ジェネティック・レボリューション - タテ書き小説ネット

ジェネティック・レボリューション
ナマケモノ
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︻小説タイトル︼
ジェネティック・レボリューション
︻Nコード︼
N4929X
︻作者名︼
ナマケモノ
︻あらすじ︼
50年という歴史的に見てごく最近に突如として人々に発言した
能力という概念。
未だ世界に異能という考えが完全になじみきったとはいい難い。
そんな不安定な時代を生きる角川 七音が追いかける謎。
それはテロリストとしてこの世を去った兄の真実。
追求の果てに得られる結果は果たして少年に何をもたらすのか。
数々の人々との出会い。
見つけていく大切なもの。
1
一つ一つ、柔らかな土を踏みしめるように少年の心は成長していく。
2
第1話︱学校︱
カツ、カツ、カツ、カツ−−−−−−−。静寂に包まれた教室内に
甲高くチョ
ークを黒板に打ちつける音が響く。
音に続き、繊細と呼ぶには程遠い、歳のいった男性教諭の無骨な手
で文字
が描かれていく。新たに書き足された板書をみてそれをノートに書
き写す。
授業の行われている教室。
当然ノートをとっているのは俺だけではない。
カリカリ、サラサラと各々のやり方でペンを繰り、勉学に励んでい
る。
ふと教室を見渡せば真面目に授業を受けているものは多い。
物事には手を抜いていいものとそうでないものに分かれる。
この授業は手を抜いてはいけないものなのだと、それを皆理解してい
るのだ。
﹁グォーッ、グォーッ。﹂
3
今年2年生になった俺たちだが、この教師の授業を受けるのは決し
て初
めてではない。
1年のときにも経験済みなのだ。
そしてその経験は多くのものにとって苦いものとなった。
泣きを見た人間は数知れず。彼らは一人残らず後悔したことだろう。
なぜ自分はノートを取らなかったのか、と。
この教師のやり口を学習した彼らは二度とこのような事態は招くま
いと誓い
を立てた。その結果が今俺の前にある秩序の保たれたこの静謐な空
間なのだ。
﹁スピーッ、ムニャムニャ。﹂
この教師の生徒に自主的に真面目に授業を受けさせるという思惑は
見事成功
したといっていい。
しかしながら何事にも例外はあるものでこの世に100%や絶対と
いうもの
4
はありえないのだ。この状況において眠っている強者。
今現在このクラスにおいて眠っている猛者。
あろうことかそいつは俺のとなりにいるのだ。不真面目な授業態度
が後に自
分にどう帰ってくるか、一度それを経験したならそうは忘れそうに
ないものだが。
覚悟の上で寝ているのか何も考えていないだけなのか、はたまた授
業を受ける
必要もない桁違いの頭脳を持ち合わせた天才児か。
いずれか、と聞かれたならば俺はこう断言できる。1番目は問題外
で2番
目は大正解。3番目は半分正解。よく天才と馬鹿は紙一重だといわ
れる。
半分正解。ようするに、筋金入りの馬鹿なのだ、こいつは。
ベクトルさえ変えれば天才になれるのではないかと思えるほどに。
﹁よし、今日はここまでだな﹂
区切りのいいところで板書を書き終え、腕時計をみて終了を宣言す
る教師。
5
そのタイミングはちょうどよく、宣言の後教室に備え付けられたス
ピーカ
ーからチャイムの電子音が鳴り響く。
合わせて、生徒たちも後片付けを始め、にわかに教室が騒がしくな
る。
先ほどまでの水を打ったような静けさは一瞬で消失した。
それでも隣席の男は目覚めない。
1時間目から3時間目が終わる今の今までずっとこの調子だ。
よほど深い眠りについているのか休み時間に入った今も起きる気配
は微
塵もない。
流石に眠りすぎだろう、とは思いつつも生憎起こし
てやろうなどという甲斐性を俺−−−−−−−−−−−−角川 七
音は持ち合わ
せていない。
起こしてやったところで俺にメリットがあるわけではないからだ。
それに見ようによっては起こさない方が親切ということもあるだろ
う。
6
睡眠を妨げられるということはそれだけで不快なものだ。
隣席の人間についてはいつものように無視を決め込むことにする。
教科書をしまう代わりに1冊のカバーをかけた文庫本を取り出す。
退屈でたまらない休み時間。
それもいつものこと。もう慣れた。
俺は本に没頭して次の授業までの時間を潰すことにひたすら努める
ことにした。
7
第1話︱異能力︱
学生にとってあるいは社会人にとっても憩いとなる昼休み。
午前までの疲れと空腹を食事によって労う時間。
それは俺も例外ではなく机の上に弁当の包みを広げている。
黄色い楕円型の二段になったランチボックスにはそれぞれおかずと
白米
が分けてつめられている。
大きさは小さめ。
育ち盛りには厳しいだろうという意見もあるかもしれないが俺は小
食なので
これで十分なのだ。
対して俺の対面にいる男は大食らいで売店で買ってきたパンが4つ
5つまと
めて机に置かれていた。
見ているだけで小さい自分の胃袋が余計に膨れてしまいそうだ。
﹁いやー、快眠ってこういうことかぁ?溜まってた疲れが吹っ飛ん
だぜ。﹂
8
﹁それはなによりだ。睡眠不足は現代人の敵だからな。﹂
戦利品のひとつ、カツサンドを口いっぱいにほお張りながら正面の
やつが
言うことに少々の皮肉を交えて相槌を打つ。
先ほどまで俺のとなりで眠っていたこの男は五反田 亮介という。
授業態度は至って不真面目。
極度の勉強嫌いで元のよくない頭がさらに拍車がかって残念なことに
なっている。
が、それでも人間取り柄のひとつや二つはあるもので、その知能を補
うかのような高い運動能力がその体にそなわっている。
時折行われる体力テストの成績は常にA評価。
通知表でも満点以外をとったことはないらしい。要するに、この男
は脳みそまで
筋肉でできているといっても過言ではない典型的な体力馬鹿なのだ。
﹁それにしてもカツサンドとはなかなか豪勢なものを手に入れたな。
得意の体力にものをいわせたか﹂
9
﹁べつにたいしたことじゃねーよ。あんなモンちょいちょいちょいっ
と人ごみ避けていけば簡単に買えるぜ?﹂
﹁普通の人間にはそのちょいちょいちょいが難しいんだ。相変わら
ずそ
っち方面のスペックは無駄に高いな、お前は﹂
﹁ありがとよ。食うか?﹂
俺の皮肉に気づきすらしていない。礼を言うような場面ではないだ
ろうに。
勘違いの上、差し出されるカツサンド一切れ。
有難く受け取り、無言で五反田の元へ俺の弁当箱から適当なおかず
を見繕っ
てひょい、と箸でつまんで開けられたビニールの上に移動させる。
無料でものをもらおうなどと都合のいいことは考えていない。
無料より高いものはないというくらいだ。
等価交換は世の必定。見返りは与えなければならない。
取引を終えて俺はもらったばかりのカツサンドにかぶりつく。
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ジューシーな肉汁が俺の口中を満たし、味覚を刺激した。
貰い受けたカツサンドを味わう最中、五反田が俺の貢物に対する抗
議の声をあげた。
﹁おい、七音。なんで野菜なんだよ。俺は肉をやったんだから俺にも
そっちのミートボールくれよ。﹂
取引材料として俺が渡したのはトマトにレタス、ブロッコリーの色
とりどりの野菜。
五反田本人はこの結果にいささか不満が残るらしい。
ふむ、どうやって説き伏せたものか。そこで俺はもう一品追加して
やることにした。
それを弁当箱ごと持ち上げてザラザラと箸でビニールの上に移して
やる。
﹁⋮⋮こいつはどういうことだよ。俺はそのちょうどいい塩梅にと
ろっとした
あんかけのかかったミートボールを寄越せって行ってんだよ!
それなのに渡されたのは、豆とくらぁ!﹂
﹁落ち着け、五反田﹂
﹁こいつが落ち着いていられるかってんでぃ!﹂
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宥めるもすっかり興奮しきっているのか口調が江戸っ子じみている。
昼食のおかずでここまで怒るとは、恐ろしきは食い物の恨みという
ことであろうか。
もっともその癇癪玉を爆発寸前まで導いたのは誰であろう俺自身な
のだが。
まあここまでは予測済みだ。そしてこれから起こることも。
﹁いいか、五反田。お前は肉をやったから肉がほしい、そういった。
これは豚だろうと牛だろうと、はたまた多くの人間が忌避反応を示
すであ
ろう蛇だか鰐の肉でもいいとそういうことだな?﹂
﹁うん、まあな。﹂
⋮⋮そうなのか。
﹁では、その豆が何なのかお前に教えてやろう。それは大豆という
ものだ。
そもそも肉の定義とはなんだろうか。俺はこう思う。
食感や味も大事かもしれない。だが食事というものは元来栄養を摂
取するとい
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うためにとられる生き抜くための行為だ。もっとも重視されるのは
栄養。
食材に含まれる栄養分。ビタミンという観点から見るだけでも、
Aが足りなければ視力の低下、Bが足りなければ脚気、神経痛、反
射神経の低下、
Cであれば壊血病等々。
栄養の不足は多種多様の病を招く原因となる。過剰な摂取ももちろ
んのことだがな。﹂
ここまでいったところで五反田の真面目に保っていた顔が崩れ、
目を丸くしてぽかんとした表情に切り替わる。
こいつは何をいっているのだろう、と。
首がかくんと半ば自動的に、恐らく無意識にだろう。45°ほど傾
いた。
﹁肉には、多くのたんぱく質が含まれている。そして大豆にはそれ
に負けな
いだけのたんぱく質が含まれている。畑の肉というほどの別名で呼
ばれるく
らいにな。知っているか、世の中のベジタリアンがそのたんぱく質
不足を補
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うために食べているのが何であろう豆類だ。ゆえに俺はこう結論づ
ける。﹂
最後のカツサンドを口にほうり、咀嚼してパックのお茶をズズッと
いささか
下品な音をたててすすり、口の中のものを胃袋に流し込んでやる。
﹁大豆も、肉﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮肉?﹂
﹁そうだ﹂
﹁にく﹂
﹁ああ﹂
﹁にくぅぅぅぅぅーーーーーーーーーー!!!!!﹂
五反田がもろ手をあげて喜色満面の笑みを浮かべる。椅子が後ろに
傾き前の2つ足が地を離れかろうじてバランスを保っている。
理解の放棄という名の納得。ここに契約は完了した。
バカのコントロールは、ちょろい。顔には出さず内心で含み笑いを
する。
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しかし俺は思うのだ。こいつはいつか絶対に詐欺師に引っかかる。
目の前で俺の渡した野菜ともども清清しく大豆を食す阿呆をみて確
信する。
とは思いつつも何とかしてやろうとは微塵も思わない。
なぜならそういうのは自分で気づいてこそ意味がある。そうだろう?
ガツガツと自分の昼食にがっつく目の前の阿呆を冷めた目で観察し
つつ
俺は自分の箸を粛々と動かし昼食の消化に努めた。
校内、中庭近くの玄関に設置された自動販売機前。
昼飯を平らげた俺と五反田は飲み物を買いにきていた。
﹁しかし、あれだけのタイムロスをしてまで購買の人気商品
を手に入れてくるとはたいしたものだな。化け物か、お前は﹂
驚いたことに俺たちの通うこの緑翠高校には食堂がない。
必然、弁当を持参していない者は購買へと赴く。
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食堂のある高校よりも購買の利用率が高くなることは推して知るべ
し。
ゆえに開店5分で売切れてしまう競争率の高い人気商品も存在する。
その中のひとつがカツサンド。手に入れただけでも驚きだがこの男。
朝から眠りこけて起きたのが昼休み開始5分後。
体内時計が知らせたのか覚醒した体は食を求めて購買へと駆けた。
そのハンディキャップを背負いつつまともでかつ上等な昼食を手に
入れたの
だから素直に感心する。
食後の一杯に何を飲むか悩んだ末に無難に緑茶を選択する。
なにやらわからない新製品も出ているが俺は冒険家ではない。
そういうのはこういう人間の役割だ。
俺の後に続いて硬貨を投入した五反田は寸分の迷いなくその新製品
を押した。
﹁勇者の薬草﹂。缶にプリントされたラベルにはそう書いてあった。
﹁⋮⋮やはり選んだか。﹂
﹁おう、だってどんな味か気になんじゃん。﹂
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カシュッと小気味いい音を立ててタブを起こして350ml缶を煽
る。
﹁⋮⋮どうだ?﹂
﹁⋮⋮まずい。けどなんかもう一杯いきたいような⋮⋮﹂
﹁とんだマゾヒストだな﹂
黙って俺も購入した緑茶に口をつける。
口の中を洗い流すかのような軽い渋みが口中に広がる。
食後の一杯にはちょうどいい心地のよさ。
﹁別に俺は全然すごいうちにはいんねぇよ﹂
先ほどの俺の言葉に対する返答だと気づくのに少々の時間を要した。
﹁そりゃあ普通の人間と比較すりゃあ俺は結構すごいうちに
入るかもしんねーけどさ、世の中にゃあ俺の運動神経なんか何の自慢
にもなんねぇそれ以上の力持ったやつらがうじゃうじゃいんじゃね
えか。﹂
﹁⋮⋮そうだな。﹂
五反田の言うことは決して謙遜ではない。
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第3者的視点から客観的に分析してもそう思う。
今から50年ほど前に話は遡る。
歴史上、人間は多くの艱難辛苦に見舞われ、そのたびに
それらを乗り越え進化を果たしてきた。
訪れる多くの転機。その中の一つとして50年前にもそれは起こっ
た。
世界中で起こった不可思議な現象の数々。
各地で不思議な能力に目覚める人々が現れ始めた。
いわゆる超能力。
マッチやライターを使わず何もない空間から火を
生み出したり、飛行機やパラグライダーも使わず単身飛行をしたり、
自由自在に雨、雪、台風天候を自在に操ったり、etc、etc⋮
⋮。
当然その出来事は多くの人々の困惑と混乱を招いた。
また、軋轢も。一般人とそうでない人間の差別。
力ある人間の力なきものへの迫害。
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犯罪の増加。
状況に適応して能力の軍事利用を目論み、自国の利を得んとする
政治的駆け引き。
かくして世界は誰も予想し得なかった変革の時を迎えた。
それぞれがそれぞれに適応、順応しようと変わっていく。
俺たちの住んでる日本もその影響を免れることはできなかった。
能力を使って犯罪を起こす者、それに便乗する者。
逆に力の使い道に苦しみ、自殺する者。
このようなケースは数えればきりがなかったという。
それでも微々たる努力の積み重ねの末徐々にそれらのトラブルは
なくならないまでも減少の一途をたどっていった。
そして50年経った現在。
ある程度政策も整備され能力者のことも加味したものになっていっ
た。
大きなものとしてまず政府が能力者対策のための組織をつくったこ
と。
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独立治安維持組織、ゴスペル。
とはいえその歴史は浅く、できたのは約10年前。
能力者のかかわる事案の解決を目的としている。
毒をもって毒を制すとは少々たとえが悪いかもしれないが、このゴ
スペルという組織
は多くの能力者を抱えており、主にその能力者たちが事件の解決に
あたる。
平たく言ってしまえば警察のようなものだ。
この組織の効果は大きく、犯罪率の減少、検挙率の上昇、
そして何より、怪我人、死者の数が圧倒的に減った。
毒は毒となりえず、薬の役目として正常に社会の歯車の機能を果た
している。
もうひとつ大きな改革として教育機関の改革が挙げられる。
一般的に能力は14∼17歳くらいの間に発現することが多い。
思春期真っ盛りの年齢だ。能力者の生まれた初期の種々雑多なトラ
ブルで
何が一番多かったかというと能力の暴走が挙げられる。
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自分に突如として発現した能力に戸惑い、制御できず勝手に発動、
暴走
というパターンがもっとも多かった。
当時はまだ対策のたの字もなく能力者を止めるためにはやむなく人
海戦術
で押し切り、能力者を殺傷というケースもざらにあったらしい。
そのような悲しい事故を防ぐために打ち出されたのが能力者専門学
校での教育。
能力が発現および発現の兆候が見られる子供たちはその能力者専門
の学校へ
強制的に転校させられる。
そのために俺たちぐらいの年齢の子供には半年に一回能力の有無を
調べる
検査が義務付けられている。
対象年齢とされる中学2年生からその検査は始まり、今、高校2年
生に至る。
留年することもなくここまで来たので俺は今17歳。
検査は春と秋に行われ、すでに春の分の検査は終えている。
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次の秋の検査が最後でそれさえ終われば以降検査はない。
18歳以上の人間に能力が発現した例はないからだ。
それは原則とでもいうべきもので、50年前に最初に覚醒した人々
もそうだったという。
能力が発現したのは少年少女ばかり。
さまざまな仮説が今も飛び交っているものの、確実にこれだと
いえる理論は未だ証明に至ってはいない。
ちなみに発現した能力は生涯消えることはなく、
歳を経て弱まりはするものの、決してなくなることはない。
一生折り合いをつけてなんとか付き合っていかなければならないわ
けだ。
本当に。そう本当に望まずして能力を発現した人間からすれば
はた迷惑な話である。
とはいえ能力の発現する確率はほんの2%に満たないほどなのだと
いう。
100人に二人いるかいないか。
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そのうちの一人になることは果たして幸か不幸か。
渇いたのどを渋い緑茶で潤す。ふっと一息。
そんな俺の落ち着いた心境をないがしろするかのように
俺たちのいる前を慌しく、女子の集団が通り過ぎて騒々しくなって
いく。
全員漏れなく体操着姿。
見覚えのある顔がちらほら。同じクラスの女子だ。
﹁あれ、七音。次って俺らも体育じゃね?教室戻って着替えねえと﹂
心底うきうきといった様子で飲み干した缶をゴミ箱に入れて
教室に向かおうとする五反田。
﹁違う。朝の話を聞いていなかったのか?武田、午後から
出張でいないから男子は教室で自習だぞ﹂
﹁ナ、ナンダッテーッ!!﹂
だが俺はその背を容赦なくバッサリと言葉の刃で切り捨てる。
飲み干した緑茶の缶をゴミ箱に放り投げる。
放物線を描いて吸い込まれるようにそれはゴミ箱にボッシュート。
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教室に向かおうと歩き出す。
五反田を見やれば奴は放心していた。
まあ、運動を生きがいにしているような男だ。
その機会が失われればショックも受けるか。
また一人、一人と俺と放心している五反田の前をキャピキャピと
やかましい女子が通り過ぎていく。
だからなのかもしれない。その女が目に付いたのは。
その女はひどく物静かで誰と一緒に歩くでもなく一人。
それでも一際存在感を示しているように俺には見えた。
もっとも、外見の時点で大分人目につくかもしれない。
そいつは女子らしくなく髪の手入れが一切なっていなかった。
それなのに長髪なものだからいっそうひどい。
枝毛の数は数え切れず冬の庭ではしゃぎ回る犬のように、縦横無尽
に跳ね
回っている。
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背は女子にしては高めで160センチは超えているだろうか。
表情は至って無表情。
一人でいるときにニヤニヤと笑っていたならばそれはそれで気持ち
悪いが
俺がいいたいのはそういうことではなく、それがデフォルトで冷た
い鉄のような
印象を受けたとでもいえばいいのか。
それなのに下手に顔立ちは整っているものだからある意味マッチし
ているといえ
なくもない。
小波 優。
その名前は校内において有名だ。
成績優秀で運動神経も抜群と優等生のような誰もが羨むステータス。
だがその反面で遅刻や早退も多くさらにウワサでは喧嘩を
しているだとかなんとか。
実際偶然だが小波が傷を負っているところを見たことがある。
ふとした拍子にまくれた袖から仰々しく巻かれた包帯とわずかな
25
切り傷がそこから覗いてた。
だが所詮ウワサはウワサ。
興味もなければ好奇心に駆られることもない。
ただ名前をよく聞く。それだけ。
俺の価値観からすればテレビの中の芸能人となんら変わりない。
周囲がどれだけ騒ごうが俺には関係のない話だ。
その件の人物が通り過ぎるのを横目で流し見してから俺は
固まった五反田をせっつき、進路を教室へと向ける。
ふと、目の前の掲示板が目に付く。
この前行われていたテストの成績順位が貼り出されていた。
上位30名の成績優秀者は総合点数、クラス、名前と供に貼り出さ
れるのだ。
大変困ったプライバシーもへったくれもない制度である。
その最上段、輝かしく見えなくもない1という数字の横に
﹁今回も、か。まるで出来レースだな﹂
26
それがさも当然といわんばかりに小波 優という文字がプリントさ
れていた。
27
第1話︱同級生︱
本日のカリキュラムすべての終了を告げるチャイムが鳴り、
苦行を終えた学生たちはすぐさま席を立つ。
ある者は部活動、ある者は友人同士で街に繰り出す計画を立ててい
たり。
さて、どこかによって帰るのも悪くはない、そんな気分だ。
ついでに五反田も誘ってみよう。
そう思って辺りを見渡してみたものの見当たらない。
内心で舌打ちする。
いなくてもいいときにのこのこしゃしゃり出てくるくせにこちらから
アクションをかけようとすればこれだ。
なんとかみ合わないことか。
些細なことに少々の苛立ちを覚え、何気なく歯噛みする。
そんな折に話しかけてきた人物は非常に間が悪かったといえよう。
事実俺の対応は褒められたものではなく︱︱︱︱︱︱。
28
﹁か、角川くん。﹂
﹁何だ。今俺は忙しい。﹂
半ば反射で声の主を確認せず応答。
同時に思索をめぐらせる。授業は終わったばかり。
いくら五反田といえどまだそう遠くにはいっていないはず。
追ってみるか?
﹁その、ちょっと、伝言があるんだけど⋮⋮﹂
﹁何だ﹂
思考を邪魔されてついつい物言いがきつくなってしまう。
ゆれる両天秤。
五反田を追いかけてまで街に繰り出す気分か否か。
悩みどころであるがゆえ答えに窮する。
﹁えーと、五反田くんが自分の代わりに角川くんが掃除してくれる
っていっていたんだけど、本当?﹂
﹁⋮⋮﹂
29
伏せていた顔を上げて目の前に立っている声の主を確認する。
小柄な女子だ。髪は肩につくくらいのショートカット。
視線はうつむきがちで華奢な体躯もあいまって全体的に弱々しい
雰囲気を醸しだしている。
近年は∼系という言い方が流行っているがそれに当てはめるならば
小動物系という言い方が一番しっくりくる。
クラスメイトであることは間違いないのだろうが、いかんせん俺は
クラスの人間に興味がなく、交流もないためにクラスメイトの名前
はろく
に覚えていない。
だが名前を覚えていずとも会話は成立するもので⋮⋮
﹁いや、そんな話は聞いていないな。五反田に任された覚えはない﹂
﹁あ、そうなんだ﹂
それを聞いてあからさまにシュンと落ち込む目の前の女子。
その姿に思わず憐憫の情を抱きそうになる。
それくらいの薄幸そうな雰囲気を目の前の女子は醸しだしていた。
30
いかにも貧乏くじを引いて生きていそうなそんな印象。
何もしていないはずなのに何故か湧き上がってきそうになる
罪悪感を押さえ込む。
﹁用はそれだけか?なら、俺は帰るぞ。﹂
﹁あっ、うん引き止めてゴメンね、角川くん。﹂
もとより返答を待つつもりはない。
目の前の女子が何か言い終わる前にカバンを手にして席を立ち横を
通り過ぎる。
決めた。
もとより五反田がいなければならない用があるわけでもない。
誘おうと思ったのは単なる気まぐれだ。
一人で街をぶらつくことにしよう。
﹁おっ﹂
31
﹁あっ﹂
街に繰り出す前に俺は校内の図書室に寄っていた。
図書館ほどとはいえないものの、学校の図書室にも割りあい
豊富な図書が揃っているもので、俺はよくこの学校の図書室
を利用している。
今も読み終わった本を返却して新しい本を借りてきたところだ。
図書室を出て昇降口に向かう五反田と偶然鉢合わせたのはそんな
折だった。
そこからはほとんど思考するまでもなく体が反射的に動き、気づけば
逃げ出そうとしていた五反田の襟首を引っつかんでいた。
﹁どうして逃げるんだ、五反田?﹂
﹁ち、違う!俺は何もしていない!﹂
﹁何もしていないなら逃げる必要はないだろう﹂
﹁俺はお前を売ったりなんか断じてしてねぇ!﹂
﹁⋮⋮きもちのいい自白をどうもありがとう。﹂
32
﹁だ、だからやってねぇって!﹂
﹁あー、分かった分かった。一応言い訳は聞いてやるから、いって
みろ。﹂
五反田の襟首をしっかり掴んだまま下駄箱から外履きを取り出して
履き替える。
器用なことに五反田も襟首をつかまれた姿勢のまま首をすくめて高
さを
調節をしながら下駄箱から靴を取り出す。
⋮⋮傍から見ればたいそう奇妙な光景に見えたことだろう。
男二人がくっついて靴を履き変えているこの光景は。
履き替えて玄関を出る。流石にゼロ距離でくっついて歩きたくはな
い。
男二人ではむさくるしいことこの上ないので、逃げないよう釘を刺
しつつ五反田の襟首から
手を離してやる。
五反田が口を開いて自白をし始めた。
﹁でな、七音、お前を売ったのはな⋮⋮﹂
33
﹁ほう﹂
﹁違う!間違った!今のは単なるいい間違え!﹂
まあ、俺はこいつが黒だと知っているのでいまさらどう弁解しようが
一向に気にしないのだがそれでも弁解の第一声が罪の告白とはいか
がなもの
だろうか。
ジト目でにらむ俺を前に五反田は大きく咳払いをひとつして仕切り
なおす。
﹁ウォッホン。えーとだな。まず授業が終わって俺はすぐに教室を
出ようと
したわけだ。その速度、まさに電光石火のごとく!
俺の通った道には稲妻が閃いたもんさ。
だが、そんな俺に追いつく影が一つ。なんと委員長ではあるまいか。
女子の身でありながらその身のこなしも電光石火。瞬く間に俺は追
いつかれたよ﹂
﹁⋮⋮電光石火で動く女子高生とはいかがなものか。﹂
委員長。俺に話しかけてきた女子のことだろうか。
34
﹁そして!捕まえた俺に委員長ーーーあー、委員長っていちいちい
うのも
微妙だな。えーと不二家がな、こういったんだ。
掃除をちゃんとして、と。俺の体を電光石火の衝撃が走りぬけたよ。
﹂
﹁好きな、電光石火﹂
﹁で、だ。俺はそこで咄嗟に言い訳を考えついた。
俺の虹色の脳細胞フル回転﹂
﹁幸せそうな思考回路だな﹂
﹁大事な用があるから今日だけは無理なんだっていったら不二家が
じゃあしかたないって折れてくれたんだよ。
フフ、我ながら自分の言い訳作りの才能に恐れを抱いちまったぜ。﹂
﹁なら、どうして今ここで俺の追及を受けているんだろうなぁ。﹂
﹁でもな、言い訳はうまくいったんだけどよ。でもその後の不二家が
なんていうか、不憫でよぉ。
思わず七音のことが口からついてでてな、いっちゃったんだよ。
35
そういやぁ七音に頼んであるんだったって。やー、はは、俺、いい
やつ﹂
五反田がポリポリと照れたように後頭部をかく。
⋮⋮抑えろ。まずは話を最後まで聞こうじゃないか。
﹁けどな、そんな俺がまっすぐ帰ろうとしてたのによ、
運悪くウッチーに見つかっちまってなぁ。﹂
ウッチーとは宇都宮教諭のことだ。担当教科は数学。
俺たちのクラス担任でもある。五反田の成績は推して知るべし。
故に五反田はしっかりと宇都宮教諭にマークされている。
このように補習と臨時課題が追加されるのも割合いつものことだ。
﹁んで、職員室に連行されて前のテストの補習プリントこんなん。﹂
そういってカバンから取り出したるは厚みのある20枚ほどの
B5のプリントの束。
補習のプリントというからにはあらゆる教科の最低限かつ最重要の
知識が
ぎっしり書き込まれているに違いない。
36
それすなわち宇都宮の愛といっても過言ではないだろう。
﹁⋮⋮それで?﹂
﹁ん?後はそのまま玄関に向かって七音と鉢合わせて今って感じだ
けど?﹂
﹁で?﹂
﹁いや、で?、って他に話すことなんかあったっけ?﹂
﹁俺をお前が言うところの仕方なくかつ断腸の思いで売り払った理
由とは?﹂
﹁あ、あー、あーあー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮判決は有罪でいいか?﹂
﹁異議あり!﹂
﹁却下する!﹂
両手はグー。それでもって五反田の両こめかみを固定。断罪。
﹁ーーーーーッッッ。ぐあああぁぁぁぁーーーッッッ!!!﹂
最初こそ声をこらえようとしていたもののそれはほんの数秒もたず、
口から地獄のそこから響き渡っているといっても違和感のない断末
37
魔の
叫び声をあげて五反田が悶絶する。
俗にいうグリグリである。力の弱い人間でもアラ不思議。
最小の力でも最高の痛みを引き出せます。
それにしても五反田の苦しみ方は予想外であまりにも声が大きいもの
だから周囲に人がいないか反射的に気を回す。
こんな状況を見られていらない誤解を受けたくはない。
そんな風に辺りを見回していると俺たちの教室が目にとまった。
何か動いている。
まだ人が残っているのか?注意してみるとそれは先ほど俺に話しか
けてきた
女子だった。
教室の端から端。
女子の細腕ではやはりそれは重いのかえっちらおっちらといった様
子で机を運んでいる。
掃除をし
38
ているのか⋮⋮?遊びであんなことをしているわけではあるまい。
今の今まで何往復も何往復も。
先ほど見たときの印象に違わずどうやら本当に貧乏くじをひく人間
であったらしい。
ふむ。よく考えれば責任の一端は掃除をサボった五反田にもあるわ
けだ。
俺が自分で刑を執行するのもやぶさかではないが、もっと適した方
法があるじゃないか。
﹁⋮⋮五反田、お前の刑が決定したぞ。﹂
﹁い、今のが、刑じゃ、な、かった、だと⋮⋮!?﹂
息も絶え絶えの憔悴しきった五反田を歩くよう促し今来た道を戻る。
目には目を、歯には歯をかの古代文明の法典の有名な一説だ。
何をさせるつもりか、などここまで言えば後は説明するま
でもないことと思うので説明は割愛する。
教室の前、ドアの数歩手前まで来て俺たちは立ち尽くしている。
39
教室の中からは見ようとしない限り見えない場所。
教室内からはせっせと机を運ぶ物音がする。
こっそり中をうかがってみればどうやら委員長こと不二家一人だった
というのは俺の見間違いだったらしい。
物音は二つ。
少し驚いたことに、それは昼間見かけた校内でも一、二を争う有名
人と
いっても過言ではない、小波 優だった。
﹁えーと、小波さん。手伝ってくれてありがとね。﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁小波さん、放課後に用事とかなかったの?迷惑じゃなかった?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁そ、そっかぁ﹂
アハハ、と苦笑いしつつ言葉を濁す不二家。このやり取りを見ただ
けで
俺は今までどういうやり取りがされてきたのか軽く理解できた。
40
場を和ませようと努力する不二家。
対して小波は無愛想に、見ようによってはめんどくさそうに応答。
結果的に不二家の努力は空回り。
それに無意識のうちに力関係も構築されているのではないだろうか。
﹁こ、小波さん。その机運び終わったら⋮⋮﹂
本人にその気はないのかもしれないが傍から見ている分にはジロリと
いった表現がしっくりくる、そんな目つきで小波は机を持ったまま
立ち止まって不二家を見やった。
﹁えぇと、やっぱり掃き掃除私がやっておくね⋮⋮﹂
完全に小波の立ち位置が不二家を上回っている。
あれは果たして素でやっているのだろうか。
ある意味一本筋の通った生き方だといえなくもない。
中の様子を伺ってから、なおも躊躇して教室にはいろうとしない
五反田を叱咤する。
﹁なあ、七音よぉ。本当に行かなきゃ駄目か?﹂
41
﹁ここまできて怖気づくこともないだろう。そもそもお前の蒔いた
種だ。
拒否権はない。﹂
﹁なんていって入ればいいんだよ﹂
﹁そんなものはなんだっていいだろう。それくらい自分の言葉で考
えろ﹂
﹁ぐぬぬ⋮⋮﹂
突き放すような俺の言葉に歯軋りする五反田。
やがて覚悟を決めたのか勢いよく教室に入っていった。
俺も後に続いて入っていく。
﹁あれ、五反田くんと角川くん?どうしたの?﹂
﹁お、おう、そ、その、だな⋮⋮。き、今日は天気がいいなぁ!﹂
﹁え?う、うん、そうだね?﹂
不二家が突然のことにどうしていいかわからないけれども
とりあえず反応をしておこうとでもいう風にきょとんとし
つつも律儀に五反田の相手をする。
42
﹁っ⋮⋮。だ、だから⋮⋮﹂
なおもいいあぐねる五反田。
一度嘘をついたことで話しにくくなっているのか歯切れが非常に
悪い。
⋮⋮しょうがない。このままでは話が進まない。
助け舟の一つでも出してやろう。善意ではない。決して。
これはあくまで俺の欲求を、五反田に俺を謀った罰を与えるためな
のだ。
と、内心でつぶやく。
﹁今のを要約するとな、掃除をサボってすみません、だな。﹂
﹁え、でも五反田くんは大事な用事があったんだよね?﹂
﹁いや、それはーーー﹂
五反田が口を開きかける。
随分と遅いものだがようやく自分で罪を白状する気になったらしい
が、機先を制するように目の前の女子ーーー不二家といったかーー
ーが
43
閃いたといった様子で笑顔になる。
﹁そっかぁ。ここにいるってことは用事が終わったんだ。
それで掃除の事思い出して手伝いにきてくれたの?。嬉しいな。え
へへ﹂
⋮⋮⋮⋮バカか、こいつは。
思わず口をついてでそうになる言葉をのど元でどうにか飲み込み、
内心で
そのバカさ加減にあきれ返る。まず疑うべきは目の前の人間が嘘を
ついていた
という可能性だろう。
いや分かっていて見逃した、あるいは今もその前提が成り立ってい
る上で追及を
避けているという可能性もある。
だが目の前の女子はそんな狡猾なタイプにはとても見えない。
人をだますというポジションから遠く離れたバカがつきそうなほど
の正直なタイプだ
と思う。
44
もっとも人は見かけによらない。
目の前の不二家という女子についてろくすっぽ知っているわけでも
ない。
そんな不二家という人間について混乱しつつも状況は進行する。
不二家の都合のいいととれる解釈。
五反田はそれを不二家の優しさと受け取ったらしい。
何故か妙に気合の入った様子で
﹁あ、ああ!実はそうなんだよ!やあ、やっぱり誰かに掃除を
押し付けるってのはいけねぇよな、うん!﹂
溌剌として掃除にとりかかった。
五反田の台詞が若干勘に触ったがそれはこの際だ。
無視してやることにする。
﹁俺、何すればいい!?﹂
﹁じゃあ、小波さんと一緒に机を運んでくれるかな?﹂
﹁おっけぇぇい!﹂
小波 優は俺たちが教室に入ってきたのもまったく気にせず
45
ただ淡々と机を運び続けていた。
まるで俺たちのことなど関係ないと言外にほのめかしているかのよ
うだ。
掃除が再開されて俄かに教室が活気付く。
1人より2人、2人より3人。
不二家について考えていた思考を振り払い3人の掃除する様子を
教壇に腰掛けて眺める。
何気なく教卓の上から手に取ったクラス名簿。
中を開いて一つの名を探す。
探すといってもそれは探すというほど手間のかかるものではなかっ
た。
不二家 千代子。
名前の横には赤い印。
それはおそらくクラス委員であることの証明か。
クラス委員、ね。
責任の伴う割りに大した利益も見出せない役職だ。
46
これを担う人間は正に貧乏くじを引いたといってもいいのではない
か。
自分からやると言い出す人間はよっぽどのお人よしくらいしかいな
いだろう。
金を積まれでもしない限り俺にはとてもやろうとは思えないな。
﹁え、えと、か、角川くん。﹂
﹁ん?﹂
いつの間に立っていたのだろう。目の前には自在箒を持った不二家
がいた。
なんとなく自分が今まで不二家の欄を見ていたことを見抜かれてい
るので
はないか、そんな少しばかり後ろめたいような気持ちになりつつク
ラス名簿
をパタリと閉じる。
﹁も、もしよかったら⋮、ほんとにもしよかったらでいいんだよ?
