縁魔 - タテ書き小説ネット

縁魔
舞辻青実
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
縁魔
︻Nコード︼
N6419BX
︻作者名︼
舞辻青実
︻あらすじ︼
地方都市﹃叉奈木﹄。
その町に、どの組織にも属さないフリーランスの魔術師である冴
島琴音が訪れた。
彼女はこの町の名家﹃縁家﹄から紛失した﹃縁魔の首﹄という縁
家の家宝の捜索という依頼を受けやって来たのだ。
冴島は訪れた縁家の屋敷で現頭首縁会の娘であり人との繋がりを
嫌う縁家次期頭首の縁縁と出会う。
彼女は︽縁︾を視ることのできる特殊な能力を持っていたが、人
1
との繋がりを拒むため非常に弱々しい能力であった。
冴島は彼女の︽縁︾を視る力を用いて﹃縁魔の首﹄を捜索するこ
とにする。
こうして冴島と縁の奇妙な同棲生活が始まった。
2
序章
既に何件かの依頼者が館を訪れていた。
ゆかり
そのどれも断ったことから見て、彼女が欲する類の依頼ではなか
ったようである。
ことね
リビングのソファでくつろぐ琴音を尻目に、縁は紺色のダウンジ
ャケットを羽織ると、館を後にしようとする。
﹁どこ行くの?﹂
なんとも退屈そうに琴音はそう尋ねる。
﹁ぶらりと散歩だけど﹂
﹁ふうん。ま、がんばって﹂
﹁ところで﹂
縁がそう言いうと、気怠そうに琴音は振り向いてみせた。
﹁依頼に︽首︾が関係ありそうなものはあったの?﹂
﹁いいや、まったく﹂
肩を竦めて頭を振る。
﹁犬の散歩をしてくれという依頼と、最近空き缶のポイ捨てが増え
3
て困るとのご老人の依頼が二件。宇宙人を捕まえてくれという少年
少女合わせて三人の依頼が一件。その他は不倫云々が四件。あなた
が聞いても関連なさそうでしょ? だから、丁寧にお帰り願ったわ﹂
確かにその内容だと、関連はなさそうである。ただ⋮⋮あの子供
たちが言っていた宇宙人の件は少し気になる。
﹁そうね﹂
﹁退屈⋮⋮﹂
そうとだけ言うと彼女はクッションを顔の上に置き、仰向けに寝
た。
その時であった。館にベルが鳴り響く。
どうにも新しい依頼者がやって来たらしい。
﹁呼んで来てゆかりん﹂
誰が﹃ゆかりん﹄だ。と、突っ込みそうになったが、とりあえず
己を抑え、玄関に赴く。
戸の前にはあからさまに汚い初老の男性が佇んでいた。
くすんだねずみ色のコートは穴だらけであり、そこかしこがほつ
れている。むき出しの肌は虫に噛まれたのか、赤く腫れて薄皮が剥
けていた。おそらく、浮浪者と見て間違いないだろう。
﹁あのぉ⋮⋮﹂
4
﹁はい。なにかしら?﹂
﹁無料の探偵事務所ってのはここであってるかね?﹂
申し訳なさそうに喋る男。喋る度に鼻につくまるで何週間も放置
されている三角コーナーのような悪臭に、思わず顔をしかめる。
﹁え、ええ。ここであっているけど﹂
﹁良かった。あのな、頼みたいことってのは、つい先日死んじまっ
た仲間たちのことでなんだよ﹂
仲間たち?
縁はその言葉に違和感を覚えた。
﹁どういうこと?﹂
﹁警察にも話したんだけどよ、取り合ってもらえなくてよぉ﹂
男はそう言うと白髪だらけの頭を掻く。ぼろぼろと大きなふけが
飛び散り、縁はすかさず一歩身を引いた。
﹁いやね。先日仲間が四人死んじまったんだ﹂
さらりと男は言ったが、縁からしてみれば人が死んだというだけ
で大した出来事であった。
しかし⋮⋮。
5
縁はぼろぼろの男を見る。
いついかなる時も外で生活している彼らからしてみれば、人死に
は大したことではないのかもしれない。
﹁殺されたの?﹂
﹁さあ。分かんねぇんだ。何せ遺体の損傷が激しすぎて﹂
﹁ばらばらとか?﹂
﹁違う。腐っちまったんだ﹂
﹁それって、死体が長い間放置されてたから自然にそうなったとか
じゃないの?﹂
﹁お前さんも警察と同じこと言うんだな﹂
﹁というと?﹂
﹁あいつらも、集団で食中毒か何かを起こしてそのまま死んだのが
腐っちまったんだろう。なんてぬかしやがるんだ﹂
﹁でも、それはもっともな意見じゃない?﹂
﹁そいつらが腐って見つかる前日に俺がそいつらに会ってたとして
もかい。お譲ちゃん?﹂
男は頬を緩め、縁を見た。
6
﹁これはこれは⋮⋮やっとそれらしくなってきたじゃない!﹂
いつの間にか背後にいた琴音が声を弾ませてそう答える。
﹁アンタが、探偵さんかい?﹂
さえじま ことね
﹁そう。私が冴島琴音です。あなたの依頼お受けいたしましょう!﹂
※ ※ ※ ※
この町はいき苦しい。
別に大昔この町が工場で栄えていたからとか、光化学スモックが
未だに起こるからとか、そんな現実じみたことからではない。
私がこの世に生を受けてから、﹃普通﹄に生きていこうとした。
人は道を作りたがる。││いや、道というよりはレールという方
が的確なのだろう。
どこかの誰かが引いた。誰しもが通るレール。
人は列車に近い生き物なのかもしれない。
だから││私は生き辛い。生き苦しい。
とどのつまりは、そういうこと。
私は、﹃普通﹄ではない。
7
少しどころか、変わっている。
変人⋮⋮と、まではいかないのかもしれないけれども││いや、
どうなのだろう。
ついこの前も誰かに病院に行け、精神科に見てもらえと言われた。
⋮⋮いつもこうだ。親しく話せる友人だと思って自分を少しでも
曝け出したらこうなる。
まったく、分からない。人という奴が。
別に、憎んではいないし、そうする理由も訳もないのだけれども
││どうなのだろう。嫉妬、憧れぐらいはあるのかもしれない。
人は誰かと生きたがる。
私も、そうあろうとする。
でも⋮⋮、それが苦しくてたまらない。
本当はそんなレール通りたくない。
私は私の価値観で動きたい。
私はそう動いている。
だが、レールを通る人々は、草原を歩む私を睨む。
8
だから、苦しいのだ。
この町は、││いや、この町だけではない。
にく
この世はなんて生き憎いのだろう。
9
第一章
約束の日は明日だ。
どうやってアメリカはハワイにいた私に手紙をよこせたのか。そ
れは甚だ疑問ではあるが、この際どうでもいい。
久方ぶりの日本だ。
冴島琴音はカーキ色のブルゾンのポケットからガムを取り出すと
口に含んだ。
車窓を流れる景色に得も言われぬ安心感を覚えつつ、冴島は送ら
れてきた手紙に目を通す。
助けてくれ⋮⋮か。
手紙の内容は大まかに言えばそう言う話。
手紙は嫌いだ。
形に嵌められた文字ほど胸糞悪くて仕様がない。
冴島がその手紙を焼かずに残しているのはそこに住所と地図が書
かれていたからである。
もちろん。普通に書かれていればそれを覚えていればいいだけの
事だが、この文字の厄介なところは忘却文字であるという事だ。
この手紙にしか情報を結び付けられていないのだろう。故に、燃
はさな き
やしてしまえば記憶からも消えてなくなる。それが﹃忘却文字﹄と
いう魔術だ。
アナウンスが﹃叉奈木﹄の名を繰り返す。どうも、目的の駅に付
いたようだ。
羊皮紙の手紙を四つ折りにしてカーキのブルゾンの内ポケットに
しまう。
座り心地の良い席を忘れ物が無いかを確認する動作に合わせて名
残惜しげに眺め、小型の旅行鞄を手に通路を進む。
がたんと箱は揺れ、体とつり革が斜めにされる。
空気の抜ける音と共に扉は開いた。ふわりと乾燥した風が、暑す
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ぎるともいえる車内の暖房の所為で涼しく彼女の赤髪を靡かせる。
電車を降り、駅のホームで佇み、電車が動き出すのを確認してか
ら冴島はホームの階段を下る。
駅の改札をくぐり、タクシーやバスで混雑する駅前に歩みを進め
る。人の波はやはり日本の方が小さいが、どの人も忙しそうだ。落
ち着きが感じられない。
もっとも、平日の朝方だ。当然と言えばそうだろう。
ふと、入り口の駅弁売りの恰幅の良い女性の隣に設置されていた
掲示板に眼がいく。
こういうのも久しぶりだなぁ。
一番上には最近の物だろう﹃叉奈木コン﹄とけばけばしいピンク
色で記されたプリント。
これはこれで独り身の私には少し気がいかないこともないが、そ
れはいいとして、最初に気になったのはその下に溢れんばかりに│
│実際溢れている││張られた張り紙の数である。
モノクロの写真に笑顔で映る子供や老人。微笑ましい家族の写真。
だが、写真に写る幸福をそのまま感じることが冴島にはできなかっ
た。
その全てに共通する不穏でこの上なく不気味な単語。
﹁行方不明者⋮⋮﹂
ぼそりと口に出す。
その全てが﹃行方不明者﹄の紙なのだ。
﹁あの、これ全部行方不明者なの?﹂
隣にいた駅弁売りの女性に尋ねる。
﹁うん? ああ、そうよ。まあ、珍しくもないのよ。最近景気悪い
でしょ? それでほら、ここってベッドタウンだったから、会社無
くなってどうしようもなくなった人とかは逃げちゃうのよ﹂
﹁逃げるって?﹂
﹁そりゃ取り立てから﹂
﹁ああ。なるほど﹂
11
これはまた至極現実的な事で⋮⋮。
奇怪な話を求めていた冴島は少しがっかりしてお礼を言うと、踵
を返して歩き出した。
さび
叉奈木。
︽錆れた町︾とは話を聞いていた。だが、見たところそこまででは
無いようである。
栄えた町に挟まれるようにしてあるからか、あるいはここが盆地
だからだろう。
いいや。違う。冴島は辺りを見回し、行き交う人々の割合を見る。
さび
さび
明らかに老人が多い。それはここが︽かつて︾は鉄鋼業で栄えてい
ため。それが︽寂れた町︾ではなく︽錆れた町︾と呼ばれる所以だ
ろう。
見上げても天辺の見られないほどのビルは無いが、見上げて首が
痛くなりそうなビルはそこそこにある。もっとも、駅周辺だけだろ
うが、まあ、栄えていないというのはいささか誇張した表現なのだ
ろう。
ビルの谷間で加速をつけた風が一気に吹き抜ける。
もうすぐ春だというのに、その風はいやに冷たく、痛い。
冴島は味の無くなったガムを舌で平たく伸ばし、唇に挟んで息を
吹き込む。
丸く黄緑色の風船が冴島の眼前に浮かび、萎れた。
下唇に垂れたガムを舌先ですくい上げ、口内に引き込む。
飽くまで冴島の持論ではあるが、味の無くなったガムを空気にあ
てがってから噛むとなんとなく味が復活した⋮⋮ような気がする。
そんな小学生が考えそうな理由で彼女はこうしてよくガムを膨らま
せるのだ。
もどしたガムを再び噛む。外気に当てられたガムはひんやりと冷
たく味を口内に染み渡らせる⋮⋮気がする。
血色の良い唇に残る湿り気とライムの香りをわずかに出した舌で
絡め取り、冴島は大きく背伸びをした。
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たつやまれんざん
ビルの隙間から見える龍山連山。
りゅう す やま
この叉奈木を囲む山々である。
一番高い龍主山はおおよそ標高1300m程度とそこまでの高さ
ではない。
だが、霊山としては有名である。冴島も聞いたことはあった。有
まそ
名なのはきっと、この龍主山にはかつて龍が住み着いていたという
伝説の所為だろう。
冴島はこくりと頷く。
確かにここは魔素が濃い。
あの霊山を中心にこの町を蜘蛛の巣のように魔素の流れが覆って
いるのを冴島は感じた。
先ほどの異様に冷たい風もその影響を少なからず受けているのか
もしれない。
冴島は腕を組み、にたりと頬を緩めた。
なかなか、楽しそうじゃない。
1
ともかく。お腹が空いていた。
機内食はとりあえず鶏肉にケチャップをぶっかけたようなお世辞
にも美味しいとは言えない代物であったため美味しい日本食に口が
飢えていたのだ。
辺りを見回すとまばらに飲食店はある。
さて、どれにするべきか。
八時間の時差ボケ効果の眠気眼を擦り、飲食店を探る。
右手の交差点にはラーメン屋。駄目だ。ありきたりすぎる。それ
に、今はラーメンという気分ではない。
だとすれば⋮⋮中華? あり得ない。
今は日本食だ。それ以外の食べ物を私の胃袋に収めるつもりはな
い。
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冴島はそう決め込みしばらく歩いた。
日本食とは何ぞやと、思案を繰り返した結果。彼女が行き着いた
のは洋食屋であった。考えすぎたあまり、ものの数分で彼女の中で
和食というものがゲシュタルト崩壊してしまったのだ。
とはいえ、なかなかにこの店はお洒落であった。
レトロな昭和のかおりが漂う﹃テムズ﹄という店だ。
いいね。﹃テムズ﹄とは、なかなかお洒落だ。
冴島はガラスの大窓から店内を覗く。
朝も早いからだろうが、人は全くいないようである。
⋮⋮開いているのかな。
そう思ったが、入り口の扉にははっきりと﹃OPEN﹄の文字が
記された木の板が吊るされている。
遠くに駅が見える。見通しの良い交差点の一角。場所としてはい
い場所だ。
とりあえず店に入ろう。
漆で艶やかに磨かれた取っ手を掴み、両開きの扉を押し、中に入
る。
からんとベルが鳴る。扉に付けられているのだろう。
﹁いらっしゃい﹂
低くくぐもった声が奥から聞こえた。
厨房はクリーム色のカーテンで隔てられている。そのカーテンを
捲り、老人が現れた。
短く切り揃えられた白髪に、同じ程度の長さで整えられた口ひげ。
さながら日本版﹃ザ・ロック﹄のショーン・コネリーか、﹃スター
ウォーズ﹄のアレックス・ギネスといったところか。
うん? 日本版﹃スターウォーズ﹄ならば、三船敏郎になるのか?
でも⋮⋮。
眉毛は凛々しく、はっきりとした二重瞼の目は力強い。若いころ
はさぞモテたであろう顔つきだ。
少なくとも、このおじいさんが若かった当時に私が出会っていた
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ら、考えられる全てを使ってこの人を狙ったであろう。それぐらい
この人の顔つきは素晴らしい。
ふうむ。そう考えれば三船敏郎に見えないこともないなぁ。
男性として惹かれるという意味ではないが、私としては好意が持
てる男性だ。
ひとしお店内を見回して誰もいないことを確認する。
人はいても構わないが、いないならいないで落ちつけてうれしい。
まあ、店はもうからないだろうからうれしくはないんだろうけれ
どもね。
冴島はとりあえずカウンターに座ることにした。
座ると同時にテーブルに水が入ったコップが置かれる。
冴島の頬が緩む。
二カ月近くハワイに滞在していたため、この小さな親切が嬉しか
ったのだ。
﹁見かけない顔だな﹂
﹁ええ。初めて来ましたから﹂
﹁それは、この店にという事か? それとも、この町に?﹂
﹁後者です﹂
それを聞くと、店主は﹁うむ﹂と頷いた。
﹁あれ、何かルールがあるんですか? このお店﹂
﹁いいや。ないよ。で、何にする?﹂
じゃあ今の意味ありげな﹁うむ﹂はなんだったのか。
冴島はどことなく分からないなぁと言った表情で店内を見回す。
シックな木目の天井にはお洒落な換気扇が回っている。
厨房から漂ってくる良い匂いは、デミグラスソースのようだ。
だとすれば、ハンバーグかオムライスあたりがいいのかな。
とりあえず、聞いてみようかな。
﹁おすすめは?﹂
﹁天丼﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
15
﹁⋮⋮⋮⋮どうする?﹂
どうにも、冴島は何かしら不思議なものを持っていると、確信し
た。
私はきっと﹃選ばれし者﹄なのだと思ったが、まあ、どうでもい
い。
とりあえず入り口に書いてある言葉は明らかに﹃洋食﹄だったの
で、私が日本を離れているうちに﹃洋食﹄という言葉の意味に﹃和
食﹄も含まれることになっていない限り、この店はおかしいのだ。
﹁あの⋮⋮ここ、﹃洋食﹄屋ですよね?﹂
﹁うん? ああ、あれは女房がそうした方がお客が入って来るから
ってやったんだ。もともとうちは天丼屋だよ。ちなみに、女房がい
ればおすすめは﹃オムライス﹄だった⋮⋮﹂
ふむ。﹃だった﹄という事は⋮⋮奥さんは亡くなったのだろう。
﹁お気の毒に⋮⋮﹂
﹁ん? 勘違いしていないか? 女房は今買い出しに行っていてい
ないだけだぞ。だから、﹃オムライス﹄はできないって言ったんだ﹂
﹁あ⋮⋮なるほど﹂
なんとも面倒なおじいさんだ事で⋮⋮。
﹁じゃあ、天丼お願いします﹂
﹁あいよ﹂
その掛け声はまさに天丼屋のそれだった。
もっとも、天丼屋の掛け声なんて聞いた例はないのだけれども。
おじいさんが厨房に消えてから水を口に運び、唇を湿らせる。
壁には店の雰囲気に合った金縁の油絵が飾られている。
店にテーブルは四つ。横に長い店だ。
テーブルは窓に隣接する形であり、そこからは十字路がよく見え
る。
町を行き交う人々は途切れることがなく、歩き続ける。
不思議な感じだ。
まるで、故郷に帰って来たかのような安心感を覚える。
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ぼそぼそとした響きが店内のスピーカーから響き渡る。冴島がそ
の響きに反応すると同時に店内に音楽がかかった││だが、どうに
も合っていない。
雰囲気ぶち壊しだ。例えるならば、お好み焼きを天つゆで食すよ
うなものだ。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁ああ、良い曲だろう?﹂
奥から聞こえる嬉しそうに弾んだ声。
﹁ええ。良い曲ですけど⋮⋮なんて言うか、合ってませんよね?﹂
エンニオ
﹁そうか? 俺は合ってると思うんだけどなぁ﹂
流れているのはE・モリコーネの﹃続・夕陽のガンマン﹄のテー
マであった。
﹁いやぁ。西部劇が好きなんだよ﹂
﹁まあ、私も嫌いではないですけど⋮⋮﹂
途端。がたがたと厨房からおじいさんは駆け寄って来た。
﹁本当か!?﹂
すごくうれしそうにそう言う。飛んでくるあたり本当に好きなん
だろう。
﹁ええ⋮⋮﹂
冴島は引き気味にそう答える。
﹁何が、何が好きなんだ?﹂
子供の様に無邪気な瞳でそう尋ねてくる老人。
笑みを浮かべて迫るその様はどことなく﹃シャイニング﹄のジャ
ック・ニコルソンを冴島に想起させた。
﹁私は﹃続・荒野の用心棒﹄が好きなんですけど﹂
おそらく彼女が一番見たであろう西部劇だ。加えて彼女は、何故
だか主役のジャンゴよりも宿敵のジャクソン少佐の方が気に入って
いるという変わり者でもある。
﹁ジャンゴか⋮⋮どこが好きなんだ? やっぱり、最後の十字架撃
ちか?﹂
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﹁いえ。馬を撃たれてジャクソン少佐が泥まみれになるところです﹂
﹁ははっ面白いな、あんた﹂
老人は腕を組み、鹿爪らしい表情をする。
何やら厨房の方で聞こえる油が跳ねる音は大丈夫なのだろうか。
店主は嬉しそうにこちらを見ている⋮⋮という事は私が﹁あなた
は、何が好きなんですか?﹂とでも尋ねるのを待っているという事
なのだろうか。
冴島は一口水を口に含む。
﹁あなたは、何が好きなんですか?﹂
﹁俺か?﹂
肩を弾ませてそう言う。
よほどうれしいのだろう。
﹁俺はなぁ。﹃ウエスタン﹄だな。お尋ね者のシャイアンの最期が
これまた、格好良いんだ!﹂
西部劇の最期はだいたい見せ場だと思うのだが⋮⋮。まあ、言わ
ないでおこう。
﹁あの⋮⋮料理の方は大丈夫なんですか?﹂
﹁ああ、料理なんていいよ﹂
それ私の天丼なんだけどなぁ⋮⋮。
どうしようか。
明らかに熱が通り過ぎてるような気がするのだけれども⋮⋮。
﹁ところで、ジャンゴが好きなら、他のネロの作品で好きな作品は
あるか?﹂
ネロ⋮⋮ああ、フランコ・ネロの事か。
他に好きな作品といえば﹃ガンマン大連合﹄? それとも﹃豹﹄
かな? ⋮⋮いや、やっぱり。
﹁﹃真昼の用心棒﹄とか好きですね﹂
﹁おお! それが出るとは思ってなかった﹂
あ、この人笑うとショーン・コネリーそっくりだ。とくに、目元
の小皺とか。
18
冴島はそんなことを思う。
﹁アンタ結構残虐思考なんだな﹂
﹁あはは﹂
それは当たらずとも遠からずなのがなんとも⋮⋮。
というより、明らかに時間がやばいのでは?
気が付いたら焦げ臭いにおいがして、真黒焦げの天丼を出される
なんていう月並みな展開だけはごめんだ。
﹁天丼見てきてくださいよ。焦げてません?﹂
﹁ちょっと。店長。なんで天ぷら揚げてる、の⋮⋮﹂
そう言いながら現れたのは大学生くらいだろうか、綺麗な黒髪を
後ろで結んだ少女であった。
﹁あ⋮⋮お客さん﹂
驚きの表情だ。
というより、お客に驚くほどこの店は人が来ないのか? 大丈夫
なのか?
