友の会だより - さらしな堂 公式ホームページ

友の会だより
2007・春
第16号
撮影・塚田克巳
かさもりいなり
寄付で改修なったお稲荷さん
羽尾の瘡守稲荷神社の屋根をこのたび改修
しました。腐食が進んだ茅の部分をこれまで
ありあわせの材料で応急処置をしてきたので
すが、茅葺き職人も減少しているため、銅板
で葺き替えることにしました。
改修にあたっては二〇〇五年九月、別当か
らの羽尾四、五両主務区長宛の要望書を受け、
昨年四月両区総会で承認された。この決定に
より宮本組の百万円を基に工事に必要な資金
を寄付によることとし、両区の皆様方へ「趣
意書」を配布した。その結果、二百六十八戸
と企業十七社から六百七十万円が集まりまし
た。工事の施行は長坂建設、
施行協力は二見屋、
工事監理はウエスト企画設計にお願いし、同
年十二月下旬には工事が終わった。越年祭(二
年参り)は銅板の輝きがまぶしい中で営まれ
た。改修工事の落成式を本年二月三日の節分
祭に羽尾の明徳寺客殿にて行った。
瘡守稲荷神社の創建は古く、伝わる記録に
よると、鎌倉時代にはすでに武将によって修
理されたといいます。正式名称は「正一位瘡
守稲荷五社大神」で、伊勢神宮の外宮豊受大
神と同じです。また、京都伏見稲荷神社から
授与状(許可証)を賜っている由緒ある神社
です。川中島合戦の時代に消失しましたが再
建され、その後何回かの改修を経て現在に至っ
ています。一時期、花街の芸者連の参詣が多
く見られたと言われています。
今回多額の寄付を受けたことにより、当初
の屋根改修にとどまらず、入口の大扉と内装
の改修も行うことができ、大変きれいになり
ました。これを機に昔の盛況を取り戻したい
と願っております。 (西沢正人)
(2)
第十四回縄文まつりが昨年十月 けん広場」を開きました。
「カイチュウ博士」の異名を持つ藤田紘一郎さん(東京医科歯科大名誉
教授)による講演会が三月四日、さらしなの里歴史資料館でありました。
二 十 九 日 開 か れ ま し た。 今 回 は 更 高学年の子どもたちは体験コー
級小学校が初めて全校参加する記 ナ ー の お 手 伝 い が 中 心。 四 年 生 は 「共生の意味論 が
―んやアトピーはなぜ発生するのか」と題するお話に約
百六十人が耳を傾けました。参加者のお一人、信州大学の医学生で須坂市
仮装大会に四チームを送り出して
念すべきイベントでした。
にお住まいの中島舞子さんに感想文を寄せてもらいました。
「 六 年 間 で ふ る さ と を 学 ぶ 」 と く れ ま し た。 ま た、 六 年 生 は ま つ
り の 始 世 界 で 一 番 清 潔 な 国 は 日 本 で あ はアレルギーを持っています。
いう総合学習の
中 の 一 環 6年かけ地域の文化と人に触れる ま り を
ると言われます。日本人のキレイ好 私 は ウ ォ シ ュ レ ッ ト ト イ レ の 愛
告げる
に縄文ま
き は、 バ イ 菌 = 病 気 と い う 考 え に 好家ですが、あの気持ちのいい温水
つ り が 位 置 づ け ら れ ま し 鼓 笛 隊 演 奏、 五 年 生 は 豊 穣 儀 礼 の
よるのでしょうが、果た
は人体を
た。「 ふ る さ と 更 級 の 自 然 主役を担いました。
し て 清 潔 = 健 カイチュウ博士が講演会
守るいい
全児童が参加した
や 文 化、 伝 統、
康なのでしょ
バイ菌た
豊穣儀礼と縄文太鼓
人と人とのつな
う か?。 藤 田 先 生 の お 話 ち も 洗 い 流 し て し ま い、 逆 に お 尻
に合わせた踊り(写
がり」を学ぶ場
は、 寄 生 虫 と 人 間 が お 互 が 痛 く な っ た り す る そ う で す。 藤
真)は、これまでに
と し て 毎 年、 ま
い助け合って
田先生のお話に引き
ないスケールの大き
つり当日の日曜
生きていくこ
込 ま れ、 い つ の 間 に
なものになりまし
日 を 登 校 日 に し、
との大切さを
か私も藤田先生のよ
た。まつりで着た縄
全 児 童 が、 ま つ
実感し、行き過
うにサナダムシをお
文服の多くは米袋と
りの運営にも携
ぎた清潔志向
腹 に 飼 っ て み た い、
絵の具で自分たちが
わることになり
を見直すきっ
と思うようになって
作りました。
ました。
かけとなりま
いたのでした…。
一年生はこれから
一年生は山川
した。
私も藤田先生のよ
六年間、毎年違った
の恵みに感謝す
藤田先生が
うな医師を目指す医
役割を担います。大
る 豊 穣 儀 礼 で、
四十年前から
学生の一人なのです
人やお年寄りには地
学校の畑で栽培
研究に訪れて
が、 歴 史 資 料 館 の 荒
した緑豆で作った緑豆クッ 域 の 子 の 成 長 に か か わ る 役 割 と 責
いるインドネ
井君江さんのご紹介
(大谷善邦)
キーを奉納しました。二年 任が生まれました。
シアのカリマ
で東京医科歯科大学
生は堂の山で集めた松ぼっ
