15 biz.toppan.co.jp/gainfo 平林奈緒美 H I R A B AYA S H I N A O M I クリエーターズファイル No. vol.31 May.15, 2006 C R E ATO R ' S F I L E 好きなものを信じる ひらばやしなおみ アートディレクター/グラフィックデザイナー 東京都生まれ。1992 年武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒業後、株式会社資生堂(宣伝制作部)入社。 2002 年より 1 年間ロンドンのデザインスタジオ「MadeThought」に出向。04 年 12 月資生堂を退社し、05 年 1 月よりフリーで活動開始。 これまでの主な仕事に、資生堂の企業広告、 「FSP」/「PN」/「Honey Cake」 、HOUSE OF SHISEIDO、東京資生堂銀座ビルをはじめとする 資生堂での仕事のほか、MARY QUANT、MUJI、Toshiba「dynabook」 、Big Magazine Tokyo Game issue、journal standard など セレクトショップのグラフィック、CD ジャケット、書籍の装丁など多数あり。 主な受賞に、NY ADC 金賞 / 銀賞、British D&AD 銀賞、JAGDA 新人賞、東京 ADC 賞、東京 TDC 賞、グッドデザイン賞など多数あり。 「アウトロー発、本流へ」 第1話 自らを「天の邪鬼」と語る平林奈緒美氏。学生時代からさまざまな紆余曲折を経て、資生堂というメーカー からデザイナーとしてのキャリアをスタートし、現在はフリーとして活躍している。 自分がカッコいいと思ったもの、自分の好きなものを徹底して追求し続ける姿勢は、個性的で、しかも求 心力のあるクリエイティブに結実している。 人と同じはイヤだという天の邪鬼の発想 幼い頃から、みんながわーっと群がるものに対 しては距離を置きたいというか、そっちには行き たくないと思ってしまう〝天の邪鬼〟的なところ がありました。 美大進学のために御茶の水美術学院に通ってい たときも、周囲はデザイン科に行きたいという人 ばかりだったけれど、私は別のことをやった方が いいんじゃないかと考えていました。金属が好き だったということもあって彫金や鍛金などの工芸 をやろうと思っていたのです。今になって思えば、 その頃からグラフィックデザインは得意だったし、 好きだったんですけどね。 理由はありません。ただ、なんとなくコマーシャ 藝大の工芸と並行して武蔵野美術大学の空間デ ザイン科も受験したんですが、それも理由らしい ルな感じがかっこわるいと思っていたところが あって、グラフィック︵視覚伝達デザイン科︶は G A i n f o . / C R E AT O R ' S F I L E v o l . 3 1 M a y . 1 5 , 2 0 0 6 受験しようとは思わなかったですね。 結 局、 空 間 デ ザ イ ン 科 に 進 学 し た わ け で す が、 そこはデザインに関するいろいろなことを広く浅 く学ぶところでした。もちろん空間の見方や作り 方はメインで教わりましたが、写真や絵画の授業 もありました。グラフィックの授業はなかったけ プレゼン用にパネルを作るんです。たいていの人 れど、課題で店舗デザインの設計をするときには は中身にばかり集中していてパネルはダサかった りするんですけど、私はパネルをきれいに作って、 いかに見せるかに命賭けてたりしました。 1 © 2 0 0 6 T O P PA N / G A C グラフィックが好きだと目覚めた武蔵美時代 その頃はグラフィックデザインで就職というと 電通・博報堂というのが当たり前だったんですけ 今でこそ、広告代理店に所属するADやデザイ ナーも、広告以外のものを手がけるようになって ど、そのとおりにするのもなんとなくイヤで。 同級生で一番仲良くなった子が、たまたまアー トディレクターの青葉益輝さんの娘さんでした。 いますが、その当時は、やはり〝広告ばっかりを 作っている広告屋〟というイメージがあったのが ひっかかっていました。 