黄金の魔法使い - タテ書き小説ネット

黄金の魔法使い
momo
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︻小説タイトル︼
黄金の魔法使い
︻Nコード︼
N0985L
︻作者名︼
momo
︻あらすじ︼
たった一人で魔物の巣くう森に隠れ住む魔法使いの娘ラスルは、
ある事がきっかけで人との接触を拒むようになっていた。そんなあ
る日、魔物に襲われる二人の男を助けた事によって心に変化が訪れ
るが、やはり森を出る勇気はわかない。そんなラスルが過去の出来
事によって再び辛い現実に引き込まれる事になって行き︱︱︱命を
助けられた王子と騎士もそれに巻き込まれる形となって行く。
1
出会い
面倒な場面に遭遇してしまった︱︱︱
ラスルは深い溜息を落とすと採りたての新鮮な山菜の入った籠を
小脇に抱え、ぼさぼさで埃まみれの頭を掻き毟る。
目の前には牛の様な巨体を横たえる数体の魔物と、十人は下らな
いであろう息絶えた兵士らしき男達の遺体。所々魔物に食われた痕
跡を残し、まともな姿で横たわる肉体は一つも見当たらなかった。
辺り一面に血と内臓が散乱し、食い千切られた人間の手足が転が
っていて真新しい血の匂いが鼻をつく。
散乱する遺体の向こうでは生き残った人間が、黒に近い深い緑色
をした魔物と対峙する姿が見えた。
出来る事ならこのまま退散したい所だったが⋮生きた人間がいる
限り流石にそう言う訳には行くまい。人との接触は避けたかったが、
劣勢であるにもかかわらず血を流し剣を掲げ魔物に向かって行く人
間を見捨てられるほどラスルは非道ではなかった。
牛のように巨大な深緑の六本足の魔物。
ヒギと呼ばれるそれは人肉を好み、群れを成して行動する。極め
て凶暴な種類の魔物で、転がって絶命しているヒギの数と犠牲者の
数を照らし合わせると、兵の方はかなりの精鋭ぞろいだったのでは
ないかと伺えたが⋮残るは最後の一匹と、血を流しながら大きく肩
で息をしている剣を構えた二人の男だけ。ヒギの方はと言えば傷は
負っているものの致命傷には程遠く、二人が力尽き食われるのも時
2
間の問題だった。
全く今日はついてない︱︱︱
生い茂る木々の隙間から垣間見える青空を仰ぎ、山菜を摘み取っ
ヒギ
た籠を左脇にしっかりと抱え直す。
再び前を見据え魔物に視線を集中させると右手を天高く掲げた。
掲げた掌が陽炎のように揺らぐ︱︱︱と同時に掌に金色の光が現
れ、腕を振り下ろすと共に光の波動が舞い起こり、凄まじい速さで
魔物に向かって突き進んで行く。
ほとばし
光が魔物の頭を粉々に吹き飛ばし緑色の液体が周囲に撒き散らさ
れると、対峙していた男二人は魔物の熱く迸る体液を全身に浴びた。
男二人は突然の出来事に目を見開く。
対峙していた魔物は首から上が吹っ飛び、地響きを立て地面に崩
れ落ちた。
命が助かった事よりも突然目の前で起きた事の方が信じられず、
二人は魔物の頭を吹き飛ばした光が流れて来た方へと向き直る。
そこには黒髪黒眼の、黒いローブに身を包んだ怪しげな娘が佇ん
でいた。
﹁魔法使い︱︱︱?﹂
うずくま
信じられない物でも見るように男がラスルを見据え低く呟くと、
もう一人の男が苦痛に顔を歪め唸り声を上げその場に蹲った。
﹁殿下?!﹂
3
まさぐ
声を上げた男⋮カルサイトは蹲り苦痛に耐える主の身体を弄る。
左脇腹が抉られ、大量の出血があった。
カルサイトは全身の血が凍り付く。
魔物の鋭い爪に内臓を抉られ、直ぐ様適切な処置をしても助かる
かどうかすら分からない重症だ。しかもここは魔物の巣くう深い森
の中で対応できる医師もいない。
それでもカルサイトは唯一無二の主を救おうと血と魔物の体液に
濡れた上着を脱ぎ、それを押し当て止血を試みるが、抉れた腹から
は大量の血が溢れ、瞬く間に押し当てた上着を赤く染めた。
﹁殿下、アルゼス殿下っ!﹂
必死に主の名を呼ぶが返事はない。
カルサイトははっとして先程垣間見た怪しげな娘に視線を向ける
と、既にラスルは二人の目の前まで歩み寄って来ていた。
﹁癒しの術は使えないのか?!﹂
ヒギを一撃で倒したほどの攻撃魔法を放ったラスルにカルサイト
は声を荒げる。
カルサイトの魔法使いに対する知識としては、攻撃魔法に長けた
者は治癒の力が弱い。それを踏まえると目の前の娘は攻撃の術に長
けている。重傷を負ったアルゼスを治癒できる程の力はないにして
も、医師もいない状況下で頼れるのは目の前にいる得体の知れない
魔法使いの娘ただ一人だ。
それに魔法使いの中では金の色を放つ者が最も優れていると聞い
た事があったので、もしかしたら応急処置程度にはなるのではない
かと考えたのだ。
たった今魔物から助けてくれたのだから、こちらに仇成す存在で
ないのは確かだろう。
止血するカルサイトの腕に力が込められる。
4
ラスルは縋りつくように懇願する深い紫の瞳に見上げられ、仕方
ないとばかりに大きく息を吐いて跪くと山菜の入った籠を地面に置
いた。
﹁見せて。﹂
アルゼスを守る様に傍らに身を寄せ傷口を抑えるカルサイトの手
をどけると、栓を失った傷口からは大量の血が溢れ出した。
﹁こんな傷でよく立ってられたものだね。﹂
ラスルは剥き出しの生暖かい内臓に直接手で触れる。
お
ぬるりとした感触に一瞬眉を顰めたがそれも僅かの間だけで、ラ
スルは内臓をもとの位置に戻すように優しく圧した。
すると触れた部分からは先程魔物の頭を吹き飛ばしたのと同じ、
金色だが柔かな光が掌から溢れ出し、見る見るうちに内臓は再生し
傷口は塞がって行く。
その様を目の当たりにしたカルサイトは驚き感嘆する。
過去に魔法使いと共に戦に出た事のあるカルサイトは、戦場で負
傷した仲間を治癒する魔法使いの力に驚いた。しかし目の前の娘が
したように、これ程見事なまでに治癒の魔法を使いこなしていた魔
法使いは存在しなかったように記憶している。広い戦場で全てを目
撃した訳ではなかったが、失った肉体の再生を施し傷痕すら残さな
い力の存在など初めて知った。
これが金色の光を放つ魔法使いの力なのだろうか?
ラスルの放つ光が消失すると、意識のないアルゼスはそのままラ
スルに向かって倒れ込む。
﹁うわっ﹂
実のところ見た目以上に力のないラスルは、倒れ込んで来たアル
ゼスを支えきれずそのまま後ろに倒れ込みそうになり、癒しの力を
目の当たりにし唖然としていたカルサイトが慌てて二人を支えた。
5
﹁痛っ︱︱︱﹂
ラスルとアルゼスの体重を支えると同時に、カルサイトも自身が
負った怪我の痛みに襲われた。
支えられた腕から逃れると、ラスルはカルサイトに向き直る。
﹁何処?﹂
﹁え︱︱︱?﹂
﹁あなたの怪我は何処かと聞いてるの。﹂
かざ
無表情のままカルサイトの体に視線を這わせる娘に、カルサイト
は一番酷いのは左肩だと告げ、ラスルは言われた部分に手を翳すと、
先程アルゼスにしたのと同じように柔らかな光で傷口を包み込んだ。
カルサイトはその不思議な感覚に驚きを覚える。
みなぎ
傷が癒えるに従い失われていた体力が戻り、力が蘇って来るよう
な感覚が身体の内側に漲って来るのだ。
過去に魔法使いによって治療を受けた事はあったが、それとは違
う初めて受ける感覚に戸惑いを覚えつつ、カルサイトは手を翳して
治療を行う娘に視線を這わした。
ぼさぼさで全く手入れのされていない漆黒の長髪に同色の瞳。透
き通る程に真っ白な肌は所々汚れて清潔感がない。それでも整った
容姿に長い睫毛が影を落とし、時折瞬きを繰り返し風を起こしそう
だった。
まだ若い︱︱︱年の頃は一六、七歳くらいだろうか。
魔物の巣くう森の奥で出会うには不自然な少女とも言える年齢の
娘。
治癒を受けながら見つめていると少女がふいに顔を上げ、大きく
見開かれた漆黒の瞳に囚われる。
不躾にも見入ってしまっていた事に躊躇するカルサイトに対して、
ラスルは何の表情も浮かべずにカルサイトの濃い紫の瞳を見上げた。
6
﹁動ける?﹂
ラスルの問いにカルサイトは慌てて返事をする。
﹁何処かに身を隠せる場所が?﹂
他にも体に傷はあったが我慢できない程でもない。
それよりもまずは死臭を嗅ぎつけて寄って来る魔物を避ける為に、
一刻も早くこの場を離れる事の方が先決だった。
辺りには息絶えた仲間の騎士達︱︱︱親友と呼べる者の亡き骸も
あったが、今はその遺品すら回収する暇はない。
﹁この人背負って付いて来て︱︱︱﹂
ラスルは傍らに倒れ気を失ったままのアルゼスを見もせずに立ち
上がり、傍らに置いていた山菜の入った籠を取り上げると先を急ぐ。
カルサイトは剣を鞘に戻してからアルゼスを背負うと、地面に横
たわる仲間の遺体に後ろ髪引かれながらラスルの後に付いて足を速
めた。
国境近くの西の砦を目指す際に近道となる為、この森はいつも当
然のように利用されていた。だと言うのに生い茂る木々に惑わされ
たか道をそれ、魔物の巣くう一帯に足を踏み入れてしまったのだ。
しかも運の悪い事に出くわしたのは、魔物の中でも特に獰猛で人肉
を好むヒギの群れ。先頭で道案内をしていた者が裏切ったのかとも
思われたが、その者は真っ先にヒギの餌食となり肉片となり果てた。
西の砦を視察して戻って来るだけの簡単な任務だった筈なのに︱
︱︱
失った犠牲の大きさに悔やみながらも、カルサイトは大事な主を
失わずに済んだ幸運を噛み締めていた。
7
8
素性
カルサイトがアルゼスを背負い辿り着いたのは一軒のあばら屋だ
った。
あばら屋の周りには畑が耕され、自給自足しているのかと思われ
る程大量の作物が育てられている。
ラスル一人で住まうには少々大きく持て余し気味の家だったが、
カルサイトの目にはよく壊れずに建っているものだと、一瞬足を踏
み入れるのに迷いを持つ程の、今にも壊崩れ落ちそうな古びれた小
さな家だった。
この場所に辿り着くまでラスルは無言のまま早足で先を進み、カ
ルサイトに話を振る隙を全く与えなかった。そのためカルサイトは、
魔法が使えるとは言えどうしてこんな所に若い娘が一人でいるのか
と訝しげに思いながらも後を付いて行く事となった。
こんな魔物の巣くう深い森に娘が住まっているとは思えず、それ
でも人里から離れ過ぎている為娘の足では容易く山菜採りに通える
場所でもない。だから辿り着いたあばら屋に生活感が漂っている様
子にここが娘の住まいなのだと確信し、しかもそれが一人暮らしだ
と分かると何故こんな場所にと更に疑問が膨らむ。
あばら屋の周りはショムの木と呼ばれる魔物避けに使われる木が
群生していた。
ショムの木には人間には感じる事の出来ない魔物を阻む波動が出
ているらしく、街を取り囲むように植林され大陸中何処でも見られ
る特に何の変哲もない樹木だ。
9
あばら屋ではあるが、ショムの木がこれほど多く群生しているの
であれば魔物の襲来を警戒する必要はない。カルサイトはその事に
ほっと安堵の息を漏らす。
カルサイトは戸惑いつつもあばら屋に足を踏み入れ、ラスルに促
されるまま粗末な寝台にアルゼスを横たえた。
傷は塞がれたとはいえ、大量の出血を伴ったアルゼスの容態は完
全ではない。脈拍と呼吸は早く顔色は青白かった。
出血が多量であれば傷が癒えても命の危険は付き纏う。
不安気なカルサイトを余所に、ラスルはアルゼスの容体を一見し
た後で他の傷の手当てを済ませ部屋を出て行き、戸棚から乾燥した
薬草を取り出すと乳鉢に入れ乳棒で砕いて粉末にした。
乳鉢を叩く音に引かれたカルサイトはアルゼスの眠る寝台から離
れ、ラスルの作業を黙って見つめる。狭いあばら屋内で隣同士の部
屋の為、アルゼスから目を反らす事なくラスルの様子も伺う事が出
来た。
ヒギ
この娘はいったい何者だ?
金色に輝く光を放ち、魔物の頭を吹き飛ばして一撃で倒せる程の
威力のある攻撃魔法を使いながら、同時に内臓を再生させる程の高
等な治癒魔法まで使いこなせる。そして現在はアルゼスの容態を見
て必要と思われる造血剤を作っているのだろう。乾燥させた動物の
内臓特有の悪臭が一面に漂っていた。
﹁先程は助けてもらいながら礼が遅れて申し訳ない。﹂
薬剤作りに集中しているラスルに構わずカルサイトは頭を下げた。
﹁私はカルサイト、スウェール王国の騎士です。﹂
ラスルは手を止めると名乗る男を見上げた。
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体中を生臭い血と魔物の体液で汚していて、上着は先程止血に使
い大量の血で汚れている為着てはいない。しかし腰には立派な剣を
帯びている。
汚れた長い銀色の髪は後ろに束ねられており、濃い紫の瞳が印象
的な青年は背が高くかなりの美丈夫だ。
あの惨劇の中最後まで生き残っていた辺りからすると、気を失っ
ている男と共に剣の腕もたつのだろう。
ラスルが隣の部屋で横たわる男の方に視線を這わす。
﹁アルゼス⋮殿下って言ってたよね?﹂
ラスルは倒れる主に向かって叫ぶカルサイトの言葉を覚えていた。
力のある得体の知れない魔法使いにアルゼスの身分を口にするの
は戸惑われたが、命の恩人でもあるし味方になってくれるのなら心
強い。しかも動けないアルゼスに薬を処方しようとしている娘の不
興を買うのも憚られ、カルサイトはゆっくりと頷いた。
﹁そう︱︱︱﹂
あの人がアルゼス王子︱︱︱
ラスルは視線を手元に戻すと再び薬剤を混ぜ始める。
スウェール王国の第一王子アルゼス。
確か今年二十三歳になる筈であるとラスルは記憶していた。
﹁君の名を聞かせてもらっても?﹂
名乗り返して来ないラスルにカルサイトは困惑しながらも名を訪
ねる。
﹁⋮⋮ラスル。﹂
一言だけ告げるラスルにカルサイトは王子を守る身として、ラス
ルの情報を聞き出そうとする。
﹁年はいくつ?私と王子は同じ二十三だ。﹂
﹁十九。﹂
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告げられた年齢にカルサイトは少々面食らう。
見た目では十六、七程度でとても十九歳には見えなかったからだ。
黒いローブに身を包み髪はぼさぼさで薄汚れた姿をしているから
幼く見えるのだろうか?傷を治されている時にも思ったが、確かに
容姿は整っていて魅力的な瞳をしていた。綺麗にすれば年相応に見
えはするかもしれない。
﹁君はスウェールの人間ではないようだけど生まれは?﹂
髪と瞳の色からある程度の予想は付く。
スウェールの人間は金や銀、色濃くても薄い茶色といった髪の色
合いに、瞳は青や緑をした者が数多くいた。アルゼスも例に漏れず
金髪碧眼で、純粋なスウェール人の中でラスルの様な黒い色は存在
しない。黒髪に黒い瞳、同時に魔法使いを多く輩出する国と言えば
︱︱︱
﹁イジュトニア。﹂
予想通りの答えにカルサイトは頷く。
大陸の1/4に相当する広大な領土を支配する北東の大国スウェ
ール王国。その南に隣接する小国がイジュトニアである。
そこに生まれる者達は近隣諸国との混血もあまり進んでおらず、
イジュトニア特有の黒髪黒眼をした人間が殆どだ。そして大陸中に
散らばる魔法使いの殆どが、もとはイジュトニアの血を引く者達で
もある。
剣の国であるスウェールは魔法の国であるイジュトニアに大きな
借りがあった。
十年程前に大陸の北西を支配するもう一つの大国フランユーロ王
国との間で戦争が勃発し、戦いは予想以上に長引きスウェール王国
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は危機的状況に陥った。その再スウェールはイジュトニアの力を借
り受けるため、スウェールの第一王位継承者たるアルゼスとイジュ
トニアの末王女との縁談を申し入れたのが五年程前。イジュトニア
の末王女は身分低い妾の娘であったが、その王女を大国であるスウ
ェールの将来の王妃として迎えることを条件に出す事で、イジュト
ニアの魔法という戦力を味方に付けようとしたのである。
その申し出をイジュトニアの王は快諾し、アルゼスとイジュトニ
アの王女の婚約が調いかけた時、その末王女が突然の病に倒れ死ん
でしまったのだ。
イジュトニアに生まれた他の王女たちは既に嫁ぎ済みで、スウェ
ールの王太子妃として差し出せる娘は他にはない。取り決めは白紙
に戻りスウェールの戦況は悪化の一途を辿ったが、イジュトニアの
王は何の条件も付けずにスウェールに魔法師団を貸し出し、その後
スウェールは戦況を巻き返しフランユーロとの戦いに辛くも勝利す
る事が出来たのだ。
イジュトニアの力添えがなければスウェールは滅んでいたかもし
れない。その事がある為スウェール国民はイジュトニアの者達に極
めて友好的である。
カルサイトも終戦の数年前から戦地に立ち、イジュトニアの魔法
使いと肩を並べて戦った過去を持つ為、一見怪しい雰囲気を放つラ
スルにも好意的な視線を向けていた。
その為ラスルが出来上がった薬をカルサイトに差し出した時、そ
の意味を理解するのに僅かな時間がかかってしまったのだ。
﹁毒味、しなくていいの?﹂
命の恩人が処方したとは言え、一国の王子が口にする薬である。
昨日今日知り合った怪しげな人間が作った薬など、本来なら飲ませ
たり出来るものではなかった。
カルサイトは粉々に粉砕された薬を指先に乗せ舌先で舐め取る。
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臭いと苦味は耐え難いが普通の造血剤のようだ。
﹁飲ませなくても大丈夫だとは思うけど回復の時間に差が出るよ
?﹂
どうする?と見上げるラスルにカルサイトは礼を述べ、差し出さ
れた薬を素直に受け取った。
意識のないアルゼスに薬を飲ませる為、ラスルが乳鉢に水を注ぐ。
カルサイトはそれを少しずつアルゼスの口に流し入れ、かなりの時
間がかかったものの全て飲ませる事が出来た。
その後もラスルは薬を調合し、適当に時間を開けて飲ませるよう
カルサイトに渡すと姿を消してしまう。
ラスルに言われた通り、カルサイトはアルゼスに時間を開けゆっ
くり薬を飲ませて行くと、翌朝には顔色も回復し脈拍も正常に戻っ
ていた。
夜も明けカルサイトが外の空気を吸いにあばら屋を出ると、その
周囲に数頭の馬が集められショムの木に繋がれており、更にラスル
が手綱を引いて朝霧の中を歩いて来る姿が見えた。
どの馬もカルサイトの知る馬で、中にはカルサイトとアルゼスの
愛馬の姿もある。
昨日魔物に出くわした際、魔物の餌食になるのを恐れ逃がされた
馬ばかりだった。
﹁君が集めたのか?!﹂
ラスルに駆け寄り手綱を受け取ったカルサイトは驚く。
﹁魔物に食われたら可哀想でしょう。それにあなた達には必要だ
し。﹂
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騎士なら当然馬に乗っている筈である。だが昨日あの場所に馬の
死骸はなく、あったのは魔物と人間の亡き骸ばかりだった。だとし
たら馬は逃がされたと思って当然だ。
ラスルは暗い危険な森に入り、一晩かけて森を彷徨う馬を拾い集
めて来たのだった。
それにしても娘が一人で夜の森を彷徨い歩くなんて︱︱︱魔物は
夜になると活発に行動する。どんなに力があるとは言え無謀とも言
える行動にカルサイトは驚いてしまった。
森に住まう娘にとっては至って普通の事なのだろうか?
﹁君はいつからここに住んでいるんだ?﹂
﹁五年位前から。﹂
﹁ずっと一人で?﹂
﹁最初は祖父と一緒にだったけど、死んでからは一人で住んでる。
﹂
と言う事は、ここで生活する知識をラスルに与えたのはその死ん
だ祖父と言う事か。
﹁お祖父さんはいつお亡くなりに?﹂
﹁︱︱︱二年近くになるかな?﹂
それからずっとたった一人で生活して来た。
作物の実る畑の間をぬって二人はあばら屋へと戻って行った。
薄暗いあばら屋に戻るとラスルはアルゼスの様子を伺った。
﹁よさそうだけどまだ目は覚ましそうにないね。﹂
それだけ言うと戸棚を開け、黒いローブとタオルを取り出しカル
サイトに渡しす。
﹁付いて来て。﹂
血と魔物の体液で汚れた服からは異臭が放たれている。それを着
替えろと言われたのかと思ったのだが、ラスルはあばら屋を出ると
何処かへ向かって歩き出した。
15
﹁何処へ行くんだ?﹂
アルゼスを残してこの場を離れるわけにはいかないカルサイトは、
先を歩くラスルの腕を掴んで引き止めた。
決して小さくはないラスルだったが、かなりの長身で自分よりも
頭一つ分以上背の高いカルサイトにすぐ側に立たれると、かなり上
を見上げなければならなかった。
﹁大丈夫、すぐ近くだから。それにこんな所にまで人は来ないし
魔物だって近寄れない。﹂
そう言って先を進むラスルに、戸惑いながらもカルサイトは素直
に従った。
道中も辺りはショムの木々に囲まれ、ここら一帯はまるでショム
の森のようだ。
ラスルの言うように目的の場所はすぐ側であっと言う間に辿りつ
いた。
﹁温泉?﹂
そこは岩場に囲まれ、白い煙が立ち込める湯が滾々と湧き出る温
泉だ。
かなりの広さがあり、湯に手を入れると適温だった。
どうしてこんな所に温泉があるのだと不思議に思って振り返ると、
すでにラスルは来た道を戻る体勢を取っている。
﹁王子様はわたしが見てるからゆっくりどうぞ。﹂
湯に浸かり汚れを落とせと言う事は分かったが︱︱︱
﹁君は入らないのか?﹂
頭はぼさぼさで黒いローブからのぞく白い肌は土が乾いてこびり
付いている。今は確かにカルサイトの方が汚れて悪臭を放っていた
が、ラスルの方にも数日⋮いやそれ以上身体を洗った形跡は伺えな
かった。
﹁わたし女なんだけど?﹂
16
その答えにカルサイトはここへ来て初めて笑いを漏らす。
﹁一緒に入ろうと言っているのではないよ。﹂
するとラスルは腕を鼻に当てクンクンと犬の様に匂いを嗅ぐ。
﹁臭いかな?﹂
﹁それは分からないが汚れている。﹂
カルサイトの言葉を受けしばし考える。
﹁分かった、そのうち入るよ。﹂
そう言い残すとラスルは踵を返してあばら屋へと戻って行った。
し
汚れた服を脱ぎ熱い湯に身を沈めると昨日魔物によって受けた傷
が沁みたが、刺激にも直ぐに慣れ、心地よい浮遊感に疲れまで洗い
流される様だった。
こびり付いたままになっていた血と魔物の体液を洗い流すと、汚
れていた髪も見事な銀色に輝きだす。
身体を洗い終えた後で次々に湧き出し溢れて流れ出て行く湯を使
って汚れた衣服を洗い、借りたローブに身を包む。着古していたが
かなり上等な布で作られており、綻び一つなかった。
ラスルの亡くなった祖父の物だったのだろうが、長身のカルサイ
トが着ても身丈は十分だ。
洗った衣服はショムの木の枝にかける。陽射しが出て来たので直
ぐに乾くだろうと思いながらあばら屋へと足を踏み入れると、ラス
ルがアルゼスに薬を飲ませている所だった。
アルゼスの海のように深く青い瞳は硬く閉じられたままだ。
顔色も良くなり命の危険も去ったとはいえやはり心配で、カルサ
イトは主の名を呼んだ。
﹁アルゼス殿下︱︱︱﹂
念のため額に触れてみるが熱はなく、寝息も規則正しい。表情も
落ち着いているので特に心配する事はないだろう。
17
﹁君のお陰だ、本当にありがとう。﹂
あの時ラスルが現れなければ二人とも既にこの世にはいなかった
筈だ。
ラスルが姿を見せるのがもう少し早ければという思いも浮かぶが、
それを求めるのは都合が良過ぎると言うものだろう。
﹁西の砦に行く一行を時々みかける。馬なら半日で突っ切れる筈
なのに道を外れたのが失敗だったね。﹂
道さえ外れなければ魔物に遭遇する事もなかったし、多大な被害
ヒギ
を出す事もなかった。
昨日魔物にやられたのはスウェールの騎士団の中でも指折り数え
られる精鋭たち。
皆がアルゼスの側近として側に使え、アルゼスを守る立場にあり、
将来の守りの要ともなるべき地位に付く事の出来る実力を兼ね備え
た者たちばかりだった。
失われた仲間とその家族を思うと胸が痛い。
﹁しばし殿下をお願いしても構わないだろうか?﹂
カルサイトの厳しい表情にラスルはぼさぼさの頭を掻きながら無
言で頷く。
アルゼスを残して行くのには心配もあったが、ラスルの腕が確か
なのは間違いないし、ショムの木々に囲まれたここなら魔物の心配
もない。
カルサイトは愛用の件を片手に黒いローブ姿のまま、ラスルが捜
して連れて来てくれた愛馬に跨って魔物の巣くう森へと駆け出して
行った。
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意外な行動
昨日の惨劇の場を再び訪れたカルサイトは、あまりの惨状に思わ
ず息を呑んだ。
カルサイト達が慌ただしくこの場を後にしてから、やはり血の匂
いを嗅ぎつけた魔物や野生動物によって仲間達の遺体は無残にも食
い荒らされ、硬い頭部までもがぐちゃぐちゃに潰れて跡形も無くな
っていた。食い残しの肉片や内臓が辺り一面に散乱し、腐った死臭
に鼻がもげそうになる。
騎士団の黒い制服も鋭い牙に引き裂かれ肉体と共にもとの形状は
留めず、個人の判別など出来る状態ではなかった。
仲間の血と倒れた魔物の体液に染められた地に足を踏み入れ、遺
品となりそうな剣や指輪、その他身に付けていたと思われるものを
探す。
十二本の剣は全て回収できた。それぞれに名が刻まれているので
誰の物かは判別できるが、身に付けていた小さな物は肉と共に飲み
込まれてしまったのだろう。散らばった肉片を掻き分けても何一つ
探し出す事が出来なかった。
拾い集めた剣を縄で縛り抱えて馬に跨る。
アルゼスが砦に到着しなかった事で今頃砦も城も慌てているに違
いない。
カルサイトは一刻も早くアルゼスの無事を知らせに向かわねばと
言う思いに駆られたが、アルゼスの目が覚めないうちは側を離れる
事が出来なかった。
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遺品となる剣を持ち帰ったカルサイトは血に濡れたそれを清める
為水場を求めた。だがあばら屋の周辺に井戸は見当たらず、ラスル
に聞くとこの辺りに井戸はないと離れた場所にある川へと案内され
る。
思えば近場に温泉が湧き出しているのだから井戸を掘っても湯が
出るだろうし、そもそも人が住まうとは思えない場所なのだ。身を
寄せるあばら屋があるだけでも奇跡である。
﹁必要な物はどうやって手に入れているんだ?﹂
あばら屋周辺には畑が作られ、食べる物は何とかなるにしても暮
らすには最低限必要な物がある。
カルサイトが浅い流れの川に入り剣の血を洗い流していると、ラ
スルも側に来て手伝い出したので疑問を投げかけてみた。
てき
﹁時たま街に出て薬を売って、それで得たお金で必要な物は十分
買える。﹂
ラスルは魔法だけではなく薬にも精通していた。
めん
全ては死んだ祖父から得た知識で、ラスルが調合する薬は効果覿
面で評判も良い。しかも安価で年に数回しか売りに出ないため、そ
の効果を知る者達はラスルが現れると直ぐ様それを買い求める為に
群がり、あっと言う間に完売してしまう。
﹁ここから街へ出るとなると徒歩では辛くないか?﹂
ラスルが馬を飼っている気配はない。ここからラスルの足で一番
近くの街へ向かうとなると三日はかかるのではないだろうか。
﹁森で一泊、街道沿いで一泊して街に向かう。﹂
﹁森で?!﹂
20
カルサイトは剣を洗う手を止めラスルを凝視した。
この娘は魔物の巣くう森で野宿をすると言うのか?!
﹁ショムの木が群生する場所がいくつかあるから。﹂
﹁だからって、女性一人の野宿は危険だろう?﹂
するとラスルは屈めていた身体を起こし、う∼んと考え込んだ。
﹁魔物に襲われた事はないけど⋮人に襲われた事はあるかな?﹂
﹁襲われたと言うのは⋮その⋮﹂
聞いてはいけない話題を振ってしまったと後悔するカルサイトに
対して、ラスルは再びう∼んと唸る。
﹁魔法で脅すと大抵は逃げてくれるんだけど、時々肝の据わった
男がいて攫われたりした事もあったよ。﹂
﹁攫われた?!﹂
さらりと言ってのけるラスルに、聞いているカルサイトの方が驚
いてしまう。
﹁人買いに売られたけど直ぐに逃げて来たから特に問題なかった。
﹂
何でもない事のように言ってのけるラスルにカルサイトは半分驚
き半分呆れ︱︱︱心底心配する。
どんなに力のある魔法使いだとしても、こんなのでよく生き残っ
て来れたものだ。
﹁脅して駄目なら何故攻撃しない?﹂
﹁そんな事して殺しちゃったらどうするの?﹂
逆に呆れたように問い返すラスルに、カルサイトは自分が手にか
けた数えきれない命を思い返す。
戦地に赴き迷う事なく敵を切り捨てて来た。
それ以外にもアルゼスを守るために暗殺を企てる者から夜盗の類
に至るまで、その手にかけて来た人間の数は計り知れない。
それが騎士として当然の世界に生きて来たカルサイトに対して、
21
ラスルは危険な森にたった一人で住まいながら命の重みを感じ取っ
ているのだろうか。
﹁それに魔法で人を守りはしても傷つけてはいけないと祖父から
言われているから⋮﹂
だからラスルは魔法で人を傷つけた事は一度もない。
生まれて間もなく母親を亡くしていたラスルは物心付いた時から
祖父と大陸中を旅してまわり、魔法の使い方や薬に関する知識、畑
仕事などの生活するのに必要な事や醜い裏の社会の存在に至るまで、
祖父が知る全ての事を教えられ、時には自ら目にして学んだ。十二
歳になってからの二年間は、ずっと離れていた父親のもとで生活を
するようになったが反りが合わず逃げ出し、スウェール王国のこの
森に身を落ちつけていた祖父のもとを訪ね⋮以来五年、ラスルは祖
父が亡くなった後も一人ここに居座り続けている。
﹁君のお祖父さんは立派な人だな。﹂
今の世の中、相手を傷つけずに身を守り通すのは難しい。
人を守っても傷つけてはいけないと言う教えは立派なものだが、
力のない物からすればそれは綺麗事だ。
それでもカルサイトは血を分けた孫にあたる娘にそう説いた祖父
の優しい心を垣間見て、嫌味ではなく心からそう思った。
ラスルの力をもってすると人を殺めるなど容易い事だ。
だからこそ己が身を守るためにすらその力を使わせず、傷つける
なと言ってラスルの手が血に染まる事のないように気を使っている。
﹁すると君は戦いに身を置いた事はないのか?﹂
もしそうだとするなら、昨日魔物に食い荒らされた惨状に顔色一
つ変えず冷静に対処していたラスルはいったい何なのだろう?
普通の娘なら震えて一歩も動けないとか、半狂乱になり悲鳴を上
22
げるとか失神するとかあってしかるべきなのだが︱︱︱
﹁わたしは祖父と一緒に色んな国を旅したから戦いに出くわす時
もあったよ。その時も人を傷つけたりはしなかった。ただ⋮救えた
命はほんの僅かだったけど︱︱︱﹂
救える命なら救いたい、教えられたからでも偽善でも何でもなく
そう思うのだ。
だからカルサイト達に出くわした時も、面倒だと思いながらも見
捨てる事が出来なかった。関わりたくないと思いながらもアルゼス
に薬を処方し面倒を見ている。
剣を洗うのを手伝うのも死んだ者への弔いの気持ちがあったし、
残された家族の気持ちを思うと少しでも役に立ちたいと感じるのだ。
ラスルは祖父が死んだ時、ずっと一緒だった人を失った悲しみと
一人になった寂しさで泣き暮らした。病を患っていた祖父は生前ラ
スルに父親のもとへ帰る事を勧めたが、当のラスルに戻る気は曝さ
なく、戻るくらいならこの森で祖父を弔いながら一人で生きて行く
方がどれ程ましかと思った事か。
ラスルは昔に思いを馳せた後、再び剣にこびり付いた血を洗い落
とす事に専念する。
そんなラスルの横顔を複雑な思いで見つめた後、カルサイトも再
び冷たい川の流れに意識を戻した。
剣の血を流し終えた時、ラスルは思い出したように﹁あっ⋮﹂っ
と声を上げる。
﹁お腹⋮空いてるよね?﹂
ラスルの一言でカルサイトは昨日から何も口にしていない事を思
い出す。
魔物に襲われ突然多くの仲間を一度に失い、自分も命を失う瀬戸
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際だったせいか空腹を感じる事はなかったが、ラスルに言われて急
に腹の虫が騒ぎだす。
戦況下においては数日食べなくても平気な体だったが、空腹を感
じると言う事は命が危うかったアルゼスの容態も安定し、カルサイ
トの心に余裕が出てきた証拠だ。
二人は剣に付いた血を洗い流し終えると、来た時より僅かに心軽
くあばら屋に戻って行った。
料理と言って出されたのは塩茹でにされた山菜と、畑で採れたば
かりの野菜。
カルサイトが普段口にするものとは比べ物にならないほど粗末な
食事だったが、それをおくびにも出さず有り難く頂戴した。
それよりも気になったのはラスルの食事風景だ。
カルサイトに出された物は茹でられ火が通されていたのだが、ラ
スルは畑から抜いて来た一本の人参を水洗いし、皿にも移さず手に
持ったままポリポリと部屋をうろつきながら食べている。一人暮ら
しの為テーブルが狭いとか椅子が足りないとかの問題ではない。実
際亡くなった祖父が使っていたのだろう、テーブルは小さいが椅子
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は合わせて二脚あり、アルゼスが眠ったままなので数は足りている。
くわ
なのにラスルは席にも付かず葉の付いたままの人参をかじりなが
ら、時にしっかりと口に銜え込みつつ棚から薬を取り出し、今度は
すり鉢に入れて粉にし出した。
椅子に腰かけたと言うのに片手にすり鉢、片手にすり棒を持って
薬を粉にしているため、人参は口にくわえたまま器用に食べている。
口にくわえた人参が短く太くなるにつれラスルの口に合わなくな
り、ポロリと口から床に落下し︱︱︱ラスルはそれを無造作に拾い
上げるとそのまま一口かじってテーブルに置いた。
カルサイトはその様を呆気に取られて見つめていた。
命を助けてもらった上、居候して食事を世話になっている身とし
ては口出しできる状況にはない。ないが⋮それにしてもあまりに無
頓着というか、年頃の娘らしくないラスルに驚いてしまう。
こんな所に一人で住まっているせいでこういう性格になってしま
ったのかもしれないが、カルサイトが目にする女性達とのあまりの
違いに驚き、食事を口にするのも忘れて思わず行動の全てに見入っ
てしまっていた。
テーブルに置いた食べかけの人参を手に取りかじった後で、ラス
ルはカルサイトの視線に気付き漆黒の瞳で見据える。
静かな空間にラスルが噛み砕く人参の音が響いた。
﹁こっちの方が好き?﹂
手にした食べかけの人参を一口食べるかと言わんばかりに突き出
すラスルに、カルサイトは慌てて首を振る。
﹁これで十分だ︱︱︱﹂
面白い娘だと、カルサイトは今更ながらに気が付いた。
25
﹁何を作っているんだ?﹂
疑う気はないが、アルゼスの口に入るものだと推察し確認する。
﹁滋養強壮剤とでも言うのかな?造血作用のある薬だけ飲ませて
も栄養が取れないと効果も薄れるからこれも飲ませる。﹂
ラスルは説明すると、今まで自分が食べていた人参の葉を千切っ
て加え、更に磨り潰して水を加えた。
何だか適当に作っている様だ︱︱︱
大丈夫だと思うが一応味見をしてみると、苦味よりも後から加え
た人参の葉のせいでかなり青臭かった。
アルゼスに意識があったら決して口にしない味である。
スウェール王国の第一王位継承者であるアルゼスだったが、過去
にはカルサイトと共にフランユーロ王国との戦争に参加した経験が
ある。だからどんなに不味くて不衛生なものでも必要なら口にでき
る体だが、だからと言って今は情勢も安定し、戦場に立ったのは五
年も前の話になる。たとえ腐ったとしてもアルゼスは王子だ。王宮
での豪華な食事に慣れ切った今のアルゼスが口にして我慢できる味
ではなかった。
アルゼスの体の為にも意識がなくてよかったかもしれない︱︱︱
カルサイトが心の中で呟いていると、ラスルは出来上がった薬を手
にしてアルゼスの眠る部屋に入って行ったので、カルサイトも慌て
て後を追った。
26
アルゼスは硬く瞼を閉じたまま、規則正しい寝息を立てている。
血色もかなり良くなり容態は安定している様だ。
ラスルは薬を側にある台の空いた場所に置くと、脈を測る為アル
ゼスの首筋に軽く触れた。
が︱︱︱次の瞬間。
硬く閉じられていた筈の瞼が上がり、深い海のように青い瞳が見
開かれる。
それに気付いたカルサイトが声を上げる間もなく、伸ばされたラ
スルの腕が瞬時に締め上げられ、黒いローブ姿の身体が回転し寝台
に押し潰されるとそれと共に︱︱︱
ゴリッ︱︱︱っという鈍い音がした。
﹁殿下っ!﹂
ラスルは右腕をうつ伏せの状態で背中に回され締め上げられたと
同時に、首根っこを強く押さえ付けられて硬い寝台に顔を埋めてい
た。
﹁貴様何者だ?!﹂
アルゼスの厳しい声が飛び、カルサイトは慌てて二人の間に分け
入った。
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﹁おやめ下さい殿下っ、彼女は命の恩人です!﹂
分け入って来たカルサイトに目を向けたアルゼスは、黒いローブ
姿のカルサイトを目にして訝しげに眉を顰める。
﹁お前、何だその格好は?﹂
﹁説明いたしますから、まずは彼女から手を離して下さい!﹂
﹁彼女?﹂
アルゼスは組み敷いた輩に視線を落とすと、一面に乱れる邪魔な
黒髪をかき分ける。
そこには苦痛に顔を歪めながらも悲鳴一つ上げない娘の横顔があ
った。
﹁⋮⋮⋮あの時の魔法使い?﹂
﹁殿下っ!﹂
凝視したまま締め上げた手を緩めないアルゼスにカルサイトの厳
しい声が落とされる。
﹁ああ、すまん︱︱︱﹂
アルゼスは手を離すと組み敷いたラスルからゆっくり身体を離す
が、立ち上がろうとした拍子に酷い目眩に襲われラスルの背中に手
を付いた。
先程の俊敏な動きは何処へやら︱︱︱失った大量の血により貧血
状態なのだろう。
カルサイトは隣の部屋から椅子を持って来ると、不安定なアルゼ
スに手を貸し座らせ、うつ伏せの状態で後ろに腕を回したままのラ
スルを起き上がらせる。
﹁恐らく関節を外したと思う。﹂ ばつが悪そうにアルゼスが呟く。
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意識を失う前に目の当たりにした魔物の頭が吹き飛ぶ光景と、黒
いローブ姿の娘を思い出したと同時に今の状況を把握するに従って、
アルゼスは目の前の娘が自分達を助けてくれた魔法使いなのだと理
解出来て来た。
意識の覚醒が近付いていた所に冷たい手が首筋に触れ、条件反射
で身体が動いてしまったのだ。
締め上げた時の音と感触からすると、恐らくではなく間違いなく
肘の関節を外してしまっている。
咄嗟にとってしまった行動だとは言え、恩を仇で返してしまうよ
うな事をしてしまった。しかも相手は若い娘ではないか。男ならい
いと言う訳ではないが、無抵抗な娘にしでかしてしまった行為を恥
じ、アルゼスは申し訳なさに言葉がなかった。
ラスルが治まる事のない痛みに耐えながらも怪我の状態を探ると、
アルゼスの言葉通り肘の関節が外れている様だった。
骨折なら直ぐに魔法で治療できるのだが︱︱︱
﹁入れてもらえる?﹂
ラスルの額に冷や汗が滲んでいる。
﹁私は医師ではないので上手く入れられるか︱︱︱魔法では無理
なのか?﹂
内臓を再生できる程の治癒魔法を使いこなせるラスルだ。素人の
カルサイトが関節を入れなおし苦痛を与えるよりも、自身で治療し
た方が良い様に思えて口にしたのだが︱︱︱
﹁外れた関節は一度入れなきゃ無理。入りさえすればどんな状態
でもいいからやって。﹂
ラスルには自分で関節を入れられるほどの力はない。もし出来た
としても自分で自分の傷を抉る様な作業はなるべく避けたかった。
﹁分かった。出来るだけ上手く入れるよう努力する。﹂
29
カルサイトはラスルの右に回り寝台に片膝を乗せると、ラスルの
ローブの袖をまくし上げ細い腕に触れる。
関節は見事に外れていて肘から下が不自然に曲がっており、肘の
周りはすでに赤く腫れ上がっていた。
﹁やるぞ︱︱︱﹂
腕を曲げさせただけでも苦痛だろう。
カルサイトは苦痛に歪むラスルの顔を見ないようにしながら素早
く済ませようと上腕を体で固定し、腕を持って内側に回しながら押
し込んだ。
掴んだ腕にコキッ⋮と言う小さな音と振動が伝わり、それを待っ
ていたかにラスルが左手で肘を掴んでその場に蹲る。
﹁大丈夫か?﹂
声をかけるとラスルは無言でこくこくと何度も頷く。
折り曲げられた身体の隙間からは淡い金の光が溢れていた。
関節を外された時もだが入れた時も、全く苦痛の声を上げないラ
スルにカルサイトは感嘆した。
アルゼスも同じ様に思った様で、治療を終え身体を起こしたラス
ルを不思議そうに覗き込んでいる。
﹁本当に申し訳ない︱︱︱﹂
頭を下げるアルゼスにラスルは頷くと、先程傍らに置いた薬入り
のすり鉢をアルゼスに差し出した。
﹁何だ?﹂
﹁造血効果を上げるための薬。﹂
差し出されたすり鉢を受け取りもせず中の液体に鼻を近付け匂い
をかぐと︱︱︱顔を顰める。
﹁︱︱︱俺には無用だ。﹂
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﹁殿下、彼女がせっかく作ってくれたのですから︱︱︱﹂
無駄だと思いつつ、カルサイトは薬を勧める。
﹁別に飲まなくたっていいよ。血が足りなくてまともに歩けない
時間を十日位我慢すればいいだけだの話だから。﹂
故意か、または全く他意が無いのかは分からないが、アルゼスは
ラスルの言葉にムッとする。
まるで飲まなくてもいいが、その分無様な様を曝すのはお前だぞ
と言われているようだった。
恩人に礼を述べるより先に暴挙を働いてしまったと言う負い目も
ある。 アルゼスは腕を伸ばしラスルが手にしたすり鉢を奪い取ると、眉
間に皺を寄せたまま一気に飲み込んだ。
瞬時に吐き出したくなる粗悪な味に驚愕するが、関節を外された
痛みに耐え唸り声すら上げなかったラスルを前にしていては、男と
して必死に押し黙るしかない。
アルゼスは込み上げて来る吐き気を堪え、口元を拭いながら空に
なった鉢を差し出した。
﹁じゃあ次は造血剤ね。﹂
微妙にだが、何となく嬉しそうな表情のラスルを見てカルサイト
は驚く。
初めて目の当たりにしたラスルの微笑みは悪戯を思い付いた子供
のようで、もしかして関節を外されたお返しか?と思わずにはいら
れなかった。
そしてその後、ラスルの作った造血剤を意地を張って口にしたア
ルゼスは、あまりの不味さに意識を失った。
アルゼスが不気味な味のせいで意識を失うに至った今回の造血剤
は、前回まで作られた物の比ではない程の悪臭を放っていた事をカ
ルサイトは追求しなかった。
31
32
のどかな光景
耐えがたい悪臭と人知を超えた異質な味のする薬のお陰で、意識
を失っていたアルゼスが目を覚ましたのは翌朝。やはり体の方が本
調子でない分、意識を失ったと同時に深い眠りについてしまった様
だった。
前日はアルゼスにつきっきりで寝ずの番をしていたカルサイトも、
アルゼスが目を覚ましラスルに攻撃を仕掛ける程の力は戻ったのだ
と分かるとほっとして身体を休める気持ちになり、勧められるまま
ラスルの祖父が使用していたと言う寝台を借りる事となった。
家の持ち主でもあるラスルは、薬売りに出る時に使う寝袋を持ち
出して床に寝ると言うのでカルサイトが慌ててそれを使うと進言し
たが、ラスルは慣れてるから気にするなと言うとさっさと寝袋に入
ってしまった。
翌朝目覚めるとカルサイトは黒いローブから乾いた騎士の制服に
身を包み、アルゼスの無事を知らせる為に西の砦に向かう事を告げ
る。
自分も行くからその必要はないと言い張るアルゼスだったが、立
って歩く事さえままならない状態では馬に乗って危険な森を抜ける
のは無理だ。だからと言ってスウェールの第一王子であるアルゼス
の無事を報告しない訳にはいかず、カルサイトはアルゼスを何とか
説得すると愛馬に跨った。
﹁アルゼス殿下を頼む。﹂
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馬上のカルサイトを不安気に見上げるラスルに頭を下げた。
﹁王子様の事はちゃんと見るから約束して欲しい事があるの。﹂
﹁約束?﹂
﹁この場所は誰にも知られたくないの。だから戻って来る時はあ
なた一人で王子様を迎えに来て。﹂
居所が知れたからといって魔物が巣くう森にあるこの場所を好ん
で訪れる者などそうはいまい。だがラスルは一人暮らしの若い娘だ。
しかもまともにしているならかなりの美少女と見受けられる。髪は
手入れもされずぼさぼさで肌も汚れていたが、それは単にずぼらな
だけではなく身を守る為でもあるのだろうとカルサイトは勝手に推
察していた。
獰猛な魔物よりも人を恐れると言うのも何だが、下手に周囲に知
れて恩人の身を危険に曝す訳にはいかない。
カルサイトはラスルの言葉に頷くと、あばら屋を支える外柱に体
を預け、腕組してこちらを伺っているアルゼスに目礼してから馬を
馳せた。
城に戻るよりも砦に向かい状況を説明して伝令を立てる事にした
のは、アルゼスを森に残して行くことへの不安からだ。
ここから城まで戻るとしたら早くても七日はかかる。砦までなら
往復でも三日で戻って来れるだろう。アルゼスの性格からすると少
しでも身体が回復してしまえば勝手に馬に跨り行動を起こしかねな
い。何しろあばら屋の周囲にはラスルが集めて来た馬が何頭も繋が
れているのだ。とりとめた大事な命を無理して馬に跨り、更に危険
に曝されてはたまったものではない。
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森に消えたカルサイトを見送るとラスルは重い気持ちでアルゼス
に振り返った。
自ら手を出したとは言え一国の王子を相手にしなければならない
と言うのは少々⋮かなり気が重い。
まぁ約束もある事だからちゃんと面倒をみる気持ちはあるが、ス
ウェールの王子と二人きりになるなら眠ってくれていた方が有り難
かった。
目が合った途端アルゼスがにっと笑う。
肩に付くか付かないかという長さの淡い金髪が陽の光を受けきら
きらと輝いている。瞳は深い海を思わせる碧眼だったが、今は光を
浴びた虹彩が僅かに紫を帯び瑠璃色に変わっていた。
不思議な色だなと見上げているとアルゼスが更に口角を上げる。
﹁珍しい物でも見つけたか?﹂
カルサイトも綺麗な顔立ちをしていたが流石と言うべきなのか⋮
一国の王子と言うだけあってアルゼスもカルサイトに負けず劣らず
整った容姿をしていた。
﹁綺麗な目だね。﹂
﹁あ?﹂
皮肉でも降って来るのかと思ったら意外にも賞賛され、アルゼス
は肩すかしをくらった様な気分になった。
﹁お前はイジュトニアの人間らしいな?﹂
ラスルに関する情報はカルサイトから聞かされていたので、魔物
を一撃で倒した力やアルゼスの抉れた内臓を再生させた強力な治癒
魔法の力も事もイジュトニアの魔法使いなら納得出来た。
一つ疑問に感じるのは、これ程の力の魔法使いが何故スウェール
の森の奥でひっそりと暮らしているのかという事だ。
﹁それ程の力があるならイジュトニアの魔法師団に入ってもかな
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りの地位が築けるだろう。それなのに何故こんな魔物の巣くう森に
隠れ住んでいる?﹂
単刀直入な質問にラスルは息を呑んだ。
生まれながらに権力を手にしていた者は人に命令する事に慣れ遠
慮を知らない。普通なら何か聞いてはいけない事があるのではと察
して、聞くにしてももう少し相手を知ってから質問したりするもの
だが、アルゼスの様な地位にある人間はそんな配慮は持ち合わせて
いないのだ。
﹁争いの中に身を置きたくない、それだけよ。﹂
嘘を付いたら見抜かれそうだったので一部の真実だけを述べると、
アルゼスは﹁ふ∼ん﹂と対して気のない返事を返した。
ラスルはアルゼスの横を通り過ぎて薄暗い屋内に入ると、祖父の
使用していた黒いローブを手に戻って来るとそれをアルゼスに差し
出す。
﹁服、洗うから着替えて。﹂
アルゼスが身に付けているのはカルサイトが着ていた黒い騎士の
制服とは異なり、形は同じ様なものでも色は白を基調とした丈の長
い上着を着ていた。そのため茶色に変色した血や魔物の体液が付着
した痕が目立って仕方がない。今から洗っても染みを作ってしまう
だろうが、どのみち一部分は魔物の爪で破られているのだ。この場
凌ぎでみすぼらしい格好をしたとて、こんな場所ではたとえ王子で
あっても誰も咎める者などいない。剣を握るものが魔法使いのロー
ブでいるよりはましである。
﹁手伝ってもらえると有り難いのだか?﹂
そう言って突然向けられた輝かんばかりの笑顔にラスルは頬を引
き攣らせた。
﹁普通の女ならここで頬を染めてぽ∼っとなる所だぞ。﹂
36
柱に身体を預けたまま腕を組んで白い歯を見せるアルゼスに、ラ
スルは明らまさに溜息を落とす。
﹁失礼なやつだな、これでも俺は女にもてるんだぞ。﹂
﹁⋮でしょうね。﹂
だから何なんだ。
ラスルは答えようがないまま引き攣った笑いを浮かべる。
確かにアルゼスは見目麗しい貴公子であり、大国スウェールの次
期国王となる身分にあるものだ。たとえ性格に多大なる欠陥があっ
たとしても、相手がアルザスならもててもてて仕方がないだろう。
自信満々に笑顔を浮かべるアルゼスを前にし、ラスルは初めて苦
手なタイプと言える存在に出会った気がした。
﹁そんな事どうでもいいから早く着替えてよ。﹂
ラスルが手にしたローブを押し付けると、アルゼスは意外そうな
顔をした。
﹁手伝ってくれないのか?﹂
﹁︱︱︱本気で言ってるの?﹂
着替えが済むまではその場を離れていようと歩きだしていたラス
ルは立ち止ると、珍しい物でも見る様な目でアルゼスを見上げた。
﹁だって俺怪我人。﹂
﹁痛みが残る様な治療はしてないけど?﹂
﹁頭がふらつく。﹂
倒れたら厄介だなぁ∼とわざとらしく額を押さえて演技するアル
ゼスに、ラスルは再び溜息を落とした。
﹁︱︱︱造血剤作って来る。﹂
﹁いや、俺が悪かった。﹂
さすがにあれはもう勘弁願いたい。
アルゼスは素直に着替えると汚れた衣類をラスルに渡した。
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ラスルが洗濯を済ませ戻って来るとアルゼスの姿が見えなかった
が、ショムの木に繋いである馬の数を確認すると減ってはいなかっ
たので、カルサイトの後を追った訳ではないと分かりほっとする。
家の中で大人しくしてくれているのだろうか?
それなら有り難いがと思いながら濡れた服を干してあばら屋の中
に足を踏み入れると、中にいると思っていたアルゼスの姿は見当た
らなかった。
傷は完全に癒えていたが、極度の貧血でふらつく状態ではまとも
に歩ける訳がない。そう決めつけ安心していただけに不安が過る。
あの状態でで出歩いてどこかで倒れられでもしていたら︱︱︱カ
ルサイトに任されたばかりだと言うのに何て事だろう。
ラスルが慌てて外に飛び出そうとすると、さっぱりした顔のアル
ゼスが戸口に立っていた。
﹁あ︱︱︱!﹂
陽射しを背にしたアルゼスは髪を濡らし、滴る水滴が黒いローブ
に伝い落ちている。
﹁何処に行ってたの?!﹂
﹁何処って︱︱︱風呂?﹂
﹁風呂?﹂
ラスルはアルゼスをぽかんと見上げる。
﹁わたし教えたっけ?﹂
記憶にないのだが⋮ ﹁カルサイトに聞いていたんでな。お前は入らないのか?﹂
薄汚れているぞと無遠慮に笑いながらアルゼスはあばら屋に入り
込んだ。
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薬の効果もあるとはいえ何て回復力だ?!
ふらつきながら歩いているものの、一人で温泉まで行って無事に
入浴を済ませ戻って来たアルゼスにラスルは驚嘆する。
見かけは鍛えられた戦士が持つような肉体ではない。
無駄なく筋肉は付いてはいるが、どちらかというと細身で繊細な
印象を受ける。そんな体の何処にこれ程の回復力が備わっているの
だろうと不思議に思いつつも、ラスルはアルゼスを追って家の中に
戻った。
タオルも持たずに温泉に入り濡れたままローブを着こんだのだろ
う。黒のローブなど陽射しで直ぐに乾きはするが、綺麗に洗われた
髪はずぶ濡れのままだ。ラスルがタオルを差し出すとアルゼスはそ
れで頭をぐしゃぐしゃと拭いた。
これから薬草を集めに森に入ろうと思っていたが、勝手気ままに
歩き出してどこかに行ってしまいそうなアルゼスから目を離すのは
危険なような気がして、ラスルは仕方なく行商用の薬を作る事にし
た。
壺に保存していた乾燥させた葉を取り出し、すり鉢で磨り潰して
は適量を紙に包む。
アルゼスはラスルの向かいに腰を下ろしてその様子をじっと見つ
めていた。
﹁それは何の薬だ?﹂
自分が飲まされるのかと思っていたがそうではない事が分かると、
特に興味もなかったがする事もないので取り合えず質問してみた。
﹁子供用の解熱剤。﹂
﹁ふ∼ん⋮﹂
薬包紙に包まれた薬を一つ摘んで持ち上げてみる。
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﹁これを売りに街へ行く訳か?﹂
﹁冬になると熱を出す子供が増えるからたくさん作って売るの。﹂
そう言ったものの解熱用の薬草は今が採取時期の為、その作業も
直ぐに終了してしまう。
ラスルはすり鉢を片付けると次は農作業に入るため外に出る。
すると当然の様にアルゼスも後に付いて来た。
﹁寝てていいよ?﹂
﹁さすがに寝過ぎて眠れん。﹂
そう言うとアルゼスはショムの木陰に腰を下ろして、畑に入り豆
を採取し始めたラスルの姿をぼんやりと目で追っていたが、単調な
作業を眺めていても退屈でしかたがない。
﹁何か面白い話はないのか?﹂
﹁ないよ。﹂
﹁⋮即答か。﹂
アルゼスはごろんと地面に横になると差し込む木漏れ日に目を細
めた。
いつもは政務に追われながらも開いた時間で剣の訓練に興じてい
る。
華やかな王宮内では時折催される宴に出席し、気にいった女がい
れば適当な距離をもちながら楽しみもしたし、王宮という閉鎖され
た空間に嫌気がさしてくれば粗末な衣服に身を包み街に出て遊びも
した。
そんな生活の中で、数年前まで続いていたフランユーロとの戦い
の後に作られた国境付近にある西の砦に向かう事は、兵の士気を高
める以上にアルゼスにとっては息抜きに近い娯楽の様なものだった。
年に二度程目指した砦。
慣れた道程の筈が道を外れ魔物の襲撃を受け、多くの貴重な逸材
を失ってしまった。カルサイトが集める事が出来た遺品も剣だけで、
40
帰城した後は残された遺族に対しそれなりの対処もしなくてはなら
ないだろう。王太子であるアルゼスを守って命を落としたと言うの
は誉れ高い事ではあるが、残された家族の心境を思うと胸が突かれ
る。魔物に食い尽され縋る遺体もないと言うのは辛いものだ。アル
ゼス自身はフランユーロとの戦争で親兄弟を失う事はなかったが、
懇意にしていた者達を数多く失った。その殆どが遺体にすら対面す
る間もなかっただけに、彼らがいないと言う事に実感が生まれない
日々が続いたものだ。
アルゼスが感傷に浸っていると木漏れ日を遮り黒い影が差す。
﹁暇そうだね?﹂
黒曜石のような輝きを帯びた漆黒の瞳がアルゼスを見下ろしてい
た。
﹁暇で死にそうだ。﹂
ふっと笑ってアルゼスが身を起こすとラスルはその隣に腰を落ち
着け、籠いっぱいに溢れそうな豆と空の大きな木椀を二人の前に置
いた。
﹁豆むきやった事ある?﹂
﹁⋮ないと思うが?﹂
アルゼスは豆むきという言葉を知らなかった。
そんなアルゼスにラスルは豆を一つ取ると指で押して殻を破り、
中に覗く小さな豆を指でなぞって木椀に落とす。
木椀の中にはアルゼスも口にした事のある、指先程度の大きさの
丸い緑の豆が現れた。
﹁分かった?﹂
﹁⋮俺にやれと言うのか?﹂
﹁暇なんでしょ。王子様は普段こんな事やらないものかもしれな
いけど、経験としてやってみてもいいんじゃない?﹂
41
ラスルの言葉にアルゼスは殻に包まれた豆を手に取ってじっと眺
める。
作業を続けるラスルの手元を見ながら同じ様に殻を押して破ると、
力を入れ過ぎた様で中の豆が飛び出しラスルの頬に当って撥ねた。
﹁すまん⋮﹂
心配そうに覗き込むアルゼスにラスルは笑って返す。
﹁平気よ。﹂
﹁お前は痛みに強いな。﹂
関節を外した時も、入れた時すら悲鳴一つ上げなかった。
﹁ああ、あれは痛かった。でも豆は痛くない。﹂
そう言って作業を続けるラスルに習い、アルゼスは慎重に殻を潰
して豆を取り出す。
続けるうちに慣れて来て上手くできるようになったが、指先に集
中するうち適度に疲れ、木漏れ日の心地よい温もりも手伝い睡魔が
込み上げて来た。
﹁すまんが少し眠ってもいいか?﹂
﹁いいよ、後はわたし一人でやるからゆっくり休んで。﹂
一人で出歩ける体力には驚かされたが貧血であるには変わりない
ので、本当なら寝台に縛り付けておきたい程だった。
するとあばら屋に戻ると思っていたアルゼスは、その場に横たわ
ると同時にラスルの膝に頭を置いた。
﹁あのっ⋮?﹂
ラスルは剥きかけの豆を手にしたまま驚きに目を見開く。
対してアルゼスはラスルの膝に頭を乗せると、そのまま目をつぶ
って畑の方を向いていた。
﹁動く時は起こしてくれて構わない。﹂
これは俗に言う膝枕というものか?
初めての経験にこそばゆい感じを受けながらも、相手は病人だし
どうせ座っての作業だからまぁいいかと思い、ラスルは手にした豆
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を弾いた。
43
変な娘
豆を全て剥き終えたラスルは、膝に頭を預け気持ちよさそうに眠
るアルゼスを見下ろす。
淡い金の髪が柔らそうでつい手を伸ばしたくなったが、触れた瞬
間昨日のように抑え込まれ関節を外されてはたまらないと慌てて手
を引っ込めた。
眠った顔はよく見ていたが、木漏れ日の下で改めて見てみるとや
はり整った綺麗な顔をしている。男性だと言うのに透き通るような
白い肌はきめ細かく、長い金の睫毛がまるで人形の様だ。
幼い頃から祖父に付いて大陸中を回って来たラスルの目には、ス
ウェールの人間は男女を問わず整った容姿の人間が多いと映ってい
たが、カルサイトとアルゼスを見ていると更にそれを肯定された様
な気がする。髪や瞳の色も輝く様に美しくて、黒ばかりのイジュト
ニアとは大違いだ。
﹁そんなに見つめられるとさすがに照れるな。﹂
青い目を開いてアルゼスは膝枕されたまま上を向く。
﹁起きてたの?﹂
﹁気配には敏感なんだ。﹂
情勢が落ち着き戦争はないとは言え、スウェールの第一王子であ
るアルゼスには暗殺という身の危険が付き纏っている。命の危険が
伴う世界で人の視線や気配には人一倍敏感だ。 そんなアルゼスだったが、不思議な事にここに来てからは何故か
熟睡出来ていた。魔物によって受けた傷のせいで極度の疲労もあっ
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たかもしれない。しかし今だってラスルの視線に目を覚ましはした
が、野外において敵を気にする事無く深い眠りに落ちる事などかつ
てあっただろうか?たとえここが魔物の巣くう森の奥で人の訪れが
ないとは言え、大して知りもしない昨日今日会ったばかりの娘の膝
を借りて眠りに付いたなど⋮今思うと自分でも不思議だった。
一度死にかけて何か悟りでもしたのかと呆れ気味に自問自答する。
﹁お前はこんな所に一人でいて寂しくはないのか?﹂
アルゼスの青い瞳はラスルを通り越して木漏れ日の向こうにある
空を見ている。ラスルもそれに釣られ上を見上げた。
確かに祖父が死んで暫くは寂しかったが、それは大事な家族を失
った悲しみによるものだ。人恋しい気持ちはあったけれど、恋しけ
ればここを出て行く事だって出来たのにそうしなかったのは、恐ら
くここが気に入っていたからだろう。
﹁今はもう寂しくはない。ここにいれば魔物も人も近付いて来な
い⋮静かでいい所だよ。﹂
﹁確かに静かだな︱︱︱﹂
だが若い娘が一人で住まう場所でもない。
﹁イジュトニアに戻りはしないのか?﹂
アルゼスの言葉にラスルの体が僅かに硬くなる。
﹁何だ、お尋ね者か?﹂
アルゼスは顔を弛め笑ったが、ラスルは眉間に皺を寄せた。
﹁違うわよ。あの国はわたしの肌に合わないだけ。﹂
﹁本当か?もしそうなら遠慮はするなよ。お前はスウェールの第
一王子の恩人なのだからいくらでもとりなしてやる。﹂
父親と反りが合わず飛び出して時点でイジュトニアに戻る気はな
かった。それに父親と言っても幼少期には抱かれた記憶すらなく、
物心付いた時から祖父と行動を共にしていたラスルにとっては他人
も同然だ。僅かな時間を同じ屋根の下で暮らしたが、その間も彼が
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父親だと実感する事もなく終わってしまった。
﹁本当にお尋ね者とかじゃないから。ただあの国にはいい思い出
がないの。だから帰る気もない。﹂
寂しそうに呟き遠くに視線を馳せるラスルをアルゼスは静かに見
つめていた。
﹁だったら城に来るか?﹂
﹁城ってスウェールの?﹂
﹁お前には礼もせねばならん。それにお前の様な力を持つ魔法使
いはこちらとしても大歓迎だ。﹂
﹁わたしじゃ役に立てないよ。﹂
人を殺める気のないラスルに戦闘力として期待されても困ると言
うものだ。 ﹁そう言えば人は殺めないと言っていたそうだな?﹂
アルゼスはゆっくりと頭を起こすとラスルの隣に座った。
ラスルは膝に感じていた温もりが消え軽くなるのを感じる。
﹁人間は綺麗事じゃ済まされない。それで殺されそうになった時
はどうするんだ?﹂
﹁その時は死に物狂いで抵抗するよ。﹂
﹁それでも駄目なら?﹂
それで駄目ならどうするだろう。
ラスルは首を傾げて考える。
﹁さぁ、わかんない。﹂
運命としてあきらめるか、抵抗の先で魔法を使って攻撃するかに
なるのだろうが、今のラスルには判断は付かなかった。
﹁そうだな。人は命に危険が迫ると、咄嗟にとんでもない行動に
出る事がしばしばあるしな。﹂
そもそもラスルがそんな場面に陥る事があるかすら分からない。
﹁だが今は戦争もない穏やかな治世だ、必要なのは攻撃だけじゃ
ない。お前の治癒の力は相当なものだ。それを役立ててみようと言
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う気にはならないか?﹂
﹁わたしは人の役に立てる程立派な人間じゃないし、ここを出て
城に行く気はないよ。﹂
なるべくひっそりと、穏やかに暮らすのが望みだ。それなのにラ
スルの様な魔法使いがスウェールの王城に舞い込んだらどうなるだ
ろう。
ラスルも自分の力が強力なものだと言うのは心得ている。それ故、
既にスウェールの城で地位を築いているであろう魔法使い達にとっ
ては邪魔な存在になり得ると分かり切っているし、そんな目立つ場
所に出て行く気も更さなかった。
﹁俺の誘いを断った娘はお前が初めてだぞ。﹂
﹁こんな薄汚い娘を相手にしなくても、お城に帰れば王子様に相
応しい相手が待ってるわよ。﹂
それもそうだなと認めながらアルゼスはラスルの乱れた髪を撫で
つけた。
﹁もとはいいのだからもう少し形振り構ってはどうだ?﹂
乱れていると言うよりも相当絡まっている。手櫛でなおすよりも
先ずは絡んだ束を解くのが先の様だった。
﹁どうせすぐもつれるんだからこのままでいいの!﹂
ラスルはアルゼスの手を払い除け頭を庇う。
﹁髪もだがどうしてそんなに薄汚れたままでいるんだ。風呂がな
いなら仕方がないが立派な湯もあるだろう?﹂
無頓着にも程があるといわれ、ラスルはクンクンと鼻を鳴らして
自身の匂いを嗅いだ。
﹁カルサイトにも言われたけどやっぱり臭うかな?﹂
﹁臭くはないが⋮お前からは薬草の匂いがして老婆を連想させる。
﹂
﹁老婆?﹂
アルゼスは頷いた。
47
﹁王室専属の薬師が老婆でお前と同じ匂いをさせている。﹂
だから少しは女らしく身なりに気を使えと言ってみたつもりだっ
たのだが、アルゼスの気持ちはラスルには通じなかったようで⋮
だったらまだ大丈夫だなと、ラスルは身なりを気にするのをやめ
てしまった。
夕食に出された煮豆をスプーンで口に運びながらアルゼスはラス
ルに疑問をぶつける。
アルゼスの周りにはラスルの様なイジュトニア生まれの純粋な魔
法使いというものは存在しておらず、物珍しく映っていた。
﹁魔法使いというものは肉は食わないのか?﹂
豆は昼間摘み取られたもので甘く味付けされている。アルゼスも
多少手伝ったので幾分美味しい気もするが、ここで出される食事が
いつも野菜だったので聞いてみたのだ。
﹁違うよ。肉がないから食べないだけ。﹂
ここは森だ。得ようと思えばいくらでも動物の肉は手に入れる事
が出来たが、罠を仕掛け捕えて捌くと言う煩わしい行為をしてまで
食べたいとは思わない。
﹁食べたいなら今夜中にでも罠を仕掛けて来るけど?﹂
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多少面倒だが貧血のアルザスにとっては造血の薬よりも新鮮な肉
や肝の方が血になりやすい。
﹁お前は狩りもできるのか?﹂
女だてらにと言う意味合いが込められていたが、ラスルはそんな
事には気付かなかった。
﹁獣道に罠を仕掛けるだけだから狩りって程じゃない。﹂
﹁それも祖父に教えられたのか?﹂
﹁そうだけど?﹂
何でそんな事を聞くんだと不思議そうに見つめるラスルに、彼女
の祖父は孫娘にどんな教育をしたのかと興味が湧く。
﹁お前の祖父も金の光を放つ魔法使いだったのか?﹂
一度見ただけだったが、アルゼスが対峙した魔物の頭を吹き飛ば
したのは金色の光だったのを覚えている。アルゼスはそんな光を放
つ魔法使いなど過去に一度も見た事がなかった。
スウェールは剣の国であるが魔法使いがいない訳ではない。 魔法使いの力の強さは放つ光の色で現され、スウェール王宮仕え
の魔法使い達は皆混血で、彼らが魔法を放つ時の色は大抵が青や緑
といった配色だった。珍しい所で白もいたが、混血の魔法使いの中
で白色というのはかなりの力を持っている証だ。だが白色を放つ魔
法使いであっても純血種であるイジュトニアの魔法師団に属せる程
の力は持ち合わせてはいない。
スウェールがフランユーロとの戦いの時に力を借りたイジュトニ
アの魔法師団の魔法使い達が纏う色はその殆どが深紅で、その深紅
の光を受けた者はまるで炎に焼かれたかに変わり果てた。
寡黙で人との交わりを嫌うイジュトニアの魔法師団に属した純粋
な魔法使い達は、魔法について多くを語りはしなかったが、彼らが
纏う色は大抵親から引き継がれるもので、混血が進むと先祖代々受
け継いだ色は失われ、最終的に魔法使いは世界から消滅してしまう
49
だろうと話していた。
そんな彼らとの会話の中で、魔法使いで最も強力な力を宿す色は
金だと聞いた覚えがあった。
それが事実なら、いまアルゼスの目の前で豆を口いっぱいに頬張
っているラスルは、魔法使いの中でも最も強力な力を持っていると
言う事になる。
ラスルはアルゼスの詮索の裏に何があるのかなど疑いもせず、質
問が多くて面倒だと思いながらもそうだと頷く。
﹁ならばお前の一族は魔法使いの中にあって最も優れていると言
う事になるな。そんなお前がどうしてこんな所で燻っている?﹂
今朝方同じ様な質問をした時は争いに身を置きたくないと答えら
れた。そんなラスルが過去にどんな戦いに身を投じたのか知りたい
と思ったのだったが、ラスルの答えは意外なものだった。
﹁魔法使いの中で言うなら一番強い力を持つのは黒だよ。﹂
黒︱︱︱?
初めて聞く色にアルゼスは眉間に皺を寄せた。
﹁そんな色を宿す魔法使いがいるのか?﹂
ラスルは豆を口に運び、ゆっくりとかみしめ飲み込んだ後で話を
続けた。
﹁わたしも聞いた事があるだけで実際に会った事は一度もない。
黒の魔法使いは人間にとっては大して害になる力は持たないけど、
わたし達魔法使いにとっては敵に回したら一巻の終わり。黒い光を
操る魔法使いには魔法が効かない上、他の魔法使いの力を完全に封
じて魔力を奪い去ってしまうんだって。﹂
50
魔力を奪われた魔法使いなど恐れるに足らない存在だ。純潔の魔
法使いほど魔法力に優れているが、体力的には普通の人間が持って
いる程の力もない。アルゼスが手にする様な剣を持って戦ったりと
いった事が出来ないのだ。その為力を封じられたら逃げる以外に生
き延びる方法はない。
﹁お前は大陸中を旅して来たんだろ、それで出会った事がないの
なら今は存在しないのではないか?﹂
﹁祖父の友人に黒の魔法使いがいたって聞いたからイジュトニア
国内にはいるんじゃない?﹂
ラスルの死んだ祖父は、その友人である黒の魔法使いを捜して旅
をしていた。彼の一族が生き延びているのなら、イジュトニアの何
処かを捜せば他にも必ずいる筈である。
圧倒的に数が少ないだけであって、祖父の代にはいたものが絶滅
したとは考え難い。
﹁味方に付ければ魔法使い戦には大きな戦力になるって事か?﹂
魔法が効かないのであれば魔法で攻撃されても不死身だし、相手
の力も封じてしまえる。
﹁個人戦では行けるかもしれないけど戦場ではどうかな?﹂
煮豆を食べ終えたラスルは水洗いしただけの白い根菜をアルゼス
に進めたが、アルゼスが首を振って断るとそのまま口に運んで丸か
じりにした。
﹁何故だ?﹂
根菜をかみ砕く音が薄暗い屋内に響き渡る。
﹁魔力を奪うにしても底なしに奪える訳じゃない。魔法使い数人
分ってのが限度じゃない?﹂
そうでなければイジュトニアの頂点に立っていたのは黒の魔法使
51
いという事になる。
﹁なるほどな。数が少ないうえに限度があるなら束になってかか
っても王位は奪えないか。﹂ たとえ黒の魔法使いが王位を奪ったとしても、彼らの魔法力が大
したものでないなら直ぐに他国から侵攻を受け国を失ってしまうだ
ろう。そう考えると黒の魔法使いというものは、強大な力を持つ魔
法使いに対して一種の歯止めの様な役割を持つのかもしれない。
アルゼスは席を立って薬草が置かれた棚を物色するラスルを視線
で追った。
﹁話を戻すが、お前もお前の祖父も金の魔法使いという事は⋮も
しかしてお前はイジュトニアに戻ればそれなりの身分をもつ身では
ないのか?﹂
アルゼスは袖を通している黒いローブに、最初に触れた時に違和
感を感じた。
祖父の物だと言うローブは着古してはいるがかなり上等な生地が
使われており、作りも細やかで一流の職人技だと言うのが伺える。
昼間ラスルの膝を借りて眠った折も、同様にすべらかな生地の感触
があった。
恐らくこの辺りの事はカルサイトもアルゼス同様に感じ取ってい
たのだろう。カルサイトがラスルに対する態度は単に命の恩人だか
らという訳ではなく、一人の対等な身分の女性に対してする接し方
とさほど変わりはしなかった。
薄汚いうえに何の教養も持ち合わせていないと思われるラスルだ
が、所々でそうではないと思わせる節がある。たとえ洗っただけの
根菜をそのまま口にくわえて歩き回っているとしてもだ。
何よりもそう思わせられるのは、ラスルの態度がスウェールの王
子を前にしてのものではないという事。
52
一般庶民の態度にしてはあまりにも自然に砕け過ぎているのだ。
﹁それなりの身分って?﹂
アルゼスの眼光が鋭くなる。
﹁王族とか?﹂
その言葉にラスルはくすりと笑うと、すり鉢と数種の薬草を手に
して戻って来る。
﹁祖父に関して言えば、若い頃こそ魔法師団でそれなりの地位を
築いた人だったらしいけどそんなんじゃないよ。それに王やその直
系が纏う色は深紅が多いの。金を纏っていてもそれはあくまで素質
であって、魔法その物の威力は経験によって大きな差が出るから、
同じ金でもわたしと祖父では雲泥の差があるよ。﹂
という事は︱︱︱ラスルの祖父はとんでもない力を持った魔法使
いだったという事になるなと、アルゼスは腕を組んだ。
先の戦で力を借りたイジュトニアの魔法師団に金の魔法使いは存
在しなかった。
ヒギ
ラスルの攻撃魔法は一度しか目にしてはいなかったがあれは相当
なものだ。一撃で魔物を倒す程の力が深紅の光を放っていた魔法使
いにもあるとは言い難い。あったとしても、ラスルのように容易く
出来るだろうか。
もとは魔法師団に属していたラスルの祖父といい、イジュトニア
は何故彼らを手放したのだろう?
