曹洞宗 赤石山 恩徳寺 しおり - いい寺.jp

この度、
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このしおりは、寺院様のご協力を得て寺院の成立から今日迄の歴史を探り、又、寺院の景観、本尊、諸仏像、什物を一冊の本にまとめたものです。
この「寺院しおり」は寺院様のご協力により
光陽美術 / ㈲光陽フォト・オフィスが製作しております。
お寺の歴史は地域の歴史と密接に関わり、その土地や歴史を知る大変貴重な資
料であるという思いから皆様にもご覧いただけるよう公開させていただくことと
しました。
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マ〇︵
〇
〇〇一・
H・
0・
︶
…
宋︶ に留 学 し祥 を 学 んだ の
鎌 合 時 代 に中 国 ︵
が 道 元祥 師 です。 帰 国後 、 夫 本 山永 千寺 を走 立
思 徳 寺 は曽 洞 宗 のお 十 で、 鑢 持 寺 二代 城 山 紹
え を 広 く 日本 ヤ に布 教 し、 人本 山鑢 持 寺 を 開 山
高 れ 承 陽 夫 師 と 呼ば 枚ま す。 螢 山祥 師 はそ の教
し修 行 に卑 念 し、 ﹃工法 吸蔵 ﹄ な ど の著 述 を残 し
項 祥 師 の高 弟 で 二 院 の ひと つ、 普 蔵 院 太 源 祥 師
本尊 唱名 南 無 釈 迦 牟 尼仏
な信 むの日常 を送 る ことを旨 と し ております。
曽 洞宗 では釈尊 と お 二人を 一仏 両 れ と し牧虔
し て、 太 れ常 済 大 師 と呼ば 薇ま す。
夫 師 ら によ って広 め ら 薇 ま し た。
によ って白 已 を律 しな が ら学 ぶと いう 方 法 で逹 磨
曽 洞祥 宗 と は釈専 のそ の教 え を 坐 祥 と いう修 行
の法 系 を 嗣 いでおり ま す。
王三味 」 の かか る山 門 を見 る
境内 よ り 「
本 堂 正 面
│
恩 徳 寺 古 本 尊 阿 弥 陀 如 来 三尊 伝 説
当十 には 人千時 代 ︵七 二九∼ 四九︶ に行基 善
薩 が 作 ら薇 た 阿 弥 陀 如来 、 勢 二喜 薩 、 観 音 善 薩
この像 はか つて
の木 辻 立像 が永 く 祀ら薇 て いる。
香 川 県 人 川 郡︶ にあ る道 場寺 に
讚 皮 国恙 渡 浦 ︵
今 妥さ枚 て いた。
・
治 承 四年 ︵一 一人〇︶ 源頼 朝 が 子 民 追 計 の兵
を挙げ たとき奥 州 に居 た義 径 は家 臣を逹 薇 駆け参
じた。 庇 角 から従 早 した者 は庇 角 四人 三と いわ薇
た、 安 保 の人 里行 も 、 花 拾 次 ヽ
甲行ヽ
冴、 秋 元 民 の
黒 上 六郎 、 高 瀬 七郎 であ った。 遠 く讃 度 の屋島
恙 渡 浦 の隣 地︶ ま で千 民 を追 いつめ、 勝 利 を得
︵
たも ののヽ
屁角 式 士 四人 は戦 死 し てしま った。
そ薇ぞね の 四人 の家 臣 は主を失 った ことと、 善
提 を弔 う ため に法師 となり遺 骸を探 しあ て、 道 場