私は広告だけでなく、パッケージデザインなど、 いろいろなことがやりたかったんです。 そうなると、フリーでやられているADの方の 下につくか、メーカーの宣伝部に行くしかないわ 取らせてもらったり。そんなことをしているうち に、デザインの仕事がどういうものなのかだんだ るんで、これはこれでいいかなと思っています。 感じなんですよね。でも、まあ、どうにかなって こんな具合で、いつもなんか、ちょっとくねく ね歩きしていて、アウトローというか天の邪鬼な 受けられることになりました。 リ押しをしたら、5人の枠の中に入れてもらえて、 も、大学のためにもいいはずだと、ものすごいゴ 私のような人間が受験した方が、資生堂のために 堂の作品で、毎日広告賞で優秀賞も取っているし、 それまでに話をしたこともなかった視覚伝達デ ザイン科の主任教授のところに行って、私は資生 けしか受験させないと聞いて﹁なにぃ∼?﹂と⋮。 視覚伝達デザイン科を卒業する人の中から5人だ どうやら資生堂では、武蔵野美術大学からは毎年 動 も し て い た 資 生 堂 が い い な と 思 っ た の で す が、 ということで、デザインに力を入れているメー カーをいろいろ見た中から、ギャラリーなどの活 は絶対にできないので︵笑︶。 けですが、私は性格上、誰かの下につくというの ですか。そんな時に青葉のおじちゃんのところで にもカラーコピーとかなかなか使えないじゃない らったり、学生って貧乏ですから、課題をやる時 当時は青葉さんが何者なのかまったく知らな か っ た け れ ど、 事 務 所 に 遊 び に 連 れ て 行 っ て も 第58回毎日広告デザイン賞 第1部/一般公募・広告主課題の部 奨励賞受賞作品 資生堂「ZEPHYR【ゼファ】 (ブレースアップローション) 」 30段(新聞見開きサイズ)2点シリーズ んわかってきて、楽しそうだと思い始めました。 それにイギリスのデザイナー、ネヴィル・ブロ ディーやピーター・サヴィルなどが出てきた頃で、 ﹃ か っ こ い い な、 グ ラ フ ィ ッ ク っ て こ う い う 仕 事 グラフィックデザインが好きだ、やりたいと思う もあるんだな﹄とわかってきて、やっぱり自分は ようになってきたんです。 当時は、パルコなどが主催するグラフィックの 公募展に出展するのが美大生の間では流行ってい たんですが、私は天の邪鬼なのでそういうのには 出さずに、毎日広告賞や朝日広告賞などの一般部 門に作品を作って応募していました。広告のこと なんかなんにも知らなくて、今思うと恥ずかしい んですけど、それがなんだか奨励賞を取っちゃっ たりして。ちなみに資生堂の課題でした。 そんな感じで、あれほど頑固に避けて通ってき たグラフィックデザインに近づいていって、就職 する時には、断然、グラフィックデザイン! と いうふうになっていったのです。 © 2 0 0 6 T O P PA N / G A C G A i n f o . / C R E AT O R ' S F I L E v o l . 3 1 M a y. 1 5 , 2 0 0 6 2 第1話 平林奈緒美 no.15 で も そ う な っ て み る と、 そ れ は そ れ で い ろ い ろな仕事があって、たとえば人事部の仕事で﹃水 ンナー向けのものもちゃんとB2で印刷させてく 資生堂入社 || アウトロー指向全開に 曜日は早く帰る日﹄みたいな社内キャンペーン 資生堂では新人のデザイナーは、先輩が作った ポスターなどのメインのグラフィックをアレンジ れたんです。そういう細々した仕事を、誰にも邪 のポスターを作ったりしていました。そういうイ して、ハガキや販売店に設置するステ看など、細 ました。そこで、このブランドリニューアルはチャ タルでクリエイティブを考えるべきだと思ってい トから開発、パッケージ、プロモーションと、トー いのはもったいないと思っていて、商品コンセプ です。私は入社した頃からそれが連携していかな ありながら、それぞれの垣根がしっかりあったん 資生堂ではデザインに関する仕事は、店舗、パッ ケージ、グラフィックと3つあって、同じ部署で した。これが後のFSPになるわけです。 を統合してリニューアルするという話が出てきま メイクが別だったのですが、しばらくして、それ うになりました。