聞けば聞く程ラスルがこんな場所に隠れ住む理由が知りたくなっ
たが、聞いても同じ答えが帰って来るか話をはぐらかされるだけの
様なので口を噤んだ。
53
スウェールにこの様な力を持つ魔法使いが存在するなら、何をお
いても手元に置いておきたいと思うのが国を治める側の意見だ。
ラスル側に事情があるにしても、何らかの理由を付けてここから
連れ出す事は可能だろうが⋮命の恩人でもある事だし無理矢理とい
うのは避けたい。それにカルサイトの情報だとラスルは人を傷つけ
る事を禁忌にしている様子。彼女の持つ治癒力だけでもかなりの魅
力があるが、それでは争いに巻き込まれた時には死なせてしまいか
ねない。
腕を組んで考え込むアルゼスは、ふとラスルの手元に視線を移す。
先程からすり鉢で薬草をすりつぶしていたが、それに自身がかじ
りついている根菜の先に付いた緑の葉を千切って入れ始めた。
嫌な予感がする。
﹁それは何だ?﹂
﹁王子様の薬。﹂
﹁いや⋮折角だがもう必要ない。﹂
昨日口にした味を思い出しアルゼスは思わず仰け反った。
﹁滋養が付くから飲んでもらうわよ。﹂
ラスルはアルゼスにそれを差し出すと笑顔を向ける。
﹁これから罠を仕掛けて来る。肉が手に入れば今回が最後だから。
﹂
だから飲んでと淀みない瞳を向けられると、さすがのアルゼスも
手を伸ばさない訳にはいかない。
恐る恐る口を付けると、慣れたのかもしてないが昨夜口にした時
よりも幾分飲み易かった。が、耐えがたい味であるには変わりない。
アルゼスが全て飲み干すのを見届けたラスルは立ち上がると外に
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通じる扉に手をかけた。
﹁何処に行くんだ?﹂
﹁何処って⋮罠を仕掛けに行くって言ったでしょ?﹂
人の話を聞いていないのかと眉間に皺を寄せるラスルに対して、
アルゼスは逆に顔を顰めた。
﹁女子供が出歩く時間ではないぞ?!﹂
辺りは既に闇に包まれている。この辺り一帯がショムの木に守ら
れ魔物が寄りつかないとはいっても、暗い森に潜む危険はそれだけ
ではない。
﹁慣れてるから大丈夫よ。それに今のうちに仕掛けておかないと
昼間は罠にかかり難いから。﹂
標的は小動物だが、獣は夜間に行動するものだ。昼間狙うよりも
夜の方が罠にかかる確率も高い。
迷いなく扉に手をかけたラスルの肩にアルゼスの手が置かれた。
綺麗な顔に似合わず、剣を握るに相応しい硬くごつごつとした掌
の感触が衣服を通して伝わる。
﹁俺も行く。﹂
﹁えっ、邪魔だよ。﹂
一国の王子を捕まえて邪魔だとぅ?!
生まれて初めて投げかけられた言葉に驚愕しかっとなったものの、
ここは冷静にと自分に言い聞かせる。
﹁ならば行くな。肉など食わずとも明日には回復している。﹂
﹁そこまで万能な薬じゃないよ。﹂
55
それにしては凄まじい回復力だが⋮
口には出さなかったが、今朝まではかなり強いふらつきがあった。
それが今は大して気になる程でもない。
﹁自分の怪我がどんなだったか分かってる?再生させたとは言っ
ても一度は臓器を失ってるんだし、出血の量も生死を左右しかねな
い位酷かったんだから大人しくいい子で待ってってよ。﹂
﹁いい子でって⋮お前なぁ⋮﹂
俺はいったい何歳の子供だ?
﹁すぐに戻って来るから、ね?﹂
まるで小さな子供に言い聞かせるように首を傾けて見上げるラス
ルに、アルゼスは力なく苦笑いを浮かべた。
こいつ、本気で言ってやがる︱︱︱
﹁すぐに戻って来れる距離なら付いて行っても構わないだろう?﹂
ここで問答しても埒が明かないので話を勧めると、辟易した様に
ラスルが深い溜息を漏らした。
それを見たアルゼスは溜息を付きたいのはこっちだと小声で愚痴
る。 ﹁まったく王子様なんだから大人しく待ってればいいのに⋮﹂
ラスルの小さない呟きにアルゼスは眉を顰めた。
﹁お前は女の自覚があるのか?﹂
﹁あるに決まってるでしょ。﹂
﹁ならば少しは警戒しろ。﹂
﹁ここいらじゃこれが普通だって。つべこべ言うなら置いて行く
よ?﹂
ここいらにはお前しか住んでないじゃないか︱︱︱!
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そう突っ込みたくなったが止めておく事にする。
アルゼスは黙って剣を取るとラスルの後に従った。
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悪戯
夜の闇にまぎれ仕掛けた罠を早朝確認に向かうと、ウサギに似た
小動物がかかっていた。
ラスルは持参した短刀を使いその場で手早く血抜きを済ませる。
罠の仕掛け方といい、小さいとは言え暴れる野生動物に対する扱
いといい、その慣れた手つきにアルゼスは目を見張った。
アルゼスとて野営の経験もあるし、野生動物を狩りして捌いた事
もある。だがラスルの手の動きは手慣れたもので昨日今日身に付け
た技ではなく、ここで生きて行く上で必要なものだった。
ラスルの事を、イジュトニアに戻ればそれなりの身分があるもの
だと確定付けていたアルゼスにとってこれは意外だった。イジュト
ニアの魔法師団に属していたと言う彼女の祖父は別として、ラスル
はそう言う生活に身を置いた事はないのかもしれない。
現実にラスルは幼少の頃から自給自足できるよう教育されて来た。
幼い頃から祖父と共に大陸中を回り、屋根のある場所に身を落ち
着けた記憶はあまりない。だから十二の歳に父の元に戻され、そこ
で押し付けられた生活はラスルにとって苦痛以外の何物でもなかっ
た。
それでも何とか二年辛抱したが、それに耐え切れなくなり自由を
求めて飛び出した。その頃には旅の人生をおくっていた祖父もスウ
ェールの森深くに安住の地を見付け腰を落ち着けていたので、ラス
ルは父親のもとを飛び出したその足で真っ直ぐにこの森へ向かって
来たのだ。
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血抜きをしたそれを持ち帰ってから綺麗に捌くと、ラスルは取れ
たての生肝をアルゼスに差し出す。
当然の様に差し出された光沢のある新鮮な肝にアルゼスは思わず
息を飲んだ。
﹁慣れない人は嫌がるけど、貧血には薬よりも効果がある。小さ
いから丸呑みに出来るから⋮﹂
ラスルはこれを手に入れる為に罠を仕掛け肉を仕入れたのだ。こ
こで拒否しては次は我儘王子とでも言われるに違いない。
アルゼスは息を止め目を瞑ると光沢あるとれたての肝を一気に丸
飲みした。
乾燥させた薬剤と違って匂いも味もない。
生暖かいそれはゆっくりと咽を通り胃に降りて行った。
アルゼスが肝を飲み込んだのを見届けたラスルは、用途のない内
臓と皮を土に埋め、肉は火を熾して炙り焼きにする。肉には塩が振
られていたのでいい具合に焼き上がると、二人はそのまま地面に腰
を下ろして焼き立てのやわらかい肉を口に運んだ。
ナイフとフォークを使わず手づかみで肉を口にしたのは何年振り
だろう。
昔を思い出しながら口に運んだ肉は意外にも美味しく、油の匂い
が食欲をそそる。
全て食べ終えると燃え残りに土をかけるラスルを見て、思わずア
ルゼスはふっと笑いを漏らした。
﹁何?﹂
﹁普通は男の方がこういう事をやるものなのだが⋮すっかり逆の
立場だと思ってな。﹂
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﹁王子様は病人だからいいのよ。﹂
ラスルが額の汗を拭うと、手に付いていた灰が額に付着する。
﹁お前風呂に入って来い。﹂
﹁えっ、何で?!﹂
何を言い出すんだと見上げるラスルの頬をアルゼスの指がなぞる。
﹁鏡を見せてやりたい。﹂
もともと薄汚れていたが生肉を捌いた手には血の痕があり、僅か
に頬にも赤い飛沫が散っていた。火を熾した際に巻き起こった灰や
煙で髪には白い灰が積もっていたし、互いでは気付かなかったが二
人とも肉の脂の臭いがこびり付いている。
﹁いいよ別に。﹂
このままでかまわないと言うラスルにアルゼスは呆れる。
﹁お前⋮その無頓着何とかしないと女として終わりだぞ。﹂
﹁別に終わってもいいし。﹂
ラスルは煩いと言わんばかりに燃え残りに土をかけた場所を足で
踏みしめると、残った灰が巻き上がりアルゼスは咳き込んだ。
咳き込みながら灰を払って口を開く。
﹁確か歳は十九とか言ったよな?十九と言ったら結婚して子供の
一人くらいいてもおかしくない歳だぞ?﹂
﹁何よそれ?子供を産むのだけが女の仕事じゃないわ。それに人
の心配するより先に自分の心配したらどうなの。﹂
﹁何だと?﹂
﹁わたしに子供が生まれなくたって誰も困らないけど王子様は違
うでしょ。王子様の方こそ結婚して子供はいるの?﹂
痛い所を付かれてアルゼスは口籠る。
60
結婚どころか側室すら持ってはいない。王位継承者として二十三
と言えば既にいい歳で妃を得ていてもおかしくはないのだ。実際候
補者の数はうんざりするほどあり、王城内に身を置いていると一日
に一度は必ず話題に上る話しでもあった。
﹁煩い、俺の事など放っておけ。﹂
﹁わたしの事だって放っておいてよ。﹂
ラスルの勝ち誇ったような視線にムッとしたアルゼスは、腕を伸
ばしてラスルを捕まえ、そのまま軽々と持ち上げ肩に担いだ。
突然視界が反転し担ぎ上げられたラスルは手足をばたつかせて抵
抗する。
﹁何するの、危ないじゃない!﹂
﹁大人しくしてないと落ちるぞ。﹂
と言いつつも先程飲み込んだ肝のお陰か、アルゼスはふらつきも
なく歩き出す。
暴れて蹴られそうになるのでラスルの足はしっかりと押さえつけ
た。
﹁ちょっと下ろしてよ。ってか何処行く気?!﹂
﹁お前ちょっと軽すぎじゃないか。肉がまったく付いてないぞ?﹂
ラスルの尻をぽんぽんと叩いた後で一撫でする。
﹁ギャ︱︱︱︱︱︱︱︱︱っ!!﹂
アルゼスに尻を撫でられたラスルは、相手が貧血持ちの病人だと
言う事も忘れて力任せに目の前にある背中を殴りつけた。
しかし大して力のないラスルに殴られてもアルゼスは痛くも痒く
もなく、アルゼスは高笑いを上げながら目的の場所を目指した。
61
そうして辿り着いた先︱︱︱温泉の湧き出る湯の中にアルゼスは
遠慮も何もなくラスルを放り込む。
大きな水飛沫が上がり放り投げたアルゼスも頭から水浸しになっ
た。
﹁ちょっと何する⋮って、わっ⋮止めてっ!﹂
浮き上がって来たラスルを押さえつけると、アルゼスはその頭を
ごしごしと洗い出す。
﹁ここまで来たら観念しろ。﹂
﹁最悪、何処の馬鹿王子よっ!﹂
﹁王子に頭を洗ってもらえるなんてめったにない事だぞ、光栄に
思え。﹂
﹁何が光栄なのよ、阿呆くさっ﹂
﹁口の悪い娘だな︱︱︱﹂
アルゼスは頭を洗う手を止めると、ラスルの汚れた顔を大きな掌
でごしごしと擦りだした。
﹁いたっ、痛い痛いっ!﹂
強く擦られ抵抗するが力で叶う訳もなく⋮ラスルの抵抗は虚しく
空を切る。
﹁関節を外されて声も上げない女が大げさだぞ。﹂ 面白い程取れる汚れにアルゼスは夢中になってラスルの頬を洗っ
た。
﹁もういい、分かった。自分でやるよっ!﹂
62
ラスルが降参して思いきり顔を背けると、アルゼスも無理強いす
るのをやめて手を離す。
﹁おう、やっとその気になったか。﹂
力の弱いラスルを押さえつけるなど造作ない事だったが、さすが
に止み上がりではアルゼスの息も上がり出していた。
﹁まったく⋮服のまま放り込むなんて信じられない。﹂
﹁何だ、俺に脱がして欲しかったのか?﹂
﹁そんな訳あるかっ!﹂
﹁遠慮するな。﹂
青い瞳を細め笑顔を向けるアルゼスに、ラスルは湯船の中で距離
を取る。
﹁冗談だって。着替えを取って来てやるから綺麗に洗って待って
ろ。﹂
後ろ手に手を振りながらあばら屋に戻って行くアルゼスの背を見
送り、姿が消えた所でラスルはふうと溜息を吐いた。
全く余計な事を︱︱︱
多少風呂に入らなくても死にはしないし、綺麗にしても畑仕事を
すればまたすぐに汚れるのだ。身を繕っても程度は知れているし、
何よりも面倒でここ暫く入浴してはいなかったが⋮
﹁前に入ったのっていつだったっけ?﹂
指折り数えて両手では足りなくなり数えるのをやめる。
祖父が生きていた時は毎日の様に入っていたが、いつからこんな
に無頓着になってしまったのだろう?
余計なお世話だったがこれを機に身体を綺麗にしようかと、湯船
63
に浸かったまま重くなったローブを脱いだ。
掌で優しく身体を擦り汚れを落としながら、ラスルはふと自身の
胸元に視線を送る。
かたど
左胸のふくらみに刻み込まれた朱色の刻印。
花弁の様に模られた小さな六つの印はラスルが生まれて直ぐに刻
まれた刺青で、よくみると花弁の一つ一つに読み取り困難な文字が
繊細な細工のように刻み込まれている。
この刺青には彫師の魔力が込められ、焼いても皮をはいでも消え
る事がなくラスルにとっては呪いの様なものだった。
この印がある限りラスルは父親から、父親の血から逃れる事が出
来ない様な気がしてならない。たとえ側にいなくても常に付きまと
われている気がしてならないのだ。
ラスルは手にしたローブで胸元のふくらみにある印を力任せに擦
りつけた。
白い肌は赤くなり、小さな刻印は更に色鮮やかに主張するように
浮かび上がる。
二十年近く有り続ける刻印が今更消えるとは思ってはいなかった
が、久し振りに目にして忌々しさに心が騒いだ。
ラスルは頭を振ると一気に身を沈めた。
身体が酸素を求める極限まで水中で我慢し、耐え切れなくなった
所で勢い良く水面を突き破る。
より多くの空気を求め大きく口を開いて肩で息をし、肺が酸素を
取り込む度に刻印の浮かぶ胸が上下する。
鳥の巣のように絡まりぐしゃぐしゃだった髪は濡れ、白い肌に黒
蛇のように張り付いていた。
64
難しい顔をし、肩で息をしながら顔に纏わり付いた髪を手で払い
除け何気に振りかえると︱︱︱青い瞳と視線がぶつかる。
陽の光を浴びて僅かに紫を帯びた瑠璃色ともとれる青い瞳がこれ
でもかと言わんばかりに見開かれ、ラスルの漆黒の瞳と重なってい
た。
ふわりとした淡い金髪が光を反射して眩く輝き、その美しさにラ
スルは暫し身惚れる。
するとその美しい髪の持ち主は青い瞳を細め、口角を上げてにっ
と笑った。
﹁もしかして誘ってる?﹂
みぞおち
黒いローブとタオルを手にしたアルゼスが、鳩尾から上を湯船か
ら出し惜しげもなく柔肌をさらしているラスルに余裕の笑顔で問い
かける。
意味を理解しかねたラスルが眉間に皺を寄せると、反対に余裕を
見せていたアルゼスが視線を反らして頭を人差し指で掻いた。
﹁そんな裸体を披露されたらさすがの俺でも理性が飛ぶぞ。﹂
抱き上げた体は軽く、腰も尻も細過ぎた。
なのにこの胸の発育は反則だろうと愚痴っていると、ラスルもや
っと自分の置かれた状況を把握し始める。
﹁ひぎゃッ!!!!﹂
ラスルは声にならない声で叫ぶと、同時に腕で前を隠して勢い良
65
く湯船に座り込む。
恥ずかしさに息を止め、目元まで湯に浸かって茹でダコのように
真っ赤になっていた。
﹁何か言って欲しい?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮何も⋮﹂
消え入るような声が返されると、アルゼスは手にしたローブとタ
オルを側の木の枝にかけ、そのまま踵を返してもと来た道を戻って
行く。
ぼさぼさ頭で薄汚れた小汚い娘が次に見た時には、水も滴る見目
麗しい娘に様変わりしていた。
埃っぽい鳥の巣の様だった頭は艶やかな漆黒の髪に変わり、濡れ
た白い肌にまとわりついて尚も水面に漂っていた。髪と同じ漆黒の
瞳は光に揺れ、僅かに開かれた赤い唇は艶めかしくまるでアルゼス
を誘っている様だった。
そんな色香漂う全裸のラスルを目の当たりにし、アルゼスは意外
にも冷静で紳士的だった自分を褒めてやりたい気分だった。
穴があったら入りたい⋮いや、穴がないなら掘ればいいと本気で
穴を掘り兼ねない勢いでラスルは恥ずかしさにのた打ち回っていた。
いやいや⋮恥ずかしいとか言っている場合ではない。裸を見られ
た事よりももっと気にしなくてはいけない事がラスルにはある。
羞恥と長湯で茹でダコになりながら湯から這い出すと、木の枝に
66
かけられたタオルに手を伸ばした。
﹁ちょっとぉぉぉぉっ?!﹂
汚れないように地面に置くではなく枝にかけられたローブとタオ
ルは、ラスルでは僅かに手の届かない位置にあった。 見上げる程背の高いカルサイト程ではなかったにしろ、アルゼス
もラスルの背を余裕で超えている。それに加えスウェールの者にあ
りがちな長い手足。アルゼスが余裕で手の届く場所に着替えを掛け
てくれたとしても、ラスルには届かない場所だ。
跳躍してタオルの端に何とか手をかける事に成功したものの、同
時にローブが降って来た。
タオルでぐしゃぐしゃと髪を拭いてから身体に残った水分を拭う。
﹁見られたかな⋮﹂
ラスルは胸元に刻まれた刻印を手にしたタオルで隠すように強く
押した。
すぐ目の前で見られた訳ではないのだから、見られたとしても形
の判別までは出来ていないだろう。もし判別できていたとしても、
アルゼスが刻印の意味を知らなければ問題はないのだ。
新しいローブに袖を通し濡れたローブを手にしてあばら屋に戻る
と、適当な場所に濡れたローブを干す。
アルゼスは古い本を手にショムの木の木陰に腰を落ち着けていた。
その古い本は魔法書だ。魔法について学び始める子供が最初に読
む基本が記されているのだが、大陸でごく一般的に使われている文
字ではなく古代文字で記されているため、古代文字に馴染みのない
魔法使い以外では解読するのは困難だろう。
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だがアルゼスはそれに構う事無く、ゆっくりとページを進めて行
く。
﹁読めるの?﹂
意外そうに本を覗き込むラスルに、アルゼスはふっと鼻で笑った。
﹁これでも一応王子様なんでね。﹂
﹁魔法に興味がある?﹂
ラスルはアルゼスとの間に一人分距離を開けて座った。
﹁俺達にはないものだからな。﹂
実力の差はあれど、剣なら訓練次第で誰にでも握る事が出来る。
だが魔法は生まれながらのものだ。後から欲しいと思っても、その
血を受け継いでいなければ手に入れる事は出来ない。
﹁剣と魔法の両方使えたら世界征服できそう。﹂
だから魔法使いは魔法意外の力は弱いのかもしれない。
﹁支配は出来ても治めるのは出来ないだろうな。﹂
国が大きくなり過ぎると統治し維持して行くのも困難になる。
広大になり過ぎた領地を隅々まで管理すると言うのは容易な事で
はないのだ。
﹁所で、お前の左胸にある入れ墨は何だ?﹂
突然の事にラスルは心臓が飛び出しそうなほど驚いた。
﹁ななななんっ⋮なんでっ?!﹂
﹁何でって、ちょっと気になっただけだ。答えたくないなら別に
構わないが?﹂
女で、しかも胸元に入れ墨を入れるなんてスウェールでは有り得
ない。あっても娼婦位のものだ。魔法使い特有の印かと思い適当に
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見繕った本を開いてみたが、知りたい答えは今のところ見当たらな
い。
ラスルの動揺の仕方からすると魔法使い特有のものではないかも
しれないと思ったが、裸を見られて焦っているだけのようにも見え
るので何とも言い難い。
﹁えっと⋮じゃあ秘密でお願いします。﹂
あたふたと挙動不審なラスルをアルゼスは半眼開いて見据えた。
焦るラスルにアルゼスの悪戯心がくすぐられる。
﹁秘密⋮そうだな。命の恩人でもある娘の裸を見たなんてカルサ
イトに知れたら面倒な事になる。俺としても秘密にしておいてくれ
た方が助かるな。﹂ そう言ってアルゼスがラスルの頬を撫でると、ラスルは顔を真っ
赤にして後ろに仰け反り、バランスを崩して後頭部を地面にぶつけ
た。
﹁︱︱︱っ!﹂
﹁大丈夫か?﹂
ラスルの反応があまりに新鮮で調子に乗ったアルゼスは、仰向け
状態で倒れているラスルの顔の横に両手を付いて影を落とす。
今にも圧し掛かられそうな体勢に、ラスルは身を小さくして青ざ
めつつも顔を赤くした。
﹁なっ⋮何?!﹂
アルゼスの整った綺麗な顔が必要以上に近付いて来て、ラスルは
69
更に身を縮める。
﹁俺さ、する事なくて暇で死にそうなんだよな。だから世話にな
ってる君へのせめてもの恩返しに、色々と楽しい事でも教えてあげ
ようかと思ってね。﹂
アルゼスは密着しそうな程体を摺り寄せ、ラスルの濡れた黒髪を
額のあたりから撫で付けた。
剣を握り慣れた大きな手が髪を撫で、頬に触れた後⋮その指先が
ラスルの顎を捕える。
ラスルの赤く朱を帯びた柔かそうな唇にアルゼスの唇が重なる︱
︱︱その瞬間。
ごきっ⋮
鈍い音が二人の間で響く。
﹁こんっっのっ⋮エロ王子︱︱︱っ!﹂
ラスルの鉄拳がアルゼスの左頬を直撃していた。
か弱い娘の力で殴られても鍛えているアルゼスに大した衝撃は与
えられはしないが、それでも予想してなかった攻撃をまともに受け、
アルゼスは頬を押さえて驚き目を見開いた。
な⋮何だ今のは?!
女に殴られたのも初めてなら、女が拳を作って殴って来るなどと
いう認識も持ち合わせていないアルゼスは唖然と膝立ちになり、そ
の隙にラスルは身体を滑らせ脱出した。
70
﹁暇で死ぬなら遠慮なく死ねっ!﹂
静寂な世界にラスルの罵声が轟いた。
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別れの日
アルゼスがラスルに殴られた翌日、カルサイトは予定よりも早く
約束通り一人であばら屋に戻って来た。
アルゼスの身を案じながら馬を走らせ急ぎ戻ったカルサイトは、
目撃した二つの光景に驚き紫の瞳を見開く。
まず始めに、カルサイトを目にしたラスルが笑顔出迎えてくれた
事に驚き、その姿が先日別れた時と異なっていた事に再度驚きつつ
も笑顔を返した。
何処となく人と距離を保とうとしている節のあったラスルが、四
六時中人と接する時間を持った事で表情を取り戻したのだ。
いつも無表情だったラスルから向けられた笑顔で、カルサイトは
少なくとも疎ましくは思われていないという事がわかって安堵し、
同時に綺麗に身なりを整えたラスルの想像以上の可憐な美しさに驚
嘆した。
汚れてぐしゃぐしゃだった髪は綺麗に洗って櫛が通されているよ
うだ。思ったよりも長さのあった黒髪は真っ直ぐに腰よりも下に伸
びている。︵ちなみに今朝起きた時点でラスルの髪はかなり乱れて
おり、それに櫛を通したのはアルゼスだ。その櫛すら置き場が分か
らなくなっており、探し出すのに相当な時間を要した。︶
くわ
そしてもう一つカルサイトが驚いた光景︱︱︱
鍬を手にしたアルゼスが畑を耕していたのである。
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一見したカルサイトは幻覚を見ているのかと思った。
何しろ一国の王子、それもスウェールの将来を担う王太子である
アルゼスが鍬を手に農作業⋮黒いローブに身を包み邪魔な袖をたく
し上げている様を見て、アルゼスに心を寄せる姫君達が目にしたな
ら卒倒するだろうと思いながら、額に汗し一心不乱に鍬を振り下ろ
すアルゼスに歩み寄って行った。
﹁これはいったい何の冗談ですか?﹂
後ろからの掛け声にアルゼスの肩がびくりと震える。
いつもなら寝ていても気配を感じて目を覚ますアルゼスにしては
珍しい事だ。
﹁戻ったのか︱︱︱﹂
額の汗を拭いながらちらりと一瞥しただけで視線を外したアルゼ
スの異変に、カルサイトは直ぐ様気付いた。
アルゼスの左頬がほんのりと赤く腫れていたのだ。
魔物に襲われた際の傷はラスルが全て魔法で治癒してくれていた
筈で、先日別れた時にアルゼスの頬には腫れなどなかった。
﹁殿下、それはどうなさいました?﹂
鍬を手に畑を耕せるまで回復してくれたのは嬉しい限りだが、自
分のいない間に何が起こったのかと腫れた頬が気になる。
﹁ああ、何でもない。﹂
﹁何でもないとは︱︱︱﹂
言いかけて視線を彷徨わせるアルゼスの不審な動きにカルサイト
73
は、後を付いて来ていたラスルを振り返った。
﹁暇で死にそうだって言うから手伝ってもらってるの。さすがに
王子様に死なれちゃ困るでしょ?﹂
アルゼスが農作業に勤しむ理由を問われているのだと思ったラス
ルが説明する。
その小さな白い手を見たカルサイトはもう一度アルゼスの頬の腫
れを確認し、なる程と一人納得する。
﹁確かに殿下に死なれては困りますね。﹂
ラスルに対して優しい微笑みを浮かべたカルサイトだったが、次
にアルゼスに視線を向けた時には微笑みに別の物を宿していた。
﹁まさかスウェールの王子にあるまじき行いをしたのではないで
しょうね?﹂
﹁お前⋮目が笑ってないぞ。﹂
﹁お答え頂きましょうか︱︱︱﹂
カルサイトの周囲で温度が下がった気がするのは気のせいではあ
るまい。
これ以上はぐらかしても不興を買うだけだと感じたアルゼスは何
もしていないと潔白を訴える。
﹁彼女は命の恩人だぞ、俺だってそのくらい分かっている。誓っ
て言うが手を出したりはしていない。﹂
﹁では何故殴られたりするような事態に陥ったのです?﹂
﹁それはまぁ⋮冗談が過ぎたと言うやつだ。﹂
﹁何が冗談ですか。まったくあなたと言う人は︱︱︱﹂
﹁ちょっと待てっ、俺は潔白だ。指一本触れていないのに説教さ
せる謂われはないぞ。﹂
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アルゼスの訴えにもカルサイトの無言の追及は容赦がない。
笑顔と共に冷たい冷気が立ち込めていた。
幼少時代からアルゼスの友人として常に傍らで過ごして来たカル
サイトには、過去から現在に至るまで全ての粗相のネタを掴まれて
いる。
清廉潔白でアルゼスの為なら何の迷いもなく命を差し出す男だっ
たが、その分王子としてあるまじき行為に及ぼうとするアルゼスに
苦言を挟むのも何時しかカルサイトの役目となっていた。アルゼス
自身そんなカルサイトに頭が上がらないのも手伝い、何事も見透か
す様な紫の瞳に睨みつけられると、何も悪い事をしていなくても悪
い事をしてしまったような気になるのは何故だろう?
﹁ゆっ⋮指は触れたが手出ししていないのは本当だ。﹂
﹁なる程。からかい半分に弄ぼうとした所を反撃に遭い、結果が
これ言う訳ですね。﹂
カルサイトはアルゼスの腫れた頬ではなく手にする鍬を指差し、
アルゼスはばつが悪そうに舌打ちする。
﹁それにしても殿下が虚を付かれるなど珍しい事もあるものです。
﹂
見てみたかったですねと笑いを浮かべたカルサイトは一瞬真顔に
戻ると、アルゼスにある言葉を耳打ちし、耕されたばかりの畑に種
をまくラスルの方に歩み寄って行った。
﹃フランユーロに動きがある模様です︱︱︱﹄
耳打ちを受けたアルゼスの青い瞳が一瞬で鋭いものに変わる。
75
また無駄な血を流す事になるのか︱︱︱
アルゼスは手にした鍬を力任せに振り下ろした。 ﹁多大な迷惑をかけて申し訳なかった。﹂
頭を下げるカルサイトを、作業の手を止めたラスルは立ち上がっ
て見上げた。
﹁行くの?﹂
何処となく寂しそうなラスルに心が痛むが、カルサイトやアルゼ
スにもやるべき事が目白押しだ。ここで無駄に時間を潰す訳にはい
かない。
﹁共に参るか?﹂
命の恩人であるラスルには何らかの礼をしなければならないと思
っていたし、スウェールの王子の命を救った以上、ラスルにもそれ
を受け取る義務も生じる。それにこれ程力の強い魔法使いを捨てお
くというのも、スウェール王家に使える人間としては惜しい気持ち
もあった。
﹁行かない。わたしがいるべき場所はここだから︱︱︱﹂
予想した答えにカルサイトは頷く。
﹁そうだな。君はここにいる方がいいのかもしれない。﹂
76
魔物の巣くう森に一人寂しく隠れ住むラスルを連れ出したいと思
ったが、ここを出たとしてラスルが望む人生を歩める保証はないの
だ。
﹁ありがとう、君には本当に感謝している。﹂
カルサイトは大きな手を差し出し握手を求め、ラスルもそれに小
さな手を重ねた。
﹁落ち着いたらまたここを訪ねても?﹂
﹁かまわないよ。﹂
約束が果たされる可能性は低いと思いながらもラスルは笑顔で頷
く。
細められた黒い瞳と柔らかに緩められたラスルの笑顔に、カルサ
イトはここを去るのが少々惜しくなったがそれもほんの僅かの事。
すぐに気持ちを正し、後方より歩み寄って来るアルゼスに場所を譲
った。
﹁世話になった。願いがあれば申してみよ、何なりと叶えてやろ
う。﹂
黒いローブに身を包んだまま﹁王子様﹂に変わったアルゼスにラ
スルは噴き出す。
﹁なんだ、失礼な奴だな。﹂
自分でも似合わないと思いつつ、アルゼスはラスルを急かした。
﹁王侯貴族だけではなく、民がいつも笑って暮らせるような治世
を築けるいい王様になって。﹂
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﹁私欲はないのか?﹂
﹁う∼ん⋮今度来た時また畑を耕してよ。﹂
力のないラスルが耕すよりも初心者のアルゼスが耕した方が耕さ
れた土の深さが違う。
﹁これは意外に重労働だったな。次回はカルサイトにも手伝わせ
るとしよう。﹂
笑いながらアルゼスは右の小指に嵌めていた白金の指輪を外し、
ラスルの右手を取って人指し指に嵌めた。
煌びやかな宝石は付いていないが繊細な模様が施され、その中に
はスウェール王家の紋章と、アルゼス自身の印が刻み込まれている。
﹁困った事があれば訪ねて来るといい。﹂
指輪をみつめるラスルにアルゼスアは、これを門番に見せれば城
に入れてもらえると説明する。
ラスルは慣れない指輪に違和感を覚えながら繊細な細工をみつめ
ながら呟いた。
﹁売ったらいくらになるかな⋮﹂
﹁売るなよ⋮﹂
冗談とも本気ともつかないラスルの呟きにアルゼスは少し悲しく
なる。
﹁冗談だって。こんな曰く付きの指輪、売ろうとしたら捕まっち
ゃうよ。﹂
王家の紋章入りの指輪を売りに出した時点で何処で手に入れたと
いう話になり、運が悪ければ首が飛ぶ。
最後にアルゼスは子供にするようにラスルの頭をぽんぽんと優し
く叩いた。
﹁ちゃんと風呂に入れ。今度会った時に汚れ腐っていたらまた風
呂に放り込むからな。﹂
78
﹁あ∼⋮努力するよ。﹂
苦笑いを浮かべるラスルに笑顔を返すと、アルゼスは馬を集めて
いるカルサイトの方へと向かって歩いた。
その顔にはラスルに向けていた笑顔はなく、青い瞳は厳しさを宿
している。
﹁砦に向かう、城に戻るのはそれからだ。﹂ アルゼスの言葉にカルサイトは無言で頷いた。
ラスルは馬を引き連れ森を去って行く二人を見送っていた。
ヒギ
魔物との遭遇を心配したがアルゼスも完全に回復しているようだ
し、魔物の群れを倒したばかりなので力の強い魔物に出くわす確率
は低いだろう。
魔物に襲われる彼らを助けて今日で五日目、ほんの僅かな時間だ
ったが久し振りに人の温もりに触れ、ラスルは避けていた人との交
わりに恋しさを思い出し別れを寂しく感じていた。
ラスルは服の上から左胸に刻まれた刻印に触れる。
出会う事などないと思っていたスウェールの王子。ここで出会っ
たのは何かの運命なのだろうか?
少しの不安を抱えながらも、ラスルは一人きりの日常に戻って行
く。
にぎやかだったあばら屋は静けさを取り戻し、ラスルは無言で種
蒔きの続きに取り掛かった。
79
80
もう一つの名
客人が去り一人きりの生活に戻って二ヶ月後、ラスルは冬を前に
街へと薬を売りに出ていた。
夏の盛りを過ぎ実りの秋に突入した世界は赤や黄色に色付き、徒
歩で街に向かいながら木の実を採取する。薬と一緒に売りに出すの
だ。
また訪ねても⋮そう言ったカルサイトの言葉を鵜呑みにしていた
訳ではなかったが、ラスルは心の何処かで彼らの来訪を待ち望んで
いた。だが彼らの身分からすると、ラスルの住まう森の奥へ気安く
来るには距離も時間もかかりすぎたし、二人にそんな時間があると
は到底思えなかった。
それでも望まぬ客だったとは言え、彼らと接したことで人恋しさ
が生まれてしまったのか。今回ラスルが街へ出向いたのはいつもの
時期よりもほんの僅かだが早かった。
街に付くとラスルを見知る常連客が集まり、その中には薬を仕入
れる目的でやって来た医師の姿もある。持病の薬や常備薬を買いに
来る人であっと言う間に薬は売り切れ、売れ残った木の実を袋に詰
めると冬越しに必要な食料を買い付けに店を回った。
そこでラスルは、先の戦いで敗北したフランユーロがスウェール
に攻めて来ると言う不穏な噂を耳にする。
また戦争になれば多くの犠牲が出て、罪なき民の命が無駄に失わ
81
れる事になる。国境にも近い街の住人は不安気に語っていたが、現
在の軍事力はフランユーロよりもスウェールの方がずば抜けて大き
かった為、現実に攻め込むには余程の秘策がない限り無理があるだ
ろうという意見で決着していた。
買い付けも終わりそそくさと街を出るラスルの前に、帯剣したが
たいのいい男が近付いて来た。
﹁またたんまり買い付けたな。持ってやろうか?﹂
ラスルは短い茶色の髪と瞳をもつ男を冷ややかに一瞥すると歩み
を早める。
男は二十代後半と思しき年齢で名をザイガドと言った。
浅黒い肌で大きな体は南方の民の特徴で、過去には傭兵としてス
ウェールとイジュトニアの戦いに身を置いていたらしいが、今は金
さえ払えば殺しも厭わない何でも屋をしているらしかった。
無視して先を急ぐラスルの後から呑気な声が上がる。
﹁久し振りだってのに無視とはつれねぇなぁ∼﹂
つれなくて当然、立ち止る事なく先を急ぐ。
ラスルは二年近く前にザイガドに攫われた揚句、人買いに売り渡
された経験があるのだ。
この男は粗悪な身なりに似合わず人を見抜く目を持っている。最
初にしつこく纏わりついて来た時に魔法で脅しをかけた。しかし驚
はな
きはしたがラスルに恐怖心を抱く事は全くなかった。ラスルが本気
で攻撃を仕掛けて来る事はないと端から分かっているのだ。
攫われ売られた時は運良く逃げ出して来たものの、街に薬を売り
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に行く前だった荷物はザイガドに奪われたうえに勝手に売り捌かれ
ており、ラスルを売った金以外にも利益を得た彼は更に懐を暖かく
していた。
それにも構わず、自分の手で人買いに売った筈のラスルが戻って
来ているのを見かけたザイガドは、悪びれもせず飄々とした態度で
ラスルに接して来た。
以来ザイガドはラスルを見ると攫いはしないが、いつも馴れ馴れ
しく声をかけて来るようになったのだ。
﹁おいおい、まだ怒ってんのかよ。﹂
早足で歩くラスルの後から懲りもせず声が浴びせられる。
﹁あん時の事は悪いと思ってるけどよ。お前が逃げ出したりした
せいでこっちは信用がた落ちだったんだぜ。﹂
だからお互い様だろうと言ってのけるザイガドにラスルはくるり
と振り返った。
漆黒の瞳はいつになく敵意剥き出しだ。
﹁何が信用がた落ちよ、人攫いがいっぱしの口きくな!﹂
怒り心頭のラスルに構わずザイガドは腕を伸ばすとラスルの顎を
掴んだ。
﹁この顔なら相当稼げるってのに惜しいなぁ∼﹂
まったく悪びれた様子のないザイガドに、ラスルは顎を掴んだザ
イガドの手を払い除ける。
﹁稼ぎは女郎屋がくすねるだけで売られたこっちはただ働きよ。﹂
﹁だったら俺が直接客を紹介してやる。儲けは半々でいいぜ?﹂
﹁さよなら。﹂
相手にした自分が馬鹿だったと踵を返し、街道の先を真っ直ぐ見
83
据えて森を目指して進んで行く。
遠く前方から馬車が一台近付いて来ていた。
﹁そんなに怒ってばっかだと折角の可愛い顔が台無しだぞ。﹂
ラスルが早足で進んでいるというのにザイガドは余裕の足取りで
付いて来る。
無視を決め込むラスルに構わずザイガドは話を続けた。
﹁世の中ってのは嫌な事だらけだ。嫌な事はさっさと忘れる、そ
れに限るぜ。でもって俺と組んで一商売しようや。たんまり稼いで
上手い酒飲んで女を抱けば文句なしの人生送れるぞ∼﹂
ラスルは一度立ち止まると勝手に話を勧めるザイガドを見上げた。
顔や剥き出しの肌には無数の傷跡があり、そのどれもが戦いで受
けた傷だろうと推察される。筋肉隆々の太い腕はラスルなど一捻り
で殺せるだろうし、腰にある大ぶりの剣を軽々と振るえるのだろう。
傭兵として生き残って来ただけの男だ。戦場では頼もしい見方にな
ってくれるだろうと推察されるが⋮
今は何処からどう見てもならずもので、口調からもそのいい加減
さが伺える。
ラスルは深い溜息を落とした。
﹁何だその溜息は。﹂
失礼なやつだなと愚痴る似合いもしないザイガドの言葉に、ラス
ルは思わず口を開いた。
﹁わたしはお酒も飲まないし女も抱かないの。あなたはあなたで
楽しい人生送ればいい。でもあなたの人生にわたしを巻き込むのだ
けは止めて!﹂
﹁お前もしかして俺の人生に巻き込まれてると思ってる?参った
なぁ∼嫁なんて貰う気は微塵もないんだが⋮まぁお前なら見てくれ
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いいし貰ってやってもかまわねぇぜ?そしたら儲けは俺一人のもん
に出来るしなぁ。﹂
この男は嫁に客を取らせる気なのか?!
呆れと怒りで爆発しそうになるが、その対象が今はラスル自身に
向けられている事に気付いて悪寒が走った。
﹁わたしは一度たりともあなたの嫁になりたいなんて口にした覚
えはないっ!﹂
体力もないのに早足で歩き、怒りに任せ怒鳴ったせいで頭がふら
ついた。
そんなラスルを何気に支えながらザイガドはにっと笑い白い歯を
覗かせる。
﹁んな照れるなって。そんで手始めっちゃ何だが、いい加減名前
くらい教えてくれてもいいんじゃねぇか?﹂
肩に馴れ馴れしく重い腕を回され、ラスルは直ぐ様身を引いた。
駄目だ、話が通じない︱︱︱
ラスルは頭痛を覚えこめかみを押さえた。
﹁もういい、今度こそ本当にさよなら。﹂
溜息を付きながらラスルはザイガドに背を向ける。
再び歩き出したラスルをザイガドは追って来る事はなかった。 ﹁気が変わったら話に乗るぜ∼っ!﹂
軽い声が後ろから浴びせられるが、ラスルは今度こそ無視して先
を急いだ。
85
ひづめ
先を急ぐと、先程前方に見えていた馬車がすぐ側まで近付いて来
ていた。
二頭立ての馬車が蹄と車輪の音を響かせ迫って来るのを脇に逸れ
てやり過ごす。
馬車が通り過ぎる手前で何の気なしにもと来た道を振りかえると、
ラスルよりもかなり歩みの速いザイガドの背中が小さくなって行く
のが見えた。
もうあんな所まで歩いている⋮ラスルが小さくなるザイガドの背
に視線を馳せていると、すぐ側でガタンという音がして馬車が停止
する。
何だろうと思い御者に顔を向けると馬車の扉が開き、黒髪黒眼で
ラスル同様黒いローブに身を包んだ魔法使いの男が姿を現した。
短めの黒髪には白髪が混じり、眉間には深く皺が刻まれている。
表情は冷たく馬車の扉を開けて驚いたように上からラスルを見下ろ
していた。
86
年の頃は五十歳に足りない程だろうか⋮見下ろされたラスルは知
り合いかと首を傾げ男を見上げる。
男は馬車から完全に降り立ちラスルの前に立つと、僅かに口角を
上げにやりと笑った。
﹁ラウェスールだな︱︱︱﹂
地の底を這うような、低く冷たい声色。
ラスルはその名を耳にした途端、これでもかという程に目を見開
き息を止めた。
﹁何で?!﹂
どうしてその名前を︱︱︱?!
驚き硬直したラスルの腕を男が掴む。
その瞬間、男の全身から湧き経つ湯気のように黒い霧が立ち込め
た。
﹁あなたまさか︱︱︱!﹂
ラスルははっとして掴まれた腕を振りほどこうとするが、相手が
腕力の弱い魔法使いであるに関わらずびくともしない。
抗い身を捩るが、その間にも掴まれた腕から次々と流れ出て行く
ものを感じ、ラスルはその不快さに胸を押さえた。
魔力が奪われる︱︱︱! 相手が黒の光を操る魔法使いだからではなく、初めて受ける感覚
だが確実に体内から魔力が失われて行くのを感じた。
87
痛みがある訳ではない。だが体の内側から精神が無理矢理引き出
されるような、何とも例え難い不快な感覚にラスルは悲鳴を上げた。
﹁あああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!﹂
逃げ出したくても逃げられない。
魔力を引きだされ始めた瞬間から体が硬直し体の自由が利かなく
なった。
息苦しさと訳の分からない異様な感覚に苛まれ、自由になる方の
腕で頭を押さえて闇雲に振る。
脂汗がどっと噴き出し流れ落ちる感覚に肌がひりひりした。
頭の中に手を入れて混ぜられるような感覚に意識を失いかけた瞬
間、ラスルは腕を掴んで魔力を奪い続ける男を必死の思いで睨みつ
ける。
﹁あなた⋮シヴァ⋮?﹂
唯一知る、祖父から教えられた黒の光を操る魔法使いの名。
ラスルの口から洩れた名を耳にした男は不敵に笑うと、意識を失
い倒れ込むラスルを受け止め馬車に押し込んだ。
88
魔法使い達の過去
ラスルが目を開くと辺りは闇に包まれていた。
全身を襲う倦怠感に身を起こすとどうやら宿屋の一室の様で、窓
から差し込む月明かりでぼんやりと室内が照らされている。
息苦しさと倦怠感︱︱︱魔力を抜かれたせいかふらつきも伴う。
大きく息を吐いて上体を起こし寝台の上で足を組むと、誰もいな
いと思っていた室内に人の気配を感じた。
顔を向けると壁に背を預け立ったまま腕組をしている男⋮シヴァ
の姿が目に入る。
面識はなかったが、黒の光を操る魔法使いでラスルの真名を知っ
ている男と言えば思い当たるのは一人しかいない。
﹁あなたシヴァでしょ?﹂
ラスルは亡くなった祖父から聞き及んでいた、母親の夫の名を口
にした。
男は瞳を閉じると口角を上げふっと笑い、次に目を開いた時には
しっかりとラスルを見据えた。
﹁オーグに聞いたか︱︱︱﹂
オーグとはかつてイジュトニアの魔法師団で師団長という、軍部
で最高位の位についていたラスルの祖父である。
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﹁オーグは私の事を何と?﹂
黒の光という特殊な魔法を操る存在として、シヴァもかつては魔
法師団に身を置いていた。
魔法使いとしての攻撃や治癒の力は期待できないが、黒の魔法使
いには魔法が効かないうえ、魔法を封じる力を持つ存在としてのシ
ヴァは敵に回すには厄介な存在。その為黒の魔法使いは存在が露見
した時点でイジュトニア王家に忠誠を誓わされる。
ラスルがシヴァについて祖父から聞き及んでいたのはそういう一
般的な事と、彼が祖父の娘、ラスルの母であるイシェラスの夫だっ
たという事位である。
﹁特別な事は何も⋮ただ、姿を消したあなたの身を案じていた。﹂
母の夫だったが、シヴァはラスルの父親ではない。
ラスルの母イシェラスはシヴァと婚儀を上げた翌日︱︱︱イシェ
ラスに横恋慕していたイジュトニアの王ウェゼートによって攫われ
る様にして王宮に連れて行かれたのだと言う。
﹁力及ばず申し訳ない事をしたと︱︱︱ずっとあなたの身を案じ
て捜していた。﹂
ラスルの言葉にシヴァはふっと鼻で笑った。
﹁オーグ一人にどうにか出来た問題ではない。それにオーグが案
じたのは私の身ではなくウェゼート王の身だ。﹂
金の光を放つオーグでさえシヴァに力を封じられては無力に等し
い。
妻を奪われ姿を消したシヴァがいつ復讐に出るか⋮たとえ王の我
儘で娘の幸せを奪われ、自身は王の横暴に抗議の意味を込めて魔法
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師団長の座から身を退いたとしても、王に忠誠を誓っていたオーグ
がウェゼートの身を案じるのは当然だ。
﹁それで目的は何。愛しい妻を奪ったウェゼートの娘であるわた
しを殺したい?﹂
ラスルの左胸に刻まれた刻印。
それはウェゼート王の、王家の血を引く者だという証だ。
シヴァはラスルに懐かしむ様な視線を向ける。
﹁お前はイシェラスにそっくりだな。﹂
だから一目で分かったと、シヴァはラスルの座る寝台に歩み寄っ
て来た。
ラスルは逃げずにシヴァを見据える。
﹁愛しいイシェラスの娘であるお前に刃を向ける気はない。だが
利用はさせてもらう。﹂
愛しいイシェラス︱︱︱そう口にしながらもラスルを見下ろすシ
ヴァの視線は先程と打って変わって氷のように冷たい物へと変化し
た。ラスルを通して婚儀の翌日、愛しい妻を攫って行ったウェゼー
トを見ているのだろうか?
﹁わたしに利用価値なんてないわ。﹂
﹁何の冗談だ?﹂
シヴァは馬鹿にするように喉を鳴らして笑った。
﹁お前がスウェール国内にいると言うだけで、ウェゼートは何の
見返りも求めず無償で軍を差し出したのだぞ。お前の命がかかれば
あの男は殺戮だろうとなんだってやってのけるさ。﹂
﹁殺戮?﹂
ラスルの言葉にシヴァは口角を上げ無言で微笑んだ。
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﹁あなた何する気?イジュトニアに何をやらせるつもりよ?!﹂
声を上げた瞬間、鉛の様に重い体が揺らいで寝台に沈む。
魔力を奪われた後遺症だ。
力を使い過ぎて倦怠感を覚えた時もあったが、全ての力を無理矢
理抜き取られた気だるさはその時の比ではない。恐らくまともに立
って歩くのすら困難であろう。
魔力が戻るのにどれ程の時間がかかるのか⋮戻ってもまた同じ様
に抜き取られてはたまらない。
シヴァは自分を使ってイジュトニアとの間で何かをしようとして
いる。
ウェゼートの事などどうでもよかったが、イジュトニアにはラス
ルの大事な人の存在がある。何としてでもシヴァの下から逃げ出し
てイジュトニアに害が及ぶ事だけは避けたかった。
ラスルが寝台に倒れ込むと、シヴァは元いた位置に戻り壁に背を
預けて腕を組み瞼を閉じる。
目の前で見張られているのには腹が立ったが、とにかく休息を取
って一刻も早く力を取り戻さねばならない。
苛立ちを無理矢理抑え込み、ラスルは瞼を閉じて眠りに意識を集
中するが、囚われの身ではそう簡単に眠れるものではない。しかも
こんな時に思い出すのは、けして思い出したくない過去の出来事。
ラスルは瞼を開け、壁に身を預けて腕を組むシヴァに視線を這わ
せた。
シヴァもラスルの過去にもとづく犠牲者の一人だ。
ラスルは息苦しさに身を捩ると、シヴァに背を向け再び瞼を閉じ
た。
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黒の光を宿す魔法使いは魔法の国イジュトニアでも異端の存在で、
最高峰で希少とされる金の光を宿す魔法使いよりもさらに数が少な
い。
だが魔法使いの力を封じ込めるという異質な能力を持つため迫害
を恐れ、その中にあってすら存在を公にしたがらず、黒の光の魔法
使いはいつしか故郷を捨て異国へと身を置き、純血種は根絶状態で
あった。
存在自体が迫害の対象で名乗りを上げ王家に忠誠を誓って後も、
脅威である黒の存在に魔法使い達は心を開かず冷たい視線を送り続
ける。
黒の魔法使いであるシヴァが王に忠誠を誓い魔法師団に籍を置い
てからも、同胞からの異質な脅威に対する迫害は止む事はなかった。
だがそんな中で好奇の視線を向けていたのが当時の魔法師団師団
長オーグの娘、イシェラスであった。
イシェラスは他の魔法使いとは全く違う視線でシヴァを見て、珍
しい黒の魔法使いの力を知りたがった。実際に力を奪われた時にど
うなるのかと、拒絶するシヴァを言い含め試してみた事もあったら
しい。美しく利発で聡明な、誰にでも好かれるイシェラスがシヴァ
に好奇心を持ち常に傍らで接するようになったことで、周囲のシヴ
ァに対する見方も徐々に変わって行った。
やがて二人が恋に落ち結婚するという頃になると、周囲はシヴァ
が黒の魔法使いであるにもかかわらず、誰もが二人の門出を祝福し
てくれるようにまでなっていた。
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だがそんな幸せも長くは続かなかった。
イシェラスに好意を寄せていたのはシヴァや他の男達だけではな
い。イジュトニアを治めるウェゼート王ですらイシェラスに思いを
寄せており、イシェラスが他の男と婚姻を結んだと知った翌日、ウ
ェゼートはイシェラスをシヴァから奪い去ったのだ。
王の不当な扱いにオーグは抗議し、娘を夫の元へ返すよう進言す
るがウェゼートは聞き入れなかった。それどころか後宮に閉じ止め、
父親であるオーグも含めて、けして誰にも合わせようとしなかった
のだ。
オーグがイシェラスに再会できたのはそれから数ヵ月後、イシェ
ラスがウェゼートの子を身籠ったと知れた時である。
イシェラスが王の子を宿したと知ったオーグは魔法師団を退団し、
夫であるシヴァはその日から姿を消した。魔法師団に属する者が行
き先も告げず勝手に姿を消す事は絶対に許されない。シヴァは姿を
消したその日より大罪人として追われる身となった。 そうしてウェゼート王が、王としての地位も威厳も忘れしでかし
た暴挙で生まれたのがラスルである。
ラスルは背中の向こうでシヴァの息遣いを感じていた。
国から追われる身となったシヴァは今まで何処でどうしていたの
だろうか。
ラスルは生まれると王の子の証である刻印を刻まれたが、王の興
味は子にはなくイシェラスにだけ向いていた。
ラスルは母から引き離されオーグの下で育てられる事になりるが、
イシェラスはラスルを生んで間もなく心労と出産の疲れから病に伏
し命を落とした。
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幼いラスルを連れて大陸中を歩いたオーグは世界をラスルに見せ
るという名目の下、黒の魔法使いであるシヴァを捜し求めていた。
イジュトニア国内ならともかく純粋な魔法使いは異国では目立つ
存在である。にもかかわらずシヴァの消息は掴めぬまま時が過ぎた。
やがて高齢に達したオーグの体も病にむしばまれ、ラスルはウェ
ゼートの元へと返される事となる。
捨てたに等しい娘だったが、赤子の頃とは違い当時十二歳だった
ラスルはイシェラスの面影を宿す美しい少女に成長していた。
突然王女としての地位と教育を押し付けられたラスル。その傍ら
では常にウェゼートの視線が纏わり付いた。
王宮に馴染めないラスルの身を案じるかに優しく接してくれるウ
ェゼートに、母の不幸を知るせいで王の事を快く思っていなかった
ラスルも心を開きかけたが、何気に触れる手、絡みつく視線が気に
なり緊張を和らげる事が出来ない時間を過ごした。
まつりごと
そんなラスルにウェゼートは離れていた時間を取り戻すかに親密
に接し、国の政も王太子である第一王子のイスタークに任せきりに
なってしまっていた。
やがて二年の時が過ぎ、ラスルは堅苦しい王宮での生活に我慢の
限界が近づいていた。そんな時にスウェールから末の王女⋮つまり
ラスルを次代のスウェール王妃として輿入れさせて欲しいという申
し入れが来る。
その申し出を受けたのは政を預かっていたイスタークで、直前に
なるまで国王であるウェゼートには伏せられたままになっていた。
たが
これは父王のラスルに対する異常な愛情を見抜いていたイスター
クの判断だったが、この判断によってウェゼートの箍が外れてしま
95
う。
ウェゼートは時を追う毎にイシェラスに似て来るラスルを、娘で
はなく一人の女として見るようになっていた。
城に戻ったラスルを王宮という籠に閉じ込め、自分以外の男の目
に触れさせる事すらさせなかったのである。実際ラスルが異母兄で
あるイスタークに会ったのも殆どないに等しく、会話を交わした記
憶もなかった。
そんなウェゼートがラスルの輿入れが決まったと聞いて激怒した
のは言うまでもない。
ウェゼートはラスルの眠る寝室に怒り心頭で乱入すると、実の娘
であるラスルに襲いかかったのである。
﹃イシェラス、そなたを誰にも渡すものか︱︱︱!﹄
ラスルは自分を組み敷きながら母の名を呼ぶウェゼートの声を間
近で聞いた。
父王の唇が執拗に身体を這い、必死で抵抗するものの押さえつけ
られ纏わり付く手が離れる事はない。衣服を引き裂かれ、膨らみ始
めた乳房を愛撫する手に全身の血が凍り付き、あまりの恐ろしさに
声を上げる事も叶わなかった。
ラスルは絶望の涙を流し、魔法を使い拒絶する事も、舌を噛み切
る事すら忘れていた。
抵抗と諦めが入り混じる中で体に圧し掛かる重さが突然失われた
と思った瞬間、ラスルは腕を引かれ誰か胸に抱き竦められていた。
視界の端には壁際まで吹き飛ばされ唸りを上げるウェゼート王の
姿が映ったが、ラスルをしっかりと胸に抱いた腕はその場からすぐ
に退散する。
見上げた先にあったのは若い青年の姿だった。
裸のラスルを胸に抱いた青年は人目を避け暗い廊下を歩くと、自
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室の寝室へ運び込んで優しく寝台に下ろし、小刻みに震えるラスル
にシーツを撒きつけ肌を隠してくれた。
﹃ラウェスール、私が分かるか?﹄
青年の問いにラスルが首を振ると瞳に溜まっていた涙が零れ落ち、
あに
青年は零れた涙を指の腹で拭いながら名を告げた。
﹃私はイスターク、そなたの異母兄だ。﹄
異母兄と名乗り微笑む青年に、ラスルはウェゼートがラスルに見
せていた異質な微笑みとは違うものを見付けほっとする。
何時の間にか体の震えも治まっていた。
﹃イスターク⋮わたしのお兄さん?﹄
﹃そうだ、そなたの兄だよ。﹄
優しく微笑んで抱きしめられ、その優しい温もりにラスルはほっ
として安堵の涙を流した。 その後イスタークはラスルを夜の闇にまぎれ城の外へと逃がし、
ラスルは祖父のオーグが余生を過ごしているスウェールの森を目指
した。
人としての禁忌を犯しかけたウェゼート王は、イスタークに魔法
で弾き飛ばされたお陰で一線を超える事だけは免れたが、ラスルに
対する申し訳なさと後ろ髪惹かれる許されない思いに交差され悩み
続ける。
ラスルを再びウェゼートの前に出す事は同じ過ちを繰り返すだけ
だと判断し、イスタークはラスルを死んだものとして処理し、ウェ
ゼートもそれに応じて逃げたラスルの後を追う事はしなかった。
ラスルを病死したものとして処理する事でスウェールへの輿入れ
の話も当然立ち消え、わざわざスウェールに手を貸す必要もなくな
った。
だがラスルが身を寄せた森がスウェール国内にあるため、政務に
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復帰したウェゼートは自国の誇る魔法師団を何の見返りも求める事
なくスウェールに向かわせ、スウェールはフランユーロに辛くも勝
利する事が叶い今に至る。
己が身と、それに関わる人々に起こった過去を思い出していたラ
スルは一睡もする事なく朝を迎えた。
それから暫く後、ラスルは魔法力が回復する度にそれをシヴァに
抜き取られ、慢性的な倦怠感に襲われ寝たきりの状態が続く。
その間にラスルの身は国境を越え、やがてフランユーロへと足を
踏み入れていた。
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頼るもの
馬車での移動中、幼い頃より旅を続けていたラスルは車窓の風景
からここがフランユーロである事を知った。
ラスルを利用する︱︱︱そう言ったシヴァが何故ラスルをフラン
ユーロへ連れて来たのか。
妻であるイシェラスを奪われた事に対する報復ならイジュトニア
に向かうものだと思っていた。だがフランユーロ入りした事で例え
ようのない不安が過り、脳裏にはアルゼスとカルサイトの顔が浮か
んだ。
薬を売りに出向いた街で耳にした、フランユーロがスウェールに
戦いを仕掛けるという噂。
シヴァがフランユーロ側に付いているのだとしたら︱︱︱
戦力では絶対的にスウェールに歩があるが、前の戦いの時とは逆
に、イジュトニアの魔法師団をフランユーロに味方に付ける事が出
来たとしたらどうなるだろう。
その為にラスルが利用されるのだとしたら?
イジュトニアの王ウェゼートがラスルに異常な愛情を抱いている
のはラスルだって知っている。前回の戦いもラスルがスウェールに
逃げたから、イジュトニアはラスルを守る意味を含めてスウェール
の味方に付いたのだ。
そして今回、フランユーロがラスルを人質に捕りイジュトニアの
軍事力を味方につけようとしているのだとしたら︱︱︱ウェゼート
は間違いなくラスルを手に入れたフランユーロに従い、スウェール
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に攻撃を仕掛けるだろう。
それが身の毛もよだつ現実だ。
時が過ぎてもウェゼートが肌に触れた忌わしい感触は忘れる事が
出来ない。
しかしそれだけだろうか?
シヴァの思惑がフランユーロに味方し、ラスルを人質にしてイジ
ュトニアの魔法師団をスウェールに侵攻させるだけなら、シヴァに
とって大した利益になるとは思えない。シヴァがラスルを利用する
というのは、ウェゼートへの恨みを晴らす為なのではないのか? 正しい答えを知るのはそう先の話ではなかった。
ラスルが連れて行かれたのはフランユーロの都外れにある古い屋
敷で、そこでラスルは新たな男と顔を合わせる。
﹁この娘が⋮か?﹂
灰色の冷たい瞳で寝台に横たわるラスルを見下ろしていたのはフ
ランユーロの国王、グローグであった。
齢六十になるグローグはその歳に似合わず血色もよく勇猛な姿を
しており、見た目は五十代前半と言った感じで若々しさが感じられ
る。
一方ラスルはと言うと、僅かでも魔力が体内に戻る度シヴァによ
って抜き取られるという事を繰り返されていたため、体は衰弱しき
り立ち上がる事さえ困難になっていた。
﹁金の光を放つ魔法使いの噂を聞いてまさかとは思いましたが⋮
間違いなくイジュトニアの王女ラウェスールで御座います。﹂
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シヴァの言葉にグローグ王は気分を良くしたのか野太い声で笑い
出した。
﹁これであの忌々しいスウェールを陥落させると同時に、イジュ
トニアまでも我が手に入れる事が出来るのだな?!﹂
笑いながらグローグは大きな手でラスルの頭を乱暴に掴んで自分
の方に向かせた。
﹁なる程、確かに美しいが実の娘に溺れるなど⋮イジュトニアの
王もとんだ愚王だな。﹂
だが前回はこの娘のせいで我が国は負けたのだと、笑いを怒りに
変えラスルを乱暴に投げ捨てる。
﹁イジュトニアの魔法師団がスウェールを攻撃している間に、我
が軍がイジュトニアを落とし、ウェゼート王を拘束する。さすれば
イジュトニアの魔法師団も我が思いのまま⋮フランユーロが大陸を
支配する日もそう遠くはないぞ!﹂
なんですって︱︱︱?!
ラスルはグローグ王の言葉に身を震わせた。
イジュトニアはフランユーロのいいなりになっている間に国を落
とされると言うのか?!
シヴァの目的はウェゼート王をどうこうするだけではなく、イジ
ュトニアと言う国を壊滅させる事なのか。それ程恨みが強いのか?!
﹁よくやってくれたシヴァよ、これよりイジュトニアに使いを送
101
り交渉の席を設ける事にしよう。﹂
シヴァは無言で首を垂れ、グローグ王は上機嫌で部屋を出て行く。
ラスルは傍らに背を向けて立つシヴァに向かって精一杯の力で身
を起こすと詰め寄った。
﹁あなた、自分がいったい何をしようとしているのか⋮ちゃんと
分かってるの?!﹂
声を荒げると息が続かず、やっとの思いで起こした身が再び寝台
に沈む。
シヴァはゆっくりと向き直り、冷ややかにラスルを見下ろした。
﹁お前などにイシェラスを奪われた私の気持が理解できる訳がな
い。﹂
﹁理解なんてできない、出来る訳ないじゃない。戦争でどんな犠
牲が強いられるかあなたにだって分かるでしょう?ウェゼート王に
対する恨みなら王本人に直接ぶつければいいことだわ。罪のない周
りを⋮国を巻き込むのは止めなさいよ!﹂
﹁やり方などどうでもいい、私とグローグ王の利害が一致しただ
けだ。ウェゼートが苦しみさえすれば周りがどうなろうと私の知る
所ではない。﹂
シヴァはラスルから視線を反らすと、たった今グローグ王が出て
行った扉に向う。
常にラスルを見張り、一時も傍らを離れようとしなかったシヴァ
が初めてラスルの前から姿を消そうとしていた。
一人になった時を狙って逃げ出そうとしていたラスルだったが、
幾度となく力を抜かれ続けた為、今は自分の力で起き上がる事すら
困難な状態だ。
部屋から出て行こうとするシヴァを今は必死の思いで引き止めた
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くてならなかった。
ラスルが囚われ利用される事によって多くの犠牲を払う火種とな
る︱︱︱戦争になればどれ程多くの人間が命を散らす事になるか︱
︱︱それだけは何としても避けたい。
﹁させない、絶対にそんな事させないからっ!﹂
自由に動かぬ身体を寝台に横たえたままシヴァの背に向かって叫
ぶと、シヴァが歩みを止め振り返った。
﹁力を封じられた魔法使いなど赤子同然だ。﹂
分かっているだろう?
シヴァは冷たく微笑むと重い扉を潜る。
カチャリと、鍵が閉められる音だけが無情にも響いた。 ラスルは魔力を抜かれ続けた事により動けなくなってしまった我
が身をひたすら呪う。
何とかして止めなければ︱︱︱
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思いとは裏腹に何も出来ない自分が歯がゆくて、ラスルの瞳から
涙が溢れた。
﹁悔しい︱︱︱﹂
声にならない呟きが嗚咽と共に漏れ、涙を拭うため寝台に顔を押
し付けると、ふわりと頭に優しい重みを感じ取る。
﹁愛しい旦那様が迎えに来てやったぜ。﹂
場に不釣り合い過ぎる能天気な声に、驚愕したラスルは伏せてい
た顔を上げた。
見覚えある古傷だらけの顔が目に入り、茶色の瞳が優しくラスル
を見下ろしている。
﹁なんで︱︱︱?﹂
どうしてあなたがここに?!
驚きのあまり放心状態のラスルに、ザイガドが白い歯を見せて笑
った。
﹁未来の花嫁が怪しい奴に攫われたんだ、後を追って当然だろ?﹂
あのシヴァって奴が付かず離れず側にいたものだから出て来るの
が遅くなったと、ザイガドは頭を掻きながら告げる。
なんで⋮どうしてザイガドが国境を越えてこんな所まで追って来
たりしたのか?!
ラスルの頭はパニックになっていた。
﹁酷い事ばかり言ったのに︱︱︱!﹂
﹁記憶にねぇなぁ∼﹂
ザイガドはわざとらしく耳に指を入れてほじる。
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﹁⋮って、花嫁じゃないし。﹂
﹁ついこないだ俺に告白したの忘れたのか?﹂
こんな時にまで冗談なんて止めて欲しいと思いつつ、子供の様な
笑い方をするザイガドにラスルも思わず笑みがこぼれる。
力なく微笑むと瞳に残っていた涙が零れ落ちた。
﹁あなたやっぱり頭おかしい。﹂
﹁俺も時々そう思うぜ?﹂
そう言い終えた次の瞬間、ザイガドの茶色い瞳が見た事もないよ
うな鋭い目つきに変わった。
﹁とんでもない事に巻き込まれたな︱︱︱﹂
言うなり軽々とラスルを抱き上げる。
﹁逃げるぞ。﹂
﹁ちょっと待ってっ、わたしを連れてなんて無理よ。﹂
ザイガドがいくら頑丈で逞しい体を持っているとはいえ、動けな
いラスルを抱えて敵陣を出るのはあまりにも無謀な話だ。
しかしザイガドは構わず歩き出す。
﹁俺を甘く見るなよ?﹂
鋭い目つきを変えずに聞き耳を立てているのか遠くを馳せていた。
確かに動きはラスルを抱えているとは思えないほどに軽快で、ザ
イガドは音もなく移動するとグローグ王やシヴァが使った扉ではな
く、柱の陰にある壁の一部分を押した。
そこは隠し扉になっていて暗い階段が闇に呑まれる様に続いてい
る。
ザイガドはラスルを抱えたまま闇に身を滑らせ扉を閉めた。
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明かりもない真っ暗で冷たい雫が滴り落ちる地下道をザイガドは
迷いなく突き進む。
王族や有力な貴族の屋敷には万一に備えての脱出口として隠し扉
や地下道が作られているものだが、ラスルが一人にされた部屋にそ
んな物が存在するなんて思いもしなかった。
シヴァやグローグが知っていたとは思えない。もし知っていたな
らラスルをそんな部屋に一人にする筈がないのだ。
それよりも疑問に感じるのは、何故ザイガドがそんな隠し通路を
知っているのかという事。﹃甘く見るな﹄という言葉通り、ザイガ
ドはただの傭兵上がりではないのかもしれない。
何よりもラスルは、まさかザイガドがこの様な場所に現れ自分を
助けてくれよう等とは思いもしなかった。
たとえラスルが連れ去られる場面を目撃しても、自分の利益にな
らない事には首を突っ込まないタイプだとばかり思っていたのだ。
まさが本気でラスルを嫁にして客を取らせる気でいたのか?!
雑作もなくラスルを抱え暗闇を進むザイガドの胸に体を預けなが
ら、さすがにそれはないだろうと否定する。
攫われたラスルを追って命を賭け、こんな危険な場所に足を踏み
入れてまで助ける価値などラスルにはない。
では何故ザイガドは助けてくれるのだろうか?
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何か裏があるのではと後ろ向きな考えが浮かぶがこれといった答
えは思い浮かばず、取り合えず今は助けてくれる事に素直に感謝す
るしかなかった。
フランユーロの思惑を知った今、ラスルは何よりも先にそれをイ
ジュトニアとスウェールに知らせなければならないのだ。
暗い地下通路を抜けると屋敷の敷地外にある林に出た。
辺りは夕闇に染まり、これから身を隠すにはうってつけな頃合い
になる。
﹁お前ラウェスールって名前だったんだな。﹂
ラスルを抱えたままで走るザイガドは息を切らせる訳でもなく、
まるで普通に会話をするかに口を開く。
ザイガドがシヴァとグローグ王の会話を聞いていたのだと知り、
ラスルは首を振った。
﹁違う、ラスルよ。﹂
﹁ラスル⋮イジュトニアの王女とか言われてなかったか?﹂
﹁イジュトニアの王女は死んだの。わたしはラスルよ、ラウェス
ールじゃない。﹂
ザイガドは暫く考えた後﹁ふーん、成程ね﹂と呟いて口を噤む。
そう、ラウェスールは五年も前に死んだのだ。今の自分はイジュ
トニアの王女などではなくただの魔法使いのラスル。イジュトニア
と言う国もそれを認めている。
過去を思い出したラスルがぐっと唇を噛むと同時に、ザイガドは
ラスルを抱えたまま身を屈め、人差し指をラスルの口元に持って行
き静かにする様に合図する。
耳を澄まし辺りを見回したザイガドはちっと舌打ちした。
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﹁意外に早く感付かれたな︱︱︱しっかりつかまってろ!﹂
言うなりザイガドはラスルを抱いたまま凄まじい速さで生い茂る
木々の間を走り抜けた。
何だこの身体能力は?!
体力のない魔法使いであるラスルからすると、たとえ女といえど
一人の人間を抱え疾走するザイガドは信じられないほどにずば抜け
た能力の持ち主に映った。
瞬きする間にどんどん木々を追いこして進んで行くザイガドに、
口も開く事が出来ず必死にしがみつく。
ザイガドはしばらく走った所でラスルを片手で抱え直すと走りな
がら剣を抜いた。
ザイガドが剣を抜いた事にラスルが気が付いたのは、追い越し様
に一刀両断にされた人間の血飛沫が上がったからだ。
ラスルを抱えたまま身を翻して剣を振るい、襲いかかって来るフ
ランユーロの兵士を切り倒して行く。
大きな体がまるで羽のように軽やかに舞う︱︱︱命のやり取りが
行われている場所だというのに、不謹慎にもラスルは思わず見惚れ
てしまった。
これが戦場に立つ戦士と言うものだろうか?
ザイガドの動きに合わせ、ラスルの漆黒の長い髪が空を舞う。
その黒髪の向こうにラスルは人影を目撃した。
﹁シヴァ!﹂
黒い光を両手に宿し、今まさにそれを解き放とうとしていた。
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ラスルはシヴァの攻撃を阻止する為に必死の思いでザイガドの腕
から逃れようとするが、強靭な肉体を持つ男の腕から逃げ出すのは
不可能だった。
ラスルは声を上げるよりも早くザイガドの肩に噛み付き、その瞬
間ザイガドの腕が緩む。
﹁なっ?!﹂
腕から逃れるラスルに気を取られながらも最後の敵を切り倒した
ザイガドは、自身の背中に回り込んだラスルに向き直り︱︱︱ラス
ルごと吹き飛ばされた。
吹き飛ばされた勢いで地面に叩きつけられる寸での所でラスルを
胸に抱え込み、小さな体を衝撃から守る。
だがラスルはザイガドの腕の中で苦痛に悲鳴を上げた。
﹁ぁああああっ!﹂
目の前には不敵な微笑みを浮かべるシヴァの姿があり、ザイガド
は直ぐ様ラスルを抱き上げ場所を移動する。
ザイガドの鼻に鉄臭い血の匂いが纏わり付いた。
混血ならともかく純粋な魔法使いは体力的に問題があり、ザイガ
ドの様な男がすぐに追いつかれる訳ではない。
ザイガドは茂みに身を隠すと、ゆっくりと地面にラスルを横たえ
た。
﹁っ⋮く⋮ぅっ﹂ 109
僅かな振動で痛みが走るらしく顔が苦痛に歪む。
ラスルは右肩に抉られた様な酷い裂傷を負っており、太い血管が
切れたようで出血も多かった。
すぐに止血を試みるも今直ぐ適切な処置をしなければ、ラスルの
様な憔悴しきった細い体では命を失うのも時間の問題だった。
﹁魔法で処置できないのか?﹂
﹁魔力を奪われてるから無理︱︱︱﹂
苦しそうに息をしながら歯を食いしばるラスルの状態は最悪だっ
た。
﹁すぐに医者に見せてやるから持ちこたえろ!﹂
ここから最も近い街はフランユーロの都しかない。
逃げるべき道と逆方向になるが、自分を庇って傷を負ったラスル
を死なせる訳にはいかなかった。
腕を伸ばして抱え上げようとするザイガドの手を取り、ラスルは
首を振る。
﹁戻ったら駄目⋮捕まったらあなたは殺される⋮﹂
ラスルは痛みに耐え失われようとする意識を必死で保ちながら、
右手の人差し指に嵌められた指輪を抜きとって差し出した。
﹁スウェールのアルゼス王子にここで耳にした事全てを話して。
そしてイジュトニアのイスターク王子を訪ねて、フランユーロに手
を貸さないよう説得して欲しいと伝えて⋮﹂
一介の市民が一国の王子に目通りを申し出るなど到底無理な話で
ある。
ラスルはイジュトニアの王子であるイスタークに繋ぎを取れる品
110
を何も持ってはいない。手元にあるのはアルゼスがくれたスウェー
ル王家の紋章の刻まれたこの指輪だけだった。
王家の紋章が刻まれたこの指輪があればザイガドであっても目通
りを許されるかもしてない。
﹁アルゼス王子が駄目なら騎士団のカルサイトって人でもいい。
それとラスルは死んだって伝えてね。そうしなきゃイジュトニアの
軍は止められない。﹂
自分がここで死ねばフランユーロの思惑も潰れる。それで戦争
が止められるなら死んでも構わなかったが、庇われたザイガドはそ
ういう訳にはいかないだろうし、このまま怪我をしたラスルを連れ
て逃げ切れる訳もない。
それなら何のつながりもない自分を助けに来てくれたザイガドを
信じて、彼に希望を託してみてもいいのではないだろうか。
﹁馬鹿野郎、お前をおいて行けるかよ!﹂
﹁すぐにシヴァが来て治癒の魔法をかけられるに決まってるわ。
わたしが死んだらシヴァはウェゼート王に復讐出来なくなるもの⋮
だからわたしは大丈夫。でもあなたが捕まれば間違いなく殺される。
そうなったら戦争も止められない︱︱︱﹂
そこまで言うとラスルは意識を失ってしまった。
はっとしたザイガドは慌ててラスルの首筋に触れ、その細い首に
脈を感じ取るとほっと胸を撫で下ろした。
だがすぐ側に人の気配を察知し、ザイガドは渡された指輪を握り
しめた。
﹁くそっ︱︱︱!﹂
111
口惜しく吐き捨てると、名残惜しそうにラスルの頬を撫でる。
本気で嫁にする気などないが、何処となく気になり惹かれる娘だ
った。
助けに来たというのに置いて行くのは口惜しかったがラスルの命
には代えられない。
ザイガドは身を低くすると気配を消してラスルの前を去る。
ほぼ同時に茂みを掻き分け、意識を失って地面に横たわるラスル
をシヴァが見付けた。
112
王子と傭兵
西の砦が守る国境付近でフランユーロの軍に動きがあってから二
ヵ月と少しの時が過ぎていた。
その後フランユーロに特別な動きは見られないものの、過去に敗
戦したフランユーロが再び攻めて来ないという確証は何処にもない。
軍の規模としては明らかに有利なスウェールであったが気を抜く事
は許されず、アルゼスは軍の士気を高めるため毎日のように騎士団
が訓練する場に足を踏み入れていた。
実戦を兼ねての馬上での訓練には真剣を用いる為、常に緊張が走
る。
そんな中、騎士団の黒い制服ばかりの稽古場に、白い文官の制服
に身を包んだ男が姿を現した。
アルゼスの教育係として、また将来的に王となるアルゼスの右腕
として政務を取り行っていく人物の筆頭となるクレオンだった。
クレオンは文官に身を置くに相応しく頭脳明晰で切れる男だが、
肉体を行使する剣などは全く苦手な分野で、滅多な事でもない限り
この様な場所に顔を出す事はない。年の頃は三十になり、アルゼス
が幼少の頃に教育係として城に来たクレオンは、アルゼスにとって
は兄の様な存在だった。
そんなクレオンの登場にアルゼスはカルサイトと共に交えていた
剣を下ろして馬から降りると、真っ直ぐにクレオンの所まで向かい、
同じくカルサイトも後に続いた。
﹁何があった?﹂
113
クレオンがわざわざ騎士の訓練場に姿を見せたのである。また面
倒な事でも起こったのかとアルゼスは少々うんざり気味に口を開く。
﹁今朝方正門に男が現れ、アルゼス殿下に目通りを申し出たそう
です。﹂
﹁何者だ?﹂
﹁ザイガドと名乗る傭兵上がりの男です。﹂
アルゼスは記憶を辿るが思いあたる節がない。
﹁知らんな︱︱︱﹂
カルサイトを見上げると首を横に振った。
﹁それがどうした。そういう輩は追い返すのが習いだろう?﹂
王族に会いたいと奇特にも城を訪ねてくる輩は意外に多く、そう
いった者達は門前払いされる。わざわざアルゼスが報告を受ける様
な事でもないのだ。
しかしクレオンがわざわざ報告に来たという事は何かがある筈だ。
しかも相手は傭兵上がりの男。奇妙な胸騒ぎを覚える。
﹁何時もならそうですが⋮そのザイガドと言う男、どうしても殿
下に直接話があると言って門番を殴り倒し城内に侵入した為、今は
牢に繋がれております。﹂
門番を殴り倒して城内に侵入したとなれば話は別だ。アルゼスと
カルサイトは互いに顔を見合わせた。
そんな暴挙に出ればアルゼスの身を危険に曝す輩として罪人扱い
を受けるのは間違いない。
だが正門からアルゼスを訪ねた男がアルゼスの命を狙うとは到底
考えられないが⋮城に侵入する為の策だとでもいうのだろうか?
