Page 1 「 ポ ー ズ 」 考 ― 太 宰 治 (POSE) 『 』 ( ) 新 ハ ム レ ツ ト の 場

―
」
「演技」「公私」の問題を論じつつ
LEE
Jae-Seog
在 錫
「ポーズ (POSE)
考 ― 太宰 治
『新ハムレツト』の場合(二)
―
李
第一「表現主体」と第二「表現主体」―ナラティヴ構造
『新ハムレツト』のテクストとしての最も端的な特徴は、
「は
し が き 」 で も 指 摘 さ れ た ( 読 む た め の 戯 曲 と い う 「レ ー ゼ ド ラ マ 」 の
特徴は、いわゆるト書きを排除することによって発話に制約または指示性を
来する側面をももつ―を促すことである)ように、地の文がなく、全
廃止することであり、それによって読者の自由な読書行為―読書の乱脈を招
体が 人 物 た ちの 発話によ っ ての み構 成 されたと い うことで あ
る。つまりは、媒介者としての「語り手」あるいは「仲介者」
の 存 在 を 読 者 は 発 見 でき な い の であ る ( 読 者 を 親切 ― 地 獄で あ れ 、
。
煉獄であれ、天国であれ―に案内してくれるヴェルギリウスはいないのだ)
私たちは、地の文とナレーションによる物語様式を、小説であ
者」の存在に読者は通常干渉されてきたのであり、ナラティヴ
「遠近法」「叙法」など、す なわち「媒介体」あるいは「仲介
である以上、あるいはナラティヴであるためには「媒介性」は
「仲介者」を作家から切り離し、物語言説と物語作用を担う表
欠かせないものである。それが一般的な読書体験なのだ。その
現主体 (「語り 」を遂行する「語り手 」)だと規定し研究してきたの
ムレツト』は、そのような「表現主体」の問題を再考すること
は既に 久しく、そ れに常識と なりつつある。ところで 、『 新ハ
を強いる物語様式を採用していることに注目する必要がある。
。
ティヴの変遷を論じるのは、ほぼコミュニケーション論と重なるのである)
コ ミ ュ ニ ケー シ ョ ン の 回 路が 異 な る の で あ る ( 研究 者た ちが ナラ
手」なるものの完全なる廃棄としてのテクストである可能性で
そこで 、私たちは 二つの 仮説を提起できよう。一つは 、「語り
あり、もう一つは、それにもかかわらず、ある「位置」(次元)
定である。後者のほ うは 、「語り手」を故意にでも形象化しよ
に 「 語り 手」が 隠蔽 (内 在 )されて い るかも し れない という仮
うとする操作なのだ。たびたび喚起されているように、ある物
語には論理的に「表現主体」は必須構成分母として構成される
の で あ る 。 表現 主 体 の 神 隠し と 表現 主 体 の 不 在 不 能 (必 然性)
物語は語 り 手に よ って 物語 られるこ とであるにもかかわら
として『新ハムレツト』を一次的に規定する由縁である。
ず、とりわけテクストの原理としての語り手が欠落している(よ
れ戯曲であれ、典型的な物語様式として経験してきたのである
(映 像と 言 葉 に よ るコミ ュ ニケ ー シ ョン の場 で も 、 最 近 で は 「 字幕 」
「 ナレ
うな)二 律背反 を も つ『新 ハム レツ ト 』の場 合、 テクス トの 指
示を地の文などによって受信してきた読者にとって、地の文の
ーション」などによる媒介性―必ずと言っていいほどイデオロギーを内在し
。シュタンツェルの区分した「視点」
た―の一般化が観察できるのだ)
か に つ いて も 議 論 が 求め ら れ る 。 あ る メ ッセ ー ジ を 伝 え る た
ことがただちに「示すこと」(あるいはミメシス)と連結されるの
措置が措定できよう。それから、発話 (直接話法)だけだという
はテクストの媒介体としての物語るための装置と読者側の対応
消滅はいかなる物語作用をもたらす (引き起こす)のか。それに
ろうか。人物たちを表現の主体とすることは、それぞれの個別
す るのだ が 、 それを 可能にす る「力 」)だと規 定して い いので は な か
は「はしがき」の表現主体ではなく、それに登場人物でもなく、
.」(=たとえば、人物たちは過度なほど「過去」の時間軸を召還
ある「力
のである。だとすれば、物語を支配し、読者と対面しているの
か らハムレ ツトの子 を育 てる希望に満ちる)に おいては 「表現主体」
的 な ナ ラ テ ィヴ (オ フ ヰ リ ヤ は、 王 子 と 肉 体 関 係 を も っ て妊 娠 し 、 そ れ
になれるが、全体としての物語においては一部分に限定された
めには不適切のように判断される媒介者の不在をコミュニケー
本稿の基本的な論理である「ポーズ」と「演技」という概念を
で、私たちはナラティヴ研究における一種の普遍的な図式を発
な い の で あ る ( 外 の 人 物 た ち も ま っ た く 変 わ り は ない の で あ る )
。 ここ
も、「演技」「ポーズ」以前に「表現主体」が立ちはだかるので
「普遍」を「ナ
見 (想起)できよう。二つの三角形図式において、
「語り手」でしかなく、物語を統合する「表現主体」にはなれ
あって 、それも考慮しなくてはならない。もしかすると 、「表
発見できるかも知れない、と。
ラティヴ」と書き換えてみると、私たちは「ナラティヴX」を
使用する場合、それらと『新ハムレツト』に纏わる語り方との
現主体」の表面的な不在は、別の様式をもって∧ある∨表現主
つまり、オフヰリヤのナラティヴは下位ナラティヴの一つで
世界について語ってくれる一種の語り手を、作家の「はしがき」
は (理論的に)最上位の「NX」(UX)と最下位の「N」群の間
枠として設定することは妥当だと考えられる。そこで、私たち
ラテ ィヴX 」(NX、もし くは、 上位 のナラティ ヴ)の 措 定を 認識の
あって、他の人物たちのナラティヴと同列に位置するのである。
だと判断してもいいだろう。その「はしがき」を「ポーズ」だ
に位置する一群のそれぞれが「NX」(UX)となる可能性も認
本節では、語り手の不在、それから登場人物たちと「力」と
と捉え 、「演技」化してみる作業は すでに済んだのだが、それ
ラテ ィヴが存在するしかないという結論に至るのであり、「ナ
は「書き手」としての側面が強く、テクストを統制する「力」
いて停止してしまうナラティヴと読み手 (主体、視聴者)の存在
めることになる。つまり、最上位まで上り詰めず中間段階にお
ということは、ある上位のナラティヴの下位範疇として個別ナ
とは ならないのであ る。つまりは 、「書き手」それから物語の
しての語り手についてだけ考えてみたい。物語の仲介者として
人物たちあるいは語り手との力学は不安定な関係しか結べない
の「語り手」を、物語に直接介入することはないものの、物語
。
去の再構築を次の節で取り上げる)
体を 構 成 して い るの かもし れな いのであ る (その 一つとし て、 過
関連はいかに連携されるのか。また、「公私」の問題について
ション・モデルに代入した時、いかなる位相をもつのだろうか。
1
NX
U4
あ る。
を否定できないからで
だ 。)わ け で は あ る が 、 人 物 た ち の そ の よ う な 回 想 活 動 を 統 括
.り
.
する「力」を読者は看取できるのであり、その「力」を「語
.」的
.な
.る
.も
.の
.だと考えていいのである。しかし、やたらとそ
手
り手」的なるものによってどのような読書行為が強いられるの
のようなものがあると強調して も始まらないのであって 、「語
か、または統制 されるのかを明確にしなくてはなるまい。『新
U=普遍
.制
.制
.と統
.
ハムレツト』の「語り手」的なるものは、大別して強
の二つを成している。人物たちによって召還された過去を再構
N=ナラティヴ
及び削除
築する作業を読者にほぼ強制的に要求するのが一つで、もう一
C= 相互対 照
=連続
る「力」なのだと言っていいと考えられる。ナラティヴの二つ
つは 、人 物たちの も つ「透明 性」を 極 限にまで 制 限 (制 御)す
の資質である「時間連鎖」と「二つ以上のイベントあるいはシ
るの だから「時間連鎖」に大きく貢 献している反面、「噂」の
の人物たちには、ある
暴露 (=事実の確認)を拒み続けることによって物語の推進力た
手」的なる「力」は過去を呼び戻すことで現在を再構築してい
去」を召還しつつアイ
チュエーションの変化」(プリンスの定義による)において、「語り
デンティティーを獲得
る「変化」を阻止している (と同時に物語を遅延させる)ことが分
共通した特性があり、
しようとすることにほ
ある。それだからこそ、その「力」が「語り手」的なるものだ
明である以上、私たちは「力」の存在を認めざるを得ないので
と言えるのだ。以上の議論は、表面的な語り手 (物語るもの)の
かならない。それによ
る (現 王 に 対 す る 情 報 は、 彼
付言して置きたい。最終的に、読者が対峙すべきものは、個々
一つの例 (このような例はいくらでもある)を挙げると、「朗読劇」
の人物の物語段階ではなく、上に述べた「力」なのであろう。
喪失によって読者の構成力が求める一つの道具立てであるのを
る の でも なく、人か ら の証言
く、 まし て 彼 の発 話だ けに よ
など に よ ると ころ が 大きい の
自身によるものだけではな
って人物像が形作られ
それは自他を問わず「過
さて 、
『新ハムレツト』
・
・
・
・
・
・
U3
U2
U1
N 9
N5
U9
U5
U1
N9
N5
N1
U 9
U5
N4
N3
N2
N1
UX
C
C
C
用からも痕跡として表面化しているとしかいいようがないので
.全
.な
.ト
.書
.き
.の
.排
.除
.は、上の引
思議なことではない。しかし、完
ある。それぞれを「ト書き」化してみると、「(ハムレツト、泣
についてオフヰリヤは「きのふは、きつと父が、ハムレツトさ
じめたのだらうと思ひます。父を少し信頼してやつて下さいま
またちの情熱に感激して前後の弁へも無く、朗読劇なんかをは
く)」「(ハムレツト、喪服を着ている)」「(ハムレツト、項垂れ
発話の (質的な良し悪しはともあれ)量的な膨張が可能であったこ
の裏に限界も露呈するようになるのだ。ただし、それによって
ている)」「(ハムレツト、顔色を変え、新王を睨む)」と書き換
頁)
と 推 定 と 勧 告 を す る 。 こ れ は 読 者 に と って 信 頼
せ」(
である。これも「力」として内包された存在を強く反証するも
.話
.だ
.け
.に
.よ
.る
.表
.現
.に起因する物
とも指摘できよう。他にも、発
できるようなものではなく、むしろ読者は彼女よりもっと豊富
のだといえよう。読者は、人物たちだけではなく、人物たちを
語 の 効 果 も い く つ か 発 見 で き る こ と を 指摘 し な くて は な るま
実際に おいて有り得ないと考えたほ うが妥当であり、「試み」
支配する (示すか、語る)何者かを否定できないばかりか、それ
延」方法の一つが、過去の召還 (次節で述べる)なのだが、それ
に最後には突き放される事件が多発していることも指摘されて
ら読者を引き込むケースが (一人称語り手が圧倒的に)多く、それ
論が行われていて、両者の構造は多くの場合、語り手のほうか
太宰治の小説における、読者のスタンスについては様々な議
い。
しての様態に対し決定的な限定・規制を働かせるしかなかった
「ハムレツト、泣かずともよい」( )
は、一見、読者をして人物たちより豊富な情報の持ち主化させ
の の 、「 表 現 主 体 」 の 表 面 的 な 不 在 ( 人物 た ち に 限 定 さ れ た 語 り )
いる。『新ハムレツ ト』もなお類似した関係を呈してはいるも
「わざと不吉な喪服なんか着て」( )
るストラテジーをとっていることが重要である。ハムレツトと
で続くようになるのだ。しかし、結局読者は突き放される運命
、 そ の よ う な 状 況は 最後ま
役 立つ ので は ない こと を 指摘し て おこう )
も 詳 し い 情 報 を も っ て お り ( し か し 、 情 報 量 が事 象 の 判 断 に必 ず し も
新王との会話を立ち聞きした読者は、王妃やポローニヤスより
引 用文 (似た よう なくだり がテ ク ス トに 散見 できる)は 、す べて 発
やないか」( )
話による描写である。人物たちの発言による描写はもちろん不
1/2
「何も君、そんなに顔色を変へて、わしを睨む事は無いじ
「ハムレツト!顔を挙げなさい」( )
1/2 1/1 1/1
ことを再び強調して置かなければなるまい。
はと もかく、「表現主体」の削除は『新ハムレツト』の物語と
属性として大き く作用して いることを 強調して置きたい。「遅
.延
.がテクストの
そ れ か ら 『 新 ハ ム レ ツ ト 』で は プ ロ ットの 遅
と対決しなくてはならないのである。
え る こ と が で き よ う 。「 表 現 主 体 」 の 排 除 ( 太 宰 治 の 試 み )は 、
2
な 情 報 ( 読 者は す で に ポ ロ ー ニ ヤ ス の 魂 胆 に つい て の 告 白 を 聞 い て い るの
9/1
で、オフヰリヤの証言が憶測であることを知っている)をもっているの
310
書記テクストに限定して適用するのである。そのモデル自体は
複雑でも曖昧でもない。作家、テクストの主体、登場人物、事
・モデルとその遂行を志向する意志であり、それを(多くの場合)
件、読者の間で繰り広げられるインタラクティヴな作用を考察
なのである。新王が先王を殺したのかどうかについて、テクス
けるのかも語らぬままにしておくのだ。物語の「媒介者」を持
するのである。そのような構成モデルに、テクストの表現主体
トは語ることがないし、ハムレツトが何について疑惑を抱き続
つ づ け る 」 と 叫 ぶ か 、 呟 く ( 読 者 は こ の く だ り に つ い て も 判断 し な け
発話や解釈の磁力が働いており、それだからこそ、インタラク
たちの (明確な情報の提供と受容の原則に反して)意図的・偶発的な
たない読者はハムレツトと同じく「疑惑は、僕が死ぬまで持ち
ればいけないのだ。彼が「呟く」のと「叫ぶ」のとでは意味が変わってくる
ティヴで能動的な物語世界が展開されるわけである (同時に、モ
『 新ハムレ ツ
のである)ことしかでき ないのである。ところが 、
ト』には大きな変動以前の物語があることから「疑惑」は必ず
。形式主義、構造主義はともかく、
デルはだんだん構築しづらくなる)
界」(モダニズムであれ、ポス ト・モダニズムであれ)と少なくとも相
.」と
.し
.て
.残
.り
.続
.け
.る
.こ
.と
.は
.な
.い
.。Aの状態からBの状
しも「謎
克を なし、「秩序の とれた物語 世界」への思想的な志向だった
的・外在的な関連をもつしかないのは、所謂「乱れた物語の世
ラティヴ」を受信できるのである。例えば、ハムレツトがいく
のである。つまり、物語とは、脈略もなく突然発生するもので
ナラティヴ研究が、「語用論」「コミュニケーション論」と内在
ら「死ぬまで 」「疑惑」を 抱き 続けると語っても、彼の前歴は
況によって「疑惑」を抱く読者は、Aからの変化を通して「ナ
彼自身の鏡として彼の物語を再構成してくれるのだ (彼の「信頼
作的・具体的な体系なのである。プリンスの明瞭なナラティヴ
はなく、物語的秩序の上で構成された (自然的なものではなく)操
態へと時間連鎖をもって移行するナラティヴにおいて、Bの状
。 その 意 味で 、 過去 の 再構築 は 欠 か せ
性」も 問題とし て浮 上す る )
テ ク ス ト を 物 語 と し て 読 む (「 ス ト ー リ ー のた め に」 読む )
として読むことについての説明は次の通りである。
ない読書行為なのである。『新ハムレツト』はもう一つのテク
ストを内在した物語であって、テクストの中で物語は収斂され
と い う こ と は、 と り わ け物 語 に 妥当 な 問いを たて ・ ・・
るのであり、
そのテクスト内で処理不能な物語があるとすれば、
それは物語ではない (物語の条件を満たせないのであって、物語以外の
そ の 問 い に 答 え を 見 つけ る こ と を 意 味 す る。・・・『 赤頭
母の ベッ ドにもぐ りこみ、 孫娘まで も食べると いうこと
ー タ を 集 積 し え た に し て も 、 ま ずは 狼 が 祖 母を 食 べ 、 祖
インのエ レ クトラ・ コンプレ ッ クスなどの おもしろいデ
巾 ちゃん 』で、 母親と祖 母の 類似点や狼の 象徴性やヒロ
もの)のである。
第一ナラティヴと第二ナラティヴ―過去を再構築する現在
ナラティヴ研究とは、究極的には完全なコミュニケーション
とも考えられる。 しかし 、『新ハムレツト』の「秘密」が物語
至難の業なのである。内容から言説への方向性を求めるべきだ
読者は人物たちの現在発話の中で、過去の時間と出来事が顕現
ストーリー・ラインに沿って『新ハムレツト』を読むとき、
言説によって解かれることは否定できない。
を理解していないなら、『赤頭巾ちゃん』を物語として読
的 な 事 象の 連 鎖 だ けに焦 点を あ てが いそ れを理 解す るこ
ん だと い うことには な らないので あ る。つま り、年代順
と に よ って のみ 『 赤頭 巾 ちゃん 』を 物 語 と して 読 ん だこ
とになるということである。
王の幼時の出来事から、近くは初謁見式以前の事象が含まれて
することを発見する。三日間の物語時間には、遠くは先王と現
いて、現在の時間軸内部に過去の時間軸が重なっていることが
『新ハムレツト』は数々の物語言説で満ち溢れている。ポロ
「象徴性」や「データ」などを追いかけてはきりがないのであ
わかるのである。時間連鎖において、次のような内包された過
だ。三日間の物語時間に先行する最長の時間的な距離は先王と
る。そ れに 、「象徴性」という一般論は必ずし も通用しない。
現王の幼時まで遡及できるのである。ここで、私たちが問題と
間」として大きなナラティブ・シークエンスを提供しているの
式はまったく無縁なのである。ましてや、それらをいくら追い
し、問うべきことは、三日間の物語を時間連鎖の上で条件付け
去の 物語 (現在の構築に欠かせない要素として)が 、「省略 された時
求めても、プリンスもいっているように、物語を読んだことに
ハムレツトと王妃はそれぞれ間もなく訪れる「春」について語
はならないのであって、読者の選択的な情報取得に過ぎない。
る。ハムレツトの性格は、先王の死やオフヰリヤの妊娠などに
よるだけではなく、過去からの連続性として読者に読まれるべ
るのは過去のタイム・シークエンスにおいてだということであ
れは 小説 の 物 語 と し て の 読 み に は ほ と ん ど関 係 し な いの で あ
語は次のようになる。(以下、[]の中は過去事実の記述である)
きだという規制なのだ。時間連鎖によって浮き上がってくる物
かまはないから、落第だけは、せぬ事」などと述べたとき、そ
る。レヤチーズのストーリー・ラインにもほとんど作用しない
■
( ■)
time sequence
[先王と現王の幼児]
ラダイスであって、読者が頻繁にそれらを「ポーズ」として捉
時に困難となる。ストーリーを失ってしまうのだ。なぜなら、
[現王の行状] [ポローニヤスの行状]
えず 、「演技」を 求めよ うとすると、物語として読むことも同
■
物語内容は反目しあっていて、言説から内容を構成することは
それは絶えず発話によって裏切られるからである。物語言説と
[オフヰリヤの行状]
[ハムレツトの行状]
[王妃の行状]
T-2 T-3
時 間連 鎖
物語言説なのであ る。『新ハムレツ ト』はそのような言説のパ
たとえば、ポローニヤスがレヤチーズに「カンニングしても、
って いる。しかし、「春」=「希望」「新生」「再生」などの図
ーニヤスの処世訓、人物たちの人間観・ものの見方等々、一々
3
■
■
[レヤチーズの帰国] [ハムレツトの帰国]
[先王の死] [オフヰリヤの妊娠]
読者は、物語る時間において生起する出来事やシチュエーシ
物 語る 時 間 のなか で構 成 され る )ス トー リ ーが あ るの を見逃 すわ け
ョンに先行する物語として、物語られるもう一つの (ところが、
は三日間の物語の物語としての根拠―三日間の出来事は過去の構築なしでは
に は い く ま い 。 三 日 間 の 物 語 の ため に 準 備 さ れ (物 語 ら れた 時 間
■
■
■
■
ー・ラインは次のようになり、読者は人物ごとの物語を時間連
れた過去を組み合わせると、登場人物たちの個別的なストーリ
を測定するには欠かせないのである。三日間の物語と再構築さ
+1 ハ ム レ ツ ト と 王妃 の 葛藤
鎖と事象の変化のうえで物語ることができるようになる。(→=
+
現王:[病弱]→
[放蕩な生活をしてきて、先王に叱られてばかりいた]→[王
+1 レ ヤ
+8 ポローニ
■
+ 2 王妃の 自殺 、王の 宣言
「第二ナラティヴ」
]。ハムレツト:[軟弱な性格で、
かった]→[オフヰリヤの妊娠によってやや変貌]→自分の不
く様 子ぶ って い て 頼 み に な らな い人 ] → [先 王への執 着 が 強
ろもあった]→[才能はあるが、飽きっぽく軽薄で、覇気がな
子供の時からつくり泣きが上手だったりしたが、無邪気なとこ
れから、宣戦布告を準備→[
なの機嫌をとるが、ポローニヤスに激怒して彼を殺害する。そ
れから軽薄な行状をつつしみ立派な業績を残そうとする→みん
+3 絶 望 す る王 妃 と 自信を 取
ハムレツトに復讐を頼むと「噂」される]
。
臓病や らの病 気で 急死した ][現王に殺害され、幽霊になって
王に なった][ ハムレツトにとって厳しい父であった]→[心
先王:[病弱だった王は、修練によって (徳望と手腕をもつ)賢
それから)
+4 オ フヰ
■
+5オ フヰ リ ヤの 妊 娠を確 認
+3 ハ ムレツ トの苦 悩
王の 初 謁 見 式
+2王の説教
、 短縮 し 提 示 さ れ た 時間 は 両 者 の 関 係
存立できない―なのであ る )
→[ポローニヤスの主君変動]T0
■
+6 先 王 の 死因 に つ いて の 噂を 聞 く ハ
■
+4 自 虐・被 虐す る ハム レツ ト
■
+ 6 王妃を 窮地に 追
+ 7 ポロ ー ニ ヤス の 暗 示
■
■
になって、王妃と結婚し、ハムレツ トの義理の父となり ]、そ
■
ハ ム レ ツ ト の 苦 悩に つ い て ホ レ ー シ ヨ ー に 聞
■
リ ヤに 忠 告す る レ ヤチー ズ
■
するポロ ーニ ヤス
(二 日目)
ムレツト。
■
+
+1オフヰ リ ヤ妊娠 がみ ん なに 知ら さ れ る
■
T2
T2
2陰 謀を 企む ポローニ ヤス
り戻 す オ フヰ リ ヤ
い込む朗読劇
5 ポロ ー ニ ヤス とハ ムレツ トの応手
■
ハ ムレ ツ ト とオ フヰ リ ヤの 密会
ヤス殺害される。
■
T3
■
T1
T3
(三 日 目)
チー ズ 死 亡と 戦 時 色の 表面 化
物語る時間
とハムレツトの疑惑。
T2
T2
く王妃
T1
T1
T2
T2
T3
?
