ダウンロード - 金沢文圃閣

発行所
Kanazawa Bumpokaku
文献
継承
□□□□□□□第
甫
金沢文圃閣
第23号 2013年10月発行 頒価400円
●発行人 田川 浩之
●〒920-0867 金沢市長土塀2-16-30
●Tel 076-261-8884 / Fax 233-3111
23GO
インターネットでの調査
まずは『出版人物事典』に立項されていて「WHO」に
◎『出版文化人物事典』における人物調査の方法
収録されていない人物の書き起こしから始めた。
その際
◎正木直太郎と『六六日記』―清国安徽省安慶府優級
に 見 つ け た の が「出 版 平 和 堂 合 祀 者 名 簿」
(http://
師範学堂教習と留守家族の手紙―
◎外地書店を追いかける(2)―台湾・新高堂の誕生 1 www.shuppan-club.jp/heiwadou/meibo1.html)である。これ
◎真相はかうだ! 藤岡淳吉の日本焚書は片隅で/
は出版関連の 13 団体によって維持されている記念施設
『印度資源論』のホンタウの訳者は
「出版平和堂」(箱根)の合祀者名簿で、近現代の業界功
労者が顕彰されている。出版・取次・小売の各業界で功
績のあった故人 1000 人以上が掲載されており、肩書・団
『出版文化人物事典』における人物調査の方法
体役職・生没年月日の 3 つがわかる。人物調査上最も重
河原 努
要な基礎情報である生没年月日が把握できる利点は大
はじめに
きい。業界が選んだ重要人物一覧という側面もあり、イ
2013 年 6 月に日外アソシエーツから『出版文化人物事 ンターネット検索でひっかかる簡易出版人名録として
典』が発売された。私は同社で日本最大の人物データ 利用できる(名前のヨミがないのだけが惜しい)。ちな
ベース「WHO」の構築業務に従事しているため、日頃か みに中平千三郎『出版人生死録』(私家版、1996)は、
ら人物経歴の執筆を行い、人名事典作成にも関わってき インターネット公開以前に、この合祀者名簿を命日・誕
たが、近年は編集者としても人名事典作りに携わるよう 生日順に配列したもの。即ち「1 日に亡くなった人」か
になり、今回、同書を担当するところとなった。その際、 ら「31 日に亡くなった人」、
「1 日に生まれた人」から「31
力添えを頂いた近代書誌懇話会の方々から、同書編集過 日に生まれた人」の順で列挙され、索引が付いていない。
程の経験から得た知見を形に留めておくよう勧められ そのため誰が何ページに載っているかさっぱりわから
たため、特に私が行った出版人の調査方法について、こ ず、紙のままではレファレンスツールとして実用に耐え
の場をお借りして書いてみたい。
なかった。
同書はこの分野で最新の人名事典だった鈴木徹造『出
同じくインターネットで使える調査ツールとしては
版人物事典』
(出版ニュース社、1996)に収録の約 650 人 「デジタル版日本出版百年史年表」(http://www.shuppan
をベースに、
「WHO」からそれ以降に亡くなった人物と -nenpyo.jp/index.html)がある。1000 ページを超える大冊
近世の出版人を追加したものとして企画され、当初の収 (日本書籍出版協会、1968)がデジタル化されたことで、
録人数は 1200 人程度を見込んでいた(最終的には約 必要事項をピンポイントで検索できるようになった意
1600 人にのぼった)。監修は私の恩師で、明治出版史の 義は非常に高い。出版人を検索すると、出版社の創業の
研究家である稲岡勝先生に依頼し、快諾を得た(2012 年 項目に生年月日が掲載されており、「歿」として命日も
3 月末)。まず全体の基本的な人物選定をお願いし、そ 立項されている。同書が刊行された 1968 年以降のデー
の過程は「監修者あとがき」にも既に少し書かれている。 タがないのが唯一の欠点だが、それ以前に創業した出版
各項の執筆は、近世から明治期までは先生、それ以降は 人、亡くなった出版人に関しては生没年月日が掴める。
私および、私が関わった全ての人名事典で原稿を頼んで 上記「出版平和堂合祀者名簿」に掲載されていない人物
きた親友・前河賢二の 2 人と、おおまかに分担して進め も多い。
「WHO」未収録分の書き起こしが済み、鈴木「事典」
ることにした。私が執筆作業に入れたのは 9 月から、近
代書誌懇話会の方々に相談に乗って頂いたのは、作業が の収録者を含んだ初期立項人物が固まったところで、こ
進んで刊行予定も近づいた 2013 年 2 月初旬である。
れらの人名を一つ一つ「国会図書館サーチ」(http://iss.
1
ndl.go.jp/)及び「日本の古本屋」
(http://www.kosho.or.jp/ ため都立中央図書館、たまに神奈川県立川崎図書館、千
top.do)に入れて検索をし、参考文献の洗い出しを始め 代田区立千代田図書館へ赴いた(一般的な本は近在の区
た。前者は国立国会図書館をはじめとした全国の県立レ 立図書館を通じて借りだした)。ここで前述の方法で所
ベルの公共図書館蔵書の、後者は全国各地の古本屋在庫 蔵をつかんだ追悼集や自伝・評伝を片端から見ていっ
の横断検索サイトである。これによりその人物の追悼集 た。半年間の休日はほぼこの作業で埋められ、リスト
や自伝・評伝などを調査したが、「日本の古本屋」を合 アップした 95%の資料には目を通し(残り 5%は国会図
わせて検索したのは、私家版の饅頭本などは図書館に所 書館で電子化中のため出納不能だったものなど)、ほと
蔵されていない場合も多いためである。こうして拾い上 んどの人物はその場で原稿を作っていった。
県立川崎図書館には約 1 万 5000 冊の社史を所蔵して
げたものは「参考文献」として本文中に組み込んだ。こ
の作業を進めつつ、休日を使ってそれらを閲覧しに行っ いる社史室があるほか、実業に関する資料も集めている
た(なお平日の勤務時間は別の仕事で忙しいため一切こ ことから実業家の伝記や追悼文集も多く、その中には出
の事典の執筆には充てられず、ほぼ全ての執筆は時間外 版関係も含まれている。同館は国会や都立中央と違って
に外注者として行った)。
貸し出し可能な点が何より有り難く(10 冊まで)、国会
後日、国立情報 学研究所の デー タベース「CiNii」 ではすでにデジタル化により直接手に出来なくなって
(http://ci.nii.ac.jp/)は利用しなかったのかと聞かれたが、 いるような戦前の古い本でも平気で貸し出してくれる。
普段使うことがないため意識に上がらなかったのが正 明治出版人の基礎資料である『東京書籍商組合史及組合
直なところだ。「CiNii」は論文・雑誌記事と大学図書館 員概歴』(東京書籍商組合、1912)の原本が開架で並ん
の所蔵もわかるようだが、大学図書館は公共図書館に比 でいて、さらに借りられるという図書館はここくらいで
べてやや敷居が高く、私自身は一度も利用しなかった。 あろう。なお、同書は青裳堂書店からの復刻(『東京書
所蔵調査でなく書誌調査になら有効だったかもしれない。 籍商伝記集覧』、1978)がある。
千代田図書館は「本の町」神保町を擁する立地から近
出版人名録
年出版関係書の収集を行っているようだが、後発ゆえに
新規書き起こしのために手元においたのは、金沢文圃 まだまだ手薄といわざるを得ない。それでも必要最低限
閣から出ている『出版・書籍商人物情報大観―昭和初期』 の資料は集まっており、出版に関する調べ物という点で
(2008)と、『出版書籍商人物事典』(2010)である。前 は気軽に行けるのが使える所だ。閉館夜 10 時という他
者は『日本出版大観;人と事業』(出版タイムス社、 館にない際だった特長があり、会社帰りにも一仕事で
1930)、後者は夏川清丸(帆刈芳之助)『出版人の横顔』 き、書棚のすぐ近くに 10 円コピー機があって自分でコ
(出版同盟新聞社、1942)及び単行本未収録連載分の復刻 ピーできる点もいい(国会は原則すべて、都立中央も閉
である。これらを参照するうち、鈴木が結構両書から記 架資料は自分でコピーできず 1 枚 25 円かかる。川崎は自
述を引っぱってきているということもわかってきた。日 分でコピーでき 1 枚 10 円で済む)。
本図書センターから 1988 年に 4 冊組で復刻された『出版
文化人名辞典』の第 3 巻『現代出版業大鑑』(現代出版 業界紙誌の調査
業大鑑刊行会、1935)、第 4 巻『全国書籍商総覧
昭和
千代田図書館に日本出版クラブの会報『出版クラブだ
10 年版』
(新聞之新聞社、1935)も是非手元に置きたかっ より』の合本が開架で置かれていたので手にしたところ
たが、古本でも手に入れることが出来ず、仕方なく所蔵 (同館は 2 巻のみ欠)、出版社経営者の訃報が毎号のよう
館に何度か通い、持参したリストに赤字を入れた。鈴木 に掲載されていることに気が付いた。うち大半は年度末
「事典」以前のまとまった出版人名録は上記の復刻 4 点 に「出版平和堂」に合祀されていたが、入らない人もお
くらいしかないといってよい。ただ編集者に関しては、 り、訃報調査に役立った。また、全頁をめくるうち、回
新書館の〈101 人〉シリーズの 1 冊である寺田博編『時代 想文や、シンポジウムなどで話した思い出語りの筆録、
を創った編集者 101』(2003)があり、桜井秀勲『戦後名 親しかった出版人や家族の手による追悼文なども目に
編集者列伝
売れる本づくりを実践した鬼才たち』(編 付き、基本文献の一つである鈴木省三『日本の出版界を
書房、2003)も大変参考になった。
築いた人びと』(柏書房、1985)も同紙の連載をまとめ
たものであることがわかった。『日本の出版界を築いた
人びと』は刊行後に第 2 部の連載が始まっていたが、こ
図書館での調査
図書館は、土曜日は国会図書館、日曜日は国会休館の れは単行本化されてないのではないだろうか。
2
この発見から業界紙誌の重要性に気付き、可能な限り 的出版物を書いており、経歴の肉付けに大いに役立っ
