報告1 第一次世界大戦開戦原因の謎:問題提起 - 政治経済学・経済史学会

政治経済学・経済史学会 2014年春季総合研究会
第一次世界大戦開戦原因の謎
報告1
―国際分業が破壊されるとき―
第一次世界大戦開戦原因の謎:問題提起
2014年6月20日
小野塚
知
二
はじめに
第一次世界大戦は、それ自体が大きな災厄であり、また、経済・社会の組織化を加速し、
財政を肥大化するなどさまざまな意味で不可逆的な変化をもたらしただけでなく、その後
の大恐慌、第二次世界大戦、冷戦の原因ともなり、「短い20世紀」*1全体を規定したできごと
であった。また、1870年代以降開戦直前まで維持された世界経済の緊密な相互依存関係を
分断し、この相互依存の中で可能であった安定的かつ多角的な経済発展の型を瞬時に解体
したという意味では、戦争が常に外交の失敗であるという以上に、史上まれに見る深刻な
大失敗であったということもできよう*2。1990年代に喧伝された「グローバル化」とは、第
一次世界大戦前の密接な相互依存関係にあった世界経済と類似の状態を、「短い20世紀」の
終焉によってようやく回復できるという期待の込められた語であったと理解することもで
きよう。
ところが、これほどの大事件であるにもかかわらず、それが発生した原因については意
外なほどに貧弱な解釈しか用意されていない。本研究会は、第一次世界大戦の開戦原因に
ついて多面的かつ総合的に考察して、新しい解釈の枠組を提示することを目指す。
Ⅰ
これまでの開戦原因論
これまでの開戦原因論は二つに大別することができる。一つは、わが国の世界史等の教科
書や西洋史・政治史・外交史・経済史の概説書にしばしば登場する古い通説とその改訂版であ
り、いま一つは、欧米の歴史研究が積み重ねてきた膨大な蓄積である。
(1)日本における通説
日本で最も広く流布してきたのは、帝国主義諸列強の対外膨張策の衝突が嵩じた結果、第
一次世界大戦にいたったという説で、高校の世界史の教科書から、西洋史、政治史、経済史
の概説書にまで広く発見することができる。この衝突が、植民地(ないしは地理的な諸権益)
の新規獲得策と既存利益の確保策の対立を意味するのであれば、それはたとえば、ファショ
ダ事件(1898年)や、第一次モロッコ事件(タンジール事件、1905年)、第二次モロッコ事件(ア
*1 ホブズボーム(Eric John Ernest Hobsbawm, 1917-2012)がAge of Extremes: the Short Twentieth Century, 1914-1991(1994,
河合秀和訳『20世紀の歴史
―極端な時代―』上・下、1996年)で提唱した時代区分の概念。1789年から1914年までの「長
い19世紀」(二重革命の時代、資本の時代、帝国の時代)の後に続く時代であるが、19世紀的な秩序や価値観が根本的に修
正を迫られた時代とされる。第一次世界大戦から現代が始まるという見解はホブズボーム以前にも大方の歴史家によって
共有されていた。
*2
第一次世界大戦という失敗の背景には、各国の政治指導者たちが、ナショナリズムを利用して、国内の苦難に解釈を
与え、また、階級的・地域的・宗派的な利害対立を目立たせなくしようとする目的合理的な選択と判断の蓄積が作用してい
るという筆者の考え(「失敗の合理的背景」)については、東大EMP/横山禎徳編『東大エグゼクティブ・マネジメント
デ
ザイン思考力』(東京大学出版会、2014年)に掲載されたインタビュー「
『失敗の合理的背景』という観点」を参照されたい。
-1 -
ガディール事件、1911年)のように、確かにたびたび発生してはいるのだが、それらはいず
れも外交的に解決されており、こうした衝突が解決されないままに、特定の方向に連鎖的に
展開して開戦にいたったわけではない。また、第一次世界大戦の引き金となったサライェヴ
ォ事件とそれに先立つ二度のバルカン戦争は、帝国主義諸列強が競ってバルカンに植民地を
求めようとして発生した衝突ではない。
対外膨張策の衝突を視覚的にわかりやすく、また中学生・高校生に覚えやすく示すのが、
「3
B政策と3C政策の対立」という図式的解釈である*3。しかし、3B政策と3C政策は地図
を眺めればただちに判明することだが、地政学的には相互にかすりもせず、それらの間に対
立は発生しようがない。しかも、ドイツはコンスタンティノープル(ビザンティウム)もバグ
ダードも植民地はおろか排他的な勢力圏にすらしておらず、「3B政策」とはドイツの対外
的な展開方向の期待を描いてはいるかもしれないが、インドと南アフリカ植民地とエジプト
を実効的に支配していたイギリスの「3C」とは比肩すべくもない。「3B政策」の起点が
ベルリンだとするなら、その到達すべき目的地はバグダードにほかならないが、その物的手
段として構想されたバグダード鉄道の建設にはドイツの供給しうる資本だけでは到底不足す
るため、イギリスとフランスの資本参加が期待され、実際にイギリスとドイツは、1913年7
月と1914年の6月と二度にわたって、バグダード鉄道建設へのイギリスの資本参加と、ポル
トガル植民地の一部をドイツに割譲することについて協定を結んでいる。つまり、ドイツは
3B政策であれ、アフリカの植民地分割であれ、イギリスとの協調的な関係なしには対外膨
張をなしえなかったのである。
三国同盟(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア)と三国協商(ロシア、フランス、
イギリス)の両陣営の対立に開戦原因を求める説も少なくない。こうした同盟関係が各国の
外交を硬直化させた可能性は完全には否定できないし、ドイツを当てにしてセルビアへの
宣戦布告に踏み切ったオーストリア=ハンガリーのように、同盟関係が開戦の心理的コスト
を低下させるという効果も否定はできないから、開戦の小さな副次的要因であったという
ことはできるものの、各国が開戦しなければならなかった積極的な理由は同盟関係からは
説きえないだろう。同盟関係とは所詮はカルテルなどと同様に、好都合な場合には遵守さ
れ、不都合な場合は違反や逸脱がつきものの脆弱な取決にすぎない。そのうえ、カルテル
では価格、数量、時期などが明晰に規定され、カルテル違反に当たる行為も類型化しやす
いのに対して、同盟外交の場合、想定されうる事態は非常に複雑多様であって、何をもっ
て相互防衛義務に当たるか否かを事前に取り決め、また事後的に判定するのは容易なこと
ではない。それゆえ、しばしば事情変更の原則(clausula rebus sic stantibus)がご都合主義的
に適用されて、同盟の義務も、場合によっては同盟関係そのものも、反故にされてしまう*4。
*3
「3B政策」、「3C政策」という語の起源と用法の変遷については、佐野匡平「歴史用語としての3B性悪・3C政策
の起源」『西洋近現代史研究会会報』第27号、2013年を参照されたい。
*4
日本では、国家とはその名誉のために同盟の義務を堅持するものと根拠なく考えがちである。たとえば、日独防共協
定(1936年)の締約国ドイツが、さらに日独同盟の交渉中であるにもかかわらず、防共協定の事実上の仮想敵国であるソ連
との間にも不可侵条約(1939年)を結んだのに驚き、「欧洲の天地は複雑怪奇」との理由で内閣が総辞職するほどであった。
また、その2年後には日本もソ連と中立条約を結んだが、1945年8月にソ連が日本に宣戦布告したことを条約違反と非難
する見解もあるが、ソ連の対日宣戦が不当であるか否かを論ずる以前に、そうした条約が常に無条件に守られてしかるべ
きという発想そのものを疑うべきであって、同盟外交を開戦原因とする説はこうした観点からも支持しがたい。
-2 -
イタリアは第一次大戦開戦時に同盟関係にしたがって参戦しなかったが、それは同盟国オ
ーストリア=ハンガリーがセルビアに侵略されているわけではないから、侵略されている同
盟国を守る義務は発生していないとの論理によって正当化された。イタリアはその後、一
年近い打算の末に英仏側について、同盟国に対して宣戦したから、三国同盟におけるイタ
リアの事例は、同盟関係が期待したのとはまったく逆の結果をもたらすこともあるのを示
している。
逆に、ドイツ、ロシア、フランス、イギリスの参戦は一見するなら、同盟関係にしたが
っているように見えるが、各国に参戦の必然性は固有にはなかったにもかかわらず同盟や
協定*5の定めにしたがったがゆえに参戦したのだ
―すなわちオーストリア=ハンガリーと
セルビアの局地戦争を欧州大戦に発展させたのは同盟関係である―
という解釈は大いに疑
わしく、それぞれの国に固有の状況の中で参戦は決断されたのである。同盟外交に開戦原因
を求めるのは、帝国主義的対外膨張策の衝突や、「3B政策対3C政策」と同様に、開戦と
の因果関係の疑わしい過度の単純化であって、学校教育の場での教えやすさや、教科書・概
説書・事典などの限られた紙数でもっともらしい開戦原因を書くという以上の意義はない。
(2)通説の改訂版
わが国の西洋経済史研究では、帝国主義諸列強間の経済的相互依存関係という、レーニン
の『帝国主義論』では無視された側面に注目して、経済的に密接な関係にあるのに、なぜ戦
争にいたったのかを説明するために、通説を経済史的に精緻化する試みがなされてきた。
吉岡昭彦は、S.B.ソウルによって提示された多角的貿易決済機構にも内的な矛盾があった
として、それを、アメリカ、フランス、ドイツ各国経済のポンド体制からの自立・乖離の傾
向としてとらえた。フランス銀行の金兌換部分的停止など、ポンド体制を補完する機能から
の離脱が見られたのだが、その中で、「イギリス、ドイツ両帝国主義の総機構的=総政策的
対立が第一次世界大戦に帰結するするにはいま一つの直接的契機が必要であった。それは、
大戦前夜とりわけ1913年に至って、ドイツは、東欧諸国、トルコにおける利権獲得競争で、
イギリスとりわけフランスに譲歩を余儀なくされたことである。[中略、その結果、英仏と
の]資本輸出競争におけるベルリンの能力の貧困とその限界が露呈されたのである。まさに
それは、『ドイツ帝国主義の危機』(フィッシャー)を意味するものであり、『危機』の克服
は、もはや戦争による決死の跳躍以外にはありえなかった」*6。また、吉岡は別の書物でも、
1907年恐慌で露呈したドイツ資本主義の再生産=信用構造の脆弱性を強調して、ライヒスバ
ンクの「第一機能=国際的支払のための準備金喪失は、ライヒスバンクの国際的破産を意味
する。他方、第三機能=現金支払・銀行券兌換準備金の喪失は、同行を頂点とする全信用制
度の崩壊を意味する。それは『ドイツ帝国主義の危機』(フィッシャー)を意味するものであ
り、『危機』の克服は、もはや戦争による決死の跳躍以外にはあり得なかった」と述べるの
*5 三国協商とは露仏、仏英、英露各二国間の協商関係の集積に過ぎず、三国同盟のような軍事的な防衛義務は含まない、
より緩い協調関係である。露仏間には1892年に軍事協定が、また仏英間では1912年に軍事協定が締結されており、また英
露間では大戦直前に海軍協定締結のための交渉が進められてはいたが、イギリスが開戦直前まで中立の可能性を捨てなか
ったように、これらの協定がイギリスの外交を決定的に制約したわけではないし、グレイ外相に対して内閣と議会はフラ
ンスやロシアとの軍事的関係に傾斜しすぎないように釘を刺してすらいた。
*6 吉岡昭彦『近代イギリス経済史』岩波書店、1981年、283-284ページ.