﹁あはは。なんか、すいません﹂
彼女はそう言うとぺこりと頭を下げた。
﹁いやいや。別にいいですよ﹂
﹁よお﹂
店長と呼ばれた老人は気さくに手を挙げて挨拶をする。
﹁よお。じゃないよ。天ぷら見てきてよ。焦げちゃうよっ﹂
﹁おお。そうだそうだ﹂
少し驚き、急ぎ足で厨房に駆けこんでいく。
﹁また、西部劇の話をしてたんでしょ? いつもあれなんですよ﹂
大きな瞳だなぁ。
どことなく、﹃マーズ・アタック!﹄の頃のナタリー・ポートマ
ンに似てるかも。
冴島はぼんやりと彼女の顔を眺めながらそう思う。
﹁不愉快じゃありませんでした?﹂
﹁いや。私も西部劇は好きですし﹂
19
﹁そうなんですかっ﹂
あれ? 何だ、この反応⋮⋮。
彼女の眼はきらきらと光り輝いているように見える。
それこそ﹃スターウォーズ﹄ではないが、嫌な予感がする。
その時の冴島の顔は、ミレニアムファルコンで逃げ込んだ穴倉が
宇宙ナメクジの腹の中であると予感したときのハン・ソロのような
顔であった。
﹁私はですねっ。父の影響で西部劇をよく見てたんですけどねっ。
好きな作品はですねっ﹃殺しが静かにやって来る﹄なんですよっ!﹂
ああ、やっぱりだ。
なるほど、この子も⋮⋮そういう子なのか。
いっそのことこの店の内装をウエスタンな内装にしてしまえばい
いのに。
それにしても﹃殺しが静かにやって来る﹄は最期がなぁ。
ま、嫌いじゃないんだけれどもね。
しばらく彼女の西部劇好きを聞かされていると、厨房から天丼を
乗せたお盆を持って彼が現れた。
﹁おまちどう﹂
そう言って出されたのは、溢れんばかりに天ぷらの乗る天丼だっ
た。
﹁おいしそう!﹂
冴島心からの叫びだった。
白い湯気がふんわりと宙を漂う。その湯気に乗ってタレのほのか
な香りが鼻孔を擽る。
﹁いただきます﹂
﹁どうぞ召し上がれ﹂
店長はそう言って腕を組んだ。
﹁あ、そうだ。アイツが買いだし行ってるんだけどよ。ちょっと荷
物持ちに行ってくれねえか?﹂
﹁ふふっ。見てないところでは優しいんだからっ﹂
20
﹁う、うるさい! 早く行って来い﹂
﹁はーい﹂
少女は敬礼をすると、入り口から出て行ってしまった。
不思議な子だなぁ。
2
見た目に反して意外に量が多く、食べきれないかと思っていたが、
ぎりぎり胃に収めることが出来た。
とはいえ、決してまずかったとかではなく、とてもおいしくて驚
いた。
特に、エビなんかの弾力は素晴らしいもので何とも食べごたえが
あった。
満腹になったお腹をさすり、水を口に含む。
そうして、一息ついてから﹁ごちそう様でした﹂と手を合わせた。
﹁どうも﹂
彼はカウンターの端に腰を下ろして新聞を読んでいた。
店内の曲は相も変わらずウエスタンである。
﹁聞いてもいいかい?﹂
彼は新聞を折りたたむとそう尋ねてきた。
﹁ええ﹂
﹁ここにはどんな仕事で?﹂
﹁どうして仕事だと?﹂
﹁そりゃ、ここに旅行に来る客なんていないからな﹂
﹁なるほど﹂
﹁で、なんだい?﹂
﹁ちょっとした調査を頼まれまして﹂
﹁調査?﹂
﹁ええ﹂
﹁誰から頼まれたんだ?﹂
21
﹁それは⋮⋮﹂
﹁言えねえか。そりゃそうだ﹂
﹁いや、別にそういう訳ではないんですけど﹂
﹁良いのか、言っても?﹂
﹁特に、そういうことに関しては何も言われていませんし﹂
﹁誰なんだ? 俺でも知ってるような人か?﹂
えにし
興味はあるのだろう。前のめりになって尋ねる。
﹁縁家って知ってます?﹂
途端。彼は目を大きく見開き、こちらを凝視した。
﹁お前さん⋮⋮こりゃ、たまげたな。なんでまた﹂
﹁ご存知で?﹂
﹁そりゃ、知ってるも何も⋮⋮この町で知らない奴なんていねえさ﹂
ふむ。お金持ちとは聞いてたけど⋮⋮予想以上みたい。
﹁お金持ちなんですか?﹂
﹁いや、どうなのかな。最近、事業があんまりうまくいってないら
しいし、それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
﹁いや。別になんでもない﹂
﹁そうですか﹂
﹁けどよ。それよりもなによりも、やっぱりあの家にはかかわらな
い方が良いぞ﹂
少し声のトーンを下げて彼はそう言った。
﹁というと?﹂
﹁あの家は、なんでもいろいろと不気味な術やらなにやら使う一族
らしいから⋮⋮﹂
店主は俯きかげんにそう言う。
﹁術って言うと、こう⋮⋮魔法的な?﹂
﹁らしい﹂
﹁ふうん。なるほど。確かにこの依頼は、御誂え向きみたいね﹂
﹁何言ってるんだアンタ﹂
22
﹁だって、私もそういう類の人間ですから﹂
彼はきょとんとした顔で得意げに胸を張る冴島を見た。
﹁⋮⋮⋮⋮お前さん、魔法使いなのか?﹂
﹁ええ﹂
堂々とそう言い切る。
すると、彼は大きく笑い、サムズアップをしてみせた。
﹁面白い! いいね﹂
それに合わせて冴島も笑う。
﹁じゃあ、私これで。お勘定お願いします﹂
﹁半額で良いよ﹂
﹁本当ですか?﹂
﹁その代り、また来てくれよ﹂
﹁ええ。もちろん﹂
冴島は半額の代金を払うと、店を後にした。
さて、どうするか。
彼女は店の前で行き交う車を眺めながらそう考えた。
特に急いでいるわけではないが、どうにも悪い癖で大事な約束な
んかがあるとそわそわして仕様が無いのだ。
要するに心配性なんだろう。
冴島は縁家にもっとも近いビジネスホテルに予約をして、下見に
行くことにした。
えにし
3
縁家は龍主山の麓にその屋敷を構えるのだという。
それを聞いて来てみたは良いものの、思ったよりも厄介な一族の
ようである。
冴島は登山客用の山道から外れた森の中で片膝をつく姿勢でしゃ
がみこみ、宙をまじまじと睨んでいた。何も知らない人が視れば明
らかな不審者である。
23
山にはそもそも結界が張り巡らされており、一般人が登山用の山
道から縁家の領地に入らないようにされてあった。
無論。その程度の結界を解くのは冴島琴音にとってどうというこ
とは無いのだが、問題はそれをいかように戻すかという事であった。
ことわり
この結界の厄介なところは解くのは容易だが、元に再構築するの
が非常に困難な代物なのである。
実に日本らしい結界だ。九つの別々の理が絡み合って結界を形成
している。
く じ
この九つの理に冴島は心当たりがあった。
なるほど、ここの結界は﹃九字﹄で結ばれているのか。
とういん
それが分かればこの結界を元に戻すのは可能だが、時間がかかる。
冴島は右手の人差し指と中指を立て﹃刀印﹄の形をとった。
結界を紐解くや否や、すぐさま結界の内側に飛び込み﹃刀印﹄で
網を描くようにして虚空をなぞった。
何も異変は起こっていない。
はや く じ
冴島は﹁ふう﹂と一息つく。
いやはや、まさか私が﹃早九字﹄をやるとは思いもしなかった。
どうも、こういう繊細な魔術は苦手だ。
まあ、洗練されたものっていうのは嫌いじゃないんだけど。
しばらく歩みを進めると、大きな屋敷の塀が見えてきた。
さんか
あまりの大きさに息をのむ。
山窩の家にしちゃデカすぎやしないか⋮⋮まあ、いいけど。
塀の向こう側は視えない。
さて、あの塀にはどうにも嫌な物が練り込まれているようでなら
ない。
おそらく、触れることすら敵わないだろう。
││││もっとも、それは並の魔術師の話だ。私は違う。
冴島はホットパンツのコインポケットから橙色の石を取り出した。
それを強く握りしめ、意識を自身の体に向ける。透過魔術である。
ありとあらゆるエネルギーを透過させる魔術だ。本来ならば数分の
24
コード
時間を要して理式を馴染ませなければならないが、この瞬間、一瞬
でそれが成立した。
この土地が肥えているというのもあるだろうが、非常に効きが良
い。冴島は少し浮かれ気味に頬を緩めると、腐葉土を踏みしめ、一
気に壁を駆け上がった。壁から突き出す魔素││何かしらの術を施
してあるのだろうが、今の冴島はエネルギーを透過させるため、術
は彼女の体に反応できない││が、体を突きぬけて行くむず痒い感
覚に軽く肌を粟立たせる。
塀の上に置かれている瓦に片足を置き、もう片方の足を側に生え
る木に押し付けバランスを取る。
大きな屋敷がある。︽山︾の形をした母屋。︽山︾の字の窪みに
位置する場所には美しい庭園と池がある。
誰にも見られない様に己に術を行使しようと、ブルゾンのポケット
コード
から新たに石を取り出し、またも意識を体に集中させる。姿消しの
魔術理式が行き渡ったところで、辺りを見回す。
冴島がいる塀のすぐ側に倉を改築したかのような建物があった。
ふと、俯瞰にその小屋を眺めると、小屋の縁側に少女が座ってい
るではないか。
もしや視られたかとも考えたが、こちらを視ようとはしないので
視られていないと判断した冴島はその少女を観察する。
非常に黒い髪だ。冴島が第一に感じたのはその印象だった。
一種異様なほど黒い髪。︽漆黒︾という表現が適当かもしれない。
件の﹃テムズ﹄で見たあの少女と同程度││いいや、明らかにそれ
以上に黒い。その黒は只々、暗いのではなく輝いて見えるのだ。︽
明るく輝く漆黒︾というのも妙な表現だが、それ以外では形容しが
たい色合いの髪であった。
目鼻顔立ちは非常にくっきりとした顔立ちだ。一目見れば忘れら
れないようなインパクトがある。外人といえば通じてしまいそうな
ほどだ。だが、どこか無愛想な顔だ。機嫌が悪いのか、体調が悪い
のか⋮⋮間違いなく前者だろうな、と冴島は思う。
25
それにしても、不思議な気持ちになる。
どこかで既に出会った様な⋮⋮気がして仕方がない。
その時、少女がこちらに顔を向けた。無論。彼女に冴島が視えて
いるはずはないのである。それなのに、彼女と冴島は目が合ってし
まった。
一方的なものではあるのだが。
冴島は少し、焦り他に人がいないか辺りを見回す。
車の音が聞こえる。人は結構いるようだ。
いや、私みたく明日のために呼ばれたのかもしれないな。
冴島はしゃがみこむと、少女に一瞥をくべて体を反転させ、塀を
下った。腐葉土に着地をして地面に手をつく。
やおら立ち上がると、手に付いた腐葉土を払い、一息つくと、ポ
ケットに握っていた石を閉まった。
ま、道は分かったし。良しとしますかな⋮⋮。
冴島は﹁よし﹂と、背筋を伸ばすと、踵を返して山を下った。
4
叉奈木の夜は都会に比べれば確かに寂れてはいるが、活気が無い
わけではなかった。
まそ
それに、自然との共生ができている辺り、都会よりよっぽど素晴
らしい土地だ。
特に、生命の素である魔素を必要とする魔術師にとっては、この
町は何かと都合が良い。
この依頼は、受けるべきだね。
冴島は橋の上で街灯に照らされながら川を眺めていた。
橋の上では二人のホームレスが街灯の下に座り込んでいる。
物乞いという訳ではないだろう。
では、何のために?
冴島は好奇心に唆され、橋の上にいた二人の男に声をかけた。
26
﹁ねえ、何してるの?﹂
二人の男はきょとんとした顔で彼女を見る。
﹁いや⋮⋮特に何もしてねえけど﹂
冴島はその顔に嘘が無いと見てとるや、
﹁そう。じゃあ、お元気で﹂
短くそう言うと彼女は二人にポケットに入っていたガムを渡した。
一人がそれをガサガサにひび割れた手で受け取る。
何とも反応に困ると言った顔で二人は顔を見合わせ﹁ありがとう﹂
と返した。
﹁どういたしまして﹂
彼女はにこりと微笑み、踵を返し歩き出した。
疑問が解消するという事は何ともすがすがしいものだ。
冴島琴音は明日が楽しみで仕様が無かった。
27
第二章
彼女に出会ったのは件の︽首︾が消えて一週間経ってからの事だ
った。
その日は久方ぶりに本家に帰っていた縁は、離れの小屋で一人横
たわっていた。
ゆかり
ちょうど屋敷の裏にある森の木々が陰になり、小屋を覆っている
ためいついかなる時でも非常に暗い。そのため、縁はこの離れの小
屋を気に入っていた。
ごろんと畳の上を転がる。畳は新しいのだろうイ草の香りがなん
とも心地よい。
母屋の方を向いて開け広げられた戸の方を向く。彼女の居る場所
からであれば、母屋の南側の廊下を見てとることが出来るのだが、
そこにはせわしなく廊下を行き交う使用人の姿があった。
今日は屋敷に一族の人間が集められているのだ。
えにし
えんま
屋敷に一族の人間が集められた理由は既に母より聞かされていた。
ゆかり
なんでも縁家に伝わる︽縁魔の首︾が消えたのだという。
えん さ
縁はそれを見たことが無かったが、存在することは以前より聞か
されていた。
えにし
なんでも、自分たちの一族の始祖にあたる縁左という人物の首な
えんま
のだそうで、非常に強力な呪術師であったらしく、縁家の姓から取
って︽縁魔︾と呼ばれていたらしい。
幼い時分に聞いたことだが、祖母曰く、龍主山の龍を倒したのは
縁左その人なのだとかなんとか。
その祖先のせいか、あるいはそれ以前からなのかは知らないが、
この縁家には代々隔世的に奇妙な力を持つ人間が現れる。
どうにもその奇妙な力というやつが本当に存在するならば、私は
その力を持っているという事になるらしい。
だが、今のところそのような兆しは現れていない。
28
いや。私が気づいていないだけかもしれない。
能力を持っていた祖母もあまり良いものではないと嫌っていたし、
ゆかり
正直、あらわれなくてもいいかな。
縁は退屈そうに天井を見上げていた。
幾つもの四角に区切られた木目の天井はどこか不気味で気味が悪
いから嫌いだ。
そう思い、頬を膨らませて天井の木目を見る。口をすぼめて天井
に向かって口内に詰まっている空気を吹き付けると、大きくため息
をついた。
日ごろから一人でいるという事には慣れっこであったが、どうに
も今日は群を抜いて退屈で仕様が無い。
それというのも、この自由が限られているというところに問題が
あるのだ。
これから数時間後に一族仲良く一部屋に集まって会議をするのだ
という。
それはそうだろう。家宝が紛失したのだ。一族会議は正しい。だ
が、この上ないくらい退屈である。
ゆかり えにし
特に私に対する一族の人々の眼は非常に気にくわない。
縁は縁家の次期頭首である。
えにし
金持ちの家といえばそうだろう。昔ほどではないが、裕福な部類
えにし
か えん
か えん
だ。もっとも、まともに金を稼いでいるのは本家である縁家の経営
する縁工業と、分家の鹿縁家が経営する鹿縁製薬くらいであり、そ
えんぞう
の他の分家が経営していた鉄工業分野などは、すでに潰れてしまっ
ている。最近で特にひどいのは縁三家であり、二年ほど前に新しい
事業を起こそうと多額の借金を四方八方からして、破産してしまっ
たのだ。そう言った経緯で縁三家は、すでに一族から抹消されてい
る。
ともかく、いろいろな事情を抱えた親戚も今日はここに訪れてい
るだろう。
だから、怨み辛みだけならともかく妬みやら嫉妬も今日は入り混
29
じった最悪の空気だ。
この縁家は、大和朝廷以前の女神信仰の流れを汲んだ女系一族で
ゆかり
あり、頭首は代々本家の長女の役目となっている。
ゆかり
そのため、縁は嫌われていた。
縁が次期頭首になるということを拒んでいたからである。
しかし、半ば強引な形で父と母に次期頭首を押し付けられた。結
果として縁家の頭首候補として名が上がっていた分家の親戚たちは
落胆したわけだ。
ゆかり
そのためだろう。親戚の眼が嫌いだ。
縁は自由に生きていたいという考えを持っている。そもそも、縁
は家を守るという性質ではないのだ。故に、当然ながらそのように
振舞う事はできるはずもなく、今回の会議も出席する気は無かった
のだが、母の雇った黒ずくめの大男二人に拉致される形で、こうし
て屋敷に連れてこられた次第である。
そして、その経緯を一族の方々はご存知であるという状態なので、
いつもの三割増し程度に皆さん機嫌が悪いようなのである。
だからこそ、この離れの小屋が落ち着くのだが、非情にも箪笥の
上に居座る時計は会議の時間を示そうとゆっくりとじらすようにそ
の数字に近づいていた。
一度大きく深呼吸をし、やおら上体を起こした。
常に暗いこの小屋のせいで、どうにも時間の感覚が麻痺する。
縁は立ち上がると、ジャージの上下を脱ぎ捨て下着姿になる。
彼女の体の肉付きはあまりよろしくないように見える。貧相と言
えばその通りではあるが、決して肉がないというわけではない。彼
女の場合、無駄な肉が存在していないだけなのだ。
だが、皮の下のことなど開けてみなければわからない。皮肉の話
である。
襖の淵の僅かな窪みにかけられている二年前の制服を手に取り、
目に視える範囲の皺を張った。
着替え終ると、彼女は足早に小屋を出て、綺麗に手入れされてい
30
る││本来入るべきではない││庭を駆け抜け、母屋の玄関に急い
だ。
結構な距離を走ったが、息も切らさずに縁は玄関の前でもう一度
制服を整える。
﹁ここのお嬢さん?﹂
不意に声をかけられ、振り向くとそこには赤毛の女性が佇んでい
た。
﹁は⋮⋮ハロー﹂
焦ってそう答える。
﹁日本人よ﹂
そう言われてみればどことなく日本人のような顔立ちだ。
それでも、やはり外人と言われれば信じてしまいそうなほど綺麗
な二重瞼。
髪の毛は一見したところ赤いだけの様に見えるが、毛先の辺りが
僅かに白みがかっているというか、灰色というか、色が違う事に気
づいた。
ファッションなのかもしれない。
えにし
そういうのには非常に疎いのだけれども。
﹁髪の毛が赤いからてっきり⋮⋮﹂
﹁よく言われるわ。それより、ここ縁家で合ってる?﹂
見ると彼女の手には皺くちゃになった紙があり、そこには地図が
描かれていた。
﹁ええ。どちら様?﹂
﹁やや、申し遅れた。私、灰色魔術師の冴島琴音と言います﹂
そう言って丁寧にお辞儀をしてみせる。
再び顔を上げた彼女の顔は心なしか非常に不機嫌なように見えた
が、きっと気のせいだろう。
﹁ああ⋮⋮﹂
縁はそう返した。
﹁ふうん﹂
31
ゆかり
どこか含んだもの言いで、まじまじと縁の顔を凝視した。
﹁何か?﹂
﹁まあ、いいや﹂
彼女は人差し指をピンと立てると、自身の顔の横に持って行き、
﹁とりあえず中入って良いかな?﹂
と、ウインクしてみせた。
﹁ええ。どうぞ﹂
何だこの人。
変なの。
ま、私が言えたことではないんだけどね。
縁は玄関を開け、冴島と名乗った魔術師を家の中に招き入れた。
玄関から入ると、向かって左に進路をとり、しばらく歩く。右手
に見える庭はよく手入れされており、苔と岩。そして小さな池を泳
ぐ色とりどりの鯉が風情を醸し出していた。
庭が終わり、左手にずらりと並ぶ襖の白い壁。
この奥の座敷に一族の皆さんが既に集まっているはずである。
冴島を見ると、口だけを動かし﹁ここ?﹂と指をさしながら尋ね
ている。
縁はこくりと頷くと、襖の前に正座した。
冴島も焦りその場で正座する。
障子一枚挟んだ向こうからはあれやこれやと大人たちが声を荒げ
て言い合っている。
その気迫に押されてからか、かすかに縁の腕は震えていた。
﹁冴島様がお見えになられましたのでお連れいたしました﹂
﹁様だなんて⋮⋮照れるなぁ﹂
小声でそう言う。
形式上だっての。
心の中で小さく縁はそう愚痴った。
﹁お入りください﹂
母の声である。
32
﹁失礼いたします﹂
襖を開けると、なんとも言えない臭いが漂っている。
そうして、やはり好きになれない目線。
﹁おお。これはこれは、縁さんではありませんか、次期頭首様はい
つお見えになられるのかと、首を長くしてお待ちしておりましたよ﹂
か えんしょうや
嫌味ったらしくそう言い、どこか得意げに綺麗に整えたオールバ
ックの髪を撫でたのは、鹿縁昌也であった。
縁はその威圧的な目線に体が震え、
﹁えぇ⋮⋮っと﹂
と、今にも泣きだしそうな声ともつかない音が、縁の淡い桃色を
した小さな唇の隙間からこぼれ出る。
﹁はいっ!﹂
突然、隣の魔術師が手を挙げる。しかも、その手は人差し指がピ
ンと立ち、反対の手は腰に手を当てている。
一族全員きょとんとした顔でこの魔術師を見る。
﹁失礼なのは承知ですが。一ついいですか?﹂
誰かが頷いたのだろう。彼女はにこりと微笑み、鹿縁昌也の方を
向いた。
﹁あなた、ジョン・トラボルタに似てるって言われません?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あ、それでさっきの手の挙げ方だったのか。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その場が凍った││││ように見えたが、数人は必死に笑いをこ
らえているような顔だ。
鹿縁昌也を嫌うものは多い。
かなえ
縁家の?2である鹿縁家の代表である彼は、もともと入り婿であ
る。
しかし、その天性の口のうまさとカリスマで今や妻の和を差し置
いてあれやこれやと縁家に口出しする存在となっている。
それ故、嫌われている。
33
﹁いやね。その﹃パルプフィクション﹄の時のトラボルタ風の髪型
に高級スーツを着ているせいかもしれないですけど、似てませんか
ね?﹂
鹿縁昌也は眉間に皺を寄せて今にも爆発しそうな表情で魔術師を
睨む。
魔術師はそんな昌也には目もくれず、縁を見てウインクをしてみ
せた。
﹁冴島さん。お待ちしておりました﹂
何事もなかったかのように母がそう言う。
﹁遅くなって申し訳ありません。何分道が分からなくて﹂
﹁ああ。ここは分からないようにされていますものね。分からなく
て当然です﹂
﹁まさか、山の上にあるなんて思いもしませんでしたよ。あはっ﹂
﹁お手紙の方に地図は描いておいたはずですが⋮⋮まあ、いいでし
ょう。それで、調査をして頂けるのでしょうか﹂
﹁それはもちろんです。ただ、その前に一つだけ伺いたいのですが。
よろしいですか?﹂
﹁ええ。何なりと﹂
﹁例の︽首︾とやらは盗まれたのですか? それとも、自力で消失
したのですか?﹂
一瞬。部屋の人々の目線が異様な速さで飛び交うのを縁は見逃さ
なかった。
否。視えてしまったのである。
その目線の色が。
不思議な感覚であった。光線のような赤色の目線が一族の人々を
瞬時に結んだのである。
縁は自分の視覚を信じられず、目を擦る。
再び視た世界にはその線はもう存在していなかったが、それでも
胸の高鳴りは大きくなる一方であった。
何かの見間違いなのだろうと、母を見やる。
34
えにし
かい
ゆかり
縁会。縁の母である。
肌に目立った皺は無く、色白。十八にもなろうかという子供がい
るとは到底思えない若さだ。娘の私が思うのもまた変な物なのだけ
れども。
縁は緊張の中でそう思う。
﹁アレは常日頃から封じられておりました。故に自力での消失は有
り得ないかと﹂
﹁けれども、その︽首︾とやらの強さはあなた方が一番ご存知なの
でしょう?﹂
﹁封は強力な物です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮では、誰かが意図的に盗んだという事ですか。ふむ﹂
そう言ってこくりと頷き一人で納得する。
﹁で、お嬢ちゃんはどう思う?﹂
﹁へ?﹂
ゆかり
突然のふりに、どうしたらいいか分からなくなる。
それと同時に、先ほどの赤い光線が今度は縁に結び付いた。
﹁わっ﹂
小さく悲鳴を上げると、後方に倒れた。
親戚一同が、再び縁を見る。
縁の体を赤い光線が覆い込んでいく。
﹁わっ⋮⋮いやっ! いやぁっ!﹂
両手を振り回すがその光は一向に収まらない。それどころかひど
くなる一方であった。
﹁ふうむ。なるほどねぇ⋮⋮﹂
冴島がそう言うのが聞こえた。
この時、既に光で縁は目を開けられないでいた。
﹁とりあえず⋮⋮寝かせましょう﹂
額に何かふれる。
暖かく。包み込まれるような安心感が湧いてきた。
そうして、意識はまどろみの中に落ち込んでいった。
35
1
目が覚めた時、あの光は無く。代わりに眼前には冴島と名乗った
魔術師が覗き込むように私の顔を見ていた。
﹁何か?﹂
﹁いや。大丈夫かなぁ、と﹂
﹁大丈夫﹂
少し、むくれた様にそう返す。
﹁そう﹂
それに対抗したかのように、短く切り返された。
﹁何が起こったの?﹂
縁は重たい上体を起こしそう尋ねた。
ここは離れの小屋のようだ。
そして、ここには魔術師の彼女以外いないようである。
﹁それは倒れたあなたが一番詳しいのではないかしら?﹂
光が⋮⋮そうだ。溢れる様な光が視えて。
﹁光が視えた﹂
﹁私も見えるけど﹂
﹁本当!?﹂
すると、冴島は携帯を開き、指を画面に向けた。
﹁ほら。光よ﹂
﹁そう言う光じゃない。もっとこう⋮⋮気持ちの悪い光﹂
両手でジェスチャーしてみせるが、あの光をどうにもうまく表現
できない。
﹁そう言われてもなぁ⋮⋮﹂
彼女は立ち上がると、背伸びをした。
﹁そうそう。それはいいとして﹂
﹁良くない! 何がいいのよ﹂
﹁視えてないんでしょ、今は﹂
36
それはそうなのだが。
縁は煮え切らない気持ちで彼女を見た。
﹁そんな眼で視ないでよ。どうしようもないことだし。それより、
私、しばらくあなたの家で厄介になることになったから﹂
さらりとそのような事を言う。
﹁はあ? ちょっとまって。どういうこと?﹂
﹁どうもこうも、あなたの家にしばらく居候させてもらうことにな
ったっていうことよ﹂
﹁⋮⋮なんで﹂
﹁何でって⋮⋮ああ、そうか話聞いてなかったのか﹂
それはそうだろう。私は今の今まで気を失っていたのだから。
﹁どういう事か説明して﹂
﹁先に言っておくけど、あなたのお母様の了解は貰ってるから、嫌
だったらお母様に文句を言えばいいんじゃないかしら﹂
そんなことできよう筈も無いではないか。
口をへの字にして、縁は冴島を見た。
﹁ま、兎に角。私は件の︽首︾を見つけるまであなたの家で厄介に
なるから﹂
縁はこくりとも頷かず、顔を背けた。
﹁とりあえず改めて自己紹介しておくわね。私は、冴島琴音。よろ
えにしゆかり
しく﹂
﹁縁縁。よろしく﹂
﹁つれないなぁ﹂
それはそうだ。そもそもに私は人と接するのが苦手なのだ。
ほぼ初対面に近い素性もろくに知らない他人と同棲なんて⋮⋮。
だが、縁は認めたくなかったが、心の隅では嬉しさに近い感情が