それらを調査した。ある日、手薄な昭和初期のものはど た。これだけの"自社紹介"がまとまった資料はこの 2 冊
うしようかと思いながら金沢文圃閣ホームページの出 以外は目にすることがなく、両書とも近い時期に出てい
版刊行一覧をみていたら、2001 年に新文化通信社から復 るので、もう少し時期がずれていてくれたら、と思った。
刻された『出版通信』『出版同盟新聞』全 11 冊(1933 ∼
同じく出版社情報の調査に役立ったものに『出版社調
1943)を取り扱っていたことを知り、たまたま同社を訪 査録』(全 6 冊、1965 ∼ 1977)がある。こちらは丸之内
れる約束をしたところだったので「在庫していたら見せ 興信所(のち丸之内リサーチセンター)の手による各社
てもらえませんか」と厚かましいお願いをして、ご厚意 の調査記録で、社長の簡単な経歴や創業年、社の出版傾
で 1 セットだけ残されていた見本に目を通させて頂け 向などがわかる。同書は 6 版まで出たようだが「国会図
た。短い時間なので訃報だけの調査に終わったが、戦前 書館サーチ」で調べても 3 版と 4 版はどこにも所蔵先が
期の出版人の訃報が拾えるのは同紙と『出版年鑑』だけ なく、参照できなかった(あとになって『多様化する出
である。その後身である『新文化』は 1972 年からの縮刷 版業界』(1971)『転換期にある出版業界』(1973)とい
版があるが、なぜか国会は 1980 年代の数年間分が欠号 う異なるタイトルで所蔵されていたと知った)。
自社紹介ではないが、「日販通信」の連載記事をまと
なので、都立中央で補った(2000 年代以降は開架・それ
(論創社、2003)も 120 社を
以前は閉架)。ただし、国会の新聞資料室には縮刷版未 めた塩澤実信『出版社大全』
収録の 1968 ∼ 1971 年の原紙がある。同紙からは『出版 紹介した有用な書である。ただ、原稿〆切の直前に初め
クラブだより』に掲載されない小売業界の訃報が拾えた て知ったため十分に活用できず、ごく少数の人物記述に
他、1970 年代に連載されていた「出版交友録」という囲 反映できたに留まった。
み記事のプロフィールが有用だった。一時は誕生日まで
〆切間際に知った資料
出しており、基礎情報調査に役立った。
これら以外では国会に『出版新報』
(出版新報社、1948
他にも〆切間際に存在を知ったため生かし切れな
∼ 64)、『帆刈出版通信』(帆刈出版研究所、1951 ∼ 52) かった資料はいくつかあり、一つは先にも触れた『出版
があり、前者はマイクロフィルム、後者は原紙でみられ 年鑑』の訃報欄である。近代書誌懇話会の方から頂いた
る。人物情報の大半はその人が現役のうち(記事に取り メールの「ご存じの通り『出版年鑑』の訃報欄に……」
上げられる時期)しか拾えないもので、就任記事やそれ という一文で初めてそれに気付かされたのは、最終稿の
に付随するプロフィールは貴重である。古書業界の『日 赤字入れの最中。慌てて国会の人文総合情報室で片端か
本古書通信』は量が膨大すぎて手がまわらず、参考文献 らチェックしたところ(同室では全冊開架されてい
に記事をほとんど付与できなかった。マスコミ業界紙 る!)、没年不詳としていた数人の没年月日を拾うこと
『文化通信』も直近 2 年分の訃報欄をチェックしたが、既 ができた。新たに立項したい人物もいたが泣く泣く見送
知のものばかりだったため、バックナンバー調査は行わ り、立項済みの人物に縁故のある関係者については無理
矢理、その項目中に紛れ込ませた(大橋進一の記述中の
なかった。
大橋まさなど)。社には過去 30 年分の『出版年鑑』バッ
出版社の自社紹介
クナンバーが
っているが管理が他部署ということも
また、県立川崎で取次の社史を調査していた際、『日 あって、私も人物データベースの訃報担当者として年鑑
販三十年のあゆみ』
(日本出版販売、1980)に「出版社紹 の訃報欄は知悉しているつもりでいたのにこれを知ら
介(及び業界団体紹介)」が付いているのをみつけた。 なかったのは、うかつだった。
これは同社の社史でも 30 年史にのみ付いているもの
大きなもう一つは文化通信社から出ている『日本出版
で、約 500 社が 360 字程度の自社紹介を書いている。も 人総鑑
1976 年版』
(1976)で、これも気付くのが遅かっ
う少し後に『東京組合四十年史』
(東京都書店商業組合、 たため、十分な利用ができなかった。文化通信社ホーム
1982)の別冊に「業界各社・各団体の歴史と現状」と称 ページにある年表によれば、国際出版連合(IPA)京
して 158 社が自社紹介を寄せているものも発見した。社 都大会を記念して発行したとのことだが、出版業界人へ
数は『日販三十年のあゆみ』の方が多いが、同書が見開 のアンケートを行った、おそらく唯一の人名録である。
『東京組合四十年史』「刊行のことば」に同社社長・重枝四四男が回答回収の苦
き 2 ページに 8 社であるのに比べ、
は 1 ページ 1 社で、記述の分量は後者の方が優る。
「自社 労を書いていたが、問い合わせを主体とした人物データ
『日本の演奏家』な
紹介」であるから、出版社自らが沿革や得意分野、代表 ベースや人名事典(『日本の作曲家』
3
ど)の製作に関わってきた身には、その苦労はわかりす 社要録』(東京産経興信所、1959)。『出版社調査録』と
ぎるほどわかる。同書は本人回答に基づく生年月日・学 同様の調査記録で、代表者・主要スタッフ・沿革など事
歴・職歴がある一次資料で、欠点らしい欠点といえば、 典作成に使える情報も掲載されていた。千代田図書館で
これも名前のヨミがないことくらいであろう。同様の理 閉架にしまわれているため気付けなかった全く未知の
由で活用できなかった本に、東京の公共図書館では都立 資料で(他には東大情報学環が所蔵するくらい)、これ
中央にしか所蔵されていないミネルヴァ書房創業者・杉 以外にも有用なものがまだまだどこかに埋もれている
田信夫のエッセイ集『わたしの旅路』
(ミネルヴァ書房、 のであろう。十数年後の改訂版を念頭に、今後もこの分
1983→増補 1998)の増補版があり、第 2 章「京都の出版 野の資料調査を進めていくつもりであり、皆様の御批
過去・現在・未来」に京都の出版社列伝が収められていた。 判・御教示を請いたい。
ただ、同書に杉田と岩谷書店創業者・岩谷満が親戚で、
(かわはら
つとむ/日外アソシエーツ)
岩谷が早くに亡くなったとの記述を見つけたのは収穫
であった。『出版文化人物事典』は物故者のみを採録す
正木直太郎と『六六日記』
―清国安 省安慶府優級師範学堂教習と
留守家族の手紙―
合は亡くなっていると判断し「没年不詳」として立項し
る編集方針であるため、存命の可能性がある人物は収録
できない。没年がわからない人物で 100 歳以上になる場
稲岡
た者もあるが、岩谷は大正 5 年(1916 年)生でやむなく
収録対象から外していたところであった。同じ大正 5 年
勝
教科書疑獄事件に巻き込まれ裁判で無罪が確定し青
生まれの秋元書房創業者・秋元一仁や、中央公論社専務 天白日の身になっても、教育家の場合はそれが直ちに社
の高梨茂(大正 9 年生)、総会屋雑誌「新評」を出して 会的な復権を意味するわけではなかった。根拠の薄い起
いた御喜家康正(大正 14 年生)などは是非入れたいと思 訴事由でもひとたび刑事被告人にされると、信用は地に
いながら、最後まで生死がわからず、断念せざるを得な 落ちて教育社会に身をおくことは難しくなった。そうし
かった。小学館の加賀見忠作、雑誌「真相」の佐和慶太 た烙印に長く苦しめられた気の毒な事例は少なくない
郎、日販の松本昇平、徳間書店の山下辰巳あたりは、亡 が、信濃教育界の重鎮であった正木直太郎(1856-1934)
くなっているのが確実で一般紙・業界紙に訃報が出てし の場合もその典型的な一例といえる。昭和 12 年に建て
かるべき人物でありながら、やはり没年月日を突き止め られた市村瓉次郎
文の「正木先生碑銘」には、「明治
られなかった。関係者への取材は行わず、全ての調査を 末年教科書疑獄之起也全国師範学校長多連坐而先生独
文献典拠に拠っているので、どうしても手が届かないと 免人服其清白云」とあるのも、それを物語っているようだ。
ころが出てくるのである。
埼玉県教科書収賄事件
正木直太郎は安政 3 年信州上田藩士の子として生ま
おわりに
以上が『出版文化人物事典』の人物調査のあらましであ れた。明治 15 年東京師範学校中学師範科卒業、直ちに長
る。稲岡先生の手により岩田僊太郎、岡島真七、小林清 野県下の学校教育に従事する。明治 26 年初代校長浅岡
一郎、新保磐次、 敬之、長尾景弼、村上濁浪といった 一の後を受けて、長野県尋常師範学校第二代校長に就
埋もれた人々が掘り起こされ、近代書誌懇話会の方々の 任。また同年信濃教育会会長も兼ね県下学校教育の中心
協力で採録できたうちにも秋朱之介、川仁宏、佐伯郁郎、 的指導者として活躍した。明治 32 年 10 月新官制による
高原四郎、中山泰昌、二宮隆洋、本位田準一、松岡虎王 教員の全国的な異動の実施で、突然埼玉県師範学校長に
麿、丸山実らユニークな人々がいる。私も上記の調査を 転任。さらに二年足らずで明治 34 年 2 月香川県師範学校
通じて、資料の中から相賀ナヲ、桔梗五郎、嶋中晨也、 長に転任となった。この異動は埼玉県小学校教科書審査
橋本達彦、前田隆治などを拾い上げることができ、本書 について収賄の匿名告発があり、正木ほか一名が浦和地
で初めて立項された人物はかなりの数にのぼる。それら 裁検事局の取調を受けた(梶山雅史『近代日本教科書史
に加え、鈴木「事典」刊行以降の年月をフォローし、点 研究』、202 頁)ことに関係があるのかも知れない。由来
在していた出版人情報を整理する役目も、ある程度は果 地方の教員には郷党意識が強く、よそ者排除の気風が蔓
たせたと思っている。お手に取って頂ければ幸いである。 延していた。恐らく長野県出身の正木はその標的にされ