寺 に葬 った。 そ の辺り はす べ て戦 場 の跡 で神 社 仏
庭園 「
瓢箪池」
阿弥 陀如来 三 尊 と二 十五仏
裏 山の墓地 を眺む
聖 観 音 像
罫
雨週=
HΠ Л円いごヽ 己コL暉 甲辱lfコ
焉屁=_-1目
│
閣 はもとょり 仏像、 径 えま でが 几礫 と化 し、 荒 薇
は てて いた。 法 師 たち は雨風 に晒さ薇 て いる仏像
を憐 枚 み、 故 郷 で祀る ことを 思 い、 持 ち帰 った。
京 都 で笈 ︵仏 具 な ど を 入ね る木 製 の背彙 ︶ を
つくり尊 像 を 納 め、 六十 六部 ︵行 脚 僧︶ とな り
念 仏を 誦 しなが らヽ
屁角 に 仄 った。
四人 の法師 はお のお のの主君 の暮 提 を弔 うため
に御 堂 を建 て、 尊 像 を 安 置 した。 花 蛤 次 郎 の従
者 の法 師 は八幡 平 石鳥 谷 の赤 石 山 麓 に草 庵 を 建
て 、主 君 の恩 徳 に報 いる意 味 か ら恩 徳 庵 と号 し
て仏事 と読 径 を 怠 らず 勤 め た。 化 の法 師 たち も
そ 薇 ぞ 薇 黒 上村 o人 里村 ・高 瀬 村 に庵 室 を 結 ん
だがヽ
廃薇 てしま い、 専 像 も 不明 とな って いる。
このことを ﹁
高 瀬 阿弥 陀 は花 輪 思 徳寺 にあり、
黒 土 阿弥 陀 は黒 上 牢 人 以後 石鳥 谷村 に参 る。 松
山合 戦 の時 、 後 の花 給 思 徳 寺 の本尊 にな る。 人
里 阿弥 陀 は焼 失 つかま つり 候占 抜者 の跡を 写 す﹂
と ﹃由来 記﹄ は伝 え る。
当寺 に ﹁中 山的 公 夫 祥 定 門﹂ と言 か ね た 開基
殿 の位牌 が 祀 ら 薇 て いるが、 花 輪 の従者 の こと
本 堂 大 間
脇立 観音菩薩
古本尊 阿弥 陀如来
脇立 勢至菩薩
か、 人 祥 定 門 とあ る の で主 君花 給 城 主花 輪 次ヽ
印
行ヽ
冴公 の こと か、 初 代 石鳥 谷城 主南 部 九ヽ
郡工友
殿か、 或 いは後 の長 福寺 を開 山 したとき の人光寺
殿を指 す のか 不明 であ る。
m、 祝音 ・
ヤ 尊 の阿弥 陀 如来 像 は像 高 七十 入 c
m で桧寄 木 辻 り。 一
勢 至善 薩 は 四十 入c
一
一
尊 と も極
楽浄 上 より来 逍 し、 念 仏 の行者 を迎え るよう に柔
らかく前 かが み の様 相 を 示 し て いる。 阿弥 陀様 は
堂
山
開
歴 住 墓 標
﹁黒 仏 さ ん﹂ と 呼ば 薇、 身 体 に病 む と ころがあ る
人 は この仏像 の同 じ箇 所 をさす って拝 むとそ ?部
分 が癒 さ薇ると伝 え ら薇 て いる。 長 い間 にさす ら
叡たと ころが黒光り し て いる。 明 治 二 一年 に当寺
火 災︶ に追 った際 にも この二体 は全 く無
が況 融 ︵
事 であ った。 現在 こ の 二専 は 昭 わ 二〇年 一月 秋
口黒 重 要 文 化 財 に指 定 さ枚 て いる。
釈迦牟陀仏 三 尊
開基殿位牌
‐
緊
.