﹁牢の中でも殿下に会わせろ騒ぎたて暴れた挙句、アルゼス王子
114
が駄目なら騎士団のカルサイトでもいいから連れて来いと言い出し、
今度は牢の柵から手を伸ばして牢番の男を締め上げたと報告を受け
まして私が代わりに参って来たのですが︱︱︱﹂
クレオンは右手を差し出すと掌を上に向け、握り締めていた物を
さし出した。
﹁私が殿下の側近だと名乗ると男がこれを殿下に渡してくれと。﹂
アルゼスはクレオンの手に乗る指輪を摘み上げた。
﹁これは︱︱︱!﹂
スウェール王家の紋章とアルゼスの印が刻まれた、あの日ラスル
に渡した指輪だ。
﹁これをそのザイガドとか言う男が持っていたのですか?﹂
カルサイトの言葉にクレオンは頷き、アルゼスは指輪を強く握り
しめる。
﹁男に会おう︱︱︱﹂
ラスルに何かあったのだと直感したアルゼスは直ぐ様牢に向かっ
て歩き出した。
牢に繋がれながらも牢番を締め上げたという男は、アルゼス達が
牢に向かった時には中で大人しく腰を落ち着けていた。
古傷だらけの大きな体。牢に繋がれているというのにその表情に
115
は余裕が感じられ笑みすら浮かべている。
﹁私に話があるというのはお前か?﹂
ザイガドは二人の男を引き連れ現れたアルゼスを一瞥すると、ふ
っと笑ってから視線を外した。
いくらスウェール王家の紋章入りの指輪を見せて呼びつけてたと
は言え、王子自らが牢に足を運ぶなどあり得ない事だ。王子にとっ
てラスルは余程優先順位が高いと見え、ザイガドは面白い事になり
そうだと瞳を輝かせる。
口を噤んだザイガドに、アルゼスの苛付いた声が届いた。 ﹁話があるのだろう、さっさと申してみよ。﹂
﹁こんな状態で何を話せって?﹂
顎で牢の鍵を示すザイガドに、アルゼスは鍵を開けるよう牢番に
申し渡す。
﹁殿下?!﹂
咎める様なクレオンの声に、次はアルゼスが笑う番だった。 ﹁こいつに俺が負けるとでも思うか?それにカルサイトもいる。
問題ない。﹂
アルゼスの王子然とした口調がくずれた所で、ザイガドはアルゼ
スの後ろにいる背の高い騎士に視線を向けた。
﹁その綺麗な兄ちゃんがカルサイトって騎士か?﹂
挑発するようなザイガドの態度に、冷静なカルサイトは平静を装
い相手にしない。
話しに乗って来ないカルサイトに苦手な分野の人間だと察すると、
直ぐ様標的をアルゼス一人に絞った。
116
﹁まぁいいや。さっさと豪勢な部屋に案内してくれ。じゃなきゃ
俺は一言も話さないぜ?﹂
横柄な態度にムカつきはするがこの男は頭がいいようだ。
これ程怪しい男が門番に指輪を見せていたらアルゼスに会う事は
叶わなかっただろう。その場で取り押さえられ指輪を取り上げられ
て牢に放り込まれて捨ておかれる。指輪が本物と分かるまでアルゼ
スのもとにも報告はなされないかもしれない。それを見越して牢に
入り、クレリオンを引きだしたのは余程話したい事があるに違いな
い。
万一を考えると気が抜けない相手ではあったが、アルゼスは牢番
に鍵を開けさせザイガドの要求通りに貴賓室へ招き入れる事にした。
暗く冷たい牢獄から豪華絢爛たる貴賓室の長椅子に、この場には
全くそぐわないがたいのいい男が王子を前に無礼にも踏ん反り返っ
ている。
王子であるアルゼスと騎士のカルサイト、側近のクレオンは立っ
たままザイガドを見下ろし、これではどちらが主か分からない。
こんな無礼極まりない男にも一応礼を尽くす為、クレオンは侍女
に命じてお茶の用意をさせたが、ザイガドの姿に怯える侍女は手を
震わせ粗相をしてしまう。
﹁茶なんかいらねぇ、どうせ振る舞うなら酒にしてくれ。﹂
ザイガドは零したお茶を布巾で拭く侍女に手を伸ばすと、腰を掴
117
んで引き寄せた。
﹁きゃっ⋮﹂
年若い侍女は小さく悲鳴を上げ真っ青になり、見かねたカルサイ
トが侍女の腕を掴んで引き剥がした。
﹁ここは場末の酒場ではない、殿下に話があるのだろう?﹂
高い位置から冷たい視線を送るカルサイトにザイガドは煩そうに
手を振る。
カルサイトに助け出された侍女は顔を真っ赤にして身を縮め、ク
レオンに下がっていいと申し受けるとそそくさと貴賓室から出て行
ってしまった。
ザイガドは慌てて出て行く侍女の背を未練がましく追いながら腕
を組む。
﹁ラスルからの伝言預かって来たぜ。﹂
アルゼスはやっと本題に入れると、わざとらしく溜息を付きなが
らザイガドの前の長椅子にゆっくりと腰を下ろし、優雅に足を組ん
で肘かけに腕をかけた。
﹁それでラスルの伝言とは?﹂
アルゼスは平静を装いながら口を開くが、内心ではこの粗悪な男
とラスルの関係がいったいどんな物なのかと詮索したい気持ちでい
っぱいだった。
一方、時間もない事だしそろそろ遊びも終わりにして本題に入る
事にしたザイガドは、踏ん反り返っていた長椅子から身を起こし、
今までとは打って変わって鋭い眼光でアルゼスを見据える。
﹁フランユーロがイジュトニアを脅して魔法師団をスウェールに
118
侵攻させようとしている。﹂
ザイガドから発せられた言葉に驚いたクレオンが一歩前に出たが、
アルゼスが右手を上げてその歩みを止めた。
話しはまだ終わってはいない。
アルゼスが目配せるるとザイガドは言葉を続けた。
﹁魔法師団がイジュトニアを出てスウェールに攻撃を仕掛けた後、
フランユーロはがら空きのイジュトニアに軍を送りこんで陥落させ
る気だ。フランユーロの目的はスウェールとイジュトニア両国の覇
権だろう。で、ラスルからの伝言だが︱︱︱イジュトニアのイスタ
ーク王子を訪ねて、フランユーロに手を貸さないよう説得して欲し
いとの事だ。﹂
フランユーロだけの軍事力なら今のスウェールは負ける気がしな
い。だがそこにイジュトニアの魔法師団が加わるとなれば話は別だ。
スウェールは苦戦を強いられる所か、フランユーロの思惑通り国を
落とされかねない。
しかし︱︱︱
﹁情報が真実だという証拠は?﹂
アルゼスの問いにザイガドは、今は彼の右の小指に治まっている
指輪を示した。
﹁お前がラスルから指輪を奪い、虚偽の進言をして来たとも取れ
るのだか?﹂
﹁そう取ってくれても構わないぜ。とにかく俺はラスルの最後の
言葉を伝えた。後の判断はあんたら上が下すだけだ。﹂
119
﹁最後?最後とは何だ?!﹂
アルゼスの瞳が揺れた。
﹁殿下っ!﹂
青い目を見開きザイガドに掴みかかろうとするアルゼスを慌てて
カルサイトが止めに入る。
﹁ラスルに何があった、お前はラスルの何だ!﹂
食ってかかるアルゼスを面白そうに眺めていたザイガドは思わず
笑い声を上げた。
﹁王子さんともあろう者があの小汚い娘に惚れてるってか︱︱︱
まぁある意味見る目はあるって事だろうがな?﹂
﹁貴様⋮自分が口にしている言葉を理解しているのか。ラスルは
俺の命の恩人。それを愚弄するは俺を愚弄するも同じ⋮極刑は免れ
ぬぞ!﹂
アルゼスの放つ王子としての言葉も、今のザイガドには何の効力
も示さなかった。
﹁命の恩人ねぇ。ちなみに俺はあいつに嫁にしてくれと頼まれて
るんだがな。﹂
恩人の伴侶を極刑にするとは王子の名が廃るぞと、ザイガドは高
らかに笑いアルゼスは言葉を失う。 そこに冷静に口を挟んだのは後ろに控えていたクレオンだ。
ザイガドに飛びかからん勢いで怒りを露わにするアルゼスを引き
120
止めるのはカルサイトに任せ、ザイガドの言葉を冷静に頭の中で整
理する。
﹁彼女はどのようにしてその情報を得たのでしょうね?﹂
ザイガドが口にした嫁発言に言葉を失ったアルゼスのお陰で、ク
レオンの呟きはザイガドにも届いた。
﹁ラスルは今フランユーロに囚われてんだ。そこでシヴァって魔
法使いとグローグ王の会話を聞いたんだよ。﹂
﹁囚われているという事は、彼女はまだ生きているという事です
ね。﹂
﹁︱︱︱そうなるなぁ。﹂
ちっ⋮とザイガドは舌打ちする。
それに真っ先に反応したのはアルゼスだった。
﹁ラスルは生きているのか?!﹂
﹁ああ⋮まぁ別れた時は瀕死の重傷だったが、フランユーロの手
にある限り命は保証されるだろうな。ちなみにラスルから自分は死
んだ事にしてくれって頼まれてたんだ、悪かったな。﹂
特に悪びれた様子もなくザイガドは笑う。
﹁所でラスルとか言う娘は何者です。何故フランユーロが彼女を
捕え、命の保証を?﹂
﹁そりゃあイジュトニアの王が溺れる程の娘ってんだから当然だ
ろ。﹂
﹁イジュトニアの王が?﹂
アルゼスの眉間に皺が寄ったのをみて、ザイガドも訝しげに眉を
寄せた。
﹁あれ、知らねぇの?ラスルはイジュトニアの王女様らしいぜ。﹂
121
わざとらしいザイガドの台詞に、アルゼスとカルサイトは顔を見
合わせ、クレオンは考え込む。
﹁シヴァって奴とフランユーロの王は、ラスルの事をラウェスー
ルって呼んでたけどよ?﹂
﹁ラウェスール⋮病死したイジュトニアの末王女ではないですか
?﹂
クレオンが口にした名にアルゼスは顔色を変えた。
かつて自分の政略結婚の相手として上がったイジュトニア王女の
名だ。
﹁何故⋮どういう事だ?﹂
アルゼスから呟きが漏れた。
﹁その辺は俺も詳しくは知らねぇけどよ。何か色々あるみてぇだ
・・
からラスルに直接聞いたりはしてくれるなよ。﹂
﹁解りました。ウェゼート王の溺愛する娘が人質となっているな
らウェゼート王にこちらから交渉を持ち出しても聞き入れてもらえ
ますまい。彼女の伝言通りイスターク王子にお会いして話をした方
が宜しいでしょう。﹂
クレオンの事情を察した言い回しにザイガドは探る様な視線を送
り、視線が合うと二人は意味有り気に微笑みあった。
場の緊張を破るかにザイガドが大きな手を一打ちする。
﹁じゃあそう言う事でそっちは頼む。で⋮俺は花嫁奪還に向かう
とするか。﹂
という訳で剣を返してもらえるかと、ザイガドは気持ち悪い程の
笑顔をアルゼスに向けた。
122
123
印の意味
ラスルがフランユーロに囚われていると聞いたアルゼスは真っ先
にそちらに向かいたかったが、それよりも先にスウェールの王子と
してすべき事があった。口惜しいがラスルの事はザイガドに任せ、
今はそのすべき事の為にイジュトニアに向かっている。
アルゼスを前にしても怯む事なく横柄な態度のザイガドは許し難
かったが、彼がもたらした情報が事実ならすぐにでもイジュトニア
に向かいイスターク王子に会わなければならない。不本意ではある
がラスルの事はザイガドと名乗る男に任せるしかなかった。
それにしてもあのいい加減な男が口にした事は全てが事実なのだ
ろうか?
そもそもあんな凶暴な男にラスルが引かれるとは到底思えない。
いい所で無視を決め込む程度だろうと、意外にも的を突いてはいた
が、アルゼスの考えに同調できるものは誰もいなかった。
今のアルゼスはザイガドからもたらされた最悪の情報よりも、フ
ランユーロに囚われたというラスルの身が案じられてならなかった。
ザイガドによると、ラスルは重傷を負っていたという。
ラスルは金の光を操る魔法使いで、アルゼスが内臓の一部を失う
程の傷を負った時も容易く治癒し、僅かな期間で体調すら取り戻さ
せたのだ。
そのラスルが自分の受けた傷を癒せないなどあり得ない。
だがザイガドが見たラスルは魔力を抜かれ歩く事すら出来ない状
態だったと言う。ラスルを攫ったシヴァとか言う魔法使いが黒の光
を操るようで、その魔法使いによってラスルの力は封じられてしま
124
っているのだろう。
本当なら自身の手で救い出してやりたい所だというのに︱︱︱
アルゼスはイジュトニアに馬を走らせながら悔しさに唇を噛んだ。
命を救われ、その縁により僅かな時を二人で過ごしただけの娘だ。
別れてから気にはしていたが、まさかこれ程強い感情を持っていた
事に今になって初めて気付かされる。
自分はあの娘が好きなのだ。
どれ程の感情で思いを抱いているのかは分からないし、しばらく
会っていなかったので思いが勝手に増幅された幻かもしれない。そ
れにクレオンから聞かされた事実に反抗しての思いかもしれないし、
何よりザイガドと言う粗暴な男に負けるのがいけ好かないと言う単
なる独占欲かも知れない。
本当の所は自分でも分からなかったが、今アルゼスの心にあるの
は、たとえ望んではいけないとしてもラスルと言う一人の娘に心惹
かれている事実。
王子であるアルゼスに怯むでもなく、自分を取り繕う事なくあく
までマイペースに接していたラスルの姿が脳裏から離れないのだ。
イジュトニアの王女であって王女でない、消された娘。
ラウェスールは死んだ娘で、アルゼスが好きなのはラスルと言う
自分に無頓着な風変わりな娘だ。
ザイガドが去った後、ラスルを気にするアルゼスにクレオンがい
つもの無表情で釘を指した。
﹃現実にラウェスール王女が生きていたとしても、既に死んだと
処理された王女をスウェールの第一王子が妻に迎える事は許されま
125
せんよ。﹄
過去に婚約者として名を上げた王女は突然の病でこの世を去った。
五年前、あの時の婚約は決してアルゼスが望んだものではない。
スウェール王国の危機的状況を救うために打診し、それをイジュト
ニアが受けたのだ。スウェールはイジュトニアの軍事力を求め、そ
の見返りにイジュトニアの王女がスウェールの次期王妃の位に付く。
だがその婚約も王女の死によって白紙に戻り、それにも関わらず
イジュトニアはスウェールを救ってくれた。その理由が、病死と偽
った王女を守るためだったのだと今になって判明する。
事実はどうあれ、ラウェスールと言う王女は死んだのだ。イジュ
トニア王家の後見がないラスルをアルゼスが妃に迎える事など不可
能だった。
それに︱︱︱
﹃あの時は仕方なくイジュトニアに王女の輿入れを打診しました
が、もともといわく付きの王女を我が国に輿入れさせるのには反対
意見ばかりが出揃っていたのです。嫁いで来られた後に生まれた子
が漆黒の髪と瞳をもつ純血の魔法使いである確率が高いと思われて
いましたからね。﹄
イジュトニアのウェゼート王には、婚姻を結んだばかりの娘に懸
想し攫った挙句に子を産ませ、生まれた実の子に溺れ政を放棄して
いると言う噂が真しやかに囁かれていたのだと言う。その溺れてい
た実の娘がラウェスールで、二人は親と子を超えた間柄だという話
しは一部では有名だったらしい。
当時のアルゼスはそんな話を微塵も聞かされていなかった。
王子として戦場に立ち、多くの味方が命を落としていく中で必死
に戦い、剣を振るっていたのだ。イジュトニアの王女との婚約もス
ウェールを守るのに必要な事と、文書で報告を受け了承した。本当
に当時はただそれだけの事だった。
126
国の利益のために婚約話を取りまとめたアルゼスの父親であるス
ウェール王や、クレオンを含むその重臣たちとて同じである。ラウ
ェスールがイジュトニアの王との間に禁忌の子を孕んでいる可能性
を知りながらも、自国を守るために決断を下した。
アルゼスはクレオンから知らされたラスルに関わる秘密に、そん
な事実ははない、全くの言いがかりだと心で強く否定した。
もしラスルが父親から凌辱されたのなら、あの日ラスルがアルゼ
スに見せた態度は納得できない。
アルゼスがラスルの唇に触れようとした時、ラスルは拒絶しアル
ゼスを殴ったのだ。
怒り心頭に﹃エロ王子﹄と暴言を吐いたラスルは、怒ってはいた
が怯えてはいなかった。少なくとも実の父親に凌辱されていたのだ
としたら、アルゼスが組み敷いた時点で情緒不安定な行動を取って
もおかしくはない。それに有り得ないだろうが、万一にもラスルが
父親を受け入れていたとするなら、それこそアルゼスに対してもっ
と慣れた対処が出来た筈である。
ラスルは間違いなく純潔だと︱︱︱アルゼスは自分に言い聞かせ
た。
一方イジュトニアを目指して馬を走らせるカルサイトは、アルゼ
スの背を追いながら出立前にクレオンから言われた言葉に暗く沈ん
でいた。
﹃殿下の御心が娘に動き城に迎えたいなどといい出されては困っ
た事になります。そうなる前に娘を落としてくれると助かるのです
が︱︱︱﹄
頼みというよりも命令だった。
クレオンは職業柄、人の嘘を見抜く術に長けている。ザイガドの
もたらした情報は信じたものの、ラスルがザイガドの嫁になる云々
127
の話はアルゼスを煽って遊んでいると見抜いていた。
時にクレオンは容赦ない判断を下す事がある。
ラスルが邪魔なら消してしまう事も厭わない男だが、彼女の存在
がスウェールに影響を与えるのだと知った今は殺してしまうような
事はしないだろう。それよりも逆に利用する。だからと言ってアル
ゼスの態度を見たクレオンがラスルを野放しにしておく訳がない。
アルゼスがラスルを欲しいといい出す前の保険として、目の前にい
たカルサイトに目星を付けた訳だ。
確かにラスルはアルゼスの周りにはいない娘で、物珍しさから心
惹かれるのも理解は出来る。
命の恩人であるが故、アルゼスが彼女に手出しして辛い思いをさ
せるのは避けたいと警戒した事もあったが、二人きりにしても特に
問題になる様な事はなかったようである。
それがラスルに渡した指輪が戻って来た時点でアルゼスの態度が
変わった。
フランユーロが気になる動きを見せる中、忙しさ故かラスルの住
まう森を出てからは彼女の話題が持ち上がった事は一度もなかった。
それがザイガドの挑発にあっさり乗ってしまったアルザスの反応は
冷静さに欠けており、いつものアルザスではなかった。
ラスルを落とす︱︱︱
今までにも幾度かクレオンの命令で、アルゼスに害をもたらしそ
うな女をカルサイトが退けるという役目を担って来たが⋮それがあ
の奇妙な娘に通用するとは思えない。それも相手は命の恩人、いく
らクレオンの命令であり、且つスウェールの将来の為とはいえ、あ
の真っ直ぐな瞳でカルサイトを見上げたラスルに対して軽々しくそ
んな事が出来るだろうか。
重い気持ちで馬を走らせながらカルサイトは、今はフランユーロ
128
に囚われたラスルにではなく、目の前のやるべき事に集中すべきだ
と気持ちを切り替えた。
イジュトニアのイスターク王子を訪ねるのは正式訪問ではなくお
忍びという形を取った。
身分を隠しスウェールの使いと名乗ったアルゼス達だったが、ラ
スルからの伝言だと告げると直ぐ様イスターク王子に目通りが叶う。
冷たく薄暗い大理石の広間に姿を現したイスタークは、王太子と
言う身分にも関わらず、イジュトニアと言うお国柄なのか、他の魔
法使い同様黒一色のローブに身を包んでいた。
魔法使いの溢れる国で、これでフードをかぶられたらいったい誰
が誰だか分からない。 二人の前に姿をみせたイスタークは異母兄という割にラスルに似
た所はないが、身に纏う雰囲気に禍々しさはなく一見穏やかそうな
優しい目元をしていた。
﹁突然の訪問にも関わらずお目通り頂き感謝いたします。﹂
129
瞼を伏せ頭を垂れるアルゼスに、イスタークは頭を上げるよう指
示する。
﹁スウェールの使いと聞いたが、貴殿は第一王子のアルゼス殿で
はないか?﹂
穏やかそうな外見とは異なり、何の感情もない低い声が広間に木
霊する。
微笑んでいる様でいてそうではない、目元は緩やかであるのにま
ったく表情がないようにも伺える。奇妙な雰囲気に呑まれそうにな
るが、これが魔法使い独特の醸し出す色なのだろう。
アルゼスは非礼を詫びる為、再び頭を下げた。
﹁急ぎ取り計らって頂きたき願いがあり参上しました故、身分を
偽り申し訳ございません。﹂
一国の王子が訪問するとなればそれ相応の手続きが必要だ。そん
な余裕はイスタークにはなかった。
﹁その事は構わぬ。だがイスタークの王子が何故ラウェスールと
接触を?﹂
柔らかな雰囲気を纏ってはいるが、漆黒の瞳の奥は目の前に立つ
アルゼスの心の内を見抜かんとするかに何処までも黒く、まるで吸
いこまれそうだった。
﹁彼女は私とここにいるカルサイトが魔物に襲われた折に命を救
ってくれた恩人です。﹂
アルゼスはラスルに出会った経緯と、ここに来るに至った理由を
手短に話した。
イスタークは黙って話を聞いていたが、アルゼスが話し終えると
溜息を付いて瞼を閉じそのまましばらく考え込むと、広間の片隅に
130
置かれた大きな口の広い壺のような置き物へと足を進める。
それは水鏡になっていて、イスタークはローブから手を出し長い
指の先を浸して水鏡を覗き込んだ。
﹁なる程。ラウェスールは確かにフランユーロに存在している。﹂
濡れた指先をそのままローブにしまい込むイスタークを不思議そ
うに眺める二人に、イスタークは感情のない瞳のまま説明した。
﹁王の血を受ける者は誕生と共に、体にそれぞれを識別する印が
刻み込まれる。﹂
アルゼスはラスルの左胸に刻まれていた花の形の様な入れ墨を思
い出す。
﹁我ら王の直系はその刻印が今何処に存在するかを知る力を持っ
ているのだよ。﹂
﹁存在と言われましたが、彼女は無事でいるのでしょうか?﹂
イスタークの纏う空気が僅かに淀むが、アルゼスとカルサイトに
は分からぬ程度だった。
﹁生きている。王とてそれを確認したからこそ軍を動かしたのだ
ろう。﹂
ラスルが生きている。
それを知る力がイスタークにあるのならそれが事実なのだろう。
アルゼスはほっとしたものの、王が軍を動かしたという言葉に遅
かったのかと眉を顰めた。
131
﹁我が国の魔法師団は王の命令でのみ動く。ラウェスールがフラ
ンユーロに囚われている限り、たとえ自国が危ういとしても王は軍
を下げる事はしないだろう。﹂
それが臣下の妻を無理矢理奪い王宮に閉じ込め、産ませた娘にす
ら溺れたウェゼート王の唯一の弱点だ。
やり方には多大な問題があるが、それ程までにイシェラスを愛し
ていたのだろう。禁忌の愛情を押さえようとする気持ちもあるが、
ラスルを前にするとイシェラスと混合してしまいその制御が効かな
くなる。
アルゼスとカルサイトは互いに顔を見合わせた。
既にイジュトニアの魔法師団は動き出した。
一度動き出せばそれを止められるのはウェゼート王のみ。ラスル
は死んだと虚偽の報告をしても、胸に刻まれた刻印がある限り水鏡
を使って生存が確認できるのでは意味がない。自分は死んだ事にし
てくれとザイガドに言ったラスルはそれを知らなかったのだろう。
こうなってはスウェールに戻り、急ぎ軍を統率して魔法師団を迎
える準備に取り掛からなくてはならない。剣を相手にするならとも
かく、魔法使い相手ではかなりの苦戦が強いられる事は必至。
かつて国を救ってくれた相手に剣を向けなければならないと言う
のは酷な現実だったが、戦争とはそんなものだ。
厳しい顔つきになったアルゼスとカルサイトにイスタークは助言
を加える。
﹁私には軍を動かす力はないが、動きを遅くする事は出来る。こ
ちらとてみすみすフランユーロに国を潰される訳にはいかないので
ね。アルゼス殿にはその間にラウェスールを奪還してもらえはしな
いだろうか?﹂
﹁私に彼女を救えと?﹂
132
﹁シヴァが相手では我ら魔法使いでは歯が立たないのだよ。幸い
黒の魔法使いはそれほど大きな力は持たない。スウェールの将たる
アルゼス殿なら立ち向かえぬ相手ではない筈。恐らく王はラウェス
ールの身を案じ水鏡に張り付いているだろうから、ラウェスールが
スウェールの地に戻れば軍は退かれるだろう。﹂
大軍ではないにしてもイジュトニアの魔法師団の力は強大だ。ス
ウェールの全軍で迎えるとしても多大な犠牲が強いられるだろう。
それがラスルをスウェールの地へ取り戻すだけで防げると言うのな
らそれに越した事はないのだが︱︱︱
﹁猶予は?﹂
魔法使いは騎士とは違い徒歩で行動を起こす。歩みは遅いがイジ
ュトニアの都からスウェールまでは遠くはなく、徒歩でも三日とか
からないだろう。
﹁本日を含み七日︱︱︱﹂
僅か七日でフランユーロからラスルを奪い返しスウェールに連れ
戻さなければならない。
時間がないが戦いを避けるためにはやらなければならなかった。
﹁彼女の居場所は細部まで特定できるのでしょうか?﹂
アルゼスの視線が水鏡に向かう。
﹁フランユーロの王城、詳細までは特定できないが北側だ。﹂
﹁そこまで分かれば十分です。﹂
アルゼスに迷いはなかった。
頭を下げ急ぎ退出しようとするアルゼスをイスタークは引き止め
る。
133
﹁このままラウェスールの命が尽きれば、王は軍をフランユーロ
に向かわせるだろう。﹂
ラスルが死ねばイジュトニアの魔法師団は矛先をフランユーロに
変える。スウェールにとっては最も手っ取り早い話で、そんな事ア
ルゼスだってとっくに気が付いていた。
だがアルゼスは青い目を細め、ふっと笑った。
﹁必ず生きて連れ戻します。﹂
ラスルを自分の手で救い出すのはアルゼスの望みでもあるのだ。
自信に満ちたアルゼスにイスタークは深く頷く。
﹁魔力を奪われ続けると精神を病む危険が伴う。勝手な願いだが、
そうなる前にラウェスールを救い出してやって欲しい。﹂
水鏡から感じ取ったラスルの気配は弱り切っていた。それは幾度
となく魔力を奪われた証拠で、しかし同時に金色の力を持つ魔法使
いの力を奪い続けたシヴァとて無事では済まないだろう。
﹁分かりました。イスターク殿にも魔法師団の足止めを頼みまし
たよ?﹂
﹁全力を尽くそう。﹂
アルゼスは黙礼するとカルサイトと共に先を急いだ。
暗く冷たい大理石の間に二人の足音が響く。
二人が去った後、イスタークは再び水鏡に向かい中を覗き込んだ。
黒い水面にイスタークの顔が映る。
134
そこに先程同様細く長い指を浸すと︱︱︱水面にはイスタークで
はなくウェゼート王の顔が浮かび上がった。
135
囚われの身
天蓋付きの巨大な寝台に横たわるラスルは全裸だった。
精気の失われた瞳は灰色に濁り、死んだようにピクリとも動かな
い。僅かに上下する胸の膨らみが生きている事を証明していたが、
真っ白なシーツにうねる黒髪と白く透明な肌はただ横たわっている
だけでまるで人形のようだった。
魔力を抜かれ続けた事により、鉛のように重くなった体は動かす
事が叶わない。だが意識を失っている訳ではなく、虚ろに開かれた
灰色に濁った瞳は見えるもの全てを写し取り、奥底には強い意思が
眠っていた。
イジュトニアとの交渉を終えたフランユーロの王グローグは、ラ
スルの身を城の最奥にある後宮に移した。
都に到着して直ぐに何者かによってラスルを奪われかける事態に
なり、最も安全と思われる場所へ隠す事にしたのだ。
後宮は王の女たちが集う場所で、男の出入りが禁止されているだ
けではなく警護も強固たるもの。現在この場に出入りできる男は王
であるグローグと、王が出入りを認めたシヴァだけ。他の男はたと
え護衛と言えど王に命の危険がない限りは建物への出入りを許され
ない。
後宮に移されたラスルは逃亡防止のため衣服を剥がれた。
シヴァによって魔力を抜かれる度に衰弱の度合いが増していくラ
スルが自ら逃げ出す事は困難だったが、念には念を入れての手段だ。
それにラスルの魔力を奪い続けたシヴァにも限界が近付いていた。
魔力を奪い過ぎるとラスルに精神の崩壊を招く危険があったが、
136
そんな事はシヴァにとってはどうでもいい話だ。ラスルが生きてさ
えいればウェゼート王は掌で転がせる。
イジュトニアを落としウェゼートを捕え平伏させた後、その目前
でラスルを曝し物にしてやる。
実の娘に溺れたウェゼートがその娘が受ける屈辱を前に何処まで
耐えられるだろうか。
その日が近づくにつれそれを思い描くだけでシヴァの心は僅かに
満たされた。
動かずに横たわっているだけでも魔力は回復して来る。
日に一度シヴァがやって来てラスルの魔力を抜いて行くのだが、
この日は何故かシヴァの訪れがなかった。
その為ラスルは寝台に身を起こす事が出来る程度には力が戻り、
裸の身を隠す為シーツを手繰り寄せ体に巻き付ける。
体を動かせても魔法が使える訳ではない。シヴァはそれを見越し
て姿を現さないのだろうと思っていたラスルだが、金の光を操るラ
スルの魔力を奪い続けるシヴァにも体力の限界が来ていた。それを
感じ取らせないためにシヴァは姿を見せないのだ。
ラスルが寝台に身を起こすとほぼ同時に、一人の侍女が台車を押
しながら部屋に入って来た。
﹁軽食ですがお食事をお持ちいたしました。お召し上がりになら
れますか?﹂
栗毛の髪を結い上げた白いエプロン姿の小さな侍女は可愛らしい
笑顔をラスルへと向けた。
魔法使いと言っても衣食住は必要だ。食べなければ当然餓死する。
だがラスルが興味を引かれたのは食事ではなく、ここに来て初め
137
て目にする若い娘の存在だ。
﹁あなた、誰?﹂
初めてみるシヴァとグローグ以外の人間にラスルは警戒心を抱い
た。
﹁ミシェルと申します。﹂
ミシェルはラスルの状態などお構いなしに笑顔を向けた。
ミシェルと名乗った侍女は台車を寝台の脇に付けると、部屋の片
隅にある台を小さな体で軽々と抱えて寝台に寄せる。
小さくて童顔の可愛らしい侍女を見て年の頃は自分と同じ位だと
思ったラスルだったが、実際は二十四歳で、小さく柔かな見た目と
は裏腹に力も強かった。
食事をとるとも要らないとも返事をしていないラスルの腰を遠慮
なしに掴むと台に向かせ、笑顔のまま食事を並べ始める。
長い間何も口にしていないラスルの前に並べられたのは、やわら
かく煮られた野菜のスープと白いミルク、ペースト状に擦り潰され
た果物らしき甘い香りを放つデザートだけである。
この場所が後宮だと気付いていたラスルは、自分が囚われの身で
あるのではなくグローグの愛妾だとでも思われているのかと、ミシ
ェルと名乗った侍女を灰色に濁った虚ろな目で見つめた。
出された食事を前に手を付けずにいると、ミシェルはスプーンを
手にし、スープをすくってラスルの口元に運ぶ。
確かに手を使うのすら煩わしい程に体の自由は利かなかったが、
笑顔でスプーンを向けるミシェルを前に要らないと紡ごうとして、
体勢を崩したラスルはそのまま寝台に倒れ込んでしまった。
﹁まぁ、大丈夫でございますか。﹂
ラスルを助け起こしながらミシェルは耳元で囁く。
138
﹁ザイガドに言われた来たの。﹂
耳元で囁かれた言葉に、ラスルの灰色に変化していた瞳が一瞬黒
く瞬いた。
ミシェルはラスルを座り直させると、次は倒れないようその背に
クッションをあるだけあてがう。
ラスルはじっとミシェルの顔を見据えていた。
ザイガドに言われて来た︱︱︱この意味を理解しながらミシェル
を凝視する。
﹁さぁ姫様、お口をお開け下さいませ。﹂
ミシェルが笑顔で差し出すスプーンをラスルは口を開けて迎え入
れる。
乾いた口内に生ぬるい感触が行き渡った。
ここは後宮、男の出入りは不可能だ。女ばかりの園で王以外の男
がいれば目立って仕方がない。ここから逃げ出すにはラスル自身が
動けるまでには回復しなければならなかった。
139
ザイガドに言われて来たというミシェルの言葉がラスルに生気を
取り戻させる。グローグやシヴァの前では虚ろで虚脱した様を装い、
時に魔力を抜き取られながらもミシェルの持って来る食事は無理し
てでも残さず食べた。
グローグが時折漏らす話によると、イジュトニアの軍は既にスウ
ェールを目指していると言う。アルゼスの説得が間に合わなかった
のだとしたらこんな所で燻っている訳にはいかない。戦争を止める
為にも、一刻も早くラスルはウェゼートに会わなければならないと
思っていた。
血の繋がりだけ言えば父親ではあるが、あんな男になど二度と会
いたくはなかった。それでもそうしなければイジュトニアの魔法師
団はスウェールから引かないだろうし、イジュトニアの存続も危う
い。シヴァがウェゼートに復讐したくなる気持ちも分かるが、多く
の犠牲を伴うやり方は決して許せなかった。
ラスルに近付いて来たミシェルは後宮に使える本物の侍女の様で、
囚われ軟禁状態のラスルの面倒を一人で見てくれている。
実際動ける程度に回復しているラスルだったが、何処で見られる
か分からなかったので常に辛そうに装い、立ち上がるのもミシェル
の手を借りるようにしていた。そのお陰かシヴァがラスルの魔力を
奪う回数も減って来ていたそんなある日。
ミシェルは湯浴みの用意を整えるとラスルの横たわる寝台に歩み
寄り膝をかけた。
﹁今夜グローグ王の渡りがあるわ。﹂
体を起こされながら耳打ちされ、ラスルはその意味が分からずき
ょとんとしていた。
140
今のラスルは裸ではなく、肌が透き通る淫らな薄衣を着せられて
いる。
薄衣ごしに肌に触れながら、ミシェルは少し苛ついたように声色
を落とした。
﹁グローグ王があなたを抱きに来るって言ってるの。﹂
そこまで言われればさすがに理解でき、ラスルは父親と同じ年頃
のグローグにウェゼートととの過去の出来事を重ね青ざめる。
﹁ななななっ、何でッ?!﹂
湯浴みの為に用意された風呂桶が置かれた場所まで連れて行かれ
ながら、ラスルは思わず声を荒げミシェルに注意される。
﹁何でってそんな愚問⋮あなたが今いるのは後宮よ。若い女好き
のグローグ王があなたみたいな美人放っておく訳ないでしょう?﹂
ミシェルの言葉にラスルは更に蒼白になり、薄衣を脱がされ風呂
桶に身を沈められてもされるがままで茫然としている。
﹁もしかしてあなた、一度も経験ないの?﹂
ミシェルは不思議そうに問いかけた。
そんな経験ある訳がない︱︱︱!
ラスルが蒼白のままこくりと無言で頷くと、ミシェルは嬉しそう
に口元を緩める。
﹁てっきりザイガドの女かと思ってたけど違うのね。﹂
しかし嬉しそうにしていたのも束の間で、ミシェルは直ぐに顔を
強張らせた。
﹁わたしとしては黙って抱かれてくれると助かるんだけど︱︱︱
そうはいかなそうね。﹂
141
今にも泣きそうなラスルの目を見てミシェルは溜息を漏らした。
ラスルを城外に出すのはまだ先の予定だったのだが︱︱︱ラスル
の反応を見ていると、このままグローグ王の手付きにしてしまう訳
にも行かなさそうだ。ザイガドの手前、出来るなら彼女を無傷で助
け出す方がミシェルの株も上がると言うもの。
ミシェルは呆然とするシアの体を洗いながらどうしたものかと考
えあぐねた。
グローグ王に酒を漏り酔いつぶすとか酒に睡眠薬を入れて眠られ
るという方法もあるが、グローグが抱きに来ると聞いて青ざめてい
るラスルにそんな芸当が出来るだろうか。そもそもラスルはまとも
に身動きが出来ないと言う風に装っている。そんなラスルが言葉巧
みに酒を勧めては、魔法使いである故に警戒もされるだろう。
ラスルの細く白い肌と漆黒の髪を洗い、香油を染み込ませ前開き
の薄い衣を着せる。白粉を塗って赤みを隠していた顔は化粧を落と
され、頬と唇はなにも塗らずとも艶めいて、同性のミシェルでさえ
も思わず見惚れてしまう程可憐で儚げな美少女に映った。
なる程、さすがに見る目はある︱︱︱
心の中でグローグの趣味の良さに共感する。
ミシェルとて年の割に童顔でグローグの目に止まってしまう美貌
を自負していたが、磨き上げられたラスルの比ではない。触れた素
肌はすべらかでさわり心地は極上。色艶を取り戻した漆黒の髪は長
く波打ち、濡れた瞳を覗き込んでいると闇に吸い込まれそうだった。
ラスルはミシェルに髪の水分をタオルに移し取ってもらいながら、
この危機をどうやって回避しようかと思案していた。
142
恐らくミシェルの言う通りにするのが一番なのだろうが、だから
と言ってそんな簡単に肌を許せる神経など持ち合わせてはいない。
助けに来てくれたミシェルやザイガドには悪いが、魔法で城を破壊
してでもここから逃げ出しイジュトニアに向かった方がよさそうだ
が⋮今のラスルにはそれが出来る程の魔力は回復してはいなかった。
それとも大人しくグローグに身体を差し出し、ここを出る機会を
うががった方が賢明だろうか?
ラスルは過去に父であるウェゼートからその身に受けた辛い出来
事を思い出し悪寒が走った。
覆い被さる大きな体に、執拗に這いまわった生ぬるい手の感触⋮
押さえつけ無理矢理体を開かれていく屈辱と恐怖は今も忘れる事は
出来ない。
あれを再び経験しなければならないのか?
いや⋮囚われの身であるラスルは今回あれ以上の経験を強いられ
るのだ。
一生誰かに抱かれる事などないと思っていたラスルは、己の意思
とは関係なく小さく震え出した。
小刻みに震えるラスルの肩にミシェルがそっと触れる。
﹁ザイガドに繋ぎを取って今夜城を出る事にしましょう。酒に薬
を盛るから上手くやって。出来なければ今夜の脱出は無し。その時
はあきらめて王に抱かれて頂戴。﹂
ラスルに紅をさしながら﹁頑張ってね﹂と、可愛らしい笑顔をミ
シェルは向けた。
143
144
囚われの身︵後書き︶
書いていた分が今回で底を付きましたので、今後の執筆はかなり先
になります。
ごめんなさい。
こちらよりも先に連載を始めた分を優先して仕上げたいと思います
ので、気長にお待ちいただけると嬉しいです。
145
窮地
ラスルはミシェルが用意した琥珀色の酒を凝視しながらグローグ
の渡りを待つ。
酒の中には眠り薬。かなりきつい酒だという事で、味に不信感を
持たれても薬の効果と重なり、一口で効き目が出るそうだ。
その言葉にほっとするが一国の王相手に自分が上手く立ちまわれ
るかが心配で、ラスルは寝台の上に座って落ち付かない気持ちのま
ま酒の入った瓶を静かに見つめ続けていた。
いったいどのくらいの時間が流れただろうか?
深夜になってもグローグは訪れる事がなく、ラスルはこのまま朝
を迎えてくれる事を祈った。
だが無情にもその時は訪れる。
深夜もとうに過ぎ、間もなく朝日が昇ろうかという時刻になって
現れたグローグは、湯上りに使うような薄手のローブを一枚身に纏
っているだけだった。
もう来ないと思っていただけに、寝台に横になっていたラスルは
驚き飛び起きる。
﹁意外に元気が良さそうだな。﹂
にやにやと気味の悪い笑みを浮かべ、何の遠慮もなく寝台に向か
って歩み寄って来る男にラスルは嫌悪感を抱く。
グローグは茫然と見上げていたラスルの前に一瞬で辿り着いたか
と思うと、その肩を掴んで身を起こしていたラスルの体を再び柔か
な寝台に沈めた。
146
既に女を抱いて来たのだろう。体からは酒の匂いに混じって甘い
薔薇の香りが漂っていた。
﹁いっ⋮やめて!﹂
油断していたせいで当初の計画も忘れ、抑え込まれたラスルはパ
よわい
ニックになりグローグの腕の下で暴れまくる。
齢六十を迎えたグローグだったが体は鍛え上げられ逞しく、見た
目もはるかに若い。そんなグローグに抑え込まれて抵抗しても、ラ
スルの様な魔力も失った娘が相手では叶う訳もなかった。
ラスルの脳裏によみがえったのは、かつて自分を組み敷いた父王
ウェゼートの姿。
あの時は間一髪の所で手を差し伸べられ助けられたが、ここには
あの日の様に助けてくれる存在はない。
過去の恐怖が蘇り我を忘れて暴れるラスルだったが、グローグは
そんなラスルの行動を両肩を押さえつけたままじっと見下ろしてい
る。
鋭く突き刺さる灰色の目に囚われたラスルは体をびくりと弾ませ、
動きを止めた。
攻撃を仕掛け傷つけようとする眼差しではなく、何かを探り出そ
うとするような視線。
心の内を見透かされそうになり、ラスルは駄目だと分かっていて
も視線を反らす。
﹁何を企んでおる?﹂
低く冷たい声で囁かれた。
﹁何って︱︱︱企んでいるのはそっちでしょう?!﹂
147
﹁お前は確か、魔力を抜かれたお陰で立ち上がるのも困難な程消
耗していた筈でなかったか。なる程⋮あの女め裏切りおったな。﹂
口角を上げたグローグの瞳に残虐な光が宿る。
若い娘を前にして色に狂っただけの男ではない。目の前で自分を
組み敷くのはまがりなりにもフランユーロ王国の王で、過去におい
てはイジュトニアの魔法力を前に敗戦に追い込まれはしたが、スウ
ェール王国を陥落まであと一歩の所まで追い込んだ国の王だ。ラス
ルごときが掌で転がせる様な容易い男ではない。
ミシェルが危ない︱︱︱!
そう感じた瞬間、ラスルは体に戻っていた僅かばかりの魔力に集
中した。
ここで騒ぎを起こせば大変な事になるのは目に見えていたが、何
か行動を起こさなければ自分の為に危険を冒してくれたミシェルが
殺されてしまう。
ラスルは掌に溢れたなけなしの光を天井に向かってかざす。
この様な状況に遭遇してさえも人に対して直接的な攻撃を仕掛け
る勇気は持てなかったが、建物を破壊し騒ぎを起こせばミシェルの
事だ。事情を察して逃げ出してくれるだろう。
だがその刹那、グローグ王はラスルから視線を反らす事無く素早
い動作で寝台脇の台に置かれた酒瓶を取り、乱暴に瓶を傾け酒を零
しながら口に含んだ。
零れた酒がラスルの肌に伝い落ち、それに気を取られた瞬間︱︱
︱ラスルはグローグによって唇を塞がれ、口内に液体を送りこまれ
る。
ごくりと、ラスルの喉が鳴った。
148
カッとなる程に熱い空気が口から鼻を通り、目に刺激を与える。
驚くラスルの目に残虐な視線を向け口を拭うグローグの姿が映っ
たが、それも直ぐに霞みがかる。
言葉を発する間もなく、ラスルは強烈な睡魔に襲われ、細く白い
腕が寝台に音を立てて落ちた。
ラスルが目を覚ました時、部屋の中は既に明るくなっていた。
強烈な目眩と頭痛、今までにない気だるさに襲われながらも気合
で身を起こす。
頭を抱えて視線を落とすと、身に付けていた筈の薄衣は剥ぎ取ら
れ、無残に引き裂かれて床に落ちているのが目に映った。
意識のないままグローグ王に︱︱︱?!
もし眠っている間にそんな事になっていたとしても何らかの変化
がある筈だと、自分の体に意識を馳せるが、頭痛と目眩で見える物
が幾重にも重なりまったく集中できない。
状況が把握できないまま悔しさが込み上げて来たが、それよりも
149
先にミシェルの方だと気付き、鋭く痛む頭を押さえた。
シーツを引き寄せ体に纏うと寝台から降り立つが、足に力が入ら
ず目眩も手伝ってその場にしゃがみ込む。
疲労感に加え、体に纏わり付いた酒の匂いが吐き気を呼んだ。
そのまま床に嘔吐するが込み上げて来たのは黄緑色をした胃液の
み。
口についた胃液を拭うと扉が開く音が耳に届き、慌ててそちらに
顔を向けた。
ミシェル?!
そこに姿を現したのは求めた人ではなく、黒いローブに身を包ん
だシヴァだった。
どうにもならない身体を寝台に持たれかけ、床に腰を下ろしたま
までラスルはシヴァを睨みつける。
力を奪われたうえ、自分以外の人間を⋮国を危険に曝してしまい
悔しくてたまらなかった。
たったひとつの恨みを晴らす為に支払われる代償。それはシヴァ
の命ではなく、彼に関係のない多くの命なのだ。
﹁大人しくしていないからこんな目に合う。﹂
全く馬鹿な事をと蔑みの目がラスルに向けられた。
﹁ミシェル⋮彼女はどうしたの?!﹂
﹁人の心配よりも、まずは己の心配をしたらどうだ?﹂
﹁そう言うあなたこそ辛そうだけど?﹂
精一杯の虚勢を張り嫌味で返す。
実際の所ラスル程ではないにしろ、彼女の力を奪い続けたシヴァ
150
本人も相当応えているようだ。覇気が薄れ目が落ち込み、目元には
深いクマが刻み込まれている。
シヴァはラスルの嫌味に応える事無く、床に蹲るラスルを抱え上
げるとそのまま乱暴に寝台に放り投げた。
その一連の動作さえ苦しそうに息を付くシヴァの姿に、そのまま
捨て置いてくれてよかったのにと視線を外す。
ラスルはシヴァにとって殺したいほどに憎い男の娘である。その
ラスルの力を奪い動きを封じ込めてはいるが、シヴァ自身はけして
それ以上の無体な事はせず、所々でほんの僅かな気使いを見せる。
そんな彼の態度は全てラスルが母親であるイシェラスに似通った容
姿をしているせいだとは分かってはいたが、ラスルは何処かでシヴ
ァの優しさに縋ろうとする自分の心に気付いてもいた。
妻を奪われ心を失くした男。
娘の幸せを奪われたうえ、復讐を誓うシヴァを捜し求めて旅した
オーグ。
オーグがシヴァを捜したのは戦う為ではない。こうなる事を予想
し、彼の身を案じてそれを止める為に大陸中を旅していたに違いな
いのだ。でなければオーグはラスルに魔法で人を傷つける事の悲し
さを解いたりはしない。人の命を奪う事を禁じたりはしなかっただ
ろう。
祖父がいない今、残された自分がオーグに代わってシヴァを止め
なければならない。
それは魔法を使っての攻撃や命を奪っての事ではなく、彼自身の
心に訴えなければならないと言う事だ。とても難しい事だが、それ
なら魔法力を奪われ身動きできない状態でも何とかなるやもしれな
い。
祖父ならどうする?
自分にできるのはいったい何だ?
151
﹁シヴァ、あなたの大事なものって何?﹂
突然の問いかけにシヴァは眉間に皺を寄せた。
﹁わたしは母を知らないけど、少なくともこんな事をあなたに望
んだりするような人ではないって思ってる。﹂
ラスルの言葉を受け、お前に何が解るとシヴァは心底馬鹿にした
様に鼻で笑った。
﹁そう、お前はイシェラスを知らない。偽りや偽善でなく、何の
見返りも求めず心からの笑顔を向ける温かい聖女のような娘だ。美
しく、それ故ウェゼートに人生を弄ばれた哀れな我が妻︱︱︱﹂
黒の光を纏う魔法使いである故、同族から忌み嫌われる存在だっ
たシヴァに、嘘偽りのない笑顔を向け、温かい手を差し伸べてくれ
た。
彼女がいたからこそシヴァの存在はイジュトニアで受け入れられ、
ひと
彼女の人徳がシヴァの人間性を魔法使いにとって危険なものから危
ぶむ物ではないと位置付けてくれたのだ。
あの美しく温かな微笑みを向けてくれた女性はシヴァの妻になる
と同時に人生を狂わせた。
愛しい妻の人生を狂わせた身勝手な王・ウェゼートには、イシェ
ラスが受けた以上の苦しみと絶望を味わってもらわなければ気が済
まない。いや、そうして殺したとてシヴァの気が晴れる事はないだ
ろう。それでも妻の人生を奪ったあの男をこのまま野放しにしてお
けはしなかった。
恨みを晴らしても晴らし切れまい。イシェラスを失った時点でシ
ヴァの心が救われる日は失われたのだ。
152
イシェラスが復讐など望まない事は百も承知。それでも、イシェ
ラスから産まれた憎き男の子を利用してさえも実行せずにはいられ
ない。イシェラスが死してなおウェゼートはイシェラスに固執し囚
われ、血を分けた子にすら欲情しイシェラスを汚し続けるのだ。
存在自体が許せない。
﹁私はたとえイシェラスに厭われようとこの復讐を止める気はな
い。﹂
シヴァは眼光鋭くラスルを見据えると腕を伸ばし額に触れる。
やがてシヴァの全身から黒い霧が立ち込めラスルの魔力を抜きに
かかるが、既に力の限界に来ているシヴァは苦痛に顔を歪めた。
臓腑を抉られるような感覚にラスルの肉体は悲鳴を上げるが、額
にあてがわれたシヴァの腕を渾身の力で掴み取ると、奪い取られる
己の魔力に意識を集中させ流れ出て行く魔力に逆らう事無く、自ら
望んで魔力をシヴァへと流れこませる。
黒の力を利用し、僅かに蓄えられた金の魔力を一気に注ぎ込まれ
たシヴァは慌ててラスルの腕を振り解くと、己の体を支えきれずに
よろよろと後ずさった。
倒れるのは何とか堪えたものの、許容範囲を超えた魔力は黒い煙
となってシヴァの体から溢れ出し地を這い立ち消えて行く。
﹁ラウェスール⋮貴様︱︱︱っ!﹂
シヴァが唸る。
と同時に、突然大きな音を立て扉が開け放たれると、大きな影が
飛び込んで来た。
153
154
救出
飛び込んで来た人影は二つ。
ラスルはその二つの影を目に止めると、体の辛さも忘れ驚愕に漆
黒の瞳を見開いた。
抜き身の剣を手に先に飛び込んで来たのは、後ろに束ねる長い銀
の髪をなびかせた紫の瞳の男。その傍らを俊足で通り過ぎる淡い金
髪の男に反応したシヴァが魔法で攻撃を放とうとするのを、銀髪の
男はさらに素早い剣捌きで敵の意識を己へと食い止める。
飛び込んで来たのはここフランユーロにいる筈のない、スウェー
ル王国の人間。
数ヶ月前、ラスルが住まう森で出会ったスウェールの王子アルゼ
スと騎士のカルサイトだ。
何故二人がここに︱︱︱スウェールは⋮イジュトニアはどうなっ
たの?!
大きな不安が襲い、ラスルが言葉を発するよりも早く、シヴァか
らカルサイトに向け攻撃が仕掛けられる。
放たれた黒い光をカルサイトが身を低くして避けると光は壁を直
撃し、その一部が爆音を立て崩れ落ちたと同時に、カルサイトの剣
がシヴァの脇腹を貫いた。
狙ったのは心臓︱︱︱だが力の弱い黒の魔法使いとはいえ、シヴ
ァはイジュトニアの純血種の魔法使いであり、相手のカルサイトは
剣に関してかなりの手練であってもやはり人間。シヴァは咄嗟に防
155
御の壁を作り急所に狙いを定められた剣を弾き飛ばした。
しかしカルサイトの方も負けてはいない。魔法の壁の弱点を見抜
き、次の壁が現れる前に剣をシヴァの腹に喰い込ませ深い傷を負わ
せたのだ。
黒の魔法使いについて得た知識では、魔力を奪う力を持つ彼には
魔法は効かない。本来なら確実に殺しておきたい所だったが、体力
のない魔法使いをこのまま捨ておけば確実に死ぬだろうし、敵陣の
ど真ん中で時間がない今はこれ以上の攻撃を仕掛けるのは無謀だっ
た。
それに何より、人の命を奪う事を厭うラスルを前にして、敵とは
いえ腹から血をほとばしらせ蹲り抵抗できない相手に対し止めを刺
すという行為は躊躇われた。
﹁殿下っ!﹂
出血する腹を押さえ痛みに耐えるシヴァに釘付けになっていたラ
スルは、カルサイトの発した声に我に返る。
はっとした時、目の前には厳しい表情のアルゼスが立ち塞がって
いた。
﹁目を瞑っていろ!﹂
全ては一瞬の出来事。
アルゼスの伸ばした腕に抱え上げられたラスルは、抱きかかえら
れたまま運ばれる。
窓際まで来るとアルゼスは目の前にある窓をけ破り、何の迷いも
なくラスルの体を外へ放り投げた。
156
浮遊感と共に襲って来た落下の感覚。
外界の空気と風を肌に感じ、ラスルはこの時初めて自分が二階に
閉じ込められていたのだと気付く。
二階と言っても一般家庭の様な作りではない。フランユーロの王
城で、一部屋一部屋は高い天井をもつ広々とした空間だ。その高さ
は人が飛び降りて無傷で済むとは到底思えないもので。
体が地面に向かって一直線に落ちて行く感覚は、無防備のまま何
の手立ても講じる事の出来ないラスルには恐怖しか与えず、しかし
その恐怖を抱いた瞬間、体に纏っていたシーツがばさりと音を立て
地面に体が叩き付けられるではなく、何かに受け止められる感覚を
覚える。
頭上から聞いた事のある低い男の声が浴びせられた。
﹁よぉ姫さん、遅くなって悪かったな。﹂
﹁ザイガドっ!﹂
ラスルは鍛え上げられた逞しい腕に包み込まれている。
白昼堂々とフランユーロの王城、しかも男子禁制の後宮に忍び込
みラスルを見下ろすザイガドの浅黒い肌がいやに懐かしく感じられ
た。
直ぐ傍らでばさばさと何かが落下してくる音に首を向けると、す
ぐ側にアルゼスとカルサイトが立っている。
あそこから飛び降りた?!
ラスルが空を見上げると同時にザイガドが身を翻し、ラスルを小
脇に抱え走り出す。
その後をわらわらと衛兵たちが追って来ていたが、ラスルを抱え
ていると言うのに相変わらずザイガドの動きは素早く、あっと言う
間に木々の陰に隠れ衛兵たちを撒いてしまった。
体調が最悪なうえ体力もないラスルは、素早く逃げるザイガドの
157
脇に荷物のように抱えられ、息苦しさに何時の間にか意識を失って
しまう。
わら
次に目覚めた時、ラスルは何処とも知れない廃屋の藁の上に身を
横たえていた。
先にラスルの救出の為フランユーロ入りしていたザイガドとアル
ゼス達が合流した時、アルゼス達がイジュトニアを立ってから既に
五日が過ぎていた。
期限まであと二日︱︱︱どんなに急いでもラスルを連れ二日でス
ウェールへ戻るのは無理だ。
自国がイジュトニアの魔法師団と言う脅威に曝される状況だと言
うのに、アルゼスはそれでもラスルをザイガドだけに任せるのでは
なく、アルゼス自らラスル救出に関われる事が少なからず嬉しく思
えた。
ザイガドと合流した時、彼は単身フランユーロの後宮に忍び込も
うとしていた。ラスルを助け出す為に手を組んでいた女からの連絡
が途絶えたというザイガドからは、初対面であれほど感じ取れた余
158
裕が消えており、それがアルゼスの気を更に急かせる結果となった。
白昼堂々敵国の城に忍び込み、追っ手を交わしながら行き着いた
場所で見たのは憔悴しきったラスルの姿。その体にはシーツを纏い、
その下は全裸である事が容易く予想できたため、彼女の身に起こっ
たであろう出来事を想像してアルゼスは一瞬我を忘れた。
カルサイトの呼びかけに我に返り、予定通りラスルを窓から下で
待つザイガド向かって投げ渡す。
かなり乱暴なやり方だったが外にも既に衛兵の影が見えていた為、
迷う事無くザイガドを信用した。
その後、意識を失ったラスルをかなり乱暴な扱いであったが馬に
乗せ、一気にフランユーロの都から遠のいた。追っ手はただ人では
ない、フランユーロの王グローグを含むイジュトニアに向かう一軍
と予想が出来たから一刻も早くラスルをスウェールに連れ帰らねば
ならなかったのだ。
それでも馬や自分たちにも休息は必要だ。
日も暮れた街道の外れをスウェールに向かって進んで行く途中、
空き家となって相当の時間がたったであろう廃屋を見付け休憩を取
る。
衣服も着せてやれずシーツに体を撒かれたままのラスルを藁の上
に横たえさせると、間もなく瞼が持ち上げられ漆黒の瞳が覗いた。
喜びが深かった。
窮地を救い、愛しい人が目覚めた時に己がその瞳に最初に映る。
ザイガドの言葉を信じた訳ではなかったが、二人の関係が気にな
るアルゼスとしては誰よりも早くラスルの瞳に映ると言う事は何よ
りも大事な事だったのだ。
しかし愛しいラスルの発した言葉は、アルゼスとは温度差があり
過ぎるものだった。
159
﹁目覚めたか︱︱︱気分はどうだ?﹂
優しく微笑み心底ほっとするアルゼスに対し、ラスルは眉間に皺
を寄せ怪訝な表情を作る。
﹁どうして王子様がここにいるの。スウェールが⋮イジュトニア
はどうなったの?﹂
状況を知らないラスルが口にするのは当然の疑問。だがアルゼス
はもっと他の、何かしらか弱い女性らしい言葉をラスルに期待して
いたのだ。
思えば魔物相手に無敵とばかりに立ちまわり、野生動物を捕まえ
見事に捌いて見せる女である。可愛らしい仕草を望んでも無駄だと
どうして気付かなかったのだろう。
しかもアルゼスは、次にラスルが発した言葉に更に深く傷付く事
となる。
﹁ザイガドは︱︱︱ザイガドは何処?!﹂
そう言って飛び起きたラスルは目眩に襲われそのまま再び藁の上
に倒れ込んだ。
ラスルが求め名を呼んだのは目の前にいるアルゼスではなく、怪
しい元傭兵のザイガドだったのだ。
何故だと言う思いを抱き、表には出さないがアルゼスはラスルの
呼ぶ男がいる場所へと視線を向ける。
名前を呼ばれたザイガドは同じ屋内の少し離れた場所にいた。
ラスルが自分を呼んだ理由を何となく察していたザイガドは、決
して疲れている訳ではなかったが気だるそうに身体を起こすとラス
ルの傍らに腰を下ろす。もとは窓があったであろう場所から差し込
160
んでいた月明かりが遮られ、大きな影を落とした。
﹁どうした、俺が恋しくなったか?﹂
ザイガドの軽口は付き物だがいちいち反応する気力もないラスル
は漆黒の瞳を揺らし、再びゆっくりと身を起こしながらザイガドを
見上げた。
﹁ミシェルが⋮ミシェルがわたしのせいで︱︱︱ミシェルはどう
してる?﹂
小さく震えながら伸ばされた腕が力なくザイガドの衣服を掴む。
ザイガドに頼まれてラスルを助けに来たと言ったミシェル。
少し棘のある言葉使いが特徴的で、それでいて彼女はラスルを献
身的に介護してくれた。グローグ王の渡りがあると知らせてくれ、
黙って抱かれてくれたら助かると言った彼女の言葉がラスルの胸を
抉る。
ラスルに経験のない事を察したミシェルは急遽ザイガドに繋ぎを
取り脱出の予定を立てる事にしたのだ。本来の予定ではラスルが逃
げ出すにはまだ早かった筈。それを早めたのはラスル自身の子供じ
みた都合のせい。だと言うのにラスルは上手く立ちまわる事が出来
ず、結局ミシェルの裏切りをグローグ王に知られる事になってしま
ったのだ。
あの時、自分が大人しくグローグ王に抱かれていたならこんな事
にはならなかった筈である。自分のせいで巻き込んでしまったミシ
ェルの笑顔が脳裏から離れない。
藁をも掴む思いでザイガドに縋った。
危険を冒し、二度もラスルを助けに来てくれた人だ。ラスルを片
161
腕に抱いたまま剣を振るう様は恐ろしい程に強かった。
ザイガドは今にも泣き出しそうなラスルに腕を伸ばすと、頭の上
に大きな手を置いてくしゃくしゃと撫でまわす。
﹁小奇麗になったな。﹂
﹁彼女がやってくれたの。﹂
﹁そうか︱︱︱﹂
いつものラスルは薄汚れていてぐしゃぐしゃの髪をしていた。
その乱れた外見はラスルが自身を守るため無意識に身につけたも
のだとザイガドは気付いている。綺麗になった艶やかな黒髪を幾度
となく撫でつけながら、ザイガドはらしからぬ優しい笑顔をラスル
に向けた。
﹁ミシェルを救えなかったのは俺の責任だ。気にするなとは言わ
ない。が⋮泣いてる暇はねぇぞ?﹂
やるべき事があるよな⋮と、ザイガドが真剣な眼差しでラスルに
訴える。
そうだ、泣いている間などない。
巻き込んだ人たちへの負い目を感じる事は悪い事ではないが、そ
れに支配され怯えていてはここで終わってしまう。ミシェルの死は
ラスルのせいだとしても、それに負けていたらこれからすべき大事
には向かって行けない。
﹁泣いてない、悔しいだけ。﹂ ラスルは零れそうになる涙を拭い去った。
そんなラスルの頭をぽんぽんと軽く叩き、ザイガドは大きく一息
162
吐く。
﹁これからお前のすべき事はこの王子さんが話すとして︱︱︱俺
は一旦フランユーロの城に戻る。﹂
ザイガドはラスルの頭を撫でると剣を片手に立ち上がった。
﹁確かにミシェルをあのままにしちゃおけねぇからな。別に女を
抱きに行くって訳じゃなし、んな顔すんなって。本気で俺の嫁さん
になろうってんならこんな事でいちいち心配してたらもたねぇぜ?﹂
にっと笑って見せるザイガドはラスルが知るいつもの軽薄な男の
姿だった。
殺され捨て置かれているであろうミシェルの遺体を回収し、弔い
に行く人間の見せる姿には思えなかったが、それがラスルを気遣っ
ての物言いで有る事は容易く想像できる。ラスルも揺れる眼差しの
ままであったが苦く形だけの笑いを浮かべた。
﹁嫁になる気は微塵もないから心配してない。でも︱︱︱また会
えるよね?﹂
二度と顔を見たくないと忌み嫌っていた男に対して、これほど短
期間に心変わりしようとは思わなかった。
ラスルを攫い売り飛ばしたうえ、悪びれた様子さえ見せない軽薄
極まりない男。それなのに口から紡いだ冗談を理由にシヴァに攫わ
れたラスルを追って来てくれたうえ、最後にはあの場所から救い出
してくれた。
性格はともかく、戦いの中では頼りになる存在だ。彼の腕からす
れば手薄となった敵国の城に単身挑んでも恐らく命の危険はないだ
ろう。
163
嫁になる気は微塵もないが、心の底から生きて再び会いたいと願
う。
ザイガドがいてくれたおかげでフランユーロの思惑をスウェール
やイジュトニアに知らせる機会を持てたのだ。ラスル一人だったら
囚われたまま、何も出来ずに悔しい思いをしただけ。
初めはとんでもない出会いだったが、今はその出会いに感謝して
いる。
そして彼ら︱︱︱
ザイガドを見送った後、ラスルは傍らにいる二人の男に視線を向
けた。
ヒギ
本来なら出会う事のなかった存在である、スウェールの王子と騎
士。
彼らがラスルの住まう森で魔物に襲われ瀕死の重傷を負ったお陰
で指輪を授かり、それがあったからザイガドをスウェールの王子に
引きあわせるきっかけを齎した。
全ての出会いは偶然だが、一つの運命となって動き出している。
ザイガドの言葉によると、これから自分のすべきことは彼らが知
っていると言う。と言う事は、アルゼスはカルサイトと共にイジュ
トニアを訪れイスタークに会ってくれたのだろう。
最悪の状況は回避できたのだろうかと、ラスルは不安気にアルゼ
スを見据えた。
164
出立
ラスルはそっと、本来の持ち主の指に治まった指輪に視線を馳せ
る。
初めて見た時と同じように指輪はアルゼスの右の小指にはめられ、
何の違和感もなく馴染んでいた。
その視線に気付いたアルゼスは指輪を外すと、ラスルの手を取り
再びその人さし指に指輪を嵌める。
﹁あの男がこれを持って来た時には驚かされたぞ。﹂
スウェール王家の紋章とアルゼスの印が刻まれた指輪だ。文化が
違えど王家と王子の印が刻まれた指輪が持つ効力はラスルにだって
解る筈。易々と手放すとは思えないそれを、いかにも素行の悪そう
な傭兵上がりの男が持っていたのだ。手渡した本人としては驚いて
当然だろう。
﹁ザイガドの言葉を信じてくれてよかった。それでイスタークは
何て? イジュトニアは軍を止めた?﹂
アルゼス達がザイガドの言葉を信じイジュトニアへ向かったので
あれば、既にラスルの素性は知れたに違いない。今更隠しても無駄
だが、出来れば知られたくなかった事実に後ろめたさのようなもの
を感じ、視線を合わせる事が出来なくなって、ラスルは自分の人さ
し指に嵌められた指輪を見つめながら言葉を紡ぐ。
﹁今のままではイジュトニアの魔法師団を止める事は出来ない。﹂
﹁え︱︱︱?﹂
驚いたラスルは顔を上げ、アルゼスとカルサイトを交互に見た。
165
﹁わたしの事は死んだって伝えてくれなかったの?﹂
イジュトニアの国王ウェゼートのラスルに対する執着ぶりは理解
しているが、ラスルが死んだとしたならそれはフランユーロの手に
よってだ。それを耳にしたならさすがに侵攻は止めると思っていた
のに、ウェゼートはいったい何を考えているというのだろう。一番
最初にイスタークの耳に入れれば事態の収拾がつくものだとばかり
思っていたのは浅はかな考えだったのだろうか。
どうすればいいとラスルが次の考えに馳せる前に、アルゼスがラ
スルの顔を覗き込んだ。
久し振りに見る海のように深い瞳は穏やかな青で、光の下で紫を
帯びる不思議な虹彩は月明かりでは見る事が出来ない。
﹁お前の胸に刻まれた刻印、それによってお前の所在は筒抜けに
なるそうだ。﹂
左胸に刻まれた花の印のような刻印。
アルゼスに指摘され、ラスルは体を強張らせると刻印のある場所
を纏ったシーツの上から握り締めた。
生まれた時に刻まれた花弁のような六つの印は、けして消える事
無く呪いのようにラスルに付き纏う。ウェゼートから逃げてもこれ
がある限りその血から逃れられないと言われているかに、常に就き
纏われている気がしてならない枷だ。
これによって所在が筒抜けになる?
彫師によって魔力を込め刻まれた読み取り困難な、繊細な細工の
ような文字。そこに込められた魔力でラスルは今も、これから先の
未来までウェゼートに縛られ続けると言うのか?
﹁イジュトニアの王の直系は、その印が今何処に存在するかを知
166
る事が出来るのだそうだ。だからお前の身がフランユーロにある限
り、ウェゼート王はたとえ自国を犠牲にしようともフランユーロの
言いなりになるだろう。﹂
アルゼスはイジュトニアのイスターク王子を訪ねた折に交わした
話をラスルに伝える。
刻印によって所在が知れるなど想像もしなかったが、父親である
ウェゼート王から常に見張られ逃げ出せないと感じていたラスルの
予感は的中していた。
王家の血によって繋ぎ止められてしまう呪いのような朱色の刻印。
消える事のないそれは永遠にラスルを拘束し続けるのだ。
自国を犠牲にしてさえもラスルに対する執着を見せるウェゼート
王。ラスルと言うより、母親のイシェラスに尋常でない執着を持っ
ているのだろう。
﹁愚かな王︱︱︱﹂
なんて、何て愚かなのだろう。
一人の女に執着し、過去には国政を投げ出したうえ今は守るべき
国さえ犠牲にしようとしている。全てのそれは己の救いようのない
欲によるものだ。
﹁それで今日は何日たったの?﹂
﹁イジュトニアを出てから五日⋮いや、既に六日が過ぎるか。﹂
現状を考えるとどう転んでも約束の七日以内にスウェール入りす
るのは無理だ。
イジュトニアの純血種である魔法使い達の強大な力を前にしても、
スウェールとて直ぐ様陥落するような軍事力ではない。戦い方によ
っては魔法より剣の方が勝るのも事実。それでもスウェール側はか
167
なりの命が失われる事になるであろうは必至だった。本来ならアル
ゼス自身が先頭に立ち指揮を取らねばならない所だが、互いに恨み
合う仲ではない国同士、どうにかする為にラスルをスウェールに連
れ帰ろうとしているのだが、それが間に合わないのはあまりにも口
惜しく。
王子として、騎士として。
戦いの場にいる多くの仲間を無駄に死なせる事になるのだと言う
念から、アルゼスとカルサイトの表情が厳しく歪む。
だがそんな中でもラスルは前向きだった。
﹁だったら今すぐここを立とう。﹂
ふらつきながらも立ち上がろうとするラスルをアルゼスが慌てて
制する。
﹁お前には無理をさせている。しかも体がこんな状況では︱︱︱﹂
﹁わたしの心配よりも国の心配をして!﹂
体が悲鳴を上げても帰路の途中で回復する。万全でなくてもいい、
兎に角この身をスウェール入りさせさえすれば何とかなるのだ。
アルゼスに睨みを利かせるラスルだが、声を荒げただけで大きく
肩で息をしている。
魔力を奪い続けられると精神を病む危険が伴うと聞いてはいたが、
ラスルの場合まるで命を削り取られていたようにすら感じ取れた。
二人の会話を黙って聞いていたカルサイトだったが、ここへ来て
ようやく口を開く。
﹁今直ぐスウェールに戻りたいのは山々だが、連れの馬は疲労困
憊なうえ今は新たに手に入れる手段もない。馬に潰れられては帰路
が断たれたも同然になる。ここは一晩休んで立つ方が賢明だ。﹂
自分達はともかく、本来なら馬を取りかえ休みなく走りたい所だ
168
が、敵国にてその取りかえるべき馬を探すには今はまだ危険が伴う。
もう少し都から離れなければ足が付きやすくなってしまうのだ。
だがラスルはここでも引かなかった。
﹁あなた達に問題がないなら行こう。馬は大丈夫、わたしに任せ
て。﹂
アルゼスとカルサイトは互いに顔を見合わせ、怪訝に思いながら
もまさかと言う思いのままラスルの言葉に従った。
ラスルはアルゼスの手を借り馬が休ませられている場所まで移動
すると、二頭の馬へと自力で近付く。
馬は暗闇に現れたラスルに反応し足をばたつかせたが、主の姿が
あるのを確認したのか、警戒し攻撃を仕掛けたりする事はなかった。
ラスルは馬の頭に手を伸ばすと安心させるように優しく撫でつけ
る。
愛おしむ様に何度も何度も撫でつけていると、やがて馬は心を開
くかに鼻先をラスルに摺り寄せ気持ちよさそうに手をねだった。
﹁ごめんね、無理をさせる。﹂
そう言って馬に頬を寄せ撫でつけると、撫でる掌から優しい金色
の光が溢れ出し、光はやがて馬の体全てを包み込んだ。
溢れた光は馬を包み込んだ後、ゆっくりと内に取り込まれるよう
に消えて行く。
そうして二頭目の馬にも同じように手を触れ光で包み込むと、二
頭それぞれが月明かりの下で毛並みも艶やかに変化し、先程までの
様子とは打って変わって元気溢れる健康体へと変わった事が一目で
受け取れた。
貴重な魔力、それを人間以外の動物に使う等、混血の魔法使いし
169
かいないスウェールでは考えられない事だった。特に回復魔法は怪
我や病人を癒す為に使用され、戦地ですら馬になど使われた記憶が
ない。
自分が癒しを受けた時は意識を失っていた為、ラスルの使う回復
魔法を初めて目にしたアルゼスが驚いていると、馬に手を差し伸ば
していたラスルの身がその場で崩れ落ち、それが地面に横たわる前
にカルサイトが受け止める。
肉体に戻っていた魔力の殆どを、スウェールまでの足となる馬達
の疲労回復へと注ぎこんだラスルは意識を失っていた。
﹁ラスルっ!﹂
アルゼスが駆け寄るとカルサイトが大丈夫だと頷く。
﹁意識を失っているだけです。﹂ ラスルの顔を覗き込んだアルゼスは、その真っ白い頬を一撫です
る。
温かい訳ではないが人のぬくもりは感じ取れ、微かな息遣いが頬
を撫でる手に触れた。
﹁お前の方が疲労困憊ではないか︱︱︱﹂
出来る事ならゆっくりと休ませてやりたかったが、馬も回復しラ
くすぶ
スル自身もスウェールに戻る事を望んでくれている。か細く疲労し
た身は心配であったが、ここで燻っている暇がないのも確かだ。
﹁行くぞ、カルサイト。﹂
アルゼスは馬に跨ると、大した重さの無いラスルの体を受け取る。
馬が二頭しかない以上どちらかに二人乗りしなくてはならず、馬
の負担を考えると体の大きなカルサイトよりも、彼より身丈の低い
アルゼスの方にラスルが乗るのが賢明な選択だった。だがもし体格
170
が逆であったとしても、アルゼスはカルサイトにラスルを預けはし
なかっただろう。自分で自分が小さな人間に思えるが、倒れるラス
ルを受け止められなかった事でアルゼスはカルサイトに対して僅か
な嫉妬を覚えていた。
ラスルが二頭目の馬に手をかけた時、その身は既に立っている事
すらままならない状態だった。カルサイトが先を見越して手を差し
伸べると、ラスルは案の定意識を失いその腕に倒れ込んで来た。
久し振りに再会したラスルは出会った頃に比べかなりやせ細り、
受け止めた体は想像したよりはるかに軽く心許無かった。このまま
命が削られて行くのではないかという不安に駆られるが、受け止め
たラスルは規則正しく息をし、硬く瞼を閉じてはいるものの死に急
ぐ顔色ではない。
ほっとした所でアルゼスが駆け寄り手を伸ばす。
その仕草、表情で、アルゼスのラスルに対する思いが引き返せな
い所まで来ているのが感じ取れ、カルサイトは複雑な思いに駆られ
た。
ラスルが魔物の巣くう森に住まう理由を知り、幼い少女が経験し
た不遇にカルサイトの胸は疼いた。事細かく知った訳ではないが、
幼い少女が実の父親から突き付けられた感情は受け止めるに堪えな
いものだと容易く想像できる。
ウェゼート王の行動からすると、彼がラスルに抱く思いは本物で
どうにもならないものなのだろうが⋮真に愛するならけしてそれを
表沙汰にしてはならなかった。
愚かな王︱︱︱ラスルはそう呟いたが、愚かであるが故狂ってし
171
まったのかもしれない。
確かにラスルの見た目は美しく、特に今は髪も体も綺麗にされて
いるので出会った頃との違いに圧倒される。シーツで身を隠しては
いるが、僅かに覗く肌があまりも白く透き通っているのには驚かさ
れる程だ。ウェゼート王でなくても手に入れたくなる気持ちは解る。
解るが、それは親子という禁忌を犯してまでと言ったらそうではな
い。
恐らくウェゼート王はラスルの母親であるイシェラスに囚われた
ままなのだろう。臣下の妻を横取りし、愚王になり果てようと構わ
ひと
ぬ程ウェゼートを引きつけ止まなかった女性。それは容姿だけでは
なく、内面から輝く女だったに違いない。
カルサイトは馬を走らせながら、前方を行くアルゼスの背を追う。
意識の無いラスルを愛おしそうに抱き締め、手綱を捌くアルゼス
の気持ちが伝わってくるようだった。
恐らくアルゼスも解っている筈だ。
スウェールの将来を担い王位を継ぐアルゼスが、身分も何もない
ラスルを正式な妻に娶る事は叶わない。ラスルがイジュトニア王家
の血を引く王女である事を主張したとて、ラウェスール王女は死ん
だと処理されているのだ。今更それをイジュトニアが覆す事はない
だろうし、何よりもラスルは望むまい。
そうなると︱︱︱本来ならクレオンの命令通りアルゼスの思いを
阻止するべくカルサイトが動かねばならない所なのだろうが︱︱︱
ここへ来てカルサイトの心は複雑に絡んでいた。
ラスルは命の恩人だ。たとえ役目とはいえ、こちらの勝手な都合
で彼女の心を傷つけたくはない。と言うよりも、今のカルサイトは
ラスルに対してそれが出来る自信がまるでなかったし、やりたくも
172
なかった。
これ以上彼女を傷つけてどうする?
