アーメダバードの風

アーメダバードの風
林 美佐(ギャルリー・タイセイ学芸員)
ルイス・カーンはアーメダバードからの帰途に客死し、ル・コルビュジエの従兄弟であり、協働者
であったピエール・ジャンヌレもインドで罹った病気がもとで死亡した。それほどに、生活環境、様
式が異なり、厳しい気候、風土のインドで仕事をするということは文字通り、命がけのことであったが、
インドには彼らをとらえて離さないだけの魅力があったのである。
状況が違うとはいえ、一度も現地に足を踏み入れることなかった、ラ・プラタ(アルゼンチン)でのク
ルチェット邸に対し、ル・コルビュジエは1951 年から 1961 年の間に、繰り返しインドを訪れている。
チャンディガールでの都市計画を任されて、初めてインドの地を踏んだのは、インド独立からわず
か 4 年後のことだった。その後何度も訪問する中で、現地の記録を残したスケッチブックの数は、
ル・コルビュジエ財団が確認しているだけでも 37 冊に達している。
スケッチブックの中では、インドの寺院のスケッチや、たたずむ人々の姿、インド人が使用する簡
易ベッドなどのほか、鳥や水牛、ラクダなどの動物が描かれている。現在でも、私たちがインドを訪
れると、我が物顔に道を歩く水牛の姿に驚くが、ちょうど 50 年前にインドの地を訪れたル・コルビュ
ジエも、ヨーロッパの街では目にすることのできない、混沌とした街の姿に強い印象を受けたことだ
ろう。
ル・コルビュジエとカーンのもとで仕事をし、現在でも活躍している建築家バルクリシュナ・ドーシ
氏は二人の性格の違いを思い出として語っている。それによると、カーンはインドに居ても、いつも
火を通した魚と茹でたジャガイモだけを食べていたが、ル・コルビュジエは現地の生活を取り入れ
て、どんな食事も試してみたり、面白いものを買い求めたりしていたという。こういうエピソードからも、
ル・コルビュジエが好奇心旺盛な人間で、インドを楽しみ、その空気を吸収しようとしていた様子が
窺える。
インドの建築は、広いインド亜大陸の多様な地域性、時代、宗教によって培われたさまざまな様
式のバリエーションをもっているが、それらが現在まで実に見事に混在している。その中ではル・コ
ルビュジエの建築言語に類似したものもいくつか目にすることができる。
インドの伝統建築のさまざまな建築言語の中からいくつか挙げて、それに対応すると思われるル・
コルビュジエの建築言語を探し出してみたい。括弧内がル・コルビュジエによるものである。
日除け―強い陽射しを避けるための日除けの工夫がみられる。ジャーリーとよばれる石の格子スク
リーンは、非常に美しい影を屋内に落とす。(→ブリーズ・ソレイユ、パン・ド・ヴェール・オンデュラト
ワール)
一段上がったテラス―ジャイサルメルなどのハヴェリーと呼ばれる木造の豪華な邸宅などでは、テ
ラスがグラウンドレベルから一段上げられている。(→ピロティ)
丸い天井―イスラム教寺院のヴォールト天井、ドーム天井や、ジャイナ教寺院に見られる持ち出し
構造のアーチなど、天井を平坦にしない仕上げが寺院では多く見られる。(→ヴォールト天井)
チャゥトリ―寺院や宮殿などにはチャトゥリ、グンパド、パビリオンなどとよばれる「あずまや」がよく設
けられる。チャトゥリとはサンスクリット語で「傘」を意味するように、それらは傘を差しているような趣き
の小亭である。(→傘状の屋根)
屋上庭園―ファテープル・シクリでは屋上に贅沢な庭園が造られた。他にも謁見台のような高楼が
あちこちに建てられている。(→屋上庭園)
水の表現の工夫―階段井戸、人造湖、水路など、水が貴重なインドにおいては、水のための設備
が工夫された。さらに水辺は、聖なるガンジス川(ガンガー)のガートで沐浴を行うように、神聖な場
所と考えられた。アーメダバード近郊には有名な大規模階段井戸があるが、井戸があんなにも美し
く彫刻されているのも、そのためである。(→プール、屋上の水盤、池)
こうしたインド建築に見られる特徴の数々を見てみると、それらがル・コルビュジエの建築言語と驚
くほど類似していることに気付かされる。
では、アーメダバードでのル・コルビュジエの4作品の建築表現を検討してみよう。