T1
T2
T2
T2
T1
T1
(初 日 )
過去テクストはすべて証言と告白によって全景化する )
(
物語られる時間
「第一ナラティヴ」
→[王妃の再婚]T0
→[新王誕生]
[ハムレツト王になれず]T0
T-? T-1
T1
ツ ト 』 の 三 日 間 が 、 テ ク ス ト で は 過 去の 時間 ( 先王 の幼 時か ら 死
配(置は正確
義を棚にあげて王や王妃にいやみをいう→オフヰリヤの妊娠に
→
に至るまでの長い時間)をすべて吸収しつつ
な も の で は な く、 便 宜 的 な も の で あ る の)よ うに 進 行 す るの で あ る。
→
よって苦しむ→[王になるべきであったことを自覚しており、
上 下 関 係 も 意識 して は い るが 全 面に 出 す こと は な い ] → 事 実
語時間を構成 しなくてはなら ないのだ。フラッシュ・バック
燭」のように現在のシチュエーションを補強する形で、あるい
(
→[
治家であ るが ]、娘の失態により辞表を提出、それから政治 的
繁に使用されるナラティヴ・テクニックなのである。フラッシ
のこと (ナラティヴ様式の重要な一つとして)映画などの場合にも頻
は部分的な因果関係を挿入の形で築くために、小説はもちろん
ている]→妊娠によって意気消沈する→妊娠の事実がみんなに
貌ぶりが自分の再婚によることかと思い悩み、ホレーシヨーを
囚 わ れて い た ] → 大 義 名 分 に 従 属 し つ つ も 、 ハ ム レツ ト の 変
として区分し考えることによって、三日間の物語る時間は振幅
が意味作用をするために読者が再配置すべき先行テクストなの
ュ・バックによって構成される[]内の物語は『新ハムレツト』
『新ハムレツト』 と「公私」の問題 を考えてみるまえに、
「ポーズ」でみる『新ハムレツト』
を広げ、三日間のナラティヴではなくなるのである。
であった。それぞれを「第一ナラティヴ」、「第二ナラティヴ」
生活をする]→[先王の死をきっかけに帰国]→現王の初謁見
式まで働き、フランスへ帰る→[途中、敵に襲われるが大義を
]
。背景:[先
学に遊学中]王妃によって呼ばれ、ハムレツトに噂を伝えるな
唱えつつ商船に居残り溺死する]
。ホレーシヨー:[ドイツの大
→
の 時間の 流れにおいて 、『新ハムレ
その土台となるものとして各人物たちの根本的な状況や立場、
の仮想的な∧関係性∨と、実際の∧関係性∨に介在する∧関係
。 言 い換えれば 、人物たち
ー ズ」 は 「 ポ ー ズ」 では な く な る も のの )
れぞれ考えてみたい (読者にとって「ポーズ」を抽出するその場で「ポ
→
T3
]
。
それから、とった、あるいは、とられた「ポーズ」についてそ
どするが、状況などの判断に信頼性がない。→[
5
王の頃は、平和と希望で満ちていたが、その死後]→戦争の危
以上のように
T2
ク中に満ち溢れている→[
T1
?
機が起こり、溜息と意地悪い囁きだけがエルシノアとデンマー
?
4
:[大声で叱られるとしゃんと なる子]→[フランスで放蕩な
呼び、原因を探る。ハムレツトの難儀を誰にも知られず解決し
?
たがる→大義名分の虚実を悟り、自殺してしまう。レヤチーズ
知れ渡ってからお転婆の娘に戻る→[
]
。王妃:[大義名分に
婆の娘]→[器量よしとして、お城の外の人たちも褒めちぎっ
『 惜 別 』 の よ う な 完 全 回 想 の レ ベ ル か ら 、「 花
)は 、
flash-back
読者は、三日間の物語時間に先行するほぼ半世紀にもわたる物
T2
]
。ポローニヤス:[妻と死別し、子供を育てた賢明な政
T3
の確認ができず自らの頬を切り、疑惑を持ち続けると言い残す
T1
陰謀を 企み、 王との応手の末 殺害される。オフヰリヤ:[お転
?
け・わたくし』
、それから『ハムレット』の『公私』
」末尾を読んでいただき
に 引 用 す る こ と に な る が ( 本 稿 の「 中 国 の 『 公 私』 と 日 本 の 『 お おや
、 絶 好 の 復 讐 チ ャ ン ス に 直 面 し た 場 面 で あ る 。 その ( 誰 も
たい )
性 ∨ 樹 立 (演技)の た めの プロ セス に つい てで あ る。 誰に 焦点
化するのか、または、ハムレツトは物語の主人公たりうるか、
を当てるか (焦点話者の問題も介在する)によって作品はいかに変
見ていないばかりではなく、クローディアスは祈祷中であって、無防備なの
だ )シー ンに おいて、ハムレットは、なぜ実行できず優柔不断
についても簡略に述べていきたい。
主体が 、「演技」をす るためには 、 自らの∧位 置∨、 つま り
て 「 復 讐 」 が 成 り 立 つ )の 「 演 技 」 と 異 な っ て い る の で あ る 。 別
が 、 ∧ 復 讐原 則 ∨ に お い て 、 そ う で は ない 世 界 ( 殺す こ と に よっ
の 悪人 を殺 す のは 復 讐と は ならず 、 むし ろ 悪人 を 神へと 導 く行 為 である)
その世界では、神の認めている制度としての「演技」(懺悔中
(であるしかないのか)なのかが明らかに語られている。
は 、(質の良し 悪しを問わず)アイデ ンテ ィティーを確立していな
「ポーズ」の始発―ナラティヴ世界の中枢喪失
くて は な らない 。『 ハム レッ ト』 で 、 クローデ ィアス (人名 ・
して読ま ないかぎ り「演技」の一致は得られないのだ。『ハム
い世界では、相手側の物語世界における「演技」を「演技」と
の言 い方をすると、『ハムレット』における「演技」は内在的
楽に没頭し、ハムレットを殺すためにレアティーズを味方に誘
レット』の物語言説は 、「演技」によって具現されているとい
地名の読みはそれぞれのテクストによる)は「奸悪な王」として自身
い、ハムレットとの剣術試合をさせるクローディアスの「演技」
ま り 、 ハ ム レ ッ ト は 気 取 っ た 態 度 を と っ て い る )だ と 受 信 す る し か な
は、
「奸悪な王」に相応しいものだともいえよう。換言すると、
うべき なのである。ところが 、『新ハムレツト』の物語世界で
にはほぼ完璧に作動しているのであって、それを「ポーズ」(つ
先王の弟の位置から、王の地位へと移動し、自身のアイデンテ
語とは結局「演技」への志向でもあるという点で)∧ある∨「演技」へ
は構造的な「演技」が始発の地点から欠けている。つまり、(物
の位置を把握している。従って、先王を毒殺し、王妃を横取り
ィティーを確立した上で、それに相応する「演技」をやってい
くとも読者それぞれには「演技」化されなければならない。否、
宙吊りの世界、すなわち「ポーズ」は、読書過程を通して少な
与えるのだ (「ポーズ」だからこそ読者の責任―任務―は一層重くなる)
。
に相応することであり、
その変化した状況こそ∧父は殺害され、
読者は何らかの「演技」をやらざるを得ないのである。
向けた「ポーズ」の乱舞する空間にほかならないような印象を
妹は発狂・自殺∨した人物のアイデンティティーを創りだした
の死と、妹の発狂と自殺は、レアティーズに「復讐」を「演技」
といえる。『 ハムレツト』に おける強烈な「演技」の一つは後
させ、それはハムレットとの関係性が、以前とは変わったこと
るのである。クローディアス以外の人物たちも同じである。父
し、王の地位にまでのぼりつめることができるのだ。また、享
6
『新ハムレツト』の世界が、関係性の消滅から発生した「ポ
ったことは推定できよう。トラブルのない状態が維持できたと
ともかく、「関係性」を維持させる中心的 (権威的)な人物であ
み て い い 。 過 去 の 世 界を 統 制 し て 混 乱を 防 いで ( 秩 序 を 維 持 さ せ
ー ズ」 として 規 定で き ると す れ ば 、ま ず関 係性 の消 滅 (変 動 )
以前の「関係性」が、いかに形成されていたのかを具体的に調
て )い た の は 、 明 ら か に は さ れ て い な い先 王 の 中 心 性
と、王
べる必要がある。過去の関係性は、人物たちの「証言」によっ
いたのか。
こしているのだから、その中心に「先王」が位置していたこと
て読者に伝えられる。先王の死は、関係性の一大変革を引き起
う「演技」は発見できないのである。
てきたのである。王の弟という関係性、王子という位相に見合
といえよう。その中で、現王とハムレツトは、放蕩な生活をし
妃の 「デ ンマー クの ため」 という「 演技 」( 犠牲 、奉 仕)だった
先 王が おいで に な つたとし て も、 け ふの此 の 子の 態度
には 、き つとお怒りになり、此の子を お打ちに なつたで
ロ ー ヂ ヤス が ― 引 用 者 )お 酒 を 飲 ん で 酔 つ ぱ ら つて 、 し よ つ
そこに 「噂」として、ポローニ ヤスの発言として 、「毒殺」と
先王の死、それは「心臓病」だと証言されている。ところが、
予定されたアイデンティティー―「場」の変質
ちゆうお父さん (先王―引用者)に叱られてばかりゐたぢや
て、 プロ ットの 曖昧さが増して くる。ただし、「毒殺」が決し
ツトは「デンマークの王子」として、次期の王として現王によ
もう二度と帰つて来る事はありますまい。( 頁)王妃
って宣言される。王妃は、再婚を通して「王妃」の地位を維持
る。放蕩な人間であったクローヂヤスは「王」となり、ハムレ
た」時代を築き上げた人物であったと判断できる。その詳しい
し 、 臣 下 と し て の ポ ロ ー ニ ヤ スは 新 王 を 迎 え る (あ え て い うと 、
.
先王の死によって人物たちの位相が変化し、それによって「ア
.デ
.再
.ン
.テ
.ィ
.テ
.ィ
.ー
.」の
.構
.築
.が人物たちに求められたことであ
イ
内容を知るすべを読者はもっていない。少なくとも、そのよう
「修養に依つて」賢王になった先王は、ハムレツトとクロー
な意味で、登場人物たちは、読者より情報の優位にあるのだ。
ヂヤスには 「厳 格」 な存在であ って 、「平和」で「希望に満ち
いうもう一つの死因が装置として小説に採用されることによっ
ないか。( 頁)ハムレツト
/先王がおいでなされた頃の
平 和 は 、 い ま 考へ る と 、 ま るで 嘘の や う な 気さ へ 致 しま
語は終るという (ような)閉じ方である。∧確定∨されたのは、
せう。( 頁)王妃
/先王は、その後の修養に依つて、あ
のやうに立派な賢王になられました。( ~ 頁)王妃 (/ク
変化した「関係性」と
はもちろんである。そうだとすると、先王はいかに証言されて
7
て∧確定∨された事実となる証拠は、どこにも発見できず、物
196
す。 あ ん なに、 お城 の中 も、ま たデ ンマ ー クの 国 も、希
193
望 に 満 ちて 一 日 一 日を送 り 迎 へ して ゐ たや うな 時代 は 、
197
264
201
陥る。ホレーシヨーは、環境の変化に関係なく、変らぬ彼なり
トの子を妊娠することで、深刻なアイデンティティーの危機に
政権交 替に直面し ているのだ )のであ る。オフヰリ ヤは、ハムレツ
見逃すわけにはいかない)∧危機∨によって造成されたことも注目
技」 が 、 あ る 程 度 ( ノ ー ウ エ ー の 侵 略 準 備 ― そ れ も 「 噂 」 であ る こと を
ィテ ィーは通用しない関係性と なってしまうのだ。また、「演
る国家の上位で君 臨す る支配階級 (王室と政治権力)に、国家の
すべきである。ここで、一つの図式が成立する。すなわち、あ
存立にかかわる危機状況が前提されることによって、王・王妃
について、もっとも明確なアイデンティティーをもっているの
は、王妃である。過去のアイデンティティーと、現在のアイデ
に再編成されることである。そこで、もっともその再編に積極
・王子・政治家の役割が必然的に、危機状況に対処できるよう
のアイデンティティーを見せている。その中で特に、自分自身
ンティティーを変らず固持している唯一(ホレーシヨーは別として)
的なのが、王妃だったのである。しかし、そのような構図に従
の人物なのである。変化することのないアイデンティティーを
維持している王妃の眼に写った人々の姿及びその変化様相に対
ジーがあるのだ。遠回りせずにいうと、葛藤と陰謀が、王妃の
問題というふうに二元的に考えることができよう。共同体の最
「国家 」(大義名分 )から離 脱す る人 々、そ れは国家と個人の
図式と相反することにテクストの戦略があったのである。
って、人物たちが「演技」をしていないことに物語のストラテ
する態度を調べてみよう。
.ン
.マ
.ー
.ク
.の
.国
.を思はなければいけません。
私たちは、デ
.......
デ
ン
マ
ー
ク
の
民
を
思
は
な
け
れ
ば
い
け
ま
せ
ん
。
私
た
ち
に
は
、
.し
.分
.む
.事
.さ
.へ
.自
.由
.で
.は
.な
.い
.の で す。 自
.の
.身
.で
.あ
.つ
.て
.、
悲
.分
.の
.も
.の
.で
.は
.な
.い
.のです。(
自
頁)
「 演 技」 を す る (後 で述べ る が、 ハ ー バ ー マ ス の論 が こ れに該 当す る)
上位に君 臨す る集 団が 、「国家」や「王権」を維持するための
ゆくのは、それなりの整合性をもっているといえる。しかし、
『新ハムレツト』は、そのような「演技」さえもことごとく否
ことによ って 、 自らの アイ デ ン テ ィテ ィ ーを 発 見 (強化)して
ハムレツト』の朗読劇は王妃の再婚に対する断罪の意味を内包しており、王
定している。人物たちは、私的な問題に没頭することや、利益
められたすえ―この事実を克明にしているのは、朗読劇においてである。
『ハ
にも向 けられた ものの、王 はそれをうまく乗り越 えれるのである―)自殺
善 悪 の 判 断 は と もか く )理 想 の た め に 結 集 す る の で は な く 、 個 々
の追求に勤しんで いる。「関係性」の 統合を通した (ここでも、
る。それだから、∧理想∨を追求し、おのれを犠牲にした王妃
人の利益のなかで∧関係性∨を利用しようとする世界なのであ
してしまうのである。逆説として、王妃のアイデンティティー
たちの「ポーズ」によって、侮蔑された時、王妃のアイデンテ
提示する役割を担っているのである。自身の「演技」が、他者
は、人物たちのアイデンティティーに、一種のスタンダードを
ムレット』での芝居が王の非行を暴露する装置であったのとは異なって、
『新
だ か ら 、 王妃は 、 好 き で も ない ( 嫌 悪 さえ し て い る)現 王 と の
92
結 婚 も 断 行 で き た の で あ り 、 そ れが 原 因 と な っ て ( 非 道 徳 に 苦 し
1/1
。 もし 、読 者の 方か ら ハム レツ トのそのよ うな表象を剥
のだ )
して対応しているのではない。同時に、どの場所いつの時間へも編入できる
奪す ることがあ るとすれば、 王妃の 科白にもあるように 、「ど
が「十字架」を手にして「庭園の小川」に「飛び込」むのは、
々と王妃の「飛び込み」自殺を準備していて、作者は最初から、王妃を殺す
彼女にとっては、避けられない帰結だったのである (物語は、着
う。制度と脱制度の狭間で危なげな綱渡りをしているのである。
こかよその、ハムレツトといふ名前の」ハムレツトとなるだろ
これこそ制度抜きで読むことと、制度下で読むことの分岐点な
そのような人々にとっても、一つの共通事項があり、そこか
。
つもりでいたのである)
ら各 自の ( あ る 目 的 を 内 包 し た )
「 ポ ー ズ 」 が 始 ま る 。 笑 い 話の よ
のであろう。制度に亀裂が走ったこと、それこそ『新ハムレツ
ト』のナラティヴ過程における核心である。
うに選定された∧オフヰリヤの妊娠∨である 。
『ハムレット』
足場を 設けて いるのであ る。この時点で 、「国家」は事実上、
いて、王国に相応しい「人間」(私)の次元において人物たちの
階を もって一つのテクストを構成していることである。『新ハ
ると 述べた。 つま り、『 新ハムレツト』が二つのナラティヴ段
しておらず、登場人物たちが個別的なナラティヴを構成してい
.り
.な
.手
.」的
.る
.も
.の
.を想定しながらも、それが全景化
私は 「 語
―『新ハムレツト』を読む六つの方法
焦点話者の不在と「ポーズ」
張 し た か らと い っ て 個人 の 存 在 を 規 定す る 共 同 体 ( 国 家 、 地 域 、
ろん、私たちの存在が単独にはナラティヴとならないのと同じく、それらが
ム レ ツ ト 』 を 七 人 の キ ャ ラ ク タ ー の そ れ ぞ れ の 物 語 と し て (む
独 立的だと 言い切るつもりはまった くない)構成してみ るのが さし当
家族など)から自由ではいられないのも分かっているのである。
対化しなければならないのだ。いくらハムレツトが自意識過剰
る案内・統制・抑制・開放・収斂の役割を「語り手」(的なるも
『新ハムレツト』
の)が担っていると考える場合、とりあえず、
.り
.な
.手
.」的
.
