ローマ教皇庁とリスボン大地震 ローマ教皇庁と教皇大使アシエウリの交信 ローマ教皇大使アシエウリの通信 論文第六 第一節 第二節 -1- ローマ教皇庁とリスボン大地震 ローマ教皇大使アシエウリの通信 論文第六 第一節 リスボン大地震に関するローマ教皇庁の史料は、久しくヴァチカンの機密文書 として秘せられてきたが、一九九六年ポルトガルの聖職者アルナルド・ピント・ カルコドソによって学術誌﹃思想史論叢﹄に主要な内容が発表された。震災二五 〇 年 に 際 し て こ の 成 果 は 、 叢 書 ﹃ 凄 惨 な る リ ス ボ ン 大 地 震 ﹄ の 第 二 弾 、﹃ 教 皇 大 ここに集 録される記 録の過半 は、当時ポ ルトガルに駐在した 教皇 大使 フィ 使フィピッポ・アシエウリの通信ーヴァチカンの機密古文書﹄として世に送られ た。 ッリポ ・アシエウ リの震災 報告であり 、ほかに ロー マ教 皇ベ ネディクト十四世の 小勅書、同国務長官ゴンザガの返信、その他若干の関連史料が含まれる。なお、 こ れ ら の 文 献 を 編 纂 し た カ ル コ ド ソ は 、か っ て ロ ー マ や エ ス サ レ ム で 神 学 を 修 め 、 現在はポルトガル歴史アカデミー会員ならびにカトリック大学教授の職務にあ る。また、この集録の刊行に際して、彼はラテン語ないしイタリア語の原典を、 すべて現代ポルトガル語に翻訳している。 アシ エウリの 報告は本来 教皇庁の 公文書であ るが、みずからの凄 絶な 体験 と身 辺の凄 惨な様相 も痛切に綴 られ、被 災者の貴重 な証言のひとつをな す。 しか し、 この記 録でとくに 注目すべ きは、教皇 大使とし て彼 が、 国王 ジョアン一世と宰相 ポンバルを主軸とする宮廷の要人、さらには総大司教を頂点とする高位聖職者と 頻繁に会見し、未曾有の国難に曝されたポルトガル王権の危機管理とカトリック Revista de Histótia das Ideias, Faculdade de Letras da Universidade de Coimra, Arnaldo Pinto Cardoso, Correspondencia do Nuncio Filippo Acciaiuoli (Arquivos Secretos do Vaticano ), O Terrivel Terramoto, da Cidade que foi Lisboa, 2005, Lisboa. -2- ① vol.18 (1996), pp.441-510. ① 教権の応急措置に直接参与したことである。さらに、ローマ教皇庁へ宛てた彼の 報告が、大地震発生の直後より翌年六月二九日まで毎週定期便として発送され、 公刊されただけでも長短四五通に達することも、得難い史料と言えよう。 また 、アシエ ウリへの応 答である 教皇ベネデ ィクト十四世の小勅 書と 国務 長官 ゴンザ ガの返信 は、リスボ ン大地震 がカトリッ クの総本山をいかに 震撼 し、 苦慮 させた か立証する 。しかし 、各国を結 ぶ通信網 遮断 のた め、 アシエウリの被災第 一報はようやく十二月の上旬ヴァチカンへ届き、ポルトガルへの教皇庁返信もそ の時点以降しか現れない。したがって、本稿ではまず十二月上旬までを第一段階 として区切り、教皇大使からの通信のみを逐次検討せざるをえない。また、これ ら通信の編者カルコドソは、大地震と関連の薄い事柄を至当にも省略したほか、 教皇庁等への配慮から若干の記述の公表を見合わせことも考えられる。なお、本 稿での試訳に関しては、カルコドソによるポルトガル語訳に依拠し、各通信に便 宜上番号を付した。 教皇大使アシエウリはノビ侯爵オタボアノ・アシエウリの三男として一七〇〇 年ローマに生まれた。十七世紀後半に活躍した同名の音楽家フィリッポ・アシエ Genealogia dei personaggi di spicco. 1759 (III). on-line. Acciaiuoli, Online Wikipedia. Richard Lodge (ed.) , The Private Correspondance of Sir Benjamin Keene, K.B., Cambridge , 1933. p.372. -3- ウリは彼の叙祖父にあたる。大使はイエスズ会随一の教育機関、一五三四年イグ ナチオ・デ・ロヨラによって創立されたコレジオ・ロマーノで学業を修め、ロー マ最古の大学、教皇ボニファティウス八世の創立によるウニヴェルシテ・サピエ ンツァで教会法と市民法の博士号を取得した。ほどなく二四歳の若さでヴァチカ 一七五四 年リスボン に着任し たアシウエ リについて、当時の ポル トガ ル駐 ン政庁の伝奏官に任じられ、一七四四年から十年間スイス駐在の教皇大使を務め る。 The Cardinals of the Holy Roman Church, また、一七五五年の三月王立歌劇場の落成を祝す晩餐会 ② Acciaioli, Filippo (1700-1766) in た﹂と誌している。 在イギ リス大使ベ ンジャミ ン・キーヌ は﹁その 地位 に相 応し い人物のように感じ ① Biographical Dictionary, Pope Clement XIII (1758-1769), Consisitory of Septrmber 24, ① ② へは、ポルトガル駐在スペイン大使ペレラダ公爵や英国海軍艦長オーガスタス・ ハーヴェイとともに招かれた。 ヴァチカンへ向けた教皇大使アシエウリの報告は、毎週火曜日に公用至急便で 発送された。一七五五年十一月一日大使公邸で大地震に襲われたアシエウリは、 三日後 に教皇庁 と実兄に向 けて書簡 を綴った。 しかし、最初の報告 はつ いに 教皇 庁へは 届かず、今 日閲読で きるのは私 信のみで ある 。な お、 カルコドソによる集 録に兄弟とのみ誌されているが、私信の宛先はローマ市会議員アントン・フラン シスコ ・ア シエ ウリ であろう。 一、ローマ教皇大使フィリッポ・アシエウリ、一七五五年十一月四日付 兄︵アントン・フランシスコ・アシエウリ︶宛書簡 親愛なる兄上君へ 死の淵に立ち、丸裸かで惨めで文なしとなった私が、それでも奇蹟的に救 われ、 ベネディ クト会修道 院の敷地 に設けられ たテント、ふた つの 丸太 で組 まれ、僧 院の絨毯 と布地を 敷いた仮設 小屋から 、そ なた にお便りします。万 聖節の土曜日、午前十時に地震が発生し、八分間足らずでリスボンは壊滅し ました。地震のあとまもなく火の手が昇って、数々の建物を焼き、王都の各 地へ次々と拡大しました。大火はいまも続いて、私の住居にも迫り、これを 遮るいかなる手立てもありません。総大司教教会、王宮、新築の大劇場、さ らには税関所と所蔵庫も燃え、ありとあらゆるものが焼失したのです。ベレ ンでは離宮が破壊され、国王は下着のまま脱出され、緑地の御車のなかで休 まれま す。そし て、即日王 室ご一家 のため仮設 小屋を用意する よう 命令 がな されまし た。私に も仮設小屋 を供する よう頼み まし たが 、応答が得られず、 傷ついたまま家族とともに僧院の覆いと布地で凌いでおります。幾千もの人 々が神の慈悲と赦免を願い、できるかぎり私もそれに応じています。昨日の 朝緑地でミサが行われ、生き延びた人たちを祝福しました。