黒猫の星駐在日記 - タテ書き小説ネット

黒猫の星駐在日記
今西薫
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
黒猫の星駐在日記
︻Nコード︼
N8737CD
︻作者名︼
今西薫
︻あらすじ︼
多分遠い未来の、地球から随分と離れた、通称﹁黒猫の星﹂の駐
在員の日記です。
大きな山も、小さな谷もまったくありません。
語り手の名前や、年齢や、近所の人たちの名前などは、そのうち出
てくると思います。多分。
1
樹の月の最初の落ち葉の日
樹の月の最初の落ち葉の日
久々の晴れ間が気持ちいい。
ようやく慣れてきた職場で、新たな研究を始めて十日ほどが経つ。
駐在員である私に、よくこんな好き勝手をさせてくれることと思
う。
概して、こちらの人たちは心が広い。この星の駐在員となった人
間が、ここに残ろうとする気持ちはよく判る。
今日は、となりに住む青年がやってきた。
青年と呼ぶのには実は年齢が少し高い。が、どこか頼りなく、そ
こが若く見える。⋮⋮とはいえ、私よりは年上だ。
彼は、病を得てから働かずに家に居る。もう二年になるという。
働かなければいけないけれど、と口癖のように何度も言いながら、
彼の代わりに働く奥様のことや、自分のことを語った。数年後には
いなくなる私にだからこそ、話し易いのだろう。
誰にも言わないで欲しい、とも、繰り返し繰り返し言った。
実は、前の職場から、もう一度働かないかと誘われているのだと
いう。
彼の病は、心の病だ。その、前の職場が原因なのだ。だから、奥
様が許しはしないだろう、と彼は言うのだ。
そして、彼は戻りたいのだと言う。
奥様に言えば良い、と言ってみた。反対はされるだろう。だが、
直接話し合った方が良いと思ったのだ。
彼は苦笑した。私が何も判っていないと思ったのだろう。
もちろん、私には判らない。彼が心を患っていなくても、他者の
心が完全に理解できるわけはない。
だが、だからこそ、私は思ったことを口にしてみるのだ。
2
ひとしきり話したあと、彼は何か満足したのだろう、椅子から立
ち上がった。
また来るよと言い置いて、立ち去る姿は、来た時よりも少し足取
りが軽いように思えたのは、私がそう思いたいからだろうか。
彼と出会って三月が立つ。家の中にいてばかりではいけないと思
って、と散歩をするようにし始めたらしい。ふらりとやってきた彼
は、どこか近寄りがたい雰囲気をまとい、ポツリポツリと語って立
ち去って行った。そんなことが何度か繰り返され、その度に少しず
つ、雰囲気が柔らかくなっていったように思う。
彼は、まだスッキリしない、とも言う。以前のようではない、と。
自分自身が同じような体験をしたことがあるわけでもなく、多く
のそういった病のことを知るわけでもないので、なんとも言えない
が、病にならずとも人の心は日々変化していくのだから、まったく
以前と同じということはないのではないかと、私は思う。物事の感
じ方や見え方は、心の在りようで随分と変わるものだ。彼の言う、
自信を失った状態が、以前のような自信を取り戻して、同じような
心持ちになるのだろうか。
折れた心は、折れた記憶を失うことはない。その折れた記憶が、
刺さったトゲのようにいつまでもあって、ちくちくと刺激を続ける
のだ。痛みを感じなくなっても、ちくちくとした痛みを感じたとい
う記憶は残る。私たちは、その記憶をかかえたまま、いつかそのこ
とを思い出さなくなるまで、ただ待つしかないのだろう。
近頃になって、彼は以前の趣味を再開しているようだった。
理由を問えば、何かしたほうが良いと思って、と言う。
無理をしなくても良いのにと、私は思う。奥様は、それなりに楽
しそうに働いている。彼を養う気満々なのだ。ならば、焦らずに、
自ら気持ちが湧きおこるまで待ってみても良いと思う。
︱︱かと言って、やる気を削ぐようなことを言えるわけもなく、
そこは頷いて聞くだけにとどめたのだが。
3
そんなことがあった以外は、特に大きな問題もなく、一日が終わ
った。
⋮⋮と思っていたら、南の街で捕れたという大きな貝を貰った。
まだ生きているそれの調理に一時間ほどかかり、夕飯の時間が大
幅に遅れた。だが、バターで炒めたそれは、酒によく合い、大変美
味であった。満足満足。
4
樹の月の最初の本の日
樹の月の最初の本の日
今日も副所長はどこか疲れた様子で机についていた。課長はいつ
ものように難しい顔をしていたが、事務処理メインの日らしく、小
時間姿を消す程度でずっと机についていた。ハヌー・デアもファク・
マタオもいつもの如く忙しそうにバタバタしていて、私は未だ放置
されている状態を維持している。
私の、この星の駐在所の所長という肩書は、本当にお飾りなんだ
な、と思う。
だいたい、前任者と任期が重なることがないというのは、所長の
職務として期待されてないということの現れなんだと思う。前任者
と私が着任するまでの約一か月間、駐在所の四人は、所長不在もな
んのその、普通に過ごしていたという。要するに、所長などいなく
てもなんとかなるような組織なのだ。
思い返せば、着任したその日にハヌー・デアから言われたのは、