たりの課題である。ナラティヴ全体を統制する「語
.も
.の
.は、ここでは問題としない。しかし、ナラティヴにおけ
る
はそれぞれの一人称語り手によって語られているとしか言いよ
で大袈裟な言動ばかりを繰り返し、王子らしからぬ面貌を呈し
(もちろん、フィクションであることを忘れてはいけない。現実と一対一と
ものであり、ハムレツトをアイデンティファイするものである
ているとはいえ、彼のもつ肩書きはコンテクストとして不動の
って 、 個 人が 個 人 で あ るた めには集 団 (あ るい は別 の個人 )を 相
二元的な概念として、集団のない個人など有り得ないものであ
名目となると考えていい。だが、読者は、個人がいくら個を主
があるのに対し 、『新ハムレツト』は「王国 」(公)の位相にお
の頂点にキリスト教の (カトリックという方がもっと正しいが)
「神 」
拠となっていることを見逃すわけにはいかない。
『ハムレット』
レツト』においては、すべての人物たちがとる「ポーズ」の根
の影 響下では、荒唐無稽な装置であ るに違いないが 、『新ハム
8
女は飛び 込み 自殺を 遂げてしまうのだか ら)やや形にとらわ れた結 論
裂 か ら生 ず る 結 末 に よ る 「 悲 劇 」 や 「 破 綻 」 だ と い うの は (彼
である。そのような二元的な要素と、その軋轢と爆発乃至解消
うがないし、それは焦点話者の不在として読者に与えられたも
ィヴ環境の中で行為するしかないとも言えよう。以下、人物た
のだったと一次的に判別できるのである。読者は不利なナラテ
あるいは空中分解は多くの物語において基本的なナラティヴ・
フレームとして簡単に発見できるのである。もちろん、その効
ちのナラティヴについて述べてみよう。
れたり、成就されなかったりするのは、ナラティヴとしてはス
王妃の理想や義務が他者によってさんざんな目に遭い、裏切ら
。つまり、
め死を選ぶキャラクターはあまりにも古典的な手法ではあるが)
果 が 抜 群 で あ る こ と も よ く 知 ら れ た こ と で あ る (芸 術 の昇 華 のた
王妃の「演技」が自然的なものではなく、ある規律や制度の
テレオ・タイプであるのだ。王妃の自殺は、プロットとしても
その一、
「演技」の臨界―王妃の「理想」
上で行われていることを明確に示してくれるのは、
「先王の死」
らないのは、フレーム構造を確認することだけではなく、彼女
すでに新鮮なものではない。さて、私たちが遂行しなくてはな
そのために先王の死は克服されるべきものだと説得する。私た
かに 衝 突 し 、 分裂 し 、 あ る いは 合 致・ 融 和 し て い くの か ( 同じ
のナラティヴが 彼女以外の人物たち (読者をも含む)のそれとい
説においてである。デンマークのため、その民のため、まさに
ちは、ここで『ハムレット』にもまったく同じ物語内容がある
あるいは「生命の消滅」についてハムレツトに言い聞かせる言
のをすぐ思い浮かべるだろ う。『ハムレット』の 王妃は大雑把
.家
.族
.表
.象
.としての王妃、ハムレツトの母という家
.表
.象
.、
に、国
のだ )を構 築し て い くこと にほ かなら ない。 彼女 には 自 分の中
法則に従うしかないのであって、
「自然の規則」「運命」には逆
それら二つが内在的に存在する。それだけではなく、男性に対
.別
.象
.(ジェンダーだといっても良さそうだが)表
.
峙し た 女 性 と い う性
フレームをもってもまったく別のものができることを私たちは分かっている
らえない存在としての「生命体」だという否定できない真理が
れることができず、生まれる者は必ず死んでゆくという自然の
ある、と。だから、悲しむな、と。ところが、読者は『新ハム
ももっているのである。それらを国家・家族・性別の内容を持
にいって次のように語る。人間は、生死という運命の輪から逃
レツト』で一人空回りする王妃の説得を看取できるのだ。ハム
「ハムレツトの今の難儀に、母も一緒に飛び込んで、誰にも知
であるが、その内部に、
「母」という物語が併存しているのも、
表面的にはすでに述べた通り「大義」への志向性が目立つの
つナラティヴだと表現してもいい。
うとして 、「すねて 」いるからである。両者が異なるのは物語
レツトは先王の死についてよりも、自らの問題を解決せしめよ
王妃のナラティヴを、理想や名分対現実・内実との葛藤や亀
言説においてである。
ら れ ず 解 決 し た い と 念 じ て ゐ る の で す 」(
4/1
頁 )と ホ レ ー シ
編入させようとするのではなく、むしろ利用しようとするので
とっての細部であるハムレツトを含む人物たちは概念に個人を
。 とこ ろが 、 ガー ツ ル ー ドに
は帰納 では なく「演 繹 」だ と い えよ う )
細部を吸収できる概念なのである (別の言い方をすれば、「大義」と
が「誰にも知られず」と語る瞬間、彼女の「大義」がハムレツ
ある。両者の合致に欠陥が見られるのだ。いくら期待と結果の
念 だ と い っ て も よい )が あ り 、 そ れ が 彼 女 に し て 対 他 関 係 に お い
一致が得られないとしても、彼女には制度としての「模範」(信
題」が「大義」に影響しないように)処理したいという境界設定意志
をもって いるの も発見でき るのである。「大義」によって彼女
私は、そんな言ひかたは、きらひです」(
.つ
.き
.り
.おつしやつて下さい。
さい。不満があるなら男らしく、は
摘を読むのである。「そん な厭味な、気障な態度は、およしな
で、読者は王妃 (だけではないが)の (語りにおける)直接性への指
の言動が極めて直線的であることとも繋がるのである。二カ所
える。それらが彼女の内部で衝突しているのだ。それは、彼女
内面的には「母親」としてのことこそ第一義なのであったとい
つまり、彼女は表面的に「国家」の面目を第一義としているが、
個人的には悩みの種として抱えていることを物語るのである。
していることは、彼女がその儀式を「大義」のためだとはいえ、
ムレツトの異様な言動を引き起こした原因を自分の結婚から探
.負
.従
.が
.あ
.つ
.た
.か ら こそ 忍
.の
.生
.活
.を 黙 つて 続 けて 来 た
ふ自
.慢
.が
.が
.出
.来
.た
.ので す 。 私
.神
.さ
.ま
.か
.ら
.
ぶん 淋しい時で も我
.に
.選
.ば
.れ
.て
.重 い 役 目を言 ひ つ け ら れて ゐ る 人 間 だ とい
特
.り
.が
.あ
.つ
.た
.もの で す か ら 、 ずゐ
をし て ゐ るのだといふ誇
.へ
.て
.来
.ま
.し
.た
.。 神 さま から い た だ いた 尊 い 仕事
事でも怺
ンマ ー クのため とば かり 思 つて 、く るし い事で も悲 し い
き い崇 高 な 意味を 持 つて ゐるや うで 、私 はい つで も、デ
の で す。 デ ンマ ー クのため 、 と いふ言 葉は 、なん だ か 大
.ま
.さ
.れ
.て
.ゐ
.た
.
に も 、 ま た ハム レ ツ トに も 、 み ん な に 、 だ
. .. .た
.の で
め 、 と い ふ 事を 忘 れ ず、 けふま で生 き て 努
め
て
来
.ま
.王
.さ
.れ
.ま
.し
.た
.。 先
.に
.も
.、 現 王
すが、私は馬鹿です。だ
どん な悲しい 、つ らい事が あ つて も 、デ ン マー クのた
て、ある「合致」を求めさせる要因となっているのである。
.直
.に
.おつしやるので、私
さつきから何でも思つたとほりに、正
弱い 腕で 、 どん な 仕 事が 出 来 る もので す か 。 人 は 、私 の
.か
.ら
.し
.い
.。私 の や うな
の で す が 、 いま 考へ て み る と 、ば
「 あ なた は 、
頁)
「 大義 」 などは 、その 内 実が いかなる
頁 )と 指 摘 す る 。
け た の と 情 ない 、 き よ ろき よ ろ 細 か い 気遣 ひ だ けで 日を
1/1
.命
.の
.覚
.悟
.な ぞ に は お 構ひ 無 し に 、 勝 つ た の 負
ひそかな懸
(
は可愛くなりました。悪びれず、大胆に言ふ人を私は好きです」
なのであ る (「大義」はあっけなく裏切 られるはめになる )
。 様 々 なハ
が断行したもっとも個人的なことは、新王 (義理の弟)との結婚
トの問題と絡んでくるのを意識しており、両者を分離して (「問
ヨーに語り聞かせる時点などで、明らかである。読者は、王妃
238
191
存在する。それは細々としたものの総和ではなく、総和として
6/1
ものであれ (あるいは矛盾があるにせよ)極めて明確かつ抽象的に
263
ので す。そ れから後が、ま た、 お互ひ責 任のなすり 合ひ
な どを 起して、 周 囲の 人の 運命を 、 どしどし 変 へ て 行く
送 つて 、 さうして 時々、 なんの 目的も無しに卑 劣な事 件
「女性」という「制度」になると、概念としての「男らしさ」
物を相対化するのに極めて大切な役割を果している。
ところが、
彼女の土台は崩れ始めるのである。確かに、彼女はあらゆる人
を求めることになるのも事実である。王妃はハムレツト (息子)
定あるいは反論されているのとは違って、王妃のこの「論評」
全体における人物たちの数々の論評が相手によって徹底的に否
陳 腐 だ が )も レ ト リ ッ ク と し て 生 か さ れ て い る 。 そ れ に 、 物 語
とが分かる。「濁流に浮んでゐる藁のやう」だという比喩 (やや
かしい・・・」(
わ づ かな 手伝 ひを し たい と 念 じてゐ たの で すが 、ば かば
その背後で、せめて身のまはりのお世話でもしてあげて、
.た
.ち
.は 、
の とば かり思 つてゐま し た。 及ばず なが ら、私
と て もわ か らぬ 高 い 、く る し い理 想 の 中 に 住ん でゐ る も
.の
.世
.界
.を尊敬してまゐりました。私たちには、
私は、男
頁)
「再婚」などとあれこれ代入することもできよう。デンマーク
は壊れずに残る。
「悲しい」
「つらい事」をそれぞれ「先王の死」
も「制度」に合致する「男」を発見できないのである。
っているのだ。それだけではない。彼女は他の「男たち」から
に性役割に似合う男として振る舞うことを希求している。だが、
....
でたいへんです。私
ひ
と
り
が
、
デ
ン
マー クの 為 だの ハム
.張
.し
.て
.み
.た
.と こ ろ で 、 濁流 に 浮
レツ ト王家の為だの と緊
読者たちは彼女の願望が叶えられることなく終わったことを知
頁)
ん で ゐ る 藁 の や うで す 。 押 し 流 されて し ま ひま す 。 本当
.か
.ら
.し
.い
.。(
に、 ば
6/1
一読 ( 一 聴)した だ けで 、物 語 世 界へ の 酷評 ・ 批判であ るこ
262
役目を言ひつけられてゐる人間だといふ自負があつた」という
のためという「大義」もある。「神さまから特に選ばれて重い
アイデンティテ ィーを「演技」化していたことが分かる。「大
ることの真実はともかく、彼女が「男の世界」と「私たち」女
その後「男のひとたちの生きる唯一の目当」が「女」だと語
義」の ためではなく 、「男の 世界」という一種の「憧憬」も彼
の世界を二元的に設定し、
その位相を差別化することによって、
の行 為や 処世が 自 分のそ れと 異なって いることも凝視して い
女を「演技」させてきたと言えるのだ。制度としての基盤を失
くだりからは、彼女の選民意識も窺える。それだから「忍従の
る。それに彼女の孤立状態も推察できるのだ。引用文は、物語
もう一つ、王妃がほぼ存在論的な懐疑にとらわれていること
らも離脱することになるのである。
は)王妃は、もはや 「演技」に疲れ、その 内実に 呆れ、そこか
った―同時に、制度の実態を見抜いた― (少なくとも彼女にとって
まり、王妃の表象から「女性」の表象へと転換されるや否や、
は、皮肉にも彼らによって自殺へと追い込まれるのである。つ
ハムレツトの母、現王の后、ポローニヤスの主君である王妃
世界の現況を的確に披瀝した「論評」だとみていい。
生活」を「怺へ」
「我慢」することが出来たのである。また、
「人」
6/1
265
と、それが「大義」と二律背反的に衝突することによって、王
それ か ら、
「大義」
「理想」などのいわゆる「準拠」は、人を「演
て淫蕩を表象するガーツルードは、太宰治の『新ハムレツト』
技」させる (または、「演技する」)ためには恰好の羅針盤となる。
で理想に生き、敗北するヒロインとして物語られるのである。
「デンマーク」のため、
「ハムレツト王家」のためというのは、
妃の死を招いた面もある。王妃は 、「人間といふものは、みじ
から晩まで汗水流して走り廻つて、さうしてだんだんとしをと
の、馬鹿だの、勝つたの負けたのと眼の色を変へて力んで、朝
私たちが小説 (ひいてはナラティヴ全体)を読む行為をするのが∧
めな、可哀さうなものですね。成功したの失敗したの、利口だ
る、それだけの事をする為に私たちは此の世の中に生れて来た
より良い生を送るため∨だと一種の「準拠」を設けるのと同じ
浮かべ、納得するのである。フィナーレにおいて、ホレーシヨ
て蹂躙されるのである。彼女の「演技」が客体たちのものと離
るわけだ。
『新ハムレツト』の王妃にあったそのような「演技」
発見できなかったといえよう。国家ナラティヴ、家族ナラティ
として生き残れるのである。つまり、読者と。
合うことはできよう。物語世界とは別の次元で王妃は「演技」
とはならないのであって、それらのナラティヴによってしか存在できない者
が、ナラティヴの外部に立ったとき、ナラティヴ以外の何者かになるのであ
十字架」としてある「超越的な何か」であったのである。王妃
る場 合である。彼は次のように (私たち読者に)語ってみせるの
る。二番目の独白シーンにおいて、ハムレツトが読者に告白す
日陰者としてのハムレツトを、読者に伝えるのは彼自身であ
、いや、ナラティヴを自分の中から追い出す方法は、「銀の
る)
こそ権力の「演技」に相応しい人であったにもかかわらず、彼
あ れこれと 刺戟を 求めて 歩いて、 結局 は、 オフ ヰリ ヤ
だ。
な どに ひ つ かかり 、 さ うして 、 そ れ つきり だ。 ど うや ら
とはなれず破綻するのである。読者には「演技」として映るも
しない「演技」として残り続 けるの だ。『ハムレット』におい
のだが 、『新ハムレツト』というナラティヴにおいては、成立
女の「演技」は人物たちの「ポーズ」によって、所詮「演技」
.子
.
その二、
「ポーズ」の敗北―デンマークの王
ヴ 、 性 別 ナラ テ ィ ヴ の す べて か ら解 放 さ れ る ( で も、 こ れは 解放
技」ではなくなるのだ。ただし、読者は彼女の「演技」と付き
(「読書」だと「より良い生を生きる」ためというもの)は、客体によっ
.
ーの 証言はこ うである。「覚悟の御最後と見受けられます。喪
.を召され、小さい銀
.の
.十
.字
.架
.を右の手のひらの中に、固く握
服
反するものであることが露呈 された 時、「演技」は孤立し「演
である。すなわち、読書する者のアイデンティティーを規定す
頁)とい
6/1
う認識を示している。そこから、読者は王妃の自殺状況を思い
のかしら。虫と同じ事ですね。ばかばかしい。」(
262
頁)と。 彼女の 求め続けた「デンマ
つて居られました。」(
9/3
ー ク」という「大義」(行動 原則)から逃 れる方法を彼女は結局
321
もつと話合つてみたいし、それから、もう一つ僕には苦しい秘
だけど、も少し、つき合つてくれないか?
今の噂に就いても、
僕 は オ フ ヰ リ ヤに 、ま ゐ つて しま つて ゐ る らし い。 だ ら
密 が あ るん だ よ 。」(
頁 )と 語 る ほ どで あ る。 私 た ち に
し の 無 い 話 だ。 ド ン フ アンを 気 取 つて 修行 の 旅 に 出 かけ
まるでファッションのようによく知られている『ハムレット』
~
て 、 ま ず手は じめに と、ひとりの小娘を 、やつとの 事で
頁)
口説き落したが、その娘さんと別れるのが、くるしくて一
先王への 依存は多大なものがあり、 王妃の証言によると、「あ
ハムレツトなのである。
.子
.と
.し
.て
.の
.ハムレツト」というコンテクストを自
読 者は 「 王
さ、滑稽、あるいは悲しさ等だけしか読者が読み取れないとし
明なものとして持っている。ハムレツトの言行から矛盾や稚拙
くとも三つの相互作用をもたらすだろう。第一、観念としての
る形でハムレツトは主体として存在するのであり、それは少な
ても「王子」としての背景的なアイデンティティー―典型―は、
蔑を買っているのも注目すべきである。父の死は大きく作用し
しての身分 (位相)に対する自覚がないのである (彼はいかに王子
てもおらず、彼にとっての危機状況はむしろ自らの行動が引き
身分と 品 位を備 えた 「王子 」(立派 な 存在 )に比 例す る レ ベルで
となく作用す るは ずであ る。「王子」という期待の地平に反す
起こした「オフヰリヤの妊娠」に関わることであった。ハムレ
念上の「王子」と反対する上品さと節度の欠如した「王子」(反
の 「王子」(立派 なものに比較し て浅はか な存在 )として、 第二、観
「王子」という観念とは切り離された「ハ
王子)として、第三、
フヰリヤから逃げる (責任回避)ためなのである (ホレーシヨーに
。ホ
会うのが嬉しいのは、自分の告白対象を見つけたからにほかならない)
トのアイデンティティーは、観念を充分に実践する「王子」で
ムレツト」という「ひと」としてである。そのようにハムレツ
こともできない曖昧なところに位置しているのである。読者も
もなく、そうかと言って「王子」の観念を切り捨てて存在する
「噂」、つまり先王の亡霊がハムレツトに、自分を殺した現
て)
王に 復讐せよ、ということに反応し、「ホレーシヨー、僕は今
.つ
.と
.大
.事
.の
.秘
.密
.も君に聞いてもらひたいと思つてゐたん
夜、も
レー シヨーによって伝えられる (『ハムレット』からの変形移植とし
ツトが、ウイツタンバーグ大学へ行こうとするのも、所詮はオ
その形式・内容はどうであれ、読者の読書前提として絶えるこ
り び た り 」(
頁 )だ っ た と い う 。 そ れ ほ ど い わ ゆ る 王 子 と
生そこに住み込んで、身を固めたといふ笑ひ話。(
どへ の 関 心は ほ と ん ど 持 ち 合 わ せ て い な いの が 私 た ちの ( 新)
第三幕第一章の科白「 to be, or not to ・
be・・」を口にするの
は、まさにオフヰリヤ問題と連動するのである。王権や支配な
229
彼の前歴はすでに触れたように一国の王子らしからぬもので
3/1
あった。両親には甘え、叔父とともに放蕩も経験済みである。
228
.学
.へ
.は
.ひ
.る
.や
.う
.に
.な
.つ
.