形式どおり彼ら はまず私を抱擁して手に接吻し、ついで大地に身を伏せたのです。亡き人た -4- ① Edward Paice, Wrath of God, the Great Lisbon Earthquake of 1755, London, 2008. p.49. ① ちには秘蹟を施し、負傷した人たちには外科医が巡回し、幾千もの死者を埋 葬すべく、その都度空地を浄めました。スペイン大使公邸が全壊し、ご子息 は救出されたものの、不運にも大使ご自身は瓦礫に埋れました。未曾有の凄 まじい脅威に感じられ、上履きと寝巻きのまま瓦礫と遺体の上を歩き、荒墟 のなかに身を潜めています。私の秘書、家主、経理担当、さらに手飼いの騾 馬も死にました。要するにあらゆるものが脅威と惨状に覆われ、リスボンは 瓦礫の 山脈へお 一変したの です。地 下の火焔か ら発した炎が、 つい にわ が大 使館に も迫り、地 震に耐え たすべての 建物を焼 き尽 しま した。いまも私は錯 乱と艱苦の渦中におります。被災の総額はすくなくとも数億︵ペソ︶に及ぶ で しょ う。 敬具 。 大使アシエウリの定期的な報告は、ローマ教皇へ直接送付するのではなく、通 常は教 皇庁国務 長官に届け られた。 カルコドソ の編纂になる冊子は 、ア シエ ウリ の公的 な通信四五 通を収録 するが、う ち三四通 は国 務長 官宛 であり、教皇宛文書 は 十 一 通 で 、お お む ね 短 文 で あ る 。国 務 長 官 は ヴ ァ チ カ ン 政 務 機 構 の 中 枢 で あ り 、 いわば各国における首相兼外相に相当し、枢機卿のひとりでもある。兄宛書簡と ともにつぎの報告は、地震発生を伝える迫真の記録であり、執筆と発送の月日に 二、 ローマ教 皇大使アシ エウリ、 一七五五年 十一月十四日付 ︵四 日付 ?︶ 教皇庁国務長官枢機卿シルヴィオ・ヴァレンティ・ゴンザガ宛報告 身辺が深い錯乱と苦衷に私自身があるため、これなる王都と住民に神が与 え給うた 激甚な災 厄について 、いまだ 報告でき ない 状態 です。土曜日の午前 十時半頃、巨大な地震が襲い、七分か八分で王都の大半を壊滅させました。 それのみでは神の怒りを鎮めるには足りず、さらに各地で火災が発生し、地 震の被害を免れた建物も多数類焼させました。これを書きつつある現在も大 火が止まず、私の住居にまで迫ったので、日曜日の午後そこから脱出し、瓦 礫と遺体を踏み分けて、ベネディクト会の修道院へ辿り着きました。修道院 Cardoso, op.cit., pp.20-21. -5- ① 疑念を残すが、まず記述の脈絡を辿ってみよう。 ① の裏手に広い緑地があって、そこで私はテント小屋を供され、さまざまな状 態 にあ る大 勢の 人たちと出会ったのです。 凄 ま じ い 荒 墟 と 化 し た た め 、リ ス ボ ン の 復 興 を 数 年 で は で き な い で し ょ う 。 死者の数も莫大に達し、墓地を造るためアバーデ神父の権限によって地所を 浄化する必要があります。昨日そのように判断されたのはふたつの事由、無 数の遺体があるためと多数の教会が壊滅したためで、いまだ壊滅に至らぬ教 会にも 倒壊の危 険が感じら れます。 王宮、総大 司教教会、税関 所は なか ば倒 壊し、 そのあと火 災により すべて焼失 しました 。こ れら の建物に関しては消 息不明の人たちもあり、総大司教教会は讃美歌斉唱の最中でした。ベレンの 離宮がかなり破壊されたものの、国王と王室ご一家は緑地へ避難されて仮設 御所に落着き、国王は四輪馬車のなかで睡眠を取られます。総大司教枢機卿 猊下は枡席の座席におられ、出口が遮断されたまま、天井部分が崩れ落ちま したが、お身体は無事でした。ふたりの従者が猊下を外へ担ぎ出し、その直 後王宮全体が壊滅しました。スペイン大使公邸も同じように破壊され、ご子 息と従 僕数人は 救出されま したが、 大使ご自身 は行方が判らず 、瓦 礫に 埋も れたと思 われます 。体調が 悪いと、当 日の朝大 使が 私た ちに連絡されたばか りでした。 私の邸宅も甚大な被害を受けました。上階は即座に破壊され、 居合わせた下階では庭園との障壁が倒壊しました。そこで私は跪いて、その 日のミサを準備していたのです。すぐに門を開けると、目の前で壁が崩れる ので、庭に出る階段へ急ぎ、その降り口で転倒しました。石灰の粉から発す る灰燼で目が眩んだのです。奇蹟的にも他方の戸がふたつ開き、半裸のまま 庭園へ駆け降りると、建物の向側が崩れました。破壊された家屋の下敷にな って秘 書の姿が 消え、召使 のオウデ ィトールと 家畜の騾馬だけ が一 階に いま した。瓦 礫のもと でテントを 建てるこ ともでき ず、 普段 着や帽子や上履きも 借用することもできず、その一昼夜庭園で辛抱しました。帽子などはさきに 申したとおり、階段で転倒し、庭へ駆け降りたときに、紛失したのです。こ のような身なりなので、大きな危険をを伴うものの、昨日召使に荒墟のなか で品々を探すよう頼みましたが、ほとんどの家財は、火焔により灰燼にいま や帰したと明言されました。いまも貧弱な家屋にいて、不慣れな従僕と小僧 しか使えません。一昨日私は内科医の診察を受け、瀉血と傷の手当てを受け ました。 死者の数が住民の三分の一に及ぶと推算されますが、現在すべて混乱の渦 -6- 中にあり、届いた情報も多くは証左のないものです。ここにも不断に死者や 病人が運ばれ、病院か墓地に移されます。深い愛徳によって修道士たちは、 この仕事を辛抱強く模範的に果たすのです。今朝瀕死の人と私たちに聖体拝 受ができるよう、テントが工面されました。災害の規模はこれまでに体験し たもの、伝え聞くもののなかで、もっとも大きいと感じます。 国務長官枢機卿猊下におかれては、私の雑然とした報告を寛大に扱われる よう望 みます。 だれの叫び や涙も言 葉では表現 できないので、 聞け ばき くほ ど、私 の混乱は増 していき ます。一方 では父や 妻や 子を 捜し、他方ではしき りに施しを求めるのです。火災が私たちの災厄を一層増幅し、土曜、日曜、 月曜午前にも、軽度の地震をしばしば感じました。そのたびに新たな被害、 新たな死亡や負傷が生じます。道路に埋めた遺体もありますが、墓地への埋 葬を昨日から始めました。 宮廷がどうなったか、だれも知りません。しかし、国王と王室全員は、テ ージョ河対岸のアレンテージョへ移動すると言われます。私が取るべき措置 につい ては、国 王から指示 があるで しょう。な ぜなら、リスボ ンで 住居 を探 -7- すのはい まや不可 能です。 崇敬する国 務長官枢 機卿 猊下 に教導をお願いし、 みずからを律するほか あり ませ ん。 Cardoso, op.cit., pp.22-25. くの類書に倣って、ここでもときに宰相ポンバルなる通称で記述する。 John R. Mullin, The reconstruction of Lisbon Following the Earthquake of Architecture & Regional Planing Facultry Publication Series. Paper 45. online. 