長 岡 の 先 人 た ち - 長岡市

日米開戦に反対した
連合艦隊司令長官
や まもと
人々から愛され続ける清貧の僧
い そ ろく
戦国の世に
「義」
と
「愛」
を貫いた
名将とその妻
りょう か ん
山本 五十六
な おえ
良 寛
( 1884 ∼ 1943 )
か ね つぐ
長岡の近代教育の礎を築いた
先見の人
せ ん
こば やし
直江兼続とお船
( 1758 ∼ 1831 )
時代を駆け抜けた、幕末の風雲児
とらさ ぶ ろう
か わ い
小林 虎三郎
( 1560 ∼ 1619 )
( 1557∼1637 )
つぎ の す け
河井 継之助
( 1828 ∼ 1877 )
Great man
( 1827 ∼ 1868 )
せつどう
良寛は宝暦8年(1758)、出雲崎の名
上杉謙信のもとで、上杉景勝とともに
虎三郎は、22歳で佐久間象山の門に
斉藤拙堂や佐久間象山、山田方谷な
坂之上町3)
に旧長岡藩士・高野貞吉の
主・橘屋山本家に生まれました。18歳で
「義」の心を学んだ兼続。天正9年(158
入り、長州藩の吉田寅次郎(松陰)
ととも
ど当代一流の思想家や学者のもとで学ん
六男として誕生。大正5年(1916)、戊辰戦
出家。諸国行脚の後、39歳の時に越後
1)、上杉家家臣で与板の名門・直江家
に
「象山門下の二虎」
と称されました。象
だ継之助は、郡奉行、御年寄役、家老と、
争で断絶した山本家の養子となりました。
に戻ります。国上(現在の燕市)
にある五
のお船と結婚。与板城主となりました。
山は虎三郎の教育者としての資質を、高
藩の要職に登用され、藩政改革を進めて
最後まで開戦に反対しながらも太平洋
合庵などで暮らし、文政9年(1826)、69
以来、家臣団の与板衆を率いて、主
く評価しています。
いきます。
戦争で連合艦隊司令長官を務め、ハワイ
歳の時に和島地域の島崎にある木村家
君・景勝の執政として手腕を発揮。新田
長岡に戻った虎三郎は、戊辰戦争後、
大政奉還、戊辰戦争の勃発と情勢が
真珠湾攻撃、
ミッドウェー海戦などを指揮。
に身を寄せ、74歳で亡くなるまで過ごしま
開発や道の整備などを進め、城下町与
文武総督に。焦土と化した長岡藩の再
混沌とする慶応4年(1868)
5月、長岡藩
昭和18年(1943)、前線基地への視察の
した。
板の礎を築き上げたといわれています。
興には人材育成が何よりも重要と考え、
軍事総督の継之助は、藩の武装中立を
途上、
ブーゲンビル島上空で米軍機に撃
自らを
「大愚」
と称し、
あらゆる執着にと
文武を兼ね備え、豊臣秀吉からも絶賛さ
明 治2年に国 漢 学 校を開 校 。
さらに翌
示し、新政府軍軍監・岩村精一郎との小
墜され戦死(享年59歳)。
その翌月に元帥
らわれず、生涯粗末な庵に住み清貧の
れていました。
年、長岡の窮状を見かねた三根山藩か
千谷談判に臨みます。
の称号を授与されました。
暮らしを貫き、人々から愛された良寛。書
平成21年のNHK大河ドラマ
「天地人」
ら送られた百俵の米を新校舎開校の資
しかし、武装中立の嘆願書は容れられ
平成23年(2011)12月に全国公開され
家、歌人として数々の作品を残しました。
では、主人公としてその生涯が描かれま
金に充てました。
ず、話し合いは決裂。ついに徹底抗戦を
れんごう
い
た、映画「聯合艦隊司令長官山本五十六
和島地域の木村家や良寛が眠る隆泉
した。
「まちとは人が興すもの。
まちづくりは、
決意しました。一度は長岡城を奪回する
−太平洋戦争70年目の真実−」では、平
寺がある通りは
「はちすば通り」
と名付け
兼続とともに景勝の信任の厚かったお
人づくりから始まる」。
も、その際に左足を負傷。その後、兵力に
和を守ろうと命を懸けて日米開戦に反対
られ、今も良寛を慕う多くの人たちが訪
船。上杉家の奥向きの仕事を任され、兼