の子は、なくなつた父を好きでして、大
.も
.、休暇でお城へ帰ると、もう朝から晩まで父のお居間にい
て
7/1
276
子)に期待されるものを彼はもっておらず、人々から一種の軽
4/1
。 二 十 三 歳 に も な る 青 年 (王
を 「 演 技 」 す る のか に つ い て 無 知 で あ る )
230
らず、王子としてし か存在できない「ひと」、彼こそハムレツ
と い う 意 味 で は な い が )王 子 と し て は 含 量 未 達 で あ る に も か か わ
これについては気づいているに違いないのだ。(自明なものがある
シノアへ来たんだ。」
他人 に なつて しま つたね。君 は 、い つた い、何しにエ ル
お い 、以 前のや うに ハムレツ トと 呼ん で く れ。 す つ かり
ハム。「王子さま、か。そんな筈ぢや無かつたがねえ。
す ね 。 す ぐ 怒 る 。 案 外 に 、 お 元 気だ 。 大 丈 夫の や う で す
ホレ。「ごめん、ごめん。相変らずのハムレツトさまで
トだったのであ る。「王子」であって「人」ではいられない存
ね。」(
在なのだ。その二つの間で揺れ動いていることこそ彼のナラテ
ィヴなのである。ハムレツトとホレーシヨーの対話の一部は次
頁)
のようである。
い 、 ウ イ ツ タ ンバ ー グ は 。 どん な 具 合 だ い。 み な 相変 ら
ハム。「しばらくだつたな。よく来てくれたね。どうだ
ないことは確かであるが、もっと大切なのは二人の階級的な序
コミュニケーションの規則において、二人の会話が噛み合わ
トの身分や上下関係に無頓着なのであり、ハムレツトも主君と
列に特徴があることであって、ホレーシヨーの場合、ハムレツ
いいのである。しかし、両義性を持たせた表現を使用している
.子
.。そんな筈ぢや無かつたが
.さ
.ま
.、か
のも分明であ って 、「王
してのアイデンティティーをほとんどもっていないと判断して
ハム。
「いや、今夜はこれでも暖いはうだよ。一時は、寒か
だ が ― があ る のを指 摘できよ う。つまり 、彼は自 省し てい るの である)と
ねえ 」(「王子さま」と「か」の間に一時的な休止―これもポーズと言うの
海 か ら、ま つすぐ に 風が 吹き つ けて 来るの だ か ら、 かな
も、やがて春さ。ところで、どうだね、みな元気かね。
」
いうのは、∧俺は、王になるべきだったのだ∨とも解釈できる
と 呼ん で く れ」 と 語 る こ と に よ って ∧ 俺は 王で あ るは ず だ っ
のである。だが、それに続く「おい、以前のやうにハムレツト
アイデンティティーは不安定で、
落ち着くことを知らないのだ。
た∨という行間の意味は稀薄になるしかない。ともかく、彼の
ポロ ー ニ ヤ ス の 発 案 に よ り 、 王妃 の 弱 点 を つ く (王 妃 の 再 婚 を 攻
るが、主体の主観と認識範囲を超えることはない。実際には、
それに彼の判断力は、思わせぶりをもって正当化を図ってはい
悪 い 噂 で も立 つ て ゐ るの か ね 。 ウイ ツ タ ン バー グ は 、 口
王子さま、あなたは大丈夫なんですか?ああ、寒い。
」
ホレ。
「いいえ、決してへんなことはありません。本当に、
何だか、よそよそしいね。
」
が う る さい からなあ。 ホ レ ー シヨー。君 は 、へ ん だよ。
ハム。「へんな言ひかたをするね。何か、僕に就いて、
す。」
ホレ。「王子さま。僕たちの事より、御自身はいかがで
つたがねえ。これからは暖くなる一方だ。もう、デンマーク
はない。こちらは、毎晩こんなに寒いのですか?」
ホレ。「寒いですねえ、こちらは。磯の香がしますね。
ずかね。
」
3/1
216
「短刀を引き抜き、振りかざすと見るより早く、自分自身の左
私 た ち は ハム レ ツ ト が 最 後 の 最 後 で ( 王 の言 葉 で 判明 す る よ う に)
の頬を切り裂いた」ことの意味が分かるのである。つまり、彼
め る 意 図 を も っ た )戦 略 ( オ フ ヰ リ ヤ を ハ ム レ ツ ト と 結 婚 さ せ る )で あ
読劇は、あれは、もともと叔父さんとポローニヤスと、ひそか
子」ではなく「ひと」として、それも事の成り行きを正確に判
は出来事の進行について認識することができず、最後まで「王
った「朗読劇」の後、ハムレツトはオフヰリヤに「ゆうべの朗
頁 )と
ゐ た ら 、 こ の 眼 を く り 抜 い て 差 し 上 げ て もよ い 」(
に、しめし合せてはじめた事だ。それは、たしかだ。間違つて
る。ま た、テ クス トを 締め くくるハムレツトの科白が 、「信じ
断できないままアイデンティティーの破綻を来してしまうので
られない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける」となるの
語る。読者はハムレツトの判断を眺望できる位置にいて、彼の
とを知っているのだ(人物より優越な読者などと言いたいところである。
は、まさしく「王子」の「演技」とはかけ離れた「ひと」の「ポ
れるのであり、その表現が自害なのであったと考えるべきであ
。 ハム レツ トと オフ ヰ リ
そ れか らそ こに読 者は明 確に 浮 上す るのだ )
ある。だから、自らを「裏切者」だと規定し、自責の念に駆ら
ヤのシーンにおいて、その前の王とポローニヤスのシチュエー
ーズ」の領域で彷徨ったあげくの結果なのである。
その三、
「演技」と「ポーズ」の錯綜と断罪―ポローニヤス
ただし、ハムレツトも作品の末尾のあたりで、ようやく自己
もっとも大切な意味を発生せしめることだろう。権力の頂点に
はない。ポローニヤスの政治的な立場は王との関係において、
なる政治的な関係を築くかについて、短時間に決定されること
クローヂヤスを擁立し、新王として迎えた臣下として、いか
の問題にだけ執着しすぎていたことに気が付く。それも、王の
だ。一つは、傀儡としての王権を認めたうえで実質的な権力主
るというのは、下部権力たちにとって三つの意味合いをもつの
たちはクローヂヤスを「豚のおばけだといつてゐた」ほどの人物)を据え
「王
してのポローニヤス)は、消滅してしまった後である。彼は、
体になることであり、もう一つは、傀儡として全面に出した王
新 王 ( そ れ も 、 ハ ム レ ツ ト の 証 言 に よ る と 「 お城 の 外 の女 」 ー 下 層 階級 ー
子」という「おおやけ」でありながら、それに求められる「演
といい、先王の死因についての曖昧な王の発言のなかで、何か
技」などできず、敗北してしまうのである。このようにして、
に 漠 然 と 気 づ くの だが 、 もは や 事 実を 確 認で き る 方法 ( 証人 と
言葉に触発されてである。ポローニヤスが「不忠の臣」である
は枚挙に暇がないほどである。
目な推量を繰り返す信頼できない人物となるしかない。その例
るのを問題として提起できるのである。彼は読者にとって出鱈
的を外し続ける推測や、彼の信頼性・性格に致命的な欠陥があ
シ ョ ン ( 二 人 の 極 端 的 な 対 立 )を 経 験 し た 読 者 は 、 ハ ム レ ツ トの
人 間 な ら )自 分 の 「 眼 を く り 抜 い て 」 く れ な く て は な ら な い こ
9/1
吐露した大袈裟な発言をやや嘲笑し、ハムレツトが (有言実行の
307
。 つま り 、あ ま り に も 親 し く な る こ と も 、ま っ
消し てはい るが )
へ の ス タ ン ス は 明 白 で あ る ( 後 で 、 ど う で も い い こ と ばか り だ と 打 ち
たく疎遠になることも避けるべきことであって、自分の境界内
権が事実上の権力を獲得し、下部権力を統制してしまうことで
する関係を築くことである。ポローニヤスとクローヂヤスの関
適当主義なのである。彼の人生観と同じように、ポローニヤス
まで他者が侵犯することは許さず、同時に隔離もしないという
ある。残るもう一つは、両者とも相互の領域を侵犯せずに共存
係はまさにそのような構造だったのである。ポローニヤスの適
るのである。地面に平伏し、不動に徹することこそ彼の基本的
の政治的な姿勢は新王との共存を目指していたのだと判断でき
当主義あるいは保身主義とも言うべき資質を読者が読み取れる
のは、フランスへ旅立とうとする息子に言い聞かせる「遊学の
しかし、その過程において、娘が一国の王子との間で妊娠し
なの資質だったのであり、生存戦略だったといえよう。
ムレット』でのポローニヤスの教訓に甚だ説得力のあることを
スは 、 自 分の 意 志如 何に 関 係 な く、 王 に と っ て 競 争権 力 (ハ ム
てしまうという予期せぬ事件に遭遇することになるポローニヤ
もないが、その内容は全く別のものとなっている。私たちは『ハ
心得」である。『 ハムレット』のパロディであるのはいうまで
知っている。『ハムレット』の ポローニヤスも奸悪な人物であ
レツトは次期の王候補である)と成りうる可能態として台頭 せざ る
るのは間違いないが、彼の言説には読者を引き込むものがある
のだ。言葉に慎重であること、友情のあり方、人の話に耳を傾
を得なくなるのだ。その結果、粛清と繋がったのである。
此の 二 箇月 間 、 わ しは 王 さ ま に 、 つ けね ら は れて 居り
けること、倹約 すること、「なによりも大事なものは自分自身
ぐ ら れて ゐ た ので す 。 わ し は そ れを 知 つ て ゐ た の で 、 何
ま し た。 何か 失態は 無い もの かと鵜の 目、鷹の目で 、 さ
への誠実さ、これさえあれば、夜が昼につづくように必ず、だ
れ に 対 し て も 誠 実 に な れ る ば ず 」( 永川 玲二 他 訳 に よ る 。 頁 )だ
事も 、 王 さまの 御 意向に さ か らは ぬや う充 分に 気を つけ
と教訓を語るのであ る。『 新ハムレツト』のポローニヤスの物
語る息子への「遊学への心得」は、将来の立身出世のためにも
居 り ま し た 。 わ が 子 の レ ヤ チ ー ズ を 、 フ ラ ン ス へ 遊 学に
て 、 き の ふ 迄は 、 ど うや ら 大 過 なく 勤 め て 来た つ も り で
やつたのも、一つには、王さまの恐ろしい穿鑿の眼から、
成績は気にせずとも (カンニングをしてでも)落第だけはせぬ事、
を着て、 目立たぬ上 衣を 着る」こと、「宿のをばさんに手土産
とも 、 レ ヤチー ズが 若い 粗 暴の 振舞ひ か ら 何 か し くじ り
を 、しで かさぬ もので もない。 レヤチー ズに多少の 落 度
のが れさせてや る為で もありました。 わしに失態が無く
で もあ つたなら、待 つてゐたとば かりに王さまは 、わし
『ハムレット』の厳粛な雰囲気への揶揄でもあるがごとく軽薄
と感嘆するかもしれない)が、それはともかくポローニヤスの他者
であるとしかいいようがない (それについてある読者は∧なるほど∨
を忘れぬこと」
「あまり親しくしてもいけない」こと等である。
人間関 係を損じるから金 銭の 貸借は禁ずること、「いいシヤツ
127
の 一 家 を 罰 し て 葬 り去 るの は 、 火を 見 るよ り明 か な 事 ゆ
。
だ)
.」の
.根
.元
.が
.ポ
.ロ
.ー
.ニ
.ヤ
.ス
.で
.あ
.っ
.た
.ことが明らかになるの
ある (ここで、「噂
ま ず 、「朗読 劇」の究極的な物語内容は、 死んでしま った恋
ゑ、わしは万全を 期してレ ヤチーズをフランスへ逃がし
て や り 、や れ安 心 だと思 ふま も なく、 意 外、残 念 、 わ し
霊」となって現れた恋人に怯え、最後には連れていかれること
人との誓いを投げ捨て新しい「花婿」を迎えた「花嫁」が「亡
さ に 政 治 生 命 を 守 る と い う 過 程 に お い て は 「 演 技 」 と し て (オ
たい政治的な地位を守るためにとったポローニヤスの言行がま
確に把握しているのだ)語れるのである。王妃は朗読劇の途中に劇
面 白 か つ た 」 と ( こ れ ま た うわべ だ け の褒 め 言 葉 であり、 王 は事 態 を 正
ーヂヤスが痛手を 蒙らないのは当然であり、「いや、なかなか
王妃への非難となるのである。ということで、それによりクロ
元を突き止めるという「朗読劇」のうわべの口実とは裏腹に、
である。「花嫁」は「罪の女」となることによって、「噂」の根
をやらかしてゐるのを、きのふ知つて、足もとの土が、ざ
頁)
の一ばん信頼してゐたオフヰリヤが、とんでも無い間違ひ
あつと崩れて、もう駄目だと観念いたしました。(
フヰリヤの妊娠が表面化するまでは)作動していたのである。引用し
三者を二人の結婚へ同意させることがポローニヤスの課題だっ
という出来事を処理するためには、ハムレツト、王妃、新王の
は言うまでもなく彼の発案だったのである。
「オフヰリヤ妊娠」
.な
.た
.が
.
り な ら 、 も少 し気の き い た 事 で や つて 下 さ い。 あ
.は 卑 怯で す。 陋 劣で す 。 私 は 、 おさき に 失礼 し ま す。
た
て 、 見て 居られま せん。 どうせ 、いやが らせをな さる積
さい。 こ れは一体、誰の 猿知恵なんで す?ば かば かしく
「よして下 さい !ハムレ ツ ト、い い加 減に、およしな
たと言えるのだ。その当事者であるハムレツトは否応なく作戦
ここで孤立した存在としての王妃を発見できるのであるが、
の進行を遮断し、次のように憤激する立場に置かれるのである。
の同調者となる。残る二人にはそれぞれ別の戦略が駆使される
.」
のである。つまり、王妃には彼女自身の再婚を責め立てる「鞭
それは別の節で述べることにして、ポローニヤスの「鞭」が王
前段階としてポローニヤスは娘の妊娠を解決しようと東奔西走
をもって二人の結婚を許させる (ハムレツトがこれに同調しているの
一つと なるのを確 認して 置き たい 。「朗読劇」のもう一つの志
妃の実存的な懐疑を一層刺激させ、王妃の悲劇を招いた要因の
頁)
は確か である。それだか ら朗読劇に参加したのである)ストラテジーで
の犯人として外国にまで噂されているのであり、彼のもつ最大の悩みはそれ
の「あめ」は、一応の成功を収めている。ホレーシヨーは「な
向、すなわちポローニヤスのクローヂヤスに対する術策として
7/1
290
.め
.」をもって説得に臨むので
でしか ない のだ )の 解消という「あ
なんだか、吐きさうになりました」(
あり、 クローヂ ヤスには いわ ゆる「噂 」(クローヂヤスは先王殺害
することにこそ彼のナラティヴにおける魅力がある。
「朗読劇」
たくだりは物語における一つのサスペンスに該当するが、その
彼の語りのもつ信頼性にやや問題があるとはいっても、だい
8/1
302
にほどの事も、無かつたやうですねえ」といい、ハムレツトは
娘のためではなく、一家のためでもなく、デンマークのためだという名目を
し かい いよ うが ない 。が し かし そ れは ポロ ーニ ヤス の (自分 の
実際として、読者は、ポローニヤスの企みは成功していると
打 ち 立 て、 一家 の滅 亡 を 既 定 の事 実と し て持 ち出 す )「演 技」 に よ っ て
つたとて、それが何の鍵になるのだ」と「朗読劇」の表面上の
崩れさるのである。それだけではなく、クローヂヤスはポロー
「当り前さ。王妃は怒り、王は笑つた。それだけのことがわか
の言い分はこうである。
理由を 解決して しま うのだ 。「朗読 劇」に対するポローニヤス
王のためだと言い張っても、自分一家の運命を素直に没落とし
て受け入れようとも、すでに時遅しだったのである。政敵とし
ニヤスを「未練がましい」と断定する。ポローニヤスがいくら
どん な 御処刑 で も甘 んじ て お 受 け致 しま す。 クロ ー ヂ ヤ
てのポローニヤス追放は、王にとって動かしがたいこととなる
お怒 りは、あと廻 しにしていただきたく思 ひま す。も
ス さま 、 おそれ なが ら此 度の奇 怪の 噂は 、 意外 なほ ど広
くまでも噂で終わってい ることを何度も指摘してきた)恐喝・ 脅迫まで
の だ 。 と こ ろが 、 ポ ロ ー ニ ヤ スの 反 抗は 、 噂を も っ て ( 噂は あ
し、ポローニヤスの此度の手段が間違つて居りましたら、
火の 手は さ かん になり尋 常 一様の 手 段で は 、とて も防ぐ
ことから、王によって殺害されるのである。「演技」(滅私奉公)
スももっていないにもかかわらず、脅しの道具として持ち出す
く 諸 方 に 伝 へ ら れ 、 もみ 消 さ う と す れ ば す る ほ ど、 噂 の
.中
.の
.活
.を
.求
.め
.る
.手
.
事 の 出 来 ぬ と見て と りま し たの で 、 死
.、 す な わ ち 、 わ し が 頗 る 軽 率 に 騒 ぎ 出 し て 、 若 い 人 た
段
とによって破滅してしまったといえよう。また、ここで私たち
を装 いつ つも、 一方では 「ポ ー ズ 」( 一家 の存続 )を 併 用 す るこ
突き進んでしまうのであって、噂を証明する根拠をポローニヤ
ち に 興 覚 め させ 、 王 に 同 情の 集 る や う に 仕組 ん だ も ので
シ ヨー も、 いまで は 、 わ しが 正 義、正 義 と 連呼して 熱狂
.」を
.広
.め
.た
.犯
.人
.と
.し
.て
.ポ
.ロ
.ー
.ニ
.ヤ
.ス
.を指目できよう。ポ
は 「噂
ござ いま すが 、 果して、 も う ハ ムレ ツ ト さま も、 ホ レ ー
す る 有 様 に 閉口 し 、 王さま の 弁 護 を さ へ 言 ひ 出 し て ゐ る
を私は目撃しました∨と断言できずに死んで行くのであるが、
クローヂヤスを脅迫するため捏造された「噂」が彼自ら振り蒔
ローニヤスは∧クローヂヤスさま、あなたが先王を殺害するの
いたものであったためであるとみるべきである。読者は、ポロ
始末 で ござ いま す。 この 風 潮 が 、城 中 の 奥 から 起 つて 、
消 し と め て く れ るの も、 遠 い 将 来で は ご ざ いま す ま い 。
ー ニ ヤ ス が ( あ く ま で も 政 治 的 に )有 能 な∧ 政治 家 ∨ で あ る こ と
や が て 、 ざ わざ わ 四 方 に 流 れて い つ て 、 噂の 火 焔 を 全部
ちら で 、 もみ消 さ う とす る と か へ つて 広 が り 、 こ ちら か
す べ て が 、 うま く 行 つ た や う で す 。 噂 と い ふ もの は 、こ
~
頁)
198
を握っていようとする彼の企みは、娘の妊娠によって揺さぶら
を彼のコンテクストとして読み落としがちである。新王の弱み
8/1
ら 逆に 大 いに 扇 いでや ると興 覚 めして 自 然と消 えて しま
ふものでございます。(
197
れ、結局は政治的に埋葬されるのである。
私 た ち は 、 ポ ロ ー ニ ヤ ス が [ ] シ ー ン で オ フ ヰ リ ヤに 捨て
方法には二つがあると考えて良い。一つは、能力などは不問に
時、現王の退位以外にハムレツ トが王となる道はなく、「噂」
て くるのであ る。「クヰー ンの 冠」を獲得する状況を想定する
取りそ こねた 。」( 頁)という文 脈の ない言 葉の 意味も分かっ
台詞のように吐き出す「オフヰリヤ。お前は、クヰーンの冠を
っているのを発見する。換言すると、能力主義継承でもなく、
として、つまり「能力」「人徳」「指導力」などに欠格事項をも
なのか。読者は、クローヂヤスが後者でありながら、その内実
は後者に属する。それなら、クローヂヤスは前者なのか、後者
材とした)源 実朝 (次子ではあるが)は前者であり、彼の父源頼 朝
優 先 に よ る承 継 で あ る 。 日本 の 歴史 に お いて ( 太 宰治 も 小 説 の素
付す嫡 子承継 (世 襲)と しての 方式で あり、 もう 一つは 、 能力
る 手 段 を 得 よ う と し た )ポ ロ ー ニ ヤ ス の 計 画 が 娘 の 妊 娠 事 件 の 浮
を広めることによって王を退こうとする (少なくとも、王を牽制す
2/2
以上のような発言があり得たのである。ところが、ハムレツト
である。それだから、ポローニヤスはオフヰリヤに怒っており、
ーニヤスの計画が娘の行為によってトラブルを引き起こしたの
上によって危機に逢着したことが分かる。簡単にいって、ポロ
前で 最 初に行 う 長広 舌は 次のよ うなもの であ る 。(このくだり は
ざるをえない境遇に追い込んだのである。クローヂヤスが皆の
ヂヤスをして様々な∧関係性∨構築のための「ポーズ」をとら
嫡子承継でもない曖昧な構造に気付くであろう。それがクロー
たのである。
.王
.」
その四、
「ポーズ」の勝利―「デンマークの国
う な 者 が 位 を 継ぎ 、 ま た 此 の 度 は ガ ー ツ ル ー ド と 新 婚の
に 突 然、亡くなつて 、その 涙も乾かぬ うちに 、わ しの や
式を 行 ひ 、 わし と し て も 具 合の 悪 い事 で し た が 、 す べて
ろ い ろ 取 り きめ た 事 で す か ら 、 地 下 の 兄 、先 王 も 、 皆の
此 の デ ン マ ー クの 為で す 。 皆 と も充 分 に 相 談の 上 で 、 い
のの、
王という絶対的な権力者として存在しているのではない。
ム レ ツ ト は 若冠 ゆ ゑ 、 皆の す す め に 依 つて 、 わ し が 王位
は 、 一日も空 けて 置く事が 出来 なかつたのです。 王子ハ
エ ー と も 不 仲で あ り 、 い つ 戦 争 が 起る か も 知 れ ず 、 王 位
だ ら う と 思 ふ。 ま こ と に 此 の 頃の デ ン マ ー クは 、 ノ ー ウ
私 心 無き 憂国の 情にめんじて 、わしたちを許して くれる
不的確であることを証言によ って知っている。「王位」の継承
読者は、クローヂヤスの品性・品行が王となるにはあまりにも
クローヂヤスは、デンマークの王という地位を手に入れたも
「 皆 も 疲 れた ら う ね。 御苦 労で し た 。 先 王 が 、ま こと
『ハムレット』と重なる設定となっている)
[ ] シ ー ン な どで 二 人 の 間 が 君 臣 関 係 以 上 で あ っ た こ と を 明
ったのかという疑問を提起できる。それについて、テクストは
が王となるとする場合、オフヰリヤが王妃となれる可能性があ
215
白に示しており、ポローニヤスにとってそれは既定の情報だっ
2/1
い て彼 は勝 利を 収 め るの で あ る)を 考 え 合 わ せ る と 、新王の 政権確
ヂヤスの最後の「演技」(国家を前面に押し出すこと、このくだりにお
立過程が一つのストーリーとしてあるといえよう。そして、そ
にのぼつたのですが、わしとても先王ほどの手腕は無し、
れは「ポーズ」と「演技」を使い分ける彼のアビリティを明ら
徳望も無ければ、また、ごらんのとほり風采もあがらず、
血 を わ け た 実の 兄 弟 とも思 は れぬ く らゐ に不 敏の 弟 なの
かにしてくれるのである。
先述したように、王の資格としては落第であるクローヂヤス
侮り を 受 けずに すむ かどうか 頗る不安に 思 つて 居りま し
たとこ ろ、 かねて令 徳の 誉 高いガーツルードどのが、 一
ある。統治者としての王、主君としての王、義父としての王、
が、それらの困難を乗り越えるために持ち出すのが大義名分で
で す か ら、果して 此の 重責に堪へ 得 るか どうか、 外国の
に な り ま し た の で 、 もは や 王 城の 基 礎 も 確固 た り 、 デ ン
相互 関 係におい て劣勢に置か れていた のだ)を除去するために、クロ
夫 と し て の 王 、 と い う 立 場 に お いて 発 生 す る 問 題 (彼 は あ ら ゆ る
生 わ し の 傍に ゐ て 、 国の 為 、 わ し の 力に な つ て く れる 事
マ ー ク も 安泰 と 思 ひ ま す 。 皆 も 御苦 労で した 。 先 王が 亡
ーヂヤスの駆使する戦略は自己を隠蔽し、大義をもって合理化
くなられてから今日まで、もう二箇月にもなりますが、わ
しには何もかも夢のやうです。でも皆の聡明な助言に依つ
を計ることであった。それには「ノーウエーとも不仲であり、
.機
.が持ち込まれ、「すべ
いつ 戦 争 が 起る か」 し れな いと いう危
.ン
.マ
.ー
.ク
.の
.為
.」「国の為」、すなわち名分なり大義なり
て 此 のデ
て、どうやら大過なく、ここまでは、やつて来ました。い
~ 頁)
かにも未熟の者ですから、皆も、今日以後、変らず忠勤の
程を見せ、わしを安心させて下さい。
」(
といわんばかりの情報が読者に向けて与えられたクローヂヤス
が実際にもそうなのか、という事を検討し、そうではないとす
が前面に登場するのである。ここでは、まるで資質のない王だ
は確かである。クローヂ ヤスが王に なったのは 、「皆の聡明な
際「清廉 」「潔白 」「犠牲」「奉仕」ー倫理とし てのーだけではないのをよく
ればクローヂヤスには政治家 (私たちは政治家の資質というのが、実
知っている)としての戦略が存在することを認め、いかなる戦略
、「皆」という
っ た こ とで は な く ( も ちろ ん、 自然 な承継 で も なく )
ある集団の擁立があってからこそ可能だったのである。また「ガ
って、それを土台として、クローヂヤスは過去と現在の悪条件
契機となったのは、いうまでもなく「オフヰリヤの妊娠」であ
を克服するのである。とりわけ、クローヂヤスの裏面を詮索で
が遂行されたのかを「ポーズ」の側面から考えてみよう。その
らず、クローヂヤスは王になったのである。クローヂヤスの、
認めている。ハムレツトという王位継承者が存在するにも関わ
いわゆる弱みはそれらによるとみるべきである。それにクロー
ーツルードと新婚の 式を行ひ」「具合の悪い事」であったのも
助言」によったことである。つまり自分の意志によって勝ち取
先王の突然の死亡前後の事情はいかなるものであれ、最初の
190
公式舞台に立つクローヂヤスの地位が確固不動のものでないの
1/1
189
嘘
きる一つの手がかりを読み手に提供するのは、ポローニヤスの
たこと、王位継承者としてハムレツトがいたこと、王にはその
見をうけて王になったこと、権力を確立するため王妃と結婚し
だ。王さまの、おつしやる事は、みな嘘だ。ハムレツトさまと
三 つ が 完 全権 力 ( が目標だと す ると )の 妨 げに な るわ け だ。 権 力
科白においてである。ポローニヤスは王に向って「嘘だ!