-3 -
であるが*7、では、戦争という決死の跳躍によってドイツ帝国主義の金融的脆弱性は具体的
にどのようにして解決されえたのであろうか。ここでは、帝国主義の矛盾から第一次世界大
戦の開戦原因を説明しようとする吉岡の論理に無理な跳躍があるといわざるをえない。
もとより、吉岡も指摘するとおり、「短期借の長期貸」のドイツは英仏との金融的関係を
断ち切ってしまえば、国内信用はもとより、中東欧および中近東への資本輸出(=「世界政策」
の経済的遂行)もままならいのであって、決死の跳躍はドイツ経済の正常な運行の死滅を意
味したであろう。また、吉岡は「『マルク決裁圏』の先端に位置したバグダード鉄道は、ま
さにエムパイア・ルートに打ち込まれた『ドイツの楔』deutsche Keilに他ならなかったので
ある」と3B・3C的な理解を示すのだが、すでに見たように、英仏の資本に依存すること
なく、バグダード鉄道の企画を進めることは不可能だったのである。
藤瀬浩司は、1980年の著作で、多角的決済システムの崩壊要因としての第1環節[イギリ
ス=アジア・アフリカ・ラテンアメリカ関係]の弱体化と米独等による浸食、ポンド手形流通
の優位性の後退(殊にヨーロッパ)、資本輸出の政治的性格の強化などに注目して、そうした
多面的な崩壊要因が「資本主義諸国間の政治的軍事的抗争を生み出していった」と述べてい
るものの、「ここでは、古典的帝国主義の時代における列強の対立の具体的歴史については
おくことにする。政治的・軍事的対立関係はひとたび前提が与えられればそれ自身の論理で
展開する。第一次世界大戦はその帰結であった」と、開戦原因への直接的な言及を控えてい
たが*8、後に、以下のような新しい帝国主義論的な解釈を示した。
すなわち、藤瀬[1993]は、「第1次世界大戦は[中略]帝国主義が生み出した世界戦争の典
型であった」としながらも、ホブスンやレーニンを批判して、「資本輸出と植民地支配を直
接に結びつけることは、論理的にも、また事実のうえでも無理がある。それは、われわれの
時代の資本輸出を考えれば理解できるであろう」と述べる。藤瀬はむしろ、既存の国際秩序
と後発国の経済発展との矛盾に注目する。すなわち、「グローバルな世界経済の成立、内的
な緊密度の上昇は、国際間であれ、あるいは開発地域内部であれ、経済活動を保護し、紛争
を解決する制度や政策が必要となる」が、19世紀的な国民国家とにとって国際関係とは高い
レヴェルでの外交か戦争であって、経済活動の保障は慣習法的になされるにすぎず、しかも
国際秩序は英仏蘭や露清のような古い帝国の政治的枠組みに大きく制約されていたため、
「後
発の工業国であるアメリカ、ドイツ、イタリア、日本が、必要に応じて、そうした帝国内で
鉄道、鉱山・石油、農業などの開発投資をしようとし、また、ますます多様化する原料を調
達しようとする場合、直接の規制あるいは間接の制限をうける可能性を十分に持っていた。
こうした19世紀的な国民国家と国際経済秩序を前提とする限り、植民地獲得をめぐる争い、
さらに世界戦争は避けがたい結果であった」。こうした「帝国主義的な袋小路を避けるため」
に模索された選択肢の一つがドイツの帝国宰相ベートマン=ホルヴェークが発表した「9月
綱領」(≒中欧経済同盟構想)であり、もう一つがウィルソンの平和原則14ヶ条であった*9。
さらに藤瀬[2012]はこの説を、次のように展開した。シュンペーターは「一般的に帝国主
義を資本主義から切り離し、その政治的・社会的要因がもつ独立の意義を明確にした点で、
*7 吉岡昭彦『帝国主義と国際通貨体制』名古屋大学出版会、1999年、261ページ.
*8 藤瀬浩司『資本主義世界の成立』ミネルヴァ書房、1980年、281-282ページ.
*9 藤瀬浩司『新訂 欧米経済史:資本主義と世界経済の発展』放送大学教育振興会、1993年、158-161ページ.
-4 -
研究史において、一つの代表的な立場を代表している」が、ヴェーラーやセンメルらの、国
家秩序・社会安定の破綻を回避する目的で帝国主義的な膨張政策がとられたと考える社会帝
国主義論は、「内政の優位」を強調するあまり、国家政策における国際関係の制約や影響を
十分評価せず、ドイツの権力構造についても「前工業的」、「半絶対主義的」などの一面的
理解が難点である。他方、当時の資本主義が経済的論理必然的に帝国主義を生み出すと考え
ているホブスン=レーニンの帝国主義論は、「資本輸出は必ずしも植民地領有や国際紛争に
導くとはいえないし、各国の資本主義によって資本輸出のもつ意味は違っている」ことが説
明できないことに難点がある。「20世紀の歴史をたどれば明瞭なように、経済的要因がいか
に重要であるとしても、国際秩序のあり方、あるいは国際問題の処理の方法と基準、これら
を調整する覇権国の能力という政治的要因によって、状況は大きく違ってくる」として、帝
国主義時代を理解する上での政治的要因の重要性を強調する。藤瀬によれば、帝国主義時代
の政治的課題は、①19世紀の主権国家システムが自然発生的に生み出した国際秩序では、18
70年代以降の世界経済のグローバル化と稠密化の中で発生する頻繁な紛争や軍事同盟に対応
しえず、古い国際秩序は再編を余儀なくされること、②イギリスが自ら無条件最恵国待遇条
項から後退して自由貿易体制が崩壊しつつあるなかで、いかなる新しい通商体制を創出でき
るかということ、③旧型帝国の崩壊と多数の民族の政治的独立を求める運動へいかに対応す
るかの三点であった。この政治的課題をどの国の主導で進めるか、いかなる形態で実現する
のかという点で、再編の主導権を握りうるのは米独であったとして、藤瀬はここでも、「9
月綱領」とウィルソン14ヶ条をその証拠として挙げる*10。このように、藤瀬[1993]と藤瀬[2
012]は、経済の変化に対応できない古い国際秩序・国家システムの問題が第一次世界大戦の
原因になりうることを示唆するが、直接的な原因
―すなわち、戦争に突入することによっ
て、古い国際秩序の問題がいかに解消されると当時の政治家たちが考えていたのか―
は論
ずることなく、議論は、大戦中に米独で出された世界の再編構想に回収される。はたして、
開戦後のできごとで大戦の原因を説明できるのだろうか。
(3)欧米での開戦原因研究
欧米の研究は、まずは第一次世界大戦終了直後から、各国の外交文書を用いた外交史的
な研究として始まっている。それらは、自国が開戦した正当性を示すもので、いずれも、
相手国側の動員や外交的恫喝やあるいは外交的不作為が、自国の危険をもたらしたがゆえ
に、防衛的な対応として開戦を余儀なくされたとする点で、同型の議論であった。その後、
研究は各国の意思決定過程に内政上の問題がいかに作用していたのかといった点にまで及
...
ぶようになった。こうした政治外交史の実証的な研究によって、第一次世界大戦がいかに
始まったかについてはさまざまな知見が蓄積されてきた。そこで描かれる各国の政治指導
者の姿は、戦争に突入することへの逡巡と躊躇がありながらも、否応なく開戦に向かって
―滑りやすい坂道(slippery slope)あるいは蟻地獄から這い上がれない― 様
..
子ではある。しかし、なぜ、そのような坂道にはまり込んでしまったのかは必ずしも明ら
押し流される
かにされていない。
たとえば、オーストリア=ハンガリーはバルカン戦争で勢力を拡張したセルビアを叩く機
*10
藤瀬浩司『20世紀資本主義の歴史①出現』名古屋大学出版会、2012年、150-155ページ.
-5 -
会をうかがっていたから、当初の参戦国の中では最も開戦に積極的であったと考えられて
いるが、ベルヒトルト外相は同盟国ドイツのベートマン=ホルヴェークの助言もあって軍事
行動はベオグラード占領のみに留めるつもりであったし、参謀総長のコンラート・フォン・
ヘッツェンドルフにいたっては、自国がセルビアへ屈辱的な最後通牒(7月23日)を突き付
けた後になっても、軍隊の動員には動き出さず、ようやく宣戦布告(7月28日)の後に部分
的な動員令を発しただけであった。すなわち、オーストリア=ハンガリーにとっては、最後
通牒だけでなく宣戦布告すらも、その時点では外交的な恫喝だったのであり、それでセル
ビアの譲歩を引き出せると期待していたのであった。宣戦布告の翌日にドナウ河艦隊の河
用砲艦によってベオグラード砲撃を開始はしたものの、陸軍の総動員令が発せられるのは、
さらに遅く7月31日のことであって、当初は、まじめに戦争をする気配を示していなかっ
た。同国の動員がほぼ完了するのは8月半ばのことであるが、それまでには、できるだけ
戦争は限定して、セルビアを屈服させることのみを目的とした当初の思惑は完全に裏切ら
れて、セルビアのみならず、ロシア、フランス、イギリスとの戦争に巻き込まれていたの
である。
オーストリア=ハンガリーに対して迅速な軍事行動で他国の介入を招く前にセルビア問題
を解決するよう急かしたのはドイツであったが、帝国宰相たるベートマン=ホルヴェークは
対ロシア開戦直前まで戦争回避を目指していただけでなく、ロシア、フランス、イギリス
の三国を敵に回す事態を「人知を越えた巨大な運命」に左右された結果と考えており、開戦
後も、なぜ、これほど大ごとになってしまったのかを説明できないほどであった。彼も戦
争は避けうるし、また避けたいと考えていたのだが、気付いた時には欧州大戦のただなか
にいたのである。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、最後まで、対ロシアの王室外交を進め、
他方では、対フランス戦争を回避する可能性を探っていた。ロシア皇帝ニコライ2世は一
方ではオーストリア=ハンガリーの最後通牒に機敏に対抗して7月26日には部分動員令を、
29日には総動員令を発したものの、他方では最後まで戦争への突入を躊躇し、動員令撤回
に心を決め掛けるほどであった。イギリスでは、アスキス首相をはじめ主要閣僚も開戦に
は消極的で、諸国間の仲介と、自国の中立維持のために8月初頭までさまざまな努力を重
ねてきた。ところが、ドイツがフランスに対して宣戦した8月3日の午後になってからよ
うやく、「ベルギー中立の尊重」という奇妙な条件をドイツに提示して、12時間という短い
回答期限の後、ベルギー侵犯の事実を確認してから戦争に踏み切ることになる。
政治外交史の研究の蓄積は、各国指導者たちが開戦への躊躇と逡巡を共有しながらも、
戦争に向かって否応なく滑り落ちていくさまを、当時の膨大な通信記録、メモ、日記、さ
らに回想録なども駆使しながら明らかにしてきたのだが、では、なぜ彼らが開戦を決意し
たのかは、個別的な状況証拠によって説明されるばかりであって、躊躇と開戦決断の関係
について納得しうる説明はなされていない。
開戦にいたる政治と外交の過程に関する分厚い研究の蓄積を踏まえて、近年の欧米の第
一次世界大戦に関する研究では、軍事のもつ自律的な性格や
にもたらす影響―
―たとえば動員令が国内外
帝国主義やナショナリズムの民衆心理に与えた影響、総力戦という経
験が人々の意識・感性・思想・科学に与えた影響とその「現代性」(20世紀末までを規定した
性格)、戦争の記憶や記念のされ方、第一次世界大戦の世界的な性格等々、多くの面に議論
-6 -
が及んでおり、開戦原因も複合要因で論じられることが多い。
複合要因での開戦原因論に共通するのは、民衆心理(ないし世論や時代の雰囲気)に注目
する点である。古いところでは、McNeil[1965]に収録されたホルスティとノースの「紛争の
歴史学」で示された各国指導者の言説の内容分析(content analysis)、および、それに依拠し
た篠原一の開戦原因論がある。それらは民衆心理に及んでいるわけではないが、開戦を政
治と外交の過程から時系列的に跡付けるだけでなく、各国指導者の危害意識に注目して、
「戦
....
