ー1− はいるが、メラネシアの諸言語にも明瞭に見られる。 そこでは母音の対立ではなく、いくつかの所有詞が 図 書 館 報 附 録 その意味機能を分担している。簡単に言うと、多く のメラネシア諸語に共通に存在する傾向は、kaが切 実なものに関する所有詞、nOが一般の所有詞だとい うことである。 第 36号 本来kaは自分が食べるための食料の所有関係を 表わしたので、kal≪食事≫という単語と開運がある と言われている(日本語のアサゲ・ユフゲ、古くは 日本人のうちと外 アサケ・ユフケのケ≪食≫ke<*kaiと比較)。食物 の所有にnoを用いると、それは自分が食べるため テレビで高階秀南氏の「日本人のう の物ではないことを示す。「写真」にkaを用いる 育 Jll 本 崇 雄 いた。軒下や濡れ縁は戸が開けてあれ のは自分が写っている場合であり、nOを用いるのは だが、戸を閉めると外になる。日本人 自分が撮った他人の写真である。kaは手足や肉身の する習慣がなかった 関係に用いられるとともに、憎むべき敵にも用いら 心理的 まか れる。 問 このようにメラネシアの所有詞ka・nOがそれぞ り強い。 れ日本語の格助詞が・ノに意味・機能・形式がそっ の旅 くりなのは、とても偶然の類似ではありえない。実 はこれこそ日本語の系統の重要な決め手 というような内容だったと思う。 ここで思い出したのは大野普氏の「主格助詞ガの して見ると、日本人がその生活領域を 成立」(『文学』1977の6号・7号)である。この して認識する傾向は、ポリネシアやメラネシアの人 論文は題名が示すように、わが国・君ガ命のような 々の二分法的宇宙観と密接につながりがある、とい 所有・所属などを表わすががいかなる経緯を経て「私 うことになりそうである。 (昭和53年6月16日) ガ大野です」のような主格を示す機能を獲得するに 至ったかを述べたものである。 私にとって興味があるのは、主格のガの成立より 山 口 満 もその古い姿である。古代日本語で所有所属を示す 本学の学生であるならば教育学の古典の1つや2 機能を果したのは主にガとノであった。大野氏のそ の論文によれば、わガ君・わが国・おのガ身・妹が つは読んでもらいたい。こんな気持ちから、今回は、 名・母が手など、ガはろちなる人を承けることが圧 教育学の古典の読み方について、私の考えているこ 倒的に多いのに対し、人ノ膝・難波壮士ノ手・文夫 とを書いてみたい。 (ますらを)ノ伴・海人(あま)ノ塩焼衣など、ノ 問題は2つに別れる。その第−は、教育学の古典 は如こ属する人を示した。さらに大君ノ御言・すめ として何を選べばよいかという問題であるが、教育 ろきノ神ノみこと・主ノ殿戸など、鼻のものとして 学の古典にはどのようなものがあるかということに 自分との間に距離を置くことによって敬意をも表わ ついて一応の知識を得ておくことが、図書選択の前 池田 提になる。 したし、逆に池田朝臣ノ鼻と したこと 現在、既に、数種類の、いわば教育学古典全集と 朝臣が鼻と言えば、距離を省 で侮蔑嘲弄を表わした。税を取り立てる村長を里長 でも呼ぶべき内容を持った出版物が刊行されている。 (さとをさ)ガ声と言ったのは、侮蔑が強まって嫌 梅根悟・勝田守一監修「世界教育学選集」(明治図 書)は、現在も進行中のものであるが、既に第88巻 悪に達したものだという。 古代日本語のガ・ノがそれぞれ心理的な近さ・遠 が刊行されており、文字通り世界の教育学の古典を 菅を香すことは前から言われていたが、大野氏がろ 広い範囲にわたって収めた代表的な教育学古典全集 ちと外の対立として捕えた点が面白かった。ところ である。ただし、第1巻から第80巻までの内訳をみ で、所有関係に二つの範疇を設けるのはポリネシア ると、日本の古典が9つ、中国の古典が2つ、他は 諸語の特徴である。そこでは自分の自由にならない 欧米の古典となっており、欧米の教育思想史を中心 もの、例えば手足や木の枝など全体に対する部分を にした編集が行われている。