も過言ではない。それだから、権力を誕生させたものは同時に
確立の過程こそ『新ハムレツト』における王の履歴だといって
よい政治家ではない?
デンマーク
も嘘、大嘘だ。お弱い?
オフヰリヤとの結婚を、ゆるす気でいらつしやつたなんて、嘘
もなるのだ。しかし、一時に排除することはできず順次にその
権力にとって脅威となるわけで、それは除去されるべき対象と
何もか
国よりも、一家の平和のはうを愛していらつしやる?
謀略は行われ、その途中の王は卑屈に映りかねないのである。
も嘘だ。王さまほどのお強い、卓抜の手腕をお持ちの政治家は、
欧州にも数が少うございます。ポローニヤスは、かねてより、
いば かり か、 子供扱いを して いることは、「ポローニヤス、少
ところが、クローヂヤスは、ハムレツトなどを警戒してもいな
しは恥づかしく思ひなさい。あんな、喙の青い、ハムレツトだ
ひそかに舌を巻いて居ります。王さま、おかしくなつてはいけ
他には誰 も居りません。・・・王さまは、此の二箇月間、ポロ
ません。此の部屋には、王さまと、ポローニヤスと二人きり、
頁、
のホレーシヨーだのと一緒になつて、歯の浮くやうな、きざな
文句を読みあげて、いつたい君は、どうしたのです。」(
ーニヤスの失脚の機会を、ひそかにねらつて居られた筈です。」
頁)という反抗とも 、お世辞とも、洞察とも受けとられ
というポローニヤスへの言葉からも推察できる。
ふりがなは省略)
(
を担保するものだったとすべきであろう。クローヂヤスにとっ
る発言をし、それがやがてエスカレートし王の手によって殺害
すなわちポローニヤスという権力が、クローヂヤスという上層
られたのは、必然のことだったのである。これは、別の言い方
て、権力確立前の態度や応対において戦略的な「ポーズ」がと
をすると、権力が支配のために政敵または被支配層といかに付
その発端となったのが 、「オフヰリ ヤの妊娠」であり、王はそ
のチャンスを見逃していない。ポローニヤスは新王を侮ってし
するためには卑屈でさえ甘受する権力主体の悲哀のようなもの
ムレツト』「あとがき」で主張しているように)でもある。権力を維持
良を装うのがもっとも効果的であるのを知っている。太宰治が戦後版『新ハ
き 合 う べ き か に 対 す る 省 察 ( 権 力 は パ ワ ー を 誇 示 す る ので は なく 、 善
れに 、彼には明 らかな弱点があ る。臣下 (ポロー ニヤスら)の 意
は、すでに確認した。時間的にも二ヵ月しか経っていない。そ
クロ ー ヂ ヤスの 王として の基 盤がま だ確立で きていな いの
まうミスを犯したのだとも言えよう。
権力の内実に肉薄した結果は、抹殺しかないのである。それに、
ハム レツ トが クロー ヂヤ スの競 争者と なる可能性が ないこと
8/1
は、
至るところで語られている。それこそハムレツトの∧生命∨
292
数少ないインフォメーションである。事実に接近して行くこと、
8/1
されるのである。このくだりがクローヂヤスの正体についての
301
も読者は読み取っておかしくないのだ。彼にとって、絶えず注
起して置きたい。そのお城は皆の空間ではなく、
「王」の「城」
.城
.」であることに注意を喚
ムレツト』の舞台が「エルシノア王
妊娠」事 件における最大の 受恵者であるのだ。最後に 、『新ハ
すなわち所有格となっているのだ。名目としてであれ、実質的
意を払わなくてはいけない政敵ポローニヤスに政治的な生命を
であれ、クローヂヤスが主語となるのは変わらない事実である。
絶 た れ る 危機 ( オ フヰ リ ヤの妊 娠と い う 出来事 )が 発生 し たのを 見
されるのだ。
その五 、「ポー ズ」と「演技」の境界―オフヰリヤの開き直り
逃すわけにはいかないのである。そのようにして、政敵は除去
クローヂヤスに残されたもう一つの敵は「王妃」である。彼
権力の主軸として彼女を意識したからにほかならない。「王妃
が王妃に対しては絶えず控えめな姿勢しかとれないのは、先行
[ ]の 冒頭 で読 者 は 相 当 な困 難に 直面 す る 。「誰 か 」が言
ヰリヤは何か暗示的な対話を交わしているのだが、(ほとんどの)
葉遊びを して いるからである。「紫蘭」をめぐって王妃とオフ
は、けふの夕刻このわしに、泣いて跪いてたのみました。けふ
頁)
(ただし、読者は彼の発言の真偽を判定する材
う。 もちろん 、「紫蘭」の 象徴する意味など『ハムレット』を
というのだから、何か「性的な」ことであろうと推測はできよ
させる「男のひとの居る前」では言えない「みだらな言葉」だ
き起こさせたのはオフヰリヤとハムレツトの行為を許させ、二
探してみても発見できるはずがない。浦口文治の新評註や坪内
逍 遙訳の 『 ハム レッ ト』を 読ん だって 、「紫蘭 」(の花)の正体
「オフヰリヤの妊娠」という出来事によって「冷笑」する「ガ
ーツルード」までをも屈服させたことになるのだ。新しい政権
を明らかにすることはできない。シェイクスピアが
から、対人関係において一貫した「ポーズ」を取ることしかで
は最初から王としての「演技」をすることはなかった。それだ
ローニヤスなどを、すべて抹殺できるようになるのである。彼
用す る だろ う 。 十 六 世紀 イ ギ リ スと い うコンテ クス トが 現在
曲に指す言葉であったこと、などを知るとき、紫蘭は大きく作
long purples
王妃、権力を誕生させた下部権力 (実質的な権力)を代表するポ
と し て の クロ ー ヂ ヤ ス は 、 この よ うに し て 既 存 権 力 を 象 徴 す る
と表記した「紫蘭」の正式な学名は Bletilla striata
であ り 、 十
六 世 紀 の イ ギ リ ス で は 蘭 、 特 に 、紫 の 蘭 (「紫蘭 」)が 男 根 を 婉
人を結婚させるためだったからである。結局、クローヂヤスは
読者は二人の会話から疎外されることになるのだ。
「顔を赤く」
たのみました」(
迄わしを冷笑して来たガーツルードが、はじめて誇りを捨てて
6/1
料 を も っ て は い ない )と ポ ロ ー ニ ヤ ス に 語 る 時 、 王は 勝利 の 微 笑
8/1
を浮かべたことだろう。なぜなら、王妃にそのような行為を引
300
権力を「演技」できるようになるのである。彼は「オフヰリヤ
きないのであって、最後の勝者となってようやく頂点としての
。 オフ ヰ リ ヤ と 王妃 と の 思 わ せ ぶ り の よ う な 対 話
できない もの )
の 私 た ち の コ ン テ ク ス ト ま で 届 いて い な いの だ (共 有 す る こ と の
9
を聞いてみよう。
と呼ぶだけで「男根」も同時に象徴として連想されるのであって、「紫蘭」
いたち
」 が 「 紫 蘭 ( の花 )
」を 何 と 呼ん だの かは 知 り
shepherds
得ない (まるで別の名で呼んでいるかのように嘯いているが、実は「紫蘭」
。『ハムレット』の
を「死人の指」以外に呼んでいたことではないのだ)
王妃。「・・・あの、紫蘭の花のことを、しもじもの者
な?顔を赤くしたところを見ると、ご存じのやうですね。
た ち は 、なん と 呼んでゐ るか、オフヰリ ヤは、 ご 存じ か
.だ
.ら
.な
.言
.葉
.で も 、 気 軽に 口 に
あの 人 た ちは、 どん な、み
「清純な娘たち cold maids
」は紫色の花を「みだらな名前 grosser
」で呼ばない (「死人の指」と呼ぶのはまさに「清純」な娘である
name
. . .花
.を 何 と 呼 ん で ゐ るの で す か? ま さ
ちは 、あの 、紫
蘭
の
.の
.露
.骨
.な
.名
.前
.で呼んでゐるわけでもないでせう。」
か、あ
っている (「死人の指」はみだらな属性を隠すためのレトリックとなる)
ヤを含む「お嬢さんたち」は「みだらな名前」を「平気」で言
いうのだろうが)物語 世界に おいて生き残れる資質だったと解釈
状 況 を 弁 え 言 行 を 異 にで き る彼 女の 能 力こ そ (い わ ゆ る処世 だ と
位置に『新ハムレツト』のオフヰリヤがいるのである。ただし、
すると 考えて いい 。『ハムレット』のオフヰリヤとは正反対の
ある。それに比例してオフヰリヤの内面的な「淫乱」は極大化
王妃の価値観が隔離しているものであったことを示すものでも
『 新 ハ ム レ ツ ト 』の オ フ ヰ リ
こと の隠喩 なのである)のに反して 、
オフヰリヤ。「・・・幼い時に無心に呼び馴れてしまひ
ていないことでもあって、新王との政略的な結婚に悩んでいる
のである。それは王妃の価値観とオフヰリヤのそれとが一致し
す るの で 、 私 に は、 かへ つて 羨やま し い。 オフ ヰ リ ヤた
あ たしば かりではなく、よ その お嬢さん 達だつて 、みん
ま し た の で 、つ い 、 いま で も 口 から 滑 つて 出 るので す 。
な平気で、あの露骨な名を言つて澄まして居ります。
」
王妃。「・・・その方が、かへつて罪が無くて、さつぱ
りしてゐるのかも知れませんけど。」
オフヰリヤ。
「いいえ。でも、男のひとの居る前では気を
王妃。「なるほど、さうでせうね。さすがに男のひとの
れを拡大してアイデンティティーだと考えてもいい。つまり、私たちはナラ
し て い い だ ろ う。 そ れに そ れ こ そ オ フ ヰ リ ヤの ナ ラ テ ィヴ ( こ
.人
.の
.指
.、なぞといふ名で呼んでゐますの。
附けて、死
」
指とはまた考へたものですね。死人の指。なるほどねえ。
頁)
のひとの前で」ないと、まさか象徴としてある「男根」もしく
るまい。
「紫蘭」を「しもじもの者たち」は何と呼んだのか、
「男
さて、読者は二人の会話内容について疑問を抱えなければな
素であったのである。
ティヴすることによって、私たちで居 られるのである)を決定づける要
前で は言 へ ない、 と いふの も面白い。 け れ ども、 死人の
~
そ ん な 感 じが し な い 事 も な い 。 可哀 さ う な 花。 金 の 指輪
をはめた死人の指。
・・・」(
shepherds give a grosser name, But our cold maids do dead men's
」とだけある。「しもじもの者たち」と「羊飼
fingers call them
『 ハ ム レ ッ ト 』 の 原 文 は 「 ・・ ・
261
long purples That liberal
6/1
260
色をもってメタファーとなれるが、「男根」「ペニス」となると
は「ペニス」などと 呼んで いるのか、と。「死人の指」は 花の
眺 め て 、 綺麗 だ な あ と思 つ て ゐ るの に 、 ハ ムレ ツ ト さ ま
た く な る 事 があ るの 。 あ た し が 、 た だ うつ と り 夕 焼 けを
に 大袈 裟 に 察 して 下 さ るの で 、 あた し は 時 々、 噴き 出 し
ラング
るしいだらうねえ、けれども苦しいのは君だけぢやない、
は 、 あ た し の肩 に そ つ と お 手を 置 か れて 、 わ か るよ 、 く
パ ロール
レトリックは雲散霧消となるのだ。二人は、あるいは作者は、
置換しているのである。『新ハムレツト』というナラティヴの
夕焼 けの 悲 しみ は、 僕 に だ つて よ くわ か る、け れ ど も、
言葉の 裏で象 徴と してあ る「 男根」とい う記 意を記表として
世界では、十六世紀イギリスと『ハムレット』とは関係なく、
けで も生きて ゐて おくれ、 いつそ死に たいといふ思 ひを
怺へて生きて行かう、もうしば らく、僕ひとりの 為にだ
抱 い て 、 そ れで も 忍 ん で 生 きて ゐ る 人 は 、 この 世 に 何万
ハムレツトの子を妊娠したことによって窮地に置かれていた
「男根」というラングを誕生させているのである。
オフヰリヤは、王妃との対面と「噂」が「噂」としては効果を
死ぬ事で も考へてゐ るかのや うに、 もの ものしい事をお
人 、 何十万人もゐ るのだよ 、 なんて 、ま るで あ たしが 、
つしやるので、あたしは可笑しくて、くるしくなります。
失い、
みんなに知れ渡ったことを起点に変身を遂げるのである。
れについて王妃は こう語 るの だ 。「オフヰリヤ、あなたは、い
く お つ し や つて も 、 ま た 明 日は 、 ひ ど く お褒め に な る事
・・ ・あ なたは 、 気まぐ れで す から、 けふは、 うん と悪
王妃との対話で、オフヰリヤの語りは二転三転するのだが、そ
い子だね。あなたは、きつと正直な子です。おずるいところも
も ご ざ いますの で 、あた しは 、 ハム レツ ト さまの お言 葉
あるやうだけど、でもまあ、無邪気な、意識しない嘘は、とが
は 、 あ ま り 気に か けない 事に し て ゐ る・・ ・ 」(
頁)
らね。オフヰリヤ、この世の中で、無邪気な娘の言葉ほど、綺
めだてするものでない。そんな嘘こそ、かへつて美しいのだか
麗で楽しいものはないねえ。それに較べると、私たちは、きた
フヰリヤの言葉は直線的である。そのようなオフヰリヤが、
「も
が、オフヰリヤもまったく同じスタンスである。開き直ったオ
ハムレツトは人々から蔑まされたり、悪口を言われたりする
な い 。 い や ら し い 。 疲れて い る 。」(
頁 )と 。 理 由 は
9/1
「あなたは、これ
頁)
309
どうであれ、オフヰリヤは結婚において重要な決定権をもって
るといふ希望だけで胸が一ぱいでございます。あたしは、いま
ういまでは、ハムレツトさまのお子さまを産んで、丈夫に育て
頁)と宣
は幸福です。とても、なんだか、うれしいの。」(
ハムレ ツ ト さ ま は 、 い つで も、あ た しの 気持 を 、 へん
舌・気迫・自信の根拠となるのである。
る契機となったのであり、ハムレットとのシーンに見られる饒
6/1
いる王妃から許されたのである。それが彼女をして開き直させ
275
6/1
か ら は 気 を 附 け て 生 き て 行 く の で す よ 」(
274
9/1
女の妊娠について、様々な「ポーズ」をとり続けるのに比較す
言した時、彼女のいわゆる「演技」は成立するのだ。人々が彼
311
ると彼女の「演技」が「ポーズ」のどれかと一致するかどうか
な台 詞 まは しで 黄 色い声を 張り上げて ゐ た。あ い つは 、
来 て 、 ウ イ ツ タ ン バ ー グの 劇 研 究 会 仕 込み と か い ふ 奇 妙
事 を 言 つて ゐ なが ら、 稽 古が は じま ると 急に 活 気 づ いて
.... 。 自分の 感
.情
.つ
.を
.、 ち
.と
.も
.加
.工
.し
.な
.い
.