1755 : a study in despotic planning, in University of Massachusetts, Landscape ① ② た、ポンバル公爵として彼が叙せられるのは、遙かのち一七六九年であるが、多 土蔵で急死し、カルバルホが名実ともに最上位の閣僚として政務に献身する。ま リの報告で語られるとおり、大地震の数日後ペドロ・ダ・モタは避難した自邸の 前から 政治の実権 は外務長 官兼軍事長 官のカル バル ホに あっ た。のちにアシエウ もとで 総務長官 の地位にあ ったペド ロ・ダ・モ タは、老齢にして病 身で あり 、以 ・エ・メロ、すなわち宰相ポンバルの主導で迅速に着手された。ジョアン五世の 未曾有の災害に対するポルトガル王権の危機管理は、ジョゼ・デ・カルバルホ ① ② 各国の宮廷を繋ぐ郵便網も遮断され、震災後アシエウリの報告が教皇庁に初め て届いたのは、翌月の十二月十一日である。後述のとおり、折り返し発送された 返信によれば、十一月四日付報告を国務長官ゴンザガは受け取っていない。こう した記述を考慮して、フランスの研究者ジャン・ポール・ポワレルは、十一月四 ま た、 カルコドソは同じ史 日付の 第一報と して弟宛私 信しか遺 されていな いとしながらも、別 の典 拠か ら十 一月四 日付報告と して右記 史料の一部 を引用し た。 た十一 月四付書簡 や十一月 十一日以降 の報告と 比較 して も、 問題の報告がより整 うアシ エウリが 求められた か、みず から感じた としても奇異ではな い。 弟に 宛て る。したがって、文書の紛失が明瞭になった時点で、同じ内容を再度記述するよ この定期報告は有力なカトリック教国における大事件の勃発を伝える記録であ 務長官宛て報告は、郵送網の遮断によっておそらく紛失したであろう。しかし、 こうした史料の混乱について筆者の推測を示せば、十一月四日に発送された国 付報告 の前 に配 置し ている。 料を十一月十四日付と記しつつ、収録における配列では不整合にも十一月十一日 ① 三、 ロー マ教 皇大使アシエウリ、十一月十一日付 教皇庁国務長官ゴンザガ宛報告 これ なる王国 と王都に神 が下され た怖るべき 災厄を、先回の 通常 報告 で猊 下にお伝えしましたが、翌日曜日の午後一時までに数度余震を感じたことを 重ねて報告します。これら弱震の被害は、前日の強震で打撃を受けた障壁や 外装の 崩れに止 まりました 。しかし ながら、併 発した火災は金 曜日 まで 続い て、地震 自体の被 害に劣らぬ 破壊を惹 き起し、 加え て大 勢の盗賊が人々の艱 苦を倍加させ、不埒にもふたつの建物に彼らは放火しました。こうした事態 は緊急政策の実施によっていまは是正されました。然るべき刑罰を与えるべ く、悪辣な盗賊が鉄鎖に繋がれたのです極刑が下ると噂されますが、まだ執 行はされません。 水曜日までどの道路も瓦礫で埋もれ、遺体の捜索が不可能でした。スペイ Jean-Paul Poirer, Le tremblement de terre de Lisbonne 1755, Paris, 2005. -8- 然と綴られていることは事 実で ある 。 ① ン大使、プレラダ伯爵の遺体は自邸の出口で発見され、ご家族にによってた だちにサン・ベント教会へ運ばれました。この教会にはカタルーニャ生れの 聖女モンセラートに捧げた礼拝堂があり、カタルーニャだけの墓地が造られ ています。この知らせを受けて私は、自分のテントを教会へ移して、中庭に 立てるよう指示し、教会にはカトリックの葬儀に相応しく準備させ、みずか らは聖衣を着服しました。こうして赦免等の儀式を行うとともに、柩の運搬 を神父 たちに命 じ、その蓋 も死者の 銘を刻ませ て、前述の墓地 に埋 葬さ せた のです。 その翌日従僕たちが荒墟のなかに私の秘書を見つけ、教区教会の墓地に埋 葬しました。執事の行方はまだ判らず、隘路にある建物の下敷となったよう です。そこでは高層建築が倒壊し、瓦礫と土砂に覆われるため、堀り出しに 必要な人夫が得られないでいます。部屋着と上履きと頭巾しか身に付けてい ないので、従僕たちは秘書の遺体を発見したあと、荒墟で私の居間へ立ち込 み、必要な礼服を探してくれました。 木曜日の朝私はベレンへ行き、緑地に建てられた仮設御所と仮設宮廷を訪 ねました 。来訪を 聞いて御 所から出ら れた国王 陛下 は、 王妃陛下ならびに親 王お三方とともに、私のお見舞に応えられました。公的な祈祷や赦免の儀式 を行うよう便宜を図ると約束され、いまだ椅子を欠かせぬ総大司教猊下の代 行を私に依嘱されました。王后陛下と親王殿下にもお見舞を申し上げ、それ ぞれの方から感謝のお言葉を頂きました。ふたりの閣僚、メンドッサ閣下と カルヴァルホ閣下にも聖俗両面にわたり慰藉を捧げ、自分のテントに戻りま した。また、日曜日にもベレンへ行き、まずペドロ親王殿下と、ついで国王 陛下と お話しま した。これ なる王都 と王国に対 して、神が与え 給う た大 きな 懲罰をど う考える か、と私に まず質問 され、ロ ーマ 教皇 猊下に確知頂きたい こと、私を囲繞する錯乱、動転、艱苦について猊下に余さず報告すべきこと を付言されました。キリスト教と総大司教座に相応しい国王陛下をはじめ、 あらゆる人々に豊かな愛徳を抱かれる神が、慈父の愛によって下された劇烈 な試煉のなかで、語るにはあまりにも悲痛な艱苦も、ここで得られた安らぎ で、どうやら緩和しております。公式の祈祷を行い、ささやかな寄進を供し たいと申し上げると、有難くも国王陛下は私の提議を叶えるようカルヴァル ホ閣下 に指示さ れ、木曜日 から数日 ベネディク ト会の施設で実 施し まし た。 その後彼を訪ねましたが、会えません。夫人の話によれば、私に合うため出 -9- 掛け、テント小屋へ来られたのです。聴聞司祭に関して私に伝言を残され、 明朝彼と告解を行うためベレンに赴くとの由です。この施設はあれこれの聖 職者で混み合っていますが、特筆すべきことは行われていません。 当然国王陛下は非常に困苦され、宮廷も悲嘆に沈んでいましたが、私のお 見舞は陛下をはじめほかの方々にも慰めとなったようです。そこへの道程は 難渋であったものの、自分の責務を果しました。 なお、ほぼ同様にアルガレヴ国全域も壊滅し、王都周辺の諸地域やアレン テージ ョ地方も全 滅しまし た。マドリ ッドにお ける 被害 については、やはり 強烈な地震に襲われたが、破壊は軽少であると聞きます。当日マドリッド宮 廷はエスクリアル宮へ避難し、テンドで一夜を過したけれども、翌日には通 常の王宮に戻られたようです。 テージョ河は七度氾濫し、住居や船舶の板や柱が路上に散乱するのを私は 見ました。尼僧院での死者は修道女の三四名に止まります。だけですが、総 大司教邸は一〇所帯、スペイン大使館では九人、私の邸宅では三人が亡くな りました。 大勢の人々が荒墟になお埋もれ、破壊された建物の石材や残骸で多くの道 路が通れないため、死者の数はいまだ確定できません。私の邸宅はあちこち が崩れ、ほかの住宅よりも大きく破壊されましたが、火の手はそこに接近す る寸前に消えました。だれもが緑地の仮設小屋に避難し、総大司教猊下はオ ラトリオ会の山荘に、フランス大使の家族全員とスペイン大使のお子さまは フランス領事の別荘におられます。イギリス大使と同様、ナポリ公使も王都 の閑静な地域に留ったままですが、前者の公邸へはオランダ公使が家族ぐる みで身 を寄せま した。