まず、アーメダバードという街は 15 世紀のアーマド・シャーの建設にさかのぼる、西インドの大都
市であり、20 世紀の初頭には「東のマンチェスター」と呼ばれるほど、繊維関係の産業がさかんに
なった街である。これらの産業は地元の上流階級の有力者たちが取り仕切っていたが、ル・コルビ
ュジエに仕事を依頼した地元の有力者たちは、いずれもジャイナ教の信者である。ジャイナ教は紀
元前 5∼6 世紀に完成した宗教で、非殺生、非暴力を根本教義とするため、殆どの信者が商業に
従事した結果、非常に豊かであり、寺院や教育施設を寄進するなど、信者の数に比べて立派な建
築物をつくっている。
繊維業者会館―この建物は、地元の有力者たちのプライベートなクラブ兼オフィスとして利用す
る目的で建てられた。象の鼻のように伸びた長いスロープと深く斜めに切れ込んだブリーズ・ソレイ
ユがファサードを特徴づけて、この軒の深さがつくりだす陰影の濃いファサードは、インドの彫りの
深い建築になじんでいる。内部には天井も壁面も曲面で仕上げた会議室を抱えこみ、階高が各階
ごとに違うなど、自由な平面プランと自由な立面の構成となっていて、ちょうど、ドミノ・スタイルの骨
格にブリーズ・ソレイユの鎧を纏わせたような構造になっている。南北は窓をもたない壁とし、東西
を全くフリーにすることで、サバルマティ川からの風が心地よく吹き抜けていく。その代わり、雨の日
にはまんべんなく降りこんでくる。彼はこのように、半屋外空間という、インド独特の様式を取り入れ
ている。閉じていないにもかかわらず、一つの量塊として自立し、外部からの進入を拒んでいるよう
な強ささえ感じる。外からは閉じているように見えて、中からは外に開かれているというのは、繊維
業協会に属する上流階級の人々そのものを暗示しているかのようである。そして、こうした上流階級
の人々が催す夜のパーティーのために、屋上にはバーが設けられている。
サンスカル・ケンドラ美術館―渦巻き状に無制限に拡大していく美術館のプランも、1920 年代末
に考えられて以来、繰り返し彼のプランの中に登場するが、実現したのはアーメダバード、チャンデ
ィガール、東京の3館だけである。そして、最初につくられたのがアーメダバードのサンスカル・ケン
ドラ美術館である。ただ、当初から、無限拡大はしないことが分かっていたため、中庭を囲んでの完
結した美術館の形をとっている。ピロティで持ち上げられているにもかかわらず、煉瓦で覆われた
壁面が、とてもずっしりと重たい印象を与える。来館者はピロティをくぐり、中庭からスロープで上階
に進み、そこから内部に入る。中庭の池の形がいかにもル・コルビュジエらしく、ぐにゃりとした曲線
で形づくられている。また、屋上にも水盤がいくつも設けられていて、そこでは水耕栽培で花や果
物が育てられるはずであった。屋上庭園は苛酷な気候からコンクリートを守るためであった。
念願だった渦巻きタイプの美術館を実現しただけでなく、シトロアンとモノルという二つのタイプ
の住宅を同じ土地において実現することができたという点でも、アーメダバードはル・コルビュジエ
にとって重要な街である。これらの実現は 1920 年代初頭からの願望であった。力強い幾何学的構
成のコンクリートの箱型タイプで上に伸びていくことを想定したシトロアン型を、ル・コルビュジエは
「男性的」であるといい、ヴォールト天井をもち、横にどんどん拡がっていくモノル型を、「女性的」と
呼んでいた。そのためか、男性が施主のショーダン邸はシトロアン型を、女性が施主のサラバイ邸
はモノル型を採用している。これら完成度の高い美しい住宅は、ともに広大な緑の楽園の中に作ら
れた。
サラバイ邸―ヴォールト天井が連続し、赤茶色の煉瓦と床の黒い石の対比が美しい。また、各部
分を仕切る壁が青、黄色、赤、緑、白に塗られ、アクセントとなっている。風が流れ、深い庇が広い
テラスを作っているので、日中でもそれほど強烈な陽射しは差込まず、眩しいということはない。緑
の庭園の中にひっそりとたたずみ、屋上庭園までもが緑に埋もれている感じがする。庭に造られた
プールとそこに導かれる滑り台がアクセントとなり、サラバイ夫人と息子の住空間を区切っている。こ