本当に正
直
な
男
だ
.言
.動
.に
.あ
.ら
.は
.す
.。 どん な 、 へ まを 演 じ て も 何 だか 綺麗
で
る。オフヰリヤの開き直りから『斜陽』のヒロイン和子を連想
だ。 いや らし い とこ ろが 無 い。 しん か ら 謙譲な、 あ き ら
はともかく、彼女の「演技」は「信念」として確立するのであ
ているのも確かである (『ハムレット』だけではなく、太宰治の他の小
めを知つてゐる男だ。(
す る こ とし かで き ない。 テ ク ス トは 、 彼女 ( 彼女 自身 の発 話 によ
朗読劇の前に独白するハムレツトの科白の一部である。ホレ
する論がいくつかあるのだが、両者はまったく別の次元をもっ
。読者は、オフ
説からも相当切り取り貼り付けているのも明らかである)
頁)
ヰリヤの将来がいかに展開されるかについては、ひたすら予想
とはまず出来ない。 ところが、 王妃は次のように言う。「私は
トによるものだから、ホレーシヨーのナラティヴを規定するこ
続ける可能性は、それほど高いとは言えないだろう。彼女の「演
このごろ、人間といふものが、ひどく頼りなくなつて来ました。
ーシヨーに対する論評なのであって、信頼性に欠けるハムレツ
技」を支える人的な保護者、あるいは支援者をすべて失ってい
びくびくもので、他人の思惑ばかりを気にして生きてゐるもの
よつぽど立派さうに見える男のかたでも、なに、本心は一様に
頁)と。実際、王妃自身をも含めて、登場人物た
るのだから。和子の未来が開かれたコンテクストをもっている
~
ちはその観察から逃れることができないのである。ただ一人、
だ」(
こそ『新ハムレツト』に「笑い」をもたらしている主役なので
オフヰリヤは自己完結的な「演技」を成就する。しかし、それ
はずである。隔離された「演技」は、所詮「ポーズ」以上でも
ある。[ ]「高台」でのハムレツトとホレーシヨーのシーンに
ホレー シヨー は 、 最初 あん なに 気が すすま な いや うな
その六、正直な男=道化役者としてのホレーシヨーの「演技」
以下でもないのである。
外なのである。修飾しない言動によって存在するホレーシヨー
な未来しかないのである。ある「信念」を抱くことによって、
のとは違って、オフヰリヤにはほぼ閉じられてしまった不透明
って)がほぼ ∧ 勝 者∨の 地位 に まで辿 り着い たこ とを語 って い
7/1
るが、なお予想をすると、彼女が引き続き∧勝者∨として残り
277
ハムレツトの科白からもわかるように、ホレーシヨーだけは例
262
は読者を寄せ付けないばかりか、他の登場人物をも無視したも
6/1
のにほかならない。主体の独立や欲望の成就などとはいえない
261
ーンでは、両者とも発話したいものがあったのであって、ハム
書を待つしかないのだが、一つだけ指摘して置きたい。そのシ
べることは出来ず、読者 (『新ハムレツト』の声を聴いてみる)の読
「笑い」が集中して いる。「笑い」を引き起こす箇所を一々述
3/1
レツトは「オフヰリヤの妊娠事実」を、ホレーシヨーは「ハム
物語に混乱を生じさせる原因となったことも分かるのである。
意志疎通に蹉跌を与えており、それが『新ハムレツト』に「笑
けていると言えよう。
「正直な男」(物語内容をそのまま伝える)は、
い」を与えてはいるものの、物語に真摯に参加し、ある意味で
換言すると、彼は物語を消化し言説を分析・伝達する能力に欠
話欲望を満たした後で、(可笑しくも)
「ジヤケツを着て居ら」ず
相手に語りたがっている。ところで、ホレーシヨーは自分の発
寒いという理由でハムレツトの発話を遮断し、対話を終わらせ
コミュニケーションを円滑に遂行させる役割とは関係ない人な
レツトの発狂 、先 王の他 殺と 復讐への願いなどの『噂』」を、
るのである。
さをかなり中和するキャラクターであることも注目すべきであ
のである。しかし、彼が『新ハムレツト』のもつ語りの重苦し
る。太宰治の小説は、読み間違えば (否、素直に反応してしまえば)
彼の性格は「最初あんなに気がすすまないやうな事を言つて
分かるように、切り替えが早いのである。つまり、楽天家なの
小説にはどこかにこのホレーシヨーのような者あるいは事象が
とても重苦しく、読者に負担が大きいのである。しかし、彼の
ゐながら、稽古がはじまると急に活気づいて来」ることからも
り、 王妃が激怒して いたに もかかわらず、「なにほどの事も、
お逆らひ、
―「わからない」というのは「恐怖」の別名である
見えない「敵」
(多くの場合)介在しているのである。
であって、そのような特性は「朗読劇」というトリックが終わ
無かつたやうですねえ」と (多分、明朗に)語れるのである。そ
れに [ ]シ ー ンで は 、 王妃に 対し 、「お言 葉に 逆らふや うで
―
言葉に逆 らふ、いや、お言 葉に、お言葉に、
『 新 ハ ム レ ツ ト 』 には 、 最 後ま で 明 ら かに な らな い (ように
・ テ ク ニ ッ ク で あ り 、 そ の 多 く は 本 稿 に おい て す で に 解 明 し て きた の で あ
み える )∧ 秘密 ∨が い くつかあ る (これがもっと も巧妙 なナラティヴ
」などとしどろもどろになるのである。ところが、再び「お
何をか言はむです。僕は 、もうお答へ致しません。」などと拗
。 そ れ は 小 説の 欠 陥 と して も 、 あ るい は そ れを 残 して 置い
る)
されたのかどうか。ポローニヤスは、その事件の真相を知って
たことにこそ意味があるとする解釈もある。先王が現王に毒殺
トは、∧関係性∨を確定してくれない (ようにみえる)
。それが、
いるのかどうか。誰がそのような「噂」を広げたのか。テクス
コ ミュニ ケ ー シ ョ ンの 場 に おいて 、∧ 思うがまま に 表現す
容を把握できないまま言葉だけを伝達することから、一定部分
える行為を通して、取捨選択されず、ましてやメッセージの内
る∨ことは大切であろう。しかし、私たちはホレーシヨーの伝
ねるまでに至るのである。
言葉に逆らふやうですが」を持ち出し、最後には「王妃さま。
―
題にしゃべっているのである。それが王妃から叱られると、
「お
すが」を繰り返しながら (内容はほぼ的はずれなもの)言 いたい放
4/1
には欠陥があるかのようなトリックがあったのだ。というわけ
になったともいえよう。そもそも『新ハムレツト』の∧関係性∨
登場 人物たちに 「演技」ではなく、「ポーズ」を強制すること
だ ろ う が )に と っ て 、 恐 怖 な ど は 有 り 得 な い の で あ る 。 そ れ は
す る 限 り 、 明 白 な も の で あ っ て 、 主 体 ( 客 体 に は 別 の様 相 を 呈 す る
破壊や暴力を志向することも、それらが認識の地平の上で存在
「危険」なのである。だから、「現れたもの」にはプロテスト
『新ハムレツト』は、善悪、倫理と反倫理、誠と偽りなどの
が でき る の だ 。
通した時代批判、軍国主義戦争批判として解釈する傾向が一方
だから、その「場」は「疑惑」と「噂」と「他者意識」のよう
決定的な判断及び判定が下されないように語られている。それ
『新ハムレツト』を「新王」として象徴される「近代悪」を
で、読者もなお戸惑うのである。
ヤスの「悪」を発見するのは極めて断片的なことであって、例
なものが蔓延るのである。そこはいわゆるデインジャラスな舞
で準拠化してある。ところが、読者が「新王」であるクローヂ
えば、ポローニヤスを殺害するシーンの場合、王の憤怒 (激怒)
いるのだ (そうだといって、概念の欠けている場所かというとそうでもな
台であり、主体が暮らすにはあまりにも「恐怖」で満ち溢れて
。『新ハム
く、階級・身分・イデオロギーなどはいうまでもなく存在する)
あるので、「悪」ではあるものの読者はポローニヤスの (階級秩
序における)礼を逸した振る舞いもなお「悪」を中和させると読
危機状況に置かれているのである。否、読者こそ「見えない敵」
レツト』のハムレツトは、少なくとも「見えない敵」に遭遇し、
は あ る 程 度 、( 下克 上に 近 い )事 件に よ っ て 正 当 化 で き る側 面 が
表面化した解釈の根拠は与えられない。クローヂヤスが「近代
むは ずである。「先 王殺害」という出来事に関して、決定的で
内で人物たちと同じ目線をもっているわけではないこと、換言
に同じく遭遇したのである。がしかし読者はナラティヴの世界
いの だ ( また 、 小説 も同じで ある) 。そのよ うな 「恐 怖」に 直面
すると、読者はアイデンティティー混乱に陥っているのではな
悪」あるいは敵対者となるのは明白な証拠によるのではない。
になっていたとすれば、ナラティヴは『ハムレット』などの影
むしろ、事件の「真相」が明らかになり、善悪の対立が明らか
響をもっと強く受け、味気ないものになっていたろうし、ハム
らせたのかもしれないのである。問題は、善悪、真偽などの区
レツトにして何らかの英雄的な行為あるいは逃避的な姿勢をと
ものだと読みがちなのだ が)個性的な役割と処世術を駆使している
し、『新ハムレツト』には 登場 人物たちがそれぞ れ (似たような
抹消する人物、ポローニヤス=「恐怖」を醸成したり、自分の
ヂヤス=「恐怖」を利用する人物、王妃=「恐怖」を根本から
「危険」を突破しようとするが破滅してしまう人物、オフヰリ
のである。ハムレット=ただ疑惑を感じるだけの人物、クロー
れたもの」は「現れていない∧なにか∨」より人間を抑圧する
だ。信念の問題であれ、規律・制度・倫理の問題であれ 、「現
ことができないという逆説なのである。平和を愛することも、
別が決して自明なものとして姿を現さないということにあるの
10
ヤ=「恐怖」とは関係なく自らの「信念」のもと生きようとす
り、『 新ハムレツ ト』という一つの 全体性を構成してみる必要
わらず、全体としてはそれらが乱立していると考えるからであ
がナラティヴにおいて求められると判断したからである。関係
る人物、レヤチー ズ=「大義」を唱え、「恐怖」を強化する人
物、ホレーシヨー=「恐怖」にはまったく無頓着で明るく生き
獲得す る瞬間、「演技」として 成立したところにようやく「公
性の定立に失敗したことから生まれた「ポーズ」が、関係性を
私」の体系が樹立できる。
「ポーズ」が持続された場合、
「公私」
雑なのはそのためでもある。前節までは『新ハムレツト』を六
人の人物を中心に調べてみた。ただし、レヤチーズ一人だけは
そのように考えるとき、∧関係性∨を伴う「演技」にこそ「公
の立場 もなお停止 (あ るいは有動的)の状態であ ったといえる。
て行ける人物 。『新ハムレツ ト』の ナラティヴが入り乱れ、複
からであり、彼がナラティヴとして大きく機能するのはこれか
触れずに置いたのは、彼はナラティヴとしてはやや貧弱だった
。まずは、「公私」とはいかなるもので
ー ズ 」 におい て重 要なのだ )
あるのかを考えてみたい。これはテクストからはやや離れた議
私」を体系として語る端緒があるだろう (ただし、議論の場は「ポ
いるのである。ところが、人物たちが別々に存在するのではな
論となるのは避けられないが、テクストをある体系と関連づけ
ら述べる「公私」問題においてであると考えたからである。六
く、コミュニティを構成する場において、人々は恐ろしい「恐
えて別途に取り扱いたいと考えたのである。
ないかぎり、読者の活動もやむなく中止すると考えるので、あ
つの読み方によると、各人物たちは明確なナラティヴをもって
怖」を感じるのだ。私たちにとって、また小説の人物たちも同
それから『ハムレット』の「公私」
中国の「公私」と日本の「おおやけ・わたくし」
、
じく 、
「わからない」
(事件や状況から疎外されていること)ことは「恐
怖」なのである。正体の知れない誰か、宇宙の向こう、死後、
未来、敵であれ味方であれ「わからない」のがもっとも「恐怖」
を与えるのである。質問をし続けても、答えが返ってくること
溝口氏は「公とは『平分』すなわち均等あるいは平等に分け
「ポー ズ」を超 えて 、「公私」論理 としての『新ハムレツト』
人間であり、「天」として皇帝の上位に存在する倫理に背いた
領域性をもっていない。というのも、中国の皇帝は (姓をもつ)
「利己」だったと述べる。理想的・普遍的な公平さとしての中
現場だったのである。
のない「質問」、
『新ハムレツト』のコミュニティはまさにその
ること」 を語源としてもっており、それの対極としての私は、
私が「『ポーズ』を超えて」と述べるのは、
「 六 つ の 方法 」 の
国の「公」は「倫理性」を含めた概念であり、支配者としての
世界がそれぞれの「ポーズ」なり「演技」をしているにもかか
11
・朝廷・官府のおおやけ=公」( 頁)
、換言すると、「私」を支
「 朝 廷 ・ 国家 を 共 同体 と す る 、 天 皇
頁 )だ と い う 。 す な わ ち 、
に従属することを前提にして、その存在を許容された『私』」
(
私」は上下の関係を規定するものではなく、倫理を表現したも
場合、いつでも交替されるべき ものとしてある。つまり、「公
のであって、∧水平的な公∨である (溝口氏の言葉を借りると、「つ
侵犯すべからざるものとしての「公」ともなる。日本の公私と
配するものとして「公」がある。そこから「領域性」をもつ、
そのよ うな特 性を もつよ うになった原因として 、「流動性が
「私」の幸福があ るという。 中国のように 、「公」の交代など
あり えない。「日本のおおやけ・わたくしの特性」について、
は、従属的関係であるわけで、主従の規律を守ることにおいて
こでも、また誰にでも適用される普遍的な理念・規範というも
溝口氏は四つをあげる。
高く、共同体成員がしばしば入れ替わり、血縁・地縁だけでは
のが 必 要と さ れるに至 る 」( 頁)こ とを 挙げ る。「中 国の 公は
固まりきれない、いわば他人間の関係にあっては、いつでもど
。
ながりの公」
)
41
る」( 頁)という記述もみえる。朝廷・国家・官府などの公、
皇帝や国家の上に更に普遍的・原理的な天の公をいただいてい
して二重の領域性によってすみわけられている。
一、おおやけを公然の領域、わたくしを隠然の領域と
54
三 、わたく し領 域に とっ て おおや け領 域は 所与 的・先
二 、 お お や け 領 域 は わ た く し 領 域 に つ ね に 優 越 す る。
域とし、その上や外に出ることはない。( 頁)
四 、 お おや け領 域は 天皇 を 最 高位とし 国家を 最大の 領
験的であり、その場に従属するものとされている。
おおっぴら・共同としての公、公平・公正としての三つの公が
な わ けで 、
「私」は被支配者を指すのではなく「姦邪」なもの、
に、儒学に「神」は存在しないが、その代わりに「理 」「気」
「天」あるいは「理」が ないことである。「理」などという抽
公私の頂点に天皇が位置しており、天皇の上には中国のような
もっとも注目すべきことは(それにもっともよく知られたことは)
、
「反倫理的」なものを指示する。私たちがよく知っているよう
る ( 近代 に な っ て 「理 」 の無 気力 は 魯 迅 など に よ っ て 批 判 の的 に な っ て お
やけ=公が領域的であるというその限界のため、その争いを調
界もあ って 、「日本のおおや け=公は、他国と争うとき、おお
.の
.概
.念
.構
.造
.の
.中
.に
.もともと
停する機能や原理といったものをそ
象的な倫理がないので、公私の区別は明確である。それには限
「お おや け 」 と (中 国語 の )
「公 」は 、 も ともと 共通性の ない
もちあわせていない。国民は、その場合、国家というおおやけ
り、韓国近代初期の所謂開化派たちの思想とも似通っている。中国のそれと
たのに対し、日本の「わたくし」は「『公』の下位者として、
『 公』
語であり、中国での「公」は「私」と両立する言葉ではなかっ
。
― 断 言 は で き な い が ― か なり 近 似 し た 「 公 私 」 概 念 で あ っ た と 思 わ れ る )
という哲学概念が存在し、それがあらゆる行動の原則としてあ
45
「 天 ( = 倫理 )
」 と い う 原 則に よ っ て 統 制 さ れ て い る 。 そ の よ う
あり、実際には支配階級と被支配階級があるものの、それらは
57
37
れに 従 属 的 なわ た く し との 一種 に 連 携 プレ ー で あ っ たと
礎部 分と なった。 要す るに そ れは、 強大なおおや けとそ
「 天 皇 を 最 高 の お おや
頁)という。戦時日本の公私構造は、
いえる。( 頁)
=公に尽くす、すなわちひたすら国家の自己主張の実現のため
それが他国への侵略行為であったとしても、それの正・不正を
に尽くす、という道以外の選択肢を与えられていない。たとい
~
問う論理は領域的なおおやけ=公の中からはでてこない。」(
けとし、国家を最大の公とし、それに尽くして死ぬことを名誉
とみなしていた日本の近代の公倫理の観念」( 頁)だったので
あ る。
来 の 家 業・ の れ ん を さ らに 発 展 さ せ 、 資本 主 義 発 展 の 基
義 体 制 を 構 築 し た 中で 、 国 民 の 方で は 、 そ の 江 戸 時 代 以
意識 の 浸 透 によ る 国 家 主 義 を 形 成 し、 国 家 主 導の 資本 主
国家を 創出し、中央集権体制を容易に し、 おおや け=公
日 本の おお や け 領 域の 優 越性 が 、 極め て 容易に 天皇制
に要約する。
。 氏 は 、 近 代 初 期の 公私 の 役 割 を 次の よ う
つ けて 当然 なの であ る )
い。それに主君=公を失った者たちも同じく主君に対し「公私のけじめ」を
たくしは切腹をすることによって、「公私のけじめ」をつけなければならな
私 の け じ め 」 に 対 す る 賛 嘆 で あ る ( す な わ ち 、 公 の規 律 を 犯し た わ
など多くの物語あるいは事件が示してくれるのは、明確な「公
けじめの ないルー ズなもの として批判す る」( 頁)
『忠臣蔵』
性からは理解しにくいものであるため、日本人はそれを公私の
同の公である、という中国特有の公私は、日本人の領域の共同
にとって も面白い示唆を 与えてくれる。「私的なつながりの共
溝口氏の「公私のけじめ」に関する記述は、
『新ハムレツト』
69
82
(
『 ハ ム レ ッ ト 』 の 公 私 ( 十六 世 紀 の
頁)と述べているように、
いう事実にも読者の注意をふりむけてもらうことにつとめた」
られており、しかもその違いが互いに意識化されていない、と
りながら、その同じ漢字が各民族間で微妙に意味を違えて用い
溝口 氏が 、「この 本では、 一般に漢字文化圏の共用文字であ
97
To
。亡霊 は 次のよ う に語 っ て いる。
地 獄 よ り は や や ま し なと こ ろ だ が )
められている (ダンテの『神曲』によると、天国行きの待ち組みであり、
している。先王の亡霊さえも「神」の審判によって煉獄で苦し
ているのだ。「神」の存在が 作品の 至るところで支配力を発揮
るのだが、実はその亡霊も人々も「神」の規律の下で制御され
『ハムレット』は、亡霊という幻想によって事件が左右され
ないと制裁される)ものである。
キリ ス ト 教の 「 神」 なので あ っ て 、人間 が 従順 す べ き (そうで
自らをその前に 立たせるのに対し、『ハムレット』の「神」は
間を統制するのではなく、人間が「天」を行動や思考の鏡とし、
る。中国の「天」と類似したもので、違うとすれば「天」は人
べてのテクストを統制していることはすでに指摘した通りであ
」として一般に受け入れら
be, or not to be: that is the question
れた『ハムレット』には、人間の問題以前に「神 ( God
」がす
)
公私とは異質のものであろう。優柔不断な男で、三幕一場の「
イ ギ リ ス )も 、な お (共 通 の 概念 を 前 提と し ない 限 り)日本 と 中 国の
6
63
62
わ たしは お ま えの 父の 霊 魂、 裁か れて 一定 期間 夜は 地
ろしいこと、つまり、自殺を禁じた「神」に背いたことによる
と思われるのは、一人の命がなくなったことよりも、もっと恐
オフィリアの自殺が、すべての登場人物たちにとって悲惨だ
「神の制裁」に対する同情である。五幕一場において、彼女の
た 罪 の けが れ が こ と ごと く 焼 き 清め ら れ る 日を 待 っ て い
葬式は秘密裏に行われ、鎮魂ミサなどは「掟」のよって禁じら
上 を さま よ い、昼 は 絶 食して 焔に つ つま れ、生 前 お かし
も お ま えの 魂は 戦 慄 し、 若 い 血 は 凍 り 、 両 眼 は 星座を と
れ、「最後の審判の日」を待 つば かりである。王妃の再婚とい
る が 、 煉 獄の 責 苦 は ひ と に は言 え ぬ 。 話 せ ば 片 言 隻 句に
び だ す 流 れ 星 さ なが ら 、 束 ね た 髪も 一 筋 ず つ山 荒 し の針
うのは、姦淫してはならないという神の律法に違反することは
るのではないことだ。
王 冠、 妃を 一挙に奪わ れ 、し かもその 死にざ ま たるや
果として、皆が死んでゆくなかでのレヤーティズとハムレット
当然の罰だ、自分で調合した毒だから
な。たがいに許し合おうよ、ハムレット、ぼくが死ぬのも
レ ヤー ティ ズ
の言行をあげてみよう。
懺 悔 も せ ずに 裁き の 庭に 追 い や ら れ た、 おの れの 罪 業を
ないでくれ!