当面は彼の補佐をすることと、開いた時間は、副所長と課長から依
頼されたことをして欲しい、ということだ。確かにどういった仕事
をするのか判らないのだし、そうやって仕事を覚えて行くんだなと
納得したものだ。
だが、あれから状況は変わっていない。副所長は会合が多いらし
く滅多に所内におらず、いても疲れた顔をしている。課長も会合が
多いようだが、それ以外でも何やら用事が多いらしくほとんど所内
にはいない。とにかく忙しいのは、ハヌー・デアとファク・マタオ
だ。この二人の日課の仕事をいくつか引き受けているが、忙しい彼
らがこなすには時間のかかる作業でも、それくらいしか仕事を持っ
ていない私がするのには大した量のない作業で、要するに暇なのだ。
もちろん、副所長と課長からもいくつか仕事を貰ってはいるが、
なんだかんだで出勤して一時間ほどで、だいたいの仕事は終わる。
5
あとは、駐在所内を掃除したり、駐在所の外回りを掃除したり、片
付けたり、花を植えたりしている。
それから、所内で扱っているデータの整理もボチボチ始めていて、
これが目下のメインの研究だ。前任者はそれほどコンピュータに明
るくなかったらしく、あるがままのデータをそのまま使っていたよ
うだ。だが、この星ではそれで良くても、次の所長を任じられた者
が、旧式すぎてデータを扱えなくなっては問題が発生するのだ。丁
度良いので、同じソフトの上位バージョンを請求しつつ古いデータ
の形式の変更も行っている。⋮⋮まあ、これも任期中にすれば良い
ことなのでそんなに急がなくても良いのだが。
要するに、暇なのだ。
まわりは、なにやら忙しいのに、その忙しさを肩代わりすること
もかなわない。もちろん私も声をかけたのだ。だが、教える時間も
惜しいとばかりに、大丈夫ですからという笑顔でスルーされる。仕
方ないので、様子を見て、自分でできそうなことを提案してみるが、
却下される。そんなことを繰り返しての三か月︵黒猫の星時間で!︶
、私もいい加減学習した。
⋮⋮要するに、暇で良いのだ。
この星の駐在員の任期は、長くて五年、短ければ二年ほどだ。だ
が、この駐在所で働く彼らに、任期というものはない。所長となる
ものは、この星の問題やこの星での駐在所の在り方などは、事前に
勉強していても、駐在所での実際の仕事の経験者が赴任するわけで
もない。むしろ、何も知らない新人が送り込まれることが多い。こ
の駐在員という仕事がどういった種類に属するものなのかはよくわ
からないけど、若者よりもむしろ定年間際の中年などが希望を出す
ことが多いときくから、出世への近道とかじゃなさそうだ。⋮⋮と
いうか、むしろ遠回りなんじゃないのかなぁ⋮
まあ、とにかく自分のできることをやろう。なんて、ほぼ毎日そ
う言い聞かせてるんだけど。
そういえば、今日は、エミヤ・イムトは来なかったな。良いこと
6
だと思う。
7
樹の月の真ん中の本の日
樹の月の真ん中の本の日
いろいろとデータの作り直しが進む今日この頃⋮。基本的に、近
い未来に必ず使用するデータを優先的にいじることにしてたのだけ
ど、手を付けておいたほうが良いと思われる、日々使用しているフ
ァイルがあり、副所長に相談。⋮⋮これが、結構大変なことに。
データ化されてはいたけれど、ただのワープロソフト的に使用さ
れていたそのファイルに、いくつか数式を入れたいと言ったところ、
副所長が、ここにも、あそこにも、と言い出す。それが結構大変で。
一ファイルが一か月で作られ、さらに一日分が一ページに分けて
あるため、一か所変更すると、各ページにそれを反映させないとい
けないのだ。
そして、要望を聞いて変更して、確認に持って行くと、ここも⋮
と出てくる。一度に言ってくれたら、作業がもう少し楽なんだけど
も。と途中で何度ため息をついたか。
副所長は、小難しい操作方法は判らないらしいのだけど、理屈は
判るという、ちょっと迷惑なタイプで、できそうなことの予測がつ
く分、断り辛いところを突いてくるのだ。
最後には半ば以上ヤケになって引き受けましたとも!
結局は、使用途中のファイルに手を入れて使い勝手も見てもらう
ところまでで就業時間は終わり。
来月分は、了承を貰ってから進めないと、何度もやり直しになり
そうなので、残りの作業は休み明けで充分だろう。⋮⋮ってことに
しておこう。うん。
そろそろ、初期に準備していたファイルを使用しなければならな
い時期がくるので、それにあわせてコンピュータの入れ替えも準備
せねば。最新のオペレーション・システムに入れ替えて、必要ファ
8
イルを移動させるとなると、業務を止めなくてはならないのが問題。
休日に出勤して作業をして休日を振替えるか、ちょっと検討中。
さて、明日と明後日は休み。この間果物屋のおばさんが梅酒の作
り方を教えてくれると言っていたので、お邪魔する予定。梅酒だな
んて、地球でも作らなかったのにな。どうやら商店街の店先の梅酒
グッズの数々に影響されたもよう。でもちょっと楽しみ。
9
樹の月の真ん中の雪の日
樹の月の真ん中の雪の日
果物屋のおばさんにいろいろ教えてもらいながら一瓶作り、おば