争は交戦国指導者の心理の中に準備されていた」との解釈を示した。またNye[2000]は、国
際関係の構造的要因、国内社会・政治システムに潜む要因、権力者個人の資質に由来する要
因の三層に原因を構造化し、その中で、ナショナリズムが社会主義、資本主義、王室外交
のそれぞれが求める国際連帯よりも強く、人々を戦争に向かわせていた点を指摘している。
Joll[1984,1992]は、直接的原因である7月危機の政治から説き起こして、同盟外交、軍事、
内政の圧力、国際経済、帝国主義の対立を経て、最終的に1914年の雰囲気にいたる「同心
円的手法」を提唱して、開戦のより基盤的な要因として民衆心理に注目した。Becker &
Krumeich[2008]の第一部「なぜ仏独戦争なのか?」は逆に世紀転換期の仏独の世論、1911
年以降の仏独外交関係を経て7月危機に説き及び、さらに開戦後を扱う第二部「国民間の
戦争?」でも、
「神聖なる団結」/「城内平和」や、民衆の心性と戦争文化などに注目して、
戦争を支えた民衆の心理的な基盤に光を当てている。
(4)経済史研究と開戦原因
ヨーロッパの開戦原因研究では、日本の通説にあるような経済史的な研究はほとんど見
られない。それは、開戦直前までのヨーロッパ諸国の経済がきわめて密接な経済的相互依
存関係にあるという認識が歴史家たちに
般市民の間でも―
―おそらくは同時代の政治指導者や経営者、一
広く共有されてきたからであった。日本の西洋経済史研究者たちの間
でも1970年代以降は、19世紀末ないし20世紀初頭の世界経済が多角的決済システム(S.B.ソ
ウル)や国際金本位制によって分かちがたく結びつけられていたことは知られるようになっ
ていたが、吉岡や藤瀬によって、そうした相互依存関係の内に潜む矛盾や対立を暴き出し、
それを第一次世界大戦の開戦原因と関連させる試みがなされてきたのである。
これらの試みがポンド体制の不安定性*11とドイツ帝国の金融的脆弱性を示し、また、第一
次世界大戦前の古い国際秩序と新興国をはじめとする新たな経済発展との齟齬の存在を明
らかにするなどの成果を挙げたことは事実であるが、それらは開戦原因を説明するにはま
だ相当に迂遠なところにあるといわざるをえない。突き詰めていうなら、それらは、観察
可能な経済的事象から直接的に開戦決定という人の決断や行為を説明しようとする無理の
表れである。人の決断や行為はほとんどの場合、客観的な事実によって自動的に決定され
るのではなく、客観的な事実を何らかの枠組で認識し、そこに何らかの問題を発見し、選
ばれた何らかの方向性で(すなわち価値判断にしたがって)、それを解決ないし回避しよう
として、なされる。人は、気温が25度だから外套を脱ぐのではなく、暑い(あるいは窮屈だ、
*11
同種の指摘をするde Cecco[1974]は、「列強間で宣戦が布告されるより前に」国際金本位制は崩壊していたと主張す
るが、それはオーストリア=ハンガリーのセルビアへの宣戦布告を知って、ロンドンの金融界が文字通り恐慌を来した結果
であって、国際金本位制に開戦原因が潜んでいたということを主張するものではない。
-7 -
あるいは外套を着たままでは失礼に当たる)と感ずるから脱ぐのである。開戦という決断や
行為にいたる過程を、「決死の跳躍」の一句に縮約するのではなく、また、開戦原因を事後
に表明された構想で説明するのでもなく、解釈しうる枠組を提示しようというのが、本研
究会のもくろみである。
経済史研究と開戦原因論の関係についていまひとつ付言しておこう。経済的に密接な相
互依存関係が取り結ばれているということと、その内に何らかの摩擦・対立・矛盾が発生す
ることとは完全に両立しうるだけでなく、相互依存関係にそうした摩擦・対立・矛盾が存在
するからといって、その相互依存関係が早晩解体すべき運命にあるということには必ずし
もならないのである。それは、家族、友人ないし同僚の関係にも何らかの摩擦・対立・矛盾
はつきものだが、だからといってそうした人間関係がいつかは必ず絶縁すべき定めにある
わけではないのと同様の、ごく常識的なことなのだが、これまでの経済史研究は、しばし
ば、摩擦・対立・矛盾から直接に危機を論じ、危機から革命や体制の終焉を展望し、新たな
体制への転換を期待するといった発想法に無批判に馴染みすぎてきたのではないだろうか。
必要なのは、摩擦・対立・矛盾を抱え込んだまま経済システムが存続し続ける姿をありのま
まに認識するとともに、しかし、存続し続けてきた相互依存的な経済システムが、たとえ
ば戦争という外力によって瞬時に断ち切られるという事実をも承認したうえで、では、そ
の戦争はなぜ始まったのかを問うことであろう。
Ⅱ
新しい開戦原因論の必要性と可能性
以上、概観してきたように、日本の通説は支持しがたいが、信憑性の高い開戦原因論が自
明のこととして確立しているわけでもない。本研究会は、この開戦原因を改めて問い直すこ
との意義を以下のように考える。
(1)開戦原因を問い直すことの意義
自明ではなく、謎に満ちたことがらで、しかも20世紀最大の失敗といっても過言ではなく、
また、その後の20世紀全体を規定したできごとを、人為や判断、選択の結果として
―決し
て自然現象や偶発的事故としてではなく、また、たとえば経済的事象の必然的かつ自動的な
帰結としてでもなく―
記述することが求められているのである。
それは、日本の研究状況を振り返った場合には、日本にとって第一次世界大戦が
―実は
非常に重要な経験であり、また日本のその後に、米騒動、シベリア出兵、度重なる不況と恐
慌など、無視できない影響を与えているにもかかわらず―
あいかわらず「欧州大戦」にす
ぎず、また「忘れ去られた戦争」であったことが、過度に単純化され、容易に反証を挙げう
る通説を放置する背景となってきた。それに加えて、レーニン[主義]的な現代史解釈への疑
問や反省が広く共有されないままに、『帝国主義論』に依拠した大戦原因の解釈が生き延び
続けてきた状況も、いまになってなお、問い直しを必要とする背景をなしている。
欧米の研究には、こうした弱点は現れていないが、連合国(第一次世界大戦ではイギリス、
フランス、日本、アメリカ、第二次世界大戦ではアメリカ、ソ連、イギリス、フランス)に
とって好都合な開戦原因(すなわち、ヴェルサイユ条約の採用したドイツ責任論)が、殊に英
語圏の研究では第二次世界大戦後も、優勢であった。このドイツ責任論は、ドイツ帝国の「世
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界政策」こそが、帝国主義諸列強間の衝突を引き起こした主因であり、3B政策にも三国同
盟にも反映しているという点で、日本の通説とも親近的な関係にあり、それを補強ないし補
完する役割を果たした。そのうえ、当のドイツでも1960年代から70年代にかけて、緻密な実
証と論理構築を踏まえて、ドイツの内政上の諸矛盾と軋轢が「世界政策」に打って出なければ
ならなかった根本的な原因であることを証明した研究が現れ(Fischer[1961], Fischer[1968],
Wehler[1973])、それらは、直ちにドイツに戦争責任があることを意味するわけではなかっ
たにもかかわらず、さらに英語圏と日本での古い開戦原因論を補強する役割を果たすことと
なったのである。
第一次世界大戦をめぐる研究はその後も欧米では凄まじい蓄積をみせているが、ヨーロッ
パ(拡大したEU)では、内部で戦争が再発する可能性が極小化しており、大戦の経験や記憶
は、現代史の広い読者にとってアクチュアルなテーマであるものの、開戦原因はアクチュア
リティを低下させている。したがって、近年の研究の特徴は、大戦の経験や語り・記憶・記念
碑、文化・社会現象への影響などに収斂している。むろん、開戦原因についても、たとえば、The
Origins of the First World Warと題する書物が少なくとも十冊は存在するほどには論じられて
いるものの、それらの多くは難解な複合原因論や膨大な史料集であって、現代史研究者にと
っては研究状況を整理するうえで有益かもしれないが、普通の読者にとって理解しやすい開
戦原因の解釈枠組とはなっておらず、第一次世界大戦はなぜ始まったのかという問いは、簡
明な答えの提示されないままに宙に浮いた状況におかれているのである。
とはいえ、経済的関係が緊密でも、むしろ、本研究会が全体として示すように、緊密であ
ったがゆえに、戦争への蟻地獄となるような状況が発生したのだとするなら、東アジアの現
状と近い未来を冷静に考えるためにも、第一次世界大戦の開戦原因を問い直すことは喫緊の
学問的課題ということができよう。
(2)原因論の二類型
開戦原因論は大別すれば、二通りの方法がある。一つは、個別的な要因の複合として開戦
原因を描くもの、もう一つは統一的な枠組で開戦という現象を解釈しようとするものである。
帝国主義諸列強の対外膨張策の衝突が嵩じた結果という通説は、後者の最も純粋な例であり、
三国同盟対三国協商の対立や「3B政策対3C政策」論、あるいは、ドイツ帝国の勢力伸張
に対してロシア、フランス、就中イギリスが警戒心を強めた結果などの、二項対立的な説明
枠組も後者の例である。これに対して、政治史や外交史の実証的な研究では、国と時期によ
って異なる個別的な要因の組み合わせとして開戦原因が描かれる。そこでも、複数の個別的
要因は因果関係や時系列で構造化が試みられてはいるものの、しばしば偶発的な要因や、政
治・軍事の指導者個人の資質や性格から発する要因も決定的な役割を果たすと描かれること
になる。
個別的要因の複合説は、実証的な難点は少ないものの、偶発性や個人的要因が関わってく
るだけに、「もし…であったなら」という問いを免れがたく、それゆえ、第一次世界大戦と
は不運な事故だったのだ
―「もし…でなかったなら戦争は避け得た」―
という運命論的
な解釈に読者を暗黙のうちに導く性格を有する。また、国別の要因の複合で開戦原因を描く
ということは、1914年に始まった戦争が少なくとも欧州規模の大戦として勃発したのは、結
局のところ複数の独立した主体の意思決定の偶然的な組み合わせの結果である、すなわち第
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一次世界大戦は偶発的な事故にすぎなかったという結論に導かれやすく、歴史の有用性を損
なうことになるであろう。他方で、単一ないし少数の構造的な要因による統一的な枠組で、
開戦にいたる各国・各主体の状況を解釈しようする後者の説は、しばしば実証的には容易に
反証を突き付けられ、わかりやすさと裏腹のいかがわしさを免れないだけでなく、吉岡説や
藤瀬説にみられた通り、開戦という意思決定を解明するためには何段階もの説明されざる媒
介環が残されている。
(3)統一的な枠組の必要性と可能性
現在の日本で、第一次世界大戦の開戦原因をあらためて論じようとする際に、個別的要因
による開戦に至る過程の描写を積み重ねても、ヨーロッパ各国現代史のそれぞれの専門分野
以外では意味を主張しがたく、対話も成立しづらいこととなるであろう。それゆえ、現在の
日本に生き、どのような状況が戦争をもたらし、緊密な関係を損なったのか、また、今後も
同様のことが発生しうるのか否かという問いに関心をもつ者に開戦原因を物語るためには、
やはり、何らかの、しかし、通説よりは信憑性と、反証に対する抗湛性の高い、統一的な枠