:事
離
慶 応 四年 ︵一人六 入︶、 鳥 羽伏 几 の戦 いで始ま
った幕 府 方 と勤 二方 の戦 いは形を 変え て、 西早薩
長 方 と臭 羽迪 列暮 同 盟 と の争 いとな った。 秋 ロ
と津 軽 は早 く か ら 同 盟 を 離 脱 し、 会 津 、 仙合 も
平和観音 と多宝塔
敗 薇、 最 後 は南 部 盛 同暮 と薩 摩 、 長 州 の慎 撫 鯰
督 府 早 の強 力 な 後 押 し の秋 口早 と の戦 いとな っ
た。 慶 長 四年 二 月 一九 日、 南 部 は 総 大 将 楢 山
佐 渡 と 鯰 参謀 向 井 蔵 人をヤ むに銃 隊 四〇 人を合
む 総勢 二〇 〇 人が 庇 角 好 看き 思 徳 寺 を 宿陣 と し
ャ 野︶ 吉 兵 衛 と 桜 え 祐 橘 が 成 代 を 務
た。 南 部 ︵
め る 屁角 ・毛 馬 内 勢 と 合 せ て 二〇 〇 〇 の兵 は、
十 二所 口、 別 所 口、 葛 源 口、 人葛 口で戦 った。
し か し九 月 二〇 日盛 同藩 より 降 伏 指 今 が 届 き
休戦 とな った。 そ の間 の南 部 方 の戦 死者 は駆り 出
さねた農 民、 マタギな どを合 め戦 死者 一二 〇老、
負 傷 者 二三 〇名 に のぼり、 思 徳 寺 は負 傷 者 の野
戦 病 院 にも、 え、 檀 徒 と は 限 らず 四 一名 の遺 骸
と 一九 名 の戦 死者 の名 を弔 う場 ともな った。 現在
でも そ の墓 が境 内 に苔 む し て静 か に眠 って いる。
こ の戦 いの後 南 部 昔 兵衛 が 翌 明 治 二年 二月 花
輪 を離 薇るとき には人 々は姥 や娘 たち に至 るま で
涙を流 し限りな い淋 しさを訴えたと いう。 又、 晨
民 によ る 旧額 復 帰 運動 も生 じ て いる。
然 し、 このような 君 臣 の情 誼 にかかわり なくヽ
屁
角 は 三百年 間 の盛 同 の管 轄 下を離 薇再び戻 る こと
はなくな った。
寛 永 入年 ︵一六 二 一︶ 末 庵 と し てニ ツ失 沢 に
地蔵 庵 ︵
廃庵 ︶ も 開創 し て いた。
戊辰 戦争戦死者 の墓
位牌堂 と本堂外観
‐
∫W
蘇
一
山岡鉄舟 書
西有穆 山禅 師揮宅
大 涅 槃 図
延命地蔵尊
●本専 =釈 迦牟 尼 仏、 脇 立普 賢 薔薩 ・丈殊 事薩。
●阿弥陀 二尊 = 阿弥 陀 如来、 脇 立祝音 薔薩 ・勢
至善 薩 。 行基 が 一刀 二拝 し て白 彫 し志 渡 浦 道
場 寺 に納 めた と いわ 薇 るが幾 度 か補 修 の子 が
ロえ ら薇 て いる。 木 仏 立像。 県 菫 妥 文 化財。
カ
北 国霊 場第 二十 六番 阿弥陀 二尊 と し て条 ら薇、
え、 庇 角 郡 二十 二札 所 の内 七番 札 所 でもあ る。
︿
御 詠 歌﹀
海 より も 沐き普 ひの思 徳 を
いつき て柔 ゆ こと の白 皮
享 保年 代︶、 人権 修 理事薩 。
●古 仏逹 磨夫師 ︵
●賓 頭通尊 者 、 章 駄 人炒 二、 烏 枢 沙摩 炒 二。
青 釦︶。
●千 わ 祝音 像 = 昭わ 二七年 定 立 ︵
。T 一
せ﹂ は過去 ︵阿弥陀 仏︶
●二世堂 ︵
位牌堂︶
釈 迦牟 尼 仏︶ ・未 来 ︵弥勒薔薩 ︶ を
・現在 ︵
祀る意 味 でる 付 け らねた。
堂 内 =率 師 二尊 、 釈 迦 七体像。
ヤ 陰 仏、 十 六准 漢 像 、 閻魔 二、 今 衣 婆、 界 の
河 源地蔵 、 四人 二、 木 彫 涅葉 像、 雲ャ 二十 五