アルゼスが抱く思いをラスルが受け入れると決まった訳でもない。
特に彼女が身に受けた過去からその可能性は低いようにすら思える。
ラスルは恐らく、己に流れる血を厭うているのだ。
魔法使いの中でも最大級の光を持つ黄金の魔法使い。
出会った時は驚き、共に過ごした時間で変わった娘だと強い印象
を受けた。接する事のなかった異なる環境に住まう娘に興味を抱く
のは、アルゼスばかりでなくカルサイトとて同じだ。ただそこで思
いを止めおく事が出来るか出来ないか⋮踏み込んではならない感情
に触れ、同情とも憐みともつかない、気付いてはならないそれが何
であるかなど百も承知だった。だがあえてそれに気付かぬふりをす
る。そうしなければならない立場にあると解っており、且つそう出
来るからだ。
だが目の前の王子はどうだろう。
アルゼスにとっては初めてとも言える感情に近い筈である。それ
が本来なら自分が手に入れていたであろう存在となれば思いも募る
やもしれないが、出会いの時と場所が違えばまた抱く感情も異なる。
一抹の不安を抱えたまま、カルサイトはスウェールへ向かって意
識を集中し手綱を握り締めた。
173
瓦礫の下
フランユーロ側からスウェールに戻ると、最初に辿り着く場所は
スウェールの西の砦だ。砦の向こうはラスルの住まう広大な森が広
がっている。
ラスル達は不眠不休で馬を走らせたお陰で当初の予定より数段早
くスウェール入りする事が叶ったが、それでも約束の七日を二日過
ぎていた。
フランユーロの城から救い出したラスルは憔悴し、魔力を抜かれ
た疲労から意識を失ったが、その魔力だけは馬上という過酷な場所
であっても回復し、途中ラスルの為の衣服と馬を手に入れ、馬達は
ラスルの回復魔法でひたすら回復させつつ地を蹴り駆けさせた。
砦に辿り着いた一行はほっと一息する所か、目の前の惨状にしば
らく言葉を失う。
見張りと警護の為に築かれた砦は無残にも破壊され、所々焼き打
ちにあった跡が残る。瓦礫の間には兵士や騎士の遺体が覗き、それ
は真新しく腐敗は進んでいなかった。
初めはイジュトニアの魔法師団の仕業かと思ったが、スウェール
の南にあるイジュトニアが西のフランユーロ側から攻め入るのも不
自然な話し。それに遺体が受けた外傷は魔法によるものではなく剣
や大砲などの火器による物がほとんどだった。
イジュトニアだけではなく、フランユーロ側からも攻め込まれる
174
ことはある程度予想してはいたが、西の砦がそう簡単に破壊され落
ちるとは思っていなかっただけに衝撃は大きい。
唖然としながらも生き残った者がいる筈だとアルゼスとカルサイ
トが馬を下りた時、ラスルは既に遺体に歩み寄り生存者を探して瓦
礫の間を歩き回っており、二人に向かって声を上げた。
﹁王子様、カルサイト、こっちへ!﹂
ラスルの呼びかけで二人が慌てて駆け寄ると、瓦礫の間から真っ
黒に汚れた筋肉質の腕だけが力を失った状態で突き出ていた。
腕が黒いのは火傷による変色だ。
﹁脈が触れるの、この人生きてる。﹂
﹁本当か?!﹂
確認のためカルサイトも同様に手首に触れると、微かに脈が触れ
ているのが感じ取れる。
だがその命も風前の灯だ。
瓦礫の下に埋もれ、強く握っても反応を示さない状態では助かる
見込みはない。
しかし今この場にはラスルがいる。ここへ辿り着くまでの三日で
完全ではないにしろ、一人馬を操れるほどに回復したラスルなら何
とかなる事をカルサイトは知っていた。
アルゼスとカルサイトは男に圧し掛かる巨大な瓦礫を渾身の力で
持ち上げる。
最初に胴体が現れ、汚れてはいるが黒い騎士の制服が目に入った。
残った瓦礫を払い除け姿を露わしたのはアルゼスとカルサイト共に
見知った騎士だった。
﹁ロイゼオリス?!﹂
175
アルゼスの声が上がる。
つい先日まで都にいた騎士でロイゼオリスと言う二十代半ばの男。
アルゼス達が森に入り魔物に襲われ全滅したアルゼス直属の騎士達
に代わり、新たに選別されその任に就く予定だったロイゼオリスが
ここにいると言う事は、急遽他にも腕の立つ騎士達が大勢ここへと
配属されていたのだろう。
彼らが討たれ砦を突破されたと言う事は、フランユーロはかなり
強固な一軍を送って来たという事になる。
ラスルを奪還され標的をスウェールのみに絞ったか、あるいは魔
法師団不在のイジュトニアを落とすには大した力は必要ないと考え
たのか。
兎に角すぐに追わなければならないとアルゼスは東のスウェール
内陸を仰ぎ見る。
ロイゼオリスの外傷は腕の火傷以外大した事はなかったが、汚れ
た衣服のボタンを外し前を開くと体中が紫色に腫れ上がっていた。
肋骨の骨折に重度の内臓損傷。右腕と両足が折れ酷い有様だった
が、幸運な事に頭には大きな損傷がなくラスルはほっとする。
まずは致命傷となる内臓の損傷から治療に入り、それが終わると
次に折れた骨を癒した。傷口を拭う清潔な布も水もなかったので感
染症を警戒し、ふだんなら治癒しない様な軽い裂傷までも丁寧に癒
して行く。
金色の柔かな光に包まれたロイゼオリスは汚れ腐ってはいるもの
の、体を完全な状態にまで治癒されたうえ、ラスルの使う治癒魔法
によってある程度の肉体的疲労までも回復されていた。
そのお陰か、内出血は酷かったがそのまま眠り続ける訳ではなく、
治療を終えると直ぐ様意識を取り戻す。
176
﹁ロイゼオリス、私が解るか?!﹂
﹁︱︱︱カル⋮サイト⋮に⋮殿、下⋮?﹂
ぼんやりと開かれた眼差しは揺れ、なかなか焦点が合わないよう
だったがそれでも認識は出来ている様だ。
アルゼスは前に出てロイゼオリスを覗き込むと緊張して強張った
声をかける。
﹁状況を説明できるか?﹂
﹁フランユーロの⋮兵の数は恐らく二万⋮大砲は二十器ほど。魔
法使い⋮の、姿は見受けられず︱︱︱﹂
そこまで口にするとロイゼオリスは意識を失う。
だがそれで充分だった。
大砲を携えた二万の軍が相手では砦の陥落も頷ける。恐らくその
軍は都を目指し、途中イジュトニアの魔法師団と合流する予定だろ
う。
ここを去ってからそう時間もたっていない筈である。廃墟と化し
た砦に、その下には多くの仲間が埋まっている。生きている者が埋
まっているのも想像できるが、アルゼスとカルサイトはスウェール
の王子と騎士として、彼らを見捨て前線に出る決断を下さねばなら
なかった。
傷付いた臣下を救うも大事、だが現在最も優先させねばならない
のはスウェールを守り抜く事。
二人は意識を失ったロイゼオリスを日蔭の柔かな草の上に移動さ
せ、ラスルの姿を捜す。
彼女の居場所を明確に言い当てたイジュトニアの王子イスターク
の言葉を信用しない訳ではなかったが、ラスルがスウェール入りし
177
ただけで本当にイジュトニアの魔法師団がスウェールから退去する
のであろうか。その確信がない今は、危険と解っていてもラスルを
巻き込み戦場に連れて行きたいという思いが強かった。
それにラスルの力を見ていると、頼りにしてはならないが大きな
戦力になるのが解り切っている。
ゴトリと瓦礫が落ちる音を耳にしそちらに視線を向けると、ラス
ルは既に次の生存者を発見し何やら声をかけている様子が伺えた。
﹁彼女を連れて行くのは無理ではないでしょうか?﹂
カルサイトは当然とも取れる冷静な意見を紡ぎながらアルゼスの
横を通り過ぎ、生存者を発見したらしいラスルの元へと瓦礫を上っ
て行く。
ラスルは彼らとは違う。目の前の屍を越える事は出来ても、傷付
いた人間を放り出せるような性格ではない。今この時すら誰とも知
れない者の為に髪を振り乱し、土埃にまみれ無い力で必死に瓦礫を
取り払おうとしているのだ。
アルゼスもカルサイトを追う様に、重い足取りで瓦礫の山に足を
踏み入れた。
運の良い事にラスルが発見した生存者はスウェールの魔法使いだ
った。 黒髪黒眼の、ラスルを含むイジュトニアの純潔の魔法使い達とは
違い外見だけでの判断は難しいが、スウェール国内で確固たる地位
を築いている彼らが纏うローブは白で、細かい金糸の刺繍が施され
た立派な仕立てのローブだった。着ている物でこの砦に唯一派遣さ
れていた魔法使いだと見て取れる。
178
しかも彼には意識があり、瓦礫に埋もれていても大きな怪我も負
っておらず、彼に対してラスルがかけた手間は大したものではなか
った。
アルゼス達と同じ年頃と思われる年若い魔法使いは、まず最初に
王子であるアルゼスを見て驚き、次に現在は黒いローブを身に纏っ
てはいないにしろ、その漆黒を纏う外見と金色の光で癒された事に
よって、目の前のラスルが純血種の魔法使いである事を知り驚きの
色を浮かべていた。
﹁どうだ、動けるか?﹂
﹁え︱︱︱あっ、はい!﹂
ラスルに釘付けだった男は、カルサイトの問いに慌てて大丈夫で
すと答えながら両手を動かし、自身の体の状態をパタパタと叩いて
確認していたが、ラスルが立ち上がり他の生存者を捜しにかかると
再び目を丸くしてその姿を追っていた。
﹁彼女はラスルだ。私はカルサイト、お前は?﹂
﹁あっ⋮存じております。私はシュオンと申します。先日隊と共
にここへ派遣されたばかりでした。﹂
丁寧に頭を下げる男⋮シュオンはカルサイトに比べると体が小さ
く手も細かった。細いが男と解る指には魔力を増長させると言われ
ている大きな宝石付きの指輪が嵌められており、石の色は濃い青で、
それによってシュオンの纏う色が青である事が伺える。
﹁ではシュオン。助かって早々で悪いのだが、私と殿下は直ぐに
でもフランユーロ軍を追わねばならない。君はこのままここに残っ
て生存者を捜し治療に当たってくれ。﹂
﹁あ、はい。あの⋮彼女は︱︱︱﹂
179
魔法使いとして余程ラスルが気になるのか、シュオンはカルサイ
トに目を向ける事無くラスルを追い続けている。
スウェールでは貴重な魔法使い。混血であったとしても魔法使い
と言うだけで王宮勤めが許され、それなりの地位が与えられるエリ
ートだ。それ故自尊心が極めて高く扱いにくい面もあったが、シュ
オンはまだ若く、己よりも優れた存在がある事を理解し受け入れる
心の広さも持っている様子。堅物で我こそは特別な傅かれる存在と
でも言いたげな老いた魔法使い達とは雲泥の差だ。
よく言えば、魔法使い特有の擦れた感じがない。
彼なら純潔の魔法使いであるラスルに嫉妬心を持つ事無く上手く
やれるだろうと、カルサイトは僅かな安心感を持った。
﹁恐らく彼女も残る事になるだろう。﹂
シュオンにとっては嬉しい答えを発すると、カルサイトはラスル
へと歩み寄り話しを始めたアルゼスへと視線を向けた。 ﹁ラスル︱︱︱﹂
アルゼスの呼びかけに言葉の先を察したラスルは、瓦礫のはざま
に意識を集中させるのを止め、首を横に振る。
﹁わたしはここを動かない。﹂
ラスルは瓦礫の上という不安定な場所に立ち、陽の光を浴びて瑠
璃色に変わる不思議なアルゼスの瞳を真っ直ぐに見つめた。
180
いつもなら見上げる姿も、ラスルの方が瓦礫の高い場所にいるた
め目線が同じになる。
﹁他にもまだ生きてる人がいる筈なのに見捨ててなんていけない。
﹂
自分だってまだ完ぺきではないと言うのに、ただでさえ力の無い
ラスルが瓦礫を掻き分け生存者を捜している。
目の前に救える命があるかもしれないのに、面倒に思っても見捨
てられるほどラスルは無情ではなかった。それにラスルの心の内に
は、自分のせいでミシェルを死なせてしまったと言う後悔の念が強
くあり、その代わりと言った訳ではないが、今は一人でも多くの命
を救いたいと言う強い気持ちがラスルの胸の内を占めていたのだ。
しかもこの戦いの引き金にラスルは大きく関わっている。
人間らしいラスルの言葉にアルゼスは、共に行きたいという心と
は裏腹に少しほっとした。
﹁そうだな、解った。だがここがある程度片付いたら必ず森へ戻
れ。一刻も早くだ、いいな。﹂
強い命令口調にラスルは眉間に皺を寄せる。
﹁彼らを放って?﹂
﹁お前の治癒魔法は完璧だ。後は救った者達に任せて森へ隠れる
んだ。﹂
国境付近の西の砦で、再びフランユーロの手が伸びないとも限ら
ない。ラスルの治癒は完璧だが、生死の境にいた騎士が直ぐ様元通
りに動ける程回復する訳でもない。何より自分がいい例なのだとア
ルゼスは懸念する。
それでもラスルを残して行ける決心がつくのは、あらゆる魔法使
いにとっては天敵ともいうべき黒の力を持つシヴァをカルサイトが
181
仕留めたからだ。
殺した訳ではないが、魔法使いの力を奪う特殊な力故なのか、自
身には魔法が効かない黒の魔法使いであるシヴァが瞬時に回復して
ここに現れるのは無理だ。脇腹を貫かれた男が治療を受けて助かっ
たとしても、鍛え上げた肉体を持つ戦士ならともかく、直ぐには歩
く事すら困難であろう。
アルゼスの言葉に少し迷ったような仕草をしたラスルだったが、
意外にも素直にわかったと頷く。
怪訝そうな顔つきで見据えるラスルにふっと笑みを漏らしたアル
ゼスは、真っ直ぐに手を伸ばすとラスルの腕を掴んで引き寄せた。
足場の悪い瓦礫の上でよろけたラスルはそのままアルゼスの胸に
吸い込まれて行く。
何の抵抗も出来なかったラスルは、まるで棒切れのように硬直し
てアルゼスの胸に抱き締められていた。
﹁ちょっと、何すんのよ。﹂
抗議の声が上がるがアルゼスはそれを無視し、乱れたラスルの黒
髪に顔を寄せた。
埃と汗と、後は何とも付かない臭いがするが嫌なものではない。
﹁必ず会いに戻ってくる、それまで大人しくしていろ。﹂
そう言って拘束していた身体をゆっくりと引き離すと、ラスルは
ばつが悪そうに視線を反らした。
﹁おい、解ったのか?!﹂
﹁⋮努力は、する。﹂
この前森で別れた時と同じ言葉を口にしたラスルに、アルゼスは
ふっと笑った。
﹁歯切れの悪い奴だな。お前にとっては風呂に入るより容易かろ
う?﹂
182
﹁まだそこに拘ってるの?﹂
ラスルも頬を弛めくすりと笑った。
久々にほぐれた緊張にアルゼスはほっとし、最後にラスルの頬を
撫でると名残惜しそうに瓦礫の山を後にした。
これから彼らにとっての試練の日々が訪れようとしていた。
183
瓦礫の下︵後書き︶
すみません、帰省の為半月ほどパソコンに向かえなくなります。
更新はそれ以降になってしまいますが、見捨てずにお付き合いくだ
さい。
184
憧れの存在
シュオンの両親は魔法使いだった。
勿論純粋なイジュトニアの血を引く魔法使いではなく、混血が進
んだ、大陸で一般的に存在する魔法使いに過ぎない。
混血の続いた魔法使いは血の薄れによる力の消失を少しでも食い
止めるため、その殆どが暗黙の了解であるかに魔法使い同士で婚姻
を結ぶ。
シュオンの両親も例に漏れずそれに習い婚姻を結んだが、互いに
自尊心が強過ぎてけして中睦まじい夫婦と言う訳ではなかった。し
かも魔法使いを両親に持ち、その血を受け継いで生まれたシュオン
は両親により大きな期待を持って教育されたが、残念な事に彼らの
望む様な力を発揮する事は無く、青の色を纏いながらも同じ色彩を
持つ両親の足元にも及ぶ事がなかった。
攻撃魔法に長ける両親に、てんで駄目なシュオン。どちらかと言
えば治癒魔法の方が得意だったがその力も飛び抜けたものではなく、
努力しても最後まで両親の満足行く結果を残す事は叶わなかった。
その両親も先に起こったフランユーロとの戦いで戦場に立ち、命
を落とす。
あまりに微力な為前線に立つ事を許されなかったシュオンは、先
の戦でスウェールに手を貸したイジュトニアの魔法使いを垣間見る
事すら出来なかった。運ばれてくる傷ついた兵士たちの手当てをす
るのに必死で、次々と運ばれてくる兵に対応しきれず多くの命が目
の前で失われて行った。
185
それでも貴重な魔法使いであるシュオンは、スウェールで申し訳
ない程の特別扱いを受け続けた。己の力に見合わない対応に自信喪
失の日々。他の魔法使い達のようにエリートめかして堂々とえばり
腐る勇気もない。そして国境近くにおかれた西の砦を守るために向
かう一軍への同行を申し渡され、精神的圧力に心細い思いをしてい
た。到着後間もなく、突然フランユーロの攻撃を受けシュオンに出
来た事は役目を果たすのではなく、情けない事に砲撃を避け、己の
身を守る事だけだったのだ。
己の身を守る事は出来たが、気が付くと瓦礫の下で身動きが取れ
ない状態。
このまま死ぬのかと諦めて程なく一筋の光が差し込み、シュオン
は眩しさに目を顰める。
﹁生きてるね?﹂
確認する声は耳に心地良い澄んだ声だった。
すっと伸ばされた細い腕と指先が体をなぞっただけで淡い金の光
が舞い上がり、やがて光はゆっくりとシュオンの肉体に吸い込まれ
て行く。
自分の物とはあきらかに違う異種の魔法だと感じ、更に声の主が
漆黒の髪と瞳を持つシュオンより年下の娘だと解るとその姿に釘付
けになった。
瞬きの度に揺れる長い睫毛、黒曜石のような輝きを持つ瞳。何よ
りも薄汚れているがはっとするような美しい容姿をしている。それ
以上にシュオンが一瞬で心を奪われたのは、娘の放った金色の淡く
優しい光の色。
劣等感の塊であるシュオンが憧れてやまなかったイジュトニアの
魔法使い。しかも真実とも知れない噂に聞いた、魔法使いの中でも
極めて珍しく最大の力を持つとされる黄金の光。
186
憧れと羨望、感激で視線を反らす事が出来なかった。
スウェールの王子であるアルゼスとカルサイトが馬で立つ際にも
見送りを忘れるほど、シュオンの意識は常にラスルに集中し続けて
いた。
自分達とは異なる純粋なイジュトニアの魔法使い。
混血で彼らの足元にも及ばない、半端者で混血の自分など厭われ
て当然と緊張で声をかけるのさえ戸惑われたが、どう転んでもラス
ルはシュオンにとって憧れの存在で。
立ちつくしたままラスルの動きを追っていると、瓦礫を掻き分け
ていたラスルが怪訝そうに眉間に皺を寄せシュオンに視線を向けた。
びくりと体が跳ね、途端に緊張が極限に増す。
もしかして怖がられてる?
瓦礫に埋まってはいたが大した怪我もなく、それ程大きな疲労が
あるとも見てとれなかったが、立ちつくしたまま動かないシュオン
の様子に見立てを間違えたかと不安になった。しかし体を硬直させ
額に冷や汗をかいている姿を見て、スウェールの魔法使い達に自分
の存在が煙たい物と思われはしても、恐れを抱かせるなどとは思っ
てもいなかったので、シュオンの反応はラスルに不安を抱かせた。
だからと言ってその程度の事に心が折れ、いちいち落ち込んでい
る様なラスルではない。
取り合えずはシュオンの反応に無視を決め込み作業を続ける。
﹁これどかすの手伝って。﹂
187
瓦礫に埋まった生存者を発見したが、ラスル一人で瓦礫を動かす
のは無理だった。
混血が進んだお陰で鍛えた男たちほどではないにしろ、普通に体
力を持つ事が出来る魔法使いを怖がらせないよう、極力優しく声を
かける。
するとシュオンは慌てて駆けて来たせいで途中足を躓かせよろけ
ながらも体勢を立て直し、焦りながらラスルの元へ走り寄って来た。
瓦礫を上って来たシュオンは繊細そうな長く細い指にとても目立
つ大きな指輪を嵌めていた。その手でラスルを手伝い、邪魔な瓦礫
を剥ぎ取るように移動させる。
埋まっていたのは兵士だった。
腕の骨折と体中に裂傷があったが火傷も内臓損傷もない、最初に
助けたロイゼオリスと言う騎士に比べるとかなりの軽傷だった。
意識を失ってはいるが、これなら自分が手当てするまでもない。
﹁任せるよ。﹂
﹁そんなっ︱︱︱無理ですっ!﹂
他にも重傷者が埋まっている可能性があるのだ。この程度ならシ
ュオンに任せても大丈夫だろうと勝手に推察し立ち上がったラスル
の腕を、シュオンが慌てて掴んで引き止めた。
腕を取られ驚いたラスルに対し、シュオンは今にも泣き出しそう
な悲壮感を湛えている。
薄い灰色を帯びた青の瞳と視線を絡めたまま、ラスルはゆっくり
と腰を下ろした。
﹁大丈夫、あなたにも出来るよ。﹂
混血とはいえシュオンから感じ取れる魔力はそれほど弱い物では
188
ない。それにも関わらず潤んだ目で無理だとラスルの腕を掴んだま
ま首を振るシュオンは、まるで捨てられたばかりの子供の様だった。
﹁解った。ここにいるからあなたのやり方を見せて。﹂
折角癒しを使える魔法使いが二人もいるのだ。同時に動くのは効
率が良くない。戦場で瓦礫の下に埋まり混乱しているだけかもしれ
ないし、一度自身で治療させ上手く行けば納得がいくだろうと、ラ
スルはシュオンの腕をそれとなく引き剥がし兵士の骨折した腕に触
れさせた。
シュオンは不安そうに一度ラスルを見たが、それでも瞳を閉じる
と怪我へと意識を集中し顔を強張らせて懸命に治癒の力を発揮する。
青白い光が沸き上がり、折れた骨が繋がって行く様がラスルにも
感じ取れた。
感じ取れるのだが︱︱︱力の割に折れた骨が繋がる速度が異様に
遅く、これでは日が暮れてしまいかねない。しかもそこまでの集中
力がシュオンにあるようには見えず、これだと幾度かに分け治療し
てやっと完治するといった感じだ。
骨が三分の一ほど繋がった所でシュオンは兵士から手を離し目を
開くと、大きく肩で息をつく。
﹁すみません、私にはこれが精一杯です。﹂
混血とはいえスウェール王家に使える魔法使いとして、未熟過ぎ
る力を見られるのは恥ずかしかった。
なんて情けないのだろうとシュオンがラスルを見ると、ラスルは
少し考える様な、指を口元に当てる仕草をした後で漆黒の力強い瞳
をシュオンに向ける。
﹁もう一回やろう、今度はわたしが手伝うから自信を持って。で
もちょっとその指輪⋮わたしとはそりが合わないから外してもらえ
189
る?﹂
こうぎょくせき
ラスルが示したのは、魔力を増強させる為に幼少よりシュオンに
与えられていた、深い青の輝きを持つ鋼玉石が付いた指輪だ。
これがないと更に無様な姿を見られると一瞬迷ったものの、手伝
ってくれると言うラスルに悪い影響が及んではいけないと、シュオ
ンは素直に指輪を外すとローブの中にしまい込んだ。
するとラスルは更にシュオンの耳に付けられた同じ鋼玉石のピア
スも指差し、外して欲しいと指示する。
不安に感じながらも言われるままにピアスを外したシュオンは、
促されるまま再度兵士の骨折した腕に手をあてがう。
その手の上にラスルがそっと小さな手を乗せると、体温を感じる
あまりの近さにシュオンの心臓が跳ねた。
﹁大丈夫、ちゃんと出来るよ。﹂
不安と勘違いしたラスルから元気づけられ、シュオンは頭を振っ
て邪念を追いだすと、兵士の折れた骨に再び意識を集中した。
﹁力み過ぎてる、もっと力抜いて︱︱︱﹂
﹁はっ、はい!﹂
シュオンは大きく深呼吸して力を抜くと、今度はラスルの手助け
もあり、過去に経験がない程の正確さと速さで瞬く間に折れた骨が
繋がり治療を終えた。
しかも溢れた光は極めて白に近い薄い青。
純粋な力を持つ魔法使いは他人の力を増幅させる力すらあるのか
とシュオンは感嘆する。
﹁すごい︱︱︱﹂
まるで迷いの霧が晴れ、頭で思い描く通りにすんなりと力が患部
へと流れ込み、しかも正確に素早く治療を終える事が出来た。こん
190
な事シュオンにとって生まれて初めての経験だ。
改めてラスルの力に感激していると、ラスルはくすりと笑う。
﹁違う、わたしは何もやってない。﹂
﹁え⋮でもラスルさんが︱︱︱﹂
﹁ごめんね嘘ついて。わたしは手を添えただけで本当に何もして
ない。さっきの治療見てたらどうも鋼玉石があなたの力を吸い取っ
ている様だったから試してみたの。どうやら正解。﹂
それなりの魔力を持っているのにまるで作用していない力。
何か変だと感じた時、純血種の魔法使いなら必要としない石が目
に付いた。
存在だけを主張していた青い鋼玉石。混血の魔法使いは己の纏う
色と同じ色彩の宝石を使って力の増強を試みるが、シュオンが嵌め
た指輪は逆にその力を奪い取っているように感じられたのだ。
こんごうせき
﹁力の増幅を願うなら鋼玉石じゃなく金剛石を身につけるべきだ
と思う。﹂
﹁金剛石って︱︱︱﹂
金剛石と聞いて驚いたシュオンは、灰色を帯びた青い瞳を見開い
た。
透明に輝く、貴重で珍しい宝石を身に付けているのは、スウェー
ルでもごく僅かの魔法使いしか存在しない。
混血の中では最も力が強いとされる色。
﹁そう、あなたは青の光じゃなく白の光を宿してる。先入観で青
と決められたのかもしれないけど誤りだったね。﹂
呆気にとられるシュオンに対してラスルは小さく挨拶程度の微笑
191
みを見せると、するりと音もなく立ち上がり、何事もなかったかに
自分のすべき事へと戻って行った。
対するシュオンはラスルの言葉が信じられず目を見開きぱちくり
と瞬きをしている。
劣等感の塊で役立たずな自分が⋮白の光を纏う魔法使い?
生まれた時から二十二年間、両親さえもシュオンを青の光を纏う
魔法使いだと決めて疑う事もなかった。国に仕える魔法使いとして
城に上がった後も、誰一人としてシュオンの色を白だと見極めた者
はいない。そもそも必要とした鋼玉石が自分の力を奪っていたなど
今だに信じられない思いだったが︱︱︱
ラスルの指摘通り指輪とピアスを外しただけで放つ色彩は青から、
僅かに青みを帯びただけの極めて白に近い色へと変化し、傷を負っ
た兵士を治癒する力も格段に上がったのだ。
何よりも、シュオン自身がこれ程に魔法を扱いやすく楽に感じた
事は一度もない。
それでも半信半疑のまま、ラスルに習い瓦礫の下から怪我人を見
付けると、焦らぬよう、いきみ過ぎぬよう、教えられた通りゆっく
りと治癒魔法を施して行く。
劣等感の塊で役立たずの身だと考え、魔法使いである事が、何よ
りも魔法を使うのが嫌いだった。
それなのにシュオンはこの日初めて、魔法で人を癒す喜びを感じ
る。
気が付くと夕刻過ぎた頃には三十数人の兵士が瓦礫の下から救い
出され、傷を癒され仲間の救助に加わっていた。
本来なら死んでいてもおかしくはなかった重傷者すらラスルが完
璧に癒し、その殆どが重傷を負っていたとは信じられない回復を見
せ他の者の救助にあたっているのだ。
192
シュオンはこの光景をラスルが起こした奇跡のように感じていた
が、対するラスルは逆にこれだけしか救えなかったと胸が締め付け
られていた。
もとはイジュトニアの王ウェゼートが臣下の妻に懸想したのが始
まり。 妻を奪われたシヴァは復讐のため、フランユーロは覇権を示す為
に目の前の戦争が起こった。瓦礫の下に埋まったままの救えなかっ
た命はすべて自分が原因で失われた。ラスルがシヴァに、フランユ
ーロ側に囚われたりしなければ起こらなかった戦いなのだ。
悔しさで立ちつくすラスルの肩にふわりと温かな重みが触れる。
触れたのは硬い毛布で、シュオンが暗闇の中で遠慮がちにラスル
を見下ろしていた。
シュオンの方がラスルより僅かに背が高く、ラスルはシュオンを
見上げありがとうと礼を述べながら毛布を引き寄せる。土埃臭いの
は瓦礫に埋まった物を掘り起こして来たからだろう。冬の季節はも
うそこまで迫っており、日が沈みすっかり冷えが強くなっていた。 本来ならこんな気使いを受ける身ではないのにと、後ろめたさか
らそれとなく視線を反らす。
自分さえいなければこんな事にはならなかった。
ミシェルも⋮この砦で命を失った者達も、自分さえいなければ今
も命を紡ぎ続けていたに違いないのに。
生き残った兵士や騎士に目をやると、遠目に様子を伺っていたの
193
か慌てて顔を背けた彼らの姿が映った。
当然の反応だ。
スウェールでは殆どの者がおごり高ぶる魔法使いに好印象を持っ
てはいない。アルゼスやカルサイトがラスルに対し初めから好意的
印象で接したのは、ラスルが金色の光を宿すスウェールでは珍しい
純潔の魔法使いであり、同時に命を救われたからに過ぎない。それ
に彼らは先に起こった戦争でイジュトニアに無償の軍事提供を受け
ていたために、自国の魔法使い達とは違う印象を持っていても可笑
しな話ではなかった。
だからと言ってこの場で瓦礫に埋まっていた者たちが、アルゼス
やカルサイトの様な友好的反応を見せるとは限らないのだ。シュオ
ンの人柄もラスルの立場も知らない者たちは、自身の持つ知識と先
入観でしか魔法使いを見る事が出来ない。
にしろ、彼らは自分達を助けた魔法使いに対し少なからず、特に
黒髪黒眼の純血種であるラスルに興味を持ちはしていた。
ただ、警戒しながらも声をかける機会を伺っているといった所だ
ろう。
﹁あの⋮彼らもラスルさんにとても感謝しています。﹂
﹁気を使ってくれなくていいよ。でも⋮ありがとう。﹂
気になるのは自分のせいで起きてしまった惨事の方であって、彼
らに自分がどう見られようが平気だ。
ラスルは暗闇に包まれた瓦礫の山を凝視し、胸の痛みに眉を顰め
た。
砦も、兵や騎士が滞在した建物も全てが崩れ落ちてしまっている。
その中から食糧庫のあった場所を探り空腹を満たす為の物を引っ張
り出した兵士の一人がこちらへと向かって来るのが見える。
ここへ来てシュオン以外の人間がラスルへ歩み寄って来るのは初
194
めての事だ。
﹁食えた味ではないが無いよりはましだ。﹂
そう言って武骨な手から差し出されたのは、野菜入りのパンを乾
燥させた保存食。硬く味は最悪だが、確かに無いよりはましである。
﹁そう言えばあの人⋮ロイゼオリスって人は?﹂
一番初めに見付けて手当てをした騎士の姿が見えない。
するとパンを手渡してくれた兵士が、一人目を覚まさない騎士な
ら向こうに横たわっていると暗闇を指差し、ラスルが指差された方
へと早足で歩くと毛布でくるまれた男がピクリとも動かず横たわっ
ていた。
地面に膝を付き覗き込んでみるが暗闇のせいで顔色は伺えない。
かなりの重傷を負ってはいたが怪我の具合だけで言えば、かつて
アルゼスが魔物に襲われ内臓を抉られ瀕死の状態であったのに比べ
ると大したものではなかった。しかし人間の体と言うものはそう簡
単ではない。アルゼスの時は運良く傷を負って時を置かずに治療で
きた。だがロイゼオリスは瓦礫に埋まり長時間にわたって体が圧迫
されていた分始末が悪い。傷を負い直ぐに手当てを出来なかった状
況を思うと、もっと早くに別の手立てを考えておかなければならな
かったと今更ながら後悔の念が襲う。
ラスルはそのままロイゼオリスの隣に蹲った。
胸が規則正しく上下しているが意識を取り戻すまで心配でならな
い。心配と言うよりも、見も知らない男ではあるがこのまま死なれ
てしまうのが怖かったのだ。
肉体は癒したし、ある程度の疲労は回復している筈である。しか
しそれだけでは不十分、本来なら投薬治療も施したい所だが生憎こ
こでは何も出来ない。後は鍛え上げた騎士の生命力に頼るしかなか
195
った。
ラスルは硬いパンを手に口に含むのも忘れ、横たわる騎士をただ
じっと見守る。
その後、東の空が白み始める夜明け前。
地面に蹲るラスルに見守られながら、ロイゼオリスは静かに息を
引き取った。
196
予感
昨日助けたばかりの、言葉すら交わす機会のなかった青年。
ラスルは日の出を待たずに息を引き取ったロイゼオリスの傍らに
座り込み、脱力したままぼんやりとその亡骸を見守っていた。
二十代半ばのまだ若い騎士。
家族がいただろう。妻が、子が、あるいは恋人が。
彼を失って涙にくれる人の数は少なくはない筈だ。
何故自分ではないのだろう、事の元凶たる自分が死ぬのであれば
どれほど良かっただろうか。
自分が死んで泣く人も、まして困る人などこの世には存在しない。
少なくとも、目の前の青年が息を引き取るよりましだった筈である。
一晩中一睡もしていない悲壮感漂うラスルの背に、異変に気付い
て目覚めたシュオンは言葉をかけるのを酷く戸惑っていた。
うら若い女性を屋根もない場所で野宿させる事に気後れしたが、
他に場所がないのだから仕方がない。少しでもましな夜を明かさせ
てやりたいと地面に敷く毛布を持って行けば、ラスルには野宿など
慣れていると首を振られた。
シュオンは失礼にならない距離を保ちつつラスルの側に腰を下ろ
し、眠ったまま目を覚まさないロイゼオリスを案じるラスルに気を
取られつつ、一日中動き回った疲れから何時の間にか深い眠りに落
ちる。
まどろみの中で押し殺した様な唸り声に目を覚ますと、ラスルの
背が小さく震え、その後落胆と共に項垂れるのが解った。
197
しばらく戸惑った後、シュオンは身を起こしラスルと横たわる騎
士へと歩み寄って行く。
覗き込んだ先では温もりは残るものの、息使いの感じられなくな
った騎士の姿に目を止めた。
数ある騎士の中でもシュオンですら名を知る、腕の立つ騎士の一
人。
ロイゼオリスの死を悼んでいるのか、ラスルはとても苦しそうに
顔を歪めている。
﹁お知り合いでしたか︱︱︱﹂
シュオンの問いかけにラスルはゆっくりと首を横に振る。
人の死にはあまりに相応しくない、清々しく澄んだ空気の中で朝
日が東の空に顔を出し、ラスル達を眩しく照らし出す。あまりの眩
しさに身を捩ると、昨夜から口にせず手にしたままになっていた硬
いパンが僅かに湿り気を帯びている事に気が付いた。
﹁わたし行かなきゃ。彼の事、頼んでいい?﹂
ふらふらと、まるで夢遊病者のように立ち上がるラスルに精気は
見られない。知り合いではないと首を振ったが、本当はとても大切
な人だったのだろうかとシュオンはかける言葉を失った。
実際、大切な人なら埋葬を他人任せにするなどあり得ないが、人
知を超えた力を持つラスルが救えなかった命に対してこれ程酷く落
ち込んでしまうとは想像できなかったのだ。
心許無い足取りで歩きだしたラスルを引き止める理由はなかった。
もともとスウェールに属する魔法使いでないラスルは、善意で協
力してくれているのだとシュオンは思っていた。その為彼女が行く
198
と言うのなら、こんな殺伐としてしまった場所に引き止めるのもど
うかと思う。
シュオンも、ラスルに救われた兵士や騎士も無言でラスルを見送
った。
茫然として歩き出したラスルの手には、この時も湿ったパンが握
られたままになっていた。
全てはあの森を出たのが間違いのもとだったのだ。
最低限の生活費を稼ぐため、時に森を出て薬草を売りに出た事を
今更ながらに後悔した。
どうして大人しく森に籠っていなかったのだろう。人との接触を
拒んでいたのは自分ではないか。心の中の空腹を何かと理由を付け
満たそうとした⋮その結果がこれとは笑わせる。
何も求めず望まず、手に届く物だけで満足していればよかったも
のを︱︱︱まさか己の出生がこんな結果を招こうとは想像もしてい
なかっただけにラスルは混乱していた。
何とかして終止符を打たなければ⋮その思いに駆られ、ラスルが
199
目指したのは魔物の巣くう森に存在する我が家。
アルゼスに言われた通り大人しく引き籠る為に戻るのではない、
自分のせいで起きた事には決着を付ける必要がある。
フランユーロの言いなりになってスウェールに侵攻したイジュト
ニアの魔法師団が、ラスルがスウェール入りしただけで本当に退却
するのか怪しかったし、そのせいでフランユーロの侵攻を受けるで
あろうイジュトニアの事も心配だった。事の元凶たる自分だけが大
人しく安全な場所に引き籠っている訳にはいかない。
森を目指したのは家に残っている薬草を掻き集める為だ。魔法だ
けではどうしようもなかったロイゼオリスの死が頭から離れない。
薬があれば助かったかもしれない命。二度目はうんざりだ。
面倒な争いは出来るだけ避けるため、魔物に出くわさぬよう昼と
なく夜となく、寝る間も惜しんで歩き続ける。力も体力も乏しい筈
のラスルだったが、この時ばかりは手にした硬いパンを時折口に運
びつつ、精神力一つで歩き続ける事が叶った。
いったい何日歩き続けただろう。
辿り着いた先は、魔物避けのショムの木に囲まれた懐かしい我が
家。
廃屋同然のそこは出た時同様にその場に有り続ける。
ほっとしたのも束の間、目の前が真っ暗に染まりラスルはそのま
ま意識を手放し地面に崩れ落ちた。
そうして次に目覚めたのは、頬を掠める冷たい風を感じた時。
辺り一面暗闇に包まれ、このまま意識を失って一夜を明かしてい
れば間違いなく凍死していただろう。それ程冷え込む夜の空気の中
で意識を取り戻したラスルは、凍り付きそうな地面から身を起こそ
うとした瞬間、体の中に蠢く何とも言えない奇妙な感覚に襲われる。
200
痛みや苦痛を伴うものではない。ただ不安と、奇妙としか例えよ
うのない感覚だ。
いったいなんだろうと辺りを見回すが、漆黒の闇に浮かぶのは見
慣れた景色。魔物が襲ってくるとか、侵入者を予感する感覚ではな
い。
そう⋮予感だ。
感じたそれが何たるかに気付いたラスルは、思わず己の体を強く
抱き絞める。
何かが脳裏を掠め、息苦しさを感じながら寒さの中で冷や汗が浮
かんだ。
﹁何で今頃︱︱︱﹂
予感の何たるかに気付いたラスルから悲嘆とも取れる言葉が漏れ
た。
自分にこの様な事を知る力があるとは知らなかったが、かつては
祖父であるオーグも感じたのもだ。同じ血が流れる自分にそれを感
じる力があっても不思議ではないし、ラスルが知らないだけでイジ
ュトニアの魔法使いには宿された力なのかもしれない。
大した力ではない、有ったとして恐れはしないけれど︱︱︱どう
して今なのか。
もっと早く⋮いづれ訪れる事ならばもっと早い、せめてシヴァに
捕まる前に終結してくれていたならよかったのに︱︱︱
地面に座り込むラスルの肩が小刻みに震える。
タイミングの悪さに笑いが漏れ、やがて声にだして笑いが起こっ
た。
201
﹁本当に間が悪い︱︱︱﹂
可笑しくて悲しくて、ぽたぽたと涙が頬を伝う。
感情に乏しいラスルにしては珍しく、笑いと悲しみが同時に起こ
り、感じた予感に自身で呆れていた。
もっと早ければよかった。そうすればこんな︱︱︱無駄な争いは
起こらなかった筈である。もっと早ければこの身がフランユーロに
囚われ、イジュトニアの王がフランユーロの言いなりになる事もな
かった。自分が囚われミシェルが死ぬ事も、砦を守ったロイゼオリ
スや多くの見も知らぬ兵士達が瓦礫に埋まり命を落とす事もなかっ
たに違いないのだ。
たった今ラスルが感じたもの、それは己の死期。
恐らく天命であろうそれはかつて祖父も同様に感じた、死期を悟
ると言うものだ。
今直ぐに命が尽きると言う訳ではないが、恐らくラスルには祖父
程の猶予も残されてはいまい。
病に犯されているのだろうか、それとも他の方法で?
どっちにしてもいづれ尽きる命、それがどうしてもっと早くに尽
きてはくれなかったのか。
呆れで沸き起こった笑いを止め、頬を伝う涙を拭い去る。
こんな所で後悔し、悲嘆にくれていてもどうしようもない。自分
にはまだしなければならない事があるのだ。
それにここへ来て死期を悟ったお陰で希望が持てた。
死に場所はここではない。
この森でひっそりと一人静かにその時を待つのも魅力的だが、ラ
スルには他にすべき事が残っていたし、そうする事によって死を迎
えるのやも知れないと考える。
202
アルゼスにも言われた様に、ここに大人しく籠っている気は初め
からない。自分が関わったせいで起きてしまった事柄に決着が付く
よう、それを見守りに行き、必要ならその場に立つつもりだ。
恐らくそこが自分の死に場所になるのだろう。
意を決した様にラスルは立ち上がると、音もなく暗闇に包まれた
あばら屋へと足を踏み入れた。
明かりを灯さずとも何処に何があるかなど手に取るように分かる。
薬を売りに街へ出て襲われた為たいした薬草は残っていなかった
が、あの時ロイゼオリスに必要と思われた薬草はいくらか残されて
いる。戦いの場で傷付いた者には必要になるだろう。
そのほかに必要と思われる物をいくらか袋に詰め込むと、フラン
ユーロからの脱出の折に手に入れ身に付けていた衣服を脱ぎ捨て、
着慣れた黒いローブに身を包む。
漆黒の髪と瞳、闇色のローブ。
祖国に戻る事は許されずとも、自分はイジュトニア生まれの純粋
な魔法使いだと宣言するかの出で立ち。苦しみを心の内に宿しては
いるが、そこにあるのは絶望と後悔だけではなかった。
死期を悟った事による希望。
全てを投げ出し死にたい訳ではなく、それがあるから己の人生を
納得できたのかもしれない。
ラスルは身なりを整えると日の出を待たず、厳しく漆黒に輝く眼
差しで闇の中に向かって歩き出した。
203
204
祖国の魔法使い
森を出るとラスルは直ぐ様馬を手に入れ、真っ直ぐに都に向かっ
て突き進んだ。
今現在イジュトニアの魔法師団やフランユーロの軍が何処にいる
のかは知れなかったが、居場所が知れずとも目指す先は王都に違い
ない。このまま真っ直ぐ向かっては先に進んだフランユーロの軍に
突き当たってしまうが、大きく迂回するより早く追いつけるし、何
より背後からとはいえ大軍と鉢合わせる結果となってもラスルには
何の恐怖もなかった。
己の身一つなら守る術も力も存分に備わっているのだ。
途中軍の通過によって被害をこうむった街といくつか出くわした
が、そのどれもが皆殺しに合うとか悲惨な状況には陥っておらず、
ラスルは少しばかりほっとし胸を撫で下ろす。
そうして馬で数日走った所で前方一面に巻き起こる砂埃を認め、
その向こうにフランユーロの一軍がいる事が推察された。
追い付いた︱︱︱!
そのまま砂埃にの中にある戦乱の場に突っ込んで行こうとした刹
那、ラスルは己を威圧するすさまじい力の存在に直面し、動きを止
め驚きに目を見開く。
まるで針のむしろにでも曝される様な、鋭く張りつめた禍々しい
視線。
ピリピリと張り詰めた空気。
205
感じる視線は目視できるものではなく、かなりの距離を持ってい
る。だが相手は確実にラスルの存在を捕え、ラスル個人に対して明
らかな敵意を向けて来ていた。
突然起こった緊張により、額から頬に冷たい汗が伝う。
視線が送り込まれて来る方に向かって歩みを進めようとすると馬
が怯え、仕方なくラスルは地面に足を付けた。
一歩一歩、早足に歩みを進める中で感じとれる気配は確実にラス
ルを射抜く。
近付くにつれその敵意に満ちた視線を発する存在が何たるかを感
じ取り、ラスルは堪えられない悔しさに唇を噛んだ。
やはり彼らは退却などしてはいなかった。
ラスルがスウェール国内に身をおいてもこちらの思惑通り退却す
る事なく、今もなおスウェールに牙をむいている。
何故と言う思いと、彼らから感じる憎悪を含んだ気配に当然かと
も感じた。
スウェールに起こる災いもイジュトニアに起こる災いも、両者に
起こる全ての元凶はラスルにあるのだ。
近付くにつれ相手の状況がラスルにも手に取るように感じ取れて
来る。
そこにあるのは大軍ではない、多くても十人に満たない程度の魔
法使い。
想像とは違い、ラスルがスウェールに入った事で魔法師団はイジ
ュトニアに退いたのだろう。
だがそれも全てではなく一部を除いて。恐らくその一部の者達は
イジュトニア国王の退却命令に直ぐ様従うのではなく、ある目的を
果たして後と考えたに違いない。
206
終止符を打つ為に残った魔法使い達なのだろう。
見えない相手にかなりの距離を持ってすら伝わってくる、強大な
までに膨らんだ憎悪。それは全て事の元凶であるラスルに向けられ
ている物なのだ。
ここへ来てそれから逃げようとは思わない、憎悪の対象として彼
らの怒りをこの身に受ける覚悟は出来ている。それこそが今自分が
ここにいる理由なのだろうと覚悟を決めた時︱︱︱
ラスルの視線が真っ先に捉えたのは漆黒のローブに身を包んだ一
団ではなく、銀色の髪をなびかせる青年、カルサイトの姿だった。
﹁ラスル︱︱︱?!﹂
耳に届かない声がカルサイトの口の動きから判明する。
その紫の瞳が驚きで見開かれていたが直ぐに厳しい物に変わった。
馬の向きを変え、ラスルへと歩ませ馬上から見下ろすと鋭く言い
放つ。
﹁何故来た、森へは帰らなかったのか?!﹂
厳しい口調はラスルの身を案じてのものだ。
ラスルは馬上のカルサイトを見上げてから視線をその背後︱︱︱
漆黒のローブに身を包み目深にフードを被った一行に視線を向ける。
﹁じっとなんて、してられる訳ない。﹂
それ程無頓着ではいられない。
ラスルは受ける視線に威圧され押しつぶされそうになりながらも、
睨みつけて来る相手を気丈に睨み返した。
207
馬に跨る彼らからは変わる事なく冷たい、凍て付く様な視線が注
がれ続けている。
六人の魔法使い、彼らの全てが違える事のない意思を孕んだ黒い
瞳でラスルを射抜いているのだ。
その視線の意味に気付いたカルサイトは素早い動きで馬から降り
ると、ラスルを庇うように前に立つ。
大きな見上げる影がラスルを覆い尽したが、ラスルは自分には守
られる資格などないとばかりに立ち塞がるカルサイトの前に出る。
﹁殺したければ殺せばいい。﹂
自分もそれを望んでいるのだと、最前に佇む馬上の主を見上げる。
すると両者の緊張をうやむやにするかに後方からカルサイトに腕
を引かれた。
ラスルと魔法使い達の間にある感情に疑問を持ちながらも、両者
の背景から何処となくその理由を感じ取っているのであろう。厳し
い紫の目が出来るだけ優しくラスルを安心させようと見下ろす。
﹁イジュトニアの魔法師団は退いた。彼らはこちらの味方として
残っただけでけして害を成す存在ではない。﹂
カルサイトはラスルと⋮ラスルに対し敵意剥き出しの魔法使い達
に向かって言い放つが、両者の視線は絡み合ったまま微動だにしな
い。
現にイジュトニアの魔法師団は侵攻したにもかかわらずスウェー
ルに対して攻撃は仕掛けてはおらず、ラスルがスウェール入りした
事で直ぐ様イジュトニア王より退却の指示が成された。
だがいかなる理由があるにせよイジュトニアがスウェールに攻め
入った事実は消えない。一国としてイジュトニアはスウェールに対
208
し賠償の責任を負わされる事になる。それが嫌ならそのまま攻撃す
るのも手ではあるが、もともと争いを好む人種ではなく、事の起こ
りもラスルがフランユーロの手に落ちた事によるイジュトニア国王
の独断によって起きた事。魔法師団に身を置く魔法使い達の誰もが
意にそわぬ争いに身を置かされる所だったのだ。
様々な事情があるにせよ魔法師団は命令を受け直ぐ様退却し、残
された六人はスウェールに対する賠償の一部として、攻め入って来
たフランユーロの軍を迎え撃つのに手を貸していたのだ。
たった六人であったが、戦闘向けに鍛えられた魔法使い達の力は
数千の兵力に匹敵した。彼らもフランユーロから自国を守る為に急
ぎ戻らねばならなかった為、己の持てる力を最大限に発揮し早期の
決着を目指したのである。
そういった事情を端的に囁かれたラスルは、信じられないと言っ
た瞳をカルサイトへと向ける。
西の砦を破ったフランユーロ軍をアルゼスとカルサイトが追って
半月も経っていない。遠くに起こる砂埃を認め戦いの最中だと、自
分はそこで命を落とすのだとばかり思っていたのにラスルの予想は
見事に外れたのだ。
しかもラスルを憎悪に満ちた瞳で見つめていた魔法使い達が馬を
進め、ラスルと擦れ違い様射殺さんばかりの冷たい視線を送りなが
らも、呪いの言葉すら一言も発せず、凍て付く空気を醸し出しなが
らラスルの側を無言で通り過ぎて行ったのである。
溢れんばかりの憎悪。
しかし彼ら六人はそれを押し殺していた。
最後の一人がラスルに触れるか触れないかの距離で立ち去ると同
209
時に、立ちつくしていたラスルは慌てて振り返り黒い背を追うが、
走り出したラスルの手を掴んだのはまたしてもカルサイトだった。
﹁君は森へ戻るんだ。﹂
その手を拒絶するように振り解いたラスルは無言で魔法使い達の
後を追い駆け、慌てたカルサイトは再度ラスルの腕を、今度は振り
ほどかれないよう強く拘束する。
﹁離して、これはわたしの問題よ!﹂
初めて耳にする、感情に満ちた声。
もともと無表情で特別声を荒げる事すらなかったラスルが初めて
垣間見せたのは拒絶だった。
出会った頃とも、フランユーロに囚われていたのを助け出した時
とも異なる、何処となく悲痛に歪んだ強い感情。何かが危ういとカ
ルサイトは瞬時に感じる。
﹁彼らはイジュトニアに戻るというのに追ってどうする?﹂ 追ってどうする?
カルサイトの言葉にラスルは長い睫毛を瞬かせた。
自分は彼らを追ってどうしようと言うのだろうか?
己の死期を感じ取り、その死に場所がこの戦いの場だと思ってい
たがそれは違った。残った魔法使いはラスルに対しあきらかな敵意
を示しながらも、そこで手を下せない事に憤りを感じているだけの
ようなのだ。
彼らではない⋮自分を殺すのは他の誰かだ。
そもそも本当に殺されるのか? 同じ様に死期を感じた祖父は病
死だった。自分が祖父同様病に犯されているとは思えないがその可
能性も否定出来はしない。
死にたいばかりに、現状から逃げ出したいばかりに何に躍起にな
っていたのだろう。
210
カルサイトの言葉で我に返り、俯き加減に首を傾けると、拘束さ
れたに等しい腕をそっと抜き取った。
﹁戦況が落ち付いたのなら彼らがスウェールを出るのを見届ける。
﹂
それだけだと、表情だけはいつもの感情を表に出さないラスルに
戻る。
魔法使い達は殺したい程ラスルを邪魔に思っている筈だ。ラスル
の存在一つで彼らの国が危うい状況に立たされたのだから当然とも
言えるし、今後再び同じ様な状況に陥らないとも限らない。目の前
にその元凶があるのなら抹殺してしまいたいと思うのが心情。
だが彼らは恐ろしいまでに主たる国王に忠実な僕でもあるのだ。
王の下した馬鹿げた命令に従い、王の溺愛する存在を手にかける
事が出来ない。
それが分かっても何処かで期待している自分がいた。
自分は彼らの手によって殺されない。でも、もしかしたら本当は
彼らがこの呪われた存在に終止符を打ってくれるのではないかと、
心の何処かでラスルはそれを期待している。
一見普通に戻ったラスルだったが、カルサイトはその内に閉じ込
めた危うさをひしひしと感じていた。
西の砦で最後に別れた時、ラスルが心の内で今回の争いが自分の
せいで起こったのだと己を責めている事には気付いていた。気付い
ていたのにあえてラスルに対し気使いを見せなかったのは、必要以
上に関わり合う事を無意識に避けていたせいだ。
211
心に踏み込み手を差し伸べた瞬間から目を背けられなくなる。
踏み込むのは危険だと、カルサイトは己の保身を優先してしまっ
ていたのもあるし、過酷な運命を背負いながらも一人で立って逞し
く生きて来たラスルを過信してしまった節もあった。
どんなに強く魔法に長けていても一人のうら若い女性なのだと、
アルゼスがラスルに抱く感情や国側の都合、己の心の内は別として、
目の前の女性は守ってやらねばならない存在なのだともっと早くに
気付くべきだったのだ。
敵意に満ちた視線を浴びせられながらも同郷の魔法使いらの後を
追うラスルを、今のカルサイトには何かしら理由を付け無理矢理に
追い返す事など出来はしなかった。
アルゼス直属の騎士でありながら命を受け主の傍らを離れたのは、
スウェールに侵攻して来たイジュトニアの魔法使いを、彼らだけで
自由に国内を歩かせる訳にはいかないからだ。
六人の魔法使いを前にしてはないに等しい力だが、それなりの身
分と力を持つ騎士であるカルサイトは彼らが国を出るまで目を光ら
せる見張りとして帰路に同行していた。同時にカルサイトに万一の
事があればイジュトニアが再び反旗を翻したと結論付く為、カルサ
イト自身が無傷でアルゼスの元に戻らなければならない身でもあっ
た。
その為今のカルサイトにはこの場からラスルを退け、無理にでも
森に連れ帰ると言う事が出来なかったのだ。
前方を行く魔法使い達はラスルの存在を完全に無視して先を急ぎ、
ラスルは下りた馬に再び跨るとその後を追う。
カルサイトはラスルの隣に馬を付けその表情を垣間見て、何かに
縋るように前方の魔法使いを見据える漆黒の瞳があまりにもラスル
212
らしくなく違和感を覚えた。
ラスルが己の死期を悟っていようなどとは想像もつかないカルサ
イトには、まさかラスルが死に場所を探しているなどとは露にも思
いはしない。ラスルの求める物が何なのか解らず心にかけながらも、
ただひたすら先を行く魔法使いに合わせ馬を走らせた。
213
傷との再会
その後イジュトニアへ向かう魔法使い達は、ラスルに対する殺意
に溢れた感情をものの見事に押し込め、そこにラスルなど初めから
存在しないかに振る舞っていた。
それはラスルのみに対してではなく、見張りとして国境まで同行
しているカルサイトに対しても同様で、ラスルにする程に完全無視
ではないにしろ、彼らの方からカルサイトへと関わりを持って来る
事は殆どない。
寡黙な彼らは仲間内でも会話少なく、目深に被ったローブの下か
ら僅かに覗く視線だけで意志の疎通をはかっていた。
イジュトニアの魔法使いと言うものは極端に人との接触を嫌うよ
うで、主に陽の落ちる夕暮れから早朝にかけて移動し、日中の人通
りが活発になる時間に通りから離れた場所で休憩をとりながら、人
目を避けるようにして移動を続けた。
実際、漆黒のローブに身を包んだ集団などイジュトニア以外の国
では目立って仕方がない。 目立たずに進みたいのならその目立つローブを脱ぎ出で立ちを変
えればよいと思われたが、イジュトニアを離れて育ったラスルです
ら漆黒のローブに身を包んでいるのだから、それについてカルサイ
トが彼らに話しても無駄に終わるに違いなかった。人が衣服で身を
包むように、魔法使いと言うものには漆黒のローブが付き物なのだ
ろう。
身を隠しながら進む道中であったが、それでも人と擦れ違う事は
度々起こる。
214
その度に訝しげな視線を送られるが、当の魔法使い達からは気に
止める様子は感じられなかった。感じられはしないが実際の所は気
にしているのだろう。カルサイトが進言しても彼らが道中街に立ち
寄り宿を求める事は一切なく、常に森や林に身を隠し冷たい地面で
身を休める。携帯用の食料も持ってはいたが、時折野生の小動物を
狩っては焚火を起こし焼いて食す。その一部を魔法使いはカルサイ
トに分け与えるが、その時ですら徹底してラスルに近付く事はしな
い。
だがカルサイトに渡される焼き立ての肉は必ず二切れあり、敵意
を抱き無視を決め込みながらも、邪険にするとか、人としての尊厳
を奪うような様子は窺えなかった。
スウェールとイジュトニアの国境が見えた時、前方を行く魔法使
い達が歩みを止め、後方から後を追っていたラスルとカルサイトも
それに合わせ馬の手綱を引いた。
動きを止めた魔法使い達が示し合わせた様に同時にゆっくりと後
ろを、ラスルを振りかえる。
これまで完全無視を決め込んで来た彼らが、ここへ来て初めてラ
スルへと意識を向けたのだ。
その中から再前方にいた魔法使いが一人、ラスルへ向かって歩み
寄り、一定の間合いを取って立ち止った。
何事かと、ラスルと傍らのカルサイトも眉間に皺を寄せる。
するとここへ来て初めて魔法使いが口を開いた。
﹁災いをもたらす娘よ、お前はこれ以上イジュトニアへは近付く
な。﹂
215
結して厳しい物言いではなかったが、低く鋭い声色に背筋が凍り
そうになった。
災いをもたらす娘⋮まさしく彼の言う通り、ラスルはイジュトニ
アに災いをもたらす。
その誕生は母親にすら望まれないものだっただろう。産まれて間
もないラスルを引き取り、異国への旅へと連れ出してくれたのは祖
父だった。唯一無償の愛を注いでくれた祖父も既にこの世にない。
そして今更ながら深く考えてみると、娘を不幸にした男の血を引く
ラスルは、祖父にとってけして心安らげる存在ではなかったのかも
知れないのだ。
そうして成長し、イジュトニア王の手に戻されたラスルは王を禁
忌の愛へと狂わせた。
ラスルの望んだ事ではないが、確実にラスルに関わる場所で不幸
ばかりが起こってしまう。イジュトニアを去りスウェールにひっそ
りと身を寄せても運命からは逃れる術はないのか?
﹁解ってる、絶対に国境は越えない。﹂
思惑とは裏腹に魔法使い達がイジュトニアへ戻るのを見届けるだ
けで終わってしまうのか。
今の彼らからは敵意は感じるものの、恐ろしいまでに感じたかつ
ての殺意は消え失せていた。その代わりと言っては何だが、何かに
怯え殺気立っている様にも感じられる。
戦場に立つために精神を鍛えられた彼ら⋮魔法使いの中で最も力
が強い金の光を宿すラスルだが、戦い方を知りつくした彼らにかか
ればラスルとて勝ち目はないだろう。そんな魔法師団に属する彼ら
が怯えるなど︱︱︱
有り得ない感覚をラスルは否定する。
216
スウェールの最南、イジュトニアとの境は北に比べると幾分冬の
訪れは遅いが、何処までも広がる平原を吹き抜ける風は既に身を裂
くように冷たい。
ラスルの視線の先で魔法使い達が今まさに国境を越えようとした
時、その平原に佇む二つの影がラスルの瞳に映り込んだ。
両者ともにイジュトニアの人間らしく漆黒のローブに身を包んで
いる。ローブの裾が冷たい風に揺らされており、ひときわ強い風が
吹き付けると目深に被ったフードが風に煽られ外れ、その姿が露見
した。
一人は漆黒の髪に漆黒の瞳の青年。
カルサイトも見知るその青年は、先日彼がアルゼスと共にイジュ
トニアを訪問した際に出会った。その折に彼が見せた物腰柔らかで
穏やかな雰囲気など何処にもなく、まるでそれが過去よりの当り前
であるかに、無表情かつ冷たい目でこちらの様子を伺っている。
イジュトニアの王太子、イスターク。
魔法使い達の頂点に立つ王族と言う雰囲気に相応しい禍々しさで
こちらを⋮ラスルを見据えていた。
あの日出会ったイスタークからは想像もできない、ラスルに向け
る冷たい視線。
フランユーロ⋮シヴァに囚われたラスルを心から案じていたイス
タークと、今目の前に立つ彼は間違いなく同一人物なのであるが、
そこから醸し出される負の雰囲気はまるで別人である。
敵意、と言うよりも拒絶を意味した、その威圧する視線は人を怖
気ずかせる魔力を孕んでいる様であった。
そのイスタークの放つ視線に、カルサイト以上にラスルは怯んで
しまう。
217
魔法使い達から向けられた凍て付く視線以上の強烈さ。そして同
時に、イスタークの隣に立つ腰の曲がった小さな人の姿に驚愕し、
深い衝撃を受け息が止まった。
ウェゼート王︱︱︱?!!
その名を口にしたくとも凍りついたように身動きが取れず口が開
けない。 今目の前にいるのはラスルの血を分けた父⋮逃れたくとも逃れら
れない恐怖の存在だった。
人としての禁忌を犯した父王から逃れ、久方ぶりにみるその人の
姿。
五年以上の月日が過ぎ去り、目の前に立つ年老いたウェゼートは、
あの時より何十年もの時を過ごしたかに老けており、隣に立つイス
タークと親子と名乗っても信じられない程年老いてしまっていた。
ウェゼートはフランユーロの王グローグよりも年若い筈だ。それ
なのに年の割に雄々しく血気盛んなグローグに比べ、ウェゼートは
まるで百を超えた、今にも朽ち果てそうな老人になり果てている。
イジュトニア特有の黒髪は全てが真っ白に変わり、髪の量も極端
に少ない。遠目からも確実に見てとれるほどに顔には深い皺が所狭
しと刻み込まれ、肌の色は土気色に変色していた。口内から歯が失
われているのか唇は左右に酷く垂れ下がり、五年前からすると見る
影もない。
それでも目の前の老人がウェゼートである事は間違いなく、たと
え顔が潰れていようともラスルには判別が付いた。
腰は曲がり杖なしでは立っていられないのか、骨と皮だけいなっ
218
た小刻みに震える指で杖を握りしめている。それでも濁った眼を見
開き、執念でラスルを見据え今にも飛びついて来そうな程興奮して
いる様子が伺えた。
あまりの恐ろしさに恐怖を感じた。
国境を超える魔法使い達がちらりとラスルを一瞥して行く。
まるでお前のせいだと︱︱︱いや、お前のせいだと言われている
のだ。
厳しい威圧的な視線を向けて来るイスタークは、無言でラスルが
それ以上イジュトニア領に接近する事を拒絶している。 イスタークはラスルに対し個人的には好意的感情を持っている。
だがイジュトニアの王子として、死んだ事になっているラスルを⋮
王を狂わせる存在をこれ以上寄せ付ける訳にはいかないのだ。
そんなイスタークの心情を理解しても、ラスルは改めて自分が何
処からも受け入れられない存在である事を再認識した。
故郷に立ち入る事も許されず、身を隠した異国には恩を仇で返す
結果を招く。
恐ろしい程にラスルに執着し、僅かな期間で何十年も年を重ねる
程に朽ちたウェゼート王。今の王にはラスルを無理矢理手中に収め
る力はない。ただラスルに刻まれた刻印を追い、その存在に酔いし
れ恋に溺れ今もなを求め続けているのも確かだ。ラスルを目にし、
震える手が虚しく空を切る。
やがてウェゼート王はイスタークに手を引かれ、幾度となく後ろ
を振り返りながら馬車に押し込まれる様にして国境を去って行った。
219
ラスルは立ちつくしたまま、魔法使い達が消えた平原をいつまで
も見つめ続けていた。
冷たい風が吹き付ける中、漆黒の長い髪が渦を作るかに風で巻き
上がる。
ラスルに突き付けられた負の感情、思いもよらぬ相手との再会。
イスタークを傍らに置いた老人が、イジュトニアのウェゼート王
である事はカルサイトにも伺い知れた。
何故イジュトニアの王がイスタークを伴いこの様な場所にまで姿
を露わしたのかは知れないが、ラスルに刻まれた刻印とやらでその
居場所が分かるのだ。見た所老い先短い所まで来ている王の望みで
この様な辺境まで足を運んで来たのかもしれない。
これ以上近付くなと、ラスルを災いの娘と呼んだ魔法使いには、
王が国境まで足を運んだ事が分かっていたのだろう。もしラスルが
このまま国境を一歩でも越えイジュトニアへと侵入していたなら、
その身は再びウェゼート王に囚われてしまう事になったのであろう
か?
ラスルもウェゼートの姿を認め、強い動揺を思えた様だった。
そんなラスルの様子を黙って見守っていたカルサイトであったが、
ここにこうして何時までも佇んでいる訳にもいかない。あくまでも
カルサイトの役目はイジュトニアの魔法使いを監視し送り届けるこ
とであって、ラスルの身の保全を図る事ではないのだから。
現在もイジュトニアにフランユーロが進行している様に、スウェ
ールとてフランユーロの次なる攻撃がいつ起こるかもしれないのだ。
急ぎアルゼスの元に戻り国の守りを固める役目を担わなければなら
220
ない。
だからと言ってこの場にラスルを捨ておける訳でもなかった。
﹁そろそろ行こう。﹂
声をかけ顔を覗き込むと、ラスルは驚愕に満ちた瞳で真っ直ぐに
前方を見据えたまま硬直していた。
白い肌は青白く唇も真っ青に色を変え、漆黒の瞳の瞳孔は全開に
近い状態に開かれている。
立ったまま気を失っているのではないかと、カルサイトはラスル
の細い両肩を掴むと体を揺すった。
﹁ラスルっ、しっかりしろラスル!?﹂
細い体は容易く前後に揺らされ、がくがくと頭が傾いたが無表情
は全く変わらない。
幾度となく問いかけ、細く折れそうな身体を揺すっていると、し
ばらくしてラスルは瞬きを始める。
ぱちぱちと数度瞬きした後で、漆黒の瞳が紫の瞳を捕えた。
﹁大丈夫か?﹂
心配そうに身を屈め顔を覗き込むカルサイトを、ラスルは穴が開
きそうになる程じっと見返す。
﹁大丈夫って⋮何? ああそう、カルサイトは都に戻るんだよね。
わたしもアルゼスとの約束通り森に戻ることにするよ。﹂
あっさりとした物言いの後で踵を返し、吹き荒れる風の中を歩き
出したラスルに、カルサイトは強烈な違和感を覚えた。
一見すると出会った頃のラスルと変わりないように見えたが、見
221
ようによっては大きなショックを受け一時的に自分を見失っている
ようにも思える。
しっかりとした足取りで進むラスルの背を追いながら、カルサイ
トは一抹の不安を覚えていた。
222
縋りつく温もり
折角イジュトニアの国境まで足を運んだのだ。自分は自分のペー
スで旅を楽しみながらゆっくりと帰路につくので構わず都に急げと
告げるラスル。しかし今の状況にあるラスルをカルサイトが見捨て
て行ける筈などない。
一見いつもと変わらぬようでいてあきらかに様子の違うラスル。
その多大なる原因が、ほんの一瞬再会したイジュトニアの王ウェ
ゼートに関わるのだと想像すると、親子の間に起こった事情を知る
カルサイトとしては、このままラスルを見捨ててなど絶対に行けは
しなかった。
ラスルがイジュトニアの魔法使い達から突き付けられた負の感情、
加えて、イスタークがラスルに見せた意外な反応。それらを辛辣に
突き付けられたラスルが平常心でいられるのも可笑しな話だった。
正直ラスル自身、傍らで身を案じるカルサイトに注意を向けられ
る余裕は全くなかった。それ故、同じ道程を辿るのだから共に行こ
うと、ラスルを案じて告げられたカルサイトの気使いにも、ただ単
に言葉の意味通りなのだろうと上の空の反応を示し、隣を歩かれて
も己の意識に引き籠って存在を忘れている。
頭から足の先までを黒いローブに身を包み、全くの無表情で馬を
進めるラスルからは何処までも陰湿な空気が漂っていた。
人を寄せ付けない魔法使い特有の雰囲気。
スウェールに生まれた混血の魔法使いからは感じる事のない、正
真正銘の気配だった。
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殻に引き籠ったラスルの心を駆け巡っているもの︱︱︱それは自
分に突き付けられた禍々しい現実。
イジュトニアに生まれた純血種の魔法使いでありながら、二度と
故郷の地を踏む事は許されないのだと、ラスルはイスタークの態度
から改めてそれを悟った。
イジュトニアに生まれた魔法使いは王への絶対的忠誠心を、まる
で生まれながらの特性のように持ちあわせている。
どんな不条理にあっても王の意思は絶対で、王太子であるイスタ
ークがラスルをウェゼートの毒牙から救い出した行為さえ極めて異
質で珍しいものだった。
その中で妻を奪われたとはいえ、ひたすら王を恨み反旗を翻した
シヴァは特殊な存在だ。黒の光を宿す魔法使い達にとっての天敵と
して生まれた生立ちが彼の本質をそのように育てたのかもしれない
が、シヴァのような態度で王に敵対する存在は異例中の異例なのだ。
それ故なのか、イジュトニアの血を受け継ぐラスルですら不条理
に禁忌を犯そうとする父王に反抗し、己の持てる力を行使してその
手から逃れるという行為が出来なかった。
彼ら⋮ラスル達にとって望みもしないのに絶対的とも言える王へ
の血の忠誠。
その王だけが狂っても求めてやまないラスル。そして王を惑わす
存在を厭うイジュトニアの魔法使いたち。恐らく事情を知る全ての
者が誰違える事なくラスルを忌み嫌い、存在を抹消したがっている
に違いない。
何処までも疎まれ嫌われる存在。
突き刺さる視線は、ラスルが存在するだけで忌み嫌い何処までも
224
胸を抉り続けるのだろう。
全ての者がラスルを嫌う。誰違えず、全ての者にとっての災いと
なってしまう己の身。
わたしはなんて恐ろしい存在なんだろう︱︱︱!
浴びせられた一つ一つの視線が今更ながらにラスルの胸を抉る。
本来なら恨みの強さに殺されていてもおかしくない存在。それな
のにウェゼートが王であるが故、王に仕え、忠誠を誓う魔法使い達
は絶対に手出しが出来ないでいたのだ。
何故存在する? 何故生まれて来た? 何故お前が生きているの
だと常に問われ続けている様だった。
存在するだけで、生きているだけでこれほどまでに疎まれていた
のだ!!
改めて実感すると、何ものにも望まれない己の身があまりにも恐
ろしく、虚しく悲しく⋮寂しくて。胸が張り裂けそうだった。
これ程の孤独を今までに感じた事があったであろうか?
何処をどう歩いたのだろう。 気付いた時には凍て付く寒さの中、ラスルは漆黒の闇に包まれ冷
たい土砂降りの雨に身を打たれていた。
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空を見上げると暗雲立ち込め、今にも雨が降り出してきそうだっ
た。
ラスルと共に馬を進めるカルサイトは行き着いた街で早めに宿を
とると、この時すでに言葉を発する事すら無くなっていたラスルを
宿の部屋に押し込める。
大人しく体と心を休めてくれるといいのだが︱︱︱
ラスルを気使いそう思いながらも、久方ぶりの宿の寝台にカルサ
イトも疲れた身体を投げ出した。
本来ならこの程度の疲れなどどうという事もないのだが、ただで
さえ神経を使う魔法使い達に付き合っての度重なる野宿で想像以上
に体が参っていたのか。知らぬうちに目を閉じ寝入ってしまってい
たようだ。
目を覚ました時にはすっかり日は沈み、降り出した雨が容赦なく
窓を叩きつけている。
カルサイトは身を起こし、夕食へと誘う為にラスルの部屋を訪ね
た。
扉を叩いても返事はない。
眠っているのか、起きていても返事をする気力がないのか。
そう感じたが部屋の中から人の気配がしない事に気が付き、声を
かけ扉を押し開けると、案の定部屋からラスルの姿は消えていた。
部屋に荷物は残されたままになっていたので一人旅だった訳では
226
なさそうだ。
黒髪黒眼で漆黒のローブに身を包んだラスルはただでさえ目立つ
姿をしている。それに贔屓目に見ずとも持ち合わせる容姿は際立っ
て美しかった。魔法使いと言う物珍しさもあり、何か揉め事にでも
巻き込まれては大変だと急ぎ階を下り、宿の主人に訪ねれば半時ほ
ど前に雨の中を外へと出て行ったという。
声はかけたが返事はなく、魔法使いはお高い存在なんだなぁと愚
痴る主人の言葉も無視し、カルサイトは雨の中へと飛び出して行っ
た。
漆黒のローブに身を包んだラスルの存在は目立つ。行きかう街の
者に聞けば直ぐに捜し出せるだろうと思ってはいたが、夜の闇と生
憎の土砂降りの雨が重なり人通りはない。
当てもなくむやみやたらに捜すしかないのかと舌打ちしたが、予
想に反して暗闇に佇むラスルの姿は直ぐに見付ける事が出来た。
﹁いったい⋮こんな雨の中で何をしているんだ?!﹂
カルサイトにしては厳しい声が飛ぶ。
その声は雨音に消される事なくラスルの耳に届き、ラスルはゆっ
くりと声の主を見上げ口を開いた。
﹁死んだ︱︱︱﹂
﹁何︱︱︱?﹂
死んだだと?
いったい突然何を言い出すのだと、カルサイトは冷たい雨に打た
れながら眉間に皺を寄せる。
﹁死んだの。ロイゼオリスが死んだ。助けたかったのに⋮助かっ
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て欲しかったのに見守ることしかできなかった︱︱︱﹂
一瞬カルサイトは思考が停止したが、カルサイトを見上げ淡々と
言葉を紡ぐラスルが、無表情でありながらも悲痛に瞳を揺らしてい
るのを認め我に返る。
フランユーロの軍により破壊された西の砦。
その中からラスルが真っ先に助け出し、治療を施した一人の騎士。
﹁いや⋮ロイゼオリスは君が︱︱︱﹂
治療の魔法を施したではないか︱︱︱
言いかけてまずいと思い、カルサイトは慌てて言葉を呑んだ。
魔物に襲われ内臓を抉り取られたアルゼスを完璧に治療したラス
ル。それを見知っていたからこそ、何時の間にかラスルの治癒能力
を絶対的で神がかりな物だと勝手に思い込んでいた。
だが実際はそうではない、人の命には無理なことが山ほどあるの
だ。
恐らく治療は完璧だったのだろう。だがロイゼオリスの命を救う
にはそれだけでは足りなかったのだ。そしてその場にいたラスルが
一番、誰よりもロイゼオリスの回復を望んでいたに違いない。
ラスルの揺れる瞳が、ロイゼオリスの死は自分のせいだと責めて
いた。
﹁このままでは風邪をひく⋮とにかく宿に戻ろう。﹂
話しをすり替え、カルサイトはラスルの腕を引いて急ぎ宿へと引
き返して行った。
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宿に戻った二人は各々の部屋に戻り、凍りつくような冷たい雨に
曝された体を拭って濡れた衣服を着替える。
兎に角体を温めなければと、カルサイトは少量の酒を持ってラス
ルの部屋を再び訪れた。
するとどうだろう。
ラスルは外から戻って来た時と同じ全身びしょ濡れのままで、冷
たい雫を滴らせながらぼんやりと立ち尽くしているではないか。
﹁このままでは本当に風邪をひいてしまうぞ。﹂
カルサイトは布を手に取ると、ラスルの濡れた頭をごしごしと
拭いてやる。その間もラスルはぼんやりと焦点の定まらない目で、
何処とは知れない空を見つめているだけだった。
今回の事と言いロイゼオリスの事と言い、恐らくラスルはフラン
ユーロに攫われてから起きたすべての出来事を自分のせいだと思い
込み、己を責めているのだろうと容易に想像が付いた。
不幸だと⋮言ってしまえばそれまでだが、事の起こりはけしてラ
スルのせいではない。
ラスルと、名を呼び掛けてみるが返答はなく、カルサイトはそっ
と溜息を落とした。
頭は拭いたが全身びしょ濡れで、このままでは本当に風邪をひい
てしまう。だが今の状態のラスルに何を言ってもこちらの言葉は届
かない様で、心の中でじっと己を責め続けているままだった。
カルサイトは寝台のシーツを剥ぎ取ると、ラスルの頭から全身を
すっぽりと覆い尽くす。
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﹁失礼するよ。﹂
そう言うとシーツの中に手を入れ、肌に触れぬよう気遣いながら
ラスルの濡れたローブを少しずつ脱がせて行った。
脱がせながら、我に返ったラスルが声を上げてくれることを期待
したが、それに反しカルサイトがローブを脱がし終わるまでラスル
は一言も口を利かない。
自分がされている事にも気付かないとはかなりの重症だと、カル
サイトは少しずれたシーツを直してやりながら心を痛めた。
どうすれば少しでもラスルの心を癒し、軽くしてやれるだろうか?