組が必要となるであろう。
統一的な解釈枠組は必要なだけでなく、可能でもある。統一的な解釈枠組が可能であると
考えられる根拠は、開戦前のヨーロッパの主要国は、従来思われてきた以上に、共通性が、
それゆえに比較対照の可能性も、看取できるところに求められる。従来、たとえば講座派や
大塚史学は国別の資本主義発展・近代化・産業化のありさまを類型化して、「型」という概念
を用いて、相違を強調してきた。また、イギリスやフランスの旧連合国では、ドイツ(やオ
ーストリア=ハンガリーないしロシア)と自分たちとは異なる文化と価値観と政治的経験を
有するとことさらに強調してきた。むろん、こうした相違の認識が不要であるとまで考える
必要はないが、無用にそれに固執するなら、見えるものも見えなくなる虞がある。実際に、
イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアの六カ国には
次のように何重もの共通性がああった。
まず、第一は、発展の中の苦難の共通性である。これら諸国は、第3報告(左近幸村「第一
次世界大戦前ヨーロッパの経済的相互依存関係と開戦原因」)が明らかにするように、極め
て密接な国際分業関係にあったが、国際分業の深化とはどの国も競争劣位業種を捨て、競争
優位業種により特化する過程であるから、必然的に、どの国にも経済的・社会的苦難を経験
させるであろう。競争劣位業種やそうした業種の立地する地域の衰退・空洞化・失業はその最
もわかりやすい例であるが、競争優位を獲得する過程でも、ダンピング・飢餓輸出・激化する
国際競争などを通じてやはり苦難を経験する可能性がある。こうした国際分業が深化する過
程で経験される苦難は、各国に固有の苦難
ツのカトリック[地域]問題―
―たとえばイギリスのアイルランド問題やドイ
とも結合して、さまざまな地域対立、宗派対立、民族対立等
々の国内的な問題を発生させたし、「文化的混乱」や「道徳的退廃」などの問題とも結び付
いて苦難の経験を重層的かつ複雑なものにしていた。
第二は民衆の政治参加と世論成立の共通性である。これら諸国のいずれも、民衆(人民
people)が政治に参加する回路が開かれつつあった。成人男性の普通選挙ないしそれに近い
状態が実現していたフランスやイタリアと、何らかの制限選挙の行われていたその他の国々
との相違はあるものの、どの国にも選挙で選ばれる議会があり、政治運動を組織する政党が
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あり、政治的主張を戦わせる世論の場が公式に存在していたという点で、共通なだけでなく、
どの国も人民の政治参加にはそれほど豊かな長い経験は有しておらず、民主主義は成長過程
にあった点も同様である。議会や選挙では、政府や王室に批判的な勢力も存在し、また批判
的な世論も新聞・雑誌などの形で存在が認められており、上述の経済的・社会的・文化的苦難
の原因や責任をめぐってさまざまな解釈が競う状態にあったから、業種的・地域的苦難の経
験は、決してその中だけに閉じた現象ではなく、条件が整えば国政と世論を揺るがす問題と
なる可能性があり、少なくとも潜在的には、政府や諸政党の政治家たちにとって無視できな
いことがらだったのである。
第三は社会主義勢力の存在とナショナリズムという対抗勢力の共通性である。19世紀末以
降の各国はいずれも、内部に、無視しえない規模の社会主義勢力を抱え込んでいた。これら
の政党や運動は、上述の経済的・社会的・文化的苦難に関する社会主義的な解釈を提示して、
資本主義の終焉ないし改変と労働者の国際連帯による将来とを展望していた。すなわち、地
域別・業種別・宗派別等の苦難は、全国的な政治問題にも転化しうるだけでなく、さらにその
解決策は社会主義/労働運動の勢力によって国際的(international)な仕方で提示されていた
のである。こうした体制転覆の構想に対抗しうるもっとも安易でしかし強力な解釈は、ナシ
ョナリズム(外敵によって自国民の利益や尊厳が脅かされているという被害者意識と、その
外敵に内通する異物・裏切り者が国内に存在するという猜疑心との複合)*12によって提供さ
れ、非社会主義的・反社会主義的な政治家たちによって利用されたのである。
第四は他国に関する豊富な情報の存在という共通性である。どの国の民衆も、新聞や雑誌
を通じて、また芸能や学問を通じて、他国に関する多様な情報に同時代的に触れていた。し
かも新聞等の定期刊行物は20世紀初頭には絵入りないし写真入りが当たり前になっていたか
ら、他国に関する情報は視覚的な映像や、音楽会・劇場での他国の響きもともなって、より
非言語的な仕方でも補強されていた。それらはむろん、ジャーナリストや著述家、芸人たち
によって選択され、改変され、わかりやすくかつ受け入れやすい形で提供された情報ではあ
るが、相互に他国を知らないのではなく、そうした情報を通じてよく知っていたのではある。
しかも、イギリスにおいて経済的ナショナリズムを煽り立てる役割を果たしたウイリアムズ
の『メイド・イン・ジャーマニー』(1896年)のドイツ語訳が同年にはドイツで刊行され*13、ま
た、ドイツにおける文化的ナショナリズムを支えたH.S.チェンバレンの『19世紀という土
台』(1899年)の英語版は1910年にはイギリスで刊行されている*14。また、英語圏で自由主義
的な平和主義を唱えたエンジェル『大いなる幻影』(1910年)は数年のうちに、フランス語、
ドイツ語、日本語に翻訳されている*15。こうしてヨーロッパ諸国の民衆は、他国の民衆の自
*12
被害者意識と猜疑心というナショナリズムの特徴については、小野塚知二「ナショナル・アイデンティティという奇
跡
-二つの歌に注目して-」永岑三千輝・廣田功編『ヨーロッパ統合の社会史』日本経済評論社、2004年を参照されたい。
*13
Ernest Edwin Williams, Made in Germany, Heinemann, 1896, and E.E.Williams, "Made in Germany", autorisierte
Übersetzung von C.Willmann, Verlag von Carl Reißner, 1896.
*14
Houston Stewart Chamberlain, Die Grundlagen des neunzehnten Jahrhunderts, F.Bruckmann, 1899, and Houston Stewart
Chamberlain, Foundations of the nineteenth century, translated by John Lees, J.Lane, 1910. 原著は10年間で9版を重ねた。
*15
Norman Angell, The great illusion : a study of the relation of military power to national advantage, Heinemann, 1910,
Norman Angell, La grande illusion, Hachette, 1910, Norman Angell, Die falsche Rechnung : was bringt der Krieg ein?, Vita,
n.d.[1911], ノルマン・エンセル著/安部磯雄譯『現代戰爭論 : 兵力と國利の關係』博文館、1912年.
- 11 -
分たちに向けられた敵意や不信感や、他国の民衆の自己認識を、ほぼ同時代的に知りうる状
況にあり、それは、ナショナリズムの敵愾心に鏡像的な性格を与える根拠となった。
(4)もう一つの統一的な枠組
―オスマン帝国の蚕食過程―
この研究会では独立した論点として扱うことができないが、開戦原因の統一的な枠組とし
てはもう一つの可能性もある。それはオスマン帝国の領土がヨーロッパ諸国およびヨーロッ
パ系諸民族によって蚕食される過程を通じて、各国が第一次世界大戦へいたる道程を辿った
という解釈枠組である。フランスとイギリスが北アフリカのオスマン領とその周辺領域を蚕
食し、また地中海の東方に列強の保障の下に東アナトリアやレバノンなどの特権諸州が成立
したあとに、ファショダ事件やモロッコ事件などが発生し、それらが一通り収まったあとに、
イタリアがヨーロッパにおける大国の地位を得るために、トリポリタニア(リビア)をオスマ
ン帝国から奪う戦争を仕掛ける。この伊土戦争(リビア戦争、1911-12年)のさなかに、帝国
の首都イスタンブルでは政変が発生して、オスマン帝国のこうした混乱と弱体状況につけ込
んでバルカンでは諸民族が帝国からの自立を強め、また領土を拡張するために2次にわたる
バルカン戦争が発生した(1912-13年)。
第2報告(馬場優「第一次世界大戦前ヨーロッパの外交関係と開戦原因」)でも触れられ
るはずだが、バルカン戦争中からのオーストリア=ハンガリー内外の不安定な状況がサライ
ェヴォ事件と7月危機の直接的な原因となり、第一次世界大戦の引き金を引いたのだが、
欧亜にまたがるオスマン帝国の秩序を混乱させることがヨーロッパ全体を巻き込む戦争に
つながるのではないかという危惧はすでに同時代的に存在していた。たとえば、イタリアで
はナショナリストのトリポリタニアへの飽くなき欲求に疑念を抱いたジョリッティ首相は、
オスマン帝国から領土を分割し続けることの危険性について1911年5月に以下のように懸念
を表明していた。「ナショナリストたちはトリポリタニアは貧しく愚かな黒人の領土で、ヨ
ーロッパ人の国家が望むときにはいつでもそれを植民地化できると夢想している。だが、ト
リポリタニアはオスマン帝国の一地方であり、オスマン帝国はヨーロッパの一大国である。
それゆえ、オスマン帝国の現有の領土を保全することがヨーロッパの均衡と平和を保つのに
必要な諸原則の一つなのである。しかるに、トリポリタニアを奪うためにはオスマン帝国に
戦争を仕掛けなければならず、ヨーロッパの一大国と戦争をするためには、道理だけでなく、
少なくとも一つくらいは口実がなければならない。オスマン帝国に対する戦争を正当化でき
ないなら、それはヨーロッパに対しては、トリポリタニアがほしいというナショナリストの
方針を宣言しているにすぎない。オスマン帝国を保全することは、ヨーロッパの均衡と平和
を保つ一条件なのである。ヨーロッパという古い建築物の隅の首石(pietre angolari)を粉々に
砕いてしまうことは、はたしてイタリアの利益なのだろうか。たとえそうだとしても、イタ
リアがトルコを攻撃した後に、バルカン諸国が動き出したりはしないだろうか。さらに、バ
ルカン戦争はヨーロッパの両陣営間の衝突を招き、欧州戦争につながるのではないだろうか。
火薬に火を放つ責任をイタリアは負うことができるのだろうか」*16。
ここでは、バルカン諸民族の動向と両陣営に分かれた同盟関係
*16
―火の付きやすい火薬を
Gugliermo Ferrero, Potere, a cura di Gina Ferrero Lombroso, Milano, 1947, pp.325-326, citato in Francesco Malgeri,
La Guerra Libica (1911-1912), Roma, Edizioni di Storia e Letteratura, 1970, pp.98-99.