薔薩 、 弥勒善薩 。
赤石 山」 山号額 を掲げ る山 門
線持寺 19世 岩本勝俊禅 師 揮宅 「
甲り理平│ず
1不甲甲甲甲いデ:ザ
R脇 =││り
‐
翠
:
‐
‐
韓
要
韓
線持寺 興宗禅 師 書
月泉禅師 の軸
昭 わ 四 二年 、 二十 二世ャ 共東 江昇 園 夫 わ尚 の
昭 和 二七年 、 二十 一世 の代、 位牌 堂定 立。
崎 丈美 老 師 夫 授 会 啓 定 。
昭 和 四年 、 二十 一世 人英 洞ヽ
届夫 わ尚 の代、 尾
祥 師 夫 授 会 啓走 。
明 治 四 一年 六月、 人本 山鑢 持 十 四せ 石川素 重
部家 了解 のも と花 蛤 代宦 所 用材 をも って建 立。
予進 により南
浮 裡 は人 檀 之 関村 六左衛 門 殿 のヽ
明 治 二六年 、 荘 美 県 随 一と称 さ薇 る本 堂 落 咸。
本 堂 庫 裡焼 失。
十 九 世 夭籠 れヽ
昴夫 わ尚 の代、 明 治 二 一年 七 月
十 六世ャ 共 れ岳南 嶺 夫 わ尚 の代、 諸堂 再定 。
大 権 修 理菩 薩 像
亀が
[:革
●境内 = 六地蔵 、 千 わ祝音 像 ︵
青 釦︶、 子育 地蔵
尊 像 ︵石︶、 動 物 慰 霊 塚、 そ の他諾 仏。
●茶 荻 尼真 人像。
●地 獄 ・極 楽 会 図。
●山号 額 ﹃閃 伽丼 址 山﹄ 揮 宅 西有 穆 山祥 師。
明 治 二七年 秋、 当寺 に 巡 錫 さ枚た祥 師 は夫政
四年 ︵一人 二 こ 入夕 に生 枚、 日本右 数 の道 元
研究 家 。 可睡斎 の住職 を 二年 、 そ の後 夫本 山
鑢 持 寺 貫 主 、 西有 山 開 山。 山 号 額 の意 味 は
﹁お釈 迦様 に供 す る浄 水 を 汲む丼 片 の跡﹂。
寺 号 額 も 同祥 師揮 竜 による。 そ の他諾 軸。
え て落慶 法 要。
同年 一〇月、 人本 山鑢 持 寺 板橋 興宗 祥 師 を逍
。
戌 一六年 春 彼岸 号 で“介 さ薇た︶
.
o
機 関 誌 ﹁傘 松﹂ ・ ﹁曽 洞祥グ ラ フN
8 8﹂ 千
見 な い堂 閣 ︵平成 一二年 秋、 人本 山永 千十 の
を 示 し、 六道 輪 組 の世界 が 具 現さ 薇 化 に例 を
未 来︶
仏 ︵過去 ︶、 釈 迦 仏 ︵現在 ︶、 弥 勒 仏 ︵
﹁二世堂﹂ と命 老 す る。 T 一
世堂﹂ と は阿弥 陀
平 成 一四年 、 現 在 二十 二 世 代 、 位 牌 堂 走 立
り、 各 年 四月 二九 日は人祭 が 行な わ薇る。
平成 一二年 豊 川 稲荷 堂 定 立、 茶 承 尼真 人を 祀
董 、 二十 二世普 山。
師 を逍 え落 慶法 妥。 併 せ て思 徳寺 二十 二世 退
千成 二年 、 人本 山鑢 持 寺 二十 一世梅 口信 隆 祥
修 復。
千茂 四年 、 本 堂 屋根 釦 板葺 替 o上台 茂修午 夫
俊 祥 師 夫 授 会。
昭 わ 四 四年 九 月、 人本 山鑢 持 十 十 九 世岩本 勝
し て定 立。 総 欅 作 り。
代 、 沖 縄 ?守札 門 ︵
唐 門︶ を模 し て存 二門 と
があ る。
山家 小 口島 樹 人民 や、 茂 反戦 争 戦 死者 墓 な ど
●檀家 には、 ﹁おもち ゃの マーチ﹂ で郷 ら薇 る作
「
五 言絶句」 月舟禅 師 書
達磨大師像
僧形地蔵菩薩
地獄 絵
奪衣婆 三途の川のほとりに居て、
亡者の着物 。名誉 ・地位
を奪いとり、地獄への道
をおもむかせる老鬼婆。
線持寺興宗禅 師 揮竃
中陰忌 七体仏
地獄
鱚
西冷玉牧春 画
