清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における 小説概念

『中国言語文化研究』第 13 号
清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における
小説概念
白 須 留 美
1 .は じ め に
中国では民国期に入ると鴛鴦蝴蝶派と呼ばれる一群の作家たち
が 文 学 期 刊 誌 や 新 聞 で 活 躍 す る 。彼 ら の 作 品 は 、近 代 的 な 小 説 の 概
念 に 近 く 、 様 々 な 趣 旨 の 小 説 を 刊 行 し た 。 し か し 1919 年 の 五 四 運
動 時 期 に 新 文 学 派 よ り 強 い 批 判 を 受 け た 彼 ら は 、次 第 に 活 躍 の 場 を
失 っ て い っ た 。そ れ で も 、彼 ら は 新 た な 発 表 の 場 を 模 索 し 、作 品 の
開 拓 を 行 う 。 彼 ら の 作 品 は 娯 楽 作 品 が 多 く 、 30 年 代 後 半 か ら の 第
二 次 世 界 大 戦 、国 共 内 戦 に お い て 作 品 は ほ と ん ど 発 行 さ れ な く な り 、
49 年 の 中 華 人 民 共 和 国 成 立 以 後 、 鴛 鴦 蝴 蝶 派 は ほ ぼ 消 滅 し て し ま
った。
鴛 鴦 蝴 蝶 派 は 、清 末 か ら 民 国 期 の 数 十 年 と い う 短 い 期 間 で あ る も
の の 多 く の 作 品 を 発 行 し た 。娯 楽 小 説 を 多 く 輩 出 し た 彼 ら は ど の よ
う な 文 学 概 念 を 持 っ て い た の か 。そ れ を 見 る に は 清 末 の 文 学 概 念 を
知 る 必 要 が あ る と 考 え る 。清 末 の 主 要 な 文 学 期 刊 誌 で あ る 、『 新 小
説 』『 繡 像 小 説 』 『 月 月 小 説 』 『 小 説 林 』 の 四 誌 の 発 刊 詞 を 見 る こ
と で 文 学 概 念 の 変 遷 の 一 端 が 見 ら れ る と 考 え る 。そ し て こ の 変 遷 を
見 る こ と は 、民 国 期 以 後 に 現 わ れ た 鴛 鴦 蝴 蝶 派 が 、い か に し て 起 っ
たのかその過程の一因が見られると考えるからだ。
清 末 に 芽 生 え た 小 説 の 価 値 へ の 高 ま り 。そ の 価 値 に 注 目 し た 梁 啓
超 を 起 点 と し て 、彼 が 与 え た 影 響 力 の 強 さ は 見 過 ご す こ と は で き な
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清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における小説概念
い 。そ し て そ れ に 傾 倒 す る 人 々 が い る 一 方 で 、そ う し た 小 説 観 に 反
発した人々もいた。
中 国 に お い て 小 説 と い う 言 葉 自 身 は 古 く か ら あ る が 、こ こ で い う
小説とは西洋思想の影響を受けた古典とは異なる近代的な小説の
こ と で あ る 。清 末 は こ の よ う な 新 し い 小 説 に 対 す る 概 念 が 芽 生 え た
ば か り で あ り 、そ れ が ど の よ う な 価 値 ・ 意 義 を 持 っ て い る か 曖 昧 な
時 期 で も あ っ た 。そ の 曖 昧 な 時 期 に ど の よ う な 小 説 観 が 垣 間 見 ら れ
るのか、上述の文学期刊誌の発刊詞から見ていく。
1.1.問題の所在
清 末 の 小 説 を 見 る 時 に 必 ず 目 を 通 す の が 阿 英 の『 晩 清 小 説 史 』で
あ る 。こ れ に よ る と 、清 末 の 小 説 が 最 盛 期 を 迎 え る 要 因 に 以 下 の 三
点挙げている。
第 一,當 然 是 由 於 印 刷 事 業 的 發 達,沒 有 前 此 那 樣 刻 書 的 困 難;由
於新聞事業的發達,在應用上需要多量的產生。
( 言 う ま で も な く 印 刷 事 業 の 発 達 に よ り 、以 前 の よ う に 本 を 出 版
す る の が 困 難 で は な く な っ た こ と と 、新 聞 事 業 の 発 達 に よ っ て 実
用上(小説の)大量生産を必要としたこと。)
第 二,是 當 時 的 知 識 階 級 受 了 西 洋 文 化 的 影 響,從 社 會 的 意 義 上 ,
認識了小説的重要性。
( 当 時 の 知 識 層 が 西 洋 文 化 の 影 響 を 受 け 、社 会 的 意 義 か ら 小 説 の
重要性を認識したこと。)
第 三,就 是 清 室 屢 挫 於 外 敵,政 治 又 極 窳 敗,大 家 知 道 不 足 與 有 為 ,
遂 寫 作 小 説 , 以 事 抨 擊 , 並 提 倡 維 新 與 愛 國 。 (1)
( 清 朝 は た び た び 外 敵 に 屈 し 、そ の 上 政 治 が ま た 腐 敗 し き り 、知
識 人 は( 政 府 に )期 待 す る 価 値 が な い の を 知 り 、そ こ で 小 説 を 書
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『中国言語文化研究』第 13 号
いて糾弾し、一斉に維新と愛国を提唱したこと。)
第一における新聞事業の発達による小説の大量生産を必要とし
た こ と か ら 、小 説 が 多 く 掲 載 さ れ て い た こ と が わ か る も の の 、そ れ
が 小 説 の 大 衆 化 、通 俗 化 に よ る 小 説 の 高 ま り と は は っ き り と 示 さ れ
て い な い 。こ こ で 述 べ る 大 衆 化 と は 、梁 啓 超 に よ っ て 一 度 高 め ら れ
た 小 説 の 価 値 や そ の 理 念 と は 違 っ て 、広 く 一 般 の 人 々 が 興 味 を 持 つ
小 説 を 言 う 。ま た 、阿 英 は 清 末 小 説 の 特 徴 と し て 以 下 の よ う に 述 べ
ている。
但 幾 乎 是 全 部 的 作 家 ,除 掉 那 極 少 數 極 頑 固 的 而 外 ,是 有 着 共 通 的
地 方 ,卽 是 認 爲 除 掉 提 倡 維 新 事 業 ,如 興 辦 男 女 學 校 ,創 實 業 ,反 一
切 迷 信 習 俗 ,和 反 官 僚 ,反 帝 國 主 義 ,實 無 其 他 根 本 救 國 之 道 。 ( 2 )
( し か し ほ と ん ど の 作 家 は 、ご く 尐 数 の 保 守 的 な 者 を 除 く と 、あ
る 共 通 点 が み ら れ る 、そ れ は 維 新 の 事 業 を 提 唱 し 、男 女 の 学 校 を
開設し、実業を創設し、一切の迷信や風俗に反対し、官僚主義、
帝 国 主 義 に 反 対 す る 以 外 に 、そ の 他 の 根 本 的 な 救 国 の 道 は な い と
したことである。)
如 受 西 洋 小 說 及 新 聞 雜 誌 體 例 影 響 而 產 生 的 新 的 形 式,受 科 學 影 響
而 產 生 的 新 的 描 寫,強 調 社 會 生 活 以 壓 殺 才 子 佳 子 傾 向,意 識 的 用
小說作爲武器,反清,反官,反帝,反一切社會惡現象,有意無意
的爲革命起了消極或積極的作用,無一不導中國小說走向新的道
路 , 獲 得 更 進 一 步 的 發 展 。 (3)
(【 清 末 の 小 説 は ・ 筆 者 補 】西 洋 の 小 説 お よ び 新 聞 雑 誌 の 体 裁 の
影 響 か ら 、新 し い 形 式 が 起 き 、ま た 科 学 の 影 響 か ら 、新 し い 描 写
が 起 き た 。社 会 生 活 を 強 調 し て 才 子 佳 人 の 傾 向 を 押 し つ ぶ し 、意
識 的 に 小 説 を 武 器 と し て 用 い 、 反 清 朝 、反 官 僚 、反 皇 帝 、一 切 の
社 会 悪 の 現 象 に 反 対 し 、意 識 的 無 意 識 的 に 、革 命 の た め に 消 極 的
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あ る い は 積 極 的 な 作 用 を 起 こ し て 、中 国 の 小 説 を 新 し い 道 に 向 か
ってすすむように導かせ、さらに一歩進んだ発展が得られた。)
こ れ を 見 る 限 り 、阿 英 は 、当 時 の 作 家 達 の 共 通 認 識 に は 救 国 の 道 が
根 本 に あ り 、小 説 は そ の た め の 武 器 で あ り 、多 か れ 尐 な か れ 革 命 に
影 響 を 及 ぼ し 、そ の 為 の 手 段 と し た と い う 見 解 で あ っ た こ と が 伺 え
る 。で は 清 末 に は 近 代 的 な 小 説 の 概 念 に 沿 っ た 小 説 は 中 国 に お い て
は あ ら わ れ な か っ た の か 。清 末 の 中 国 に お い て 小 説 の 地 位 を 高 め る
た め に 、小 説 を 手 段 ま た は 武 器 と 捉 え た こ と は 否 め な い が 、小 説 の
地位向上は当時の知識人に小説とは何かを考えさせる機会となっ
たであろう。