- 12 -
抱え込んだ状態―
を前提にした場合、ヨーロッパを構成する大国の一国の秩序を不安定化
することが、激変の引き金になることが危惧されているのであるが、こうした観点からの、
第一次世界大戦開戦原因の解釈枠組は、ある程度はオーストリア=ハンガリーとロシアとい
うオスマン帝国と並ぶ古い帝国にも当てはまるであろう。これらロシアとオーストリア=ハ
ンガリーは領土をヨーロッパに蚕食されつつあったわけではないものの、国内と周辺領域の
秩序の衰退ないし解体過程にあり、その中でさまざまな混乱・抗争・暴力を経験していた。ロ
シアの1905年革命もサライェヴォ事件もそうした混乱や暴力の一例と解釈することができよ
う*17。
Ⅲ
開戦原因の謎
―何が説明されなければならないか―
この研究会の企画は、従来の第一次世界大戦開戦原因論に不満を感ずるところから始まっ
ている。では、どこに不満があるのだろうか。それを開戦原因の謎として、以下に簡略に示
すことにしよう。こうした謎を立てる基本的な立場は、従来の帝国主義論的な通説であれ、
政治外交史の蓄積であれ、にわかには信用せず、各国が開戦しなければ達成できないいかな
る利益があったのか、あるいは、戦争によらなければ解決できないいかなる問題を抱えてい
たのかが明らかにされる必要があるというところにある。戦争でなければ達成しえない利益
や解決できない問題を抜きにして、たとえばマルクの脆弱性や、大国としての承認願望や、
勢力均衡論などのあやふやな議論で開戦原因をわかったつもりになることを自ら戒めようと
いう発想である。
予め二つことわっておこう。第一は、ここに挙げる謎が全てではないということである。
他の謎の存在は何ら排除されていない。殊に、開戦当時の政治・軍事の指導者たちの主観に
おける戦争と、実際に足かけ5年も戦われた戦争との大きな差
える影響という点でも―
―期間の点でも、経済に与
がなぜ発生したのかという謎は本研究会では、取り上げない。こ
の謎を解くためには、一方では、古い戦争観(実際の戦闘はほんの数日で、膠着状態に陥れ
ばどこかの国が和平の仲介に登場するという中世以来19世紀まで堅持されてきた戦争観)と
脳天気な経済観(経済とは政治・外交・軍事とは別のところで営まれている自然現象のような
もので、戦争によってそれが破壊されるなど夢想もしていない経済観)がいかに広く各国の
指導者に共有されていたかを明らかにし*18、他方では、実際の総力戦・長期戦の過程で、経
*17
オスマン帝国の蚕食と秩序の解体過程については藤波伸嘉「オスマン帝国と『長い』第一次世界大戦」池田嘉郎編
『第一次世界大戦と帝国の遺産』山川出版社、2014年を、また、オーストリア=ハンガリーの秩序の衰退状況については馬
場優『オーストリア=ハンガリーとバルカン戦争:第一次世界大戦への道』法政大学出版局、2006年をそれぞれ参照された
い。また、非正規軍や民兵組織等による準軍事的な暴力(paramilitary violence)がヨーロッパの東および南の、秩序の弱い地
域では第一次世界大戦前に始まっており、それは大戦終了後も少なくとも1923年頃までは続いたのだが、この長い準軍事
的暴力の過程で、それが正規軍の戦争行為にまで高まったのが第一次世界大戦として、大戦をより長い暴力の系譜の中に
位置づける試みは、オスマン帝国などの秩序の解体過程として第一次世界大戦開戦原因をとらえようとする際にも示唆に
富むと考えられる。Robert Gerworth & John Horne eds., War in Peace: Paramilitary Violence in Europe after the Great War,
Oxford University Press, 2012を参照されたい。
*18
古い戦争観と脳天気な経済観が20世紀初頭の時点で決して必然ではなかったことは、Ivan S.Bloch, The future of war :
in its technical, economic and political relations : is war now impossible?, Doubleday & McClure, 1899(ロシア語原著は1898年、
フランス語訳、ドイツ語訳は1899年刊行)が、来たるべき戦争が長く厳しいものになること、長期継戦のための経済的条件
や、その中で経験されるであろう経済的困難について、驚くほどリアルに予想していることからも知ることができる。
- 13 -
済・社会の組織化を通じて、従来なら不可能であった何が可能になったのか、しかし、そこ
でも、永遠に無理を続けるわけにはいかなかったのはいかなることがらであったのか、とい
った一連の問いに答えなければならず、到底、今回の研究会の片手間でできることではない
ために、今回の課題からは完全に外すこととしたい。第二の留保は、下に挙げる6点の謎を
完全に解明することは目指さないということである。本研究会にできるのは、これらの謎を
解くための、できる限り単純な解釈枠組を仮説的に提示することである。その枠組によって
これらの謎がどの程度綺麗に解き明かされ、また、いかなる新しい謎が発生するのかについ
ては、今後の研究に委ねざるをえないだろう。
(1)サライェヴォ事件から開戦までの当事者の拡大
第一次世界大戦の開戦状況を振り返る者が誰でも感ずるのは、大戦の引き金となったとい
われるサライェヴォ事件と、その後1914年8月までの戦争当事国の拡大との間にある大きな
溝であろう。第2報告で明らかにされるように、サライェヴォ事件が、あるいはその背後に
あるバルカンの情勢が、オーストリア=ハンガリーにとって非常に重大な問題であったこと
は否定できないとしても
―とはいえ、先に指摘したように、オーストリア=ハンガリーは
対セルビア宣戦布告の時点で、後にわれわれが知るようになった大戦を予期していないだけ
でなく、そもそもセルビアに対してすら本格的な戦争をする気があったのかは大いに疑わし
いのだが―
、それ以外の国がなぜ、オーストリア=ハンガリーとセルビアの開戦からわず
か一週間のうちに戦争の嵐の中に自ら進んで入って行ったのかは、決して自明のことではな
い。ロシア、ドイツ、フランス、イギリスのそれぞれにとって、サライェヴォ事件とバルカ
ン問題が、自国が戦争を始めなければならないほどの死活の問題であったとは到底考えられ
ないからである。
これら4国の戦争への参加は、従来の研究ではおよそ以下のように説明されてきた*19。す
なわち、ロシアはスラヴ系諸民族の盟主としてセルビアを見捨てることができなかったから、
オーストリア=ハンガリーに対抗する部分的動員令を発し、ドイツは、動員体制解除という
要請がロシアに容れられなかったために、自国とオーストリア=ハンガリーを防衛するため
に、シュリーフェン計画にしたがって、ロシアとフランスの両国に対して開戦した。フラン
スはこうしたドイツの戦争への傾斜に対抗するためにロシアとともに戦うことを決意し、イ
ギリスは最後まで戦争回避の望みを捨てなかったものの、ドイツがヨーロッパ大陸で圧倒的
な力を示して、勢力均衡が崩れる事態を憂慮して、しぶしぶ開戦に踏み切った、と。
しかし、ここにもさまざまな疑問が生まれる。ロシアにとって、「スラヴの盟主」として
「セルビアを見捨てない」ことは、軍隊を動員してドイツとの戦争の危険性を高めるほどの、
どれほどの重要性があったのであろうか。「盟主」や「見捨てない」などの句は簡潔でわか
りやすいが、こうした問いに答えうる説明力は根本的に欠いている。あるいは、ドイツはな
ぜ、ロシアの対墺部分動員に過剰に反応して、あれほど頑なにシュリーフェン計画にしたが
って、古来愚策とされている二正面作戦に出なければならなかったのであろうか。露仏同盟
に包囲されている状況では、ロシアの戦争準備が整う前にフランスを制圧して、しかるのち
*19
各国の開戦過程のもっとも簡潔で、標準的な説明は、小関隆・平野千果子「ヨーロッパ戦線と世界への波及」山室信
一・岡田暁生・小関隆・藤原辰史編『現代の起点 第一次世界大戦 1世界戦争』岩波書店、2014年を参照されたい。
- 14 -
に、とって返してロシアを蹂躙するしか、自国を守る術がなかったと解釈されることが通例
であるが、これもはなはだ不確かな説である。いかに露仏同盟に挟まれているからといって、
両方を同時に敵とする前に、どちらか一方に限定するように努めるのが外交的にも軍事的に
も常識であろう。シュリーフェン計画は鉄道の時刻表のように
りを鉄道輸送に依存する計画であったから―
―実際に軍隊の移動のかな
正確に実行されなければならなかったので、
当初定められた二正面作戦以外にはありえなかったという説もあるが、軍事とは相手の出方
や天候次第で臨機に作戦を微調整しながら進めざるをえないし、鉄道とはもとより事故や遅
延の可能性をはらんだ輸送手段であって、時刻表のような作戦遂行が必要であったなどの俗
説は、軍事を知らぬ者がシュリーフェン計画を神話化しただけのことにすぎない*20。
サライェヴォ事件から一月余のうちに、オーストリア=ハンガリーの対セルビア宣戦から
一週間で主要交戦国が勢揃いしたことは、決して自明ではなく、説明を要することがらなの
である。
(2)イタリアと他の主要参戦国との相違
戦争の利益や、戦争によらざれば解決できない問題がいまひとつ明確ではないのに戦争に
突入したこれら4国に比べるなら、イタリアが、同盟関係にもかかわらず
オーストリア=ハンガリーとドイツの非難と不信を浴びながらも―
―実際に同盟国
当初は冷静かつ計算高
く参戦しなかったのはなぜだろうか。戦争になだれこんだかのように見える4国とイタリア
との間にはいかなる相違が作用していたのであろうか。
(3)躊躇・逡巡と開戦への傾斜
すでに触れたとおり、各国の政治的指導者の多くは、開戦に、さらには動員に対しても、
躊躇・逡巡していたのだが、それにもかかわらず、これまでの政治史研究が明らかにしてき
たとおり、各国は8月の第1週には戦争に突入している。このときの戦争は、自然現象でも
事故でもなく、国家の意思決定=宣戦布告によるものだから、躊躇・逡巡の存在と戦争の意
思との関係が問われなければならないのだ。
それを滑りやすい坂や蟻地獄と表現したのはやや不適切かもしれない。意図とは別の方向
に人々が押し流されるのは、坂や蟻地獄のような客観的な状況が、意図通りの行動を妨げて
いる場合だけではないからである。もし、その表現を用いるのなら、それはいかなる意味で
抗し難い客観的な状況なのかが明らかにされなければならないであろう。
躊躇・逡巡と戦争への突入との関係を説明するもう一つの可能性は、単純なことだが、そ
こには二つの意思
―戦争をためらう意思と戦争に向かう意思―
が関与していたというも
のである。では、指導者個人が二つの異なる意思をもっていたのか、それとも、指導者の意
思とは別に、より強力な意思が政治的指導者たちを戦争の方向に押し遣ったのか、指導者を
押した強力な意思とはいかなるものだったのであろうか。
*20
シュリーフェン計画の理解をめぐっては、石津朋之「『シュリーフェン計画』論争をめぐる問題点」防衛研究所『戦
史研究年報』第9号、2006年、および清水多吉・石津朋之編『クラウゼヴィッツと『戦争論』』彩流社、2008年、殊に第7
章「プロイセン・ドイツ軍とクラウゼヴィッツ」(中島浩貴)が参考になる。
- 15 -
(4)殊にイギリスの開戦決定
イギリスも政治的指導者たちが開戦に躊躇した国である。かつて親ボーア派(ボーア戦争
時の平和主義者)であったロイド=ジョージが社会保険の先進国であるドイツへの対抗意識
は旺盛であったものの、戦争よりは内政(自由党の社会改革)に関心があっただけでなく、自
由帝国派のアスキス首相と彼の僚友であったグレイ外相とホールデイン(1905~12年は陸軍
大臣、1912~15年は大法官)も中立維持のために開戦直前まで努力した。グレイは、フラン
スとの協商関係、殊に1912年以来のフランスとの軍事協定を重視はしていたが、積極的に好
戦的な人物ではなく、現実主義の外相として、まずは中立策を追求しただけでなく、1914年
7月以降は金融界の意向もくんで開戦を避けるためにあらゆる努力を続けた。ホールデイン
は職掌としてドイツの軍事的な強さを知悉していただけでなく、学者としてもドイツを尊敬
しており、ドイツとの戦争を回避する知独派ないし親独派であった。1912年2月に、英独海
軍の軍縮協議(建艦競争の緩和)のためにベルリンに派遣されたのも、彼の知独派の特質を活