その⋮⋮、角川くんも掃除手伝ってくれないかなぁ、なんて⋮⋮﹂
﹁いやだ﹂
47
上目遣いで頼んでくる不二家の言葉を俺は最後まで聞くことなく即
答。拒否。
なぜ当番に割り当てられてもいないのに掃除を手伝わなければなら
ないのか。
そんなものはボランティアと同義で、更にいうなら一銭の足しにも
なら
ないボランティアというものが俺は大嫌いだ。
絶対にやりたくはない。
﹁そ、そっかぁ⋮⋮﹂
萎れた花のごとく、瞬く間に浮かんでいた笑顔は消え去り、
シュンというのがぴったりな様子落ち込む不二家。
その哀愁漂う姿が俺の胸を刺激する。⋮⋮あぁ、五反田の言ってい
たことが
少し分かるような気がする。
立ち去るその不二家の背中を見ていると俺は罪悪感を抱かずには
いられなかった。
五反田と小波に混じって再び掃除を再会する不二家。
48
しかし負のオーラはそのままで、先ほどまでシャンと伸びていた背
中は
すっかり丸くなり周囲の空気が湿っているような錯覚さえ起こさせ
る。
それだけでも十分見ている人間を不快にさせるが、極めつけはーーー
ザッ、ザッ、チラッ。ザッ、ザッ、チラッ。
数掃きするたびに諦めきれないといった様子の視線をこちらに送っ
てくるのだ。
気にすることはない。
無理やり自分に言い聞かせて無視を決め込む事にする。
何となく視線を外し、そっぽを向いてしまう。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ザッ、チラッ、ザッ、チラッ、ザッ、チラッ。
﹁∼∼∼∼∼∼ッッッ。はぁ∼∼∼∼∼∼∼∼∼ッ﹂
深いため息をひとつついて重い腰を上げ、掃き掃除をしている不二
家の
近場の机に手をかける
49
﹁貸し一つだぞ。﹂
﹁え、あ⋮⋮、うん!ありがとう、角川くん!﹂
萎れた花はどこへやら。
花はすっかり元気を取り戻して満開に。
そう思えるくらいの笑顔を不二家は俺に向けた。
よほどご機嫌だったのか、その後の掃除の最中も不二家の笑顔は影
をひそめる
ことはなく、小さな声で鼻歌まで歌い出す始末だった。
たかが掃除を手伝うといっただけでここまで喜ぶとは安い人間だ。
そう考えつつもほんの少しだけこんな笑顔を見れるならば手伝う甲斐
が少しはあったかもしれないなどと、不覚にもそう考えてしまった
のだった。 50
第1話︱人妻喫茶の同級生?︱
﹁ありがとうございましたー﹂
店員の声を背に自動ドアをくぐって書店を後にする。
腕には書籍の入った茶色い紙袋。
今日は特に買い物をする予定はなかったのだが前から欲しかった本
を偶然
見つけたためについ衝動買いしてしまった。
よく本を読む俺にとって書店めぐりは一種の趣味のようなものと
化してしまっている。
一冊手にとっては内容を吟味。
棚に戻しては次の本を手に取り。
時間の流れを忘れることもしばしばある。
今回もその例に漏れなかったらしい。
気づけば太陽は傾きかけ、西の山にその姿を隠しかけている。
街はすっかり朱色に染まり、黄昏という言葉で飾るにふさわしいそ
んな風景。
51
それらをバックグラウンドに家路へと急ぐ人々や車が忙しなく道を
行き交う。
遠くで苛立ったような甲高いクラクションの音が響き渡っている。
その音も人々の作り出す雑踏にかき消され、やがて溶けていき、そ
こに
車のエンジン音が混じりあう。
そこにまた種々雑多なサウンド、あるいはノイズが自己主張を始め
て音の
奔流が出来上がる。
そして出来上がったのがこの﹁街﹂。
⋮⋮などというのは少し格好つけすぎなのだろうな。
自分の頭に浮かんだポエムじみた目の前の光景の描写を恥とともに
きれいさっぱり
切り捨てる。反省。
すぐさま思考を切り替える。
さて、この帰宅ラッシュの流れにもまれて家路に着くというのは正
直勘弁
52
願いたいところだ。
文字通り物理的な意味での社会の荒波。
よほど遅くならなければ帰宅時間に制限があるわけでもないどこか
で時間を
つぶすのが得策だろう。
そんな俺の思考に申し合わせたかのように道を歩く俺の目に止まっ
たのは一つの
小さな喫茶店。
とはいえ個人経営ではなさそうで看板に記名されていたのは全国チ
ェーンで
展開している有名店の名であった。
ふむ、当たりというわけではないがまあ無難なところだ。
外れはないだろう。対面の歩道沿いにあるその店に向かうべく信号
が赤から青
へと変わるのを待つ。
タイミングがよかったのか、さして時間をおかず、発光ダイオード
が鮮や
かな赤から青へとその色を変える。
53
同時になりだすカッコウの音。
横断歩道前で待機していた人々の足がいっせいに動き出す。
歩道の真ん中当たりで交じり合う2つの集団。
その対面集団の一人の男がなぜか目についた。
集団から頭が少々出張った大き目の身長。明らかに染めているであ
ろう
人工色と一目で分かる短く刈り込んだ金髪。
肌の浅黒さと相まってそれがコントラストを生み出している。
そして何より目がいったのは背中に背負った底の深い半円形取っ手
つきの鉄器。
﹁⋮⋮中華なべ?﹂
通り過ぎた後で振り向いて確認する。
はて?今、この時代において中華なべを背負って外出。
料理修行の一環か何かだろうか。
しかし服装は上半身にアロハシャツ1枚。
下半身にだぼついたズボンと、とても料理人には見えない風貌だ。
54
どうにもぬぐえない違和に首を傾げつつもそれはほんの一瞬のこ
とでそれはすぐに頭の隅へと追いやられた。
人の流れに乗り歩を進めて目的地に到着。
自然な流れで俺はその集団から外れて店の前に立つ。
思わず一つ息をついてしまう。
多くの人に囲まれるというのはそれだけで体力を消耗する。
そんな風にして顔を下に向けると鈍く光るチェーンのついた
プレートが落ちていた。
両面に英文字。それぞれOPEN、CLOSE。それだけで合点が
いく。
ああ、これはこの店の開店板か。ドアのところにあるフック部分。
そこから何かの拍子に落ちてしまったのだろう。
俺はそれを拾い、なんでもない風にプレートをOPENの方を外に
向けるように
してかけなおす。
そのまま小洒落た細工の施されたドアノブに手をかけて中へと入る。
55
涼しげな鈴の音がドアの開閉とともに店内に響き渡った。
そして奥のほうから聞こえてくる店員の声。
しかしそれは客を出迎えるには似つかわしくない言葉でーーーーー
ー。
﹁あ、おかえりなさい。早かったですね。﹂
⋮⋮おかえりなさい?はて?俺は普通の喫茶店に入ったはずだが
実はここは特殊趣味の人間が訪れる特殊空間だったのだろうか。
白黒エプロンドレスにヘッドドレスを頭に載せた件の職種が頭
に浮かぶ。⋮⋮いや、待てよ。末尾に早かったですね?
繋げて整理し、吟味してみればこの台詞、どこかで聞いたことが
あるような台詞であると引っかかりを覚えた数瞬後。
⋮⋮ああ、これは仕事に疲れた旦那を迎え入れる妻の台詞だと
いうことに気づく。
ではここはメイド喫茶ではなく⋮⋮。ーーーーーー結論。
﹁人妻喫茶﹂
56
⋮⋮⋮⋮⋮⋮えろくない?
⋮
⋮⋮
⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮殺せ。あまりにも馬鹿馬鹿しい考えにいたった自分が恥
ずかしい。
馬鹿か、俺は。そんなこと!、あるわけが!、ないだろう!。
胸の内で嘆息して自分を戒める。反省。しかし落ち着く暇もなく
驚愕は向こうから小走りでやって来た。
今まで水仕事でもしていたのか首から下げたエプロンの裾で
手を拭きながら店員が奥から出てくる。
﹁あ、ごめんなさい。今まで洗い物してて手が離せな、く、て⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮不二家?﹂
﹁⋮⋮⋮か、角、川くん?﹂
57
奥のキッチンらしき場所から出てきた店員は俺の見知った顔でーー
ーーーーというより
も数時間前まで付き合わせていた顔だった。
俺は当然驚いたが、それは不二家も同じようで、水仕事でぬれた手
を首から
下げたエプロンでぬぐう体勢のまま、固まっていた。
⋮⋮いや、このまま固まっていてもしょうがない。
頭を切り替えろ角川 七音。ものの数瞬でリセット、再起動。
不二家は動かない。
ならば俺から動くしかあるまい。一つ咳払いをしてから俺は会話の
イニシアチブを握る。
﹁⋮⋮お客様1名様ご来店なわけだが﹂
﹁あ⋮⋮、は、はい!﹂
58
第1話︱敵、小波、能力︱
﹁ごめんね、角川くん。今店長さんいないからこんなものしか出せ
ないの﹂
﹁いや、別にかまわない。それより不二家はここでバイトしている
のか?﹂
通されたカウンター席に座って不二家に出されたコーヒーをすする。
どこにでもあるチェーン店のほどほどに渋くしてみましたといった
既製品っぽい味。
﹁うん、1年生の頃からお世話になってるの。
私ね、どんくさくてよく色々な失敗して怒られちゃうんだけど
それでもやめたいって思うほどいやじゃなくてね、
店長さんはすごくよくしてくれてるよ。﹂
俺にとって今日日知り合ったばかりの女子と会話するのは
なんともいえない忌避感があったがそれでもなんとなく黙っている
のも
どうかと思い話題を振る。
それにしても今日はもう一日一人でいたいと思っていたのだがその
59
矢先に
これとは今日は新しい出会いだとかそういうものにめぐり
合う日と、そういうことなのだろうか。
別に知り合いが欲しいとも思わないので正直迷惑極まりない話では
ある。
﹁ふーん、まあ俺には関係ない話なわけだが﹂
﹁あ、ごめんね。自分語りみたいなことしちゃって。
うっとうしいよね、こういうの﹂
﹁ああ﹂
﹁そ、そうだよね。ごめんね。﹂
﹁そういうすぐに謝る卑屈な所がよりいっそう。﹂
﹁あう⋮⋮⋮⋮﹂
体に押しつけるように盆を両手で持った不二家がうつむいてシュン、
と
いった表情をする。
この程度の言葉で落ち込むとは何とも打たれ弱い。
60
ある意味純粋とも呼べる。
それは傍から見れば恐らくは利点の一つに数えられるのかもしれな
いが
生きていくのには苦労しそうな性格だ。
いつもの俺の分析癖が出てまだ情報の少ない不二家という人間につ
いての分析を始めてしまう。
﹁で、その店長さんとやらの姿が見当たらないがどうしたんだ?﹂
﹁うん、今ねちょっと発注に手違いがあってその対応に出かけてる
の﹂
﹁それで不二家は今店に一人というわけか。とはいえバイト一人に
店を任せるというのはどうなんだ。作れるメニューは限られるんだ
ろう?﹂
﹁うん、それで店長さんにいわれて帰ってくるまでは表のプレートを
クローズにしてたはずなんだけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ああ、ああ、そういうこと。そういうことか。﹂
そうか、今まで看板がクローズになっていたから今この店には俺以
外の客
がいないのか。
61
外があんなに混み合っているのに客がいないものだからてっきり
売れていないものかと。
それで不二家の出会いがしらのセリフはその店長が帰って来たもの
だと
勘違いしたというわけだ。
﹁表のプレート、落ちてたぞ﹂
﹁え?そうなの?それで角川くんが入ってきちゃったんだ⋮⋮⋮。
じゃあかけ直しにいかないとーーーーーー﹂
﹁それで俺がかけ直しておいた﹂
﹁あ、ありがとう。﹂
﹁オープンに﹂
﹁え、えーーーっ!﹂
俺がひとこというごとに不二家の表情がころころと変化を見せる。
慌てたあとに安堵の表情。
かと思えばその顔が焦りを見せる。
62
仕草がいちいち小動物じみている。
⋮⋮いかん、少し面白いと思ってしまった。
調子に乗った自分を悪いとは思いつつもさらに拍車がかってもう一言
つけたしてしまう。
﹁早く直さないと次の客が来てしまうかもしれないなぁ﹂
﹁そんなの困るよぉ⋮⋮﹂
今度は落胆。
俺が何か言うたびに不二家の反応が変わる。
⋮⋮楽しい、実に楽しいなぁ、これは。
心の底から湧きあがってくる征服欲が満たされていく。
まるで操り人形を操っているようじゃないか。
さながら不二家は俺というドールハウスのキャストの一人。これは
!、実に!、いい!
フフ、ハハーーハッハッハッ!ハーッハッハッハッハッ!!
⋮
⋮⋮
63
⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮死ねよ、俺は。途端自己嫌悪に苛まれる。
決して口と表情に出しはしないものの自分の考えていたことの
おぞましさに寒気が走った。
心の内で四つん這いになってうつむく。
気持ち悪いな、俺。反省。その意もこめて俺は椅子から立ち上がる。
﹁ちょっと表の看板かけ直してくる﹂
返事を待たず飲みかけのコーヒーカップを置いて立ち上がる。
モダンな雰囲気の漂う店内。
歩くたびに木製の床が小気味いい足音を生み出す。
そして俺が店の小洒落た装飾の施されたドアの取っ手に手をかけた時
だった。
ドゴォン!と形容するにふさわしい耳をつんざく破壊音。
まるで雷が落ちたような。
64
爆弾でも爆発したような。
驚きに動かしかけていた手が止まる。
﹁きゃっ!な、なに?﹂
ビクリ、と不二家が肩を震わせる。全うな常人の反応。
性格ゆえか、その表情には若干の恐怖も入り混じっている。
そして事態はそんな驚愕する暇も満足には与えてくれない。
俺が手をかけようとしていた木製の扉。
細部まで施された装飾。
認識は一瞬だった。
装飾を引き裂くようにして穴を穿ち、﹃何か﹄が突き出してくる。
それは俺の首筋を掠めてブレザーの襟を引き裂いた。
宙を舞う襟だった布切れとそこに引っ付いていたクラス章。
扉を突き破った物体は店の壁に突き刺さりようやくその勢いをとめ
る。
俺の首の横を通っているそれを見やる。
65
それは鈍い光を放つ鉄杭だった。
カウンターの壁に突き刺さっていた鉄杭がズボリと抜けてシュルシ
ュルと元きた道を
辿って店外へとその姿を消していく。
被害を受けた壁と扉からパラパラと破片が床に落ちていく。
ーーーーーーそれはきっと日常の壊れる瞬間。
﹁あ⋮⋮⋮﹂
﹁不二家っ!﹂
力なく倒れるその不二家の体を咄嗟に駆け寄って支える。
その落下速度を緩めるようにして不二家の体を床に横たえる。
あまりに突然の出来事にショックで気を失ってしまったのだろう。
位置取りが悪ければ命を落としていたかも知れない状況だ。
それも詮無いことだとも思う。
窓越しに外の状況を垣間見る。
窓のすぐ近くを慌しい足音と悲鳴とともに人が駆け抜けていった。
そんな状況下で立ち止まってその場を動こうとしない人影が一つ。
66
その男は鈍い光を放つ中華なべを背負っていた。
しかしそれははたして本当に中華なべだっただろうか。
中華なべっぽく見えるそれは所々が出張っていて半円の形を半ば
失っていた。
だがそれも少しの間のことでやがて突起は引っ込んで元の形を取り
戻す。
とても普通のなべではない。
だが、俺は直感する。なべが異常なのではない、使う人間が異常な
のだ。
異能力者あるいは超能力者。天の与えし凡夫とは一線を画す力。
男が行使しているのは正にその力だ。力を持たぬ人々は逃げ惑うこ
としかできない。
さながら今のあの男は狩人。
男は獲物に視線を向けて不敵に笑う。
中華なべがグネグネと生き物のようにその形状を変え始めた。
︱︱︱︱︱︱来る!先ほどの攻撃が。逃げなければ!
67
そうわかってはいるものの俺はその場を動けない。
俺一人ならば物陰に隠れてやり過ごせるのだろうが倒れている不二
家を
一緒に動かすことはできない。これがネック。
ならば見捨てるか?選択肢として浮かんできた意見の一つ。
ありかもしれない。だがそんなことはありえない。後味が悪い。
フーッと一つ息を吐く。次の攻撃まで後数秒もない。
その間にこの状況の切り抜け方をシミュレートする。
相手は能力者。おもしろい、やってやろうじゃないか。
目撃者はいない。なればこそ好都合。
そして俺は道路に面した入り口側の壁に駆け寄って壁に手を触れる。
窓からチラリと覗く中華鍋を背負った男の次打を放つモーション。
合わせてカウントファイブ。5、4,3,2,1︱︱︱︱︱0!
直後、予想していた衝撃が店を揺らした。
ガタガタと棚にしまわれていた食器類が物音を立て、天井から釣り
下がっている
68
電灯が大きくグラインドした。
しかし、それだけ。鉄の杭は壁に穴を穿たない。穿てない。
先ほどはやすやすと貫いたその壁に今度は進路を阻まれていた。
敵との距離、約200m。
その結果で満足してはならない。
俺はすぐさま壁際から離れて店の奥にある厨房へと駆け込んでガス
コン
ロへと駆け寄る。
目的は火の元、ガス栓。
そのコックを捻りその後で取り付いているチューブを力ずくで引っ
こ抜く。
音は立たないものの途端に周囲一帯にガスが充満していき見えない
毒が散
布されていく。
その証拠に気体の放つ異臭が途端に鼻をついた。
別のガス栓も同様に引っこ抜く。俺の予想通りならーーー。
シミュレートした思考を辿る。貫くはずの壁が貫けない。
69
そして疑うのは能力者の可能性。
能力者にとって能力者というものはある種の脅威といえる。
一般人とどちらを先に仕留めるかなどの優先順位は比べるべくもな
い。
そうなればあの男はその可能性を秘めたここへやってくる。
なれば相応の準備はしておかなければならない。
生憎と俺にはたいした戦闘能力は備わっていない。
だがそれでも創意工夫を凝らした自分の頭があればあらゆる状況を
切り抜ける自信はあった。
今回だって例外ではない。
いかんせん切り抜けるピースが若干心もとないがだからこそ自分の
能力が
試されるというもの。
弘法は筆を選ばない。
カウンターレジ横のスペースから売り物であろうライターを一つ抜
き取る。
70
厨房で空き瓶とサラダ油を手に取る。
そしてビンの中にサラダ油を投入。
口に布をつめて、即席火炎瓶の完成だ。
そのとき入り口の方から三度衝撃。
硬い物質がぶつかり合う粗野で乱暴な音。予想通り男はここに向か
ってきた。
扉に壁に騒々しく何かをたたきつける音が店内に響く。
徐々に大きくなりつつある打撃音が男のストレスのたまり具合を
如実に表している。
⋮⋮そろそろ頃合か。
厨房から離れた窓際の客席ですらガスの匂いを感じ取れる。
これ以上ここにいると俺自身も危ない。
床に横たわった不二家の体を背負う。
手には即席の火炎瓶。
入り口から90度に取り付けられた人が通るには十分な大きさの横
開き窓に
71
に手をかけて鍵を開ける。
そして俺は自らの持つ忌々しい異能力を再び行使した。
ハーディス
﹁硬化、解除﹂
壁伝いに表通り側の壁に行使していた力を解除する。
瞬間店の壁が轟音とともに破られ中に強引に入ってくる男の姿が見
えた。
しかしそれも一瞬で俺は窓の桟に足をかけて不二家を背負ったまま
入れ違いに店を飛び出す。
スタッと地面に着地した後でたった今出てきた店の窓に振り向き、
ボッ、と俺はライターの火をつけて持っていた即席火炎瓶に点火す
る。
勢いよく開いた窓が反動で再び閉じていく。
その隙間に紛れ込ませるように俺は軽く点火済みの勢いよく燃え盛
る火炎瓶
を放ってやった。
﹁吹き飛べ﹂
窓がゆっくりと閉じていく。両端が触れ合い、窓が閉じきった。
72
瞬間。ボォン!、と見た目にも派手な爆発が巻き起こった。
爆風と爆炎、併せ持った熱風が俺の体に吹き付ける。
壊れた椅子や机の木片が辺りに散らばる。
大き目の破片がカランという乾いた音を立てて俺の足元に転がって
きた。
濛々と立ち込める煙と燃え盛る炎。中は惨状というにふさわしい目も
当てられない状況になっているに違いない。
これは人を傷つける術。下手すれば死。
しかし、爆発というのはナイフによる刺突や毒殺などと比べれば
死ぬ確率はグッと下がる。あくまでそれらに比べて、だが。
それでも危険なものであることに変わりはない。
それでも俺はこの判断に間違いはないと頑なに自分を曲げない。
⋮⋮⋮俺自身が生き残るためならば他人すら踏み台にする。それが
ポリシーだ。
そのためならばどんな手段でも行使しよう。
一つの店を爆破する。
73
これは犯罪に値するのだろうが緊急事態ということでどうか目を瞑
って欲し
いと心の中で誰とも知れない人物に言い訳をする。
俺はこんなところで死ぬつもりはないのだから。思考をすぐさま切
り替える。
さて、次の逃走経路だ。
爆破はうまくいったもののこれで能力者一人を仕留められるとはと
ても
思えない。そしてその予測は過たず。
燃え盛る焔と立ち込める煙の向こう、ゆらりと立ち上がる男の影が
あった。
逃走経路、とはいったものの実際に逃げ回るのは厳しい。
こちらには怪我人︵不二家︶というハンディキャップがある。
ならばすることはーーーーーー
﹁時間稼ぎ、だな﹂
独立治安維持組織ゴスペル。彼らは能力者の関連する事件を担当す
る組織だ。
74
これだけ大規模な騒ぎならば通報を受けてもうじき到着しても
おかしくない頃合だ。
⋮⋮⋮となるともう一手か二手打つ必要があるか。
そんなことを考えている間に男は完全に体制を立て直していた。
﹁よくもォ、﹂
沸々と煮えたぎる激情がその少し掠れたような声から感じられた。
地底の底で渦を巻くマグマ。
﹁やってくれたナァ!!コンチクショウガァァァ!!﹂
活火山のごとくそのマグマは解き放たれ、品性のない罵倒と化して
俺へと向けられる。
生の人の怒りに触れビクリと身を竦ませる。
しかし同時に俺の冷静な部分が分析を開始してホッと安心する。
こいつは激情型。もっとも扱いやすいタイプだ。下手な読みは必要
ない。
複数手考えてあった逃げのルートが一気に絞られる。
男が確かな殺意を持って俺のもとに向かってこようとする。
75
それに合わせて俺も駆け出そうとしたその刹那だった。
﹁離れろ!﹂
日常生活ではとても聞きなれない、だが、この非日常の場には似つ
かわしい
銃声が聞こえてきた。
その銃弾は牽制するかのように俺と男の間に打ち込まれた。
俺のいる喫茶店だった場所の横合いの路地の右方。
銃の主は大通りの方に立っていた。突如現れた闖入者。
凛々しく双銃を構えた痩躯。
その銃口からは硝煙が吹き出ている。
その人物を認めて今日何度目かの驚きとともにため息をつきたくな
った。
今日はゆくゆく人に出会う日らしい。
その名前を、呟く。
﹁⋮⋮⋮小波、優﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
76
小波優は何も語らずただ静かな双眸を携えてそこに佇んでいた。
高校の制服を身にまとい放課後を街中で満喫していたとでもいった
風な
出で立ち。
ただ一つ両の手に持つ凶器だけがそれを否定たらしめる材料。
俺から小波へと移った男の殺意を正面から受け止めても眉ひとつ動
かさない。
怖気づく様子は微塵も見られなかった。
﹁チッ、テメェが来る前に消しておきたかったんだがナァ。スパイ
ラルゥ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁だが、それならそれでやりようがあるってもんだよなあ!!﹂
背負った中華鍋が再び歪にグネグネと動き出す。
それが槍と化して俺のほうに襲い掛かってくる
﹁くっ﹂
不二家を背負っている為に体の動きが鈍い。
それでももともと俺のほうに来ると予測出来ていたためか、どうにか
77
その一撃をしのぎ切る。
槍の先端が俺の左足をかすめて制服とその下の皮膚をわずかに傷付
けた。
ひりつくような痛みが全身を駆け抜ける。
槍は俺のもといた位置に斜めに突き刺さっていた。
﹁⋮⋮⋮下衆だな﹂
﹁下衆で大いに結構。それでテメェをしとめられるんなら安いもん
いさりび
だゼ、スパイラルゥ。何せテメェには結構な額の懸賞金がかかって
んだからなァ。﹂
きょうらく
﹁懸賞金が付くとは私も高く買われたものだな。京楽 漁火﹂
小波が相手を名指しする。
すると男の方はわずかに眉尻をあげてさも意外なものを見たという
表情を浮かべた。
﹁情報が早えなぁ。じゃあ、改めて自己紹介と行こうかァ。
アイアンスパイク
鈍光の鉄棘京楽 漁火。愚人教会員NO.89だ。﹂
﹁この街に何をしにきた?﹂
78
﹁おぉいおい、俺が名乗ったってのにそっちは名乗りなしかよ。
ま、べつに知ってるからいいんけどヨ。
ゴスペル、アラウンズが一角。<スパイラル>小波 優。﹂
ゴスペル。その単語に俺は反応する。
俺達となんら年の変わらない小波優が対能力者組織ゴスペルの一員で
あったこと。
それはひどく意外な事実だった。対能力者を掲げるゴスペル。
そこに属する人々は当然相応の戦闘力を要求される。
一人ひとりが軍人のようなものだ。
自分の身の回りにその軍人が知らず知らずのうちに潜んでいたこと。
これには驚かざるをえないというものだ。
その中でもさらにアラウンズ、ときたか。
﹁目的ィ?そんなの簡単だぜ。いったろ?テメェのクビには懸賞金
がかかってるって。﹂
﹁⋮⋮⋮私を狩りにきたか。﹂
﹁ああ、テメェをおびき寄せる為にひと騒ぎ起こさせてもらったぜ。
79
もぉっとも?
思わぬイレギュラーも紛れ込んではいたけどナァ?﹂
最後のほうは呆れたように、笑うようにいって男は、京楽は俺を見
やった。
﹁さてぇ?そろそろおっ始めようぜ。﹂
﹁⋮⋮⋮一般人を逃がす時間はやはりくれん、か﹂
﹁生憎そんな倫理を俺は持ち合わせちゃいねえんだよ。
それにそこのクソガキは生意気にも一発デカイのぶち込んでくれた
んでナァ﹂
そこで初めて小波が俺に視線を投げかけた。眉をひそめて俺をいぶ
かしむ。
﹁⋮⋮⋮⋮何をした?﹂
﹁単なる正当防衛だ﹂
自分が生き延びるためにとった行動だ。責められるいわれはない。
﹁つーワケで、いくゾ、コルァァァァァ!!!!﹂
﹁下がれっ!!﹂
響き渡る京楽の激昂と共に背負った中華なべが変形を始めてそれが
80
複数本の鉄槍と化す。
あらゆる方向に生えたその槍が一斉に襲い掛かってくる。
合図を受けて俺は小波の後ろまで下がる。
俺たちをかばうような形で前に出た小波が京楽との距離をつめるよ
うに駆け出す。
小波の痩躯が鉄槍の弾幕に突っ込んでいく。
突き刺さんと伸びてくる鉄槍。
その一本が小波の体に触れんとしたとき、小波はバスケの敵をかわす
ステップのような動きで第一射をやり過ごす。
逃げた方向にさらに向かってくる第二射。身を屈めて過ぎ行く槍の
下を
潜り抜ける。
しかし続く攻撃は屈んで体勢の崩れた小波を狙うような地を薙ぐよ
うな
下段払い。
それでも踏ん張りを利かせて地から飛び立ち前へと飛ぶ。
だがそれは決定的な隙だ。人は翼を持ち得ない。
81
空という空間は人間にとってのアウェイだ。
﹁もらったアァ!﹂
仕留めた、といわんばかりに京楽がニヤリと口元に愉悦の笑みを浮
かべる。
京楽の操る槍が一本小波の心臓へと最短距離を走る。
狂気の篭った凶器が空気を切り、血に餓えた獣のようなうなり声を
あげる。
だが小波の表情は一向に崩れない。まるで余裕。
あせった様子は微塵も感じられない。
それが決して強がりではないことは次の瞬間で示される。
槍の突進にタイミングを合わせるようにして横合いから銃をもった
左手を
合わせ槍に触れる。
すると、動けないはずのその体がクルリ、と触れている左手を軸に
して半回転した。
まるで羽が生えたかのように小波の体は宙を舞った。
前に向かっていた運動エネルギーも相まってその体は螺旋の軌道を
82
描く。
必中だったはずの一撃を避けられて目を見開いている京楽。
急所を外した位置めがけて小波が発砲する。
しかし、よかったと思うべきなのだろう。
京楽は残っていた中華なべの一部を変形させて即席の盾を作り、銃
弾を凌いだ。
甲高い音を立てて鉛弾がいずこかへと飛び去る。
分が悪いと見たか京楽は路地の奥へと後退して体勢を立て直す。
﹁逃げるぞ﹂
その隙を突いて小波が京楽から距離をとり、俺を表通りの方へと導
いた。
大通りは酷い有様だった。そこに秩序は微塵もあらず、あるのはた
だ混沌。
少し前までの平和な日常のワンシーンは一体どこへ行ってしまった
のか。
83
つぶれ、ひしゃげ、ものいわぬ鉄塊と化した自動車。
崩れかけのビルの外壁。そしてその景色のところどころに人間が転
がっていた。
歩道の片隅で建物の壁に背を預ける者、苦痛のうめき声を上げなが
ら地べたを這いずり回る者、
顔は見えずとも瓦礫の下敷きになってピクリとも動かない者。
地獄絵図。
常人が見たならば発狂してもおかしくはない。
しかし幸運なことにそれはごく少数でむしろあれだけ人がいた中で
よく
死傷者がこれだけですんだものだと思えるレベルだった。
すでに避難を済ませたためかあたりにまともに動けそうな人は見当
たらない。
そんな中でまともに動ける人間は珍しいのだろう。
俺と小波の姿を認めるなり助けを請う声が聞こえてきた。
だが、今はそんなことに構ってはいられない。
優先順位はまず自分の安全の確保。それ以外は二の次だ。
84
冷静な思考で冷徹とも取れる判断を下しその声を踏みにじる。
誰だってまず自分がかわいい。
﹁ここに隠れていろ。﹂
小波がつれてきたのはテナントビルの一階部分。
大きいとは決していいがたいが身を隠すには十分。
電気の非常事態のためか電気の供給が止まっており近づいても自動
ドアは機能しない。
閉じたドアを小波が力ずくでこじ開ける。
ウウウウッとモーターが無理やり回転する音がした。
﹁お前はどうするんだ?﹂
エントランスの冷たい床に気を失った不二家を横たえ、背中越しに
小波に問いかける。
﹁ヤツを抑える。このまま野放しにはできん﹂
﹁それがお勤めというわけか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何もいわず小波は最低限の答えだけ返すとその手入れのなっていない
85
長い髪を翻して再び戦場へと舞い戻っていった。
その姿は勇ましく、凛々しく、とても高校生とは思えないそんな背
中だった。
86
第1話︱策、回転、終わり︱
一応の落ち着きを取り戻したことで状況を整理する。
今自分は事件に巻き込まれている。それはどうやら小波を狙うもの
であった
らしく、小波をおびき寄せる前段階の無差別攻撃に運悪く巻き込ま
れた。
別に俺自身、あるいは不二家が狙われたわけではなかったようだ。
そして小波の到着。小波がゴスペルの一員であることには驚かされ
た。
それは決して口だけではなく、あの場慣れした動きがその信憑性を
高めている。
経験と訓練にに裏打ちされたそんな動きだったようにに思える。
そんな小波優とそれを狙ってこの街に襲撃をかけてきた京楽 漁火。
今この場にいるのはそんな常人を超越した能力を持つ2人の戦力。
窓ガラス越しに外を覗く。
路地裏から姿を現した京楽が今まさに小波に詰め寄らんとしていた。
﹁なア、スパイラルゥ。オマエが強いのは百も承知だァ。だがそれを
87
知った上で何でオマエに正面から戦いを挑んだと思う?﹂
京楽の口角がつりあがる。
﹁それはなァ、オマエの能力と俺の能力の相性が限りなくイイと
踏んだからだよォォ!!﹂
瞬間、爆発するように京楽の中華なべから四方八方に向けて槍が発
散した。
すばやい動きで小波は距離をとって回避する。
槍は空ぶった、かに思われた。槍が突き刺さった部分をよくみる。
︵すべて鉄ーーーー!︶
つぶれた自動車、ひしゃげた街灯、ランプの消えた信号機。
刺さった槍がドクン、と生き物のように脈動する。
それらは次第に形を失い、液体のように溶けていく。
効果範囲は鉄のみのためか、ガラスや、ゴムなどの不純物はその場
に残された。
発散した槍が新たな材料を伴い、京楽の元へ戻っていく。
溶けて形を失ったそれらは一つになり京楽を包み込むようにして再
88
び形を取り戻す。
そうして一つの要塞が出来上がった。
フルアーマー
﹁鋼鉄要塞。こいつでテメェをぶち殺す!﹂
外見は西洋風の騎士といった出で立ち。分厚い鉄の装甲が京楽の体
を覆っていた。
しかし、騎士なのはあくまで外見だけで中に入っているのは騎士道
精神とは
遠くかけ離れた醜い野獣だ。
品のない叫びが鎧の中から聞こえてくる。咆哮を伴って攻撃は再開
された。
騎士のよう、とはいうものの、その腕に槍や剣といった武器はない。
もつ必要がないのだろう。なぜならーーーーー
京楽を包む鎧がグネグネと変化を始めて肩口当たりから鋭い槍が数
本飛び出す。
全身が武器のようなものなのだから。
飛び出した槍が案の定小波を付けねらう。
当然のように小波はこれをかわして前に出る。同時に発砲。
89
銃弾が京楽に直撃するもやはり微動だにしない。
﹁無駄無駄無駄ァァ!そんなチンケな銃じゃあ今の俺は倒せねえヨ
!﹂
そんなことは小波にも分かっていたことだろう。
眉一つ動かさずひたすら、前に出る。
その動きはスタント張りの動きで当たり前のように襲い来る
すべての鉄槍をかわしていく。
そして時折混じる不自然な小波の動き。
避けられないと確信した攻撃が何度かあったのだが、そのたびに小
波の体が
重心や重力といった概念を無視した動きで不思議とそれをかわすの
だ。
それが一体何なのか。
最初はわからなかったが何度も見ているうちに俺は一つの仮説を得
る。
﹁回転、か﹂
不自然な動きを見せるその直前、小波の手は必ずどこかに触れてい
る。
90
それは建造物の外壁であったり、京楽の放つ槍であったり。
そしてその動きは決まってそこが軸になって手が張り付いたように
動かない。
決して自由に空を舞えるわけではない。
どこかしらの軸が必要なのだ。
そしてその軸を自ら作り出し、活用することであの三次元的な動き
を可能としている。
それが小波の動きのギミックだ。
その動きについていけないためか京楽の攻撃はなかなか当たらず、
小波の進撃は
止まらない。
状況は小波が優勢。
互いの距離は見る見る縮まり、重装甲が仇となり、その場から
動けない京楽に小波が迫る。
だが、事はそう簡単には収まらなかった。
﹁ナメンじゃねぇ!!﹂
91
放った鉄槍、それがすべて勢いよく中心点たる京楽の元に
ヒュン、とDVDの巻き戻しのように戻っていく。
それらがすべて収まり元の鎧に戻ると同時、今度は全方向に狙いも
つけず見境なく槍が斉射される。
なかなか当たらない攻撃。
それでも数を打てば当たるといわんばかりだそれはハリネズミのよ
うに
周囲に拡散していく。
一本一本は先ほどまでの槍より細いものの、数が圧倒的に多い。
﹁くっ!﹂
さすがの小波も全てをかわしきることはできなかったらしい。
無数の槍のかわしきれない数本が体に突き刺さる。
腹部に一本。左肩に一本。
うち、左肩に刺さった槍は太く、それに見合う相応の量の血液が噴出
していた。
咄嗟の判断だろうか。
92
その突き刺さった左肩の槍を引っつかみ無理やり動かし、体ごと後
ろに
移動して引き抜く。
痛みをものともしないかのように小波は叫び声をあげなかった。
傷をえぐる痛みは相当なものであっただろうに。
しかし、俺の方もそうのんびりと観察している暇はなかった。
京楽の放った無数の槍。
それは俺の潜むビルにも飛んできた。
殺傷力は落ちるものの貫通力はどうやら変わらないらしい。
それは辺りのビルの外壁をやすやすと貫く。
無論、それは俺のいるビルも例外ではなかった。
ハーディス
﹁っ!硬化!﹂
反射的に能力を使って辛うじてそれを防ぐ。鉄すら防ぐ壁。
文字通りの鉄壁。
ガキンッという派手な音とともに壁はその攻撃を防ぎきった。
93
﹁ナルホドなぁ、あのガキはそん中か。﹂
⋮⋮⋮⋮チッ、防いだはいいもののこちらの位置を捕捉されたか。
内心で舌打ちする。
正直なところ俺はこのまま何もせずにゴスペルの増援が来ることに
期待
していたんだが見つかった以上そうも行かないだろう。
となればベターな選択は打って出て時間稼ぎ。
よりよいベストな選択は倒してしまうこと。
今手元にある材料を考察する。
先ほどとは大きく違う点がひとつ。
︵小波 優、か︶
これは使える。あの戦闘力だ。
こちらはジョーカーを手に入れたといっても過言ではないだろう。
ハーディス
そして、俺のこの硬化。
カチリ、と歯車がかみ合ったような音が聞こえた。
この場を切り抜けるための最善の式。
94
それに伴う解が導き出される。
将棋やチェスでいうなら終局間近の詰みまでのルートが見えた状態。
プランは整った。
後はうまく実行に移すのみ。
そんなある種の確信を持ち、俺は意を決してビルの半開きになった
自動ドアから外に出る。
﹁あんた、本当に見境がないな。襲われるこっちとしてはいい迷惑
なんだが。﹂
﹁テメェにゃぁでっかい借りがあっからナァ。そう簡単に逃がすわ
けにはイカネェよ。
全身ブッスブスに穴だらけにしてェ!全身グッチャグチャにしてェ!
