津波のリスク受容を考慮した地域防災対策に関する研究

津波のリスク受容を考慮した地域防災対策に関する研究
伊藤 加奈
1. 本研究の背景と目的
18
14
2011 年 3 月 11 日の東日本大震災を契機に北海道
10
においても津波防災対策が重要視されている。2012
6
年6月28日に公表された北海道防災会議による太平
2
洋沿岸の津波浸水予測図では、多くの地域が津波浸
-10
-5
α=β=0.88
-2 0
5
α=β=0.5
10
-6
水域となることが予測された 1)。このため、太平洋
-10
沿岸を中心に津波防災対策の再検討が必要になって
-14
いる。東日本大震災後の東北地方の復興計画では、
-18
図 1 価値関数
高台移転を推進する自治体もある。しかし、北海道
1
では都市の高台移転を進めることは現実的には難し
0.9
い。そのため避難を軸に対策を行う必要があるが、
0.8
0.7
津波ハザードマップや避難路の確保など多くの避難
0.6
対策がある中でどの対策を優先して実施すべきか不
0.5
明確である。
0.3
γ=0.69
確率
0.4
一方、津波浸水予測の結果を受けて、浸水予測地
0.2
域に住む人々の現状の津波防災対策に対する安心の
0
γ=0.61
0.1
0
崩壊が起きた。今後、津波防災への安心を再構築す
0.2
0.4
0.6
0.8
1
図 2 確率加重関数
る対策が必要である。
プロスペクト理論は次の 4 つの要素からなる。
これまでの津波防災対策評価の研究は、減災効果
①参照点(reference point):人々がある物事の価値
といった利得を重視し、損失が起きる場合について
を利得か損失か判断する際の基準点である。中央の
は考慮していない 2)。
点が利得域と損失域を分ける参照点で、この点は移
そこで、本研究では人々の心理を表現し、損失面
も評価することが可能なプロスペクト理論を用いて、
動し得る。
避難対策の中で、人々が優先してほしいと望んでい
②損失回避性:期待値の大きさが同じである利得
る対策を明らかにすることを目的とする。北海道釧
と損失では、損失の方がより相対的に大きく評価さ
路市を対象地域とし、津波災害によって被害がある
れる傾向にあることである。
と予測される地域の住民のリスク受容を明らかにし、
③感応度逓減:プロスペクト理論の価値関数では、
利得であろうと損失であろうと参照点から離れれば
今後の防災対策を評価するものである。
離れるほど人々の感じる価値の変化分が小さくなっ
ていく。
これは、
利得局面ではリスク回避的であり、
2. プロスペクト理論の概要
損失局面ではリスク追求的になる。
プロスペクト理論 3)とは、 期待効用理論では説明
することができない意思決定行動を説明可能とする
④決定の重み:プロスペクト理論では客観的な確
理論であり、不確実性状況下での意思決定の説明を
率は意思決定者にそのまま受け止められず重みづけ
主眼とし、人々の実際の行動に近い理論である。こ
されることが仮定されている。この重みづけの全体
の理論は標準的経済学の効用関数に対応する価値関
的傾向をみると、小さな確率が過大評価され、大き
数(value function)と確率の重みづけに関する確率加
な確率の時は過小評価されることが分かっている。
重関数(weighting function)によって表現される(図 1、
ここで、価値関数・確率加重関数の式はそれぞれ
図 2)。
次のように表すことが出来る。
1
配布票数・回収票数は表 2 のようになった。
x を参照点(x=0)からの利得(x≧0)または損失(x<0)と
すると、
v(x) = �
表 2 調査票数・回収票数
x ∝ (x ≥ 0 の時)
(1)
−λ|x|β (x < 0 の時)
既存研究から、α=β=0.88,λ=2.55 が標準とされている。
武佐地区
南大通・富士見地区
愛国東,西・文苑地区
釧路駅周辺
不明
合計
配布票数 回収票数
140
38
250
69
291
66
319
83
3
1000
259
回収率(%)
27.1
27.6
22.7
26.0
25.9
同様に、
確率加重関数の理論式は次のようになる。
π(p) =
{pγ
pγ
+ (1 −
3.2 住民の日常の防災対策の取り組み状況
1
pγ )} �γ
(2)
居住地区別に日常の防災対策についてまとめた結
測定値では、
損失 γ=0.69, 利得 γ=0.61 となっている。
果が図 4 のようになる。
13.75
釧路駅周辺
愛国東、西・文苑地区
の実施
3.1 意識調査の概要
3.13
21.88
21.88
南大通・富士見地区
武佐地区
0.00
被害が起こる可能性があること、また北海道防災会
議による津波浸水予測では、10 万人規模の避難が必
39.06
20.90
本研究では釧路市を調査対象地域とした。釧路市
は過去に 4 度の津波浸水被害を経験し、今後も津波