亡霊と人間の 物語というのは表面のものであ って 、「神」の
天はきっと君を許してくださるよ!・・
父が死んだのも君のせいではない、君の死をぼくの罪にし
頁)
ハムレット
す べ て身に 背 負ったまま。 恐 ろしい!恐 ろしい!ああ 、
もっとも恐ろしい「神」の審判を準備することなく、審判台
存在こそテクス トを貫通しているといえよう。『ハムレット』
に立たされたことを忘れることはできない。それに、先王は「お
のれの罪」をも認めている。第一幕第二場で、ハムレットはこ
において、
「公」とは「神」とその「掟」であり、
「私」とは「神
「新約」の 代表的な「神の 掟」をいくつか挙げておくと、「姦
は『聖書』の「掟」によってほぼ分析できるとみていい。
「敵を愛しなさい」
「人を裁くな」 などである。
『ハムレット』
12
淫してはならない」
「誓ってはならない」
「復讐してはならない」
」( 日 本 語 訳 は 訳 者 に よ っ て そ れ ぞ れ だ が )と い う 名 台 詞 も
question
「神」の律法下にある。ハムレットのこの独白は「ポーズ」で
To be, or not to be: that is the
の掟」の下でうごめく悲劇的な人間たちなのである。最後に、
のだろう!」( 頁)と。その「
な、無意味な、むだなことばかり人間どもは繰りかえしている
殺という手段が選べるのに。ああ神よ、神よ、なんと退屈陳腐
(
恐ろしいことだ! ( 頁、ふりがなは省略)
あ ら ゆ る罪 の ま った だ な か 、 聖 餐、 塗 油 も 心の 準 備 も、
もちろんのことである。さらに、作品の末尾、決闘や陰謀の結
のように逆立つだろう。( ~ 頁)
131
ところで、問題なのは亡霊の怨念が権力と妃の喪失だけにあ
130
う独白す る。「せめて 永遠の神のきびしい掟さえなかったら自
199
131
あって、決して「神」の掟を破ることはできないのだ。
123
政治理論であるハーバーマスの著作から、本稿が参照できる
化消費者」と転落するというのだ。
のは 、『 新ハムレツト』の「公私」の様相及び (「公私」概念が、
パ ブリ ッ ク (
ハーバーマスの「公私」論とその他の「公私」
変化を繰り返すとい う意味で)位相に関する枠だといえよ う。 日本
)
Private
)とプライベート (
Public
主」を通して説明し 、「君主が世俗領主と聖職領主、騎士、 高
の「おおやけ」と類似した概念として「誇示的な公共性」を「領
位聖職者、都の市民たちを呼び集めた時・・・領主と身分たち
「 公 論 場 、 あ る い は 公 共領 域 (
ーマスの著作を短い文章で要約することはできない。ここでは、
が国家を代表す るのではなく、『それ自体が国家』という特有
」に 関 す るハ ーバ
)
Öffentlichkeit
え ら れ る )も の を 紹 介 し 、 そ れ を も と に し て 簡 略 に キ ー ・ ポ イ
そ の 翻 訳 書 の 帯 に 書 か れ た ( き わ め てポ イン ト を よく 捉 え てい ると 考
な意味で国家を代表するのであった。彼らは自らの統治権を民
や領主」自身を指し示す。あらゆる「私的」なものを支配する
頁)と把握する。ここでの「公的」とは、偉大で高貴な「君主
衆のためではなく、民衆の『まえで』誇示するのであった」(
ントを押さえていきたい。
私 的個 人たちが 、彼 らの 意見 を 公的討 論に 附 し、協議
義の 発展に おいて 決 定的な役割を 果たし た。 私 的 個人が
うな古典的な「公」概念に変化をもたらし、「私的」個人たち
だけの資質をもった「公」だと「誇示」するのである。このよ
す る場 と して の 「公 論場 」の 形 成は 、 西欧の 自 由民 主主
分 けるもの だか らで あ る。し かし、 国家 と社会の 厳 格な
と、先天的な身分制度の崩壊を通した「私的」個人の登場であ
が「公論場」を形成し始めたのは、民主主義の到来、換言する
公 衆 として 結集で き る可 能性に こそ 民 主 主義の 成敗を 見
分離 を 前 提と して 成 立し た 、 このよ う な ブル ジョ ア 公 論
論」を命令することではなく、
「私的」な個人たちが「公論場」
「 公的 」権 力が 「公論場」 を 支配 し 、(自らの命令 であ る )
「公
る。
場 は 、 一九 世紀の 後 半 か らその 構造が 変動 をは じめ たと
ハーバーマスは診断する。「国家の社会化」と「社会の国
な討 論よ りは広 報活動 と広告が 大切 と なり、そ れに 従っ
家 化 」 が 進 行 し 、 マ ス・ メ デ ィ アの 登 場 に よ っ て 、 公 的
ろが、そのような「私的」個人たちによって形成された「公論
場」も、一部の特権化された「私的」個人を生み出し、他の多
を形成し、国家や社会の「公論」を作り出すことである。とこ
大衆 に 舗 装・宣伝 し 、同 意を 得て 世論化 す るこ とが一 般
概念としての「公」と、被支配の概念としての「私」の構図が、
数の「私的」個人を統制することになるというのだ。支配権の
て 公 論場 も「 再 封 建 化」 さ れ る。 つま り 、 一部 の 組 織が
化し、公論場は 「権力化」す る。私 的な個人たちは 、 も
自らの利 害関係によ って 作った意見を 、消 費者としての
は や 公 的 な 討 論に 参 加 す る 公 衆 で は な く、 ま す ま す 「文
69
13
「公」の消滅を通して「私」による∧共通の・合意された∨「公」
侵犯されないものとなることは、パブリックを権力装置として
によって形作られるものが、もう一つのプライベートとなって、
最後に、一九四一年頃の日本の「公私」について調べてみた
しまうことだからである。
い。溝口氏が『公私』において述べた「おおやけ」
「わたくし」
う と す る 「私 」 に よ っ て 統 制 さ れ ( 過 去 の「 公 」と は違 うも のの)
を創出するにもかかわらず、そのような「公」もなお支配しよ
(「 私 」 の 総 意 に よ っ て 「公 」 が 成 り 立 つ )を ベ ー ス と し て い る の は
支配的な「公」となる。ハーバーマスが、根本的に「民主主義」
もなく戦時、とりわけ日中戦争から太平洋戦争終結までであろ
の二分がもっとも明確な実例として発見できるのは、いうまで
う。『新ハムレツト』の書かれた、いわゆるコンテクストであ
確かであ る。事 実として 、「公私」の現状的な様態は、概念と
から、本稿でそれについて判断することはできない。ただし、
して明確にあるのとは別に、それぞれの「場」で進行中なのだ
年
年~
る。『昭和 二万日の全記録 第
年 』( 講談 社 、 一 九九 〇年 一月 )から 、 昭和
月 か ら翌年 の
巻 太 平洋戦 争 昭和
「私たちの公」が、民主主義社会においての「公」であること
月までの記事をあげてみよう。
台 所を 守 るがよい。 賞 与その 他の収 入は 貯蓄の 強化にあ
そ れ に よ れば 、 家 庭 の 主 婦 は 着 飾っ て 外 出 な どし な い で
【年末 年始の 新体制 】 新体制 下の正 月は どう 迎え たら
問題ではなく、
「公共」こそ重要なこととなっているといえる。
のだからであ る。 だから、今現在の 論理としては 、「公私」の
て、 贈答や 年始の 回礼はやめ る。 年賀状 も廃止す るが、
公と私の意味は、そもそも上下関係ではない。というのも、民
現代的な意味で使う「公私」は、パブリックとプライベートを
た 門 松 、 し め 飾 り に つ いて は 議 論が 分 か れた が 、 結 局、
古 来 か らの 伝 統 な の で 廃 止 し な くて よ い 、 ただ し 質 素 な
前 線の 将 兵 へ の 年 賀 状だ けは 努 めて 書 くよ うに す る。 ま
も の を 用 い 、隣 組 で 代 表 と し て 一 対 だ け 飾 るの も よ い 方
指しているのであり、
その力学構造に関する考察となっている。
い。なお、「私」も、
「従属される人間」「わたくし」「民衆」を
法といえる。祝いの酒は、屠蘇程度にとどめて、「暖衣飽
そ
表すのでもない。ところが、一部のプライベートが、パブリッ
回 し 、 た こ 揚げ 大 会 な どは 奨 励 、 雪 国での ス キ ー 、 スケ
と
クを 支 配 す る (ハ ー バー マス の 指摘 した よう に)過去の 構 造が 現象
食、安逸 遊惰」に流れないよ うにす る。羽根つき 、こま
「公」が 、「神」「おおやけ 」「王権」などを表象す ることはな
そのあり方を昭和一五年一一月十八日に決め、発表した。
5 19
よいのかの問にこたえて、大政翼賛会国民生活指導部は、
現代世界(少なくとも自由民主主義という制度をもつ国家)にとって、
は確認できよう。
16
主主義は代議政治をやっているわけで、その公というものは市
11
民たちの選挙によって選ばれた代表たちが決め、適用されるも
15
6
す る 危 険 は 依 然 と 残 っ て い る 。 こ こ で の パ ブ リ ッ クは 、 公 開
性が求められる概念である。というのも、プライベートの総意
14
ートも、心身を鍛錬する手段としてすすめていた (『朝日新
頁)
この制度改革の目的は、「皇国ノ道ニ則シテ初等普通教育
井 上 哲 次 郎、和 辻 哲 郎らの 学 者に、文 章 表現 に ついて は
があたった。・・・軍報道部はこれを、国体観については
.運
.を
.扶
.翼
.
の 人 間を 作り上 げ るといふ こ とでな くして 、皇
てきた文部省の担当者は 、「初等教育の目的は立派な一個
校 令 」)に 集 中 的 に 表 現 さ れ て い る 。 計 画 ・ 立 案 に 携 わ っ
ヲ施シ国民ノ基礎的練成ヲ為スル持テ 目的トス」(「国民学
島 崎 藤村、佐藤惣之 助 らの 作家・詩人に 検討、加 筆を依
を 中 心 とし た 国家 体 制の も と で 国民 学 校は 「皇 国の 道」
. . . . . .. . . .. . . . . . .. . . .い
.ふ
.こ
.と
.
し
奉
る
こ
と
が
で
き
る
立
派
な
国
民
を
作
り
上
げ
る
と
.な
.け
.れ
.ば
.な
.ら
.な
.い
.と思ふ ので す 」(傍点 原文 )
で
・ ・・ 天皇
なか
頼 し た。 こ うして 『戦陣 訓 』は 、 一六 年一月 八 日、 陸軍
は ずかし め
虜囚の 辱 を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
出すことに目的があると解説を加えた。( 頁)
とを 目的とした法 律。三月七 日公布。御前会議・ 枢密院
【国防保安法 】国家機密が 外国へ 漏洩するのを 防ぐこ
特に戦時日本の公論場は存在しなかったといえよう。支配階級
公論場=公共領域の性格を公開性、協議、総意だとすると、
【神兵 隊事 件に 判決 】 三月 一 五日、 大審院第 一号 法廷
でしか成り立たないのである。そのようなわけで、
「おおやけ」
であ る。 それに 、「公的」 なことは「私的」なことの犠牲の上
なことは「主婦の権利 」「楽しさ」「生命」「個人の啓発」など
とそれに服従し犠牲となる「わたくし」の関係があるだけであ
で 、 八年に 発生 し た斎藤 実 内閣 打倒クー デ ター 未遂事 件
ら 四 四 名 全員に 刑 免 除の 判決 が 出さ れ た。 天皇 親 政を 謳
昭和 一六年 四月 一 日、明 治以来七 〇年 にわ たって人 々
「おおやけ」によ って統治され 、「おおやけ」のための存在す
「わたくし」たちによって成立するのが「公」なのではなく、
大多数の人々はすべてを犠牲としなくてはならない。
つま り は 、
る。「おおやけ」=天皇・国家のためなら、「わたくし」という
われる。( 頁)
ったその スロー ガンが 、当 時の国策に 合致したため とい
の 被告 として、 内乱予備陰 謀罪 に 問わ れていた 天野辰 夫
「新体制」「軍人の道」「国家安全」「皇運」などであり、私的
とは徹底的に排撃された。引用したものの中で、公的なことは
いうものとは何ら関係をもたない―あったのであり、私的なこ
捜査権が与えられた。( 頁)
と し 、 最 高刑 は 死 刑 で あ っ た 。 ま た 、 検 事 に 広範 な 強 制
のイデオロギーが「公的」なものとして―私的な意見の総和と
52
どの 漏洩や 探知、治 安・ 経済活動の 妨害 などを 処 罰対象
(其の二「名を惜しむ」)
( 頁)
や 「 臣 民 の 道」 を 教 え 、 そ れに 邁 進 で き る 人間 を つ くり
大 臣 東 条英 機 に よ っ て 全 軍 に 示 達さ れ た 。・・・「生きて
(「戦陣訓」について)作成には陸軍省軍務課と教育総監部
聞』昭和一五年一一月一九日)
(
34
会 議 ・閣 議 な どに 付 され た 外交 ・財 政・ 経 済上 の 議 事 な
36
47
に 親 し ま れてき た 「 小 学校」 は 「 国民 学校」 に 変 っ た。
49
るのが「わたくし」 たちなのである。だから、「おおやけ」を
せんでした。」(
す、失礼な事があつてはならぬ、と言つて、決してさきに寝ま
頁)というホレー シヨーの言 葉は、上下の
脅かすことは直接的に「わたくし」の問題となり、命を顧みな
を 挙 げ て み た い 。 映 画 『 陸 軍 』 は 、 三 代 に か け て 日本 ・ 天 皇
関係がどのように設定されているのかを証明してくれる。一例
4/1
『新ハムレツト』の「公私」
・ 軍 隊へ の 忠誠 に 生き る家 族の物語 であ る ( 特に、二 代目の高木
「 天 子様 」
(全体的な脈絡から)その子の生死をつかさどるのは、
はらはらします。」すなわち、自らの体で産んだ息子であるが、
の子は、天子様からの預かりものじゃけん、お返しするまでは、
ハーバーマスの「公論場」、
「パブリック」、一九四一年頃の「お
考とまったく同じである。 ただ 、『陸軍』の最後のシーンで、
日中戦争に出征する二十歳前後の息子の行進を追い続ける母の
だというのである。先の ホレーシヨーの陳述は 、『陸軍』の思
論場の 主体 」「プライベー ト」としてある。そうだとすると、
色褪せたものにさせることは確 かである。『陸軍』の監督は、
哀切さは、それまでのイデオロギーとしてのナラティヴを相当
おやけ」がそれぞれ「公」の多層である。それとペアとしての
物語の領域に存在する『新ハムレツト』の「公私」はいかなる
るのだ。
と も かく 、
『新ハムレツト』の構造が、(詳細には物語られていな
それ以後、映画の撮影が許されなかったというエピソードもあ
『新ハムレツト』には、王家と政治権力以外に、その下部と
い と し て も )上 下 の 「 お お や け わ た く し 」 と し て 内 在 さ れて い
/
ることは極めて重要な問題なのである。ということは、物語は
。 そ れを 簡略に
る テク ス トの力 によっ て 因果 的に構成 さ れ るのであ る )
ない。ところが、明白な、しかし発見は容易ではない∧内在的
の関係がいかに定立されているのかについては、あまり情報が
している場所は 、「おおや け」(ハーバーマスによると 、「誇示的な公
ることを意味する。そのようなわけで、ハムレツトらが活動を
「 プライ
論 場 」)で あ り なが ら、 そ れに 相 応し い もの では なく 、
ひたすら上部 (ホレーシヨーとしては「おおやけ」)で広げられてい
るまでは、起きてゐました。さきに寝よ、と僕が言つても、お
ベー ト 」の 世界 なの であ る (ここでの「 プラ イベ ート」は 、「パ ブリ
な構 造∨が明白に露呈される証言がある。「僕の母は、僕より
なるべき人です、私はお前を王さまからお預り申してゐるので
前は私ひとりの子ではない、いまに、王さまの立派なお家来に
先に寝室へひつこんだ事は、一度もありませんでした。僕が寝
考えてみたい。
様 態 を 帯 び 、 ど の よ う に 展 開 さ れ たの だろ う か ( 読 者に 働 き か け
「私」は、
「姦邪」
「帝王を含めたあらゆる人間」
「わたくし」
「公
中国の「天」、
『ハムレット』の「神」、日本の「おおやけ」、
。そのなかで、母の科白のなかにこんなものがある。「男
友彦)
15
―「おおやけ」の中の「プライベート」の悲劇
い「わたくし」があり得るのだ。
233
ック」を構成する構成員ではなく、そのような「パブリック」の形成を拒み
得ないと考えるのは、国家という枠の中で権益を獲得した階級
王妃については、すでに触れたように、最初は虚構的な「お
行使のための道具なのである。
おやけ」についての疑惑よりは、善良な統治者としての「おお
であり、それらの特権階層にとって国家という名は有用な権利
性の認識において、もっとも適応の早いのが彼である。たとえ、
やけ」の地位へと急上昇するのが、クローヂヤスである。関係
やけ」のために、犠牲をも感受する。自らの「おおやけ」とし
「おお
レ ーシ ヨ ー の発 言 が な か った と す ると 、 確 認 でき な か った は ず の )
過去 の (「 お お やけ 」 と し て の )
「 プライ ベ ー ト 」で の 行 為に 拘 束
ーンなどでも発見できる。 王妃は 、「臣下の場合と、王家の場
ての地位を認識しているのは、ホレーシヨーを怒鳴りつけるシ
。
「プライベート」の領域から (ホ
続ける「プライベート」を指し示す)
されることによって、すべての人物たちに低姿勢を「ポーズ」
合とでは、ずゐぶん事情もちがひますから、一時の熱狂から無
として持つしかなかったとはいえ、ポローニヤスに勝利するや
いなや、強力な「おおやけ」へと急変する。ここで、クローヂ
礼の指図は、これからは、許しませんよ。」(
頁)ときっぱ
ヤスの「おおやけ」がいかに浅はかなものであり、偽善的なも
のであるのかが暴露されるのである。なぜなら、読者はそのよ
し、王妃には、プライベートとしての悩みもある。ハムレツト
り い う ( ホ レ ー シ ヨ ー の 「 演 技 」 も 王 妃 の 前 で は 粉 砕 さ れ るの だ )
。 しか
自身の再婚だと考えるのだが、実はオフヰリヤの妊娠だったこ
うな「おおやけ」を、観察者・聞き手の立場から判断できるか
とが明かされる。だが、それで問題解決とはいかず、ハムレツ
「ポーズ」をとっているのかで悩んでいる。もちろん、原因を
問題を認識しているクローヂヤスがハムレツトを唆す理屈を聞
い討ちをかけるように、王がポローニヤスを殺害する現場を目
の「ポーズ」にかかわるものである。なぜ、息子がそのような
いてみると、「すべて、此のデンマークの為に、父祖の土の為
撃してしまうのである。結局、自殺の道を選ぶのは、王権とし
トらの朗読劇は、治まりかけた傷を再び悪化させる。それに追
頁)という、いわ
らかにしつつ、公的な行為の私的な性格をハムレツト宥めの手
て、そのような行為が私的な所有を固めるためであることを明
で、作家が述べたように 、「始末に困る」「青年の典型」、すな
要としているのかについての認識が欠如している。
「はしがき」
マークの王子∨という公的なネームが、いかなる「演技」を必
ベートの罪悪感によるものであった。ハムレツトには、∧デン
段としている。例えば、国家の安寧のため個人の犠牲はやむを
て象徴される「おおやけ」の虚構性に気づいたことと、プライ
は、いま協力しなければいけません 。」(
.の
.デ
.ン
.マ
.ー
.ク
.の
.