生まれていた。
2
37
眼下の街並みの奥に見える山々に夕陽が沈みゆく。
その様子を縁は母屋の縁側で眺めていた。
﹁どうしたのです?﹂
縁がふりむくと、少しやつれた顔の縁会がこちらを見ていた。
既に来客用の着物ではなくなっているところから見て、先ほどま
でしぶとく他企業との併合の話を勧めていた鹿縁昌也は、諦めて帰
ったという事なのだろう。きっと鬼瓦の如く憤怒の表情をしていた
に違いない。
﹁いえ⋮⋮別に﹂
ぼそりとそう言い、縁は再び目線を陽に向けた。
独りが楽だ。
そう思うけれども、やっぱり、私はどうしようもなく寂しいのだ
と分かっている。
もちろん。母も辛いのだ。
私を独りで館に住まわせるのは、私の為だと知っている。
それでも、こうしてなんでもない時に黙り込んで、連絡が取れな
いのは、私も母もきっと弱い人間だからだと思う。
私は次期頭首として、母は現頭首としての重荷を背負い生きてい
る。その重荷は、ある種呪いのような物で、外部からの力によって
強くも弱くもなる。
その締め付けで、伝えるべき話は詰まってしまい、届くことは無
いのだ。
﹁あ。いたいた。すいませーん縁さん。ここのトイレってウォシュ
レット無いんですかね? その⋮⋮お尻が弱いものでして。あんま
りごしごししちゃうとすぐ切れちゃうんですよね、私﹂
夕焼けの沈黙の中で、静寂を破りとんでもないことを言ってきた
のは、他でもないあの魔術師だった。
にこにことそんなことを言いながら少し申し訳なさそうに頭を掻
いている。
﹁それでしたら、車庫のお手洗いに﹂
38
﹁ありがとうございます﹂
そう言って、頭を下げる。頭を上げた瞬間、彼女と目が合ってし
まった。彼女は何を思ったのか、頬を緩めた。その表情はあからさ
まに何かを企んでいるかのような表情であった。
﹁ところで、娘さんは学生さんですか?﹂
﹁いえ。高校は中退しております﹂
母はさらりとそう言った。
縁はその母の発言を少し俯きかげんに聞いていた。
どこか鹿爪らしい表情を取っていた魔術師は、突然﹁そうだ﹂と
手を打った。
﹁どうして私を雇おうと思ったんですか?﹂
﹁それでしたら、この町の監視員に尋ねまして。優秀な魔術師を紹
介してもらったのです﹂
﹁誰です?﹂
﹁ジェイムズ・ホワイトという方です﹂
﹁ジェイムス⋮⋮﹂
﹁白髪に白髪の男性ですが﹂
頬をさすりながら彼女は首を傾げる。
﹁妙なパイプを銜えていましたよ﹂
﹁ああ! あの変人か!﹂
分かったのか、すごく嬉しそうに手を叩いてみせた。だが⋮⋮変
人とはどういう事なのだろう。気になる。
﹁なんでも、あなたはすごい御方のお弟子なんだとか?﹂
﹁私の師匠? ええ。すごいと言えばすごいのかもしれないですね。
もっとも、私からすればあの人はただの変人ですけどね﹂
変人ばかりじゃない。
縁は心の中でそう呟いた。
﹁先ほどのお話ですけれども﹂
﹁はい。なんです?﹂
﹁本当に構わないのですか?﹂
39
﹁ええ。もちろん。私としては構いません。けれども、ここは彼女
の意見も聞いておくべきなのでは?﹂
彼女はそう言うと、縁の方を向いた。
﹁縁の意見ですか﹂
母は私に目を向けると、わずかに首を傾げて見せた。
えにし
かい
縁はすぐさま目線を魔術師の方に向ける。
﹁私は⋮⋮別に﹂
﹁嫌なら嫌だと言うべきだよ?﹂
魔術師はにこりと微笑むと、縁ではなく縁会の方を向いた。
﹁いいの。これは私の意見だから﹂
﹁ふうん﹂
﹁そういう事なので。どうぞ、よろしくお願いします﹂
縁会はそう言うと、深々とお辞儀をする。
﹁はい⋮⋮あ、私トイレに行かなきゃ! 了解の旨は縁ちゃんにし
といてください﹂
そう言って魔術師は駆け足で車庫の方に向かって行った。
廊下の曲がり角に魔術師が消え、夕暮れの縁側に母と娘が残され
た。
﹁⋮⋮縁﹂
母は静かに娘の名を呼んだ。
娘は無言で母を見る。
﹁勝手に決めたのだけど、あなたは良かったのですか?﹂
﹁少し、怖いです﹂
﹁でしたら⋮⋮﹂
﹁良いんです。それでも⋮⋮﹂
娘は言葉尻を浮かせ、再び陽に目を向けた。陽は既に沈んでおり、
わずかに残った光が名残惜しげに手を伸ばしている。
母は何も言わなかった。
娘も黙り込んでいた。
それでも、この間に伝えるべき話は確実に伝わっているのだ。こ
40
の家ではそれでいい。
陽が完全に沈み込んだ藍色の連なりを二人は静かに眺めていた。
41
第三章
1
親族会議の翌日、二人は叉奈木の外れにある縁の住まう館に向か
った。
あずまぎくれきち
小高い丘の上にうっそうとした針葉樹に囲まれるようにしてその
ジョサイア
洋館はひっそりと在った。
明治の中頃にJ・コンドルに師事していたとされる東祁紅吉とい
う建築家に頼み、建築された館である。南東方向に大きめの塔があ
り、北西方向には南東の物より小型の塔がある。そして、何より特
徴的なのが、当時としては珍しく赤レンガを用いず、西洋の建築物
に用いられていた灰色のレンガを用いたことである。
その灰色のレンガで築かれた佇まいから、叉奈木の人々はこの館
を﹃灰色館﹄と呼ぶ。
﹁ここだけど⋮⋮ねえ、涎垂れてる﹂
冴島琴音のぽかんと開け広げられた口からはだらしなく涎が糸を
引き、地面に不恰好な楕円を描いていた。
﹁素晴らしい⋮⋮まさに、私にぴったり!﹂
﹁別にあなたの物じゃないでしょ﹂
﹁ねえ! ここに一人で住んでるの?﹂
﹁まあ⋮⋮そうだけど﹂
﹁すごい! ここあなたの物なの?﹂
これは縁家の物である。将来的には││認めたくはないが││頭
首になる縁の物ともいえないことは無い。
﹁後々はそういう事になるのかな⋮⋮﹂
突然。冴島はしゃがみこむと、縁の手を両手でがっしりと握った。
﹁な⋮⋮なに?﹂
﹁結婚しよう!﹂
42
﹁はあ?﹂
﹁だってぇーー! この館すっごい欲しいんだもん! ねえ、結婚
してよぉ!﹂
冗談ではない。何を言っているんだこの女は。
﹁あなた女でしょ﹂
﹁問題ないわよ。いい。これからの世の中、そういう結婚の在り方
も出てくると思うのよ。だから!﹂
﹁無理﹂
縁は手を振りほどくと、門をくぐった。
﹁うう。ご無体なぁ⋮⋮﹂
館に入ると、やはり重苦しい。
我が家とは言え、独りで住んでいるわけで。管理なんて行き届か
ないものだから、埃だらけで非常にかび臭いのである。
縁に続く形で冴島が館に入る。
途端。後ろで何か掃除機のような音が聞こえたかと思い、振り向
くと冴島が館の空気をこれでもかと鼻で吸い込む音であった。
そして、肺一杯に吸い込んでいるのか、もともと大きな胸の辺り
はとても膨らんでいるように見えた。
﹁ちょっと、何してるの?﹂
見ればわかることであったが、とりあえず尋ねてみた。
一気に息を吐きだすと、頬を緩ませサムズアップをしてみせる。
﹁素晴らしいかび臭さね!﹂
褒めているのやら、貶しているのやら⋮⋮。きっと彼女的には前
者だろうが。
思いはしたが訊ねずに、縁は先に進んだ。
玄関から突き当りの場所に階段がある。その前で縁は立ち止まっ
た。
﹁二階の一部屋好きなところを使って。二階はほとんど使ってない
から、どこでもいい﹂
43
﹁本当に?﹂
﹁⋮⋮たぶん。少なくとも私は使ってない﹂
﹁含んだ物言いね。幽霊でも出るの?﹂
﹁出ないんじゃない。見たことないし﹂
﹁それはそれでがっかりね。面白くないし﹂
冴島は大きな旅行鞄を階段の手すりに預け、階段を少し上がり、
吹き抜けを眺めた。
﹁ねえ。何か曰くは無いの、この館﹂
そう言われても⋮⋮縁家の人々から聞いたことは無いが、そう言
えば学生時代はいろいろとこの館にまつわる噂を耳にしたことはあ
った。
﹁無いこともないのかもしれない﹂
﹁やっぱりあるんだ﹂
冴島は嬉しそうに階段の上から縁の方を見る。
﹁例えば、この館の地下室で昔、旧日本軍が人体実験をしていたと
か﹂
﹁して、その真相は?﹂
﹁地下室はあるけど、そもそも軍部とは縁家があまり仲良くなかっ
たらしくて、有り得ないって、以前祖母が言ってた﹂
﹁⋮⋮何に驚くって、さも当たり前のように軍部を引き合いに出し
てくるあたりやっぱり縁家ってすごいのね﹂
﹁普通じゃないの?﹂
﹁そりゃそうさね。他には何か面白そうなことは?﹂
﹁どれもこれも、適当な噂ばかり﹂
﹁そうなんだ。まあ、あんまり期待してはいなかったけどね﹂
冴島は階段を下りると、再び鞄を手に取った。
﹁いやぁ。それにしても広いね﹂
縁はこくりと頷く。
﹁どこに何があるとか把握してるの?﹂
﹁いいえ。最低限自分の使うもの、必要なもの程度の場所しか知ら
44
ない﹂
それを聞いた途端、冴島が頬を緩め、﹁ほお﹂と顎をさすった。
﹁何?﹂
この時点であまり良い予感はしていなかったわけであるが、その
後の彼女の発言はなんとなく予想が容易であった。
﹁館を探索しよう!﹂
かくして、あまり乗り気ではない館の主と居候の魔術師による灰
色館の探索が始まったのである。
2
﹁ねえ。ここあなたの館なんでしょ?﹂
冴島は縁にそう尋ねる。
﹁ええ﹂
﹁二階の事全く知らないのね﹂
﹁ええ﹂
縁はこくりと頷いた。
﹁それは良いとして⋮⋮私の腕に抱き着くの止めてくれないかな﹂
縁はこれでもかと冴島の左腕にしがみ付いていた。
風で窓が震えるたびに縁もわずかに震える。
﹁ははーん﹂冴島は嬉しそうに頬を緩めた。
﹁さては、この館を広く使わないのは⋮⋮怖いからだなぁーー縁ち
ゃん﹂
縁は頬を膨らませ冴島を睨むが、冴島が縁を振りほどこうとする
仕草をしてみせると、涙目で冴島にしがみ付くのである。
﹁さっきあなたが幽霊なんていないって言ってたじゃない﹂
﹁あれは⋮⋮幽霊ってね。いるって思ってる人の所に集まるって、
言ってたから⋮⋮だから、幽霊なんていない、の﹂
泣きそうな声で縁は言う。
﹁うう⋮⋮そこまで怖いんなら、使用人とか雇えばいいのに。縁家
45
ならそれぐらい難しくともなんともないでしょうに﹂
﹁⋮⋮人付き合い苦手だから﹂
﹁んん⋮⋮いろいろな要素が足を引っ張り合って二進も三進も行か
ない状態なわけね。とりあえず戻ろうか﹂
縁は黙ったまま静かに頷いた。
かくして、二人の灰色館探索はものの数分で終了したのである。
リビングは二階のようないかにも古風な館の雰囲気ではなく、あ
る程度は現代風に使い勝手の良さそうな趣きである。
オレンジ色の光に照らし出されるリビングはなんとも美しい。
縁は一人用のソファに腰をおろし、冴島はその隣にある大きめの
ソファに腰を下ろした。
﹁ねえ。聞きたいことがあるのだけれど﹂
先に口を開いたのは縁であった。
﹁あなたって何歳なの?﹂
﹁うーん。それを聞いちゃうかぁ⋮⋮その前に、私の事は琴音って
呼んでくれると嬉しい。どうにも、名前で呼ばれなきゃ変にむず痒
くて﹂
﹁そう。分かった﹂
﹁何か飲み物ある?﹂
﹁冷蔵庫が奥にある。多分その中に何かあると思う﹂
﹁じゃあ、取って来るわ。あなたも何か飲み物いる?﹂
﹁ええ。水か何かを頂戴﹂
﹁分かった﹂
琴音はそう言うとソファから立ち上がり、すたすたと歩いて行っ
てしまった。
縁はふと、年齢を聞いていないことを思いだした。
なるほど。
それほどまでして年齢を聞かれたくないのか。
面白い。是非にでも聞き出してやる。
46
しばらくすると、琴音は両手にミネラルウォーターを持って帰っ
てきた。
﹁飲むでしょ?﹂
﹁うん。では、話の続きとする?﹂
﹁何の話?﹂
﹁冴島琴音が何歳かって話﹂
琴音の眉がぴくりと反応した。
﹁はぐらかしたって無駄よ。私はしつこいから﹂
﹁そのようね。ところで、この水││﹂
﹁はーい! はぐらかすのは無し! さあ、何歳なの?﹂
縁はソファから腰を浮かし、琴音に顔を近づけた。
﹁う⋮⋮そう言うのは、ほら、デリケートな問題だし﹂
﹁そう? あなたが言わないなら私が先に言う。私は十八歳よ﹂
﹁十八歳なの? 若いのね⋮⋮﹂
﹁ほら、はぐらかさないで﹂
﹁もーう! 言いたくないのよぉ﹂
﹁私はこの館の主だもの。素性の知れない輩をここに居座らせるわ
けにはいかないの﹂
﹁二階に一人で行けない癖に⋮⋮﹂
ぼそりと琴音は呟く。
﹁何か言いましたか﹂
﹁いいえ、何も言ってませんよっ!﹂
﹁さあ、何歳なの?﹂
﹁ま⋮⋮まだ、二十代よ! こ、これだけははっきりさせておくわ
よ!﹂
ということは、二十九か、あるいは今年で三十かそこいらという
訳か。
なるほどね。魔術師でもそれなりに並の悩みも持っているものな
のね。
縁はとりあえず頷き、それでいいことにした。
47
﹁さて、冗談はさておき。そろそろ、この間君の身に起きた問題に
ついて教えておくことにしましょうかな﹂
琴音はそう言うと、ソファに深々と腰をおろし、ミネラルウォー
ターを開け口に含んだ。
﹁あの光について何か知ってるの?﹂
﹁まあ、ね。あの後君のお母さんにいろいろ尋ねたから﹂
﹁私のこれって何か、その、魔術的なやつなの?﹂
﹁会った時から気にはなっていたんだけれどもね。君は、魔術をど
こまで知っているの?﹂
﹁え?﹂
﹁普通。魔術師、って名乗ると聞き返されるのが常なのよ。まあ、
そうやって相手を確かめてる節は無きにしも非ずだけど。それが君
の場合は特に聞き返すことも無くすんなりと聞きいれた。その理由
を詳しく教えてはくれない?﹂
ああ、そういえば、あの時含んだような笑みを浮かべたのはそう
いう事だった訳か。
私が魔術を知っていると。
それを彼女は見抜いていたわけか。
縁は少し、琴音に感心した。
﹁別に魔術が使えるわけではないけど。存在は知ってる。昔、祖母
が生きている頃に会った程度だけど⋮⋮。だから、どういった仕組
みで、術が行使されるとかまでは知らない﹂
﹁なるほど﹂
そう言うと、彼女は腕を組み、顎をさすった。
えん
﹁まあ、魔術に関しては後々説明するとして。今はとりあえずあな
たの能力についてだけ説明しておくわ。あなたには︽縁︾が視える
みたいね﹂
﹁︽縁︾?﹂
ほし
め
﹁そう。日本においてはそう言うのが最も分かりやすいたとえ。別
名は︽星の眼︾とも呼ばれる一種の魔眼ね﹂
48
ほし
め
﹁︽星の眼︾って、どういう事?﹂
﹁そのものずばりよ。星に眼があるとしたら、あなたが感じている
ような視覚を持つことになるってわけよ﹂
星に⋮⋮視覚?
駄目だ。やっぱり理解の範囲外だ。
話について行けない。
﹁⋮⋮分からない﹂
﹁でしょうね﹂
琴音はさっぱりとそう言い切ると、再びミネラルウォータで口を
湿らせる。
﹁良いのよ、それで。簡単にあなたの眼の事を説明するとすれば、
人との繋がりをあなたは視覚として認識することが出来るってわけ﹂
﹁人との繋がり⋮⋮﹂
苦手だ。
人との、繋がりは。
人に合わせることほど苦痛なことは無い。
縁は俯きかげんに琴音の話を聞く。
﹁皮肉よね。人と繋がることを頑なに拒むあなただけが、この世で
ただ一人その繋がりを認識できるなんて、ね﹂
﹁そう⋮⋮ね﹂
﹁ま。でも、まだあまりはっきりとは視えてないんでしょ?﹂
﹁ええ﹂
﹁まだ完全に覚醒しているわけではない、か﹂
そう言うと、鹿爪らしい表情で耳にかかる髪を掻きあげた。
﹁今の状態はおそらく、親族や親しい人間からのあなたに対しての
みの︽縁︾しか視覚化できないようね﹂
﹁私に対しての?﹂
﹁そう。だから、あの時あなたに注目が集まった瞬間。一気にあな
たに対する︽縁︾が収束してあなたを覆ってしまったというわけよ﹂
﹁あの赤い光は全部私に対しての物だったんだ⋮⋮﹂
49
﹁で、ここからが今回の件に係わってくる重要なところだからよく
聞くように﹂
そう言って彼女は右手の人差し指をピンと立て、顔の横に持って
行った。
﹁分かった﹂
﹁あなたのその︽縁︾を視る力で件の︽首︾の有りかを探ってほし
いのよ﹂
琴音はそう言うとともに縁の額に人差し指を当て、俯いていた顔
を押し上げた。
﹁はあ? そんなことできるわけない﹂
﹁その反対よ。できるに決まっている。あなたと件の︽首︾は遠く
離れているとはいえ、血縁関係にあるのよ? だから、あなたの魔
眼を強化すれば、きっとあの︽首︾を見つけ出すことが出来るはず
なのよ﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
﹁大丈夫。私も協力するから。そのためにこうやってあなたに付き
添ってるのよ?﹂
にこりと微笑みサムズアップをしてみせる。そんな琴音を見て、
縁はなんとなく気恥ずかしくなりまたしても俯いた。
だが、縁の頬は琴音まではいかなくとも、うっすらと緩みを見せ
かけていた。
誰かに頼られることなど生まれてこの方経験したことが無い縁は、
うれしくてたまらなかったのだ。
﹁友達⋮⋮﹂
ぼそりと縁がそう言う。
﹁何?﹂
﹁友達⋮⋮からなら、許す﹂
そう言って縁は顔を上げて琴音の眼を見た。
﹁⋮⋮⋮⋮あ﹂
琴音はなんだかそわそわして、目線を合わせなくなった。
50
﹁その、こんな私好みの館に居候させてくれてうれしいし、正直、
あなたはすっごく美人さんだと思うわ⋮⋮﹂
琴音が突然そう言いだしたことが分からず、縁は小首を傾げた。
﹁さ、さっきは、その、冗談で言ったつもりだったんだけど⋮⋮あ、
別に偏見は無いのよ。そういう事に関しては。ただね⋮⋮うう、参
ったなぁ﹂
そうして、ここで縁は彼女がとんでもない勘違いをしている事に
気づく。
﹁べ、別にあなたとそういう関係を望んでるわけじゃない!﹂
﹁へ? そうなの? ありゃ、てっきり口説きに掛かってるのかと
ばかり⋮⋮﹂
﹁私はただ、これから一緒に住むなら、他人じゃなくて、友達にな
っておきたいと思って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮普通はそんな友達の約束なんてしないんだけどもなぁー﹂
やはりどこか引き気味に縁を伺う。
﹁だから、違うって! 私は別に⋮⋮そういう人間じゃない!﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
﹁あ、何その﹃苦し紛れな嘘をつきおって﹄みたいな顔﹂
﹁どんな顔よ﹂
﹁鏡見れば﹂
﹁あ、そうだ。お風呂場とかは?﹂
﹁案内しようか?﹂
﹁はっ!? やっぱり、それが狙い?﹂
﹁お風呂場って言いだしたのあなたじゃない!﹂
気が合うのか、合わないのか、いまいち分からない二人の奇妙な
共同生活はこの夜から始まったのである。
※ ※ ※ ※
苦しい。
51
いき苦しい。
突然襲い掛かって来たその物体は、しっかりと首に噛みつき離さ
ない。
喉が焼ける様に熱い。
まるで熱湯を直接喉に流し込まれているような感覚であった。
喉が焼け爛れるのを感じる。
く、苦しい。
息が、できない。
悶える様に呻き、体をのた打ち回らせる。
その様に気づいたのか。
同居人が駆けつけてきた。
その時、既に喉の熱さは体中に広がっていた。
皮膚は爛れ、腫れあがる。
赤く変色した体。
血管は膨れ上がり、青色の寄生虫の様に皮下を蠢きまわる。
﹁違う⋮⋮﹂
不意に耳元で誰かがそう囁いた。
途端。首に噛みついていた黒い物体はけらけらとけたたましく高
笑いを上げると、家の屋根を突き抜け夜空に消え去った。
3
さかいや
翌日、縁は日課のジョギングに赴こうと館を出て驚愕した。
館の入り口には﹃境屋﹄と達筆で描かれた看板が立てかけられて
いたのである。
驚くというより、呆れて踵を返し館に引き返した。
ゴチック調の扉を開けると、彼女は腕を組みそこに立ち伏してい
た。
﹁どうよ﹂
﹁⋮⋮どうもこうもない。まず、説明して﹂
52
琴音は親指と人差し指で輪を作り、顔の横に持って行って﹁オッ
ケー﹂とウインクして見せた琴音の眼は充血しており、目の下には
クマがある。
歳を考えろ。と言いかけたが、ここで大喧嘩になっても仕様がな
い。
﹁ほら、あの︽首︾って、強力な魔力を持ってるらしいじゃない?﹂
そう言われてもあまり詳しくはないが、とりあえずこくりと頷い
て見せる。
﹁だったら、間違いなく人に影響があるはずなのよ﹂
﹁だから?﹂
﹁端的に言うと、ここを探偵事務所にしちゃった﹂
﹁は?﹂
﹁だから。ここを探偵事務所にしちゃった﹂
﹁しちゃったじゃない! 意味が分からない。まず、そもそもあの
︽首︾は危険なの?﹂
﹁そりゃそうでしょ。危険だから一族集めて会議して、門外不出の
情報をよそ者のお雇い魔術師風情に開示したうえで一族頭首が頭を
下げてお願いするくらいだからねぇ﹂
彼女はどこか得意げにそう言う。
﹁具体的にどう危険なの?﹂
﹁さあ。実物は見たことないから何ともだけど、残留していた劣化
魔素から察するに、あれは大量の魔素を食らって動くみたいだから、
それと同量の劣化魔素が周囲にばらまかれてしまうってわけなのよ﹂
魔素? 劣化魔素? 何を言っているのだろう。
縁はたまらず小首をかしげる。
﹁分からない、か。そりゃそうよね。いいわ。説明しましょうかね。
とりあえずここで話すのもなんだから、リビングに行こう﹂
﹁魔術云々の事はどうでもいいの。あの︽首︾が危険なのは分かっ
たから、どう危険なのかを教えて﹂
53
縁はソファで胡坐をかく形で座る琴音に詰め寄った。
﹁それは分からない﹂
彼女はさらりとそういう。
いい加減なことを⋮⋮。
怒りを含め、縁がそう発しようとするのを琴音は人差し指を差し
向け、制止させる。
﹁いいこと? さっきも言ったけれども、私は現物を見たことがな
い。だから、限られた証拠をもとに、︽縁魔の首︾を推測しなけれ
ばならないの。それはお分かりでしょう?﹂
縁は黙って頷く。
﹁だから、具体的には分からないってわけ﹂
﹁じゃあ、おおよそでいいから、どれくらい危険か教えて﹂
﹁よろしい﹂
琴音はそう言うと小さく頭を下げて見せた。
﹁見てて﹂
彼女はおもむろに立ち上がると、カーキのブルゾンのポケットに
手を入れた。
指につままれて取り出されたのは、小粒大の血のように赤い石だ
った。
ジェム
﹁それは?﹂
﹁魔石よ﹂
もちろん理解していないが、ここでまた﹁分からない﹂なんて口
にすれば、話がいよいよこんがらがること必須だろう。
そう思い、縁はとりあえず﹃それ﹄が︽何か?︾ではなく。﹃そ
れ﹄を︽どうするか?︾について質問をすることにした。
﹁それでどうするの?﹂
﹁ふふん﹂
彼女は鼻で笑うと、左手に魔石を握り、右手を前に掲げた。
途端、琴音から放たれたのは白色の光線だった。それは最初無数
にあり、蜘蛛の糸のように細かったが、すぐさま螺旋を描くように
54
動き始め、一つの太い束に収束した。そうして、部屋の壁に埋め込
まれている暖炉に行き、そこで球体に形状を変えたかと思えばごう
と青白い炎が燃え上がった。
﹁これが、魔術﹂
得意げに胸を張り、そう言う。
﹁思っていたより⋮⋮派手、ね﹂
﹁そう? これでも割と地味目な奴なんだけど﹂
﹁これで? 冗談でしょ﹂
﹁ま。感性なんて人それぞれよね。まあ、これが魔術なわけだけれ
ども、ほら﹂
彼女はそう言って左腕の袖を捲った。
左手には赤い石。それは手のひらの上に転がっていた。そして、
コード
インストール
その彼女の手の平には青い幾何学模様が浮かび上がっており、それ
ジェム
は手首の辺りまで広がっていた。
スクリプト
﹁これ⋮⋮なに?﹂
コード
﹁私の体理式にこの魔石に刻まれた魔術理式を理式取込したの。ん
で、これは理式が私の体を乗っ取ろうと侵食しているところ。くわ
えてどうせ理解していないだろうから一気に話すけど、魔術とは、
とどのつまりこの侵食を押し返してこそ成立するの。だから、今か
ら私はこの侵食を押し返す。するとこの侵食痕は消えてなくなって
おしまいってわけ。分からなくていい。こういうものだと。こうい
う事も起こるのだと、そう理解しなさいな。
ジェム
それで、あの︽首︾の行動にもこういったことがとんでもない規
模で起こっているはずなのよ。今のはこの石ころサイズの魔石で私
コード
ジェム
の手首までの侵食だったけど、あの︽首︾は、人の頭大の大きさで
スクリプト
とんでもなく莫大な魔術理式を内蔵した魔石みたいなものだから⋮
⋮これは想像つくと思うけど、人間一人じゃ術の行使に体理式が足
りないのよ。だから、何人もの犠牲者が出るはずなの。それもおそ
らく不可解な出来事であるはずなのよ!﹂
そこまで一気に話す琴音。もちろん理解はしていないが、それで
55
も聞きたいことがあった。
﹁どうして不可解な事だって分かるの?﹂
縁は無理やり言葉を押し込む。すると、彼女はニタリと頬を緩ま
せ、
﹁それは簡単な話。だって魔術なのよ。人間が理解すると思って?
いや、しない。しないわ! 魔術なんだもの! 人はそんなもの
見向きもしないのよ! 見たくないのだから! 視えないものを理
解できると? 不可能よ。だから不可解な事件のはずなの。お分か
り?﹂
琴音は怏々と両手を広げて雄弁した。
縁はやはりというか、当然と言うか、小首を傾げるだけだった。
琴音はそんな彼女を見て﹁よろしい﹂と、語りかけた。
﹁詳しくは暇なときにでも教えるわ。私は徹夜でこの町を駆けずり
回ったので非常に眠いわけよ。ってなわけで二階のマイルームで一
眠りするけど、たぶんお客が来るだろうから、適当に話聞いてあげ
て。その中で何か私好みな依頼があれば受けなさいな。以上! さ
らば! とりあえず朝だけどグッドナイト!﹂
琴音は駆け足でリビングを出る。どたどたと扉を挟んだ向こう側
で階段を駆け上がる音がする。
縁は﹁ふう﹂と溜息をつくと、ソファに腰を深々と落とし込んだ。
壁際に見える暖炉では小さくなった青い炎がゆらゆらと揺らいで
いた。
全く理解できない。
あまりに⋮⋮過激で、刺激的すぎる。
この館に追いやられてこんなに充実した朝をかつて迎えたことが
あっただろうか。
縁は首をソファにもたげ、天井を見上げた。
オレンジ色の光が真上にはある。
ああ、なんて⋮⋮綺麗な。
待てよ。誰が来るというんだろうか。
56
入り口の看板。
探偵事務所。
徹夜で町を駆けずり回っていた。
そして、そろそろ人が来るかもしれない。
何故?