そんな風に思いながら見下ろしていると、ラスルの体がカタカタ
と小刻みに震え出し、ラスルは声にならない叫びを上げて床に蹲っ
た。
﹁どうしてっ⋮どうして殺してくれなかったの?!﹂
﹁ラスル?!﹂
真っ青になり頭を抱えて泣き叫ぶラスルの意識を引き戻そうとす
るが、ラスルはそれを拒絶しカルサイトの胸倉に掴みかかった。
﹁あれほど憎悪に満ちた感情をぶつけておきながらどうして殺し
てくれなかったの?! なんで⋮災いの娘って呼ぶくらいなら⋮そ
の災いを摘み取るのも王への忠誠だって誰も思ってくれないのよ!
!﹂
﹁ラスル、それは違う!﹂
﹁違う? 違ってなんてないっ。ロイゼオリスだけじゃない、ミ
シェルだって⋮名も知らない人たちだってわたしがいるせいで死ん
だ。わたしのせいで⋮わたしがいるから王は狂い、国が乱れ無意味
な戦いが起きた。わたしがいなければ、わたしさえいなければこん
な事が起こらなかったのは事実じゃない!﹂
230
自分さえいなければミシェルは死ななかった。
ラスルさえいなければシヴァの復讐がこの様な形で遂行される事
はなく、フランユーロも馬鹿な考えを起こしたりはしなかった筈な
のだ。
存在一つで一国を滅ぼしかねない呪われた身。
﹁どうして生きてるの? 何の意味があって生まれて来たのよ?
! 奪うだけ⋮何の役にも立たない⋮それ所か災いばかりが付き纏
って周りを不幸に陥れているだけじゃない!﹂
﹁違う、それは絶対に違う。君はけして周りを不幸にする存在で
はない!﹂
﹁違わない、現実がそれを証明してるじゃない。何で生まれたの
⋮生かされたの。愛してもない男の子を母は何故産み落としたりし
たのっ?!﹂
泣き叫び腕の中で暴れるラスルをカルサイトが必死で受け止める。
それでも我を忘れたように暴れ、自らを傷つけそうな程悲痛な声
を上げるラスルに、カルサイトには打つ手がなくひたすら抱き締め
た。
初めは反論されてはいたがやがて言葉も届かなくなる。
頭を抱え発狂したかに訳の分からない言葉を叫び出したラスルの
腕を、カルサイトは強引に掴むと片手に持ち、己に意識を向けさせ
るように素早く顎を捕えた。
身を捩り逃げ出そうとするラスルだが、鍛え上げた男を前にして
は非力過ぎる。
ごつごつした大きな手に顎を囚われ、強引に口付けられた。 腕と顎を拘束され、それでも身を捩り抵抗を見せるラスルに構わ
231
ず、カルサイトは口付けを止める事なく強行し続ける。
しっかりと唇を塞がれ、ラスルは僅かな声を上げる事さえ出来な
い。
体の自由を奪われたことに加え、あまりの息苦しさに、やがてラ
スルの動きが止まる。
するとラスルは、今自分の身に起きている現実に驚き目を見開い
た。
自身の体が冷え切っているせいもあるが、重ねられたカルサイト
の唇はとても熱かった。
目を見開いたラスルの瞳に銀色の睫毛だけが宿る。
何が起きている?
体から力が抜けずるずると倒れ込みそうになった所で唇が離れ、
同時にカルサイトによって抱きすくめられた。
﹁君がいなければ今の私は存在しない︱︱︱﹂
強く抱きしめられ、肩にうずめられたカルサイトの頭が愛おしそ
うにラスルへとすり寄る。
耳元で囁かれた言葉にラスルの心臓がビクリと跳ねた。
﹁あの時君に出会えたからこそ、私は今こうして君の前で生きて
いられる。君が己の生を否定する事は、同時に君が救った命を否定
する事にはならないだろうか?﹂
ラスルがいたからこそ、今もなお鼓動を打ち続ける命もある。
232
確かにラスルを救う為に手を貸したミシェルは犠牲となり、フラ
ンユーロの攻撃を受けロイゼオリスを含む多くの者たちが死んだ。
それが現実だが、全てをラスルのせいにしてしまうのは無理のある
話ではないだろうか。
全ての事の起こりは、狂おしい程に一人の女性を愛した二人の男
がいたからだ。そこで生を受けたラスルのせいでは結してない。
全てはラスルのせいではなく、ラスルはその不幸な出来事に巻き
込まれてしまっただけなのだ。
カルサイトはなだめるようにラスルの頭を、背を優しく撫でる。
﹁私は君に出会えてよかったと心から感じているし、あの時、万
一にも君が魔法使いに殺されそうになっていたなら、己の全てをか
けて反撃していた。﹂
ラスルを抱くカルサイトの腕に更に力が込められる。
カルサイトにとってラスルはただの命の恩人ではない。守りたい、
失いたくない⋮傷つけたくない愛しい存在なのだ。
﹁ラスル︱︱︱私は君が生まれて来てくれた事に誰よりも深い感
謝を捧げる。﹂
その言葉にラスルははっと気を呑んだ。
生を否定したラスルに対して、感謝すと告げたカルサイト。
ラスルがいたからこそ生きていられると︱︱︱
たとえ偽りだとしても、今の言葉は重く締め付けられるラスルの
心をどれほど軽くしてくれるものだろうか。
233
ラスルはそっとカルサイトの胸を押し見上げ、カルサイトもラス
ルを抱く腕の力を弛めた。
紫の瞳が揺れ、僅かに自虐を含んで微笑んでいる。胸を押された
事でやんわりと拒絶されたのだと感じたのだ。
しかしカルサイトの思惑と異なり、見上げるラスルはそれ以上離
れて行く所か、カルサイトに向かってそっと震える腕を伸ばして来
た。
冷たい冷え切ったラスルの掌がカルサイトの頬に触れる。
﹁わたしはこれから︱︱︱あなたを殺すのかも。﹂
確かにあの日、出会った森で命を救いはした。しかしそれも出会
いの御膳立てでしかなく、これからの未来にラスルの存在がカルサ
イトを危うい場へと落とし入れないとも限らない。
現実に、既に関わり巻き込んでしまっているのだ。
﹁違う、君はそんな存在ではない。私は君⋮ラスルに、けして辛
い現実を突き付けたりはしないと誓い、約束しよう。﹂
けしてラスルが恐れるような現実を齎したりはしない︱︱︱
ラスルは両腕を伸ばしてカルサイトの首に回すと膝立ちになり、
紫の瞳をじっと覗き込む。
カルサイトはラスルの細い腰に優しく手を添え、じっとラスルの
瞳を見据えていたが、やがてその瞳が近付くと、先程よりも温もり
を帯びた唇がそっと重ねられた。
たとえ災いをもたらす話が真実だとしても、その災い全てを跳ね
234
のけて見せる。
この時、カルサイトの脳裏にラスルに執着するウェゼートの姿が
過ったが、それもほんの一瞬の事。
カルサイトはラスルに回した腕に再び力を込めると細い体を引き
寄せ、深い口付けを返した。
235
一時の幸福
ひと
硬い寝台の上、カルサイトは静かな寝息を立て眠る愛しい女の寝
顔を穏やかな笑みを浮かべ見守っていた。
星の瞬きも消えやらぬ夜明け前、半身を起した為に流れ落ちた銀
髪の先では白いシーツに乱れる黒髪が待ち構え、まるで互いの色が
交わるかに交差する。
様々な問題は抱えているものの、今は腕の中に眠る愛しい人との
一時を大切にしようと、穏やかに眠るラスルを起こしてしまわぬよ
う注意を払いながら、カルサイトは優しく艶やかな髪を撫でつけた。
カルサイト自身、まさか自分がラスルとこの様な関係を結ぶ事に
なるとは思ってもいなかった。
兼ねてよりラスルの事は大切に愛おしいく思いはしていたが、そ
の想いを叶えたいとは夢にも思いはしなかったのだ。それが体を重
ねる結果となってしまった今、留める思いを解放した事で更に誰よ
りも強く愛しく大切に思う。
だがラスルはアルゼスの思い人であり、死んだとされてはいるが
イジュトニアの王女である存在。
それ故スウェールの王子であるアルゼスとの関係は好まれる事で
はなく、アルゼスの知らぬ場所でカルサイトはラスルとアルゼスを
引き離すよう命令を受けていた。
その命令の手っ取り早い手段がラスルをカルサイトの手中に落と
すと言う、言ってしまえば現在の結果だ。過去においてもカルサイ
236
トは実際に同じ様な命を受け、アルゼスに群がる幾人もの地位と権
力に飢える女達をアルゼスから引き離して来た。卑劣だと分かって
はいたが相手を惚れさせ抱いた後、後腐れの無いよう別れるといっ
た事を幾度となく繰り返してきている。
だからこそ余計にこうなる事を恐れ、ラスルへの思いを心の奥深
くに押し込めていた。
どんなに愛し嘘偽りない言葉を紡いだとしても、過去に起こした
己の不誠実な行い故にその想いを真実のものとして見てもらえない
やも知れない。いくらカルサイトに邪まな気持ちがないとしても、
スウェール側の思惑を知ったラスルが傷付かない訳がないのだ。
それにラスルはアルゼスにとって初めて特別な思いを抱いた相手。
カルサイトにとってアルゼスは仕えるべき主君でありながら、互い
に心開ける友でもある存在。だからこそカルサイトはアルゼスの意
を察し、ラスルへ抱く感情を心に押し込め表に出さぬようにしてい
たのだが︱︱︱
泣いて暴れるラスルを落ち着かせる為とはいえ、咄嗟に取ってし
あまた
まったあの行動⋮唇を重ねた事で一瞬にして心にかけた鍵は外れて
しまった。
恐らく他の数多ある女性相手ならこの様な結果にはならなかった
であろう。しかし想いを抱くラスルに唇を重ねた瞬間、己にかけた
鍵はいとも容易く使い物にならなくなってしまった。
愛しい人の冷えてしまった悲しい心を癒し、温もりを与えたいと
願うのは当然の思いだった。冷たい手で頬に触れられ愁いを帯びた
瞳で見下ろされた時、カルサイトの中には目の前のラスル以外心を
支配するものは消え失せていた。
ラスルを腕に抱き、更に強い力で閉じ込める。抗う所か細い腕が
応えるように回され、互いに一つになるかに絡み合った。
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こうなってしまった以上はカルサイトに迷いはない。
腕に掻き抱いた愛しい人を心のままに愛し守り抜く︱︱︱それだ
けが今のカルサイトに出来るアルゼスへの償いでもあり、ラスルへ
向ける嘘偽りなき真実の心だ。
じっと見つめているとラスルの瞼が揺らぎ、長い睫毛が瞼で持ち
上げられる。
ラスルは微笑むカルサイトと目が合うと恥ずかしそうに頬を染め
視線を反らし、もぞもぞとシーツの中に潜りこんで顔半分まで隠れ
てしまった。
何て愛おしいのだろう︱︱︱
アルゼスだけではない、カルサイト自身も無条件でこれ程愛しい
と思った女性はラスルが初めてだった。
カルサイトはラスルの顔を挟むように肘を付き、薄っすらと染ま
った頬と目尻に口付けを落とす。するとラスルははにかんだように
小さく笑みを零した。
シーツに包まれたラスルの白い肌にはカルサイトの愛した跡が幾
つも残る。
冷たく冷え切った体に己の体温を分け与えながら、豊かに膨らん
だ左胸に刻まれる刻印を見付けた。
朱色の、花弁のような刻印は繊細な細工の様でとても綺麗なもの
だ。
しかし呪いの象徴であるかのそれを嫌うラスルは、カルサイトが
それに目を止めると顔を背け掌でそっと隠す。カルサイトは意を沿
238
い、ラスルの手を退けるとその場所に強く吸いつき、刻印の上から
新たな印を付けた。 白い肌にひときわ鮮やかとなった印。だがそれが何たるかの判別
はつかなくなっている。
やがてカルサイトが印たそれも消え、再びラスルの厭う朱色の刻
印が現れるだろうが、ラスルが嫌うなら幾度でも愛の印で覆ってや
ろう︱︱︱カルサイトの言葉にラスルは無言のまま切ない視線を向
けると口付けで応えた。
イジュトニア王との禁忌の噂⋮その後フランユーロの後宮に囚わ
れたラスル。 そんなラスルを救い出した時は全裸であったし、後宮と言う王の
愛妾が集う場所に置かれたラスルの身に何が起きるかは想像せずと
も解っていた。それ故肌に触れる事を拒絶されるかとも思っていた
が、ラスルは怯える事なくカルサイトを受け入れてくれたのだ。
腕の関節を外されても声一つ上げなかったラスルが、カルサイト
と肌を重ね苦痛に顔を歪め声を上げた時には、閉ざしていた心を開
き心身ともに自分を受け入れてくれたのだと実感し、愛おしくて堪
らなくなった。一筋の涙を流し苦痛に耐えながらも﹃大丈夫﹄と呟
いたラスルが可憐であまりにもいじらしく、カルサイトは再びラス
ルに強く心を奪われる結果となってしまった。
穴が開くほど見つめられ恥ずかしく、無言に耐えられなくなった
ラスルが口を開く。
﹁カルサイトは⋮都に戻るんだよね?﹂
239
﹁報告もあるし軍の立て直しにも加わらなければならない。でき
るなら君を森まで送り届けてやりたいのだが⋮申し訳ない。﹂
本当なら片時も離れたくはないのだがそういう訳にもいかなかっ
たし、再び戦場になるかもしれない場にラスルを連れて行く訳にも
いかない。一人の女性の事ばかりを考え戯れていられるほど世界は
平和ではなかった。
だが冷静さを取り戻したラスルからは意外な言葉が発せられる。
﹁わたしも⋮一緒に行っていい?﹂
﹁都へか?﹂
﹁︱︱︱駄目?﹂
駄目と言う訳ではないが︱︱︱
カルサイトは戸惑いラスルを見下ろす。
シーツで顔半分を覆い尽したまま、ラスルは上目使いでカルサイ
トを見つめていて、その瞳は揺れる事無く真っ直ぐに紫の瞳を見返
していた。
﹁それは︱︱︱自分が純血種の魔法使いと理解しての言葉か?﹂
カルサイトと都に向かえば、ラスルは当然その力を利用される。
そこにある強大な力を利用しようとする輩は当然数多く存在し、カ
ルサイトやアルゼスですら出会った当初はラスルの力を国の為に欲
しいと感じていた。
ラスルにいくら強力な力があるとはいえ、カルサイトとしては愛
する人を戦乱の場に巻き込みたくないと思うのは当然だ。それにた
とえ戦乱の場におかれなくても、黄金の光を宿す魔法使いを従える
事実をスウェールは更なる戦力の一つとして周囲に公表するだろう。
要するに国に良い様に利用されるのだ。
240
﹁綺麗事だけじゃ済まない事は解ってる。でも⋮スウェールが少
しでもわたしの力を必要としてくれるなら手を貸したいと思ってる。
この国に生きて、迷惑をかけたままで終わりたくないの。﹂
逃げて身を隠す為にいただけの、特別な意味などなかった国。
魔物の住まう森に身を隠し、常に見張られているとも知らず、纏
わり付く父王の異常な執着から逃れていた。その事が原因で起きた
今の現実を放り出し、自分だけぬくぬくと森に隠れ住み続ける訳に
はいかない。
たとえそれが祖父との約束を違える結果になっても⋮だ。
カルサイトはラスルの髪を撫でると深い溜息を落とした。
﹁私は心の底からは賛成できない。出来ないが︱︱︱﹂
︱︱︱ラスルの側にいられる事は嬉しい。
心の内にある真実を垣間見せるカルサイトの言葉に、ラスルも嬉
しそうに頷く。
幾度となく口付けを交わし、それだけでは終わらずにその唇が白
い肌を這う。
素肌に触れられ押し開かれるが、ラスルにほんの少しも嫌だと言
う気持ちは起こりはしなかった。それよりもラスル自身がカルサイ
トを求めている。
父であるウェゼート王により無理矢理求められ、吐き気を覚え恐
怖で硬直した。なす術も無く、すすり泣くだけが唯一出来る抵抗だ
ったのに。
あれほど嫌だった行為がまるで嘘のようだった。
241
昨夜カルサイトに体を押し開かれ、ラスルはその時初めて己の純
潔を知った。
フランユーロでグローグ王に強いられた伽は未遂に終わっていた
のだ。初めての相手がカルサイトである事を知ると、受ける痛みも
何もかもが嬉しくて、ラスルは例えようのない幸福感に包まれた。 この一時だけかもしれない︱︱︱
それでも構わないと、一時の幸せに縋りつくかに温もりを求めカ
ルサイトを受け入れる。
初めて感じる安らぎに戸惑いつつも抵抗する事無く素直に応え、
今だけは不安の全てを投げ出し、肌のぬくもりだけを感じながらラ
スルは瞳を閉じた。
242
王子の嫉妬
ラスルの心の中では確実に何かが変わっていた。
己の存在が原因で起きた惨事︱︱︱死期を悟ったからこそ一刻も
早く世を去り負の連鎖を終わらせたい。
そればかりを願っていたラスルだったが、死期は遠からずいずれ
訪れる物と悟り、その時を迎えるまでに自分に出来得る限りの償い
をしよう︱︱︱死を望みながらもそれに反し、その日までは必死に
足掻いて生きて行こうと、更なる不幸を招くやも知れないが、それ
が自分に残された唯一出来る償いなのだと認識する。
カルサイトと共に一夜を過ごした朝、宿を出たラスルはいつもの
自分を取り戻していた。
目的に向かって進む為、一路スウェールの都を目指す。
今まで目立つ事を恐れ人を避け続けて来たが、道中は黒いローブ
に身を包む黒髪黒眼のラスルに好奇の目が集まっても全く気にせず
突き進んだ。
人目を避けるのではなく、先を急ぐので宿を取るのも憚り幾度と
なく野宿を繰り返す。その間ラスルはカルサイトと再び身体を重ね
る事はなく、カルサイトの方もそれを求めてきたり、必要以上に馴
れ馴れしい恋人の様な態度を持って接したり、それをラスルに求め
たりする様な事は一度もなかった。
成り行きかもしれないし、そうではないかもしれない。ラスルが
243
カルサイトを求めたのは事実で、それを後悔している訳でもない。
ただ⋮ラスルは自分を愛していると偽りなく告げたカルサイトに後
ろめたさを感じていた。
心が折れ、つい目の前にある優しい温もりに縋りついてしまった
とはいえ、ラスルは間違いなくカルサイトに対し心を開いている。
自分でも理由ははっきりと分からなかったが、恐らくこれは恋と
いうものだ。でなければたとえ錯乱していたとしても身を許したり
はしない。
自分の思いだけならいい。たとえ一方通行でも受け入れてもらえ
ただけで満足だろう。しかし、カルサイトは嘘のない瞳でラスルを
見つめ愛の言葉を紡いでくれるのだ。
いづれ⋮近いうちに世を去るラスル。
人の心は移ろい易いが、このままカルサイトが自分を愛し続けて
くれたならどうなるだろう?
愛しい人の死と言うものは時に人を狂わせる凶器とも成り得る。
カルサイトがそうなるとは限らないが、ラスルが先に逝けば少なか
らずカルサイトは心に空洞を残すに違いないのだ。
ラスルの過去において大切な人の死は祖父だけだった。
その祖父が死んだ時自分はどんな思いを抱いた? 辛く悲しかっ
たのは言うまでも無いが、ぽっかりと心に穴が開いてしまった。
祖父の死は受け入れなければならないものと前もって知ってはい
たが、ラスルは己の死期をカルサイトに告げるつもりはない。
だからこそ抱く後悔と後ろめたさ。
その時彼はどんな思いを抱くだろう︱︱︱?
酷い女だと、ラスルは自分を見つめるカルサイトに歩み寄り、広
く逞しい胸にそっと額を摺り寄せた。
244
﹁どうした?﹂
道中ラスルの方からカルサイトに身を寄せて来るような事は一度
もなかったため、そのまま受け入れながらもカルサイトは戸惑う。
あと少しで旅も終わる。
都を前に緊張しているのだろうかと、カルサイトはラスルの頭を
ぽんぽんと優しく叩いて背を撫でた。
﹁案ずるな。都では魔法使いを見慣れたものも多いし、城には今
回の件でイジュトニアの魔法使いと接した者も数多くいる。これま
で程好奇の目にさらされる事はないだろう。﹂
安心させるように告げるカルサイトに見えない位置で、ラスルは
額を摺り寄せたままそっと唇を噛んだ。
﹁ごめん︱︱︱﹂
ごめん、そうじゃないんだ︱︱︱
ラスルはぐっと奥歯を噛み締めた。
本来なら彼の心が離れて行くような態度を取るべきなのだろうが、
人との接触を拒み恋愛経験など皆無のラスルはそれ程器用ではない。
それに一度得てしまった安らぎの場を手放す覚悟も持ててはおらず、
ひたすら申し訳ない気持ちが募って行く 。
自分はずるい人間だと、ラスルは心の中で呟いた。
﹁大丈夫だ、それ程悪い場所ではない。﹂
﹁︱︱︱うん、そうだね。﹂
不安を拭い去ってくれようとする優しい言葉にラスルは遠慮がち
に頷く。
一人で生きて行く事を望んでいた筈なのに、我慢が利かず目の前
245
の温もりに縋ってしまう自分がどうしても嫌でならなかった。
都入りしたラスルはカルサイトに連れられ真っ直ぐにアルゼスの
元に向かったが、アルゼスに合う前に白い衣に身を包んだ男が現れ、
それとなく行く手を阻まれた。
短い銀色の髪に緑の瞳。
﹁クレオン殿︱︱︱﹂
男の名を呟いたカルサイトに緊張が走ったのをラスルは見逃さず、
クレオンと呼ばれた男がカルサイトにとって敵なのか味方なのかを
見極めようと、漆黒の瞳を見開いて強く男を見つめる。
ラスルの強い視線に気付いたクレオンはその眼差しに引かれ、自
分を見つめる闇色の瞳に思わず引き寄せられてしまう。
この娘が︱︱︱
何処で合流したのか知れないが、カルサイトの隣に立つ黒いロー
ブに身を包んだ娘が誰であるかなどクレオンには考える間もなく直
246
ぐに理解出来た。
将来スウェールを背負って立つアルゼスの命を救った娘であり、
イジュトニアの血を色濃く受け継ぐ魔法使い。秘める力は計り知れ
ず、スウェールが手にすればどれ程の戦力になるであろうか。
敵国の侵攻を受けたばかりの今は喉から手が出る程欲しい逸材。
しかし、だからと言って諸手を上げて歓迎できる相手ではない。
アルゼスがラスルに対して特別な感情を持っている限り、スウェー
ルにとっては危険な娘でもあるのだ。
クレオンは己を見つめる瞳に引き込まれ、呑まれてしまいそうに
なるのを堪えるかに、必死の思いでぐっと瞼を閉じ一呼吸置く。
薄汚れてはいるが確かに美しい娘だ。それはラスルを危険な存在
だと認識するクレオンですら思わず引き込まれてしまいそうな程の、
不思議な魅力を秘めた娘。だがどれ程見た目に優れようと、アルゼ
スは外見の美しさだけで女に惹かれたりする人種ではない。
漆黒の長い髪に黒曜石のように輝く闇色の瞳。真っ白な肌に朱を
帯びた唇は花のような甘さが伺え匂い立つようだ。魔法使いと言う
特殊な能力を持つ者故の特徴か、何処か神秘的で思わず手を伸ばし
たくなる衝動に駆られるが、そうさせまいとする凛とした棘の様な
空気が感じ取れた。
その棘が自分に対する警戒だと気付いたクレオンは、いつもの余
裕を取り戻すと僅かに頭を下げラスルに礼を取る。
﹁初めまして、ラスル殿ですね? 私はクレオン、アルゼス殿下
付きの文官です。先日は殿下をお救い頂き臣下として、また私個人
としましてもラスル殿には心から感謝しております。真に有難う御
座いました。﹂
247
こちらの真意を伺う様な上辺だけの口上。笑顔を浮かべながらも
緑の瞳はラスルを鋭く射抜き、常に心の内側を覗き見ようと様子を
伺っている。
国の重臣としてアルゼスに仕えるのなら、得体の知れない相手に
対してこれは当然の反応であり、そういう視線にさらされても傷付
いたりと可愛らしいダメージを受ける様なラスルではない。それに
身分のある者に対しての礼儀も持ち合わせていないラスルは、﹁別
に︱︱︱﹂と、クレオン相手に素っ気ない返事を返しただけだった。
あまりの素っ気なさにクレオンは少々驚たが、彼の意識はラスル
を守るかに割って入って来たカルサイトによって中断される。
﹁殿下はどちらに?﹂
なるべく感情を押し殺そうとしてはいるが焦りを見せるカルサイ
トの態度に、クレオンは満足そうに口角を上げた。
﹁この時間は執務室で大人しくしている筈です。予定より戻りが
遅いので心配しておられましたよ。﹂
﹁そうですか。では先を急ぎますので︱︱︱﹂
そう言ってラスルを促すカルサイトをクレオンが引き止める。
﹁ラスル殿はこちらでお預かりいたしましょう。﹂
クレオンの言葉にラスルは隠しもせず嫌な顔をし、カルサイトは
それとなくラスルの肩に腕を回して引き寄せた。
﹁ご心配無用︱︱︱彼女の身はこちらで対処します。クレオン殿
にご案じ頂かなくても結構です。﹂ ﹁ならば良いが⋮﹂
意味有り気な微笑みを浮かべ注意深く様子を伺うクレオンの視線
から逃れるように、カルサイトはラスルの手を引いて先を急いだ。
248
そんな二人を見送るクレオンと振り返ったラスルは目が合い、一
見害がなさそうでいて内側では何を考えているのか分からない男へ
ラスルは不信感を募らせた。
﹁誰、あの人?﹂
名を聞いているのではい。
感じが悪いと前に向き直りながら尋ねるラスルに、カルサイトは
小さく微笑み僅かに目尻を下げた。
﹁殿下の右腕とも言うべき人でとても切れる方だ。私も信頼して
いる。﹂
﹁その割にお互い棘が感じられたけど︱︱︱﹂
妙によそよそしかった二人。信頼してはいるがいけ好かない者同
士なのだろうか?
質問はしたが答えを求めずラスルは歩みを続ける。
カルサイトは自分の側に知られたくない情報があるからだとはと
ても言えず、後ろめたさを感じつつも、それでも自分がラスルに抱
く気持ちは本物だと引く手に力を込めようとした時、ラスルの方か
ら手を離すと同時に立ち止まられた。
ラスルの視線の先には驚いた表情のアルゼスがあり、早足でこち
らに向かって進んで来ていた。
アルゼスはカルサイトの帰還報告を受け、同時にイジュトニアの
魔法使いを一人連れ帰って来たと聞いて、それが女性であると知り
もしやと言う予感を抱いて思わず部屋を飛び出していた。
予感は的中し嬉しい思いを抱いたものの、必要以上に近い距離で
並んで歩く二人を目にしてアルゼスの心に嫉妬と言う炎が灯され、
249
冷静さを保とうとする意に反し、自ずと足が速まる。
﹁何故来た?!﹂
目を吊り上げ怒りをあらわにするアルゼスの想像以上の剣幕に、
ラスルは一瞬躊躇する。
アルゼスにも自分が災いをもたらすという認識を抱かれているの
だろうか?
実際そうなのだから仕方がないが、将来国の主となる人に都への
滞在を拒否されたらどうすればいいだろう。
少しでも役に立ちたい、償いをして終わりたいという願いを持つ
ラスルは剣幕の主を見上げる。
﹁森で待つように言っただろう?﹂
八つ当たりでつい声を荒げてしまったと、眉間に皺を寄せたラス
ルに声色を落とし、何とか自身を落ち着けながらアルゼスは言葉を
放つ。
﹁命令は受けない。﹂
相手は生粋の王子様だ。ある程度の予想していたものの、命令に
背かれる事に慣れていないのだろうと、ラスルは自分がアルゼスの
配下ではない事を主張する。
だがアルゼスはその言葉にラスルとの間に大きな壁を感じてしま
った。
そんなつもりで言ったのではなかったが、ラスルはアルゼスの心
の内を知らない。アルゼスを知るものなら手に取るように分かる感
情も、森で過ごした僅かな時間ではアルゼスがラスルに抱いた勝手
な感情に気付く間などなかった。
アルゼスは苛立ち募らせるが、その苛立ちの本質に気付けないラ
250
スルは怪訝に顔を顰めるばかりだ。
﹁帰れと言われてもフランユーロとの件が片付くまでは帰らない。
事の原因はわたしにあるんだから当然でしょう?﹂
﹁お前が背負うべき物など何もない!﹂
﹁何もないって︱︱︱わたしとウェゼート王のおぞましい関係を
知ってる癖によく言えるわね?!﹂
ウェゼート王が犯した罪と、そこに生まれたラスルの存在。
父王のラスルに対する執拗な感情が現在の状況を生みだした。そ
の当事者たるラスルが無関係などと主張するにはあまりにも無責任
過ぎる。
﹁ラスルっ!﹂
アルゼスは言葉を失い、カルサイトは声を上げ止めろと言わんば
かりにラスルの腕を引いた。
偶然⋮いや、ラスルに刻まれた印によってラスルのいる場所を知
ったのだろう。
国境に現れたウェゼート王と対峙した時のラスルの様子を知るカ
ルサイトは、これ以上ラスルの口から明るいとは言い難い過去を語
らせたくはなかった。
だが見下ろすラスルの瞳は苦痛に揺れる事無くアルゼスを見据え
ている。対するアルゼスの方が動揺を隠せずにギリリと歯を食いし
ばっていた。
﹁勝手にしろ!﹂
アルゼスは口惜しそうに言い放つと、怒りも露に来た道を戻って
行く。
二人はその様子を黙って見送っていた。
251
やがて訪れた静けさと共に、ラスルはゆっくりとカルサイトを見
上げた。
引かれた腕は未だに強く掴まれたままで、思い出したように手を
離したカルサイトからは謝罪の言葉が漏れたが、そこにある気使い
ここ
を感じ取ったラスルは嬉しくもあり、同時に申し訳なくも感じた。
﹁都まで来たら別に構ってもらわなくても自分で何とか出来るよ
?﹂
イジュトニアの魔法師団が退き、フランユーロの軍を押さえたと
はいえこのまま終わるとは到底思えない。フランユーロが再び攻め
て来るような事態になれば、ラスルはスウェール側の人間として戦
場に立つ覚悟でいた。だからと言って複雑な背景を持つ自分が城に
滞在するのもどうかと思えたし、アルゼスの剣幕からすると歓迎さ
れていないのは目に見えており、居座るにはずうずうしく思える。
もとより、都にいさえすれば情報は入りどうにでもなるのだ。
野宿でも何でもと、身の回りに拘りを持たないラスルの行動が見
え、カルサイトは思わず苦笑いを浮かべる。
﹁殿下はああ言ったが、恐らく国賓級の扱いを受けるだろうね。﹂
勝手にしろとは言ったが、こうなった以上アルゼスはラスルを自
分の目の届かない場所に置くつもりはないだろう。それにあの態度
は、カルサイトとラスルの関係に気付いたために取ってしまったも
のに違いなく、けしてラスルを疎ましく思っての態度ではない。
252
ラスルはカルサイトの言葉に、それは止めて欲しいと苦虫をつぶ
した様な顔になった。
253
一戦
自分とは明らかに違う、ラスルとカルサイトの距離。
アルゼスは怒りともつかない感情を押さえもせず執務室に戻ると、
机に溢れる書類の山を払い除け床に散乱させ椅子にどかりと腰を下
ろし、書類の無くなった机へ乱暴に足を放り出した。
スウェールを守る為の政略結婚とはいえ、元はアルゼスの婚約者
として名の上がった王女。死んだとされるイジュトニアのラウェス
ール王女こそが偶然出会ったラスルであった。
単なる独占欲ではない。死んだ王女ではなくラスル自身に強い思
いを抱いているのだ。
そのラスルが懐に侵入を許したのはカルサイトであって、アルゼ
スでないのは明白だった。
兄弟のように育ち、アルゼスの為に汚い仕事すら意に反しこなす
カルサイトを誰よりも信頼している。カルサイトが相手なら仕方が
ないとすら考えるが︱︱︱心と真実の感情は違い、アルゼスの心中
は醜い嫉妬の心で溢れていた。
何とか気持ちを押さえなければラスルに不快な思いをさせ、だら
しない己を曝し続けてしまう。
必死に自分を落ち着けようとするアルゼスに油を注いだのはクレ
オンだった。
﹁これはまた酷い荒れようで︱︱︱﹂
無表情だがこの状況を楽しむかに緑色の目が光っている。
254
兄の様な存在でもあるクレオンの登場に、アルゼスはばつば悪そ
うに机から足を下ろすと不貞腐れた態度で頬杖を付いた。
どうせまたラスルは妃に出来ぬとか何とか苦言を指しにきたに違
いないのだ。
そんな事はアルゼスとて分かっているが、改めてクレオンの口を
付いて言われると、味方は誰もいないと孤立した気持ちになってし
まう。
﹁ラスル殿程ではないにしろ、負けじと劣らぬ殿下に相応しい女
人はいくらでもおります。﹂
﹁あんな化粧臭い狡猾な女共など願い下げだ。﹂
﹁狡猾で結構。王家にとっては必要な後ろ盾です。﹂
﹁だったらお前が娶ればいいだろう?﹂
﹁私は王家の人間でも王太子でもない。妃が必要なのは殿下、他
ならぬ貴方ですよ?﹂
分かりきった事を何度も何度も毎日のように言われる。
確かに⋮王家に生まれ次代の王となるアルゼスがいつまでも妃を
娶らないという事があってはならない。王家に生まれそれを継ぐべ
き者の義務として、愛の無い結婚を強いられるのも当然の事だ。
解ってはいる︱︱︱分かってはいるのだが︱︱︱
かつて戦場においてイジュトニアの王女との婚姻を書面で報告さ
れ、当然の事と黙って従った自分が今となっては懐かしい。
アルゼスは深い溜息を落とし、頬杖を付いたまま窓の外に視線を
馳せた。
その視線の先で想っているのが誰かなど直ぐに解る。
クレオンは冷たい目でアルゼスを見据えると静かに言葉を口にし
た。
255
﹁ラスル殿を母親と同じ境遇に立たせるおつもりですか?﹂
﹁︱︱︱何?﹂
母親と同じ境遇︱︱︱? それは︱︱︱ラスルをカルサイトから奪うという事か?
アルゼスは眉間に深い皺を刻むとゆっくりと立ち上がり、鋭い視
線をクレオンに突き付けた。
﹁お前まさか︱︱︱?!﹂
﹁ラスル殿とて立派な大人です。私の一存でどうこうなる存在で
はありませんよ。﹂
アルゼスにとって不要な人間は表沙汰にも不利にならぬよう遠ざ
ける。それがクレオンのやり方であり、アルゼスも己の手を煩わさ
れる事が無くなる為受け入れて来た現実だ。だがその相手が女性に
なると少々厄介で、地位と名誉に固執する女は特にてこずる事にな
る。
そこでクレオンが目を付けたのがカルサイトだ。
アルゼスの覚えめでたく苦言を指す事を許された相手。王太子と
言うアルゼスにかなう事はないが相応の地位と名誉を持ち、騎士の
中でも特別腕が立つ。しかも見目麗しい貴公子でありながら表向き
には女性遍歴が派手という訳でもなく人当たりも良い。何事にも誠
心誠意に尽くすタイプだ。アルゼスが駄目ならカルサイトへとあっ
お
さり標的を変える女も多く、そのカルサイトの方から声をかけられ
て迷惑に思う女などいる筈がなかった。
んな
そんなカルサイトがクレオンに命じられ、アルゼスに付き纏う害
虫を駆除してかかっていた事も承知している。
そして今回、その標的がラスルへと向けられていた。
256
何故気付かなかったのだろう?
こんな当たり前の構図に今頃気付くなど周りが全く見えていなか
った証拠だ。
アルゼスは頭を抱えるとよろよろと椅子へと倒れ込むように腰を
下ろす。
今まで口をつむって来た事に対して今更苦情を言っても虫が良過
ぎるというもの。そもそもクレオン相手に口で敵うとも思えないし、
クレオンの言葉通りラスルは自己を持ったいい大人なのだ。こちら
側の一方的思惑があったにせよ、けして無理矢理どうこうしたとい
う訳ではないし、実際に何があったかなど今のアルゼスには知る由
もない。
ただ︱︱︱どんな理由があるにせよ、ラスルの心を弄ぶような事
だけは許せる範囲ではなかった。
﹁もういい、分かった。﹂
アルゼスは何とも付かない溜息を落とすと一拍置き、自身を落ち
着かせる為に大きく深呼吸する。
﹁何にせよ、ラスルに対する扱いは慎重に。表向き死んだと処理
されているとはいえ彼女がイジュトニア王家の血を引くのは事実だ。
それに俺の命の恩人だというのもけして忘れるな? それに見合う
扱いをお前が全て手配しろ。﹂
こう言っておけばクレオンがラスルを邪険に扱う事も無いだろう
し、森で大人しくしていて欲しかったとはいえ、ここまで来てしま
ったラスルを追い返したりするつもりも無い。彼女を気遣いながら
も結局は側にいる事を喜び、己のえごを優先させてしまうのだ。
クレオンは床に散乱した書類を無言で拾うと丁寧にそろえて机に
戻し、アルゼスに頭を下げ部屋を後にした。
257
アルゼスは日中ラスルに取ってしまった態度を反省しつつも、ク
レオンの思惑とカルサイトがラスルにしたであろう事に考えを巡ら
せ、募る想いと嫉妬、怒りに心がざわつき落ち付かぬ時間を過ごし
ていた。
少しでも心を鎮めようと、普段は使用しない屋内に作られた騎士
の鍛錬場に足を運び、燭台に灯された頼りない薄明かりの中、剣を
抜き鍛錬に打ち込む訳でもなくひっそりと静かに一人佇んでいた。
幾時ほどの静寂が流れたであろうか?
静けさを破るように扉が鈍い音を立て開かれ、背後に感じるのは
慣れ親しんだ男の気配。
ゆっくりと振り返ると銀の髪を後ろに束ねた背の高い男が薄明か
りの中影を落とし、流れるような動作で膝を付いた。
﹁アルゼス殿下︱︱︱﹂
まるでそれが答えであるかに頭を垂れるカルサイト。
しばらくそのままで向き合っていたが、アルゼスは静かに歩み寄
258
るとおもむろに腰の剣に手をかける。
その動作を感じ取りながらも、カルサイトは頭を下げたまま微動
だにしない。
言葉もなくアルゼスは鞘ごと剣を抜き取ると、間髪いれずに剣を
振り下ろしカルサイトに向かって殴りつけた。
鞘に包まれているとはいえ力任せの剣で左肩を突く様に殴られ、
その強烈な勢いに押されカルサイトは背中から床へと倒れ込む。肩
に激痛が走り思わず唸り声を上げるが、そこへアルゼスはすかさず
馬乗りになり胸倉を掴んで押さえ込むと、鞘から剣を抜き去り頭部
すれすれに床へと剣を突き付けた。
キンッ⋮と、剣先が分厚い床にのめり込み、さらに底を貫いて地
中の石に接触し石が砕ける音が響いた。
僅かに切断された銀の髪がゆっくりと宙を舞い音も無く床に落ち
る。
一連の動作を見切ったうえでカルサイトは避ける事無く静かに全
てを受け入れ、その行動が更にアルゼスの怒りに火を付けた。
胸倉を掴んだ腕に力が込められ、ギリリと首を締め上げていく。
﹁貴様っ︱︱︱ラスルを抱いたのかっ?!﹂
青い瞳が怒りに震えていた。
﹁ラスルは狡猾で己の欲に飢えた女達とは違う⋮だと言うのにお
前はっ︱︱︱!!!﹂
あまりの怒りに言葉が続かない。
アルゼスは突き立てた剣から手を離し、両腕で胸倉を掴み直した。
﹁何とか言ってみろっ、クレオンの命令か?!﹂
過去に幾度となく、アルゼスに纏わり付く不穏な輩をクレオンの
命でカルサイトが排除して来た事は知っている。勿論そのやり方も
259
踏まえてだ。それについて一度もアルゼスが異議を唱えた事はなく、
面倒が減ってよかったとさえ思っており、やがてそれが当然の事の
ように黙認されて来た。それ故ラスルに対してもこの様な事態にな
り得る事が予想できた筈だというのに︱︱︱!
さすがに苦しくなり、これまで全く抵抗を示さなかったカルサイ
トの手が自分を締め付けるアルゼスの手に伸びる。
﹁全て私の⋮意志です。﹂
﹁何?!﹂
もう一度言ってみろと言わんばかりにアルゼスは、苦しそうに言
葉を絞り出したカルサイトの首を更に締め上げる。
﹁確かにクレオン殿の言葉はありました。が⋮それだけなら私と
て今回は手出しは致しませんでした。﹂
﹁では何か? お前までもがラスルを邪魔な存在だと⋮王子であ
る俺の身には害になっても全くの益にはならぬと判断し手を下した
とでも?!﹂
いっその事そうであって欲しい⋮ラスルに対しては辛辣だがそう
願う醜い自分がいる。
もしそうならラスルを︱︱︱カルサイトから奪い去るのは簡単な
事だ。ラスルを母親と同じ運命におく事にもならないに違いない。
アルゼス自身、自分がどれ程の思いでラスルを愛しているのか分
かっていない。ただ確実なのはラスルを求め、愛しいと思い、手元
に置き不幸な彼女に自らの手で幸福を与えたいと願うだけだった。
他の女などいらない、ラスルだけ⋮始まったばかりの恋は急速に成
長して他を寄せ付けない程になってしまっている。
260
婚姻一つとってもスウェールの世継ぎであるアルゼスに自由はな
い。妃を決めかねるならせめて愛妾の一人でもと進言して来る臣下
たちだが、その相手すら誰でもいいという訳にはいかなかった。妾
になるにも国にとって利益があるかどうかが最大限に求められるの
だ。
更に締め上げの強まるアルゼスの腕を取ると、カルサイトは苦し
そうにしながらも言葉を続けた。
﹁殿下は⋮この件に殿下は関係ない。私が彼女を⋮ラスルを一人
の女性として愛し、求めた結果です。﹂
﹁なん⋮だと?﹂
カルサイトの告白にアルゼスの力が弛む。
﹁私は彼女を愛しています。決して邪まな思いを抱き、無理矢理
手に入れたのではありません。﹂
﹁それは何か⋮ラスルも⋮ラスルの心もお前と同じだとでも言い
たいのか?!﹂
﹁殿下っ!﹂
策があった訳ではない。両者が同じ思いで求め合ったのだとカル
サイトの口から紡がれ、嫉妬に狂った行為と知りながらも怒りに我
を忘れたアルゼスは、地面に突き刺した剣の柄に手を伸ばした。
その時、鍛錬場の扉が鈍い音を立て遠慮がちに開かれる。
怒りに燃えているとはいえ気配に敏感な二人。ほぼ同時に視線が
開かれた扉に向けられ、そこに現れた黒いローブに身を包んだ怪し
い人影へと向けられた。
261
カルサイトを組み敷いて馬乗りになり、地面に突き刺した剣に手
をかけたアルゼスの姿。
ラスルは絡み合った状態で微動だにしない二人に無言で歩み寄る
と、おもむろにしゃがみ込んで頬杖を付く。
﹁︱︱︱何してんの?﹂
自分が事の核心にあるというのに男達の心情に反し、呑気にもラ
スルは怪訝だ・解せぬと言いた気に眉間に皺を寄せる。
場所は騎士専用の鍛錬場。剣を握りカルサイトに馬乗りになって
いるアルゼス。カルサイトの手に剣はなく腰の鞘に納められたまま
だ。
﹁王子様の⋮勝ち?﹂
剣の訓練かと全くの勘違いを決め込むラスルに、アルゼスから瞬
く間に怒りの炎が鎮火していく。
年よりも幼く見えるその仕草はアルゼスに心のゆとりをもたらし
た。
・・
﹁いや、今回は俺の負けだ。﹂
そう⋮ラスルが容易く男に肌を許すとは到底思えない。それでも
彼女の背景を思えば手に届く位置にいたカルサイトに救いを求め、
つい肌を許してしまったという事もあり得るのではないだろうか?
今回は負けたがこの先はどうなるか分からない。何しろアルゼス
はラスルの気持ちも知らないし、まして自分の思いすら伝えてはい
ないのだ。
心に抱く思いはもっと早くに伝えておけばよかったと後悔するが、
262
完全に負けを認めるにはまだ早過ぎる。
アルゼスはカルサイトから手を離すと立ち上がり、強い瞳でラス
ルを見下ろす。暫く無言で見下ろしていると更にラスルの眉間に皺
が寄り、怪訝そうに見返された。
﹁怪我を⋮癒してやってくれ。﹂
怒りに震えながらも剣を握る右ではなく、左肩を狙ったのはまだ
正気を保っていたという事か。
ばつが悪そうに早足で鍛錬場を後にして行くアルゼスを、ラスル
は怪訝な表情のまま見送り、床に押し倒されたままになっているカ
ルサイトへと視線を向ける。
﹁もしかして、喧嘩?﹂
﹁受けるべき報いを受けただけだ。﹂
起き上がりながら、カルサイトは乱れた長い銀髪をかき上げる。
﹁報いって⋮原因はわたし?﹂
﹁いや。君には関わりの無い事だよ。﹂
微笑む深い紫の瞳が何処か寂しそうで、ラスルはそっと腕を伸ば
すとカルサイトの頭を撫でた。
﹁ごめん。﹂
﹁君のせいではないというのに何故謝る?﹂
﹁ん︱︱︱何となく。そんな気がしたから。﹂
いくらラスルが恋愛に疎く男心が分からないとはいえ、今までの
不自然なアルゼスの行動やらを考えてみると何となく想像が付く様
でいて⋮そして導かれた答えはあまりにもおこがましくて。直ぐに
心で否定し気付かない振りをし、押し込めながらも謝ってしまう。
ラスルにはそれに答えるだけの時間も力量も備わっていないのだ。
263
﹁怪我は腕? それとも肩?﹂
﹁大した怪我ではない。﹂
兎に角この話題からはお互いの為にも離れた方が良さそうだ。
ラスルは怪我をしたというカルサイトの様子を探り、魔法を用い
て砕けた左肩の骨を瞬時に癒していく。
﹁こういうのってよくあるの?﹂
大したものではないが訓練にしては酷い怪我だ。スウェールにい
る魔法使いの力はそれぞれだが、大抵の者が使う癒しの術では治癒
させるのに時間がかかるだろう。
﹁訓練に怪我は付き物だが︱︱︱それよりラスル、何か用があっ
て来たのでは?﹂ 相変わらずの完璧な治療に感嘆しつつも、部屋に案内され休んで
いる筈のラスルが何故こんな場所に現れたのかと怪訝に思う。
するとラスルはそうだと、思い出したように手を叩いた。
﹁王子様を捜してたんだ。﹂
﹁殿下を?﹂
﹁案内された部屋がすごい金ピカで⋮申し訳ないけど落ち付かな
い。侍女さん達が使うような部屋が空いてたら移れないかとお願い
したくて。﹂
予想通りの事態ではあったが︱︱︱
金ピカで落ち付かないとはいったいどんな部屋に案内されたのか
と、困り顔のラスルを余所にカルサイトからは笑いが漏れた。
264
265
価値観
十二歳からの二年間、ラスルは少女期をイジュトニアの王宮に閉
じ込められ生活していた。
イジュトニアは国王を筆頭に、国民すべてが黒いローブに身を包
んで生活している。まるで隠れ住むかの隠匿な国民性は派手な事は
望まず、ひっそりと手に届く物で満足しているのがイジュトニア特
有の伝統とも言うべき生活風景で、それが同時に数少なくなってし
まっている魔法使いの血統を守れる手段の一つともなっていた。
過去に城での生活経験のあるラスルだったが、代々の王族も例に
漏れず隠匿主義で、イジュトニアの王宮もけして派手なものではな
い。
基本的に薄暗く冷たい印象を受ける空間は魔法使い好みの物で、
世間一般的に言われる派手な王宮生活の経験は皆無なのだ。
建物自体に使用されている石や地味な装飾も、本来なら値が付け
られないような希少価値が極めて高い品が使われ揃えられてはいた
が、何分見た目が地味で目を引かない。一年の国家予算に匹敵する
ような石造りの長椅子が無造作に庭に置かれ風雨に曝されたりして
いたが、それが本物の宝石で出来ていても彼らはそれをただの椅子
としてしか捉えず、あまりの地味でその無造作振りに、異国の客人
ですらその価値には全く気が付かない。
そんな生活だったし、フランユーロの後宮に囚われた経験もある
とはいえ、ラスルにとって本物の豪華な王宮と言うのはスウェール
が初めてだった。
266
案内された部屋に入り室内を見渡した瞬間、あまりの眩さにラス
ルはぽかんと口を開け呆気にとられてしまう。
だだっ広い室内の真ん中には深紅の座り心地が良さそうなソファ
つまず
ーが一揃え。見事な彫りの彫刻を連想させるテーブルに毛足の長い
不思議な文様の絨毯は侵入者の足を躓かせる為の手段だろうか? 巨大な窓にはこれまた絨毯の様に重厚な二重のカーテンがぶら下が
り、見事な金糸による刺繍が施されていて、天井からは硝子作りの
巨大で豪華なシャンデリアが眩い光を発してぶら下がっていた。
何時頭上に落下して来るかと想像すると恐ろしくて、絶対にその
下は歩けない。
﹁なに⋮この悪趣味は?﹂
ラスルの小さな呟きに、斜め後方にいたクレオンは我が耳を疑っ
た。
怪訝な顔つきで辺りを見回している様からすると、どうやら聞き
間違いではなさそうだ。
クレオンの元にはあらゆる情報が集まる。イジュトニアの王宮を
訪れた事はないが中の様子はある程度耳にし理解していたし、アル
ゼスから釘を刺された事もあり多少やり過ぎかとも思えたが、国賓
級の扱いで部屋を用意し、スウェール王家と言う威厳を多少垣間見
せようかと目論んだのであったが⋮
まさか王妃の部屋よりも豪華絢爛にしつらえられた客人用の部屋
を﹃悪趣味﹄と評価されようとは。
さすがはアルゼスの心を射止めた娘︱︱︱というか、生粋の魔法
使いだ。
267
自分もまだまだ修行が足りぬ、やれやれ︱︱︱と、個人的には好
印象であるに違いないラスルに、クレオンは多少残念な思いを抱く。
アルゼスが気に入った唯一の娘。血筋も文句のつけようがないだ
けに、彼女に纏わり付く背景が負の材料でなければ諸手を上げて歓
迎したい娘ではあるのだ。
たとえ過去を帳消しにできたとしても存在が消された王女である
以上は、ラスルは一国の王太子妃にと望める娘ではない。今の彼女
はただの魔法使いでしかないのだから。
﹁ご滞在の間はこの部屋をご自由にお使い下さい。用があれば呼
び鈴を⋮侍女が参りますので遠慮なさらず何なりとお申し付け下さ
い。﹂
﹁⋮⋮⋮あの⋮﹂
﹁何でしょう?﹂
部屋を変えて欲しい︱︱︱口から出ようとした言葉は何故か自然
と飲み込まれてしまった。
クレオンの無表情。ある意味武器だと感じつつ、ラスルは何でも
ないと視線を反らす。
﹁そうですか。では今宵はごゆるりと旅の疲れをお休め下さい。﹂
﹁あっ⋮待って!﹂
丁寧に頭を下げて退出して行こうとするのを引き止めるラスルの
声に、クレオンは再び何でしょうと振り返った。
﹁あの⋮王子様は何処に?﹂
﹁アルゼス殿下なら所用の最中ですが?﹂
本当は仕事を放り出し何処かをほっつき歩いているなど言える訳
268
もなく。しかもこんな時間にアルゼスの思い人であるラスルと会わ
せ、二人きりに出来るものかとクレオンは心で毒づいたが表には出
さない。
そんなクレオンの思惑を感じてか、ラスルはそれならいいと再び
部屋を見渡し、クレオンは再度礼を取ると静かに部屋を後にした。
今にも落ちて来るのではないかという、煌びやかで怪しい光を放
つ巨大なシャンデリアを避けながら歩き難い絨毯を進み、取り合え
ず座り心地の良さそうな深紅のソファーに腰を下ろす。瞬間、腰を
預けると一気にラスルの体がソファーにのまれる様に沈んだ。
﹁む⋮無理︱︱︱﹂
ラスルは勢いを付けソファーから身を起こすと、やはり自分に相
応の部屋に変えてもらおうと歩き難い絨毯に足を進ませる。
重厚だが動きの良い扉を押し開け、毛足は短いが大理石造りの廊
下に敷かれた絨毯を避けて薄暗い廊下を進んで行く。
アルゼスの気配を求め建物を離れ、闇の中を進んで行った先にあ
る建物に辿り着く。そこは騎士の屋内鍛錬場で、扉を開くとアルゼ
スが剣を手にカルサイトを組み敷いていた。
それがほんの少し前までの話だ。
アルゼスに用があったのだが、それを告げる前にアルゼスはその
場を後にし、代わりにカルサイトに話してみるが笑いを浮かべるば
かり。
夜も遅いので今夜はそこで我慢するようになだめられ、再び元の
269
危険な部屋に戻る羽目に陥る。
今夜は仕方なくここで夜を明かすかと諦め、隣の寝室へと続く部
屋を開けてラスルは唖然とした。
それなりの広さを持った部屋は名実共に金色で、壁一面に鏡と金
細工が嵌めこまれ、鏡に映った輝きが反射し合い闇の中で不気味に
光っていた。
一気にラスルの肩に疲れが圧し掛かる。
部屋を突っ切り扉を開け、やっと辿り着いた寝室は落ち着いた色
合いだが、実際は先に見た二つの部屋のお陰でそう見えただけで、
けしてラスルが落ち付ける雰囲気の物ではなかった。
当然のように毛足の長い絨毯、シャンデリアに豪華な天蓋付きの
巨大な寝台。
溜息を落とし寝台に手を付いてみると意外にも柔らかすぎず硬過
ぎず、巨大な空間で唯一ラスルが妥協できる場がここに存在した。
﹁もしかしたらとんでもない場所に来たのかなぁ⋮﹂
都入りした時点でカルサイトと別れ単独行動を取るべきだったか
と後悔しながらも、ラスルは寝台の隅に小さくまるまると、極上に
寝心地の良い寝台であっと言う間に眠りについた。
270
巨大な寝台の片隅に小さく丸まった黒い物体。
心地良い寝台の硬さに極上の眠りを得たため、夜明けと共に目を
覚ましたラスルは普段に比べ睡眠時間が短かったにもかかわらず、
体の疲れはすっかり取れて心地良い目覚めの時を迎えた。
辺りを見回し慣れたせいか、目にちかちかと纏わり付く悪趣味な
装飾もさほど気にならい。
寝台から足を下ろし草原の様な絨毯に足を取られながら寝室を出
て行くと、昨夜何時の間に用意されていたのか、テーブルの上に夜
食が冷たくなって鎮座していた。
そう言えば昨夜は何も口にする事無く眠ってしまっていたのだ。
目にした途端腹の虫が騒ぐ。
こんな鏡だらけの全てがぴかぴか反射する部屋で食事をするのか
と思いながら、冷めた食事の乗せられた盆に近付くと立ったまま両
手に皿を持ちスープをすすった。
冷たく冷え切っているが様々な調味料が使用されたスープで味は
良い。
さすがはスウェールの城で出される食事と感嘆しながら、冷たく
ても硬くならずふわふわのままのパンを手に、絨毯に足を取られぬ
よう注意しながら隣の部屋へと移動する。
取り合えず城の散策にでも行くかと危険なシャンデリアの下を避
271
け、扉を開き廊下に出ると建物の外を目指した。
日の出を前に忙しなく動き出した使用人の気配を避けながら外に
出ると、冷たい冷気が全身を襲い冬の訪れを知らせていた。
パンを口にくわえフードを被り風を避ける。
﹁随分早いな。﹂
頭上からの呼びかけに驚き、思わず口にくわえたパンを取り落と
しそうになりながら手に持ち替え、声のした方を仰ぎ見る。
二階の窓枠に頬杖を付いたアルゼスが無表情でラスルを見下ろし
ていた。
﹁脅かさないでよ。﹂
気配を消していたのだろう。その存在に全く気付かなかった。
口にしたパンを地面に取り落としたとて食べる事に躊躇はないが、
出来るなら取り落としたくはない。驚いた拍子に取り落としたパン
を踏んでペチャンコにしてしまわないとも限らないのだ。
互いに見合ったまま、二人の間に朝の静寂が流れ続ける。
ラスルが自分を見上げた状態で、手にしたパンを口に運び食す様
子を黙って伺っていたアルゼスは、窓枠に足をかけるとラスルの傍
らに飛び降りて来た。
しばらく見合っているとラスルがおもむろに食べかけのパンを差
し出す。
﹁欲しい?﹂
﹁︱︱︱お前は相変わらずだな。﹂
﹁わたしはわたしだよ。﹂
変な事を言うなと恥じらいも無く残りのパンを口に詰め込むラス
272
ルに、アルゼスは思わず頬を綻ばせた。
﹁よく眠れたようだな。﹂
﹁王子様は寝不足?﹂
昨夜の剣幕は何処へやら︱︱︱元気のない、というよりいつもの
感じに戻ったに近いアルゼスだったが、ラスルには何となく力が抜
けているように見えた。
﹁ちょっと仕事が立て込んでいたからな。﹂
実際の所はラスルの事を考えて眠れぬ夜を過ごしていたのだが、
そんな恥ずかしい事を正直に答えられる訳がない。
﹁お前はこんな朝早くに何をしているのだ?﹂
﹁散歩だよ、お城の見学。﹂
﹁︱︱︱見咎められたら少々厄介だぞ?﹂
アルゼスの迎え入れた客人と言う扱いがあっても、全身黒ずくめ
の魔法使いが早朝城を歩いていたら怪しい事この上ない。
最終的にイジュトニアはスウェールに味方したが、フランユーロ
に手を貸し侵攻して来た事実は消えないのだ。
﹁大丈夫、気配さえ殺されなければ人を避けて行けるから。﹂
﹁気配を気にしながらだと散歩にならんな。仕方がない、俺が一
緒に行ってやる。﹂
﹁王子様は寝た方がいいよ。睡眠不足は判断を誤る大きな原因に
なり兼ねないから。﹂
﹁お前まで俺を部屋に押し込めようとするのは止めてくれ。睡眠
も大事だが、たまには息抜きも必要だろ?﹂
﹁そりゃそうだけど⋮じゃあ王子様が元気なうちにお願いしたい
273
事があるんだ。﹂
﹁なんだ?﹂
ラスルからの願いと言われ思わず心が躍るのは仕方がないだろう。
アルゼスは嬉しそうに身を乗り出す。 ﹁折角なんだけどさ、案内された部屋ってわたしには不釣り合い
過ぎてなんかこう⋮気が狂いそう?っての?出来れば普通の一般人
に適した部屋に変えてもらえないかな?空き部屋ないなら納屋の隅
でも構わないんだけど?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁王子様?﹂
言葉も無く硬直したアルゼスにいったいどうしたのかと、ラスル
は掌を顔の前に広げてひらひらと振ってみる。
すると我に返ったアルゼスはぱちぱちと数回瞬きを繰り返し、小
さく頭を振って何でもないと頷いた。
﹁大丈夫? やっぱり部屋に戻って休んだ方がいいみたいだよ?﹂
﹁⋮⋮⋮いや、その必要はない。少々驚いただけだ。分かった、
直ぐにお前好みの部屋を検討しよう。﹂
気が狂いそうになる部屋とはいったい何処だ︱︱︱?
生まれてからずっと城に住まうアルゼスにも心当たりのない言葉
に、その部屋を選んだクレオンに今直ぐ問いただしたい心境に駆ら
れた。 274
冷たい朝空の下
アルゼスはラスルの発言に驚きながらも、もともと変わった思考
の娘であったという事を改めて思い出し、先に歩き出したラスルの
隣に並んで白み始めた朝の散歩へと繰り出す。
この非常時に散歩など⋮いったいいつ以来だろう。
興味のないどこぞの姫君と無理やりやらされたのが最後だったな
と嫌な体験を思い出しながら、目深にフードをかぶり、白い息を吐
いて隣を歩くラスルをアルゼスは見下ろしていた。
﹁こうしてお前と肩を並べ城を歩くとは⋮出会った当初はこんな
日が来るとは思いもしなかったな。﹂
まさか利害関係以外で女性に興味を持つ日が来ようとは⋮アルゼ
スの脳裏にいままで培ってきた過去の出来事が蘇る。
スウェールの王子として生を受け王となるべくして育ったアルゼ
スは、異性に対する考え方が一般とは違うし、それが当然とそのよ
うに育てられた。互いに利用し利用される相手、それが伴侶となる
べき者に求める絶対条件だった筈だ。
それが当然の物として理解していながらも、傍らにラスルがいる
と全身全霊をかけて否定し、何とかして手に入れたい衝動に駆られ、
同時にクレオンの忠告を思い出す。
﹁城に来いって誘ったのは社交辞令?﹂
﹁あの時は平穏であったし、何よりお前を得るのはスウェールに
275
とって利益になるとしか考えていなかったからな。﹂
﹁今は⋮利益になるとは到底言えないね。﹂
自虐気味にラスルの口角が上に上がっていた。
スウェールの平穏を崩したのは自分だと、ラスルは常にそう考え
る。
確かにそれを証明する過去も現実もあるが、ラスルが受けた辛い
出来事を知ったアルゼスは、心の底からそれだけは違うと否定して
いた。
﹁そんな事は微塵も無い!﹂
アルゼスは思わず感情的に声を荒げるとラスルの肩を引き、お互
い向き合う形をとってしっかりと瞳を覗き込む。
﹁俺は⋮今回の件に巻き込まれたのはお前の方だと思っている。
スウェールとフランユーロが始めた戦いの延長線上でお前が利用さ
れた。全ては過去に起こった戦争が原因であってお前には全く関係
のない事だ。﹂
過去にスウェールとフランユーロの間で起きた戦い。
苦しい戦況の中、活路を見出す為だけにスウェールはイジュトニ
ア王女の腰入れを求め利用しようとした。結局王女の腰入れは白紙
に戻ったが、イジュトニアはスウェールに味方し、結果イジュトニ
アはフランユーロの恨みを買ったに過ぎない。その報復としてフラ
ンユーロの王グローグはラスルを利用し、スウェールとイジュトニ
アの両方を手に入れようとしたのだ。
全てはスウェールとフランユーロの間で引き起こった事が原因、
事の起こりであり、ラスルはそれに巻き込まれたに過ぎない。
﹁だからこそ森で大人しくしていろと言ったのだ。俺は、危険な
276
場所にお前を立たせたくはなかった。﹂
お前に非はないと訴えるアルゼスに、ラスルは小さく微笑む。
﹁そう言ってくれるのは有り難いけど、それは王子様の個人的意
見でしかない。実際にわたしがいたからイジュトニアは言いなりに
なり、スウェールや攻め込んで来たフランユーロにも多くの死者が
出た。いくらでも解釈は変える事が出来るけど、自分にこんな利用
価値があると知りもしなかったわたしの無知が事の発端なんだよ。﹂
父親であるウェゼート王の異常な愛がどんな結末を生みだすか︱
︱︱ラスルを手に入れ利用するという考えはいくらでも思いつける、
敵国側からすると当然の戦略。死んだものと処理されてはいるが、
秘密は何処からともなく漏れるものだ。
自分がどんな立場にあるのかちゃんと理解していなかったせいで
起きた争いに、ラスルは大きな責任を感じていた。
あの日森を出なければシヴァに出会う事もなかっただろうし、あ
の時自分が大人しくグローグ王に抱かれていたならミシェルは死な
ずに済んだ。もっと早く逃げだせたならスウェールの砦が陥落する
事も、ロイゼオリスを含む多くの騎士や兵士が死ぬ事も無かった。
当然、攻め入って来たフランユーロ軍の命も同じだ。
後悔ばかりが心に渦巻くが、それに押し潰されていては償う暇も
無くなってしまう。
死ぬ覚悟はいくらでもあるし、それによって醜い連鎖は終焉を迎
えるだろう。一刻も早くその時を迎えるべきだとも願う。だがその
前に出来る限りの償いはしておきたいと⋮ラスルは残された時間で
やるべき事を見付けた。
277
﹁いくらでも解釈が得られるなら、他の意味があるとは思っては
くれないのか?﹂
アルゼスの瞳がラスルを見下ろす。
上り始めた朝日を浴び、いつもは青い瞳が瑠璃色に輝いていた。
﹁わたしはけして悲観したり、悲嘆にくれたりはしてないよ。つ
いこの前まではそうだったけど、今はこの現実に立ち向かう気力は
十分にある。﹂
自分のせいで失われる命。
力があっても一人ではどうしようもない、救えない儚さに絶望し
悲嘆に暮れたが、限りある時間に直面し頼れる場所を見付けた事で、
脆くも崩れそうだった心は繋ぎ止められた。
﹁それは︱︱︱カルサイトのせいか?﹂
突然の指摘に漆黒の瞳が僅かに揺れる。
アルゼスの指摘通りラスルはあの日、思わず縋りついてしまった
温もりを思い出していたのだ。 茫然自失状態だったとはいえ、決して誰でもよかった訳ではない。
傍らにいたのがカルサイトだったからこそ縋ってしまったのだと思
う。
思いもよらなかった事だが、あの日カルサイトと肌を重ね生を実
感した事で、ラスルは直面する現実に向き合う勇気を得る事が出来
た。
だけど︱︱︱
﹁そう⋮あの日カルサイトがいたからこちら側に戻って来れたん
だ。なのにわたしは⋮彼の気持ちを踏み躙る⋮彼に酷い仕打ちをし
てしまう。﹂
278
何かを返すべきだと⋮形にしたい気持ちはあるが、自分を慈しん
でくれたカルサイトに応えようにも死期を悟った身では大きな躊躇
がある。それに自分に関わるとろくな事が起こらないのも事実だ。
カルサイトから受けた愛情を仇で返す事だけは避けたい︱︱︱そ
れがラスルが心から案じる不安。
利用したという結果だけが残ってしまうが、応えたくとも応えら
れない限り、これ以上縋ってはならないと自分に言い聞かせる。そ
の度に小さな痛みが胸にちくちくと湧き起こって来るのだが、その
程度の痛みなど残される側の心情を身を持って知るラスルには大し
た物ではなかった。
昇る朝日を眩しそうに見つめながら、何処となく哀しそうな表情
を浮かべたラスルにアルゼスは思わず息を飲む。
眩い光を全身に浴びたラスルが、今まで見たどの姿よりも美しく
輝いており、切なげな表情がそれを更に引き立てていた。
まるでこのまま光に呑まれ消えてしまいそうで、アルゼスは咄嗟
に腕を伸ばすとラスルを強く抱きしめる。
﹁なっ⋮お、王子様?!﹂
﹁お前はもう、俺では手の届かぬ場所へと行ってしまったのか?﹂
更に腕に力が籠り、肩越しに埋められたアルゼスの顔がラスルの
耳に押し当てられ、直接言葉が脳裏に響く。
冷たい朝の空気に曝されているというのに、触れられた場所全て
が燃えるように熱かった。
﹁俺では駄目なのか? カルサイトを想う時のお前は誰よりも艶
279
めき美しく輝く。気持ちを踏み躙る⋮酷い仕打ちをすると言いなが
らも、お前の心はそれ程までにカルサイトを求めているのか?!﹂
﹁おう︱︱︱﹂
﹁俺はお前を愛しく思う。この気持は例え相手が誰であろうと断
じて劣りはしない!﹂
カルサイトでも⋮例えその相手がウェゼート王であったとしても
絶対に負けない。それ以上の想いでラスルを愛し、嘘偽りなき心で
包み込んでやれる。
危険な思いと知りながら一度口にすると歯止めが効かなかった。
ラスルを母親と同じ運命にするのかというクレオンの忠告も、尤
もだという自身の正論も吹き飛び、アルゼスは己の感情に流されて
しまう。
ラスルはカルサイトの妻ではない。カルサイトと想い合っていな
がら、心で求めながら何故かラスルはそれを否定しようとしている
ではないか。
否定の理由がそれほど深く想っていないからなのか、他の理由が
あるかは知れないが︱︱︱
素直に飛び込めない、躊躇させる何かがある限り、完全に負けを
認めるのは早まった行為だ。
アルゼスがラスルを強く抱きしめ愛おしそうに擦り寄った事で、
耳の側にあったアルゼスの唇がラスルのこめかみ近くに移動する。
はっと我に返ったラスルは咄嗟に身を捩りアルゼスを押し退けよ
うとするが、明らかな力の差でびくともしなかった。
このままではいけないと必死の思いで声を上げる。
280
﹁わたしは誰の物にもならないっ!﹂
誰の物にも、なれないのだ。
﹁想いを寄せてくれてありがとう。でも⋮応えられない気持ちを
ぶつけられてもどうしようもないの。わたしは王子様の想いにも、
ましてカルサイトにすら応える事が出来ないさもしい女なんだ。﹂
酷い否定の仕方だと思っていた。しかしどんなに綺麗に繕っても
ラスルが導き出す結果は変わらないのだ。自身を擁護する様な言葉
を避け、高飛車でも誰も相手にしないと宣言した方がいい。
それがたとえスウェール王家の第一王子であっても変わらない答
えだ。
だがアルゼスはラスルの思いに反し、にんまりと口角を上げ微笑
んでいた。
﹁カルサイトにすら応える事が出来ない︱︱︱か⋮﹂
こうも簡単にラスルが答えをくれようとは。
目下の恋敵はカルサイトで、アルゼスは二人の恋路に釘を刺す存
在だと自負していたのだが⋮
ラスル側にどんな理由があるにしろそうでもないらしい。
﹁ならば俺は、お前を振り向かせる事に全身全霊をかけ取り組も
うではないか。﹂
ラスルを拘束する腕を緩め、嬉しそうに宣言するアルゼスにラス
ルは思わず眉を顰め後ずさった。
ゆっくりとアルゼスの腕がラスルから離れて行く。
281
ラスルは怪訝に、アルゼスは嬉しそうに微笑みながら互いが互い
を強く見つめていた。
﹁馬鹿じゃないの⋮?﹂
何の思惑も無く、ラスルは心底そう思い口にする。
﹁いつフランユーロが攻め入って来るかも知れないって時に王子
様がそれじゃ救われない。﹂
国をかけての命がけの戦いに女を絡めるなんて何て馬鹿らしいの
だろう。アルゼスが本気で言っているなら、否、冗談にしてもそれ
に付き合わされる騎士や兵士、一般国民はいい迷惑である。
﹁確かにそうだな。だがお前の為にフランユーロを排し、スウェ
ールに平穏を導くと思えばそれも容易い事のように思える。﹂
だから⋮好きとか嫌いを今回の争いにかこつける事がおかしいと
言っているのだ。そうだと納得するのなら恋愛感情は抜きにするべ
きなのにと⋮楽しそうに冗談めかして話すアルゼスに本気で付き合
うのが何となく馬鹿らしくなってきた。
これは⋮初めから全部がからかわれていたのだろうか?
