殺したのは学校でのいじめが原因だ」として、埼玉・北本市の両親が市や国に約7600万円の損害賠償
を求めていた裁判で、東京地裁は9日、「いじめがあったと認めることはできない」として両親の訴えを退けた。
この裁判は、05年に自殺した北本市の当時の中学1年・中井佑美さんの両親が、市と国に対して約7600万円の損害賠償を
求めているもの。両親は「学校側はいじめを防止する義務を怠り、自殺した後も原因の調査を十分に行わず、いじめを隠蔽(い
んぺい)した」と主張していた。
しかし、9日の判決で東京地裁は「いじめがあったと認めることはできない」とした上で、「あえていじめを隠す意図で調査報告
を行わなかったという事実は認められない」として、両親の訴えを退けた。
河北抄
2012 年 07 月 09 日月曜日 河北新報
あすで仙台空襲から67年。当時14歳だった河内愛子さんは、牧師の父と母の3人で市内の教会にいたところ、空襲に遭っ
た。
火の海の中を母の手に引かれて逃げた。防火用水槽に入って助かったが、母は全身に大やけどを負った。逃げ遅れた父は
死亡、母も入院先の病院で亡くなった。母の死の翌日、広島へ原爆が落とされた。
先日、河内さんら3人の手記をもとにした劇「仙台空襲~孫たちへの伝言Ⅲ」(劇団仙台主催)が、市内で上演された。会場に
は河内さんの姿があった。
「焼け跡を捜してくれた友達がいたことを後に知った」と河内さん。「でも、その友達は昨年の震災で行方不明になったと、家族
から連絡がありました」
今度は自分が捜す番だ-と思ったが、友人は遺体で見つかった。「戦争も震災もあまりにも理不尽な出来事です」と肩を落と
す。
仙台空襲では、1400人もの犠牲者が出た。劇に参加した4人の高校生は、自ら志願したという。次の世代、さらに次の世代へ
と語り継いでいくことの大切さを思う。悲劇を忘れないため、繰り返さないために。(2012・7・9)