最後に、この文章の草稿を金沢文圃閣・田川氏に見せ たようで、この事件は教科書審査をめぐる収賄などでは
た際「これは使われましたか」と示されたのが、『出版 なく、単に浦和町教育会内の紛糾から出た誣告に過ぎな
4
かった。「教科書審査会結了後浦和町の私立教育会維持 清国安徽省安慶府優級師範学堂教習
費として普及舎及び其他より年々五百円宛を寄附為さ
控訴審の判決で正木直太郎の
罪はようやく晴れた。
しめんとの協議をなしたる処多数の反対者出で遂に不 正木の薫陶を受けた数多くの門下生たちは、こぞって雪
成立と為りしより起因せしものならんと云ふ」(『東京
運動をおこし師の潔白を訴え続けていた。検事の無罪
朝日新聞』明治 34 年 3 月 2 日一面)との観測が事件の真 論告に対し傍聴席から歓声が沸いたのは感動的な場面
相なのではあるまいか。
であるが、この判断は本来なら当然第一審において下さ
るべきであった。起訴事由となった証人の供述が虚偽に
教科書疑獄事件と正木直太郎の公判
近いことは、先にみたように第一審の反対尋問ですでに
明治 36 年 3 月正木は突然身に覚えのない普及舎から 明白である。検察と裁判官は話にもならない薄弱な証拠
の収賄嫌疑で拘引起訴され、公判に附せられた。東京地 だけで公判を維持しようと躍起になり、あまつさえ強引
裁軽罪公判では不当にも有罪とされたが、控訴審では逆 に一度は被告を有罪にすることによって、彼等はかろう
転無罪を勝ちとった。以下新聞記事によって大まかに裁 じて面子を保とうとしたのである。過失を一切認めない
判の要点を追ってみよう。
司法の体質、それこそがこの裁判の構図である。まさに
東京地裁第二回目の公判では、証人育英社員石井信五 司法権力の濫用に外ならず、正木の蒙った有形無形の不
郎が出廷し陳述の後に弁護側から反対尋問を受けた。 利益は取り返しのつかないものであった。
「香川へ携帯せし総金額、同地に投じたる運動費其他滞
彼は休職事由が解けても公職に復帰することはな
在日数等に就き質問せしに記憶なしとて要領を得ず質 かった。香川から東京へ戻り、明治 36 年末からは自宅に
問の歩一歩を進むる毎に答辞
々曖昧に陥り遂に証人 近い小石川の宏文学院で数学と物理の教鞭をとった。宏
は頗る健忘症と覚ゆ故に贈金の返却も亦忘却したるに 文学院は嘉納治五郎などが始めた清国留学生のための
非ずやと弁護士より公然
笑を買ふに至れり次で弁論 学校で「留学生教育の大本山」といわれ、当時正木の住
に入り結審し裁判言渡は六日午後一時」(『東京朝日新 まい周辺には多勢の留学生が住んでいた。
明治 40 年 4 月正木は思う所があって清国安
聞』明治 36 年 7 月 2 日三面)
▲第一審判決
省安慶
昨日地方裁判所にて左の言ひ渡 府優級師範学堂教習となり、同月 15 日単身任地に向
かった。宏文学院は明治 39 年頃から退潮期を迎えてい
しありたり
休職香川県師範学校長
正木直太郎/重禁錮二 たし、また清国学堂教習[教官]は高給で人気があり、夏
目漱石の旧友でも菅虎雄(南京三江師範学堂)、太田達
月、罰金七円、追徴金五百円
(『東京朝日新聞』明治 36 年 7 月 7 日一面) 人(京師大学堂師範館、参照『硝子戸の中』九)などが
奇しくも正木の裁判言渡と同じ日に、長尾槇太郎(雨 赴任している。しかし正木の場合は五十を過ぎての渡清
山)は大審院に於いて上告棄却となり判決が確定した。 であって少しく色合いを異にする。教科書事件で被告と
された烙印は
正木は不当な判決に納得がいかず直ちに控訴した。
罪と分っても容易には払拭されず、世間
「控訴公判の第一回は第一審判決で認めたる事実の確 の目という日本独特の陰湿な社会風土から距離を置く
認と、弁護側が申請した証人二人の喚問が許可され次回 のが最善の処世と考えたすえに選んだ、恐らく苦渋の決
は来る二十九日に開廷」(『東京朝日新聞』明治 36 年 9 断だったと思われる。
月 16 日二面)
留守家族と『六六日記』
●教科書事件控訴公判(第四十五回)
▲正木直太郎(第二回)
明治 44 年 10 月辛亥革命が勃発、11 月には安慶にも波
証人矢島喜源次、同石
井信太郎の尋問あり石井の陳述や頗る曖昧模稜 及した。正木は難を避けるため任期を一年有余残して帰
容易に信を措き難き感を起さしめたり(中略)直 国した。この 4 年間留守家族の子供たちは相談して異国
に弁論に入る板倉検事も流石に証人の挙動供述 の父宛てに、家庭情報を交代で日記形式の手紙に綴り送
に看取し被告を罪するには証拠不十分なりとの り続けた。「書き手は唯今六人で先ずろくな事も書けま
論告をなせしが傍聴席にありし被告の門下生数 すまい。家が六十六番地ですから六六日記と名付けまし
十名中には感極まりて拍手するものさへありし た」という『六六日記』(正木直子編、井出孫六解説、
各弁護士は検事の論告を敷衍するに過ぎずとて 新樹社、1988 年)は、明治 40 年 5 月から同 44 年 11 月ま
弁論を省き結審判決言渡は来月一日正午
で夏休みの一時帰国の期間を除き、たゆみなく清国安慶
(『東京朝日新聞』明治 36 年 9 月 30 日三面) の正木のもとへ届けられた。無論国際電話などのない時
5
代のこと、「東西海山三百里を離てては云ひ違ひ思ひ違 島共立病院副院長を経てフランスに留学。パスツール研
ひ、行き違が多く、善意も悪意となり易く」(245 頁)、 究所で免疫学を学び帰国、大正 11 年慶応大学医学部助
意思疎通を欠いて苛立ちのあまり叱責に及ぶことも 教授に就任。現職のまま昭和元年信州富士見高原に結核
あったようだ。しかし異国の地にあっては「家書抵万金」 療養所を創設し経営する。堀辰雄『風立ちぬ』などはこ
(杜甫「春望」)、正木は繰り返し読んだうえ大切に保存 の療養所を舞台にした代表的な文学作品である。また俊
して日本に持ち帰った。その後この記念の册子は長男良 二は本務の傍ら正木不如丘の筆名で、探偵小説を含め数
一(1884-1986)が相続し大事に守られ戦火からの焼失も 多くの作品を書いて春陽堂などから出版した作家とし
ても知られる。それらは『正木不如丘作品集』(同刊行
免れて、彼の死後遺品の中から発見されたのである。
内容は手紙一般がそうであるように、日常生活の些事 会、1967 年)全 7 巻に纏められ刊行された。最近では再
を報告したものである。家族メンバーの病気やケガのこ 評価の機運があるようだが、『六六日記』は作家研究の
と、隣近所の出来ごと、親戚関係の人の出入り、知人の 基礎資料としても役に立つかもしれない。
(いなおか
消息、依頼された書籍や新聞雑誌の注文と発送、学校生
まさる/元都留文科大学)
活と試験成績の報告、進学の問題、買物や季節ごとの行
楽等々で、政治や社会問題に触れることは殆んどなかっ
外地書店を追いかける(2)
―台湾・新高堂の誕生 1
た。この日記は図らずも明治末年における東京の中流家
庭の生活実態を具体的に詳しく語っていて、結果として
日比 嘉高
当時の日常生活や風俗習慣、教育の仕組み、都会の景観
などが浮かび上がる好史料となっている。例えば正木家
でガスを引いたのは明治 43 年 3 月のこと、電灯は遅れて はじめに
44 年 10 月であるが、同じ頃に早稲田南町の夏目家でも
前稿「外地書店を追いかける―台湾・新高堂以前」
妻鏡子の一存で電灯を引いている。漱石は旧弊で電灯は (本誌 22 号)では、台湾の最初期の日本人小売書店およ
贅沢だと反対していた(『漱石の思ひ出』四七)のである。 び書物流通のようすを描いた。今回も引き続き、『台湾
日日新報』の広告からうかがえる、明治中期の在台日本
二男正木俊二(正木不如丘)のこと
人書店の歴史を追いかけてみよう。本稿では、後に日本
紹介したい記事は多いが、ここでは当時一高から帝大 統治時代の小売兼卸の最大手書店へと成長する、新高堂
医科に進んだ二男正木俊二(1887-1962)に触れるにとど (台北)の出発期を探求する。時期はおおよそ 1902 年 1
めよう。奇縁だが一高俳句会では新一年生の久米正雄に 月から日露戦争開戦以前、すなわち 1904 年 1 月までとす
遭って話をしている(284 頁)。久米の父は同郷の上田人 る。以後、同新聞からの引用は日付のみを示す。
まず、この時期の在台北日本人書店の歴史を振り返る
で直太郎とは旧知の間柄、猛火の中御真影を取り出そう
長昶の回想『記憶をたどって 八十年の
新高堂社主村
として焼死した悲劇の校長として知られる。
医科大学では教科書代が百円近くかかるほか顕微鏡 回顧』の記述をあらためて引用しておこう。
などの器具代の負担も大きい。授業は結構忙しく、講義
のほかに人体解剖、病理や細菌の顕微鏡実習などが目白
同業者中、新本屋の開祖城谷書店は、店員の遣ひ
押し、また医科試験の勉強も大変である。一方で長兄の
込みで閉店し、新鋭の書店太陽堂は栄町の中央に進
良一と共に留守家族の家長の役割を果たしているが、こ
出し、六間間口の店舗を改造中、店主は出資の内台
のエリート青年生活信条は案外と古風で保守的なのが
紳士を説いて、台湾の教科書は一手に予約ある旨を
面白い。電灯の導入には屁理屈こねて反対するし、妹の
吹聴し居る
女子大進学については危険思想を吹き込まれる心配を
資者を呼んで事実無根を注意されて出資者も手を
理由に母親と対立もする。一方で同級生 3 人と伊豆半島
引き、改造も遂に中止するに至り、同書店は自然衰
周遊の旅に出て青春を謳歌する。熱海から下田、天城越
亡の途を
えから三島に出て帰京する足掛 6 日の日程、10 円の小遣
科書と学用品の販売用達を営んでゐたが、家庭の事
を貰って出かけた。伊豆旅行は学生の間で流行していた
情から廃業し、西門外の古本屋杉田書店、文明堂書
らしく、川端康成『伊豆の踊子』の先蹤と云ってよいか
店が栄町に移転し、新本屋を開業せしも、読者の人
もしれない。
気は我店に集中し、学校の増設に伴ひ、教科書の注
正木俊二は大正 3 年帝大医科を銀時計組で卒業し、福
が伝はり、時の後藤新平民政長官は出
った。近所の並木書店は専ら小学校の教