縁の中で全ての単語が結びつく。
途端、ソファから跳ね起き、玄関に出向く。
先ほどは気付かなかったが、玄関に何やらA4サイズの紙が積み
上げられているではないか。
一枚めくり見て見る⋮⋮。
﹃無料探偵事務所﹃境屋﹄丘の上の灰色館でお待ちしております﹄
言葉が無かった。
何を⋮⋮無料?
混乱する。
いったい⋮⋮。
その時、館に呼び鈴が鳴った。
※ ※ ※ ※
ぬらりと糸を引く液体。
それは彼の一種異様に膨らんだ腕から、滴り落ちていた。
河川敷の橋の下。
河原の砂利にいくつかの黒ずんだ物体が煙を発て、その形を異様
に変えながら広がっていた。
眼前の光景に只々立ち尽くす彼は、驚愕と絶望を感じていた。
何故?
どうして?
その言葉ばかりが脳裏を駆け回る。
足元で煙を上げるのは友の腕だ。
その友は、つい先ほど彼が殺してしまった。
57
殺した。
そのつもりはなかった。
いつか見たサスペンスドラマみたいだ。
彼はぼんやりとそのような事を思った。
殺すつもりはなかった。
そう。彼に殺すつもりなどなかったのだ。
それは確かに事実であった。
だが、結果として語れば、彼は間違いなく人殺しなのである。
そして、彼が殺したのは眼前で腐り落ちる友人。
人は、世間は、社会は、彼を何と言うか。
それは社会を捨ててしばらくたつ彼にも予想は付くことであった。
殺すつもりはなかった。
誰が信じる?
私のような落伍者を。
誰も真実などに見向きもしないだろう。
ふと、気付く。
彼らも同じではないか。
彼らも、私と同じ⋮⋮。
一人じゃないか。
彼らも⋮⋮一人っきり。
だとすれば、彼らも⋮⋮。
彼はのそりのそりと足取り重く叉奈木の夜の闇に消えて行く。
その変わり果てた彼の首筋には歯形と⋮⋮奇妙な幾何学模様。
4
おんね
二人は昼過ぎに来た依頼者と共に遠音川の側のファミリーレスト
ランにいた。
﹁ふうん。それで、そのお友達がどうして腐って死んでしまったの
か、知りたい、と﹂
58
琴音はテーブルに頬杖をつき、そう尋ねた。
たご
﹁はい。そうなんです﹂
田後と名乗った白髪のホームレスは頷いて見せた。
縁はといえば先ほど運ばれてきたオムライスをスプーンで口に運
んでいた。
琴音は退屈そうにコーヒーに口をつけ、ガラスの向こうで忙しな
く行き交う車の群を目で追っていた。
﹁ところで田後さん。こういう事を聞くのは少し気が引けるんだけ
ど、良いかしら?﹂
縁はスプーンを皿にかけ、そう尋ねた。
﹁何をだい?﹂
﹁田後さんはいつからホームレスに?﹂
琴音がちらりと縁を伺う。だが、すぐに目線を戻した。
﹁ああ⋮⋮二年くらい前だったかなぁ。もともと自営業をしていた
んだけれども、借金が嵩んじまって、どうしようもなくなってな﹂
﹁ふうん﹂
琴音は外の景色を眺めながら溜息のようにそう発した。
縁は﹁もう一ついい?﹂と、田後に詰め寄る。
﹁ホームレスが死んだとされる夜にあなたはどこに居たの?﹂
﹁そりゃ、公園だよ。俺の家はそこにあるからなぁ﹂
﹁縁。この人に聞いても無駄だって分かって聞いてるでしょ?﹂
琴音はそう言うと一気にコーヒーを飲みほした。
﹁違う。依頼人なのだから聞いておかないといけないでしょう?﹂
嘘だ。
彼は関係ない。
飽くまで目撃者に過ぎないだろう。
縁はそれを確信していた。
彼からは赤い︽縁︾を感じないからだ。
血縁者。あるいはあの︽首︾に関する存在であれば赤が視えるは
ずだからである。
59
何故赤なのか。それは分からない。
ただ、私の︽縁︾を視る力は次第に強まっていた。
それは⋮⋮彼女を視れば明らかだった。
琴音と私の⋮⋮いや、違う。私が抱く一方的な︽縁︾なのだろう
が。それでも、たしかに視える︽縁︾。一方にしか現れてくれない
薄く消えてしまいそうな程薄い︽縁︾だけど、それでも、確かに視
える︽縁︾。
だから、彼は関係ない。
﹁ま、そりゃそうだ﹂
琴音は立ち上がる。それに合わせて隣に座っていた縁も立ち上が
り、琴音がテーブルを離れやすいようにする。カップを手にテーブ
ルを離れた。おそらく、コーヒーのおかわりをしに行ったのだろう。
縁は再び席に座る。目の前の紅茶を口に運び唇を湿らせ、田後の
顔を見た。
好き放題伸びている口ひげ。だが、その目鼻は凛々しく見え、昔
はさぞ伊達な顔立ちだったのだろうと、想起させた。
そんな縁の考えなど知る由もない田後は、ぼりぼりと虫刺されに
痒む二の腕を掻き毟る。
治りかけていた薄皮は爪に掻き破られ、血こそ出ないものの、皮
を捲った。
今は良いだろうが、しばらくたてば次は痛みと痒みの波状攻撃が
待っているだろう。
無論。そんな事、田後は考えもしていないだろう。
縁がぼんやりとその様子を眺めていると、琴音がコーヒーを片手
に帰ってきた。
﹁そうだ。一応聞いておきたいのだけれどもね。よろしいかしら、
田後さん﹂
琴音は弾む口調でそう尋ねる。
縁は琴音が通れるように一度席を立つ。
﹁ええ﹂
60
﹁無料とは言え、どうして探偵事務所に依頼なんかしたの? 正直、
他人が死んでいようが、関係ないでしょう。他殺だろうと自然死だ
ろうと、人はいずれ死ぬ。それが赤の他人ならなおの事無関係。ど
うして、放っておかず、こうしてその死の真相を確かめてほしいな
んて依頼してきたの? あなたに何か得はあるわけ?﹂
いつもように和やかな口調ではなかった。
もっともな事を、重みを込めた声色で叩きつけるようにして言っ
た。
﹁誰でも同じでしょうが﹂
田後の言葉も重かった。
そして、その言葉に見合う目を持ってぶれぬ目付きで琴音の双眸
を睨みつける。
﹁他人だろうと、親しければそう思うでしょうが﹂
﹁ふうん﹂
﹁あんたはどうなんだ。そこの嬢ちゃんが突然死んだとして、その
理由を確かめたくはないか?﹂
﹁死に方にもよる。バームクーヘンを喉に詰まらせて窒息死してた
なら、私はため息を手向けにして親御さんに電話するだろうね﹂
﹁じゃあ、昨日まで仲の良かった嬢ちゃんが急に腐って死んじまっ
たら? そして、誰もその死に見向きもしなかったら?﹂
その言葉はどこか震えていた。
悔しいのだろうか。
悲しいのだろうか。
ホームレスと蔑まれ、見下され、それでも生きてきたのだ。
誰からも見向かれることも無く、その死すらまともに見向きもさ
れず、適当に認識される。
縁は琴音の顔を見た。
にこりと頬を緩める。
明るく、力強く、美しい。
一言で言えば﹃頼もしい﹄顔だった。
61
﹁もちろん。私が納得するまで、謎を究明するだろうね﹂
5
橋の下の住居は既に警察かあるいは市役所に取り払われた後だっ
た。
まるで、何事もなかったかのように││私が見たわけではないん
だが││綺麗な河原となっていた。
﹁ふうむ。ここに︽首︾が来たのは間違いないだろうね﹂
琴音が砂利を足で掻きながらそう言った。
﹁どうして分かるの?﹂
﹁これ見てみ﹂
そう言って彼女が爪先で示した先には、今朝見たような幾何学模
様があった。
﹁これって⋮⋮あなたの腕に出てた﹂
﹁そう。一方的な魔術を使用したらこうして痕跡が残るのよ﹂
﹁じゃあ、ここに︽首︾はあったのね﹂
﹁そう。みたいね⋮⋮ところで、田後さんは?﹂
﹁あ。田後さんは空き缶を拾わなきゃいけないからって、帰ったわ。
明日、電話するって﹂
﹁あの人電話できるの?﹂
﹁十円玉はあるって言ってたし、私の携帯の電話番号は教えたから﹂
﹁なるほどね﹂
琴音は頷くと、薄気味悪い笑みを浮かべ、草むらに入って行った。
縁は何かすることは無いかと考え、辺りを見回してみる。
ふと、赤い光が視界に映る。
何だろう、今の。赤ってことは⋮⋮。
だが、この辺りには誰もいない。
⋮⋮じゃあ、遠くからの︽縁︾ということ?
遠くで、私に意識を向けたってこと?
62
⋮⋮誰かな。
縁は考えてみたが皆目見当がつかなかったので、とりあえず今は
目の前のことに気を向けた。
﹁おーい。ゆかりん。こっち来てみ﹂
琴音の声が草むらの中から聞こえる。
﹁勘弁してよ﹂
縁はそう漏らす。
縁の背丈ほどもある草を嫌々掻き分けながら、縁は川辺に進んだ。
さししめ
琴音は川の淵のコンクリの出っ張りにしゃがみこんでいた。
﹁これ見て﹂
そう言って持っていた木の枝でそれを指示した。
それは何か布の様に見えたが、よく見ればどこか生々しく、何か
の生物の死骸のようだった。
﹁何の死骸?﹂
﹁死骸じゃないわよ。これは人の皮﹂
﹁はぁっ!?﹂
縁は後方に大きく飛び退いた。その所為で足が草に引っかかり無
様に尻餅をつく。
﹁痛っ!﹂
﹁大げさな﹂
﹁お⋮⋮大げさじゃない! 普通! 普通の反応だって!﹂
縁は体を起こして立ち上がる。
琴音は人の皮を棒切れに引っ掛け、持ち上げる。
﹁近づけないで! 近寄らないで!﹂
またしても飛び退き二度目の尻餅をつく。
﹁まあまあ。そんな真似しないって﹂
琴音はそれをコンクリの上に置き、近くで観察し始めた。
何度か突いたり、臭いを嗅いだりし、ついには人差し指で突いて
みたりなどして、少し焦り気味に手を川で洗浄すると、何かに気づ
いたのか、﹁なるほど﹂と感心した。
63
﹁人を媒体にして⋮⋮いや、でも効率が悪くないかな﹂
琴音は腕を組み、鹿爪らしい表情でその物体を眺める。
﹁これは⋮⋮意図的なもの? だったら、何故?﹂
ぶつぶつと呟きながら琴音は一人で考える。
﹁ねえ││﹂
﹁うるさい!﹂
考え出すと周りが見えなくなるらしい。
縁は訝しげに腕を組み、琴音の呟きに耳を傾けることにした。
﹁これは︽首︾にやられたのか⋮⋮おそらく、そうだ。この皮には
理式模様が見られる。だが、何故腐った? そして、これはどうし
て腐っていない? 何故? ふむ。肉体の理式が書き換えられてい
る。ということは、こいつは変異してるの? だから⋮⋮﹂
﹁ねえ﹂
﹁うるさい!﹂
﹁聞いて!﹂
縁の怒号に琴音は目を丸くして顔を縁に向けた。
﹁いい。よく考えてよ。その皮には被害者とみられるホームレスに
は有った腐敗が見られないんでしょう。だったら、その皮の持ち主
が犯人なんじゃないの?﹂
﹁たしかに⋮⋮なるほど! その通りだ。難しく考えすぎてた。あ
ははっ﹂
子供の様に笑う琴音を見て縁も嬉しくなる。
﹁まるで子供みたいにはしゃぐのね﹂
﹁そう? 嬉しいことが有ったら笑うものじゃないの?﹂
確かにその通りだ。
﹁そう、ね。その通り。私ももう少し笑うべきなのかな?﹂
嬉しければ、笑えばいいんだ。
﹁それだ!﹂
琴音は人差し指を立て縁に向けた。
﹁何よ﹂
64
﹁もう一度今の言ってみて﹂
﹁え? 何を⋮⋮﹂
﹁今言った言葉よ!﹂
強くそう言うので縁はすこし戸惑う。
﹁えっと⋮⋮もう少し笑うべきかな││││﹂
﹁違う。それの前!﹂
﹁え? えっと⋮⋮その通り?﹂
﹁違う。違う。違うっ! もっと前! 私に言った言葉よ!﹂
﹁子供みたいにはしゃぐ?﹂
﹁それだ! あはは! そうだ。子供だ! あなた天才? いや、
違うわね。私が素晴らしいのねっ! あはっ!﹂
大きく手を広げてその場でくるりと回って見せた。どことなくミ
ュージカル風だ。
﹁ちょっと待ってよ。どういうこと? 説明して﹂
﹁すべては私たちの手の内に有ったのよ! これもあなたの︽縁︾
の力かもしれないけど、いえ、きっとそうなのだろうけれども。と
もかく。素晴らしいっ!﹂
﹁だから。何? 説明して﹂
﹁子供よ。子供﹂
﹁子供?﹂
﹁そう。朝来てたでしょう。子供の依頼者が﹂
﹁ああ。で⋮⋮それがどう関係してるの?﹂
コード
データ
﹁宇宙人よ! 理式に乗っ取られた人間は人体構造が書き換えられ
て、変異するのよ。魔術理式は情報だから、全部頭脳に集中するの、
それに耐えられるように乗っ取られた人間の体は頭脳が肥大化する。
だから、変異した人間を子供たちは宇宙人と思ったんでしょう。つ
まり、子供たちは私たちが会うべき人間の居場所を知っているとい
うことよ!﹂
﹁で?﹂
﹁で? とは?﹂
65
﹁場所は分かってるの?﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁ほら、これだもの⋮⋮計画性なさすぎじゃない?﹂
﹁だって、あの時は関係ないと思ってて⋮⋮ほら、宇宙人なんてい
うからてっきり馬鹿にしてるのかと﹂
﹁ほら﹂
縁はダウンジャケットから取り出したのは住所の書かれた紙だっ
た。
﹁これって⋮⋮﹂
﹁どうせ、メモなんてしてないだろうと思ってたから聞いておいた
の﹂
﹁っ流石! 素敵!﹂
そう言って琴音は縁に抱き着く。
﹁ちょっと、やめてよ⋮⋮﹂
間違っても宇宙人に興味があったなんてことは言えない。
6
﹁なるほどね。宇宙人は森の方に行ったの?﹂
﹁そう。たぶんお化けマンションにUFOが隠されてるんだよ﹂
少年はそう力説する。
心なしか、琴音の表情が死んでいるようでならない。
﹁お化けマンションってのは?﹂
琴音は少年にそう尋ねた。だが、やはり覇気が感じられない。
﹁森にあるマンションだよ﹂
縁はブランコに腰をおろしそういうなんとも言えない会話を聞い
ていた。
﹁ねえ。とりあえず、その森とやらに行ってみない?﹂
たまらず話しかける。
﹁うん﹂
66
しかし、返ってくるのは生返事だけ。
何だろう。
なんで、こんなに落ち込んでるのだろう。
﹁宇宙人捕まえてくれるの?﹂
﹁いや。捕まえはしない。けど、会いには行くよ﹂
ああ、もう! 見てられない。
縁はブランコから飛び降り、琴音の腕を掴み、強引に引っ張った。
﹁じゃあね僕。私たち宇宙人の所行ってくるから。何か分かったら
報告するわ﹂
﹁うん!﹂
少年は大きく手を振る。
﹁どうしたの?﹂
﹁え? 何が?﹂
何だろう。目が死んでる。
﹁何がって⋮⋮変よ?﹂
﹁変。変よね。私って⋮⋮うぅっ﹂
顔を手で押さえ肩を震わせる琴音。
﹁ちょっと。どうしたのよ﹂
﹁あの子⋮⋮﹂
﹁さっきの男の子? あの子がどうしたの?﹂
琴音は啜り泣きとともに首を横に振る。
うーん。どうすればいいんだ。
﹁聞いてあげるから、言ってみてよ﹂
縁はやさしくそう尋ねた。
涙に濡らした顔で琴音は縁を見る。
﹁ううぅ⋮⋮あの子の﹂
﹁あの子の?﹂
﹁お母さん⋮⋮がね﹂
﹁お母さんが?﹂
67
﹁私と同い年なのよぉ。うぅっ⋮⋮﹂
ああ、これは⋮⋮。
変に優しくしてあげない方が⋮⋮良いやつだ。
そう思ったが、今更遅い。
琴音は住宅街の外れで号泣を始めてしまった。
﹁はい。もう大丈夫?﹂
縁は買ってきたコーヒーを琴音に渡した。
﹁⋮⋮っあ、ありがとう﹂
嗚咽を交えながら、彼女は弱々しくそう言う。
﹁ふふ⋮⋮﹂
駄目だ。
こらえきれない。
﹁あははは﹂
縁は笑った。
琴音は突然の笑いに戸惑い、小首を傾げた。
﹁え? ちょっと? どしたの、急に﹂
楽しい。
何だろう。この胸の高鳴りは。
私は楽しんでるの?
﹁いや⋮⋮ちょっと、楽しくて﹂
﹁⋮⋮酷い﹂
﹁あ、違う。あなたの境遇を笑ったんじゃないの﹂
﹁どういう事?﹂
﹁こんなに走ったことは無いし、こんなにいろんな人と会話したこ
となんてなかった。いつも館で本を読んだり映画を見たり。そんな
生き方だったの。でも、こうして、外に出るのも、悪くないなぁっ
て﹂
琴音はしばらくまじまじとした表情で縁の顔を見つめた後、くす
りと笑った。
68
﹁ようこそ﹂
そう言って琴音は手を差し出した。
縁は辺りを見回し、誰もいないことを確かめたうえで、琴音の手
を握った。
それは、柔らかく、暖かい、黄色の光だった。
7
それはのっぺりとそして、ひっそりと申し訳なさそうにうっそう
と茂る森に佇んでいた。
建設途中で破棄されたため、上方は鉄筋が天を仰いでいる。
壁にはセンスがあるのかないのか分からないスプレーによる落書
きがいくつか。
その全てが相まっていかにもな雰囲気を醸し出している。
お化けマンションとは、気泡と共に弾けてできた誰も住まう事の
無かった虚しい建造物の成れの果てだろう。
湿り気が酷く、灰色のコンクリはところどころ緑色に苔生してい
た。
扉の無い四角い穴を二人はゆっくりとくぐり、内部に歩みを進め
る。
﹁何かいそうね﹂
琴音がそう言う。
﹁そうね。でも、宇宙人というよりは幽霊とかそういう感じだけれ
ども﹂
縁はやはりというか、当然と言うべきか、琴音にしがみ付く形で
いた。
﹁怖いならついて来なくても良かったのに⋮⋮﹂
﹁う⋮⋮宇宙人に興味があったの!﹂
﹁今あんたが言ったんだからね、宇宙人より幽霊がいそうって﹂
﹁うう⋮⋮﹂
69
琴音は大きくため息をつくと、小型の懐中電灯で生活感の一切感
じられない部屋を照らす。
﹁おーい! いるんでしょ! 出て来なさーい!﹂
琴音が廊下に向かって大きく叫ぶ。
﹁ちょっと、何やってるの?﹂
﹁いや、出て来るかなと思って﹂
﹁そんなに馬鹿じゃ││﹂
││無い。
そう言おうとした時だった。
廊下の奥でがたがたと物音が聞こえたかと思うと、遠くで扉が閉
まる音が聞こえた。
﹁効果有り! 良し、走るよ﹂
そう言うや否や、琴音は大きく駆けだした。
そして、あっという間に廊下の闇に消えて行った。
﹁ちょっと⋮⋮置いてかないでよ﹂
70
第四章
1
魔素を辿れば⋮⋮無理か。
琴音は廊下の突き当りの扉を蹴り飛ばし、マンションの裏に出た。
木々が生い茂っており、何処にでも潜むことが容易だ。
だとすれば、先ほどどうように声をかけて動きを探るべきか。
﹁危害を加えるつもりはない。私は魔術師だ。助けに来た!﹂
耳を澄ます。
どこだ。
どこに隠れている。
がさりと草が揺れた。
﹁本当か?﹂
﹁ええ。私は魔術師⋮⋮無所属だけど。冴島琴音って言うの﹂
﹁私を⋮⋮助けてくれるのか?﹂
草木が大きく揺れ始める。
何をしているのだろうか。まさか、何か仕掛けてくる気?
あの︽首︾の理式に乗っ取られているのならば、有り得ない事で
はないけれども。
﹁私を救えるのか?﹂
﹁それは、あなた次第ね。でも、最善は尽くす﹂
大きく草木が落ち込んだ。何やら、鼻に付く臭いを感じる。
これは⋮⋮想定はしていたけれども。
腐り落ちた草木。その中心には何者かが静かに佇んでいる。
﹁これでも、助けられるか?﹂
皮膚は青白く、皮下のもう血管はこれでもかと浮き出し、両の目
は赤く充血。そして、何よりその頭蓋ははち切れんばかりに肥大化
していた。
71
﹁︽首︾を使ったのね﹂
﹁使った?﹂
﹁違うの?﹂
﹁違う! 襲われたんだ。あの⋮⋮︽首︾に!﹂
﹁ふうん﹂
琴音は含んだ笑みを浮かべる。
﹁ってことは、あなたは︽縁魔の首︾を知っているってことで良い
のね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
異形の男は何も答えない。変わりきった顔だが、それでも彼が困
惑しているのは見てとれた。
﹁だとすれば、あなたは縁家の人間、ね﹂
男はこちらに何とも言えない目を向ける。
﹁加えて、あなたがこうなったのは一昨日あたりでしょう。だとす
れば、一族の人間であれば縁家の屋敷に居たはず。だが、あなたは
そこにいなかった。だとすれば⋮⋮分からない。あなたは、誰?﹂
琴音はその双眸で男を分析する。
衣服はズボンのみだ。
そのズボンも緑色に変色している。
先ほどの草木の腐食。加えて、ホームレスの不自然な死体。
えにし
琴音は河原で触れた人皮によって爛れた自身の手を見てから、男
を見た。
えんぞうたかひと
すべては、この男の能力なの?