さんが去年漬けたという梅酒と梅サワーもいただいた。梅サワーは
暑い時季に飲むとサッパリする、とのこと。楽しみだ。
来週には完熟の梅も出始めるというので、梅ジャムもいただける
とのこと。ヨーグルトやパンにとても合うという話だし、お味噌に
混ぜてカンタン梅味噌も良いとのこと。ここは日本じゃないかって
いう錯覚を覚える。着ているものは、どちらかというと中世ヨーロ
ッパとかそっち方向なだけ、頭の中が混乱してくる。
果物屋の店先に並ぶ果物は、だが、どちらかというと小ぶりなも
のが多いし、種類も少ない。この地に根付いた果物の種類がそう多
くないということなのかもしれない。
瓶が重いので一旦帰宅して家に置いて、街一番の大きな公園へ向
かう。年末、黒猫の月の最後の黒猫の日に、年迎えの祭りを行う公
園でもあると、聞いている。ぜひ参加したい。
夏へ向かう⋮というか、すでに夏という空気と空を感じながら、
公園のベンチで、お弁当を食べる。お弁当は、公園へ行く途中に買
ったサンドイッチだ。なかなか美味しかったので、また買おう。
そしてスケッチをした。写真や映像は、いろんなものが地球へ送
られている。動植物のサンプルも数多く送られている。この星の研
究機関よりも、地球の資料は多種多様なものになっているかもしれ
ない。駐在所長の仕事は、サンプル採取と、民俗文化などの調査だ
が、このスケッチがなんの役に立つのかが私自身理解できていない。
生物学の専門的な知識もなければ、民俗風習についても詳しくない。
資料写真・資料映像などはいくらでも撮れるが、過去撮影された写
真や映像より目新しいものがそうそうあるわけでもない。流行がめ
10
まぐるしく変わり、数年前と今年ではまったく違う、というような
ことはほとんどないからだ。だが、私はスケッチの能力が買われて
駐在員に選ばれたらしい。とはいえ、自分自身、どこが評価された
のかが理解できないので、カメラを持参した。一つは静止画用、一
つは動画用。計二つ持っていった。片方は、スケッチの合間や書き
始める前に、一つは、スケッチの間じゅう、動かしておくため。
ほんとに、スケッチ必要なのかな⋮とか思うけど、これは業務命
令なので、疑問を差し挟む余地はない。
目についた祭壇っぽいものや、人々の歩く姿や風景を心行くまで
スケッチして、夕方に帰宅。
夕飯は、白いご飯に、魚の煮つけ、お味噌汁と、菜っぱのおひた
し。本当にここは日本じゃないのかってくらい、立派な日本食。果
物屋のおばちゃんが梅味噌なんて言うから、和食が食べたくて仕方
なくて、つい作ってしまった。
11
樹の月の最後の白猫の日
樹の月の最後の白猫の日
今日はびっくりした。
いやもう、すっごくびっくりした。驚いた。私の赴任中に、こん
なことがあるだなんて、まったく思ってもいなかった。
こんなことってあるんだねえ⋮。
この星が再度発見されて五十年ほど経つのだけど、もういろんな
ものが発見しつくされているんだと思ってた。思ってたのに、開拓
期時代の資料が出てきてたらしい。
仕事に出て見たらハター・デアの姿が見えなくて。副所長に聞い
たら、一昨日休日出勤となったので、代休とのことで。確かに忙し
そうにしていたのは気付いてたのだけど、休日に出て働くほどとは
思ってなくてさらに確認したら、どっかの家から開拓時代らしき資
料が出てきて、とりあえず発掘作業をしてたらしい。なんでも、持
ち主はとっとと片付けて、家の改装をしたいらしくて、昨日中に片
付かなかったら全部捨てるとか言ってて。その連絡が入ったのが、
真ん中の本の日の夕方近くで、で、ハター・デアとファク・マタオ
が最低限の確認をしながらとにかくありったけを倉庫に運びこんで
いたらしい。翌日の午前中でその作業は終わったのだけど、時代特
定が難しくて、真ん中の雪の日いっぱいかかっても作業は終わらな
かったようだけども。
副所長に聞いてその倉庫に見に行くと、段ボール箱十個分のその
中身は、薄いノートに手書きされていたもので、どうやら日記のよ
うだった。その中を見て納得。書かれていた文字は英語だ。
副所長の話を聞いた時から変だと思っていたんだよね。この星の
公用語は、かなり崩れた日本語で、出てきた資料が日本語なら読め
るハズだから、時代特定は難しくないと思ってたんだ。段ボール十
12
箱分は多いけど、現代黒猫の星語との区別はわりと簡単につくから。
適当に箱を開けて、一冊取り出してぱらぱらとめくって読んでみ
ると、やはり日記で、開拓時代のもので間違いない。そのまま持っ
て事務所に帰って副所長に伝えると、明日ハター・デアが出てきた
ら解析についての相談をして欲しいと言われた。望むところだ。と、
こっそり握りこぶしを作っちゃったよ。
明日からが楽しみだな。
13
樹の月の最後の氷の日
樹の月の最期の氷の日
せっかくの仕事だったのに! せっかくのせっかくの、待ちに待
ってた仕事だったのに!
ハヌー・デアと相談して、英語が読めない彼の代わりに翻訳を、
コンピュータのヴァージョンアップとデータ整理と並行して行うこ
とになったのに!
なんでこんな日に限って、エミヤ・イムトがやってくるかなあ⋮
⋮!