ン タ ン 島 で は、 今 で も 寄 を 訪 れ、 藤 田 先 生 に お 会 い す る 機
くりやドングリを材料に手
生 虫 が い る 川 で 子 供 た ち が 泳 い で 会 が あ り ま し た。 藤 田 先 生 の 研 究
づくりおもちゃの製作コー
い る そ う で す。 こ こ で は 川 の 水 が 室 で は、 先 生 の お 腹 の 中 で 育 っ た
ナ ー「 ド ン グ リ 」 広 場 を 開
食事や洗濯にも使われているので サナダムシのキヨミちゃんが飾っ
き ま し た。 三 年 生 は 自 分
す が、 ア ト ピ ー 性 皮 膚 炎 や 花 粉 症 てありました。とても優しくてユー
たちで集めたドクダミの薬草茶の
と い っ た ア レ ル ギ ー を 持 つ 子 供 は モ ア い っ ぱ い の 藤 田 先 生、 楽 し い
コ ー ナ ー を 手 伝 だ っ た ほ か、 堂 の
い な い そ う で す。 一 方、 寄 生 虫 を お 話 を 本 当 に あ り が と う ご ざ い ま
山 で 集 め た 木 の 実 を 使 っ た「 ぼ う
排除した日本では子供の三 ―
四 割 した。
縄文まつりに更級小全児童が参加
前号でお伝えしまし
た第 15 回縄文まつ
り記念出版の制作が
順調に進んでいま
す。原稿がほぼ集ま
り、編集作業中です。
今秋のまつりの当日
には来場者の方にも
買っていただく計画
です。みなさんのお
力添えをよろしくお
願いいたします。
私もサナダムシをお腹に
飼ってみようかな
(3)
千曲川面前、地の利豊か
ら弥生時代、平安時代、中世にまでわたる
も良好)もある。地籍名
須坂地区に防火水槽を設置するのに伴い、更
ものであった。出土遺物から近くに縄文時
が「本郷」である点も見
級保育園北約百五十㍍に位置する、市職員福島
代や弥生時代の生活跡も眠っていることが
逃せない。それぞれの時
修氏宅地内の庭(須坂一〇二番地一)を発掘調
推察される。
代の人々は、千曲川に向
査した。遺跡地図では、遺跡の密度があ
かって突出したこの台地
まり高くない散布地として登録されてい 過去に更級児童館建設地と同館への取り
付け道路部分(更級保育園北側)の発掘を
に、地の利の何を狙って
たが、発掘調査をしてみると、いろんな
行ったが、数片の磨耗した土器片しか出土
占地していたのであろう
ものが発見された。
しなかった。児童館より東方に行くにした
か。
出土した遺構(住居や建物の跡)は
がって湿地状から谷状の地形になってお
今回の発掘調査は三㍍
上 か ら 順 に、 柱 の 下 に 敷 石 を し た
そせきばしらたてものし
り、居住地ではないことが確認されている。
×九㍍の小規模な範囲で
礎石柱建物址一棟と、穴を掘って柱を埋
ほったてばしらたてものし
一方、今回の調
あったので、全貌を確認
め込んだ掘立柱建物址
査地より北に
できなかったのが残念で
四棟、さらに床全体を
たてあなじゅうきょし
五十㍍ほど行く
ある。今後は発掘調査の
掘り下げた竪穴住居址
と、急激に湯沢
記録や出土遺物の整理を
一棟である。
川に向かって下っ
行い、分析を進める予定である。
一番上にあった礎石
ている。
(さらしなの里歴史資料館学芸員・翠川泰弘)
柱建物址の礎石は、と
このことから、調
ても立派なものであっ
さらしなの里友の会副会長で郷土史研
査地点周辺は、かつ
た。大人三人掛かりで
究家の塚田哲男さんが五月二十三日、逝
去されました。
て南側と北側が帯
も持ち上がらない。礎
塚田さんは昭和二年生まれの七十九
状に低く、また、東
石が大きいということ
歳。友の会の設立、縄文まつりの運営に
多大な尽力をさ
側は千曲川によっ
は、当然その上に建っ
れ ま し た。 更 級
て端崖となってい
ていた柱も規模の大き
村初代村長の塚
るので、東西に長い
なものであったことが
田
小右衛門さん
ぜつじょう
の 功 績 な ど、 さ
小規模な舌状台地であったことが分かる。現在
容易に推察される。大邸宅か。
らしなの里の歴
礎石の周囲は地面が叩き締められ土間
の景観とは、大きく異なっていたのである。
史の掘り起こし
状になっていた。この土間が幸いし、そ 遺跡には、各時代の人々が何度も住みついて
に生涯を捧げら
れました。本誌の「おらほの冠着」では
の下に眠る掘立柱建物址と竪穴住居址の
いるので、台地が安定していたことがうかがえ
冠着山にまつわる多様なエピソードを
遺構がパックされて守られていた。掘立柱建物
る。漁労、周囲の低地利用(水田)
、砂鉄の採
ユーモアもまじえながら紹介してくださ
いました。
址は中世のものとみられる。このほか石器や土
取のポイントであった可能性もある。天然の要
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
器などの遺物も発見された。遺物は縄文時代か
害に囲まれた要塞的要素(千曲川対岸の眺望
須坂遺跡の突先に大邸宅?