これ らの邸宅 では家具を 修理も補充もで きな いで いま す。フラ ンス大使 館は正面を 破壊され なかった もの の、 後方に相当な被害を 受けました。だれもが家財や輓馬や騾馬を失いました。総大司教猊下とその 従 者も 輓馬 や騾 馬をすべて奪われ、私にも同様の損失を蒙りました。 ここ サン・ベ ント修道院 には王命 により治療 所が 設け られて、毎日大勢の 負傷者が運び込まれ、特命を受けたふたりの外科医が不断に施療を続けてい ます。彼らの多くはすでに息絶えました。傷病者に聖体を授けるため、私も その場へ行き、応急の墓地を造らせて、哀れな死者の配送に立ち会ったので す。そ こでは三 二名の聖職 者が孜々 として働き 、あらゆる艱苦 に耐 える 規範 となっています。まだ総大司教猊下をお見舞できずにいますが、必要におう - 10 - じてすぐにもお訪ねするつもりでおります。 国務長官枢機卿猊下様のご加 護 とご 愛徳 を懇 願しつつ、苦渋に満ちた報告を終わります。敬具。 四、教皇大使アシエウリ、十一月十一日付 ローマ教皇ベネディクト十四世宛報告 今月一日これなる王都で発生し、継起する非常事態については、国務長官 枢機卿 猊下に四日 付書簡で お伝えし、 本日も引 続き この 災厄について申し上 げましたので、教皇聖下におかれても異常な報告を寛恕頂けたと存じます。 ・ ・ ・ 早 速 国 王 陛 下 か ら お 言 葉 を 受 け ま し た が 、極 度 に 動 転 さ れ つ つ 陛 下 は 、 教皇聖下にお伝えすべきか否かを尋ねられ、さきの書簡に誌したとおりお応 えしました。教皇聖下が慈父の愛をもって公的に祈祷をされるとともに、お 見舞いと励ましの小勅書を発せられたのは、まことに適切と存じます。痛風 と喘息に悩む総大司教猊下を、総力を挙げてお護りすべきことも、国王陛下 と宮廷全体に進言致しました。 宰相カルヴァロ︵ポンバル︶閣下が遅くしか宮廷に帰還されないと聞き、 瓦礫に覆われた難渋な長い道を辿り、暗くなる前に自分の仮設小屋まで戻ろ うと考えました。なお、国王陛下をお尋ねした際、教皇聖下の小勅書につい ては、最初に宰相に示すことも、託すこともできないため、まだ奏覧ができ ないでいます。神の加護があれば、明日提示できるでしょう。宮廷も王都も 王国も遍く悲嘆に沈んでいますが、これからは障害も軽減されると、望みを かけています。ベネディクト会の広い緑地に建てられた板造りの仮設小屋に います が、ここ へは大勢の 人々が避 難し、傷病 者のため治療所 もあ りま す。 緑 地 の 隅 を 布 地 で 仕 切 っ て 、私 は 彼 ら に 聖 体 を 授 け た り 、ミ サ を 行 い ま し た 。 自分が住んでいた建物は、すっかり破壊され、四方に崩れたものの、辛うじ て類焼を免れております。破れた衣類を繕い、あり合わせのもので身を包む 有 様 で す 。・ ・ ・ 総大司教枢機卿猊下は燦然たる宗教的精神を示され、私の頼りない判断を 援助されました。教皇聖下、言語を絶する危疑と惨状にあり、拙い報告しか - 11 - なしえなことを、重ね てお 赦し くだ さい。 ポル トガル王 権による危 機管理は 、宰相ポン バルの主導によって 大地 震発 生の 当日か ら開始さ れた。震災 に対処す る緊急政策 は相継いで発せられ た二 四八 の勅 令等を 根幹とし、 ポンバル の委嘱によ り一七五 八年 ﹃緊 急政 策釈義﹄と題して印 行された。この書物を編纂し、解題を付したオラトリオ会士フランシスコ・ジョ ゼ・フレイレは、多岐にわたる勅令等を十四の項目に大別した。遺体の撤去と埋 第一項第一号 葬を命じる第一項目の劈頭は、ほかならぬスペイン大使救出の勅令である。 一七五五年リスボン大地震への緊急政策 ︻勅令︼ エ ス ト リ ベ イ ロ 侯 爵 の 采 配 に よ っ て 、カ ト リ ッ ク 国 王 大 使︵ ス ペ イ ン 大 使 ︶ の身柄を荒墟から救出することを命じる。 [告示]カトリック王国︵スペイン ︶の大使閣下が自邸の瓦礫の下に埋 もれたことを、国王陛下は聞き及ばれ、荒墟から閣下を救出するためあらゆ ベレン王宮にて る方策を講ずるよう、余に指示された。大使閣下に天の加護が下されむこと を! 一七五五年十一月一日 セバスチャン・ジョゼフ・デ・カヴァルホ・エ・メロ ヨーロッパ列強の絶えざる角逐のなかで、ポルトガルにとって各国の大使や公 ① Cardoso, op.cit., pp.25-35. Francisco José Freire, Memorias das principaes providencias, que se deraõ no terremoto, que padeceo a Corte de Lisboa no anno de 1755, ordenadas, e offerecidas à Majestade Fidelissima de Elrey D. Joseph I. Nosso Senhor, Lisboa, 1758. p.43. - 12 - ① 使、なかでもスペインの使節はとくに丁重にすべき対象であった。ベレン離宮で ① ① 危機を脱した王室一家に、スペイン大使危うしの速報はいち早く届いた。ポルト ガルはこの強大な隣国に古来圧迫され、一五八〇年から一六四〇年まではフィリ ッポ二世の覇権のもとに併合されていた。また、ジョゼ一世の王妃マリアナはマ ド リ ッ ド の 宮 廷 か ら 嫁 ぎ 、ス ペ イ ン 国 王 フ ェ ル ナ ン ド 四 世 の 実 妹 で あ る と と も に 、 スペイ ン国王の 王妃バルバ ラもポル トガル国王 の実姉なのである。 やや 奇異 に思 われる緊急政策第一号には、スペイン王権への 格別 な配 慮が 感じられる。 教皇大使の公邸が当時どこに位置したかは、教皇庁への報告にも誌されてい ない。しかし、隘路の倒壊や火焔の接近との記述から推測すれば、前述のポルタ ル神父と同じく総大司教広場からシアード地区へ至る坂道、あるいか貿易商ブラ ドックのようにサン・パウロ教会一帯の密集地区とも思われる。 総大司教教会の破壊と総大司教の脱出についてもアシエウリの記録は綿密であ る。ペレイロ渓谷のオラトリオ会山荘へ避難したマヌエル・ダ・カマーラは、ポ ルトガ ル王権の 緊急政策に 参与し、 神父フィゲ イレドによる記録﹃ リス ボン の地 震・火 災に関する 報告﹄で は救援活動 の傑出し た功 労者 とし て讃えられる。しか し、総大司教は喘息など持病も悪化し、ときに教皇大使が代行を勤めたことも、 この報 告に よっ て判 る。 前記十一月十一日付報告とともにつぎの同月十八日付報告も、通信網の回復 によって十二月十一日法王庁に届いた。 このときの配達にはさらにふたつの断 片的な報告が含まれる。十一月十八日の日付を記されたいるが、叙述の仕方と内 容から六日︵木曜日︶以降の早い時期で綴られたであろう。 五、教皇大使アシエウリ、一七五五年十一月十八日付 教皇庁国務長官ゴンザガ宛報告 宰相カルヴァルホ︵ポンバル︶閣下と長時間協議できましたが、国王陛下 が水曜と日曜に奏上した私の提案や希望を聴取され、返礼のためサン・ベン ト緑地へ出向するよう閣下に命じられたとの由です。また、王都の惨状と地 震の被害に対処し、祈祷行事を開始する方策をも、陛下のご意向として私に 示 さ れ ま し た 。