体の肉をすり潰してひき肉にしてやんねェと俺の気がスマネエんだ
よお!!﹂
﹁⋮⋮頭の悪そうな発言だな。だから俺にいいように転がされるん
だよ。﹂
﹁ナニィ!?﹂
﹁忠告してやる。捕まりたくなかったら今から豚のように必死で逃
95
げ回れ。
スクラップ
まだ向かってくるというのならお前、俺達に倒されるぞ、鉄屑﹂
﹁ッ!クソガキがぁ、いわせておけばいいたいだけいってくれんじ
ゃねぇのぉ﹂
怒り心頭といった様子で京楽はうつむいてなにやら物々呟いている。
随分勝手な物言いであったと思う。
先ほどまで逃げてばかりいた人間が突然牙をむくことを宣言したの
だから。
そして自分の守るべき対象が突然こんなことをいっては小波が噛み
付くのも当然だった。
出血の激しい左肩を抑えて小波がいう。
﹁⋮⋮貴様、本気か?これはゲームじゃない。正真正銘の殺し合い
だ。
そこに民間人を参加させるなどーーーー﹂
﹁小波、お前の能力は物質を回転させることで間違いないな?﹂
だから二の句を継がせぬよう、小波の言葉を無視して今必要な情報
を小波から引き出す。
そして自分の仮説が正しく、作戦に支障がないことを確認する。
96
﹁お前のその能力でヤツの鉄槍の軌道を曲げることはできるか?ヤ
ツ自身に向くように﹂
﹁だから、人の話をーーー﹂
﹁今はそんなことをいっている場合じゃない。質問に答えろ。でき
るのか、できないのか?﹂
まるで威圧するかのような傲慢な俺の言葉に小波はやむなく自分の
言いたいことを飲み込んだ。
そして俺を冷たい目で一睨み。
﹁⋮⋮⋮できる。あの鉄の槍は先端は硬いものの、中間の部分は常
に形を変えるために
曲がりやすくなっている。
だがそれでヤツ自身を狙ったところで意味はない。
多少のダメージは与えられても決定打とはならないだろう。
ヤツ自身も同じ鉄の鎧で守られているのだからな﹂
﹁その決定打を作り出してやる。おそらく次にヤツが狙ってくるの
は俺だ。
その第一撃を狙う。ヤツは槍で俺を狙って来るだろう。
97
俺がそれを避ける。そうしたら俺が触った槍の方向をヤツに向けて
曲げろ。いいな?﹂
﹁だから、あの槍で鎧を貫くのは不可能だとーーーーーー。﹂
﹁いいから、やれ﹂
そういい切って俺は前に出る。知らず、冷たい声が出る。
否が応でも従ってもらわねばならない。
これからすることには少なからず俺自身もリスクを背負うのだから。
だが、それでいい。
リスクを背負わずしてリターンを得るなど虫がいい。リスクを背負
うくらいがちょうどいいのだ。
小波はさぞ困惑していることだろう。素人に根拠もない戦術を提案
されてそれをやれ、と。
しかもそいつは一向に話を聞かない捻くれた自分の同級生。
自分でやっておいていうのもどうかと思うが俺ならば殴り倒すレベ
ルだ。
それでもおそらく小波は実行に移すだろう。すでに状況は動き出し
ている。
実行に移さなければ逆に俺の身が危ない。
98
思うところはありつつも小波は俺のいったことを実行せざるを得な
い。
民間人たる俺が危険な前に出る。
民間人を守るために戦っているであろう小波にとってはある種の脅
迫だ。
京楽と正面から対峙する。
目の前の京楽の鎧の兜越しに見える目には殺意が迸っていた。
狂気に走り、理性のすっかり壊れた狂人のどす黒く濁った瞳。
﹁コロス﹂
その声色は恐ろしく低く、聞くものに恐怖を与えた。
背筋を冷たいものが走り抜ける。
俺が煽った効果があったか、読みどおり京楽は第一射のターゲット
に俺を選んだ。
その背中から無数の槍が一斉に解き放たれる。
ホーミングミサイルのようにそれらは全て俺の方へむかってきた。
﹁覚えておけ、京楽。ゲームでも試合でも殺し合いでも。勝負事全
てにいえることだけどな。
99
負ける人間に一番多いのは理性を失って感情が先走るパターンだ。﹂
その槍の動きは速いもののすべての動きが単調で、あらゆる角度から
迫るものの、一様に俺の頭を狙っていた。
﹁人間と獣の違いは理性があるか否か。﹂
その程度なら並の運動神経しか持たない俺でもかわすことは児戯に
も等しい。
﹁怒り、理性を失えば人はただの獣と化する﹂
横に少し移動して軽くそれらをかわす。そのすれ違いざまに不揃い
な大きさの
無数の槍の中で大きめの一本の先端に手を触れる。
﹁そして獣じゃあ、理性を持つ人間には勝てない。﹂
チカラ
その一瞬で能力を行使する。
これが、ヤツの自信と戦力を奪う決定打への布石。
﹁俺みたいな﹃人間﹄からすればお前みたいな直情思考の人間が一
番扱いやすいよ。﹂
打ち合わせどおりに俺の横を通りすぎたはずの槍が軌道を変えて京
楽の元へ向かっていく。
100
小波はどうやらうまくやってくれたらしい。
よくもまあ、いうことを聞いてくれたものだ。
と一方で思いつつも他方ではまあ緊急事態だから当然か、と異なる
もう一つの答えを出す。
﹁ッ!カウンターだと!?﹂
突然のことで槍の制御を失ったのか、京楽のもとに向かう槍はその
速度を緩めない。
鋭い切っ先は空気を切り裂いて主人に逆らう。
重装甲のために京楽のその体は満足にその場から動けず、受け止め
るしかない。
それでも京楽が抱くのは絶対の自信。
﹁だがなぁ、俺が身にまとってるのは同じ鉄だ。そんな俺に鉄の槍
が効くわけねぇだろうが!
このマヌーーーーーーー﹂
グサリ、と肉が突き破られる音がしたような気がした。
言葉は最後まで形を成しえなかった。鎧をまとった京楽の腹部。
そこには確かに鉄の槍が突き刺さっている。
101
鎧のわずかな隙間から刺さった槍を伝って血が滴り落ちる。
京楽がその場に両膝をつくその表紙に頭部を覆っていた鉄兜が脱げて
ガラン、と地面に落ちた。
兜の下にあったその顔は信じられないものを見るような目で自らの
腹部を
呆然と眺めている。
﹁な、なんでだ⋮⋮﹂
﹁そんなことにも気づけないからこういう結果を招くんだ﹂
理屈は単純。槍の先端を俺が硬化してやっただけだ。
同じ鉄で身を守る自分にそんな攻撃は通じない。
その思い込みがこの失策を招いた。
京楽は俺が能力者であることをあらかじめ知っていたのだからその
点を
もっと留意すべきであったのだ。
俺が前にでた時点で何かあると疑ってかかるべきだった。
両膝を突いた京楽の体がフラリと傾ぐ。
102
槍が突き刺さったまま京楽の鎧に包まれた体は横に倒れた。
﹁逃げていた方が賢明だったな。﹂
聞こえないその身にもはやどうにもならない選択の過ちを突きつけ
る。
仮に逃げていたとしたら自分はこんな目にあう必要もなかったのだ
ろうか。
そんなことを仮にこの京楽が考えていたとしてもそれはもう詮無い
こと。
後で悔いると書いて後悔。
どこか捨て台詞じみた俺の言葉。虚空に消え行くはずのそんな言葉を
﹁それは貴様も同じではないのか、角川 七音。﹂
小波 優が、拾いあげた。
﹁いくつか質問がある。﹂
﹁答えられる範囲でなら﹂
気絶して地に横たわる京楽を見下ろしながら小波の言葉に応じる。
﹁何故こんな無茶をした?何故おとなしく隠れていなかった?
何故京楽に狙われていた?﹂
103
﹁⋮⋮⋮⋮⋮何故、ばかりだな﹂
﹁そして何より、最後だ﹂
一拍おいて
﹁ーーーーーー何を、した?﹂
こと最後の質問に至って俺はようやくまともな返答を返す。答えな
いという答えを。
﹁答える義務は俺にないな。そんなことはどうだっていいことだろ
う。
過程はどうあれお前は騒動を治めることができた。
俺の危険も回避された。
結果を見ればひとまず万事解決といったところじゃないか。それに
ーーーーーー﹂
一呼吸おいて俺は小波の方を振り向く。
﹁聞かれたくないことがあるのはお前も同じなんじゃないのか?﹂
それは当を得た発言だったのだろう。
相変わらずの無表情のまま小波は何もいわず立ち尽くしていた。
104
牽制しあうかのように俺と小波の視線がかち合う。
値踏みするような目で小波は俺を見ていた。
それは俺の方も同じで小波をまじまじと見つめる。
互いが互いに暗黙の了解を得た人間観察。
物音一つなく、その場をただ沈黙だけが支配していた。
そして得た結論は俺にとってあまり好ましくないものであったよう
に思う。
浮かんできたイメージは鏡。
直感的に悟ってしまった。
小波 優はどこか人間としてのタガが外れた自分と似ている節のあ
る人間である、と。
そんな事件現場の重苦しい沈黙を断ち切ったのは遠くから聞こえて
きた
105
複数のサイレンの音だった。
それは徐々に音を大きくして付近に近づいてくる。
やがてブレーキ音。
最初に到着したのは灰色を基調にした車だった。
それが複数台。
こんな現場に一般車が来る事はなく、かつ、複数台とは組織的なも
のである
ことの証明。
しかし警察ではない。
バタバタとドアの開閉する音に続いて中から次々に軍人じみた
近未来装備に包まれた人々が出てくる。
対衝撃緩衝スーツ、フルフェイスの銃弾すら弾いてみせる頑丈さを
誇るヘルメット。
肘、膝等の関節部には保護サポーター。
一見軽装に見えなくもないそれらは外見に反した防御力を誇り、
106
かつ、装着者の動きを極力阻害しないようにできている。
それらは対能力者を想定した装備である。
そう、彼らこそがこの街の能力者関連の事件を担当する組織、ゴス
ペル。
続く彼らの行動は迅速で訓練された動きでテキパキと救助活動を始
めた。
瓦礫の下に埋もれた人、車の中で気を失っている人、
壁にもたれてわずかな呼吸をする人。
それらは担架に乗せられてすぐ後に到着した救急車に運び込まれる。
遅れてゴスペルの車の一つから一人だけ服装の違う白衣を纏った
長身の男が出てきた。
年は30代といったところか。
一目でこの中で偉い人間であることが伺えたものの外見はとてもそ
うは
見えず、髪は整っておらずボサボサでいかにも洗髪した後放ってお
いたままですと
いった風。
107
無精ひげもその威厳を削ぐのに一役買っており状況を見ず、見た目
だけで
判断するならそこらにいる無職の中年親父と大差はない。
﹁おっかーれさん、優﹂
その男はこちらに歩いてくるなり小波を労った。
﹁名暮⋮⋮﹂
﹁後始末は俺らに任して後は下がっていいぜ。治療しなきゃいけん
だろ?﹂
妙な言葉遣いの名暮と呼ばれた男は小波に下がることを促した。
事実今もまだその痛々しい傷口からは出血が続いている。
止まることなくドクドクと。
見れば制服の色の黒の割合が随分増えたように思う。
﹁⋮⋮⋮あのビルの中に一人女子高生が倒れているから
この男子高校生ともども保護を頼む。﹂
﹁あいよ、頼まれたー﹂
男がひらひらと軽い調子で手を振る。
108
小波は腑に落ちない、納得できないといった表情をしつつも
静かに去っていった。
⋮⋮⋮これは少し面倒なことになるかもしれない。そんな予感がし
た。
﹁じゃ、行こうぜ少年。つっても少年は怪我なさそうだな﹂
﹁なんとか、ですが﹂
﹁ふぅん、運がいいねぇ。あ、優のいってた女子高生の場所分かる
?﹂
﹁はい、知ってますよ。﹂
﹁そかそか。じゃあそこまで案内してついでに運ぶの手伝ってくん
ない?﹂
﹁⋮⋮いいですけど。でも自分で運ばずとも部下の人に命令すれば
いいんじゃないですか?あなた、結構偉いんでしょう?﹂
﹁お?分かっちゃう?偉いオーラにじみ出ちゃってる?﹂
﹁単なる状況判断です﹂
﹁タッハー、きっついなぁ最近の若者は﹂
おどけるように男がいった。⋮⋮言葉遣いといい性格といい、どう
109
にも
癖のある人物のようだ。
と、自分の癖とも言える人間分析をついしてしまう。
﹁んー、まあそうなんだけどさ。でもほら、優と約束したし。
俺が運ぶって。
それに若者と運動する機会って俺にとって貴重なのよ。
人助けと思って手伝ってくんない?﹂
﹁⋮⋮⋮まあ、そのくらいなら﹂
不二家を運ぶくらいなら引き受けてもいいだろう。
そもそもが乗りかかった船だ。
途中で不二家を放り出して人任せにするのはなんとなく後味が悪い。
﹁ほんじゃあ、案内よろしくー﹂
﹁そういいつつ先導するのは矛盾があるかと。場所、分かるんです
か?﹂
﹁お、そうだった。つい先走っちまったぜい﹂
ふぅ、と一つため息をつく。本当に読みにくい性格だ。
110
そしてなによりふざけてる。俺は心の内で毒づいた。
﹁⋮⋮⋮こっちです﹂
そういって案内を始める。そんな何気ない会話を交わして思う。
一つの事件は収束をを迎えたのだという実感。
かくして危機は去り、日常へと舞い戻る。
終わったからこそ思うことだがとても刺激的な経験だった。
自分に向けられる殺意、悪意、敵意。
決して日常では経験しえない安全装置のないスリル。
こんな経験そうはない。
と、考えれば俺は貴重な経験をしたのかもしれない。
結果からいえば自分は後遺症一つなく切り抜けることができたのだ。
今回のことは不幸と捕らえず幸運とポジティブに考えてみるのも
いいかもしれない。
非日常から日常へと思いを馳せる最中、のんびりと俺はそんなこと
を考えていた。
111
112
第2話︱︱ROOTS︱︱
ギャハハハハーーーー、お前の兄ちゃん犯罪者ーー
じゃあお前も悪いやつだよなー、みんなやっちゃえ
それは無邪気な子供の悪意。俺の兄は犯罪者。と、世間的にそうさ
さやかれた時期があった。
それが事実であったかどうかは分からない。
角川 華音。俺には一人の兄がいた。10も歳の離れた兄。
そんな弟である俺を兄はかわいがってくれた。
おぼろげながら残っている兄の記憶はとても優しいもので。
しかしある日兄は突然の死を遂げた。享年19歳。
あまりにも、あまりにも早い死だった。
そんな兄の死には一つの事件の発生時期が符合している。
8年前の中央研究所襲撃事件。
そして兄はその事件の関係者として挙げられた。
中央研究所というのは能力のギミック、発現条件などさまざまな超
能力に関する研究が行われている場所だった。
113
当時の記事や証言によればどこかの組織が私利私欲で能力を悪用す
るために研究所の技術を盗み出そうとしたらしい。
そして角川 華音はその事件で中央研究所の警備に当たっていた能
力者に仕留められて死亡。
しかしことはそう小さなものでは収まらず、結局件の研究成果はそ
の組織に強奪され、当時日本最高峰と謳われていた中央研究所の設
備の実に7割が損傷。
テロリストVS国家というこの戦いは結果的にテロリスト側の勝利
に終わったといっていい。
テロリストはその目的を達し、国家は甚大な被害を被ることとなっ
た。
しかし、俺にとってそんなことはどうでもよかった。
大事なのは角川 華音がその事件で死んだという事実。
もちろん俺は涙を流した。あの優しい兄が死んだ。
死体は見つからなかったらしくただ制服を着たものものしい人間が
家にきて淡々とその事実を告げられた。
それを母伝手に知る。−−−−−−−−−−−−お兄ちゃんね、も
う帰ってこないの。
その頃9歳だった俺には受け止めるには少々重すぎる悲劇だった。
114
俺はふさぎこむようになり、元から内向的だったのがさらに拍車が
かる。
しかし悲劇はそれだけでは終わらず、直に俺はそのことでいじめに
合うようになった。
初めて向けられた人の悪意。
どうすればいいか分からずただ俺は立ち尽くして受け止めるしかな
かった。
俺の、苦い記憶−−−−−−−−−−−−
115
第2話︱︱カツ丼の行方なぞ知らんなぁ︱︱
ふっと憂鬱な気分で目が覚める。そのせいかやけに体が重たく感じ
る。
よく覚えてはいないものの何かよくない夢を見ていたような気がす
る。
目覚まし時計を見ればまだ7時前だった。
アラームの設定時刻より前に目が覚めてしまったらしい。
二度寝をする気にもなれない。
眠るとまた同じ夢を見そうだったから。
仕方なしに重い体を無理やり動かし、制服に着替える。
部屋には大きめの棚が2つほどそこには種々雑多な書籍がギッシリ
と詰まっている。
さらにその棚の近くに入りきらなかった本が乱雑につみあがってい
る。
新しい棚を買った方がいいかもしれないと思う一方でどうせまた一
杯になるのだからそれよりも本代に当てた方がいいというせめぎ合
いの結果だ。
散らかっている、だがこの状態が俺にとってのスタンダードだ。
116
誰がどう言おうとも。
そんな自室を後にして俺は階段を下る。
階下に下りるにつれて包丁の音、フライパンで何かを焼く音といっ
た朝食の準備をする音が聞こえてくる。
リビングのドアを開けるとその音はいっそう大きくなり、それに食
欲をそそる匂いも付け加わった。
﹁おはよ、七音。随分早いわね﹂
﹁ああ、おはよう。父さんは?﹂
﹁今洗面所よ。顔を洗うならちょっと待ってなさい。今りっくん出
てくるから。っと、噂をすれば﹂
ぬっ、とキッチンの奥のほうにある洗面所から一人の男が出てくる
背は俺とあまり変わらない。
中肉中背、バランス体系。角川 律。俺の父親だ。
﹁おはよう﹂
﹁ああ、おはよう﹂
﹁母さんに挨拶したか?﹂
﹁まあ﹂
117
﹁そうか﹂
母、というのは先ほどからキッチンで腕を振るっている女性のこと
で、名を角川 奈々香という。
母さんは明るく父さんは非常に無愛想。
よくもまあこんな正反対な性格の2人が出会った上に結婚まで行き
着いたのか何分不思議ではあるが人生とは往々にしてそういうもの
なのだろう。
事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。
それに見ようによってはこの2人なかなかバランスの取れた組み合
わせではある。
洗面所で顔を洗い終えてリビングに戻るとすでにできた朝食を母さ
んが並べ始めているところだった。
すでに席についている父さんはいかめしい表情で新聞とにらみ合い
をしている。
何か気分を害する記事でもあったのだろうか。
﹁何かいやな記事でもあったのか、父さん?﹂
﹁ソフトバンクが負けた﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうか﹂
118
今日も世界は平和なようで何よりだ。
﹁りっくん、好きだものねぇソフトバンク。﹂
﹁ああ、ダイエー時代から愛してる﹂
﹁私よりも?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮2番目に﹂
﹁1番は?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮言わせないで欲しいのだが﹂
﹁もう!りっくんったらぁ!﹂
そんな調子でバンッと父さんの背中を叩いて母さんはキッチンに戻
っていく。
結構痛かったのか父さんが無言で背中をさすっていた。
角川家は日夜このような調子で夫婦仲は初恋を維持しているといっ
ていいほど円満だ。
正直見せ付けられる側はいい迷惑である。
そして、
︵俺への愛情度はホークス以下なのか、父さん⋮⋮︶
119
俺は内心で密かに嘆息した。
事件後、俺はゴスペルの保護を受けて病院で簡単な検査、事情聴取
を受けてから家へと帰された
事情聴取といっても俺が何をしたかは特に聞かれず、どういう状況
で巻き込まれたか、それを聞かれたくらいである。
すでに犯人は捕まっているためにあまり聞くことがなかったのだと
思う。
その後で自宅まで送ってもらった。
ウチはわりと放任主義で帰りが遅くなっても文句がいわれることは
ない。
そこそこいい時間になっていたのだが何もいわず両親は出迎えてく
れた。
疲れがたまっていたために風呂に入り夕飯を食べるという最低限の
プロセスを終えてさっさと俺は眠りについた。
あんな悪夢を見たのはそのせいかもしれない。
︵随分ぶっ飛んだ体験だったからな︶
120
何分対峙したのは殺人者だ。一歩間違えば死んでいてもおかしくは
ない。
普通の人生ではまず味わえない天然物のスリルだ。
それも飛びっきりの。
不良共の喧嘩、抗争などとは比較にならない。
それらを踏まえた上で戻ってきた日常を噛みしめる。
何事もない一日とはかくもすばらしきものか。
﹁なあなあ七音ー。俺らってさ昼飯にいつも弁当食ってるわけじゃ
ん。後購買の惣菜パンとか﹂
﹁そうだな。﹂
﹁だからかなー。教師ってたまに出前とったりする人いるじゃんか。
あのラーメンとか、カレーってめっちゃうまそうに見えね?﹂
﹁⋮⋮⋮いや、別に﹂
﹁見えるんだよ!﹂
﹁そこで怒られても対応に困るんだが⋮⋮⋮﹂
価値観は人それぞれなのだからこちらにキレられる筋合いはない。
﹁で、だ。七音。これを食ってみたいと思わないかー!!﹂
121
﹁⋮⋮⋮いや、別に﹂
﹁思うんだよ!﹂
﹁俺の内面を勝手に自己解釈するんじゃない﹂
﹁と、いうわけで七音よ。﹂
五反田が机に両手をついて頭をこすり付けて土下座のような姿勢に
なる。
﹁どうか、教師の出前を食べても怒られない方法を教えてください
!!﹂
﹁いやだ。俺にメリットがない﹂
﹁そこを何とか。﹂
バッサリと単純な理由とともに五反田の要求を切り捨てるが、自然
と一つの疑問が浮かんできて思わず口を開いてしまう。
﹁⋮⋮⋮⋮いや、そもそも聞き方が微妙におかしくないか?。食べ
てしまえば怒られることは確定なわけだろう。むしろ聞くならばバ
レずにどうやってその出前を食べるかの方が聞き方として適当だと
思うが⋮⋮⋮⋮⋮⋮お前、まさかーーーー﹂
いいかけてある一つの可能性に気づく。普通ならあり得ない。
だがこいつにそんな普通は通用しない。
122
悪い意味で予想の斜め上を越えるこの馬鹿ならばもしかしたら。
思い当たることが一つ。そういえばこいつ、昼休み直前の授業を一
つサボっていたような気がーーーーーー。
﹁−−−−−−食べちゃった﹂
﹁−−−−−−詳しく聞こうか﹂
昼食を食べ終えて手早く中身の空になった弁当箱を片付けてあらか
じめ買っておいたパックのお茶を一すすり。
両肘を机について指を組み合わせて口元の辺りに持ってくる。
なぜか対面の五反田も俺に合わせて同じ体勢をとっている。
いかにも厳かな様子で五反田がシリアスな空気を纏いつつことの次
第を語り始めた。
﹁前の時間、俺は授業をサボったんだ。それでこの時間は保健室に
誰もいないと思って中に入ったんだけどな、何とそこには運悪くウ
ッチーがいたんだよ。﹂
宇都宮教諭。俺たちのクラス担任にして五反田亮介の天敵。
決して悪い教師ではないのだがいかんせん厳しい。
生徒指導と風紀委員の顧問も兼ねているほどに規律を守れないでき
の悪い生徒には厳しく当たる。
123
その中でもとりわけ五反田は愛されているのだ。
﹁でさーサボろうとしてるのがバレちまったんだよな。ひでーんだ
ぜ。熱っぽくてもしかしたら風邪ひいたかもっつってもぜんぜん信
じてくれねーの。馬鹿が風邪をひくわけがないだろうってよ。くっ
そー、見てろよ。今度ほんとに風邪ひいてきて俺が馬鹿じゃねーこ
とを証明してやる﹂
馬鹿が風邪をひかないというのが本当ならばその発想に行き着くお
前はおそらく一生風邪はひかないのだろうな。
色々と思うところはあったものの胸のうちに留めるまでにしておく。
いかんせん話が進まなくなってしまう。
で、と俺は話の核心に迫るよう五反田に続きを促した。
﹁そんで、職員室に連行されてウッチーに説教されてたわけよ。や
れお前にはやる気が足りない。他の連中見て恥ずかしくないのかだ
の、そんなんだからいつも赤点ぎりぎりなんだだの。でな、そんと
きにあまりのストレスからか腹が鳴っちまったんだよ。そしたらウ
ッチーが何だお前腹が減ってるのかっていってーーーーー﹂
﹁何だ五反田、お前腹が減ってるのか。﹂
124
﹁だってもうすぐ昼じゃん!育ち盛りの男子高校生の食欲をなめん
なよ?﹂
﹁敬語を使え、馬鹿者。﹂
﹁先生、お電話入ってますのでちょっとこっちにきてもらえますか
?﹂
﹁−−−−しょうがないな、ちょっと待ってろ。﹂
﹁すいませーん、頼まれてた来来軒のものですけども宇都宮様の席
はどこでしょうかー?﹂
﹁︵え!?まさか、ウッチー、俺のために⋮⋮⋮︶ハイハイハイ!
宇都宮はここですよー!﹂
﹁あれ、生徒さん?うーん、でもいっかお代も机の上に置いてある
みたいだし⋮⋮。じゃあ、君。先生に出前きたって伝えといてくれ
る?﹂
﹁バッチコイ﹂
﹁じゃ、毎度ありー!﹂
﹁さって中身は何かなー?うっひょー!ホッカホカのカツ丼だー!
いただきまーす!﹂
125
﹁ふー、うまかった。満足満足。使用済みの割り箸はゴミ箱に捨て
て、蓋は元通りにっと。いやーそれにしても意外だったなー。ウッ
チーがこんな奮発してくれるなんて。こりゃウッチーの評価見直さ
ないとだめかー?﹂
﹁ふぅ、新しいテキストの発注の話があんなに長引くとは思わなか
った。スマンな、五反田待たせた。﹂
﹁いえいえそんな、滅相もない!ありがとうございます!﹂
﹁?お前にしては珍しくやけに殊勝な態度だな。﹂
﹁そりゃあもう!今日の俺なら先生のいうこと何でも聞いちゃいま
すよ!﹂
﹁そ、そうか⋮⋮⋮。﹂
﹁何ですか?補習プリントですか?あ、机の上の書類整理します?
何なら肩揉みでもしましょうか?﹂
﹁いや、別にしなくてもいいが⋮⋮。あぁ、そういえば。﹂
﹁何でありますか、先生!﹂
﹁俺が席を離れている間に出前が来なかったか?﹂
﹁はい、来ましたよ。ほら、これですよね?﹂
﹁あーそうだこれだ。机の上に代金置いてあったんだがちゃんとお
126
店の人持って行ってくれたか?﹂
﹁はい!万事滞りなく!﹂
﹁そうかそうか、それはなによりだ。おっと、そうこうしている間
に鐘が鳴りそうだな。そろそろ昼休みか。五反田、お前の今日の昼
飯はなんだ?﹂
﹁カツ丼!﹂
﹁おっ、そうか奇遇だな。実は先生が今日頼んだのもカツ丼なんだ。
﹂
﹁−−−−−−えっ?﹂
﹁いやー教師というのは安月給でな。贅沢はそうできんのだがそれ
でも週に1度来来軒のカツ丼は奮発して食べたくなるんだ。先生の
ささやかな楽しみの一つだよ。ハッハッハッ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮︵ガタガタガタガタガタガタ︶﹂
﹁おっと、チャイムが鳴ったな。五反田、今回はもう細かいことは
いわんが次からは気をつけろよ。次にまた何かやらかしたらただじ
ゃ置かないからな?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あ、あのー先生?一つお聞きしたいことがあるのですが
⋮⋮﹂
﹁ん、何だ?﹂
127
﹁そのカツ丼って先生2つ注文していたりはーーーーーー﹂
﹁するわけがないだろう。そんな暴飲暴食はせん﹂
﹁デ、デスヨネー、ハハハハ、ハ、ハハ、ハ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮失礼しますっ!﹂
﹁こら!職員室を走るんじゃない!﹂
﹁すばらしい自爆と自白だな。﹂
﹁だってしょうがないじゃんよー!腹が減ってるのか?↓しょうが
ない、ちょっと待ってろ。この会話の流れだぜ?出前が俺のために
来たと思ったっておかしくないじゃんかー!﹂
﹁確かにそうかもしれないがそれは宇都宮の台詞を都合よく解釈し
すぎだろう。お前の頭の編集機能は一体どうなっているんだ。﹂
﹁とにかく!今は早急にこの状況を切り抜ける術が欲しい!いい加
減ウッチーだって気づく頃だろ?﹂
ギャーギャーとわめく五反田。そんなことをいわれたところで無理
なものは無理だ。状況が整いすぎていて言い訳のしようもない。
この場にどんな天才がいたとしてもきっと不可能という結論を出す
だろう。
128
ヒートアップしていく五反田のテンション。
それに刺激されたのだろうか。
まるで呼応するかのように教室内のスピーカーから音声が流れ出し
た。
﹁生徒の呼び出しをします。2年D組ーーーーーー﹂
﹁来たぞ、五反田。お仕置きの時間が。﹂
﹁いやだー!!裁かれたくねええええええ!!!!﹂
﹁ーーーーーー角川 七音君﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
トントン、と自分のこめかみを人差し指で軽くニ回小突く。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮いや、まさか。単なる聞き間違いだろう。
俺は特別何かをやらかした覚えはない。
と、自分の勘違い説を無理やりに肯定しようとするも、流れるリピ
ート放送に耳を傾ける。
﹁至急職員室まで来るように。繰り返します。2年D組、角川 七
129
音君。至急職員室までーーーーーー﹂
あまりに唐突なことに頭がついていけない。
聞き間違いというのは俺の淡い期待の内に終わった。
なぜ、ここで俺の名前が出るのか。
別段自分が何か至急で呼び出されるほどの悪事を働いた覚えはない
のだが。
これは一体⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
﹁神は俺を見捨てなかった!!!!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁七音、プギャー。﹂
プチッ
﹁うるさい!!﹂
﹁ぬ、ぬぁぁぁぁぁ!!!!目、目潰しぃぃぃぃ!!!!﹂
途端に変わった五反田の態度に苛立ちを覚えて迷わずブスリ、とそ
の目をつぶす。
五反田が両手で目元を抑えて教室のリノリウムの床をごろごろとの
た打ち回る。
130
その間も思索を巡らせるも何も浮かんではこないどうにもとりあえ
ず職員室に行ってみるとしよう。
ムギュ、とすでに瀕死の状態となり、動かなくなった肉塊を強く踏
みつけてグリグリッと靴底を押し付けるのを忘れず俺は昼休みの喧
騒に包まれている教室を後にした。
﹁い、痛い!けど、ハハ、そっか、ウッチーは俺が食ったって気づ
かなかったのか。すげーミラクルが起こったもんだぜ。いやー、俺
ってばついてるなぁ。ハッハッハッハッハッ﹂
﹁と、そんな都合のいい展開になるものと、思ったろう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ウ、ウッチー、い、いつの間にそこに⋮⋮⋮⋮?﹂
﹁宇都宮先生だ、馬鹿者。で、何か言い残したい事はあるか?んん
?五反田ぁ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮カツ丼、おいしかったドン﹂
﹁おのれは俺を馬鹿にしているのかあああああぁぁぁぁぁぁ!!!