﹁私は⋮⋮縁三高独。君の推理の通り私は縁家の人間だった﹂
﹁だった⋮⋮どういう事?﹂
琴音が一歩歩みを進めたときだった。
﹁やめろォ! それ以上、私に近づくなァ!﹂
びくりと琴音はその場で動きを止める。
﹁近づかなければ、助けられない﹂
﹁駄目だ。近づけばまた⋮⋮私は人を殺してしまう﹂
72
﹁私は魔術師。大丈夫よ﹂
﹁黙れ! お前に何が分かる! 私の⋮⋮気持ちなんて﹂
﹁⋮⋮そうね。分かりっこないわね。でも、私はあなたを助けたい
の。どうすればいい?﹂
﹁係わらないでくれ⋮⋮頼む﹂
﹁分かった﹂
琴音は高独に踵を返した時であった。
﹁やっと見つけた。どこ行ったのかと思ってた﹂
縁がいた。
瞬間。後方で、明らかに何かが変わる。
全てが、入れ替わってしまった。絶望は怒りに、それをぶつける
に足る対象が現れてしまったからだ。
﹁貴様ァ!﹂
男は駆けだした。
縁だけを視界に捉え、迫る。
﹁琴音! 逃げなきゃ!﹂
縁はとっさに︽縁︾を感じ取ったのか、琴音に向かって叫んだ。
﹁任せて﹂
琴音はポケットから無色の魔石を三つ取り出すと、高独と自分た
ちとの間にそれを投げた。
スクリプト
コード
二つは地面に跳ね返り、宙を舞う。一つは地面にめり込んでいく。
魔術を行使するにあたり、体理式に魔術理式を取り込む。体に異
物が入り込んでくる感触が不愉快極まりない。
オド
高独は突然、視えない衝撃を受け、大きくその場に転ぶ。宙に舞
った二つの魔石が結んで作った大気圧縮によって築かれた壁にぶつ
かったのである。地面からは土が盛り上がり、手の形となり彼の体
を地面に押さえつけた。
﹁さて、いろいろ教えてくれるかしら。どういうことか﹂
﹁ぐぅ!﹂
高独は必死に体を動かし、土の手から逃れようとするが、びくと
73
もしない。
﹁無駄よ。それは私の許可なくして何も離さない︽握り手︾なの﹂
観念したのか、高独は動かなくなった。彼を掴む土の握り手が次
第に青々と苔生し始める。地面に伏せる高独の瞳は憎悪に燃えてい
た。
﹁説明してくれるかしら?﹂
ゆかり
﹁その⋮⋮化け物に聞け!﹂
えんま
﹁化け物? 縁の事?﹂
﹁ああ、そうだ! 縁魔の化け物!﹂
縁を見やると、無表情に高独を眺めていた。
﹁縁、この人を知ってる?﹂
﹁⋮⋮知らない﹂
﹁ははっ⋮⋮だろうよ。お姫様は自分しか見てないもんなァ!﹂
縁は本当に知らないのだろう。
この子は興味が無いのだ。興味の無いものは見ようとも、理解し
ようともしない。そんな子だ。
きっと、私ぐらいしか縁とはまともに話せないんじゃないだろう
か。
﹁縁。縁三家は知ってる?﹂
﹁ええ﹂
﹁彼は、縁三高独さん。もっとも、私があなたの親戚を説明するの
も本来すっごく変なんだけれどもね﹂
﹁⋮⋮そう﹂
静かにそう言う。
この子は一族の人間といることを嫌っているのだろうか。
どうにも、親戚の人間がいると人が変わる。
﹁ま、こんな感じだから、あなたが説明して﹂
﹁⋮⋮全部。お前の所為だぞ! 全部!﹂
﹁落ち着いて。順に説明してよ﹂
﹁こいつが⋮⋮とっとと頭首になると決めていれば、私も⋮⋮こん
74
なことにならずに済んだのに⋮⋮﹂
﹁私の⋮⋮所為?﹂
﹁そうだ! 覚えちゃいまいだろうがな。お前が一時期頭首を継が
ないなんてぬかしやがった所為で、私は⋮⋮縁三家は失われたんだ﹂
縁は小首を傾げる。
﹁お前が頭首を辞退するとなって、一族は新しい頭首を立てるとい
う事になった。そこで、私の娘が選ばれたんだ﹂
﹁それがどうして私の所為になるの?﹂
﹁お前は︽縁魔の首︾がどういう力を持っているか知っているか?﹂
﹁いいえ。知らない﹂
﹁だろうな。あれは家を栄えさせる力を持っている。だから、アレ
の所有者である縁家は事業でも常に成功しているんだ。縁三家が頭
首になれば︽首︾は私の家の物だ。だから、私は新しく事業を起こ
そうとした⋮⋮﹂
﹁なるほど、ね。で、縁が頭首になるって言いだしたものだから、
あなたは縁を怨んでるってわけね﹂
高独は何も言わなくなった。
﹁縁。行くわよ﹂
琴音は縁の腕を掴んだ。
﹁あなたの拘束は解いておくわ。後は好きにして。また、罪のない
ホームレスを惨殺してもいいし、すぐそばの住宅街の人々を皆殺し
えにしゆかり
にしても構わない。もちろん。おそらくあなたが今考えているであ
ろう縁縁に対する復讐を果たしに来ても構わない。ただね。どれを
ゆかり
実行するにしても、私は必ずあなたの敵になるから。あなたの境遇
には同情する。それに、縁が悪くないなんて言わない。それでも、
何かにすがり続けたのだから、これぐらい自分で責任を負ってみた
ら?﹂
琴音は淡々とそう語った。
﹁あ。そうだ。あなたの娘さんの名前は? 会ったらよろしく伝え
ておいてあげる。どうせ、その体じゃ娘さんはおろか、もう誰にも
75
会えないだろうから﹂
琴音は不敵に微笑んだ。
﹁む、娘に何をする気だ!﹂
﹁何もしないって。私がそんなに極悪非道の魔術師に見える?﹂
男の返事は無い。
かい
﹁うっ⋮⋮傷付くわね。ま、まあいいわ。娘さんへの遺言は無いの
?﹂
﹁娘の名前は皆という。娘が頭首候補に挙がったのも現頭首と名が
同じだからだ。それに⋮⋮﹂
﹁それに?﹂
﹁いいや。なんでもない﹂
﹁ふうん。今もこの町に?﹂
﹁妻とは既に離婚している。だから、今はもう分からない。だが、
私の所為でつらい思いをさせてしまった。この町に良い思い出なん
てないだろうから、もういないだろう﹂
﹁そう、ね。分かった。ま、会ったらとりあえずお父さんは元気に
してるよって言ってあげた方が良い?﹂
﹁いいや。何も言わずに⋮⋮友として接してやってくれ。あれは、
友達をつくるのが下手だったから﹂
その表情は父親のそれだった。
﹁分かった。じゃあ、さようなら﹂
琴音は静かにそう言うと、踵を返してその場を後にした。
﹁ねえ。良いの? 放っておいて﹂
﹁構わないわよ﹂
﹁違う。危険じゃないかって事。あの人だったんでしょ、ホームレ
スを腐らせたの﹂
﹁そうね﹂
﹁じゃあ⋮⋮﹂
﹁でも、彼は自分が危険だって気づいてるし、人を殺すのは嫌がっ
76
ていた。それに、後悔もしている。だから、おそらく、ホームレス
殺害は事故だし、もう誰も殺さないはずよ﹂
﹁いや、そうじゃなくて、ここは子供たちが来るんじゃないの?﹂
﹁別に良いんじゃない? だって、彼らを視ようとしていないのは
人間でしょう?﹂
﹁え?﹂
﹁もっと、真面目に調査をしていれば、あの異常繁殖するカビが危
険だってすぐに気付ける。それこそ、あれは魔術なんていうよりど
ちらかといえば人間お得意の科学の分野だもの﹂
﹁そうなの?﹂
﹁そう。彼を変えたのは魔術だけど、ね。それ以外は人間が認識す
れば理解できる出来事よ。ホームレスだからって、無視した人間が
悪いの。加えて言えば、もし仮にまた誰かが死んでも人間は無視す
るでしょうね﹂
﹁どうして?﹂
﹁不可解ではない。ただ理解したくないだけ。だって、恐ろしいか
ら。さっきの人もそうだけど、人間という生き物はそういうところ
がある生き物なのよ。だから、楽観的に物事を視たがるの。都合の
良いようにね﹂
琴音は人差し指をピンと立て、にこやかにそう言った。
﹁それにしても、うまいと思わない?﹂
﹁何が?﹂
﹁あの人の名前﹂
﹁そう?﹂
﹁ま、あなたが言えたことではなかったわね﹂
2
館に帰り着いたとき、館の門の前にいろいろと手紙が置かれてい
た。
77
﹁大人気ね﹂
縁がぼそりとそう言う。
﹁そりゃ、無料だからね﹂
琴音は大きく背伸びをしながら門を開けた。
縁は落ちている手紙を眺める。
﹁ちょっと、琴音﹂
﹁何よ﹂
﹁これ依頼じゃない﹂
﹁じゃあ何? ファンレター? 今日からなのに? 有り得なくな
い?﹂
﹁違う。役所からのお達しなのだけれども⋮⋮あなた、許可取って
これやってるの?﹂
﹁やだなぁ││﹂
琴音は後頭部を掻きながら笑顔でそう言う。
﹁それは、そうよね。じゃあ、向こうの手違いという⋮⋮﹂
﹁昨日この町に来たのに許可なんて取ってるわけないじゃない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
縁の手に有った手紙がはらりと無言のまま落とされる。
﹁あれ⋮⋮まずかった?﹂
﹁まずいなんてもんじゃない! 何とかしてよ! 迷惑はごめんだ
から!﹂
琴音は分が悪そうに頭を掻く。
﹁とはいえ、市役所を焼き払うのは流石にまずいからなぁ⋮⋮﹂
﹁もういい! 私が届け出だしてくるから﹂
﹁本当?﹂
﹁ええ。それに、私が行かなかったら行く気ないでしょ?﹂
﹁まあね﹂
悪びれる様子も無く琴音は頷く。
﹁だと思った﹂
縁は必要になると思われる書類や印鑑を鞄に詰めていた。
78
﹁ずいぶん可愛らしい鞄ね﹂
鞄にはクマの刺繍がされてあった。小学生が家庭科の授業でつく
るようなそんな鞄だ。到底十八にもなろうかという少女の持ち物で
はない。
もっとも、十八には見えないのだが⋮⋮。
﹁わ⋮⋮悪い?﹂
﹁いいや。でも、なんていうか⋮⋮すごく似合うなぁって﹂
﹁うるさい!﹂
﹁あいあい﹂
琴音は偉そうにソファで横になり、コーヒーを飲む。
﹁このコーヒー美味しいね﹂
﹁インスタントだけれどもっ!﹂
﹁ふうむ。あなたが淹れてくれたからかな?﹂
﹁人の話聞いてるの?﹂
﹁あう⋮⋮﹂
﹁今更ご機嫌取りは結構! じゃあ、私行ってくるから﹂
﹁明日にしたら?﹂
﹁今日できることは今日するのっ!﹂
﹁あーそれ私が一番嫌いな言葉ね﹂
﹁見て分かる駄目人間っぷりだものね﹂
﹁そうかな?﹂
﹁ええ﹂
琴音はコーヒーカップをソファの横のテーブルに置き、立ち上が
った。
﹁どうしたのよ﹂
パンツのポケットから取り出したのは小さな青い石だった。
﹁お守りよ﹂
﹁そ⋮⋮そんなのいいって﹂
縁は断るが、琴音はその石を彼女のコートのポケットに入れた。
﹁ちょっと! どこ触ってるのよ!﹂
79
﹁いいじゃない別に⋮⋮あっ。何? やっぱり意識してるの。私の
事?﹂
﹁そんな訳ない!﹂
無表情に即答されると少し悲しい。
琴音は少し残念そうに、
﹁だよね﹂
と返した。
﹁でも⋮⋮一応、お礼は言っておく。ありがと﹂
﹁どういたしまして。あ、それと、今夜は雨が降るかもだってよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁当たらない天気予報が言ってた﹂
縁はそれを聞くと、傘を手にすたすたと館を後にした。
戸が閉まり、門が閉じる音が彼方で聞こえたのを合図に琴音はソ
ファに深々と腰かけた。
コーヒーを口に含み、天井を見上げる。
﹁さて﹂
手にした縁の携帯を見る。そして、対の手の指を鳴らす。館のカ
ーペットの上に散らばっていた市役所からの手紙が青白い炎で一気
に燃え上がる。
﹁悪いね。ゆかりん。やらなきゃならないことがあるのよ﹂
3
﹁どうもー。琴音ちゃんでーす﹂
﹁どうして⋮⋮﹂
﹁それは全部分かってたから﹂
﹁なるほどね﹂
﹁そういうこと。ま、肝心の一点が今まで分からなかったけど、そ
れが解けたからこうして待ち受けてたってわけ﹂
﹁このことは?﹂
80
﹁縁には言ってない﹂
﹁残念﹂
さがら
﹁でしょうね。でも、せっかくだから行ってあげるわ。場所は?﹂
﹁相楽橋で﹂
﹁えーっと。あのホームレスの住家で良いのよね﹂
﹁ああ。じゃあ、今日の夜会おう﹂
﹁準備しておいてね﹂
﹁もちろん。それと、一応謎解きを聞くからあの格好で出向くぞ﹂
﹁それは見ものね。写メ撮っていいかしら﹂
﹁撮影料を貰うかも﹂
﹁ふふ。じゃあ、後でね⋮⋮﹂
4
呉れ沈んだ夕陽に変わり、荘厳なる宵闇の月が彼方より全てを照
らす。
蜘蛛の巣のように張り巡らされていた縁は、縁魔の末裔に紡がれ、
今、月下のもとに収束した。
﹁やあ。冴島さん⋮⋮だったかな﹂
田後はゆっくりとした足取りで相楽橋に現れた。
﹁ええ。お元気かしら﹂
﹁もちろん﹂
﹁空き缶は拾えた?﹂
﹁ふむ。では、どうして僕がホームレスでないと気付いたか教えて
もらえるかな?﹂
田後の口調は突然若くなる。先ほどまでの初老の男の声とは打っ
て変わり、まだ生き生きとした少年のような声だ。
﹁簡単。手よ﹂
﹁手? 手のどこが﹂
﹁虫刺されよ﹂
81
﹁やり過ぎたかな?﹂
﹁違う﹂
琴音は頭を振り、それに両手で呆れたというようなジェスチャー
をみせた。
﹁虫刺されまではよかった。ただ、それを掻いちゃったのがまずか
ったのよ﹂
﹁ふむ﹂
田後は訝しげに腕を組むと、自分の腕に目線を落としこんだ。
﹁二年間もホームレスをやってれば、そんなに柔らかく皮が剥ける
わけないのよ﹂
﹁ははっ。てことは、その時点から、あんたは僕に合わせて演技し
てたってわけか﹂
﹁そう。演じきってるあんたを見ると笑いが出て来そうで、直視で
きなかったから、けっこう大変だったのよ﹂
﹁これはこれは⋮⋮﹂
田後はぼろ雑巾のような服を脱ぎ捨てる。下には綺麗な白亜のロ
ーブがあり、その手には金色に光るステッキが握られている。
﹁駄目駄目ね。もっと修業しなきゃ駄目よ、お坊ちゃん?﹂
﹁さて、そろそろ始める?﹂
﹁自己紹介をしておこうかな﹂
﹁いいね。どっちからする?﹂
﹁じゃ、私から﹂
琴音は﹁コホン﹂と取ってつけたような咳払いをし、一礼した。
﹁無所属。灰色魔術師の冴島琴音。どうぞよろしく﹂
﹁なるほど、灰色、か﹂
たご
ふみき
﹁あなたは?﹂
﹁僕は田後文起。魔術師だ。色は無い。これでいいかな?﹂
﹁ええ。構わないわ。ところで、どうして﹃境屋﹄に来たの?﹂
﹁そりゃ、チラシを見てさ。きっと魔術師だと思ってね。邪魔者は
消しておくに限るだろう? アイツが君たちを殺してくれるんじゃ
82
ないかとも思って仕向けたんだけれども、駄目だったね。やっぱり、
予防線を張って置いて正解だったよ﹂
﹁徹夜で配った甲斐があったってわけね﹂
橋の上を吹き荒ぶ風が琴音の長髪を靡かせる。
田後はステッキを手に、琴音を睨む。その瞳には明らかな殺意の
意志が放たれていた。
短く息を切り、琴音は田後を即時に分析する。
アイツは私より弱い。それは相手の手にあるステッキを見ても明
らかだ。アイツは魔力が人並より下なのだろう。故に、ああして増
幅媒体を使っているのだろうが⋮⋮。
琴音は田後がそれを自覚しているであろうという事が恐ろしかっ
た。明らかに己の魔力が人より劣っていると知っているのなら、そ
れに代わる何か別の⋮⋮そう、魔力を用いない戦闘方法を会得して
いるはずなのだ。
それを読み説かなければ、負けはしないだろうが、手痛い攻撃を
受ける可能性がある。腕の一本でも取られれば私の大敗と言っても
スクリプト
いい。それに、今の腕は気に入っているから失いたくはない。
お互いの双眸が虚空で重なり、瞬間、全てが動き始める。
コード
オド
琴音は考えるよりもまず大きく一歩を踏み出した。彼女の体理式
に染み込んだ術の理式が読み起こされ、眼前に大気の壁を築く。
田後はステッキを振るい、虚空に文字を刻んだ。
なるほど。ルーン文字か。だが、魔力が低いのであれば⋮⋮それ
を選ぶべきではなかった。
にたりと頬を緩め、琴音は距離を詰める。
田後の眼前に突如出でた炎は琴音めがけて撃ち放たれた。
それを避けようともせず、琴音は受けきる。
相手の魔力は大した量ではない。
故に、扱いきれる魔素も限られる。だとすればそれ以上の魔素を
放つ彼女の視力であればそれを視るだけで掻き消すことは可能なの
だ。
83
打ち破り、散らばりゆく虚空の炎を琴音は体で絡め取り、その身
に纏わりつけた。そうして、さらに加速をつけて一気に駆け寄る。
焔と光を司る︽灰︾の魔術師に炎をぶつけるという事は、正直見
習いでもやらない愚策であった。
単純に生み出された炎であれば、魔術理式が無くとも、体が理式
を覚えているため、操ることは可能である。
琴音の体に纏わりつく炎は彼女の体を這うようにして蠢き、次第
に下半身に下りて行った。
それは右足に纏わり、螺旋を描きながら彼女の右足を覆った。
途端。彼女は飛んだ。
大きく地を踏みしめ、前方に跳躍したのだ。
雲のかかった夜空は漆黒そのものである。その中で、赤い閃が暗
闇に浮かび、小さく弧を描いた。
琴音は空中で一回転し、その勢いを持ってして田後めがけて炎を
纏わせた右足で蹴りかかる。
迫る琴音を田後は凝視する。
この技を用いれば田後を灰燼と砕くことは容易だろう。
だが、そうすれば彼の動機、そして、件の︽首︾をいかようにし
て操ったのか、それが解明できなくなる。
殺すわけにはいかない、か。
月光が彼女を捕える。
わずかに炎を弱めた││││その瞬間であった。
琴音の右の太ももと、左のわき腹を下方からの閃光が貫いた。
力を失い、琴音は宙から墜ちる。
田後はにたりと頬を緩める。
﹁やっぱり⋮⋮あんたは単純だねぇ﹂
苦痛に歯を食いしばり琴音は田後を睨む。
驚きはしない。罠だったんだ。
それにしても、運が良い奴だ。
まさか、あのタイミングで月が出るとは⋮⋮。
84
﹁何が起きたか分からないって顔してるぅーっ! これで、邪魔者
一人排除っ!﹂
明らかに調子に乗っている。だが、何が起きたかは分かっている。
それでも、喋らせるのが得策だろう。その間にこちらは回復させ
てもらう事にするか⋮⋮。
琴音は左のわき腹は放っておき、機動力を確保するために右足の
修復に魔素を集めた。
﹁あんたは言った。灰色の魔術師だと。だとすれば、絶対的に炎に
対しては自身を持っていると思ったんだ。だから、僕はそれを利用
させてもらった﹂
なんともうれしそうに語る。
分かりきったことを⋮⋮どことなく、痛々しい。
﹁君は、僕が炎のルーンをステッキで宙に描いたと思ったんだろう
? 残念、本当は││﹂
﹁月光文字、でしょ? ルーンを描いていると見せかけて、その実
は地面に街灯の光で出来るステッキの影で別の文字を描いていた。
まったく、運がいいわね﹂
種明かしを取られたからか、田後は少しむっとした表情をとった
が、すぐさま先ほどまでのしたり顔に戻った。
﹁それにしても、アンタは何が目的なの? 金?﹂
その質問に、田後はきょとんとした顔で琴音を見た。
そうして、声高らかに腹を抱えて笑った。
﹁どうして? ははっ、どうしてだって? 冗談だろ、アンタもあ
の︽首︾が目当てじゃないのか?﹂
﹁︽首︾って、あの?﹂
﹁アンタ、知らないのか?﹂
﹁ええ。私は、あの︽首︾を探してくれとしか言われてないし﹂
﹁ははっ。傑作だね。馬鹿じゃないのか? あの︽首︾がとんでも
ない代物だって事はアンタだって分かるだろ﹂
﹁ええ。まあね。でも、アレを使いこなせるほど私は器用じゃない。
85
何分、性格が非常に大雑把なもので﹂
﹁⋮⋮おい。冗談で言ってるのか?﹂
﹁いいや。マジもマジ。本気と書いてマジと読むでござるってくら
いマジよ﹂
﹁よく分からねえけど、アンタはもしかしてアレがただの魔術媒体
か何かだと思ってるのか?﹂
﹁そうよ。違うの?﹂
﹁違うさ! あれはエンサ=ダ=バールの首だ。白の魔法使いの首
なんだよ!﹂
エンサ? ああ、なるほど。縁を含め、縁家の人々はどうにも日
本人離れした顔立ちだと思ってたけど、向こうの人が祖先だからか。
納得、納得。
琴音はほぼ内部構造は修復した右足の傷口を眺めながらそう考え
た。
﹁もしかして、理をどうのこうのって代物なわけ? たとえば、そ
う⋮⋮魔法使いみたいに?﹂
琴音の頬が僅かに緩む。
﹁そうさ。あの︽首︾はこの世でただ一つ。魔法の理式を刻んだ魔
術媒体なんだよ!﹂
ああ、これも納得。なるほどね。あの︽首︾を手に入れて、魔法
使いになろうとしてるのか⋮⋮何とも、まあ。
誰もが考えそうなことね⋮⋮ありきたり、つまらない。
琴音は小さく落胆の溜息を落とし込むと、呆れた顔で田後を見た。
﹁どうしてそれが唯一って分かるのよ⋮⋮﹂
﹁その情報だけが世に出ている情報だからだ。世界中をくまなく探
せばいくつか出てくるかもしれないが、それでも今確実に分かって
いる物はあの︽首︾しかない﹂
﹁ふうむ﹂
琴音はどことなく腑に落ちずに苛立たし気に息を吐いた。
﹁そもそもあれは縁家の一族だけの秘密でしょ││││﹂
86
そこまで言ってはたと気づく。
﹁ああ、縁三高独⋮⋮か﹂
街灯の光を上から浴びる田後。琴音から見えるのは薄気味悪い笑
みを浮かべる口元だけであった。
﹁御名答だよ。あの男に聞いたんだ﹂
﹁でも、アレは魔法を収めた魔石なんでしょう。だったら、最初の
私の見解で合ってるじゃない⋮⋮﹂
﹁お前は何を⋮⋮﹂
﹁魔法も、魔術も、私にとっては変わらないって事﹂
﹁お前⋮⋮おかしいんじゃねえのか?﹂
田後は困惑した様子でうろたえる。
﹁おかしいも何も、私は魔法使いの弟子よ。おかしくて当たり前。
この世の理の外にいる存在だもの。魔術師も、魔法使いもみんな同
じ。そう易々と、そん所そこらの貧弱魔術師風情に私を理解されて
たまるかってのっ!﹂
ようやく、右足の傷もふさがり、動けるようになった。
琴音は痛むわき腹を押さえ、やおら上体を起こした。
だが、足が動かない。
﹁⋮⋮ああ。なるほど、内側だけ回復をしてたわけか。それで、延
々いろいろと話を長引かせたんだな。恐れ入ったよ灰色の魔術師さ
ん﹂
田後はステッキを振り回しながら、琴音の横にしゃがみこんだ。
﹁残念でした。アンタは今、地面に打ち付けられているのでしたぁ
ー﹂
いくら足を動かそうとしても足はびくともしない。
﹁僕が描いた月光文字は﹃杭﹄だよ。だから、アンタは動けない。
来年の同じ日に同じ時間に同じ場所で、月光を浴びない限り、ね﹂
﹁その素敵なステッキをぶち壊せば、問題ないでしょ?﹂
渾身のギャグだった。
﹁まあね。でも、どうやるのさ? アンタは動けないんだぜ?﹂
87
田後のステッキが琴音の頬をなぞる。
﹁ま、安心しろよ。今ここで殺してやるから﹂
そう言って、田後は魔石の付いている方を握ると、大きく振りか
ぶり琴音の頬をステッキで殴った。
痛みというよりは衝撃と口内に広がる鉄の味に気がいく。次いで、
じんわりと痛みというか、痺れが顔に広がる。
不愉快な血を吐き捨て、田後を睨む。
﹁魔術で殺すとは言ってない﹂
次はステッキの先端を先ほど射抜かれたわき腹の傷に突き立てら
れる。
﹁ぐぅっ! ぅうううう!﹂
大きく目を見開き、歯を食いしばる。
かろうじて動かせる上体をしならせ、その痛みから逃れようとす
るも、逃れられるはずもなかった。
﹁いいねぇ。こういうのって動画撮影しとけばマニアックな人には
高値で売れるんだよな。アンタ、顔は美人だし、撮影してあげよう
か?﹂
にたりとした表情で田後が琴音に顔を近づける。
﹁この⋮⋮いぎぃっ! あっあああああああぁぁぁ!﹂
何か、言おうとしたが、それを言う前にステッキが傷を抉る。
わき腹からくる激痛が頭蓋の内側を跳ねて回る。
﹁駄目駄目、駄目だ。お願いしますって言えよ﹂
大粒の脂汗を額から滲ませ、田後を睨みつけた。
﹁何だ、その反抗的な面は?﹂
ふと、琴音の目が変わる。
そうして、にたりと頬を緩めた。
﹁いいね。そうだ。そういう顔を見たかった。さあ、服従しろ﹂
﹁そうじゃない。するのは、アンタ﹂
縁は、田後の頭を傘の柄で殴った。
田後は鈍い音と共にふらりとその場で一回転し、無様に地面に転
88
げた。
﹁ナイスショット!﹂
縁はすぐさま琴音のもとに駆け寄る。
﹁大丈夫?﹂
﹁うん? まあ、大丈夫かな﹂
﹁血が出てる⋮⋮﹂
﹁怪我をすれば血は出るものよ﹂
﹁そんなこと知ってる!﹂
﹁あーそれより、そいつにいろいろと尋ねなきゃいけない事がある