も う 一 方 で 民 国 期 に 入 る と“ 鴛 鴦 蝴 蝶 派 ”と 称 さ れ る 一 群 の 作 家
達 か ら 近 代 的 な 小 説 の 概 念 に 近 い 作 品 が 現 わ れ る 。彼 ら は 様 々 な 題
材 を 取 り 上 げ 、小 説 の 幅 を 広 げ る が 、そ の 作 品 は 主 に 大 衆 小 説 に 分
類 さ れ る 。彼 ら に 対 し て 阿 英 の 評 価 は 高 く な い 。か つ て 鴛 鴦 蝴 蝶 派
の 存 在 は 無 視 さ れ て い た 時 期 が 多 年 に 亘 っ て い た が 、近 年 は 研 究 が
進 め ら れ 数 多 く の 関 連 文 献 が 出 版 さ れ て い る 。こ の 鴛 鴦 蝴 蝶 派 の 定
義 は 難 し く 、才 子 佳 人 の 悲 恋 小 説 か ら 、社 会 小 説 、武 侠 小 説 な ど 広
範 囲 に 亘 っ て い る 。 名 称 に つ い て は 1920 年 頃 に 現 わ れ た と さ れ 、
魯 迅 が 使 っ た こ と か ら 広 ま っ た と さ れ て い る 。こ の 民 国 期 に 全 盛 期
を 誇 っ た 鴛 鴦 蝴 蝶 派 を い か に し て 現 わ れ た の か 。そ の 出 現 過 程 に は 、
清 末 か ら 始 ま る 小 説 へ の 高 ま り が 関 係 し て い る 。本 稿 で は 、鴛 鴦 蝴
蝶 派 が 現 わ れ る 前 の 清 末 の 小 説 の 流 れ を 整 理 し 、清 末 に い か な る 小
説 観 が 現 わ れ た の か 、そ れ を 探 る こ と を 目 的 と し 、清 末 の 主 要 文 学
期 刊 誌 で あ る 『 新 小 説 』 ( 1902 ) 『 繡 像 小 説 』 ( 1903 ) 『 月 月 小
説 』 ( 1906 ) 『 小 説 林 』 ( 1907 ) の 四 誌 の 発 刊 詞 を 中 心 に 、 発 刊
詞から見える小説に対する意識とその変化を見ていくことが民国
期の小説へと繋がると考える。
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2.手段としての文学期刊誌
清末小説の出版は主に文学期刊誌や新聞に掲載された後に刊行
さ れ て い た 。小 説 へ の 意 識 と そ の 転 換 を 見 る に は 文 学 期 刊 誌 及 び 新
聞 に つ い て み て い く 必 要 が あ る と 考 え る 。清 末 は 、多 く の 文 学 期 刊
誌 が 刊 行 さ れ た 時 期 で あ り 、そ の 中 で 主 要 な 期 刊 誌 と し て『 新 小 説 』
( 1902 ) 『 繡 像 小 説 』 ( 1903 ) 『 月 月 小 説 』 ( 1906 ) 『 小 説 林 』
( 1907)の 四 誌 が 代 表 的 な 期 刊 誌 と し て あ げ ら れ る 。 ま ず 1902 年
に 創 刊 さ れ た『 新 小 説 』は 当 時 の 知 識 人 に 大 き な 影 響 を 与 え た こ と
は 周 知 の こ と で あ る 。 本 節 で は 、 『 新 小 説 』 を 皮 切 り に 、 1902 年
~ 1907 年 の 短 い 期 間 で 小 説 概 念 が ど の よ う に 変 遷 し て い く の か を
見ていく。
2.1.『新小説』
『 新 小 説 』 は 、 190 2 年 11 月 横 浜 に て 創 刊 さ れ た 月 刊 誌 で あ る 。
発 行 所 は 、新 小 説 社 。印 刷 所 は 、新 民 叢 報 活 版 部 。編 集 兼 発 行 者 は
趙 毓 林 と あ る が 、実 際 に は 梁 啓 超 主 宰 の 期 刊 誌 で あ る 。創 刊 号 ~ 十
二 号( 1903 年 11 月 )ま で は 横 浜 で 刊 行 さ れ が 、十 三 号( 1904 年 2
月 ) か ら は 上 海 廣 智 書 局 に 移 っ て 発 行 さ れ た 。 以 後 19 06 年 1 月 に
停 刊 を 迎 え る ま で 、 全 24 号 を 刊 行 す る 。
『 新 小 説 』の 創 刊 に つ い て 、梁 啓 超 は「 新 中 国 未 来 記 」(『 新 小
説』)の諸言において以下のように述べている。
一、余 欲 著 此 書。五 年 於 茲 矣。顧 卒 不 能 成 一 字。況 年 來 身 兼 數 役 。
日無寸暇。更 安能 以餘力幾 次。顧確 信此類之 書。於中 國前途。大
有裨助。夙夜 志此 不衰。既年欲 俟全 書卒業。始公 諸世。恐更 閱數
年。殺 青 無 日。不 如 限 以 報 章。用 自 鞭 策。得 寸 得 尺。聊 勝 於 無「 新
小 說 」 之 出 。 其 發 願 專 為 此 編 也 。 (4)
( 一 、わ た し は こ の 書 を 執 筆 し よ う と し て 、五 年 の 歳 月 が 流 れ た 。
振 り か え る と つ い に 成 し 遂 げ る こ と が で き な か っ た 。ま し て い く
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つ か の 仕 事 を 兼 ね て お り 、日 々 寸 暇 も な い 。そ の う え ど う し て 余
力 が あ ろ う か 。だ が 、こ の 類 の 書 物 は 中 国 の 前 途 に お い て 、大 き
な力となるであろうと確信している。日夜、志は衰えておらず、
い く 年 に 渡 っ て 全 て の 書 物 の 完 成 を 待 ち 望 ん で い る 。世 に 知 ら し
め る の に は 、恐 ら く 数 年 か か る で あ ろ う 。近 い う ち に 著 作 は 完 成
す る が 、新 聞 の 制 限 に 関 係 な く 、自 ら を 鞭 打 つ 必 要 が あ る 。欲 望
に 際 限 は な く 、「 新 小 説 」は 出 版 し な い よ り は ま し で あ ろ う 。そ
の願いはこの編を書くことから始まった。)
この諸言より梁啓超は「新中国未来記」を書くために『新小説』
創 刊 し た と あ る 。『 新 小 説 』を 出 版 す る こ と は 梁 啓 超 の 文 学 概 念 を
世 に 知 ら し め る た め の 場 所 と 言 え る だ ろ う 。そ の 文 学 概 念 を 如 実 に
表 し て い る の が 、梁 啓 超 が 創 刊 号 の 冒 頭 の 論 説 で 書 い た「 論 小 説 與
群 治 之 關 係 ( 小 説 と 社 会 の 関 係 を 論 じ る ) 」 で あ る 。「 欲 新 一 國 之
民不可不先新一國之小説。
(一国の民を新たにしようとするならば、
ま ず 一 国 の 小 説 を あ ら た に す る べ き で あ る 。)」 ( 5 ) か ら 始 ま る こ の
論 説 で は 、小 説 の 効 用 と 重 要 性 に つ い て 強 く 述 べ 、ま た 旧 来 の 小 説
を 批 判 し 、新 た な 小 説 の 必 要 性 を 訴 え て い る 。今 ま で に な い 小 説 を
と い う こ と で 、『 新 小 説 』 と い う 期 刊 誌 名 を つ け た の で あ ろ う 。 周
知 の ご と く 中 国 に と っ て 小 説 と は 、決 し て 地 位 の 高 い も の で は な か
った。
梁 啓 超 の 小 説 観 に つ い て は 、『 新 小 説 』の 発 刊 よ り 溯 る こ と 5 年
前 の 1897 年 に 『 時 務 報 』 「 蒙 学 報 、 演 義 報 合 变 」 の 「 序 言 」 に 、
「 西 国 教 科 之 书 最 盛 ,而 出 以 游 戏 小 说 者 尤 夥 。 故 日 本 之 变 法 ,赖 俚
歌 与 小 说 之 力 。 盖 以 悦 童 子 , 以 导 愚 氓 , 未 有 善 于 是 者 也 。( 西 洋 で
は 教 科 書 が 最 も 盛 ん で 、娯 楽 小 説 が 多 く 出 版 さ れ て い る 。故 に 日 本
の 変 法 は 、民 謡 と 小 説 の 力 に 頼 っ た の で あ る 。思 う に 尐 年 を 悦 ば せ 、
愚 民 を 導 き 、 未 だ こ れ に 勝 る も の は な い 。 ) 」 (6)と あ る こ と か ら 、
亡 命 前 に は 小 説 の 効 用 に つ い て 着 目 し て い る こ と が 伺 え る 。そ の 後 、
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小 説 の 効 用 が 形 と な る の は 、日 本 へ 亡 命 す る 船 で 政 治 小 説「 佳 人 之
奇 遇 」 ( 東 海 散 士 著 、 1885-97、 全 8 篇 ) を 読 ん だ こ と に よ る 。
こ こ で 清 末 に 、知 識 人 が 小 説 を ど の よ う に 捉 え て い た の か 。そ の
状 況 に つ い て 見 て み る と 、小 説 の 効 用 の 認 識 は 、厳 復( 1853-1921)
と 夏 曾 佑( 1863-1924)が『 国 聞 報 』の「 本 館 附 印 説 部 縁 起 」(1897)
で 、「 且 聞 歐 美 、 東 瀛 , 其 開 化 之 時 , 往 往 得 小 說 之 助 。( ま さ に 欧