な お 、あ ら ゆ る 教 会 、修 道 院 、尼 僧 院 の 壊 滅 を 目 撃 し た 私 が 、 国王陛下へ率直な見解を述べてほしい、と付言されたのです。 道路に放置された遺体を埋葬し、飢えた民衆に食べものを配り、盗賊や罪 人に厳罰を下すという緊急政策が発せられることに、相談を受けた者として - 13 - 賛同しました。不便な緑地で木造りの粗末な小屋にいる私は、惨めにも宮殿 に遠く行き難いので、ベレンに近く、地震被害を免れた持家をせめて冬の間 借りうるよう、周旋人への王命で手配頂けないか、と宰相に懇請しました。 閣下はそれを約束され、お言葉どおりに昨日周旋人から、尽力したいとの 意向を頂き、本日この手紙を発送したあと、会うことになっています。 今日まで震動がたえず発生し、地震の恐怖はまだ続いています。火災もそ れに劣 らず被害 を拡げつつ 、八日間 続いて本日 終息しました。 極言 すれ ば、 私が住 む街角の建 物三つだ けを残して 、次々と 住宅 地を 燃え立たせ、さら地 では麦藁や牧草や紙屑を焼いて終息したのです。盗賊も大きな損害を与え、 数名は建物への放火を自供しました。今週九人か十人が判決を受け、いくつ かの広場に組まれた絞首台で処刑されました。盗み隠して船舶へ運んだらし く、総大司教教会で盗まれたさまざまな物品や多額の貨幣がイギリス船のな かで発見されたのです。 宮廷も仮設御所に移り、身分を問わずだれもが仮設小屋におります。処刑 が行わ れて以後 、掠奪は減 ったと聞 きますが、 いずこも開け放 しの まま で、 盗みを防 ぐのは困 難です。 王都の道路 にはいま も建 物の 残骸が積み重なり、 多くの遺体が埋れたままに相違ありません。したがって、家に戻ろうにも狭 い道が通れず、高台にある私の邸宅も石材や漆喰に覆われるため、執事の遺 体をまだ探索も埋葬もできません。家財を移動する人手も空間もなく、ただ 従僕たちが壊れた道具と破れた衣類を取り出しだけです。 緊急政策が宮廷から発せられましたが、このような混乱はほとんど鎮静し ません。医薬も医者も病院もないため、施療を得られず、多くの負傷者が息 絶えました。 王命によって治療を担当する医師も、壊疽の発病に直面し、 治すすべ がないの です。負傷 した三人 の従僕は 、私 とと もにサン・ベント緑 地の仮設小屋に収容され、病状はよくなりました。うちふたりは医師と医薬 のお陰で大事には至らず、重傷のひとりにも恢復の希望を寄せますが、確か ではありません。 ナ ポ リ 公 使 ゲ ヴ ァ ラ 卿 の 邸 宅 で は 、障 壁 と 家 財 が 多 く 破 壊 さ れ た の の の 、 ご地震と召使すべては無事でした。オランダ公使カルメット卿の邸宅では地 震の被害のみならず、類焼前に家財を運び出す余裕はなく、すべて焼失しま した。 フランス 大使バッシ イ伯爵は 難を免れ、 大使館の背後が 多少 崩れ なが ら、正面はそのままでした。イギリス全権大使は軽傷をされましたが、邸宅 - 14 - は堅固でした。プロシャ弁理公使については、王都の邸宅も緑野の美しい別 荘 も安 泰で した 。 首相 ペドロ・ ダ・モッタ 閣下の邸 宅も大破さ れ、 七十 余歳の閣下は救出さ れ、土蔵へ運ばれたももの、風邪の症状が悪化し、火曜日の午後逝去されま した。その埋葬に立ち会うとともに、同家に預けられた国事文書を確めるた め 、、 王 命 に よ っ て 宰 相 カ ル ヴ ァ ル ホ が 水 曜 日 に 終 日 多 々 尽 力 さ れ ま し た 。 閣下の 後継者に 関してはこ れまでの 経歴と活動 から聖職禄受領 者ア ンド ラド ・サラ ボディスが 噂されま すが、反対 派があり 、疑 問の 余地を感じます。私 にはよく判らず、風評のみを書きました。王国の状況が多少鎮静するのを期 待 し て お り ま す 。・ ・ ・ 昨日 王命によ って高等裁 判所が指 定の王都四 ヵ所 で再 開しました。他方個 人的な訴訟については当分中止されたままで、市街と住民の壊滅状態で新た な裁判官も任命できません。日曜日の朝印刷ではなく、手書きで総大司教の 布告がつぎのようになされました。すなわち、万難を排して改悛の祈祷行列 を行う こと、そ の際各地区 の首席司 祭は天蓋を 懸けてイエス十 字架 を担 うこ と、国王 陛下、王 子の三殿 下、市議会 の長老議 員が 旗竿 を掲げること、祈祷 行列には聖俗双方の聖職者、一般の人々が参加し、あとに続く跣足行列には 王 妃 陛 下 と す べ て の 王 女 殿 下 が 加 わ る こ と 、 ネ セ シ ダ ス 宮 殿 へ 到 着 し 、、 聖 フィリッペ・ネリに因むオラトリオ会サンタ・マリア教会では、聖遺物奉納 のあと最初に国王陛下が入場し、福音書に書かれたとおり天蓋のない椅子に 座り、王子三殿下も各々の椅子に就くこと、かくして前述の首席司祭が聖母 マリアに捧げる荘厳ミサを営み、それに導かれて全員が祈祷し、唱和するこ と。そ して、最 後に礼拝堂 音楽隊に よって聖母 マリアの連祷が 厳か に奏 せら れ、王妃 陛下と王 女諸殿下は 教会聖歌 隊ととも に合 唱さ れること。なお、こ のためベレンの宮廷で はす べて の四 輪馬車を待機させると聞きます。 ) 六、教皇大使、アシエウリ一七五五年十一月十八日︵? ︶付教皇庁 国 務 長 官 ゴ ン ザ ガ 宛 報 告 続( 崇敬する国務長官枢機卿猊下 先週は異常な動乱に遭遇し、神の加護により自宅の居室で奇蹟的に死を免 れた私は、地震の前日に発熱したまま、あらゆる家族と一緒に緑地の貧弱な - 15 - テント小屋におります。保持したすべての書類が瓦礫に埋もれ、自邸の執事 と腹心の第一秘書もいないため、不如意極まる有様です。破壊された拙宅の 寸前まで火の手は迫りました。テント小屋に普段着と傷ついた従僕三名だけ を擁して、貧民、病人、負傷した者、瀕死の人に囲まれながら、慈善を行う 場所も仕切りも得られないのです。教皇猊下が健やかにローマへ到着された と 承 り 、 以 上 要 点 を 報 告 し ま し た 。・ ・ ・ 敬具。 地震による邸宅瓦解の際に死亡した私の召使に関して、アゼヴェド神父か ら ご 配 慮 を 頂 き ま し た 。・ ・ ・ 長文 の報 告と なったことをお赦しください。 七、教皇大使アシエウリ一七五五年十一月十八日︵? ︶ ローマ教皇ベネディクト十四世宛報告 木曜日に宮廷へ参上し、今回の惨状についてカルバ卿と長時間協議を致 し ま し た 。・ ・ ・ 召 使 の ひ と り が 拙 宅 で 瓦 礫 に 埋 れ て 死 亡 し 、 彼 に つ い て ア Cardoso, op.cit., pp.35-43. - 16 - ゼヴェド神父からご配慮を頂きました。 教皇教下には私の不備をなにとぞお赦しください。いまこの国は震災に よって最悪の事態にあり、だれよりもまず国王陛下が困窮しておられます。 ふた りの貴顕 、法務官の ラタ伯爵 と**のテ ルサ 神父 は、恵み深い神の恩 寵によって私と同じく脱出されました。拙宅は全面的に破壊され、家具類も 瓦礫に埋れたままですが、ボロンハのオラトリオ会神父に導かれて、ラタ伯 爵とともにここへ身を寄せました。一緒にいるバルトルッチ神父は脚部を五 ヵ所負傷したものの、外科医によればさしたる危険はないよう です 。 