しかも、事務所には私一人で、彼を躊躇させる人もいない。⋮⋮
もっとも、誰がいようとも、彼が気にして帰ることはないのだけど。
百冊を超えるノート︵地球から持ち込んだと思われる英語の書籍
も含まれてて、段ボールの数の割に、資料本となるのは少なかった︶
に適当にナンバリングして、すべて複写するためのリストを作って
⋮と作業を開始したところで現れたエミヤ・イムト。どうやら、新
たな展開があって、それを誰かに話したかったらしい。
結局彼は、元の職場に戻ることにしたとのこと。戻ると言っても、
元の仕事ではなく、リハビリを兼ねた簡単な仕事をまずは始めて、
様子を見ながら徐々に仕事量を増やしていくという方向のようだ。
どこか浮かれ気味の彼は、よほどそれが嬉しかったとみえた。が、
不安もあるという。
彼の調子が悪くなったのは、部署の配置転換が原因だそうだ。配
置転換の理由は、詳しくは聞かなかったけど、その前の職場に戻り
たくはないらしい。どうやら、それなりに複雑な事情もあるようだ。
彼は、自信を失っていること、いろいろ辛かったことを、何度も
語る。まるで秘密話を打ち明けるように語る。私は、ただそれを聞
く。時折、無責任な言葉でわるいけどと断って意見も言う。それで
14
良いのか悪いのかは判らないけど、彼的には嫌なことではないよう
だ。それだけが救いだ。
今は自信がまったくない、と彼は言うけど、それはつまり、自信
を失ったことが原因だと告白されているのかもしれない。それを告
白されたところで、私にはどうすることもできないけれど。
なんだかんだで、エミヤ・イムトが帰って行ったのは、夕方近く
で、そろそろ就業時間の終わり頃だった。そこから、作業を再開し、
とりあえず、リストのたたき台を作ったところでタイムアップ。時
間内にハヌー・デアが帰って来なかったので、、報告は明日で良い
と判断して、私も帰宅。
帰宅してから、本社へ報告。いつか、こんな日が来るとは思って
いたから、もちろんマニュアルもある。むしろ、こんなことが起こ
るのが、こんなに遅くなるほうが想定外だったともいえる。
入社当初、この星についての注意点のレクチャーを受けた時、驚
いたことの一つ。⋮⋮どうして、英語ほか、他言語が存在しないの
か。どうして、日本語だけがこの星にはあるのか。
記録によれば、二百年ほどの間、この星は他の星の干渉を受けて
いない。その間に、なにがしかのことが起こったのだろうとは考え
られているが、とにかく、他言語がない。だから、私たちは、他言
語の取り扱いについては、慎重になる。でも、そのことはまだ、こ
の出張所の人たちにさえ、報せていない。今後は、変わってくるん
だろうな。ちょっと責任重大、かも⋮。
15
樹の月の最後の大地の日
樹の月の最後の大地の日
とりあえず、素読みをするところから始めることにした。読んで
みないことには資料的価値がどれほどのものか判らないし、一度目
を通しておいたほうが、本格的に翻訳するのに良いと思ったからだ。
英語については、私がたまたま勉強していて知っていた、という
ことになっている。
ハヌー・デアがそれを信じてくれたかは判らない。でも、追求し
てこないのをいいことに、気付かないフリをしている。一応、マニ
ュアル通り。変な言い訳はしない、という方針。
システムの入れ替えとファイルのバージョンアップについては、
副所長の許可を得て、近いうちに休日を使ってすることに。アプリ
ケーションのバージョンアップをしても、ファイルは使える筈なの
で、後回しで問題ない。毎日少しずつしていこうと思っている。
ハヌー・デアとファク・マタオは、今回出てきた資料の持ち主に、
由来を聞いてきた。といっても、曽祖父の持ち物だった、というこ
とくらいしか判らなかったらしい。家は、この星ならではの石造り。
地震も少ないこの地で、何代も暮らしてきたという家で、おそらく
入植したその頃から住んでいる人だと思われる、とのこと。お願い
してアルバムもお借りして、コピーの許可もとってある。
ちらりと見たが、人種不明な感じは、今も昔も変わらないといっ
たところか。
地球側に残された資料によれば、入植者の人種はバラエティ豊か
だ。丁度よく混ざり合ったと考えれば納得のいく容姿ともいえる。
⋮⋮だからなおさら、日本語しか残らなかったというのが謎なのだ
が。
まあ、真相は、案外たいしたことではないのかもしれないな。そ
16
んなふうにも思うけど。
ところで、今日は、ハヌー・デアの苛ついた声を聴いた。忙しそ
うにしてはいるが、基本的に人当りが良くおだやかな人なので、珍
しいなと思いながら聞き耳を立ててしまう。といっても、初めての
ことではない。電話で話している時に一度聞いたこともあるし、今
日みたいに、ファク・マタオに注意している時にも一度聞いたこと
はある。
今回の内容は、指示したことと違うことをファク・マタオがした
ことが原因のようだ。しかも、ただ単に違うことをしたからではな
く、どうも、ファク・マタオがハヌー・デアの指示を勘違いしたか
らと思われる。そして、勘違いしたまま、ハヌー・デアの指示通り
にした、と返答した、と。ハヌー・デア的には自分の言った記憶の
ないことなのに自分のせいにしたと感じているだろうし、ファク・
マタオ的には、その勘違い部分に気付かなければ、指示通りしたの
に、とワケわからないことを言われていると感じているだろう。
二人とも、私と話す時にはすごく察しが良くて、頭の回転が速い
と思わせるのに、どうしてなんだろうね。
実作業が判らない状態で、勝手に原因を推測している私が口を挟