から、さ。そこのステッキを壊して﹂
そう言って田後の握っているステッキを指差した。
﹁どうして?﹂
﹁アレのせいで私が動けないから﹂
縁は﹁分かった﹂と、ステッキのもとに向かう。
そうして、ステッキの先端にはめ込まれてあった青い魔石を傘の
柄で打ち砕いた。
﹁サンキュー﹂
﹁ねえ。この人、死んだかな?﹂
﹁さあ。どのくらいの強さで殴ったか知らないから、何とも﹂
縁は琴音のブルゾンの裾を掴み﹁どうしよう﹂と震えながら言う。
琴音は﹁ふむ﹂と、胸を張る。
﹁死んでいたら消しちゃえばいいよ﹂
﹁そうね﹂
二人は軽く頷き合う。
縁は納得し、とりあえず田後が生きているかを確認する。
生きはしているようだが、後頭部は血で黒ずんでいる。
﹁また、結構な力で殴ったね﹂
わき腹を手で押さえながら琴音が近づく。
﹁だって⋮⋮﹂
﹁それより、どうしてここが分かったの? 場所は教えてなかった
89
でしょ?﹂
﹁それは、︽縁︾を視たから。苦しんでるあなたが視えたから⋮⋮﹂
﹁ん? でも、昼ごろあなたまだ親戚ぐらいしか分からないって言
ってなかった?﹂
﹁⋮⋮だから﹂
縁はぼそぼそと何かを言っている。
﹁え? 何だって?﹂
琴音はオーバーに耳に手を当てると縁に顔を近づけた。
﹁だから⋮⋮﹂
﹁だから?﹂
﹁友達、だから⋮⋮⋮⋮だと思う﹂
﹁ふうん﹂
琴音は何とも言えない微笑みで縁を見た。
﹁あ。また、変なこと言いだす気ね。そういう意味ではないから。
勘違いしないで﹂
琴音は笑う。
何故だろう。
久しぶりに、面白い。
何故だか、すごく懐かしい⋮⋮なんだろう。
ずっと忘れていた気がする。
﹁な⋮⋮なによ。満更でもないみたいな顔して。気持ち悪い﹂
﹁お風呂、一緒に入ろっか?﹂
﹁はあ? 冗談じゃない﹂
﹁そんな事言わずにさぁーー。お姉さんに全て委ねればいいから﹂
そう言って抱き着こうとする。縁は傘を手に威嚇する。
﹁痛っ⋮⋮穴開いてるんだった﹂
琴音はその場で蹲る。
﹁ちょっと、大丈夫?﹂
﹁ふふ⋮⋮捕まえたーー!﹂
琴音は縁にしがみ付く。
90
﹁やっ! やめてよ!﹂
﹁これでも、怪我人なのよ。肩ぐらいかしてよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮分かった。肩だけだからね﹂
縁の肩を借りて琴音は立ち上がる。
﹁そうだ。アイツからいろいろ聞き出さなきゃいけないんだった﹂
琴音と縁は倒れる田後に近づく。琴音はブルゾンのポケットから
黄色の魔石を取り出すと、左手で握った。
﹁すぐ終わるから﹂
琴音は田後の額に手を置いた。
5
そこは見覚えのある街並みであった。
叉奈木の駅前だろう。
だが⋮⋮これはいったい。
﹁やあ。僕が話しかけているという事は、こいつは倒せたんだな﹂
全体的にすらりとした男だった。男は交差点の中央に佇んでいる。
﹁まさか、本家が戦闘に秀でた魔術師を雇うとはさすがに想定外だ
が⋮⋮まあ、いいだろう﹂
彼は琴音に歩みを進める。避けているのか、それともこれは全て
精神世界の創造物なのか、それを測らせないためだろうが、彼は一
切車に接触しなかった。
﹁あなたは誰? 田後文起ではないわね﹂
男は黒色の手袋をした両の手を眼前で合わせると、片方の眉を器
用に吊り上げ、小さく顎を引き頷いた。
﹁僕は君の敵になるかもしれない男だよ。そして、仮にそうなるの
だとすれば、僕は君の﹃最悪の敵﹄だろうね﹂
男はコートに手を入れると、煙草を取り出し、
﹁吸っても構わないか?﹂
と尋ねた。
91
﹁精神世界でしょうに。お好きにどうぞ﹂
﹁それはそうだが、人は記憶で生きているものだろう。だとすれば
これもまた一興だよ﹂
男はそう言い、口に銜えマッチで火を点ける。
鋭い切れ長の瞳を閉じると、恍惚の表情で煙を吸う。
﹁で? あんたは誰なわけ?﹂
男は琴音に手のひらを突きつける。
それを攻撃と思い、琴音は身構える。
﹁まあ待て。煙草くらい吸わせろ﹂
どこか名残惜しげに煙を口から出すと、再び煙草を銜える。
﹁さて、脳内ニコチンを補給したところで話をしようか﹂
脳内ニコチン? なんだそれは。
﹁君の事はほぼすべて知っている﹂
﹁そうなの?﹂
﹁ああ。今の時点の僕は君の情報をほとんど知り尽くしている。そ
して、君の今の時点での僕だと今よりさらに詳しく君について調べ
ていると思う﹂
﹁なるほどね。あんたは田後文起の記憶なわけか﹂
﹁おしい!﹂
男は指を鳴らし、微笑んだ。
﹁ここまで見破ったのは君が初めてだよっ! 実に面白いね!﹂
﹁本当にそう思ってる?﹂
﹁いいや。なにせ、この術を使うのは初めてだからね﹂
﹁でしょうね﹂
﹁ほお。いつ気付いた? この術を僕が初めて使うと﹂
﹁さあね。勘かしら﹂
﹁なるほど﹂
少し残念そうに男は頷いた。
﹁ともかく。僕は君に会うべくしてここに在ったわけだよ﹂
﹁じゃあ、その役目を果たせば?﹂
92
﹁ああ、そうしたいところだが、何やらデータの欠損が見られるよ
うなんだ。僕は飽くまでこの頭の持ち主の情報に寄生するデータだ
からね。頭の持ち主の情報に問題があればそれはここでの僕にも影
響が出る。何か心当たりは?﹂
ああ⋮⋮縁。
あなたのナイスショットの所為ね。
﹁まさか、頭部を欠損させたという訳ではあるまい﹂
﹁そうかもよ?﹂
﹁有り得ない。君はそんなことをするような魔術師ではない﹂
﹁ご存知の様で﹂
﹁ああ、言ったろう。君の事は全て知っている、と﹂
﹁言ったわね。どうでもいいけど、そろそろあなたが何者か教えて
くれないかしら。フェアじゃない﹂
﹁それもそうだ。僕はエイブラハム=ハリスン。もちろん魔術師だ
よ﹂
﹁私は││﹂
琴音がそう言おうとしたところで、エイブラハムは手で琴音を制
した。
﹁言わなくていい。既に知っている。それにこの僕はただの情報だ。
その君の苦手な形式にとんだ挨拶は本物の僕に対してしてくれたま
え﹂
明らかに上から目線││事実、エイブラハムの身長は琴音を優に
上回っているのだが││にエイブラハムはそう言う。
﹁はいはい。で、Mr.ハリソン││﹂
﹁ハリスンだ! 二度と間違えるな!﹂
軽くウェブのかかった髪を振り乱し、声を荒げて明確に見てとれ
る怒りの形相を持ってしてエイブラハムは言った。
﹁これだから英語圏外の地域は嫌いなんだ﹂
今の怒声で乱れた前髪をゆっくりと掻き上げる。
﹁うるさいわね。ただの情報のくせに﹂
93
﹁まあいい。続けろ﹂
﹁ではでは、Mr.ハリスンッ!﹂
意図的に﹃ハリスン﹄を強調して言う。
それを受け、エイブラハムは﹁ふむ﹂と、やはり見下したように
口をへの字にする。怒るというよりどちらかといえば﹃その程度か、
愚か者め﹄というような表情である。
﹁伝えるべき情報とは何?﹂
﹁いいだろう﹂
ムカつくなぁ⋮⋮コイツぅー。
琴音はそう思っていたが、表情には出さずに飽くまで平静を保っ
ていた。
﹁とりあえず、エンサ=ダ=バールは知っているか?﹂
﹁さあ。魔法使いは一人で手いっぱいだったものでね﹂
﹁灰色の魔法使いだろう﹂
﹁ええ。で、そのエンサ=ダ=バールって何者なの?﹂
﹁僕が知っているとでも?﹂
﹁そりゃそうよね。今や首だけの魔法使いだものね﹂
﹁もちろん知っている﹂
得意げに胸を張る。
﹁何よそれ。自己顕示欲強すぎでしょあんた﹂
﹁ああ。悪いか?﹂
﹁悪いと思ったことないの?﹂
﹁無い﹂
即答である。
﹁死んでもあんたとは友達になりたくないわね﹂
﹁場合によりけりだな﹂
エイブラハムは琴音を中心にある程度の距離を保ったうえで周り
を歩き始めた。
﹁彼は数千年前に魔法使いとなった男だ﹂
﹁魔法使いだものね。驚きはしないわ﹂
94
﹁その彼がどうして日本は叉奈木に来たのか。気にはならないか?﹂
﹁ええ。もちろん。教えてくださいな。あなたの自慢の知識で﹂
もちろん嫌味を込めて琴音は言った。
﹁よろこんでっ!﹂
エイブラハムはそれを賛辞だと思ったらしく、にこやかに、そし
て子供の様に嬉しそうに返事をした。
何とも言えず、琴音は周囲を歩くエイブラハムを見た。
﹁この場所は非常に魔素の流れが素晴らしい。それは気付いている
か?﹂
琴音は叉奈木に来た時の事を思い出した。
龍主山から扇状に広がる魔素の流れは素晴らしいものであった。
﹁ええ。知ってる﹂
﹁彼は、この土地で己の血族を紡ぐと決める。何故か分かるか?﹂
﹁さあ﹂
琴音は肩を竦めておどけた表情を取る。
﹁魔法使いの考えることなんてさっぱりよ﹂
﹁だろうな﹂
エイブラハムは手にしていた煙草を再び口に銜え、うまそうに煙
を味わい、紫煙を放った。
﹁エンサは、考えたんだ。この土地で血を紡げば次第にこの土地に
見合った肉体。つまりは魔素を大量に扱える肉体になるのでは、と
な﹂
﹁ははーん。読めたよ﹂
﹁そうか。では聞かせてもらおう﹂
そう言い、煙草を宙に投げる。煙草は落ちる間もなく、空中で燃
え上がり消失した。
﹁つまり、あの︽首︾はまだ生きてるってわけね﹂
﹁正確には死んでる。だが、最初にも言ったが、人とは記憶に生き
ている。そういう意味ではあれは生きている﹂
﹁つまり、あの︽首︾は自分好みの肉体ができるのを待ってるって
95
わけ?﹂
﹁ああ。掻い摘んで言えばそうなるな﹂
﹁じゃあ何? 結局のところ、あんたは何がしたいわけ?﹂
﹁簡単な事だ。僕は試したいだけ﹂
﹁はあ? 魔法使いと戦おうっていうの? 流石に頭おかしいんじ
ゃない?﹂
﹁違う。魔法使いが復活すれば僕の負けだ﹂
ボディ
﹁はあ? なおのこと意味が分からないんだけど﹂
﹁エンサ。つまりはあの︽首︾の目的は最高の体の取得。それだろ
う? だとすればあの︽首︾はありとあらゆる手をこうじて己の求
める肉体を手に入れようとするはずだ! もっともあれは︽首︾だ
けだから手なんてないけれどもなっ!﹂
縁三高独を襲ったのはそういう訳か。でも、あの変異ぶりから見
て、高独は最高の体ではなかったようね。
だとすれば、縁も狙われてるのか⋮⋮。
﹁魔法使いとの頭脳戦なんて⋮⋮素晴らしいっ! 実に面白そうで
はないか?﹂
﹁さあ。で、それが目的でいろいろ手の込んだことやってるの?﹂
﹁実は、僕も君と同じなんだ﹂
﹁というと?﹂
﹁僕も雇われの魔術師だという事さ﹂
﹁はあ? あんたも縁家に雇われているの?﹂
それを聞くや、エイブラハムは高らかに笑った。
﹁違うよ。同じエンサの一族でも僕は別の一派から雇われている。
まあ、本家よりもずいぶんあの︽首︾に詳しいようだけれどもな﹂
﹁どういう事?﹂
﹁僕の仕事は、︽首︾の回収。それと││﹂
エイブラハムは琴音の前で足を止め、琴音に人差し指を指し向け
た。
﹁君たち、つまり縁家に︽首︾が回収されることの阻止だ﹂
96
﹁それで﹃最悪の敵﹄ね﹂
﹁そういう事だ﹂
なるほど、縁が親戚を嫌う理由が分かった気がする。
﹁ふむ。どうやら、僕はこれ以上聞かれても何も答えられないよう
だ。だが⋮⋮まあ、何か質問は?﹂
﹁あんたの雇い主は?﹂
﹁さあ? 皆目見当もつかない。何分記憶が無いものでね﹂
おどけた様に肩を竦めてみせる。
﹁最後に三つだけ質問させて﹂
﹁なんだ?﹂
﹁また何か仕掛けるつもり?﹂
﹁それには答えよう。もちろんイエスだ。さあ、次は?﹂
﹁この子。田後文起は何なの?﹂
﹁僕の手下だった。情報収集に使おうとホームレスに変装させて町
に放ってたんだが、僕にとっては不幸なことに本業のホームレスを
やっていた縁三高独と出会ってしまってね。後は、君の方が詳しい
だろう。間違った見解を持ってそれに傾倒し、君たちを直接排除し
ようとした。ナンセンスだね﹂
﹁なるほど。いろいろ納得﹂
﹁そうだろうな。とはいえ、彼は若い。君に慈悲があれば殺さずに
いてくれ﹂
脳に欠損って大概だけど⋮⋮まあ、大丈夫かな。
﹁私はそんなことしない。知ってるんじゃないの?﹂
﹁一応言っておいただけだ﹂
﹁意外にお優しいのね﹂
﹁ああ。よく言われるな。最後は?﹂
﹁そうね。あなた⋮⋮若いころのアラン・リックマンに似てるって
言われない? ﹃ダイ・ハード﹄の時の﹂
﹁初めて言われたぞ﹂
﹁そう﹂
97
﹁それでは、次は夢ではない場所で会おう﹂
﹁会いたくないけど﹂
﹁会うさ﹂
﹁でしょうね。さよなら﹃最悪の敵﹄さん﹂
﹁また会おうだろう?﹂
6
目を開けると、そこには心配そうにこちらを覗き込む縁の姿があ
った。
﹁大丈夫?﹂
﹁それはこっちのセリフなんだけど﹂
琴音は魔石をポケットにしまうと、立ち上がる。
﹁何か分かった?﹂
﹁全部分かった﹂
﹁全部?﹂
﹁私も、あなたの親戚が嫌いになりそうって事﹂
縁はどういうことか分からないと言った表情で小首を傾げて見せ
る。
﹁この人、どうするの?﹂
琴音はジーパンのポケットから縁の携帯を取り出して渡した。
﹁これ、私の﹂
﹁ごめんね。こいつとは私が会いたかったから﹂
﹁あ⋮⋮別にいいけど﹂
﹁それで救急車でも呼んであげたら?﹂
﹁放って置いてもいいんじゃないかしら?﹂
さらりと縁はそう言う。
﹁⋮⋮あんたがそう言うなら﹂
琴音は肩を竦めて見せる。
﹁とりあえず帰ろう﹂
98
琴音がそう言う。
﹁あ﹂
縁は琴音に肩を貸す途中でそう呟いた。
﹁どしたの?﹂
﹁あの手紙﹂
﹁手紙? ああ、市役所からの?﹂
﹁そう。ちょっと清掃員の手助けを借りて市役所に無理やり入り込
んだんだけれどね﹂
おそらく縁家の権力だろう。悪びれてない辺り、恐ろしい子だよ。
ほんと。
﹁こんな手紙送ってないって帰らされたのよね﹂
それはそうだ。何せ私が作った偽物だし⋮⋮とは言えない。
琴音は深刻そうな顔つきで頷く。
﹁そうなんだ。じゃあ、明日私が持って行ってみるよ﹂
縁は﹁分かった﹂と頷く。
﹁そうだ。明日、ご飯食べ行こうか?﹂
﹁ご飯? ご飯って食べに行くものなの?﹂
﹁はぁ? あんた一人で館で暮らしてるんじゃないの?﹂
﹁だって、食べ物は送られてくるじゃない﹂
ああ。この子は大丈夫なのだろうか。
というより、縁家はどういう教育をこの子に施して⋮⋮。
琴音は﹁はあ﹂と大きくため息を置き、縁の方を見る。
﹁普通は違う物なの?﹂
﹁ま、とりあえず何事もやってみよう﹂
縁は少し恥ずかしそうに頷く。
99
第五章
1
門には﹃本日休業日﹄との張り紙を張った。
琴音は朝早くに市役所に行ってきたそうだが、そんなに朝早くに
市役所は開いているのか?
まあ、ともかく。今日はゆったりとしよう。
縁はソファの上でまどろんでいた。
結局、琴音は何を見たかを教えてくれない。
ただ、外に出る時は一緒に出ることって⋮⋮。
﹁それじゃあ⋮⋮今までと一緒よ﹂
ぼそりと呟き、クッションを腕と足で抱きしめる。
ずーっと。小さい時から私はこうして館に縛られている。
この館は体の良い監獄だ。座敷牢みたいなものね。
だとすれば、私は狂人?
そうよね、座敷牢といえば狂人が連想される。
まあ、間違ってはいないわね。
自分の考えを鼻で笑い、目を閉じる。
琴音ならば、分かってくれると思っていた。
琴音ならば、私をこの座敷牢から連れ出してくれると。
でも、違う。
琴音も結局同じ。
私を閉じ込める。
けれど⋮⋮。
﹃ようこそ﹄
昨日の言葉が縁の脳裏をよぎる。
そして、あの暖かさも、あの光も⋮⋮。
何考えてるんだろ、私。
100
彼女はもう、私を連れ出してくれているじゃないか。
後は、私が自分で切り開いていくんだ。
守られてばかりじゃいけない。
私も⋮⋮役に立ちたい。
自分の無力感に自然とクッションを抱く腕に力がこもる。
琴音は友達だ。
私を心配してくれているんだ。
きっと⋮⋮きっと。
門の開く音が聞こえる。
帰ってきたのかな?
扉が開く。
そうして、足音が聞こえる。
いいや違う。
これは⋮⋮琴音じゃない。
縁は飛び跳ねる様に上体を起こすとリビングの入り口を睨みつけ
る。
そこには異様に黒い靄のような物が溢れて見えた。
﹁誰!?﹂
リビングの扉がゆっくりと開く。
えにしゆかり
現れたのは長身に黒い外套を羽織った細身の男性だった。
﹁話をしに来た。君とね。縁縁﹂
男の顔は病的に白く感じた。やつれた様に頬が窪んでいるため、
どうにも不健康そうな印象だ。
そうして、何よりもこの男に掛かる黒い靄が気になって仕方がな
い。
縁は立ち上がると、距離を保ちつつ横に移動をした。
かえ
﹁そう警戒するな。最初にも言ったが、僕は話をするために来た﹂
﹁では反させてもらうけれども。最初にも言った通り、あなたは誰
?﹂
男は細く鋭い目つきで部屋中を凝視する。その目付きはどこか猫
101
を思い出す。
﹁答えて!﹂
﹁君には魔術が効かないらしいな﹂
男は質問を無視して語り出した。
﹁座っても?﹂
男は足元のソファを指差した。
﹁質問に答えて﹂
男は﹁ふん﹂と鼻で笑うと、ソファに腰かけた。
﹁許可してないんだけど﹂
﹁構わん。気にするな﹂
男は表情を変えずにそう言い放つと、黒い手袋をはめた手を眼前
で組んだ。
﹁鬱陶しいな。良いだろう。話してやる。僕はエイブラハム・ハリ
スンだ。間違えるなよ。ハリスンだからな。ちなみに、初対面では
ないぞ﹂
﹁え?﹂
どこで⋮⋮。
﹁こうすれば分かるか?﹂
ハリスンは外套のポケットから取り出した灰色の帽子を被って見
せた。
﹁昨日の⋮⋮﹂
市役所の⋮⋮清掃員。
縁は気味が悪くなり、一歩後退去った。
﹁何の用? 何者なの?﹂
ハリスンは帽子を取ると、外套に閉まった。
﹁ふむ。その質問に対する答えを君が望んでいる頃合じゃないかと
思ってね。こうして来た次第だ。大方、あの魔術師は何も説明して
いないのだろう?﹂
確かに⋮⋮琴音は何も、教えてくれない。
﹁僕はあの事件の黒幕だよ。まあ、予想外の出来事も多々あったが、
102
概ね僕の所為だ。そういう存在だよ、僕は。これで満足か?﹂
﹁じゃあ⋮⋮あなたが﹂
﹁ああ。一つ言わせておいてくれ。僕は誰も殺していない。殺すな
んて実につまらんからな。だが、まあ、僕が雇った人間が人殺しに
少なからず関与したことは事実だ。そういったことを考えて大元を
辿ると行動の責任は僕にもある。もっとも、悪いとは思っていない
がね﹂
﹁琴音はこの事を知っているの?﹂
﹁ああ。もちろん知っているとも。だが、僕は冴島琴音とは会った
こともない。それでも、彼女は僕とは出会っているだろうし、僕の
事を理解もしているだろうね﹂
会ったことが無いのに、彼が誰であるか知っている。そして、琴
音は彼と出会っている?
ことわり
彼が言ったその通りを脳裏に並べてみるがいよいよ分からない。
えん
﹁君は︽理︾というものを知っているか?﹂
﹁突然。何よ﹂
﹁いいや。君の︽縁︾を視る力を詳しく説明しておいてやろうかと
思ってね。説明はあったか?﹂
縁はただ首を横に振った。
﹁いいか。︽理︾というものはこの世界を構築するいわば数列だ。
この地球に存在する全ての物にその︽理︾は干渉する。魔術であれ
なんであれ、だ。そして、その︽理︾を書き換えることが出来る者
が存在する。それが、魔法使いだ。ここまでは良いか?﹂
早口ではある。だが、少なくとも、琴音の説明よりは理解できた。
縁はこくりと頷く。ハリスンは﹁ふん﹂と、鼻で笑い再び話を続
けた。
﹁︽縁︾とは言いかえれば︽理︾に含まれない人の感情だ。当然、
そんなものが視覚化できるはずがない﹂
﹁じゃあ、私が見ているのは何なの?﹂
﹁言っただろう。この世には︽理︾を書き換えることのできる存在
103
がいると。それが魔法使いだ。︽理︾を書き換えるのだから、当然
︽理︾を視覚化する力も持っているものだ。本来ならば、この世の
︽理︾を認識する能力なのだ、それは﹂
男は何処か苛立たし気にそう言うと、落ち着きがなくなり、貧乏
ゆすりを始めた。
﹁どうしたの?﹂
﹁なんでもない!﹂
大きくそう叫ぶと、懐に手を伸ばし、そこから銀色の何かを取り
出した。男はそれを破ると、中からこぼれた二つの白く四角い固形
物を口に運んだ。
﹁⋮⋮変な薬?﹂
男は縁を睨み、口に入れたものを必死に噛んだ。
﹁禁煙中なんだ。イライラしたらこれを噛むよう言われていてな﹂
そうは言うものの、一向に眉間のしわと貧乏ゆすりは治らない。
﹁ああ。何処まで話した?﹂
﹁えっと⋮⋮本来︽理︾を視る力だとかなんとか﹂
﹁ああ。そうか。つまりだ。君の力は劣化した能力だという事だ。
本来見えるはずの︽理︾の部分が視えないため、視えるはずの無い
︽縁︾が、浮き彫りになっているという非常に珍しい状況だ。まあ、
それもそうだろうな。長い年月をかけて血を薄めればそうなる。い
いか。こんな説明で?﹂
﹁で? 何をしに来たの?﹂
﹁何を? 可笑しなことを聞く。何をだと? ははっ! 最初に言
っただろう。説明をしに来たんだ﹂
﹁どうして? 意味が分からない﹂
﹁どうして? ふむ。それは、僕が君の疑問の答えを知っているか
らだろう﹂
﹁はあ?﹂
﹁知っていても、他人に言えなければ無駄じゃないか。違うか?﹂
﹁え? ちょっと待って。あなた、その知識を自慢するためにこう
104
してやって来たの?﹂
﹁それ以外に何かそれらしい説明をしたか?﹂
そう言われれば、何もしていないのだが⋮⋮。
﹁ふむ。気が済んだ。僕は帰る﹂
ハリスンはむくりと立ち上がると、すたすたとリビングを出て行
こうとする。
﹁ああ。そうだ﹂
突然踵を返し、縁を見る。
﹁見送りは結構﹂
﹁しないわよ﹂
﹁それともう一つ﹂
﹁何?﹂
﹁君は僕の事を覚えてはいないだろう。だが︽縁︾について僕が説
明した話を覚えている。そう言う風に僕の﹃忘却言語﹄は整えてい
るからな。高度な魔術なのだ⋮⋮と、説明したところで僕の事は覚
えていないのか。まあ、良いだろう﹂
ハリスンはにこやかに微笑むと、その場に佇んだ。
縁はハリスンを眺めていると、突然黒い靄が弾け、縁の視界を覆
い隠した。
ぼんやりとその場に佇む縁。
残ったのは開け広げられたリビングの扉だけ。
不意に、玄関が大きな音を立てて開けられる。
﹁縁ー。ご飯食べに行こうよ﹂
どたどたと忙しくリビングに入り込んでくる琴音。
﹁いいけど。どこ行くの?﹂
琴音はにたりと微笑む。
﹁何よ﹂
﹁西部劇はお好き?﹂
105
2
﹁いらっしゃい﹂
そう出向いたのは白髪の老人であった。
﹁あれからどうだい? 問題ないかい?﹂
老店主は琴音にそう尋ねる。
なんだろう。この音楽⋮⋮店の雰囲気とてんで合ってない。
まあ、それは抜きにしてみれば、この店は落ち着いていて個人的
にすごく好きだ。どことなく屋敷の離れを思い出す。
﹁ええ。元気です﹂
ゆかり
えにし
﹁こちらは?﹂
﹁縁です。縁家の﹂
﹁ユカリ? ああ。ああー﹂
えにし
そう言う反応だろうね。当然だ。
この町で縁家は何処に出向こうと驚かれる。
縁はどことなく拗ね気味に腕を組む。
琴音は﹁ふむ﹂と前髪を掻き上げる。
その顔は﹁どうしたものかな﹂と言った表情である。
﹁今日は、何がおすすめですか?﹂
﹁今日は﹃オムライス﹄があるぞ﹂
オムライス?
機敏な動きで縁は店主を見る。
その仕草に店主は少しビクつく。
﹁オ⋮⋮オムライス下さいっ!﹂
縁はオムライスが好きなのだ。
﹁注文は席に着いてからだぞー、ゆかりん﹂
﹁あう⋮⋮﹂
縁は顔を赤く染め上げ俯いた。
﹁分かった。お嬢ちゃんはオムライスね。あんたは?﹂
お嬢ちゃんって⋮⋮私、十八なんだけどなぁ。
106
﹁私は⋮⋮﹂
琴音はカウンターに明らかに不釣り合いな木目に墨で描かれた﹃
穴子丼﹄を見つめている。
﹁穴子丼で﹂
﹁あいよ﹂
店主はメモ用紙にボールペンで注文を書いている。
﹁オムライス一。穴子丼一。カイ、お前が穴子作れっ﹂
﹁はーい﹂
カイ?