恐らくアルゼスなりの優しさからくる言い回しだろうと思いつつ
も、ラスルは肩を落とし大きな溜息を吐いた。
﹁わたし⋮フランユーロとの決着がついたら大人しく森に帰るわ。
﹂
その時こそはアルゼスの言葉に素直に従おうと告げるラスルに、
282
アルゼスは愉快そうに笑みを漏らす。 ﹁その時はたとえ地の果てであっても追いかけて行ってやる。﹂
けして逃がさないと、本音の混じる言葉に怪訝な顔つきのラスル。
こんな重大告白をするのは後にも先にもお前だけだと、心に切な
い思いを抱きながらアルゼスはあえて微笑みを湛え続けた。 283
彼が抱く不安
それから数日の間、ラスルは今回の戦いで傷を負った兵士達の治
療に従事し続けた。
騎士と兵士、それぞれの宿舎近くに専用の療養所が設けられてい
たが、身分の差から騎士の療養所は城の敷地内、兵士の療養所は広
大な城を囲むように張り巡らされた城壁の外におかれている。しか
も怪我を負った騎士の治療には高度な技術を持つ医者と魔法使いが
あたっていたが、兵士に割り当てられているのは少ない医者と限り
ある医療具のみで、癒しの術を使う魔法使いは一人も派遣されてい
ないというのが現状だった。
次々に戦地から送られてくる負傷者たち。移動と時の経過により
適切な手当てが遅れ、到着する頃には騎士兵士の区別なく息を引き
取っている者も少なくはなかった。
突然現れた高度な力を持つ純血種の魔法使いは、スウェールで地
位を築き上げた誇り高い混血の魔法使い達にとっては邪魔な存在だ
った。しかもラスルがイジュトニアから来たのではなく、スウェー
ルの西にある森に住まうと知って魔法使い達は更にいきり立つ。い
つ己の地位を奪われるかと高位にある魔法使い程ラスルを警戒し、
よそ者扱いして縄張りを主張し、そのせいで騎士が利用する療養所
への立ち入りは拒まれた。
しかし当事者であるラスルはそんな低俗とも言える争いなどどこ
吹く風。
城内の特別室ともいえる豪華で煌びやかではあるが危険な部屋か
284
ら、要望通りのアルゼスやクレオンから言わせると粗末な⋮しかし
ラスルからすると十分にしっかりとした作りの立派な女官達の宿舎
へと移動し、毎日早朝から魔法使いの管轄外とも言える城壁の外に
ある兵士達の療養所に通っては治療に明け暮れていた。
兵士や民間人は貴重な魔法使いの治療を受けるのが難しい。
そうと知ったラスルがそこでの仕事を希望した為、騎士であるカ
ルサイトとは接触する機会が極端に少なくなっていた。逃げている
様に取られるかもしれなかったが、実際はカルサイトの方もラスル
に関係を強要したり、アルゼスへの手前、ラスルに必要以上の接触
を取ったりしない。カルサイトは忙しい中、日に一度はラスルの様
子を伺うようにはしていたが、元気な様子を見舞うだけで顔を合わ
せずに終わることもしばしばあった。
ラスルもそんなカルサイトの大人な行動に感謝しつつ、心の何処
かでは切ない気持に駆られていた。
押さえなければならない気持ちを押し込めるため、早朝から深夜
に至るまで兵士達の治療に明け暮れ、必ずしも献身的とはいえない
が名実ともに完璧な治療を休みなく施して行くラスルに、お高く止
まっている魔法使を嫌う者が多い兵士達からも彼女だけは別と、瞬
く間に誰もが心を開いて行く。
スウェールに席をおく魔法使いの殆どは気位が高く、己の能力に
溺れ魔術を使えない身分低い人間を卑下する。それ故彼らは戦場で
は仕方なく騎士兵士に格差をつけはするものの、手が空けば兵士へ
の治療も施した。
だが一旦戦場を離れると傷付いた兵士の治療は医者任せで、決し
て自ら手を貸す事はしない。そんな魔法使いを兵士達が嫌うのは当
然だったが、愛想はないが気位も高くはないラスルに偏見の目を向
けていたのも最初だけで、治療を終えた兵士は用もないのに度々療
285
養所を訪れ、何かとラスルの関心を惹こうと率先して怪我人の世話
をしながら忙しなくしていた。
ラスルが彼らにこうも早く受け入れられたのは、彼女特有の外見
も一役買っている。
今回の戦争でイジュトニアの魔法使いを見た者達も多く、異質な
印象よりも共に戦った印象の方が強い。凛とした美貌は冷たい印象
で近付き難いが、その綺麗な容姿を繕うでもなく、薄汚れたぼさぼ
さ頭で何時の間にか現れては黙々と傷付いた者達を癒して行く。
常に白い高級なローブを纏い、汚らわしいとばかりに見下した態
度でしか彼らを見ない魔法使いとのあまりの違いに、さすがはイジ
ュトニアの魔法使いは違うと、何時の間にかイジュトニアの株上げ
にも繋がっていた。
﹁ラスルさん、そろそろ休憩にしませんか?﹂
ラスル同様、白いローブを汚して兵士の治療に手を貸すシュオン
が昼食の入った袋を手にやって来た。
西の砦でラスルが助けた数少ない人間の一人で、元は青の光を宿
していたスウェール生まれの魔法使い。纏う色が青から白に変化し
た事を理由に都への帰還命令が出たらしく、最近こちらへ戻って来
ていた。
シュオンはラスルの助言で混血では最も力が強いとされる白の光
を宿すようになった。あの時は僅かに青みがかった白い光を放って
いたが、本来の色を操る事にもなれ今は霧のように白い光をもって
癒しの術が使えるようになっていた。
286
前に会った時は深い青の鋼玉石の指輪にピアスをつけていたが、
それによってシュオンの力は封じられていたにも等しいため既に外
されている。代わりに白の光を宿す魔法使いが力の増強を図る為に
用いる、無色透明に輝く小さな金剛石のピアスが左耳にのみ遠慮が
ちに付けられていた。
ラスルは袋を手に立つシュオンに見向きもせず、治療の手を休め
ずに淡々と答える。
﹁残りが済んでからにするよ。﹂
ラスルの周りには重症者から軽傷者に至るまで、傷も後遺症も残
さずに治療するイジュトニアの魔法使いがいると、噂を聞いて集ま
って来た兵士や一般人までもが溢れかえっていた。
療養所の外にも患者は溢れており、これだけの数を治療し終える
のにいったい何日かかるのかと心配されるが、ラスルならたった一
日で捌けてしまう数だ。
﹁先日治療した兵士の家族達からの差し入れです。﹂
折角だから温かいうちにいただきましょうと目の前に差し出され
顔を上げると、ラスルだけではなく患者達にも昼食が振る舞われて
いる。
それを見たラスルは一息吐くとおもむろに立ち上がり、差し出さ
れた袋を手にした。
﹁ありがとう。﹂
朝から晩までろくに休まず働くラスルがやっと休憩に入ってくれ
る事になって、シュオンはほっと胸を撫で下ろした。
シュオンは周りから見ると気位が高くいけ好かない魔法使いの一
人だ。
287
だがラスルと懇意にし、冷たい視線を向けられ悪態を突かれても
文句一つ言わずにラスルを手伝い治療に専念する。白いローブを血
で汚しても嫌な顔一つせず、状態がよくなると自分の事のように心
底ほっとした表情を見せる青年に、やがて療養所の人間も少しずつ
心を開く様になっていた。
ラスルが兵士の療養所で治療に当たっていると聞き、手伝いをし
ようと最初にここを訪れた時は敵意の視線を向けられ中に入れてす
らもらえなかった。二日目にラスルがシュオンに気付き、﹃なんで
手伝わないの?﹄と、さも当然に中に引き入れ治療に当たらせた。
シュオンは地位や権力に関係なく、人を癒せる喜びを身をもって
感じ、それを与えてくれる事になったラスルに深く感謝していた。
ラスルはシュオンと共に、療養所の裏手に移動し柵に腰かける。
差し入れの袋の中にはパンと、まだ温かい骨付き肉が一切れ入っ
ていた。
パンを頬張り肉にかぶりつくと、城で出される肉とは異なり硬さ
がある。
肉と言えば森で狩った動物を食べる事が普通のラスルだったので
慣れてはいるが、隣のシュオンは少々食べにくそうに幾度となく噛
んでいた。
肉の中に小さな骨があったのでそれも同時に噛み砕いていると、
シュオンが不思議そうに食べる手を止めラスルを凝視していた。
﹁ラスルさん、それ⋮鳥の骨ですよ?﹂
﹁うん、そうだけど?﹂
だから何だと不思議そうなラスルに、何でもありませんとシュオ
ンは怪訝そうな顔をする。そうして少し考えた後、自分の袋から手
288
を付けていないパンを取り出してラスルへと遠慮がちに差し出した。
﹁あの⋮よかったらどうぞ。﹂
骨をしゃぶるではなく、骨まで食べる程空腹であったとは。
自分は城内にある魔法使い用の宿舎に戻ればいくらでも食べる事
が出来る。ラスルが置かれた細かい事情は解らないが、恐らくラス
ルが寝泊まりしている場所に戻っても他に食べ物など無いのだろう
し、ラスル自らそれを求めるとも思えない。
コリコリと骨を噛み砕く音を辺りに響かせながら、シュオンが勘
違いしているとも知らずラスルはローブの袖で口を拭い噛み砕いた
骨を飲み込んだ。
﹁いや、いらないけど?﹂
お腹一杯だし、折角の差し入れなのだから自分で食べなよと告げ
たラスルは、腰かけた柵から降りると仕事に戻ろうとする。
シュオンがパンを袋に戻して後を追いかけようとした時、ラスル
の体ががくりと崩れ落ち冷たい地面に倒れ込んだ。
﹁ラスルさんっ?!﹂
驚いたシュオンが慌てて駆け寄りラスルを抱き起こす。
倒れた拍子にぶつけたのか、白い額に泥がこびり付いていた。
﹁ラスルさん、しっかりして下さいっ!!﹂
体を揺すっても硬く瞼を閉じたラスルは完全に意識を失っており、
目を覚ます気配が全くない。
﹁ラスルさん、ラスルさんっ!﹂
必死に呼びかけるシュオンの声に気付いた者達が声を上げ、大丈
夫かと二人のもとへ駆け寄って来ていた。
何の前触れもなく突然倒れたラスルを抱え、シュオンは一抹の不
安を感じて体が震えた。
289
魔法使いであるシュオンに出来る事は、倒れた拍子に額に出来た
擦り傷を癒す事くらい。渡された食事に毒が盛られていたという事
も無く、ラスルの倒れた原因が何なのか分からない限り、シュオン
に出来るのは医者のいる場所までラスルを抱えて行く事だけだった。
﹁先生は何処だ?!﹂
﹁先生、先生大変だ! ラスルさんが倒れたっ!﹂
ラスルを抱き抱え療養所に戻ったシュオンが医者を捜すより早く、
状況を察した兵士達が声を上げる。 兵士の傷の様子を見ていた医
師が手を止め、シュオンに抱かれぐったりと意識を失ったラスルに
視線を移すと﹁これは大変だ﹂と呟いて、患者を掻き分け急ぎ足で
向かって来た。
ラスルの周りに大きな人だかりができる。
﹁倒れた時の状況は?﹂
﹁普通に食事を食べ終え、その後直ぐに歩いていて突然︱︱︱倒
れた時に額を打ちましたが擦り傷で他に外傷はありません。﹂
﹁あんたら魔法使いは体の内側まで傷が見えるんだろ? 頭の中
は大丈夫かって聞いてんだ。﹂
290
﹁ええ⋮恐らく。蹲るように倒れたし、頭を強く打った事はない
と思います。﹂
一瞬の出来事を思い出しながらシュオンは的確に答えて行く。医
師もラスルの体を診断し、黙々と外傷がないことを確認して行った。
きつけ薬を用いてみるが反応がなく、医師は低く唸る。
﹁持病⋮なんてのはわからねぇよなぁ⋮﹂
﹁持病、ですか?﹂
これまで一緒にいる間にそんな物がある様には感じなかったのだ
が︱︱︱
医師が呟いた言葉にシュオンは、倒れたラスルを抱き起こした時
に感じた一抹の不安を思い出していた。
病を持つ者が突然倒れるという事態はよくあり、こと女性に至っ
てはさして珍しい事ではない。特にラスルの場合は長時間にわたり
休憩も殆ど取らず朝から晩まで患者の治療に明け暮れていた。
だがそれに対してシュオンは特別心配してはいなかった。
シュオン達からすると極めて高度な魔法をなんなく使いこなすラ
スルに疲労は全く見られなかったし、無理した事が原因で肉体的疲
労がみられたならラスルの治癒魔法にも衰えが見られてよい筈だ。
混血種との違いはあるかもしれないが、そういうものは何となく⋮
魔法使いの血で感じる。
不安を抱きながらも思い当たる節が無いシュオンは、意識を取り
戻すまで様子を見るしかないと言う医師の指示に従い、ラスルを城
まで連れ帰る事にしたのだが︱︱︱
﹁私が預かろう。﹂
291
ラスルを抱きかかえようと背と膝の裏に腕を滑り込ませた時、背
後から低く重い声色で声をかけられる。
振り返ると神妙な面持ちで黒い騎士の制服に身を包んだカルサイ
トが大きく影を落としていた。
292
懺悔
ラスルを抱きかかえたカルサイトを追い、シュオンはラスルが身
を寄せている部屋を初めて訪れ驚いた。
部屋の中は辺り一面薬草で一杯。
いつの間に採取したのだろう⋮早朝から深夜まで兵士が集う療養
所に詰めておきながら、同時にこれだけの薬草を採取して回ってい
たのである。部屋には立ち込める薬草の匂いが充満していた。
魔法使いの癒しの力でも病への対処は難しい。その弱点を補う為
か、様々な病に対処した多くの種類の薬草が壁一面に吊るされ、乾
燥を終えた分は床に置かれた麻の袋に詰め込まれている様だった。
意識の無いラスルを寝台に移しながら、ラスルの生活を知るカル
サイトさえこの様には驚かされていた。
恐らくは療養所に通う道すがら採取して来たのだろうが、たった
数日でこれほどまでの量を採取して来るとは驚きだ。もとは女官用
の宿舎である一室が、僅か数日でラスルが長年住まった森にあるあ
ばら屋の一室であるかに、薬草独特の匂いが立ち込める異質な部屋
へと変貌を遂げていた。
これを前に案内されていた客室でやってのけていたなら、クレオ
ンをどれ程驚かせたであろうかと想像しつつ、カルサイトは医者を
呼びに行くからとシュオンに一時ラスルを預ける。
やがて王宮仕えの王族・高官専用の医師が到着するより早く、話
しを聞き付け血相を変えたアルゼスが部屋に飛び込んで来た。
293
﹁何があった?!﹂
アルゼスは驚くシュオンに見向きもせず、ラスルが眠る寝台にな
だれ込むように飛びつく。
突然の王子の乱入に唖然とし、言葉を失うシュオンにアルゼスの
厳しい声が飛んだ。
﹁何があったと聞いておるのだ!﹂
咎める口調にシュオンは慌てて状況説明に口を開く。
﹁ラスルさんは普段通り兵士へと治療を施しておりました。食事
を兼ねた僅かな休憩の後、歩いていた所を突然倒れたのです。﹂
﹁何故倒れたのだ、何か重大な事が起こったからではないのか?
!﹂
﹁そっ⋮それは︱︱︱﹂
解らないと︱︱︱シュオンが言葉に詰まった所で扉が開かれ、医
師を連れたカルサイトが戻ってきた。
﹁殿下、声が廊下にまで響き渡っておりますよ。﹂
﹁それがいったい何だ?! ラスルが倒れたのだぞ、お前はよく
落ち付いていられるな!﹂
狭い部屋に大量の薬草と鍛え上げられた大の男に魔法使い、そし
て初老の医師と合計四人。
騒ぎたてるアルゼスは当然の事、カルサイトとシュオンも診察の
為部屋を追いだされる。
ひんやりと冷たい空気が流れる薄暗い廊下で男三人立ち並び、や
がてアルゼスも少しずつ冷静さを取り戻して行った。
﹁すまない、怒鳴って悪かった。﹂
ラスルが倒れたと聞いて慌て取り乱したアルゼスは謝罪の言葉を
口にする。
294
少し考えれば解る事だが、カルサイトとて冷静でいられるわけが
ない筈なのだ。そこを慌てず対処したカルサイトと自分のあまりの
違いに、アルゼスは冷静になればなるほど人として、また王子とし
て恥ずかしくなってくる。
アルゼスはちらりとシュオンに目をやり何か言いかけたが、西の
砦で瓦礫の中から救い出された魔法使いである事を思い出すと、黙
って口を噤んで閉じられた部屋の扉を睨みつけていた。
大した時間をかけずに扉が開き、ラスルの診察に当たっていた医
師が顔を見せる。
密室に籠っていたせいでどうやら大量の薬草の匂いにやられたら
しい。鼻と口を布で覆い、気分悪そうにしながら廊下に出ると、再
度中に入る事無くその場で病状を説明した。
﹁どうやら過労の様ですな。目覚めてふらつきなどないなら、今
日一日ゆっくり休めば大丈夫でしょう。﹂
医師の言葉にアルゼスはほっとしたが、シュオンは怪訝に眉を寄
せた。
王族か高官しか相手にしない選び抜かれた医師だと言うのに、ほ
んの僅かな診察で過労と決めてしまうとは⋮
いや、実際はこの医者の診立て通りなのかもしれないが、シュオ
ンの不安はどうしても拭い去れない。
眉間に皺を寄せ俯いて考え込むシュオンにカルサイトが気付く。
﹁どうかしたのか?﹂
﹁いえ、何でもありません。﹂
295
医師の診断に難癖付けてもどうしようもない。癒しの力を専門に
する魔法使いとはいえ、シュオンに病は治せないのだ。
確かに過労で倒れてもおかしくない程働き詰めだったし、もとも
と体力のないラスルには無理が祟ったのだろうと思われても仕方が
なかった。
だが長い時間療養所に詰めていたとはいえ、あれしきの治癒魔法
で倒れる程ラスルの魔力は小さな物ではなく、しかし原因も何も解
らない﹃感﹄で医師に再診を求めても相手の自尊心を傷つけて終わ
るだけだ。
シュオンは不安を抱きながらも、この場では大人しく口を噤むし
かなかった。
ラスルが目を覚ましたのはまだ薄暗い翌早朝だった。
小さな窓から取り込まれる夜明け前の白い光が、椅子に座る男の
姿を浮かび上がらせる。
粗末な木の椅子に座るにはにつかわしくないスウェールの王子、
296
アルゼスだ。
分厚い高価な生地で出来た濃い紫の詰襟の長衣に身を包み、別れ
た裾から組んだ長い足が覗いている。もう少し丈が短ければ騎士の
制服に似ているが、緋色や金糸の見事な刺繍で紋様が彩られており
明らかにそれとは違う作りだ。
腕を組んだ状態で俯き加減に瞼を閉じており、短めの淡い金色の
髪が頬にかかっていた。
どうやら眠っているようだ。
ラスルは器用に椅子に座ったまま眠るアルゼスを起こさぬよう、
視線だけを扉に向ける。
扉の向こうにはもう一つの気配があり、それがカルサイトである
事は容易に察しが付いた。
何故こんな状況なのだろうと、自分がしていた事を振り返る。
確か︱︱︱いつも通り兵士の傷の手当てをしていてシュオンに誘
われ食事を取ったのだ。それから仕事に戻ろうとして︱︱︱以降の
記憶がない。
また倒れたのか︱︱︱と、ラスルが額の髪を掻き上げるとその動
きに反応してアルゼスの瞼が持ち上げられた。
﹁気が付いたか︱︱︱﹂
ほっと安堵の息が漏れる。
﹁疲労がたまって倒れたのだ、覚えているか?﹂
疲労⋮か。
そんな物露ほども溜まってはいないが医師がそう診立てたのだろ
うと察し、ラスルは寝台に横になったまま小さく頷いた。
297
﹁倒れたついでにそのまま眠ったみたいだね。﹂
いつもの時間に目覚めたということは、倒れてそのまま睡眠に突
入したのだろう。
﹁迷惑かけて悪かったね、もう大丈夫だから。﹂
身を起こそうとするラスルを引き止め、アルゼスはラスルを寝台
に押し戻した。 ﹁暫くは大人しく体を休めていろ。﹂
﹁平気、もう大丈夫。﹂
ラスルには倒れた理由は解っている、これで二度目だ。過労が原
因だとか言う医者の言葉はラスルに当てはまらない。
だがアルゼスは違う。
医師の言葉通りラスルは働き過ぎだと心配もしていた時に起こっ
た事だけに、大丈夫だと再度起き上がろうとするラスルを再び寝台
に押し付けた。
﹁寝ていろ︱︱︱﹂
アルゼスの口調が厳しくなり、ラスルは起き上がるのを諦める。
ここで問答し抵抗しても埒が明かない。
ラスルは寝台に身を預けると心底うんざりした様に溜息を付いた
が、大人しく従ったラスルにアルゼスは満足だった。
﹁ちゃんと寝ていろよ、しばらくしたら様子を見に来るからな。﹂
多少粗雑ではあるがアルゼスは遊び呆けるばかりの体たらく王子
ではない。基本的に早朝から規則正しい生活を送っている。クレオ
ンがアルゼスの不在に気付く前に部屋に戻り、普段の生活に戻って
おかねばラスルの部屋で一晩過ごした事が露見し、うんざりするほ
ど嫌味を浴びせられるに決まっているのだ。
いや⋮もしかしたらクレオンの事。既に事実を把握しながら側に
298
カルサイトがいる事を予想し、見て見ぬふりをしているだけかもし
れない。
さすがのアルゼスも扉の向こうでラスルを案じるカルサイトがい
ては、愛しい人の寝顔を見つめても手出しは出来なかった。
部屋を後にしようとしてふと我に返り、アルゼスはゆっくりとラ
スルを振り返った。
﹁ちゃんと寝ていると誓え。﹂
森で待てと言っても聞かず、命令は受けないと豪語したラスルだ。
きちんと約束しておかねばアルゼスが部屋を出た途端に起き上がり、
身支度を整え兵士達の待つ療養所へとむかうに決まっている。
アルゼスは返事をしないラスルの枕元まで戻ると腰に手を当て威
圧的に見下ろした。
﹁お前は働き詰めで倒れたんだ。次に俺がここを訪れるその時ま
で、大人しく、寝台に横になって休んでいると誓うんだ。﹂
否とは言わせる気のない声色に、ラスルはおもむろに身を起こす
とくしゃくしゃの頭を掻き毟った。
恐らく⋮否と答えれば寝台に縛り付けでもするつもりだろう。だ
からと言って﹃了解﹄と嘘をついてもアルゼスを怒らせるだけに終
わってしまう。
森にいる時とは状況が違う。スウェールの王城に身を寄せている
以上はアルゼスに従うのが筋だろう。傷付いた兵士を癒す仕事を取
り上げられるのも、ましてアルゼスとこんな所で子供じみた争いを
するのも止めておきたかった。
﹁あのさ︱︱︱﹂
299
ラスルは身を起こし寝台の上で正座をしてアルゼスを見上げた。
何を言われても引かないと言う雰囲気を醸し出すアルゼスは、変
わらずラスルを威圧的に見据えている。
ヒギ
﹁わたし︱︱︱魔物に襲われてる王子様達に出くわした時、正直
⋮面倒だって思ったんだよね。﹂
あの日アルゼス達に初めて出会った日。ラスルは面倒な場面に出
くわしてしまったと心から落胆した。
﹁関わりたくないって気持ちが強かった。さすがに見捨てる程非
情にはなれないけど、王子様とカルサイトに勝ち目があると解って
たら何の手助けもしないであの場を立ち去っていたと思う。﹂
生暖かい咽るような血の臭いに、草むらに転がる手足をもがれ内
臓が散乱した原形をとどめない数多もの死体。
満身創痍で、剣を手に立っていられたのが不思議なほど重傷だっ
たアルゼス。
ヒギ
あの時あの場面に出くわしていたからこそラスルは足を止めたの
だ。相手が魔物であったとしても多くの騎士が生き残り剣を手にし
て戦っていたなら、ラスルは間違いなくあの場を去っていた。
足を止めたのは、絶対的な死を前にしても二人が生を諦めていな
かったからかもしれない。大量の血を流しながらも剣を手に大きく
肩で息をしていた二人の姿を思い出し、ラスルは生よりも死を望む
自分に後ろめたさを感じて視線を落とした。
﹁あの時のわたしは、森での平穏な生活が何よりも優先させたい
事柄だった。祖父が死んでからは特に隠れ住む意志が強くなってい
て、最低限の接触すら拒んでいたの。﹂
300
存在を知られる事を恐れ、ひっそりと静かに生きて行く事だけが
望みだった。助けた相手がアルゼスだと知ってラスルが真っ先に心
配したのは己の素性が知れる事。
スウェールという大国の王子を助けた事で厄介事に巻き込まれる
のではと心配したのだが、結果的に厄介事に巻き込んだのはラスル
の方だった。
﹁でも今はそんな事これっぽっちも思わない。印を刻まれたわた
しに隠れる場所なんてないし、隠れても見つかって利用されるだけ
だって痛感した。瀕死の状態だった王子様達を助ける事は躊躇した
けど、わたしのせいで傷付いた人たちを癒す事に迷いはない。自己
満足の償いにもならない行為だけど、それを止められたらやり場の
ない気持ちは何処に持って行けばいいの?﹂
ラスルは両手をぎゅっと握りしめると頭を下げた。
長い黒髪が流れ落ち、膝元に渦を描く。
﹁迷惑は百も承知。次にフランユーロが攻めて来た時には、金の
光を宿す魔法使いとして持ってる力の全てを貸すわ。だからお願い、
兵士達の治療にあたらせて。体は万全で何処も悪い所が無いのに休
んでいるなんて、わたしのせいで怪我した人たちに対して申し訳な
さすぎる︱︱︱﹂ 倒れた原因は過労でも何でもない。体の何処かに異常があり、そ
れが原因で近い将来命を終えるからであって、けして働き詰めた事
が原因によるものではないのだ。
腰に手を当て威圧的な態度を示していたアルゼスだったが、ラス
ルの言葉に態度を少しずつ緩和させていた。
ラスルが頭を下げた事により、アルゼスは慌てて跪くと肩を掴ん
301
で顔を覗き込む。
﹁だから︱︱︱フランユーロの件はお前のせいではないと何度言
えば分かるんだ?﹂
﹁それについて問答する気はない。﹂
﹁ラスルっ!﹂
責任は自分にあると引かないラスルに、事の起こりは過去にスウ
ェールとフランユーロが一戦を交えたからだとこちらも引かないア
ルゼス。
尚も顔を背け、俯き頭を下げるラスルの面を上げさせようと、ア
ルゼスは強引に掴んだ肩を揺すった。
だがその力が強過ぎて揺すった拍子にラスルは大きく仰け反り︱
︱︱﹃ゴンっ!﹄と大きな音が狭い部屋に響く。
揺すられた拍子にラスルの後頭部が後ろの壁に激突したのだ。
あまりに大きな音が響いたため、二人は驚き大きく目を見開いて
一瞬見つめ合う。
じわじわと痛みが押し寄せ、ラスルが無造作に後頭部をさすると
こぶ
鋭い痛みが走った。
﹁瘤が︱︱︱﹂
﹁なっ⋮何っ?!﹂
﹁たんこぶ出来てる。﹂
それを聞いたアルゼスは寝台に片膝を乗せ、腕を回してラスルの
長い髪を掻きわける。
その場所には大きな半円の膨らみ︱︱︱かなりの大きさの瘤が出
来ていた。
302
アルゼスの全身から血の気が引く。
﹁癒せるのであろう?!﹂
﹁勿論出来るけど⋮兵士の方が先。﹂
﹁何っ?﹂
﹁たんこぶなんて後回しだよ。それより治療を待ってる兵士の方
を先に治療する。﹂
﹁お前っ、それを理由に脅すのか?!﹂
﹁︱︱︱意味不明。﹂
壁に頭をぶつけ後頭部に瘤が出来たのはラスルだ。痛みはするが
我慢できるし大した物でもない。兵士の治療にあたっているうちに
小さくなるだろうし、それでも痛んで辛ければその時に治療すれば
いいだけの事。それを脅すとか何とか⋮
﹁とにかく、わたしがここに来た理由はスウェールに対して何ら
かの役に立ちたかったから。そして今できる事は傷付いた兵士を癒
す事だけ。逃げる事を止めたわたしからそれを取り上げないで欲し
いの。﹂
過去には祖父に同行して大陸を回り、戦場では傷ついた人を癒し
た。魔法で人を傷つけてはならないと言う言葉に従いもしてきたと
いうのに、ラスルは祖父を失ってから人の命よりも己の平穏を最優
先に生きて来てしまっていたのだ。瀕死の状態であったアルゼス達
を見付け面倒だと感じ、彼らが死にいたる様な状況でなければ見て
見ぬふりも厭わない︱︱︱そんな人間になり下がっていた。
今更遅いのだろうが、ラスルが見も知らぬ兵士達を最優先にする
のも、そんな過去と決別しようとしていたからだ。
その機会を奪わないで欲しい︱︱︱
303
漆黒の力強い瞳で見つめられたアルゼスは、ラスルの懇願に諦め
の溜息を落とすしかなかった。
﹁本当に大丈夫なんだろうな?﹂
﹁体力ないけど魔力だけはしこたまあるの。あれしきの人数で力
尽きる程軟な魔力じゃないわ。﹂
﹁︱︱︱次に倒れたりしたら今度こそ縛り付けてでも休ませるか
らな。﹂
﹁いいわ、約束する。﹂
きらきら輝くラスルの自信に満ちた瞳が眩しくて、アルゼスは頬
を熱くし、それを隠すかに眉間に皺を寄せると勢い良く立ち上がり
扉へ向かって大股に歩く。
ほんの二歩で辿り着き扉に手をかけると、アルゼスは再度ラスル
へと振り返った。
﹁あの時︱︱︱﹂
何? とラスルの目が丸くなり、アルゼスは扉に額を押し当てる
ように背を向けた。
﹁いかなる状況であったとしても、決してお前は俺達を見捨ては
しなかった筈だ。﹂
それだけ言い終えると、アルゼスは素早い身のこなしで扉の向こ
うに姿を消す。
開いた扉の先で暗い廊下に佇むカルサイトの姿を一瞬だけ垣間見
たラスルは、暫くの間、閉じられた扉に静かな視線を送り続けてい
304
た。
305
放たれた矢
周囲の不安を余所に、あれ以来ラスルが倒れる事は一度もなかっ
た。
物言いたげなシュオンの視線をうけ、魔法使い特有の血がラスル
の異変を嗅ぎつけたからだろうと予想できたが、あえてそれを無視
すると、シュオンも倒れた原因について追及しては来ない。
やがて周りはラスルが倒れた事実も忘れ、日々平穏に過ぎて行く。
日も沈み辺りが闇に包まれる中、ラスルは一人間借りする城へと
薬草採取に勤しみながら帰宅していた。
城から療養所へ向かう道中は、ラスルによって目ぼしい薬草は全
て摘み取られてしまっていた。冬という季節でもあり、近頃は道程
に見当たる薬草も少ない。
ラスルは道をそれると木々の群生する森へと足を踏み入れていく。
ふと冷たい物が頬を掠め、見上げると、闇の中に白く輝く雪がち
らつき始めていた。
スウェールに降る今年初めての雪。
ちらつく小雪は何処となく寂しい想いを抱かせる。
意識して息を吐くと、長く白い道筋を作って消えた。
歩みを止め闇に包まれた空を見上げていると、人の気配に気付き
後ろを振り返る。
闇に解けて色は解らないが、膝丈まであるマントに身を包んだ大
きな男の姿。いつもは後ろで束ねられている銀の長い髪は無造作に
306
下ろされ、闇とちらつく雪の中できらきらと輝いている。
手の届く位置にまで迫られていたというのに全く気付かなかった
その人は、優しい紫の瞳でラスルを見下ろしていた。
﹁こんな時間に若い女性が一人で森に入るのは見過ごせない。﹂
ここまで気配を消して付いて来ていたのだろう。咎める意思はな
いのか、優しく穏やかな低い声にラスルは耳を傾けた。
﹁森が住まいなのに過保護すぎやしない?﹂
﹁ここは君の知る森ではないし、この季節だ。闇夜で迷いでもし
たら凍死しかねない。魔物も出るが⋮それは心配無用か?﹂
﹁この程度の寒さなら大丈夫。それより目的ができたからわたし
は行くよ。﹂
﹁目的?﹂
さきほどまでは、何でもいいから単に薬草を採取するということ
が漠然とした目的だった。集めた薬草を調合し薬を作る。戦争にな
ればいくらあっても邪魔にはならないものだ。
森を目前にして雪に降られ、思い出したのがある花の存在。
﹁雪花が種を付ける頃だから︱︱︱﹂
﹁雪花?!﹂
初冬に咲く極めて珍しい白い花で、初雪が降る頃に小さな種が付
く。
極少量で心臓の薬になり、ほんの僅かでも量を謝ると人を死に至
らしめる危険な毒草で、調合の難しさと危険さから心臓の薬として
用いられることは滅多になく、用途の殆どが人を殺める暗殺などに
使用されている。
﹁そんな物いったい何に?!﹂
聞かずともカルサイトの周りでは雪花を用いる目的はただ一つ。
307
穏やかな空気が張り詰め、一瞬で緊迫した表情になった。
﹁まかり間違っても王子様を殺そうなんて思ってないよ。﹂
﹁それはそうだろうが⋮君は雪花の調合もできるのか?﹂
﹁出来るから探しに行くんじゃない。見つかるかどうかは解らな
いけど戦場には必要な薬でしょう?﹂
それはラスルが西の砦において、ロイゼオリスをみすみす死なせ
てしまった経験から学んだ事でもある。
あの時雪花の種があれば⋮それを調合した物がほんの少しでもあ
ればロイゼオリスを生きながらえさせる事が出来たかもしれない。
雪花から作られた薬は単に病に犯された病人の薬になるだけでは
なく、瀕死の状態となった人間の心臓すら長持ちさせる。出血多量
などで死なれてはどうしようもないが、応急処置した重病人を適切
な処置が受けられる場所まで移動させる際、それを用いて延命させ、
命を救う機会を伸ばす事が可能になるのだ。
﹁しかし雪花がこの森で見つかったと聞いた事はないが︱︱︱﹂
薬にするのが難しく危険な毒。僅かでも世間に出まわっている以
上何処かに生息しているのは間違いないが、スウェールでも国が管
理する極秘の場所でしかその存在は認められていないのが現状。そ
う簡単に見つかる訳がない。
﹁取り合えず探さなきゃ見つからない。機会はそうないんだから
わたしは行くね。﹂
﹁ラスルっ︱︱︱!﹂
迷いなく闇に包まれた漆黒の森へ足を踏み入れるラスルを追い、
カルサイトも仕方なくその後を追って闇に姿を消して行った。
308
闇夜の森で種を付ける雪花を探すのは無謀ではないのか?
実際ラスルは下を向いて探すでもなく、辺りを見回し闇雲に歩き
回っているだけである。
これで迷子にならなければ野生の感が備わっているとしか思えな
い︱︱︱カルサイトは苦笑いを浮かべながらラスルを追っていた。
﹁雪花は特定の場所に育つとかはあるのか?﹂
薬草などに詳しくはないカルサイトだが森の地理は把握している。
目的の場所があればそこへ案内する事も可能だ。
﹁場所ってのは⋮過去に見たのは雑草の中に身を隠すように生え
てたかな。﹂
﹁ならば日が昇ってからの方がよいのではないだろうか?﹂
﹁そんなの関係ない。雪花は種になってからそれが地面に落ちる
まで微かに匂いを放つから。﹂
﹁匂いとは?﹂
﹁獣が腐る時の臭いに似てる。﹂
309
﹁︱︱︱それはまた︱︱︱﹂
とんでもない臭いだと言いかけ、カルサイトとラスルは同時に歩
みを止めた。
カルサイトの眼差しが騎士特有の厳しく鋭い物へと変化し剣に手
をかけ、二人の間に張りつめた空気が立ち込めた。
群生した森の木々の隙間をぬって白い雪が僅かに舞い降りていた。
しんと静まり返った暗闇の中、聞こえるのは二人の息づかいと時
折駆け抜ける風の音。
しかし︱︱︱
近くはないが、明らかに感じる気配。
意志を持って消された気配はこちら側にとって有効的なものでな
いのは確かだ。
消しても消し切れていない殺気は殺しを生業にする者ではなく素
人だろうが、そんな事より問題は何故二人⋮いや、どちらかかもし
れないが、いったい誰が狙っているのかという事だ。
風を切る音と共にカルサイトが素早い速さで剣を抜きそれを捕え
た。
一本の矢が剣によって弾かれ、真っ二つに折れて地面に落下する
が同時にもう一本、ラスルめがけて一筋の矢が放たれていた。
闇の中で見える筈のない矢を見据え、ふわりと柔かな風が黒髪を
揺らす。
飛んで来た矢はラスルの額までほんの僅かという位置で止まり、
跡形もなく粉々に砕け、砂が舞うかに空を流れた。
310
ラスルは見えない一点を見据えていた。
長い距離を保つ先にある気配は二人、どういう訳か向こうからは
こちらの様子が伺えるようだ。
暗闇の中、群生する木々をぬって矢を放った所からすると相当の
名手といえよう。そしてその名手の傍らに感じる気配は魔力。
﹁的はわたし︱︱︱だね。﹂
呟いたラスルの左手に淡い金の光が溢れ出す。
﹁ラスルっ?!﹂
﹁大丈夫、傷付けない。でも邪魔だから︱︱︱﹂
言葉の終わりに放った光は筋を描き、遠く離れた場所で炸裂した。
遠くで小さな悲鳴が二つ︱︱︱男女の物と思われる声が上がると、
ラスルは何事もなかったかのように先に進み出す。カルサイトは地
面に落ちた矢を拾うとマントの内側にしまい込んだ。
﹁今のは?﹂
﹁目くらましだよ。一刻程は眩しくて動けない筈だけど、目に異
常が現れたりはしないから大丈夫。﹂
特に何の感情も無く告げるラスルにカルサイトは眉を寄せる。
﹁追求する気はないんだな。﹂
﹁だってわたしは部外者だもん。それを理解してもらえない限り、
これ位の嫌がらせは覚悟しておかなきゃ。﹂
嫌がらせというには度を超えていた。
カルサイトに牽制をかけたうえで迷いなくラスルの額を狙った矢。
311
いくら相手が魔法使いでも、それがラスルでなければ今頃頭を貫か
れて終わっていた筈だ。
命を狙われたと言うのに、何もなかったかのようにして雪花を探
し歩くラスルの背を見つめながら、カルサイトは静かな怒りを胸に
抱いていた。
するとラスルが振り返ってふわりとほほ笑む。
﹁怒らないで︱︱︱﹂
過去に幾度となく人に襲われ、対処して来たのだ。人を傷つけず
に逃げる術は心得ているし、その相手が魔法使いであっても変わら
ない。ラスルとスウェールに生まれた混血の魔法使いでは根本的に
大きな違いがあるのだ。いくら束になってかかって来ても赤子の手
を捻るように対処する力がラスルにはあった。
それでも、だ。
それでも、カルサイトにはラスルが命を狙われた事実を消し去る
事は出来ない。
スウェールに籍を置く魔法使い達がラスルに対して抱く感情がど
んなものか知っているだけに、何も出来なかった自分自身にカルサ
イトは怒りを覚えた。
﹁すまない。﹂
そう呟いて手を伸ばし、思わずラスルを抱き締める。
﹁カルサイト?!﹂
あの日以来の接触にラスルは戸惑い身を捩った。
﹁守りたいと思い、そう誓ったとしても⋮私には君を守り抜く力
が無い。﹂
312
すまないと、何処か苦しそうに言葉を噤むカルサイトに、ラスル
はそっと目を伏せその背に腕を回した。
彼は︱︱︱優しい。
それが自分に向けてだけ特別なのか万民に対してそうなのかは知
れないけれど、きっとカルサイトはラスルと関わりを持ったあの日
から、たとえ深い関係になっていずとも同じ様に思い、今回の件に
関して己に憤りを感じたのだろう。
守る守らないは力の問題ではないし、ラスルはスウェールの魔法
使いと手を繋いで楽しくやりたいとも思ってはいない。上手くやれ
ればそれに越した事はないが、ラスルの持つ決定的な力が彼らに敵
対心を抱かせるのだ。ラスルに好意的なシュオンなどは異例中の異
例であり、スウェールに属する魔法使い達とラスルが心を通わせる
など夢のまた夢、幻に近いだろう。
だから、これについてカルサイトが心を痛め自身を責める必要な
どないのに︱︱︱
﹁守ってなんてくれなくていいよ。﹂
必要ない。
突き放すような言葉に、カルサイトは思わず頭を上げラスルを抱
き締める力を弛める。
だがラスルが続けた言葉はカルサイトの考えとは違った。
﹁一番必要だった時に側にいたくれたでしょう? それで十分だ
よ。﹂
あまり優しくされると抜け出せなくなる。
突き離せない本心と、突き放さなければならない建て前。
313
はっきりとした物言いが出来ない今、既に時は遅く抜け出せなく
なっているのだろうか?
﹁ラスル︱︱︱﹂
緩められていた腕の力が再び込められた。 ﹁本当はこうやって︱︱︱ずっと君に触れたかった。﹂
切ない吐息が首筋にかかり、ラスルはびくともしないと分かって
はいたがカルサイトの胸を押した。 ﹁カルサイト︱︱︱﹂
ラスルの冷たい手がカルサイトのマントをぎゅっと掴む。
﹁わたし⋮あなたに想われる資格なんてない。話せない⋮話した
くない、あなたを傷つける秘密があるの。﹂
告白しても話す気などない。カルサイトに対してしっかりと心を
開いていないのかもしれない。でもそれでいいと思える程、ラスル
は己が見据える死を口にする勇気が持てなかった。
﹁知っている︱︱︱﹂
﹁えっ⋮?﹂
一拍置いて、カルサイトの意外な返事が返ってきた。
﹁君が何かを言えないでいる事は知っている。話したくないのな
らそれでも構わない。勿論知りたいとも思うが、それを知れば君が
目の前から消えてなくなるのではないかという不安があってずっと
聞けずにいた。その秘密のせいで君が苦しんでいても、君を失う位
なら今のままでいる方がずっといいと思う愚かな自分がいるんだ。﹂
314
不安を拭い去ってやりたいが、そうする事でラスルを失う位なら
気付かぬふりを貫こう。そんなずるい自分勝手な思いがあり、カル
サイトはずっとラスルに触れる事が出来ずにいたのだ。
ラスルが驚いていると、ふいを付くかにカルサイトが唇を重ねて
来た。
﹁カル︱︱︱﹂
﹁資格がないと言うなら、私の方こそ君を想い続ける資格がない
のかもしれない。﹂
カルサイトの紫の瞳が切なさに揺れていた。
﹁君の悩みに気付きながら離れて行かれる事を恐れ、知らぬふり
をした。こんな私が君を想い、こうして触れる事は許されない行為
だろうか?﹂
﹁違う、そんなっ︱︱︱おこがましいのはわたしの方だよ!﹂
救ってくれた人を︱︱︱愛しいと言ってくれる人に何も告げずに
逝ってしまおうとしているのだから。
頭を振るラスルの頬をカルサイトの大きな手が捕え、先程とは異
なる深い口付けが落とされた。
﹁うんっ⋮ふぅっ!﹂
隙なく注がれ続ける口付けの息苦しさに、抗っても息をするのが
やっとで対処できない。
何処までも深く続く口付けに手足が震え、やがて力を失い二人と
もが膝を付き、冷たい地面に倒れ込んだ。
315
それでもカルサイトはラスルから離れようとはせずに求め続ける。
どれ程時間が過ぎただろうか?
荒い息を吐きながらカルサイトが唇を離すと、すっかり力を失っ
たラスルが息も絶え絶えに、今にも意識を失いそうな濡れた瞳でカ
ルサイトを見つめていた。
﹁何で⋮急にこんな︱︱︱﹂
﹁ずっと触れたかったと言っただろう?﹂
ちらつく小雪が二人に降り注ぎ、漆黒の闇に白い息が立ちのぼる。
寒さの中で、ラスルの熱い吐息が切なげに漏れた。
316
女の嫉妬
ラスルは乱れた吐息を漏らしながら、闇に光るフクロウの目をぼ
んやりと見つめていた。
大きな背に腕を回ししがみ付いていたが、息が整いふと顔を上げ
ると紫の熱い視線にぶつかり、あまりの気恥しさから頬を染め額を
摺り寄せるようにして俯く。と、肌蹴た逞しい胸板が目に止まり、
更に顔を赤らめると身頃を引き合わせ、熱を持った指でボタンを閉
じ目の前の光景を隠した。
こんな所で何て事を︱︱︱!
いや、この際場所などどうでもいい。
受け入れてはいけないと決めていたのに、結局は自分に負けたの
だ。
真っ赤になってあたふたとうろたえるラスルがあまりにも愛らし
くて、カルサイトは思わず噴き出す。
時折見せる大人びた表情とは異なり、実年齢よりずっと子供に見
えてしまう瞬間だ。
頭に絡まる枯葉を払い除け、乱れた髪を手櫛で整えてやると、ラ
スルは少し拗ねた様な瞳でカルサイトを見上げ、同じ様に手を伸ば
して枯葉を払い長い銀髪を撫でつける。
317
相変わらず小雪はちらついてはいたが、二人は互いの熱で全く寒
さを感じない。
やがて上に乗っていたラスルが身をずらして起き上がると、カル
サイトもそれに従う様に身を起してラスルの足元に跪いた。
ラスルを見上げ白く小さな手を取ると中指にそっと口付ける。
﹁︱︱︱?!﹂
熱い指先がさらに熱くなりラスルはのけぞって身を引くが、カル
サイトが離れて行く事を許さないとばかりに指をからめて来る。
﹁私と結婚して欲しい。﹂
﹁︱︱︱え?﹂
意味が解らず思わず訊き返してしまう。
本来ならこんな場所で、この様な状況で告白する事ではなかった
が、手放したくない気持ちが先立ちつい口を付いて出てしまった言
葉。それを問い返され、カルサイトは思わず苦笑いを浮かべた。
﹁ラスル、私は君を心から愛している。これは一生を決める問題
だ、答えは今直ぐに求めはしない。だからじっくり時間をかけて私
との未来を考えてはくれないか?﹂
驚きと緊張で繰り返される瞬きだけが唯一の反応だった。
ラスルには未来が無い。が⋮それ故ではなく、もともと一人でひ
っそりと生きて行く事が唯一の望みだった。だからこそ誰かを愛し、
添い遂げる︱︱︱まして結婚など︱︱︱一瞬たりとも考えた事が無
く、己の人生にそのような言葉が持ち上がる事すら予想も⋮夢にも
318
思っていなかったのだ。
先の無い自分に応えられる訳がない!
言葉の意味を理解し、直ぐに否定をしなければと口を開こうとす
るが驚きのあまり声にならない。期待を持たせてはいけないと解っ
ていたが、心と体は裏腹に反応する事が出来ずにいた。
やっとの事で声が出そうになった時、驚くラスルを愛おしそうに
見つめていたカルサイトの視線が反れ、僅かに眉間に皺が寄る。
それにつられラスルも同様に視線を向けたが、あるのは静寂に包
まれた闇。
だがカルサイトは明らかに何かに気付いており、そちらに視線を
向けたまま口を開く。
﹁ラスル、この臭い︱︱︱﹂
﹁臭い?﹂
言われて初めて鈍っていた嗅覚が働き始め、何とも言えない微か
な悪臭がラスルの鼻を掠める。
プロポーズという、色めいた場に相応しくないこの臭いは︱︱︱
﹁︱︱︱雪花?﹂
まさかこんな偶然があるだろうか?
雪花は極めて珍しい花で、栽培も禁止され、この森に慣れたカル
サイトすらここに咲くと言う話しを聞いた事がない。だと言うのに
ラスルが探し求め、足を踏み入れた日に偶然にも運良く見付ける事
が叶うとは︱︱︱
319
怪訝に思いながらも期待に胸膨らませ、二人は色褪せた草を掻き
分け臭いの元へと足を進める。
﹁﹁︱︱︱!!﹂﹂
その先に見たのは求めた雪花の種ではなく、臭い通りの腐りかけ
た動物の死骸だった。
翌朝、カルサイトは前夜と打って変わって、神妙な顔つきである
場所を目指した。
そこはスウェールに籍を置く魔法使い達の訓練所の一つ。
攻撃を主とする魔法使い達の訓練所は、木々で囲まれた中に広々
320
とした屋外空間が設けられており、底なしとは言い難い魔力を補う
為、剣や槍など武具を使って訓練に励む者が汗を流している。
訓練に精を出す魔法使いの中にあり、一際目を引く美しい姿をし
た女性の元へ迷いなく歩みを進める美貌の騎士。
静かな怒りを湛えたカルサイトは、整った容姿をして生まれる魔
法使いと比べても引けを取る所か、ここに集う者達の中にいても際
立って美しかった。
穏やかさの欠片もない厳しい表情を湛えたカルサイトに、前に立
たれた女はたじろぎ後ろに一歩身を引く。
彼女の名はユイリィ。魔法使いの制服ともいえる白いローブでは
なく、優美な線を露わにする体に沿った長衣に身を包み、豊かな胸
とくびれた腰が強調され常に人目を引いていた。
﹁私の言いたい事は解っているな。﹂
初めて聞く、あまりにも冷淡な声にユイリィの背に冷や汗が伝う。
﹁何のことかしら?﹂
負けじと赤茶色の目で見返すと、カルサイトはマントの裏から折
れた矢を取り出しユイリィに押し付けた。
﹁二度目はない。﹂
カルサイトに向かって放たれはしたが、実際にはラスルを狙った
矢は出所が解らぬよう、その為だけに手作りされたものだった。し
かし、その繊細かつ精巧な作り故にカルサイトを偽る事は叶わない。
﹁わたしじゃないわ。﹂
﹁奴の心を利用し、君がやらせた。﹂
321
ラスルの額を狙った矢。
闇夜の森でそれだけの腕を持った射手はそうはいない。耳にした
男女の悲鳴とその正確さが自ずと犯人を導き出させた。
スウェール軍に身を置く弓の使い手。その男はユイリィに懸想し、
いいようにあしらわれていた。
それだけで十分。
ラスルが望まないため犯人を表だって処罰するつもりはないが、
傍らにいたカルサイトが許せる訳がなかった。
ラスルは自分を狙ったと言ったが、ユイリィが行動を起こしたの
はけしてラスルが優れた魔法使いであるが故、それに嫉妬したから
ではない。勿論それもあるが、それだけならこの様な危険な行為に
出る事はなかった筈だ。
随分前からユイリィはカルサイトに好意を寄せていた。それを知
ってはいたが、興味のないカルサイトは自信過剰な彼女を完全無視
していたのだ。
自分に好意を寄せる女性に、その気がないのに期待を持たせたり
はしない。
恐らくそれが今回の結果を招いた。
醜い女の嫉妬だが、危険を取り零したカルサイトの方にも責任が
ある。
﹁忠告はした。今後彼女に手を出そうという素振りでも見せよう
ものなら︱︱︱その時は、例え魔法使いといえど相応の責めを負っ
てもらう。﹂
それだけ言い終えるとカルサイトは踵を返す。
﹁カルサイトっ!﹂
322
慌てたユイリィは周囲の視線も顧みずカルサイトの腕を取り行く
手を塞いだ。
﹁待ってカルサイト!﹂
切れ長の整った赤茶色の瞳が見開かれ、訴える様にカルサイトを
見上げていた。
﹁あんな陰気な女の何処がいいのっ、イジュトニアの純血種って
以外でわたしが負けている所があるなんてとても思えない!﹂
自惚れても仕方がない、スウェールに魔法使いとして生まれた故
の自信と気位の高さ。相応の美貌と力を持った彼女だけがこの様な
考えを持っている訳でもないのだ。
力のある物に対しては忠実で、劣るものは見下す。それがスウェ
ールに籍を置く魔法使いの特性でもある。
それでもいいと今までは思えた事だが︱︱︱
カルサイトは冷ややかな視線でユイリィを見下ろした。 ﹁君は︱︱︱己の醜さに気が付いていないのか?﹂
﹁なっ︱︱︱!!﹂
醜いなど︱︱︱!!
その言葉にユイリィはかっと頭に血が上り、手を振り上げるとカ
ルサイトの頬を殴りつけた。
ぱんっ⋮と乾いた音が響く。
﹁こうやって直接私に報復すればよかったのもを︱︱︱﹂
そうすれば名を地に貶める事もなかった。
殴られても顔色一つ変えず、カルサイトは何事もなかったかにユ
イリィの隣を通り過ぎた。一方殴りつけたユイリィは言葉も無く目
323
を見開き、赤く紅を塗った唇をわなわなと震わせている。
怒りに震えるユイリィとカルサイトの背を、同胞の魔法使い達は
怪訝に見つめるばかりだった。
ユイリィはぎゅっと強く奥歯を噛み締め、幾度目か知れない敗北
に怒りの炎を燃やす。
己の美貌がいかほどか十分に心得ていた。
スウェール国内においてユイリィに勝る女など存在しないだろう
し、出会った事すらない。自他共に認める美しさに気高さ、そして
魔法使い故の身分もあり、一時はアルゼスの妃候補として名が上が
ったほどで、しかしながらカルサイトへの思いがあり二つ返事で断
った。妃として最高の身分を授かる機会を袖にした。それがユイリ
ィの誇りでもあったというのに︱︱︱!
それなのに当のカルサイトはユイリィに見向きもせず、どれ程迫
り、時に引いても、ほんの少しの期待すら与えてはくれなかった。
他の女には微笑む癖に、その優しく穏やかな瞳をユイリィに向けて
くれる事はない。それが彼女の自尊心を大きく傷つけ、いつしか憎
悪を抱きながらも好きだという気持ちは増すばかり。
そこへ現れた黒一色の陰気な魔法使い。
イジュトニアの純血種だからと我が物顔で城に上がり込み、アル
ゼスやカルサイトの隣に居座る。その醜悪さに気付かない男は見か
けに騙され、掌で転がされている。
相手が純血種でこちらの地位を危ぶませる不安以上に、ユイリィ
はラスルを嫌い憎んだ。存在が、そこにいるだけで許せない。あん
な薬草臭い女と同じ空気を吸っていると思うと吐き気がする程だ。
324
ラスルが城にいる事、否⋮スウェールに存在すること自体が許せ
なかった。男を惑わし、翻弄している癖にその気はないふりをして
いる。そのしたたかさも許せない。イジュトニアの魔法使いなど大
人しく陰気な国に籠っていればいいものを!!
﹁絶対に許さない︱︱︱!﹂
この様な辱め︱︱︱全てはラスルのせいだと、ユイリィは長い爪
が肌に食い込むのも構わずに拳を握り締めた。
325
不安の矛先
闇夜に降った初雪から数日。
魔法による治療を必要とする兵士も底をつき、残されたのは擦り
傷程度の軽傷者となった為、後は現場を仕切る医師に任せラスルは
森に入り薬草を探す事が日課となっていた。
主だった目的は雪花の種を見付ける事だったが、数日間毎日欠か
さず森の中を歩き回っても採取には至らない。しかし雪花はとても
珍しい花なので簡単に見つかるとは考えていなかった。それ故ラス
ルは雪花を探し出せずとも大して残念に思いはしない。
それよりも場所の違いか、冬にも関わらずラスルが住まう森とは
異なる薬草が豊富に発見されるので、物珍しさも手伝いラスルは薬
草採取をとても楽しんでこなしていた。
もともと王家が管理する森、しかも魔物も出没する危険な場所故
に一般人が出入りするのは稀だ。そのため多くの薬草が手付かずの
まま残されていた。
ラスルが採取し調合した薬草はなにも軍事関係者だけのもではな
い。世話になった療養所の医師に調合した数種類の薬を持ち込み、
訪ねて来る一般人にも分けて欲しいと渡すと、意外そうな顔をされ
た後で豪快な声を上げ笑いながら喜ばれた。
魔法使いが自らの手を汚し、身分低い兵士や一般人に治療を施す
だけでも珍しいのに、ラスルはそれだけではなく薬師が手掛ける仕
事までこなし、調合された薬を見るとその腕も一級だ。スウェール
では魔法使いと薬師・医師は全く別物である為、ラスルが持つ薬剤
326
の知識に薬を手渡された医師は感嘆の声を上げた。
地面を踏みしめる度霜柱が軋む音を立て、吐く息は真っ白で立ち
のぼる煙の様だ。
しかしながら早朝の冷え込みなど気にも止めず、ラスルは頭から
足の先までを黒いローブに身を包んで森へと向かう。闇雲に徘徊し
ているように見えて、ラスルはこの数日ですっかり森の地理を覚え
込んでしまっていた。
早朝の出立の為、朝食はとらない。空腹を覚えたら森の恵みにあ
ずかるのだが、実りの秋とは違い食べ物は希少だ。故に芋の蔓を見
付けると素手で土を掘り、掘り当てた芋の土を拭って洗いもせずそ
のまま口に運ぶ。
女としてどうかと思える食べ方だが、貧しい民はそんなこと気に
しはしない。口に運べる食料があるだけでも有り難く、幼少より生
活の場が旅という安定した場所でなかったラスルは贅沢にも慣れて
はいなかった。どんな場所でも生きて行け、口に運べるものなら土
が付いていようと何の不満もないのだ。
しかし、それに大きな不満を持ったのがアルゼスだった。
早朝より出かけ、帰りも遅い。まともな食事もせず再び倒れるよ
うな事があればと心配し、日が暮れる前に戻りアルゼスと食事を共
にするよう⋮最終的にはアルゼスが頭を下げ頼み込んだ。 命令はきかないと豪語したラスルだが、約束は守る。規則正しい
生活を送る事によって改善される問題ではなかったが、それでアル
ゼスが安心するならとラスルも大人しく従った。
約束通り日が暮れる前に森から戻ったラスルは、採取した薬草を
327
冷たい井戸水で手早く洗うと部屋に持ち込み床に広げる。
その足で約束の場所︱︱︱アルゼスと共に食事をする為、本来な
らラスルの様な薄汚れた娘などは絶対に立ち入れない場所へと歩み
を進めて行くのだ。
ラスルを迎えるにあたり、アルゼスは夕食を執務室に通じる隣室
で取るようにしていた。そうでなければ食事は自室で取るのが常で
あったが、王子が私室へラスルを招き入れるのをクレオンが許可し
なかったのだ。無理を通すなら可能なのだが、それによってクレオ
ンがラスルに抱く印象を更に悪化させないとも限らない。出来るな
ら避けたい事柄ゆえ、アルゼスはクレオンの言葉に逆らう事はなか
った。
ラスルは衛兵の守る扉を潜り、準備万端整ったいつもの席に立つ。
するとラスルが入って来たのとは別の執務室と部屋を直接繋ぐ扉が
開き、凛とした威厳ある顔つきのアルゼスが入室して来た。
無言のまま席に着いたアルゼスに倣い、ラスルも腰を下ろす。
それを見届けたアルゼスが無言で左手を肩の高さに上げると、給
仕一同が礼をし、そのまま部屋を後にした。
残されたのはアルゼスとラスルのみ。
いつも通り二人になるとアルゼスは緊張を解くように頬を綻ばせ
る。
﹁そろそろ湯浴みをしてはどうだ?﹂
﹁ちゃんと昨日入ったよ。﹂
毎度毎度しつこいなと呟きながらラスルは白いナプキンを膝に広
げた。
森から帰り、薬草を洗うついでに手を洗ってはいるものの、身な
りに無頓着なラスルは汚れた姿で人前に出ても気にしない。アルゼ
スも慣れた物でそれを不快に思いはしないが、少しでもラスルの印
象を良くしようという思いの表れだった。
328
それに︱︱︱
﹁そのわりには酷く汚れているようだが?﹂
森に入り、土を掘って食事にありつく様な娘だ。湯浴みをし体を
洗っても一日たてば直ぐに汚れてしまう。普通これだけ汚れていれ
ば直ぐにでも湯浴みをして体を清めたいと思うのが乙女心なのだろ
うが⋮
だがラスルには一度体を清めれば数日は大丈夫という悪習慣が根
付き、一向に気にする気配はない。それはそれで男避けにもなるだ
ろうが⋮女としてどうなんだと、アルゼスは少々複雑な思いを抱い
ていた。が、何時も湯浴みの話ばかりするアルゼスに、この話題に
なると最近はラスルの無表情が歪む。嫌われるのはごめんと、さす
がにアルゼスもそれ以上身なりの話題には触れず、ナイフとフォー
クを手に料理を口へと運び出した。それにアルゼスは香水臭い女よ
り、身なりに無頓着なラスルの方が好みでもある。
アルゼスが食事に手を付け出した事でラスルも歪めた表情を元に
戻すと、ナイフとフォークで器用に食事を始めた。
食べ物は手掴み、落ちたとて気にしない。泥付きの野菜すら抵抗
なく口に運び、自ら狩りすらこなす。大人しく席について食事をす
る習慣すらないように思えたラスルだったが一転、数年という短い
期間とはいえイジュトニアで王女としての教育を受けただけはあっ
た。手元にたどたどしさはなく洗練された良家の子女同様、流れる
ような所作でテーブルマナーをこなしている。嫌々ながらも外交用
に受けた教育で、この様な食事の席ではラスルも自己流ではなくき
ちんとマナーに従っていた。
そんなラスルの様子を伺いながら、アルゼスは思い出したように
口を開く。
329
﹁正式決定ではないのだが、近々イジュトニアの王太子イスター
ク殿がスウェール入りする事になるだろう。﹂
その言葉にラスルの手が止まり、視線がゆっくりとアルゼスへと
向けられる。
漆黒の瞳は揺れ、表情は強張り緊張していて、恐れと⋮深い疑問
に満ちた、けして友好的といえる顔つきではなかった。
イジュトニアに良い思い出はないだろうが、先日ラスルを気遣う
イスタークを見ていたアルゼスは、二人の関係は良好でこれを耳に
入れればラスルが喜ぶだろうと思っていただけに、不意を突かれた
様にアルゼスは言葉を詰まらせる。
嫌な空気が流れたがそれを破ったのはラスルだった。
﹁何でイスタークが?﹂
フランユーロに操られての事とは言え、イジュトニアがスウェー
ルに侵攻した事実は消えない。その為賠償責任を被る事は解るが、
実際に危害を加えた訳ではなく、最終的にイジュトニアはスウェー
ルに侵攻したフランユーロ軍の撃退に力を費やした。そこまでして
いると言うのに王太子自らが賠償の話し合いの席にスウェール入り
して来るなど⋮これではイジュトニアはスウェールに対しあまりに
も低く出過ぎである。
それに王の子は王太子であるイスタークだけではない。ラスルに
は見も知らぬ兄姉が幾らでも存在しており、安く見積もってもその
中の誰かであってもお釣りがくるほどではないだろうか?
﹁イジュトニアが使者をよこすって事はフランユーロとの件が片
付いたってことでしょう? フランユーロが⋮グローグ王がこのま
ま黙っているとは思えない。間違いなくスウェールに攻めて来るよ
ね。その相手をイスタークが買って出るって事?﹂
330
スウェールだけではなくイジュトニアもフランユーロの侵攻を受
けているのだ。そこにスウェールに送り込んだ魔法師団の帰郷が間
に合ったのなら、フランユーロが返り討ちに合うのは確実。仕掛け
た戦に完敗ではさすがのフランユーロも対面を保つ事は出来ない。
どれ程悔しがったとしても魔法使いの圧倒的な力を前にしては再び
侵攻して行く事はあり得ないだろう。だとしたら標的はスウェール
という事になる。それも近日という可能性が一番高い。
あの灰色の野望に満ちたグローグ王の眼。あの雄々しい男が両国
に完敗し、このまま黙って敗戦国としての汚名を着せられたままで
小さくなっていられる筈がないのだ。
兄弟との再会を喜ぶよりも先に戦況を分析され、アルゼスは息を
吐きながら肩の力を抜き柔かな笑みを浮かべた。
﹁確かにフランユーロは近く攻撃を仕掛けて来るだろう⋮が、今
のスウェールはそこまで落ちぶれてはいない。﹂
イジュトニアの力を借りる気は毛頭ないとアルゼスは言い切る。
﹁王太子自らが使者に立つのは異例だが、それはラスル、お前が
ここにいるからではないのか?﹂
この言葉にラスルははっとし、思わず左胸に手を当てローブを握
りしめた。
イジュトニア王家では、そこに刻まれた刻印のせいでラスルが何
処にいるかなどお見通しなのだ。
あの日国境で再開したイスタークは厳しい威圧的な視線をラスル
へと向け続けた。そこに好意の欠片は微塵もなく、過去ラスルをウ
ェゼート王の手より救い出してくれた優しい温もりは幻であったか
のような印象を受けたのだ。
331
それがたとえイジュトニアの王太子としての役目で取るべき行動
であったとしても、それ程完璧に演じられるものかと思える程イス
タークの視線は何者よりも冷酷で、ラスルの胸に深く突き刺さるも
のだった。
まるでラスルを愛する異母兄と、何処までも憎み続ける王太子の
二人が存在するかの如く、そこに立つイスタークは完全に異なるオ
ーラを纏っていた。
﹁ラスル?﹂
胸元を握りしめたまま深く考え込み動かなくなったラスルを不審
に思い、アルゼスは席を立つと傍らに寄り添うようにして顔を覗き
込む。
﹁どうした?﹂
心配そうな青い瞳に見つめられ、ラスルは小さく頭を振る。
﹁何でもない。ちょっと意外だったから︱︱︱﹂
それだけ言うとラスルは食事を中断し、席を立って扉に向かって
進んで行く。
アルゼスは明らかにおかしいラスルの後を追ったが、扉を出た所
でクレオンに止められこの時は黙ってラスルの背を見送る事しか出
来なかった。
332
アルゼスとの食事の席を中座したラスルは城の最上階、物見の為
に建てられた塔の屋上に一人佇んでいた。
屋根も何もない場所で、夜の冷気が直接肌に伝わる。高い位置故
の荒い風が漆黒の闇に馴染む黒髪を舞い上げ肌を切る寒さをもたら
すが、ラスルは寒さを感じる事無く、故郷である筈のイジュトニア
がある方角をただじっと無言で見つめ続けていた。
いったいイスタークは何をしに来るのだろう?
自分がいるから⋮それはこの危険な存在を許せないからか︱︱︱?
けしてそうではないと解っているのに、最後に目にした印象があ
まりにも強烈過ぎて負の考えばかりが胸を騒がせる。
そんなラスルの背後から、いつも見守っているかのようにカルサ
イトが姿を現した。
333
﹁風邪を引くぞ?﹂
﹁寒くないよ。﹂
後方からの声にラスルは振り返る事無く答える。
カルサイトが塔を上って来る気配を早くに感じ取っていたラスル
は別段驚くでもなく、ただじっとイジュトニアの方を見つめ続けて
いた。
そんなラスルの傍らに身を寄せると、カルサイトはそっと大きな
手を細いラスルの肩に置く。
﹁何も案じる事はない。イスターク殿下が君を大切に想っている
のは紛れもない事実だ。だからこそ自らが使者に立ち、君に会いた
いと願ったのだろう。﹂
イスタークの話しを聞き、ラスルが不安に感じているのだという
のが一目瞭然だった。
安心させるように肩を抱き寄せると、ラスルは何の抵抗も無く体
をカルサイトへと預ける。暫く無言でカルサイトの体温を感じてい
たラスルは、自然と心が落ち着いて来るのを感じた。
駄目だ⋮こんな弱い心では前に進んで行けない。
ラスルは弱い自分の心にそっと苦笑いを浮かべる。
﹁その前にフランユーロが来るね。﹂
﹁︱︱︱そうだな。﹂
カルサイトはラスルに本気で参戦する気なのかと問いたかったが、
334
己の意志を曲げるような娘ではないと知っているだけに口を噤むと、
寒い夜空の下、今は黙ってラスルの細い肩を抱きしめ続けていた。
335
吐露
その夜、仕事を残したカルサイトと別れたラスルは暫く一人塔の
屋上に留まった後、すっかり辺りも寝静まった頃に使用人用の暗く
狭い階段に足音を響かせながら部屋へと戻っていた。
すると突然腕を掴まれ、体勢を崩した体はそのまま力に吸い寄せ
られるように男の胸に掬い取られる。
﹁王子様?!﹂
気配を殺し近付いた揚句、急に何をするのだと抗議の声を上げる
が、闇を纏った青い瞳にラスルは思わず息を呑んだ。
ほんの数刻前、共に食事をしていた時とは打って変わってアルゼ
スの顔は強張り怒りに満ちている。いったい何があったのかと問う
為に口を開こうとした時。
体が宙に浮き、ラスルはアルゼスの腕に抱え込まれた。
﹁ちょっと何っ?!﹂
乱暴に抱きすくめられ気使いの欠片も見せず階を下り歩みを進め
るアルゼスを不審に感じながら、いったい何があったのだと口を開
くよりも、ラスルはただ体を襲う不安定な揺れに身を任せるしかな
かった。 やがて暗く狭い階段から高価な絨毯が敷かれた廊下に進
み、アルゼスは城の内部へと早足に向かって行く。その間アルゼス
は眉間に皺を寄せ怒りの表情を浮かべたまま終始無言で、いったい
何があったのかとラスルも黙って事の成り行きを見守っていた。
しかし重厚な扉の前に立つクレオンが表情を強張らせアルゼスに
進言し、それをアルゼスが拒絶した時、ラスルも自身のおかれた状
336
況を把握し、これまで黙って腕の中におさまっていた事を後悔する。
﹁なりません殿下、彼女だけは︱︱︱!﹂
﹁煩い黙れっ!﹂
これ以上は通さないとばかりに扉の前に立ち邪魔するクレオンを
押しのけると、アルゼスは足で乱暴に扉を蹴り開けた。
重い扉は一蹴りで音を立て勢い良く開かれる。
アルゼスがラスルを抱えたまま部屋に足を踏み入れると、扉は自
らの重さで再び閉じられようとしていた。
﹁殿下っ!﹂
最後にクレオンが叫んだが、ラスルがクレオンと視線を合わせた
と同時に扉は音を立て完全に閉じられてしまった。
乱暴に抱きあげられたまま見回す部屋は、シンプルだが高価な調
度品で埋め尽くされており、一見しただけでアルゼスの私室である
事が伺えた。
深夜に王太子が私室に女を連れ込む︱︱︱それが意味する事の大
きさを知るラスルも冗談ではないとばかりに身をよじらせ暴れ出す。
渾身の力で暴れ、腕から逃れた先は真っ白なシーツの上。
この感触は前に経験した事のある、極上の眠りをもたらす寝台の
上であるとラスルは瞬時に察し、慌てて逃げ出そうと身を起こした
が腕を取られ組み敷かれた。
怒りに満ちた双眼がラスルを見下ろしている。 否⋮怒りというよりもそこにあるのは強い嫉妬だ。
﹁あの時傍らにいたのは俺だ。だというのに何故カルサイトなの
337
だ?!﹂
両腕を寝台に縫い付けられたラスルは、怒りの下に見え隠れする
悲しみに胸を抉られる。
アルゼスは塔の上で身を寄せていたラスルとカルサイトを見てい
たのだろう。落ち合った訳ではないが、ラスルの事情を察している
カルサイトに心を寄せたのは事実。
イスタークの来訪を告げた瞬間、心にざわめきを持ったラスルを
アルゼスは案じた。それを拒絶しながらも、カルサイトに対しては
自ら歩み寄ったのだ。 ラスルを好きだと宣言したアルゼスがそれを知り、自尊心を傷付
けられ怒りを露わにしたとて何らおかしな所はない。それが人の心
情というものだ。
だが⋮だからと言ってごめんなさいと謝りアルゼスを受け入れる
訳にはいかなかった。
﹁見苦しい⋮﹂
﹁何︱︱︱?﹂
﹁男の嫉妬なんて見苦しいって言ってるの。気配消して勝手に人
の後跟けといて、そこで見た物が気に入らないから怒り心頭? 馬
鹿じゃない? 子供じゃないんだからこんな事でいちいち怒らない
でよ。﹂
口を付いて出たのはけして冷静とは言えない文句。
それでもアルゼスを受け入れられないラスルは、今更言葉を止め
る訳にはいかなかった。
﹁で、怒った先で何やらかす気? こうして組み敷いて抱けば気
が治まるならいくらでもやればいい。でもどんなに力や権力振りか
338
ざしても心は手に入れられやしないわ。わたしはあなたを人間とし
ては好きだけど異性としては愛してないの。それで構わないんなら
体だけ自由にすればいい︱︱︱!!﹂
﹁お前︱︱︱っ!!﹂
かっとなったアルゼスはローブの胸元を乱暴に引き裂くと同時に、
己の唇をラスルの冷たい冷え切った唇に押し付けた。
虚勢を張ったラスルであったが、あまりの乱暴さに唸りを上げた
拍子に僅かに口が開き、その隙を付いてアルゼスの舌が口内に侵入
するのを許してしまう。
執拗に繰り返される、戒めとも思しき愛情の欠片すら感じる事の
出来ない口付け。引き裂かれたローブの襟元からは剣を持ち慣れた
ごつごつした手が入り込んで肌を這い、柔かな胸に到達する。その
瞬間、ぞわりとラスルの背に悪寒が走った。
漆黒の瞳は見開かれ、焦点は定まらない。見える物はぐにゃりと
歪んだ高い天井で、感じるのは酷い嫌悪感と共に恐怖という名の絶
望だった。
組み敷かれた状態で執拗な口付けが繰り返され、肌に直接触れる
手が柔かな曲線を描く体を乱暴に弄る。口付けが解かれ首筋に強く
吸い吐かれると、痛みよりも更なる悪寒が全身を貫いた。
ラスルは慄き、震える瞳をゆっくりと下へ向ける。
半裸状態のラスルがそこで見たものは、嫉妬に狂いラスルを犯そ
うとするアルゼスではなく、漆黒の髪に青白い肌の父、ウェゼート
王の姿であった。
339
﹁ひっ︱︱︱!﹂
恐怖で全身が硬直し息が止まる。
突然硬さを増した肌にはっとしたアルゼスは、己が齎したこの状
況に驚き、飛び起きるように身を起こした。
眼下には組み敷いたラスルがローブを引き裂かれ、刻印の刻まれ
た胸を曝した無残な状態で硬直している。
漆黒の目は見開かれ空を見つめているばかりで瞬き一つない。
︵いったい俺は何を︱︱︱?!︶
自分のしたこととはいえ、カッとなり我を忘れ女を凌辱しようと
するなど王子として⋮いや、男として何て卑劣な行為に及んでいる
のだ?!
何故こんな事になったのか解らない。ラスルの心が他を向いてい
るなら振り向かせようと思案する中で、ほんの小さなきっかけがア
ルゼスの心をかき乱し、普段ではありえない横暴に駆りたてた。
アルゼスは自分自身に驚きながら、見下ろすラスルの様子が尋常
でない事に気が付く。
﹁ラス⋮ル?﹂
見開いた眼の瞳孔は開ききっており、一点を見つめたまま微動だ
にしない。
ここでやっと曝された胸が上下していない事にアルゼスは気が付
340
いた。
﹁ラスルっ息だ、息をしろっ!﹂
アルゼスは慌ててラスルを抱き起こし、力任せに背中を叩く。
名を叫びながら背骨が折れるのではないかと思える程に叩きつけ
ると、ひゅっ⋮とラスルの喉が音を立て空気を取り込んだ。
ヒューヒューという音を立てながら、過呼吸気味に深く単発的な
息を繰り返す。
苦しく切なげな涙を湛えた瞳がアルゼスに向けられたがそれも一
瞬で、ラスルはそのまま意識を失い寝台に倒れ込んだ。
ふと目を覚ますと、暗闇の中に人影を見付けた。
341
寝心地の良い寝台に横になるラスルの前には胡坐をかき、項垂れ
俯いたアルゼスの姿があった。
深く頭を下げているので髪が邪魔して表情は伺えないが、我が身
に起きた状況をしっかり覚えているラスルは、横たわる自分の前に
胡坐をかいて項垂れるアルゼスがとても落ち込んでいるのだと感じ
取る。
﹁目が⋮覚めたのか?﹂
力なく擦れた声を発したアルゼスは、悲痛な表情を浮かべたまま
微動だにしない。
ラスルが起き上がると掛けられていたシーツが外れ、引き裂かれ
たローブの胸元が露わになり、アルゼスは後ろめたさからすかさず
視線を外し、ラスルは破れたローブを引いて胸を隠した。
﹁すまない⋮俺は⋮何という事を︱︱︱﹂
謝って済む問題ではないのは百も承知。ラスルに異変が起きたの
はアルゼスの暴挙が原因で、辛い過去を思い出させてしまった事に
よる心因性の症状だというのは一目でわかった。
嫌なら魔法で攻撃し、拒絶するのも可能だった筈だ。ラスルがそ
れをしなかったのは相手がアルゼスだったからで、アルゼス自身も
ラスルから攻撃を受けるとは露ほども思っていなかった。アルゼス
はその誠意に応える事が出来ない所業に面目なく、辛い過去の出来
事を鮮明に思い出させてしまった申し訳なさに顔を上げる事が出来
なくなってしまう。
酷い後悔の渦の中にいるアルゼスと、意外にも冷静なラスル。
これではどちらが被害者か解らない。
342
﹁別にいいよ、結局は未遂だったし⋮それにやれって言って火に
油を注いだのはわたしの方でしょう?﹂
﹁そういう問題ではなかろう︱︱︱﹂
アルゼスの罪を許そうとしているのか、軽く言ってのけるラスル
に詰め寄りそうになるが⋮ラスルが隠すように合わせる胸元を目に
すると、アルゼスは再び視線を反らして俯いた。
どう償えばいいのか分からない。適切な謝罪の言葉すら浮かばず、
いっそ罵り卑下してもらえた方がどんなに楽かとアルゼスは拳を握
りしめた。
流れる沈黙の中、ラスルはそっと息を吐く。
自分の存在がアルゼスを苦しめているのだろう。自分の何がアル
ゼスをこうまで急き立てたのか理解できないが、このまま放ってお
いても埒が明かないのは確かだ。
ラスルの心を手に入れられないもどかしさがいつまたアルゼスに
火をつけ、良好なカルサイトとの仲を険悪なものにしないとも限ら
ない。
ラスルは硬く握られたアルゼスの拳に手を伸ばすと自分のそれを
そっと重ねた。
驚いたアルゼスが顔を上げると、切なげに揺れる漆黒の瞳が柔か
にアルゼスを包み込んでいる。
﹁前にも言ったけど、わたしは王子様やカルサイトに想われるに
相応しい大層な人間じゃない。特にカルサイトに対してわたしは⋮
とんでもない仕打ちをしようとしている。﹂
343
ラスルの言葉にアルゼスは物問い気な視線を向け、それを押し留
める事無く口を開いた。
﹁人を想うのに相応しいも何もないのではないか。お前の思いは
どうあれ、俺は純粋な気持ちでお前を愛している。俺を拒絶するの
は解るが、カルサイトを否定するのは何故だ? お前はいったい何
を背負っている?﹂
漆黒の瞳と闇に煌めく青い瞳がぶつかる。
互いが互いを吸い込んでしまいそうな程見つめ合い、さらにアル
ゼスの瞳はラスルの内なる真実を見付けだそうと必死だった。
﹁わたし、あと一年⋮長くて二年で命を終える。﹂
真っ直ぐに互いが見つめ合っての告白。
命を終える︱︱︱あまりに唐突な告白にその意味を捕えられず、
アルゼスは数秒置いた後、眉間に深い皺を刻んだ。
﹁何の話だ?﹂
唐突に何だ、何を言い出すのだと疑問に満ちた眼差しは当然のも
のだった。
﹁わたし達純血種の魔法使いは、どうやら尽きかけた自分の寿命
が解るらしいの。祖父も己の死期を察してわたしをイジュトニアに
戻した。﹂
344
冗談など口にしないラスルの言葉を受けたアルゼスの顔色が、暗
闇の中ですらみるみる青くなるのが手に取るように感じられた。
﹁いったい何の病だ?! スウェールには腕の良い医者がいる。
魔法で駄目なら幾らでも治療を施させよう!﹂
鬼気迫る勢いで詰め寄るとラスルの肩を揺らし、そのせいで胸元
が肌蹴た事にも気が付かない。
互いの鼻先が接触しそうになるほど顔を近付け迫り来るアルゼス
に、ラスルは穏やかな微笑みを浮かべて首を振る。
﹁病とか魔法とか⋮まして医者でどうこうなる問題じゃない。こ
れは決まっている事だって解るの。﹂
ラスルの穏やかさが更にアルゼスの不安を誘った。 ﹁それが⋮お前がカルサイトに言えぬ秘め事だと?﹂
﹁そうだよ。おいて行く事が解っているのにどうして言える? 綺麗事じゃないの。大切に思う人に逝かれた時の辛さや喪失感は時
間と共に強くなり心を蝕む。わたしはそれを知っていながら彼には
言えない︱︱︱彼の想いを受け入れながら踏みにじっているの。突
き放すべきだと解っているのに優しさにだけ甘えて⋮最後にはある
日突然目の前から消え失せるのよ︱︱︱﹂
その辛さを身をもって知っているのに、愛してくれるカルサイト
に突き付けようとしている。
死期を悟った事実を言えない⋮言いたくないのはラスルが死を求
め続けているから。それを知られたくないという身勝手な自己都合
でカルサイトを裏切るのだ。
345
﹁言うべきだ︱︱︱﹂
﹁嫌よ。﹂
﹁何故だ、同情されるのが嫌なのか? カルサイトはそれを知っ
て同情の目を向けたり、まして折れたりする弱い男ではないぞ?!﹂
﹁カルサイトはわたしが死にたがっている事を知ってる。わたし
なんて死ねばいいとあの時からずっと思ってた。そんな汚い自分を
知られたくない︱︱︱たったそれだけの理由でわたしは彼に酷い仕
打ちをしようとしているの。﹂
解らないと︱︱︱アルゼスは頭を振る。
﹁死ぬと決まった訳ではない。﹂
﹁決まってる。王子様には理解できないでしょうけど、それを知
った時はあまりの嬉しさに身が震えたわ。﹂
ぱんっ︱︱︱と、乾いた音が闇に響いた。
力任せではなく軽いものだったが、アルゼスの手がラスルの頬を
叩いたのだ。
﹁死を受け入れるには若すぎる︱︱︱お前には生きようという意
志はないのか!﹂
﹁ないよ。﹂
﹁何っ?!﹂
かれら
﹁存在自体が争いの種になる︱︱︱イジュトニアの魔法使い全て
が厭い、一思いに殺してやりたいと望む存在。わたしが魔法使いに
殺されないのはウェゼート王の異常な執着がそれを許さないからよ。
﹂
346
こんな身で生きていてどうなるのか。
災いを齎す娘など︱︱︱彼らはラスルが消えてくれる日を待ち望
んでいるのだ。
﹁カルサイトはあれを見て知っている。だから余計に言えない︱
︱﹂
最後に漏れた本音にアルゼスは言葉を失った。
魔法使いを見送るカルサイトと共に国境へ向かったラスルが身に
受けた辛辣な何か。愛情の深さを垣間見せたイスタークの来訪を告
げても、喜びの表情どころか凍りついたラスル。
いったい何があったのか、その場にいなかったアルゼスには想像
する以外に知る術はない。ただ死を受け入れるラスルを非難する権
利は、それを知らないアルゼスにはなかったのだ。
微笑みながら今にも泣き出しそうなラスルの表情にアルゼスは心
を抉られる。
﹁すまなかった︱︱︱﹂
何に謝るのか。
アルゼスは腕を伸ばし、そっとラスルを抱き寄せる。
そこには男としての欲望など微塵もなく、純粋に申し訳なかった
という思いだけが存在し、同時に何とかして心を癒してやれないも
のかと胸を痛め、アルゼスはラスルを優しく抱いたまま、ひたすら
すまないと謝り続けていた。
347
348
一夜明けて
王子が私室に女性を招き入れたという噂は瞬く間に広がった。
一晩だけでも王子が女性を私室に招くというのは、その女性が王
子にとって特別の存在であり、単なる妾ではなく愛妾という地位を
即座に手に入れたと言っても過言ではないからだ。
特にアルゼスは妾の一人も持たない故、噂の広まりも早いものだ
った。
未遂に終わり結果的に男女の営みはなかったとはいえ、重要なの
は﹃王子の私室﹄で女が一晩共に過ごしたという事だけだ。
クレオンの制止にも耳をかさず、ラスルを抱え部屋に籠ってしま
ったアルゼス。
忌々しく思いながらもクレオンは、翌朝王子の部屋から出て来た
ラスルにうやうやしく頭を垂れ、﹁おめでとうございます﹂と祝い
の言葉を述べた。
ラスルに向かって頭を下げながら、祝辞はラスルへ向けたもので
はない。
勿論ラスルの後方に立つ主に嫌味を込めての言葉だ。
いったい何がめでたいのか︱︱︱?