近代の教育思想の歴史 示すものや、愛情憎悪などの感情の所属には0母音 的な展開が欧米を中心にして行われたこと、我が国 を含む形を用い、持ち運びできる物や売り買いでき の近代教育とその思想が欧米のそれから大きな影響 る家畜・どれいなどの所属にはA母音の形を用いる。 を受けて来たことの反映というべきであろう。 こうした二分法はポリネシアよりも複雑になって 欧米の教育学の古典をもう少し限定して収集し訳 昭 和 5 3 年 7月 書 想 な意○う ヽ. 仲いて 誠はたす 意で冷き 0 る ると の0ち 教育学の古典の読み方 あ外 でと な9ワ ㍉∴∴「〕∴ ○ 内はか プては 一し恥 のル対の に0外グに 確・な。人 明0ちう0外で を0うよ 界はのが 境実杜 に、会 うがの 教閉域よる。ち 日を領のえ。う 14﹂の人見 月外。ち洋に ちばはよ 6 と 9 つ 西 う ○ 0 を ろ き0ち こい と扱 べ○う うて 言い ー 2 − 出したものに「西洋教育宝典(全26巻)」(玉川大 学出版部)がある。全26巻の内ペスタロッチの著作 が6巻を占めているが、ゲーテ「教育州・詩と真実」、 シラー「美的教養論」、トルストイ「国民教育論」 といった特異なものも収められている。 なお、ペスタロッチの著作に関しては、長田新編 「ペスタロッチー全集(全13巻)」(平凡社)が、 またフレーベルの著作に関しては小原国芳他監修 「フレーベル全集(全5巻)」(玉川大学出版部) がそれぞれ刊行されている。 日本の教育学の古典を収集した全集としては、「日 本教育宝典(全8巻)」および「復刻版、教育の名 著(全16巻)」(いずれも玉川大学出版部)がある が、前者は中江藤樹、熊沢蕃山、吉田松陰、貝原益 軒、二宮尊徳、石田梅岩等近世の思想家の教育論を 収めており、後者は垣内松三著「国語の力」、小倉 金之助著「数学教育の根本問題,」、木下竹次著「学 習各論」等明治以後の教育学の古典的名著を復刻し たものである。 また、明治以後の日本の教育思想を問 ̄題分野ごと に集録したものに海後宗臣他監修「近代日本教育論 集(全8巻)」(国土社)があるが、「抄」という 形で部分的に再録されている論文が多い。「ナショ ナリズムと教育」、「児童観の展開」、「教師像の 展開」といった問題分野別ごとに近代日本における 教育論の展開を見て行くには格好の企画である。 岩波文庫には、ルソー「エミール」、ペスタロッ チ「隠者の夕暮・シュタンツ便り」、フレーベル「人 間の教育」、「7レーベル自伝」、デューイ「学校 と社会」、「民主主義と教育」、クルブスカヤ「国 民教育と民主主義」、福沢諭吉「学問のすすめ」等 が収められている。これらはいわば教育学の古典中 の古典ともいうべきものであり、この文庫版で読む、 読まないということは別にしても、古典を読むなら ばまずこれらのものから始めていただきたいと思う。 次に第二の問題、すなわち教育学の古典をどのよ うに読めばよいかということについて簡単にふれて おきたい。その1つは、繰り返えし熟読するという ことである。教育学の古典は一回通読したというの では読んだことにならない。深く読むこと、考えな がら読むこと、自分の関心と経験、現代日本の教育 の問題状況とかかわらせながら読むことが大切であ る。 第二は、解説や当該思想家についての研究書を読 む前に古典そのものを読むことが大切である。前掲 の古典全集にはそれぞれかなり詳細な解説がつけら れている。また、「ルソー『ェミール』入門」、「ペ スタロッチ『ゲルトルート入門」、「教育学の名著 12選」、「現代教育理論のエッセンス」等の書物が 刊行されている。しかし、それらはあくまで古典を 深く、正しく読むための補助として利用されるべき であって、解説や入門書だけを読んで古典を読んだ ような鍍覚を持ってはならない。 第三は、古典はできれば原書で読む方がよいとい うことであるが、これはいささかぜい沢な注文とい うことになろうか。 心 の 像 石 井 滋 規 最近ある旧友と、今の若い人達は何を求めて生き ているであろうかと話し合ったのがきっかけで、司 馬遼太郎の「坂の上の雲」を読むことになった。こ れは日露戦争(1鋤∼′05)で活躍した秋山好古(よ しふる)と弟の真之(さねゆき)、及び真之の友人 正岡子規を中心とした物語である。 