41.25
38.27
30.00
3. 釧路市における津波防災対策に関する意識調査
37.31
5.41
32.43
21.05
10.00
20.00
46.27
44.93
54.05
30.00
40.00
自主的防災組織の参加
避難教育の受講・実施
避難訓練への参加
防災用品の準備
50.00
60.00
%
要とされており、今後の防災対策の再考が必要な地
図 4 日常の防災対策の取り組み
域と考えたためである。
意識調査は 2012 年 11 月 7 日、 8 日に、投函配布・
図 4 から、防災用品の準備はすべての地区におい
郵送回収方式にて実施した。配布地区は津波浸水予
て 3 割を超えている。また、避難訓練への参加や避
測図と釧路市の地形を考慮して、図 3 のように設定
難教育の実施に関しては海岸部に住む住民の方が内
し、1000 世帯に配布した。
陸部に住む住民より多く実施されている。
これから、
海岸部に住む住民は避難対策を重視する傾向にある。
愛国東、西・文苑地区
4. 判別分析による津波リスク受容の分析
4.1 津波災害に対する住民意識
釧路駅周辺
居住地区別に住民の津波災害に対する意識につい
て図 5・図 6 に示す。
武佐地区
強くそう思う
そう思う
全データ
南大通・富士見地区
何とも
33.98
愛国東、西・文苑地区
表 1 地区の特徴
地区名
特徴
武佐地区
内陸・高台
南大通・富士見地区 海岸部・高台
愛国東、西・文苑地区
内陸・低地
海岸部・低地
釧路駅周辺
不明
9.27 16.99 10.04 1.16
3.61 3.61
36.14
3.61 0.00
1.52
36.36 10.61 9.09 0.00
42.42
18.57
2.63
武佐地区 5.2610.53
南大通・富士見地区
また、各対象地区の特徴は表 1 のようになる。
全く思わない
28.57
53.01
釧路駅周辺
図 3 意識調査対象地区
あまり思わない
25.71
14.29
42.11
27.14
34.21
12.86 1.43
5.26
図 5 津波災害時の避難への不安
図 5 から、釧路駅周辺の住民の中で津波災害時の
避難への不安に対して「強くそう思う・そう思う」
と回答する人の割合が他の地区に比べて高く、
89.1%となった。
2
強くそう思う
そう思う
何とも
24.71
全データ
あまり思わない
愛国東、西・文苑地区
25.76
南大通・富士見地区
25.71
武佐地区0.00
表 4 判別分析の信頼性
不明
33.59
14.67 14.67 11.97 0.39
2.41
40.96
19.28 3.61 1.20
3.03
43.94
22.73 4.55 0.00
32.53
釧路駅周辺
全く思わない
34.29
関数の検定 Wilksのλ
1
0.712
47.37
自由度
4
有意確率
0.000
表 3・表 4 から、
「現状の防災対策への満足」以外
7.14 20.00 12.86 0.00
47.37
Wilksのλ
カイ2乗
25.110
の要因と式ともに有意確率が 5%よりも低くなる結
0.00
5.26
果となった。
図 6 居住地に津波が来ると思うか
また、図 7 は釧路駅周辺の分析結果だが、津波の
図 6 から、釧路駅周辺では居住地に津波が来ると
リスクを判別するのに最も影響を与えた要因は「避
思うかという質問に対して「強くそう思う・そう思
難への不安」であり、避難への不安があると回答し
う」と回答する人の割合が他の地区に比べて高く、
た住民ほど、リスク回避型となることがわかった。
73.5%となった。
5. プロスペクト理論による防災対策の評価
5.1 価値関数のモデル式
4.2 判別分析によるリスク回避・志向の分類
本研究では、価値関数のモデル式を構築する。確
本研究では判別分析を用いて、リスク回避型とリ
スク志向型に人々の意識を分けた。本研究における
率加重関数は、
津波災害の発生確率の定義が難しく、
利得は「現在の場所に安心して住み続けること」と
あいまいなことを考慮して本研究では扱わない。X
し、リスク回避型とは「その場所に住み続けている
軸はハード対策として防潮堤の高さを、ソフト対策
が、津波災害を心配しながら住んでいる人々」を意
として多くの都市で実践されている「避難訓練の実
味し、リスク志向型とは「津波に対して来ても大丈
施」
「津波ハザードマップの作成」
、
「避難路の確保」
、
夫と前向きに捉えている人々」と定義する。
を適用する。Y 軸は安心の度合いとし、意識調査で
グループ化変数は意識調査の「津波を身近な脅威
はそれぞれのハード対策、ソフト対策の組み合わせ
に感じるか」という設問の 5 段階評価の回答を「強
に対して現状の防災対策を50点として100点満点で
く思う・そう思う」をリスク回避型、
「あまり思わな
点数を付けてもらい、モデル構築に使用した。