意味の分からないラスルが後ろに立つアルゼスを見上げると、ア
349
ルゼスはばつが悪そうに苦笑いを浮かべ、何でもないと言って部屋
まで送り届ける予定を止めるとラスル一人を先に行かせた。
胸元を押さえ怪訝な表情を浮かべるラスルだったが、言われた通
り廊下に敷かれた絨毯を避けて歩きながら部屋へと戻って行く。
そんなラスルをクレオンは横目で見送ると、わざとらしく大きな
溜息を吐いた。
﹁随分と乱暴なさったようですね。﹂
早速嫌味の続きかと辟易しながらアルゼスは部屋の中へと踵を返
し、それでも負けじと抗議の声を上げた。 ﹁案ずるな、手出しはしていない。﹂
後ろからついて入室して来たクレオンは仰々しく額に手を置く。
﹁交わりの事実など興味はありません。要は殿下が女性と枕を共
にした︱︱︱一晩をこの部屋で明かしたという事実だけが尊重され
るのだと今更私に説かれずともご存じでしょう?﹂
勿論アルゼスは十分理解している。妃はともかく妾すら手元に置
くのが面倒だ。それ故過去に相手にした女の誰一人として私室に招
き入れた事はなかった。
それなのに︱︱︱ラスルの事となると理性を忘れる。クレオンの
制止も聞かず欲望の示すまま身勝手に動いてしまった我が身が呪わ
しい。
無言のまま眉間に皺を寄せ考え込むアルゼスに、クレオンは全く
もって世の中は上手くいかない物だと心の中で呟いた。
相手がラスルでなければ諸手を上げて喜びたいが、いわく付きの
娘⋮生まれは王女であるとて今は何の身分もない。百歩譲り後見人
を立てようが良い所妾止まりで、しかしながらアルゼス自身はそれ
を望むまい。しかもラスルは既に臣下の、カルサイトと情を通わせ
350
ているのだ。
黙ったまま主を見つめるクレオンの視線に気付き、アルゼスは一
瞥を送る。
﹁どの道お前が揉み消すのであろう?﹂
﹁勿論そのつもりです。﹂
都合の悪い事をなかった事にするのは得意だ。この様子からする
とアルゼスも、無理にラスルを手元におこう等と我儘を言う気はな
いらしい。
﹁カルサイトは登城済みか。﹂
﹁昨夜は当直故まだ城内にいる筈ですが?﹂
﹁呼んでくれ︱︱︱いや、俺が行こう。﹂
﹁お待ち下さい殿下。﹂
扉に向かって歩き出したアルゼスの足をクレオンが止める。
昨夜アルゼスがラスルを抱き抱え私室に籠った事実を多くの物が
目撃し、早朝にも関わらず城仕えの者たちによって瞬く間に噂が広
がったのだ。当然カルサイトの耳にも届いているに違いなかったし、
アルゼス直属として使える騎士故、知っていなければおかしな話で
もある。
火に油を注ごうとしているのではないかという思いがクレオンの
脳裏を掠めた。
長年付き合って来ただけに、女一人の問題でカルサイトが忠誠を
違える事はないと分かってはいたが、それでも歪が生まれやしない
かは心配だった。
﹁︱︱︱今はお止めになった方が宜しいかと。﹂
﹁いらぬ気は無用だ。﹂
351
アルゼスは重厚な扉を軽々と開くと、迷いなくしっかりとした足
取りでクレオンの前から姿を消した。
ラスルは薬草だらけの仮住まいに戻ると、無残にも引き裂かれた
ローブを脱ぎ捨てる。すると白い肌が曝され、胸元に出来た幾多も
の赤い痕が目に飛び込んで来た。
さすがに恥ずかしくなり、洗い替えに持参して来た同じ黒のロー
ブにそそくさと袖を通すと、少し遅めになってしまったがいつも通
り部屋を後にする。
白い靄のかかる外気の中を歩いて森へと向かおうと、建物を出た
所で背の高い男の影が目に止まった。
どの位そこに立っていたのか、後ろに束ねた銀色の髪が朝露でし
っとりと濡れている。
口を真一文字に噤んだカルサイトは、立ち止ったラスルと暫く視
352
線を重ねていた。
昨夜ラスルの身に起きた事、それについてカルサイトがどう思っ
ているのか手に取るように分かる。
表面上カルサイトを受け入れ、結婚の申し込みまで受けたのはつ
い先日の出来事。そのラスルが一晩他の男と一夜を共にしたのだ。
相手がアルゼスであった為拒否権が無いと解っていても、ラスルが
素直にアルゼスの命令に従う女でないのはカルサイトとて解ってい
る筈だ。それでも彼はけしてラスルを責めはしない。そこにあるだ
ろう理由を探ろうとする視線をラスルは恐れ、ふいと顔を背けると
行くべき場所を目指して歩みを始める。
﹁ラスル︱︱︱﹂
後を追ったカルサイトがラスルの細い腕を掴むと黒髪が揺れ、首
筋に出来た赤い痕が目に止まり、カルサイトははっと息を呑んだ。
﹁いったい何が︱︱︱﹂
何があったと言いかけ口を噤む。
表情を固く強張らせ、ラスルの受けた痛みを己の内で受け止めよ
うとするカルサイトに、ラスルは思わずその逞しい胸に飛び込みた
い衝動に駆られた。
切なくて︱︱︱辛かった。
事実を全てそのままぶちまけてしまいたい。
しかし口をついて出たのは、心に描く思いとは全く正反対のもの
だ。
353
﹁王子様と一晩一緒にいた。なにも酷い扱いは受けてない、わた
しの方が王子様を受け入れたの。﹂
無表情に冷たい瞳を浮かべ、辛辣な言葉を口にするとラスルは掴
まれた腕を振り解き、そのまま森を目指していつもの道を進んで行
く。
ラスルの言葉を信じられない思いで耳にしたカルサイトは、かつ
て彼が一度も見せた事のない驚きと不安を交えた複雑な表情で、紫
の瞳を見開き、その場から全く動けず黙ってラスルを見送っていた。
冷静でいる為にはどうすればいいのかなど、自然と身に付けた常
識が全く思い出せない。
ラスルの告げた言葉の裏にあるものを探ろうにも、突き付けられ
た冷ややかな視線が想像以上に打撃を与えていたのだ。それ故、背
後に接近して来た気配に気が付かない。
﹁カルサイト︱︱︱﹂
突然かけられた声に驚き、思わず剣の鞘に手をかけた状態で振り
返ってしまう。
﹁殿⋮下⋮﹂
そこには硬い表情を浮かべたアルゼスが、剣の鞘に手をかけたカ
ルサイトを前に無抵抗で立っていた。
互いに剣を極める者同士、鞘に手をかけた時点で殺気を発したカ
ルサイトにアルゼスが反応しない訳がない。例え信頼できる主従関
係が成り立っていたとしても、研ぎ澄まされた感覚で僅かな危険を
354
も回避しようと体が反応する筈なのだ。
アルゼスはカルサイトに切られるつもりで、そうまで行かずとも
それなりの制裁を受ける気持ちをもってこの場に立っていた。
驚きの表情を浮かべるカルサイトに向かって、アルゼスは瞼を伏
せると頭を垂れる。
﹁悪かった︱︱︱﹂
﹁殿下?!﹂
それに驚いたのはカルサイトだ。
一瞬で我に返るとアルゼスの前に跪き、主よりも低い体勢で頭を
下げる。
﹁俺の口から信じてくれとは言えないが、彼女の名誉の為にも言
わせてくれ。ラスルを手にかけようとしたのは事実だ⋮だが何もな
かった。ラスルが俺を受け入れたというのは偽りだ。あいつは⋮ラ
スルは、お前以外の男を受け入れられるような精神状態にはない。﹂
今のアルゼスに出来るのは、ラスルの想いを出来る限りでカルサ
イトに伝える事だけだった。
償いという訳ではないが、その気持ちも含まれていただろう。思
わぬ告白を受け、その命にまつわる真実がいかなる物なのか解らな
い状態では無暗に口にも出来やしない。それでもこうして頭を下げ
るのは、ラスルを我が手に得るのではなく、愛しい人の心が少しで
も軽くなれる場所を失わせない為にである。
﹁俺に言えた義理ではないが、ラスルの拒絶はお前を想っての事
だ。俺ではラスルの支えにはなれない。ラスルが支えに出来るのは
お前だけだというのに、抱える背景に怯えお前を遠ざけようとして
355
いるんだ。俺に出来るのは彼女を傷つける⋮それだけだった︱︱︱﹂
力ずくであんな状況に追い込み、辛い過去を思い出させたのは同
じ思いを二度合わせたも同じ。そして否応なしに辛い現実を吐露さ
せたようなものだ。
﹁殿下⋮どうかお顔をお上げ下さい。﹂
気さくな仲とは言え、絶対的権力を持つ主でなければならないア
ルゼス。そのアルゼスに頭を下げさせたままでは話も出来ないし、
もともとはアルゼスの想いを知りながらラスルに手出ししてしまっ
たのは自分の方なのだ。カルサイト自身、アルゼスとラスルの二人
に何があったとて文句を言えた筋ではない。
互いが頭を下げ合う中、早足で駆けて来るクレオンの気配が二人
の頭を上げさせた。
クレオンの緑の目が何時になく厳しく、アルゼスを目に止めると
礼を取る時間も惜しいとばかりに駆けながら口を開く。
﹁殿下、直ぐにお戻りを。フランユーロの軍が国境に集結してい
ると早馬よりの知らせがございました!﹂
知らせを受けアルゼスは、思ったよりも早かったかと舌打ちする。
﹁話しの続きは後だ、行くぞカルサイト。﹂
二人の顔つきは瞬時に王子と騎士のそれに変わり、今までのやり
取りなどなかったかに気持ちが切り替えられた。
356
フランユーロは国の威信をかけ捨て身でかかって来るであろう。
幾多もの犠牲が出るであろうが、避ける事の出来ない争いは間近に
迫っているのだ。
守りたいものがある。国も民も、そしてラスルも。
犠牲を恐れては何一つ守れはしない。
アルゼスの瞳は目の前の戦いに向け恐ろしい程に鋭く輝きを増し
ていた。 357
次なる敵
フランユーロが国境沿いに軍を寄せていると情報が入った三日後。
先陣を切って出た隊に後れ、アルゼスは一軍を率いて西の砦を目
指していた。
ラスルはアルゼス率いる軍に交じり馬を進める。
情報によるとフランユーロ軍は、先頭部隊に王国と王家の紋章が
刻まれた旗を掲げているという。旗が示す通りにグローグ王が先頭
で指揮をとっているというのであれば、ゆっくり時間をかけて攻め
てくるという訳ではなく、一気にかたを付けようとしている様子が
伺えた。
フランユーロはスウェールとイジュトニアに侵攻しながら負け戦
となり、かなりの痛手を被っている筈。にもかかわらずその状態で
更に戦を仕掛けて来たのだ。一見無謀な戦いに見えるのだが、勝機
なしに王が先頭に立つ訳がない。
かつてはイジュトニアの魔法師団長としての地位にあった祖父と
共に旅をして来たが、生きる術は学びながらも、戦術などその方面
においては何一つ学んだ事が無かった。傷つける術は知っていても
戦場での戦い方は知らない。初めて臨む戦にラスルは大きな不安と、
嫌な気配を感じつつ西を目指した。
358
西を目指し、久々に目にしたのはラスルの住み慣れた森。
だがその森はラスルの見慣れた森ではなく、煙が燻り黒い炭と化
した焼け野原だった。
フランユーロの軍は今だスウェール領内に侵入して来てはいない。
しかしその手の者によって森に火が付けられ、広大な森の半分近く
が焼け野原と化してしまっていた。しかも火に追われた魔物が森を
抜け出し、近隣の村や街を襲ったため多大な被害が出てしまってい
たのだ。
ラスルは故郷を目指す一行から外れ、事態の収拾に向かう一部の
兵士に交じり被害を受けた村へと向かう。
その村はラスルが過去に数回薬草を売りに訪れた事のある村で、
見知った常連客も多かった。
しかしそこに村人の姿はなく、あるのは屍と死肉に群がる数えき
れないほどの黒い烏と獣。獣の中には力の弱い魔物も交じっており、
兵士が近寄っても気にする事無く目の前にある腐った肉を貪り続け
ている。
生存者など一人も存在しなかった。
夜になると森から焼き出された魔物が死肉を求め集まってくる可
能性があり危険だ。生き残った村人がいないのであれば今の状況で
ここにい続ける意味はないし、先を急がねばならない。既に完全な
人の形を保っている遺体も無く、死肉の塊を拾い集め火葬する暇は
ないとの兵士の言葉。
戦場ではよくある事だが、相手は魔物に襲われた一般人だ。無情
かもしれない。しかし今は弔ってやれぬ状況に兵士達の顔つきも硬
かった。後で戻っても遺体はさらに悲惨な状況になっているだろう
し、獣らが綺麗さっぱり掃除してくれている可能性も高い。
生きた人間は立ちつくすばかりで動きが無く安全と見たのか。
359
ラスルの目の前に降り立った烏が、地面に転がる遺体から目を啄
ばみくり抜いた。
腹は抉られ首と胴は今にも千切れそうなその遺体は、体の大きさ
からするとまだ幼児だ。カラスはその目を一つ飲み込むと、更にも
う片方の目を啄ばんだ。
﹁ひでぇな︱︱︱﹂
そう兵士の一人が呟くと、見回りを済ませ集まって来ていた残り
の兵士も同様とばかりに頷く。
ラスルは一部始終を感情の無い目で見つめていたが、兵士の一言
でゆっくりと右手を天に翳した。
刹那。
眩い光と爆風がラスルと集まった兵士達を襲う。
驚いた兵士は地面を踏み締め顔を覆うが、光と爆風はほんの一瞬
の出来事。
風が止み、恐る恐る目を開けた兵士達が見たものは、自分達を守
ごうか
るように包み込む球状の空間と、その空間の外を完全に包み込んで
燃え上がる真っ赤な劫火。
いったい何が起こったのかと慌てる間に火の勢いは衰えて行き、
やがて何事もなかったかのように炎は鎮火する。
炎の鎮火と共に自分達を守るように取り囲んでいた球状の空間は
無くなり、目の前の光景に兵士一同唖然と眼を見開いた。
食い荒らされた遺体。散らばる骨と肉片に血に染まった大地。
それだけではなく、目の前に有った村一つ全てが一瞬で焼き尽く
され、綺麗さっぱり消え失せてしまっていたのだ。
360
全てが焼き尽くされたというのに地面には焼け跡一つない。
驚きに目を見開き、あんぐりと口を開けたままの兵士は言葉も無
く、漆黒のローブに身を包む魔法使いの背を茫然と眺める。
ラスルは後ろを振り返ると漆黒の冷たい瞳で兵士達を見つめた。
﹁あなた達は隊に戻って。わたしは他の村と街を見てから合流す
る。﹂
それだけ言い残すとラスルは一人、兵士達をその場に残して歩き
出した。
これから夜になる。女一人では危険だと言いかけた兵士がいたが
︱︱︱言いかけて止めた。
目の前でこれほどの力を見せつけられたのだ。どんなに屈強な男
でも、これほどの魔法を放つラスルの前では無力に等しい。
兵士達は言葉も無く、小さくなって行くラスルの背を黙って見送
るしかなかった。
ラスルの住まう森には数限りない、幾種もの大量の魔物が存在し
ていた。
その魔物が森を出て近隣の村や街を襲うのは稀で、それは古より
361
森を取り囲むように植林された後、自生を続けたショムの木による
効果があっての結果だった。
フランユーロの手により森に火が放たれ魔物を阻んでいたショム
の木々が燃えた事で、森を追われた魔物が一気に村や街に押し寄せ
たのだろう。
森とは異なり、大した力を持たず捕獲しやすい人間という大量の
食糧を得た魔物は、底なしの胃袋で柔かい肉を悔い漁る。枷を失っ
た魔物は逃げ惑う人間を辺り一面欲望のまま容赦なく食い荒らし、
更に新鮮な血肉を求め新たな地を目指しているのだ。
﹁全滅か︱︱︱﹂
血なまぐさい廃墟と化した街を前に虚しさだけが込み上げる。
森まで歩いて数日という村や街の人間は全て食い尽され、その場
に残る生存者は一人として存在しなかった。
ラスルは弔いの為、血肉の欠片と化した遺体を魔法で焼き尽くす。
人の骨と肉、その他の物と区別してまで焼く事は不可能であった
ので、今この光景だけを誰かが目撃したとしたら、ラスルが魔法を
使い街を一瞬で焼き尽くす殺戮者に見えたであろう。
しかし残念な事にその心配はない。全ての人間が魔物によって食
い尽されてしまっているのだ。
内と外︱︱︱魔物とフランユーロ軍。
その両者に攻められていると言っても過言ではない。腹を満たし
た魔物はその内新たな森を求めそこの生存者となるだろうが、それ
までにいったい幾多の人間が犠牲となるであろう。
一刻も早く魔物の群れを見付けだし排除したかったが、騎上に有
ってもなかなか追いつけるものではなかった。
周辺の人間は全て襲われている。鼻のきく魔物故、人間の集落を
362
見付けるのは容易い。ここから一番近い街はラスルがフランユーロ
に攫われる前に立ち寄った街だ。
フランユーロ軍が気になるが、今は魔物に襲われる無力な人間を
見捨てる事も出来ない。ラスルは闇の中、休みなく馬を駆けさせる。
そうして辿り着いた夜の街からは悲鳴が上がっていた。
街には魔物の侵入を拒む為にショムの木が等間隔で植林されてい
る。にもかかわらずそれをあざ笑うかに様々な種類の魔物が数多く
街に侵入し、大して腹も空いていないのか、魔物は目の前の獲物に
食らいついただけで次の獲物へと牙を向け殺戮を楽しんでいる。
これ程の魔物に束になってかかられると、ショムの木の効果も薄
れるという事なのだろうか。
不幸中の幸いか、見える範囲に魔物の王者とも言うべきヒギの姿
が無い。 ヒギは牛の様な巨体で群れを成し、凶暴で人肉を好んで狙いを定
める魔物故、ラスルはその存在を予想し危ぶんではいた。しかしそ
れ以外の魔物なら当然命の危険はあるにしろ、普通の人間にも何と
か戦える類だ。実際多くの人間が食らわれ傷ついてはいたが、これ
ほどの魔物が溢れた街にあって死者の数は極端に少ない。今まで見
て来た村とは比べ物にならなかった。
夜という事もあり屋内に身を顰める輩も多く、街という規模故に
自警団もある。ラスルは乗って来た馬をショムの木に繋ぐと剣を手
363
に戦う者らに加勢する為、魔物の群れの間に身を滑られせた。
戦場に立ち、負傷者の傷の手当てをした事はあっても戦闘経験は
ない。威嚇とはいえ、ラスルが攻撃相手にして来た対象は一人か二
人、多くてラスルを狙う数人の男だけだ。
多くの人間が入り乱れる中で強大な攻撃を放てば魔物だけではな
く、生きた人間と建物も薙ぎ払い、一瞬で街は瓦礫の山と化すだろ
う。ラスルは魔物だけを一気に片付ける術を知らず、逃げ惑う人間
とそれを追う魔物との間で標的に戸惑いながらも、魔物を一匹ずつ
相手にし、時間をかけながら丁寧に仕留めて行った。
そうして夜明け前になる頃には、街に侵入した魔物は息絶えるか
逃げ出すかの二手となり、後に残ったのは異臭を放つ魔物の大量の
死骸と幾ばくかの死人、多くの傷ついた人々だ。
ラスルは傷を負った人々の治療にあたる。
もともと薬を売りに来ていた街であるせいかラスルを知る者も多
く、魔法使いだからと忌み嫌い治療を拒まれる事もなかった。ただ
気にされたのは治療費だ。豊かな者もいるが日々の生活に困窮する
者も多い。ラスルは薬を売っていたので、彼女の治療を受けると当
然治療費が発生するだろうと考えた者がいた。ラスルが﹃治療費な
んていらない﹄と告げると、今までお金を気にして治療を受けに来
なかった者達が一気に押し掛け、ラスルの治療は終日続き、最後の
手当てが終了したのは夜も遅く深夜になってからだった。
夜の帳の中、冷たい冷気に身を包み疲れた体を伸ばして体を解し
ていると、街中だというのに荒々しく馬が駆ける音が耳に届いた。
やがて蹄の音はラスルのいる場所へと近づいて来る。
364
轢き殺されてはたまらないと道を開けると、ラスルの目の前を僅
かに通り過ぎた所で馬は止まり、そのまま後退しながら騎乗の主が
馬から飛び降りた。
﹁ラスルさんっ!﹂
会えてよかったとほっとした様な声が漏れるが、馬から降り立っ
た兵士の顔はひきつり緊張を湛えていた。
細身だが長距離を休みなく走るのに長けた品種の馬を目にし、ラ
スルはこれが伝令用の馬だと理解する。相手が自分を見知っている
ようなのでよく顔を見ると、兵士の療養所で見かけた事がると記憶
していた。
恐らく治療したうちの誰かだろうが、治療の度に相手の顔を見て
覚えた訳ではない。この兵士は自身の治療が済んだ後も療養所で怪
我人の世話にあたってくれたのだろう。
スウェール軍に身を置く訳でもない部外者の自分に伝令が出され
る訳がない。兵士の独断か、あるいはこの兵士に伝令を出せる身分
にある者がラスルの力を必要としているのか︱︱︱何があったのか
とラスルが口を開く前に、焦りを抱えた兵士は腕を伸ばしてラスル
の手を引いた。
﹁イジュトニアがフランユーロ側に付いたようです。﹂
兵士の言葉にラスルは己が耳を疑った。
イジュトニアがフランユーロ側に付くなど︱︱︱有り得ない話だ。
﹁そんな馬鹿な︱︱︱!﹂
国境近くとはいえラスルはスウェールにいる。ラスルがスウェー
365
ルに身を寄せているという事をイジュトニア王は先日己の目で目撃
し見知っているというのに⋮
何故イジュトニアがフランユーロの味方をする?
その意味が全く解らない。
まさか︱︱︱ウェゼート王が崩御し、時代が移った?
最後に向けられたイスタークの視線がラスルを震わせるが、頭を
振って否定した。
﹁ですが⋮フランユーロ軍の先頭に魔法使いが立ち攻撃を仕掛け
ているのです。我が軍の魔法師団では全く歯が立たず、軍は押され
国境を超えられました。﹂
﹁王子様は何て?﹂
﹁殿下ではなく我らの独断でここへ。フランユーロの勢いが大き
く、我が部隊は殿下の元へ走る事が出来ませんでした。﹂
﹁よかった⋮﹂
﹁え?!﹂
呟くと同時にラスルは目の前の馬に飛び乗る。
軍を離れたラスルにアルゼスが現在の状況を知らせて来る筈がな
い。まして相手がイジュトニアの魔法使いとくれば尚更だ。アルゼ
スがラスルを戦いの場におきたくないと考えている限り、助けを求
めて来る事は決してないだろう。
﹁馬を借りるよ。わたしのは街の入り口に繋いでるから︱︱︱!﹂
言うが早いか、ラスルは馬の腹を蹴り、国境目指して一目散に駆
け出して行った。
366
367
取り零した敵
フランユーロ国王グローグが前線に出たため、迎え撃つスウェー
ルも総指揮官として出陣したアルゼスが一気にかたを付けようと最
前線に出て剣を握った。
しかしそれが間違いだった。
グローグ王が軍の先頭に立ったのはアルゼスを誘き出す為。
アルゼスが立つ場所にグローグ王は確かに存在したがその距離は
遠い。
そしてアルゼスとグローグの間に立ったのはフランユーロの騎士
でも兵士でも、まして和平交渉の使者でもなく、漆黒のローブに身
を包んだ一人の魔法使い。
その井手達故、目前の魔法使いがイジュトニアの純血種であると
わかり、スウェール軍には瞬く間に緊張が走る。
数少ないスウェールの魔法使いがアルゼスを守るため一斉に取り
囲んだ。
戦場で相手にするには恐ろしい存在。目の前に対峙し勝てる見込
みはないが、それでも誇り高いスウェールの魔法使いは恐れを抱き
ながらも死を覚悟で立ち向かう。
誰もが何故という信じられない思いを抱え、最前線に立つたった
一人の魔法使いを凝視した。
魔法使いは落ち着かない様子で常に身体を揺らし、時折首を傾け
てはフードごしに辺りの様子を伺っている。あまりにきょろきょろ
368
するせいで目深に被ったフードが滑り落ちその容姿が曝されたが、
対峙するアルゼスには当然全く記憶に無い相手である。
曝された容姿を目にしただけでは、その魔法使いの性別は解らな
かった。イジュトニアに生まれる純潔の魔法使いは整った容姿の者
が多い。しかしそれ故男女の区別が付き難かった訳ではなく、目の
前の魔法使いは黒髪黒眼でありながらも本物かと疑いたくなるほど
異様だったのだ。
漆黒の髪はまるで引き千切られたかにバラバラな長さをしていた。
首を捻り、伸びた爪のある指先で頭を掻き毟ると、強くかき過ぎた
のか指先に赤い血が付着する。自傷の痕なのか顔中に深い引っかき
傷があり、二つの黒い瞳は不規則に左右上下を繰り返し異常な動き
を見せていた。閉まりりのない曲がった口からは絶えず涎が零れ落
ちている。
魔法使いは肩を痙攣させ、たえず体を揺らしながら指を噛み、怯
えた視線を辺り一面に向けていた。
精神が尋常ではない?
誰もがそう考えた時、魔法使いはその場に蹲り悲痛な叫び声を上
げた。
そしておもむろに立ち上がると真っ赤に見開いた目をスウェール
軍に向け、両手を翳したのだ。
﹁逃げろっ︱︱︱!﹂
時すでに遅し。
アルゼスが声を上げた時には魔法使いの両掌から赤い閃光が放た
369
れ、その閃光に沿って触れるもの全てが焼き尽くされる。スウェー
ル軍の魔法使いの防御など驚異的な力を前にしてはまるで子供だま
しで、前列に立ち攻撃を受けた魔法使いは即死状態だった。
相手は純血種の魔法使い、しかし一人だ。精神を病んでいるのな
ら次に出る攻撃がいかなるものか想像出来ない。
必ずしもこちらに向かって攻撃を仕掛けるとは限らないと予測し、
相手が一人なら後退するよりもこのままフランユーロ軍に突っ込ん
だ方が賢明と、赤い閃光を掻い潜りながらアルゼスは軍を進めた。
後退する訳にはいかないのだ。
魔法使いはスウェール軍のみならず、フランユーロ軍に対しても
容赦なく無差別に攻撃魔法を仕掛け、多くの死体の山を築いて行っ
た。しかし主だって狙うはスウェール軍。やがてスウェールは押さ
れ、後退し、多くの人命を失ったにも関わらずフランユーロに国境
を越えられてしまうという失態を招く。
一時休戦となったのは、その魔法使いが白目を剥き倒れてくれた
おかげだった。
370
﹁殿下、傷の手当てを。﹂
真っ先にアルゼスの傍らに駆け付けて来たのは、地位の高い師団
長ではなくシュオンだった。
基本的に治癒魔法専門の魔法使いは前線に出る事はない。王子で
あるアルゼスが戦っている時であっても後方で怪我人を待つ。そこ
まで辿りつけなければ例え王子であろうと命を落とすのだ。
だがシュオンは後方でただ怪我人を待つのではなく、剣を振るう
騎士と兵士の間を掻い潜り、傷付いた者達を癒していた。そのため
最も早くアルゼスの元に惨事るに至ったのだ。
アルゼスは魔法による攻撃を直接受けた訳ではないが、近くにい
ただけで左腕に大きな火傷を負っていた。当然アルゼスの傍らに付
き添うカルサイトも同様に負傷しているが、流石に剣による傷は一
つもない。
アルゼスの腕を取り、的確に治癒を施して行くシュオンにカルサ
イトが声をかける。
﹁腕を上げたな。﹂
﹁ラスルさんのお陰です。﹂
治療の速度も仕方も何もかも、心構えすらがあの日ラスルに出会
った事で全てが変わった。
今までは恐ろしくて剣の交わる戦場に飛び込んで行く事など絶対
に出来なかった。自分の無力に怯え、目の前で死んでいく人間を恐
れた。だが今は、一人でも多くの人を救いたいと勝手に体が動くの
371
だ。
流石にラスルのようにとはいかないが、混血の中でも最高の色彩
である白を纏うようになってからシュオンが操る治癒魔法は昔と比
べ格段に向上している。
技術だけではなくもともとなかった自信が身に付いた部分も大き
いが、何よりも純粋に人を救いたいという思いが白の魔法使いに相
応しい実力を伴わせていた。
スウェールの魔法使い達はその誇り高さ故に高慢で扱い難いが、
劣等感しか持たずに育ったシュオンには人の気持ちを察する事の出
来る優しさが備わっている。アルゼスの次にカルサイトも手当てを
受けながら、シュオンの将来が⋮これからシュオンに付いて学んで
いくであろう若い魔法使いの将来も有望だと感じた。
しかし、同時に危険な前線に迷いなく出て来る無謀さに少々不安
も覚えた。
ラスルの様な純血種と異なり、混血の魔法使いは攻撃・治癒の両
方に優れる者はいない。治癒魔法に長ける様になったシュオンだが、
魔法使いでありながら身を守る術は殆どないのだ。
﹁あの⋮ラスルさんの事ですが︱︱︱﹂
カルサイトに治癒を施しながらシュオンは小声で囁き、先に治療
したアルゼスの方をちらりと見やる。
﹁何だ?﹂
﹁あの⋮いえ、何でもありません。﹂
シュオンは言葉を濁し俯いたが、這わせた視線で問いたい内容は
予想が付いた。
ラスルはカルサイトと恋仲だと思っていたのだろう。そこへ来て
アルゼスの寵愛を受けたという噂が瞬く間に広がった。クレオンが
372
当然のようにもみ消しに動いたが、フランユーロとの戦を迎えその
問題は置き去りになっている。
こんな場所で話題にする話ではないが気になって仕方が無かった。
シュオンは兵士の療養所に出向きラスルと共にいる時間も長かっ
たが、その兵士達の治療が終了してからは別行動となり、姿を見る
事すら珍しくなってしまっていたのだ。
﹁君も彼女に惚れた口か?﹂
﹁いえっ、そんな滅相もない!!﹂
カルサイトの言葉にシュオンは驚き、慌てて顔を上げ全否定する
が焦ってうまく言葉が出ない。そんなシュオンにカルサイトは深い
紫の目を細め温かい微笑みを向けた。
そのあまりの美貌にシュオンは一瞬見惚れ、更にそれを誤魔化す
かに顔を真っ赤にして言葉を紡ぐ。
﹁僕はっ⋮僕なんかっ︱︱︱﹂
慌てる様子を楽しむかに微笑むカルサイトに気付き、シュオンは
自分を落ちつけるように一つ咳払いをする。
﹁ラスルさんは僕にとっては憧れです。出会って僅かですが、生
きて行く上で多くの恩を受けました。それを少しでも返せたならと
思うのですが⋮彼女はあまりに偉大すぎて⋮足元にも及ばない僕に
は出来る事が何もない。﹂
﹁そんな事はないだろう。スウェールにおいて力を持つ魔法使い
は異端にも近い。それを受け入れた君の感情が憧れや尊敬であれ、
彼女は傍らにいてくれる君の存在に親近感を持ち、心にゆとりを感
じる事が出来たのではないだろうか?﹂
ラスルだけのせいではないが厭われ命を狙われた事もある。それ
373
には全く動じないラスルでも、過去が原因で心に開く穴は大きく辛
いものだ。混血とはいえ、同じ魔法使いがラスルに好意的感情を向
けてくれる事に少なからず安堵感を覚えるだろう。魔力など微塵も
持たない、本質的に異なるカルサイトでは力になってはやれない部
分だ。
﹁僕なんかが力になれるなんてあり得ません。ラスルさんを見守
り力になっているのはカルサイト様ではないですか。﹂
﹁そうありたいとは願うが、彼女は全てにおいて私に心を開いて
いるという訳ではないよ。﹂
ラスルにある秘密。
カルサイトもそれに気付いてはいるが、それがいったい何なのか
解らない。全てを口にして欲しいとは思ってはいないし、必要なら
ラスルの方から言葉にしてくれると思っていた。
だが、ラスルがその秘密を口にした相手はアルゼスだった。
どのような経緯があったにしろ、ラスルはそれをカルサイトにで
はなくアルゼスに話し、アルゼスはその秘密によってカルサイトへ
と頭を下げたのだ。
いったい如何なる事情なのか。
自分の感情を表に出す様なカルサイトではなかったが、ラスルの
抱える秘密が何であるのか、彼女にとって自分の立ち位置は何処な
のか︱︱︱ラスルを手放さなければならないのかと、湧き起こる独
占欲は何処の誰にでも備わる普通の男の感情だ。
ラスルへの想いを胸に描いていたシュオンだったが、ふと嫌な気
配を感じはるか西の方向に視線を馳せた。
﹁どうした?﹂
374
おもむろに立ち上がったシュオンに従う様に、カルサイトも立ち
上がると同じ方向に視線を向ける。
嫌な気配に予感を感じたのだ。
休戦が終わるのも時間の問題。
国境を越えられたとはいえフランユーロ軍との距離はかなりある。
そこにいる魔法使いの放つ気があまりに強くて、遠く離れたシュオ
ンにも伝わって来た。
腐っても魔法使い。混血が進んだとはいえ、恐ろしい気を放つ魔
法使いの存在を身をもって感じてしまう。
﹁ラスルさんは戻ってくるのでしょうか?﹂
﹁出来れば巻き込みたくはないのだがな。﹂
綺麗事では済まない。フランユーロにイジュトニアの魔法使いが
一人いるだけでも大事なのだ。
たった一人の魔法使い、しかも精神を患っているその様子に更な
る恐ろしさが募る。頼ってはいけないのだろうが、今直ぐにでもス
ウェールに味方してくれるイジュトニアの魔法使いはラスル以外に
いない。
フランユーロはスウェールとイジュトニアを同時に攻撃し、返り
討ちにあっている。それでもなをスウェールに戦いを仕掛けて来れ
たのは、イジュトニアの魔法使いを一人捕獲し、操る事が可能であ
ったからだ。例え狂っていても力に問題が無ければ大きな戦力にな
り、現にスウェールはたった一人の魔法使いに翻弄され押されてし
まっているのだ。
あの魔法使いを前に、スウェールの魔法使いだけでは例え束にな
っても敵わないだろう。
カルサイトはイジュトニアを訪れた際、イスタークがラスルを案
375
じて口にした言葉を思い出した。
︱︱︱魔力を奪われ続けると精神を病む危険を伴う︱︱︱
あの魔法使いが魔力を奪われ精神に異常をきたしたのなら、ラス
ルを攫った黒の魔法使いが未だ生存している可能性が大きい。
ラスル救出の際、カルサイトはシヴァに対し致命傷となり得る傷
を負わせたが⋮止めを刺した訳ではない。あの時は時間が無かった
とはいえ、完全に止めを刺せなかった自分に未熟さを感じる。僅か
に感じた躊躇が相手に強力な武器を与える結果になってしまったや
も知れないのだ。 戦場ではほんの僅かな判断の遅れが命取りになる。それが時を置
いて回ってくる事もあるのだと、カルサイトは今更ながらに身をも
って痛感していた。
その後、フランユーロとの戦いが再開されたのは翌朝早く。
同時に空を覆う分厚い灰色の雲から白い雪が降り注ぎ始めたが、
それに気付く者は誰一人として存在しなかった。
376
同族との戦い
ラスルが目にしたのは息絶える多くの人間。
黒焦げになった遺体からは肉の焼ける独特の異臭が放たれていた。
生き残る騎士や兵士は両軍入り乱れ、剣を手にし互いの命を狙い
合って戦いを繰り広げている。生きている者も多くが剣による傷と
共に火傷を負っていた。
生ける者と死せる者︱︱︱いったいどちらが多いのか。
判別もつかず、ラスルは地面に敷き詰められた遺体の隙間をぬっ
て進んで行く。傷付き倒れた生者を癒す余裕すらなかった。
何故こんな事になっているのか︱︱︱ラスルが探し求めるのは鎧
に身を包んだ者ではなく、漆黒のローブを纏う魔法使い。
事態を知らせた兵士の言葉でイジュトニアがフランユーロに付い
たかと思われたが、目に見える状況だとイジュトニアの魔法師団が
まほうつかい
フランユーロに味方し攻撃を仕掛けている様には映らない。被害は
大きいが相手はごく少数である事が伺えた。
より強力な魔力を求め意識を集中すると、さほど遠くない場所で
爆音が響く。
377
視線を向け注視すると、さほど大きくはない魔法使いの群れがあ
る事が解り、その中心には強大な力を感じ取れた。今まで以上に足
を速めると、戦いで傷付いた白いローブの魔法使い達が黒いローブ
に身を包む一人の魔法使いを取り囲んでいる。
スウェールの魔法使いは魔力の不足を補うため剣を握り、果敢に
も攻撃を仕掛けていたが力の差は歴然。剣に魔力を込め攻撃を仕掛
けてもそれが敵に届く事は無く、仕掛けた攻撃は容易く身体ごと弾
き飛ばされている。
彼らが負っている傷の殆どは、仕掛けた攻撃をそのまま返された
事による負傷だ。でなければこの程度の怪我で済みはしない。
誇り高いスウェールの魔法使い達も力の差を歴然と感じているの
か、ラスルが駆け寄ると黒いローブに一瞬新たな敵と驚きながらも、
顔を確認し味方と認めほっとした様な表情を見せる。そして言葉も
無く道を譲った。
﹁あなた⋮誰?﹂
ラスルは対峙した魔法使いの奇怪な様子に直ぐ様気付いた。
乱れたというだけではすまされないぼろぼろの頭髪。ローブから
覗く青白い汚れた肌には多くの引っかき傷が残り、それが自傷の痕
378
である事が伺える。
問うても返事はない。
ただ上下左右に揺らぐ淀んだ瞳がラスルを捕えると一瞬落ち付き、
魔法使いは大きく首を傾げた。
にやりと不敵な笑みが漏れる。
はっとした瞬間、魔法使いは今までにない素早さで深紅の光を発
し、幾多にも連なる光の矢をラスルめがけて放った。
あまりに速い動きであった為ラスルの反応が遅れる。
防御の壁は間に合わず、体中に深紅の矢が突き刺さると同時にラ
スルは己の体に回復の魔法を施した。
突き抜けた深紅の矢は赤い血飛沫を誘うが、矢が肉体から離れた
瞬間に傷痕は塞がる。
遅れて、傷が綺麗さっぱり癒された後に全身を痛みが襲い、焦り
を感じたラスルの背に冷たい汗が伝った。
深紅の光を宿す魔法使いに対し、黄金の光を宿す魔法使いである
ラスルの方が力は上だ︱︱︱それも格段に。しかし対峙する魔法使
いの動きはラスルの比ではない。宿す力の差はあっても相手は戦い
慣れた⋮魔法を戦いの道具として鍛え上げた、イジュトニアの魔法
師団出身者である事が容易に想像できた。
精神が異常である事は一目で解る。にも関わらず、体に刻まれた
戦い方は鈍る事が無い。ラスルを見て戦う相手と感じ取ったのもそ
の力を見抜き、心の奥底にある本質が招き起こしたのだろう。
﹁ラスルっ︱︱︱!﹂
379
﹁来るなっ!!!﹂
背後からの呼びかけに振り返る余裕はなく、ラスルは魔法使いに
視線を向けたまま叫ぶ。
来ては駄目だ︱︱︱周囲に構っていられる暇はない。
ラスルの体が淡い黄金の光に包まれると、対峙する魔法使いも口
角を上げにたりと不敵に笑い深紅の光に包み込まれる。
淀んでいた瞳は黒く艶を帯び、ラスルを前にし唯一の敵と戦いに
歓喜しているかで、ラスルはそれを恐ろしいと感じた。
この狂った魔法使いは欲望一つで動くのか? それが純血の魔法
使いが抱く強者に対する本質的欲求だったとしても、向けられた感
情がラスルに向けられるウェゼート王の執着に似ている気がして悪
寒が走る。
何時になったら抜け出せる?
何時になっても父王の呪縛から抜け出す事は叶わない。
答えは決まっているのに問い、諦めの悪さに嫌気がさす。
己に向かって容赦なく放たれる深紅の光に対抗し、ラスルも迷う
事無く黄金に輝く光を放ち続けた。
人を傷つけるなとか、同族だとかで躊躇する暇はない。やらなけ
ればやられるし、根底にある力がラスルの方が上だとしても、それ
を存分に使いこなす為の訓練を受けてはいない。対峙し感じるのは、
狂った魔法使いが戦いにおいて断然有利だという事だ。
間違いなく戦い慣れた相手は、攻撃と防御を同時に放ちつつ、ラ
スルの次なる攻撃を的確に予測し反撃して来るのだ。一方対するラ
スルはそれに付いて行くのがやっとで周りに気を使う余裕がない。
敵はスウェールにもあるというのに︱︱︱
380
気付いた時には足元をすくわれていた。
石化したように地面に縫い付けられ動かない両足。
攻撃を弾き飛ばしつつ避けようとした瞬間、ラスルはそのまま地
面に崩れ落ちた。
﹁何っ?!﹂
足元に感じる魔力の気配は知っている。あの日、森でラスルを狙
った矢と共に感じたものだ。
赤茶色の情熱的な瞳がラスルを捕え、狙っていた。
動きを拘束する魔法⋮純血種であるラスル達にはない、混血の魔
法使い達が魔法の幅を広げる為にあみだした魔法の一種。ほんの少
しでも異質な魔法に意識を向けていたなら、こんな子供だましの術
にかかる事もなかったのだが⋮
術を解くのは容易いが、目前の敵はそんな暇さえも与えてはくれ
なかった。
深紅の閃光が強大な光の球となりラスルめがけて突き進んで来る。
高速で移動するそれは近付くにつれ小さく濃縮され、標的に向かっ
て確実な死を齎す攻撃だ。
攻撃の大きさを理解したラスルは慌てて防御幕を張る。
光の壁がラスルの前に攻撃を阻むように立ち塞がるが、深紅の球
が黄金の壁にぶつかると壁はしなり、やがて球は壁を通り抜けラス
ルの右胸を抉り抜くと、深紅の球は役目を果たしたとばかりに消滅
した。
﹁う⋮ぐぅぅ⋮﹂
381
激痛に唸りながら受けた傷を素早く癒しにかかる。
拘束される足を解放させる間もなく次なる攻撃が向けられ、ラス
ルはやっとの思いで再度防御壁を張った。
傷を完全に癒す暇すらない。 次々と繰り出される攻撃にそれを防ぐのがやっとで力の差を見せ
つけられた。
流石にこの状態で更に深手を負えばラスルとて命の危険が伴う。
生に対しての執着はないが、何もかもに中途半端な今の状態を放
り出して自分だけ簡単に死ぬわけにはいかなかった。
ラスルは敵の攻撃を受け止めながら周囲に目を向ける。魔法使い
同士、本気のぶつかり合いに誰もが一定の距離を取って巻き添えに
なるのを避けていた。
それを見届けたラスルは防御を捨てると両手を目前に翳す。
その動作に敵は笑みを浮かべると、同じ様に両手をラスルへとか
ざし攻撃を仕掛けて来た。
深紅の炎と黄金の炎。両者が互いを捕え刃となって突き進む。
速度は深紅の炎の勝ちで、それに押され黄金の炎は地面に足を踏
みしめるラスルごと後退させるが、やがて黄金の炎は威力を増し深
紅の炎を打ち破ると敵に向かって一気に突き進む。
二つの光が互いを取り込み合いながら敵に向かって激突すると、
周囲を巻き込む爆発が起きた。
黄金と深紅の入り乱れた光が放射線状に飛び、辺りを眩い光で包
み込む。やがて光が治まると深く抉れた地面と、その中心に視界を
遮る砂埃が渦を巻いて立ちこめていた。
382
﹁︱︱︱殺った?﹂
ラスルは動かぬ足に平衡感覚をもがれ地面に倒れ込み、その衝撃
で右胸に受けた傷が酷く疼いた。
治療途中の傷からは真っ赤な血がしとしとと滲み出ている。
拘束された足の術を解きながら傷口に掌をあてがい、周囲の被害
状況を確認しようと頭を上げると同時に名を呼ぶ声が耳に届いた。
﹁ラスルっ!!﹂
緊迫した叫び声と、目の前に伸びる漆黒の影。
地面に座り込むラスルの前で、ぼろぼろのローブに身を包んだ魔
法使いが不敵に微笑みラスルを見下ろしていた。
これは勝利を確信した微笑みだ。
微笑む魔法使いの焼け焦げ裂けたローブからは汚れた肌が露出し
ており、隙間からは胸の膨らみが覗く。
︵女の人︱︱︱?︶
狂っているとは到底思えない、身なりに似合わぬ優雅な仕草で魔
法使いはラスルへと人差し指を突きだした。
その仕草の意味を知りながら、ラスルは全身の力が抜けた状態で
ぼんやりと敵の姿を眺めていた。
防御壁を作ったとて間にあわない。敵は戦いに優れ、ラスルの何
倍も上を行く存在だ。
383
最後に見たのは深紅の光と銀色の影。
と同時に、ラスルの体に魔力とは異なる衝撃が走った。
何者かに突き飛ばされたのだと気付いたのは背中が地面にぶつか
る衝撃と、我が身に圧し掛かる重みによってだった。
銀色の影は鎧。
しかしその鎧は纏われておらず、壊れた状態で地面に散乱してい
る。その散乱した鎧の向こう、もう少しで手が届くかという場所に
は敵である魔法使いが地面に倒れ伏し、腹部が真一文字に割れ、真
っ赤な血を流していた。
生きているのか死んでいるのかも分からない。だが意識の無い状
態でそのままにしておけば直ぐに事切れるのは確かだ。
次にラスルはその身に圧し掛かる人物の姿を確認する。
弾け飛んだ鎧のお陰で銀の長い髪が流れ落ち、ラスルの頬を擽っ
た。
端正な顔立ちが苦痛で歪んでいるが息はある。一時的に意識を失
っているだけだろうか?
ラスルは自由になる左手で圧し掛かるその人⋮カルサイトの頬に
そっと触れた。
圧し掛かられたままでは身動きが取れないが、身丈が大きく鍛え
上げられたカルサイトの下からラスルが自分の力だけで抜け出すの
384
は至難の業だ。
カルサイトに触れた頬から無事を確認するようにゆっくりと手を
ずらして行くと、生暖かい液体が自分の脇腹に伝わるのを感じ、手
を伸ばしてそれに触れると、ねっとりとした真っ赤な血液がラスル
の白い手を濡らした。
ラスルとカルサイトから少し離れた場所では、その光景をわなわ
なと震え、真っ青になりながら見据える美しい女の姿があった。
茶色を帯びた金髪に赤茶色の瞳が印象的な美貌の主、ユイリィで
ある。
ユイリィはラスルが殺される瞬間を今か今かと待ちわびていた。
ラスルにかけた拘束の術を味方の魔法使いに視線で咎めらようと
も気にもしない。ラスルを厭い、術を放っても止めようとしなかっ
た彼らも同罪だとユイリィは当然のように思っていたからだ。
この時のユイリィはラスルへ抱く嫉妬のあまり、迎え撃つ敵の強
さを十分に理解できていなかったのかもしれない。ラスルですら押
される純血種の魔法使いを相手に、ラスルを失ってどう対処するの
かすら考えていなかったのだ。
彼女の頭にあったのはただひたすらにラスルがいなくなる事。
この戦いで散ってくれるなら言う事無しの筈だったのに︱︱︱
﹁カルサイト︱︱︱っ!!﹂
ユイリィはここが戦場である事もわすれ、一心不乱に倒れたカル
サイトの元へと駆け寄って行った。
385
倒れるのはラスルの筈だったのに︱︱︱敵の攻撃を受け死ぬのは
ラスルだけで良かったのに。
ラスルを守るように飛び出し、剣で敵の腹を引き裂きながらも至
近距離から魔法による攻撃を受けた。鎧があってもただで済む訳が
なく、肉体を守るべき鎧はまるで当然の様に砕け散ったのだ。
走り寄るユイリィだったが、その身がカルサイトの倒れる場所ま
で辿りつく事はなかった。
遠くで女の悲痛な叫びが上がり、ラスルは倒れ込んだまま黒い光
が空を突き進んで行くのを目撃した。
その光が辿り着いた先は確認できなかったが、女の悲鳴が耳に届
いた事で彼女を捕えたのだと解る。
黒い光が伸びて来た方向に視線を向けると、予想した人物の冷た
い瞳がラスルの瞳と重なった。
﹁シヴァ︱︱︱﹂
頬は痩せこけ疲れた表情をしてはいたが、ラスルに突き刺さる冷
たい漆黒の瞳はぎらぎらと輝き、何処までも生命力に満ちていた。 386
真相
シヴァは負傷し意識の無いカルサイトを、邪魔とばかりにラスル
の上から蹴り退ける。
体に圧し掛かる枷から解放されたが、ラスルは自分を庇い怪我を
したカルサイトへとにじり寄ると、背に庇う様にしてシヴァを見上
げた。
ラスルが囚われたフランユーロの城から救出された際、シヴァは
カルサイトによってかなりの深手を負わされた筈である。
黒の光を宿す魔法使い。相手の魔力を奪うという異質な力を持つ
が故、自身に魔法は効かない。それは魔法使いを相手に最高の防御
となるが、その身に怪我を受けた際には治癒の魔法も効かないとい
う欠点も備えている。そしてシヴァがカルサイトより受けた傷は致
命傷となり得るものだった。だというのに目の前に再び姿を露わし
たシヴァは、疲れた姿ではあるがしっかりとした足取りでラスルの
目の前に立ち見下ろしている。
短期間であれだけの傷が完治したとは思えないが、目の前のシヴ
ァからは受けた致命傷の後遺症すら見受けられなかった。
シヴァから当然のように伸ばされた手はけしてラスルに優しいも
のではない。ラスルの身に残った魔力を完全に奪い去る為にだ。
ここで魔力を奪われては傷付いたカルサイトの治療が出来なくな
ってしまう。慌てたラスルは無駄と分かってはいてもシヴァに攻撃
387
を仕掛け、放たれた魔法はシヴァにぶつかると何事もなかったかに
そのまま吸収されていく。
﹁お前は何故狂わない?﹂
シヴァは疑問と共にラスルの額に触れ、残った魔力の全てを奪い
尽くそうとする。
ラスルへと幾度となく繰り返した行為。一度や二度ではないのだ。
その回数は軽く両手の指を超え数えきれないほど。奪えば奪う程シ
ヴァの体を蝕むラスルの膨大な魔力だが、ラスルは魔力を奪われた
後遺症を残す事無くこの場に存在しているのだ。
シヴァはカルサイトから受けた傷が塞がる間もなく、フランユー
ロ軍に同行しイジュトニアへと向かった。そこでフランユーロの戦
力とすべく一人の魔法使いを捕獲する。
イジュトニアの魔法師団に身を置く若い女の魔法使いだったが、
シヴァの前では赤子も同然。一度魔力を抜いただけで精神を病み、
己が誰であるのかすら分からなくなった。ただ魔力を抜かれる苦痛
を恐れ、シヴァの命令に従う生き人形と化す。
それが魔力を抜かれた魔法使いのなれの果てだ。だというのに、
何故ラスルはそうならないのか不思議でならなかった。
同じ魔法使いでありながら何が違う? 宿す光が黄金だから⋮王
の血を引くから特別だとでも言うのか。
魔力を奪われたラスルは声にならない悲鳴を上げながら地面に倒
れ込んだ。その様をシヴァは冷めた目で見下ろす。
﹁ウェゼートへの最後の報復はお前を永久に手の届かぬ場所へ送
る事。あの男が私からイシェラスを奪い去った様に、イシェラス同
388
様⋮未来永劫お前を奴の手の届かぬ場所へと送り届けてやろう。﹂
黒の光の魔法使い。その力はたいしたものではなくとも、魔力を
奪われたラスルを殺すなど容易い事だ。
黒い光を掌に宿すシヴァに、ラスルは必死の思いで顔を向ける。
視界はぼやけ霞んでいたがシヴァの姿を捕える事は出来た。
﹁イシェラス⋮同様?﹂
それはいったいどういう意味だ?
疑問に思いラスルが声を絞り出すと、無表情で冷静に見えていた
シヴァの顔つきがほんの僅かに引き攣った。
﹁イシェラスの娘であるお前に刃を向けるつもりはなかったのだ
が︱︱︱真に憎むべき相手はお前だったのやも知れぬ。﹂
そう呟くとシヴァは黒い光を掌に抱えたまま、倒れるラスルの前
に片膝を付き、遠い昔の出来事を思い出していた。
イシェラスがウェゼート王の子を宿したと知り姿を隠したシヴァ
は、魔法師団を無断で退団した咎として追われる身となった。だが
実際には、イシェラスを完全に我が物にしたいと願うウェゼートの
個人的感情が大部分を占めていたのは隠しきれない事実。多くの魔
法使いが忽然と姿を消したシヴァを追ったが、魔法の通じないシヴ
ァを捕える事は最後まで叶わなかった。
その後シヴァは一度だけ魔法使いの溢れる王城に侵入し、イシェ
ラスと対面を果たした。それは子を産み落としたイシェラスをウェ
ゼートの元から救い出し、共に逃げる為にだ。
389
しかしイシェラスはシヴァの手を取る事を拒んだ。
例え自分の幸せを奪い去った憎い男の子供だとは言え、腹を痛め
産み落とした我が子をこんな世界に置いて行く事が出来なかったの
だ。
シヴァとて出来る事なら母子を引き離す事などしたくはない。愛
しいイシェラスの願いなら尚更だ。
しかし産み落とされたラスルには王家の刻印が刻み込まれており、
共に連れて行けは居場所は瞬く間に露見する。シヴァとイシェラス
が共に生きる為には産まれた子は諦め捨てる他なかった。
この時のイシェラスは一人の女であり、そして同時に母でもあっ
た。
我が子を捨ておけず、最終的にはシヴァへの想いより子を選ぶ。
それをシヴァはウェゼートの血を引く子によってもたらされた災い
と認識し、裏切りと感じ取ってしまったのだ。
愛する妻に、愛されたままでいたい︱︱︱
その自分勝手な願いが誰も知らない思わぬ結末を齎した。
﹁最後に鼓動を止め、イシェラスに死を招いたのは私だ。﹂
あの時のイシェラスは度重なる心労と出産により心身ともに弱り
果てていた。シヴァが手を下さずともいづれ命も尽きただろう。し
かし、シヴァはイシェラスの愛を受けたままの結末を望み、イシェ
ラス自身もそれに抗う事はしなかったのだ。
シヴァがイシェラスの心臓に手を翳すと打ち付ける鼓動は徐々に
弱くなる。
二人は抱き合い互いを見つめたまま、イシェラスはほんの僅かな
苦痛も無く、優しい温もりに包まれ、やがて鼓動は途絶えて行った。
390
愛しいからこそ、永遠に同じ思いを抱き続けたかった。このまま
永遠に手に入れる事が叶わないのなら、愛し愛される状態で終わり
にしたかったのだ。自分だけに向けられる愛情が産み落とされた赤
子にも向けられたと知った時、赤子の母親がイシェラスであるにも
関わらず、シヴァはイシェラスの心までもがウェゼートに奪われる
不安に襲われた。
誰も知らない死の真相。
愛するが故、愛を失う事を恐れ奪った命。それを何の抵抗も無く
受け入れたイシェラスのシヴァに対する想い。
真に恨むべき相手は︱︱︱まさにラスルだったのではないだろう
か?
意に反し体を奪われようとひたすら向けられたシヴァへの愛情。
それに歪みを齎したのはラスルの存在だ。
﹁やっぱりわたしは⋮全てにおいての疫病神だ。﹂ ラスルの存在が多くを苦しめ、傷付ける。その全てに関わり不幸
を齎す身が何故今まで抹殺されずに残されたのか。
あの日、父王の元から逃げ出したのが全ての間違い?
﹁ならばここで全てを終わらせよう︱︱︱﹂
シヴァの掌で転がされる黒い玉が一際輝きを増し、ラスルはそれ
を受け止めるべく瞼を閉じた。
391
ラスル
﹁己のえごを他人のせいにするな︱︱︱!﹂
ひゅっ、という空を切る音と共にラスルが目を開くと、後方から
伸びたカルサイトの剣がシヴァの胸を貫いていた。
﹁イシェラスの死もこの戦も、すべてはそれに関わる者が招いた
醜い欲望の結果だ。それを正論の如く自分勝手に解釈し、他人のせ
いにして完結させようとはあまりにも身勝手なのではないか!?﹂
ラスル
ラスルのせいだと告げる側も馬鹿げているが、告げられた側も何
故すんなりと納得してしまうのか。あまりにも馬鹿げたやり取りに
怒りを通り越してあきれてしまう。
ラスル一人の存在だけでこれ程の血が流れる戦いが起こってなる
ものか︱︱︱!
カルサイトの鋭い視線の先で、胸を貫かれたシヴァは苦痛に顔を
ゆがめながらも意地とばかりに最後の力を振り絞り、ラスルへ向け
損ねた漆黒の光をカルサイトへと向けて解放する。
﹁イヤぁッ︱︱︱︱︱︱!!﹂
庇おうと思わず出したラスルの腕を巻き込み、漆黒の光はカルサ
イトの体にのめり込んだ。
392
胸に剣を突き刺したまま地面に倒れるシヴァ、そして魔法により
肉が抉れる不快音︱︱︱
その音を最後に、ラスルの世界からは全ての音が消滅した。
393
懇願
漆黒のローブに身を包んだ魔法使い。
その狂った魔法使いに対峙するラスルを目にした時、アルゼスは
今すぐにでも駆けつけたい衝動に駆られ、声を張り上げ名を叫んで
いた。
﹃来るな︱︱︱!﹄
叫び返されたが、駆けつけたくともアルゼスが対峙する相手はそ
うはさせてくれない。
アルゼスの前に立ち塞がるのは、漆黒の強靭な軍馬に跨るフラン
ユーロの王グローグ。
齢六十を迎えた王は年に似合わず雄々しく、大ぶりの剣を容易く
扱いこなし若いアルゼスの動きを封じて翻弄して来る。
事実大将戦、ここで落ちた方の負けだ。
経験と体格差はあるものの、アルゼスとて剣技においては全く引
けを取らない。騎乗での戦いで押されているのも、その原因はラス
ルを気にするあまり戦いに集中できていないアルゼス自身にあった
が、そんな状態も長くは続かなかった。
互いの相手は一人ではなく、敵国の騎士が将を守りに次々と現れ
戦いに乱入して来る。
これは訓練でも試合でもない、命の飛び交う戦場なのだ。
一対一の戦いの場ではなく、どんな汚い手を使っても許される場
所。美辞麗句を並べようと死んで国を取られたら終わり。命をかけ
394
る以上騎士道に則り誠心誠意戦うのは常だが、そうは言っていられ
ない時という物が現実にはある。
飛び交う鮮血。倒れた屍を構う事無く踏みつけ戦いは続く。
重い甲冑を纏っている為傷は少ないが、その分動きは鈍る。
グローグ王の剣により叩きつけられたアルゼスは、身を守る甲冑
の重さと叩きつけられた勢いに負け、何とか体勢を持ちこたえさせ
ようと強く手綱を引いたものの落馬し、馬ごと地面に叩きつけられ
た。
その拍子に頭を守る兜が飛び、眩いばかりの淡い金髪が現れる。
熱い頬に冷たい雪が触れたがそれに気付く余裕など微塵もなかった。
直ぐ様体勢を立て直そうとしたアルゼスであったが、共に倒れた
馬体に片足が挟まれている事に気付く。馬は足を折ったのか悶える
ばかりで一向に立ちあがる気配を見せず、倒れたアルゼスの目前に
軍馬の太い足が迫った。
見上げると兜を脱ぎ、剣先をアルゼスに向けたグローグ王が満足
そうに笑みを浮かべ、馬上よりアルゼスを見下ろしていた。
兜を脱ぎ現れた顔には多くの深い皺が刻まれてはいたが、雄々し
く余裕綽々な様は一国の王の威厳を湛えている。
前回の敗戦から五年余り︱︱︱屈辱が歓喜に代わる瞬間だ。
﹁敵ながら見事であったぞ。﹂
低く重い声が落とされグローグの剣がアルゼスの首めがけて振り
下ろされたが、首と胴が切り離されたのはアルゼスではなく、剣を
395
振り下ろしたグローグ王自身。
グローグの首が胴から離れた瞬間、真っ赤に燃えるおびただしい
鮮血が飛び散り、見上げるアルゼスに容赦なく降り注いだ。
切り離された首は見事な弧を描いて宙を舞い、最後にはゴトリと
いう音を立て地面に転げ落ちる。そして首が落ちた音が合図である
かに、馬上に取り残されていた胴が安定を失い地面に落下した。
﹁スウェールの王子を救ったとなると⋮これは報奨が楽しみだな
︱︱︱﹂
﹁︱︱︱ザイガド!﹂
大ぶりの剣を肩に担いだ浅黒い肌の男がアルゼスの前に姿を現す。
肩に担いだ剣にはたった今首を狩ったグローグ王の鮮やかな血が
べっとりとこびり付いていた。
ザイガドはアルゼスの足を下敷きにする馬の手綱を引き隙間を作
る。その間も襲いかかって来る敵を易々と薙ぎ払い、軽口とは裏腹
に恐ろしい程研ぎ澄まされた視線を向かって来る敵に向けていた。
まさかここでザイガドが姿を現すとは思ってもいなかったアルゼ
スは、口だけではない男の戦い振りに僅かに見惚れる。だが耳に届
いた悲鳴にはっとし、慌てて気に止めていた方角へ体ごと視線を馳
せた。
396
この時アルゼスの目に飛び込んで来たのは、カルサイトの体を漆
黒の光が貫く瞬間だった。
﹁いやっ、いやっ、イヤぁぁぁぁぁぁぁぁ︱︱︱︱っ!!!!﹂
美しい顔を驚愕に凍て付かせ、倒れるカルサイトにしがみ付く。
右胸に大きな傷を負い、更に右腕は抉れ骨が見えていたが痛みす
ら感じる事無く、ラスルはただひたすらカルサイトにしがみ付き叫
び続けていた。
どんなに叫んでも、どれ程体を揺すっても深い紫の瞳が開かれる
事はない。腹と左胸︱︱︱心臓の位置に大きな風穴を開けられた肉
体は既に鼓動を打つ事を放棄していた。
397
何故カルサイトが︱︱︱何故カルサイトなのか?!
完全に魔力を奪われた今のラスルでは、癒しの力は振るえず全く
の無力だ。力を奪い取られ起き上がる事すら出来ない筈なのにこう
して縋りつき叫ぶ事は叶う。
そんな事よりも力を︱︱︱これ程魔力を羨望した過去があったで
あろうか?
鼓動を打たずとも今ならまだ間に合うかもしれない。それなのに、
その力がある筈の自分は何て無力で︱︱︱これ程に腹が立つのか。
必要な時に、これ程渇望しているのに何の役にも立たない自分。
﹁お願い助けて⋮誰か⋮誰か彼を助けて︱︱︱!﹂
叫ぶ声はかすれ、愛しい者を失う恐ろしさに体が震える。
突然の出来事に錯乱したかに頭を掻き身体をむしりながら周囲に
訴えるが、ラスルの頭は意外にも冷静に現実を捕え始めていた。
こんな状況︱︱︱たとえイジュトニアの魔法使いが束になって治
療にあたったとしても無理だ。助ける事など不可能だと︱︱︱分か
ってはいたがそれを否定したくてラスルは周囲に助けを求めわめき
散らす。
駆けつけて来たアルゼスの姿を認めるとラスルは﹁助けて﹂と叫
び縋り付いた。惨状を目の当たりにし呆然と立ち尽くしたアルゼス
は、縋るように飛びついて来たラスルを受け止めながらも、何て事
だと⋮この光景が信じられないとばかりに額に手を当て何かを呟く。
しかしアルゼスの呟きはラスルの耳には届かず、ラスルはアルゼス
の後方で冷静に状況を見据えるザイガドの姿にも全く気が付かなか
った。
398
不要なものは全てを遮断するかの感覚。
目の前にいるザイガドに気付く事はないというのに、はるか後方
より走り寄って来る気配にラスルは振り返る。
戦場をかけ周り、汚れた白いローブに身を包んだシュオンだった。
﹁お願いシュオン︱︱︱!﹂
助けてと、最後の言葉は掻き消えた。
ラスルが魔法を使えないという状況を知らないシュオンは、何故
ラスルが手当てしないのかと不思議に思いながら切羽詰まった様に
懇願され、言われるまま倒れたカルサイトへ駆け寄り治癒魔法を施
そうとしたが⋮伸ばした手がその場で静止する。
﹁何してるの?! お願い早くっ⋮早くしてっ!!!﹂
横たわるカルサイトごしに負傷した腕を伸ばしシュオンを揺する
と、ラスルの腕から滴り落ちた血がシュオンの白いローブを汚した。
ラスルは驚愕に目を見開くシュオンを更に揺すると声を張り上げ
る。
﹁お願い早くしてっ︱︱︱早くカルサイトを助けてっ!!﹂
﹁無理です︱︱︱こんなの⋮ラスルさんでも無理なのに僕に出来
る訳︱︱︱!﹂
﹁出来るわよっ、あなたになら出来る。わたしでは力を削がれて
いて無理なの⋮お願いシュオン⋮やる前から諦めないで!﹂
ラスルの悲痛な叫びにシュオンは再度カルサイトを見るが、冷静
399
に判断出来なくても既に事切れているという事は一目で理解出来た。
左胸に穴が開き、心臓が確認できないのだ。
既に鼓動の停止した人間を呼び戻すなど神の領域だ。奇跡でも起
こらない限り︱︱︱いや、この状態で奇跡を期待する方がおかしい。
シュオンはやり場のない思いを抱え、縋りつくラスルの視線から
逃れるように目を反らすと、ぐっと強く奥歯を食いしばる。
ラスルが幾度となくシュオンの肩をゆすっても視線が合わされる
事はなかった。
お願い︱︱︱
今にも消え入りそうな声。
見かねたアルゼスが乱暴にシュオンの体を揺すり続けるラスルを
引き離すと、ラスルはそれから逃れるように暴れ出す。
魔力を抜き取られ、起き上がれる体力すらない筈のラスルが暴れ
たとて何て事はなかったが、アルゼスはラスルの抵抗を受け入れ容
易く手を離した。
ラスルはそのまま横たわるカルサイトに倒れ込むように縋りつく
と、悲痛な声を上げ泣き叫んだ。
雪の舞い散る戦場に木霊する悲鳴は、いまだ続く戦いの喧騒によ
り掻き消される。
スウェールにおいて一・二の実力を宿す騎士。
戦場にて人の命が保障される事などあり得ないが、そのカルサイ
400
トが戦死するなど、この場にいる誰もが予測だにしない出来事であ
った。
401
悲しみと驕り
野営地に設けられた天幕の中。
暗く寒い天幕の中には、所狭しと戦死した兵士・騎士の遺体が魔
法による防腐処理を施され安置されていた。
その天幕の中に生ける人間が一人。
漆黒のローブに身を纏い、寒さの中にあっても普段は白い肌をほ
んのりと赤く染め、温もりを持たない遺体に囲まれながら場違いな
体温を発するラスルの姿。
漆黒の瞳は悲しみと熱のせいで赤く艶やかに濡れていた。
骨が露出する程に肉が抉れた右腕の治療が遅れたせいで、ラスル
は三日三晩高熱にうなされた。
高熱のせいで幾度となく意識を失い仮設の寝台に横たえられなが
らも、僅かに意識を取り戻すと、朦朧とした状態で遺体の安置され
る天幕へと足を運ぶ。息絶えた肉体からは気配も何もかもが失われ
ていたが、ラスルは的確にその場所を目指すと、横たえられた冷た
い遺体に頬を寄せ、熱い指先で精気の失われたカルサイトの頬を撫
でた。
何故カルサイトが死んでしまったのか。
その全てが自分のせいであると思えてならないし、現実にそうな
のだという思いは拭いきれない。だがカルサイトが最後に口にした
言葉が、ラスルにそれを認める事を躊躇させていた。
402
イジュトニアの魔法使いを相手に二度もラスルを庇い、最後の最
後で倒れた。
絶大で完全なる魔力に剣一本で挑み倒した功績は大きかったが、
その代償もあまりにも大きい。人一人の命がこれほど重く、儚く感
じたのは初めてだった。
愛する者に先立たれ、残された者が受ける悲しみ。
知ってはいたが︱︱︱たった一人の味方であった祖父が死んだ時
とは比べ物にならない悲しみと孤独感がラスルを襲う。
愛する者へ向ける感情が違い過ぎたのだ。
本来なら自分がカルサイトを置いて先立つ筈だった。
心が引き裂かれ、右も左も分からない彷徨える現状。失った悲し
みは例えようがない。とにかく苦しくて悲しくて、思いのやり場が
なく辛いのだ。
何も言えない、何も出来ない︱︱︱どうすればいいのか分からな
い。
今直ぐカルサイトを追って死んでしまいたいけれど、どうすれば
死ねるのかすら解らなかった。
悲しみと共に有るのは何処までも続く、果てしなく深い後悔だ。
﹁ラスル︱︱︱﹂
戸惑い気味にかけられたアルゼスの声にすら反応できない。息を
しないカルサイトの胸に頬を寄せるラスルの瞳から一筋の涙が零れ
落ちた。
403
やり切れない思いを抱え、アルゼスは傍らに膝を付きラスルの頭
を撫でる。
アルゼスとてカルサイトの死を現実の物と理解できずにいた。
幼い時より共に育ち、友であり好敵手⋮誰よりも心が許せ信頼で
きる相手であった。実戦を知る仲として、剣の訓練ではアルゼスが
王子だからと手を抜いた例が無い。全力でぶつかり鍛え上げなけれ
ば戦場で危険になるのはアルゼスであると知っているからだ。だか
らこそ知るカルサイトの実力。
そのカルサイトが息絶える日が来るなどと、アルゼスはただの一
度も想像した事が無かった。
しかし現実に体温を失い、二度と目を開く事のない友が横たわっ
ている。
何故お前が︱︱︱
現実が受け止めきれずにアルゼスも何故という思いを抱く。
純血種であり圧倒的力を宿すイジュトニアの魔法使いを相手に、
剣一本で戦い無事でいられる訳がない。それでもカルサイトなら大
丈夫だという思いがいまだに消えないのだ。
それに⋮
アルゼスは悲しみに暮れるラスルに視線を向ける。
カルサイトがラスルを残して死んでしまうなど絶対にあってはい
けない事だと︱︱︱これからいったいどうすればいいのかと︱︱︱
アルゼスはラスルをカルサイトの代わりに守ってやらなければと思
いはするが、それが実は邪まな気持ちではないのかと不安に駆られ
てしまう。
カルサイトを失ってしまったからこそ、二度と想いを表に現す事
404
が出来なくなってしまった。
︵何故ラスルを残して行くのだ?!︶
責めれば再び目を開けるのではないのかと、非現実的な有り得も
しない奇跡を期待してしまう。
慰め、慰められる様にラスルの頭を撫でていると、まるで独り言
のようにラスルが呟いた。
﹁何も︱︱︱何も伝えてないのに︱︱︱﹂
擦れた、今にも消え入りそうな声だが、死体ばかりが並ぶ静寂の
中でその声は十分にアルゼスの耳に届く。
﹁好きなのに⋮愛しているのに⋮それなのに怖くて、一度も愛し
ているって言えなかった。本当の事も何一つ伝えられなかった。偽
り続けて︱︱︱わざと傷つけた。なのにカルサイトは愛してくれて
︱︱︱本当は嬉しかった筈なのに︱︱︱全部自分でぶち壊して。﹂
ぽつりぽつりと呟かれる言葉は、言葉を紡ぎながらラスルが己の
心に気付いて行く心情だ。失って初めて気付かされたカルサイトの
存在とその大きさ。正直に口に出来なかった後悔がひたすら押し寄
せる。
﹁今更言ってももう聞こえない、届かないの。愛してるって⋮貴
方と一緒に生きて行きたいって⋮本当の気持ちをどうして口にしな
かったのか後悔ばかり︱︱︱﹂
405
初雪のちらつくも森でプロポーズされた時も驚きで答えを出せな
かった。
本当ならすぐに断っていた筈だけれど、自分に起きないと決めつ
けていた出来事に驚き、その驚きの間に喜びを感じて噛み締めてい
たのかもしれない。
近い将来命が尽き、自分が死ぬ事ばかり考えていたから︱︱︱何
一つ素直になれなかった。
ラスルは無表情のまま、ぽろぽろと涙を流し続ける。
カルサイトの亡き骸に告白するラスルを、アルゼスはただ沈痛な
面持ちで見守り続けた。
翌朝隊は都に向かって帰路を取る。
損傷の少ない遺体は防腐処理が施され家族に返されるが、損傷が
激し過ぎる遺体はこの地に埋葬された。敵国の兵士達も同様、異国
となるスウェールで永遠の眠りに付く。
フランユーロ国王グローグの首が落ちたとによりスウェールの勝
利は確定したが、それでもまだフランユーロとの小競り合いは続い
406
ている。しかし統率者を失ったフランユーロが完全に落ちるのは時
間の問題で、既に戦意喪失し、勝手に戦いを止めるフランユーロ兵
も多かった。これ以上王太子であるアルゼスがこの地に留まり指揮
を執るまでもない。
グローグ王の首を取ったザイガドは何時の間にか姿を消していた。
無条件で信頼のおける輩ではないが疑いの念を持っている訳でもな
い。ほとぼりが冷めた頃にでも現れ報奨を要求して来るだろうと、
アルゼスはザイガドに対してその程度に考えていたし、気に食わな
い相手だがザイガドのお陰でアルゼスが命拾いしたのも確かだ。
安置される遺体の天幕にラスルを残して行く訳にもいかない。
天幕を出る際アルゼスがラスルの手を引くと、意外にもラスルは
抗う事なく素直に従った。
眠りにでも付かない限りカルサイトの傍らを離れる事のなかった
ラスルにしては大きな進歩だ。カルサイトの死を受け入れたのかも
しれないし、気持ちを言葉に出した事で少しばかり前に進んだのか
もしれない。どちらかというと、アルゼスの方がカルサイトの死と
いう現実に付いて行けていないのではないかとすら感じていた。
ずっと食事をしていないラスルの腕は更に細くなった気がした。
天幕を出る為手を引くが、それすら重みを感じない。
天幕を出た所で一人の女が駆け寄ってくる。
女はラスルの前で立ち止まると間髪いれずに右手を振り上げ、ラ
スルの頬を力任せに平手で殴りつけた。
﹁ユイリィっ!!﹂
殴られた拍子で身体をよろめかせたラスルをアルゼスが支え、女
407
を睨みつけると叱咤の声を上げる。
普段は整い美しいばかりのユイリィだったが、目を吊り上げ血走
らせてラスルを睨みつける様は何かに取りつかれた様な凄まじい形
相だった。
アルゼスの言葉も届いていないのか、ユイリィは更にラスルに掴
みかかろうと飛びかかってくる。それをアルゼスが庇いラスルごと
かわすと、ユイリィを追って来た魔法使いが慌てて後ろから拘束し、
ユイリィの動きを止めた。
ユイリィは拘束されたことで離せと暴れながらラスルに罵声を浴
びせる。
﹁この女がいたせいでカルサイトが死んだのよっ。この女さえい
なければカルサイトは死なずにすんだ筈なのにっ⋮お前さえ、お前
さえいなければっ⋮男に興味がなさそうにすました顔しておきなが
ら、何でもない振りして近付いて誑かす女が一番厄介でムカつくわ。
お前の様な悪しき存在が全ての不幸を齎した根源なのよっ!!﹂
ユイリィは嫉妬以外の何物でもない罵声を吐きながら、アルゼス
ごしにラスルに殴りかかろうとする。
嫉妬と怒りのあまり王太子たるアルゼスの存在が見えていないの
か⋮あまりの愚行にユイリィを止める仲間の魔法使いも必死だった。
怒り狂うユイリィだったが、彼女自身シヴァの攻撃をまともに受
け大怪我を追っていた。怪我は癒しの魔法で完治していたが、体そ
のものは受けたダメージから回復しきれていない。叫び暴れるあま
り酸欠状態に陥りよろよろとその場にへたり込んだ。
ユイリィの罵声を聞き付け足を止めた者らが遠巻きに様子を伺っ
ている。アルゼスは地面に座り込み、肩で大きく息をするユイリィ
に向かって冷ややかな視線を送った。
408
﹁お前にラスルを非難する権利があるのか?﹂
アルゼスの威圧するように冷たく突き放す重い声色に、ユイリィ
の体がビクリと震える。
スウェールにおいて魔法とは、天からの恵みを受けた者にだけ許
される才能だ。魔法使いは常に羨望の眼差しを受け、その希少性か
ら上下関係はあるにしろ王家一族ですら彼らを本気で怒らせる様な
事はしない。一国を守る大きな戦力として囲われる代わりにあらゆ
る特権が許される︱︱︱魔法使いはそういう扱いを受けて当然で、
ユイリィも自分はそれに相応しい特別な存在と自負していた。
だからこそ自分に向けられた⋮まるで厳罰を下されるかの声に驚
き、汚らわしい物でも見るかのアルゼスの視線が理解できず、ユイ
リィは怪訝に眉間に皺を寄せる。
軽蔑の眼差し︱︱︱
向けた事はあっても向けられた事などただの一度もない。
﹁お前は敵国の魔法使いと対峙するラスルに拘束の魔法をかけ、
ラスルはそのせいで命を危険に曝す事態に陥った。﹂
これをどう説明するのだとアルゼスは冷ややかにユイリィを見下
ろす。
多くの負傷者を招き、多大なる損害を被った。一歩間違えば国が
滅びた事態に、事の次第を目撃した者からアルゼスの耳に入れられ
たのだ。
それでもユイリィが貴重な魔法使いだからという理由だけで、他
の騎士兵士なら厳罰に処さねばならない所を報告を受けるだけに終
わっていた。事実をアルゼスの耳に入れた者もユイリィが罰を受け
る事はないと知っていたからこそ、告げ口の様だと迷いながらも報
409
告だけはしたのだ。
だがアルゼスは、この特別扱いこそがそもそもの間違いだと今更
ながらに悔いる。
﹁お前達がイジュトニアの魔法使いに抱く嫌悪は理解できないが、
それについてとやかく意見するつもりはない。だが敵国に味方する
魔法使いに我が軍が、お前達が束になってすら太刀打ちできないと
身をもって知りながら、唯一の戦力であるラスルの動きを封じると
は何事だ。カルサイトが死んだのはラスルのせいだと? 笑わせる
な。ラスルが動きを封じられたからこそカルサイトが守りに向かっ
たのではないのか? 戦場での死を誰かのせいにするつもりはない
がユイリィ、己の仕出かした罪をよく考えてから物を言うのだな。﹂
アルゼスの言葉を黙って聞いていたユイリィはその一言で目を見
開く。
誇りと自尊心を傷つけられ、相手が王太子であっても一向に構わ
ないとばかりにユイリィは口を開いた。
﹁考えてから物を言うのは殿下の方です。ええそうよ、確かにわ
たしがこの女の動きを封じた。でもそれが何?! カルサイトがこ
の女の元へ走ったのは、この女の掌でいい様に弄ばれていたせい。
この女さえいなければ彼が死ぬ事だけは無かった。それ所か、一歩
間違えば死んでいたのは殿下ご自身であったかも知れないのですよ
?!﹂
﹁止めろユイリィ、殿下の御前で見苦しいぞ!﹂
申し訳ありませんと、ユイリィを拘束する魔法使いが代わりに頭
を下げるが、再び火のついたユイリィは止まらない。
﹁何が見苦しいよ。この女が邪魔なのはあんた達だって同じじゃ
410
まほうつかい
ない!カルサイトばかりか殿下まで⋮事もあろうにわたし達の中に
もこの女に誑かされてる輩がいるってのに黙ってられないわ!!﹂
周りが全く見えずに喚き散らすばかりのユイリィを、一方のアル
ゼスは冷ややかな視線で冷静に見下ろす。その突き刺す様な視線に
ユイリィが気付いた所でアルゼスは、言葉に感情を交えず冷たく言
い放った。
﹁お前への処分は都に戻り次第決定を下す。今回は魔法使いだか
らという特例を交えるつもりはない。厳罰が下るものと覚悟してお
け。﹂
アルゼスはこれ見よがしにラスルの肩に腕を回し抱き寄せると、
まるで壊れものでも扱う様に、大切に優しく労わりながらラスルを
連れてユイリィの前から立ち去って行った。
411
偽りの吉報
お前のせいでカルサイトが死んだ︱︱︱!!