私たち全員が窮状にあり、もっとも悲惨なポルトガル人として国王陛下は 多大の財宝を失われたとは言え、教皇教下の静謐をこうした報告が乱すこと の ない よう 祈り ます。 アシ ウエリが 辿り着いた 避難先、 サン・ベン ト・デ・ソーデの教 会と 修道 院は ① リベイ ラ王宮か ら東へ約一 ・五キロ 、アジュー ダの仮設御所へはさ らに 東約 五キ ① ロに位置する。五二九年イタリアで創設され、ヨーロッパ最大の修道会であった ベネディクト会も、イベリア半島への浸透はかなり遅く、トレント宗教会議の四 年後、一五六七年にポルトガルで初めて結成された。リスボン西の近郊、現在の エストレラ大寺院の敷地に最初の修道院、通称サン・ベント古修道院が設立され たので ある。一 五九七年修 道院長カ レスマ神父 の主導によって半キ ロほ ど離 れた 地点に 、ベネディ クト会の 本拠とすべ く、新た な修 道院 の造 営が開始された。こ の建物は一六一五年に完成してサン・ベント・デ・ソーデ修道院、またはサン・ ベント新修道院と呼ばれ、付設する施療院にはペスト等の患者も受け入れた。他 方古修道院では聖職者養成のコレジオが主体となる。さらに十七世紀の中頃イエ スズ会の建築師バルタザル・アルヴァレスによって新修道院の改修と増築がなさ れ、壮大な堂宇には豪華な礼拝堂、一対の塔、四つの鐘楼が築かれ、僧坊や食堂 や炊事場とともに、広い庭園も配された。 アシ エウリが身 を寄せた 二週間後、 サン・ベ ント ・ダ ・ソ ーデの教会は、壊滅 した総 大司教教会 の代替に 決定され、 聖務の再 開に 向け て慌 ただしい準備も始ま 翌十七日マルデ った。十一月十六日王命によってポルトガル陸軍の将校、建築技師カルロス・マ ルデルがここに派遣され、施設の改造を専門的に検討する。 Memorias das Principaes Providencias, 1758, Lisboa. pp.25-26. Cronologia Monasteiro S. Bento de Saude, vt.3513. online. 勅令を頂くや余は、ただちに総大司教猊下のご快諾を頂き、陸軍将校、カ [告示] す る。 職 者 ・ 宗 務 人 へ の 手 当 を 、︵ リ ス ボ ン 市 会 ︶ 教 会 財 産 管 理 機 構 の 財 源 で 補 填 をサン・ベント・ダ・ソーデにおいて再開 し、 施設 改造 の経費、ならびに聖 国王陛下のご裁断と総大司教猊下のご賛 同に よっ て、 総大司教教会の聖務 ︻勅令︼ 緊急政策第十項第三号 ル・ダ・カマーラはつぎのような勅令を受け取った。 ルはその報告書を提出し、同日避難先のオラトリオ会緑林学舎で総大司教マヌエ ② ① - 17 - ① ② ルロス・メルデル技官 の現 地調 査報 告を今朝国王陛下に提出した。総大司教 猊 下の 見解 と同 じく、メルデル技官も総大司教教会の聖務をサン・ベント・ ダ・ソーデとその殿閣において再開できると判断した。ただし、粛然と聖務 を 遂 行 す る に は 、施 設 の 改 造 が 必 要 で あ り 、調 査 報 告 を 踏 ま え て 国 王 陛 下 は 、 教 会 財 産 管 理 機 構 の 財 源 で 補 填 す る よ う 、リ ス ボ ン 市 会 へ 即 座 に 指 示 さ れ た 。 リスボンの地震と火災によって総大司教教会の聖職者と宗務人は、衣食の方 途をすべて喪失し、赤貧の状態にあるため、同じ財源で彼らを 支援 する こと も、国王は同時に命じられた。神よ、総大 司教 猊下 を守 護されむことを! 一七 五五年十一月十七日 セバスチャン・ジョゼフ・デ・カヴァルホ・エ・メロ リベ イラ王宮 とともに総 大司教教 会は壊滅し、 アルファマの旧大 聖堂 、サ ンタ ・マリ ア大寺院 も甚大な被 害を受け たため、か くしてサン・ベント ・ダ ・ソ ーデ の教会 と修道院は 、カトリ ック教権の 本拠とな った 。ま た、 総大司教教会に付設 する被災した古文書館と築 城学 舎も この 広壮な堂宇に移された。 八、 教皇 大使 アシエウリ、一七五五年十一月二五日付 教皇庁国務長官ゴンザガ宛報告 るベレン離宮の庭園では、他の緑地と同様に雨露を凌ぐのが困難です。王宮 の倉庫も炎上し、すべて焼失したため、王命によってアレンテージョ州の軍 事野営 地から、 大量のテン トを取り 寄せ、まず 巨大で適切な屋 舎を 建て ると ともに、 必要な場 所に多々配 分しまし た。宮廷 がベ ルン を離れるとも、木造 御所の築造が着手されるとも、いまのところ申せません。 方策のひとつと して宰相カルヴァルホ閣下とそのご家族は木造の仮設小屋を近くに建てら Dictionario da Historia de Lisboa, Lisboa, 1994. pp.788-793. Memorias das Principaes Providencias, pp.187-188. - 18 - ① 宮廷は引続き仮設御所で営まれています。このところ雨期に入り、常住す ② れ 、す く な く と も 当 面 宮 廷 が 地 域 は も と よ り 、場 所 も 変 更 せ ぬ よ う 説 得 さ れ 、 ① 国王陛下の仮設御所の近くに別の木造屋舎を増築する意向を示されたようで ② す。いまのところ確かなことはなにも判らず、宰相閣下の仮設小屋の付近で 整 地が 始ま った 事実から、推測するのみです。 すべてに事欠いたまま、私はサン・ベント修道院の緑地に居続けており ますが、仮設のテント小屋に家族、執事、秘書、召使が同居し、だれもがき わ め て 窮 屈 な 有 様 で す 。召 使 の な か に 負 傷 者 も い て 、長 期 の 治 療 を 要 し ま す 。 しかし、周囲の様相を申せば、到るところにテント小屋が林立し、同じ容態 の被災 者が数千 人も身を寄 せるので す。このよ うな紛乱の耐え るこ とは もは や不可 能であり、 大使の責 務として是 非ともほ かの 地へ 移動すること、被災 を免れたものの、住み手のない建物を探すことを決意しました。市街の大半 が炎上し、すべて壊滅したため、人口稠密な地域が無人の野に化しているか らです。 またベレンに行く途上、王宮の近くでナポリ駐在ポルトガル公使、ジョゼ ・シルヴァ閣下の邸宅が目に止まり、修理中のため貸家にされないとの噂を 聞いたので、公使の代理人に王命が発せられ、私が借りれるよう宰相カルヴ ァルホ 閣下にお 願いしまし た。閣下 は私の懇請 を諒解して、国 王陛 下に 上申 され、王 命で代理 人を呼び 寄せて、貸 家として 整備 する 旨命じられました。 こうして代理人は礼儀正しく私のもとを訪れ、喜んでご意向に添いたいと申 しました。そこで下見に赴いた私は、四室しか使えないので、いまのような 状況でなければ、住めないと悟りました。しかし、木造の建物か小屋を** 破壊された自分の邸宅と庭園を補うために、現在はそれが役立つはずです。 宮廷の近くに住みたいという私の希望をお認め頂きたいのは、重要で緊急な 事項について協議する便宜ととともに、各教区の信者を再度組織し、あちこ ちに離 散した修 道女を総大 司教区に 呼び戻す必 要、彼らを神へ の勤 行に 専念 させ、徐々に平素の生 活へ 復さ せる 必要を感じるためです。 