文を引受け、運動用具、楽器類、手工品等も取扱ひ、
6
図書出版にも着手し、売上は逐年増大する一方に り二人へり悪友も次第に遠ざかり、文具店は兼営に変
なった【注 1】。
じ、専ら書籍雑誌の販売に興味が一転し、日夜
々とし
て書店に熱中するに至った」
(『記憶をたどって』p.51)。
時期が明示されていないが、前後の文脈からして 1898
さて村
の回想記では、この新高堂の創立の記述から
年頃から 1902、3 年頃の記述と読める。この回想の裏を そのまま、同業者は潰れていき新高堂の売上は逐年増大
取り、訂正すべきところは訂正する、というのがまずは する一方云々、という条りに飛ぶ。ここでは、この飛躍
目標となる。
をできるかぎり埋めてみたい。
新高堂の創立は 1898 年だが、
『台湾日日新聞』に掲載
とは言え、資料が限られているため、不明のままとせ
ざるを得ないことの方が多い。城谷書店の閉店年も明ら される最初の広告は、管見では 1900 年 2 月 14 日である
かにならない。1902 年 1 月 1 日の広告が同店の最後のも 【注 2】。前回書いた通り、この時期の台北に城谷書店や
のとなっているので、おそらくはこの年の早い段階で廃 博文堂など、より積極的に商売を展開する書店が先行し
業しているのだろう。並木書店は 1896 年 9 月 15 日以降、 て存在した。村
の回想だけを読むと新高堂の出発は順
ほとんど広告を目にせず、これも閉店時期がわからな 調だったらしく思える。だが実際には、どうやら創立後
い。杉田書店、文明堂書店の移転も、今回の調査の範囲 の数年は競合店を追いかける立場であり、それがついに
(1904 年 1 月まで)では現れてこない。残りの一つ「太陽 競り合い、そして上回っていく―、このような大筋で
堂」=博文堂が、今回の準主役となる。開店から日露戦 あったようだ。
争までの新高堂の出発は、この先行する先輩書店との競
争、そして勝利の歴史とひとまずは言えそうである。
ライバル店、博文堂
新高堂社主、村﨑長昶
博文堂だった。この博文堂の軌跡を追うことが、新高堂
城谷書店の廃業の後、台北で最も活発な日本人書店は
新高堂の創立者、村
長昶について『記憶をたどって』 の初期を逆照射することにもなる。以下、しばらく追跡
をもとに紹介しておこう。非常に面白い人物、そして人 してみよう。
博文堂の開業はおそらく 1896 年 8 月(1902 年 8 月 21
生で、本稿でも紹介したいエピソードが多いのだが、紙
日の広告に開業六周年とある)。私の同店の広告初見と
幅の関係上控える。
村
長昶は 1870 年、熊本県に生まれた。寺や漢学塾、 なるのは、1900 年 1 月 1 日の新年のものである。同年 2
済々黌などで学んだ後、書生や教員、県の雇員などをし 月 2 日には『大阪朝日新聞』『時事新報』の取次を行う
ながら熊本県内や沖縄、三重、東京を移動した。台湾へ 旨の広告を出している。また 1900 ∼ 1 年ごろには北門街
官吏として赴任する従兄弟に随伴し渡台。1895 年 6 月に から撫台街へ移転しているようだ。
博文堂は内地の書籍雑誌を輸入販売していたが、台湾
基隆沖の船上で行われた台湾割譲の授受式に際会して
いる。村
の在台の歴史は、大日本帝国の一部とされた で出される図書の発行元も積極的に引き受けていた。
1902 年 1 月 1 日の広告には『日台会話新
植民地台湾の歴史と、まさにぴったりと重なる。
総督府の中央会計部に職を得た村
』
『台湾土語叢
だったが、正規の 誌』『交通要覧』『台北市街全図』『台湾実測地図』の 5
学歴を積んでいなかった彼は早々に官吏としての道を 点が掲げられ、このうち杉房之助著『日台会話新
』は
が居 「発行已来既ニ版ヲ改ムル事七回、発売ノ部数殆ンド貳
断念して辞職、土地の転売を生業にし始める。村
(同年 2.11)ものだったらしい。この他、杉
を定めた台北は、日本の官、民、軍が植民地統治体制を 万余ニ及ブ」
房之助著『日台会話大全』(1902.7.13 広告)、
『台湾地理
立ち上げる渦中にあり、土地価格が暴騰していた。村
はその流れをつかみ、ほとんど無一文から一気に巨額の 唱歌』(1902.9.6 広告)、1902 年 11 月 16 日には「台湾叢
書」として伊能嘉矩著『台湾城誌』『台湾行政区志』の
資産を手にするようになる。
しかし一方、独身で金回りの良かった村
の家には、 二著の発売広告もある。さらに『台湾文官普通試験問題
友人や寄宿者が集まりさわぐありさまとなった。村
(1903.2.5 広告)、
『台湾実測新地図』
『英和読書事典』
は 集』
生活を立て直すべく、妻を迎え、そして新しい商売を始 (ともに 1903.8.8 広告)も目に入る。古書も扱っていたら
めることとする。それが、新高堂だった。「三十一年紀 しく、「古本買入並新古書籍交換」という広告も出して
元の佳節」、すなわち 1898 年 2 月 11 日に「新高堂の商号 いた(1901.4.14)。
で文具店を開業し、続いて書店を兼営し、初年は一年の
売上
博文堂には基隆義重橋と台北書院街に支店が存在し
か三百円に過ぎなかったが、幸に寄食者は一人へ た時期もある(1901.12.8)
。これらの支店やその他の同業
7
いやサ、大東亜戦争もたけなわの、昭和 17 年に出たこ
他店と連携しながら、取次網を作っていたこともうかが
える。1902 年 8 月 3 日の『日台会話大全』広告では、売 がいな本があるのだが (。・_・。)ノ
捌所として基隆・博文堂支店、台中、棚邊書店、台南・
・『印度資源論』P.A.ワディア, G.N.ジョシ
著 ; 小生第四郎訳(東京 : 聖紀書房, 1942.12)
小出書店をあげている。
翻訳者は、奥付によれば小生, 第四郎, 1895-1986 || コ
1903 年後半から博文堂の広告が減り始め、1904 年 1 月
1 日の紙面ではついに新年広告が確認できない。おそら イケ, ダイシロウ という人物で、法的には〈コイケ=翻
くこのあたりで廃業したのだろう。村
の回想によれ 訳者〉で問題ないんだけど、たまたま、この本を入手し
ば、博文堂は移転を行い、同時に教科書販売の独占を吹 た(書いてないが、古本屋からかしら?)インド史研究
聴して失敗、廃業につながったとされる。ただ、これに 者の小谷には「〔コイケは〕訳者として名前を貸しただ
関わる記事は今のところ見つけられていない。移転は けではないかという疑念」がわいたという。つまり、コ
1900 ∼ 1 年に行われており、その後も積極的に広告を イケが〈真の訳者〉のかわりに代役をひきうけて、〈名
打っているところを見れば、移転および教科書のトラブ 義貸し〉をしたと。
ルが、同店の致命傷となったとは思えない。何か別の事
んで、この『印度資源論』の〈真の訳者〉=真犯人を
情があったように思われるが、いかんせん資料がない。 さがす過程を書いたのが、今年でた「出版異聞」という
ワケ (。・_・。)ノ
博文堂の活発な活動を見ていると、創立期の新高堂の
位置―ささやかなそれ―が逆に良くみえてくる。次 「出版異聞」の図式
「出版異聞」は 3 部構成で、第 1 部は、訳者とされとる
回は新高堂の具体的な活動のさまを描きたい。
コイケの小伝、第 2 部は版元「聖紀書房」の社主らしき
【注】
(1) 村
長昶『記憶をたどって
八十年の回顧』村
藤岡淳吉という人の小伝、んで、第 3 部に小谷が〈真の
敏昶ほか
発行、1983 年 6 月、pp.52-53。以下『記憶をたどって』と 訳者〉と見込んだ枝吉, 勇, 1904-1985 || エダヨシ, イサ
表記する。ちなみに新高堂は当初「書林 新高堂」と号し ム の小伝。
た。1903 年 5 月ごろから「新高堂」となる。
コイケはとてもインド資源論など訳すガラでないこ
(2)前稿で 1902 年としたが訂正する。
付記
とを述べ、版元のジュンキチは戦中期かくれ左翼だった
調査にあたり科学研究費補助金 若手(B)課題番号
と強調し、アヤシイ人物として元左翼の枝吉を出してく
24720091 を受けている
る、という図式がこの本の構成となっている。
(ひび
よしたか/名古屋大学)
わちきはコイケのことは、この本で初めて知った
(;´▽` A`` 藤岡ジュンキチのことも目にしてはおった
ハズだが、意識したのはこの本が最初(゜~゜ ) 枝吉イサ
真相はかうだ! 藤岡淳吉の日本焚書は片隅 ムはあまり知られていない人じゃが、こっちはかなりよ
で/『印度資源論』のホンタウの訳者は
く知っとる (σ^~^) とゆーのも、かの図書館疑獄「春秋
書物蔵 会事件」の黒幕を、出版物で名指しした唯一の人物だか
ら (σ・∀・) σ
小谷汪之(こたに ひろゆき; 1942-;インド史学者)
しかし「出版異聞」読了後、本当の翻訳者、つまり〈真
氏による、『
「大東亜戦争」期出版異聞:『印度資源論』 犯人=枝吉〉という小谷説のは、どうも納得できんかっ
の
を追って』
(岩波書店, 2013.7)をオモシロく読んだ た(゜~゜ )
o(^-^)o
電子書籍がでてきたからか、ここ数年、書籍
の過去を振りかへる出版史がハヤリかけてをると思っ 真犯人は別にいる!
てをったが……(゜~゜ ) たうとう天下の岩波からも出
版史本が出たとは茂雄くんもビックリ (σ^~^) σ
しばらく、どうもモヤモヤと疑問に思ってをったの
で ぢゃが。ある時、つれづれにググっていたらば……
気づいちゃったのだ (゚∀゚ )アヒャ
も、ちょっと気づいたことがあったのでメモφ(..)
真犯人は別にいると
いうことに (≧∇≦)ノ
「出版異聞」とは→真犯人さがし
ん?(・ω・。)
この本(以下、「出版異聞」)は、どーゆー本かとい
おみゃーはインド史研究史や出版業界史にそんなに
うと、ぶっちゃけ「犯人捜し」(o^∇^o) ノ
通じてをるのかってか?Σ(゜∀゜;) さにあらず、そんな
8
ん (ヾノ・∀・`)ムリムリ
焚書をやった、ということが年表などに出てる
ちょっくら一般的な調べをしてみた
けど、それはホントなの?