敵意むき出しで叩きつけられた言葉だったが、何故かラスルはほ
っとしていた。
優しさばかりが向けられる中で、唯一自分と同意見⋮己を厭う事
を認められた気がしたのだ。
イシェラスの死もこの戦いも全てはそれに関わる者が招いた結果、
それを他人のせいにして︱︱︱と、最後にカルサイトがシヴァに向
けた言葉がラスルの胸に突き刺さっていた。
シヴァに向けられた言葉だったが、それはラスルに対しても向け
られていた言葉に感じたからだ。
自分のせいにして楽になろうとしている︱︱︱まるでそう言われ
ているようだったし、それをカルサイトは感じていたのだろう。
全てが自分のせいだと突き付けられ、今はほっとしている。生を
放棄する理由を与えられたようで心が軽くなってしまったのだ。
しかし現実にそれを遂行する事は叶わない。
カルサイトに庇われ、生き延びてしまった命。
いづれ命が果てるのは確実だが、ラスルが生き残った経緯にカル
サイトの死がある為、ラスルがそれを己で決める事は許されないの
だ。
ラスルが自ら死を願い、生きる事を断つ。それはカルサイトの命
412
まで無駄にしてしまうという事。
一つの死を背負う︱︱︱なんて重いのだろう。
生きる理由も見出せないのに、見出さなければならない。そうし
なければカルサイトの死を、生きた証を邪険に扱い否定してしまう
気がする。
彼に誇れる、守られるに相応しい生き方など到底思い付かないラ
スルは、まるで生きた屍のようにぼんやりと時間を過ごす事でしか
生き続けられずにいた。 都に戻って後、カルサイトの遺体は彼の父親が治める領地に戻さ
れた。
カルサイトはスウェール建国当時から続く名門の貴族出身で、彼
の父親は東に広大な領地をもつ領主でもある。その長子であるカル
サイトはやがてその後を継ぐべき存在であり、唯一の直系男子であ
った。
領地へ向かう旅にラスルも同行したかったが、カルサイトの両親
からすれば息子の死に関わる直接の原因であるラスルなど目障りな
存在でしかないだろう。
あわせる顔も無く、側にいる為の理由もない。愛された者として
堂々とすればよいのだろうが、カルサイトの想いに答える術すらな
かったラスルにはそれすらも出来なかった。
焼き打ちに遭いはしたが、森のあばら屋は無事な筈だ。
そこに戻る事も考えたが今のラスルは何の行動も起こせず、こん
413
な状態のラスルをアルゼスが手放す筈もない。だが戦争後の処理を
抱え忙しく時間の取れないアルゼスでは、ラスルの世話を甲斐甲斐
しく焼く事が叶わず、不本意ながらもこの場で最もラスルに対して
好意的感情を持つシュオンにラスルを頼んだ。
任されたシュオンは二つ返事で請け負ったが、日々憔悴して行く
ラスルを見ているととても悲しい気持ちになるばかりだった。
食事を運んでも手を付けず、無理矢理口に運んで食してもらえば
直ぐに吐いてしまう。心因的要因で食べるのを拒否しているのが明
らかで、あまりの痛々しさに涙が零れた。するとラスルが力なく微
笑み﹃ごめんなさい﹄と謝るのだ。
あまりの痛々しさにシュオンは、何故ラスルを残して死んでしま
ったのかと心の中でカルサイトを責めた。
かつては薬草で溢れかえっていた部屋も綺麗に片付けられており、
都に戻って来てから採取した形跡もない。部屋中に溢れていた薬草
の痕跡も残された独特の匂いが物語っているだけだ。
この様な状況にあれば当然と言えば当然なのだが、まるで没頭す
る趣味かの如く勝手に体が動き道端の草に手を伸ばしていた過去の
ラスルを知るだけに、今はただ生きる屍であるかのように薄暗い部
屋を出ようともしないラスルの姿を目の当たりにし、シュオンはた
だ胸を痛めるばかりだった。
流石にこのままではいけないと、シュオンはラスルを外へ誘った。
するとラスルは意外にも嫌がる事無く無造作に寝台から身を起こす。
返事もないが肯定の意味だろう。
シュオンは弱り切ったラスルの手を引いて久し振りの外界へとラ
スルを連れ出した。
414
冷たい空気が頬をなぞる。
季節は冬本番を迎え、スウェールの城は辺り一面真っ白な銀世界。
昼間の日差しを浴びて降り積もった雪がきらきらと輝いていたが、
気温の低さ故に雪が解ける事はない。
雪に照り返される日の光を受け、ラスルは眩しそうに目を細めた。
何処へ行くと目的などなくただ二人歩みを進めると、白い雪の上
に足跡だけが残される。シュオンは長く臥せっていた為体力の落ち
切ったラスルを気にし、外出は人目を避けつつ城の周辺だけに止め
おくつもりでいたが、何時の間にかラスルの方がシュオンの手を引
いて城から離れる様に歩みを進めて行っていた。
アルゼスにはラスルを外へ連れ出す報告をしていない。心配する
といけないと思い、シュオンはラスルにそろそろ戻ろうかと声をか
けようとする。
だがラスルはシュオンが声をかける前に自ら歩みを止めた。
どうしたのだろうとラスルを見ると、漆黒の瞳が真っ直ぐに正面
を見据えている。その視線の先には浅黒い肌をした、体格の良い大
きな男が行く手を遮るかに立ち塞がっていた。
大きな体がマントで隠れてはいるが、男の体が極限まで鍛え上げ
られている事がシュオンにも解る。鋭い眼差しに警戒心を深めたシ
ュオンだったが、この男には見覚えがあった。
男がグローグ王の首をとった傭兵だと気付いた時、ラスルが溜息
415
を付くように息を吐き、白く長い吐息が伸びる。
それが合図であるかに男⋮ザイガドがゆっくりと、しかし長い脚
の為直ぐ様二人の前まで歩み寄って来た。
グローグ王の首を取ったとはいえ相手は傭兵。身なりからスウェ
ールではなく南方の民である事が一目瞭然で、シュオンは警戒心を
深めるとラスルを守るように前に出た。するとザイガドはにやりと、
お前では相手にならんと馬鹿にする様な嫌味な笑みを浮かべる。
シュオンが得意とするのは治癒魔法で使える攻撃魔法はほぼ皆無
に等しい。それを一瞬で見抜かれた事が腹立たしく、無力ながらも
ラスルを守ろうとするシュオンの自尊心を傷つけ珍しく苛立たせた。
そんなシュオンの思いなどお構いなくザイガドは立ち塞がるシュ
オンを押しのけると、不躾とも言わんばかりの距離までラスルに歩
み寄った。
大きな体が立ち塞がりまるで壁の様だ。
ラスルは目の前のザイガドから視線を反らさず、吐息がかかりそ
うな程の至近距離に違和感を覚える事無く目の前の雄々しい男を見
上げていた。
初めて出会った時からラスルを恐れず、そればかりか人買いに売
り飛ばし荷物までも持ち逃げされた。ラスルを金づると感じたのか、
それ以降見かける度に煩いハエのように付き纏い、ラスルはそれを
徹底的に無視し、当然とばかりに邪険に扱った。
それが何の気まぐれか⋮ラスルがシヴァに攫われたのを目にした
というだけで、危険を伴ってまでフランユーロまで足を伸ばしてく
れたのだ。見た目通り軽薄で信用ならない相手だが、何故だが危険
が絡むとラスルの中でザイガドは信用できる大きな力強い相手に変
わるのだ。
416
﹁無事⋮だったんだね。﹂
フランユーロで別れて以来、久方ぶりに見た姿にほっとする。 この時のラスルはザイガドがあの戦いの場にいた事も、ましてグ
ローグ王の首をとった事すら知らないままだった。
数少ない知り合いが生きていてくれる事だけでほっとするのに、
表情には微塵も現れる事が無い。これでは嫌味か本心かも分からな
いが、ラスルの事情を知るザイガドからすればそんな事どうでもよ
かった。
﹁やっぱ心配したか?﹂
﹁当然でしょう、あなたに何かあったら後悔してもしきれない。﹂
自分相手にあまりにも無防備な言葉を吐かれ、ザイガドは参った
なと照れ隠しのように頭を掻き毟った。
普段のラスルならザイガドから漏れる軽口を恐れ、絶対に口にす
る様な台詞ではない。
これは想像以上に参っているなぁと、ザイガドは一つ大きな溜息
を落とす。
﹁悪いがお前の想いに応える訳にはいかなくなったんだ。すまん
がこれで我慢してくれ︱︱︱﹂
言うなりザイガドはラスルの後頭部に大きな手を回し引き寄せる
と、色素を失った冷たい唇に己の口を重ねた。
﹁︱︱︱︱︱︱?!﹂
﹁︱︱︱︱︱︱!!!!﹂
417
ラスルは何だと訳が解らず息苦しさに目を回し、傍らで成り行き
を見守っていたシュオンは絶句。
執拗に続く口付けはやがて舌がねじ込まれ、深い物へと変化して
行った。
しばらく後、やっと事の次第に気付き我を取り戻したラスルは手
足をばたつかせるが、今度は腰に手を回され拘束された。
殴り蹴り飛ばしてもザイガド相手にどうこうなる訳がなく、ラス
ルは両手を伸ばすとザイガドの頬を摘み捻り上げた。ザイガド相手
に無駄な抵抗であると思われたが、それによって拘束は解かれ、二
人の重なり合った唇が離れる。
﹁心配したわたしが馬鹿だったっ!!﹂
ラスルは飛び退き懸命に唇を拭い、屈辱的感触を懸命に消し去ろ
うとする。
それを見下ろすザイガドは嫌味な程余裕綽々で、それが更にラス
ルの怒りを急きたてた。
﹁乙女心か?﹂
﹁何が乙女心よ、阿呆らしい。本当にあなたは意味不明なんだか
ら!﹂
﹁あぁそうか⋮悪い、説明してなかったな。﹂
﹁何が説明よ、いらないわよそんなものっ﹂
﹁そうか?﹂
と言いながらもザイガドは楽しそうに口を開く。
﹁どういう訳かミシェルと一緒になる事になったもんで、お前を
嫁に貰えなくなちまったんだ。﹂
418
﹁︱︱︱え?﹂
その言葉にラスルは茫然となり、目を見開き無言でザイガドを見
上げる。 ﹁そんな顔すんなって⋮俺の方まで辛くなるだろう。だが安心し
ろ。嫁は無理だが愛人って手が︱︱︱﹂
﹁それっ、本当なのっ?!﹂
驚愕に見開かれた瞳がザイガドを見上げ、ラスルはそのまま逞し
い胸に飛びついた。
﹁ああ本気だぜ。まぁ愛人って立場上同じ屋根の下に住むってわ
けにはいかないがな。﹂
﹁阿呆、馬鹿っ。誰があなたの愛人なんかになるって言ったのよ。
そうじゃなくてっ、そうじゃなくて︱︱︱﹂
言葉と息が続かず、ラスルはザイガドに縋りついたままその場に
へなへなと蹲ってしまった。そんなラスルを追う様にザイガドも冷
たい雪の上に膝を付くと、今までラスルが見た事のない、本物の微
笑みがザイガドの口の端に浮かぶ。
﹁ああ、生きてる。流石に無傷とはいかなかったんでまだフラン
ユーロにいるがな。安心しろ、大した傷じゃないんでその内スウェ
ールに越して来る。そうしたら遠慮なく会いに来てくれ。﹂ ミシェルが生きていた︱︱︱
その事実にラスルは体を震わせザイガドの瞳を覗き込む。
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鋭さを持つ茶色の瞳は曇りも揺れも無く、偽りを語っている様子
は見受けられない。ザイガドにとっては嘘を付くなど容易い事かも
知れないが、それでもラスルにこんな偽りを述べてもザイガドの得
には全くならないに決まっているのだ。
﹁ザイガドっ︱︱︱﹂
ラスルはザイガドの大きな両手を取ると己の額に擦りつけ感嘆の
声をあげた。
あまりの嬉しさにぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちる。
﹁ありがとう⋮ありがとうザイガド⋮﹂
ラスルは幾度となく、同じ言葉でザイガドに呟く。
ありがとうと︱︱︱ミシェルを救ってくれてありがとうと、尽き
る事無く漏れる感謝の言葉。
自分のせいで死んでしまったと思っていたミシェル、そのミシェ
ルが生きていた。
今のラスルにとってミシェルが生きていてくれた事は、何物にも
代え難い感謝すべき出来事であった。神を信じず信仰心もないラス
ルは、ただひたすらザイガドに感謝し涙を流し続けた。
420
その日の深夜︱︱︱スウェール城内アルゼスの私室に潜りこんだ
傭兵が一人。
厳重な警備を掻い潜ってどうやって忍び込んだのかと問いたかっ
たが、既に二度目となると驚きもしない。
一度目は昨夜。
フランユーロ国王の首を取った褒美に、金を要求しにやって来た
のが最初だった。
グローグ王の首を取った男として堂々とやってくれば良い物をと
思うが、これがこの男の捻くれた所なのだろうと⋮アルゼスは革袋
に詰められた金貨を差し出す。
﹁言い値分入っている。﹂
﹁俺みたいな男の言いなりになってると国庫が底を尽くぜ?﹂
﹁今回限り。しかもそれはお前が受け取るべき正当な報奨だ。﹂
それに︱︱︱と、アルゼスは言葉を続ける。
﹁ミシェルという女が生きていると知ったせいか、ラスルは随分
と元気を取り戻した様子だった。﹂
﹁俺に会えたからじゃねぇのか?﹂
その言葉に冗談だろうとアルゼスは鼻で笑う。
421
だが次の瞬間には繕う笑顔も無く、沈痛な面持ちを宿してザイガ
ドを見据えた。
ミシェルの生存を知って元気を取り戻したとは言っても、もとも
とはカルサイトの死により地の底まで落ち込んでいたラスルだ。今
なを落ち込みは激しく、食事を口に出来ない事にも変わりはない。
﹁それで⋮お前はその女を本気で伴侶に迎えるつもりなのか?﹂
﹁あいつを巻き込んだのはラスルじゃなく俺だ。惚れられた弱み
もあるし、最後まで見取るさ。﹂
﹁そうか︱︱︱俺としても彼女に対して出来る限りの事はしよう。
﹂
﹁俺を前にんな事言ってたら本気で国庫が枯れかねないぜ。この
金で十分事足りる。﹂
ザイガドは手にした重い革袋を鳴らした。
あの日、救い出したラスルと別れ単身ミシェルの元へと向かった
ザイガドは、彼自身ですらミシェルが生きていようとは予想してい
なかった。
王を裏切った者の末路は悲惨だ。それ故、せめて亡き骸だけでも
埋葬してやりたいと再び城に忍び込み、地下牢へと向かった。
スウェール・イジュトニア両国に攻め入る為人出が少なくなって
いたおかげで、ザイガドはミシェルを息絶える前に発見できた。
裏切り者を拷問にかける、フランユーロにおいてそれは当然の報
いだが︱︱︱
ミシェルを拷問する二人の兵士を片付けたザイガドの目に映った
のは、彼が見知った愛らしい娘の姿ではなかった。
422
逃げ出さないように両の足は膝から下を切り落とされ、それで出
血死しないよう一応の手当てがなされていた。
強姦の痕は当然。恐らく一本ずつ苦痛を伴うようにやられたのだ
ろう、全ての指が折れ曲がり、体中に殴られた痕が見受けられる。
栗色の豊かな髪は一房も残す事無く全てが根元から切り取られ、最
も悲惨なのは女にとっても命と言える顔で、元の容姿を認める事が
困難な状態にまで膨れ上がっており、全ての歯が抜かれていた。 どんな状態であれ生きている︱︱︱ラスルだけではなく、巻き込
んだザイガドの側からしてもそれだけが救いだった。
目覚めた時﹃死にたい﹄と言わせないため出来る限りの治療にあ
たらせたが、失った足が戻る訳ではない。臓器とは違い例えラスル
であったとしても一度失ってしまった手足は元に戻せはしないのだ。
しかしながら人間が培ってきた技術により莫大な資金が必要だが
抜かれた歯は戻せるし、本物そっくりの義足を作るのも可能だ。顔
の傷も元通りになるだろうし、時が経てば切られた髪も伸びる。幸
か不幸か、ミシェルは拷問のショックで自身に関わる記憶の殆どを
失っていたため、心身に受けた恐怖を覚えていなかったのが唯一の
救いだった。
彼女が生きるには新たな環境が必要だ。ただの施しは受け取りは
しないが、ザイガドには新たな環境を手にする為の資金を稼ぐ才が
あり、グローグ王の首をとった事でそれも叶った。全てを治療費に
当てたとしてもミシェル一人養って行く分に苦労はないし、ただの
娘があれだけの拷問を受けたのだ。極限まで弱り切った肉体がいつ
まで持つかも分からない。
最後まで責任を持って見取る︱︱︱それがミシェルを巻き込んだ
ザイガドに唯一出来る償いでもあった。
423
﹁こっちの話はともかく︱︱︱ラスルの事、頼んだぜ?﹂
本当ならラスルには会わず、金だけ受け取ってスウェールを離れ
るつもりだった。
しかしあまりにも憔悴しきったラスルの状態を耳にし、加えて彼
女に残された限りある時間の話を聞いてしまっては流石のザイガド
も良心が疼いたのだ。
惚れたはれたの問題ではなく、何物にも執着を見せない、自分を
呪い死ぬために産まれて来たような生き方しか出来なかったラスル
を不憫に感じ放っておけなかった。
﹁言われずとも何だってやるさ。﹂
例えいけ好かない相手であっても、それがラスルの為になるのな
らいくらでも助けを求めてやる。
アルゼスの言葉にザイガドはにやりと不敵な笑みを浮かべると、
そのまま音も無く暗闇へと姿を消し去った。
誰もいなくなった部屋にアルゼスの溜息が洩れる。
愛しい人を自らの手で救う事も出来ず己は何と非力なのだろうと
︱︱︱王太子という身分などラスルの前では何の役にも立たないと
アルゼスは、失ってしまったカルサイトに未だ救いの感情を向けて
いた。
424
425
希望
ザイガドの訪れによって一時は持ち直したと思われたものの、心
に受けた傷というものはそう易々と癒えるものでもない。
ラスル自身は生きる為に自主的に食事を口にしだしたのだが、体
の方がそれを受け付けないのだ。
食べては吐くを繰り返し、ラスルは見る間に痩せ細って行き、手
を尽くそうとするシュオンも彼女を心配するあまり心労で同様に痩
せて行く。
アルゼスは殆ど飲まず食わずの状態であったラスルを心配してい
たが、この日ばかりは心に僅かなゆとりと希望があった。
イジュトニアより王太子イスタークが訪問して来るのである。
無駄にスウェールに攻め入った賠償の話し合いだが、実際話しは
付いていて現実には調印だけに等しい。
過去に多大な借りのあるイジュトニアに対しスウェールが要求し
たのは魔法使いの貸出だ。
シュオンのように本来なら白の光を宿しているにも関わらず、先
入観によってそれよりも劣るものと解釈されてしまっていた事実も
ある。同時に有効な魔法の使い方などスウェールにおける魔法師団
の戦力拡大のため、純血種であるイジュトニアの魔法使いに指導を
仰いでみようと考えたのだ。
自尊心の強いスウェールの魔法使い達からの抗議と確執はあるだ
ろうが、指導者として迎えるのはイジュトニアでは魔法師団に現役
426
で身を置く魔法使い。圧倒的力の差を見せつけられ、ねじ曲がった
心根を少しでも改心してくれればという思惑もあった。
表向きの理由は何にしろ、アルゼスはイスタークの訪問を心待ち
にしていた。異母兄であるイスタークの顔を見ればラスルの心も少
しは晴れるのではないかと考えたからだ。
しかし予定の時刻を半日過ぎてもイスタークの訪問は告げられず、
迎えに向かった者よりの知らせもない。待つ事⋮待たされる事に慣
れていないアルゼスは苛付きながらも、イスタークの訪れを今か今
かと待ちわびるしかなかった。
この時既にイスタークは単身スウェールの王城に侵入し、ラスル
と対峙していたなど︱︱︱遠く城下を見つめるアルゼスには思いも
よらない事態であった。
ラスルは己が目を疑った。
いつものように寝台にぼんやりと横たわっていると音も無く扉が
開き、傍らに人の気配を感じたのだ。
シュオンでもアルゼスでもない︱︱︱何処か懐かしい、温もりを
湛えた気配。
427
そっと視線を馳せると、そこには漆黒のローブに身を纏った青年
が柔かな微笑みを湛え静かに佇んでいたのである。
ラスルは驚き、寝台からゆっくりと身を起こす。
﹁イスターク⋮?﹂
目深に被られたフードも、下から覗き込む形になるラスルには邪
魔とはならない。
イジュトニア特有の青白い肌、漆黒の瞳。
見下ろす青年はイジュトニア王太子、ラスルにとっては異母兄に
あたるイスタークその人であった。
最後に会った時をよく覚えている。
スウェールとイジュトニアの国境でラスルを見据えたイスターク
の視線は何処までも凍て付き、ラスルを拒絶していた。イジュトニ
アに災いを齎す存在として、ラスルがイジュトニアに戻る事を無言
ながらも全身から発する気で強く拒絶していたのだ。
それが今ラスルの目の前に佇むその人は、少女だったラスルを救
った時同様、それ以上に優しい微笑みを湛えラスルを見下ろしてい
るのである。
﹁ラウェスール⋮久しいな。﹂
そう言ったイスタークはラスルと同じ視線になるよう腰を沈める
と、ラスルの頬にひんやりと冷たい手を伸ばし優しく撫でた。
掌から伝わる低い体温。だが何処までも優しさを感じる。じんわ
りと、無表情のラスルの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
イスタークはラスルの背に腕を回し、そっと優しく抱きしめる。
すると戸惑いがちだったラスルの瞳からは堰を切った様に一斉に涙
が溢れ出し、ラスルは鳴き声を上げ自らイスタークにしがみ付いた。
428
寂しいと、心が悲鳴を上げる。
あまりにも弱い。
辛いと言えなくて⋮心が頼りしがみ付ける場所も無くどうすれば
いいのか解らなかった。差し伸べられた優しさに縋りつく進歩の無
さなどお構いなしに、ラスルはイスタークにしがみ付き、ただ咽び
泣く。
息が詰まる程声を上げ、涙を流すラスルをイスタークはただ優し
くなだめるように無言で抱き締め続けた。
﹁辛い思いをさせた。そなた一人で背負うにはあまりにも重い現
実であったな。﹂
悪かったと詫びるイスタークに、ラスルは嗚咽を漏らしながら頭
を振る。
﹁何も⋮イスタークは何も⋮全てはわたしのせい。わたしが招い
てしまった事だわ。﹂
﹁そうやって全て一人背負う必要はない、もう何も気に止むな。
そなたに宿る悪しき魂は私の手で処分しよう。そなたが身に受けた
辛さには到底及びはしないが、幼き命を葬る責めは私一人が背負っ
て生きて行こう。﹂
それが唯一兄としてラスルにしてやれる事だと、イスタークは優
しく微笑みながらラスルの下腹部に手を翳した。
その瞬間︱︱︱ゆらりと淡い深紅の光が浮かび上がる。
429
いったい︱︱︱何?
意味が解らずイスタークの言葉を頭の中で整理していたラスルで
あったが、身の内に放たれようとしている魔力を感じ、ラスルは咄
嗟にイスタークの手を払い除けた。
一連の動作の後、手を払い除けられたイスタークも、ラスルも、
互いに疑問に満ちた瞳で見つめ合う。
﹁何、どういう事⋮悪しき魂って何?﹂
悪しき魂︱︱︱やはり自分は何かに呪われているのだろうかと、
ラスルは胸に刻まれた刻印の位置に手を伸ばす。
いったいイスタークは何を見て、何を知っているのか?
刻印から他者に漏れる自身すら知らない情報にラスルは戸惑いを
覚えた。
﹁幼き命ってわたしの事? イスタークがわたしを殺してくれる
の?﹂
懇願するかに縋りつくラスルの瞳に、イスタークは眉間に皺を寄
せた。
﹁そなた、身に宿る命に気付いておらぬのか?﹂
﹁宿る⋮命?﹂
ラスルは茫然と呟き、おもむろに手を下腹部に当てがう。
その様子にイスタークはしくじったとばかりに溜息を漏らした。
430
﹁気付いていなかったのならば伝えずに処分してしまうのであっ
たのだがな。﹂
気が効かずすまないと、イスタークは再度ラスルの腹に手を翳そ
うとする。
﹁待って⋮待ってイスタークっ。﹂
ラスルは片手で腹を守りながら、もう片方の手で差し伸べられる
イスタークの手首を掴んだ。
突然の事で何が何だか分からない。
身に宿る命?
それって︱︱︱どうしてイスタークがそんな事。
もしそれが本当なら⋮それは︱︱︱!!
ラスルの脳裏で疑問と戸惑いが渦巻いていた。
︵そんな事が、そんな事があるなんて︱︱︱!︶
驚きと戸惑いが通過すると何とも言い難い感情が体の中から湧き
起こってくる。失ってしまった大事なものが舞い戻って来たような
錯覚すら覚え、ラスルは己の腹を守るように両手を添えると、泣き
笑いにも似た表情を浮かべ静かに涙を流した。
︵こんな所にいてくれたなんて⋮︶
カルサイトに抱きしめられた感覚が鮮明に蘇り、錯覚であるにも
かかわらず温もりすら感じてしまう。
そんなラスルの背にイスタークはそっと手を伸ばすと、様子を確
認するかに顔を覗き込んだ。
431
﹁フランユーロの悪しき血ではないのだな?﹂
フランユーロに囚われていたのだ、グローグ王の血を受けた子を
宿していたとしても不思議ではない。
ラスルと対面した瞬間、イスタークはラスルの胎内に宿る新たな
命の輝きを知り、当然その父親がグローグであると思い込んでしま
っていた。ラスルの憔悴しきった様子も全てそれを案じての事と勝
手に受けてとったのだ。
もしそうなら産まれ出でてはならない命だ。
胎内に宿る命が例え敵国の、望んだ相手の血を引く物ではないと
しても、子を宿した女は母となる。産まれても処分される命なら産
ませない方がいい。その役目は兄である自分が担おうと︱︱︱小さ
な命を摘み取る役目をかって出はしたのであったが⋮
イスタークの問いにラスルはこくこくと小さく、何度も何度も頷
いた。
﹁違う⋮違うよ。大事な、大切な人の⋮誰よりも大切な人から貰
った命。﹂
﹁⋮それならば良いのだ︱︱︱﹂
イスタークは笑みを浮かべながら答えると、ぽろぽろと涙を流し
続けるラスルを抱き寄せながら複雑な思いが巻き起こる。
ラスルの寿命が迫っている事をイスタークは知っていた。子を産
む事はそれに拍車をかけるだろう。しかし宿る命はラスルにとって
希望となり得る物なのだ。それを取り去るのはあまりに惨い行いで
はないだろうか。
産んでも、産まずとも辛い現実が待ち構えている。
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半分とはいえ同じ血を分けるにもかかわらず幸薄いラスルが哀れ
で、それでも何が不幸かはラスルが決める事でありイスタークが口
出しすべきではない。表向きにはそうだと分かってはいるのだが︱
︱︱
産まれて来る子が純血種でない事は解り切っており、その子の行
く末をイスタークが保証してやれる訳でもなく、ラスルから感じら
れる残りの寿命もそう長い物ではない。出産によってそれがさらに
削られるのは確実で、子を宿す事も出来ない男の身ではやはり優先
順位は目の前の異母妹であった。
ラスルが気付いていないのであれば内密に処分してやりたかった
と、これからラスルが背負う更なる悲しみにイスタークは胸を打つ。
大切な人からもらった命と、突然の現実に不安と戸惑いを抱きな
がらも大事そうに己が腹を守るラスルに、イスタークは過去に垣間
見たイシェラスの姿を重ねていた。
433
愛しい人の
戸惑いと喜びの後に訪れたのは不安だった。
イスタークの言葉により身に宿る新し命の存在を知り、ラスルは
当然のように深い喜びに包まれる。
子を宿したという事実よりも、己の肉体に宿るカルサイトの半身
に感謝の念と温もりと、愛しい人が永遠に去ってしまったのではな
いという新たな思いに駆られたのだ。
しかし、事実を受け止めるにつれラスルを新たな不安と悲しみが
襲った。
身に宿したカルサイトとの子をこの腕に抱く事が出来るのだろう
か?
自分に残された時間が少ないという事は前々より承知で、誰より
も己の死を願っていたのはラスルだ。だが子を宿したという現実が
ラスルの考えを大きく反転させていた。
死にたくない︱︱︱生きて身に宿した子を抱き成長を見守って行
きたい。
両親の愛情を知らずに育ったラスルであったが、愛しい人の子を
宿した事実が強烈な母性を齎した。しかしラスルの将来にその時間
は存在しない。
あれほどに渇望した死の瞬間。それが今になってこれほど避けた
いものになり、醜くも生に縋りつくなどあまりにも身勝手すぎる。
434
ラスルは未だに自身の存在が不幸を招く物と認識しており、それで
もなを子を腕に抱き、カルサイトの分までも傍らで見守って行きた
いと切望するのだ。
だが現実はそう甘いものではなかった。
どんなに望んでも死の瞬間が迫っているのは確実で、ラスルにそ
れを避ける術はない。どれほど己の境遇を嘆いたとて目の前の現実
を変えることは不可能なのだ。
それから数日間、ラスルは寝台に横たわるとこれからについて考
えを巡らした。
母として出来る事、すべき事を残された時間で全てやってのけな
ければならない。共に生きたいと嘆く時間があるなら、生まれて来
る子の為に何が出来るかを考えてやるのが母親の仕事だ。自分が死
んだ後生まれた子がどうなるのか、どの様な環境を与えてやれるか
は母親であるラスルにかかっている。
時折カルサイトへの想い、感傷に浸りながらも溢れる涙を拭い、
ラスルは残された少ない時間全てを生まれて来る子の為に費やす決
意をし、夜が明けたばかりの早朝、アルゼスを訪ねる為、彼がいる
であろう執務室を目指した。
435
この王子はいったい何を言っているのだ︱︱︱?
執務室にて、アルゼスから朝一番に発せられたあまりに馬鹿げた
発言に、クレオンは腹の奥底から込み上げて来たもの全てを溜息に
乗せ吐き出した。
ラスルの妊娠︱︱︱それを知ったアルゼスは動揺し、錯乱でもし
たのかありもしない事を口走ったのだ。
﹁俺の⋮俺の子だ!﹂
強い声色で発せられた言葉に、クレオンは主を前に何を馬鹿なと
器用に片眉を上げ、妊娠を報告しに来たラスル自身も珍しく驚きの
表情を浮かべ目を点にしている。
何をおいてもラスルの力になる、それが愛した女性に対して出来
る精一杯の事であり、命をかけてラスルを守り抜いたカルサイトに
向けたアルゼスの誓いだった。
しかし、それはアルゼスが心のうちに宿す誓いであってクレオン
が理解しなければならないものではない。
クレオンは側近として当然の言葉をアルゼスに告げる。
436
﹁殿下︱︱︱こんな荒唐無稽な話、現実にするなど無理にござい
ます。﹂
﹁何が荒唐無稽なものか。俺とラスルの間には伽を行った事実が
あるのだぞ?﹂
自信満々に告げるアルゼスにクレオンはわざとらしく頭を抱えて
見せた。
過去にアルゼスがラスルを無理矢理私室に引きこんだ事を言って
いるのであるが、そんな事実は既にクレオンによって綺麗さっぱり
揉み消し済みである。
全く馬鹿らしいと、クレオンは冷ややかな視線をアルゼスに送り
つけた。
﹁何が事実です。何もなかったと、殿下自身がおっしゃられたで
はありませんか。﹂
﹁有ったぞ、それが事実である限りそのように取り計らえ。﹂
﹁殿下︱︱︱﹂
それが当然の事であるかに腕を組み命令するアルゼスに、まった
く馬鹿らしいとクレオンは再び溜息を落とした。
﹁殿下が本気であるなら私も正直に申し上げます。私は殿下に忠
誠を誓っておりますが、それは同時にスウェール王国国王となるべ
きアルゼス殿下に対してです。彼女の腹の子が殿下の御子であるな
らいざ知らず、実際はカルサイトの子であるのは火を見るよりも明
らか。王家の血を引かぬ子を殿下の御子と認める訳には参りません。
﹂
あまりの馬鹿らしさに、座った目でアルゼスを見つめるラスルの
437
態度が何よりの証拠だ。まがり間違っても腹の子がアルゼスの子で
ある筈がない。
ラスルがアルゼスを利用し、スウェール王妃の座を手に入れよう
と目論む様な女でなくて本当に良かったと、クレオンは心の内で安
堵の息を吐いた。
アルゼス
そんなラスルと反し、まるで正論のように煩くまくし立てる現実
を見きれていない男にクレオンは頭を痛める。
一度言い出したら引かない主だ。しかし王家の血を引かない子だ
と知りつつそれを認める事だけは、たとえアルゼスの命を懸けられ
たとしても認める訳にはいかない。それがクレオンの王家に対する
忠誠でもあるし、そこまで考えるにはあまりにも馬鹿げたアルゼス
の発言なのだから。
﹁クレオン、いいかよく聞け。この俺が、俺の子だと宣言してい
るのだ。それに間違いがある筈ないだろう!﹂
﹁殿下︱︱︱﹂
自信満々に言い切るアルゼスに、クレオンは呆れ返って返す言葉
を失った。
事態を黙認し、ラスルから生まれた子をアルゼスの子だと宣言し
たとしよう。しかしそれが偽りである事は誰の目にも明らかとなる
のだ。
ラスルが純血種の魔法使いであることは、髪と瞳の色が漆黒であ
るゆえに一目で理解できてしまう。それが混血となればけして黒の
色を抱く事はなく、ラスルから生まれて来る子も当然黒髪黒眼では
有り得ない。父親の色を引き継ぎ銀髪に紫の瞳である確率は高くな
るだろう。
438
対してアルゼスアは眩いばかりに淡い金髪に海のように深く青い
瞳。さらに瞳を日の光にさらせば瑠璃色に輝くという珍しい色彩だ。
ラスルとカルサイトの関係が周知の事実である現在、ラスルが生ん
だ子がカルサイトの血を引いていると思われるのはなんら不思議で
はないが、それをアルゼスの子だと宣言してしまうには非常に無理
がある。もしそんな事になれば周囲はラスルが魔力によってアルゼ
スを誑かし、いづれはスウェールをイジュトニアの配下にと望んで
の策略と囁かれかねない。
アルゼスの事だ、それが解らない訳でもあるまい。解っていて尚
も本気で推し進めようとするなら、クレオンとしても不本意ながら
そうなる前にラスルを排除してしまわなければならなくなってしま
う。
そんな二人の様子に行動を起こしたのは、黙って二人のやり取り
を見守っていたラスルだった。
ラスルは執務机の側にあるテーブルに置かれた水差しをおもむろ
に手に取ると、無言でアルゼスに歩み寄り、その頭上にて天地を引
っくり返したのである。
早朝である故に水差しの水は手付かずで、中には冷たい水がたっ
ぷりと注がれている。
それがひっくり返された事によって、冷水はアルゼスの頭上から
全身を伝い、部屋一面に敷き詰められた毛足の長い豪華な絨毯に流
れ落ちて行った。
暖炉では温かな火が燃え盛り部屋を暖めているとはいえ、真冬の
439
井戸から汲まれた水は冷たい。
頭から全身に冷や水を浴びせられたアルゼスは、驚きのあまり青
い目を皿のようにして見開き、クレオンはラスルの奇行に目を点に
して唖然としている。
いったい何が起こったのだと、体に感じる水の冷たさにアルゼス
は、まるでブリキ人形のように体をぎこちなく窮屈そうに直立不動
状態でラスルに向き直った。
﹁ラスル︱︱︱?﹂ ﹁頭を冷やしてよく思い出せ、わたしには王子様と子作りした記
憶は微塵もない。﹂
全く馬鹿らしいと、ラスルは空の水差しをポイッと後ろに放り投
げた。
投げられた水差しはゴトリと鈍い音を立て落下するが、毛足の長
い絨毯のお陰で割れる事無く無事だ。
﹁いや⋮ラスル。しかし生まれて来る子には父親が必要だ。﹂
﹁わたしには父も母もいなかった。そもそも王子様は父親と母親
の手の内で育てられたのか?﹂
違うだろうと投げかけられ、国王である父と王妃である母ではな
く、直接は乳母の手で育てられた事実にアルゼスは返事に窮する。
﹁それで︱︱︱頭が冷えて現実が見えて来たのなら本題に移りた
いのだけど?﹂
﹁いや、ラス︱︱︱﹂
﹁そうですね、本題に移って頂きましょうか。﹂
440
昨日まで部屋に籠り茫然自失で生きた屍の様だったラスルが突然
生気を取り戻し、アルゼスを訪ねて執務室までやって来たのである。
子供が出来た事を報告し、スウェールの王太子に水を浴びせる暴挙
に出て終わりな訳がないだろう。クレオンとしてはその先を聞いて
さっさと話しを終わりにしたい気持ちでいっぱいだった。
恋にトチ狂った王子と話しをさせるより自分が間に入った方が早
いと、クレオンは真冬にびしょ濡れのアルゼスを放ってラスルを急
かす。
﹁それで本題というのは?﹂
﹁カルサイトの両親に会いたいの。﹂
ラスルもアルゼスを蚊帳の外に話しを進め出した。
﹁あなたの事ですから莫大な遺産を狙ってという事はあり得ない
でしょうが⋮子を盾に何をされるおつもりです。﹂
﹁ご両親の人柄を信じて⋮生まれて来る子を預けたいと思ってる。
﹂
﹁母親でしょう、自分で育てる選択はないのですか?﹂
﹁︱︱︱産んでも、抱けるかどうか解らない。﹂
ラスルはぐっと拳を握ると耐える様に奥歯を噛み締め、クレオン
は黙ってその様子を見守った。
﹁出産は可能だけど、その後の命は大してもたない。だから子供
を育ててくれる人が必要なの。﹂
冷や水を浴びせられた衝撃でこれまで黙っていたアルゼスが、ラ
スルの言葉にびしょ濡れのまま飛びついて来た。
441
﹁何を言っている、そう易々とお前を死なせたりはしないと言っ
ただろう?!﹂
﹁漠然とした物じゃなく現実に迫ってるの。時間がないからこう
やってカルサイトの両親にあわせて欲しいってお願に来てるんじゃ
ない。﹂
﹁もし、もし万一お前にその日が来るのだとしても⋮生まれる子
の面倒は俺に任せておけばいいではないか!﹂
﹁馬鹿じゃない、あなたは王子様なのよ。他人の子をどうこうす
る前にやるべき事があるでしょう?!﹂
全くだとクレオンはラスルの言葉に同調し、腕を組んでうんうん
と頷く。
アルゼスはただの王子ではなく世継ぎとしてこの世に生を受けた
王子なのだ。そのアルゼスが臣下とはいえ、否、臣下だからこそ一
人の人物に対して執着し、己の欲の赴くままに特別扱いをしてよい
訳がない。
普段はスウェールの王太子として申し分ない行動を取れるアルゼ
スだが、ラスルが関わるとどうも自制がきかなくなるらしい。何事
にも型にはまり人間味がないのでは面白くもなんともないが、初め
て恋心を抱いた相手とはいえ、今のアルゼスはあまりにも王子とし
ての責務と常識を逸脱し過ぎていた。
﹁王子様の想いには本当に感謝するわ、ありがとう。﹂
クレオンの言葉に耳は貸さずともラスルには貸せるようで、アル
ゼスはラスルに正面から瞳を覗きこまれ、まるで囚われたように固
まってしまった。
ラスルは今までにない優しい瞳でアルゼスを見上げている。
442
﹁でもね、あなたが王子様である限りこの件に関しては縋れない
の。あなたはいずれこの国を背負って行くべき人。他人の子に心の
内で思い入れするだけならいざ知らず、特別扱い⋮まして自分の子
だとか血迷った発言だけは何があってもするべきではないわ。生ま
れる子は魔法使いの血を引くせいで拒絶されるかもしれないけど、
カルサイトのご両親にこの子の存在は知ってもらいたいし、何より
も彼のご両親に託すのが一番だと思ってる。﹂
﹁しかし︱︱︱っ﹂
それでも反論するかに口を開くアルゼスの言葉を、ラスルは人さ
し指でそっと制する。冷たいラスルの指先がアルゼスの唇に触れた。
﹁お願い王子様。この子をカルサイトの⋮愛した人の子として産
ませて。﹂
愛しい人の子だ。
何偽る事無く、愛しい人の子として生を受けさせて欲しい。
ラスルの願いに流石のアルゼスも返せる言葉の全てを失い、黙っ
て頷くほかなくなってしまった。
443
彼の面影︵前書き︶
長らくお待たせしてしまい申し訳ありません。
上手くまとまっていない稚拙な文章ですが、ご一読下さい。
444
彼の面影
スウェール東の地に広がるフェルナードと呼ばれる地域。
カルサイトの実家であるフェルナード家は、その広大かつ緑豊か
な豊饒の大地を領地とし、スウェール建国時より長きに渡りこの地
を治め続けていた。
遥か昔より大陸の東の地に住まいこの地を治めて来た家系である
が故、いつの時代になっても余所者に対して厳しい目を持っている。
ましてイジュトニアという普通の人間とは異なる力を持ち、国家を
挙げて隠匿した様な生活に浸る魔法使いであるラスルが、﹃何を考
えているか解らない陰気で不確かな存在﹄と思われるのも当然だっ
た。
豊饒の大地であっても当然冬ともなれば雪に閉ざされる。
北風吹きつけ冷たい雪の降りしきる中、ラスルはクレオンに伴わ
れフェルナードの領地に入り、カルサイトの生家を訪れていた。 石造りの重厚で巨大な砦を思わせる屋敷の中は暖房設備が整って
いるのか想像以上に温かく、ラスルは目深に被ったフードを取る。
ラスル一人で訪れていたなら門を潜る事すら許されなかったであ
ろう。
それを見越したアルゼスが同行を申し出たのだが、王太子自らが
そのようなまねをする訳にはいかず、それなら事情を知る自分が行
った方が話が早かろうと、ラスルが拒否したにもかかわらず同行し
てくれたクレオンにラスルは深く感謝する。
445
フェルナード領主サーガはラスルとクレオンに椅子を進め、二人
が着席するのを見届けてから自身はテーブルを挟んで腰を静かに下
ろした。
白髪交じりの銀髪に、年を重ね僅かに濁りを帯びた紫色の瞳。容
姿はあまり似てはいなかったが、カルサイトはこの父親から髪と瞳
の色を受け継いだのだろう。
だがラスルを見据えるその瞳は何処までも冷たい。
﹁時折こうして訪れて来る者はいたが、王太子の側近を証人とし
て伴って来た娘は初めてですよ。﹂
こう言ってはなんですが死人に口無しですので︱︱︱と、目の前
に座る男は軽蔑の眼差しでラスルを一瞥した。 ﹁何せ相手はカルサイト殿、その死を利用し一儲けと考える輩が
いるのは当然です。﹂
こう言った類の会話に慣れているのか、クレオンはなんら動じる
ことなく冗談のように言葉を返す。
﹁で⋮そちらのお嬢さんは多少の金銭では引く気はないと?﹂
突然現れた、亡き息子の子を宿すと語る怪しい娘。莫大な財産と
446
権力を持たずともその怪しさには誰であれ警戒するだろうし、この
様な事態が初めてではないサーガは何のためらいも抱かず、ラスル
の神経を逆なでし、貶めるような言葉を口走って来る。
目的は金だろうと告げられるが、ラスルはクレオンに前もって忠
告されていた為動じる事はなかった。
﹁彼女の望みはフェルナードの全財産そのものですよ。﹂
クレオンの直球その物の言葉に、流石のサーガも僅かばかり顔色
を変える。
﹁︱︱︱王太子の御落胤を我が家で引き受けよと?﹂
﹁流石に調べが早い︱︱︱と言いたい所ですが。残念ながら彼女
と殿下にそのような事実は有り得ない。﹂
クレオンの言葉に、サーガは馬鹿らしいと鼻であしらった。
﹁貴方自身で揉み消された事実があるではありませんか。﹂
﹁見ての通り彼女はイジュトニアの、しかも最高峰の力を宿す魔
法使い。真にそんな事実があるならこちらとて手放しは致しません
よ。﹂
﹁何を言われる。王家が異形の力を求めたのは先の争いにおいて
情勢が危うかった時のみ。あの時以外にイジュトニアの地より妃を
求めた過去など一度たりとも存在しないではありませんか。﹂
今更何を馬鹿なと鼻で笑うサーガに、同じ様な含み笑いを浮かべ
るクレオン。その様子を黙って見守っていたラスルは、この馬鹿ら
しいやり取りに何の意味があるのかと首を捻る。
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ラスルの前に座るカルサイトの父親は既にラスルの事情を知って
いるのだ。恐らく全てにおいてくまなく調べ上げているのだろう。
だというのに互いが騙し合いの様な問答をして何が楽しいのか。
ここにある事実は恐らく一つ。
サーガはラスルの腹に宿る子をカルサイトの子として認めたくな
いのだ。血統にほんの少しでも疑問があるなら認める訳にはいかな
い。しかも、彼は魔法使いという存在を毛嫌いしている。
異種なる魔法使いの力に頼りながらもそれを嫌う⋮スウェールと
いう国においては当然と言える事実だ。
大きな原因はこの国に籍を置く魔法使い達の傲慢さ故なのだろう
が、スウェール王家の直系であるアルゼスやカルサイトから、ラス
ルはほんの僅かにも魔力の匂いを感じた事がない。特にカルサイト
の生まれたフェルナード家は剣術を得意とし、己のみの力を持って
代々王家に貢献し地位と権力を有してきた。生粋のスウェール人で
あり、異国の血、ましてや魔法使いの血など受け入れてきた家系で
はないのだ。
異なる種族を嫌う、それはイジュトニアの魔法使い達と似通った
感情であるが故ラスルにも理解できる。だからこそ本来ならラスル
も子の将来を面識もない相手に託すようなことはしたくないのだが、
背に腹は代えられない。どんなに望んだとしても死に行く身では生
まれて来る我が子に何もしてやれないのだ。今のラスルは、カルサ
イトという人を育ててくれた彼の両親を信じるしかなかった。
それに初めて目の当たりにしたカルサイトの父サーガはとても厳
格そうで冷たい瞳をしているものの、例え気に食わぬ魔法使いの産
んだ子とてカルサイトの血を引いているなら、決して蔑に扱い辛い
環境に追いやったりはしないだろう。カルサイトと同じ紫の瞳は厳
しいが、ラスルはサーガに対して清廉潔白な印象を抱いていた。
448
冷め始めたお茶をすすりながら牽制し合う二人を見守っていたラ
スルだったが、時間がないという思いが気を焦らせ思わず口を挟む。
﹁腹の子は間違いなくカルサイトの子です。あなたの不満が異種
族であるわたしに対してだけならこんなやり取り意味がない。﹂
﹁意味が、ないと?﹂
サーガは鋭い目つきでラスルを睨むと、手にしたカップを皿に戻
した。
﹁羊飼いや狩人、父親が誰か特定すら出来ぬ卑しい輩もいたか⋮
そんな女達が次々に押し掛け腹の子の父親はカルサイトだと主張す
る。煩い蝿故僅かばかりの金を渡せば大人しくなる所か更につけ上
がるのだ、相手にするのも馬鹿らしい。お前の様な輩とて本来なら
顔を合わせたくもない所だが、姑息にもクレオン殿という駒まで引
き連れて来られては邪険にも扱えまい。﹂
更に憎悪を孕んだ視線がラスルを射抜いたが、そんな視線など慣
れ切っているラスルは何の衝撃も受けない。逆に余裕の表情でサー
ガを見つめる。 ﹁でも⋮あなたは知ってるのでしょう?﹂
腹の子がフェルナード家の血を、カルサイトの子である事などと
っくに調べはついている筈。でなければ例えクレオンが同行してい
たとて、サーガはラスルと対面などしなかった筈なのだ。
449
﹁ああそうだとも。だからこそ故余計に腹立たしいのだよ。﹂ 心底悔しそうにサーガは呟き長い脚を組み直した。
﹁子が無事に生まれたなら責任を持って引き受けよう。だが魔法
使いを嫁とは認めん。第一息子と婚姻関係にもなかった娘などに我
が物顔で屋敷をうろつかれては目障り極まりないからな。﹂
﹁よかった⋮それだけが心配だったから。﹂
ほっとしたラスルの表情にサーガは眉間に皺を寄せつつ、その内
側にある真実を見極めようとする。が、嘘偽りない、ラスルの望み
は子の命の保証だ。実家であるイジュトニアを頼れぬ身で、且つサ
ードにまで拒絶され生まれて来る子を路頭に迷わせる訳にはいかな
い。
子供が生きていける場所さえ確保できるなら、魔法使いに対する
サードの考えを矯正し、自身に良い印象を持ってもらいたいなど微
塵も思ってはいなかった。魔法使いの血を引きはしても、生まれて
来る子は子で、自らが彼らとの絆を築いて行ってくれるだろう。
そうとなれば残るラスルの不安、望みは一つ。
﹁子が生まれるまでは森で生活したかったの。﹂
けして安住の地とは言い難いが、ラスルが祖父と定住した唯一の
場所。帰れる場所はあの魔物の巣くう森以外にないし、ラスルにと
ってはこの世界で唯一心落ち着ける場所でもある。 だがそんなラスルに対し、次に声を荒げたのはサードの方であっ
た。
﹁あんな場所で子を産もうというのか?!﹂
450
あんな場所⋮?
思わずもれた声にラスルだけではなくクレオンもサードを凝視し
た。
まるでそこを訪れ、自身の目で見て来たような言い草ではないか。
﹁あ⋮いや⋮そのだな⋮﹂
しまったとばかりにサーガは視線を反らしたが、ラスルはそこに
彼なりの気使いを垣間見た様な気がしてほっとした。
実際サードがあの森を訪れた訳ではなかったが、ラスルという存
在を耳にして即座にくまなく調べはつけていた。
王太子一行が魔物に襲われ全滅しかかった危険な森。そんな場所
で赤子が生まれるなど⋮生まれても無事でいられるのかという不安
がサードの脳裏を掠める。
﹁わたしにとっては何処よりも落ちつける大切な場所です。最期
を迎えるならあそこがいい。﹂
最後は呟く様なラスルの言葉に、クレオンは神妙な気持ちに陥り
ながらも無表情を貫き、サードは持ち上げかけた腰を椅子へと戻す。
何処からどう知ったのか、既にサーガもラスルの命が短いという
事実を把握している様子だ。ここへ来て隠す理由も何もないのだが、
愛した人にだけ告げる事の出来なかった隠し事が今や筒抜けとは⋮
何故全てをカルサイトに話さなかったのかと、今更ながらに後悔の
念がラスルに押し寄せた。
﹁取り合えず細かな話は明日にでも。長旅でお疲れでしょう、す
451
ぐに部屋を用意させます。﹂
話しの矛先を変える様にサーガが気難しい顔つきのまま掌を打つ
と、乾いた音が部屋に響く。
﹁折角の御好意ですが私は私は取り急ぎ王都へ戻らねばなりませ
ん。ですが彼女はこのままおいて行きます。彼女の身はお任せして
もよいという見解で宜しいのでしょう?﹂
クレオンの言葉を苦々しい表情を浮かべ聞いていたサーガは、渋
々と言った感じで息を吐きながら頷いた。
﹁疑いの余地がない以上は仕方がないですな。﹂
﹁素晴らしい情報網をお持ちのようで感服致します。﹂
魔法使いという異種族を嫌う心を変える事は出来ないだろうが、
確実に己の血を引く直系を後継ぎとして残したい気持ちには逆らえ
まい。カルサイト以外に子のいないサーガにとってラスルが腹に宿
す﹃孫﹄を逃せば、家督はサーガの手を離れ分家へと引き継がれて
しまうのだから。
現にカルサイト亡き今、水面下では分家筋の輩が集い、我こそが
次なる領主に相応しいと躍起になって醜い争いを始めているのだ。
そこへ突如として現れたラスルは彼らにとっては極めて厄介な存
在となる。
身の危険もあるがそれはラスルがイジュトニアの魔法使いという
血筋が功を奏するだろう。ただの非力な娘ではない。迂闊に手を出
せば返り討ちに合うまでだ。サーガがどれ程魔法使いというものを
嫌っているにせよ、彼が望む血筋の子はラスルの腹に宿る儚い命一
つ。足掻いたとて認めるほかはない。
452
アルゼスを惑わす存在であるラスルをクレオンはあるべき場所に
送り届けると、長旅の疲れも見せずその足で都へと引き返して行っ
た。
もとは忙しい身。出来るなら関わりを持ちたくないと思っている
クレオンが、ラスルに付いてこの様な旅に同行したのもアルゼス絡
み故、用が済めばさっさと王都に戻るのが当然だ。これ見よがしに
休日を楽しむ柄でもない。
ラスルはサーガに逆らう事はせず、申し出を素直に受けるとこの
日は屋敷へ留まる事に決めるが、彼女も当然図々しくここに居を構
えるつもりはない。ラスルの目的はあくまでも子の将来をカルサイ
トの両親に託す段取りであって、自身がこの地に留まる事ではない
のだ。
一つ一つの調度品は高級だが落ち着いた雰囲気の客室に案内され、
出された夕食を軽く口にする。食べても吐いてしまうのでほんの少
量だが、温かなスープを口にし、雪の世界で冷やされた体が温まる
のを久々に感じた。
床に就く時間になって扉が叩かれ返事をすると、年の頃は四十代
半ばと思われる小柄な女性が姿を現した。
淡い茶色の髪を緩やかに編みあげ、身に付けているのは全体的に
ふわりとした生地を使用したドレスだが、ウエストを締め上げた窮
屈そうな衣装を身に付けている。だが派手過ぎず、柔らかで優しい
雰囲気を醸し出していた。
女性は薄緑の瞳でラスルを見つめた後でふわりと微笑むと、ほん
の少しだけ優雅に首を傾ける。
453
とても美しい女性だ。若い頃は⋮いや、今でも十分に異性を引き
付ける魅力を持っている。ラスルは彼女を前にし、それが誰である
のか一目で理解する事が出来た。
﹁床に伏せっていたものだから、ご挨拶が遅れてしまってごめん
なさいね。﹂
﹁カルサイトの⋮お母さん?﹂
瓜二つといっても過言ではない。カルサイトの美貌は母親譲りで
性別の差こそあれ、そこにはまるで目の前にカルサイトが佇んでい
るような錯覚を覚え、ラスルは目頭が熱くなるのを感じた。
﹁初めまして、カルサイトの母親セルジーナよ。﹂
小鳥がさえずる様な、軽やかな声色で名を告げたセルジーナはラ
スルに歩み寄ると、白く温かな手でラスルの冷たい両手を取り握り
締める。
﹁もうずっと前からあなたにお会いしたいと思っていたの。﹂
そう言って優しく微笑むセルジーナとカルサイトが重なり、ラス
ルはあまりの申し訳なさに涙が込み上げて来た。そしてその場に蹲
ると、嗚咽を漏らしながら咽び泣く。
﹁ごめんなさい⋮ごめんなさい。わたしのせいでカルサイトが︱
︱︱!﹂
ラスルの目にはたった一人の我が子を失い、以来セルジーナが床
454
に臥せりきりだった様子が手に取る様に伺えた。
眠れぬ夜を過ごし続けたのか、優しげな目の下に深く刻まれたく
まがセルジーナの美貌に影を落としている。日中夫のサーガと共に
姿を見せなかったというのに、日も暮れた就寝前の時刻になって身
なりを整えラスルを訪れたのも、突然屋敷を訪問したラスルを一目
見る為、無理を押して身支度を整えたに違いないのだ。化粧を施し
血色良く見せているのも見てくれを良くしようというのではなく、
床に臥せり衰えた身を隠す為でラスルに対しての配慮であろう。傍
らにいるだけで体温を感じ取れるのも、少しでも肌の色を良く見せ
ようという気使いから湯に浸かっていたに違いない。
カルサイトの死が辛く重いのは何も自分だけではない。領主とし
ての務めを果たすサーガとてそうだろうし、まして目の前のセルジ
ーナは母親なのだ。子を身に宿したラスルにはその痛みが理解でき
る。そして彼らにその痛みを与えているのはほかでもない、目の前
にいる自分なのだと思うと、申し訳なさと償いきれない思いで心が
張り裂けそうだった。
そんなラスルの傍らにセルジーナは膝をつくと、嗚咽を漏らして
泣くラスルの背を優しく撫でる。
﹁何を謝るの、謝るのはこちらの方。夫が酷い事を言ったでしょ
う? わたしが側にいれば口にはさせなかったのに⋮配慮が足りな
くてごめんなさいね。﹂
根は優しい人なのよと、明るく告げるセルジーナにラスルは幾度
となく首を振る。申し訳なさに彼女の優しさが止めどなくラスルの
胸を抉るのだ。
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﹁言われて当然。カルサイトを死なせた報いはこんなものじゃ済
まされない⋮﹂
﹁まぁっ、何て事をおっしゃるの?﹂
ラスルの言葉にセルジーナは心底驚いたように声を挙げた。
﹁あなたはとても大きな勘違いをしているようね。﹂
小さな溜息を一つ落とすと、セルジーナはラスルの手を引いて長
椅子へと導き共に腰を下ろす。
﹁ねぇ、よく聞いてちょうだい。カルサイトが死んだのはあなた
のせいではない。あの子は︱︱︱あなたと子を守る為に命をかけた
のよ。﹂
そう口にするとセルジーナはラスルよりも小柄なその身に、漆黒
のローブに身を包んだ娘を抱き寄せた。
﹁フェルナードを離れたあの子がここに戻るのは年に一度あるか
ないか。あの子は寂しがるわたしの為に時折便りをよこしてくれた
わ。そうして何年も続いた便りの中に初めて女性の名が出たの。そ
れがあなただった。命を救ってくれたイジュトニアの魔法使いで、
とても不思議な女性だと書かれていたわ。たったそれだけだったけ
ど、あの子があなたに惹かれているのだとわたしにはすぐに解った
のよ。﹂
ラスルの背を優しく撫でながらその時を思い出す様にセルジーナ
は薄緑の目を細める。
ラスルについて特別な感情を現す言葉など一つも書かれてはいな
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かった。が、カルサイトが母に宛てた数ある手紙の中で、女性につ
いて語られたのは後にも先にもあの時だけだったのだ。それがカル
サイトの命と、主であるアルゼスの命を救ったからだと言えばそれ
までだが、カルサイトは常に命を懸けアルゼスの傍らに有り続けた。
命を救われたというのは、言い変えれば己の失態を報告する様なも
のだ。しかも選び抜かれた精鋭たちが命を落とした場で、たった一
人の娘に救われたなど⋮母親に報告して来る内容でもない。
それを取りとめもない日常であるかに手紙に記したカルサイトの
心情。ラスルはカルサイトの心に本人さえ気付かぬまま、何の妨げ
もなく当然のように入り込んでしまっていたのだろう。
﹁あの日、西の森であなたに出会わなければカルサイトはあの場
で命を落としていた。あの子が生き延びたのはこの日の為⋮あの子
がこの世に生きた証を残せたのは、あの日あなたがカルサイトの命
を救い、その救われた命で大切な物を守ったからよ。﹂
出会いも死も初めから決まっていた物なのかもしれない。カルサ
イトはラスルに出会い、愛して、ラスルと共に生きた証を残す為に
存在した。別れはとても悲しい出来事だが、誰にでも平等に訪れる
ものだ。あの日カルサイトがラスルに出会わなければ、セルジーナ
はカルサイトの亡き骸に縋る事も、今はまだ体内に宿るとはいえ、
愛しい我が子の忘れ形見に触れる事すら叶わなかったのである。
﹁でもカルサイトは何も知らない︱︱︱!﹂
ラスルの体内に宿る命の存在には気付いていなかった。
そう言って己を責めるラスルに、セルジーナはそれは違うと首を
横に振る。
457
﹁あの子の死はけしてあなたのせいではないの。愛する者を守り
抜いたあの子の信念をどうか否定しないであげて頂戴。﹂
全てが本意ではなかったかもしれないが、国を想い主に忠誠を誓
い、何よりも愛する人を守って失った命。騎士としての使命を全う
したカルサイトを否定しないで認めて欲しい。
そう微笑むセルジーナに返せる言葉がなく、ラスルは無言のまま
漆黒の瞳から大粒の涙を落とす。
愛する人に守られた⋮与えられた命。
それを否定するのは愛しい人自身を否定するに等しい。
心の内で消化しきれない想いを抱え、ラスルは愛する人の面影に
縋りつき嗚咽を漏らし続けた。
458
木漏れ日の中で︵終︶
盛夏の頃。
陽射しを遮る木漏れ陽の下で、生まれて間もない赤子が母親の腕
に抱かれていた。
母親は我が子を腕に抱き、愛おしげに漆黒の瞳を我が子へと落と
し見つめている。一方見つめられる赤子は穏やかな寝息を立て、幸
せそうに瞼を閉じていた。
ラスルがフェルナード領を訪問した折、カルサイトの両親は生ま
れる子をカルサイトの実子と認め、子の祖父となるサーガがその後
見人となる事が決まった。
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表向きラスルに冷たくあたったサーガも生まれる子の事は心配な
ようで、ラスルが一人魔物の巣くう森に戻り子を産むのを最後まで
渋っていたが、最後にはセルジーナの口添えでラスルは森に帰る事
を許可された。
魔物の巣くう森︱︱︱それこそがラスルが唯一安心して身を置け
る安住の地。他人との接触を極力拒むイジュトニアの魔法使い特有
の性質ともいえる。
魔物を拒むショムの木に囲まれた森のあばら屋で、ラスルは一人
静かに生まれて来る我が子を慈しみながら日々を過ごした。やがて
時が経ち、己の腹が膨れるにつれ思うのは生まれ出る命と、尽き行
く命。
あれほど渇望した死が、子を宿したという事実一つで覆され生を
求めてやまない。
どんな形であってもいい、生まれる子の傍らで成長を見守って行
きたい⋮まさか生に対する執着が己を支配する日が来ようとは、ラ
スル自身思いもよらない事態であった。
今更ながらラスルを産み落とした事により、愛する夫の手を拒ん
だイシェラスの想いがラスルの脳裏を過る。
愛しい人の懐に飛び込むよりも、憎い男の血を引いてはいても子
を捨てられない︱︱︱それが母親が宿した子に抱く自然な感情なの
だろう。 今のラスルとて子と共に歩める人生を選択できる手段があるのだ
としたら、たとえ悪しき道であったとしても進んでしまうやもしれ
ない。こうして生まれた子を腕に抱き見つめているだけでその思い
はとても強い物へと募って行くのだ。
460
だが、いくら望んでもそんな奇跡的手段は存在しなかった。
命の尽きる日が近付くにつれ、その瞬間が手に取るように分かっ
てしまうのはあまりに切なく。辛くて酷な状況だ。
腕に抱く愛し子はラスルの面影すら知らずに成長するだろう。 しかしこの森を遠く離れたフェルナードの地で、父の姿を語り聞
きながら大人になって行くに違いない。ラスルからすれば何一つ誇
れる物の無い後ろ向きであった自分の面影よりも、祖父母の下でカ
ルサイトの面影を語り継がれ、それを誉に思ってもらえる事の方が
何よりも嬉しく思えた。
その木は出会った当初、アルゼスとラスルが肩を並べ豆剥きをし
た木の下でもある。
穏やかな木漏れ日の下でラスルの膝を借り昼寝に興じたのは昨年
461
の話だというのに、今となってはまるで何年も昔の出来事のように
感じられた。
ラスルは他人の介入を嫌い、カルサイトの実家からもたらされる
手助けを全て断り続け、身重の体でありながら魔物の巣くう森に一
人で生活を続けた。
一度決断を下せば聞かないラスルだ。それを知るアルゼスは出産
間近になり、ラスルの許可も得ず一方的に産婆を押し付けた。アル
ゼスの息のかかった者ゆえ、ラスルの出産は祖父となるサーガより
も真っ先にアルゼスの耳に入り、報告を受けたアルゼスはその瞬間
全ての仕事を投げ出し、共も付けづに慌ててこの場に駆け付けて来
たのである。
道中気ばかりが焦り、森に入って出くわす魔物も無意識に切り捨
てここまで駆けつけて来たのだが︱︱︱アルゼスは目前に広がる穏
やか過ぎる光景に暫し見惚れ佇む。
﹁王子様︱︱︱﹂
伸びた影に頭を上げ眩しそうに目を細めたラスルに、アルゼスか
らは久し振りだなと自然に微笑みが漏れた。
アルゼスは躊躇なくラスルの傍らに腰を下ろすと、その腕に抱か
れた赤子を覗き込む。
遠慮のない距離間とそれを受け入れるラスルの様子に、はた目か
ら見るとまるで一家団欒の美しい一枚の絵の様にうつるが、この光
景を目にする物は誰も存在しない。
462
﹁美しい子だな。﹂
赤子特有の白く柔らかな肌。その肌に溶け込みそうな程、繊細な
銀糸を思わせる髪が風に揺れている。閉じられた瞼のせいで瞳の色
は伺えないが、父親同様に深い紫を帯びているのだろうとアルゼウ
スは予想していた。
﹁難産であったと聞いたがよく頑張ったな。サーガ殿もお喜びに
なるだろう。﹂
生まれたのは男子。
揉める事無くカルサイトの代わりとして正当な後継ぎと認められ
るが、アルゼスにとっては無事に生まれてくれた事が何よりも喜ば
しかった。
愛する女性の、そして今は亡き友の忘れ形見。
己が事のように喜ばしい出来事であったが、この先にある結末を
思うと心の内には切なさが宿る。
﹁名は決まっているのか?﹂
﹁ウェゼライドという名を頂いているの。﹂
ラスルは生まれる前より宿る子の性別を感じ取っていた。
男でも女でも祖母となるセルジーナは受け入れ愛してくれるだろ
うが、サーガが最も深く望んだのは何の問題なくフェルナードの領
地を継ぐべき後継ぎだ。
女児であっても相応しい婿を取れば後継ぎとして認められるが、
腹の子が男子である事が解っているのをわざわざ隠してサーガをや
きもきさせる必要もない。ラスルが生まれる子の性別を告げるとサ
ーガはさして興味もなさそうに頷いただけであったが、子が生まれ
463
る前に名を決め、魔物の巣くう危険な森に使いを出してまでラスル
に名を伝えて来た。
フェルナードを継ぐ跡取りに勝手な名を付けられてはたまらない
と思っての事やも知れないが、たとえそうであったとしても忌み嫌
う魔法使いが産み落とす子を気にかけ、名を頂けたというのが嬉し
かった。
寄り添うように肩を並べ、漆黒と瑠璃色に輝く瞳が無言のままで
幼い赤子を見つめ続けていたがふとラスルが口を開いた。
﹁今まで⋮いろいろありがとう。﹂
まるで別れの様な言葉に、アルゼスは心の動揺を隠しつつ視線を
ラスルへと這わせた。
﹁礼を言われる様な事は何もしていない。﹂
﹁この子に関しては沢山助けてもらったわ。﹂
﹁俺が勝手に押し付けただけで礼など不要だ。﹂
﹁それでも⋮ありがとう。﹂
漆黒の瞳を向けられたアルゼスは、まるで少年の様な戸惑いを覚
え慌てて視線をラスルの抱く赤子へと戻す。
﹁色々ついでに一つ、頼みたい事があるんだけど。﹂
﹁何だ?﹂
﹁この子を︱︱︱フェルナードまで送り届けてやってもらえない
かな?﹂
464
自分にはその時間が残されていないから︱︱︱
ラスルは理由を述べないし、アルゼスも確認はしない。それを察
してアルゼスはただ無言で深く頷いただけだ。
はぁ⋮と、少し気だるげに、だが穏やかな微笑みを浮かべたまま
ラスルは息を付き、アルゼスの肩にもたれかかる。
﹁王子様の為に、わたしに何かできる事ってある?﹂
﹁何だ、急に?﹂
﹁お世話になりっぱなしだから、何かお礼でもって思ったんだけ
ど。﹂
そんな物必要ないと言いかけ、アルゼスは溜息を付きながら木漏
れ日の降り注ぐ空を見上げた。
青葉の隙間からきらきらと宝石のように輝く陽射しが差し込み、
真っ青な青空が見える。
穏やかな時間。
王都とは時の流れが違うと感じながらアルゼスは呟いた。
﹁名を︱︱︱呼んではくれぬか?﹂
﹁名前?﹂
ラスルはぼんやりとアルゼスの言葉を繰り返す。
﹁いつも王子様だろう? 時にはその役職から離れてみたい。﹂
出会ってから今までいつも﹃王子様﹄で、ただの一度も名で呼ば
れた事がなかった。
465
最初は嫌味の様でいて、だがいつしかラスルがアルゼスを呼ぶ時
は、それがアルゼスの本来の名であるかのように口にしていた呼び
かけであったが、アルゼスの中には常に名で呼ばれたいという思い
が漂っていたのだ。
しかしその機会もないまま今日を迎えてしまった。
﹁アルゼス⋮﹂
これに何の意味がある? と言わんばかりに疑問に満ちながら低
く発せられたアルゼスの名。
眉間に皺を寄せているであろうラスルを想像し、アルゼスは喉を
鳴らして笑いを漏らした。
﹁何?﹂
﹁いや⋮女からはいつもアルゼス殿下やアルゼス様と敬称をつけ、
甘い声で囁くように呼ばれているのでな。相手がお前なら呼び捨て
であるのは当然予想できたが⋮声色に全く色気がないというのも新
鮮でいいもんだな。﹂
﹁色気がなくって悪かったわね。そもそもわたしに色気を求める
のが奇特なんだ。それに王子様は役職から離れたかったんじゃない
の?﹂
﹁ああそうだ、すまない。もう王子は止めてくれ。﹂
謝りながらも喉の奥で笑いが止まらないアルゼスに、不機嫌にな
りかけていたラスルの方からも小さな笑いが漏れた。
そうしてやがてその笑いが止まった時、ラスルは静かに呟いた。
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﹁わたしカルサイトを愛している。償いの意味での死ではなく、
ただ純粋に彼の側に行きたいっていつも思ってたの。﹂
﹁︱︱︱そうだな。﹂
ラスルの言葉にアルゼスは切ない思いを抱きながら頷いた。
﹁でもね⋮本当は︱︱︱本当はカルサイトを思う気持ち以上に、
今はいつまでも生きていたいと強く願ってやまない。﹂
誰よりも強い思いで生きたいと願う。
自分が生きる事で多くの不幸をまき散らすのだとしてもかまわな
い。世界に巣食う憎しみの全てを背負ってもかまわないから⋮せめ
てもう少しだけ生まれた幼子の傍らにいたい︱︱︱
生まれた我が子を抱き、思いが募ると口にした事でラスルの瞳か
ら一筋の涙が零れ落ちた。
そんなラスルの肩に腕を回したアルゼスは、赤子ごとラスルを胸
の内に抱き寄せる。
﹁大丈夫だ、安心しろ︱︱︱﹂
アルゼスは胸に抱くラスルの頭に鼻を寄せ愛おしそうに摺り寄せ
ると、大丈夫だと幾度となく頭を撫でつけては濡れたラスルの頬を
拭った。
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やがてラスルは漆黒の瞳を閉じ、伝う涙が終わりを告げる。
胸に抱く重みが僅かに増し、一つの吐息が事切れたせいで、穏や
かな赤子の息使いだけがアルゼスの耳に鮮明に届いた。
アルゼスは二人を腕に抱いたまま、肩を震わせ何とも言えぬ切な
い声を漏らしたかと思うと、瑠璃色に輝く瞳から惜しげもなく涙を
漏らし、声を押し殺して咽び泣く。
何故⋮何故だ?
何故運命はこれ程ラスルに厳しいのか︱︱︱
幸せとは言い難い幼少時代。自ら死を望む程に酷な現状。愛する
者を完全に受け入れる事すら躊躇し、失い︱︱︱そこから得た安ら
ぎすらほんの僅かな時で終焉を迎えてしまう。
鼓動の無い胸に幼子を抱く。
そんな僅かな時間でも十分な生涯だというのか?
アルゼスはラスルの腕から幼子が離れぬよう、二人の体温が常に
触れあえるようにと、流れ落ちる涙にかまう事無く腕に力を込める。
この日の空は何処までも青く透き通り、爽やかな風が木漏れ日の
下の三人を優しく撫でつけ続けた。
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木漏れ日の中で︵終︶︵後書き︶
ここまで読んで下さり、読者様には本当に感謝いたします。
私自身の都合により、間もなく3ヶ月ほどネットに触れる事の出来
ない環境になります。そのため予定通りなのですが、文章を急いで
完結させてしまった節があり申し訳ない部分があります。ごめんな
さい。
最後まで﹃黄金の魔法使い﹄を見守って下さった方々には本当に感
謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございました!!
momo
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n0985l/
黄金の魔法使い
2012年9月10日00時12分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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