米 、日 本 に 聞 こ え る 、そ の【 文 明 】開 化 の 時 に は 、往 々 に し て 小 説
の 助 け を 得 て い る 。) 」(7)と 触 れ て い る 点 か ら も 、当 時 小 説 は 尐 な
か ら ず 着 目 さ れ て い た 。た だ 、こ の 時 点 で 小 説 の 効 用 を 説 く も 、小
説 の 形 は ま だ 定 ま っ て い な か っ た と 考 え る 。そ の 形 、つ ま り 小 説 の
効 用 が 発 揮 で き る ジ ャ ン ル と は 何 か を 模 索 し た 結 果 、梁 啓 超 は 政 治
小 説 に 行 き つ い た 。当 初 は 日 本 の 政 治 小 説 を 翻 訳 す る も 、そ の 後『 新
小 説 』に て「 新 中 国 未 来 記 」を 執 筆 す る こ と で 、政 治 小 説 と い う ジ
ャ ン ル は 清 末 に お い て 確 立 し た と 言 え る だ ろ う 。『 新 小 説 』に お け
る 梁 啓 超 の 文 学 概 念 は 、小 説 の 地 位 向 上 を 促 し 、そ し て 小 説 を 以 て
社 会 、政 治 を 変 え る と い う「 小 説 界 革 命 」は 知 識 人 た ち へ と 浸 透 し
て い っ た 。し か し 梁 啓 超 の こ の よ う な 考 え は 、山 田 氏 の 言 う「 た だ
小説のもつ効用に着目してそれを自分たちの政治的理念達成の啓
蒙 手 段 に 転 用 し さ え す れ ば よ か っ た 。」 ( 8 ) で あ り 、近 代 的 な 小 説 の
概念に沿うものではないと言える。
さ ら に 、梁 啓 超 は 新 た な 分 野 と し て 政 治 小 説 を 提 唱 し 、そ れ は 多
く の 類 似 作 品 を 生 む こ と に な っ た 。梁 啓 超 の 提 唱 は 、小 説 を 政 治 的 、
社会的理念達成のための道具とさせてしまったことは否めない。
そ れ で は 梁 啓 超 は 、小 説 を ど う 捉 え た の か 。小 説 の 価 値 に 着 目 し 、
そ の 地 位 向 上 を 図 る 上 で 、 梁 啓 超 は 『 水 滸 伝 』『 紅 楼 夢 』 と 言 っ た
中 国 固 有 の 小 説 を 批 判 し 、こ れ ら の 小 説 は 諸 悪 の 根 源 で あ る と し た 。
そうして人を支配する不可思議な力をもつ小説を改良すべきであ
る と す る 。梁 啓 超 の 考 え る 小 説 と は 、小 説 の 中 に 変 法 維 新 派 の 政 治
理 念 を 描 き 、 啓 蒙 活 動 を 行 う も の で あ る 。『 新 小 説 』 の 論 説 に お い
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清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における小説概念
て は 、 小 説 を 理 論 的 に 捉 え て い る わ け で は な か っ た 。『 新 小 説 』 に
お い て 梁 啓 超 の 放 っ た 一 本 の 矢 は 、中 国 の 近 代 文 学 を 構 築 す る 上 で
重 要 で あ る の に 変 わ り は な く 、こ の 後 の 小 説 理 念 に 与 え た 影 響 、ま
たこれを批判することで小説理念を考えるきっかけを与えた点で
は 重 要 な 文 学 期 刊 誌 で あ る 。こ こ に 起 っ た 文 学 理 念 が 、こ れ 以 降 ど
の よ う な 形 で 現 わ れ る の か 、次 に 挙 げ る『 繡 像 小 説 』か ら 見 て い き
たい。
2.2.『繡像小説』
上 述 の『 新 小 説 』の 発 刊 に よ っ て 、中 国 で は 文 学 期 刊 熱 が 起 こ っ
た 。 こ れ に 真 っ 先 に 反 応 し た の が 、『 新 小 説 』 の 創 刊 よ り 半 年 後 に
創 刊 を 迎 え る 『 繡 像 小 説 』 ( 1903 年 5 月 ~ 06 年 ) で あ ろ う 。
『 繡 像 小 説 』は 、1903 年 5 月 に 上 海 で 創 刊 さ れ た 半 月 刊 で あ る 。
李 伯 元 を 主 編 に 迎 え 、 商 務 印 書 館 が 発 行 し た 。 1906 年 に 停 刊 を 迎
え る ま で 、 全 72 号 を 刊 行 す る 。
主 編 を 務 め た 李 伯 元 ( 1867-1906) は 、 本 名 を 寶 嘉 、 号 を 南 亭 亭
長という。ペンネームは、遊戯主人、芋香、二春居士などがある。
山 東 省 出 身 で あ る が 、原 籍 は 江 蘇 省 武 進( 現 、常 州 市 )。1896 年 、
科挙試験を諦めて上海に出ると、
『指南報』
( 1896)
『遊戯報』
( 1897)
『 世 界 繁 華 報 』 ( 1 901) の 創 刊 に 携 わ る 。 1903 年 、 商 務 印 書 館 の
依 頼 に よ っ て 『 繡 像 小 説 』 の 主 編 と な る も 、 1906 年 に 突 然 亡 く な
った。それを機に『繡像小説』は停刊にいたる。
『 繡 像 小 説 』の 第 一 號 に『 本 館 編 印 繡 像 小 説 縁 啓 』が 記 載 さ れ て
い る が 、確 認 で き る 資 料 と し て 、阿 英 の『 晩 清 文 芸 報 刊 述 略 』に よ
っ た 。以 下 が そ の 内 容 で あ る 。こ こ か ら『 繡 像 小 説 』の 発 刊 理 由 と
理念を見ていく。
欧美化民,多有小說;搏桑崛起,推波助瀾。其从事于此者,率皆
名公鉅卿,魁儒碩 彥。察天 下之大 势,洞人类 之頤理,潛推往古 ,
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『中国言語文化研究』第 13 号
豫揣將來。然 後抒 一己之見,著 而为 書,以 醒齐民 之耳 目。或 对人
群 之 積 弊 而 下 砭,或 为 國 家 之 危 險 而 立 鑑。揆 其 立 意,无 一 非 裨 國
利民。支那建 國最 古,作 者如林,然 非怪謬荒 誕之言,既記汚穢 邪
淫之事,求其 稍裨 于國,稍利于 民者,几几 乎百不 獲一。夫今 乐忘
倦,人情皆同,說書唱歌,感化尤易。本館有鑑于此,于是糾合同
志 , 首 輯 此 編 。 … … (9)
( 欧 米 が 民 を 変 化 さ せ た の は 、多 く 小 説 が あ っ た 。日 本 は 決 起 し 、
波 乱 を 大 き く し た 。こ れ に 携 わ っ た も の は 、お お そ よ み な 名 声 あ
る 高 官 、大 学 者 で あ っ た 。天 下 の 大 勢 を つ ぶ さ に 見 る と 、人 類 の
道 理 を 養 い 、潜 在 的 に い に し え を 推 し 広 め 、あ ら か じ め 未 来 へ の
推 量 を 見 通 し 、そ し て 自 己 の 見 解 を 表 現 し 、本 と し て 著 し 、民 の
耳 目 を 覚 醒 さ せ る の だ 。あ る い は 人 々 の 積 年 の 弊 害 に た い し て 治
療 を 下 し 、あ る い は 国 家 の 危 機 の 為 に 戒 め 、そ の 決 意 を 推 し は か
る こ と は 、ひ と つ と し て 国 に 役 立 ち 民 に 益 し な い も の は な い 。支
那 は 建 国 が 最 も 古 く 、作 者 は 林 の 如 く 現 わ れ た が 、怪 異 奇 談 の 話
で な け れ ば 、汚 ら わ し く 淫 ら な 話 を 記 し て い る 。い さ さ か 国 に 役
立ち、民に利するものを探し求めるが、およそ百に一つもない。
そ も そ も 楽 し け れ ば 疲 れ を し ら な い の は 、人 情 と し て は み な 同 じ
で 、説 書 唱 歌( 講 談 を 語 り 、歌 を 歌 う )は 、と り わ け よ い 影 響 を
与 え や す い 。本 館 は こ の 点 を 考 慮 に 入 れ 、そ こ で 同 志 を か き 集 め 、
この雑誌を創刊したのである。……)
『 繡 像 小 説 』は 、上 述 に「 ヨ ー ロ ッ パ 、ア メ リ カ は 民 の 教 化 に 多 く
小 説 が あ っ た 。」と 例 を あ げ て い る よ う に 、発 刊 の 理 由 は 小 説 を 用
い て 民 を 教 化 す る こ と を 目 的 と し て い る 。そ し て 小 説 に よ っ て 民 の
耳 目 を 目 覚 め さ せ る こ と で 長 年 の 風 習 に よ る 弊 害 を 改 め 、国 家 の 危
機 を 戒 め よ う と し た 。こ の よ う に 小 説 を 持 ち 上 げ る 一 方 で 、旧 小 説
に 対 し て は 、国 に 役 立 ち 、民 に 利 す る 小 説 は ほ と ん ど 得 ら れ な い と
し て い る 。小 説 は 国 や 民 に 役 立 た な け れ ば い け な い と い う 趣 旨 が 伺
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える。これに見える『繡像小説』の発行理由及び理念は『新小説』