だけですワイ(*´∀`*)ノ
枝吉は『印度資源論』の訳者ではない。だって……、
ある人が、ダレソレだ、って証言してるんだもの (。・_・。) ノ
という疑問と、
2) ホントでないとすれば、 罪らしき焚書事件で
淳吉が失脚、そのせいで出版界の戦争責任追及
状況証拠としてはオモシロな要素がそろってるケド、
が止まっちゃったのは深刻な問題でしょ。年表
どこまでいっても〈状況証拠〉だった枝吉容疑者よりも、
を鵜呑みに出版史を書いている松浦総三、庄司
はっきり証言のあるダレソレのほうが、こりゃ、真犯人
浅水、清水英夫は浅薄ぢゃネ?
の可能性は格段に高い。すくなくとも、その証言を棄却 という問い。
で、2)の出版史家たちが引いているのは、日本書籍出
せんことには、枝吉犯人説はなりたたない(゜~゜ )
版協会編『日本出版百年史年表』(日本書籍出版協会,
1967)や、どうやらその元ネタらしい東京堂版『出版年鑑
焚書ぢゃーヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ
でもここでは日本出版史上、もっとオモシロな焚書事 (昭和 9 年版)』の記事らしいんだけど、どちらも、5 月と
件から話すべぇ。ん?(・ω・。) 焚書ってば、秦の始皇帝 月はちゃんと書いてあるのに日付が入ってないもので、
がやった焚書坑儒かってか (。´・ω・)?
それは古すぎ 年表の方は、日比谷公園で焚書しようとしたが「不許可」
(σ・∀・) σ 1933 年 5 月 10 日、ベルリンその他の都市で、 になったという割注がついていたりもする(この情報は
ナチスにより左翼書やユダヤ書が派手々々しく燃やさ 年鑑の記事にない)。山本ヒロオは 2)をいわんがため、
れたイベントがあったじゃろ (σ・∀・) σ あれのから 1)が事実か否か、1979 年(かその前年あたり)に文献を
みじゃ (。・_・。)ノ
調べてまわり、関係者に聞いてまわったというワケ
これは『印度資源論』の犯人に必ずしも直結しない事 (。・_・。) ノ 文献は当時の新聞をしらべ「幸か不幸か、三
柄なのだけれど、小谷は「出版異聞」第 2 部の版元しら 大紙東京版の三三年五月分には、一行の記事も発見され
べンとこで、その社主を途中からやっていたらしい藤岡 なかった」というし、関係者は、特にジュンキチの奥さん
淳吉の大立ち回り、昭和 8 年の焚書イベントについて詳 アサ子(当時 77 歳)から、「朝日新聞記者」が訪ねてき
てジュンキチに取材したり写真を撮ったりしたのは事実
しくのべている。
藤岡, 淳吉, 1902-1975 || フジオカ, ジュンキチ は昭 だが、自分は記事を見た記憶がないという証言をとった。
んで (o・ω・o)
和前期の出版社、「共生閣」の経営者。この共生閣は左
翼本の出版で有名で、出版史家の浅岡邦雄さんなどは、 「これで、焚書の事実がなかったことは確信が持てた
共生閣、叢文閣、希望閣を代表として左翼出版の「三閣」 し、『朝日』の記事がなかったことも九分九里まで確言
などと言うておる。ジュンキチは途中で右翼に転向し できる。」(p.124)と結論づけたのじゃった (*´д`) ノ
小谷も「出版異聞」で、この山本調査に全面的に拠っ
て敗戦直後、また左翼に転向(立ち戻り?)、講談社な
ど大出版社の戦争責任をキビシーク追及したことでも て山本の判断を「真相」として引用し、「この話はほん
有名(宮守正雄『ひとつの出版・文化界史話』中央大学 の些細な言動から生まれ、それに尾ひれ、胸びれなどが
出版部, 1970)。
たくさんついて、一万冊の「焚書」という「大事件」に
まで発展したものである」と述べる(p.110-121)。
「藤岡淳吉問題」とは
ところが……(=゚ω゚=)
で、このジュンキチ、日本出版史上で「藤岡淳吉問題」
見つけちゃったのだ、ジュンキチの焚書声明が記事と
なる問いが立てられたのでも少し有名らしい。時は 1979 なり、さらにまた実際に左翼書が火にくべられたという
年、山本, 博雄, ?-1998 || ヤマモト, ヒロオという、風媒 記事を (σ・∀・)
社の編集者として 1970 年代活躍した人による問題提起
で、次の論文まるまるがそうである(当時の肩書は山本 戦前の新聞記事を見つけるのは難しい
一般に、年鑑の記事は元の記事が業界紙、専門誌、一
書房社主)。
・山本博雄「藤岡淳吉問題:戦争責任・戦後責任(戦 般新聞などにある。数ヶ月から 1 年まえの事柄を細かく
後出版史ノート)」『伝統と現代』10(2)=(57) 編集者、執筆者が憶えていて、それで本文を書くという
p.119-127(1979.3)
作り方は考えづらい。ヒロオも、アサ子の「朝日新聞の
記者」という、事件から 46 年も後の証言をもとに、朝日
この問題は、
1) 昭和 8 年 5 月に、淳吉が日比谷公園で左翼本の については特に念入りに(朝日の記者に本社資料室で精
9
査してもらったという)、さらに「三大紙」の東京版 5 月 なってんの。
分を国会図書館で精査したのであった。
グーグル・ブックスに切り替えたら、なんとΣ(・ω・ノ)ノ!
しかし、戦前のことを調べる人ならすぐ「あれっ! 清水正三編『戦争と図書館』(白石書店, 1977)という本
('0'*)」と気付くのは、ヒロオの「三大紙」という表現で に、藤岡焚書の記事がまるまる転載されている、ってワ
ある。朝日、読売、毎日ということなのだろうけれど、 カルぢゃあ、ありませんか (@_@;)
それは戦後の常識ぢゃ。たとえば今、ネットの青空文庫
で検索すると、有名な哲学者だった戸坂潤の、「吾が国 ヒトラーも確に聴け!
に於ける代表的な四大新聞―大阪東京両朝日・大阪毎
と、この本は持ってをるのでかぶりつきましたワイ
日・東京日日」(『現代哲学講話』白揚社, 1934)といっ (^-^;)
た表現や、
「東京の五大新聞」
(『読書法』三笠書房, 1938)
ヒトラーも確に聴け/日本でも焚書/右翼へ転向
といった表現が見つかる。また、
「六大新聞」なんちゅー
記念に、赤い出版元・共生閣主人/所は日比谷
(五月二十日、時事新報)
リストもある(伊藤正徳『新聞五十年史』 書房, 1943
p.354)。
「東京五大新聞」はおそらく、東京日日新聞、東
こんな題字のもと、清水著の p.186-187 に記事全文が
京朝日新聞、報知新聞、時事新報、国民新聞といったと るまる (@_@;) ジュンキチが「国際的並びに社会的情勢
ころ(内務省警保局編『新聞雑誌社特秘調査』大正出版, に翻然右翼転向を最近声明して」
、
「左翼書の焚書を日比
1979)。
谷公園内広場で行うべく、目下、警視庁及び東京憲兵隊
つまり、ヒロオの文献調査は〈戦後の〉常識に乗っかっ と折衝中」とある。
ており、モレがあるらしいことが自然とわかる。しかし
わちき、これで嬉しくなっちゃって、
『戦争と図書館』
現在、戦前の記事が DB 化されているのは読売、朝日だ 記事の元ネタたる、京橋図書館(東京都中央区)へスク
けで、縮刷版よりもずっと狭いし、その縮刷ですら、報 ラップブックを見にすっとんでったんだわさ。すると郷
知、時事といった当時の代表的新聞に、ないのだ。では、 土資料室に確かに、1959 年 12 月のある日、清水正三が書
あの、目が回って吐き気がし、人によっては目がつぶれ 庫(もとの安全開架書庫)で見つけたというスクラップ
てしまうという(GHQ 研究の竹前栄治氏がそうだった 帳が残ってをった(とはいへ、当時 16 冊だったのに 3 冊
分減ってたのはチト解せんが)。そして当該記事の切り
と)マイクロフィルムを見るしかないのだろうか?
抜きを発見ヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ メガネをかけたジュンキ
「ググる」にもググりかたが
チが数百冊の在庫本を背に、晴れ晴れとした表情で写真
数年まへから、「ググる」なる動詞が日本語に定着し に収まってをった (σ^~^) 続報は?とてスクラップが
てきたけれど、よーするにこれ、ネット上にある Google あるかと一応 13 冊を通覧したけど、なかったが (´・ω・`)
なる検索 DB(検索エンジンという)を使ってネット上
ん?(・ω・。)
の文字列を検索するということ。Google はタダで使えて
さっきの記事ぢゃあ、「折衝中」なだけで、実際に焚
大変便利なんだけど、タダで使える分、運営会社のご都 書したからどうかは、この記事からぢゃあ、不確定ぢゃ
合次第で、よく検索ロジックを広報しないまま勝手に変 ないかってかc(≧∇≦*)ゝアチャー
更しちゃふ。故に、ブール演算、フレーズ検索など基本
さうなりヾ(^∀^;)マアマア
技はユーザ側できちんと理解して、自分の検索結果か
でも、見つけちゃったのだ (。・_・。)ノ 続報を (゚∀゚ )アヒャ
ら、「ハハーン、きのふからグーグルはロジックをこう
ってか、またググった結果なのだけどねc(≧∇≦*)ゝアチャー
変えたのね」などと逆算しながら使わないと、学術上は
トンデモナイまちがいを犯すというシロモノ(まあ、学 続報発見(`・ω・´)ゝシュピ
ググっった中に、ひとつだけ、妙に新しい文献がある。
問に縁なき衆生ならはなんも考えんで可)。
で、これを「藤岡淳吉
焚書」でただの検索をかける
戦前日本人の対ドイツ意識 - 117 ページ
と、拙ブログも含め、どーしよーもないノイズ(余計な
books.google.co.jp/books?id=2lMyAQAAIAAJ
ヒット)ばっか出てきて、先へ進めないとゆーのは当た
岩村正史 - 2005 - スニペット表示
り前のことで。じつはこれ、「Google books」なるものに
また、元左翼の出版人 藤岡淳吉は、右翼に転向した
切り替えてみると、おなじ検索式で本の記述ばかりが出
記念に、それまで刊行した左翼書籍をナチスをまね
てくるのだ。以前は一般の検索結果とごちゃまぜに表示
されてたのに、しばらく前から別々に表示されるように
10
て焚書処分にするデモンストレーションを行った
念のためとこの本を見たらバΣ(・ω・ノ)ノ!