子規のことはよく知られているので措くとして、 秋山兄弟は子規と同じく元伊予松山藩の下級武士の 子として生まれ、前後して東京に出、ひどい貧しさ のために、ただで勉強できるという軍人の学校に入 る。兄は最初に選んだ兵科がもとで、陸軍の騎兵隊 育ての親になり、日露戦争では当時世界一といわれ たコサック騎兵を相手に、ひじょうな苦戦を強いら れながら、その度ごとにこれを撃退して、奉天その 他の会戦における陸軍の勝利に大きく貢献する。弟 は初めは子規と共に文学への志を固めていたが、海 軍に入ってから次第に天才的逸材といわれる人とな り、彼の作戦に基づいて、日本海海戦の決定的勝利 が生まれることになる。 しかし、兄弟共に戦後自らの武勲については多く を語らず、兄は大将になったのちも小さな借家住ま いのままで、退役後は郷里に帰って没年(1幻0)前 まで、地味な私立中学校長の職を誠実に果たす。弟 は戦争の惨状に深く心を悩まし、本務とは別の人類 や国家の本質を考えたり、生死の問題を探求しつつ 50才で病没する(1918)が、遺言によって、自分の 後生果たせなかった出家の夢を子どもが受け継いで くれることを希望する。 弟の方は幼少の頃から飛び抜けた頭脳と腕白で通 った人であるが、兄はむしろ平凡で、格別の逸話も なく育ったようである。しかし彼は長じて、自ら果 たすべき役割を知るようになってからは、次第に緻 密と豪胆の両面を備えた人となり、戦場にあっては 司令官と参謀を1人で兼ねつつ、圧倒的な敵に対し ても平然として、何時も水筒の地酒をちびちびなめ ながら、司令を発していたという。その兄が弟に語 ったという、「生まれつき勇猛な者というのは一種 の変人にすぎない。自分は平凡な人間であるから、 戦場ではやはり恐怖が起こるだろう。そういう自然 のおびえに打ち克って、悠々と仕事させるものは義 務感だけである」という言葉は印象的である。 明治と今はすっかり違った時代である。明治の世 ー 3 一 てきた。当初は当時の中国音で読むだけだったが、 幸い漢字が意味をも示すため、その意味に対応する 日本語があれば、文脈に応じて、その日本語を喚起 することになり、訓が成立する。音・訓は複雑な経 緯をたどりつつ現代に至るわけであるが、現代日本 語が漢字表記なしにありえない以上、音訓識別はも っとも基礎的素養の一つであり、教育者は音訓の問 題点をよく認識すべきであろう。漢字で書くことば は全て中国起源だと速断し、一寸(ちょっと)とい った宛字までそう思い込む学生も稀ではない。名ま え、特に名のりを問題にするのは、頼め手からでは あるが、奥深い音訓の問題を考えさせようとする一 方法なのである。−さて、次週の対話は、 「漢和字典にくみゆき・いでまし・行幸>と載っ ていました。貴人が行くという意味があります」 「よかろう。女性名のミユキには、清潔で豊年の 吉兆であるミ雪の系列があって、重ね合わせて使 われていることは、付け加えておこう。では、も う一つの治(ノYレ)はどうだった?」 「よくわかりません。治におさめる・ただすなど とあってハルと結び付かないんです。でも、字書 の名乗の欄にハルとあったのでよめるんでは‥・」 「ちょっと待て。字書の名乗の記事は読む習慣の 確認にすぎない。名付けの時の拠りどころにはな るが。君はハルをどういうことばと思うのかい。」 ハ/し 「springの春です。はかに引っ張るのハル。」 なぜ治子とよめるか 「さては日本語ハルを詳しく調べなかったね。は 山 内 洋一郎 かにもっとあったはずだが。」 日本語の中で、誰もが身近に用いながら、等閑に 「開墾する意味の古語ハルがありましたが。」 付されているものに、名まえがある。私は国語概説 「それだ。万葉集にく信濃路は今のバリ道>とい の授業でしばしば次のような問答を交わす。 う歌がある。荒れた所を良くするという点で治と 共通しているから、治をハルとよめるのだ。」 「高橋君、君の名前はコージ? ユキハル?」 「ユキハルです。」(そこで黒板に幸治と書く) こうして、現代語の感覚では結びつかない漢字と 「では聞こう。幸はなぜユキと読めるのかね。」 