そのブランドではスキンケアと FSPの前身ブランドの仕事をやらせてもらうよ 事をさせたら合うんじゃないか﹄と思われ始めて、 統派のブランドよりも若い子向けのブランドの仕 やすかったんでしょうね。周囲から﹃この人は正 そんな風に、自分のテイスト全開でデザインを していたので、他のデザイナーよりも個性が見え 出世作﹁FSP﹂ || 商品開発からやりたい でできるわけですから。 かったですよ。企画から撮影までも、すべて自分 魔されずに自由に作っていました。それはうれし FSP 株式会社アクス 1999 ∼2003 年 かなツールを作る仕事からスタートします。 そして、ある程度経験を積んだらフレッシャー ズのキャンペーンのADを担当します。これは高 校 を 卒 業 す る 女 の 子 に 向 け て、 メ イ ク ア ッ プ の 入門を促すような、ちょっとしたパンフレットや リーフレットを作るのですが、私もスタートはそ ういう仕事から入りました。 ただ、私は資生堂に入るときから﹁男モノがや りたい﹂と主張していました。というのは、私の 好きなデザインのテイスト、バウハウスとかロシ ア・アバンギャルドみたいなことをやるなら、資 生堂の本流である化粧品よりは男モノだろうと 思ったからです。研修期間が終わると、希望どお りにシャンプーなどの化粧品以外の仕事をする部 署に配属になりました。 同期で入社したデザイナーたちは化粧品の大き なキャンペーンをやるチームの3人目や4人目の デザイナー、つまりアシスタントに組み入れられ て、毎日毎日、プレゼンだ入稿だと忙しくしてい ましたが、私はあまり仕事もなくて、意外と放置 されていたんです。 一応、教育担当の先輩もついたんですが、3日 目くらいでケンカしたら見放されてしまって、社 内的にも、 〝なんかフラフラしている人〟みたい なキャラになってしまいました。 © 2 0 0 6 T O P PA N / G A C G A i n f o . / C R E AT O R ' S F I L E v o l . 3 1 M a y. 1 5 , 2 0 0 6 3 第1話 平林奈緒美 no.15 ンス! と思い、関係部署に訴え続けて、プロジェ クトというスタイルで商品開発からやらせてもら えることになったのです。といっても、私以外に もプロジェクトに関わったコアメンバーの8人は、 多かれ少なかれ同じ思いを持っていたので、私ひ とりだけが騒いでいたわけではありませんけどね。 それが入社6年目くらいのことで、発売までは1 年半くらい準備をしました。 社内で提案するときには商品開発とネーミング 開発をするのと同じタイミングで、パッケージや 広告展開なども、すべてカンプを作ってプレゼン し て し ま い ま し た。 通 常 は ま ず 商 品 が 決 ま っ て、 次にパッケージ、次に広告というように、タイム ラグがあるのですが、ネーミングやパッケージっ てブランド全体から見たらほんの一部なのに、そ れだけをプレゼンしたら、そこで100%の判断 をされてしまう。私たちはトータルでFSPとい うブランドを考えていたので、やはりトータルで ジャッジしてもらえるプレゼンをしたのです。 そういうプレゼンは資生堂はじまって以来だっ たそうで、上層部もわけがわからなくなっていた のか、煙にまいたというのか︵笑︶わりとすんな りOKをもらうことができました。 コンセプトやネーミングなどもコアメンバーで 決めていったのですが、そのころの 代の若い女 いかって考えて、それで、﹁女の子のための戦闘 て女の子にしかない武器みたいなものなんじゃな うのとはまったく気持ちが違っている。で、それっ なっていたんですね。昔の女の人が口紅1本を買 エティショップで雑貨みたいに気軽に買うものに の子にとって、化粧品ってドラッグストアやバラ 10 © 2 0 0 6 T O P PA N / G A C G A i n f o . / C R E AT O R ' S F I L E v o l . 3 1 M a y. 1 5 , 2 0 0 6 4 第1話 平林奈緒美 no.15 ゼロ・ハリバートンのトランクに入れてみようと たら武器っぽく﹁007﹂みたいにしようかとか、 ギア﹂という商品コンセプトを考えました。