平成24年度学校だより 第11号 平成24年 山河に 山河に学ぶ 6月 19日 飯田市立千代小学校 Tel : 0265-59-2102 Fax : 0265-59-2374 E-mail:[email protected] ご存じでしたか?千代小の校歌が、3番まであったことを・・・ 〔 旧 2 番〕 つい最近、初めて知りました。校歌が作られた当初は、3番ま み さやま であり、昭和10年から終戦までは、3番まで歌われていたので すが、戦後、占領軍による軍国主義一掃の方針により、2番の歌 詞がよくないということで、封印されたのだそうです。 本校に赴任したこの4月に、 「2番までしかない校歌って、珍し みくに つが いな。 」と思っていたのですが、その謎が解けました。 すでに、2番までの校歌になって50年以上経っていますが、 やまとごころ 校歌制定から終戦までの10年間に、千代小学校で学んだ皆さん にとっては忘れられない2番なのかもしれません。 それにしても、明治から続く伝統校でも、戦前に校歌を制定し ていた小学校は、けっして多くありません。千代の皆さんは、なぜ昭和10年に校歌を制定したのでし ょうか。また、作詞者の吉地昌一さんは、野池の方だそうですが、どんな事情で作詞をされたのでしょ うか。さらに、作曲者の権藤円立さんは、宮崎県出身の声楽家で、今で言う人気歌手だったようですが、 なぜ作曲をしてくださったのでしょうか。興味深い謎です。 神さぶ森 さぶ森の御射山よ 御射山よ 古き尋ね新しく 御国を 御国を維んこの胸 んこの胸に 大和心を 大和心を磨かなん 資源回収実績の報告をします 5月27日(土)に行われた千代省資源回収には、PTAの皆さん、地域の皆さんのご協力をい ただき、ありがとうございました。実績が判りましたので、お知らせします。 紙類 12t(内訳 新聞4.3t ダンボール1.7t 雑誌その他の紙6.1t) アルミ缶 425㎏ 牛乳パック280㎏ 以上の収益金は、約6万円弱 この収益金は、PTA特別会計に繰り入れ、子ども達のために使わせていただく予定です。 なお、この実績は、速報ですので、収益金額など確定しましたら、改めて学校・PTAより御礼 文を出させていただきます。 千 代 小 ニ ュ ー ス ① 千代地区まちづくり委員会より、千代小・千栄小学校施設設備委員会に交付金をいただきました 学校体育館放送設備の充実に使わせていただきます 今年、千代小では、 千代地区まちづくり委員会では、総務社会部の事業の一つとして、毎年、両校の施設充実のために交 付金18万の予算付けをしていただいています。その交付金の使い途を決める千代小・千栄小学校施設 設備委員会が、去る8日に、総務社会部の皆さん、両校PTA、両校校長教頭の出席のもと開催されま した。千代小学校では、体育館の放送設備充実のために使わせていただくことを提案し、了承していた だきました。 体育館は、学校教育だけでなく、夜間や休日には、地域で体育館を使っていただいています。そのさ い必要であれば、放送設備を有効に使っていただけるよう考えています。 1 千 代 小 ニ ュ ー ス ② 3年生総合授業を公開 15日(金)は、教職員の研修会のため、半日授業で した。教職員は、それぞれの会場(1,2年部会:三穂小、 5,6年・中1部会:竜東中、養護部会:川路小、事務部 会:松尾小)で研修をしました。千代小は、3,4年部会会場となり、3年の総合 「人形劇づくり」の授業を公開して研修をし、その後、法全寺に行き、住職さん から鎌倉時代から続く、法全寺の歴史などを学びました。 公開授業では、大勢の先生方が見守る中、人形劇の演出を、先生に教え てもらうのではなく、グループで「人形の動かし方」や「セリフの言い方」を考え、 発表して、意見を交換することができました。 人形劇フェスタまで、あと一月半。どんな劇を見せてくれるのでしょうか。楽しみです。 【コラム】 千代の先人に学ぶ(5) このように、たくましく生きていた千代の人々は、理不尽な代官に対して、近くの村々と連合して 大規模な一揆を起こします。 「南山一揆」です。南山一揆とは、どのような一揆だったのでしょうか。 まず、当時「南山」と呼ばれたのは、天竜峡左岸(東側)の村々、千代地区の11の村、龍江地区 の8つの村、現泰阜村の17の村、あわせて36の村々のことです。 これらの村々は、それぞれが独立した村となっていて、江戸時代の村としては、大変規模の小さな 村も多く、そのような村々は、組合村という形で、いくつかの村々が共同で村の運営をしていました。 千代に関係する組合村としては、法全寺・山中・米川・野池・荻坪・田力・芋平の7か村で作る組合 村、大郡・米峰・毛呂窪・下村の4か村で作る組合村、また、隣の龍江地区ですが、安戸、宮沢、尾 林、石林、雲母、尾科、大屋敷の7か村で作る組合村などがありました。 南山の36の村々は、江戸時代の大半が、天領(幕府の領地)でした。年貢は代官所を通じて幕府 に納めており、江戸時代後半になると、年貢の支払い方法が、現物払い(米を直接収める)から、現 金払い(現金収入の中から、現金で収める。 )の方法に変わっていました。 前回書きましたとおり、千代をはじめとした南山地域の村々は江戸時代に入ってから、米以外のさ まざまな産物を売って暮らしていましたから、この現金払いの年貢は、ありがたい方法でした。 ところが、江戸時代末期になると、天領から藩の領地になったために、年貢の支払いが現金払いか ら現物(米)払いに替わり、年貢の負担が重くのしかかるようになりました。いろいろな産物を売っ て得たお金で、わざわざ米を買って年貢として納めなくてはならないわけですから。この年貢の実質 的な値上げに対して、村々は団結して何度も嘆願書を出して、年貢の支払い方法を現金払いにするよ う求めますが、代官所の役人は聞き入れてくれません。 とうとう、安政6年(1858年)12月27日夜には、今田村の船渡に1600余名もの村人達 が集まり、市田原町(現高森町)にある代官所をめざします。これが南山一揆の始まりです。 このとき36の村々の代表として先頭に立った4人のうちの一人が、米川村の伴助(後、明治にな り北沢伴助)という人物でした。この南山一揆は、幸いなことに流血騒ぎにはなりませんでしたし、 村人達の要求もなんとか聞き入れられました。けれども、一揆の先頭に立った伴助たちは、牢に入れ られてしまいます。彼が牢屋から出ることができたのは、明治になってからのことでした。 その後の伴助は、松尾で働いていましたが、明治10年に米川に戻り、隠居商売を始めます。これ が、米川で初めての、いえいえ千代で初めての商店でした。 幕末に起きた南山一揆は、農民の力を武士が押さえきれなくなっていたことを示す代表的な例です が、南山の村々の団結力や、その先頭の中に千代の人物がいたということは、千代、南山全体の誇り でもありますね。 2
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