と ほ ぼ 同 じ で あ る 。違 い が 見 え る の は 、掲 載 さ れ た 小 説 か ら で あ る 。
『 繡 像 小 説 』 の 小 説 数 は 36 作 品 あ る 。 掲 載 さ れ た 小 説 の 大 半 は 清
末 の 社 会 を 反 映 さ せ 、政 治 の 闇 を 暴 い た 作 品 で あ っ た 。代 表 作 に『 文
明 小 史 』 ( 李 伯 元 ) 、 『 活 地 獄 』 ( 李 伯 元 、 40 回 ~ 42 回 は 呉 趼 人
が 代 筆 ) 、 『 老 殘 遊 記 』 ( 劉 鶚 、 13 回 ま で 掲 載 ) な ど が あ る 。 こ
の 他 、科 学 小 説『 生 生 袋 』、探 偵 小 説『 華 生 包 探 案 』な ど の 翻 訳 作
品 も 毎 号 掲 載 し て い た 。そ し て 全 72 號 の う ち 、論 説 は 第 三 號 の「 小
説 原 理 」、別 士( 著 )の み で あ る 。こ の 論 説 を 著 し た 別 士 と は 、夏
曾佑のペンネームである。
夏 曾 佑( 1863.11-1924.4.17)は 、字 を 穂 卿 、号 を 碎 佛 、筆 名 を
別 士 、蕙 卿 と い う 。浙 江 省 杭 州 の 出 身 で あ る 。清 末 変 法 維 新 派 の 啓
蒙 家 、史 学 家 、官 僚 。1890 年 進 士 と な り 、礼 部 主 事 に 任 ぜ ら れ た 。
こ の 頃 よ り 梁 啓 超 、 譚 嗣 同 と 意 気 投 合 す る 。 1896 年 に は 知 県 候 補
と な り 、梁 啓 超 ら の『 時 務 報 』創 刊 を 助 け 、さ ら に 梁 啓 超 、譚 嗣 同
と 共 に 旧 詩 の 改 革 を 提 唱 し て 、 詩 界 革 命 を 主 導 し た 。 1 897 年 、 厳
復 ら と 『 國 聞 報 』 の 創 刊 に 携 わ り 、 主 編 を 務 め た 。 19 02 年 ご ろ 、
母 の 喪 に 服 す た め に 離 職 。 1905 年 に 復 職 す る 。 「 小 説 原 理 」 の 掲
載 は 1903 年 で あ る の で 、 母 の 喪 に 服 し て 離 職 し て い た 時 期 に あ た
る。
さ て「 小 説 原 理 」で は 、紙 上 に お い て 読 者 が 遊 び と し て い る も の 、
そ の 楽 し さ に 甲 乙 を つ け て い る 。ま ず 絵 を 見 る の が 最 も 楽 し い こ と
だ と し 、次 い で 小 説 、史 、科 学 書 と 続 き 、最 も 苦 痛 な の は 経 文 を 読
む こ と だ と す る 。こ こ に お い て 人 々 の 楽 し み と し て 小 説 は 二 番 手 と
し て い る も の の 、小 説 は 絵 で 描 き き れ な い 世 界 を 書 く こ と が で き る
と あ る 。さ ら に 小 説 に は“ 五 難 ”と い う も の が あ り 、作 家 た る 者 は
こ の 五 難 を 知 ら な け れ ば な ら な い と し て い る 。こ こ で い う 五 難 と は
何 か 。初 め に「 一 寫 小 人 易 君 子 難( 一 、小 人 は 描 き や す い が 君 子 は
難 し い )」を あ げ 、つ づ い て「 二 寫 小 事 易 大 事 難( 二 、小 さ な 事 は
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40 ]
『中国言語文化研究』第 13 号
描 き や す い が 大 き な 事 は 難 し い ) 」「 三 寫 貧 賤 易 富 貴 難 ( 三 、 貧 賤
は 描 き や す い が 富 貴 は 難 し い ) 」「 四 寫 實 事 易 寫 假 事 難 ( 四 、 事 実
は 描 き や す い が 虚 構 は 難 し い ) 」「 五 敘 實 事 易 敍 議 論 難 ( 五 、 事 実
は 語 り や す い が 議 論 す る の は 難 し い )」と 小 説 の 易 し い 点 と 難 し い
点を上げる。またそれぞれ小説を創作するには基礎が必要だとし、
生 活 基 盤 や 経 験 が な い も の を 描 く こ と は 難 し い と あ る 。小 説 の 難 し
さ な ど が 書 か れ て い る が 、実 際 に ど の よ う に し て 小 説 を 書 く か と い
う 点 や 書 き 方 の 例 と い っ た 類 の も の は 見 ら れ な い 。こ こ で は 、大 ま
か な 道 筋 を 述 べ る に 留 ま っ て い る 。大 ま か な 道 筋 を 述 べ て い る と し
たが、それが実際に役立つかは疑問である。そしてここでもまた、
旧来の小説への批判がみられた。
さ て 、「 小 説 原 理 」の 後 半 に 見 ら れ る 特 色 と し て は 読 者 の 二 極 化
があげられる。
綜 而 觀 之,中 國 人 之 思 想 嗜 好,本 爲 二 派,一 則 學 士 大 夫 一 則 婦 女
與粗人。故中 國之 小說,亦分二 派,一以應學 士大夫 之 用,一 以應
婦 女 與 粗 人 之 用 , 體 裁 各 異 而 原 理 則 同 。 今 值 學 界 展 寬 (注 西 學 流
入 ), 士 夫 正 日 不 暇 給 之 時 , 不 必 再 以 小 說 耗 其 目 力 , 惟 婦 女 與 粗
人 無 書 可 讀,欲 求 輸 入 文 化,除 小 說 更 無 他 途,其 窮 鄉 僻 壤 之 酬 神
演 劇 北 方 之 打 鼓 書,江 南 之 唱 文 書,均 與 小 說 同 科 者。先 使 小 說 改
良,而 後此諸 物一 例均改,必使 深 閨 之戲謔,勞侶 之耶 禺,均 與作
者 心 入 而 俱 化,而 後 有 婦 人 以 爲 男 子 之 後 勁,有 苦 力 者 以 助 士 君 子
之 實 力 。 而 不 撥 亂 世 致 太 平 者 無 是 理 也 。至 於 小 說 與 社 會 之 關 繫 諸
賢 言 之 詳 矣 。 (10)
( ま と め て こ れ を 見 る と 、中 国 人 の 思 想 ・嗜 好 は も と も と 二 派 を
な し て い て 、一 つ は 読 書 人 で あ り 、も う 一 つ は 婦 女 と 無 学 な 人 で
あ る 。そ れ ゆ え 中 国 の 小 説 も ま た 読 書 人 に 応 じ た も の と 婦 女 と 無
学 な 人 に 応 じ た も の の 二 派 に 分 か れ て い る 。様 式 は そ れ ぞ れ 異 な
る が 、原 理 は 同 じ で あ る 。い ま 、教 育 界 の 価 値 は 広 が り( 注:洋
[ 41 ]
清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における小説概念
学 の 流 入 )が 、読 書 人 は 終 日 暇 が な く 、さ ら に 小 説 で 目 を 消 耗 さ
せるには及ばない。ただ婦女と無学な人は、読むべき本がなく、
文 化 を 受 け 入 れ よ う に も 、小 説 を 除 い て 他 に 方 法 が な い 。辺 鄙 な
片 田 舎 の 神 に 捧 げ る 演 劇 と し て 、北 方 の 打 鼓 書( 語 り 物 の 一 種 )、
江 南 の 唱 文 書( 語 り 物 と 歌 の 演 芸 )は 、い ず れ も 小 説 と 同 等 で あ
る。まず小説を改良して、その後にこれら諸物を同様に改める。
婦 女 の 冗 談 や 労 働 者 の 愚 痴 を し て 、等 し く 作 者 の 心 に 入 り 具 体 化
す れ ば 、し か る 後 、婦 女 は 男 子 の 力 と な り 、労 働 者 は 上 流 社 会 の
人 の 助 け る 力 と な る だ ろ う 。ま た 乱 世 を 治 め ず し て 世 の 中 が 太 平
と な る 道 理 が な い の だ 。小 説 と 社 会 の 関 係 に つ い て は も ろ も ろ の
善言を詳しく述べた。)
『 繡 像 小 説 』の 論 説「 小 説 原 理 」で は 、上 述 の よ う に 小 説 は 婦 女
や 無 学 な 人 が 読 む も の で あ り 、彼 ら に 知 識 を 得 さ せ る た め に 、小 説
を改良するという考えがみられる。
「 小 説 原 理 」を 著 し た 夏 曾 佑 は 、
梁 啓 超 と 交 友 を 持 っ て お り 、お そ ら く 梁 啓 超 に 触 発 さ れ て こ の 論 説
を 書 い た と 思 わ れ る 。も と も と 、夏 曾 佑 は 小 説 の 価 値 は 認 め て い た 。
し か し 小 説 は 知 識 人 が 読 む も の と い う よ り 、そ れ 以 外 の 無 学 な 人 々
が 読 む と い う 意 識 が 強 い 。無 学 な 人 々 に ど の よ う に し て 教 養 を つ け
させるか。それを彼らが親しむ小説でなそうとしている。
上 述 で 述 べ た『 本 館 編 印 繡 像 小 説 緣 啓 』及 び こ の 論 説 か ら 見 る に 、
『 繡 像 小 説 』は 、長 年 の 悪 習 を 取 り 除 き 、民 の 耳 目 を 覚 醒 さ せ る こ
と を 目 的 意 識 と し 、小 説 を つ か っ て 民( こ こ で い う 民 と は 、夏 曾 佑