なんと (@_@;) 広く当時の代表的新聞を通覧したら とはいえぬ。右の人物の頭にかかって見づらいが、看板
しいのぢゃ(× o×) 本文には従来の、藤岡→焚書をし があり、
「∼民能∼」と読める(とある人に指摘された)。
た、ということが書いてあるのぢゃが、従来の通俗出版 雑誌「国民の友」、あるいは国民の友社をこの段階で始
史に必ずあった「日比谷で」という要素が欠けとるし、 めていた可能性を示す。
なんといっても、後追い記事の書誌が注記に書いてあっ
たのぢゃ Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒(。A。)!!!
しかし、「火を待つ名著一万冊」と、マルクス・レー
ンの左翼書を「名著」とは、時事新報記者もシャレとる
さっそく当該日の時事新報を見にいったところ、あっ の (σ^~^) σ
たのぢゃ!
これまた写真入りで!(゚∀゚ )アヒャヒャ
ところで共生閣は、警視庁にトラックの手間賃を払っ
たのだろうか (。´・ω・)?
日本焚書は片隅で
時事新報、昭和 8 年 6 月 16 日付夕刊の p.2 に「ナチス むしろ戦後に意味を持った藤岡焚書
かようにして 1979 年以来の藤岡淳吉問題の 1)は、す
に通ずる煙/日本焚書は片隅で/けふ例の共生閣主」と
でにその 2 年まえ清水著により半分、それから 2005 年
(σ・∀・) σ
〔転向〕を声明して俄然センセーションを
き起し に全部の答えが見つかっていたということが判った。
た既報の左翼書肆共生閣主藤岡淳吉氏は〔、〕その ただ 2005 年の岩村さんも問題が立てられていたことに
後左翼刊行物の焚書を決行すべく警視庁当局と折 言及しとらんから、問題と答えをマッチングしたのは
衝中であったが、南千住の高崎製絲〔紙か〕工場に 2013 年 9 月のわちきぢゃ (σ^~^) 一件落着ってか……
於いて焼却するならば許可する旨の通知があった (〃´ o `)=3 フゥ
いや、そーでもない (。・_・。)ノ
ので、十五日午後三時から焚書に決定〔。〕
実は藤岡淳吉問題は 2)が解かれとらんし(藤岡焚書
ということで、
神田区淡路町の共生閣から∼一万冊が三台の警視 のありなしと講談社などの戦犯問題は直結はしない)、
庁差
1)に関しても深刻な出版史上の問題となったのはむし
しのトラックで運ばれ∼終末を告げた
と、派手な日比谷公園ではなかったが、ひっそりと南千 ろ藤岡が戦犯追及途上で失脚した昭和 21 年ごろ、ある
住の製紙工場で焚書が確実に行われたことを伝え、(お いは出版史研究が本格化した 1970 年前後(日本出版学
そらく)共生閣前に「積み上げられて火を待つ名著一万 会の発足は 1969 年)からだ。だって、同時代の記事は
冊」という本の山が写った写真も添えられている(下記 やっぱり時事新報しかでてこないし(報知新聞にも見当
図版参照、全文は末尾【附録 1】参照)。
たらず、『出版通信』にも見つからず。かろうじて『図
書週報』に時事新報の最初の記事を元にしたものが数
行)、当局もジュンキチの焚書を重くみていたわけでも
ないようで、『思想月報』にも『出版警察報』にも見あ
たらずぢゃ(゜~゜ )
でも、転向後の淳吉には一定程度の注意を払っていた
みたい (。・_・。)ノ というのも、新しく始めた右翼理論誌
『国民の友』の内容を『出版警察報』がしばらくフォロー
しているから。これは現在、皓星社の「ざっさくプラス」
『時事新報』昭8.6.16付夕刊(6.15夕方配達)
より
で検索できて、昭和 9 年 2 月号から昭和 10 年 4 月号まで
で、この楽しき写真をばチト分析。まず本の量。高い の内容細目がわかる。
山 1 山 50 冊で 1 列 10 山。低い山 1 山 25 冊として高い山
ヒロオが事実関係について詳細に論じて疑義を呈し
のうしろに 10 山 2 列、しゃがんでる人の左にほぼ同量と た際、唯一、独自情報の存在をにおわせた「百年史年
して計 40 山。あわせるとこの写真だけで約 1500 冊が 表」。それの編纂者だった布川カクザエモンは、「実際
写っていることになろうかと思う。1 万冊だとこれの 6 には焚書はなかった」と言っていたという(清水正三が
∼ 7 倍だから、こりゃあ「三台の警視庁差
ク」が必要なわけだ (゚-゚*)(。。*)ウンウン
しのトラッ 1989 年 8 月 25 日大阪でやった講演「戦争と図書館」で、
二人の男性は左は 布川の言として紹介←松本剛『略奪した文化』岩波書
使 用 人 か?淳 吉 で な い。左 が ジ ュ ン キ チ っ ぽ い が 店, 1993 p.191)。布川先生は時事の記事を見ていたのか、
(チョッキを来ているからネクタイをしていそう)確実 それとも実体験から、「日比谷ではなかった」と言いた
11
かったのだろうか。「百年史年表」はその項目すべてに -1989 || ヤマモト, トシオという人が、こう書いている
しかるべき史料的裏付けがあったはずなのだが、その んだもの (σ・∀・) σ
〔夢坊は〕戦時中で本が出せなくて困っていた左翼
スクラップ類は布川文庫から散逸して確かめようがな
い……o(`ω´*)oプンプン
の巨頭山川均、荒畑寒村のために、両氏が執筆した
《印度資源論》を彼の名で出版し、台湾、満州でう
昭和 18 年 10 月 4 日の夜、神楽坂で牛肉をタラフク……
んと売ってその窮乏を救ったこともある。(p.63)
1967 年の「百年史年表」以来この方、みなが焚書なかっ
「小生夢坊の歩んだ道」『虚夢の足あと』山本敏雄
た論にこだわりつづけてきた。現実には焚書はあった。
(残燈社, 1975)p.53-66(初出は『日本産業』連載「私
のノート」か? 1967.12)
南千住で燃したので日比谷ではなかった、とここで明ら
かにしたのぢゃが、では、わちきは藤岡ジュンキチを糾
弾したいのかといへば、さうでは (ヾノ・∀・`)ナイナイ
ね、ちゃんと「両氏が執筆した《印度資源論》」とあ
るでしょ (σ^~^) σ
たしかにジュンキチには「便乗癖」があったかと思う。
ちなみに「小生夢坊」ってのは、コイケ第四郎その人
ジュンキチの友達もさういっとるし、奥さんも「いつも (。・_・。)ノ 小谷氏はなぜか一貫して本名「第四郎」と書
のホラです」と、焚書のきっかけとなった捨て台詞を評 くが、むしろ「夢坊」(ゆめぼう)というペンネームで
有名なのぢゃヾ(๑╹◡╹)ノ”
していた。
この山本の証言によれば、
『印度資源論』の訳者は「左
ところで、妻に先立たれ憔悴し、戦時中のこととて腹
をすかせた荒畑寒村が―ん?(・ω・。) 寒村なんて知ら 翼の巨頭」山川均と荒川寒村ということになる。
んってか(+ o +) 左翼の偉い人ぢゃ(σ・∀・)σ―なん
ん?(・ω・。) 証言者の山本はほんとうに夢坊の「心の
とまあ「神楽坂の牛肉店で牛肉をタラフク食」い、「う 友」なのかってか (σ^~^)
だって、この本、古本で
まかった」ことがあった。それは十分に内地の生活が 買ったらカバーのフラップにコイケ夢坊の「推薦のこ
ひっ迫した 1943 年 10 月 4 日のことだったのだが、「招 とば」があるんだもの (σ・∀・) σ
そこに「著者山本敏
待」したのは「聖紀書房の藤岡君」(゚∀゚ )アヒャ。これは荒 雄氏と私は五十有余年の心の友である」とあるのじゃ
畑寒村『春、雪ふる:荒畑寒村戦中日誌』不二出版, 1994 ヾ(*´∀`*)ノ゛ それに本文を見ると、
「ここ数年来旧交を
p.72 にあり。この本、人名索引がついとるよい本なのに 温めて」とあるから、昭和 40 年代にコイケから山本トシ
肝心のジュンキチが立項されとらんねぇ(゜~゜ )
オは直接、
『印度資源論』のことを聞いたことになろう。
商売とはいえ、つきあうこと自体がリスクの左翼の大 夢坊が「十人塾」(台湾、朝鮮、中国、蒙古から青年を
立者に戦時中、「牛肉をタラフク」おごるなんて、なか 夢坊の家にステイさせる)をやってた関係から「台湾、
なかできんことだよ (σ・∀・) σ
さういった意味で、 満州でうんと売」ることができたんだろうが、この販売
ジュンキチは十分いい人だと思う (。・_・。) ノ 少なくとも、 情報、ほかの資料では出ない『印度資源論』に関する独
リスクを恐れてなにもしない小役人ばりの連中よか、 自情報だから、トシオは本で読んだんじゃなくて、夢坊
よっぽど時代をこえて義理人情に厚い。荒畑に翻訳料の から直接聞いていた可能性大 (。・_・。)ノ
前借りも許しているしなぁ(荒畑、前掲書 p.58)(*´д`) ノ
ところで、ぜんぜん『印度資源論』〈真犯人〉の話に 傍証 1 山川研究も荒畑研究も昭和 17 年は空白
ならんぢゃんか、ってか(;´▽` A``
念のため山川均と荒畑寒村の著作年譜や年表を、日外
アソシエーツの『人物文献索引』や『人物書誌索引』で
山本トシオ の重要証言
真犯人は……。
見つけてさらってみたんだけど、『印度資源論』のこと
は載ってなかった。ってか、山川の場合、『印度資源論』
じつは「出版異聞」の本文、1 行目に出てくるお人 のでた昭和 17 年なんか年譜は空欄になっとるし、荒畑
(σ^~^) σ
のほうはと言えば、このころの日記が残っているのは昭
アンタももう知っとるお人ぢゃ。さう! ジュンキチに 和 18 年と 19 年だけで、17 年のことは詳しくわからん。
牛肉をおごってもらった荒畑寒村ぢゃヾ(*´∀`*)ノ゛キャッキャ 荒畑の前掲書でも見てちょ。
ん?(・ω・。)
なしておみゃーはそんなこと言うんだってか
傍証 2
c(≧∇≦*)ゝ
荒畑の翻訳作業
それに、この山本証言〈真犯人=山川均、荒川寒村〉
だって、コイケ夢坊の「心の友」である山本, 敏雄, 説を補強するのは「出版異聞」自身なのだ。『寒村自伝
12
下』
(p.190)に、