んでいいとは思えなくて、ファイルの操作をしながら、聞き耳を立
ててたら、ハヌー・デアが無理矢理意識を切り替えて別の作業の指
示をしていた。不満そうな、でも少し泣きそうな顔をしているファ
ク・マタオも、意識を切り替えようと頑張っているのが判る。
がんばれ。
心の中だけで応援して、オヤツの時間に、秘蔵のチョコレート缶
をテーブルに出しておいたら、帰る頃には全部なくなってて、思わ
ず笑ってしまった。
みんな、甘い物が好きなんだから。
17
星の月の最初の星の日
星の月の最初の星の日
黒猫が目の前を横切ると悪いことがあるって、どこの国の話だっ
け⋮⋮。
と、今日は何度思ったか。
と言っても、この星には黒猫しかいないのだけど。
すごく不思議なことに、この星には黒猫しかいない。一説では、
だから﹁黒猫の星﹂と名前がついたとか。
不思議に思った再度この星が発見された当初の調査員が、三毛、
白、トラなどの別の毛色の猫を連れて入り、放したらしい。今考え
ると、すごい暴挙だ。この後、この星の環境を壊さないような規則
ができたらしいけど、おそらく猫問題が発端だったんだろうと思う。
で、その猫たちはこの星の黒猫たちと交配し、当然子猫が産まれ
たけれど、全部が黒猫だったとのこと。
このあたりのことは詳しくはないのだけど、当時の資料を読む限
り、黒猫と他の毛色を交配しても、真っ黒にはならないのだそう。
特に、三毛、白など、白い色が入っている場合、口回りや、足先に
白い色が出たりする。もちろん、それが小さすぎて判りにくいこと
もあるらしいけれど、生まれた子猫すべてが真っ黒というのはほと
んどないらしい。
なによりも不思議なのは︵と、資料に書いてあった︶、二代目以
降に黒以外の色が出ないことなのだそう。猫を持ち込んだ調査員は、
五代目くらいまで、生まれた猫の子を追いかけて調査していたそう
だ。そのうち、黒と別色の子猫同士で交配した猫もいて、その猫た
ちの間の子猫たちも、黒以外はいなかったということだ。資料の著
者によれば、黒と別色の間の子同士の交配の場合、二五パーセント
くらいの割合で黒以外の色が出るらしい。四頭生まれたらうち一頭
18
が黒以外といったところだ。確実、というわけではないらしいけど。
でもって、もう一つ。この黒猫の星の猫たちは、すべて毛が短く、
少し小型になる。猫を持ち込んだ調査員は、長毛種をとたくらんだ
らしいのだけど、それは阻止されたとのこと。資料に少し触れてあ
ったのは、過去の入植時にも猫が数種持ち込まれていたらしい。そ
の際には長毛種もいたという記述があったらしい。というか、私も
見た。
そんなわけで︵どんなワケだよ︶、この星には黒猫しかいない。
だから、黒猫を不吉だなんて言っていたら、猫を可愛がることな
んてできやしない。
とはいえ、目の前を十数匹の黒猫が横切っていったら、何かある
んじゃないかとか、思ってしまう。
昼休憩にちょっと散歩に出かけた帰りに出会ったから、事務所に
戻ってから、ハヌー・デアに言ってみたら、猫集会に行ったんでし
ょう、と軽く言われてしまった。冗談を言われたのかと、驚いて見
つめていたら、よくあることだ、と。気になるなら今度はついて行
ったらどうですか、面白いですよ、とにっこり微笑まれた。どうや
ら本気らしい。
確かに、猫は集会するものらしいけれど、あんなふうに列をなし
て移動するもんなんだろうか⋮。
でも、ここは黒猫の星。そういうことがあっても不思議ではない。
19
星の月の真ん中の鳥の日
星の月の真ん中の鳥の日
エミヤ・イムトが、大分明るく笑えるようになった、と思う。
本人は、もう以前の職場でバリバリ働きたいらしい。
でも、私はもう少しのんびりしてもいいんじゃないかな、と思う。
私がもっと人生経験が豊富なら、もっと適切な言葉を伝えられた
かもしれないけど、哀しいかなまだ二十六歳の若造で。思っている
ことを伝えることで、今良い方向へ向かっているのに、反対に向か
ったらどうしようとか、いろいろ考えてしまう。
エミヤ・イムトは、当時の自分をまだ引きずっているように思う。
いろいろうまくいかなかったこと、冷たくされたこと、まだ心に
抱えている。
簡単には手放せないことは当然だしアタリマエだと思う。
でも、今の気持ちのまま以前の職場に戻っても、同じことを繰り
返すんじゃないのかな。
今はいい。みんなが気を使って、距離を保ってくれている。でも、
仕事となれば、いつまでも甘えは許されないだろう。距離を置いて
見ているだけの人と、気を使って声をかけてくれる人も、そういう
わけにはいかなくなる。自分は病気だと、言うわけにはいかない状
況がどこかでくるんじゃないのかな。
あ、違う。今のエミヤ・イムトは、自分はまだ病気なんだと、そ
れをイイワケにしそうに見えるんだ。
病気なら病気なりに、やれることをやる。それならば、その姿が
伝われば周りの人も理解してくれる。でも、まだいろんなことを認
めきれていない彼は、結局そういうことが原因で、また具合が悪く
なりそうに見えるんだ。
まだゆっくりしていなさいと、職場の人は言ってくれているらし
20
い。それならば、もう少し今の状況に甘えさせてもらって、一番辛
かった時期の自分の気持ちや、理不尽に思っていたことを受け止め
られるようになってからでも遅くないと思うんだよね。
何も知らない人は、エミヤ・イムトのことを甘えているって言う
のかもしれない。強くなれとか言うのかもしれない。でも、そうじ
ゃないよね。どうしたって、上手くいかないことってあるよねって
思うんだ。