ゆかり
ふと何か引っかかり、縁と琴音は顔を見合わせた。
﹁縁⋮⋮もしかして﹂
縁はこくりと頷く。
﹁すいません﹂
琴音はそう言って店長を呼ぶ。
﹁なんだい?﹂
﹁あの、娘さんの事なんですけど﹂
﹁ああ。カイか⋮⋮﹂
その声にはどこか重いものが感じ取れた。琴音はそれを感じ取っ
たのか、軽く首を傾げて見せた。
﹁店長︱。タレどこにやったの?﹂
そう言いながら暖簾をくぐって現れた少女。歳は私と変わらない
くらいだ。髪の毛を後ろで一つに束ねている。
途端。その少女と眼が合う。
どこかで⋮⋮。
﹁あ。縁ちゃんっ!﹂
突然名前を呼ばれ、縁は大きく目を見開いた。
﹁ほら、覚えてない? 私﹂
そう言ってにこにこと自分を指差す少女。
﹁あー覚えてないかなぁ。結構昔だもんねぇ﹂
﹁どこで⋮⋮﹂
107
そう尋ねた縁であったが、既に答えは知っている。彼女と瞳が交
わった瞬間に感じた赤い光。
えんぞう
かい
それが指すのは、彼女が縁家の一族であるという事だ。
﹁私、縁三家の皆だよ。元⋮⋮だけど﹂
琴音は﹁ふうん﹂と、呟くと感慨深そうに腕を組んだ。
その顔には﹁あなたが何とかしてみせなさいな﹂というような顔
をしていた。分かりやすく言えば、私を巻き込むな、というような
顔だ。
店の店主を見やると、困ったような表情で皆と名乗った少女を見
ている。
﹁ごめんなさい。覚えて⋮⋮いいえ、知らないの﹂
はっきりと、縁はそう言った。
店主は頭を抱え﹁しまった﹂というような表情だ。
琴音は、よく分からないが、にやにやと笑みを浮かべながら縁を
眺める。
﹁だから、教えて﹂
えにしゆかり
皆は少し困った顔をした後、小首を傾げた。
﹁知ってると思うけど、私の名前は縁縁。私はなんて言うか、すご
く人の名前を覚えるのが苦手なの。だから⋮⋮﹂
﹁えーっと。私はねっ⋮⋮うふっ﹂
皆はそう言いかけたところで﹁ふふっ﹂と小さく笑った。
縁は少しむっとした表情になる。馬鹿にされた気がしたのだ。
﹁可笑しなこと言ったかしら?﹂
﹁違うの。そんなつもりじゃないんだけど、不思議だなぁって思っ
て﹂
ゆ かりかい
縁は分からず、眉をひそめる。
﹁今の私の名前はね、弓狩皆なの﹂
それにまず笑い出したのは琴音だった。
﹁あはっ! あははははっ! 出来過ぎ! 出来過ぎよっ! ああ、
もしかして⋮⋮あなたの名前は?﹂
108
琴音は店主の方を向き、そう尋ねた。
ゆ かりふみ き
店主は﹁分かった﹂という顔で頷き、
﹁俺の名前は弓狩史城だ。皆は俺の孫だよ﹂
と、しぶしぶといった具合に答える。
琴音は笑いをこらえ、こくりこくりと頷く。そうして、縁の方を
見やるともう一度大きく頷いて見せた。
﹁なるほどね。これも全部︽縁︾ってわけね。あなたと居れば、当
分暇はしなさそうね。あははっ!﹂
﹁ふふ﹂
それにつられて縁も笑う。
皆も笑った。
先ほどまでは鹿爪らしく腕を組んでいた店主でさえ頬を緩めてい
る。
店内の西部劇の音楽に負けず劣らずの笑い声で笑った。
﹁ど⋮⋮どうしたの?﹂
突然の騒ぎに厨房から女性が現れた。店主の奥さんだろう。
﹁いや⋮⋮なんでも、何でもないんですよ﹂
琴音がそう言う。
縁もそれに頷き、
﹁何でもない﹂
小さく事実を語った。
この上ない楽しさであった。
これほど世界を楽しいと感じたことはあっただろうか。
これほど世界を小さく感じたことはあっただろうか。
これほど人との繋がりに喜びと感動を覚えたことはあっただろう
か。
無い。
無かったのだ。
彼女と出会うまでは⋮⋮。
109
えん
これは、一人の少女が︽縁じる︾成長の物語である。
110
序章
苔生した灰色の四角は、少し前より溶け込んでいるように見えた。
冴島琴音は汗ばむシャツを手で仰ぎ、藪を蹴散らしながら歩みを
進める。
なんだって私がこんな事を⋮⋮。
心の中でいくら愚痴ても、己の考えたことであり、己が望むこと
でもある。
他人から命じられたとあれば、それを命じた人物を怨み貶せばい
いのだが、自分で命じたことだ。怨むならば数時間前の己を怨むし
かなかった。
琴音はそう考え至るや、大粒の汗が鎖骨に沿って流れ落ちるのを
見てとり、そこに向かって大きく溜め息を落とし込んだ。
しばらくその灰色の四角を中心に弧を描くように周囲を歩き回っ
ていた琴音はついに目的の場所に行きついた。
﹁うへぇ⋮⋮やっと見つけた﹂
そこにあるのは一本の巨木。否、樹齢数百年は行こうかとも見え
る苔生した木であった。
﹁進化したねぇ﹂
111
琴音はその木に向かって話しかけた。
木は僅かに葉を揺らし、幹を裂き、動きを見せた。
﹁ああ、大きくなったよ。今では気分も︽木︾になって仕方ない﹂
木が話した。
それをさも当たり前と聞き入る琴音はやはり魔術師、人の理の外
に身を置く存在だ。
﹁前よりは能力も落ち着いたみたいね﹂
琴音はズボンのベルトに挟み込んでいた水色のタオルを手に、額
の汗を拭った。
﹁落ち着いたかといえばどうなのかは分からない。けれども、悪い
気はしない﹂
すっかりと変わり果てた縁三高独は落ち着いた声色でそう言った。
﹁そう。ならよかった。それに、今の方が格好良いわよ。なんだか、
そう。﹃マンシング﹄みたいで﹂
﹁何だって?﹂
﹁巨大怪物マンシング。知らない?﹂
﹁ああ、知らない﹂
112
﹁そう。そうよね。B級映画だものね。﹃ターミネーターX﹄とか
﹃トランスモーファー﹄と同列に置かれる奴だものね。見てる人の
方が少ないわよね。でも、好きなの。なんだか好きなの。くだらな
い映画だけれども、それでも好きなの。ヒーロー映画かと思わせて
おいてそんなことは全くないパニック映画だけれども、それでも⋮
⋮﹂
﹁分かった分かった﹂
﹁つい熱くなってしまった⋮⋮﹂
﹁もうすぐ夏だからな﹂
﹁そうね﹂
琴音は高独に一歩、歩みを寄せる。
﹁おい!﹂
高独は慌てて身を捻るが、根が張っているのか、あるいは体が重
いのか、声の反応とは裏腹に一歩も動けずに琴音に触れられた。
琴音は静かに頷き、にこやかに高独を見上げた。
﹁大丈夫みたいね。ともかく、よかったよかった﹂
﹁大丈夫でなければどうする気だったんだ﹂
﹁私はこれくらいじゃ死にはしないっての﹂
113
琴音は得意げに胸を張って見せた。
﹁ああ、そうだ。娘さん元気よ﹂
﹁本当か!﹂
高独は木の葉を揺らし大きくそう尋ねた。
﹁ええ。天丼屋で働いてる﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
高独はそれを察したのか、安堵の声をもらした。
﹁それでね、皆ちゃんだけど⋮⋮﹂
﹁妙な男と付き合ってなかろうな!﹂
﹁あーそこらへんはあなたよりも厳しめの保護者がいるのでご安心
をば﹂
ついこの間の店での騒ぎを思いだし、少し引き気味に琴音は後頭
部を掻いた。
﹁そうか⋮⋮ならいいんだが﹂
﹁皆ちゃんなんだか大学で変なサークル入ってるみたいなんだけど、
止めた方が良い?﹂
﹁変なサークルというのは?﹂
114
大きな声でやはり尋ねる。
娘の事ともなればやはり、怪物とは言え真剣な一人の父親である。
琴音はそう思い、すこし笑った。
無論、笑える状況ではないんだけれども⋮⋮。
﹁それがなんでも、﹃映画料理研究会﹄とかいうサークルなんだけ
れども﹂
﹁映画料⋮⋮何だって?﹂
﹁そうなりますよねーですよねー﹂
やはりそうなったかと、少し納得。
﹁何をするサークルなんだ﹂
﹁なんでも、映画に登場する料理を再現して食べるサークルなんだ
とか﹂
﹁それは⋮⋮﹂
高独は絶句したようだ。
それもそうだろう。どうせ大学に行っているのだ。少しでも有意
義なサークルに入って欲しいと思うのが親の考えだろう。
⋮⋮親ではないからそんなこと分からないんだけれどもね。
115
﹁素晴らしいじゃないか!﹂
﹁はあ?﹂
なんでそうなる。
というか、この一族は何なんだ。
琴音は初めて件の﹃テムズ﹄に行った時のあの二人に感じた空気
を今ここで再び感じることになるとは思ってもみなかった。
血は争えない。
⋮⋮あの店主とこの人血は繋がっていないけれども。やはり、義
親子か。
﹁止めなくていいのね?﹂
﹁ああ、私もいければよかったんだが⋮⋮﹂
非常に悔しそうに物語る高独。よほど悔しいのだろう。木の葉が
悲しさを奏でているように聞こえてならない。
琴音は件の﹃ブルーミルク﹄を思いだし、少し苦笑いと共に再び
頭を掻いた。
﹁で? 何をしに来たんだ﹂
高独が尋ねる。
116
﹁うん? ああ、聞きたい?﹂
﹁いいや、だが気にはなる﹂
﹁木だけに?﹂
面白いと思ったんだけどなぁ⋮⋮。
辺りには森の息吹きだけが響き渡る。
巨木と赤髪の女性が大自然の中、冷たく切り取られたように何人
の介入も許されざる静けさに包まれていた。
琴音は滑ってしまったのだという事は言葉を発した時点で察しが
ついていたのだが、どうにも中途半端に引くというのも気に入らず、
最後まで滑り切ってしまったわけである。
結果、世界を止めるというある種、魔術の域すら超えた現象を引
き起こしたのであった。
﹁と⋮⋮ともかく。私はちょっと、ここの土地に用事があって来た
のです﹂
﹁土地?﹂
﹁ええ。ほら、こないだ私と軽く戦いになったでしょ?﹂
高独は苦々しく﹁ああ﹂とだけ呟く。
﹁あの時気付いたのだけれども。ここの土地はどうにも他の土地に
117
比べて生命が豊かなのよ。おそらく、あなたの能力の所為もあるの
でしょうけれども、ね﹂
琴音は前回彼との戦闘において彼を束縛したここの土地に関心を
抱いていたのであった。
それというのも、彼を拘束させるだけのつもりで撃ち放った魔石
が、期せずして地面を手の形に変えて彼を掴んだという事実を鑑み
た結果であった。
もちろん、ああいう魔術である。けれども、あの手の構造はおそ
らくこの土地独特のものだ。
本来、あの魔石で握り手の魔術を行使すると、無骨な手が対象を
掴むという魔術なのだ。けれども、あの手は繊細にして、機敏に行
使者と同程度の手形を再現してみせた。その為、琴音は不思議に思
っていたのである。
﹁何を言っているのやらさっぱりだ﹂
﹁理解できてたら、今頃あなたはそんな姿にはなってないんじゃな
いかしら?﹂
高独の返事は無い。
﹁ま、あなたはそこで見てて﹂
﹁何をだ﹂
﹁ちょっと面白いことを、ね﹂
118
琴音はパンツのポケットから針と羊皮紙を取り出した。
﹁何を⋮⋮﹂
﹁黙ってて﹂
琴音は羊皮紙を足元に置き、針を右手に持つと、己の手のひらに
針先を押し付ける。
赤く鮮血が溢れ、針先を埋めこんでゆく。
そうして、血が零れぬよう左手は軽く丸めてしゃがみこむや針先
に血を付けて羊皮紙に文字を記し始めた。
そこに記された文字は﹃emeth﹄。﹃真理﹄の文字が血で刻
まれるや、琴音は不気味に頬を緩めてみせた。
※ ※ ※ ※
明確なる意志は決意の名のもとに収束しつつあった。
わずかの誤差も許されない完璧な照明を持ってして己の正当性を
見せつけなければならないのだ。
駅前の広場に一人、その人物は佇んでいた。
虚ろな瞳で道行く人々を捉え、観察する。
使えそうな人形はいないか。
119
それは至上の難題であり、未だかつてその域に至ったものもいな
い。
故に、求め。
故に、挫け。
それでも、進むのはひとえにある人物への執着。
己にとっての全てであり、最高の比較対象。
彼女の存在が証明を確実なものにしてくれる。
目的はそこにあった。
彼女の秘める力を用いてこそ、この証明は確実に成り立つ。
しかし、そこに至るにはまず実験を繰り返さなければならない。
既に数件の実験は行い、いずれも成功を収めている。
証明は最終段階に入っていた。
不敵に微笑んだ矢先、目に止めたのは不思議な少女の姿。
黒く只々黒く。
汚れなど全く感じさせない純粋なる黒色。
120
吸い込まれるかのような黒い髪を持った少女。
この世のものとは到底思えないほどの美しさと恐ろしさを兼ね備
え、現実に上書きされるようにしてそこにあった。
どれだけ外見を読み取ろうとも、どれだけ内面を覗き見ようとも、
只々、黒く。あるがまま、黒く。真理の海原の海底奥深く、暗黒の
水底にて居座る深淵の姫。
そう言っても言いすぎではないだろう。
とたん、深淵の姫は振り返り、こちらを見つめた。
深淵を覗かば深淵もまたこちらを覗いているのだ。
凛と見開かれた双眸は魔の瞳。
古今東西、どれだけ切れ味のよい刃物でも、人の心をこれほどま
でに容易く斬り裂くことは不可能だろう。
それでも、ああ、だからこそだ。
あれを壊してみたい。
あの輝きを││││てみたい。
けれども、分からない。
あれは││││ているのか。
121
それとも││││ているのか。
姫は答えの出せぬ愚か者には痺れを切らしたか、踵を返し人が渦
巻く雑多に潜り消えて行った。
名残惜しく、少女を探そうと人混みを見つめていたが、終ぞ見つ
けることはできなかった。
とはいえ、今はそれどころではないのだ。
何のために全てを投げ捨てたというのだ。
何のために全てに挑もうというのか。
変わり果てた己の顔をそっとさすり、意識を為すべきことに向け
集中した。
灰色の魔術師。
いいや、件の事情を鑑みるならば、魔法使いと呼ぶべきであろう。
否。そう呼ばねばなるまい。
待っていろ。
冴島琴音。
人を愛せし愚かな傀儡よ。
122
第一章
冴島琴音へ
遠上佳苗
大木雄二
立花蒼汰
横八昴
彼らの死はいずれも私の仕業である。
今より一週間以内に彼らと同じような運命をアナタに与えようと
思う。
もし、過酷な運命を味わいたくなければ、私を探せ。
私を見つけて止めて魅せろ。
ファントム
1
黄金色に輝く丘に白銀の月がゆっくりと沈み込んでいく。わずか
だが、緑色豊かな森に、赤く照る河が流れている。黄金色の丘から
赤く夕陽に彩られた土地を取込み、半月となった銀色の月は流れる
様にして、飛んでゆく。
縁縁はオムライスを一口頬張った。
﹁⋮⋮ーん﹂
瞳を閉じ、その感触を楽しむ。
﹁どう? 今日は私が作ったんだけれどもっ﹂
弓狩皆は身を乗り出し、縁の表情を眺める。
﹁美味しい!﹂
123
﹁本当? やったっ!﹂
﹁でも、富子さんの方が美味しい﹂
素直にそう言った。富子さんとは皆の祖母だ。この喫茶﹃テムズ﹄
の経営者でもある。
﹁あーやっぱりかー。いやぁーでも、縁ちゃんに聞くのが一番だよ
ね。素直に感想言ってくれるもんっ﹂
縁はもう一口オムライスを口に運び、上目づかいに皆を捕える。
にこやかに微笑み、嬉しそうにこちらを眺めている。
﹁じゃあ、私以外に聞けば、素直に返してもらえないの?﹂
﹁うーん⋮⋮どうなんだろう。みんな気を使っちゃうからね。だい
たい美味しいって言われるし﹂
﹁でも、あなたは美味しいとは思っていないのでしょう?﹂
﹁そういう訳ではないんだけど⋮⋮﹂
﹁じゃあ、あなたが聞いた人の意見というのは合っているのではな
いかしら﹂
﹁そう、なのかなぁ﹂
分からない。
縁は眉間に皺をよせ、小さく小首を傾げる。
﹁やや、ごめんごめん。なんだか悩ませちゃってっ。大したことじ
ゃないからっ。気にしないで﹂
縁は小さく頷くと、またもオムライスを頬張る。
﹁ねえ、縁ちゃん﹂
カウンターの向こう側に肘をつき尋ねる皆を見る。
﹁今度、大学に来ない?﹂
縁は口の中のオムライスをよく噛み、飲み込むとコーヒーを口に
含んだ。
﹁どうして?﹂
﹁うーん。どうしてだろっ﹂
またも分からず、眉間のしわは険しい渓谷を生み出していた。
﹁あ。そうだ。今度、お祭りがあるの。そこで、私もサークルで出
124
店するから、良かったら手伝ってくれない?﹂
﹁何のサークルに入っているの?﹂
﹁映画料理研究会﹂
﹁はあ?﹂
聞いたことが無かったし、理解もできなかった。
﹁みんなそんな反応するんだよねぇ﹂
﹁それはそうでしょう。意味が分からないもの。どんなことするの
?﹂
﹁えーっと⋮⋮縁ちゃんって映画とか見る?﹂
﹁まあ﹂
﹁そしたらさ、映画の中に出てくる料理っておいしそうに見えない
?﹂
﹁⋮⋮分からなくもないけど﹂
﹁でしょう。私たちはねっ。それを現実に再現して食するサークル
なのよ!﹂
ぐっと拳を握り、そう力説する皆。
本当に、分からなくもないのだが、よくそのようなサークルを大
学側が認めたものだ。
縁は最後の一口を口に頬張ると、皆を見た。
楽しそうな顔をしている。
私も、何か趣味を見つけるべきかも。
縁は小さく頷いて見せる。
﹁来てくれるの? やったー!﹂
2
﹁という訳なのだけれども﹂
琴音はソファの上で膝を抱え、ただぼんやりと虚空を眺めながめ
ていた。
﹁ねえ、聞いてる?﹂
125
縁は琴音の眼前に立ち、見下ろす。
﹁⋮⋮ええ。もちろん﹂
一度上目使いに縁を捉え、再び視線を下ろす。
琴音の上の空の返事に縁は口をへの字にした。
﹁何か考え事?﹂
﹁⋮⋮ん? まあ、ちょっとね﹂
琴音は頭を抱え﹁うーん﹂と、喉の奥そこから這い出るような声
を発した。
縁は、その様を冷めた視線で捉えるのであった。
覆った両手の指の隙間からちらちらと、縁の方を伺う琴音。
﹁⋮⋮何?﹂
縁は呆れ気味にそう尋ねる。
それでも﹁うーん﹂と首をひねる琴音。
﹁だから、何なの!﹂
声を張り、大きくそう発した。
﹁いやね。縁には和服が似合うか、メイド服が似合うかを思案して
たのよ﹂
言葉がなかった。
無論。呆れてである。
﹁あ。何? その﹃やってらんねー﹄みたいな顔﹂
﹁お察しの通り。ご考慮、痛み入るわ﹂
﹁わー﹂
琴音は自分の頬を右手に預け、
﹁これは養豚場の豚を見る目だぁ﹂
そう言うと、にたりと微笑んだ。
﹁気持ち悪い﹂
﹁え? 知らないの? 今の﹂
﹁何が﹂
﹁だから、養豚場うんぬんのくだり﹂
﹁知らない。それに、私はそんな下劣な目はしない﹂
126
﹁うーん。知らないのかぁー。ま、冗談は程々にしておいて、実際
問題外に出ていくというのであれば、偽名でも使ったほうが良いん
じゃない? あなたってば名前だけは有名らしいし、ね﹂
﹁それは、そうね﹂
﹁どんなのがいい? 中国人を名乗る? それとも、フィリピン人
?﹂
﹁どうして外人名乗らなきゃいけないのよ﹂
﹁いや、いやいや。その顔で日本人とか、あははっ﹂
琴音はニコニコしながら縁を指差し笑う。
私はそんなに日本人離れした顔つきなのだろうか⋮⋮。
縁は頬をさするふりをして自身の顔の輪郭を探る。
﹁まあ、ともかく。適当に名前は考えなさいな。仕様も無い面倒は
ごめんよ﹂
琴音はそう言うと、膝に挟んでいたプリントを取り出し、ぼんや
りとそれを眺めると、鹿爪らしく眉を顰めてみせた。
﹁それ依頼なの?﹂
縁は昆布茶を一口含んでからそう尋ねる。
﹁へ? いいや、違うよ﹂
﹁じゃあなんなの﹂
﹁依頼ともいえないことは無いのか⋮⋮﹂
﹁どっちよ﹂
﹁ファントム⋮⋮怪人?﹂
ぼそりとそう呟く。
﹁結局、依頼なわけね﹂
﹁まあ、概ねは││││あっ!﹂
突然、声を上げた琴音。縁は鹿爪らしく彼女を眺めた。
﹁どうしたのよ﹂
﹁さそり⋮⋮か﹂
﹁蠍? さそりってあの?﹂
縁は砂漠なんかにいる毒の尻尾を有する虫のことかと思った。
127
当然、琴音の思い描くさそりとは別物であることは言うまでもな
かった。
﹁違う。分からないけれども、きっと違う。あなたがアンディ・ロ
ビンソン演じる狂気の殺人鬼を連想しているというのであれば、話
は別だけれども、いいとこ毒々しいちっちゃな虫けらを思い描いて
いたんでしょう?﹂
縁は瞳を閉じ、軽く頷くと、
﹁ふうん。で? 何の映画なのかしら﹂
と、澄ました表情で琴音を見やった。
琴音は少ししてやられたといった表情で後頭部を掻いた。
最近、ある程度は彼女の行動や言動を理解してきたところだ。
縁は少し得意げに頬を緩めた。
﹁﹃ダーティーハリー﹄って知ってる?﹂
﹁ホグワーツとか出るやつ?﹂
﹁なんだってあんな少年少女が44マグナムをぶっ放さなきゃなら
ないのよ。そもそも、ハリーがダーティーならスネイプ先生も苦労
少なくすんでるしね﹂
﹁何言ってるの?﹂
﹁ごめんごめん。ついつい調子に乗ってしまいました。﹃ダーティ
ーハリー﹄ってのはクリント・イーストウッド主演の映画よ﹂
﹁イーストウッド⋮⋮誰それ?﹂
琴音は短くため息をつくや、頭を抱えた。
﹁お願いだから、今のセリフだけは﹃テムズ﹄で言わないでよ﹂
﹁なんであの店が関係してくるのよ﹂
﹁そりゃクリント・イーストウッドって言えば西部劇の代名詞みた
いなものだからよ﹂
そんなこと知ったことか。
とはいえ、皆たちを怒らせたくはない。なるべく不用意な発言は
しない方がよさそうだ。
128
3
﹁どうも⋮⋮冴島縁と言います﹂
縁はそう言うと、頭を下げた。いくら名前を考えてもこれしか浮
かんでこなかったので仕様が無い。
﹁へぇー縁ちゃんかぁー。皆の従妹なんだって?﹂
そう非常に明るい金髪の女性は皆に尋ねた。皆の説明によれば、
たしか星野だったか。なるほど、確かに星色の髪の色とは言い得て
妙だ。
縁は独り納得して頷いた。
﹁うん。母方の叔母のね﹂
星野は腕を組み、にたりと頬を緩めた。
﹁絶対、金髪似合うよ、キミ!﹂
そう言って縁を指差してきた。
礼儀を知らないのだろうか。その指今ここでへし折ってくれても
構わないんだけど。
縁は内心そう思ったが、顔にも口にも出さずににこりと笑って見
せた。
最近、琴音に教わった﹃渡世の術﹄の一つだ。﹃渡世﹄がよく分
からないが、どこかの国の魔術の一つなのかもしれない。
﹁ちょっと、美咲。そんな事言ってどうせ、あなたのバイト先に連
れ込む気なんでしょう?﹂
﹁そんなことないわよ。絶対似合うって! だって、この子金髪に
したら外人に見えなくもなく無くない?﹂
どっちだ!?
口には出さない。それでも、顔には現れてしまったようだ。
皆は驚いた表情で縁を見ていた。幸い、皆以外は私を見ていなか
ったようで助かった。
﹁皆ー。アンタも絶対金髪似合うっていつも言ってるでしょ? な
んで染めてくれないのよ?﹂
129
﹁美咲はいっそのこと金髪崇拝教でも始めた方が良いんじゃないの
? だいたい、髪の毛染めるとすっごく毛が痛むんだよ? 美容師
目指してるならそれくらい分かってるはずでしょ?﹂
﹁あのね、皆。何にも分かってないわね。いいこと? 美容師って
のは芸術家なの。画家がキャンパスに絵を描くように、映画監督が
フィルムに映画を撮るように、小説家が原稿用紙に文字を書き連ね
る様に、私たち美容師は髪に美を表す芸術家なのよ!﹂
﹁画家は紙。映画はフィルム。小説家も紙。けれども、彼らは枠か
らはみ出ないうちならば、迷惑ではないでしょう? 紙やフィルム
が文句言ってくる? 来ないでしょう。でも、他人の髪を許可なく
彩っちゃたらそれは迷惑以外の何物でもないでしょう?﹂
﹁それは、そうだけど⋮⋮﹂
﹁なら、その金髪押しはやめて﹂
﹁でも││││﹂
﹁あー。もう、うざい!﹂
割って入ったのは短く切り揃えた茶髪の女性だった。たしか、峰
矢と言っただろうか。このサークルの部長らしい。
﹁いつもそれじゃない。結論出ないんだから、やめなって﹂
﹁でもさぁー実際、この子金髪似合いそうでしょ?﹂
峰矢は鋭い目で星野を捕える。その視線に手をかざせば斬れてし
まいそうなほどの視線だ。
ああ、部長なだけあって、頼りがいがありそうな人だ。
縁はその凛とした表情に、琴音がいつぞやのファミレスで見せた
凛と澄ました表情を重ねて見ていた。
﹁茶髪が似合うに決まっているじゃない!﹂
どうしてそうなる!?