「生活費は、出版社の依頼でクラーク
そして、
3)『印度統計書』にないが『印度資源論』にある統
の『長城は崩壊する』、ヴァイナック教授の『極東近世
史』、ハッドンの『首狩人種』、著者失名の『原始民族』
計表が、東亜経済調査局編『イギリスの印度統
などを翻訳して稼いでいた。∼〔昭和十九年〕十月四日
治 : 其経済諸政策の研究』(東亜経済調査局
の日記には、「山川〔均〕君と共訳したシャノンの『ア
1935.5)にある枝吉による表と同種のものであ
メリカ経済の発展』∼」といった記述があると小谷氏は
るから、枝吉犯人説の傍証となる(p.187-188)
指摘(p.126)。
「翻訳書を考えるうえで、極めて重要な記 と主張する。
述」だと小谷氏も評価している。まさしくそうである。 しかし……。
民族学などの本 4 点は「∼など」という言葉でうけて
じつは 1)については、必ずしも成り立たないのでは
いることから、ほかにも『寒村自伝』で言及されていな ないか。たしかに各種の統計表にアクセスできた人たち
い翻訳書があると思われる。寒村は「自伝」で自分の日 は今よりずっと限られようけれど、帝大や早慶あたりの
記を参照しているが、昭和 17 年分はなかったから、18 図書館に出入りできれば、『印度資源論』の附表はつく
年、19 年から事例をもってきた(=『印度資源論』の 17 れるのではなかろうか。綜合印度研究室や東亜研究所の
年からは持ってこなかった)ともいえそうである。
研究員だけに限る積極的な理由にならないのでは。それ
日記を編纂した堀切利高によれば、昭和 14 年 1 月の に、本文は山川、荒畑が訳して、附表は彼らのシンパた
『科学ペン』記事を最後に当局の圧力で自論を展開でき る東亜研究所周辺の誰かということも考えられる。
3)に関しては、枝吉作成の 1935 年の表を単に『印度
なくなった荒畑は、その後「活路を翻訳に求め」たのだ
けれど、これも、昭和 16 年 2 月の『東亜近世史
上巻』 資源論』の訳者が転載したという解釈が可能。
2)に関しては、消去法だから、よっぽど前提 1)が強
を最後に荒畑名義での仕事ができなくなってしまう。そ
こで小谷氏も指摘するとごく、他人名義で翻訳を続ける い証拠で固められたうえで、3)に類する傍証をもうちっ
んだけれど、これまた堀切によれば、その最初がかの『印 と積んでほしいところ。
度資源論』なのだという。時期的にも、昭和 16 年 2 月か
ら、荒畑の訳が確実な『世界の原始民族』が出た昭和 18 枝吉犯人説のマイナス要因
年 6 月まで 2 年もあいだが空くし、荒畑は 3 ヶ月程度で
で、小谷氏の枝吉犯人説 3)の傍証で、ちとフシギな
1 冊を翻訳できたんだから(末尾、【附録 4】を参照)、 推論を小谷氏はしているように思う。それは枝吉が戦
その間に 1、2 冊以上の訳書があると考えるのが自然で 後、国会図書館に入って 20 年間、さらに(財)経済調査
ある。時期的には昭和 17 年 12 月の『印度資源論』は十 会につとめたあと、自伝の『調査屋流転』
(私家版, 1981)
分あてはまる。
を書いているのだが、これには『印度資源論』に関する
記述がない。で、この記述がないことに関して、可能性
は 4 つ考えられるのぢゃが……。
枝吉犯人説の根拠:小谷説
「出版異聞」では、名義人のコイケ夢坊を実行犯でない
1)隠した(ので言及しなかった)。
と棄却し、藤岡淳吉の周辺について記述したうえで、
「第
2)忘れてた(ので言及できなかった)。
三の男」として満鉄調査部にいた枝吉勇を容疑者として
3)たいして関係がなかった(ので言及しなかった
or 忘れた)。
出してくる。その根拠は、
1) 翌年に出た、綜合印度研究室編 『印度統計書』
4)まったく関係がなかった(ので言及できなかっ
(国際日本協会, 1943.6)の統計表と一致する表
た)。
がけっこうあるので、「それで、『印度資源論』
小谷氏は、戦後であっても、「枝吉自身が『印度資源
を翻訳し、附録の統計表を作成した人物は『印 論』の本当の翻訳者は自分だといいだすのは難しかった
度統計書』の作成にも関与していたのではない であろう」と判断している。つまり 1)の選択をしてい
かということが考えられる」(p.150-151)とし、 るのだが、その理由は「『印度資源論』は国会図書館に
2)「綜合印度研究室の研究員か、〔それと共同研究 も、小生第四郎訳として収蔵されているのであるから、
をしていた〕東亜研究所第五部印度・ビルマ班 国会図書館参事としての枝吉はこの件について沈黙を
の研究員かにかぎられる」(p.159)という前提 守ったのであろう」(p.194)と、「参事」(ウィキペディ
をたて、2)の範疇から「消去法による推論」で、 アによれば官名「事務官」と同義で、決してエライわけ
枝吉勇を容疑者としてだしてくる。
ではない)であったことを 1)の理由として想定してい
13
るらしいが、これが〈図書館に勤めていたから本当の訳 因果は巡る→出版史資料の発掘を!
ところで、山本が 2 人出てきたことに気づいた?
者だと言いだせない〉という主張であれば、これは成り
立たない(たんに枝吉が性格的に奥ゆかしくて隠したと (σ・∀・) σ だてに「トシオ」だの「ヒロオ」だのカタ
いうのなら成り立つが)。別に、実は自分が訳した、と カナを使ってたわけぢゃないのよ (σ^~^) 夢坊の「心
言っても、それにあわせて全国書誌の目録記述を変えな の友」山本トシオと淳吉問題の山本ヒロオ。実は両者は
ければならない理由はないのだし(というか、むしろ、 親子なのぢゃヾ(*´∀`*)ノ゛
トシオの子がヒロオで、お
図書館における列挙書誌においては日本目録規則など 孫の唯人(タダヒト)さんも社会学の研究者でご活躍中
により、奥付の名義を採らざるをえない)、同僚に迷惑 とか(堀切利高「(書評)山本博雄の遺著:妖婦下田歌
子「平民新聞」より」『初期社会主義研究』(13) p.238
をかけることにはならないと思われる。
ところでこの自伝『調査屋流転』は、「図書館職員の -240(2000))。で、淳吉問題を提起した時、ヒロオはこ
ための手引きのようなものとして、国会図書館の後輩た んなことをいっている。
ちに広く読まれたという」(p.194)と小谷氏は書いてい
近親にその人物を遠くから知っているものがい
る。「という」というから、国会図書館の「調査員」(こ
て、筆者も幾たびか話を聞かされたことのある「藤
岡淳吉」(p.119)
れも官名の一種。エラサは保証されない)だったインド
ジュンキチを知っとる「近親」とは、父のトシオでは
専門家H本氏あたりに小谷氏が直接聞いたのだろうが、
わちきが消息筋の司書K氏に聞いたところでは、ちょっ ではあるまいか。そしてトシオはコイケの「心の友」で、
と異なる。この自伝の性格から、「国会図書館の後輩た そのコイケは印度資源論の翻訳名義人。因果はめぐる風
ちに広く読まれた」ということはなく、むしろ「一部の 車 (=゚ω゚=)
職員にこっそり読まれたのだ」という (σ^~^)
ところで、藤岡ジュンキチのほうも、実は子もあり孫
この自伝、実は暴露的な性格をもつ著書である。その もあり。なんと子どもの藤岡啓介(フジオカ ケイスケ,
最たる例が疑獄事件「春秋会事件」(1958-1959)の記述 1934-)がウィキペディアに立項されていて、そこでジュ
で、「事件の仕掛け人は、□田、□島氏の名がささやか ンキチが記述されとる。孫は中川右介(ナカガワ ユウス
れた」などと、これが出た 1981 年の段階ではまだ関係者 ケ, 1960-)といい、「音楽評論家、編集者、出版社経営
が多数存命であったろうに、あけすけに指摘している。 者。旧姓藤岡」だとこれもウィキペディア。どっちも出
いま NDL-OPAC を検索すると、
『調査屋流転』は枝吉の 版人で、お孫さんが近年、つぎのジュンキチ伝を書いと
古巣、国会図書館に所蔵されており、請求記号が「GK44 る(「出版異聞」にちとわかりづらい形で書誌があげら
-33」であることから、1969 年から 1987 年までに整理さ れとるが(刊行年がない))。
・中川右介「ある左翼出版人の略伝:二〇〇八年版出
れた図書だと『国立国会図書館百科』(p.84,85,90)から
わかる。さらに「キーワード= gk44-3*」で検索しなおす
版にあたって」『共産党宣言:彰考書院版』(アル
と、前後の請求記号をもつ図書が出版年代順にきれいに
ファベータ, 2008)p.108-127
並ぶことから、1981 年 2 月に頒布されて〈可及的速やか〉
中川さんはここで焚書なかった説に立っているのだ
に納本され整理され閲覧可能となっていたということ が、検事局に呼び出されるキッカケとなった無届出版
75 点の話など、他の資料ではでない詳細で極めてオモシ
もわかる。
つまり、枝吉自身は、自分の信じる真実のためなら、 ロい情報が満載である。おじいちゃんから直接聞いた話
あえて角が立つようなこともできる人であったと推論 もあるようだが、にゃんと、「淳吉の回想録」を見なが
せざるをえない。そして、自分が参事や調査員としてつ ら書いた部分があるという(+ o +)
日本最初の出版史人名事典には、藤岡ジュンキチは
とめた古巣に私家版なのに(納本事務は取次からの受入
れがメイン。非売品の納本率は悪い)頒布後すぐ納本し 「毀誉褒貶はなはだしかったが、出版史の一時期を画し
(『出版人物事典』出版ニュース社, 1996
た。かようなことをできる人が、同僚をわずらわせるか た人物であった」
らといって、「印度資源論はじつは僕の翻訳だよ」と言 p.261)とある。これを編んだ鈴木徹造は、ある人によれ
い出せなかった、自伝にも書けなかったとは、ちょっと ば自分で評言する人でないので何かに載った表現だろ
考えづらいのである。