!!!!﹂
﹁ひいいいいいいいぃぃぃぃ!!!!﹂
﹁この、馬鹿もおおおおおおおぉぉぉぉん!!!!!!!﹂
131
第2話︱︱行為の代償︱︱
呼び出しを受けて職員室に着くなり俺は一人の教師の誘導を受けて
視聴覚室の近くに連れてこられた。
その教師は学年主任の教師で一瞬本当に自分の知らないうちに何か
をやらかしてしまったのかと思ってしまうのは一種の条件反射だろ
う。
街中をパトロールしているパトカーを見たときの感覚に似ているか
もしれない。
もともと俺の校内での印象はあまりよいものではない。
その教師の表情には敵意のような嫌悪のような表情がありありとに
じみ出ていた。
﹁中に入れ。﹂
簡潔にいうなり教師はもう用は済んだとばかりにさっさと職員室に
戻って行った。
俺がここに連れてこられた理由は何でも能力検査の再検査のためら
しい。
この検査は各地域の保健所からの派遣員が行っているのだが何でも
今回その保健所のほうで手違いがあったらしく俺の検査データを紛
失してしまった。
132
そのためにもう一度検査をしてデータをとれないかとのことだった。
去っていく教師の後姿を見送った後で軽く木でできた引き戸をノッ
クする。
コツコツと小気味いい音が響く。
﹁どうぞ﹂
﹁失礼します﹂
俺は引き戸を引いて中に入る。中にいたのは白髪の交じりかけた初
老の男が一人ともうすぐ30に手が届こうかという年齢のしかしそ
れでもまだまだ若々しさを感じさせる看護師だった。
いずれも白衣を身にまとい医者特有の清潔さを感じさせる服装だ。
視聴覚室、とはいうもののその構造は特別教室となんら変わりない。
広さも部屋の構造もほぼ教室と同じように作られている。
違いをあげるとするならばこの部屋に用意された机は教室のものと
違って長机であること、教室前方に黒板が取り付けられておらず、
代わりに上方に収納式のスクリーンが設置されていることだ。
しかし今は部屋が検査用に使われている為かいつも綺麗に並べられ
ている長机は部屋の隅に綺麗に片づけられ、スクリーンのほうも収
納されている。
用意されているのは窓際に置かれた長机とイス。
133
イスは机を挟むようにして置かれており、窓を背にして白衣を着た
医者はすでにイスに腰掛けている。
﹁座って﹂
指示に従って空いているパイプイスに腰掛けた。年季が入っている
のか
体重をかけた途端にギシギシとイスが悲鳴を上げた。
机の上には検査をするための機材。これは脳波の検出用だ。
検査といってもそんな仰々しい事はしない。検査を受ける人間がす
る事はヘッドフォンのような機械をかぶってしばらくじっとしてい
る。
ただそれだけだ。
能力者というのは一般人とは違う脳波を発する。
その脳波をこのヘッドフォンのような機械で検出し、モニタに表示
するという仕組みになっている。
専門家ではない俺には詳しいことはさっぱり分からないのだが。
医者の指示を受けて看護師が机上のモニタのスイッチを入れた。
モニタは医者と検査を受けている人間双方が見えるようになってい
る。
134
﹁じゃあ、それをかぶってくれるかな﹂
渡されたヘッドフォンをつける。
途端にモニタに表示されている緑色の線が揺らぎ、波形を形どった。
これが俺の現在の脳波ということらしい。左から右へ流れる俺の脳
波を見て医者は何かを考え込んだ後看護師に指示を加える。
すぐさま看護師が返事をしてモニタの電源部の近くにあるつまみを
回転させる。
表示が切り替わり波形だった俺の脳波がさらに大きいものになる。
それをしばらく見つめて医者はうーむ、と唸っていたが次第に納得
したらしい。
手元の書類に何やら結果を書き込み、看護師にスイッチを切るよう
に指示してから
﹁もう外していいよ、お疲れ様。﹂
﹁あ、はい﹂
﹁時間をとらせて悪かったね﹂
﹁どうでしたか﹂
﹁うん、春に検査した時と同じで異常はないね。﹂
135
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうですか﹂
﹁それじゃあ、後は教室に戻ってくれて結構だよ。重ねて言うけれ
どお疲れ様﹂
人当たりのいい柔和な笑みを浮かべて医者はいった
﹁はい、では失礼します﹂
立ち上がり、一礼してから入って来たドアと反対側のドアを開けて
俺は廊下に出た。
背後では機材を片づける物音。思考を切り替えて、俺は先ほどのや
り取りについて考える。
結果を聞いた時、あの医者はこう言った。異常はない、春と同じで。
春の俺の検査結果をあの医者は覚えている。それは何もおかしい事
ではない。
以前の検査結果で反応がでなかったからこそ俺はこの学校にいるの
だから。
だがそうじゃない。あのニュアンス、口ぶり。
俺にはデータを紛失した者のように聞こえなかった。
いうなればそう、前にあったデータと今回のデータを照らし合わせ
た上で異常はない。
136
そういった感じがしっくり来る。そんな理由をでっちあげてまで今
の時期に再検査。
昨日の今日でこの出来事。これは、おそらく⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
あくまで可能性の一つではあるがその可能性は決して低くない。
ゆえに俺はこう考える。
﹁奴の差し金、そう考えるのが妥当だろうな﹂
﹁陰性、だったってよー﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうか﹂
とある部屋の一室。日も落ちかけた逢魔が刻。
差し込む夕日が室内を朱色に染めあげる。
部屋の半分には黒革のソファとガラス張りの低いテーブル。
もう半分には大きなビジネスデスクが鎮座している。
机上にはたまった書類が山積み。
137
棚のほうも最低限の整理しかなされていないのかところどころくし
ゃくしゃになった紙切れが顔をのぞかせている。
応接室と私室がごっちゃに合わさったような部屋だった。
部屋の中には男女がひと組。
ビジネスデスクに備え付けられた肘掛け付きの回転椅子に座るのは
中年の男。
机上の書類が乱れるのも構わず両足を机の上に投げ出している。
口にはタバコ。
おもむろに口もとのタバコをとって灰皿にもっていきトントンと灰
を落とす。
その灰皿はすでに吸殻で一杯になっており皿のふちでどうにか落ち
てくる灰を受け止める。
そんなだらしない男とは対照的なのが応接間のソファに座る少女の
たたずまいだ。
高校の制服を着込みソファに身を預けたまま腕を腹のあたりで組み、
落ち着き払った態度で黙って男の報告を聞いていた。
﹁能力者かもしんねーっつーお前の予想、外れちまったなー優﹂
﹁検査結果に間違いは⋮⋮⋮⋮⋮⋮ないのだろうな﹂
138
﹁まー、あの検査の精度に間違いなんてこたーまずねーからなー﹂
気の抜けるような真面目とはかけ離れた口調で男はいう。
﹁けど、目撃証言が2つもあるわけだしなー。お前と、京楽と。見
間違いだったわけじゃなーよなー?﹂
﹁ああ、確かに見た。コンクリートが京楽の攻撃を防ぐところをな﹂
そして最後の決定打。あれも角川 七音が能力を行使したものであ
ると、小波 優は仮説立てている。
それ以外にあの現象は説明がつかない。
小波優の中でその仮説は半ば確信めいているといってもよかった。
だがその仮説が今日出た検査の結果によって真っ向から否定された。
検査の結果が陰性。それはつまり一般人である事の証明だ。この検
査をかいくぐる方法など聞いたことが無い。
陰性、という結果はそれだけ真実に近い情報であると言っていい。
しかし小波 優は自分の見たものを無下に切り捨てない。
あれは確かに見間違いなどではなかった。
小波 優の中で2つの矛盾した事実がせめぎあう。
﹁まあ、ひとまずは調査は打ち切りってとこか。優のいっていたや
139
つは能力のない一般人でした。これでいちおーの解決、だなー﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうだな﹂
そう呟いたきり小波 優は口を閉ざす。思索にふけっているのだろ
う。
そんな小波 優の様子を見て男はちょっかいを出す。
﹁なーんか不服そうだなー﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ふむ、状況から推測するにー。うーん、なんだろなー、そう、た
とえば!﹂
男はふざけた口調で遊戯にふけるかのように小波 優の不満を推測
し始める。
回転椅子にもたれ、タバコを口にくわえたまま男は左腕を頭の後ろ
に回したままピン、と前に出した右手の人差し指を立てる。
﹁件の角川くん、お前に何かした?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮それは報告した通りだ。京楽に追われていた角川を
避難させた。そして私と京楽が戦っていたところにヤツが飛び出し
てきた。出てくるなり指示を飛ばしてその通りに動いて事態は解決。
それだけだ﹂
﹁ふむ、で、何が不満なワケー?﹂
140
﹁別に不満があるわけではないのだが、そうだな、強いていうなら
ば﹂
﹁いうならば?﹂
﹁あまり論理的でないいいかたは好きではないのだが、なんとなく、
だな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮へーめーずーらーしー、優がそんないいかたするな
んて﹂
男が茶化すようにいうと小波は言うべきではなかったかもしれない、
と己の迂闊さを反省して内心で嘆息した。
これ以上ここにいても生産的ではない。用はもう済んだ。
そう思い立った小波 優は傍らに置いてあったカバンを手にとって
革張りのソファから立ち上がる。
﹁では、また何かあったら呼んでくれ﹂
﹁ほいほーい。﹂
相変わらず軽い調子で男は軽く手をひらひらさせる。それが男なり
の別れの挨拶なのだ。
本人曰く、別れを重いものにしないようにするためにあえてぞんざ
いにしているらしい。
141
だが小波 優は断じて信じない。これは本人が単純に面倒くさがっ
ているだけであるという説を強く信じている。
﹁ではな、名暮﹂
パタン、と静かに部屋のドアが閉じられた。部屋に残されたのは男
一人。
小波 優が出て行った後もマイペースを崩さずプカプカとタバコを
ふかしている。
そんな小波 優に名暮、と呼ばれた男がおもむろにデスク上の一組
の書類を手に取る。
そこには一人の高校生のプロフィールから昨日の私生活までに及ぶ
詳細なデータが記されていた。
﹁角川 七音、ねぇ﹂
このデータは昨日の事件の後から小波に事情を聞くなりすぐに部下
に集めさせたデータだ。
そんな個人情報をたやすく手に入れられるだけの権力をこの男は持
っている。
﹁たっはー、職権濫用だよな、個人情報入手とか﹂
江崎 名暮。ゴスペル桜森支部の支部長。男の名前とついてる役職
名である。
142
﹁それにしても、角川 七音クンなー。おもしれーじゃねーの。人
生波乱万丈ってかい﹂
一度目を通した書類に再び目を通して江崎 名暮はほくそ笑む。
夕暮れの一室に一人の男の抑えたような笑い声が響きわたった。
143
第2話︱︱疑いと好意︱︱
この時期放課後に図書室に居座る人間はそうそういない。
図書室はカウンターに図書委員の生徒がいる以外他生徒は見当たら
なかった。
その図書委員も静かなものでおとなしく手元の本に視線を落とした
ままだ。
その仕草はひどく退屈そうにも見える。室内は静寂に支配されてい
た。
その図書室のさらに奥まった場所に俺はいる。
放課後に特に予定が無い場合は割とここに立ち寄る事が多い。
本に触れる事は俺にとっての癒しの一つだった。
手当たりしだいに本を取り出しては開いて、戻して目ぼしいものが
無いか物色していく。
俺の読書量は普通の高校生を軽く凌駕しているという自負はあるも
のの、まだその量は図書室の書架を制覇するまでに至っていない。
ここには、まだ未知がいっぱいだ。
そんな期待じみたものを抱きつつ、物色を続ける。そんな折である。
144
珍しく、放課後の図書室の扉がガラガラと音を立てて開いたのは。
足音は一人分。俺のいる場所からはそれが誰なのか確認する事はで
きない。
俺と同じく図書を借りに来た生徒だろうか。こんな時間に珍しい。
と、自分の事はすっかり棚に上げて考える。
しかし抱いた興味はごく小さなものですぐに気にしないことにした。
闖入者への興味は次第に薄れていき再び蔵書の方へと戻っていく。
一冊の本を手に取り、パラパラと、ページをめくる。
それは過去に読んだ事のある本であったが何となく見返したくなっ
た。
見覚えのある文章が俺の目に映る。
あらかた流し読みし終わった俺はパタン、と静かに本を閉じてそれ
を丁寧に書架に戻した。
﹁ニーチェか﹂
突然かけられた声に何事かと思い、首をひねって背後にいる人物を
見やる。
﹁随分と高尚なものを読んでいるのだな。角川 七音﹂
145
﹁それは褒めているのか?小波 優﹂
お互いに牽制し合うかのような言葉を交わす。
﹁放課後に生徒がこんなところに来るとは珍しいな﹂
﹁生徒であるお前に言えた事ではないだろう﹂
﹁まあ、そうなんだけどな﹂
背中を向け気味になっていた体を直して小波に正面から向き合って
対峙する。
体重を少し背後の書架に預ける。
小波はこのような図書室の奥深くまで来るのが珍しいからか棚に手
をかけ、周囲の様子を物珍しそうに眺めていた。
﹁それで、単刀直入に聞こうか、小波。何の用だ?﹂
﹁大体分かっているのではないか?角川、お前ならば。﹂
相変わらず表情も口調もおよそ人間らしさを感じさせない無感情。
会話がただの尋問になり下がる
小波の纏った冷たい空気がそうさせていた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮さあな。校内一の有名人に話しかけられる理由など
全く思いつかないな﹂
146
﹁容姿端麗、頭脳明晰、才色兼備といった私の噂の事か?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮まあ、そうなんだが。自分でいうか?普通﹂
﹁そう言われているという事実を述べただけだ。私自身は別にそう
だと思ってはいない。まあ、確かに客観的に見れば私は有名なのか
もしれないな﹂
﹁大した謙遜だな。流石優等生だ﹂
小馬鹿にするようにいうものの小波には一向に応えた様子はないよ
うだ。
俺としても本音で言ったわけではない。
決して自慢をしているというわけではないと思う。
口調に嫌味をが感じられない。
何せあらゆる意味でこいつには感情が感じられない。
こうして会話する時間は数刻に満たないもののそんなくだらない事
をする人間ではないと思う。
本人からすればそういう事実がある、と淡々と述べているにすぎな
いのだろう。
﹁確かに有名である事は認めよう。だが、それが校内一かどうかと
いうことになればいささか疑問が残るな﹂
147
引っ掛かりのあるような言い方。
この時点でこいつが何を言いたいのか分かってしまった俺は自分の
勘の鋭さを喜ぶべきなのだろうか。
それを自分から認めてしまうのはどこか癪だった。
不本意ながら付いてしまった通り名。
知らない風を装ってとぼけてみせる。
デーモン
﹁何のことだろうな﹂
ギルティ
﹁犯罪者角川、悪魔鬼五反田。いずれもこの学校で有名な名前だな﹂
﹁そんな噂があったとは初耳だな。で、そんな噂の真偽を確かめる
ためにお前はここにきたのか?だとするなら俺に答えられることは
一切ないが﹂
﹁いや、その件については大体分かっているから聞くまでもない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮すでに俺の個人情報は丸裸、というわけか。流石ゴ
スペルといったところか﹂
﹁そうだ。今日話をしに来たのはその事についてだ。いくつか聞い
ておきたい事と確認しておきたいことがある﹂
決して逃がしはしない。そんな冷たい視線が俺へと向けられる。
148
感情はないものの強い意志を感じさせる、そんな視線だった。
その迫力に俺はピリピリと肌がひりつくようなプレッシャーを感じ
た。
﹁まず、一つ。私がゴスペルに所属している事をあまり言いふらさ
ないでもらいたい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮まあ、別段いいふらすつもりはないが一応聞いてお
こう何故だ。﹂
﹁下手な波風は立てたくない。私は能力者だ。それだけいえば分か
るだろう?﹂
﹁なるほどな﹂
近くに能力者がいると分かる。それだけで恐怖に駆られる人間がい
ないとは限らない。
それだけ能力というのは人に恐怖を与えるものなのだ。
一般人と能力者の間にある絶対的な壁。
それは決して越える事が出来ない。
だからこそ能力者は保護、教育という名目のもとで区別されて専門
の学校に送られるのだ。
﹁二つ。京楽の事件でお前自身が戦ったことをいいふらすな。公式
の発表では一般人の協力はなかった事になっている。﹂
149
﹁それはゴスペルの面子ってやつか?﹂
棘のあるような引っ掛かった言い方で返してやる。
まるで相手の神経を逆撫でするかのように。
それでもあくまで小波は冷静に返答する。
﹁半分はな。だがもう半分はお前自身のためだ、角川。あの戦闘の
詳細。知られればお前にとって好ましくない事もあるのではないか
?﹂
﹁さて、な﹂
﹁ちょうどいい、三つ目だ。この際に聞いておいた方がいいだろう﹂
日が沈みかけ、窓の外は徐々に赤みがかってきている。
そのわずかな朱が図書室を照らし出す。
まるで、図書室が一つの幻想的な空間に早変わりしたようだった。
そこにあるのは非日常。
目の前に立つのはその担い手。
﹁お前は、能力者なのか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮この学校のいること、それ自体が答えになると思う
150
が。﹂
﹁例外もいる。例えば私のような、な﹂
﹁仮にそうだったとして﹂
冷静に思考回路を回す。小波の強烈な視線に負けじと、まなじりを
上げて正面からその視線と向き合う。
若干の間を持たせた勿体ぶった言い方。
﹁俺が素直に答えると思うか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁それに答えならもう出ているんじゃないのか?あの、昨日やった
検査で﹂
﹁バレていたのか﹂
﹁いや、カマをかけただけだ。おかげで仮説が確信に変わった。や
っぱりお前の差し金だったんだな﹂
小波の目元がスッと細まり、視線が弱まる。してやられた、といっ
た風だ。
唐突に目を閉じて小波は大きく一つ息をついた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮食えない男だな、お前は﹂
151
﹁それはどうも。俺にとっては褒め言葉だ﹂
とはいうものの、小波も俺のことをどうこういえた立場ではないと
思う。
こいつは言葉の端々に俺にカマをかけるかのような節を見せて俺の
反応を窺っていた。
食えないのは小波も同様だ。伊達にゴスペルという特殊な組織に身
を置いていないということか
そのまま互いに対峙したまま時間が過ぎていく。
そんな舌戦に終止符を打ったのは図書室の引き戸がスライドする音
だった。
﹁ごめんね、小波さん。先生に頼まれごとされちゃって遅くなっち
ゃったーーーーーーってあれ?小波さん?帰っちゃったのかな?﹂
静寂に支配された荘厳な雰囲気を破る女生徒の一声。その声は聞き
覚えのある声で目の前にいる小波の名を呼んだ。
長机にドサドサとものを置いて女生徒が図書室を歩きまわる足音が
する。
﹁あ、小波さん。よかったぁ。帰ってなかったんだね。って、あれ、
角川くん?どうしてこんなところにいるの?﹂
奥まった書架の通路の向こう。女生徒が一人。不二家の姿がそこに
あった。
152
相変わらずの校則通りの長さのスカート、タイの長さ。
髪は不衛生さを感じさせないショートカット。
もともとのものなのか、若干の癖が付いている。
そして中身までもが真面目ちゃんといったこちらも多少意味合いが
異なるものの優等生である。
﹁いては悪いか﹂
﹁え、ううん!全然そんなことないよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮何故そんな強い口調なんだ﹂
﹁え、と、その、角川くん気を悪くしちゃったのかなと思って⋮⋮
⋮⋮⋮⋮﹂
そんな風に見られていたのか、と内心で若干肩を落とす。良かれ悪
かれ勝手に人間性を決め付けられるのは俺にとっていささか不快で
はある。
ふうっ、と俺は一つこめかみに親指を当てて大きく息をついた。
﹁怒ってない。だから安心しろ﹂
﹁ほんと?﹂
﹁嘘をついてどうする﹂
153
﹁う、うん。ごめんね﹂
奇妙な沈黙が場を包み込んだ。俺と不二家のやりとりを見ていても
小波が動じた様子は全くない。
さらにいうなら何のアクションを起こす様子もない。
不二家はどことなく用件があるものの、俺というイレギュラーがい
た為にどう動いていいか分からないといった様子だ。
仕方ない、俺が動くとしよう。
﹁何か小波に用があったんじゃないのか?﹂
﹁え、あ、うん。そうなんだけど。角川くん、小波さんと何かお話
があったんじゃないの?﹂
﹁もう終わった﹂
﹁あ、そうなんだ。じゃあ、小波さん借りてもいいかな?﹂
﹁別に俺に聞く必要はないだろう。何をするんだ?﹂
社交辞令とでもいうのか何となく会話を途切れさせないためにどう
でもいいそんなことを聞いてしまう。
どうでもいいことだった、のだが。
﹁うん、蔵書整理するの。主に今私たちのいるこの辺の書架。
154
クラス委員の仕事の一環でね。
小波さんはその手伝いをしてくれるんだって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮何?﹂
不二家の言葉の半分は聞いていなかった。重要なのは聞いていた半
分でその事実は俺にとって不都合なものであったからだ。
由々しき事態であった。この辺の書架というのは人がほとんど寄り
付かないというのは先に述べたとおりだがそれゆえにこの辺には
俺が勝手にお気に入りとして集めた蔵書が俺の好みの順番に配置さ
れている。
それが壊されるとなると⋮⋮⋮。
俺としてはそのような事態は避けたい。どうする、俺。
しばしの逡巡の末答えを出す。ボランティアは嫌いだが背に腹は変
えられん。と、いうわけで
﹁不二家﹂
﹁?どうしたの?角川くん﹂
小波と一旦長机の方へ戻ろうとした不二家を呼びとめる。
﹁俺もやる。いや、俺がやる﹂
155
﹁え?本当?いいの?﹂
﹁ああ﹂
﹁わぁ、ありがとう!﹂
不二家の顔が途端に花が咲いたような笑顔になる。その一方で小波
は俺の方をどこか疑い深げな目で俺を見つめていた。
何かある、というのは小波にはすっかりバレてしまっているようだ。
そんな俺をまるでどうでもいいと振り切るかのように小波は俺と不
二家を置いて早歩きで長机の方へ行ってしまった。仕方なく俺は不
二家と並んで歩き出す。
﹁そういえば、角川くん。この前は大丈夫だった?﹂
﹁ああ、幸い怪我もなく、な﹂
﹁そっかぁ。それはよかったね﹂
﹁不二家もな﹂
﹁あの、それでね、角川くん。もしかしてこの前、私の事助けてく
れたりした?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁あの、私気を失ってたんだけどそれでもちょっとだけ意識があっ
156
てね。誰かが私を背負ってくれているような気がしたの。それで、
もしかしたらそれって角川くんだったのかなって﹂
数瞬の迷い。先ほど俺は小波にあの事件について被害者の立場でい
ること、京楽の逮捕に協力したことは話さないと決めたばかりだ。
考えてから俺は嘘をつくことに決める。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮さあ、心当たりがないな。俺も気を失っていたから
な。大体仮に俺に意識があったとして俺が不二家を助けるようなお
人好しに見えるか?﹂
﹁どうしてそんなこというの?﹂
﹁どうして?﹂
俺はそんなことも分からないのかといった風にハッ、と一つ短い乾
いた笑いを漏らす。
﹁不二家、お前だって俺が噂でなんて呼ばれているか知らない訳じ
ゃないだろう。聞いたことくらいあるはずだ。自分でいうのもなん
だが、俺は有名らしいからな﹂
不本意ながら小波のいったことは真実だ。陰で犯罪者と呼ばれ、蔑
まれている事。
それゆえ俺の周囲には人が寄り付かず、知り合いと呼べる知り合い
はほとんどいない。
それでも俺自身が辛いと感じる事はない。喜ぶべきなのだろうか。
157
こんな境遇に慣れてしまったことは。
俺にとっての現実とはすでにそういうものとして確立されてしまっ
ていた。
﹁うーん、聞いたことくらいはあるよ。でもね、それって結局本当
かどうか分からない噂、だよね?﹂
そこで不二家は小走りになり俺の進路上にくるりと回り込んで両腕
を後ろに組んで俺と正面から向き合った。そしてニコリと笑う。
﹁私は知ってるよ。角川くんは優しい人だって﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
それは欠片も悪意のこもっていない善意だけで構成された純粋で純
真な言葉。
俺のような捻くれた人間では決して言う事の出来ない言葉だった。
だからなのだろう。
それはとてもまぶしく感じられて、俺はそれを素直に受け止める事
が出来なかったのは。
﹁ふんっ。俺が優しい人間だと?あまりにも馬鹿馬鹿しくて笑えて
来るな。俺で優しいならこの世のすべての人間はとっくに優しい人
間になってるさ﹂
その不快さが如実に表に出ていたのだろう。不二家は打って変わっ
158
て委縮したように小さくなっていた。
それでも不二家は意外と頑固なものでその考えを変えるつもりはど
うやらないらしい。
﹁あ、その、嫌な思いさせたらごめんね。けど私は本当にそう思っ
てるから。角川くんはいい人だって﹂
不二家が向けてくれているもの。それは好意と呼ばれるのだろう。
自慢ではないが俺は今まで生きてきて好意というものを向けられる
事がほとんどなかった。
向けられていたのは敵意ばかりだったから。それゆえに向けられた
好意の受け入れ方を俺はよく知らない。
そんな俺なものだからこう返すので精一杯だった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮そう思いたいなら勝手にそう思っておけばいい。い
つか不二家が裏切られたと感じても責任は持たないけどな﹂
そう言い捨てて俺は不二家の横を通りすぎた。悲しげな顔をしてい
るのか、あるいは悔しそうに歯を食いしばっているのか。
うつむく不二家の表情がどんなものか、俺にはうかがい知ることは
できなかった。
159
第2話︱︱心配と悪意︱︱
﹁次のニュースです。ここのところ続いた雨により各地で土砂崩れ
が頻発しています。地盤が緩くなっている地域が多々ありますので、
山道等を通る方は十分注意してください﹂
朝食を口に運びながら何気なくニュースを聞く。
画面には崩れた土砂が道路をふさぐ光景が映し出されていた。
実際にこの土砂崩れに巻き込まれて死傷者も出ているらしい。
そしてそれはどこか遠い場所で起こっているという話ではなくここ
桜森市でも起こっている話だった。画面に映っているのは正にその
桜森だ。
﹁土砂崩れかぁ。最近雨が降り続いているものねぇ﹂
﹁梅雨に入ったんだろ﹂
事件に巻き込まれてから数日が経過した。今日は休み明けの月曜日
で多くの人が憂鬱に感じる一週間の始まりの日だ。
ブルーマンデーというやつが重く両肩にのしかかり、今すぐ自室に
戻って布団に潜り込みたいという欲望を駆り立てる。
土曜日から降り続けた雨は今も現在進行形で降り続いている。
その雨量はバケツをひっくり返したというにふさわしい土砂降りだ。
160
そのような雨なものだから先ほどニュースで言っていた土砂崩れに
留まらず、川の氾濫、それに伴う洪水などの水害も相次いで起こっ
ているらしい。
土砂崩れが起こってもなんら不思議なことではない。
洗濯物が乾かなくて困るわぁ、などと母さんが傍らで味噌汁をすす
りながらごく小さな愚痴を口の端からこぼしていた。
﹁大丈夫か。よければ市役所に行くついでに乗せていくが⋮⋮﹂
﹁遠回りだろ。いつも通り歩いていくから問題ない﹂
父さんの言葉を遮ってご飯を咀嚼しながら答える。
父さんは市役所勤めの公務員だ。
その為、よほどの事情がなければ職にあぶれる心配はないし経済面
でも安心できる。
どしっと頼りがいのあるウチの大黒柱だ。
どれだけ帰りが遅くなろうとも、休日であろうともこうして毎日朝
食の席を囲むことを極力意識している。
﹁そんなこといって、またこの前みたいにトラブルに巻き込まれる
んじゃないの?﹂
﹁あれは好きで巻き込まれたわけじゃない。﹂
161
﹁あれ﹃は﹄?あら、じゃあ自分から突っ込んだトラブルもあるの
かしら﹂
﹁単なる言葉の綾だよ、母さん。揚げ足を取らないで欲しい﹂
もっともある程度は自分の意思で闘争の渦中に突っ込んでいったこ
とも否定できないので全てが本当かと聞かれれば返答に窮するとこ
ろだ。
﹁まあ、仮にまた巻き込まれそうになったら今度は全力で逃げるさ。
俺は平和主義でトラブルが嫌いな人間だからな﹂
﹁へー、そうなの。ま、一応信じることにするわ。﹂
﹁一応﹂
言葉を区切ってから続ける。
﹁息子の言うことが信じられないのか?母さん﹂
﹁っていってもアンタはよく嘘をつくからねぇ。親の私がいうのも
なんだけれどアンタはなかなか食わせ物だし?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
それを言われると返す言葉がない。
実際今だって半分嘘に近いことを言っているのだ。
162
俺はまるで逃げるかのように急いで茶碗の中身を空にして席を立っ
た。
﹁ご馳走様。じゃあ、行ってくるよ﹂
﹁七音﹂
そのとき、今まで一度も会話に口を挟まなかった父さんがその重い
口を開いた。
﹁母さんを悲しませるようなことだけはするんじゃないぞ﹂
言葉少なな父さんの重い口から出る言葉は相応の重さを伴っていた。
言葉が俺の心にのしかかる。
脳裏によぎるのは兄さんの死を知って玄関先で泣き崩れた母さん。
母さんが泣いているのを見たのはあの一回きりだ。
多分これは父さんなりのメッセージ。
﹁分かってるよ。父さん﹂
そう短く、けれども思いの丈を極力乗せた言葉を返して俺は学校へ
向かった。
163
雨脚は止むことなく放課後まで延々と降り続いていた。
よほど厚い雨雲が桜森の上空に停滞しているらしい。
予報によれば今日の深夜当たりまでがピークで明日からは徐々に雨
脚が弱まっていくようだ。
クラスの人間も手早く荷物をまとめて帰る準備をしている。
賢明な判断だ。
こんな日にわざわざ街をうろつこうとするような馬鹿はそうそうい
ないだろう。
﹁なあ、七音、ゲーセンよってかね?﹂
﹁お前は本当に空気の読めないヤツだな﹂
﹁え、何で?﹂
俺の前の席に陣取って椅子に後ろ向きに座り、上半身を椅子の背も
たれと俺の机に預けた五反田。
心底分からないといった風に首を傾げて目が点になっている。
﹁周りを見ろ。何が見える?そうだ、家に帰ろうとするクラスメイ
トだ。外を見ろ。何が見える?そうだ誰もが出歩きたくないと思う
ような大雨だ。そして、ここで問題だ。俺たちは何
164
をするべきだ?﹂
﹁ゲーセンに行く!﹂
﹁馬鹿が!﹂
突っ込みと同時、俺の机の上に乗っかっていた五反田の右腕の肘関
節をデコピンで強打してやる。
﹁ふぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁぁぁちゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!
!!!﹂
瞬間、奇声とともに五反田の体が勢いよく飛び上がった。
俺が弾いたのは俗に言うファニーボーンと呼ばれる部位である。医
学的には上腕骨内上顆と呼ぶんだとか。
人間の体には神経が通っていて大半は体内の深い位置を通っている
ものの、この肘関節の部分は神経が浅いところを通っているらしく
外部からの神経にひどく敏感だ。
刺激されると電流を流されたかのような錯覚を覚える。
と、まあ俺がしたことの説明は以上のようなものだがどうにも説明
がくどくなってしまった。
時折何かのギミックを説明したがるのは分析癖からくるものかどう
にもくどくなってしまうきらいがある。
165
ふぅ、と内心で一つため息をつく。反省。
﹁はぁ、はぁ。し、しびれたぜ⋮⋮⋮﹂
床をのた打ち回っていた五反田がようやく刺激から解放されたのか
片手を俺の机について復帰する。
﹁それにしてもなぜ今日なんだ。別にゲーセンに行く日なら別の日
でもかまわないと思うが﹂
﹁あれ、七音。忘れたのか?今日新作の稼働日じゃん。インブレの﹂
﹁⋮⋮⋮あぁそういえば﹂
正直ここ数日にあった出来事があまりにもインパクトが強すぎて頭
の片隅に追いやられてしまっていた。
インブレとはインフィニティブレイドの略称で俺たちの世代で莫大
な人気を誇る格闘ゲームだ。
すでに1、2と出ており今日稼動するのは3。
前評判も上々で前作、前々作をも超える売り上げがすでに見込まれ
ているという。
かくいう俺も興味本位で多少はやってみたいという思いはあるもの
の、五反田ほど格ゲー好きというわけでもない。
そんなゲーム一本をプレイするためにアメニモマケズな精神を持つ
ことなど俺にはとても不可能だ。
166
﹁というわけで行かない﹂
﹁絶対?﹂
﹁絶対だ﹂
﹁何が何でも?﹂
﹁何が何でもだ﹂
﹁天地神明に誓って?﹂
﹁天地神明に誓ってだ﹂
﹁と、いいつつもなんだかんだで折れてくれるから七音、俺お前の
こと好きだぜ。愛してる。﹂
﹁気持ち悪い離れろ。別にお前のためについていくわけじゃない。
ただお前にインブレのネタバレをされるのがいやだっただけだ﹂
結局、五反田があまりにもしつこく、その熱意に押される形で一緒
に行くことを承諾してしまった俺はまだまだ甘いのだろう。
駅前とは違い、ゲームセンターは繁華街の方にある。その繁華街に
167
俺たちの通う緑水高校から行くにはバスに乗っていくのが一番効率
的だ。
バスは雨の抵抗を受けつつもちょっとした山道に差し掛かったとこ
ろ。
そのバスの中、隣に座った五反田がニヤニヤとしまりのない顔で俺
の方を見ているあまりに不快なので俺はつい、と窓の方へ無理やり
視線を移した。
相変わらず雨脚は弱まる気配を見せない。
雨粒が路面に当たって勢いよくはねている。
学校からバス停までの短い距離とはいえ走ったせいで濡れたスラッ
クスの裾が気持ち悪い。
バスの屋根からは大量の雨粒が叩きつけられる音が響いている。
前方のフロントガラスを見遣れば視界を確保するためにワイパーが
忙しなく規則的に左右を動き回っていた。
そこでふと唐突に思い出す。そういえば
﹁本の返却期限、今日までだ﹂
図書室から借りた本。それは今も俺のカバンの中に簡単な防水加工
の一環としてビニール袋に包まれたまま収まっている。
今日の昼休みに返す予定だったものをすっかり忘れてしまっていた。
168
別段一日くらい遅れて返却しても一向に構わないかもしれないが。
たかが校則、されど校則。
守るに越したことはないだろう。
守ることに意固地になるつもりはないが、破ることにも意固地にな
るつもりはない。
それにこの大雨といえどまだ学校からそんなに距離も離れていない
今ならそこまでの手間になるわけでもなさそうだ。
席から少し腰を浮かせて近場のバスの停車ボタンに手を伸ばす。
﹁どした?まだ降りる場所じゃねえだろ﹂
﹁悪いけど先に行っててくれ。図書室に本を返してくる﹂
﹁あぁ?そんなもん明日でもいいじゃねえかよぅ﹂
﹁後で必ず行くから﹂
﹁絶対?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮またそのネタを引っ張るつもりか?﹂
軽く受け流すと五反田がニヒヒ、といたずらをしかけた子供のよう
な笑みを浮かべた。
169
停留所が近かったのかバスはすぐに停車した。
プシュウッとガスの抜けるような音がして出口が開く。
﹁そういうわけでちょっと行ってくる﹂
﹁しゃーねえな。すぐ追いついて来いよ﹂
軽く笑って言う五反田を席に残して運賃を払ってバスのタラップを
降りる。
すぐさま傘をさす。
さした瞬間雨粒が傘の皮を叩く音が耳に響く。
バスの扉が開いたときと同じガスの抜けるような音を出して閉じて
いく。
ここで降りる客は俺一人だけだったらしい。
まあそれもそうだろうこのような山道で降りる人間がそういるはず
もない。
山道に設置されたバス停。
その数十メートル先にはトンネルがある。
何でもこの辺の道路というのはやや強引に山を切り開いて作られた
ものらしい。
170
その見えやすい証拠の一つが目の前にあるこのトンネルだ。
山のどてっ腹をくりぬいてこのトンネルは桜森の市街地の方へと通
じている。
排気ガスを撒き散らしながら過ぎ去っていく大型バスの後部を暫し
見送り、学校へ向かおうと今来た道を戻らんとする。
そのときだった。不意に背後で小石の転がる音がした。
注意しなければ聞こえないほどの本当に小さな落下音。
普段気にも留めないはずのその音がなぜか無性に気になって俺は思
わず後ろを振り向いた。
濡れた路面に石が一つ。それ以外になんら先ほどと変わったところ
はない。
どうやら俺の思い過ごしだったらしい。
何でもないことにまでわざわざ疑いの目を向けて情報を得ようとする
のは時に無駄な労力かもしれない。
細かいところまで気を配るのと心配性は似て非なるものだ。
内心でため息を一つつく。反省。
そう思って学校まで戻ろうと振り向いたときだった。
171
カツンカツンコツン、と背後で再び物音がした。
どうせまた石ころの転がった音だろう。
先ほどの反省を踏まえて構わず歩き続ける。
しかしその音は止むことはなく。
断続的に複数の小石の落ちる音が立ち続ける。
その音は徐々に増え続け、数に比例して音も大きくなっていく。
さすがにおかしい、と気づく。こんなのは普通じゃない。
三度、トンネル方面の道路を見遣る。
小石は石へ、石は岩へ、岩は岩石へと流れ落ちる物体群は徐々にそ
の姿を大きくしていく。
そして。
ドドドドッという地を震わせるような音とともにその土石流は俺の
視界の先にあるトンネルを捕食した。
俺がたった今の今まで乗っていたバスごと。
走っていたバスが横からの重量と衝撃に耐え切れず流されるがまま
に横転する。
その土石流に重量に耐え切れず、壊れたトンネルの瓦礫が混じる残
172
ったトンネルの外縁部に引っかかったためかどうにか山道の下に落
下せずには済んだものの、そのバランスは危うい。
もう一度同じような衝撃がくれば落ちてしまうかもしれない。
事実まだすべり足りないといった風に山の上の方からパラパラと時
折小石が転がり落ちてきている。
それ以前の問題としてバスの上に乗っかっている土石流の量だ。
辛うじて車体の後部は確認できるものの、その大半は土石流に埋め
尽くされている。
今はどうにかなっているが車体がギシギシと鳴っていていつ潰れて
もおかしくはない状態だろう。このままだと、中にいる人たちは⋮
⋮。
辺りを見回す。山道であるがゆえに周囲に人はいない。
車も通る様子はないようだ。
それだけ確認して俺は潰れかけているバスの方へ駆け寄った。
ほんの少しはみ出した車体に手を触れる。そして俺は能力を行使し
た。
ハーディス
﹁硬化!﹂
ギシギシとたわんだ音を出していた車体からその危うい音が消え去
る。
173
硬化したことで重量に対する耐性がついたためだ。
今、このバスの強度はそんじょそこらの力では破れないものになっ
た。
ひとまず潰れることは防いだ。
さらにバスを伝って周辺の土砂にも干渉する。
俺の能力範囲限界ギリギリの半径7メートルまで。
遥か山の情報で燻っていた自然の力がピタリと俺の硬化した土砂と
いう支えを得たことで停止する。
これでバスの車体が道路下に落下するという二次災害は防げた。
後するべきは救助隊の要請か。
そう思い立ち、能力を行使しつつも空いている手でポケットから携
帯電話を取り出そうとしたときのことだった。
ジャリッという周囲に散らばった砂利を踏む足音が聞こえた。
能力を行使していることをバレてはいけないという一種の後ろめた
さから思わず俺はビクリとして後ろを振り向いた。
﹁おー、大変だ。死んだ人とかいないかな?君は怪我してない?﹂
綺麗な身なりをした男が立っていた。質素なグレーのチノパンにど
174
こかのサッカークラブのシャツに見えないこともない赤と黒の織り
交じった縦じまのポロシャツ。
襟はパリッとしており、男なりの着こなしなのか両方とも立ててあ
る。片手をポケットに突っ込んで空いている手で遠くを見るように
開いて額の辺りに当てている。
突然のことで驚いたもののすぐに平静さを取り戻して応対する。
﹁あ、はい大丈夫です﹂
﹁うーん、バスが一台埋没。今は辛うじて無事ではあるものの時間
が立てば危ないってところかな?何か角度的にもう一押しで落ちそ
うだし。それにしても被害者はゼロかぁ﹂
男が喜ぶべきはずの事実を呟き、なぜかそこで一つため息をついた。
そのことに俺は不気味な感覚を覚えた。
そもそも、だ。この男はどこから来たのだろう。
トンネルが塞がれた今、この山道にくる術は反対側の道路から来る
道しかない。その方向から人が来ないことはすでに先ほど確認済み
だ。
この男の服装や態度からして救急隊員にはとても見えない。せいぜ
いが野次馬だ。
そのような細かい疑問が次々に脳裏をよぎる。そして出た結論はひ
とまずこの男を放っておくこと。
175
今優先すべきはそんなことではない。
人命第一だ。捻くれた俺にだってその程度のモラルは備わっている。
﹁あの、俺レスキューの人呼びますね﹂
土砂に埋もれたバスに背中を向け、男と対峙する格好。
俺はポケットを探って携帯を取り出し119番をプッシュして耳に
当てる。
﹁くふっ、くっくっくっくっ⋮⋮⋮﹂
そこで男がなぜか笑い出した。心の底からおかしいとでもいった風
に。その様子に俺は薄ら寒いものを感じた。
それはきっとこうも言い表せる。
嫌な予感。
俺の嗅覚が明確なトラブルの匂いを嗅ぎ取った。そしてそれが確信
に変わるまでそう時間はかからなかった。
ヒュッという音とともに俺の耳元を何かが横切り、その何かは俺の
手から携帯をひったくっていった。
携帯は濡れた路面を俺の手を離れた勢いのまま軽快に滑っていった。
﹁何を−−−−−−−−−−−−﹂
176
﹁困るよぉ。レスキューなんて呼ばれちゃぁ。あそこにいる人たち
を落とせないじゃないかぁ﹂
男の口元がつり上がってとんでもないことを言い放った。そこにあ
るのは明確な悪意。
なるほど、当たって欲しくなかった予感は見事に的中してしまった
ようだ。
男がすっと手を上げた。すると男の足元にあった土砂がグッと持ち
上がる。
その中からプクッと無重力空間にあるような土でできた玉が複数生
まれる。
┃┃┃┃┃┃能力者!