趣味のこととか、楽しいこととか、話す内容も随分変わってきた。
話し方も随分変わってきた。
きっと、もうすぐだよ。声には出さなかったけど、そう思って見
送った。
21
星の月の真ん中の星の日
星の月の真ん中の星の日
英語の日記は、そんなに面白くない。
毎日のちょっとしたことを箇条書きでメモのように書かれている
だけで、文章としても面白くない。というか、英語そのものの文章
が下手だ。
勝手な想像だけど、この日記の書き手の使用言語は、英語以外な
んじゃないのかな。
ファク・マタオはちょっと大きな失敗をした。
なんか危ないな、とは思ってたんだ。先走っているというか、頑
張りすぎている、というか。その結果の失敗というか、失敗の反動
が大きかったというか、ちょっと雰囲気が暗い。話しかければ、普
通に返答をしてくるが、どこか無理をしている。
彼の気持ちは判るんだ。
仕事の面白さが判ってきて、仕事の全体がなんとなく見えてくる
と、自分に出来ることはなんでもやろうって思ってしまう。ちょっ
との無理はなんとかしてしまう。他人が信用できなくなってしまう。
その結果、抱え込み過ぎてしまう。
無理が無理を呼んで、にっちもさっちもいかなくなってしまう。
でも、無理をしてでもやらないと、って思ってしまう。
同じような失敗を、私もこの星に来る前にしたから、ちょっとは
判る。
でも、こういうのは、失敗しないと判らないこともあると思うん
だ。自分が失敗したからそう思うのかもしれないけど。
一人で仕事をしているんじゃないんだよ。一人が頑張ったって、
なんにも変らないんだよ。
22
そんなことに気付けたらいいよね。
23
星の月の最後の白猫の日
星の月の最後の白猫の日
ファク・マタオは、半年ほど黒猫の星の自治体の役所へ戻ること
になった。もともと、この駐在事務所員は、いわゆる国家公務員で、
自治体職員が派遣されている。副所長、課長、平二人の計四人でギ
リギリ回せるほどの仕事量で、つまり、一人減るということは、さ
らに忙しくなる、ということだ。
どうやら、その半年の間は、私に働け、ということらしい。
それはいいんだけど、タイミングが悪いと思うんだ。
ファク・マタオとハヌー・デアの間は微妙にギクシャクしていて、
ファク・マタオがよけいなことを考えてたらどうしようとか、私の
ほうがよけいなことを考えてしまう。
今回戻るのは、この事務所での仕事範囲を広げるための研修のよ
うなもので、仕方ないことというか、そのほうがファク・マタオの
ためになるんだけど、頭では納得してても、気持ちがついていかな
いんじゃないのかな。
そんなふうに思うのは、やりきれないふうにため息をつく彼が、
なんとなく冗談に紛らわそうとしているところが、痛々しく感じる
からか。
本庁舎はそんなに離れた場所ではないので、またちょくちょく顔
を出します、とか言っているけど、無理に笑わなくていいよ、と思
う。
とはいえ、言葉にして伝えることはなんとなく憚られて、おみや
げよろしくね、と返事をした。
そろそろ実家からの定期便が届く頃。そうしたらまたチョコレー
トを分けてあげよう。
24
星の月の最後の雪の日
星の月の最後の雪の日
飼うつもりはなかったのに、黒猫が一匹住みつきました。
というか、朝起きたら布団の上で当たり前の顔をして寝ていまし
た。
多分、窓が少し開いていたせい。⋮⋮開けたまま寝た記憶はない
のだけど、夜開けた記憶はあるから、閉めた記憶が間違いなのだと
思う。
黒猫は、私が目を覚ましてもぞもぞすると、ごろごろと喉を鳴ら
しはじめた。
驚いて音の発生源を探すと、私の左側に、丸くなって寝ていて。
思わず思考停止して体の動きを止めてしまった私に気付いてか、
まぶたを開き、金色の瞳を光らせて、にゃあ、と鳴いた。
その後、どんなに追い出そうとしても出て行かず、だからと言っ
て食べ物を与えて居座られても困るので、途方に暮れてそのまま抱
っこして出勤。
今まで餌を与えたこともなければ、撫でたことも、話しかけたこ
ともない猫だと力説すると、副所長は私の肩に手を置いて、もう飼
うしかないね、なんて言い出した。副所長だけでなく、課長も、ハ
ヌー・デアも、しみじみと頷いている。
わけが判らず訊いてみると、この星では、猫が飼い主を選ぶのら
しい。
⋮⋮初耳だ。
そんなわけで、猫が一匹住みつきました。わざわざ書かなくても
黒猫です。だって、黒猫しかいないんだもん。
名前は、まだ考え中。
25
風の月の最初の鳥の日
風の月の最初の鳥の日
従姉が飼っていた犬が死んだと、連絡が入った。
もう高齢で、元気でいたとしてもおそらく四∼五年のものだった
と思う。四、五年は随分長いほうで、年齢からいえば、すぐでも来
年でも、年だからと納得されるような年だ。
でも、従姉は、その犬をそれはそれは可愛がっていた。可愛がる
というより、深い愛情をもって接していたと言ったほうが良いのか
もしれない。
二人の間には明らかに絆があったし、それは見ていて羨ましいほ
どのもので、私も犬を飼いたいと思わせるほどのものだった。
ただ従姉は彼を育てるのに信念をもっていたし、それは彼のため
だけに考えられたことではあっても、多くの人の共感を得、その結
果彼が多くの人々から可愛がられていたことを考えると、並大抵の
ことではなくて。いずれ別の星へと旅立つつもりの私には犬に向け
られるだけの時間もなくて、諦めたのだけれど。
心配なのは、従姉のことだ。
彼は彼女にとって二頭目の犬で、一頭目の犬を失った時は、本当
にどうしようかと伯母夫婦と母がオロオロしていたのを覚えている。
もし、すでに彼を飼っていなかったら、どうなっていたか判らない