塚田哲男さん逝去
(4)
おらほの冠着
です。東京から多く
〈編集後記〉縄文まつりが今秋、十五回目を
の学者・文人の支援
迎えます。この節目に当たって記念出版事業
に取り組んでいます。主体は、更級小学校を
を得て取り組みまし
含め縄文まつりを支えて下さっているみなさ
た。
元禄元年 一六八八)年、俳人の松尾芭蕉 中でも加賀百万石
んをまじえた「友の会だより拡大編集委員会」
(
が千曲市八幡地区の長楽寺を訪れてから、文 の支藩、大聖寺藩出
です。
人たちは姨捨山は長楽寺付近と思う
記念出版を決めたのは、更級小が昨年の
身
の
大
島
浮
名
は
、
最
ようにな り 、 俳 句 や 和 歌 に し ま し た 。
十四回から、まつり当日を運動会のように登
も
熱
心
な
協
力
者
で
し
校日とし、全校児童が参加するまつりと位置
古代から中世にかけて姨捨山は冠
た
。
六
十
一
歳
の
と
き
づけたことが大きな弾みになっています。
着山のことと文人たちの間
当 地 に や っ て 来 て、 地 元 民 に
で 思 わ れ て い ま し た が、 戦
和歌や剣道、押し花を教える 本には、さらしなの里が古代から歴史と由
緒のある場所であることをはじめ、縄文時代
乱の絶えなかった戦国時
中、 雅 丈 さ ん と 一 緒 に 発 起 人
の里の様子、なぜこの里に縄文まつりが根付
代、 詩 歌 の 文 化 が 衰 退 す る
となり、冠着山への参道を村
いたのかなどについて考察する文章も盛り込
中 で、 そ う し た 認 識 も 薄
人 の 力 を 得 て つ く り ま し た。
みます。さらしなの里マップも掲載し、当地
まっていたせいもあるとみ
ま た 冠 着 宮 を 再 建 し て、 い つ
を訪れた人たちのガイドブックにもなるよう
られます 。
で も 参詣できるよう羽尾地
にしたいと思っています。更級小からも先生
し か し、 明 治 に な っ て 羽
区の郷嶺山山頂に里宮として
と児童の文章が寄せられています。
尾 地 区 の 酒 造 家、 塚 田 雅 丈
観月殿・冠着山遙拝所をつく
制作費は本の売り上げでまかないます。遠
(小右衛門)さんは現在の
り ま し た。 そ の 大 部 分 の 経 費
方のご親戚や知人への贈り物にもなるよう仕
信濃毎日新
を雅丈さんが出したそうです。
上げたいと思っています。郷土史研究家でい
聞 社 に「 真
その後、幾多の文人たちが冠着山、郷嶺山
らした塚田哲男さんに出来上がったものをお
の姨捨山は
を訪れて詩歌を残し、冠着山が姨捨山でもあ
渡しできないのが残念です。
冠着山ナリ」
る こ と が 全 国 に 知 ら れ る よ う に な り ま し た。
と題する長
雅丈さんはその偉業を賛して大島浮名夫妻の 編集・発行
文の投書を
さらしなの里友の会だより編集委員会
歌碑(上の写真)を郷嶺山に建てました。
送り掲載さ
事務局
さらしなの里歴史資料館
いにしへの月の都を人とはば
れ る な ど、
雲井にちかき姨捨の山(大島浮名) 〒三八九‐〇八一二
冠着山の復権運動を
長野県千曲市大字羽尾二四七の一
世の塵を払いつくして清かなる
起こします。雅 丈 さ
電話 〇二六(二七六)七五一一
さらしな山の月にならはむ(妻志づ) んは初代更級村 村 長
ファクス
〇二六(二六一)四一六一
(大橋静雄 )
雅丈さんの冠着山復権運動
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