の滑り台はインドの天文観測所(ジャンタル・マンタル)の形態を連想させる。床に貼られた黒い石
はマドラス産出のスレートで、「地味な黒色」とル・コルビュジエは言っているが、光によってはまるで
水に濡れているかのような艶をもち、涼しげな印象を与える。
ショーダン邸―シトロアン住宅の典型であり、チュニジアのカルタゴに作られたベゾー邸の第一
案(1928 年)がこの住宅建築の原案になっている。もともとはハーティシング氏からの依頼で設計し
たものだが、途中で施主がショーダン氏に変わり、建設場所も変更になり、あわせてプランも多少
変化した。それでも十分に贅沢なスケールの大きい住宅であり、家の中に巨大なスロープがあり、
独立したメゾネットの部屋が3つもあつなど、平面も立面も非常に複雑になっている。豪快なコンクリ
ートの塊でありながら、1 階以外の階にはあちこちに開口部があり、完全な閉じた箱にはなっていな
い。そのえぐり取ったかのような造形は、エローラのカイラーサ寺院のような石彫寺院を思いおこさ
せる。さらに特徴的なのは、建物を覆う巨大な傘状の屋根(しかも、その屋根には丸い穴が開いて
いる!)である。このように、ショーダン邸にも半屋外空間が設けられている。そして、床はサラバイ
邸と同様の黒い石、原色に塗られた壁面、「ロンシャンの教会」を彷彿とさせる漏斗状のカラフルな
窓など、色彩による空間演出がなされている。
これらのように、ル・コルビュジエはインドの伝統様式を自分の建築に引き寄せ、グジャラートの気
候、風土に合わせて、自分の建築言語を見事にアレンジしていると言ってよいだろう。さらに、半屋
外空間、中庭、列柱のあるホールなどは、彼がインドの作品で初めて試みたものであり、明らかにイ
ンドの伝統的な建築様式を意識して取り入れたものである。
ドーシ氏はル・コルビュジエに「君はアクロポリスに行く必要はない。君は我々が建築に捜し求め
るものを、すべて持っている」と言われたという。それほど、ル・コルビュジエはインドの建築物に強
い共鳴を受けたのだと思われる。そして、彼は、建築を豊かにするものとして自分が作り出した建築
言語が、インドの人々がその気候、風土にあわせて長い年月をかけて生み出した民族の智恵とで
も言うものと共通することに気付いた時、彼は自分の考えてきたことが、何千年も続く人類の営みに
裏付けられたように感じたのではないだろうか。
また、彼は、インドの代表的な伝統建築の中からだけでなく、インドの街やアノニマスな建物など
からインスピレーションを得て、作品を手がけたと思われる。
たとえば、床に黒い石を敷き詰めた工夫などに見ることができる。それは、黒い床で光を吸収する
ことで、反射の眩しさをなくし、涼しく、落ち着いた雰囲気をつくり出している。こうした選択は彼がイ
ンドの豊かな暗さを感得したことと無縁ではないだろう。
マルセイユのユニテの中廊下などを見ると、彼は 1920 年代のような均質な明るさから脱して、明
暗による演出を試みているのが分かる。実現できなかったサント・ボームの洞窟寺院をはじめ、同じ
時期に手がけていた作品、ロンシャンの教会、ラ・トゥーレットの修道院などは、宗教建築であるが
ゆえに、住宅などに比べて、劇的な空間演出をとくに強く意識し、暗い空間に太陽光をスポットライ
トのように降り注がせる、暗いところから扉一枚でいきなり明るい空間に転換するというように、彼は
光と影の効果を最大限に生かして、神の顕現とでも言う神聖な空間を成功させている。こうした暗さ
が引き出す明るさの演出は、インドの街で体験した、闇の効果によって光を強調する工夫などから
想を得たのかもしれない。
また、彼のざらざらとしたコンクリートの味わいもインドの建築にこそそぐわしい。彼はマルセイユの
ユニテにおいて、既に粗く質の悪いコンクリートを使っている。これは彼自身が望んだものではなか
ったようだが、ラ・トゥーレットの修道院ではさらに粗く、小石で表面を覆ったようなコンクリートの壁
面がある。機械のようなツルツルとした仕上げに見えることにこだわった 1920 年代から、自然素材
を前面に押し出し始めた 1930 年代。そして、インドを体験したからの作品になると、コンクリートにさ