うという。画したというよりも時代に乗った人であった
わちきは、4)のまったく関係がなかったか、3)のせ ろうけれど、ジュンキチのド派手なパーフォーマンス
いぜい間接的に統計類を手伝った可能性もあるぐらい 「焚書」にしてからが、ここ数十年、あったかなかったか
の選択肢を推しておく。
すら、なんだかさっぱりわからんことになっていた。中
14
川氏のもとに残されているジュンキチの回想録がいつ とれる。マジメな問題というより、際物として時事新報
の日か出版物となり、昭和期出版史のドタバタ、いちば 記者が書いたものといえそうだ。「終末を告げた」と焚
んオモシロいところが少しでも明らかになることを望 書を過去形で書いているが、書いた時点では焼却はまだ
みたい。
で予定稿と思われる。というのも、15 日の午前中、共生
こういった藤岡焚書などの特殊事案が一般出版史の 閣前で撮影→社に帰って写真現像と記事執筆→夕刊に
観点から再検討されることで、逆に一般史の事例として 間に合うという流れだったろうから。ちなみに、戦前の
還元され、史的研究がゆたかになるという良循環が見え 新聞夕刊は、次の日の日付が印刷されているので注意す
てくるやうな気がする……。
べきことは、これは比較的有名な話である。
ん?(・ω・。)
撮影用に社屋前にむしろを引き(アサ子証言)、1 万
冊の約 1 割を並べたというところだろう。残りの 9 千冊
気のせいだってかc(≧∇≦*)ゝ
は倉庫から直接、トラックに積み込んだものか。
【附録 1】焚書の実行をつげる『時事新報』記事(昭和 8
年 6 月 16 日付夕刊 p.2)
日比谷公園での焚書は不許可になったが、製紙工場で
の焚書は許可となったといえる。また、単に許可となっ
焚書〈宣言〉の記事は、清水正三編『戦争と図書館』 ただけでなく、警視庁が便宜をはかっている。
などで容易に参照できようから、後追いの焚書〈実行〉(写真の記述と分析)本文中に記述した。
記事全文を掲げておく。〔
〕内はわちきの付記。
(記事本文)
【附録 2】藤岡による焚書〈声明〉、焚書〈実行〉の時系列
「ナチスに通ずる煙/日本焚書は片隅で/けふ例
の共生閣主」 投獄六回、発禁六十数回の云はゞ左
(試案)
各種の断片的証言から仮に設定してみた。記事文や後
翼運動陣営内に於ける「文化的任務の輝ける同志」 世の藤岡アサ子証言から派生する事項も想定した。
から一転して「搾取なき日本」「侵されざる日本」(1933 年)
主義を奉じ右翼理論大系の確立及び普遍化を声明 5/10(水)
ナチス焚書(ベルリンなどで)。外電が
して俄然センセーションを
発せられる。
き起した既報の左翼
書肆共生閣主藤岡淳吉氏はその後左翼刊行物の焚 5/12(金)朝
各紙朝刊にナチス焚書の報道。
書を決行すべく警視庁当局と折衝中であったが、 5 月上旬
検事局(区裁判所)、なにかのきっかけ
南千住の高崎製絲〔紙か〕工場に於いて焼却するな
で共生閣の無届出版 75 点を摘発。数千
らば許可する旨の通知があったので、十五日午後
冊を差押え、廊下に積む。
三時から焚書に決定〔。〕神田区淡路町の共生閣か 5 月上旬
藤岡、検事局に呼び出され、無届出版
らフィンゲルト、シルヴィント共著の名著「史的唯
75 点(60 数点とも←アサ子)で罰金
物論教程」レーニンの「経済学教程」マルクスの「ブ
1500 円(1 点 20 円)と言われる。
リューメール十八日」等刊行当時〔発行部数〕三万 同日
廊下に積み上がった差押え本を見なが
を突破した左翼書を初め一万冊が三台の警視庁差
ら、通りすがりの時事新報記者に「燃
しのトラックで運ばれ「その発展過程に於いて
やしちまうだ」と捨て台詞。
(記者に名
複雑多岐な神国日本」に不必要な社会主義理論書
刺をもらう→アサ子の架電)
としての終末を告げた(写真は積み上げられて火 ∼ 5/18(木)
藤岡、警視庁(課は不明)と東京憲兵隊
を待つ名著一万冊)
に〈日比谷公園での焚書〉を願い出る。
(分析)
「既報」とは 5 月 20 日付夕刊の記事をいうのだろ ∼ 5/18or5/19 朝 妻アサ子、淳吉にくだんの時事新報記
う。記事の扱いは既報が同じ 2 面の右上 1 段目だったの
者を呼ぶよう公衆電話まで使いに出さ
に、5 段目と小さい。それでも写真を載せ、それなりの
せられる。
扱いといえる。ただこの時代、時事新報は明治期、福沢 ∼ 5/19(金)朝 時事新報記者が共生閣にて藤岡に取
諭吉創刊時のクオリティーペーパーの頃とは比較にな
材、撮影。
らず没落していたという(昭和 11 年末に廃刊)。また夕 5/19(金)夕
時事新報夕刊(5/20 付夕刊)に焚書〈宣
刊の 2 面は社会面で、既報もこの記事も、鉄道事故や自
言〉記事。
殺、盗難記事、嬰児殺しなどの記事に囲まれている。藤 5/19 ∼
憲兵隊と警視庁で協議?
岡の焚書が、政治面や文化面の扱いではないことが見て 5/19 ∼
警視庁、
〈日比谷公園での焚書〉を不許
15
可に。替わりに〈南千住での焚書〉を許 したと思われる。
検事局の廊下にあった差押え本 75 点分(数千冊か)
可。藤岡、1 万冊運搬のトラックを要
は、3 台のトラックが 6 月 15 日に共生閣へ到着した際に、
求?
5/19 ∼
警視庁、トラック 3 台を都合。6/15 に共 すでにそのトラックに積みこまれていた可能性がある。
生閣(神田淡路町)へ行くよう指示。 「警視庁指
し」という表現はその事情を反映したもの
∼ 6/15(木)朝 藤岡と社員で一万冊の一部を共生閣前 かもしれないし、そうだとすれば、写真に写っている本
に並べる。
の量が数千冊で、ジュンキチのいう 1 万にはいまひとつ
6/15(木)朝
記者らが一万冊の一部を撮影。
足りない説明にもなる。
6/15(木)昼
記者は帰社し記事を書き写真を現像に
いずれにせよ発覚した無届出版物 75 点が最初からな
出す。トラック 3 台が共生閣へ到着し かったことになっていれば、帝国図書館にも交付され
店頭の本を積み込む。夕刊が刷られる。 ず、発禁処分の通知もない(小田切秀雄, 福岡井吉編著
6/15(木)夕
15 : 00
高崎製紙(南千住)の焼却炉 『昭和書籍雑誌新聞発禁年表』増補版 明治文献資料刊行
にて左翼書 1 万冊の焼却開始。
6/15(木)夕
会, 1981 などに、75 点一括発禁の指定がない)のも説明
時事新報夕刊(6/16 付夕刊)に焚書〈実 がつく。アサ子証言では、発禁が不問に付され実刑も罰
行〉記事。
その後
金もなくなりずいぶん得をしたという。検事の裁量によ
記事を見た検事局が藤岡に好印象。無 るものと思われるが、出版警察の特殊性(いいかげん性)
届出版 75 点が無かったことになる。起 を示す事例かもしれない。
訴もなし罰金もなし。
その後
淳吉自身が焚書実行を吹聴(友人によ 【附録 4】荒畑寒村の翻訳能力を示す詩
寒村の日記には、
「わが世渡り」という詩がある。1943
る)。
(1934 年)
淳吉、共生閣をたたみ、国民の友社を 年 4 月 12 日から 19 日の間に書かれたもの。
(全文)
始める。
(1936 年)
時事新報、廃刊。
詰らなき世渡りなれや/とつ国の人の書きたる/
(1946 年ごろ) 民主主義出版同志会を中心に戦犯追及
ことぐさを読みも通さず/横のもの縦になすな
をしていた藤岡、GHQ に密告さる。
る/反訳の二た月三月/やうやくに訳し了れば/
見も知らず名さへも知らぬ/人の名の肩書つけ
【附録 3】差押えられた共生閣の無届出版物について
て/新刊書、市に売らるゝ
検事局に差押えられた点数は比較的はっきりしてお (分析と推論)訳業を「詰らな」いとしているが、翻訳作
り、藤岡アサ子証言で 60 数点、おそらくジュンキチ回想 業そのものは、ないと無聊に苦しむし(日記にそうある)
録が出典の情報では 75 点。時事新報記事で焚書は 200 点 生活も困るので、本の主題が寒村にとって興味がないの
とあるが、 及入力で納本リストがわりに使えるように だ。米国経済史の本について「一向に興味なく、従って
なった現在の国会図書館所蔵本の共生閣の本が、NDL- 能率も上がらぬ」(p.58)とある。「読みも通さず」とい
OPAC では 120 点ほどしか表示さない。共生閣が納本し うのも、一部だけ担当したり、全体像がわからないまま
たもの 120 点と、納本しなかった 75 点を足すと、ほぼ 200 作業としてこなしているととれる。「出版異聞」で『印
点となり、これらが一括して南千住で焼却されたと考え 度資源論』が直訳調だという分析があるのと関連がある
かもしれぬ。また、1 冊を翻訳するのに 2、3 ヶ月かかっ
ると点数上はつじつまがあう。
ちなみに納本と届けを怠ることは「無届出版」といい、 たと推測できる。最後の「新刊書、市に売らるゝ」とい
「秘密出版」とは違う類型で当局は捉えていた。無届出版 うのは今回、重要な部分で、これを「完了相」と解釈す
物は通常どおり奥付などが印刷され、取次ルートに載っ ると、この時点で翻訳中の『世界の原始民族
上』のこ
て販売されたものや、限定配布の「代謄写」ものが入る。 とではなく、すでに 1 点以上、名義借りの訳書が販売さ
ジュンキチ自身は、納本をうっかり忘れたら何もおとが れていることになる。そしてこの条件を満たす候補は現
めがなかったので、出版の度、忘れることにしたという 在のところ、コイケが荒畑・山川の訳業だと証言する『印
(中川 2008)。
『出版警察報』などには、書店などを捜索 度資源論』しかない。
して、無届出版を見つけたといった報告が散見されるの
で、そういった手入れからジュンキチの無届出版も発覚
(しょもつぐら)
■表紙書影は『六六日記』表紙〔稲岡勝氏提供〕
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