と思ったものだ。
そして、ここ数年の心配は、三頭目を迎えないのか、ということ
だった。
あの時、彼がいなかったら、彼の世話をしなければならないとい
うことがなければ、従姉はどうしていただろうか。
今、彼女はなにを思っているだろうか。
彼がどう息をひきとったのかは判らない。きっと詳しい話はおい
26
おいやってくるのだろう。でも、どんな理由であっても、従姉はき
っと自分を責めるのだろう。
どうか。
どうか、彼女が哀しみを乗り越えられますように。
27
風の月の最初の雨の日
風の月の最初の雨の日
この星の電気は、地熱と風力と川と海による水力、そして太陽光
による発電によって作られている。台所など火を使う場合は、天然
ガスを使用。石油や石炭などはまったくとれないが、長く放置され
たこの星は、他の星からそれらを輸入することもせずに、少ない資
源を有効活用するように発展してきた。らしい。
街を走る車は、電気と空気の力で動いているらしい。
電池を作ったり、発電に関わる施設や設備を作ったりの技術は、
入植した当初の技術者たちが引き継いできたとして、それらを作る
ための資源はどう確保したのだろう。私が知る限り、この星に大し
た資源はない。もしあれば、何十年も見捨てられたりはしなかった
はずだ。
今日は休日で、石畳の道をてくてく歩いて散歩をしていた。雨の
日のせいか、雨が降っていたけれど、なぜか優しくて、傘をさした
まま歩いてしまう。
梅ジャムをくれた果物屋の横の道を入り、一本奥の道へ迷い込む。
大通りと比べて細い道だけれど、時折小型の車が通っていく。音が
静かだから、気をつけないといけない。邪魔にならないように道の
端を歩きながら、自動車のタイヤを見た。
天然のゴムの木は、育てられるかもしれない。基本的に気温の低
いこの星では、熱帯の植物を育てるには、それなりの施設が必要だ
が、地熱を利用すればなんとかなるだろう。が、タイヤなどのゴム
は天然ゴムだけでできているわけではない。
気になることはたくさんあった。
黒猫のこと、資源のこと、資源を加工する技術のこと、使用言語
のこと。その他、多数。
28
でも、この星が再発見されてから、何人もの調査員が入って調査
しているけれど、謎はほとんど解けていない。
ラジオもテレビもインターネットもないが、本や新聞はありそれ
らを作る印刷屋もあるし紙も作っている。電話もある。ガスレンジ
はあるが電子レンジはない。街の舗装は石畳みで、アスファルトは
ない。自動車はあるが馬車はない。牛や羊はいても、馬はいないの
だ。
元々広大な海と広大な森林とわずかな平地のみの星だったのだ。
棲息していた生物は、魚類と鳥類のみ。それらが知的生命体でない
こと、その他に知的生命体がいないことを調査した後の入植。その
数年後に、有益な鉱物資源、石油資源その他が無いことが報告され
ている。
その星だけで完結させるには、資源が足りな過ぎるのだ。だが、
五十年前に発見された時、この星の文化水準はそんなに落ちてはい
なかった。
そんなことを考えながら、ふと喉の渇きを覚えて小さなカフェに
入った。
店の外の道の上に、小さなメニューボード。黒板とチョーク。ド
アを開けて入ると鐘がカランと鳴って、六脚ほどのスツールと、四
人がけの小さなテーブルが二つほどの、小さな店。と思ったら、半
分のスペースには雑貨と観葉植物が陣取っていた。よく見るとそれ
ぞれに値札がついていた。
思わず立ち止まっていたら店主が声をかけてきたので、メニュー
にあったコーヒーと、ついでにパンケーキを注文して、雑貨が見や
すいように四人掛けのテーブル席についた。
雑貨は、古い家具や食器、古本など。観葉植物は、小さいのから
大きいものまで。あまり見た記憶のあるものはない。この星固有の
植物だろうか。
しばらくしてかぐわしい香りととともにパンケーキがやってきた。
シンプルな二枚重ねで、中央にバターが載っていて、何かのシロッ
29
プがかけられている。
雑貨と観葉植物のことを聞いてみると、もともと家具職人から頼
まれて家具を置いていたのだという。そのうち、古い家具を引き受
けて売るようになり、どんどん増えていったという。結果、客の入
れるスペースが随分減ったが、売り上げはそんなに変わらないから
気にしていないと笑っていた。
礼を言って食べると、パンケーキにかかっていたシロップはメイ
プルシロップに似た味がした。コーヒーも種類は判らないがなかな
か美味しい。会計時に聞くと、店主はメイプルシロップだと言って
いた。詳しくは知らないが、街の北西部のほうで作られているとの
こと。今度調べてみよう。
コーヒーは、街の南部のほうに、地熱を利用した農園があるとの
こと。これは報告書の通り。
一つ一つ、調べてメモをしていこう。
それから、あのカフェにはまた行こう。
30
風の月の真ん中の本の日
風の月の真ん中の本の日
哀しいことに、あの日記はただの練習帳だったということが判っ
た。と同時に、有益かもしれない情報も得られた。そんなに時間に
追われていないことをいいことに、少しずつ読んでいたら、書き出
しから丁度一年経ったあたりに、少しは英語が上達しただろうか、
といった文章が入っていた。日記の著者は、英語の勉強の途中で、
黒猫の星に移住したらしい。そして、このままではせっかく覚えた
英語を忘れてしまうと、日記のみは英語で書き始めたらしい。
⋮⋮このままではせっかく覚えた英語を忘れてしまう。
つまり、英語を使うような状況がなかったからだ。
まだ、何かあるかもしれないから、最後までは読むけれど、ちょ