だっ ロゴ周りを手がけたり、﹁パーラー﹂のビルが建っ イドウ﹂というギャラリーのグラフィック関係や 事を取ってきてくれたんです。 ﹁ハウスオブシセ りしました。それから資生堂と毎日新聞は創業年 たときには、オープニング用のツールを手がけた イいいながら作っていきました。パッケージもい が一緒なんですが、その120周年の時に合同で か、007なら世界中飛び回るよね、とかワイワ ろいろ調べたり、海外に行ったときに集めた薬の 段 の 企 業 広 告 を 作 っ た り。 ち ょ っ と イ レ 新聞 作っていきました。 パッケージとかを参考にしながら、楽しみながら おかげさまで、FSPの仕事はいろいろな賞も いただいて、自分でも印象深いものになりました。 外の仕事、内の仕事 ギュラーな仕事が入ると、私のところに来るとい う感じになっていました。商品広告も個別のブラ ンドではなく、すべてをまとめて﹁資生堂のスキ ンケア﹂というくくりで全4回のシリーズ広告を 作ったりしていました。 そ う い う 企 業 メ ッ セ ー ジ 的 な こ と も 好 き で、 ずっとやりたいと思っていたんですよ。メインで 見えるところがカッコよくないと、企業イメージ スタイリストをお願いしたソニア・パークスさん への目配りが絶対に大切と思っていて、だから仕 作 り 手 と し て は、 ど ん な 仕 事 で あ っ て も デ ィ テールまで自分の目を届かせたい、細かなところ も変わっていかないと思っていたし。 から、作品集を作りたいと依頼されたものです。 たいと思っていました。勝手なところでスタッフ 資生堂はわりと外の仕事に寛容なところがあっ て、私もいろいろとやっていました。最初に手が それは自分が指名された初めての仕事だったの で必死にやりましたね。当時はまだ会社にMac を決められて、それで﹁さあ作って﹂といわれて それが意外と好評で、それを見てデザインを依 頼してくる人がぽつぽつ現れだして、気づいたら がいくようになっていたんですね。デザインのい メーカーの宣伝部のいいところって、たくさん ありますが、その頃の私は悪いところばかりに目 けたのは、フレッシャーズ・キャンペーンの時に がなかったので、すっごく高かったMacを自腹 も、そこから先では責任は持てませんから。 仕事の半分は外のものになっていました。代休を い悪い以前に、社内の人間関係で仕事が左右され 事をするならスタッフィングからきちんと関わり で買って、家でこそこそと作りました。 取って海外ロケに行ったりもしましたね︵笑︶ 。 思うようになり、 ここではない〝外の世界〟をもっ と見てみたいと思うようになったんです。 るような状況もあって、このままじゃダメだなと 内の仕事では、FSPでちょっと乱暴なやり方 を し て い た よ う に 社 内 か ら は 映 っ て い た よ う で、 あまりお呼びがかからなくなって⋮。 それで、当時の上司が他部署からいろいろと仕 HOUSE OF SHISEIDO 新聞広告 2004 年 HOUSE OF SHISEIDO 仮囲い 2004 年 取材:福田大 足立典子 野崎優彦 西村広(撮影) 文:野崎優彦 編集:福田大 足立典子 野崎優彦 デザイン:福田大 30 © 2 0 0 6 T O P PA N / G A C G A i n f o . / C R E AT O R ' S F I L E v o l . 3 1 M a y. 1 5 , 2 0 0 6 5 第1話 平林奈緒美 no.15 C R E AT O R ' S F I L E vol.31 2006年5月15日発行 発行 凸版印刷株式会社 東京都千代田区神田和泉町1番地 〒101-0024 http://www.toppan.co.jp 発行責任者 三浦 篤 企画・編集・制作 凸版印刷株式会社 GAC TEL.03-5840-4058 http://biz.toppan.co.jp/gainfo
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