自ら為 した悪業 によ って衆 生が ここに入 り苦難 を受 ける所 で、 閣魔 王が主宰 し、 鬼類 が罪
人 を苛 責 します。
︱
,
‘
, ︲
︲ ︲︲
迦 8 な ■左・わ一
月・
に れ 一一言
釈一
と
に一
お 4 れ 生・
一 誕 生仏● ●
、
Jγ
蝸 器 酷 鶴
趙 班
蹴
一一
献乳・
、苦 行 ・
鰹 録
四一成 ●道〓
五、初転法輪
祓
圏
お釈‐
ま.し
迦様は、真実の道を求めて、29歳で出家.し
のあいだ森の中で苦行をなさヽヽ
たらそして、6年 │も
まし│た
:し かしヽ書行にようて悟 りを得ることは不
可能だと気づきましたよスジャ■夕 とい う娘に乳粥
―
れを食べて元気になる
を捧げ られたお1釈
‐
迦様はヽ│そ
―
と:‐
静力ヽこ書提1樹の下に向かわれました:■ ■■ ‐
ました。お釈迦様の肉体は消えてもその教えはいつまでも生き続けます。
国
四天王
帝釈天に仕え、仏法帰依の衆生を守護する。四方領護の四善神のこと。
持国天
須弥山の中腹に住して東方の世界を守護する神。青色身で甲冑をつけ、
刀又は宝珠を持つ武神。
増長天
須弥山の中腹に住して南方の世界を守護する神。甲冑をつけ、右に大
刀、左拳を腰にあてている武神。
薬師如来 三 尊 と十 二 神 辮
東方浄瑠璃世界 の仏 さまで、左 の手 のひ らには、 病 を治す
薬 の壺 をのせています。人 々の病 をいや し、 寿命 をのば し、
苦 しみや悩 みか ら救 い、 安楽 を与 えて くださるといわれて
い ます。その右 に立つのは 日光菩薩、左は月光菩薩。
阿弥 陀如 来 (過去 世 の仏)」 の梵 字 と
恩徳 寺 開創 の 仏 「
雲 中 二 十五警薩
広 目天
須弥山の中腹に住して西方の世界を守護する神。甲冑をつけ、又戟又
は筆を持つ武神。
ソ蘭美
‐ ‐
│
│
須弥山の中腹に住して北方の世界を守護する神。昆沙Fl天のことで七
ま宝塔:右手に鉾を持つ。│
宝の甲冑をつけ左手に三叉戟、又ヤ
四
四
未来世 の仏︶
弥勒苦薩 ︵
釈尊滅 死 五十 六億 七千 万年 後 この世 に下 降 し、 釈 尊 の救い に
一 一●●一
もれた衆生 のために護法し救 う未来仏。
1天
‐
荼1裸
と豊川稲1荷
■_. ‐
._‐ _‐ ‐ .
罵1真
●本尊│‐
│で
1カ
六月前に人の1死
持つという:豊川稲荷本尊。
を知り●その心臓を食│し
茶標尼1真
天‐
は夜叉又は羅荼Jの1類
神1通
を―
―
麟趙予甲尤
鹿角
ヽ1番1141.C
′
〒〇 一八︱五 二〇 一
黒沢 川
赤石山 恩 徳 寺
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秋 田県鹿 角 市 花 輪 字 上 花 輪 十 一
1之
〇 一八六︶ 二三上 〓二七 二
T EL ︵
花輪高
●
■1花輪S.A
OD 計OFC旨◎ 〇”凍 ○針b oい い ① ﹂
り
。 。
●
道の駅
花輸 SA‐ や
FA X ︵
〇 一八 六︶ 二三︱七 一八 四
卍 恩徳 寺
ひ
メー ル
● 花輪局
u大 里病院
福士川
︱
米代ヽ、
*表 紙 は古 本 尊 阿 弥 陀 如 来 と山 門 ・裏 表 紙 は 六 地 蔵
かづ の
│よ
なわ
○ 花輪支所
鹿角組合総合病院
「
曹洞1禅グラフ (No88 1 H16 1春 彼岸号)」
│と 「
傘松 (II115,9月号)」に 「
三世堂」が紹介 された。
四
企画 ・制作
闇光陽 フォ ト 。オフィス 容 盛岡 (019)653-1640
※無断転載禁止
翌