男が腕を振り下ろすと同時、命じられたそれらは俺に向かって凄ま
じい速度で牙をむいた。
177
第2話︱︱嘘吐きと味方︱︱
﹁くっ!﹂
身の危険を感じて俺は横に移動、今自分の身に迫る危険から身を遠
ざけることだけを考えて不恰好に右へ転がるように飛んだ。
まるで映画で三流役者が背後で起こる爆発から逃れるかのような無
様さだったことだろう。
地面に強く肘を打ちつけ、膝を打ちつけ、ただ頭だけは守るように
転がりまわった。
土の弾丸はガガガッという音を立てて土砂からむき出しになった車
体部分に衝突するとべチャリと潰れてその形を失い、消えた。
俺にとって幸運だったのは男が俺をすぐさま追撃するほど切羽詰っ
ていなかったこと。
そして男が自分の撃った弾丸が思い通りの効力を発揮しなかったこ
とに驚いたことだ。
﹁あれぇ、おかしいなぁ。僕の弾丸って車の装甲程度なら貫通はそ
りゃぁしないけど、傷とかへこみくらいは作るはずなんだけどなぁ。
弱くしすぎちゃったのかな?﹂
﹁あんた、一体何なんだ。何がしたい。あのバスを落とすだと?﹂
178
ところどころに擦り傷を作りつつもすぐさま体勢を立て直して片膝
をついて男に質問する。
知らずのうちに極度の緊張からか俺は荒い息をついていた。
﹁そうだよ﹂
﹁何のために?それをやってアンタにどんな利益があるんだ?﹂
﹁一つは頼まれたってことかなぁ。僕のいる組織ってねぇ色んな依
頼を引き受けてるんだけどその中の一つにあのトンネルの破壊があ
ったんだよねぇ。何かあのトンネル壊れると喜ぶ人
がいるんだってさ。責任問題だとか、利権の奪い合いだとかで、ね。
まあ、なんていうか、一言でいっちゃえば大人の事情ってやつかな
ぁ。その中にある項目で人的被害があると尚よし
ってとこ。その責任の追及に使えるからね。だからあのバスを落と
す。で、もうひとつの理由は僕の個人的な趣味﹂
男はそこでニコリと無邪気で破綻した爽やかなスマイルを俺に向け
た。
﹁人が不幸でのた打ち回っている顔が見たいんだぁ。でも、これっ
て別に説明する必要あるかなぁ?人間誰だって他人の不幸を見ると
幸せになれるよねぇ。人の不幸は蜜の味とはよくい
ったものでさぁ。これって人間の本能でしょ﹂
179
瞬間的に荒くなった呼吸を抑えつつ男の話に耳を傾ける。一方でこ
の状況をどう切り抜けたものか思案する。
前の時と違って何かを用意する猶予はない。
現時点の俺に用意されているのはこの逃げるための足だけだ。
立ち向かうつもりなど初めから毛頭ない。俺のような戦う力のない
人間が準備もなしに単身で能力者に挑むなど無謀もいいところだ。
逆にいえば計画と準備さえできれば立ち向かおうという気も起きる
のだが。
とにかく、今は逃げが最善の一手だろう。
しかし、同時に懸念も存在する。チラリ、と土砂の下に埋没したバ
スの方を見遣る。
触れた物質を硬化させることができる。それが俺の能力だ。そして
もう一度触れて、念じれば能力を解除できる。
この能力の効果は手を離れてもある程度継続するがそれは永遠では
ない。やはり時間制限というものは存在する。
約10分間。これを過ぎれば俺の意思とは関係なしに効果が切れて
対象の物体は元の硬度に戻ってしまう。
そう、10分だ。
能力の切れる10分以内にあのバスとその周辺の土石を再びコント
180
ロールしなければバス内の乗客の身の安全は確実に揺らぐ。ほぼ確
実に負傷者、死傷者が出るだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮俺が言うのもなんだが、アンタ歪んでるな。﹂
﹁自覚はあるよぉ。けどしょうがないじゃない。それも個性の一つ
ってことで何とか受け入れてちょうだい﹂
﹁随分と過激な個性だ。悪いが俺には刺激が強過ぎて食あたりを起
こしそうなんで遠慮しとく﹂
それを聞いて男ははっはっはっ、と額を抑えて笑い、降りしきる雨
の中曇り空を仰いだ。
﹁そっかぁ、受け入れられないかぁ。じゃ、死んでくれない?まぁ
受け入れたとしてもどのみち殺す予定だったんだけどねぇ。目撃者
は生かしておくわけにも行かないからさぁ。﹂
こうして秘密もしゃべっちゃったことだし、と男が付け足す。
それが合図だった。男の周囲に再び土の球体が浮かび上がる。
それらは男の使い魔のように忠実で、いちいち男の動作の一つ一つ
に機敏に反応する。
そして男が再びターゲットを俺に定めて腕を振り下ろす。進行上に
ある雨粒を弾いて一直線に俺に襲い来る。
思考回路を高速で回し回避ルートを瞬時に導き出す。この状況、一
番安全な逃げ道は┃┃┃┃
181
必死で地を蹴り、後方に飛ぶ。
弾丸を防ぐ遮蔽物を求めて道路沿いにあるわずかな木の一つの後ろ
に身を隠す。大木に背を預けて再び荒くなりつつある息を何とか整
えようと苦心する。
そんな俺の無様を嘲笑するように男の声が言葉を紡いだ。
﹁いいのかなぁ、隠れる場所がそこでぇ。﹂
その時、周囲の土が俺を取り囲むかのように襲い掛かってきた。
テリトリー
﹁そこも僕の領域だよぉ﹂
勝ち誇る男の声。
﹁ああ、知ってるさ﹂
計算通り。あくまでも頭は冷静に俺はほくそ笑んだ。
俺を取り囲もうとする土の化生。それが俺に襲い掛かる直前、軽く、
柔らかく、その手で土の表面に触れる。
念じる。ただそれだけ。ただそれだけで土はただの彫像と化した。
獣の顎は開いたまま、しかしその牙が獲物に届くことはなかった。
俺は自分の体重を極力乗せて彫像に体当たりする。
脆弱な彫像は一瞬で砕け散って文字通りただの土へと還った。
182
大木の陰から出て一気に走り出す。男は少し驚いた顔をしていたも
のの次の手を打つべく再び地面から球体を浮かび上がらせた。
だが、こちらもただ黙って逃げるだけで逃げ切れるとは思っていな
い。
先手を打って先ほど拾っておいた幾つかの石を一息に投げつける。
下手な鉄砲も何とやら。
男は攻撃を止めてその石のつぶてを防ぐことに決めたらしい。
そしてそれは俺の狙い通りだった。逃げるための目くらまし。陽動。
俺に必要なのはこれらだった。しかし俺がそんなに都合よく煙幕や
その代用品を持っているはずがない。
だったら
﹁煙幕を張ってもらえばいい﹂
男の付近の土が盛り上がって壁を形成した。これで男の視界から消
えることができる。
そして俺は男の目を盗み、走って男と距離をとり、塞がったトンネ
ルの方向とは反対の道路に逃げ道を求めて走り出す。︱︱︱︱︱︱
ようなことはせず。
183
・・・・・・・・・・・・・・・・
道路の反対車線の茂みに潜り込んだ。
逃げようとすれば逃げられただろう。俺の作った隙はそれが可能だ
った。
それでもここに残った理由。そんなものは決まっている。
俺はもう一度バスの安全を確認するようにそちらを見た。
自分は冷たい人間である。俺は自分への評価をそう下している。多
分これは客観的に見ても
間違っていない正当な評価だと思う。
我が身が可愛い。自分を守るためならば他者を踏みにじる自信があ
った。
自分が生き残るためならプライドも何もかも捨て去って生へ執着す
ることに全身全霊を傾ける。
他者を差し出しその人間が体の隅々まで切り刻まれ、拷問されつく
され、苦しむと分かっていてもその地獄にそいつを蹴り落として自
分は助かる。
184
それは人としての底の底、性根の性根までズブズブに腐ったような
やり方。
﹁あーあぁ、してやられたよぉ。まさかあそこで反撃してくるとは
思わなかったぁ。窮鼠猫を噛むってやつかなぁ﹂
俺はそういう人間だとそう思っていた。そう、過去形。今このとき
まで。
だが、どうやら俺の性根は思ったほど腐りきっていなかったらしい。
少なくとも
︵人の死を間近にして自分に助ける力があると分かってて逃げ出そ
うとしない程度には、な︶
この前の事件は俺一人の力でどうにかできるようなものじゃなかっ
た。
それはきっと言い訳になるのかもしれない。倒れている人間を助け
る余裕も力もない状況だった。
さらにいえば小波がいた。自らその場を収めえる力を持った小波が。
それは多分俺自身が言い逃れをするための免罪符だ。だがその免罪
符も今はない。
あのバスに乗っている人々を助けられるのは俺だけだ。だったらら
しくない、とは思いつつも理性に反した本能がそれを押さえつける。
︵今更ここまできてやらない?⋮⋮ハッ︶
185
選択肢の一つを一息で切り捨てる。
だが同時に朝、母さんと約束したことを思い返す。トラブルに首を
突っ込まない。
もしそうなりそうだったら全力で逃げる。ハハッ、と内心で乾いた
笑いを漏らしながら謝る。
悪い、母さん。やっぱり俺は嘘つきだったらしい。
決意を固めた俺は頭の中で再びロジックを組み立て始める。勝利条
件を明確に設定。
どうにかしてバスに近づいてバスが落ちないように、潰れないよう
に周囲を﹃補強﹄すること。
中にいる人たちの安全の確保。かつ生き残ること。
ヤツを倒すことではない。それと比べればハードルは随分下がった
方だろう。
とはいえそのハードルの高さは決して低いとはいえないレベルだ。
実際にはその設定した勝利条件を満たすことすら困難。
想いだけでどうにもならないのが現実。
騙しだまし男の攻撃をしのいでは来たものの状況が悪すぎる。
186
俺は丸腰。前の事件の時の様に周囲に何か使えるものがあればいい
がここは外の公道だ。
使えそうなものは何もない。それどころか相手は土を操る能力者だ。
ここ一帯はヤツ自身のいったとおりヤツの領域といっていい。
馬鹿正直に突っ込んでいったところで狙い撃ちにされるだけだ。
唯一こちらに利があるとすれば男が俺がまだここに残っていると気
づいていないことか。
ヤツは完全に俺が逃げたと思い込んでいる。確実に隙をつける一回
分のチャンス。
これを最大限に活かすには陽動が欲しいところだが⋮⋮⋮。
︵そのための一手が足りない︶
将棋のタイトル戦で惜敗したプロのごとく俺は思わずギリリと歯噛
みする。
せめて、せめてもう一手。何でもいい。地震が起きたり、突然木が
倒れて男の行く手を阻んだり。地上に限らず気を反らせるなら空か
らだっていい。
戦闘機からのピンポイント爆撃だったり、極小サイズの隕石が雨あ
られと降って来てだとか。
だがもちろんそんなことが起ころうはずもない。
187
もはや結果の出たシミュレーション。それでも祈るなどという俗物
的なことはしない。
そんなエネルギーがあるなら他の事に回せというのが俺の持論だ。
ただただ現実を見つめてそのシミュレーションを繰り返す。すっか
りずぶ濡れになった頭を必死でまわす。光明が見出せると。抜け道
があると信じて。
ところで、
俺は現実的な人間だ。神頼みをして受験に受かろうだとか、願掛け
をするために真冬に冷水を浴びるだとか、誰かを声を出して応援す
るだとか。
そういう宗教的、あるいは何の根拠もないただ祈るという行為を無
駄だとバッサリ切り捨てる人種だ。
そんな暇があったら手を動かす。頭を回す。行動する。重要なのは
それ。何かをすること。
そして今俺はそれを実行している。
だが、そんな俺でもこの状況、心のどこかで打開策が降って沸いて
くることを祈っていたのか
188
もしれない。もしそうなればどれだけ素晴らしいことか、と。
先ほどの将棋のたとえで言うならば一手ではなく二手さしていいと
いわれたとき。
その幸福感はどれほどのものか。そのわずかはとても大きなわずか
だ。
そして
この絶望的な状況にやってきたわずかもとても大きなわずかだった。
心から望んで止まなかった一手。
荒事に対処するための物騒な一対の無骨な銃。しかし持ち主はそれ
を持つにふさわしくないアンバランスな若輩。
だが、これまたその人物は年齢に見合わないその銃を扱うに足る技
量を持ち合わせている。
ゆえにその銃器は主人を認めて吸い付くようにその掌に収まってい
る。
ジャリッと身に着けたスポーツシューズが濡れた路面に散らばった
砂利を踏みつける。
男が頭の後ろを掻きながら眉尻を上げてひどく面倒くさそうな顔を
する。そしてため息。
﹁やれやれぇ。計算外の邪魔が入って手間取ったおかげでさらに面
倒なことになっちゃたなぁ結局あの子を始末するのも失敗しちゃっ
189
たっていうのにさぁ﹂
黒い長髪。そのくせ整っていない枝毛だらけのボサボサの髪の毛。
表情がないことが特徴の鉄面皮。性別の割には長身。そしてずば抜
けた運動スペックと戦闘能力、さらにその身に異能
力までも宿した常識外の女。そいつは日常を連想させる緑水高校の
制服をまとって非日常のこの戦場に現れた。
﹁ここ数日、この街でいいようにやってくれたようだな﹂
小波が無遠慮に無感情に無機質に冷たく言い放った。
﹁さてぇ、何のことかな?ここ数日頻発している土砂崩れのこと?
僕には全然心当たりがないなぁ﹂
﹁何のことか説明するまでもないようだな。ならば私がここに何を
しにきたのかも、いうまでもあるまい﹂
小波が続ける
ダーティマディ
﹁嘲笑する泥濘大宮 智瀬。貴様を連行する﹂
﹁おやおやぁ、僕の話を聞く耳なしぃ?﹂
﹁貴様がどれだけ言いつくろおうとも言い逃れはできん。証拠はす
でに挙がっているからな。おとなしくついてきてもらおうか﹂
小波は勝ち誇った様子もなく淡々と事実を突きつける。ここで驕っ
た様子を見せず、隙を見せないのはさすがというべきか。
190
﹁いやだっていったらぁ?﹂
﹁私としては抵抗のない方が一番好ましいのだが⋮⋮⋮﹂
いつの間に仕掛けたのだろう。ふわふわと大宮の操る土球が小波の
背後に滞空していた。
大宮の指がクイッと小波の見えない位置で動いてその球に指示を与
える。
指示を受けた土は弾丸と化して小波の頭部に狙いを定めて一直線に
突き進んだ。が、
パンッという銃声が一つ。土の弾丸は十分な加速度を得られず、最
高速に達する前に打ち砕かれた。
左肩越しに回して照準を後ろに向けた右手に握られた銃の口からは
わずかな硝煙が吹き出て宙をたゆたっていた。
﹁抵抗しないと思うぅ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
仕方ないとでもいいたげに小波が一つ息をついた。それだけであた
りの空気が一気に張り詰めたものに変わっていく。
互いに向けられた殺気が拡散して近くで見ている俺の肌をピリピリ
と叩いた。
191
直後、2人の能力者による戦闘が始まる。
192
第2話︱︱︱戦闘と決着︱︱︱
大宮が攻撃の準備として周囲の土砂に指示を出す。途端、それに呼
応して多くの土が隆起して一つ、また一つと土の球体が形成されて
いく。今までとは段違いの弾丸の数。
展開されたそれらが大宮の合図で一気に小波に牙を剥く。
すぐさま小波は回避行動に移り、遮蔽物の多い道路脇へ。妥当な判
断だったと思う。
茂み、大木と遮蔽物の陰から陰へと移動の合間に発砲してけん制し
ながら決して正面から打ち合わないようにする対して、大宮は小波
と違って大仰な動きは必要ない。
迫り来る銃弾は土壁が遮り、叩き潰す。合間を縫う小波の攻撃はわ
ずかなもの。
圧倒的な火力でじりじりと小波を追い詰めていく。
小波の銃は2丁。マシンガンのような連射式ではないどちらも単発
式のものだ。
その程度の火力であの弾幕に正面からぶつかるなどアリが象に挑む
ようなものだ。
大宮の放ったあの弾幕はそれだけ恐ろしいものであるといえる。し
かしそれゆえに。
193
再装填、リロードには時間が必要となる。弾丸が切れたその一瞬、
小波は大木の陰から顔を出して大宮に反撃を試みる。
小波の弾丸が空気を切り裂いて大宮の四肢を狙う。届くかと思われ
たその攻撃はだがしかし、再び大宮の前に現れた壁に阻まれた。柔
らかだが分厚い土の壁に弾丸がズブリとめり込み、その勢いを吸収
されて次第に推進力を失い、停止する。
そして、その壁はすぐに分解されて、先ほどと同じような土の弾丸
が質量に応じた数だけ量産されて再び小波の潜む大木へと照準を定
める。小波の寄り添っていた木の幹は先の攻撃を受け、ボロボロと
表皮が剥げている。今度の攻撃は広範囲にわたる無差別なものでは
なかった。今度は一気ではなく、連続的に途切れを見せないように
その群れが放たれる。
弾丸が大木の幹を集中して狙い撃ち、穴を穿つ。大木の耐久度は目
に見えて下がっていき、ついには倒壊。ベキベキ、と耳障りな音を
立てて道路をまたぐ方向、大宮の位置から少し横にずれる形で大木
が傾いていく。
大宮はその木の向こうにいるであろう小波を残った弾丸で仕留めん
と悠然とした動作で構える。
だが、大木の陰であった場所にすでに小波の気配はなかった。そん
なときに俺の目を引いたのは倒れかけている大木の周囲を飛び交う
一つの影。枝から枝へ、小波が飛び移っていく。
最後のワンステップ。小波が枝を今までよりも強く、思いっきり蹴
り上げ宙を飛んだ。
194
バインッと踏み切りに使われた枝が大きく上下に揺れる。大宮の上
方。
意識が完全にそがれた角度からの奇襲に大宮が若干焦った表情をみ
せる。
上空から飛び掛る小波の銃口が確かに大宮を捉えた。放たれる2発
の鉄塊。タタンッ、とわずかな時間差で銃声が続いて響いた。
どうにか反応しきった大宮が大木の陰にいる小波を狙うはずだった
小波を狙う弾丸の方向を無理やり上空へと修正する。
狙ったわけではないだろう。その多数放たれた弾幕の数発が小波の
頬を浅く切って切り傷をつける。
小波の放った銃弾も土の球に衝突してその進路を変えて、標的から
それて地面へと突き刺さる。
﹁グッ┃┃┃┃┃┃!﹂
だが小波の放ったもう一つの本命は土の弾幕を潜り抜けて大宮に到
達して狙いあやまたず、大宮の右太ももを貫いていた。
周囲にわずかに飛び散る鮮烈な赤。苦痛に顔をしかめる大宮。
小波がそれを見てさらなる追撃を加えんとして着地して落下の衝撃
を殺した後、大宮に向けてその体が疾駆する。
大宮と距離を置くのはベストではない。この機を逃さず一気に決め
195
るつもりなのだろう。が、大宮もその辺りはしっかり自分の肝に銘
じているらしい。
とっさに距離をとるためか足をかばってうずくまりかけたその姿勢
からさらにしゃがみこんで地面の土砂に手を触れる。
途端に大宮のしゃがみこんでいた位置が爆心地と化す。
土が放射状に吹き飛び、辺り一体に広がり、拡散した。まるで爆弾。
その衝撃に耐え切れず、小波が立ち止まって顔の辺りに両手を持っ
てきてその爆発をやりすごす。
わずかに生じたタイムラグ。その間に大宮は痛む足を無理やりに引
きずって小波から距離をとった。
無傷の小波。負傷した大宮。徐々に小波に傾きかけた形勢。
その形勢は大宮の陣取った位置によって再び揺らぎを見せる。
大宮の移動した先には山上より流れてきた大量の土砂がある。そこ
はトンネルだった場所の入り口。
さらにいうなら今も救助を待つ多くの乗客を乗せたバスが埋没した
位置。
そこで大宮の表情には嘲りにも似た表情が浮かんだ。
﹁くっくっくっ。これで僕の勝ちは揺らがない﹂
196
小波が大宮の方へ再び距離をつめようと走り出そうとする。その一
歩が地を蹴って推進力に変えようとした瞬間だった。
﹁おっとぉ、動いちゃだめだよぉ?、スパイラルさん﹂
ドドドドッという小規模な土砂崩れが山上で起きてバスを襲った。
パラパラ、と少量の土砂が倒れた車体にさらにのしかかる。
﹁これがどういう意味か分かるよねぇ?それ以上動いたら⋮⋮⋮⋮
⋮⋮落とすよ?﹂
実際には俺の硬化がまだ効力を発揮しているためにバスが落ちる、
ということはない。
この事実を小波は、いや、脅迫している大宮本人も知らないだろう。
いかにもな悪党らしい脅迫。それはシンプルであるがゆえに効果は
絶大だ。
人命優先で動いている小波はその指示に従うしかできない。大宮が
ニタリと快楽の笑みを浮かべる。戦場は大宮が主導権を握ることに
よって一気に静かなものになった。
人質をとられたことによる圧倒的小波の不利。
しかし、これはチャンスだと俺は踏む。気づかれないように俺は茂
みの裏を移動してバスへと近づいていく。
﹁まずは後ろを向いてぇ。それからその物騒なのを地面に置いてね
197
ぇ。そうそう、ゆっくりゆっくりぃ。振り向いて打ったらあの人た
ちの命はないからねぇ﹂
小波がおとなしく指示に従って銃を置く。大宮はせせら笑うように
自分が人質の命を握っているのだと小波に念をおした。
﹁じゃあ、それを蹴り飛ばしてぇ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁もう一個もぉ﹂
ガガガガガッと硬いものが引きずられる音とともに2つの銃が遠く
に滑っていく。
丸腰になった小波。それでも小波の表情は変わらない。そこには恐
怖も悔しさも怒りも何もかもが浮かんでいなかった。
それは見ている俺にある別種の恐怖と嫌悪を与えた。
﹁さてぇ、これで君は丸腰になったわけだけれどもどうしようかな
ぁ。あ、一応いっとくと君を逃がすかどうか迷ってるわけじゃない
からぁ。あ・く・ま・で君を殺すことは前提だよぉ?﹂
ハッハッハッと、大宮は心の底からおかしいとでもいった風に痛む
足にも構わず腹を抱えて笑い出した。
その耳心地の悪い笑いが収まりかけると同時にポコリ、と大宮の足
元の土が浮かび上がって一つの土の弾丸を形どった。
198
無重力空間にある水のように大宮の顔の高さまで浮かび上がると弾
丸はふわふわと微妙に高度を変えつつ滞空した。
﹁ま、とりあえずは﹂
大宮が先ほど傷つけられた今もドクドクと生々しく出血を続けてい
る右足の傷口を見遣る。
﹁さっきやられた分のお返しはしなくちゃねぇ?﹂
攻撃が放たれようとしたその一瞬。それを俺は待っていた。ガサリ、
と派手な音を立てて茂みから一挙に飛び出す。完全に小波に意識を
向けていた大宮はさぞ驚いたことだろう。
まるで銃声を聞いた野生の獣のような機敏さで大宮が茂みの方を振
り向いた。
勢いのまま放たれた土の弾丸は小波に当たることはなく、足元の土
砂を跳ねさせるに留まった。茂みからその進路へと。闖入者の姿を
求めて大宮の目が横に動く。
その目が捕らえたとき、すでに俺はバスへと到達していた。辛うじ
て露出した車体の後部。
雨にすっかり温度を奪われたその鉄塊に片手を添えて再び力を行使
する。
これでバスは安定を取り戻す。大宮はやっと気づいたとでもいうよ
うに呟いた。
199
﹁そうかぁ。そうだったんだぁ。おかしいとは思ってたんだよねぇ。
あれだけの土砂が上に乗っかっているのにバスが潰れないこととか、
僕のかわせないはずの一撃を防いだこととかぁ。能力者だったんだ
ねぇ、君。驚きだなぁ。でも何より驚きだったのはねぇ﹂
大宮が一度言葉を切って続ける。
﹁こうしてわざわざ僕の前に戻ってきたことかなぁ。ま、僕として
は嬉しいことだけどぉ?あとで探し回って殺すような手間が省けた
からねぇ!!﹂
ポコッポココッとそこここで俺を殺すための凶器を生み出す音がす
る。音は止まらない。
際限なくあたりに無数の球が浮かび上がっていく。
しかし、何の策もなく俺は無意味に特攻したつもりはない。策は当
然用意してある。
俺の持つ最大最強の武器。それは戦略だ。
﹁俺がただやられるために出てきたとでも?﹂
触れた片手で再び硬化範囲をコントロールする。対象は上から落ち
てくる土砂を支える土。
その角度をいじる。上にはパラパラと今にも滑り落ちてきそうな土
砂。ちょっとした衝撃や変化があれば過敏に反応して再び災害を撒
き散らすだろう。
200
それを支えている俺の硬化の角度を大宮に向くように周辺の土をコ
ントロールする。ズッ、ズズッという不吉な音。
その音は加速度的に大きくなっていく。
﹁なっ┃┃┃┃┃﹂
大宮が引きつったかのような声を出すのが分かった。大宮にとって
俺は弱い鼠だ。
その鼠がここまでの反撃を用意しているとは夢にも思わなかったの
だろう。
焦燥がその顔を彩った。
一度は動きを止められた土石流が獲物を求めて再びうなりをあげる。
土の巨躯は大宮の用意した土の球を軽く飲み込み、そんなものでは
まだ足りない、もっと寄越せといわんばかりにさらに大宮に向かっ
ていく。
﹁な、なめるなぁぁぁぁぁ!!!!﹂
咆哮とともに大宮が波を受け止めるかのように両手を突き出す。
物理法則をすっかり無視した光景が目の前に繰り広げられる。
迫り来る災厄を大宮は自分の頭上を通すようにして受け流した。
しかしこの時点ですでに俺の狙いは達成されていた。
201
俺の前には大宮に向かわずに流れてきた大量の土砂。
これで大宮と俺は完全に分断された形になる。
土をコントロールできる大宮にとってこんなものは障害にならない
だろうが向こうには小波がいる。
時間稼ぎはしてくれるだろう。あとは救援がくるまで俺がこのバス
を支えていればいい。
ここまでが俺の考えていたこと。
だが。
ことはそれだけで収まらなかった。
俺の想像を超えた行動をするヤツが、一人いた。
流れ落ちてくる土石流と受け流す大宮の反対側につみあがる土砂の
山。おびただしい量のその土砂の山がブワッと周囲に飛び散って風
穴が開いた。
人間が一人その穴から飛び出してくる。
﹁小波!?﹂
これは俺も予想だにしていなかった。それは大宮も同様らしい。表
情に張り付いてい余裕が完全に消えうせて、入れ替わるように焦燥
が浮かぶ。
202
﹁う、うそだろぉ?﹂
その動き、疾風のごとく。瞬時に大宮の懐に入り込んだ小波が冷や
やかに告げた。
﹁覚悟はいいか?﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってぇ!今僕の意識を飛ばしたら君だってこの
土砂に┃┃┃┃┃┃﹂
大宮の言葉は最後まで意味を成さなかった。身を低く沈めた小波が
大きく一歩を踏み出して力強く大地を踏みしめる。
ビシャリ、と泥と雨水が大きく跳ねる。溜め込まれた力が一気に解
き放たれる。その力が存分に込められた右の拳が大宮のあごを正確
に射抜く。
綺麗なアッパーカットが決まった。そしてそれはただのアッパーカ
ットではないのだろう。
大宮の体がきりもみ状に回転する。尋常ではない回転量だった。
大宮は地面に接地しても止まらず、バスケットボールのように跳ね
て地面に触れた瞬間、不自然に加速してさらにバウンドを繰り返し
ていく。2回、3回、4回。
それでも止まらず、茂みの向こうにある山に沿うように配置された
石壁にベチャリ、と激突することによってようやくその勢いが収ま
った。
203
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
お、おそろしい。その様を眺めていた俺は素直にそう思った。
顎に衝撃を受けた上であれだけ体を回転させられて体内を揺さぶら
れればとても意識は保っていられないだろう。
現に石壁の近くに倒れ伏している大宮はピクリとも動く様子はない。
死んだのではないかと思えるほどだ。いや、今はそんなことよりも
小波だ。
大宮の制御を失った土石流。その制御の只中に残った小波だ。
仕留め損ねた獲物の代わりに、とそれが小波に襲い掛かる。
だが、どうにもまったく心配のいらない事柄だったようだ。両手を
前に出す小波。
能力を使ったのだろう。小波を中心として土の津波は周囲に弾け飛
んでいく。
まるで扇風機。土砂が俺の方にまで飛び散ってきて微小な被害を受
ける。
しばらくするとそれも止み、上から流れてくる土の勢いも徐々に弱
まっていく。
そして土砂崩れは完全に止まった。
204
第2話︱︱不意打ち︱︱
何気なくなのだろう。ふぅ、と一仕事を終えた小波が息をついた。
それにしても、と俺はたった今目の前で繰り広げられた光景をリフ
レインする。
俺の想像を超えたとはいったものの、可能性の一つとしてそのプラ
ンはあった。
すなわち、あの隙に乗じて一気に大宮をしとめること。
しかしそれを行うことの前提として協力者、つまり小波との連携は
欠かせない。
そんなチームワークが俺たちの間に存在するはずもなく、仕方なし
に大宮と俺を分断するという妥協案に留まった。
本来その時点で俺の作戦は万々歳。十分成功といっていいはずだっ
た。
それをこの女は⋮⋮⋮⋮⋮⋮。本能か、そうした方がいいという瞬
時の判断か。
・・・・・・ とにもかくにも、小波は俺の動きに合わせてきた。
もっともそれはこの状況において喜ぶべきことなのだろうが⋮⋮⋮。
そんな俺の視線の先にいる小波はブレザーの懐から携帯を取り出し
205
てどこかに連絡していた。
おそらくゴスペルの本部だろう。
﹁大宮 智瀬は仕留めた。後は早急に救助部隊の手配を。生き埋め
になっている人達がいる。﹂
﹁もう向かってんよ∼﹂
電話の受話口から小さく相手の声が雨音に混じって聞こえてきた。
その声と同時、道路の向こうに複数の乗用車の影が見えた。
黒の車の助手席に乗った一人の男がフロントガラス越しにのんきに
俺たちに向けて手を振っていた。
乗用車群は俺たちの近くで止まり、次々に人が降りてくる。防水対
策の一環として皆雨合羽の上下を着込んでいる。
そんな人々の中で一人だけビニール傘を差したひげ面の中年男がい
た。
﹁ういじゃ、ひとつよろしくう!﹂
白衣を羽織った男のそんな緊迫感のない合図とともに救助作業が開
始される。
わらっと一斉にそれぞれの持ち場につくべく人が動き出す。
俺はその勢いに押されるかのようにしてバスから離れた。上に乗っ
206
かった土砂が順調に取り除かれていき、次第に非常口から、一人、
二人、と出てくるのが確認できた。
この分ならもう力を使う必要はないだろう。
﹁よー、また会ったな、少年﹂
その時、戦闘が終わって緊張の糸が切れたためかボーっとたたずん
でいた俺に声がかけられた。
件のこの場で唯一傘を差した白衣の中年男だった。
よく周囲に気を配れば小波がジッと俺のほうを見つめていた。相変
わらず何を考えているのか表情からはうかがい知れない。
﹁しかし、少年もついてないなー。この前事件に巻き込まれたばっ
かだってのにまーた事件たあ、カーッ!参るだろ?﹂
まるで俺ではなく自分自身がそうであるかのように男はいった。他
者にここまで感情移入できるとは、この男は随分豊かな感性とユー
モアを持ち合わせているらしい。
﹁ま、こんなとこで立ち話もなんだ。疲れてんよな。そんだけ濡れ
てりゃ風邪もひいちまうってもんだ。着替え一式ならあっからよか
ったら向こうのキャンピングカーでシャワーでも浴
びてきていいぜい?﹂
﹁いや、でも﹂
207
﹁いやいや、遠慮しなくていいって。ここは大人の好意に甘えとき
なさいって。それにどうせ少年をすぐに返すわけにはいかんのだよ。
ほら、君がここにいて優と一緒にいたってことは
事件の目撃者なわけだっしょ?﹂
ふざけた語尾をつけた白衣の男は続ける。
﹁これ、どういう意味か分かるっしょ?﹂
つまりはそういうこと。前の事件と同じく俺から証言をとる必要が
あるわけだ。
しかも今回に限っては小波以外の目撃者は俺だけ。他の人間に押し
付けるわけにも行かない。
もっとも、小波が報告さえすればすみそうなものだが、恐らくそう
都合よくいくことはないだろう。
﹁じゃあ、お言葉に甘えて﹂
﹁おう、この場は俺に任せて、速く行くんだー﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
男のそうであるかどうか判別のしにくいボケに突っ込みを入れるか
どうか迷いつつも結局何もいわず、俺はその場を後にして道の端っ
こに駐車されてある大型のキャンピングカーに向け
て歩き出した。
208
﹁こんなんでえーかい、優?﹂
﹁何を突然﹂
﹁優の中のわだかまりを解消するのは今がチャーンス、だと思うぜ
い?まだ確信持てないんだろ?﹂
この男は相変わらず、と小波は内心で呟いた。ふざけた言動をして
自分を見ていないようでしっかり見ている。
角川 七音について出た結果に納得がいっていないことはお見通し
だったらしい。
そのために今、角川を誘導してこのシチュエーションを作り上げた。
﹁今なら誰の邪魔の入らない密室で二人っきりー。いやん﹂
﹁その表現はどうかと思うが﹂
﹁いーじゃん。実際その通りなんだしさー。で、どうすんの?﹂
小波は考え込むような素振りを見せる。自分の中の疑問の解消。
209
﹁折角の大人の好意には甘えとくべきよー?﹂
﹁お前のような輩が大人だとはあまり認めたくはないがな﹂
先ほど角川にいったようなものと同じような台詞を吐く江崎をバッ
サリと小波は切り捨てる。
だが、口ではそういいつつも足はすでに角川の消えたキャンピング
カーへと向いていた。
真実を求める。その欲求が小波を突き動かす。小波は江崎に2,3
何かを呟いてそして角川の待つキャンピングカーへと向かった。
制服はは長時間雨に打たれてずぶ濡れ。体の方も夏も間近だという
のにすっかり冷え切っていた。
だが白衣の男にいわれたようにすぐにシャワーを浴びる気にはなれ
ず、地面を転げ回ったせいでところどころ汚れたり擦り切れかけた
ブレザーを脱ぎ捨てて手近なシートに腰掛けた。
フーッと大きな息をついて首もとのネクタイを緩めてワイシャツの
第一ボタンを外す。
首を締め付けていた感覚がなくなり、わずかな解放感。
210
同時に終わったのだ、という感覚が俺の全身を駆け巡った。ミッシ
ョン、コンプリート。
前回に引き続いてなし崩しに巻き込まれた事件。
いやはや大して間をおかず、またこのような事件に巻き込まれると
は思いもよらなかった。
命の駆け引き。綱渡り。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮今回も、生き残ることができた。
そう、今回﹃も﹄。
小刻みに震える両手。身のうちに宿るわずかな恐怖。だがこんなも
のはなんでもない。
﹃あの事件﹄に比べれば。
思わずそう呟く。﹃それ﹄がフラッシュバックしそうになる。
響き渡る悲鳴。飛び散る赤。痛みに悲鳴を上げる自分の体。
全てを思い出す前に俺は無理やりに思考を断ち切った。知らず、体
の震えが大きなものとなっていた。
そこでタイミングよく車のドアがノックされる音が車内に響いた。
ゴスペルの人間だろうか。だとすればどのように対応すればいいの
211
だろう。
はい、ともどうぞ、ともいうことができず躊躇しているとドアが勝
手に横にスライドした。
﹁入るぞ﹂
その心配はどうやら杞憂であったらしい。入ってきたのは俺と同じ
くずぶ濡れの濡れ鼠になった小波だった。
﹁何か用か﹂
そうだそういえば、と。俺は緩みかけた精神を再び引き締めなおし、
臨戦態勢に持っていく。
まだやるべきことが残っていたな。きっと来ると思っていた小波の
追求。
何か用か、と口にはしたもののほとんど社交辞令のようなもの。用
件は分かっていた。
﹁聞きたいことがある﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮お前は本当に勤勉だな、小波。前に質問してから再
び質問とはな﹂
茶化すようにいう俺に合わせてか小波も言葉を返してくる。
﹁いや、そうでもないさ。なにせ今回私の聞きたいことは一つだ。
そしてその質問も前回となんら変わりはない﹂
212
床にしっかり固定されたテーブルの側面に小波は立っていた。それ
は身に染みついた癖なのだろうか。
小波の立ち位置はさりげなく俺の逃走を防止するような位置取りだ
った。
﹁もう一度聞こう﹂
言葉がその部分で切り抜かれたかのようにはっきりと耳の奥に響い
た。
﹁お前は、能力者なのか?﹂
前回と一字一句違わないその質問。
﹁違う﹂
今回は明確に否定した。決してはぐらかさない。いい加減小波も気
づいているだろう。
俺が能力者である、と。実際に能力を使うところをこいつには見ら
れている。
だが逆に言えば小波にしか気づかれていない。そして俺には能力の
検査をかいくぐる手段がある。
いくら小波が証言しようとも俺が能力者ではないという世間的な事
実は揺らがない。
213
﹁やはり素直に吐いてはくれん、か﹂
﹁俺はいつでも素直で誠実な人間であることを心がけているが?﹂
﹁馬鹿を言え。お前のどこが誠実であるものか﹂
小波は俺の冗談めかした軽口を一刀のもとにバッサリと切り捨てた。
﹁ところで角川、あれを見てみろ。﹂
小波がついっ、とキャンピングカーの前方、フロントガラスの向こ
う側を視線で指し示した。
その向こうには未だに積みあがった土砂、崩壊したトンネルの出入
り口、土をどけられて先ほどよりも車体を覗かせている横転したバ
ス。
救助活動はもう終わったのだろうか。辺り一帯から人が退避してい
る。
同時に、ふと疑問が浮かぶ。乗客の救助は終わったのだろう。それ
は分かる。
だがまだ瓦礫が残っている。その撤廃作業はどうした?他の部署に
回すとでも?