声には出さない。それでも、驚いた。
何なのだ。
このサークルは⋮⋮。
縁はどうしたものかと皆を見る。
130
皆はその視線に気づき﹁まかせて﹂とでも言うように、小さく頷
いた。
﹁みんな、落ち着いてよ。縁ちゃんが困ってるよ﹂
皆は静かにそう言った。
なんだかんだ、皆が一番頼りになる。
﹁縁ちゃんは黒髪が一番に決まっているでしょうっ!﹂
﹁なんで!?﹂
たまらずそう尋ねてしまった。
それと同時に、緑色の部室の扉がぎいと軋んだ音を立てて開く。
﹁あ。なんか⋮⋮お邪魔でしたか?﹂
申し訳なさそうにそう言って頭を下げる男性。
特にこれといった特徴を感じない黒髪に、健康そうな肌。目鼻顔
立ちは整ってはいるが、美男というには少し違う普通の顔。
縁はこの男性に何も感じなかった。
感じられなかったのだ。あまりに、情報が無さすぎる。︽縁︾は
感じられない。おそらく、普通の人間だけれども⋮⋮この感覚は何
だろう。
何も感じていないはずなのに、胸に妙なザワつきがある。
縁は分からず小首を傾げる。
﹁へ? えーっと誰かな﹂
皆も分かっていないのか、縁と同じように首を傾げていた。
﹁あ。そうか、皆は会ってなかったのか﹂
﹁どうも。僕、この度﹃映画料理研究会﹄に入部させていただくこ
ととなった尾上謙介です。どうぞよろしく﹂
﹁あ。どうも⋮⋮﹂
皆はそう返す。
﹁私が誘ったの。ゼミの後輩。良い子なのよー、ね?﹂
星野がそう尋ねて尾上の方を向くと、
﹁え? あ、はい。いや、そんな⋮⋮ありがとうございます﹂
と、焦った様に頭を下げる。
131
終始どこか怯えているというか、なんというか。
﹁美咲に何か弱味でも握られたんじゃないのかってのが、今のとこ
ろ私の推理だけど﹂
峰矢は腕を組み一人頷く。
﹁アタシはそんなに信用ならんか!﹂
﹁金髪の人間なんて信用できるわけない﹂
峰矢は先ほどの鋭さを持った視線で星野を捉える。
﹁金髪に何の恨みがあるんだ!﹂
﹁あのぉ⋮⋮﹂
尾上と名乗った男は申し訳なさそうにそう言って口をはさんだ。
﹁弓狩、さん⋮⋮ですよね?﹂
皆の方を向いてそう尋ねる。
﹁ええ。そうだけど﹂
﹁えっと、では⋮⋮お隣の方は﹂
今度は縁の方を向いた。
彼からしてみれば情報にない人物なのだ。困って不思議はない。
縁はそう納得して、名前を名乗ろうとした時であった。
﹁緒桐さん、ですか?﹂
その瞬間を縁は見逃さなかった。駆け抜けたのは緑色の煌き。三
人の女子を結んだのは明らかに怪しげな︽縁︾であった。
﹁違う。彼女は、皆の従妹の⋮⋮えっと、なんだっけ? アタシ、
物覚えが悪くてさぁーゴメンねっ﹂
星野は明るくそう訪ねて場の明らかに不穏な空気を隠そうとして
いる。そんなことは縁でなくとも分かっており、事実、尾上は少し
大変なことをやってしまったという反省の色をその表情に色濃く表
していた。
﹁えに⋮⋮ああ、いや。冴島縁です﹂
﹁冴島⋮⋮さんですか。あの間違っていたら、申し訳ないんですけ
ど。もしかしてお姉さんとかいらっしゃいます?﹂
﹁お姉さん?﹂
132
﹁ええ。僕、駅前の中華料理店でバイトしてるんですけど、そこに
よく冴島さんって方が出前の注文してこられるから﹂
そういえば⋮⋮。
縁は二日前に天津飯を食べた気がする。
ああ、まさか⋮⋮。
縁は早くも偽名がバレるのではないかと嫌な汗が背中を伝う。
﹁え、えっと⋮⋮﹂
どうするべきだろう。
ここでイエスといえば私は﹃灰色館﹄に住んでいるのではという
疑いが⋮⋮それに、皆との従妹という話にもいろいろと無理が生じ
てくるのでは?
﹁姉? いえ、いないですね﹂
事実を語った。
姉など私にはいない。
﹁そう⋮⋮ですか。なんだか、すみません﹂
﹁いえいえ﹂
﹁ねえ、皆﹂
﹁なに?﹂
﹁ちょっと、お手洗いに行きたいのだけれども﹂
﹁分かった。じゃあ、私が案内するね﹂
皆はそう言って赤茶色のパイプ椅子の背もたれから離れ、立ち上
がった。
それに合わせて縁も立ち上がり、部員が座るその後ろを壁を這う
様にして通り抜け、扉を開き廊下に出た。
廊下は暗かった。遠くの扉の四角い曇り硝子からさしいる外の光
がワックスで磨かれた廊下に反射しているが、それでも澱んだよう
な暗さが廊下を覆っていた。
縁は部室が並ぶ廊下を歩きながら、皆に尋ねた。
﹁緒桐って誰なの?﹂
﹁えっと⋮⋮﹂
133
皆は目線を逸らし、腕を組んで鹿爪らしい表情をとった。
よほど言いたくない何かがあるのだろう。
﹁言いたくないの?﹂
﹁うーん。いやぁ、そういう訳ではないんだけどね。ただ⋮⋮﹂
﹁ただ?﹂
﹁彼女、病気なのよね﹂
﹁それは、なにか重い?﹂
﹁うん﹂
短くそう言い、頷いてみせる。
縁は﹁ふーん﹂とだけ、呟くとそれ以上は聞かないことにした。
言いづらい何かがあるのだろう。
廊下の突き当たり左手にトイレはあった。
二人は一緒にトイレに入ったが、先に出てきたのは縁であった。
縁はトイレの入り口付近の壁にもたれ掛り、皆が出てくるのを待
っていた。
ふと、眼前の階段から声が聞こえる。
誰かがこの階に上がってきている様だ。
階段の切れ端から現れたのは長身の男性だった。
くっきりとした大きな瞳。凛々しい眉に薄く小さな口。身長は縁
が見上げるほど大きかった。
男は縁に気づくと、一瞬眉をひそめた。ふと、青い光を縁は体中
に感じる。
気色の悪い青色であった。
まるで、体中にヘドロを塗りたくるようなそんな不快感。
﹁君、一年?﹂
男は突然、縁に話しかけてきた。依然としてその青い光は縁の体
を舐める様に覆っている。
﹁違うけど﹂
﹁そっか⋮⋮君、どっかで会った事ない?﹂
縁はそう言われ、わずかに彼の事を考えてみた。
134
どこかで⋮⋮ああ、言われてみればどこかで会っているかもしれ
ない。
だが⋮⋮。
縁は鮮やかに色濃くなりつつある青い光にうんざりしていた。
﹁どっかで会った事あるはずなんだけどなぁ⋮⋮﹂
﹁ない﹂
﹁ねえねえ。暇?﹂
縁は男が何の意図を持ってそう尋ねてくるのかが分からなかった。
どうして、今出会ったばかりの私にこれからの予定を聞いてくる
のだろう。
小首を傾げる。
﹁よかったら、飯でも食いにいかない? 奢るよ﹂
どうしてそうなる?
縁はそう言おうかとも考えたが、琴音から言われた通り、何でも
かんでも思ったことを口にしてはいけない。守らねば。
縁は口をつぐんでまじまじと男の顔を見つめた。
ああ、どこかで⋮⋮⋮⋮。
縁はそれをこの男に聞いてみようと考えたが、その質問は男が最
初にしている。
だとするならば、やはり、どこかで出会っているのだろう。
双方の考えが一致しているのだ。きっと、それが正しい。
両方向の紛れもない︽縁︾だ。
そう思ったところで縁は注意深く男を見る。
意識をすれば、青以外にも視えるかもしれない。
だが、青は先ほどに比べて非常に濃くなっている。加えて、どこ
か毒々しい色合いに感じる。
ああ、もう嫌だ。
でも⋮⋮これを嫌がっているようでは、琴音の様になれない。
誰とでも、笑顔で楽しく⋮⋮そんな、琴音の様に、私もなりたい
んだ。
135
だとすればこの程度⋮⋮。
﹁離れて!﹂
ふと、振り向くと、そこには緑色の光線を男に向ける皆の姿があ
った。
男は小さく舌打ちをすると、踵を返し足早に階段を駆け上って行
った。
縁はしばらく黙って皆を見ていた。
皆の形相は見たことが無いほど、怒りに満ち満ちていた。
﹁あの人⋮⋮誰?﹂
縁は尋ねた。
﹁生きている価値の無い人間⋮⋮かな﹂
低く、小さく、皆はそう言った。
縁は己の耳を疑った。
少なくとも、彼女の知りうる弓狩皆はそのような事を間違っても
口にするような女性ではなかったからだ。
それ以上は聞かなかった。
聞くのが怖かったからだ。
4
食堂は丁度昼時の所為で学生で随分と込んでいた。
その中ほどで、縁と皆はお盆を手に二人並んでいた。
食堂はこういうものだと思っていたが、やけに騒がしい。本当に
大学生なのかと疑いたくもなる様な稚拙な行動をしている連中もい
る。
縁はぼんやりとそんなことを考えていた。
﹁騒がしいね﹂
皆もそう感じているらしく、縁の方を見向きそう言った。その表
情はいつも通りの優しく柔和な印象を与える顔。縁の知る、いつも
の皆であった。
136
﹁そう。いつもこの調子なのかと﹂
﹁うーん。概ねはそうなんだけどっ﹂
そう言うや、皆は背伸びをして列の先頭を見ようとする。それに
つられて縁も背伸びをする。しかし、前に並ぶ女性の身長が高いた
め、中学生と見間違われるほど背の低い縁は当然の如く背伸びをし
ようが前など見えるのは眼前の女性の背中だけ。
前が見れないことに、少しむくれて縁は頬を膨らますと、眼前の
女性の履いているハイヒールを睨みつけた。
﹁なんだか騒がしいのよねっ﹂
縁は小首を傾げる。
しばらく列に並んでいると、ゆっくりではあるが前に進むわけで、
結論として言えばその騒ぎの元凶に心当たりがあったわけである。
﹁ふむ。真面目な君よ﹂
澄ました、それでいてどこか高圧的な、非常に上から目線の声。
﹁俺ですか?﹂
﹁ああ、君以外に僕の会話の対象になる人物がいるか? 君を見な
がら隣の彼女に僕が話しかけているとでも? 残念だ、彼女は真面
目ぶった格好をしているが、それは世に言う清楚なイメージを他人
に与えたいからであり、彼女自身は決して清楚でも真面目でもない。
どうして、君が真面目と分かるか。教えてやろう。君の手の端がイ
ンクで黒ずんでいる。それは長時間にわたって手の端をプリントの
上に付けた状態でスライドさせていたからだ。つまり、君が何か勉
学に励んでいた証拠だ。そして今日は平日だ。君の眼にはくまがあ
る。加えて、寝不足なんだろう? 唇が荒れている。以上の事から、
君は徹夜で勉学に励んでいた。それも、平日にだ。だとすれば君は
真面目な人間だ。この残酷な世界においてはよく馬鹿を見る馬鹿な
人種ではあるがね。そして、そんな徹夜で勉学に励んでいた君にす
こしでも幸あれと僕は今からアドバイスをしよう。君は徹夜で勉学
に励んでいた。それだというのに、君の彼女は君とは別の男性と一
夜を共にしている。ファンデーションで隠してはいるが、首元の内
137
出血は鏡じゃ気付かないか? かなり激しかったようだな、君が鈍
感あるいは⋮⋮いいや、君が真面目な馬鹿だからか、ははっ。気づ
かないんだろうが、その男性とは君も出会っているはずだ⋮⋮二人
に共通した、高価な香水の匂い。若い男性が付けるものではない⋮
⋮首回りに集中している内出血。ああ! ゼミの教授だ! ははっ
! 君の彼女はゼミの教授と昨夜ベッドを共にした。教授は君の彼
女の唇が大好きなようだね。その代償は何だ? コネを作ってもら
うか? それとも、単位を貰えるのか? ふんっ。どうでもいいか。
まあいいさ。ともかく、君が幸せを願うのであれば、彼女とは別れ
るべきだ! さあ、ご注文通りニンニクたっぷりスタミナ丼だ! もちろんそのスタミナは彼女との口を使った交渉に使った方が良い
! ま、その様子であるならば、今夜あたり予定していた彼の家で
の疑似交尾もする気にはならんだろうからなっ! ふははっ。面白
かったよ! 代金はいらん! もう語ることは無い、僕の前から失
せていいぞ。さあっ! 次の注文は何だ!﹂
辛うじて聞き取れる程の超スピードの喋り口。一瞬でも気を他所
に向けてしまえばついて行けなくなるだろう。
眼前のカップルはしばらく無言で睨みあうと、足早に食堂の奥ま
った先に早歩きで行ってしまった。
そうして、あらわれたのは長身の外国人。食堂で働いている外人
というのはときどき見かけたことがあったが、なんだか新鮮だ。
それにしても、どこかで⋮⋮。
﹁君は⋮⋮﹂
外人はぼそりとそう言った。
青い瞳。鋭い猫のような目つき。まるで狩人のような表情と白い
帽子が全く似合っておらず、間抜けに見えて仕方がない。
ああ││││
﹁市役所で肩車してくれた!﹂
﹁││そっちか﹂
﹁そっちかって?﹂
138
﹁いや、別に﹂
﹁それにしても、さっきのは教えてあげない方が良かったのではな
い?﹂
﹁そうか?﹂
﹁ええ、知らない方が良い真実もある﹂
男はそれを聞くや﹁ふふん﹂と得意げに鼻を鳴らした。
﹁謎と解の間に、人の感情なんて挟む余裕は有りはしない﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁なんだ? 非人道的か? 言えば良い。言われ慣れてる﹂
またしても自信ありげにそう言うが、それは威張って良いものな
のか。
縁は分からなかった。
﹁へ? 縁ちゃん知り合い?﹂
置いてけぼりの皆は目をぱちくりさせて縁を見つめていた。
﹁まあ、ちょっとね。皆はしっているの?﹂
皆はにこやかに笑みを浮かべ、首を横に振った。
﹁本人を目の前に知る知らないの問答は失礼だと習わないのか!﹂
﹁どちら様なんですか?﹂
﹁なんだその日本語は⋮⋮﹂
﹁変ですか?﹂
﹁変だ。それより、後ろが込んでいる。早く注文を言え﹂
﹁私は、ソースカツ丼。縁ちゃんは?﹂
﹁私は⋮⋮﹂
﹁お子様セットがあるぞ﹂
﹁冗談じゃない!﹂
﹁ふむ⋮⋮。オムライスつきだが?﹂
オムライス!?
﹁じゃ、じゃあそれで⋮⋮﹂
﹁縁ちゃん! それ単品である! あと、お子様セットは無い!﹂
﹁え? 無いの? はっ⋮⋮謀ったわね﹂
139
﹁普通に気付け﹂
そう言うと、偉そうに腕を組む。
﹁市役所の清掃員はどうなったの?﹂
﹁やめさせられた。どうにも、戸締りの後に人を市役所の中に入れ
るのはまずかったらしい﹂
﹁そうなんだ﹂
﹁ああ。そうらしい﹂
二人してしみじみと頷き合う。
﹁それは⋮⋮当たり前なんじゃないかなぁ、縁ちゃん﹂
皆は申し訳なさそうにそう言う。
男は踵を返し、厨房を向くと、
﹁ソースカツとオムライスだ﹂
厨房からどこか苛立たし気な女性の声で了解の返事が返ると、再
び縁たちの方を向いた。
﹁で? 今度はなんだ? 大学生ごっこか何かか?﹂
﹁ちょっとね﹂
男はにこやかに笑みを浮かべると﹁ふむ﹂と、偉そうに言う。
﹁相変わらず読み取る物が無いな、お前は。まったく、面白みに欠
ける女だ⋮⋮だが﹂
男は皆の方を向く。
﹁な⋮⋮何です?﹂
男は目を細め、皆を凝視する。しばらく皆を舐めまわすように見
詰めていたが、不意に﹁ふむ﹂と低く唸った。
﹁君は祖父母と暮らしている。共働き⋮⋮いや、父親がいないんだ
な。何故分かるか? 簡単だ。鞄の埃と糸くずだ。服は洗うだろう
が、鞄は滅多に洗いはしない。結果として、鞄というものは多くの
場合においてその持ち手を事細かに教えてくれる存在なのだ。他に
何が分かるか。良いだろう当ててやる。バイト⋮⋮いや、違う。祖
父母の家が何か、油を大量に使う店。ああ、唐揚げか。いや、違う。
違うな。チェーン店ではない。いや、だが油を大量に用いる料理⋮
140
⋮ああ、なんだ。分からない! 分からない。分からない。分から
ないぞ! 君は何だぁ! 何者なんだぁ! ふはっ! 素晴らしい
! 最高だ! 君は謎だ。謎がある! 良い気分だぞっ!﹂
突然頭を掻きむしり、怒号交じりの感激の声を飛ばしながら、満
面の笑みを浮かべる男。
当然ながら、食堂は静まり返っている。
すると、突然男の背後から現れた恰幅の良い中年女性が男首筋を
掴んだ。
﹁なっ! 何をする! 僕にはまだ、解かねばならないこの世の謎
が⋮⋮﹂
﹁アンタ⋮⋮御代貰ってないんだってぇ?﹂
﹁ああ。それがどうした。僕の凄さは知ってもらえた。十分じゃな
いか。そんな事より大事なことがあるだろう!﹂
男は悪びれる様子もなく、そして、態度も先ほどと変えることな
く非常に偉そうにそう語る。
﹁ふざけんじゃないわよ!﹂
女性は掴んだ男を勢いよく突き放した。男はよろめきながら、食
堂のカウンターから飛び出し、大きく転んだ。
﹁な、何の真似だ!﹂
﹁クビだよ! 出て行け、アホ!﹂
﹁ア⋮⋮アホだと、この僕が? あ、あり得ん! 何がいけないん
だ。いったい、なにが⋮⋮﹂
ぶつぶつと呟きながら、やおら立ち上がると、男は沈んだ様子で
食堂をとぼとぼと後にする。混雑した食堂。人混みを割りながら歩
む姿はさながらモーゼ。
だが、白いエプロンを着た後姿は滑稽以外の何でもなかった。
やや、どこか哀れみすら感じる。
変な人。
縁の彼に対する認識である。
間違ってはいない。
141
だが、もう少し、正確に彼を言い現わすのであれば、︽非常に︾
変な人と言うべきである。
彼の変人ぶりは、並の領域に収まってはいないのだから。
﹁天ぷら知らないのかしら⋮⋮﹂
﹁外人さんだしねっ﹂
5
星野と峰矢、そして尾上は窓際の席に座り、既に昼食を食べてい
た。
﹁おまたせ﹂
皆が、そう言って椅子に置かれていた星野の鞄をどかして席に座
る。
縁もそれに合わせる形で皆の前の席に腰を下ろした。
眼前に置いたクリーム色をしたお盆。その上には質素な白色のさ
らに盛られた黄金色のふくらみ。
学食のオムライスと﹃テムズ﹄のオムライスを比べるのも酷な物
ではあるが、やはり、どうしてもボリュームにかける。
縁は少し残念そうにスプーンを手に取った。
一呼吸置き、むわりと込み上げる甘い卵の香りを鼻腔に取込む。
何とも言えぬ至福の時だ。
それがたとえ安い定食の小さなオムライスであろうとも、縁にと
っては無くてはならない行為であった。
この時、この瞬間は何人にも邪魔されてはいけないのだ。
すっと差し込んだスプーンは僅かな抵抗を感じさせる。それはま
るで完成された形を壊されることに対する必死の抵抗のように縁に
は感じられた。
美の崩壊というものはどうしてかくも美しいのか。
すくい上げた形の不揃いな欠片を見つめ、そんなことを思う。
それを口に運ぶ。食してしまえば美なぞ視えはしないのだ。
142
どうあったところで、今や黄色と赤は口内で分かれ、砕かれ、溶
けてゆく。
それは⋮⋮何にしても同じことか。
飲み込むと同時に、縁は深くため息をついた。
皆たちは、楽しそうに会話をしている。
美しい。
きっと、普通の感性であればそう捉える美しい人生の一幕。けれ
ども、終わりの無いものなど存在はしないのだ。
役割を終えた演者は、舞台を去らねばならない。
ああ、これは誰かの言葉だったか。
人ではなかったはずだ。
しかしながら、適格といえばそうなのかもしれない。美しさとい
うものは、言ってしまえば喪失なのだろう。
何かを失う事で美しさという形は完成して行くものなのだ。
縁はもう戻ることのできない欠けたオムライスを見やった。
これも、美しさへと至るのかも。
﹁ところでさ、冴島さんってどこに住んでるの?﹂
縁が考えふけっていたところに、峰矢はそう言って訊ねてきた。
﹁えっと⋮⋮蝉洞って分かる?﹂
とっさに琴音がいつぞや言っていた街の名前を出してしまった。
地名なぞ知らないのだ。
生きて行くうえで、この叉奈木以外は知らなくても今のところ良
かったし。
縁は自分のふがいなさに勝手に言い訳を済ませ、相手の反応を待
った。
﹁せみどう? なにそれ、どこなの?﹂
助け船を期待して皆を見るが、皆も首を傾げてこちらを見ている。
﹁えっと、結構田舎だからかな⋮⋮﹂
言葉尻が次第に消える様に縁はぼそぼそとそう言った。
﹁ふうん。蝉洞、か。どんなとこ?﹂
143
﹁何も無いです﹂
﹁何も無いことは無いでしょ﹂
星野がフォークをこちらに向け、そう言う。
相変わらずこの女は⋮⋮。
縁はテーブルの下で拳を握りしめる。
﹁まあ、まばらに家は有りますよ﹂
﹁それはそうよね﹂
まずい、これ以上はどう聞かれても答えられそうにない。
﹁そう言えば、この街で面白いことなんてないですか?﹂
縁は話題を反らそうと無理矢理会話に話を押し込んだ。
﹁面白いこと?﹂
﹁ええ、せっかくなので﹂
﹁うーん。怪人の呪いとか?﹂
怪人?
それは⋮⋮。
一瞬、昨日琴音が呟いていた言葉を思い出した。
﹁それはどういう?﹂
星野は﹁うーん﹂と小首を傾げた後、一人頷いた。
﹁事の発端はこの街の劇団が街に帰る途中で事故にあったんだって。
その事故から毎週金曜日に死亡事故が起こるようになって、どうに
もその劇団が最後にやったのが﹃オペラ座の怪人﹄だったらしくて、
だからきっと怪人の呪いだってもっぱらの噂﹂
﹁アホらしい⋮⋮﹂
峰矢は吐き捨てるようにそう言う。
﹁ホントなんだってば! 怪人を見たって人もいるんだから﹂
﹁さっきアンタが噂って言ったんじゃない﹂
﹁でもでも、怪人ってどういう?﹂
﹁それは、ほら、オペラ座の怪人って言えば⋮⋮﹂
﹁ファントム⋮⋮﹂
縁はぼそりと呟いて見せた。
144
﹁そうそう、それ﹂
星野は嬉しそうにそう言う。
しかし、縁は曇った表情で外を眺めていた。
仮に、彼女たちの言っていた﹃怪人﹄とやらの噂が本当だとした
ら⋮⋮。
琴音に挑戦状を叩きつけてきたのはその怪人なの?
でも、事故に見せかけて殺人を犯せるそれも、違和感もなくそれ
を為せるのだとすれば、やっぱりまた魔術師が絡んでいるのかもし
れない。
縁はそう思うと、落ち着かず辺りを見回す。
不意に、小さな舌打ちと共に、縁の後ろに座っていた男性が立ち
上がると足早に食堂を後にする。
わずかではあるが、その男性は足を引きずっているように見えた。
﹁何よアレ﹂
星野がそう言う。
﹁鶴来⋮⋮ですね﹂
尾上が突然口を開いた。
﹁知り合い?﹂
皆が尋ねる。
﹁ええ。同じゼミなんで⋮⋮ただ﹂
﹁ただ?﹂
﹁今話されてました劇団にアイツいたらしくて⋮⋮﹂
﹁え、マジ? あー﹂
星野はどこか申し訳なさそうな表情で肩を落とす。
﹁でも、あの人足を引きずってました。あの人も事故にあったんで
すか?﹂
縁は尾上に訊ねた。
﹁いいや。彼は舞台稽古中に怪我をしたらしくて、最近まで入院し
てたらしいんです。だから、今回の舞台にも参加してないそうです﹂
﹁なるほど。それで⋮⋮﹂
145
縁は意識を集中させる。精神の落ち着きは彼女にもう一つの眼を
開かせる。
深く閉じた瞼をそっと開くと、世界は無数の鮮やかな︽縁︾に彩
られている。
誰も気付きはしないが、脆く儚い糸で構成された人々の生活はこ
の星から見ればきっと部屋の隅に巣喰らう蜘蛛の巣程度の認識なの
だろう。
縁はそんなことを思うが、目的は別にこの星の憂いを考えふける
ためではない。
鮮やかな線の中から、縁は黄色のそれを手繰り寄せる。
無論、手繰り寄せるとはいえ何も手を用いるわけではないのだが。
その先には琴音がある。そこから続く敵意の色。それをたどった
先にきっと怪人がいるはずだ。
私の勘が正しければ、きっとさっきの男が⋮⋮。
縁が︽縁︾を辿る。暗闇を彩るこの星に息づく人々の儚さと奇跡
を感じながら、見えた先には││││
顔を包帯で覆った女性の姿。
溢れ出る憎悪。
それは隠すことなく邪悪極まりない青色の︽縁︾となって琴音に
ぶつけられていた。
これは⋮⋮。
﹁縁ちゃん?﹂
気が付くと、目の前で心配そうな面持ちの皆がこちらを見ている。
﹁あ、いや。大丈夫﹂
伝えねばならない。
これはきっと、重要な話だ。
146
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6419bx/
縁魔
2014年1月8日03時20分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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