の 言 う 婦 女 及 び 無 学 な 人 を 主 に 指 す の だ ろ う )を 教 育 し よ う と し た
文学期刊誌である。
当時『繡像小説』が社会に与えた影響について、包天笑
( 1876-1973) は 、 後 に 「 虽 然 商 务 印 书 馆 出 版 、 李 伯 元 编 辑 的 ≪ 绣
像 小 说 ≫ 还 在 其 先 ,但 在 文 艺 社 会 上 ,没 有 多 大 影 响 。 ≪ 新 小 说 ≫ 出
版 了 , 引 起 了 知 识 界 的 兴 味 , 哄 动 一 时 , 而 且 销 数 亦 非 常 发 达 。( 商
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42 ]
『中国言語文化研究』第 13 号
務 印 書 館 出 版 、李 伯 元 編 集 に よ る『 繡 像 小 説 』は 先 頭 を 切 っ た け れ
ど も 、文 芸 界 で は 、そ れ ほ ど 大 き な 影 響 は 与 え な か っ た 。『 新 小 説 』
の 出 版 は 、知 識 人 の 興 味 を 引 き 起 こ し 、一 大 セ ン セ ー シ ョ ン 巻 き 起
こ し 、さ ら に 売 上 も ま た 盛 ん で あ っ た 。)」( 1 1 ) と 述 べ て い る 。『 時
報 』 に て 編 集 に 携 わ り 始 め た 包 天 笑 の 目 に は 、『 繡 像 小 説 』 が 与 え
た影響はあまり大きくないように映ったようである。
し か し 、魯 迅 は『 中 国 小 説 史 略 』に て 四 大 譴 責 小 説 の 一 つ に 劉 鶚
の『 老 殘 遊 記 』を 挙 げ 、阿 英 は『 晩 清 小 説 史 』に お い て は 晩 清 小 説
の 代 表 作 の 一 つ に 李 伯 元 の『 文 明 小 史 』を 挙 げ た 。当 時 は 、影 響 が
大 き く な か っ た と さ れ る『 繡 像 小 説 』で あ る が 、掲 載 さ れ た 小 説 は 、
民 国 期 に お い て 晩 清 を 語 る 上 で 重 要 視 さ れ る こ と を 見 る と 、後 に 与
えた影響は尐なくないであろう。
『 新 小 説 』に よ っ て 引 き 起 こ さ れ た 文 学 期 刊 誌 へ の 高 ま り 、そ れ
に 乗 じ て 発 刊 さ れ た『 繡 像 小 説 』の 理 念 は 、多 く『 新 小 説 』に よ る
も の で あ っ た 。掲 載 さ れ た 作 品 に は 、政 治 小 説 や 科 学 小 説 も 見 ら れ
る が 、大 半 を 占 め た の は 現 実 の 社 会 を 反 映 し た 政 治 批 判 、官 僚 世 界
を 暴 露 す る と い う 類 の も の で あ り 、そ れ ら は 儒 林 外 史 の 手 法 を 引 き
継 ぐ も の で あ っ た 。ま た 唯 一 の 論 説 で あ る「 小 説 原 理 」で は 、小 説
の 創 作 と は 生 活 を 基 盤 と し て 書 く べ き で あ る と 創 作 に 触 れ る が 、文
体 や 構 成 な ど に は 触 れ て い な い 。そ し て 依 然 と し て 小 説 は 婦 女 や 無
学 な 人 が 読 む も の と い う 考 え で あ っ た 。し か し こ こ に 矛 盾 が 生 じ る 。
当 時 中 国 の 識 字 率 は 低 か っ た 。読 み 書 き が で き る の は 全 体 か ら す る
と 一 部 の 人 だ け で あ る 。論 説 で 述 べ る よ う な 婦 女 や 無 学 な 人 は そ も
そ も 小 説 を 読 め な い の で あ る 。夏 曾 佑 の 述 べ る 二 極 化 は 文 字 を 読 め
る こ と を 前 提 と す る 理 想 論 で あ り 、そ の 根 本 に あ る 識 字 を ど う す べ
き か と い う こ と に は 触 れ て い な い 。庶 民 の 娯 楽 で あ る 、小 説 や 講 談
な ど を 改 良 す れ ば 教 育 に 繋 が る と い う 考 え か ら は 、理 念 の み が 先 行
していると感じられる。
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清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における小説概念
2.3.『月月小説』
『 月 月 小 説 』は 、190 6 年 11 月 に 上 海 で 創 刊 さ れ た 月 刊 誌 で あ る 。
1909 年 1 月 に 停 刊 を 迎 え る ま で 、 全 24 号 を 刊 行 す る 。
第 一 號 ~ 三 號 の 編 集 兼 発 行 者 ・ 印 刷 者 は 汪 惟 父 。第 四 号 ~ 八 号 の
編 集 者 は 呉 趼 人 と 記 載 さ れ る も 、印 刷 兼 発 行 者 は 汪 惟 父 の ま ま で あ
る 。第 九 号 ~ 二 四 号 の 編 集 者 は 許 伏 民 、印 刷 兼 発 行 者 は 沈 濟 宣 に 変
わ る 。発 行 所 は 、第 一 号 ~ 第 八 号 は 月 月 小 説 社 と あ る が 、第 九 号 ~
第二十四號号は群学社図書とある。
『 月 月 小 説 』は 汪 惟 父 が「 風 俗 の 改 良 」を 企 画 し て 発 刊 を 準 備 し
た 文 学 期 刊 誌 で あ り 、 そ の 著 述 主 編 と し て 呉 趼 人 、 周 桂 笙 (12)が 迎
え 入 れ ら れ た 。後 に 編 集 者 及 び 発 行 所 が 変 更 す る も 、引 き 続 き 作 品
の選抝及び小説の執筆は呉趼人と周桂笙が行っていることから、
『月月小説』はこの二人の影響下にあった文学期刊誌と言える。
呉 趼 人 ( 1866-1910) は 、 本 名 を 沃 堯 、 字 を 小 允 、 趼 人 、 筆 名 を
我 仏 山 人 、検 塵 子 な ど と い う 。北 京 出 身 で あ る が 、原 籍 は 広 東 省 南
海 県 仏 山 鎮 で あ る 。 清 末 の 小 説 家 。 25 歳 頃 に 上 海 に 出 て 、 江 南 機
器 製 造 総 局 翻 訳 館 に 筆 耕 と し て 就 職 し た 。 1902 年 、 梁 啓 超 の 「 論
小 説 与 群 治 之 関 係 」 よ り 感 銘 を 受 け 、 1903 年 、 『 新 小 説 』 に て 宋
末 の 亡 国 の 歴 史 に 材 を 取 っ た 小 説「 痛 史 」を 連 載 し 始 め る 。こ れ は
呉 趼 人 の 処 女 作 に あ た る 。そ の 後 も『 新 小 説 』に て「 二 十 年 目 目 賭
之 怪 現 状 」「 九 命 奇 冤 」 な ど を 発 表 し た 。 上 海 に 移 っ て 以 降 の 『 新
小 説 』の 掲 載 作 品 に そ の 名 を 多 く 残 す こ と よ り 、梁 啓 超 が 抜 け た 以
後 の『 新 小 説 』の 重 要 人 物 と 言 え る が 、こ こ で は『 月 月 小 説 』に お
ける呉趼人の思想・理念を中心に見ていく。
「月月小説序」、呉趼人(著)
吾 感 夫 飲 冰 子『 小 說 與 羣 治 之 關 繫 』之 說 出 提 倡 改 良 小 說 , 不 數 年
而吾國之 新著、新 譯 之 小 說,幾 於 汗 萬 牛 充 萬 棟,猶 復 日 出 不 已 ,
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44 ]
『中国言語文化研究』第 13 号
而未有窮期也。……
今 夫 汗 萬 牛 充 萬 棟 之 新 著、新 譯 之 小 說,其 能 體 關 繫 羣 治 之 意 者 。
吾 不 敢 謂 必 無 然,而 怪 誕 支 離 之 著 作,詰 曲 聱 牙 之 譯 本。吾 盖 數 見
不鮮矣。凡如 是者,他人 讀之 不 知謂 之何,以吾觀 之,殊未足以 動
吾 之 感 情 也。於 所 謂 羣 治 之 關 繫 杳 乎。其 不 相 涉 也。然 而 彼 且 囂 囂,
然自鳴曰,吾 將改 良社會也。吾 將佐 羣 治之進 化也。隨 聲附和,而
自 忘 其 眞 , 抑 何 可 笑 也 。 (13)
( 私 は 思 う に か の 飲 冰 子 が『 小 説 と 群 治 の 関 係 』で 小 説 の 改 良 を
提唱したことで、数年せずして、我が国の新著、新訳の小説は、
お び た だ し い 数 と な り 、な お 来 る 日 も 来 る 日 も 出 版 し 、や む こ と
はない。……
い ま そ の お び た だ し い 数 と な っ た 新 著 、新 訳 の 小 説 は 、群 治 の 考
え を 体 現 し て い る の だ ろ う か 。私 は 、必 ず し も そ の 通 り だ と 言 い
きれないのは、支離滅裂な著作や文章が硬く難読な訳本がある。
度 々 見 て い る の で 珍 し く は な い 。お よ そ こ の よ う な も の は 、他 人
が 読 ん で も 何 を 言 い た い の か が わ か ら な い だ ろ う 。こ れ を 見 る に 、
特 に 感 情 を 動 か す に は 至 ら な い 。群 治 の 関 係 は 影 も 形 も 見 え な い