そんななかキャンピングカーの前方に一人の男が躍り出る。もはや
見慣れつつある白衣の男だ。
その男がこちらに向けて両腕で大きく丸を掲げている。何かのサイ
214
ンか。
そう思ったと同時だった。肩口が強い力で押さえつけられて俺は無
理やり後ろを向かされた。
かと思えば次の瞬間に腹部をに衝撃。固く握りこまれた小波の拳が
めり込んでいた。
体内の空気が全て放出させられて、無理やり圧迫させられる。体を
思わずくの字に折り曲げて痛覚を紛らわそうとする。
﹁あのバスと土砂には未だに能力が働いているはずだ。お前が能力
者だと仮定して、お前の意識がなくなれば能力は消える。そうなれ
ば何らかの変化が起こるだろう﹂
その確認のために、俺の意識を刈り取る。まずい。そう思いつつも
もはやどうにもならない。
完全に主導権は小波に握られていた。ただでさえ意識が飛びかけた
この状態。
そこへ首筋に更なる衝撃が加えられる。小波の二つに重ねられた両
手が鉞のごとく真下に振り下ろされたのだ。
鉄槌。
チェックメイトだった。その止めの鉞は俺の意識を綺麗に刈り取る。
薄れ行く意識の中、遠くでズズズズズッという押さえ込まれていた
自然災害が俺の意識が切れるのに呼応して再び動きだす音が聞こえ
215
る。
深く、深く。俺の意識は深い闇に引きずり込まれて次第に視界が真
っ暗になっていった。
216
第3話︱︱とある五反田のアイデンティティ︱︱
50年前。俺たちの生きるこの世界に不思議な能力を持つ人間が突
然変異の
ように生まれ始めた。
それは道具を使わずに空を飛ぶ能力だったり、何もない空間から炎を
生み出したりと多岐の範囲に渡る。
その出来事は人々の間に戸惑いと混沌とを生み出した。
世界単位で勃発した多くの事件。それは恒久の不戦の誓いを掲げる
争いの
ない日本も例外ではなかった。
力あるものの力なき人間への迫害。犯罪の増加。
変化する情勢を利用しようと影で暗躍する者。
個人から国家単位までの多くの思惑が交錯した50年前の事件。
かくして世界は誰も予想し得なかった形で変革の時を迎えた。
多くの国が自国の改革を迫られ、受け入れて変わっていった。
中にはそれを受け入れられず滅びた国家もあるが逆にその変化を
217
利用して誕生した国家もまた存在する。
大規模、とはいかないまでも世界地図と歴史は時代に流されるよう
にして
書き換えられた。
そして50年が経った現在。
当初あらゆる無法が目立った日本も法や制度の改革によって平穏を
取り戻した。
少なくとも表面上は。
異能の存在が当たり前のように認知されている。
俺が生きているのはそんな世界だ。
そして、俺もまたそんな特殊な能力者の一人である。
﹁七音ー!、昨日は大丈夫だったか!?﹂
218
﹁⋮⋮⋮それはむしろ俺の台詞だ。直接の被害者はお前だろう﹂
ザワザワと教室が人で満たされていく朝の教室。
自分の机でいつものように本を読んでいた。
俺は挨拶も無視して話しかけてくる騒がしいその声に気だるげに応
じた。
ガラガラと椅子を引いて机にドカッと乱暴にカバンを置くなり
五反田が俺の隣にある自分の席に腰を落ち着ける。
﹁まあ⋮⋮、その様子だと元気そうだな﹂
﹁おう!ピンピンしてるぜい!﹂
ダーッ!と両手を振り上げる五反田。昨日バスの土砂崩れという
大事件に巻き込まれたというのにそんなことはどうもこの男にとって
関係なかったらしい。
今日も今日とて五反田は平常運行だ。
四肢の隅々まで力が漲っており、落ち着きがない。
そのくせ授業が始まれば途端に調教された猛獣のように大人しくな
り、
219
催眠にかかったかのように眠りにつくのだろう。
典型的な劣等性だ。
それはともかく。
昨日の事件は結構な話題を呼んでいるらしい。
ここ最近頻発していた土砂崩れは実は能力者によって
引き起こされたもので、その能力者は昨日無事に捕まった
というニュースはすぐに全国放送で報道された。
その犯人の逮捕された現場がこの桜森で、さらにいえば緑水高校の
近辺であったことから
教室はいつもの3割増しくらいで騒がしい。
どこから情報が漏れたのか、その直接の被害者ということで五反田は
すっかり注目されている
チラリ、チラリ、と。本人は話題にされていることに気づいていない
だろうがそこここで五反田に向く視線が見受けられる。
それが見るに留まり、本人どころかその近くにいる俺にすら話題
220
が振られたりしないのは日頃の人望の賜物だろう。
自らを皮肉るように内心で一人ごちる。
噂が噂を呼び、畏怖の対象となっているのが
俺と五反田を取り巻く現状だ。
ゆえに、クラスどころか学年単位で俺たちの存在は浮きに浮き、
他人と会話することなどまったくない。
はずだったのだが┃┃┃┃┃┃。
﹁あ、おはよう、五反田くん、角川くん﹂
﹁お?﹂
﹁は?﹂
俺たちの席の近くに一人の女子が立っていた。
奇妙な縁で関わりを持ち、最近になって見覚えになりつつなってきた
不良と対極に位置する校則遵守の優等生。
両手に紙の束を抱えた不二家がそこにいた。
今、声をかけられた、の、か?俺たちが?
221
俺は耳の調子を確認するように片手を耳の辺りに持っていき、五反
田も
耳穴を指でほじって似たような反応をしていた。
それぞれ学校という社会において人との関わりをほぼまったくと
いっていいほど持っていない。
そんな共通点を持つ俺たちが似たような反応をしたのは至極当然の
反応
だったと思う。
﹁どしたよ、七音?選ばれた勇者にしか聞こえないナレーションボ
イス
を聞くかのような反応をして﹂
﹁お前こそどうした、五反田?プールから上がって違和感を感じて
ようやく耳に水が入っていることに気づいたときのような仕草だな﹂
﹁ああ、いや、何か声をかけられたような気がしたんだけど。
ウッチーとお前以外で久しぶりに﹂
﹁奇遇だな。俺も声をかけられたような気がする﹂
﹁あ、えと、気のせいじゃないんだけど﹂
222
互いに事の真偽を議論する俺と五反田の間に不二家の声が割り入っ
た。
それが本当であったことに俺たちはそろって驚きを隠しえなかった。
﹁なん⋮⋮⋮﹂
﹁だと⋮⋮⋮﹂
﹁そ、そんなに驚くことかな⋮⋮?﹂
それはもう。不二家のいったことに心のうちで多大な賛同を示す。
この驚きの度合いを
例えるなら原始人が初めて火を見つけたレベルだ。
俺と五反田がまじまじと信じられないものを見るようなレベルで目
の前
に立つ不二家を凝視する。
あまりの圧迫感に耐えられなかったのか、不二家が控えめな
動作で思わず、といったように一歩後ろにたじろいだ。
﹁⋮⋮⋮⋮最後に学校で事務作業以外でクラスメイトの方から話し
かけられた
のは3年くらい前だったっけなぁ﹂
223
﹁なめるなよ、五反田。俺は5年前だ﹂
﹁キ┃┃┃┃┃ッッ!!﹂
﹁それは負けて悔しがることなのかな⋮⋮⋮﹂
両手で頭をかきむしって悔しがる五反田が地団太を踏む。
不二家が俺たちのやり取りににさりげなく困ったような顔で笑いな
がら
ツッコミを入れる。
それにしても、だ。負けて悔しがること=友達いない暦が長い。
不二家のいったことを吟味すればこのような結論に至るわけだが。
﹁何気にグサリと痛いところをついてくるな⋮⋮﹂
﹁え?⋮⋮あ、ああ!そ、その、ごめんなさいっ!﹂
遅れて自分のいったことの意味に気づいた不二家が途端に平身低頭に
なって、とはいえ両手にものを抱えているのであくまで気持ちだけ。
それでもどうにか態度で示そうとしてバランスを崩しかけてくるり、
と
その体が回って
224
﹁っと、とと、きゃっ﹂
転びかけた不二家の襟首を反射的に引っつかむ。危ういところで転
倒の
危機は免れた。
俺の伸ばした腕にグッと重さが加わって引っ張られた。その抵抗に
さらに逆らうようにして不二家の身体を元通りに戻してやる。
﹁あ、ありがとう。角川くん﹂
﹁ああ﹂
﹁ふっ、いいってことよ。ただ助けた分のお礼ってヤツはきっちり
してもらわねえとな。何?持ち合わせがない?それなら仕方がねえ。
直接体で奉仕してもらおうか。グヘヘヘヘ、ジュルリ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁か、体で⋮⋮⋮﹂
名誉のために一応訂正しておこう。無論、いったのは俺ではない。
不二家がいわれた言葉からよからぬ想像を得たのか俯いてその顔を
225
朱に染める。
打って変わって場に嫌な空気と沈黙が流れた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮五反田﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮はい﹂
クイッと親指で近場の換気のために開け放たれた窓を示した。
入ってくる風を受けてカーテンがパタパタと揺れている。
カラリと晴れた外。抜けるような青空。
﹁今日はいい天気だぞ﹂
﹁不肖、この五反田 亮介。場の空気を重くした責任は取る所存。
しかし腹を切るわけにもいかぬゆえ﹂
五反田は駆け出して窓までの距離を一気につめる。
勢いのまま窓の桟に足をかけてそのまま外へと飛び出した。
﹁アーイキャーンフラーイ!!!﹂
﹁えーーーーーっっっ!?ご、五反田くーん!?﹂
俺は両手で正方形を作り、写真を撮るような仕草で五反田の生き様を
226
目に焼き付ける。
題名はそうだな、自由への跳躍。
﹁いい画だ﹂
﹁か、角川くん!いいの!?﹂
動揺した不二家が俺に詰め寄る。何故止めなかったのか、と。
俺はため息を一つついて不二家に落ち着くように促した。
﹁下を見てみろ、不二家﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
不二家が窓際に駆け寄って下を覗き込む。
﹁ここは3階だ﹂
﹁知ってるよお!﹂
不二家が珍しく強い口調で反論してきた。俺も窓際に駆け寄り、
地球の重力に逆らわず自由落下していく五反田を観察する。
﹁まあ、大丈夫だ。そう心配することじゃない﹂
﹁え?﹂
227
無造作に宙に投げ出された身体がクルクルときりもみ状に回転し始
める。
それは水泳の飛び込みのように美しく、優雅に、しなやかに。
芸術点、加点1。
そのまま校舎の2階部を通り過ぎる。
後を追うように下の階が騒がしくなり、俺たちと同じ野次馬が窓から
顔を出し始めた。
きりもみが止み、縦回転に移行する。それは計算に裏打ちされた
動作なのだろう。
寸分違わず、五反田は両足で地面に接地する。両足、膝、腰、肘、
肩。
体は柔らかい動作でそれらの部位を順に地面につけつつ転がってい
く。
五点着地。
軍隊のパラシュート部隊でも使われている技術だ。
一階の生徒も騒ぎに気づいたのだろう。
五反田の落下した教室から波紋が広がるようにして窓から次々に生
228
徒が
顔を覗かせた。
もはや、ことは学校単位の騒ぎである。
五反田はといえば怪我一つなく着地することに成功したらしい。
受身をとってしゃがんだ姿勢からゆっくりとした動作で立ち上がって
新体操の競技を終えた選手のように両手を広げてY字を作り、
目を閉じ、陶酔したように呟いた。
﹁マーベラス⋮⋮!﹂
ふっ、と口元に笑みが浮かんだのを俺は見逃さなかった。
まぁ、嬉しいのは分からんでもないが⋮⋮⋮。
そんな細かいところまで目がいくほど冷静になっていたのは俺くら
いの
ものだろう。
五反田の奇行は様々な意味で波紋を呼び、ちょっとしたパニックを
生み出していた。
純粋にその技術に歓声を上げる生徒。
229
事情を知り、その人物を見て何事かと怯える生徒。
興奮のあまりさらにパニックを煽ろうとする生徒。
指笛や歓声が入り混じってちょっとしたお祭り騒ぎである。
当の五反田はといえば何を勘違いしたのかいやいや、
どうもどうもーとにこやかに笑顔を振りまいていた。
だが、そんな幸せも長くは続かない。
手を振りながら後ろに数歩下がった五反田の身体がドン、と体格の
いい
身体にぶつかる。
瞬間、振り向いた五反田の表情が今までの笑顔から一転して凍りつ
いた。
﹁朝から随分楽しそうだな、五反田?えぇ?﹂
﹁ウ、ウッチー⋮⋮⋮﹂
﹁宇都宮先生と呼べ。で、この騒ぎはなんだ。先生も見ていたが
あれは自殺未遂か?突然3階から飛び降りたりして﹂
宇都宮のこめかみに浮かんだ青筋が怒り心頭といわんばかりに
230
ピクピクと痙攣している。
正直宇都宮をここまで怒らせる生徒は珍しい。
宇都宮は怒りはするものの、その怒りはごく小さなもので、青筋を
浮かべるに至ることはまずない。
はっきりいって五反田くらいのものだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮せ、青春の猛り、とか?﹂
﹁こんの、馬鹿もんがぁぁぁぁぁ!!!﹂
﹁ひいいぃぃぃぃぃぃぃ!!!!﹂
襟首をつかまれた五反田の身体が地面に叩きつけられる。
大胆かつダイナミックな大外刈り。
実はこの宇都宮教諭、柔道の有段者で、若いころは将来を有望視さ
れた
選手であったらしい。
その証拠に宇都宮教諭の耳はすっかり変形して滅茶苦茶な形に
なってしまっている。
231
本人はそれをさほど気にしておらず、自分の勲章だと語っているが
時折それを見た生徒の中には宇都宮が過去にやくざだったのではな
いか
と勘違いするものもいるそうだ。
確かに顔だけ見てみれば宇都宮の人相はいうほどよいものではない。
サングラスでもかければ完全にジョブチェンジできるだろう。
話は戻るが昔とった杵柄というか、柔道に打ち込んでいたというその
名残は今もあり、時折こうして懲罰に使用されることもある。
⋮⋮⋮まあ、これも五反田限定なわけだが。
こうして考えてみると愛されているな、五反田。
﹁若さゆえの過ちだって!見逃してくれよ!﹂
﹁ならばその過ちは大人である俺が正さねばなるまい。
覚悟しろ、五反田。先生がお前を立派な生徒に更正させてやるから
な﹂
﹁た、助けて!七音ーーーーーー!!﹂
グルリ、と宇都宮の目が俺のいる教室を向いた。
232
サッと視線を反らして俺は窓際から一歩下がる。
かくいう俺も宇都宮教諭の世話になったことが何度かあるが、どう
にも
あの手の教師は苦手である。恐らく向こうもそれは同じだと思う。
好き嫌い以前に根本的な相性がよくない。
ゆえに敵意をむき出せばいいものでもなく若干もてあましている部
分も
あるのだ。
﹁いいの、角川くん?五反田くん連れてかれちゃったよ?
助けを求めてたみたいだけど?﹂
﹁⋮⋮⋮まあ、なんとかなるだろう。相手は宇都宮だし、な﹂
そこで、不二家がクスクスとさきほど五反田が飛び降りたときの
焦りようが嘘のように笑い出した。
何故、笑うのかと思うと同時に俺は内心で不快感を露にした。
不快感というと少々語弊があるかもしれない。
正確に言うならばそこまで負に偏ったもの
233
ではなくどことなく居心地の悪い感情に包まれた、か。
﹁さっきの飛び降りといい、角川くん五反田くんのこと信頼してるん
だね﹂
﹁客観的な評価だ。信頼など微塵も存在しない﹂
五反田と一緒にいることの多い俺にとってあの程度の奇行には
慣れているという経験値。
五反田の身体能力ならばその程度はやってのけるという俺自身の分
析に
よる前情報。
照らし合わせれば今更驚くようなことではなかった。
﹁いうなれば、そうだな。商品に対する信用といったところか。
感情ではなくて、理性による判断だな﹂
﹁だけど、それも一つの信用の形だよ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
そういわれれば閉口せざるをえない。
不二家に何も言い返せず俺は二の句を次げなかった。
234
自分で言うのもなんだが理詰めが得意な俺はそれゆえに口論が強い。
口論で必要なのは冷静さを保つ精神力と論理の組み立てだ。
その点において勝っているはずの不二家に俺はなぜか言い返すことが
できなかった。
目の前では不二家がふふふっと柔らかい笑みを浮かべている。
俺は完敗を悟った。
が、このまま引き下がるのをよしとしなかったのは俺のプライドゆ
えか。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮調子に乗るんじゃない﹂
目の前の不二家の俺の目線よりちょっと低い位置にある不二家の額を
軽く小突いてやった。
不二家の身体がわずかに後方に傾いだ。
それを受けて不二家はえへへ、と小さく笑った。
本人にとってそれはどうやら心地のいいものだったらしい。
小突いた俺のほうがどことなく気まずくなってふいっと視線を
235
不二家から反らした。
そして話題を反らすように何気なく浮かんできた疑問を口走る。
﹁そういえば結局何の用だったんだ。俺たちに用もなく話しかけた
わけじゃないだろう﹂
クラスのアンケートの回収か。行事の役割分担の伝言か。
五反田はともかく俺は学校の提出物の提出を怠ることはない。
周囲からあまり好ましくないレッテルを貼られているとはいえそれに
合わせて不真面目に振舞うつもりは毛頭なかった。
だが、学校の行事に関しては別だ。
周囲とのコミュニケーションが必須となる学校行事というものが俺は
大嫌いで、それに関する話し合いだとかクラスの活動だとか。
類するものは全てサボり続けている。
それも噂に拍車をかけている原因かもしれない。
まあ、分かってはいても今更どうにかしようという気も起きないの
だが。
話は若干逸れたがようするに、俺に話しかけてくる輩など
236
そんなものだということ。
ここに至るまでの何年間か、俺にそれ以外で話しかけてくる物好きな
クラスメイトは五反田以外にいなかった。の、だが
﹁え、ないよ?﹂
物好き第2号。口には出さず、心の中で不二家にそう毒づいた。
若干の不快を露にして眉をしかめる。
そんな俺の様子を鋭敏に感じ取った不二家だがどうしたことか不二
家は
恐れる様子もなく一歩も退かなかった。
﹁ただね、角川くんとか五反田くんとお話してみたいなぁっておも
った
だけだよ。二人ともきっと優しい人だと思ったから﹂
その言葉に俺はむずがゆさを覚える。またそれか。
それは俺という人間を大して知りもしないからいえることだ。
妄言、妄想。明確な嫌悪が俺の中で募る。
偽善だ、そんなもの。苛立ちを覚えてギリリと歯噛みする。不二家
237
のいった言葉が俺の
中をかき乱していた。
普段通りの俺ならばこの程度で苛立ちを露にすることはなかっただ
ろう。
苛立ったなら苛立ったなりに適当な理詰めで極力穏便に不二家をあ
しらっていた。
だがヤツが現れたのはそんな間の悪いときだった。
﹁不二家、頼まれたものは教卓の上に置いておいたが構わないか?﹂
﹁あ、ありがとう、小波さん。ごめんね。手伝ってもらっちゃって﹂
﹁いや、構わない﹂
小波⋮⋮⋮⋮。教室の前方から小波 優がこちらにむかって歩いて
きた。その小波と
視線がかち合う。俺の視線はさぞ憎しみのこもったものだっただろ
う。
小波の方は相変わらず涼しい表情だったが。
カチリ、と俺の中のスイッチが無意識に切り替わり思考が途端に冷
めたものに変質していく。。
﹁不二家﹂
238
﹁何、角川くん?﹂
﹁用はないんだろう?どっかいけ﹂
普段理性的に動くことを心がけている俺だがとうとう感情的になる
のを抑えきれなかった。
言葉に棘が混じる。そのつもりがなくとも不二家へと発する言葉が
きついものになってしまっ
た。熱くなる頭と反比例して言葉の温度が冷たくなっていく。
不二家は悪くない。それは分かっているのだが自分を抑えることが
できない。
﹁で、でも⋮⋮﹂
﹁消えろ、といっているんだ﹂
﹁不二家﹂
小波がその華奢な肩に手を置いた。未だ何かいいたそうな不二家に
ここから立ち退くように
促す。俺の一気に剣呑になった雰囲気を鋭敏に感じ取りつつも諦め
きれない。
そんな様子だった不二家が渋々といった様子で俺のそばから立ち去
った。
239
代わりに残ったのは小波 優。対峙する。
一気に日常との境界線が曖昧になっていく。昨日の一件。もはや言
い逃れはできない。
怪我やら後処理やらで昨日は結局何も聞かれずに返された。
気づいたら俺は自室のベッドに寝かされていた。母さんによればゴ
スペルの人間が意識を
失った俺を家まで運んできたらしい。
事件に巻き込まれた経緯も聞いたのだとか。その辺りはどうやら配
慮してくれたようで
今回も俺は単なる被害者ということになっていた。
そして、今日。
どこかで接触してくるだろうとは思っていたがどうやらその時は存
外早くやってきたらしい。
二度助けられておいて何をいうと思うかもしれないが正直なところ
俺にとってこいつは敵に
等しい。あれだけのことをされて笑って許せというのも無理のある
話ではないだろうか。
ズキズキと昨日殴られた鳩尾が痛みを訴える。日常の繰り広げられ
240
る学校の一教室。
しかし、俺と小波の周囲だけは隔絶されたように非日常の空間が展
開されていた。
怨嗟を込めてにらみ付けるも小波は微動だにしない。
もっとも俺のほうも凶悪な犯罪者と数多く対峙している小波をこの
程度で動揺を誘えるとは
思っていなかったが。
﹁授業が終わったら学校から一番近くの空き地に来い﹂
時間にすればにらみ合いは一瞬だっただろう。その締めくくりに小
波は手短に時間と指定場所
を告げた。何をするのか内容の方はいうまでもない。
用が済むと小波は俺の返事を待たず、相変わらず手入れのなってい
ないその長髪を翻して
さっさと自分の席に戻った。
自分のしたことが間違っていたとは思わない。俺は俺の信じるもの
のために行動した。
その行動を後悔してしまえばそれは自己の否定に他ならない。
自分が自分を信じてやらずしてどうするというのだ。
241
それでも、今のこの状況はやりきれなかった。俺は頬杖をついて自
分の
机で不貞腐れる。
チカラ
空いた手をさりげなく眺める。そこに宿った能力。
これがあったから人を救えた。
これがあったからこのようなトラブルに巻き込まれた。
2つの事実が相反してジレンマを生み出す。
能力があったほうがいいのか、ないほうがいいのか。
これは能力者になる前からずっと考えていたことだった。
能力は大きい。
常人を軽く凌駕するチカラは自分の可能性を広げてくれる。
だがそれゆえに常人との間に壁を作り、差別化される。
力は人を孤独にするとはよくいったものだ。
メリットがある。
デメリットがある。
242
コインの表と裏。決して溶け合うことはないこの世の真理。
先の疑問の答え。それは未だに俺の中で解決していない。
いや、答えを求めること自体が愚問なのかもしれない。
そんなことを考えて仮に答えが出たとしても能力者なり一般人なり。
与えられた立場で精一杯あがいてもがいて生きていくしかできないの
だから。
243
第3話︱︱ゴスペル︱︱
学外で待ち合わせをしたのは配慮だったのだと思う。指定場所にい
くと駐車場に車が停められ
ていた。
白い普通の乗用車。
外で待っていた小波の誘導を受けて車に乗り込む。基本的に校内へ
の車の乗り入れは禁止され
ている。学校のすぐ近くでの出迎えというのもあまり推奨はされな
い。
何より小波は噂になるのを避けたかったのだろう。
いい意味でも悪い意味でも俺も小波も有名人だ。そんな俺たちが二
人そろって車に乗り込むと
ころを見られたならそれはもう何かあるのではないかと勘繰られる
だろう。
と、まぁこれらは全て勝手な俺の予想に過ぎない。
小波が何を考えてこのような計らいをしたのかというのは些細でど
うでもいいことだ。
244
重要なのはここからだ。
車に乗り込むこと十数分。
後部座席にそろって乗り込んだものの俺も小波も沈黙するばかり。
もともと互いに自分から他者とコミュニケーションをとるような性格
でも仲のいい間柄でもない。
互いの作る空気はピリピリと時間が経つごとに剣呑さが増していく
ように思えた。
小波は相変わらずの鉄面皮を表情に貼り付けて礼儀正しく背筋を伸
ばし
てシートに座っている
俺はといえば礼儀など気にせずだらしなくシートの背もたれに体を
預け、窓際に肘をついて頬杖をついて流れる車窓の向こうの風景を
眺め
ていた。
そんな折、とうとう車が目的地と思しき場所の駐車場に入っていく。
軽いブレーキ音とわずかなに働いた慣性の後、車は停車した。
245
小波が首をクイッと軽く振ってジェスチャーで降りろと促す。
それぞれ近くのドアを開けて俺と小波は車から降りた。
広い敷地には程よく植えられた草木。整備されて青々とした芝生。
それらは公道との仕切りの役目を果たしている。
中にあるのはシックな印象を与える鼠色の建物。
出入り口の辺りは頻繁にスーツ姿の大人が出入りしているのが
見受けられる。
この建物には覚えがある。桜森の行政を司る市役所だ。
建物は3階建てでさほど高くはない。
その分広い敷地を活かして縦横に市役所は展開されていた。
築60年という古い歴史を持つ建物は所々にその老朽化が垣間見ら
れ、
外壁が剥げかかっている
部分も多々見られる。
古きよき時代の遺物とでもいうのだろうか。
しかし古いというのも言い換えれば伝統的ということで、歳をとった
246
この建物からは貫禄のようなものがにじみ出てるような錯覚を
覚えてしまう。
日本には長く使われているものには意思が宿るという九十九神の伝
承が
あるが、それを
信じさせるに足るようなオーラを放っているかのようだった。
﹁こっちだ﹂
そんな由緒ある建物の観察にふけっていた俺の思考を小波の冷たい
事務
的な声が断ち切った。
誘導にしたがって小波の数歩後ろを歩き、その背を追う。
歩くだびに無造作に伸ばされた髪がふわふわと揺れていた。
何気なくそれを眺めてお互いにすっかり黙り込んだまま歩く。
入り口から入ってすぐ、真っ先にエレベーターのスイッチを押す。
間がよかったのか、
エレベーターはすぐに降りてきて、中から中年のスーツ姿の人が出
てくる。
247
学生が市役所内にいるのは珍しいのだろう。
若干の好奇の視線にさらされて、どことなく居心地の悪い思いに包
まれた。
俺と小波はスーツの集団と入れ替わるようにしてエレベーターに乗
り込む。
ドアが閉まって外界と閉ざされる。俺と小波の間に流れる空気はひ
たすらに冷たかった。
それが密室という環境も伴って充満していく。空気が張り詰めてい
く。
きっかけ一つあればこの場で爆発しかねないほどに。
同時に触れただけでその者を傷つけるような鋭さをも持ち合わせて
いる。
市役所という建物は低い。低い音を立てて上昇していくエレベータ
ーは
乗り込んで大して時間も立たないうちにチンッというお馴染みの音
を立てて停止した。
灯ったランプは3階。止まってまもなくドアが静かに開く密室から
の開放。
箱の内側でよどんだ空気が澄んだ外の空気と交じり合う。
248
それでも俺と小波の間に流れる空気は剣呑さを失うことはなかった。
それどころか場所に関係なく時間が経つごとに張り詰めていくばか
りだ。
これではいつ切れるか分かったものではない。
ワックス掛けされて路面が反射するほど磨かれたリノリウムの敷き
詰められた廊下を小波と
連れ立って歩く。やはりここでもすれ違う職員の好奇の目にさらさ
れる。
書類を両手に抱えつつもおっ、といった様子で後ろ目に俺たちの姿
を確認してくるのだ。
敷地を広々と使っているせいかフロアは広い。様々な用途の部屋が
随分な数が用意されて
いる。
会議室、資料庫、応接室、多目的ルームetc、etc⋮⋮⋮。
そんな多くの部屋を横目で流しつつ着いた先は個人で使うような部
屋だった。
ドアの上の方には所長室と書かれている。物怖じする様子もなく、
小波が軽く2度ノックをす
249
る。コンコン。返事はない。
聞こえなかったか、と確認するように今度はやや大きめの音を立て
てドアを叩く。
やはり返事はない。
小波が仕方ないとでもいうようにドアノブに手をかけた。蝶番が建
物の年代に比例したような
古めかしい悲鳴を上げてドアが抵抗もなく開いた。
小波がズカズカとその部屋に入っていく。権力者の部屋だというの
にその堂々とした振る舞い。
この部屋にはよく来るのだろうか。
普通組織の下っ端というものは目上の者の部屋に行くとなれば大な
り小なり緊張するもので
はないだろうか。
所長というのは恐らくゴスペルの所長。となれば小波の上司に当た
るわけで。
そんな大物の部屋に入って堂々と振舞うこいつは案外大物なのかも
しれない。
もっとも権力者の前でビクビクする小波などとても想像しがたいと
いうのも一つの真理だ。
250
部屋は意外と奥行きがあり奥に書類に埋もれたビジネスデスク。手
前の方には客用の
背の低いテーブルとその対面にそれぞれ革張りのソファー。
ビジネスデスクの方は備え付けられた回転イスやらなにやら含めて
安っぽい気がするのに
対して、応接用の部屋の手前、ドア付近に用意されたソファーやら
テーブルはえらく金が
かかっていそうな高級な雰囲気を醸し出している。
まるで安月給のサラリーマンの仕事場と金持ちの家のリビングの雰
囲気が入り混じったような
部屋だった。
ビジネスデスクの辺りまでいった小波がなにやらメモを眺めて一通
り目を通してから一つ
小さなため息をついた。
何が書いてあるのかは俺のいる場所からは遠すぎて視認できない。
目をつぶり何かを振り切るようにそのメモ用紙を握りつぶすと小波
は手前の応接スペース
に戻ってきて行儀よくソファーに腰掛けた。
251
﹁そこに座ってくれ﹂
﹁いいのか。部屋の主がいないのに好き勝手やっても﹂
﹁先に始めていろとの伝言だ。それにここの主はそんな細かいこと
を気にするような輩では
ないのでな。気にすることはない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮へぇ﹂
呆れとも納得ともつかない曖昧な相槌を漏らして小波の愚痴じみた
説明を聞き入れる。
ありがたく言葉に甘えて遠慮なしにカバンを無造作に傍らのソファ
ーに投げ
出した後、俺もそれに続くようにして静かにその身をソファーに埋
めた。
ソファーはその身に纏う高級感に違うことなく実力というか性能を
如何なく発揮して
俺の体を優しく柔らかく受け止める。
何気なく手を置いた肘掛けの革の手触りもやはり高級感がありとて
も触り心地がいい。
衝動に任せてなんとなく手のひらを動かして手触りを堪能する。
252
ソファーは二人用のため反対側の肘掛けに手は届かない。手持ち無
沙汰になった右手は体の
横に無造作に投げ出されたまま。
横柄な態度で俺は両足を組む。遠慮をするつもりはなかった。
実力行使ではないとはいえこれもある種の戦い。そしてそれはもう
始まっている。
無遠慮に俺は戦いの口火を切る。視線はゆっくり動かしている左手
に留めたまま。
﹁それで、改めて聞こうか、小波。﹂
ズケズケとした物言いで俺はストレートに切り出す。
﹁今日は俺に何の用だ?﹂
動じることなく小波はいつもの調子で口調で切り返した。
﹁答えて欲しいことがある﹂
そして小波の口が台詞を紡いだ。それはいつの日か聞いたものとま
ったく同じ質問。
繰り返される俺と小波のやり取り。
﹁お前は、能力者か?﹂
253
質問は前と同じ。だがここからは前回と同じようにはいかなかった。
状況が違う。お互いの持
っている情報が違う。何より質問の意図が違う。これは疑問ではな
い、確認だ。
﹁分かっているだろう、あんな手荒なことをしてまで証明したんだ。
よかったな、空振り
じゃなくて。あれで俺が何でもない一般人だったらどうするつもり
だったんだ?﹂
あのときの激痛が思い起こされる。何の鍛えもされていない文化系
でインドア派の俺にあの
打撃は痛烈に効いた。そんな拷問じみた仕打ちをした目の前の女を
どうして許せようか。
精一杯の皮肉を込めて小波をなじる。それでも小波の表情は一切の
変化を見せない。
あくまでその所作や言動には事務的要素が見受けられる。まあ、い
い。その辺りは想定の
範囲内だ。所詮今のはジャブ程度に過ぎない。
﹁それについては謝ろう。だが、お陰でお前が能力者であると証明
できた。
254
お前に素直に聞いたところでどうせ答えはしないだろう?悪いとは
思ったが強攻策を取らせて
もらった﹂
﹁不意打ちのような形で、な。容赦がないよな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
今度は謝罪はない。本当に悪いと思っているのか。
このまま謝罪を繰り返しても話は進まないと思ったからなのか。
表情からは読み取れない。そこで俺も一つため息をついて気持ちを
落ち着ける。
建設的じゃない。もっと感情を抑えて、合理的にいこう。文句はこ
の程度でいいだろう。
後は時間を浪費するばかりだ。そろそろ本題に入る時間だ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮それで、名探偵。俺の正体を体良く力ずくとはいえ
白日の下にさらしたわけだ
が、そこからお前は俺をどうしたいんだ?﹂
いわずもがな。暗黙の了解で今日ここまできた俺たち。その議題は
この一点に絞られている
だろう。俺の処遇。
255
﹁安塚にある専門学校に今の時期強制転校?能力に覚醒していたこ
とを隠匿していた罪人?
ああ、その裁き方だったら公務執行妨害も追加されるのか?散々お
前の邪魔をしたわけだから
なあ、小波。﹂
だが、と俺はそこで一息ついた。思考を巡らせて俺は切り札を切る。
この交渉で俺に出せる
手は限られていた。なればこその先手必勝。自分の自由のために。
この場を切り抜けるために
﹁俺が能力者であることを知っているのは何人いるんだろうな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁そんなに多くはないんじゃないのか?﹂
切り札といっても大したものじゃない。ただカマをかけるだけだ。
だがそれはまったくの当て
ずっぽうというワケでもない。なかば確信を得た80%のカマ。
小波の反応で俺の推論は当たっていることを確信する。無言は肯定。
無反応といえど質問をすればそれなりの何かを得られるものだ。
256
﹁そんな限られたごく小数が俺を能力者呼ばわりしたところで果た
して周囲は信じるか?
お前だって分かっているだろう。俺は検査に引っかからない。検査
結果とたった数人の
証言。果たして多くの人間はどちらの事実が信憑性に足ると判断す
るだろうな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ここまでいわれれば悔しさなり、逆上なりと感情の一つも見せても
いいようなものだが
小波の表情のその変わりなさ、感情の起伏のなさが異様に気持ち悪
かった。
交渉ごとにおいてこのようなタイプを相手取るのは初めてだった。
俺の想定している
いずれのパターンにも当てはまらない。俺の掲げる交渉ごとの鉄則
として相手の感情を
引き出すというものがある。
それに倣って小波を刺激してみたのだが一向に反応がない。
﹁その点の判断は私に下せるものではない。お前の正体を知ってど
うするか。それは他の人間
257
が決めることだ。私にお前をどうこうする権限はない﹂
熟考の末、ようやく口を開いた小波がさらに続ける。
﹁それでも私がお前の秘密を暴こうと躍起になったのは能力者の保
護というゴスペルの義務
に従ったまでのことだ。まあ、個人的にイレギュラーを潰しておき
たかったというのも理由
の一つだが﹂
﹁保護、なぁ。それにイレギュラー。確かに間違いじゃないな﹂
1年に2回14∼17歳までの子供は能力者に覚醒しているか、あ
るいは目覚めかけているか
どうかを春と秋に検査される。
その過程を経て転校手続きがなされた後、その子供は能力者の専門
学校に送られるわけだが、
それに当てはまらないケースもごくまれに存在する。
検査時期を外れて急速に能力者に目覚める場合だ。
能力というものは徐々に遺伝子の作りが変化して覚醒に至るのが普
通らしい。
最新の研究によれば安定するまでに半年ほどかかるのが普通なのだ
258
とか。
春と秋、1年に2回の検査がこの時期に行われているのはそれが理
由だ。
しかし、このケースに反して能力者が目覚める場合も稀に存在する。
能力者が生まれる確率は実に2%と大変希少な確率だ。
その中でもそのような事例は珍しいのだが、急速に目覚めた能力者
はまず急激な自己の内面の
変化についていけず、暴走する。
通常長い時間をかけて行われるはずの遺伝子情報の書き換え、脳内
に新たに作られる能力を使用す
るための思考回路の構築。
膨大な処理と情報量に耐え切れずに自我が一時的に失われてしまう。
そうして出てくるのは能力を、新たな力を行使したいという本能染
みた
強い欲望なのだそうだ。
すなわち、暴走。オーバーロードと呼ばれる現象が起こってしまう。
そのような暴走能力者が出てきた場合も対処するのはゴスペル。そ
して保護。
259
ゴスペルはそういう仕事もこなしているわけだ。
稀に期間外に出てくる能力者。俺はこれに該当する。
﹁だが、俺の場合を保護だと全肯定するには首を捻らざるを得ない
な。連行といった方が正しい。
むしろ後半のイレギュラー潰しが本音だろう?﹂
﹁正体不明の能力者がウロついている。危惧しない方がどうかして
いるとは思わないか?