名のりの距離を埋めることができた。信(ノブ)′と 「わかりません。」 か薫(シゲ)なども手順を踏めば解決できる。即ち、 「そう簡単にわかりませんと言うものじゃない。 名のりを挙げた資料をできるだけ執って本源的様相 幸をユキと読む他の場合は?」(暫くして) を確かめ同類を見渡しておく。これには室町時代の 「行幸をミユキと読むから、これでしょうか。」 節用粟から院政時代の『色葉字類抄』などの資料が 「そうだね。(ほっと坐るのを制して)安心する ある。そして、その名乗りの語の古い時代の意味・ のはまだ早い。ミユキという日本語を考えてみよ 用法を考え、その漢字がどうよまれたかも調べる。 う。ミはミ吉野・ミ心などとはめたり敬ったりす 『類衆名義抄』や訓点資料・紀記の古訓、万葉集の る接頭語だね。ユキは行キだろう。すると、行幸 漢字などが重要な資料となる。こうして、一見不可 という漢語全体をミユキと読むので、幸をユキと 解な名のりも確かな根拠があって読む習慣が始まっ たのだとわかるのである。但し、難解なのも多い。 読む証拠には必ずしもならないのじゃないかね」 現在、名乗り辞典の類も出ているが、収集したに ここで、少し物を考える学生なら、ミユキを和幸 とも書き、幸一字をそう読む女性名の多いことを挙 過ぎず、その起源・経歴を解説したものがない。名 げてくるが、「それはそう読む習慣の指摘であって のりに限らず、人名・地名など固有名詞の類は国語 根拠とするにはもう一歩踏み込まなくては」と言う 学ではほとんど放置されている。困難であり趣味的 と、だまってしまう。そこで、冶(ハル)と共に宿 になりやすいが、このままでは良くないであろう。 題にするのである。 さて、なぜ和(カズ)子と読めるのでしょう。 独自の文字を持たなかった古代日本に漢字が入っ には、多くの人びとが素直に「国のために」尽くす という発想を持ちえたし、その義務感に従って自己 を形成してゆくこともできたようである。しかしそ の後「国のために」ということは上から強制される ことが多くなり、戦後は逆に、そのことへの警戒が、 社会や国のためにという発想をわれわれのうちから 摘み取っていった、ということができるであろう。 人は自ら目指すものによって成る。秋山好古は明 治の人間として、「国のために」自ら果たすべき義 務を深く自覚することによって、恐らく、生来授か っていたであろう素質を大成させていったけれども、 今の若い人びとは己れを何に傾けてゆこうとしてい るのであろうか? 個人は国家のためにあるのでは なく、むしろ国家は個人の尊厳と自由を守るために 存在するとみなされている現代は、若い人びとが己 れを傾倒すべき対象を発見するのに相当の忍耐を要 する時代であろう。しかし、だからとて過去の時代 の方が良かったと簡単にいうことはできない。 時代が違えば、人の目標も生き方も異なることは 自明であるが、人は自己の天性と意志に環境や社会 の影響を様ざまに織り混ぜつつ、その折々に自ら描 く心の像によって自己を形成してゆくということだ けは、時代を越えた真実ではなかろうか。 (6月22日) - 4 - ず住民が減る一方の過疎の村である。 「背戸の家も 出て行った。あの家もそこの家も」と老女が指さす いいこと書いてる 空家の屋根は朽ちかけ、曽ての畑にはビンポウグサ 西 田 史 朗 (ヒメジオン)だけがはびこっている。それでも古 人前へ出ることが苦手で、ましてや良く消化せず い家を独りで守る老女は誇らしげに語る。 「芋井の に話さねばならないことほど辛いことはない.講義 もん(者)どもは引土を見りや胸糞悪いと言うとる。」 と同じく、学会発表や論文の構成においても同様で、 それももっともの話で、殊に冬ともなれば、引土で 充分に推赦できないまま公にされている例が問々あ は朝早くから日があたっているのに、宇井では午頃 る。我国の学界で欠けている最大のもの、 「討論」 まで日が差さず、ぬくぬくと日を受けた引土を仰い が十二分になされていない結果に他ならない。 では向うっ腹を立てているという訳である。