えも自然素材の石や煉瓦などと同じような、ざらざらした手触りやぬくもりを表現するようになってい
る。
そして、4 作品のいずれも水の効果なしには成立しえなかった。川岸に建つ繊維業会館以外は
人工的に敷地内に水の場を作っているが、ル・コルビュジエの後期作品にみられる象徴的な水の
演出はインドでの体験を抜きにはありえなかったことだろう。水は機能的、合理的な目的のために
用いられただけでなく、人との距離を作り出し、建物を映し空間を作る。2住宅で、庭の池がなけれ
ば、建築はそのヴォリュームの半分を失ってしまうし、美術館では、中庭が単なるだだっ広い空き地
になってしまったことだろう。彼はインドで水がもつ意味、水が担う役割を理解した上で、建築空間
の造形要素として、非常に巧く活用している。このアーメダバード、デャンディガールでの経験を通
して、さまざまなディテールが「海」を思わせるロンシャンはより深みを増したと言ってよいだろう。ナ
ントのユニテは敷地内の池をまたぐ配置にすることで水を建築空間に取り入れ、最晩年のル・コル
ビュジエ・センターでも建物の前面に池を配している。
そして、彼のなかでは何かが変わったようである。
街の中を水牛が闊歩し、庭には孔雀が羽根を広げ、猿が走り回る。そして、街路に人がそのまま
横たわっている。そんな、あらゆるものが共存しているという様子はショッキングであり、ヨーロッパか
ら訪れた者にとっては受け入れがたかったかもしれない。そして、何千年も前から変わらない建築
作品や人々の暮らしと、国家が独立し、全く新しく変わっていく部分が、これもまた何の疑いも無く
並存している。そうした存在のありかたに、ル・コルビュジエは何か感じるところがあったのではない
だろうか。
ル・コルビュジエの代表的な詩『直角の詩』(詩の執筆期間=1947∼53 年)から『二つの間に』(同
1957 年)には、微妙な価値観の変化を読みとることができるが、そこには、インドでの体験が影響を
及ぼしているのではないかと思われてならない。
「あの右と、あの左が、思いやりのかけらもない/連帯関係にはあるが/きっと、和解し合う運
命にあると/人間の営みに捧げられる/生き残りの唯一の可能性だ」と詠い、統合をテーマにした
『直角の詩』に対して、『二つの間に』で「全空間から全空間への交信/対話はつねに起こりうる/
両極の間で/両岸の間で」と語り、多種多様なものがそのまま存在することを認めるとき、そこには
今までの彼にはみることのできなかった、諦観にも似た静けさを感じることができる。そして、そこに
添えられた牛のシンボルは、それまでの闘いに向かう鋭い角の猛牛の姿ではなく、穏やかなカー
ブを描いた三日月の水牛の角になっている。
彼が制作したチャンディガールの議事堂の扉を思い浮かべてみると、そこには、真ん中に大きな
樹木が描かれ、その周りに人間を含めてあらゆる動物が描かれている。ドーシ氏もこの作品を「ダイ
ナミックに調和する生命への彼の深い関心を表している」と重要視しているが、この「生命の樹」と
名づけられたエナメル画は、ル・コルビュジエが体験したインドそのものを表しているのではないだ
ろうか。ちなみに、彼の絵画に象徴的モチーフが数多く登場するようになるのも、インド以降である。
これは明らかに、シンボルで彩られたインド建築からの影響であろう。
アーメダバードでの建築作品は、様々な要素を盛り込んだ饒舌で賑やかな作品ではあるが、喧
噪の中にある静けさとでも言おうか、大胆さの中に調和のとれた静けさを感じる。大地にしっかり脚
を下ろし、インドの風の中にたたずむ自在さを感じるのである。
ル・コルビュジエにとって、インドは数多くの作品を手がけることのできた重要な国であり、インスピ
レーションを刺激する魅力的な伝統建築や、難題を提供する厳しい自然環境の国だっただけでな
く、彼の闘争本能をかきたててきた欧米諸国とは違い、何もかも受け入れる懐の深い国であった。
そして、そのとおりに、彼の作品は、インドに近代建築の風をおこし、ル・コルビュジエであることを
主張しながらも、インドの大地にごく自然に飲み込まれて、生き続けていくのである。