い・全く思わない」をリスク志向型とした。独立変
つまり、価値関数の構築モデルは、
数は図 7 の①~④の設問に「全く思わない~強くそう
利得域:y = 𝑥𝑥 α
x = 𝑡𝑡1 ∗ 𝑥𝑥1 + 𝑡𝑡2 ∗ 𝑥𝑥2 + 𝑡𝑡3 ∗ 𝑥𝑥3 + 𝑡𝑡4 ∗ 𝑥𝑥4
思う」の 5 段階評価値として分析を行った。
(3)
x1 : 堤防の高さ +1m, +2m, +4m
①近い将来、巨大津波の発生
0.13
②現状の防災対策への満足
0.14
x2 : 避難訓練の実施 0: 現状, 1: 向上
x3 : ハザードマップの作成 0: 現状, 1: 向上
x4 : 避難路の確保 0: 現状, 1: 向上
α : パラメータ (0<α<1)
0.35
③居住地に津波が来るか
0.76
t1,t2,t3,t4 : それぞれの対策に対するパラメータ
④避難への不安
同様に損失域:y = −λ|x|
β
x = 𝑐𝑐1 ∗ 𝑥𝑥1 + 𝑐𝑐2 ∗ 𝑥𝑥2 + 𝑐𝑐3 ∗ 𝑥𝑥3 + 𝑐𝑐4 ∗ 𝑥𝑥4
0.00 0.10 0.20 0.30 0.40 0.50 0.60 0.70 0.80
図 7 標準化された正凖判別関数係数
(4)
x1 : 堤防の高さ -1m, -2m, -4m
x2 : 避難訓練の実施 -1: なし, 0: 現状
表 3 判別分析の要因の信頼性
近い将来、巨大津波の発生
現状の防災対策への満足
居住地に津波が来るか
避難への不安
Wilksのλ
0.946
0.992
0.810
0.741
F値
4.338
0.590
17.832
26.501
x3 : ハザードマップの作成 -1: なし, 0: 現状
有意確率
0.041
0.445
0.000
0.000
x4 : 避難路の確保 -1: なし, 0: 現状
β : パラメータ (0<β<1)
λ : 損失回避係数(1<λ)
c1,c2,c3,c4 : それぞれの対策に対するパラメータ
3
また本研究での参照点は、防潮堤の高さは 4m と
し、ソフト対策はそれぞれ実施されている状況と設
定した。
5.2 価値関数のパラメータ推定結果
居住地区別に非線形回帰分析を用いて価値関数の
モデルを構築した結果が図 8 となる。
図 10 釧路駅周辺で防潮堤の高さに換算した
ソフト対策(損失域)
図 9 から、避難路の確保は 5.62m の防潮堤の高さ
と同じ安心の度合いとなり、釧路駅周辺においては
ハード対策よりもソフト対策を重視している傾向が
強いことがわかる。また図 10 から、ハード対策と
ソフト対策に大きな差がなく、防災対策の質の低下
に対してはハード対策・ソフト対策に関係なく大き
図 8 居住地毎の価値関数
く安心の度合いが減少することがわかる。
以上の結果をまとめると、釧路駅周辺の必達目標
推定したモデル式は、
は避難路の確保ということになる。避難路が通行不
釧路駅周辺(x≧0, x<0)
y = (0.26 ∗ 𝑥𝑥1 + 1.73 ∗ 𝑥𝑥2 + 2.07 ∗ 𝑥𝑥4
)0.84
y = −3.58(0.24 ∗ 𝑥𝑥1 + 1.46 ∗ 𝑥𝑥2 + 1.34 ∗ 𝑥𝑥4
)0.26
(5)
能にならないように避難の支援体制を整備すること
(6)
が住民の安心を確保することにつながる。
プロスペクト理論では、0<α<1, 0<β<1, 1<λを全
6. 本研究の成果と課題
て満たすことが条件となるが、今回の推定結果は全
本研究では、ハード対策とソフト対策が利得では
て満たした。また、その他のパラメータは t 値が 5%
大きな差を生むが、損失では大差がないことが明ら
有意のもののみを使用して定式化を行っている。
かとなった。これは、住民にとって今後向上して欲
しい対策はソフト対策ではあるが、ハード対策にも
5.3 価値関数による防災対策に関する評価
最低限満たすべき役割が存在していることを示唆し
5.2 で示したモデル式を元に、
釧路駅周辺のソフト
ている。
対策の安心の度合いを防潮堤の高さ 1m の安心の度
今後は価値関数の精緻化や、その他の津波防災対
合いで割ることによって防潮堤の高さに換算した結
策も考慮することができるモデルの構築等の課題に
果を図 9・図 10 に示す。
取り組んでいきたい。
参考文献
1) 北海道防災会議:北海道太平洋沿岸に係る津波浸
水予測図について, 2012
2) 例えば,河田惠昭,鈴木進吾,越村俊一:大阪湾臨海
都市域の津波脆弱性と防災対策効果の評価,海岸工
学論文集,第 52 巻, 土木学会, 1276-1280, 2005
3) Daniel Kahneman, Amos Tversky : Prospect Theory :
図 9 釧路駅周辺で防潮堤の高さに換算した
An Analysis of Decision under Risk,Econometrica,
ソフト対策(利得域)
Vol.47, pp263-291, 1995
4