の で あ る 。そ れ は 互 い に 関 わ り 合 っ て い な い 。け れ ど も 、そ れ は
さ ら に 騒 が し く 、自 分 は ま さ に 社 会 を 改 良 し 、群 治 の 進 化 を 助 け
て い る の だ と い う 。人 の 尻 馬 に 乗 る ば か り で 、そ の 真 実 を 忘 れ る
ことは、なんともばかばかしいことだ。)
呉趼人の著した「月月小説序」には、『新小説』や『繡像小説』
と 同 じ く 小 説 に は 力 が あ る と す る 考 え で あ っ た 。し か し 一 方 、梁 啓
超 の「 論 小 説 与 群 治 之 関 係 」( 『 新 小 説 』第 1 号 、 1902)を 取 り 上
げ 、当 時 の 小 説 に 対 す る 批 判 が 見 ら れ る 。梁 啓 超 の 理 念 に 付 和 雷 同
す る も 、全 く そ の 理 念 が 伝 え ら れ て い な い 著 作 の 氾 濫 は 、呉 趼 人 に
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清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における小説概念
危機感をもたらしたのであろう。
そ し て 行 き つ い た の が 、新 し い 知 識 を 小 説 の 面 白 さ の 中 に 暗 喩 す
る と い う 考 え で あ る 。呉 趼 人 は 、道 徳 が 失 わ れ た 昨 今 、そ の 軽 薄 な
風 俗 を 立 て 直 す に は 小 説 か ら 始 め る と す る 。実 際『 月 月 小 説 』で は 、
道 徳 を 浸 透 さ せ る こ と を 目 的 と し た 作 品 を 多 く 掲 載 し て い る 。ま た
文学期刊誌の特色としては多数の小説ジャンルを掲載したことで
あ る 。『 新 小 説 』『 繡 像 小 説 』 に 比 べ る と ジ ャ ン ル の 多 さ は 特 に 目
立 つ 点 で あ る 。 ま た 作 品 数 に つ い て は 、 『 繡 像 小 説 』 全 72 期 で 34
作 品 に 対 し 、 『 月 月 小 説 』 は 全 24 号 で 114 作 品 あ る 。 半 月 刊 と 月
刊 と い う 違 い は あ る け れ ど 、そ の 差 は 大 き い だ ろ う 。こ れ ほ ど の 差
が 開 い た 要 因 と し て は 、『 月 月 小 説 』で は 短 篇 小 説 を 多 く 掲 載 し た
ことによる。
『 月 月 小 説 』の 第 一 號 を み る と 掲 載 さ れ た 小 説 は 、 歴 史 小 説 ・ 虚
無 党 ( 1 4 ) 小 説 ・ 歴 史 小 説( 翻 訳 )・ 理 想 小 説 ・ 社 会 小 説 ・ 偵 探 小 説 ・
俠 情 小 説 ・ 偵 探 小 説( 翻 訳 )・ 国 民 小 説 ・ 社 会 小 説 ・ 写 情 小 説 ・ 滑
稽 小 説 ・ 短 篇 小 説 と 13 種 類 に の ぼ る 。 こ の ジ ャ ン ル の 多 さ は 終 始
一 貫 し た 傾 向 で あ っ た 。ま た 小 説 の 他 に 傳 奇 、 剳 記 小 説 、雜 録 、俏
皮話、論説、小説紹介なども多く掲載されている。
様 々 な 分 野 の 小 説 を 掲 載 し て い る と い う 点 に つ い て は 、第 十 三 號
の 論 説「 論 看 月 月 小 説 的 益 處 」を 見 て み た い 。こ の 論 説 で は 読 者 層
を 六 種 類 に 分 類 し て い る 。「 官 場 中 應 看 」( 官 界 は 必 ず 看 る べ き で
あ る ) 、「 維 新 黨 應 看 」 ( 維 新 党 は 必 ず 看 る べ き で あ る ) 、「 歷 史
家 應 看 」( 歴 史 家 は 必 ず 看 る べ き で あ る ) 、「 實 業 家 應 看 」( 実 業
家 は 必 ず 看 る べ き で あ る ) 、「 詞 章 家 應 看 」( 文 章 家 は 必 ず 看 る べ
き で あ る ) 、「 婦 女 們 應 看 」( 婦 女 た ち は 必 ず 看 る べ き で あ る ) 以
上 の 六 つ に 分 け て い る 。各 項 目 で は 、そ の 読 者 層 に 符 合 す る 作 品 を
列 挙 し 、『 月 月 小 説 』 の 小 説 の 分 野 が 幅 広 い の は 、 広 範 囲 の 読 者 層
を 対 象 と し て い る か ら だ と あ る 。こ の 六 分 類 を 見 る と 、六 つ 目 に 挙
げ て い る 婦 女 以 外 は 、 全 て 知 識 層 に 訴 え た も の で あ る 。 ま た 、「 這
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46 ]
『中国言語文化研究』第 13 号
『 月 月 小 説 』不 獨 能 消 消 閒 ,只 怕 還 長 得 許 多 見 識 ,學 得 許 多 好 樣 呢 。
( こ の『 月 月 小 説 』は 、た だ 暇 つ ぶ し に あ る の で は な く 、見 識 を 広
め 、素 晴 ら し い も の を 学 ん で も ら う こ と が で き る ) 」の 一 文 を 看 る
に 、小 説 の 地 位 が 高 め ら れ た と い え ど も 、そ れ は あ く ま で 小 説 の 効
能 が 知 ら れ た と い う こ と で 実 際 に は 、小 説 を 暇 つ ぶ し と す る 考 え は
改められていないのが伺える。
こ の 論 説 で は 読 者 層 を 分 類 す る 他 に 、文 体 の 記 載 が 尐 し さ れ て い
る 。記 載 さ れ て い る と 言 っ て も 、外 国 小 説 は 文 言 を 用 い て 記 事 体 で
書 い て い る と 触 れ る の み で 、文 言 ・ 白 話 の 論 争 は こ の 時 点 で は ま だ
見られない。
『 月 月 小 説 』で は 、様 々 な 分 野 の 小 説 を 描 く こ と で 、多 方 面 に 渡
っ て 呉 趼 人 の 唱 え る 道 徳 を 浸 透 さ せ よ う と し た 。彼 ら が 浸 透 さ せ よ
う と し た 道 徳 観 が 、ど れ ほ ど 浸 透 し た か は ま だ わ か ら な い 。た だ 今
回 分 か り え た も の は 、『 月 月 小 説 』 が 『 新 小 説 』 や 『 繡 像 小 説 』 と
比 べ て 、幅 広 い 読 者 層 を 意 識 し た こ と に お い て 多 様 な 小 説 ジ ャ ン ル
を 設 け た 文 学 期 刊 誌 と い う 点 で あ る 。こ の『 月 月 小 説 』で 掲 載 さ れ
た 多 様 な 小 説 ジ ャ ン ル 、例 え ば 、呉 趼 人 が 女 性 の 道 徳 観 を 描 く た め
に「 写 情 小 説 」と い う 小 説 ジ ャ ン ル を 作 る が 、こ れ は 後 に「 言 情 小
説 」と 同 義 語 と な り 、恋 愛 小 説 と し て 受 け 継 が れ る こ と に な る 。 こ
のジャンルは民国初期に現われる作家群の一つである鴛鴦蝴蝶派
に よ っ て 発 展 さ れ て い く が 、そ れ は 呉 趼 人 の 意 図 し た 道 徳 的 な 小 説
とは違う形であった。
こ の 節 で 挙 げ た 『 新 小 説 』『 繡 像 小 説 』『 月 月 小 説 』 は 、 と も に
小説とは政治、教育、道徳などを浸透させるための手段であった。
そ れ が 手 段 で は な く 、小 説 に つ い て ど う 考 え る か 、そ れ が 見 ら れ る
のが次節であげる『小説林』である。
3.小説の“実質”への流れ『小説林』
『 小 説 林 』は 、1907 年 2 月 に 上 海 で 創 刊 さ れ た 月 刊 誌 で あ る 。1908
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清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における小説概念
年 10 月 に 停 刊 を 迎 え る ま で 全 12 期 を 刊 行 す る 。
主 編 は 、黄 人 。訳 述 編 集 は 、徐 念 慈 。編 集 者 は 、小 説 林 総 編 輯 所 。
発行所は、小説林宏文館有限合資會社。
主 編 を 務 め た 黄 人 ( 1866-1913) は 、 本 名 を 黄 振 元 、 字 を 羨 涵 又
は 摩 西 。 江 蘇 省 常 熱 出 身 。 清 末 の 作 家 、 批 評 家 。 1901 年 、 章 太 炎
と共に蘇州東呉大学に招かれる。同大学にて文学教授を務める。
訳 述 編 集 を 務 め た 徐 念 慈 ( 1874 ? 75 ? -1908 ) は 、 本 名 を 蒸 乂 、
字を彦士、別号を覚我、または東海覚我とする。江蘇省常熱出身。
英語と日本語に通じる。清末の翻訳家。
「 小 説 林 発 刊 詞 (15)」 、 摩 西 ( 著 )
則雖謂吾國今日之文明爲小說之文明,可也。則雖謂吾國異日政
界、學 界、敎 育 界、實 業 界 之 文 明 卽 今 日 小 說 界 之 文 明 亦 無 不 可 也。