かすためであったし、軍縮協定締結そのものは失敗に終わったものの、ドイツがイギリスの
中立を深く求めていることは理解した。アスキス首相はグレイとホールデインを信頼してい
たから、内閣が全体として中立維持・開戦回避に傾いていたといって大過ない*21。
政治指導者たちの主観的な意図が中立に傾いていただけではない。イギリスは世界経済、
殊に金融、保険、貿易、海運の中心であったから、これらから得られる利益が戦争に参加す
ることで損なわれるのは避けるのが合理的であったし、長くヨーロッパ大陸に対しては中立
・孤立策をとってきたのだから、中立維持はその観点からも合理的であった。それなのに、
なぜ参戦しなければならなかったのだろうか。
しかも、イギリスの態度は非常に奇妙である。戦争がオーストリア=ハンガリーとセルビ
アの間に限定される見通しが消滅した7月31日以降も、イギリスは開戦回避のための最後の
努力を続けている。それほどに中立維持の意思が固かったのなら、なぜ、早くから中立を宣
言しなかったのだろうか。
それが外交的な駆け引きの自由を失うというのなら、逆に早くに、ドイツがロシア・フラ
ンスとの戦争を選択するのなら、イギリスは躊躇なくドイツに宣戦するとの意図を示して牽
制しなかったのであろうか。グレイの外交は、こうした強力な牽制の意図を示すのでもなく、
しかし、固い中立の意図を明示するのでもなく、ますます狭まり行く中立の可能性に賭ける
という矛盾した性格を示しているのである。イギリスがようやく態度を明確にしたのは、8
月3日にドイツがフランスに宣戦布告した後である。もし、通説通りに、ドイツのフランス
制圧によってヨーロッパの勢力均衡が大幅にドイツよりに傾くのをイギリスが警戒したとい
*21
アスキス内閣のなかで、例外的に好戦的だったのは海相のチャーチルである。彼は1912年にホールデインが訪独して
海軍軍縮を協議している最中に、イギリスにとって軍艦は必要品だが、ドイツにとっては贅沢品であると発言して、ドイ
ツを激怒させ、この協議を不調に終わらせる役割を果たした。さらに、チャーチルはさらにイギリスの参戦直後に、ヴィ
ッカーズ社バロウ造船所でほとんど完成していたオスマン帝国向けの戦艦レシャディエの輸出を海相の権限として差し止
めたのだが、これは第一次世界大戦開戦後も慎重に外交政策を模索していたオスマン帝国は、実はドイツに通ずる敵対勢
力であるとの認識を示したことになり、オスマン帝国の世論を決定的にドイツ寄りに傾けて、結局同帝国をドイツ側に立
って参戦させる役割を果たした。トルコを敵に回した失点を挽回するためにチャーチルはイスタンブル占領を目指してガ
リポリ上陸作戦(ダーダネルス戦役)を立案したものの、オーストラリア軍、ニュージーランド軍を中核とする上陸部隊が
甚大な損害を受けただけで失敗に終わり、チャーチル本人だけでなく、アスキス内閣全体を失脚に陥れることとなった。
- 16 -
うのなら、ドイツの参戦よりはるか以前に、それはイギリスの介入を招くと強く警告してお
くべきであっただろう。フランスのポワンカレ大統領とヴィヴィアーニ首相がフランスを留
守にしてロシアを訪れ対独軍事行動の相談をし、それに対してドイツが神経を尖らせていた
7月20~23日頃に、戦争がバルカンに限定されず、ドイツが加わるなら、イギリスは直ちに
ドイツを敵とすると警告していたなら、イギリスの中立に期待するドイツを思いとどまらせ
る効果があったかもしれないのだが、イギリスの指導者たちはむしろ中立の夢に引き摺られ
て、強い態度に出ることを躊躇っていたように思われる。
再び、それならば、最後まで中立を貫けばよかったのに、なぜ、ドイツの対仏宣戦の後に
なって、「ベルギーの中立の尊重」という些末な条件を持ち出して、ドイツに回答を迫った
のだろうか。フランスを守るつもりはないが、ベルギーなら守るといわんばかりのこの条件
設定は誰に向けられていたのだろうか。もし、ドイツがシュリーフェン計画を変更して、ベ
ルギーを通行することなく、対仏戦を展開したのなら、イギリスは
ことにはなるものの―
―フランスを見捨てる
指導者たちの期待通りに中立を辛くも維持できたのかもしれないの
だが、なにゆえ、「ベルギー」を参戦の理由にしなくてはならなかったのだろうか。中世以
来のベルギーとの友好関係や1839年のベルギー中立条約を持ち出して、これを理解しようと
する説もあるが、そのような古い事情を持ち出したところでドイツの対仏戦のやり方を変え
させるという点では、外交的にはほとんど意味をなさないことは明らかであろう。また、軍
事的にはドイツが対仏戦をシュリーフェン計画通りに、主力はベルギーを通過して北西から、
フランス軍を叩くことはほとんど明瞭であった。つまり、「ベルギー」という理由は外交的
にも軍事的にもドイツに対しては何の影響力ももちえないことは明らかであって、この開戦
の理由付けはドイツに向けて発せられたものではないし、ドイツの対仏宣戦のあとだから、
フランス向けですらないことは明らかである。では、この「ベルギーの中立の尊重」という
開戦理由は、誰に向けて発せられたのだろうか。ベルギーにここで道徳的な恩義を売ること
が、戦争に巻き込まれることより大きな利益があったとは到底考えられない。本心では戦争
を避けたいのに、戦争に向けてずるずると押し流されたという点ではイギリスの政治指導者
たちも他国と同様であるが、では、「ベルギー」を理由として戦争に巻き込まれたイギリス
の政治家たちは、はたして、何に押し流されていたのであろうか。
(5)平和主義思想の無力さ
大戦前のヨーロッパ諸国には、社会主義系の平和思想・平和運動が展開しており、戦争の
防止と開戦後の戦争への非協力(たとえばストライキ)などについて活発に議論していたのだ
が、各国の社会主義者たちのほとんどは開戦とともに、議会での戦争予算を支持し、戦時諸
法令に賛成するなど、一斉に戦争協力の側に転換したのだが、なにゆえ、これほど簡単に、
平和主義・国際主義が、国別の戦争協力、「城内平和」・「神聖なる同盟」へと変質したので
あろうか。フランスにおいて、社会主義の立場から平和を唱えながらも、他方で愛国心の意
義も認めていたジャン・ジョレスは、なぜ、開戦直前に暗殺されなければならなかったのだ
ろうか。
また、自由貿易にもとづく世界の調和的発展に期待する自由主義系の平和思想も存在して
おり、その代表格はエンジェルの『大いなる幻影』で、ただちに各国語に翻訳されるほどに
注目されはしたのだが、この説はそれが発表された数年後に実際に大戦が勃発することに
- 17 -
よって簡単に覆されてしまった。では、相互依存的でグローバルな経済は、なにゆえ、か
くも簡単に戦争によって崩壊してしまったのだろうか。相互依存的な国際分業の展開した
経済は平和の条件にはならないのだろうか。諸種の平和思想が実際に戦争に突入する際に
はまったく無力であったのはなぜだろうか。
「労働者に祖国はな」く、
「資本家にも祖国がない」ことを主張していたこれらの思想は、
戦前には、それなりの道理をそなえた強力な主張に見えていたのだが、それらをかくもたや
すく打ち砕いたのはいかなる力だったのであろうか。
(6)異なる状況下での「戦争熱狂」の共通性
第4報告(井野瀬久美惠「第一次世界大戦前ヨーロッパのナショナリズムと民衆心理」)
によって描かれるはずだが、交戦各国の開戦時の状況は、国ごとにむろん異なるものの、開
戦直前から直後にかけて、老若男女、宗派、政治的傾向の相違を超えて、民衆の間に愛国熱
狂(patriotic enthusiasm)と好戦熱狂(military enthusiasm, war enthusiasm)が沸き上がり、戦争
に協力し、軍隊に志願しなければならないと考えざるをえない方向に人々を誘導した点で、
共通性がみられたのはなぜだろうか。そうした熱狂状態の中では、女性たちは決して平和愛
好や非軍事的な性格だけで特徴付けられるわけではなく、男性たちを戦場に、また戦争協力
に追い遣る役割も果たしていたのである。
ツヴァイクやロマン・ロランによってあちこちで観察された熱狂*22、またトマス・マンの『魔
の山』主人公ハンス・カストルプを熱狂的に
に―
―あるいは何かに向かって逃亡するかのよう
前線に赴かしめた熱狂、政治にも日々の生活にも決して満足していないロシアの民衆
をも巻き込んだ熱狂は、なぜ各国で、広く、共通に見られたのだろうか。
こうした熱狂はしばしば、戦後の反戦・厭戦的な雰囲気の中で強調されて論じられたが、
それは決して、単なる回想の中だけの言説ではなく、開戦前後に確実に存在していた現象で
もあった。たとえば、マン自身は年齢もあって、カストルプのように戦場を駆け抜けるわけ
にはいかなかったものの、大戦を、イギリス・フランスの資本主義・帝国主義・民主主義の文
明に対して、真正の文化を体現するドイツが挑む戦争として正当化する論陣をはり、戦中に
『非政治的人間の省察(Betrachtungen eines Unpolitischen)』を執筆・刊行した。これはドイツ
の講壇社会主義者たちの戦時社会主義論
―ドイツでは戦争によって、資本主義的な階級対
立が止揚されて、国民社会主義の民族共同体(Volksgenossenschaft des National Sozialismus)が
出現したといった類の議論―
と同様の頭でっかちの空論ではあったが、一般大衆だけでな
く、知識人をも巻き込む形で愛国熱狂・好戦熱狂が出現したことを示している。
Ⅳ
謎を解く方向性
外側での対立の激化・硬直化が戦争の直接的な原因ではなく、欧米の研究で繰り返し唱え
られてきた複合要因論が共通して注目するのは、国内の世論や雰囲気である。したがって、
謎を解く方向性は民衆心理と政治との相互作用にある。では、なぜ、民衆心理・世論・雰囲気
はそれほど大きな力をもったのであろうか。
*22
ツヴァイクとロマン・ロランの観察については、さしあたり、山室信一「世界戦争への道、そして『現代』の胎動」
山室信一・岡田暁生・小関隆・藤原辰史編『現代の起点 第一次世界大戦 1世界戦争』岩波書店、2014年を参照されたい。
- 18 -
(1)「繁栄の中の苦難」の解釈
すでに見たように、開戦前の各国は、「繁栄の中の苦難」を共通に経験していた。国中が一
律に苦難を経験していたのなら、それは特別な解釈は必要のない、単なる国難である。とこ
ろが、戦前に経験された苦難とは、一部の業種や地域にのみ発生した苦難である。
こうした苦難に対しても、社会主義の側からは資本主義の根本矛盾や階級対立と結び付け
た解釈が提示されていたから、事態を放置するなら、「繁栄の中の苦難」を培養基として、
社会主義の勢力はますます伸張することとなったであろう。社会主義的な解釈が提起する苦
難への対策は資本主義の揚棄、あるいは資本主義の根本的な改良であった。
体制転覆の危険性や膨大な財政支出を必要とする社会改良を回避したいのなら、何らかの
対抗的な解釈が必要となるであろう。そこで調達された、最も安易ではあるが強力な言説が
ナショナリズムであった。国際分業の深化の中で否応なく経験せざるをえないさまざまな苦
難を外敵と内通者の仕業にすれば、国内に現前する問題や齟齬はとりあえずは外側に向かっ
て解消されることになる。
ここで、苦難が国際分業の深化と分かちがたく関連しているのであれば、「経済に国境が
なく」、「資本家に祖国がない」ことを主張してきた自由主義的平和思想こそが、相互依存
的な世界の資本主義経済を守るために、苦難の対策を主張すべきだったのである。おそらく、
TPPの議論を見てきた現在の経験からいうなら、自由主義的平和思想の提起すべきであっ
た対策とは、国際分業によって各国は全体として豊かになっているのだから、そこで必然的
に発生する苦難を経験する業種・地域に対しては、国民全体で納得できる手当をすべきであ
り、それは、国際分業の深化(TPPへの参加)から得られる利益で十分にまかなえるもので
あるといった主旨になったであろう。だが、エンジェルの議論は経済の相互依存関係の深化
のもたらす利益と円満な発展にただ満足して、そこから戦争や国境や関税の不要性を主張す
るだけの、戦略を欠いた浅薄な議論であったために、社会主義的な対策とも、ナショナリズ
ムの言説とも異なる、第三の対策を提示することはできなかったのである。
(2)経済的ナショナリズムと文化的ナショナリズム
―二人のチェンバレン―
苦難の経験の仕方には二つの型がある。第一は、GDP成長率よりも、輸入成長率の方が
高い国であって、そこでは苦難は全国のさまざまな地域と業種に散見されるであろう。ここ