こうした事柄について話し合い、率直な気持を伝えて別れました。国王陛 下からは、高邁なローマ教皇に丁重なお言葉を頂き、私の意向をも聴取され た こ と を に 感 謝 し て お り ま す 。︵ 幸 い に も ジ ョ ゼ ・ ダ ・ シ ル バ 閣 下 の 邸 宅 へ 寄 寓 す る こ と を 、 ナ ポ リ 駐 在 教 皇 大 使 に も 宜 し く お 伝 え く だ さ い 。︶︵ ペ ル ナ ン ブ コ か ら 来 た 六 艘 の 船 が ポ ル ト へ 迂 回 し ま し た 。︶ 荒 廃 し た 王 都 は い ま 極度の食糧不足に陥っています。 ほ か の 側 面 で も 荒 廃 と 惨 状 が 続 き 、日 々 刻 々 深 刻 で 憂 慮 す べ き 事 態 が 生 じ 、 宮廷でも街々でもいまや以前の面影が消えました。市街が壊滅し、四輪馬車 - 19 - では道が通れないため 、改 まっ た外 出の際には騎馬か籠を利用します。 い まもたえず 震動を感 じ、建造 物の障壁、 建物の片端や部分 が崩 れぬ 日は ありません。日々派生したり、進行している事態を系統的に整然と述べるこ と は 不 可 能 で す 。盗 賊 は 処 刑 の 実 施 と 本 来 の 取 締 り に よ っ て 以 前 よ り 減 少 し 、 国外へ逃げ出した者も多く拘束されました。 緊急政策第二 すべての魚介類が免税と定められる。また、迅速な指示と簡便な輸送で食糧 価格を変えることが禁じられた。なお、主要政策の細目として、王命により 同じ趣旨で特令が発せられ、日々の食物を民衆が得られるよう、震災前の ある。 市会議員 はこれら を公正に配 分し、困 窮者が糊 口を 凌げ るよう手配したので させ、 国外から 送られたり 、荒墟で 発見された 食糧を確保する こと であ る。 ず遅滞なく枢密院議長に命じられたのは、リスボンの市門に市会議員を常駐 ある。賢明で迅速な王命によって国王陛下は、仁愛と徳政を貫徹された。ま 幸運を祝する人々をも、かかる狂瀾と窮乏のなかで飢餓が待ち受けるからで という愛徳がただちに実践された。なぜなら、幾多の惨劇なかで死を免れ、 死せる者の埋葬を然るべき宗教的儀式で済ませたあと、生ける者への救援 飢餓 への 恐怖 の除去 を訳出するが、編者はこれら法令の要約に止まらず、発布の過程や執行の状況を 日までの勅令等二四に及ぶ。ここでは第二項目に添えれらた編者フレイレの解題 らの公文書は﹃緊急政策釈義﹄において第二項目として分類され、翌年一月二七 教皇大使が最初の報告を綴る時点では、王都全域がなお錯乱の極にあった。これ される。さらに三日と四日の勅令では盗賊の処罰と盗品の探索に重点が置かれ、 十一月二日には飢餓防止のため食糧の確保と治安回復のため軍隊の出動が要請 ① を調達し、散在する民衆のため手頃な販売所を設けるよう、国内各地に多数 Cardoso, op.cit., pp.43-46. - 20 - も簡潔に伝えている。 ① ① の騎士が派遣された。しかしながら、すべてを見張ることはできないため、 王国に跳梁する毒虫、独占的な業者の商法を、国王陛下が聞き及ばれ、邪悪 な商売という暴力で、民衆を呻吟させる以上、こうした事態は放置できず、 重罪として然るべき処罰を科する方策しかないとされた。 飢餓を防ぐだけでなく、食糧の急騰も押える旨、また今後満ち足りた生活 が維持できるよう、あり余る量を用意すべき旨、さらに多くの政策で指示さ れた。 国王陛下 の深厚なる 仁愛に応 えるには、 緊急政策に従う だけ では 足り ず、自 己の宝庫を 開け、飢 えた人を救 済すべき であ る。 陛下の慈愛と寛仁に 相 応 し く 、 大 量 か つ 多 様 な 支 援 物 資 を 潤 沢 に 配 分 す る よ う 指 示 さ れ た 。・ 多 くの人々へ確実に分配するよう命じられた。その数値は算定できないほどで ある。いかなる表現によっても、陛下の魂の偉大さを真に描出することはで きない。 つねに王家の徳業は統治における生ける法典であり、かくも尊い規範を臣 民はすぐさま見倣った。無産の貧者と自認しない人々は、身分に拘わらず邸 宅と倉 庫を開放 し、飢える 被災者に 宿と食糧を 提供した。また 、所 有者 では - 21 - なく、管 理人にす ぎぬ場合 も、必要性 が明確で あれ ば、 家財の貸与を行なっ た。 宗教団体の愛徳がとくに顕著であり、力能と徳操において傑出したことに 感謝し、彼らの功績をここに記録するい。われらが確かに知りえたところで は、貧民へ奉仕するため自己の衣食を節約するよう、各修道院に指示された のである。そして、かくも神聖な営みとして一定の食糧を節することに、だ れしも幸せを感じたと言う。結論的には原始キリスト教のよき時代が、いま また蘇 えった。 神の手から じかに頂 く優しい愛 徳、かくも寛厚 で熱 烈な 愛徳 はそこを源にすると思われる。 Memorias das Principaes Providencias, pp.6-8. 教皇庁総務長官ゴンザガ宛報告 九、教皇大使アシエウリ、一七五五年十二月二日付 ① 宮廷は依然ベレン緑地の仮設御所で営まれ、冬期を充分凌げるよう緑地に 木造の建物も造られました。日曜日に私は宮廷に行き、お元気な国王陛下と 王子諸殿下とお会いしました。王妃陛下と王女諸殿下はご不在でしたが、そ の朝礼拝に出向かれ、聖体を拝領されたとの由です。 王都 では大半の 緑地にテ ント小屋が 林立し、 そこ に跳 梁する盗賊になお厳 しい裁きが続けられ、彼らの多くは街路の清掃や非常時の労務という刑罰を 宣告さ れました 。彼らの自 供によれ ば、船舶や 地下に隠された 盗品 は、 百万 **に も達すると 算定され ます。すべ て盗品は 本来 の所 有者に返還されるは ずです。 地震と火災による死者の総数は四万人以上に及ぶとも推定され、国務長官 メンドンサも実際の数値に近く、誇張ではないと私に語りました。しかし、 おそらく住宅や教会の荒墟にあまたが埋もれたままで、なお堀り起せず、地 震発生の当日脱出した多数が死者とみなされたようにも思います。 掠奪を根絶するため、王命によって数日来大勢の兵士によって王都全域に 非常線 が張られ 、職務、技 能、作業 のため往来 する人々を規制 し、 仕事 を失 った沢山 の流浪者 や物乞い 逮捕しまし た。しか し、 減少 はしたものの、王都 各地区やこのあたりの 緑地 でも 掠奪 の発生が連日絶えません。 他方国王陛下の要望によって、イタリア施療院のカプチーヌ会士、イタリ ア 人 ク レ メ ン テ ・ ニ ザ 神 父 が 、晩 餐 の あ と 八 日 間 仮 設 御 所 の 脇 で ミ サ を 行 い 、 陛下をはじめ王室ご一同は御所の出口で、またあらゆる身分の廷臣がその外 **ポルトガル語がすこ でこれに列しました。この神父はポルトガル語で説教して、参列者を傾聴さ せます。私も日曜日に参加して、正規の修道院長 しは判るので、慎重かつ熱烈な説教と感じました。 しかし、修道会の会士にせよ、在俗の司祭にせよ、恣意的で錯乱した多く の聖職者が軽率な行動を続け、脅しと偽りを説教するのに、耐え難い思いで す。なぜなら、国王陛下は親書で総大司教枢機卿猊下に忌諱の念を伝えられ た、と宰相閣下は私に語られ、事態を重視してどうすべきかと密かに問われ るのです。