雖然有一蔽焉,則以昔之視小說也太輕,而今之視小說又太重
也。… … 然 吾 不 問 小 說 之 效 力,果 足 改 頑 固 腦 機 而 靈 之,袪 腐 敗 空
氣 而 新 之 否 也。亦 不 問 作 小 說 者 之 本 心,果 專 爲 大 羣 致 公 益,而 非
爲 小 己 謀 私 利,其 小 說 之 內 容,果 一 一 與 標 置 者 相 讐 否 也。… … 請
一 考 小 說 之 實 質 。 小 說 者 , 文 學 之 傾 于 美 的 方 面 之 一 種 也 。 (16)
( わ が 国 の 今 日 の 文 明 は 、小 説 の た め の 文 明 と 言 え る だ ろ う 。わ
が 国 の 他 日 の 政 界 、学 界 、教 育 界 、実 業 界 の 文 明 は 即 ち 今 日 の 小
説 界 の 文 明 も ま た そ う い っ て 差 支 え な い だ ろ う 。昔 は 小 説 を 軽 ん
じ て い た が 、い ま で は 小 説 を 重 ん じ 過 ぎ て い る 。… … し か し な が
ら 、私 は 小 説 の 力 を 問 う た こ と が な い 、果 た し て 頑 迷 な 頭 と 精 神
を 改 め 、腐 敗 し た 空 気 を 取 り 除 き 新 た に す る の に 十 分 で あ る だ ろ
う か 。ま た 、小 説 を 書 く 者 の 本 心 を 問 わ な く て 、果 た し て 大 衆 の
公 益 と な る の か 、一 個 人 の 利 益 を な す の で は な く 、そ の 小 説 の 内
容 は 、ひ と つ ひ と つ 値 段 に 一 致 す る か ど う か 。… … ど う ぞ 小 説 の
実 質 を 考 え て 下 さ い 。小 説 な る 者 は 、文 学 が 美 の 方 面 に 傾 い た も
のである。)
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48 ]
『中国言語文化研究』第 13 号
「 小 説 林 発 刊 詞 」は 、主 編 を 務 め る 黄 人 に よ る 論 説 で あ る 。こ こ で
黄 人 は 、現 在 の 小 説 の 風 潮 と し て 、価 値 を 重 く 見 過 ぎ て い る と 述 べ
て い る 。こ れ ま で 上 述 の 三 誌 で は 、小 説 の 価 値 を 訴 え て き た 。し か
し『 小 説 林 』は 、小 説 が 国 家 の 法 典 や 宗 教 の 聖 書 な ど に 取 っ て 代 わ
るものではないとし、これまでの小説の高まりを批判すると共に、
小 説 の“ 実 質 ”に つ い て 述 べ る よ う に な る 。そ し て 小 説 と は 、美 的
方 面 に 傾 斜 し た 文 学 の 一 種 だ と し た 。こ の 発 刊 辞 を 見 る 限 り 、上 述
の 三 誌 の 発 刊 意 図 と は 一 線 を 画 す も の と な っ て い る 。ま た 黄 人 の 著
し た「 小 説 林 発 刊 詞 」で は 、当 時 の 人 気 を 博 し た 翻 訳 小 説 の 登 場 人
物 の 名 (17)が た び た び 見 ら れ る 。 こ れ も 他 の 期 刊 誌 に は 見 ら れ な い
傾 向 で あ る 。小 説 の“ 実 質 ”に つ い て は 、次 の「 小 説 林 縁 起 」で そ
の詳細が見られる。
「小説林縁起」、東海覺我(著)
抑 小 說 之 道 ,今 昔 不 同 ,前 足 之 果 以 害 人 ,後 之 實 無 愧 益
世 耶 。 豈 人 心 之 嗜 好 , 因 時 因 地 而 遷 耶 。 抑 於 吾 人 之 理
マ
マ
性 Venunft(18), 果 有 鼓 舞 與 感 覺 之 價 値 者 耶 。 是 今 日 小
說 界 所 宜 硏 究 之 一 問 題 也 。 余 不 敏 , 嘗 以 臆 見 論 斷 之 ,
則 所 謂 小 說 者 , 殆 合 理 想 美 學 、 感 情 美 學 而 居 其 最 上 乘
者 乎。試 以 美 學 最 發 達 之 德 意 志 徵 之。黑 搿 爾 氏 Hegel,
1770— 1831 於 美 學 , 持 絕 對 觀 念 論 者 也 。 其 言 曰 : 藝 術
之 圓 滿 者 , 其 第 一 義 爲 醇 化 於 自 然 。 簡 言 之 , 即 滿 足 吾
人 之 美的 慾 望 , 而 使 無遺 憾 也 。 … …
(19)
(そもそも小説の道は、今と昔は同じでなく、前者は人を害し、
後 者 は 世 に 有 益 で あ る こ と に 恥 じ な い 。ま さ か 人 心 の 道 楽 は 、そ
の 時 そ の 土 地 の 移 り 変 わ り の は ず で は あ る ま い 。そ れ と も 我 々 の
理 性 Venunft に お い て 、果 た し て 鼓 舞 と 感 覚 の 意 味 は あ る か 。今
日 の 小 説 界 で 研 究 問 題 の 一 つ と す べ き で あ ろ う 。不 肖 私 は 、か つ
て 主 観 的 な 見 解 を 持 っ て こ れ を 論 断 し 、小 説 と い う も の は 、お お
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清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における小説概念
よ そ 理 想 美 学 、感 情 美 学 を 合 わ せ て 、そ の 最 上 を 占 め て い る 。試
み に 、美 学 が 最 も 発 達 し た ド イ ツ で こ れ を 証 明 し よ う 。ヘ ー ゲ ル
( Hegel , 1770-1831 ) は 美 学 に お い て 、 絶 対 観 念 論 を 持 っ て い
た 。そ の 言 う と こ ろ は「 芸 術 の 完 全 た る は 、そ の 第 一 義 に 自 然 を
純 化 す る こ と だ 。 」で あ る 。簡 単 に 言 え ば 、我 々 の 美 の 欲 望 を 満
足させ、遺憾無くすることだ。……)
「 小 説 林 縁 起 」で は 、ヘ ー ゲ ル の 美 学 を あ げ て 小 説 に つ い て 述 べ て
いる。美学という言葉は、今回あげた文学期刊誌の中で『小説林』
の み に 見 ら れ る 。ま た ヘ ー ゲ ル と 共 に 挙 げ 、感 情 美 学 の 代 表 者 と し
て 紹 介 さ れ る の が キ ル ヒ マ ン ( 2 0 )( 18 02-1884)で あ る 。キ ル ヒ マ ン
は 法 律 家 と し て 当 時 名 を 馳 せ た 人 物 で 、哲 学 者 と い う 一 面 も 持 ち 合
わ せ て い る が 現 在 で は あ ま り 知 ら れ て い な い 。で は 、な ぜ キ ル ヒ マ
ン を 紹 介 し て い る の か 。「 小 説 林 縁 起 」 を 著 し た 東 海 覺 我 こ と 、 徐
念 慈 は 日 本 語 に 通 じ て い た と あ る 。当 時 の 日 本 で は 東 京 大 学 な ど に
て 美 学 の 講 義 が 行 わ れ 、1900 年 に は 東 京 大 学 で 大 塚 保( 1869-1931)
に よ る 美 学 講 座 が 設 け ら れ て い た 。徐 念 慈 の 美 学 の 思 想 は こ の 当 時
の 日 本 か ら 得 た 知 識 で あ る と 考 え ら れ る 。そ し て キ ル ヒ マ ン に つ い
て は 、 1899 年 に 帝 国 百 科 全 書 『 哲 学 汎 論 』 ( フ ォ ン ・ キ ル ヒ マ ン
著 、 藤 井 健 治 郎 (21) 訳 ) が 博 文 館 よ り 発 行 さ れ て お り 、 徐 念 慈 は こ
れ を 読 ん だ 可 能 性 が 高 い だ ろ う 。こ の 中 で は 美 学 に つ い て 述 べ て い
る 章 が あ る こ と か ら 、徐 念 慈 は キ ル ヒ マ ン を 美 学 の 代 表 と し た の で
あ ろ う 。つ ま り「 小 説 林 縁 起 」に 見 ら れ る 美 学 の 概 念 は 、日 本 か ら
の影響であった。
「 小 説 林 縁 起 」は ヘ ー ゲ ル 、キ ル ヒ マ ン の 美 学 を 受 け て 、小 説 と
は作家自身の思想や感情を具体化することや人物描写の幅を広め
る と い っ た こ と を 述 べ て い る 。ま た 人 物 描 写 に つ い て 、清 末 小 説 の
典 型 と な っ た 英 雄 と 悪 人 の 図 式 に 異 を 唱 え 、西 洋 の 小 説 の よ う に 人
物 に 幅 を も た せ て 描 く べ き と し た 。こ の よ う に 人 物 描 写 に つ い て 述
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『中国言語文化研究』第 13 号
べ る こ と は 、『 新 小 説 』『 繡 像 小 説 』『 月 月 小 説 』 で は 見 ら れ な か
った傾向である。
『 小 説 林 』の 小 説 の 概 念 に は 、日 本 に お け る 西 洋 美 学 の 受 容 を『 小
説 林 』が 受 け た と 言 え る だ ろ う 。ま た『 小 説 林 』で は 、包 天 笑 、徐