私の判断は妥当なものだったと思っているが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮まあ確かに、な﹂
そういわれてしまえば反論の余地はない。逆の立場ならば俺も恐ら
く同様の判断を下す。
戦術を組み立てる上でイレギュラーというのはどうしても邪魔にな
るものだ。
闖入者が現れたのは膠着状態に陥りかけたそんなときだった。
ハッハッハッハッハッハッという男の大きな野太い笑い声が廊下で
響いたと思えば突然
部屋の扉が開け放たれた。笑い声が一枚分ドアを通したくぐもった
ものから急にクリアな
260
音質に変質する。
入ってきたのはタバコをくわえ、白衣を纏った中年の男。何日も剃
っていないような無精髭が
口元に生えている。
その髪がボサボサの男には見覚えがあった。事件現場で2度。そし
て今。3度目の遭遇。
﹁いやー、流石だわ。なかなかどうして肝っ玉が据わってる。なか
なか大物だねぇ﹂
突然のことにどうすればいいのか判断に迷う。その間も男は我が物
顔で室内を闊歩する。
﹁話してみた感想はどうよ、優?﹂
﹁別にどうも。それよりさっさと本題に入ったらどうだ?角川が待
ちかねているぞ﹂
﹁そかそか、いやー待たせて悪かったなー﹂
気軽な調子で話しかける男を軽く叱責する小波。口調に敬いが一切
ない。
それほど慣れ親しんだ仲ということなのだろうか。
続いて俺に男の視線が移される。
261
﹁さって、自己紹介といこうか。あっ、つっても俺のほうは知って
るからじゃあ俺の自己紹介
だけでいっかー﹂
勝手に話し出した挙句に自己完結。挙動が一々忙しない。白衣から
連想される研究者じみた
落ち着きはまるで目の前の男からは感じられなかった。本当に成人
しているのだろうかと
疑いたくなる。
﹁俺、江崎 名暮。ナイスミドルな35歳。気軽になっちゃんとで
も呼んでくれい!﹂
そこで男┃┃┃┃┃┃江崎は言葉を切るなりビシッとサムズアップ
を俺に突きつけた。
﹁いやですよ﹂
辺りを吹雪が吹き荒れるエフェクトが見えたのは錯覚ではないと思
う。
江崎のギャグが寒すぎた、俺の切り捨てた言葉が冷たかった。原因
はどうでもいいだろう。
その空気を取り繕うように江崎は一つ咳払いした。
262
﹁まあまあ、そういわずに仲良くしようぜ、七音﹂
ポン、と肩に置かれようとした江崎の手を半ば反射的に避ける。ス
カッと江崎の手が宙を切る。
元来引きこもりのようなコミュニティ外のところで生活している俺
にはその馴れ馴れしい態度に
耐性がない。防衛本能というのか、ついつい触れられることを拒ん
でしまう。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
すっと細まった江崎とにらむような俺の視線が交わった。火花は一
瞬。
俺の肩にそーっと伸ばされる手。かわす。続いて時間差で左手。右
手で受け流すように弾く。
ここで江崎の眉尻がピクリと動いた。
シュッと一気に手の動きが早まる。触れられまいと俺も弾く、かわ
す、抵抗。
ビシバシビシバシと気づけば繰り広げられる攻防戦。
﹁初対面で!会うなり!慣れ慣れしく!名前を!呼ばないで!くだ
さいよ!﹂
263
﹁別に!いいじゃん!仲良く!しようっつう!意思表示じゃん!よ
!﹂
気づけば俺は壁際に追い詰められていた。回避の場所をなくして俺
はトンッと飾り気のない
白の壁紙に背をつく。その双肩に成熟しきった大人の両手が体重を
伴ってのしかかる。
目の前には火のついたタバコを加えた無精ひげの中年。
﹁よろしくぅ、な!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮離れてください﹂
正面の視線を堂々と見ることなくそっぽを向いて言い捨てる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ツンデレ?﹂
無言でそのどてっ腹を蹴り飛ばした。
﹁うぉふぉう!!﹂
やや大げさな動作で江崎が床に尻餅をついた。いつの間にかタバコ
は右手に持ち変えられている。
﹁いちちちちち⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
江崎は左手で後頭部をかきながら起き上がった。しかし、その表情
264
に反省の色はなく
相変わらずへらへらとした軽い笑顔が浮かんでいた。
﹁ふざけてばかりいるからそういう目に合う﹂
呆れたように小波が一つため息をついた。江崎はいつもこういう態
度なのだろう。
その様子に蹴り飛ばした俺に驚く様子も咎める様子もなかった。
改めてソファーに腰掛ける。江崎はといえばこの部屋の主の象徴た
るデスクの前の回転イスに
腰掛けている。話を聞けばこのふざけた態度の中年がゴスペル桜森
支部の所長らしい。
このような大人が重職についているこの組織、大丈夫なのだろうか。
とりあえず第一印象からで
はとてもやり手のようなオーラは感じられない。
今だってタバコを片手にイスにすっかり体重を預け、組まれた両足
はデスクの上に投げ出されてい
265
る。その挙動に落ち着きはなく回転椅子の駆動域に任せるまま左へ
右へとゆらゆらその体を揺らし
ていた。
﹁ま、正直な、指摘通りお前が能力者だと証明できる手段はないわ
な、俺らには。
強硬手段に出ればそりゃ暴けたりは出来るかもしれんけど、正直そ
こまでする価値があるかといえ
ば、なぁ?﹂
右へ左へ揺れる体。視線は俺と小波の間を行き来する。会話の合間
を縫うようにして江崎が紫煙
を呼気に交えて吐き出す。白煙はふわりと宙に漂い始めた後、やが
てその密度を失い宙に溶け込ん
だ。それで、と俺は前置いて切り出した。
﹁結局のところ俺をどうしたいんですか?判断はあなたの手に委ね
られているんでしょう?﹂
﹁まままままぁまぁまぁまぁ、そう警戒するなよー。別に取って食
う訳じゃねえんだし。﹂
敵愾心を含んだ俺のセリフを子供っぽいセリフの中に大人特有の余
裕を含ませてサラリと受け流
266
す。狙ってやっているのだろうか。まるで本心が見えない。だとす
ればたいしたものだ。
癖のある男だと俺の嗅覚が告げていた。表面のこの態度は周囲を欺
くブラフ。だと、思う。
そうは考えるものの江崎の態度を目の当たりするとどうもその考え
が揺らいでしまいそうになる
のもまた事実だった。
﹁一つ取引しねーかい?﹂
﹁取引?﹂
﹁そそ﹂
腰に負荷がかかったためか江崎が足を机から下ろし、今度は上体を
デスクに預け、顎をその
硬い路面に乗せた。無論、タバコは加えたままで。
器用にも江崎は手を使わずにタバコを口から吸って、白煙を鼻から
排出した。
ポロポロとタバコから吸った分の灰がデスクの上に零れ落ちた。
それを見て小波が江崎に灰くらい灰皿にちゃんと入れろとたしなめ
るも悪りい悪りい、
267
と軽い調子で謝るだけで反省の様子はまるで見られない。
ああ、本当に⋮⋮⋮。やっぱりこれが演技だというのは俺の考えす
ぎか。
だらしないその態度を見ているとそうとしか思えなくなってくる。
﹁別に七音が能力者だとバラすだとかそういうことで脅すつもりは
ねーよ。お前がもうちょい
頭の抜けた馬鹿だったらその手は使えたかもしれねーけど生憎お前
は優とのやり取りで
お前が能力者だって知ってるヤツが限られてるって知っちまったわ
けだろ?
ネタばらししちまえば知ってんのは俺と優の2人だけなんだけどよ、
ま、それはどうでもいいから一旦部屋の隅へポーイ。﹂
江崎が加えたタバコを上下にブラブラ揺ら
して子供っぽく呟く。また灰が落ちて小波が怪訝な目を向けるも一
向に気にした様子はない。
﹁そーこーでー、取引なわけだー。悪いけど七音、お前のことは調
べさせてもらったのだぜ﹂
フッフッフッと江崎が不敵に笑った。簡単にいってくれているが正
268
直それは洒落にならない。
プライバシーや個人情報が保護されているのはその人間が安心して
暮らすため。
個人情報が握られているというのは気持ちのいいものではない。
その程度で済めばまだいいが下手すれば危害すら及ぶ可能性がある
のだ。
公権力たるゴスペルといえどその可能性は否定できない。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮その個人情報を餌に取引というわけですか。たかが
学生に容赦ありませんね﹂
﹁いやいやいや、確かにそういうこともできっけど俺はんな悪どい
ことするつもりねーよ?
なんせ俺、巷で噂になるほどのジェントルメンだからね?サムライ
スピリッツ!﹂
﹁混合技ですね﹂
﹁和洋・折衷!﹂
﹁必殺技みたいにいわないでください﹂
﹁脇固め!﹂
﹁⋮⋮⋮関節技ですか﹂
269
﹁伝統工芸品!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
いつの間にか始まった問答。流石に付き合いきれず突っ込むのをや
める。が┃┃┃┃┃┃。
﹁︵職人技ですかー︶﹂
﹁何なんですか、もう!﹂
口元に片手を当てて小声でささやきつつ俺に続きを促す江崎に思わ
ずキレて立ち上がった。
江崎はこのやり取りが楽しいのかカラカラと笑っている。そしてう
いしょっという掛け声ととも
に居住まいを直してしっかり席に着いた。どうやらまじめに話をす
る気になったらしい。
ここからが本題ということか。俺もその空気を察知して改めて席に
座りなおして自らの平静
を取り戻すことに努めた。
気づけば時間が大分経過していた。ブラインドの向こうからは夕日
の赤い光が室内に差し込
んできている。デスクの上につみ上がった書類の束が色濃い影を作
270
り出し、部屋の隅に設置さ
れた書類棚のガラス戸が陽の光を反射して煌く。
鉢に収まった観葉植物はきつい西日を受けているがそれでもそれが
自らの存在意義であると
いわんばかりに萎れず、背を決して縮めずに堂々と植わっている。
﹁スカウトだよ﹂
﹁スカウト?﹂
仕切りなおし。江崎が一石を投じる。そのときの江崎の表情はどの
ようなものか俺の方からは
逆行になって目元を窺い知ることはできず、見えたのは何かを企む
ような口元に浮かんだ笑みと
つりあがった口角だけだった。
﹁角川 七音。8年前に兄、角川 華音と死に別れる。公式の発表
では角川 華音は中央研究所
襲撃の首謀者の一人とされその事件の際に死亡。その死をきっかけ
にふさぎこむようになり、
また外でもいじめを受けるようになった。しかしそれを次第に克服。
そして中学1年のころ
271
ある一つの事件に巻き込まれ┃┃┃┃┃┃いや、これについて話す
のはやめとこう。
その事件以降周囲への敵意はさらに強いものになっていくことにな
る。﹂
江崎は俺の経歴を詳細に語りだす。そのどれもが正しいもので、江
崎の口から語られるたび
に一つ、また一つと脳裏を走馬灯のように記憶が駆け巡っていく。
そのどれもが俺のふさがったはずの傷をなでていき、うずかせた。
俺の人生は決して自慢のできない草木の枯れてできた砂漠のように
荒んだ人生だ。
聞く人間が聞けばそんなもの誰だって同じで誰もが苦労して生きて
いるのだというのだろう。
それでも分かって欲しいのはとりあえずそう感じる程度にはまっす
ぐに育たなかったということ
だ。歪んで、ひん曲がって性根の腐りきった人間。
少なくとも世間で言ういい子、とはかけ離れているとは思う。それ
が自分に下す自分の客観的な
評価だ。
﹁この時期、お前は一つの決意を固めて始めたことがある。兄であ
272
る角川 華音の死の真相
および中央研襲撃事件の調査。当時の政府の背景、研究所での研究
内容、存在した反対組織の
情報。あらゆる面から検証するも未だ確信にも至らないまま。そし
て同時期、そのストレスを
ぶつけるかのように角川 七音は﹃悪﹄を狩るような行動に出る。
発想そのものは子供の考えるものだ。こういう風に聞いただけじゃ
ただの中二病こじらせたガキ
なわけだがお前には決定的に違う点があった。短い人生の間に刻ま
れた二つののトラウマ。
兄貴が死んだこと。そしておまえ自身に降りかかったあの事件。そ
れによって培った度胸、覚悟
胆力。さらに才能か努力の成果か、並みの学生どころか頭のキレる
大人をも軽く凌駕するその
頭脳。世界が憎い。その想いからお前は自らの力を存分に振るった。
主な対象となったのは差別を謳う人種。そこに年齢や職業性別など
のくくりはない。
どんな権力にも屈さず、物怖じせず、世界の理を否定するかのよう
に法で
273
裁けない悪すらもお前は裁いて見せた。
こういえばお前は怒るかもしれねーけど、結果的にその行動は善行
と取れないこともなかった。
そのためにお前自身法を犯すこともあったみてーだな。
学生とは思えない並外れた頭脳を駆使してそれぞれを社会的に抹殺、
あるいは物理的に
制裁。
駒となる協力者の存在なくして独力でやり遂げた点は驚嘆に値する。
かつ、その正体を
誰にも悟らせることはなかった。これが高校1年の夏頃まで続く。
が、一つの転機が
訪れる。この時期お前は一人の協力者を得て一つの不良集団を壊滅
させる。
そしてこれ以降、角川 七音は﹃悪意狩り﹄をやめて特に波立った
事はなく平穏な毎日を送る。
で、今に至って久しぶりに巻き込まれた荒事があれとかあの事件、
と、これは説明
する必要はないわな﹂
江崎による俺の人生波乱万丈劇が終わる。こうして客の立場として
274
聞かされてみれば自分も
中々にハードモードな人生を送っていると思えた。苦労は比べられ
るものではないのだろうが
少なくともこうして自分の歩んできた人生を聞かされてもう一度歩
んでみたいかと聞かれれば
答えはNOだ。俺がどういう思いでどのような行動に出た等の独自
解釈
が加わったりはしているのが気に食わないが概ねそれらは間違って
いない。
それが自分の考えていることが見透かされているようでさらに気に
食わなくもあるのだが。
﹁よく調べられていますね。さすがゴスペル。俺のそういうこと、
絶対にばれないように細心
の注意を払ったんですけどね。現に今まで誰にもバレることなく平
穏に過ごせてきたわけです
し﹂
﹁そうでなかったらお前はこんなとこで暢気に学生なんてやってら
れねーよな。お前の買ってる
恨み、相当なもんだろ。ま、俺らだってここまで情報引き出すの大
分苦労したぜ?
275
なんせ興信所だとか親類縁者に聞き込んで手に入る情報じゃねえも
ん。そんときの情勢だとか
新聞だとかである程度当たりをつけてくとかで何とか分かったって
感じ。後はゴスペル特有の
ゴニョゴニョゴニョ⋮⋮﹂
﹁知ってますよ。ゴスペルの情報処理能力は嫌というほどね。実に
優秀で部外者の手の出しにく
い組織だ。お陰で俺の調べごとも滞ったままです。兄さんがゴスペ
ルと何らかの関わりを持って
いたことまでは分かりましたがそこから先に進めないまま。どうす
るか現在進行形で悩み中。
思春期の可愛い憂いごとですよ﹂
﹁そう。正にそこだ﹂
江崎が的を射たというように俺の婉曲的で冗談めかした戯言に反応
した。意図せずして俺は
江崎のいいたいことの本質を突いたようだ。
﹁部外者ならダメ。ならいっそのこと部内者、関係者になってみる
つもり、なーい?﹂
276
﹁⋮⋮⋮⋮なるほど﹂
取引。そういう意味、か。俺がゴスペルに協力する。
見返りとして俺は俺の求める情報を、ゴスペルの関係者としてしか
しること
のできない情報を提供する。
これが江崎のいう取引。
おいしい話だ、とは思う。
ただデメリットを考えるなら自分が何をさせられるか分からない、
もしかしたら危険な目にあうかもしれないということか。
﹁仮に俺が協力者になったとして﹂
種々の可能性を考慮して俺は契約の確認をする。後で騙されたと騒
いでもどうにもならない。
この選択は自己責任なのだから。
﹁一体俺は何をさせられるんですか?﹂
﹁そうさなぁ、とりあえずお前の長所である頭を活かすってことで
作戦立案だろ。
後は現場指揮だな。現場指揮つってもそんな大人数操るわけじゃな
277
くて、要は優の補佐役に
回って欲しいんだわ。﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮つまり?﹂
﹁まあ、平たく言えば優のパートナーになってくんねぇかな、って
こと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ふむ﹂
俺に一連の事件のような役回りをしろというわけか。当然危険も孕
んでくる。怪我では済まされ
ないケースもあるわけだ。さらに小波との協力。正直なところ俺は
この女との性格に折り合い
をつけられそうにないのだがその戦闘力だけは信頼が置けると思う。
身に迫るであろう危険とそれによって手に入る情報というメリット
を両天秤にかける。
迷い、戸惑い。しばらく左右をいったりきたりして揺らぎを見せた
ものの、俺の意思が選択
を後押しして天秤の傾きを決定付けた。
あの日、俺は兄さんの真相を追うと決めた。
兄さんを否定した世界を否定したい。兄さんが決して犯罪者でなか
278
ったことを信じたい。
空っぽだった俺が考えた生きる目的。
その決意は今も俺の中でゆるぎなく、力強く息づいている。
消えない想いが俺の中でメラメラと燃え上がっている。必ずやり遂
げるという信念にも似た執念
行き詰った現状。それを打破する手段が向こうから降って沸いてき
た。
おそらくこれも一つの転機なのだと思う。
運命の女神の提示した二者択一の選択。誰かが決めることではない。
誰でもない自らの決めるこ
と。未来や運命は決められるものではない。自分で決めるものなの
だ。
だとするならばここがきっと運命の交差点。
﹁っていっても強制はしねーし?今ここで決めろともいわねーよ?
なんせ大っ事∼な選択だから
なぁ。危険な目にもあうことに┃┃┃┃┃┃﹂
﹁いいでしょう。引き受けます﹂
承諾の旨を伝えると江崎はおっ、と意外そうな反応をした。眉尻を
279
上げて表情に如実に驚き
が表れている。手に持っていたタバコの先端から燃え尽きた灰がポ
ロリとひとかけら落ちた。
灰皿を外れてデスクの上に散らばる。
﹁意外だなぁ∼。お前ならもっと深く考えてから結論出しそうなも
のだと思ったんだけどな。﹂
﹁意外と運命だとか流れだとかそういうオカルトを信じる性質なん
ですよ、俺は。求める
情報を得る機会が向こうから勝手に俺のほうに転がってきた。なら
それに乗ってみるのも
一興かと思いまして﹂
﹁⋮⋮⋮そこに身を滅ぼすような危険があったとしても?﹂
﹁多少の無茶は承知の上です。リスクなくしてリターンは見込めな
い。俺はそう考えていますか
ら﹂
そこに果たしてどんな真意があったのかは分からない。江崎はどこ
か満たされた顔で笑っていた
これから何が起こるのかはわからない。江崎の言うとおりに自分が
死の淵に立たされる可能性
280
だってあるだろう。そうなったとしても俺は今このときの選択を後
悔しない。
その自信は揺らがない。いつだって俺は自分だけは信じてやると決
めている。
他者は裏切っても自分だけは絶対に裏切ることはない。
この世で裏切らないただ一つの存在。それを信じてやらずにどうす
るというのだ。
了承ということで話はまとまりかけていた。が、そこに不満げな顔
をしているのが一人いた。
﹁なんだ、優。不満そうだな。七音がゴスペルに入んのはいやか?﹂
﹁⋮⋮いや、それがお前の決定だというのであれば私は従うまでだ。
ただ、私の個人的な意見を言わせてもらうならばあくまで民間人を、
それも学生を巻き込むのは反対だな。
同じような年齢の私が言っても説得力はないのだろうが﹂
﹁そう思うんなら、お前が守ってやればいい﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
アラウンズの一角を占める小波 優。
281
ここでひとつアラウンズについての補足をしておこう。
ゴスペルに所属している能力者というのは諸所に配置されるわけだが
いかんせんその能力者の数自体出生率の2%と圧倒的に少ない。
その中でもゴスペルに入る人間は限られるわけなので数は
さらに絞られることとなるわけだがその人数をどうにか割り振りして
要所要所に配置している。
全国的にゴスペルの能力者は固まらないように点在しているわけだ
が特例も
ある。
隣町の安塚市には今現在日本で最先端をいく能力研究が行われている
中央研究所がある。
世論は今能力の使用を奨励する革新派とそれを否定する保守派に分
かれて
いる。
これは能力というものが認知された数十年前から起こり始めた争いな
わけだが、この中央研究所というのはいわばこの保守派の象徴だ。
282
ゆえに襲撃される可能性が十分に考えられ、警備体制も磐石。
数少ないであろう能力者の数を割いて7人もの能力者が配備されて
いる。
一人で一つの街、地域を担当するのが普通であるとされている警備
基準
からいえばこれは異常に部類されるであろう。
さらにこの安塚の警備を厳重なものにするために桜森、葉仙、
秋峰、雪元の周辺4市
にも一人ずつ能力者が配備された。
重要拠点を取り囲むように配置された、ゆえにその名をアラウンズ。
これに選ばれる者は相応の実力者だ。
その職務をこなす小波の実力は推して知るべし。
実際に小波の実力を目の当たりにした俺も素直に頷けるというもの
だ。
そこに突然パートナーをつけるという。
良かれ悪かれ、何にしろその胸中は複雑だろう。
283
だから俺は
﹁割り切れよ、小波 優。上司の命令には従うんだろう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮何﹂
﹁お前は俺を使い勝手のいい道具程度に思っておけばいい。
その代わり俺もお前を人間とは思わない。
精々が俺の都合のいいように動く人形だ。
使うだけ使ってもう使えないと思ったらボロ雑巾のように捨ててや
る。
その程度の関係がちょうどいいだろう?俺たちは﹂
俺は小波の神経を逆なでするような言葉をわざわざ選んで挑発した。
自分から嫌われるように。
その方が後腐れがないから。
人間関係に気を配って気疲れする必要がないから。
それにどうせこんなことをいっても何の反応がないだろうともたかを
くくっていた。
そして俺はさらに増長するように言葉を継ぐ。
284
﹁もっとも、いわれなくてもそれくらいわかっているだろう?
お前のように機械的な思考で動く人間はそれが一番合理的であると。
はは、まったくうらやましい。
そんな冷徹な思考が俺も欲しいもんだ。一体どうすればそこまで自
分って
やつを殺せるんだ?教えてくれよ、小波﹂
嘲笑するように、いった。どうせリアクションは大したものではな
い。
何事にも無感情無反応な小波 優。
そんな俺の認識はどうやら間違っていたらしいと否定せしめる
ようなことが起こった。
いつものように虚ろに白んだ目で虚空の一点を眺めていた小波 優
の目に
突然光が灯ったような気がした。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮私が、うらやましいだと?ふざけるな!!﹂
そういって小波は俊敏に立ち上がり、一息に背の低い木造の机を
285
乗り越えて俺の眼前に迫った。
思わぬ反応に驚き、一瞬、息が詰まったように停止した。
咄嗟のことに反応できず直前の小波をせせら笑う表情を
顔に貼り付けた俺の胸倉を小波が片手で強引に引っつかみ顔を付き
合わせる。
間近にあるその端正な顔にわずかながら表れるは激昂。
黒い真珠のように輝く瞳の奥には静かな青い炎がゆらゆらとゆれて
いる。
そこにチラリと混じる赤が今の小波を表しているのだろうか。
﹁私は好きでこのような性格をしているわけではない。
人と会話してどういう反応をすればいいか分からない。
どう接すればいいのか分からない。
お前のように知っていてやらないのとは違う。知らないから、でき
ないのだ。
それを、うらやましいだと?馬鹿にするな!!﹂
ひとしきりいいたいことをいったあとで再度の激昂。
そのまま俺の体は突き飛ばされるようにしてソファーに投げ出され
286
た。
小波は 最後に俺をその怒りの篭った目で一瞥して部屋を出て行っ
た。
バタン、とやけに大きくドアを閉める音が響いた。
何が起こったかを理解するのには時間を要した。
そんな俺の思考の渦を断ち切ったのはまたしても江崎の豪快な笑い
声だった。
﹁正解正解大正解。や∼っぱお前を選んで正解だわ、七音﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮今のやりとりのどこにそんな要素が?﹂
﹁うんにゃ、七音は気にしなくていいぜ。こっちの話だから﹂
クックックッ、と今度は含むようなおかしさをこらえるかのような
笑い方
だった。
﹁そういえば江崎さん。あなたと小波はどういう関係なんですか?
一見してただの上司と部下であるようには思えませんでしたが﹂
くだけた江崎の口調はともかく他者への礼儀を損なわないであろう
小波が
287
ただの他人にあれだけぞんざいな態度を示すとは思えなかった。
2人の関係を訝ってしまうのも致し方ないだろう。
﹁知りたい?﹂
﹁差し支えなければ﹂
﹁親子だよ。ちょいとわけありの、な﹂
江崎は薄く笑って口から微かな笑い声を漏らした。陰のある笑顔だ
った。
江崎はそこでもうほぼ吸い終わりのタバコの先端を灰皿に押し付け
て火を
消してごく自然な吸いなれた者の動作で2本目を取り出して
火をつけて一息吐き出した。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮確認すっけど、とりあえずお前はゴスペルに入るっ
てこと
でいいんだよな?﹂
﹁ええ、入るといった以上煮るなり焼くなり好きにしてください。
ある程度の指示には従いますよ﹂
﹁ある程度って?﹂
288
﹁俺の気分を害さない程度です。従いたくないと感じれば従いませ
ん﹂
﹁俺もとんだ跳ねっ返りを入れちまったもんだ﹂
自嘲するように再び乾いた笑いを江崎は紫煙とともに口から吐き出
した。
﹁ところで、具体的に活動する前にお前に一つ聞いてもらいたい話が
あんだよ。優のことなんだけどな﹂
﹁小波、ですか﹂
﹁ああ、お前気になったりはしてねーか?何で優がゴスペルの仕事に
専念せずに学生やってるかってこと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうですね、それは気になっていました﹂
ゴスペルの仕事はそれなりの忙しさを伴うだろう。
荒事の処理の渦中に自ら身を投じる
アラウンズならば日夜の訓練はきっと欠かせない。
その時間を削って学校に通う理由。考えても俺の頭では結論に至ら
なかった。
289
﹁優は、少し特殊な育ち方をしてな。
教育は受けてたんだけど学校には通ってなかったんよ。
来る日も来る日も勉強と戦闘訓練。まあ、原因は色々あっけど
ともあれあんな性格に育っちまったわけだ。
けど、本人は希望もなくそれでいいって満足してたみたいなんだよ。
学校に行く必要はないって。
けどな、名暮さん思ったよ。どうにかせんといかん。
娘を想う親として、こんな灰色の青春を年頃の娘に送らせて果たして
いいものか!﹂
ダンッ、と江崎は拳をデスクに叩き付けた。すぐさま痛がった。
やらなければよかったものを⋮⋮⋮。
赤くなった拳にフーッフーッと息を吹きかけながら江崎は続けた。
﹁と、いうわけで高校に入れてみたわけよ。まぁ、そのことを最初
あいつにいったら嫌そうな顔されたけどな。
でもなんだかんだであいつ俺のいうこと
290
割と聞くからちゃんと従ってはくれたな、うん。
そんで俺が優に何を望んでいるかって言うとだな、
人生を楽しめるようになって欲しいわけよ。
もっというなら人間らしさを手に入れて欲しいんよ﹂
突然何を話し始めるのかとあっけに取られていた俺はどう返せばい
いか
分からず曖昧な反応を返すのが精一杯だった。
ため息を交えて江崎に言葉のボールを投げ返す。
﹁はぁ、そうですか。で、それを俺に聞かせてどうしろっていうん
ですか?
いっておきますけどそれに協力しろっていう提案なら却下しますか
らね。
正直に言って俺は小波が嫌いです。
プライベートで付き合う気はまったくありません﹂
﹁いんやー、そんなつもりは毛頭ねえよ。むしろ止めて欲しいくら
いだ。
お前には自然体でいて欲しいもん。
291
別に他意があってこのことを話したわけじゃねぇ。
ただ俺はこういう考えだってことを知ってほしかっただけよん。
分かる?この親心﹂
﹁⋮⋮⋮生憎と子供を持ったことがないのでその心境は如何せん理解
できませんね﹂
﹁そりゃそうだ。その歳でお前がパパとか呼ばれてたら俺もびっく
りだわ﹂
顔をクシャリとゆがませて江崎が少年のようにカラカラと笑った。
小波とはとても似つかない表情豊かな男だった。
親子という関係性が不振に思えるほどに。
恐らくはそれが江崎の言ったわけありに直結するのかもしれない。
人間としてどこかが歪んでいる。
小波と事件現場で初めて対面したときに俺は自分と似たような何かを
小波から感じ取った。
シンパシーというのか、それは恐らく小波も同じだったと思う。
その歪みがあれなのだろうか。極端な非人間的無感情。
292
喜怒哀楽を表に出せない。
他者とのコミュニケーションを自ら取ろうと思えない。
あくまで自分に必要か不必要かの
合理的判断のみで生きていく。でもあいつはさっき┃┃┃┃┃┃
︵怒った、よな︶
あのときの小波の瞳には普段見るものとは違う生気が宿っていたよ
うに思う。
いうなれば人間らしさ。
そのわずかな一瞬、俺は確かに人間と触れ合っていたように思えた。
﹁んじゃあ、俺の話はこれで終わりっ。仕事についてだとかは追って
連絡すっから。ビシバシいくぜ∼。覚悟しとけよ∼ん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮お手柔らかに﹂
江崎と連絡先の交換をして俺は部屋を出た。
日常は非日常に飲み込まれた。
これはその第一歩目。
293
かくして俺は闘争の渦に巻き込まれていく。
この選択が後にどういう結末をもたらすか知らぬままに。
294
第4話∼江崎名暮の見解∼
﹁そこの路地を右。そのまま地下駐車場に入ってくれ俺の予想通り
なら
もうすぐそこに犯人グループが現れるはずだ﹂
﹁了解﹂
直後、通信機の向こうで大きな音。戦闘が始まったようだ。
そこに待ち伏せされているとは思っていなかったためか犯人グルー
プの
野太い狼狽する声が聞こえる。
犯人の抵抗が始まる。声に続く発砲音。
場所が地下であるためかその音は増幅されてただでさえ大きい音が
鼓膜を余計に刺激する。
あまりに音が大きすぎるため、集音性の高いマイクに時折ノイズが
混じる。
直に、地力の差が表れ、男の呻き声が一つ、二つ。
人体が地面や車に叩きつけられる音。
295
今回小波は銃を使用していない。
小波の能力ならば無闇やたらに銃を使うよりもそっちの方が無能力
者の
無力化には都合がいい。
それでも相手が銃を用いていることを考えれば並大抵の体術で対応
できないのも確かだ。
確かな裏打ちのある実力。
アラウンズの一角たる小波 優は今存分にその力を振るっていた。
体格差のあるであろう相手を俊敏な動きで翻弄して決してその動きを
捉えさせない。
死角外からの一撃は相手に気づかせず。
その能力ゆえにガードは不可能。
触れただけで不思議なほど体は制御を失い、宙を舞う。
男に向けられたフックのようの一撃はわき腹に突き刺さり、
まるで鈍器で殴りつけるかのような低く、鈍重な音。続いてドサリ、
と
296
人体が崩れ落ちていく。
一人、二人と打ち倒されていく中、荒げたようなドスの効いた声が
一つ
響き渡った。
﹁動くんじゃねぇ!それ以上動くとこいつがどうなっても知らねぇ
ぞ!﹂
リーダー格と思しき男が警備員の中年の男性の首もとに刃渡りの長い
ナイフを突きつけていた。
地下に備え付けられた防犯カメラ越しに俺は状況を見守る。
警備員の男性は目の前のナイフに命の危機を感じてひどくおびえた
表情を
していた。
﹁どうするよ、七音?このままじゃピーンチ、だぜ?﹂
﹁心配は要りません。小波、そいつは無視していい。捕縛を続けろ。
﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮人質を見捨てろというのか?﹂
﹁いや、そんなことをいうほど俺も外道じゃないさ。結論から言お
297
う。
そいつは人質でもなんでもない﹂
﹁⋮⋮⋮なるほど﹂
それだけで小波は俺が何をいわんとしているか察してくれたらしい。
小波はすぐさま戦闘の続行に移った。
予想外のことに男は狼狽するが、激情して人質に傷をつける気配は
ない。
リーダーを守るようにして立ちふさがった男達を小波は瞬く間に地
に沈
めていく。
ストップ&ダッシュ。緩急をつけた小波の動きにタイミングを外さ
れて
男の横なぎに払われたナイフが空を切る。
その隙に乗じて男のナイフを持った腕の外側に回りこんだ小波が軽
くな
でるようにその肩口に手を置く。
男の体が半回転。
298
下を向いた男の頭を小波がそのまま肩口の服を引っつかみ重力の力
も借
りてアスファルトに叩きつける。
男の意識は一瞬で刈り取られた。
アスファルトにひびが入ったかのような、そんな錯覚すら抱いてし
まう
ほどダイナミックな一撃だった。
続く、2人目が男を倒した直後の隙をついて小波の背後から迫る。
警棒を持って小波の首を絡めとろうと両腕を回す。
それを察知した小波は身を屈めて逆に反撃に転じ、体を半回転させて
男の足を払って転ばせる。
自分の攻撃の空振りも相まって体勢を崩した男の体がさらに崩れる。
背中から男が地に倒れこみ、その頭が地に触れる瞬間、立ち上がった
小波がその首もと付近に蹴りを放つ。
空ぶっていたかのように見えたそれはその実小波の狙い通りにヒッ
トし
ていたらしい。
299
掠めるようにそれでもしっかりと顎をとらえたその蹴りは男を無力
化。
倒れた男の体はピクリとも動かなかった。
﹁あー、俺にもわかってきたわ。もしかしてそういうオチ?﹂
﹁ええ、そういうオチです。犯人が立てこもっている際に人質が一
人い
るという話でしたが犯人は逃走経路であるこの地点までごく短時間で
やってきました。
人一人を抱えた状態では考えられないような速度。
仮に脅されていたとはいえ、人質がそこまで全力で走れるものでし
ょう
か。
恐怖に駆られた極限状態で、さらに犯人の拘束を受けた状態で。
考えられるのは人質はもともと人質ではなく強盗犯の一味であった
こと。
そして移動中は拘束を解かれてあった、です﹂
その推論を裏付けるかのようにリーダー格の男に刃物を突きつけら
300
れて
いた男が突然敵意をむき出しにして牙を剥いた。
警備員服の腰元からスッと警棒を抜き取って小波に振りかぶる。
正中線めがけて振り下ろされたそれを一歩距離をとって紙一重で避
ける。
チェンジオブペース。
振り下ろされた凶器が振り終わるのを待って、その瞬間に小波は前へ
ゆらりとした回避動作から雷のごとき前進動作へと切り替える。
手首を返してなお小波に逆袈裟気味に警棒を振るおうとした男の手に
小波がスッと手を添えた。
人体力学上ありえない動きで男の体が宙を舞う。
出力は抑えたのだろう。
男の意識はまだ残ったままだ。
それは計算ずくの、次打の布石となる一撃。
小波は力強く一歩をダンッと踏みしめて全体重を預けた一撃を宙に
浮か
301
ぶ男のどてっ腹に叩き込む。
先行する体に遅れるようについてきた右腕が男の腹部に嫌な音を立
てて
めり込んだ。
受けた男の表情が苦痛に歪み肺から空気がもれ出る。
まるで体内から何かを搾り出すように小波の握りこぶしは男の腹部
に埋
まっていく。
全てがスローモーションになったその一瞬。
とうとうその反発を受けて男の体が跳ね飛んでいく。
その先には先ほどまで人質を抱きこんでいたリーダー格の男。
全ては一瞬だった。
先に襲い掛かった男に続いて自身も小波に襲いかかろうとしていたの
だろう。
その予想は一転して覆され、リーダー格の男には先行した男が自身
を襲う
障害と化すなど予想できなかった。
302
不意をつかれた男は思わず男を受け止める形となった。
受け止めた勢いのまま男は数歩後ろに下がった後でしりもちを
つく。
その拍子に取り落としたナイフが綺麗に舗装されたアスファルトの
床をカラカラと音を立てて回転しながら滑っていく。
小波が目元にかかった髪を頭をひと振りしてうっとうしそうに左右に
振り払った。
﹁大人しく着いてきてもらおうか﹂
﹁ぐっ⋮⋮⋮くそがっ⋮⋮⋮⋮!!﹂
リーダー格の男が歯噛みして悔しがるも自身の敗北を悟ってか抵抗
する
素振りはない。
江崎の指示を受けて地下駐車場に次々とゴスペルの人員が投入され
る。
事態は無事収束に向かった。
303
﹁いやー、なかなかの手腕じゃねーの、七音﹂
﹁いつ失敗するかドキドキものでしたよ﹂
﹁ぬかせ﹂
笑いながら江崎が俺のわき腹を肘で小突く。
意外と強いその一撃に少し眉をしかめる。
小さい事件から大きい事件まで、ここ最近はことあるごとに呼び出
しを
受けて解決に協力した。
俺の実験期間ということもあってかゴスペルの担当範囲外であるは
ずの
単なる傷害事件にまで介入している。
今回もその一件で銀行に立てこもった強盗事件を担当した。
ポジション的には参謀。
実質的な責任者である江崎に意見を述べて江崎がそれを参考にして
304
指示
を出す。
とはいえ、作戦を立てたのは全て俺なので失敗すれば責任の追及は
間違いなく俺が被ることになる。
そういうポジションに置いたのは間違いなく俺を試すためだ。
そしてどうやら俺はその期待に応えることができたらしい。
犠牲者はなく、事件は無事に解決という形で幕を閉じた。
江崎はその結果に大分満足そうでさきほどからニヤニヤと頬が
緩みっぱなしだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮気持ち悪いです。こっちを見ないでください﹂
﹁照れるなよう。ほめてんだから﹂
﹁照れてません﹂
﹁やー、もう七音ってばやーっぱツンデレだなぁ﹂
そっぽを向いて視線を反らした俺の態度をそのように取られるのは
不快
だったが突っ込むとさらに泥沼にはまりそうで怖い。
305
なにぶん、江崎の性格は癖が強い。
そのせいか俺はどうにもうまく折り合いがつけられずこの江崎とい
う男に
小波とは別種の嫌悪を抱いている。
その構築した壁すらも江崎の独自解釈によって踏み荒らされて俺の
ほうへ
侵入してこようとしてくるのでなおさら性質が悪い。
﹁そういや、今回も連携ばっちりだったな﹂
﹁何のことですか﹂
﹁決まってんだろー。優との、だよ﹂
いしんでんしーん、と隣で戯言をほざく江崎。
今日の締め、事件の幕引きは小波の手によって行われたわけだが、
その
作戦を提案したのは俺だった。
セオリーとしては待ち伏せ地点に大人数を配置しておくのだろうが
敵にも
味方にも被害者は出したくない。
306
さらにいえば大人数を地下駐車場という狭い範囲に展開すれば身動
きが
取れない。
理想は少人数による制圧。
その点で戦力的に理想的だったのが小波だったという
それだけの話だ。
事件の最後、臨時的に俺は指揮権を江崎に渡されていたわけだが、
そのときに小波に出した指示のやり取りを指しているのだろう。
人質に対するたいした説明もせずに小波に意図は伝わった。
﹁相性バッチリなんじゃない?お前ら﹂
﹁プライベートではまったく相性がかみ合いませんけどね﹂
﹁んー、やっぱ優のこと、嫌い?﹂
ふっ、と息を噴出すようにして俺は笑った。
﹁愚問ですね﹂
これ以上話すことは何もない。そう思い俺は江崎に背を向けて距離を
307
置いた。
﹁こりゃまだまだ道のりは遠い、かな﹂
江崎が捨て台詞のように呟いた言葉は俺の耳に届くことはなかった。
308
第4話︱︱ランチタイムのプレデタ︱︱︱
その日は母さんがたまたま寝坊をして弁当がなかった日のことだっ
た。
いつものごとく教室を出て行った五反田を追いかけるような形で俺
は席を
立ち、購買へ向かった。
無論、昼食の調達のためだ。
とはいえ、混雑が苦手な俺はわざとゆっくりとした足取りで歩く。
学校中が昼時特有のざわめきと食べ物の匂いで満たされていた。
廊下を歩きながら少し教室の中を覗けば机の上に弁当を広げている
様が
見受けられ、反対側の窓の外を見遣れば友人同士でベンチに腰掛けて
笑顔で会話を交わしながら昼食をつつくのが視界に入った。
冷めた目でその光景を眺めながら廊下を歩く道すがら、前の方から
うんざりとするほど見覚えのある男子生徒が歩いてくるのが見えた。
309
両手にはたんまりと戦利品を抱えている。
五反田だ。
﹁よう、七音。今日はどした?いつもならもう教室で弁当広げてん
じゃん﹂
﹁今日はたまたま弁当がないんだよ。だからこれから購買に
買いに行くところだ﹂
﹁はー、珍しいな。あ、そうだ。よかったらこれ食わねえ?﹂
そういって五反田は自分の腕に抱えているビニール包装の食べ物の
山を
指し示した。
﹁これおばちゃんに消費期限近いからって格安で譲ってもらったん
だよ。
一人じゃとても食いきれなくてさ﹂
﹁食べきれないなら何故買ったんだ﹂
﹁安いって聞くとどうしても買いたくなんねーか?﹂
いや、そこは期限内に買ったものを食べきれるかどうか自分と
310
相談するのが筋だと思うのだが俺のそんな考え方は少数派なのだろ
うか。
ひとえに考え方と価値観の違いか。
﹁っつーわけで、これよかったらやるよ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
器用に袋の一つをつかんで片手を差し出したままニカッと笑って
固まる五反田に俺は閉口する。
まぶしくて思わず目を瞑りたくなってしまう。
そのまっすぐに向けられた善意に。
けれどもそこで目を瞑りたくなるということはひとえに俺が
素直な人間ではないということの証明足りえるわけで。
﹁⋮⋮⋮⋮なぜ﹂
ゆえに、そんなことはないと思いつつもどこかで疑ってしまうのだ。
その施しや優しさが罠なのではないのかと。
思わず口からこぼれたのは行動の根拠を求める疑問詞だった。
﹁うーん、何でっていわれてもな。日頃のお礼?﹂
311
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁うまくいえねえけど七音いっつもなんだかんだで俺のこと
色々助けてくれてんじゃん﹂
﹁別に助けているつもりなど┃┃┃┃┃﹂
﹁まあ、お前はそういうんだろうけど﹂
俺の反論を五反田は無理やりに遮る。
俺がどういう反論を繰り出してくるか計算していたらしい。
五反田の癖に。
﹁だからほら、なんかされているだけってのは気持ち悪いわけよ。
俺からなんかしてやりたいって思うわけ。
なんつうんだっけ、こういうの。あー、出てこねえ!﹂
﹁ギブアンドテイクか?﹂
﹁そう、それだ!﹂
得たり、と五反田の苦悶に歪んだ表情がパッと明るくなる。
助け舟はどうやら的を射ていたらしい
312
慣れない論理を展開して結論を導き出した五反田が
再び手にあるビニールを俺に突き出した。
手先にぶら下がる善意の代替物。あるいは善意そのもの。
﹁だから、やるよ﹂
その善意を改めて見遣る。やはり俺にとっては眩しいものだった。
﹁いらない﹂
それを受け取ってしまえばその光はきっと霞んでしまう。
だって受け取るのは俺だから。
常に打算的に物事を考える純粋や無垢とは百光年かけ離れた俺だか
ら。
理性が受け取ることを頑なに拒絶した。
本能ではなく、理性。
だから相応の理由付け。
五反田を論理的にはじき出すべく声帯が脳の思考をトレース
して動き出す。
313
﹁ギブアンドテイクだというならばなおさら受け取れないな。
お前が俺の行動をどう受け止めようが俺にお前に親切をしてやった
という
自覚はない。
そんな俺にとって施しを受ける理由はどこにもないからな。
一つ結論として言葉を述べるならばタダより高いものはない。
これに尽きる﹂
五反田のように本能や直感で受け取る人間からすればこの場で
親切を拒む理由はついぞ思いつかないだろう。
場合によっては怒ってもおかしくはないが、なにぶん五反田との
付き合いはそこそこに長い。
﹁ん、そっか。わかった。﹂
いっていることや行動原理は分からないにしても俺のそんな面倒く
さい
人間性は分かっているからか、五反田は大人しく引き下がった。
残念、や浮かばれないといった面持ちは微塵もない。
314
相手が俺だからこういうことだってあると完全に納得しているような
様子だ。
﹁じゃ、先に教室に戻ってるぜ。早く戻って来いよ﹂
﹁ああ﹂
そういってすれ違って数歩歩き出したときだった。背中からもう一度
五反田が俺を呼ぶ声が聞こえた。
億劫な面持ちで俺が振り向く。
﹁お前やっぱ優しいよな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮流行っているのか、それは﹂
ワハハハハ、とそういったきり五反田はいつものあほ面で笑いながら
教室に駆け込んでいった。
優しい。さきほどのどこにそんな要素があったか皆目見当がつかな
い。
パンを受け取らないその行為のどこを五反田は優しさと解釈したの
か。
馬鹿の考えることは時々分からない。そして馬鹿といえば、だ。
315
もう一人、五反田の最後に行った台詞と同じことをいったヤツを思
い出
す。
﹁俺が優しい、ね。俺の周囲にいるのはバカばっかか﹂
昼休みの喧騒に包まれた廊下で俺はひとりごちる。
ばかばっか、ばかばっか。なんとなく響きが気に入ってしまい
毒づくように俺は内心で繰り返し続けながら俺は購買の方へ向かっ
た。
しかし、話はこれで終わりではなかった。
ゆったりと購買部に向かい、あまりものの菓子パン数個と
飲み物を抱えて教室に戻ったときのことだった。
何というか、俺の席が侵略されていた。
﹁あ、おかえりなさい、角川くん﹂
316
﹁な、七音菓子パン買ってきたろ?俺の勝ちぃ!﹂
﹁むぅ⋮⋮⋮⋮外れたか﹂
さらにいうなら侵略者の一人がこっちにこいと
俺を手招きしていると補足するべきか。まるで異次元空間。
これは、なんなんだ⋮⋮⋮。
げんなりする俺をそれでも脳にインプットされていた自席にもどる
という
命令が体を動かす。忌避感はあるもののしかたなしに俺は席につい
た。
﹁じゃあ、食べよっか﹂
﹁待て﹂
﹁んだよ、七音ー。さんざん待ってたんだからもう食おうぜー﹂
﹁黙れ。まずなによりお前に説明義務があるだろう。
なぜ帰ってきたらお前が不二家と小波の二人と暢気に談笑している
んだ﹂
﹁小波ー、かけは俺の勝ちだからな忘れんなよ﹂
﹁アスパラのベーコン巻きでいいだろうか﹂
317
﹁くるしゅうない﹂
そのまま、五反田と小波は食事にとりかかる。
これではまるで俺が空気を読めていない人間のようではないか。
正論をいった⋮⋮⋮っ!正論をいったはずなのに⋮⋮⋮っ!