では、経済成長によってもたらされた豊かさは輸入による産業の空洞化や失業によって食い
込まれてしまう。たとえばイギリスのGDPは1890年から1913年にかけて49%成長している
が、ドイツからの輸入の成長は145%とGDP成長率をはるかに凌駕している。実はイギリ
スのドイツへの輸出もこの期間に96%とGDPよりも高く成長しており、輸出輸入の両面で
イギリスがますます貿易依存度を高めていることがわかるのであるが、当時のイギリス人に
とって実感できたのは、GDP成長をはるかにこえるドイツからの輸入の伸張であっただろ
う。ウィリアムズの『メイド・イン・ジャーマニー』(1899年)は、まさにこうした状況で唱
えられた経済的ナショナリズムだったのである。
イギリスが国内で生産できるさまざまな品目で、ドイツからの輸入がますます増えている
という「ドイツ製品の侵略状況」を憂えるこの書物は、最後に対策「われわれは生き残るた
めに何をせねばならぬか」で、公正貿易(Fair Trade)、貨物輸送補助金、商業領事の活動、
- 19 -
技術教育の振興、そしてマーケティング、技術革新、労使関係などの多面での個別企業の努
力の5点を提案した。
これを政治に利用しようとしたのがジョゼフ・チェンバレンである。チェンバレンによっ
て「公正貿易運動」という政治的表現を与えられた経済的ナショナリズムは、通説的には190
6年総選挙での保守党・自由統一党の地滑り的な敗北によって終焉を迎えたとされている。確
かに小選挙区制の効果で、議席を402から156へと大幅に減らして、保守党党首のバルフォア
自身が落選する程の打撃を受けたのは間違いない事実であり、自由党の社会改革に道を譲っ
たように見えるのだが、得票率で見るなら、また別の側面が浮かび上がってくる。
イギリスの総選挙における各党得票率(%)
1900年
1906年
10年1月
10年12月
1922年
1923年
1924年
1929年
1931年
1935年
保守・統一党
50.3
43.4
46.8
46.6
38.5
38.0
46.8
38.1
55.0
47.8
自由党
45.3
49.4
43.5
44.2
18.9
29.7
17.8
23.5
6.5
6.7
労働党
1.3
4.8
7.0
6.4
29.7
30.7
33.3
37.1
30.9
38.0
その他
3.4
2.4
2.7
2.8
3.0
1.6
2.1
1.3
7.6
7.5
データ出所:Colin Rallings & Michael Thrasher eds., British Electoral Facts 1832-1999, Parliamentary Research Services,2000.
注:1918年総選挙では、諸政党が戦時連立派と非連立派とに分裂して選挙に臨んだため、ここでは除外した。
1906年選挙は保守党・統一党にとって、議席数では惨敗の選挙であったが、得票数では43.
4%も維持しており、決して選挙民の支持を失ったとはいえない。また、この総選挙を除く
なら、1886年総選挙以降、1935年にいたるまで保守党は常に最大得票政党なのである。むろ
ん、関税改革をめぐる論点だけが総選挙を左右したわけではないし、保守党・統一党内にも
自由貿易派がいて、自由党内にも関税改革に親近的な勢力はあったから、党派別の得票率だ
けで単純化はできないのだが、大雑把な指標としてみるなら、ウィリアムズの『メイド・イ
ン・ジャーマニー』によってイギリスの経済的ナショナリズムが宣言されて以降、保守党・統
一党は1906年の一回を除いて最大の支持を確保し、保守党が地滑り的に勝利した1931年総選
挙後のマクドナルド内閣において、ついにオッタワ協定が締結されたのであった。
J.チェンバレンは、1906年総選挙ののち、脳卒中で倒れ半身不随となって政治への直接的
な影響力は失うものの、彼が育てた経済的ナショナリズムは、彼の死去(1914年7月2日)の
直後にはイギリスの民衆をドイツへの敵愾心に向かわせる準備をしていたとはいえないだろ
うか。
これに対して、GDP成長率の方が、輸入成長率よりも高い場合は、国際分業の深化にと
もなう苦難は限定的にしか現れないであろう。たとえば、ドイツでは1890年から1913年の間
にGDPは105%成長し、イギリスからの輸入の成長率は96%、輸出はそれよりもはるかに
高率に伸びているから、国際分業にともなう経済的な苦難はそれほどは表面化しなかったで
あろう。しかし、短期資金で英仏に依存せざるをえず、また資本輸出の面で常に英仏の後塵
を拝してきたドイツに金融面での不満が鬱積していたのは、吉岡が明らかにしたとおりだし、
海運業や造船業においても、長く続く対英不利の不満は1913年になっても解消されなかった。
たとえば、ドイツ造船業界が1885年1月に発した請願では、原料の鋼材価格の面でイギリス
に対して不利なだけでなく、浮沈激しい海運業の需要変動に対応する余力もイギリスに比べ
- 20 -
て弱いため、国家の補助が必要であると訴えていた*23。こうした造船業の対英不利の状況は、
その後ドイツ造船業の成長によってかなりの程度解消されたとはいうものの、1913年にいた
ってもなお、ドイツ海運業はイギリスからも商船を輸入していた。20世紀初頭には国内の商
船建造量が毎年20~40万トンほどで完全に輸入を凌駕はしていたのであるが、相変わらず4
~13万トン程度の商船を輸入しており、完全な国産化にはほど遠い状況にあった*24。
こうした事例はあるものの、全体として順調に経済発展を遂げているドイツでは、経済的
な不満よりも、むしろ、経済発展とその背後での科学・技術の発展にもかかわらず、ドイツ
は国際社会でそれにふさわしい位置を与えられていないという不満の方が目立っていた。そ
れは一方ではヴィルヘルム二世の「世界政策」として現れ、他方では、諸種の文化的ナショ
ナリズムとして現れた。先に挙げたH.S.チェンバレンの『19世紀という土台』はイギリス
人によって、ドイツ文化の優秀性が論じられたという点で、ドイツの文化的ナショナリズム
を大いに補強する役割を果たし、マンのような知識人が、戦争熱狂に加担する条件を形成し
たといえるのではないか。
(3)経済的な関係が緊密であったがゆえの敵愾心
こうして、われわれは、経済的な関係が緊密であったがゆえに、各国ではナショナリズム
と政治の相互作用の結果として、敵愾心が成長したとの見通しを立てることができるであろ
う。しかも経済的な関係の緊密化が進展する以上、敵愾心を成長させる要因も持続すること
になるから、それは際限なく蔓延し、肥大化することになるであろう。はじめのうちは、政
治がナショナリズムを利用するという関係だったのに対して、関税戦争や
商関係にはほとんど悪影響をおよぼさなかったものの―
―それ自体は通
植民地をめぐる衝突事件や、同盟
関係の展開などによって、次第に特定の国を名指しする明瞭で敵対的なナショナリズムへと
変質し、それは、いつか、政治を逆に圧迫するようになったのである。選挙制度で議員の選
ばれる各国では、選挙民の無視できない部分に絶大な影響力を有するナショナリズムを軽視
したら、次の選挙で政治生命が断たれるかもしれないことを危惧しなければならなかったし、
新たな票田を開拓しようとする際にも、古典的自由主義の平和思想が対策を提示できない以
上、社会主義との対抗上からも、ナショナリズムにすり寄るほかなかったであろう。
(4)民衆心理を無視できない政治
ナイは、「ナショナリズムは、[国境を越えて]労働者階級を束ねると称していた社会主義
よりも、銀行家を結束させていた資本主義よりも、そして君主間の親戚関係よりも、結局、
強力だったのである」と述べている*25。ナショナリズムがこれら三つよりも強力であったと
いうことの意味は、同じではないだろう。
まず、銀行家を結束させていた資本主義は、経済の相互依存関係という実態を達成はして
いたものの、ナショナリズムに対抗しうる苦難の対策論を欠いていたから、政治に与える直
*23
"Petitionen deutscher Schiffbau-Firmen", Hamburger Nachrichten, 7 Januar 1885, cited in Verband der Deutschen
Schiffbauindustrie e.V., 100 Jahre Verbands- und Zeitgeshehen, Hamburg, 1984, S.17.
*24
Geh.Marinebaurat Tjard Schwarz, "Die deutschen Schiffwerften" in Oswald Flamm Hg., Deutscher Schiffbau 1913, Berlin
1913.
*25
ジョセフ・S・ナイ『国際紛争
理論と歴史』有斐閣、2002年、88ページ。
- 21 -
接的な影響力という点では端からナショナリズムにも社会主義よりも劣弱であったに違いな
い。
これに対して、君主間の親戚関係は共和制の国にはありえないし、君主制でも議会制民主
主義の発達した国では大きな力はもとより持ちがたい。ヨーロッパの主要国のうちで、君主
が最も強大な権力を保持していたのはおそらくロシア帝国であろうが、そこにおいてすら、
皇帝の意向は民衆の名によって、制約されざるをえなかった。たとえば、開戦時にロシアの
ドゥーマ(国会)議長であったロジアンコは、ドイツ皇帝との英文電報の遣り取りを通じて、
一旦発した動員令を解除しようと心を傾けた皇帝ニコライ二世に対して、以下のように迫る
ことができたのである。
「サゾノフ外相はちょうど参内するところであったが、皇帝陛下の[動
員令に関する]心変わりについては何も知らないようであった。そこで、わたしは皇帝陛下
に対して公式に以下のように伝えてもらうようサゾノフに依頼した。すなわち、わたしはド
ゥーマの長として、わが帝国にとって致命的となるであろうそのような時間の浪費[動員解
除による軍事行動の遅滞]が発生したならロシアの民衆は決して政府を許さないだろうとい
うことを、最高度の強調を込めて申し上げたい、と」*26。こうして、皇帝の翻意は止められ、
ロシアは動員令の下に着々と戦争に向かって突き進んだのである。
労働者階級を束ねると称していた社会主義は、どの国においても無視できない勢力をもっ
ていたし、その国際連帯と平和主義は、7月危機が深化する以前には、それなりに強いもの
と思われていたのだが、アレヴィが指摘するように、愛国熱狂・好戦熱狂の前には極めて脆
弱であった。すなわち、「大戦開始時に労働者階級の革命的感情は、国民の連帯という刺激
的な主張の前には無力であったように思われる。社会主義の指導者個人ないし指導者集団と
しては無条件平和の教義に忠実であろうとする者たちがいたのは事実だが、結果は失敗に終
わっている。教義に忠実たらんとした者たちは大衆の愛国熱狂(enthousiasme patriotique)に
一蹴されてしまったのである。それどころか、彼らの大多数は彼らをとりまく大衆の好戦的
熱狂(enthousiasme guerrier de leur entourage)に自ら心を奪われてしまったのだ」*27。このア
レヴィの指摘は、社会主義者個人の内面にも、一方では無条件平和主義が、他方では愛国熱
狂・好戦熱狂を受け入れるナショナリズムが併存しており、それらが共存できなくなった大
戦開始時には、多くの場合後者が、勝利を占めたことを意味している。社会主義が開戦時に
総崩れした原因はここに求めることができるであろう。
(5)理性と情緒
上述の問題を、ここでは理性と情緒の強度の問題として論じ直してみよう。
経済的な合理性にしたがうなら、国際分業は深化する方が望ましいし、銀行家たちの理性
は、国境、関税、戦争を過去の遺物と論ずるエンジェルの『大いなる幻影』を受け容れ、さ
らに、オーストリア=ハンガリーの対セルビア宣戦を危機と受け止めて1914年恐慌を発生さ
せた。イギリスの閣僚たちが中立を維持し、戦争を避けようとした背後には、国際経済大国
*26
Michael Wladimirowitsch Rodzianko, Errinerungen, Berlin, 1926, S.96-97, cited in Annika Mombauer, The Origins of
the First World War; Diplomatic and military documents, Manchester University Press, 2013, p.462.