卓 呆 、李 涵 秋 な ど 後 に 鴛 鴦 蝴 蝶 派 の 代 表 す る 作 家 達 が 見 ら れ る 。も
う 一 方 で『 小 説 林 』の 画 期 的 な 点 は 、原 稿 料 規 定 を 初 め て 設 け た 文
学期刊誌ということである。『小説林』と同年に、新聞紙『時報』
(22)
では小説の募集において懸賞金を設けた。これは小説の需要に
編集者だけの執筆では間に合わないという状況が生まれたからで
あ り 、こ れ に よ り 職 業 作 家 が 誕 生 す る 。こ れ ら の 点 か ら 、『 小 説 林 』
は後の趣味性や職業作家輩出する文学期刊誌への分岐点となる期
刊誌ではないかと考える。
『 小 説 林 』は 、『 新 小 説 』よ り 起 っ た 小 説 を 手 段 と し て で は な く 、
小説の“実質”について考察し、美学の思想を取り入れたことは、
『 新 小 説 』『 繡 像 小 説 』『 月 月 小 説 』で は 見 ら れ な い 現 象 で あ っ た 。
ここに至ってようやく小説そのものについて捉え出したと考える。
た だ 美 学 を 唱 え な が ら も 、実 際 そ れ を 掲 載 作 品 に 反 映 さ せ る こ と は
難 し く 、『 小 説 林 』の 作 品 の 多 く は 従 来 の 作 品 か ら 大 き く 離 れ る も
の で は な く 、思 想 的 に は 革 命 派 の 色 合 い が 強 く で た 文 学 期 刊 誌 で あ
っ た 。こ の 時 点 で も ま だ 小 説 の 理 念 の み が 先 行 し 実 質 が 伴 っ て い な
い。
4.おわりに
本 稿 で は 、清 末 の 主 要 な 文 学 期 刊 誌 の 発 刊 詞 を 見 て き た 。文 学 期 刊
誌 の 発 刊 詞 を 見 る こ と は 、当 時 の 文 学 概 念 の 流 れ を 見 る こ と に 繋 が
る の で は な い か と 考 え た か ら で あ る 。そ し て 、こ の 文 学 概 念 の 流 れ
を 見 る こ と に よ っ て 、民 国 以 後 の 鴛 鴦 蝴 蝶 派 の 文 学 概 念 の 前 に 、清
末 に ど の よ う な 文 学 概 念 が 起 り 、そ れ は ど の よ う な 流 れ を 見 せ る の
か を 整 理 を し た か っ た か ら で あ る 。今 回 、知 り え た こ と と 同 時 に 新
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清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における小説概念
たな課題も出てきた。
清 末 に 起 っ た 小 説 の 価 値 の 認 識 、即 ち 梁 啓 超 が 投 じ た 一 石 は 、小
説 の 名 を 借 り て 、政 治 理 念 を 啓 蒙 し よ う と す る も の で あ っ た が 、そ
の 波 紋 は 様 々 な 形 と な り 清 末 の 小 説 に 影 響 を 与 え て い っ た 。清 末 の
知識人にとって小説とは一体何であったのだろうか。
『新小説』
『繡
像 小 説 』『 月 月 小 説 』 で は 、 そ れ ぞ れ の 目 的 を 達 成 す る た め の 道 具
と い う 役 割 で あ っ た と し て も 、小 説 を 創 作 し た こ と に 変 わ り は な い
だ ろ う 。『 繡 像 小 説 』 で は 、 挿 絵 を 取 り 入 れ た 小 説 を 掲 載 し 、『 月
月小説』では、幅広い分野の小説を提供した。
『 小 説 林 』に 至 っ て 、美 学 と い う 概 念 を 受 容 し て 小 説 に 用 い よ う
と し た 。そ の 理 念 は 新 し い も の で あ っ た が 、作 品 に 反 映 さ せ る に は
至 ら な か っ た 。こ の よ う に 清 末 に 起 っ た 流 れ は 知 識 人 た ち の 揺 れ 動
き が 見 ら れ 、小 説 に 対 す る 認 識 の 曖 昧 さ が 際 立 つ 結 果 と な っ た 。
『小
説 林 』で は 、職 業 作 家 の 誕 生 が 起 る 。こ れ が 後 の 小 説 の 大 衆 化 へ ど
う 繋 が る の か 。ま た 西 洋 や 日 本 か ら の 影 響 を ど う 受 容 し て い く の か 。
こ れ ら を 研 究 す る こ と で 、当 時 小 説 が 中 国 で ど の よ う に 捉 え ら れ て
いたのかを考えていきたい。
〈参考文献〉
阿 英 『 晩 清 小 説 史 』 商 務 印 書 館 、 1937 年 5 月
阿 英 『 晩 清 小 説 史 』 台 湾 商 務 印 書 館 、 2004 年 4 月
陈 荒 煤 主 編 『 鸳 鸯 蝴 蝶 派 文 学 资 料 』 福 建 人 民 出 版 社 、 1984 年
范 伯 群 主 編 『 中 国 近 现 代 通 俗 文 学 史 』 ( 上 · 下 ) 、 江 苏 教 育 出 版 社 、 1999
年
魏 紹 昌 『 我 看 鴛 鴦 蝴 蝶 派 』 台 湾 商 務 印 書 館 、 1992 年
中 島 利 郎 『 晩 清 小 説 研 叢 』 汲 古 書 院 、 1997 年 7 月
山 田 敬 三「『 新 中 国 未 来 記 』を め ぐ っ て ― 梁 啓 超 に お け る 革 命 と 変 革 の
論理― 」、狭間直樹編『共同研究 梁啓超 ―西洋近代思想受容と明治
[ 52 ]
『中国言語文化研究』第 13 号
日 本 ― 』 み す ず 書 房 、 1999 年 10 月
〈注釈〉
(1)阿 英 『 晩 清 小 説 史 』 、 商 務 印 書 館 、 1937 年 5 月 、 P2- 3。
(2)同 (1)、 P9。
(3)同 (1)、 P10。
(4)『 新 小 説 』 、 影 印 本 、 上 海 書 店 、 1980 年 12 月 。 第 一 號 、 「 新 中 國
未来記」。
(5)『 新 小 説 』 、 影 印 本 、 上 海 書 店 、 1980 年 12 月 。
(6)『 梁 启 超 全 集 』張 品 興 主 編 、北 京 出 版 社、1997 年 7 月。第 一 巻 P131。
(7)張 靜 廬 輯 註 『 中 國 出 版 史 料 』 中 華 書 局 、 1957 年 5 月 、 P104。
(8)山 田 敬 三「『 新 中 国 未 来 記 』を め ぐ っ て ― 梁 啓 超 に お け る 革 命 と 変 革
の論理―」『共同研究
梁啓超―西洋近代思想受容と明治日本―』み
す ず 書 房 、 1999 年 10 月 、 P340。
(9)阿 英 『 晩 清 文 藝 報 刊 述 略 』 、 古 典 文 学 出 版 社 、 1958 年 3 月 、 P17。
(10)『 繡 像 小 説 』 、 復 刻 版 、 上 海 書 局 、 1980 年 12 月 。 第 三 號 。
(11) 包 天 笑 『 训 影 楼 回 忆 录 』 山 西 古 籍 出 版 社 、 1999 年 9 月 、 P457。
(12) 周 桂 笙 ( 1 873 -1 936 、 186 3-1926 ) は 、 本 名 を 樹 奎 、 筆 名 を 新 庵 、
知新室主人などという。上海南滙出身。清末の翻訳家、小説家。幼年
の頃、広方言館に入り、後に中法学堂に入った。フランス語と英語を
学ぶ。呉趼人と同じく『新小説』にて小説(翻訳小説)を掲載する。
汪惟父の招聘を受けて、『月月小説』にて翻訳小説を担当した。
(13) 『 月 月 小 説 』 復 刻 版 全 8 巻 、 龍 溪 書 舎 、 1977 年 9 月 。
(14)虚 無 党 と は 、 帝 政 ロ シ ア 時 代 、 チ ェ ル ヌ イ シ ェ フ ス キ ー を 指 導 者 と
する革命的民主主義者の党を指す。
(15)目 次 で は 「 小 説 林 発 刊 辭 」 。
(16)『 小 説 林 』 、 影 印 本 、 上 海 書 店 、 1980 年 12 月 。
(17)「 狹 斜 抛 心 締 約 , 輒 神 遊 於 亞 猛 、 亨 利 之 間 ; 屠 沽 察 睫 競 才 , 常 銳 身
以 福 爾 馬 丁 爲 任 。 」林 紓 訳 の『 巴 黎 茶 花 女 遺 事 』の 亞 猛 と『 迦 茵 小 傳 』
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清末の主要な文学期刊誌の発刊詞における小説概念
の亨利を指すと考える。
(18) “ V e r n u n f t ” の 誤 り 。
(19) 同 (16)。
(20) ユ リ ウ ス ・ ヘ ル マ ン ・ フ ォ ン ・ キ ル ヒ マ ン ( Julius H ermann von
K irchmann 、 1802-1884) 、 ド イ ツ の 法 律 家 、 政 治 家 、 哲 学 者 。
(21)藤 井 健 治 郎 ( 1872-1931) 、 倫 理 学 者 。
(22)1904 年 6 月 ~ 1 939 年 9 月 。 上 海 に て 創 刊 。 『 時 報 』 は 新 聞 紙 面 に
お い て 小 説 欄 を 初 め て 設 け る 。編 集 者 は 、羅 普 、陳 景 韓 、包 天 笑 な ど 。
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