理解しがたいこの状況に難色を示している俺の心情を
汲み取ってくれたのは不二家だけだった。
﹁お弁当、たべよう?﹂
違う!気を使ってくれた点は評価するが俺の求めた答えは
そうじゃない⋮⋮⋮っ!
一緒にお昼を食べたかったからだよ、と不二家は語った。
﹁前からそう思っていたんだけど角川くん隙がなくて話しかけ
づらかったんだよね。
318
だけど今日は角川くんどこかに行っちゃってて五反田くん一人で。
そうしたら小波さんが五反田君に一緒に食べる話を持ちかけてみて
って。
よく分からないけど将を射んとするならばまずは馬からだって教えて
くれたの﹂
⋮⋮⋮間隙を突かれた、というわけか。
それを突いてきた小波の方をジロリ、と見遣る。
俺が不二家から敬経緯を聞いている横で小波と五反田が会話してい
る。
意外な組み合わせだが相性は悪くないようで、五反田が言うことを
小波がサラリと愚痴るように突っ込みをこぼす。
それに反応して五反田がケタケタと笑っていた。
それにしても、だ。
ま た 小 波 か。
319
ここ最近俺の周りで続く一連の事件に軒並み小波が関わっている
ことはもはやいうまでもあるまい。
小波が関わるたびに俺に不幸が舞い降りる。正に不幸を呼ぶ黒猫。
さらにいえばその小波の鶴の一声でこの食卓が毎日続くことに
なってしまった。
﹁あの、やっぱりよくなかったかな⋮⋮⋮。
角川くん迷惑じゃない?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮別に迷惑じゃないですぅー﹂
不快さを露骨に表していうと不二家がいつものように控えめな
困ったような笑みを浮かべた。
それでも引き下がるつもりはないようで続く否定の言葉は
口から出なかった。
そのまましばらく黙り込んで五反田と小波の様子を
320
ボーッと眺めていた。
﹁違うだろ、そこは悪いことをしてすみませんって謝る場面だろ﹂
﹁手本を見せてくれ﹂
﹁すみません﹂
﹁もうするんじゃないぞ﹂
﹁はい⋮⋮⋮って、なんで俺が謝ってんだよ!﹂
﹁すまない﹂
﹁手本いらなかったし!謝れんじゃん!俺の謝罪を返せ!﹂
コントか。そう思わずにはいられないやり取りだった。
横目で不二家を見ればそのやり取りを見てクスクスと
楽しそうに笑っていた。
ほほえましく、平和と表現するにふさわしい空間。
俺には今まであまり縁のなかった昼休みの時間の流れ方。
多幸感に満ち溢れたこの場所はひどく居心地が悪く
感じられた。
321
⋮⋮⋮⋮これがこれから毎日続いていくわけか。
ふぅ、と気づかれないように一つ、俺は短い憂いを帯びた
ため息をついた。
322
第4話 時代から取り残されたような┃┃┃
江崎から呼び出しがかかった。
といっても今回のは事件の発生を知らせる緊急連絡の類ではなく、
急ぐ必要はないものの話したいことがあるとの旨だった。
携帯には地図が添付されており指定されたその場所に学校が
終わったら来い、と書いてあった。
地図で見たところ、記された場所は駅前に程近い場所で
しかし、メインストリートに面していない、細い路地の
あまり人通りの多くなさそうな場所だった。
歩くこと十数分。
もうじき夕方に程近い駅前のメインストリートは
これからの帰宅ラッシュを連想させる賑わいを見せていた。
ほんの一ヶ月ほど前に事件現場となったメインストリートは
まだその傷跡を諸所に覗かせてはいるものの、大分復興の
兆しを見せ始めていた。
323
営業の再開をしている店も少なくはない。
とりあえず道路や信号といった交通機関の整備は優先的に
進められたようで、修理された信号機は遅れた分の働きを
取り戻すかのように明滅を繰り返し、道路のアスファルトも
舗装しなおされてひび割れもなく、もとの路面よりも綺麗に
整備されていた。
あの凄惨な光景はどこへやら。こうしてみると人間というものの
底にある強さというものを見せ付けられるような気がする。
そんなメインストリートを歩いて通りすがり、そこから先は
携帯の画面とにらみ合いながら道を進んでいく。
細い路地裏に目的地は位置しているが行くのにそう労苦は
なかった。
メインストリートの途切れかけ、駅から歩いてきて最後の路地を
右に曲がるだけ。
車一台入るのがやっとという地図の線を忠実に表したかのような
324
細い路地だった。
通り向こうはまた別の大通り。
賑わいに満ちた2つの通りに存在感を奪われたかのように
ひっそりと路地は存在していた。
そんな道に立地しているのは古書店。
そう。ここが江崎の指定してきた場所だった。
他にも似たような建物はあるものの、それらは全て
シャッターが下りて定番のテナント募集という定型句を
述べた張り紙が飾りのように貼り付けられていた。
この通りで開いて営業しているのはこの古書店一店舗のみ。
お世辞にも繁盛しているとはいえない、寂れて、時代に
取り残されたかのような店だった。
躊躇しつつもそこが目的地と指定された以上中に
入らないわけには行かない。
ノスタルジーを醸し出す引き戸に手をかける。
325
が、立て付けがどうにも良くないらしく中々動いてはくれない。
グッと力を込めてやっとゆっくりと引き戸が嫌な音を立てて
その頑なな入り口を開き始める。
扉を開く行程までもノスタルジックだ。
ここに行き着くよりも苦労して入り口をようやく人一人
通れる分だけこじ開ける。
できたその隙間に体を横にしてねじ込むようにして中に入った。
体が扉とこすれてガラス戸がガタガタと騒がしい音を立てた。
そうして中に入った瞬間、真っ先に感じたのは鼻をつく古く、
どこか寂寥感の漂う特有の匂いだった。
店内は薄暗く、光量が少ない。
その一因として店内の諸所に設置された蛍光灯が所々切れている
あるいは切れかけていることがあげられる。
ジジッと時折癇癪を起こしたかのように蛍光灯が明滅を繰り返す。
そんな蛍光灯の不明瞭さを補うかのように奥から
326
暖色のランプの明かりが漏れ出ていた。
古書店、と銘打つだけあって棚が数多く並び、意外にも
それら全ての棚がギッシリと本でギッシリと埋め尽くされている。
見た感じの品揃えだけならとても売り上げの不良を決して匂わせて
いない。
その意外な品揃えの豊富さに驚き、好奇心を刺激された俺は
目の色を変えて品の品評に移る。
数は十分でもその質はどんなものか。
店の寂れ具合もあり、この時点で俺は大して期待をしていなかった。
直後、俺は己の愚かしさをかみ締めて反省することとなった。
﹁⋮⋮⋮⋮お、⋮⋮⋮おぉ、⋮⋮おぉう、おう!﹂
近場の棚から。
上から下まで嘗め回すように品定めしていった俺はただただ間抜けな
オットセイのようなうなり声をあげることしかできなかった。
とりあえず、ハッと気を確かに持って今の己の愚行を戒める。反省。
327
まさに垂涎、という言葉がピタリと当てはまった。
古く、絶版して久しいタイトルがそこら中に収まっている。
古書店ならではの利点。
瞬時の直感。天啓が雷のごとく頭をピシャンッと打った。
ここは⋮⋮穴場か!そうなのか!
このときすでに俺の頭からは理性が大分飛びかけていた。
いうまでもなく、ここにきた目的は頭の隅に追いやられて
スンッ、と次第に小さくなりながらかつその透明度を増して
消滅した。
俺はキラリと、いや、ギラリと目を光らせた。
フフフッ。さて、どいつから手をつけてやろうか。
これか、それか、あれか、どれだ?
ともすれば笑い出しそうなところを必死で押さえつける。
そんな光景は想像したくない。
笑い出せば間違いなく変態確定である。
328
俺はまだ人間でいたい。
ああ、でもこのような思考に至る時点で俺はもう┃┃┃┃┃┃。
﹁︱︱︱︱︱︱探し物は見つかったかね?﹂
ビクリッ!と不自然に両肩を震わせて俺は両手に
持った本を思わず取り落とした。
バサバサと紙がかさばるような音を立ててページが開かれたまま
数冊の本が地に落ちる。
それに構わず俺はフッと悪事をはたらく人間が
見つかったときのような速さで後ろを振り向いた。
そこには綺麗に染まった白髪の大分歳を召した老人が立っていた。
格好はシャツの上にジレを羽織り、ネクタイを
キチリと締め、下にはチェックのスラックス。
紳士然とした非常に清潔感の漂う格好をした老人だった。
﹁あ、すみません、すぐに拾います﹂
﹁驚かせてしまったみたいだね﹂
329
取り繕うような俺の態度をフォローするかのように老人は
俺よりも早く地に落ちた数冊の本をさっさと拾い上げてしまった。
そのまま老人は一冊、また一冊と俺が本を取り出してできた
スペースに丁寧に本を差し込んでいく。
作業の邪魔をしないように、と俺はさりげなく、控えめに一歩
引いて老人の作業スペースを作った。
その作業をしつつ、老人が背中越しに俺に語りかけてきた。
﹁君は本が好きなようだね。ぶしつけながらカウンターから
君のことを観察させてもらっていたよ﹂
﹁⋮⋮⋮見苦しいところをお見せして﹂
ハハハ、と柔らかい調子で老人は笑った。
﹁気にすることはないよ。ここには私しかいないし、その私も
別段君のそのようなところを見て敬遠しようとは思わない。
だから気にしなくても一向に構わない。それどころか君が
そういう人間でいてくれて私としてはうれしい限りだよ﹂
330
横合い、わずかな角度から覗かせた顔には口角のつりあがった
微笑が浮かんでいた。
その笑顔のまま老人はとんでもないことをしかし、
俺にとってはこれ以上ない破格の条件をのたまった。
それを聞いて俺は自分の耳を疑った。
﹁気に入ったものがあったならば遠慮せずに持って行ってくれて
構わないよ。貸し出し、という形でね﹂
﹁えっ!?﹂
﹁どうせ棚に収まったままの本達だ。誰かに読まれた方が
よっぽど幸せというものだろう。違うかね?﹂
﹁⋮⋮⋮いや、でもここ、曲がりなりにも店なのでは﹂
﹁所詮、売れない前時代の遺物のような古めかしい店だよ﹂
﹁⋮⋮⋮開き直りましたね﹂
俺がそういうとハッハッハッ、と今度はおかしそうに老人が声を
上げて笑い声を立てた。
331
﹁君に一ついいことを教えてあげよう。こうして長く生きて
いるとね、潔く開き直ってしまった方がいいこともあるんだよ。
この際にいってしまうとね、この商売自体いってしまえば道楽だ。
お客も特定の人以外はほとんど来ないしね﹂
﹁あー、まあ確かに﹂
否定する要素は生憎と持ち合わせていなかった。
人の目にもつかないという立地条件もさることながら、店自体も
ひどく寂れてとてもではないが入ろうとは思えないだろう。
店内に至っても購買意欲をそそろうという意識は希薄で整備が
ろくになっていない。
これをフォローするという方に無理がある。
その辺りはしっかりと老人にも自覚はあるようだ。
﹁だから君にその気があるのならばどうか持っていって読んで欲し
い。
本の方もきっと読まれた方がその本懐を果たせて幸せだろうしね。
332
ええと、少年﹂
﹁七音です。角川 七音﹂
言いよどんだ老人に俺は自ら名乗る。すると老人はわずかな
何かを思案するかのような沈黙の後でニコリと笑って
いい名前だね、とひとこと付け加えた。
そんな会話の最中だった。
店の入り口、引き戸がガタガタと騒々しい音を立てて台風が
吹き荒れたかのごとく激しく揺れた。
その後で苛立ってしびれを切らしたかのようなバンッと壁を
叩くように殊更大きな衝撃音が一つ。
その後で硝子の引き戸が先ほどまでの立て付けの
悪さが嘘であるかのような気持ちのいいすべりを見せた。
そうして騒々しく入ってきたのはそれを人間的に体現したかの
ような中身まで騒々しい男だった。
﹁よーッス!七音ー、元気してっかー?﹂
333
﹁⋮⋮⋮あなたの登場で俺の精神状態は著しく下降の一途を辿り
ました﹂
﹁ヒューッ!シビレるぜ!﹂
江崎は目をつぶって全身で感じいるかのように肩をすくめた。
俺のいったことは比喩ではなく。
江崎を見た瞬間、俺の凪いでいた心が途端にかき乱された。
きわめて簡単にひとことで感情を表すならばこれにつきる。
イラッ。
﹁じゃ、ジーサン。こいつ借りてくぜ。連絡、はしといたよな?﹂
﹁ああ、大丈夫だよ。﹂
そんな俺の様子に一向に構わず江崎は老人に確認をとる。
知り合いなのだろう。騒がしい江崎の扱いも心得ている様子で
老人のゆったりとしたペースが崩れることはなかった。
﹁急ぐかね?よければコーヒーの一杯でも出すのだが⋮⋮﹂
﹁わぁりぃ、こちとら結構やること溜まってて忙しいんだわ。
334
ジーサンのコーヒーは飲んでいきてぇけど┃┃┃┃﹂
﹁ではまたの機会に、かな﹂
江崎の言葉を先読みして老人が台詞を引き継ぐ。
2人の息が合っているというよりは
老人が江崎のテンポにうまく合わせて会話を進めている印象を
受けた。
﹁じゃ、行こーぜー。七音﹂
﹁分かりましたよ﹂
俺は自然に江崎に合わせられるほど老人のような大人では
なかった。
その点を鑑みればまだまだ人間としての成熟さが足りていないと
いうことなのだろう。
悔しいことに老人のような大人の態度を目の当たりにすると
自分の未熟さを痛感させられる。
一つため息をついて俺は江崎の後をついていく。
335
﹁七音くん﹂
そんな俺を呼び止める声一つ。
﹁またのご来店を﹂
俺はそっけなく、それでも確かな意思を込めて軽く手を振って応える
﹁ええ、また来ます﹂
336
第4話 五里霧中、されどその意思は強固に
江崎に連れ去られるようにして古書店を後にして通りに
出るとあたりの空気は一変して寂れたような前時代的雰囲気は
一気に霧消し、ごく身近な現実感溢れる活気に包まれた。
細い路地から顔を出した俺たちを出迎えたのは
そんな騒がしい風景を助長するかのような一台の派手な
スポーツカーだった。
白の風を切って走るさまを容易に連想させる流線型を
描いた全身のライン。
空気抵抗を無くすべく機能を追求されたその形状に沿うかのように
サイドミラーや背部に備え付けられたリアウィングが車両を
彩っていた。
一方で環境に対する配慮はなされておらず、車両の後輪の
さらに後ろに取り付けられたマフラーは口径が大きく、
いかにも人体にも環境にも悪影響を与えそうな排気ガスが
337
大量に排出されていそうだ。
エンジンはかけっぱなしだったようで、その車は
運転手のいない間もその内燃機関を燃やし続けて絶えず
マフラーを震わせていたようだ。
心なしか、運転手が戻ってきて嬉しさを表すようにエンジンが
一つ大きな音を立てて唸りを上げたような気がした。
﹁ま、乗れよ﹂
いいつつ江崎は運転席に颯爽と羽織った白衣を翻して乗り込んだ。
後に続くようにして助手席のドアを開けて俺も乗り込む。
バタンと扉を閉める。
乗り込んでまず目に付いたのは山盛りになってすでにキャパシティを
越えかけている車備え付けの灰皿だった。
山の頭頂部には危ういバランスを保って吸殻が突き立てられている。
さらにいうなればこうなってもまだ捨てられていないのは
本人のだらしなさゆえだろう。
338
﹁それで、俺を呼び出した用件は何なんですか?﹂
﹁若人との交流﹂
﹁さようなら﹂
﹁ウソウソ、待ってくれよ∼﹂
発進前の車内。
新たなタバコに火をつけつつ応答した江崎の答えに軽い苛立ちを覚
えて
車から降りようとすると慌てて江崎が静止を促してきた。
フーッと江崎が至福をかみ締めるかのように紫煙を一つ吐き出す。
﹁今日お前を呼んだのはな、七音﹂
そう切り出して江崎はシフトレバーに手をかけて車を発進させた。
外見の印象に違わず、車のエンジンが騒音を上げて動き出す。
﹁色々と俺らを取り巻く現状ってやつを説明しとこうと思ったんだ
よ。
つってももしかしたらお前の知ってることばかりかも知んねえけど
ほら、俺らってお互いどこまで情報共有できてるかわかってねぇじ
339
ゃん
重要なときにそうなったら困んだろ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮そうですね﹂
﹁っつーわけで情報交換開始。とりあえず軒並み重要な質問していく
から分かる問題なら答えろよー。答えらんなかったら江崎さんが解説
しちゃる。じゃあいくぜぇ第1問!﹂
ハンドルを握り、タバコをふかしながら江崎が忙しなくいつもの
ノリで忙しなく口を動かし始める。
デデン、とクイズの前の効果音を自分の口で表現しているのがさらに
鬱陶しい。
﹁俺らの所属するゴスペルとはどんな組織でしょーか?﹂
﹁能力者に関する事件、懸案を担当する治安維持組織﹂
つまらなそうにテンプレートともいえる回答を口にする。
江崎がチャララチャッチャラーと正解音を口で模した音を出した。
﹁じゃあ、そのゴスペルの発足するきっかけになった事件は?﹂
340
そこで俺は答えるのに窮して言葉に詰まった。
別に答えを持ち合わせていなかったわけではない。
ただその事件は俺にとっても無関係ではなく、むしろ俺の人生に
影響を与えたといっても過言ではない事件だったからだ。
それも悪い意味での。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮8年前の前中央研襲撃事件です﹂
努めて平静を保ち、俺は声を絞り出すようにして答えた。
現在隣街の安塚市に現中央研究所があるわけだがこの研究所は過去
に一度
大規模な襲撃を受けて半壊させられて移設されたという経緯がある。
その半壊させられた事件が8年前の前中央研襲撃事件。
この事件で世間は改めて能力者の犯罪に対する恐怖を実感させられた
といっていい。
もとは警察の一部署が能力者の犯罪を担当していたのだがそれだけ
では
どうにも心もとないのではないか。
341
そのような世論を受けて誕生したのが治安維持組織、ゴスペル。
警察のその担当部署を前身として新たに編成されなおしたという経
緯を
経て、8年前、事件のすぐ後にゴスペルは発足した。
長々とした回答を述べると江崎は満足げに唸って大せいか∼いとニ
ヒヒ
と笑いながら呟いた。
﹁ついでに捕捉すんなら今安塚にある中央研のセキュリティ強化さ
れたの
もその時期だな。まあ、あんだけ派手に破られといて何の手も打た
ねーん
だったら単なる馬鹿だしなぁ。
で、だ。そのセキュリティ強化の一環として設置されたのがアラウ
ンズ
ってわけ﹂
﹁前中央研究所に比べて今の安塚は地形的に攻められやすいからと
いう
のが設置の理由でしたね﹂
342
﹁そそ。前の中央研は自然要塞みてーなもんだったからなー。
警備人数だって今の中央研と変わらねー能力者が7人。
一般の警備は今と比べりゃ少なかっただろうけどそれでもそうそう
落ちはしねーと思ってただろうよ。
作ったやつも、中で働いてたやつも﹂
﹁それがほぼ壊滅状態に追い込まれたというんですから﹂
﹁まったく世話ねーよなぁ﹂
息が合ったかのようなフレーズ。
なぜか動作までも息が合ってしまい2人そろってため息をついてし
まった
信号待ちする傍ら、ハンドルに寄りかかって江崎がニヤリと笑って
楽しそ
うに俺に視線を向けてきた。
﹁⋮⋮⋮単なる偶然に一々反応しないでください﹂
﹁ほーいほいっ﹂
いわれたとおりに前を向いて視線を反らして信号が青になったのを
見計
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らい、車を発進させる。
﹁安塚を囲む周辺4市。桜森、葉仙、秋峰、雪元にそれぞれ一人配置
された能力者。これがアラウンズ。そしてその一人がこの桜森の担
当の
小波。ですよね?﹂
﹁うーん、流っ石七音。俺らに関する知識はすでに習得済みかー﹂
﹁一時期あなた方のことを色々かぎまわっていましたからその名残
ですよ
ゴスペルの基本的な情報は大体把握しています﹂
だがそれでも肝心な情報は手に入れられないままだ。
8年前の兄さんの、角川 華音の死の真相。
兄さんがゴスペルと何らかの関わりがあったところまでは行き着い
た。
いや、ゴスペルが発足したのは兄さんの死後になるわけだから正確
には
その前身となる組織と、だ。
ゴスペルの前身となる組織は警察の一部署だったといったがそれは
344
正確
ではない。
ゴスペルには現在多くの能力者が所属しているわけだがかつての警
察の
その部署には全国展開できるだけの能力者の数は揃っていなかった。
では、出所はどこだったのか。
答えは前中央研に実験協力していた能力者だ。
ゴスペルの前身組織は正確に言うなら警察と前中央研のハイブリッ
トだ。
そうして遡るようにして俺は前中央研の協力者のリストを発見して
そこで
兄さんの名前を見つけた。
﹁そいで、七音はゴスペルが怪しいと踏んで嗅ぎまわってたっつー
こと?﹂
﹁ええ、でもご存知の通りゴスペルのセキュリティは甘くないので。
俺自身の持ってる情報収集能力は大したものじゃありません。
ハッキングだとか、そんな器用なことはできません。
345
だから調査は行き詰っているというわけです﹂
﹁にゃーるほどーん﹂
加えて付け加えるなら┃┃┃┃┃。
俺は心の内で呟く。
8年前の事件に関してあからさまな情報統制がしかれていることだ。
事件発生のきっかけや犯人グループの明確な目的、背景に何があっ
たのか
などのあらゆる事柄についてどれだけ調べても具体的な回答を得られ
ないのだ。
当時の記事を読み返してもまるで事件の全貌がつかめない。
まるでぼんやりとした具体像しか浮かんでこない。
当時の情報が少なすぎるのだ。
至った結論は当然のごとく。
政府側、あるいはどこかしらの権力者にも隠匿したい事柄がこの事
件に
隠されていた。
346
だからこそ、俺は国家の一機関であるこのゴスペルに協力することを
承諾した。
民間の情報機関では手に入れられない情報。
兄さんの死の真相。
必ず、ゴスペルを通して手に入れてみせる。
少々硬めの助手席のシートに身を預けて、冷めた目で窓の外の流れ
行く
景色を眺めながら俺はもう一度、新たに決意した。
着いた先は市役所。さらにいうならゴスペルの本部。
前に来たときと同じようにエレベーターに乗り、3階へ。
途中すれ違ったスーツ姿の人々はやはり年配の人間が多く、学生で
ある
俺の場違いな印象は前に来たときと同様どうしても拭い難かった。
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﹁じゃ、次のしつもーん﹂
エレベーターに黙って2人で乗っているときに江崎が口を開いた。
チン、と小気味いい音を立てて到着を告げたエレベーターがその重
いドア
を開く。
背を向けたまま江崎が俺に問いを差し向けた。
﹁愚人教って、知ってっか?﹂
﹁犯罪者集団﹂
﹁ざっつら∼い﹂
歩く江崎の背に差し向けられた問いに対する答えを投げかける。正
答。
愚人教。
いくつかあるテロ組織の一部と考えてもらって構わない。
だがその境界はどうにも曖昧で、あるいは暴力団のようなものと捕
らえる
人々もいるかもしれない。
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ただ構成者の中には一般人の他にも能力者までも含まれる。
江崎から聞いた話だがこの前の桜森で起こった2つの事件を
起こした能力者、そのどちらもその愚人教の会員であったらしい。
そしてこの組織の最大の特徴は組織でありながら組織的な活動をし
ない
こと。
では組織の存在意義はなんなのかというと犯罪者の互助というのが
一番適切かもしれない。
隠れ家を必要とするものにそれを提供し、人員が必要な場合協力を
要請し
それを受け入れたり。
金目の仕事が欲しいといえばその適した仕事を回してもらい。
近い言葉で表すならば自らの利益追求で回るギルドのようなものだろ
うか。
無論、警察や、ゴスペルにも目をつけられているのだがその全貌は
謎の
まま。
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愚人教の運営者が誰なのか、所属している会員でもさっぱり検討が
つかな
いものだから捕まえた会員を尋問してもどうにも情報が得られず。
その噂は犯罪者の間で口コミで出回り、ついにはこうして敵勢勢力
である
ゴスペルまで噂が出回るところとなったわけだ。
﹁それで、その愚人教がどうかしたんですか?﹂
﹁ん∼、ちょいまっとり﹂
江崎が白衣のポケットから鍵を取り出して穴に突き刺す。
しかし回らない。
﹁あ、あいてたわ﹂
﹁⋮⋮⋮随分無用心なことで﹂
﹁俺の部屋はいつ何時も来客歓迎なんさ∼﹂
﹁戯言ですね﹂
﹁いやー、慣れねー事はするもんじゃねえな。久しぶりに部屋に鍵
かけ
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てこうとしたんだけどよ﹂
﹁いつも鍵をかけていないんですか﹂
﹁いったろ。いつでも来客歓迎だって。フフン﹂
﹁威張らないでください﹂
﹁中でも七音は超歓迎!﹂
﹁はいはい﹂
冗談を切り捨てて中に入る。
前来たときと同じで、まず俺を出迎えたのは豪奢な来客用の家具。
ただ奥にあるデスクには前と違って書類が山のように積み重なり、
所々に散在している。
適当に座っといてくれや、という江崎の軽い口調の指示。
従って、デスクよりのソファに腰掛ける。
高級感漂うソファーが柔らかに俺の体を受け止めて深く俺の身はソ
ファー
に沈んだ。
そして江崎はといえば机のイスの方に回り込まず逆側、デスクの正面
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の方から書類の山をかき分けてその山の向こうから一台のラップト
ップ
PCを取り出した。
﹁お前に見て欲しいのはこれなんだよ﹂
そういって江崎は行儀悪くデスクの空いたスペースに腰掛けて開いた
PCのモニターを俺に見せた。
画面には一枚の紙面を写した画像。
字体は手書きではなくパソコンで打ち込まれたものだ。
そして書かれている内容は┃┃┃┃┃┃。
﹁7月3日桜森ランドタワーの完成式においてこれを爆破する。
これが愉快犯の類ではないことはこれを開いて30秒後に分かるだ
ろう。
P.S. 犯罪者よもう一度私と勝負しよう。
浅はかにして愚かなるものより、ですか﹂
ディスプレイに記された簡素な文章。
そしてそれは確かにそれと分かるあからさまな脅迫文。
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しかし犯人側の要求は特に書いておらずただ爆破すると声明文が書
かれて
いるのみ。
簡潔すぎる文章ゆえにこれだけではどうにも愉快犯の可能性も捨て
きれ
ないのだが⋮⋮。
﹁30秒後に何があったんです?﹂
﹁手紙がボォンッ﹂
﹁爆発した、と﹂
江崎が両手を挙げて万歳のような格好をした。
手紙の信憑性を知らしめるパフォーマンス。
小規模な爆発、か。明らかに何らかの能力者の仕業と見て間違いな
い。
現物が消失したとすればパソコンに移っているこれはオリジナルを
模して作ったコピーか。
﹁詳しい話を聞かせてもらってもいいですか?﹂
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﹁そのつもりでお前を呼んだんだぜい?﹂
ニカッと江崎は無邪気な顔で笑った。
もはやこの件を引き受けるかどうかの議論は必要ない。
それが俺とこの男の間に交わされた契約だ。
それにしても予告状を送りつける爆弾魔とは随分な目立ちたがりの
よう
だ。
治安維持組織たるゴスペルに送りつけられた脅迫状。
果たして犯人は何を考えてこの脅迫状を送ることを考えたのだろう
か。
こうして、新たな事件の幕が開く。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4929x/
ジェネティック・レボリューション
2012年12月26日17時34分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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