に、自分の感情は捨てなければなりません。此
.も
.も
.も
.が
.、海
.、民
.、や
.て
.君
.の
.掌
.に
.渡
.さ
.れ
.る
.のです。わしたち
土
らである。「おおや け」の 中にある「プライベート」の姿を顕
4/1
わにしてくれるのだ。所有物と所有者の関係として「公私」の
233
ゆる 「滅 私奉 公 」、 公的 な行 為 (志 向 もなお)に 徹し 、 自 己 限定
1/2
と「演技」を求めているのだ。しかし、傍点部分の文章におい
196
わち大袈 裟な言 行で 一貫す る「ポーズ」だけがある。「おおや
存在しなかったのであるが、それらの概念 (イデオロギー)は、
前提としているのである。つまり、そもそもそのようなものは
語ることは、結局、それらに合致する資質が事前にあることを
ーニ ヤスの階級上昇計画は 、「おおやけ」を脅迫することにま
臣下の階級から「公 」(おおやけ)へと身分の上昇を 企てたポロ
または∧資質∨が「演技」として適用されることによって、
「演
で進み、破滅を来す。その手段として自分の娘を利用すること
は 簡 略に 述べ るに と どめ たい 。「公私 」(上下)関 係に おいて 、
技」ではなく 、「ポーズ」のように 取扱われることもできると
想されるのである。
は、オフヰリヤの運命へまで影響するだろうと (あくまでも)予
の認識はある。問題なのは、そのような認識から行われる「演
単純な思考方式をもった人間が、「公私」を (たいていの場合、誤
ある。レヤチーズの愛国者のような死に様も、彼の前歴に照ら
もっとも明瞭に、そして皮肉な形で体現するのはレヤチーズで
それから、すでに指摘したように「公私」の問題について、
知らず戸惑ったり 、「演技」 から逸 脱あるいは「逃亡」したり
である。時には「演技」に疲れたり、時には「演技」の仕方を
とともにもう一方では自らの「演技」に修正を加えたりするの
「演技」と「ポーズ」を意識し、一方では「演技」を遂行する
私 た ち読 者は 自 分た ちの ナ ラ ティヴ 世界に お いて も様々 な
【付論及び続く議論のために】
してみると、ふさわしからぬ行為である。一身の出世を追い求
はなく、各自のアイデンティティーを確立するため (「演技」す
ステムひいては 国民 などという制度の上でも、「演技」だけで
るた め )多 様 な 「 ポ ー ズ 」 を 取 捨 選 択 す る の で あ る。 た だ し、
するのだ。それから、時間の上で、人間関係において、社会シ
で語られるレヤチーズの「演技」は、彼が直接プレゼンテーシ
そこには数え切れないほどの「演技」を規定する「制度」があ
るとはいっても)滑稽なことである。換言すると、レヤチーズも、
ズの「赤心」「愛国心」「忠誠」について「ふさわしくない」と
ョンすることとは、合致し難い側面がある。私たちがレヤチー
なお虚構的な「演技」の典型的なタイプである。王の伝聞の形
めていた者が、急に愛国者となって死んでいったのは、(あり得
生き残れる方法であり、彼はそれを習得しているのである。
である。それはある意味で、
「公私」の混乱が発生した時期に、
解し て )認識 し 、 再 考 す る こ と な く 、 そ れに よ って 行 動 す るの
いうことである。しかし、彼の的を射ることのない「演技」は、
技」が、適合ではなく、彼の「公私」認識におのれの∧性格∨、
求められているのである。ポローニヤスとオフヰリヤについて
それに もかかわ らず存在し続けるのであって 、「演技」として
け」としての 自分を「演技」できることなく、「ハムレツト、
頁 )な ど と 戯 け て み せ る の で あ
.軍
.振
.り
.を見せて下さい」と言われると、「いいえ、弱
立派 な将
9/3
る。ホレーシヨーはいかがなのか。彼は「公私」について一定
い 一 兵 卒 に な り ま せ う 」(
319
って 、そ れを 違反す ることは「制 裁」(法的、 倫理的、 社会的)を
覚えます。(
が 起 る、 悲 惨 な事 が 起 る、 と い ふや う な、 不吉 な予 感を
頁)
伴うのである。結局、私たちは「制度」としての「演技」から
自由ではいられないばかりか、それに見合う「演技」を通して
ての読み手にとっては「ポーズ」でしかない。それが事実だと
たものだといくら子細らしく指摘しても、それは今現在におい
このくだりが一九四一年一二月の太平洋戦争の勃発を予感し
ちはフィクションの世界と現実の世界が別々に存在し、まして
両者はほぼ直接的な関連性をもっていない。なぜならば、私た
Xではなく、N1・・・の中の一つであるのだが)を述べていきたい。
問い に つ い て 、 そ の 三 か ら 私 の 考 え ( 冒 頭 の 図 式 に お い て 、 所詮 N
両 者 に は い か な る 相 関 関 係 が あ るの だ ろ う か ( そ の 三 )
。 三 つの
主義は「演技」となれるのか、
「ポーズ」となるのか (その二)
。
ちの原 則的な社会構造において 、『新ハムレツ ト』の専制君主
同 体 の 意 志 を 決 定 ・ 執 行 す る 制 度 (「演 技 」)を も って い る 私 た
合のコンテクスト選択があって、読み手は絶えず自らのコンテ
書かれたコンテクスト、読者のコンテクスト、小説を論ずる場
小説が疎外される一つの要因を発見できよう。つまり、小説の
失いかねないのである。ここで、私たちは研究者たちの論ずる
時代に干渉しようとする瞬間、読み手はナラティヴへの興味を
インパクトを与えることが出来ても、
『新ハムレツト』を離れ、
『新ハムレツト』というナラティヴの中においては、読み手に
、 合 致 す る こ と は な い の で あ る。
く 、 そ の 内 容 も 変 わ っ て い る のだ )
の コ ン テ クス ト と は 、 一 変 し て い て ( ナ ラテ ィ ヴ 様 式 ば か り で は な
だ。簡単にいえば、テクストの書かれたコンテクストと私たち
現実の制度を解体することによってナラティヴの自由を獲得し
クストによって読み、それに収斂できない小説は過去の文字が
しても、私たちのナラティヴ世界とは無縁の事実でしかないの
たフィクションの世界から現実のことを事実として引用できる
テクストを通して過去の小説を読むに値するものとする意識的
印刷された∧もの∨に過ぎないにもかかわらず、読み手のコン
小説のなかでの「演技」と「ポーズ」はいったい何であろうか
と思いこむことなどナンセンスだとも充分承知しているからで
ル シノ アの 城 に も、ま たデ ンマ ークの 国中 に も 満 ち 満 ち
気に 濁 つて しま つて 、 溜 息 と 、 意 地悪 い囁 き だ けが 、 エ
も、ふ と 意識 的に な らざ るを 得 なかっ た。『新ハムレツト』は
固定するのである。私は『新ハムレツト』について述べながら
り分析することによって自らをますます疎外された存在として
ぎ ない )忘 れ ら れ た 小説 を 過去 の コ ン テ ク ス トに お いて 解 釈な
な 作 業 を 研 究 者 が せ ずに 、 ひ た す ら ( 読 者 に と っ て は ∧ も の ∨ に 過
て ゐ るや う な気が しま す。 き つ と 、 何 か、 ひ ど く 悪 い事
誰が 、 どうわ るい と いふの で も無 いの に 、 す つ か り陰
王妃の言葉を引用しながら、その二の問いに答えてみよう。
ある(小説自体が事実の直接的な鏡となるのなら、それは小説ではないのだ)
。
。 自 由 民 主 主 義 、 原 論 と し て 共 同 体 の 合 意 に よ って 共
(その一 )
々 )を 獲得しているの だ。そ れが私たちの 実人生 だとすると、
6/1
「制度」を守るだけではなく、ある利益 (名誉・尊敬・意思疎通等
264
どれほどのナラティヴ的な価値をもっているのだろうか、と。
んだ『怒りの葡萄』
『魔の山』『神曲』などなど、それから太宰
と言われてもそう簡単なものではないのだ。なぜなら、私が読
ないからである。つまり、私たちは各自の選択・趣向・時間的
治の諸小説を対話のために読めと、相手に強要することはでき
な余裕・必要ということから自由ではいられないのだから、人
手を産み 出せるようなものとして「ナラティヴ」を用い、「ポ
ーズ」「演技」
「公私」などを包括することによって、読者に、
そこで私は『新ハムレツト』を∧もの∨としてではなく、読み
少なくとも「ポーズ」をとらせたいと思いつつこの論を進めた
ば、事態はまったく変わってくる。楽しくぺらぺらしゃべって
いのだ。ところが、私の好きなものが対話の∧さかな∨となれ
いる自分を発見す る。『新ハムレツ ト』の場合はどうなのか。
が私に強制できないようにこちらからも強いることなどできな
実・時代コンテクストから「演技」の拘束を蒙る読み手ではな
これは「分有」され得る、それに値するものなのか。ある人は
のである (そもそも私が使った概念はテクストから導き出された側面が大
く、過去のコンテクストとテクストを今現在の「演技」あるい
∧解釈学という側面で、小説も役立つだろう∨などと一定の興
。 その 三の 自 問に対 す る答 えはこうであ る。 いわゆ る事
きい )
によ って足枷の かかったものではなく、「ポーズ」によって自
は「ポーズ」と「ポーズ」させることによって、小説は「演技」
あなたは『マトリックス』を観たことがありますか。
あなたは『新ハムレツト』を読んだことがありますか。
世界において、神として君臨する全能なコンピューター・プロ
物語内容や言説について熱弁を振うかもしれないのだ。映画の
ス』はどうなのか。あまり驚くこともないが、ある人は私より
ィヴを「分有」することは なかろう。 それなら、『マトリック
味を示してくれるかも知れないが 、『新ハムレツト』のナラテ
最 後 の 最 後 と し て 、 ナ ラ テ ィヴ ( 小 説 、 映 画 、 テ レ ビジ ョ ン 等 な
由であるものだ、と。
ど)の 「分有」に ついて 個人的な体験を交えながら少しだけ書
スト教のイエ ス等 々。す べてはなくても、『マトリ ックス』は
タンとしてのウイルス、仏教の反復的な世界観、終末論、キリ
グラマ、支配への抵抗を繰り返すプログラムとしての世界、サ
二〇〇 〇年二月 )か ら深い印象を 受け (やや別の使い方として)援用
き たい 。
「分有」という言葉は、
『記憶 物/語』(岡真理、岩波書店、
するのである。私が、所謂文学 (特に、小説)を専門とする友人
ある人と私を「分有」させてくれるだろう。
に勝 て る は ずが な い (そ もそ も比 較 の対象 と はならない のだが )
。言
「分有」という面で 、『 新ハムレツト』は『マトリックス』
などと話しをするとき、よく話題にのぼるのは、いうまでもな
ともいえない「もどかしさ」を感じずにはいられない。言葉を
「分有」されがたい (されない)ナラティヴは限定性から自由で
語を異にする場になるとなおさらである。そのような意味で、
く小説ではあるが、自分の読んでいないものである場合、なん
小説の場合、
「分有」していない自分を発見する。読みなさい、
換えると、私の読んだことのない (有名な中島敦の「山月記」など)
はいられないし、ある「場」においては死物でしかないことも
を「東洋一の大学者」だとレヤチーズに語らせている。これに
のかもしれない。太宰治は『新ハムレツト』において坪内逍遙
語」なのであったのではなかろうか。その時、私は疎外される
ついても私は「坪内逍遙」=「東洋一の大学者」は「分有」で
とができようか。それが当面の私が設定したいくつかの問題の
きないところがあると言うしかない。もちろん、逍遙の業績な
あるだろう。いかにすれば、ナラティヴの「分有」を進めるこ
「 物語 」は 、 共 同体と いうひ と つの 小 さな世 界の なか
り ず っと 「 分 有」 さ れ る可 能性 の少 な い 小説で あ る。私 たち
『新ハムレツト』は、
『マ ト リ ッ ク ス 』 よ り 、
『源氏物語』よ
どとは別のレベルにおいてである。
一つである。岡氏は次のように「物語」と「小説」を区別する。
で 、 そ の 共 同 体 に 帰 属 す る 者 た ちに よ っ て 共有 さ れ るの
っ て 語 られ る。 そ れ は同 時 に 、 聞き 手 の 母 語で も あ る。
が 目を つむ りが ち なのは 、 こ れであ って 、 隠せ な い「不安 」
が 普 通だ。 そして 「物語 」は た いて い、話 者の 母語によ
地域が異なれば 、「物語」を語る言葉も異なるだろう。他
(田中実、 大修 館書店、 一九九六年二月。二〇〇〇年三月 三版)は、(一
「 分有 」 の 欠 如 に よ る 「 不 安 」 か ら 自 由 で
冊 だ けを も っ て す る と )
を抱き続けるのではないか、と自問するのである。
『小説の力』
い られ る 方法 、 す な わ ちす で に 「分 有 」 さ れて い る小説 を 取
方 、 小説 は 、ひ と つの同 じ テ ク ストが 、 地 域や 共同 体 の
す る 、 さま ざま な 異 なっ た 異 質 な読 者に よ っ て 読 ま れる
境 界を 越 え 、 階層や ジ ェ ンダ ー 、そ し て 、 言語 を も 異に
点に特徴がある。( 頁)
だろう。ところが、私たちは「ナラティヴ」の日本語訳として
簡略化すると、所属をもったもの=物語、所属を離れても読
ルみ た い な もの と し て 、 多 くの 人 々に 「 分 有」 さ れた もので
教育 制 度によ って 、 時には 日本 (近代)小説を代 表す るシンボ
り上 げ て い るの だ。 いうま で も なく 、 そ れ らの 小 説が 時に は
る こと は な いの で あ る。 多 数の 読み 手を も つ小 説 とそ うで な
い小説 。『新ハムレツト』が『マトリックス』になることはま
あって 、あえて 「読ま れるだろうか」等と 「不安」に駆られ
氏にとっての「物語」は、多分私と『源氏物語』との関係と似
ず な い。 し か し 『マ トリ ックス 』が『 新 ハ ムレ ツ ト 』に なる
当てられた「物語」と岡氏のいう「物語」が相異なることに気
ているのではなかろ うか。谷 崎潤一郎訳、映画『千年の恋』、
。 そ の よ う な ナ ラ テ ィヴ の 死 滅 と 生 命 力 な どに つ い て
し れ ない )
ク ス 』 の よ うに 頻 繁 に 読 ま れ る だ ろ う ( 意 外 と 、 そ う で は な い か も
考えることも必要となろう。
可能性はあるだろう。『ハムレット』は相変わらず『マトリッ
。 愚鈍 な 読 者 ・ 聞 き 手 ・ 観客 で
( 本居 宣 長 など と の関連 はと も か く )
アニメーション『源氏物語』をいくら読み、聴き、観ても、ど
あるためであろうが、岡氏のいうような「分有」できない「物
うし て そ れが 日本 文 学を 代 表 す るの か理 解に 苦 しむ ので あ る
付 く ( ナ ラテ ィ ヴ と 物 語 の 差 に つい て は、 す でに 広 く指摘さ れてきた )
。
まれる (観られる)もの=小説あるいはナラティヴ、ということ
11
ーク の王子であり、(世襲制度であったのなら)王になり損ねた王子、将
来 に おい ては王 に なれ る存在、 王 妃 の息 子、ポ ロ ー ニヤ スら の主君、 オ
レ ヤ チ ー ズ ら の父 、 ホ レ ー シ ヨ ー の 上司 で あ る 。 他 の 人 の 立 場 は 省略 す
の学友であり忠誠の対象である。ポローニヤスは、クローヂヤスの臣下、
る。 た だ し 、 あ る 一 面 の 関 係 に おい てだ け 人 物 が 成 立し てい ない こ とは
フ ヰ リ ヤ の主 君 で あ ると 同 時 に 彼 女 の身 籠 もっ た 子 の 父 、 ホ レ ー シヨ ー
かし 、 人物 た ち の「語り 」 にす べ てを 任せ てい る のだ か ら完 璧 な「語る
確 認し て置 き た い 。 こ の 関 係性 の複 雑性 か ら物 語 は その 饗 宴 を ス タ ー ト
『 新 ハ ム レ ツ ト 』 は 「 語 り 手 」 的 な る も の が 表 面上 不 在 であ る の で、
【注記】
1
る論理は通用しないものでしか ない。あえてい うならば 、「語ること」に
させるのだ。
テク ス トへ ま で議 論を 進 めてはい る ものの、本稿 の 基調 は ナラティ ヴ を
サブ・タイトルにおいて、「公私」の問題、つまりは社会・文化的コン
よっ て「示す こと 」を 行っ てい ると も言え よう。こ れをもっ て『 新ハム
こ と 」 で も あ る 。 と い う こ と は 、「 示す こ と 」「 語る こと 」 と し て 二 分 す
一 部 の 演 劇 あ るい は 映 画 の よ う に 完 全 な 「 示 す こ と 」 だ と い え よ う。 し
5
中心課題とし ており、その延長線上に「ポーズ 」「演技」の概念操作を行
『新ハムレツト』は、全体九幕一九章(明示されているわけではない)
レツト』のテクスト属性だと判断してもいいだろう。
と し て構 成 さ れ てい る 。 以 下 、 引 用 は 『 太 宰 治 全集 5 』 筑 摩 書房、 一 九
頁
ば 、 そ う す る こ と が必 ず し も 的 を 射 て い る の で も な い のだ 。 関 根 (関 根
ト』というテクストは 、「公私」だ けをもって裁断できるものでもなけれ
れるものとし て措定し て論じていることを断っておきたい。『新ハムレツ
っ た も の で あ る 。 そ の よ う な 作 業 を 通 し て 「公 私」 と い う も のを 物 語 ら
6
」( = 一幕 一章 )、
(=五幕一章)のように幕と章を表記する。
九八 年 八 月 に 拠 る 。 な お、 頁 数 と と も に 、 例 え ば 「
~
ジ ェラルド・プ リンス『物語論の位相―物語の形成と機能』(遠藤健一
1/1
:
頁) 氏も述べ てい るよ うに、 読 者によっ て存在 し得 るも のが テク ストだ
堅 司 『 物 語 史 へ の 試 み 語 り ・ 話 型 ・ 表 現 』 桜 楓 社 、 一 九 九 二 年 一月
の乱 脈) は 作 品の 分 析に お い て様々 な障 害 と し て立 ちは だ か っ ている。
シェイクスピア『ハムレット他 』(中井正穂・永井玲二訳)集英社、一
という脈絡において、テクストの固定など夢想なのである。
も充分 あ る。 それが、太 宰 治 の作 品 となる と 一際深 刻な 問題と なると 考
それを拡大解釈して、ナラティヴの規則・核心・制度だと言えるかもし
九七九年五月。以下、引用はこれに拠る。
うに 秩序 の存 続 を 知り なが ら も明確 にそ れ を規 定す ること は でき ない の
れ ない 。 つ ま り 、 私た ち の 生 き る世 界 ― 生 の場 所 ― もな おか つ 先王 の よ
登場人物それぞれはいくつもの関係のなかで、一面的な存在ではなく多
えられる。
層 の 位 相 を も っ て い る 。現 王 で あ るク ロ ー ヂヤ ス は、 王 妃 ガー ツ ルー ド
である。
の前 義理 の弟 、 現 夫 であり 、 ハ ム レ ツ ト の 前 叔 父、 現 父 であり、 ポロ ー
7
そ れ に 、 長 編 を 読 む 時 に 、 読 者 の記 憶 や 構 成 力 は 著 し く 損 な わ れ る恐 れ
人物たちの変化無双な変身(「ポーズ 」)と、関係の複雑さ(「ポーズ」
訳)松柏社、一九九六年一二月
128
2
3
4
127
ニ ヤ ス ら の君 主 で あ り 、 国 民 の 総 領 な の で あ る 。 ハ ム レ ツ ト は 、 デン マ
7
5/1
ハムレツトの秘密、つまりオフヰリヤの妊娠は、太宰によって特別に考
案されたとい うよりは、『ハムレット』の次のくだりからヒントを得たと
考えられる。
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つま
ら で あ る 。小 説 を 離 れ てか ら発 見 で き る 何か が あ ると す れ ば 、 そ れは 所
詮小説自体とは無縁の何かである。
中国と日本の「公私」については、溝口雄三『公私』(三省堂、一九九
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「 マ タ イ に よ る福 音書」共 同 訳聖 書 実 行 委員 会 『 新共 同 訳
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されている。
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著 、ハ ン ・ス ン ワン 訳『公 論場 の構 造変 動』 ナ ナム
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)、 二 〇 〇 一年 十月 。日 本 語 訳と し て は、 ハー バ ー マス 『 公 共性
)東京大学出版会、
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のは、小説におい ては「隠せない」否「隠さないこと」「すべてを表に出
ついてである。
「ポー ズ 」
「演技」概念については諸賢の御批判をまつ次第で
は、日本における『新ハムレツト』と並ぶ『ハムレット』関連ナラティヴに
(九州大学大学院博士課程三年)
す こ と 」 を基 本 原 則 と し て い る こと か ら 求 め ら れ る 。 歴 史 、 社会 など に
る 。 なぜ な ら 、 自 体 的 な 完 結 性 を 持 った の が 小 説 の ナ ラ テ ィ ヴ な のだ か
持 でき るので あ る。しかし 、小 説は 「隠す こと 」は そも そ も不可 能 であ
ない こ と 」 を 発 見 す る 。 そ の よ う な ナ ラ テ ィ ヴ は 流 動 的 な 構 造 の 中 で維
ある。
「ポーズ」
「演技」についての議論はこれで締めくくることになる。次の課題
【付記】
火野葦平原作、陸軍省後援、情報局国民映画、松竹、一九四四年十一月。
ども参照。
ラーの『パワーシフト』(徳山二郎訳、フジテレビ出版、一九九一年十な
二 〇 〇 一 年 十 一月 。 こ のシ リー ズを 参 照 し て も ら った 。 ア ル ビン ・ト フ
佐々木毅・金泰昌篇『公と私の思想史』
(公共哲学
の構造転換』(細谷貞雄訳)未來社、 一九七三年六月参照。
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とし
二〇〇四年三月一八日最終検索)
「ギリシャの
二〇〇四年三
聖 書 』日
六年一二月)を多いに参照してもらった。引用頁はそれによる。
り、「はらみ 」(
本聖書協会、一九九一。
)からの着想だった可能性が高い。(坪内、八〇
頁 浦 口、 八 九 頁 ) こ の よ う な 例 は、 外 に も 先行 研究 者 た ち に よ って 指 摘
「蘭の神話と象徴」によると、
「西洋では蘭の名称がギリシャ語の
(睾丸)から由来したのだが、その理由は蘭の球根がさも睾丸と似ている
か ら であ る。 一五 九〇 年 代 の イ ギ リ ス で『 紫 蘭 』 は 男 根 を湾 曲 に 指す 言
葉であった。シェイクスピアは『ハムレット』において
たのだが、そこには男根の意味があったのである。」
(
の球根をもって生まれる子の性別をコントロールでき
ると考えたと」いう記述も見られる。次のサイトを参照。
(
女性たちは蘭
月一八日最終検索)
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おいて私たちはそれらのナラティヴの中で「隠されたこと」「語られてい
小 説 のナ ラ ティ ヴ が、 他 のナ ラ ティ ヴ より ナラ ティ ヴ の中心 と なれ る
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