総大司教猊下におかれても恣意的で無分別な布教を禁止されたと 承ります。福音書の記述に反する事柄を教えれば、素朴な民衆の恐怖を募ら せるとして、数人の聖職者がお咎めを受け、説教を禁じられたようです。こ う し て 臆 病 な 娘 や 無 知 な 者 を 真 理 に 導 く 慎 重 な 布 教 が 奨 励 さ れ ま し た 。・ ・ - 22 - ・ 宮 廷 も 王 都 も な お 混 乱 と 恐 怖 に 包 ま れ 、 さ き に 述 べ た と お り 、・ ・ ・ 教 皇 大 使 の 通 信 に は 治 安 の 悪 化 と 王 権 に よ る 検 察 が な お 記 述 さ れ る が 、十 二 月 九日付報告でとくに注目されるのは、信教上の深刻な問題が初めて 言及 され たこ とである。震災を神意による懲罰と信じ、赦免 と恩 寵を 願う 狂熱的な説教や祈祷 は、すでに本稿で再三提示 した とお り、 多くの在留イギリス人により伝えられて いる。 また 、オ ラト リオ会の神父マヌエル・ポルタルの震災記録には、地震発生 の直後から街角や広場で、避難民に悔悟と贖罪を促す同志の聖職者数名が描かれ ている。 しかし、ポルトガル王権が警戒したのは、イエスズ会の修道士、とくにガブリ エル・マラグリダの説教である。一六八九年北イタリアで生れたマラグリダは、 二二歳の時ジェノヴァでイエスズ会修練所に入門した。一七二一年 彼は ブラ ジル へ伝道師として派遣され、やがて旺盛な布教と 烈々 たる 弁論 で著名となる。十八 世紀前半ポルトガルではジ ョア ン五 世の もとで絶対王政が最盛期を迎え、ローマ 教皇か らリ スボ ンへ の総大司教座を裁可された。国王が脳溢血で倒れ、信仰に沈 潜した一七四九年十二月、ブラジルでの布教支援を請願するため、ポルトガルを 訪れた。かねてイエスズ会を庇護するジョアン五世は、伝道への資金調達を約束 するとともに、なお数ヵ月リベイラ王宮で祈祷と説教を営むよう懇請する。こう して宮廷挙げての歓待と信望を受けて、マラグリダは最晩年の国王に慰藉と安堵 を与え、翌年の七月三一日その臨終に際して終油の儀式を主宰した 。 礼拝堂で大勢の告解者に応 対す るさ なか 、大地震に襲われた。ポール・デュリ著 ﹃ガブ リエ ル・ マラ グリダ伝﹄は語る。 礼拝 堂で 聖務 を開始して二時間ほどのち、地面が唸り、揺れ始めた。つい 窿から割 き ゆう りゆう Cardoso, op.cit., pp.47-49. で 不 意 に 衝 撃 が 襲 い 、即 座 に 教 会 の 障 壁 が 轟 音 を 発 し て 倒 壊 し 、穹 Paul Mury, Histoire de Gabriel Malagrida de a compagnie de Jésus, Paris, T. D. Kendrick, The Lisbon Eearthquake, New York, 1755. pp.136-139. 1865.pp.1, 11, 161, 169-170. ① - 23 - ① 一七五四年からふたたびリスボンに滞在したマラグリダは、翌年 の十 一月 一日 ① ① れ た 石 材 が 礼 拝 堂 に 溢 れ る 信 者 た ち 直 撃 し た 。堂 内 は 阿 鼻 叫 喚 の 極 み で あ る 。 こ の惨 劇を 見て マラグリダは、落涙して天を仰ぎ、往古のダヴィッドの如く 叫んだ。 ﹁ 主 よ 、覚 悟 は で き て お り ま す ! 」わ が 身 の 危 険 も 顧 み ず 、十 字 架 を 手にして彼は、瓦礫のなかへ突進して、手脚の負傷者を救出し、息絶えつつ ある者のため、臨終の祈りを捧げたのである。 以 後 連 日 寝 食 を 忘 れ て マ ラ グ リ ダ は 、救 済 活 動 を 続 け る と と も に 、頼 り 来 る 民 衆 に説教 を重 ねた 。熱 烈な彼の教えによれば、地震発生の原因は、人間の背徳に対 する神の怒りであり、頽廃したリスボンに劫罰が下されたのである。一年後に公 刊された小冊子、マラグリダ著﹃リスボン地震の真なる事由に関する所信﹄にこ 忠 誠 な る 公 民 が 祖 国 に 大 い な る 貢 献 を 果 す た め に は 、悲 痛 な 破 滅 と 惨 劇 を 、 悪辣で危険な魔手が王国で企てるのを暴露すべきである。同胞 への 博愛 と鬱 積する苦悩を抱きつつ、私は悲しくも直視 せざ るを えな い。かくも華麗で豊 饒な宮廷が、敬虔で篤 実な 国王 陛下 の晴朗かつ平安な治世、四海の殷富な宮 廷 から も羨 望の 的であった治世から、忌諱すべき事由によって堕落の渕に沈 んでいる。また、公益の蹂躙をかならず阻止し、かっての栄光と安寧を蘇生 させる希望と方策が見出せると、幻想に捉われている。 リ ス ボ ン よ 、凝 視 す る が よ い ! か く も 多 く の 建 物 と 宮 殿 の 壊 滅 、か く も 多 くの寺院や修道院の崩壊、かくも多くの住民の死亡、かくも多くの財宝の焼 失を凝視するがよい。堅固なこの地をかく衝撃と錯乱に陥れた のは 、彗 星や 星雲、蒸気や油煙、雨露や寒暖ではなく、 ひと えに 我ら の非道な罪過にほか ならぬ。 この重罪は予言者イザヤに語られたエジプトの罪過にあたる。かって世界 一の殷富な王国が悲惨の渕に落されたように、ヨーロッパの女王と評される 宮 廷 が 、 見 る だ に 醜 悪 な 遺 骸 に 変 じ た の で あ る 。︿ 重 荷 が 身 を 苦 し め る よ う Mury, op. cit., pp.208-210. - 24 - ① うした説教の大要が纏められ、冒頭にはつぎのような檄文が掲げられた。 ① に 、 不 正 が わ れ ら の 頭 部 を 苛 め る 。﹀︵﹃ イ ザ ヤ 書 ﹄ 第 九 十 章 ︶ マラグリダの教法はリスボンの栄華と驕慢を諫めるだけでなく、ポルトガル王 権を神意にも公益にも背くとし、ジョゼ一世と宰相ポンバルの逆鱗に触れるもの であっ た。自身 が崇敬と厚 遇を受け たジュアン 五世の統治を暗に讃 美し つつ 、堕 落した 宮廷に神の 劫罰が下 されたと叫 ぶのであ る。 こう した 相克はやがて凄絶な 葛藤となって、一七五八年後マラグリダは異端審問のすえ火刑に処せられ、イエ スズ会全体が国外追放を命じられる。しかし、ジョゼ一世の逝去とポンバルの台 頭によって逆風に立つマラグリダにも、宮廷でもなお王族の一部にはなお信頼が 篤く、アヴェイロ公爵やタヴォーラ公爵などポンバル反対派の支持もあった。 イエスズ会を擁護したとの理由で教皇大使アシエウリも同年国外へ追放される が、ここに提示した十二月二日付書簡では、むしろポンバル寄りに警世的な説教 には批 判的であ る。イエス ズ会のコ レジオに修 学した彼であるが、 王権 の動 向を 二 〇一 四年 七月十四日 見定め、震災への対応はきわめて慎重に感じら れる 。 初出 Gabriel Malagrida, O Juizo da Verdadeira Causs da Terremoto que pareceo - 25 - ② a Corte de Lisboa, no primeiro de Novembro de 1755, Lisboa, 1755. pp.3-4. ②
© Copyright 2024 ExpyDoc