日に日 近着のJournal of Sedimentary Petrologyをパラ にさびれゆく村で、またしてもお目さんだけが自慢 パラとめくっているとTips ontalks ---・と題し の種となりつつある。 下北山村で一番大きな池原は北山川の蛇行の裸を た論説が、 H. E. Cliftonによって書かれている。 縁取る二段の段丘上にのった勾玉状の美しい集落で その要点は、 ある。村人の伝承によれば、池原でもっとも早く開 1. K由p the content of the talk simple,conけたのは一番下手にあたる下地(Lもじ)の横の平 2. Be sure the audiences understands all で、落人の横小入道が住んだ「大名屋敷」がその草 分けだという。なるほど其処には井奥(いのく)谷 の水といささかの田を墾るに足る援斜地があり、ま 3. Have the talk simply arranged in a logiた北山川下流や東之川上流に至る山径の分岐点にも 4. Use simple slidesあたっているので、さもありなんとうなずかれるが、 小人道の血を引く故大矢ゆき姫の回旧談に忘れ難い 一言があった。昔から在所中の子守たちが「下地は であり、一一もっともなことと肯かれ、学会発表の はぬくいから行こら行こら(行こう) 」といって此 みならず、論文の作製はもちろ"ん、講義の準備にお 処に集まったというのである。そのあと暫くして冬 いても心しなければならない事柄であり、学問の世 至も近い11月の末の早朝、池原を眼下に見晴らす池 界に身をおき、喋ったり書いたりすることの多い者 峰(いけむね)の辻堂の峠に立ってしみじみ眺めた として、座右の銘としたい言葉である。 ことがある。なるほど話のとおり横の平付近だけが 早々と陽光を受けて暖かそうな朝餐の煙を上げてい たのだった。 「お目さんだけがゴッツオウで」 十津川村谷垣内(たにがいと)の一番上の家で、 林 宏 庭先に立てた花瓶代わりの竹筒に毎日花を挿し番え 吉野郡川上村の中心迫(さこ)の奥に自屋という て「お天道様」にお礼を申していた中垣姫のお顔を 集落がある。バスの窓から体をのり出さねば見えな 思い出す.洗濯物を干す場合でも女性が下半身に遇 いほど高いところに鷲の巣のようにのっかった山の うものはお目様にあててはならぬというのも彼女た 村で、吉野川の清流がはるか下に見える。鳴ぎなが ちのきびしい慎しみであった。 今はほとんどすたってしまった「オツキヨウカ(卯 らようやく登り着いた客人に対して「ここはまあほ んとに何にもないけどお目さんだけがゴッッォウ(初 月8日)の花立て」行事は釈迦あるいは月への供養 馳走)で」と言うのがこの村の人々の挨拶であった。 と考える風が大和では強かったが、これも日輪への 今でも豪雨の度に地i=りの不安に脅えるこの村の上 手向けであったことはいうまでもfj:い。太陽の有難 に、お目さんはどこよりも燦々と照っている。 みは平野部ほど早くから忘れられ,その恵みのより 天辻峠を超えて大塔村を南下すれば,天ノ川の右 切実な山地に辛うじて残っているが、日当たりのよ 岸の急崖のはるか上に、堂平・飛養曽(ひよそ) ・ い所は同時に風当たりもよい憾みがある。天川村塩 引土(ひきつち) t」どの集落が僅かばかりの緩斜地 野の一番-の南平や、十津川村南端の竹筒(たけと を漁りに群らがっている。引土から見るとずっと下 う)の葛山平fj:どそのいい例で、大和には珍しい屋 の方に、天ノ川左岸の国道168号線に沿って、川と 敷林さえ見られる。それでもやっぱりお目様の有難 山との間のいささかの隙間にはめこんだように、宇 味には替えられないのである。 井の街村が遵らなっている。字井は船ノ川や川原樋 川などの大支流の合流点にあたり、近年は戸数もふ えて、中学校・旅館・商店などが建ち並び、行き交 う車も数多い。それにひきかえ、引土は車もかよわ taining your cal only major points蝣 terminology蝣 sequence蝣 5. 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