っと拍子抜けした感じがする。
こちらに来て、地球時間で五か月ほどが経つ。最初の三か月ほど
はゆっくり観光気分でなんとなく見渡していた。それから、二か月
ほどは、疑問に思ったことをちょっとずつ注視するようにしていた。
⋮⋮いま一番の疑問は、過去の駐在員が、私でもわかるような理
由を、一つも本社に伝えていないか、ということ。それが判らなく
て、私も、何も伝えられないままいる。
明日は、あのカフェに行こう。そして、古い家具の間に隠すよう
に置かれていた小さな犬の置物を買おう。彼女が大切にしていたあ
の犬にそっくりな置物を。そんなそっくりなものを贈って良いのか
ずっと迷っていたけれど、あの犬の置物は、彼女の傍にあるのが良
いように思えたから。
31
風の月の最後の雨の日
風の月の最後の雨の日
今日は休日。
これも不思議なこと。黒猫の星では、一週間は七日ではない。な
ので、土曜日日曜日が休日、というわけではない。一週間が十三日
あるので、最後の二日間と、間の一日を休日にあてている。ひと月
も三十日前後ではないし、一年も十二か月ではない。大抵の星では、
地球での曜日や月を採用している。とはいえ、自転周期・公転周期
は星によって違うから、日数などを多少足したり引いたりして、地
球時間とそう変わらないように工夫している。⋮⋮結果、一年が公
転周期と合わない星が多いのだが、そこはそれと割り切っていると
ころも多い。この星の一年は、地球の一年の約一・五倍の長さで、
しかも、月に数字を当てておらず、日にちにも数字を当てていない。
十数年間、他の星からの干渉を受けていないだけで、そんなふうに
なるものだろうか。
そういえば、エミヤ・イムトは、なかなか苦労しているようだ。
まだいろんなことが怖いらしい。というか、少し辛い気持ちが戻
ってきたらしい。
昨日、休み前ということで久々に来ていろいろ話していったのだ。
その中で、今まであやふやだった言い方が少し具体的になった部
分があった。
自信を持てなくなったその理由。どういった部分を自分自身でダ
メだと思ったのかを。
何か心境の変化でもあったのだろうか。それを言った時の顔は、
少しだけ力強いものになっていたように感じた。
きっと、これからも良くなったり悪くなったりを繰り返していく
32
んだろうなと、思う。
本人には言わないけれど、がんばれ、と思う。
きっと少しずつ、少しずつ強くなっていけると思うから。 33
本の月の真ん中の雪の日︵前書き︶
すみません︵汗︶
サブタイトルを間違えていたので、直しました。
﹁風の月の真ん中の本の日﹂↓﹁本の月の真ん中の雪の日﹂
です。
︵※この前書きはしばらくしたら削除します︶
34
本の月の真ん中の雪の日
本の月の真ん中の雪の日
今日も銀次郎は私の膝をベッドにして眠っている。黒い身体をく
るりと丸め、縞々の猫ならちょっとアンモナイトっぽい姿だ。銀次
郎は約三キロ。小柄だが、引き締まった体のまだ若い雄猫だ。朝晩
のご飯の用意と、彼が望んだ時の暖房器具になるのが、私の役目ら
しい。
彼の背中をそっと撫でながら溜息をつく。
エミヤ・イムトは同じ会社に戻っても、同じ職には戻れてないら
しい。週に一度くらい、夕方にやってきて愚痴っていく。
それを聞きたくないというのではなくて、なんていうか、きっと
そんなところが問題なんだろうなって、そんなふうに感じるのが、
どう言ったらいいのか。
本人は、逃げた、と言う。
最初私は、それも一つの選択だと思ったから聞き流していた。け
ど、でも、一つ逃げて、そこからずるずる逃げて、逃げて。
逃げたと思っている本人の主観が入っている話を聞いているから、
そう感じているのかも、とも思う。でも、彼は本当に逃げたんだろ
う。
でも、でも。
問題はきっとそこじゃない。
彼の、受け身の姿勢が問題なんだと思う。
会社に入りたての若造ならともかく、十年以上も社会人として働
いている人間が、いつまでたっても、仕事を教えてもらえない、な
んて違うだろう、って思う。ましてや、まったくの他業種ではなく、
同じ会社内の他部署への配置転換だ。仕事内容がまったく想像もつ
かないということもない部署へだ。
判らないなら判らないなりの訊き方があると思う。頭働かせろよ
35
と、思う。
⋮⋮言わないけど。
これからどうしたらいいのかな、って思う。
当然の話で、私にはカウンセリングの資格なんかはないし、こう
いう場合にどうしたら良いかも判らない。ただ単に、話を聞いてて
勝手に何が悪いのかとか考えてしまうだけだ。
彼は、私がそうやって彼の話を聞いて、くだらないツッコミを入
れて、時に笑って、それだけでいいと言う。私にはそれしかできな
いし、話を聞くことはキライではないし、嫌な作業でもない。
でも、どうにかしたいと思っちゃうのは仕方ない、って言いたい。
この先、彼が仕事を辞めるにしろ、続けて働くにしろ、少しでも
良い選択ができるように、背中を押してあげたいと思っちゃうのは、
仕方ないじゃない。
思うのは仕方ない、けど⋮⋮
あくまでもニュートラルに、それが必要なことなんだろうなって、
結局はそういう結論に達してしまう。
私には、そういう、ただ話を聞くっていうのは向いてないのかも
しれないな⋮
36
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n8737cd/
黒猫の星駐在日記
2014年10月27日03時16分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
37