人づくりの大切さを説いた虎三郎の思
勝る新政府軍によって長岡城は再落城
した五十六が、
なぜ自らその火蓋を切って
れています。
続亡き後は、女性としては異例の三千石
想は、米百俵の精神として、今も長岡に
し、八十里越で会津に向かう途中、会津
受け継がれています。
落とさねばならなかったのか、
リーダーとし
が与えられました。当時の米沢藩の文書
ていかに戦い続けたかが、壮大なスケー
には、藩の運営に力を貸し、皆の尊敬を
ルで描かれました。
集めたことが記されています。
長岡の先人たち
明治17年(1884)、玉蔵院町(現在の東
たいぐ
先 人
9
日本画家・中村麻美さん画
領塩沢(現福島県只見町)
で42歳の生涯
を閉じました。
河井継之助記念館では、継之助の旅
ちりつぼ
日記「塵壺」のほか、司馬遼太郎の「峠」
の直筆原稿などが展示され、全国から多
くの人たちが訪れています。
政治・経済・教育・文化など、
それぞれの分野で
うえすぎ けんしん
︵1530 ∼ 1578︶
歴史にその名を刻む
上杉 謙信
14
越後守護代・長尾為景の末子として春日山
城に生まれ、 歳で栃尾城に入る。﹁越後の虎﹂
としてその名を知られ、武田信玄、北条氏康、
織田信長らと合戦を繰り広げた。宿敵の武田
みしま おくじろ う
信玄との5度に渡る川中島の合戦は有名。
三 島 億 二郎
︵1825 ∼ 1892︶
戊 辰 戦 争 後 、長 岡 藩 大 参 事として、復 興に
尽 力 。養 蚕 業や石 油 精 製 業など時 代にあった
産業を興す。長岡洋学校︵現在の長岡高校︶
の
設立、第六十九国立銀行︵現在の北越銀行︶
の
のもと きょうはちろう
開設など、長岡の近代化の基礎を築いた。
野 本 恭 八郎
︵1852 ∼ 1936︶
実 業 家 として活 躍 す る 傍 ら 、人 はそ れ ぞ
れ唯一無二の尊い存在であり︵独尊︶、社会で
互いを 尊 重 して生 きること︵ 互 尊 ︶
の両 方 が
大 切であ るという 互 尊 独 尊 思 想 を 提 唱 。教
いのうえ えんりょう
育の大 切さを 説 き 、﹁ 互 尊 文 庫 ﹂︵ 図 書 館 ︶を
市に寄付した。
井上 円了
︵1858 ∼ 1919︶
﹁ 西 洋の模 倣 だけでな く 、真の近 代 化の推
進には、ものの見 方や考 え 方 を 根 本からつく
ることが必 要 ﹂と哲 学の普 及に尽 力 。日 本 初
の哲 学 専 修の私 立 学 校﹁ 哲 学 館 ﹂︵ 現 在の東
洋 大 学 ︶を創 立した。﹁ 妖 怪 博 士 ﹂としても 知
おおた け かんいち
︵1860 ∼ 1944︶
年、衆 議 院 議 員に当 選し、国 政に参
27
られる。
大 竹 貫一
明治
加 。数々の業 績 を 残 す 一 方 、大 河 津 分 水の
実 現 など 郷 土の河 川 排 水 事 業に貢 献 。北 海
年旭日重光
15
道に大 農 場 を 興 す など 、明 治 政 府の殖 産 興
すぎもと えつこ
業 政 策の推進に尽力した。昭和
章を受章。
杉本 鉞子
︵1872 ∼ 1950︶
代々長 岡 藩の家 老 職 を 務めた 稲 垣 家に生
まれる。結 婚のため渡 米しコロンビア大学で日
本 文 化 史 などを 講 義 。日 本の伝 統 文 化 を 紹
セラーとなった。
ほりぐち だいがく
介した﹁ A Daughter of the Samurai
︵武士
の娘 ︶﹂を 出 版し、7カ国 語に翻 訳されベスト
堀口 大 學
︵1892 ∼ 1981︶
旧 制 長 岡 中 学 卒 業 。大 正8年に処 女 詩 集
23
詩 を 集めた﹁ 月 下 の 一 群 ﹂
は日 本 近 代 詩に大
年文化功労者、同
45
﹁ 月 光とピエロ﹂を 発 表 。中でも 3 4 0 編の訳
年に文化勲章を受章。
きな影響を与えた。昭和
54
22