*27
Élie Halévy, "Une interprétation de la crise mondiale de 1914-1918, 3. Guerre et révolution", 1930, en L'ère des tyrannies:
Études sur le socialisme et la guerre, Gallimard, 1938, p.193.
- 22 -
としてのイギリスの理性が作用していたとも考えられよう。しかし、それは戦争が始まり、
拡大し、自国も戦争に巻き込まれることを防ぐことはできなかった。
ヴィルヘルム2世もニコライ2世も、国内的には大臣や将軍たちの戦争に向かう決定に裁
可を与えたが、他方で君主間の情誼の問題としては戦争を避けようとする理性を示した。し
かし、それも戦争への坂道を逆進することはできなかった。
社会主義は、それを信奉する個人の内面においても、ナショナリズムに勝てなかったし、
社会的な勢力としても、ナショナリズムが求める戦争の方向を変えることはできなかった。
これらはいずれも、戦争に向かうナショナリズムの強さを、国を超えて表現している。で
は、なぜ、ナショナリズムの民衆心理はそれほどに強力だったのであろうか。
かつてP.M.ケネディは、第一次世界大戦にいたる数十年間の左翼(社会主義運動、労働運
動、女性解放運動など)に関する研究が膨大な蓄積を誇り、それらの運動の草の根のありさ
ままで描かれているのに比べるなら、右翼(ナショナリズム、帝国主義、人種主義など)に関
する研究が極めて貧弱であることを嘆いた*28。その原因は、第一に、第一次世界大戦前から
20世紀末にいたるまで、どの国においても、政治家や企業家たちにとって右翼よりも左翼の
方がはるかに大きな悩みの種であったがゆえに、左翼以外からも左翼は注目されたのに対し
て、右翼はそれほどの危険性をもって見られなかったということがあるだろう。さらに、第
二に、左翼は、自らが論理的で言語化された表現を得意としていたから、運動の草の根にい
たるまで実にさまざまなものが書き記され、出版されていたのに比して、右翼はそれほど多
くの文字を残さず、歌や旗、簡潔なスローガンなど、より論理的でも言語的でもない表象に
多く依存してきたから、後の歴史家が研究しようとすると、左翼の研究の方が多面的に、し
かも深く進みやすかったのである。
しかし、前者が後者よりも圧倒的に論理的で、言語化されており、多くの出版物を発酵し
たとしても、それは直ちに前者が後者よりも強いことは意味しない。むしろ、社会主義/労
働運動とナショナリズムとの同じ歌をめぐる競合関係を見ても*29、また1970年代以降急速に
社会主義/労働運動が退潮した後も、しかもヨーロッパでは統合が進展する中にあっても、
ナショナリズムが根強く残っていることにも見られるように、経験の教えるところは、むし
ろ逆で後者が前者よりも強いということである。イギリス社会主義にとって躓きの石は、エ
ンゲルスやレーニンが考えたように労働貴族ではなく、むしろ、アイルランド問題だったの
である*30。アレヴィが指摘したように、社会主義の理性的な教義と、非理性的で情緒的な愛
国熱狂・好戦熱狂とが争った場合は、後者が勝利を占めたのである。
学問とは言語的で論理的な世界に成立する業であり、歴史研究は、その成果が論理的な言
語で表現されるだけでなく、材料の面でも、圧倒的に言語的に、それも再帰的な文字として、
表現された史料を偏愛し、味覚・嗅覚・聴覚・触覚などの非言語的なものを史料として用いる
ことに成功していない。非言語的なもののうちでは、絵画や写真など、言語化して捉え直し
やすいものが好まれ、また音楽を史料として用いる場合、歌詞や標題は論じてきたが、そう
*28
Paul Kennedy & Anthony Nicholls eds., Nationalist and Racialist Movements in Britain and Germany before 1914,
Macmillan, 1981, p.1.
*29
前掲拙稿「ナショナル・アイデンティティという奇跡
*30
安川悦子『アイルランド問題と社会主義 : イギリスにおける「社会主義の復活」とその時代の思想史的研究』御茶の
-二つの歌に注目して-」263-264ページを参照されたい.
水書房、1993年.
- 23 -
した言語的要素を伴わない(ないしは言語的要素を剥ぎ取った後の)音楽固有の要素(たとえ
ば旋律、和声、リズム、音色など)を扱うことを極端に苦手としてきた。
しかし、人は言語的で、論理的で、理性的なものだけにしたがって生きているわけではな
い。むしろ、より根底的には、非言語的で、非論理的で、情緒的なものに深く縛られている
と考える方が、多くの謎を解明できるのではないだろうか。少なくともこれまでのところ、
学問の対象にはなりがたかったとはいえ、非言語的・非論理的・情緒的な要素を無視ないし軽
視したならこれからの歴史研究は、より広くは人文社会科学は躓くのではないだろうか。
むすびにかえて
先に示した開戦原因の謎がどのように解明されるかは、四つの報告と三つのコメントを踏
まえて討論の中で確かめられるであろう。
この問題提起の最後に、民主主義の中でかえって見えにくくなっていることがらに考察を
廻らすことにしよう。
民主主義とは、その担い手・主体・主権者である民衆には、過誤はないと考えなければ、安
定的には成り立たない思想である。あるいは民衆に過誤があったとしても、その結果を受け
入れる覚悟がなければ成り立たないと考えられてきた。かつて、レーニンは第一次世界大戦
終了直後に、帝国主義戦争は、社会主義ソヴィエトの主権者たる労働者・農民・兵士の戦争で
はなく、皇帝と彼の大臣や将軍たちの戦争であるから、ソヴィエト政権は帝国主義的な対立
からは卒業したし、その過程でロシアが調達した戦費の債務はソヴィエト政権は当然の事と
して負う必要がないと、債務不履行を宣言した。
しかし、この敗戦国ソヴィエトの主張はほぼそのまま、大戦直後に君主制から共和制に移
行した敗戦国ドイツ、オーストリア(およびハンガリー)にも当てはまるであろう。民衆には
罪も責任もないとするこの主張は、ドイツ民族が当然享受すべき尊厳が連合国によって損な
われたとする初期のナチズムからソヴィエトの「平和の布告」、ウィルソンの平和原則14ヶ
条にまで通底する、第一次世界大戦後の唯一の、しかし隠された標準的な解釈となったので
ある。ドイツ責任論、すなわち皇帝の誇大妄想に突き動かされたドイツの拡張妄想=「政界
政策」が第一次世界大戦の根本的な原因であるとする説は、旧連合国にとってのみならず、
第一次世界大戦後のドイツやオーストリアにとっても居心地のよい、好都合な説だったので
はないだろうか。むろん、ヴェルサイユ条約の下でさまざまに屈辱的な制約を受けたのは事
実だが、少なくともナチズムが勢力を伸張して、再び戦争への歩を進めるようになるまでは、
ドイツ責任論とは過去の責任であって、ヴァイマール共和国の責任ではないとする解釈は充
分に成立する余地があった。
これに対して、戦勝国であるイギリスとフランスは戦後、体制の転換も指導者も変化も発
生していない。戦争を国王・大統領や大臣・将軍たちに帰しがたい状況にあったがゆえにこそ、
戦争責任を君主・大臣・将軍たちにではなく、ドイツとその同盟国に求めざるをえなかったの
である。それは外敵に苦難の原因を求めるナショナリズムと同型の論理である。他方のドイ
ツの側でもヴェルサイユ体制に苦難の原因を求める同型の論理で対抗したから、第一次世界
大戦はヴェルサイユ条約によって終わることができず、もう一つの戦争を必要としたのであ
る。アレヴィはまだ、こうした対立が鮮明に現れる以前の1930年において、民衆の質が政治
の質を決定するという警句を示す事で、その後の事態を予感していたように思われる。すな
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わち、アレヴィは「大戦の『原因』や『責任』を、政治家(hommes d'État)個人の行為にでは
なく、無名の者たちの集合的な力に求めてきた。この力の前には政治家個人は無力である。
[中略]こうしたわたしの歴史解釈は政治の破産(failite de toute politique)を意味するのであろ
うか。/むしろ、わたしがいいたいのは、人類が苦闘してきた戦争という災厄の責任を政治
家にではなく、われわれ自身、つまり一般民衆に帰そうということなのである。われらが政
治家たちの賢さと愚かさは、われら自身の賢さ、あるいはわれら自身の愚かさの反映にすぎ
ないのだ」*31。
こうした考察は、いずれも民衆心理に注目した場合に、第一次世界大戦後に大戦原因がど
のような位置を占めたのかということについての試論である。しかし、民衆心理とは検証の
むずかしい対象である。すでに述べたように、充分には言語化されず、必ずしも論理的でも
理性的でもない、情緒的かつ感性的な想念は実証がむずかしいのである。したがって、第一
次世界大戦開戦原因を物語るはずの民衆の戦争責任は実証的には、見えず、確定しがたい当
時の「雰囲気」(ジョル)といったようなことを対象とせざるをえないのである。
だが、現在の日本に生きるわれわれにとって、民衆心理と政治の相互作用が戦争の危険を
もたらしという、本研究会の仮説には妙なリアリティがあるのではないだろうか。現在の
東アジア・東南アジアの経済は非常に密接で切り離しがたい関係にあるが、他方で東アジア
諸国の間にはさまざまな外交的・軍事的な問題と民衆心理上の反感・不信感がくすぶってい
る。経済的な関係が緊密なら友好的な国際関係が築かれるとの、第二次世界大戦後の通り
相場となっている信念に対しては当然の疑問が発生しつつある。平和と国際分業はいかな
る場合に壊れるのかを、百年前の第一次世界大戦勃発という事実に即してあらためて検討
するのが、今年の春季総合研究会のねらいである。学会外からの協力もえて、第一次世界
大戦の開戦原因を学際的かつ総合的に考察する場としたい。企画者の意図を乗り越えるほ
どの活発で生産的な討論を期待したい。
*31
Halévy, op.cit., pp.197-198.
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