堀辰雄 : 燃ゆる頬

燃ゆる頬
堀
辰 雄
1
私は十七になった。そして中学校から高等学校
もと
へはいったばかりの時分であった。
私の両親は、私が彼らの許であんまり神経質に
育つことを恐れて、私をそこの寄宿舎に入れた。
そういう環境の変化は、私の性格にいちじるしい
影響を与えずにはおかなかった。それによって、
私の少年時からの脱皮は、気味悪いまでに促され
つつあった。
寄宿舎は、あたかも蜂の巣のように、いくつも
の小さい部屋に分れていた。そしてその一つ一つ
の部屋には、それぞれ十人余りの生徒らが一しょ
つくえ
くたに生きていた。それに部屋とは云うものの、
中にはただ、穴だらけの、大きな 卓 が二つ三つ
置いてあるきりだった。そしてその卓の上には誰
つぼ
のものともつかず、白筋のはいった制帽とか、辞
書とか、ノオトブックとか、インク壺とか、煙草
ドイツ
の袋とか、それらのものがごっちゃになって積ま
れてあった。そんなものの中で、ある者は独逸語
2
す
の勉強をしていたり、ある者は足のこわれかかっ
ふる い
た古椅子にあぶなっかしそうに馬乗りになって煙
草ばかり吹かしていた。私は彼らの中で一番小さ
ひげ
かった。私は彼らから仲間はずれにされないよう
か みそ り
に、苦しげに煙草をふかし、まだ髭の生えていな
い頬にこわごわ剃刀をあてたりした。
二階の寝室はへんに臭かった。その汚れた下着
類のにおいは私をむかつかせた。私が眠ると、そ
のにおいは私の夢の中にまで入ってきて、まだ現
実では私の見知らない感覚を、その夢に与えた。
私はしかし、そのにおいにもだんだん慣れて行っ
た。
こうして私の脱皮はすでに用意されつつあっ
た。そしてただ最後の一撃だけが残されてい
た……
ある日の昼休みに、私は一人でぶらぶらと、植
物実験室の南側にある、ひっそりした花壇のなか
3
を 歩 い て い た 。そ の う ち に 、私 は ふ と 足 を 止 め た 。
むら
そこの一隅に簇がりながら咲いている、私の名前
みつばち
を知らない真白な花から、花粉まみれになって、
一 匹 の 蜜 蜂 の 飛 び 立 つ の を 見 つ け た の だ 。そ こ で 、
かたま
その蜜蜂がその足にくっついている花粉の 塊 り
を、今度はどの花へ持っていくか、見ていてやろ
うと思ったのである。しかし、そいつはどの花に
もなかなか止まりそうもなかった。そしてあたか
もそれらの花のどれを選んだらいいかと迷ってい
るようにも見えた。……その瞬間だった。私はそ
れらの見知らない花が一せいに、その蜜蜂を自分
めしべ
のところへ誘おうとして、なんだかめいめいの
雌蕋を妙な姿態にくねらせるのを認めたような気
がした。
……そのうちに、とうとうその蜜蜂は或る花を
選んで、それにぶらさがるようにして止まった。
その花粉まみれの足でその小さな柱頭にしがみつ
きながら。やがてその蜜蜂はそれからも飛び立っ
4
ていった。私はそれを見ると、なんだか急に子供
むし
のような残酷な気持になって、いま受精を終った
ば か り の 、 そ の 花 を い き な り り と っ た 。 そ し て
じいっと、他の花の花粉を浴びている、その柱頭
てのひら
も
に見入っていたが、しまいには私はそれを私の
掌 で揉みくちゃにしてしまった。それから私は
なおも、さまざまな燃えるような紅や紫の花の咲
いている花壇のなかをぶらついていた。その時、
ガラス
その花壇にT字形をなして面している植物実験室
の中から、硝子戸ごしに私の名前を呼ぶものがあ
う おず み
け んび きょ う
。見ると 、そ れ は 魚 住 と 云 う 上 級 生 で あ っ た
「来て見たまえ。顕微鏡を見せてやろう……」
その魚住と云う上級生は、私の倍もあるような
大男で、円盤投げの選手をしていた。グラウンド
ギリシア
に出ているときの彼は、その頃私たちの間に流行
していた希臘彫刻の独逸製の絵はがきの一つの、
ディスカスヴェルフェル
「円 盤 投 手」と云うのに少し似ていた。そし
て そ れ が 下 級 生 た ち に 彼 を 偶 像 化 さ せ て い た 。が 、
5
彼は誰に向っても、いつも人を馬鹿にしたような
は
い
表情を浮べていた。私はそういう彼の気に入りた
い と 思 っ た 。 私 は そ の 植 物 実 験 室 の な か へ 入 っ
ていった。
そこには魚住ひとりしかいなかった。彼は毛ぶ
かい手で、不器用そうに何かのプレパラアトをつ
くっていた。そしてときどきツァイスの顕微鏡で
のぞ
からだ
え
び
それを覗いていた。それからそれを私にも覗かせ
た。私はそれを見るためには、身体を海老のよう
に折り曲げていなければならなかった。
「見えるか?」
「ええ……」
私はそういうぎごちない姿勢を続けながら、し
うかが
か し も う 一 方 の 、顕 微 鏡 を 見 て い な い 眼 で も っ て 、
そっと魚住の動作を 窺 っていた。すこし前から
私は彼の顔が異様に変化しだしたのに気づいてい
た。そこの実験室の中の明るい光線のせいか、そ
れとも彼がいつもの仮面をぬいでいるせいか、彼
6
まっか
の頬の肉は妙にたるんでいて、その眼は真赤に充
くちもと
血していた。そして口許にはたえず少女のような
弱々しい微笑をちらつかせていた。私は何とはな
しに、今のさっき見たばかりの一匹の蜜蜂と見知
らない真白な花のことを思い出した。彼の熱い呼
吸が私の頬にかかって来た……
私はついと顕微鏡から顔を上げた。
「もう、僕……」と腕時計を見ながら、私は口ご
もるように云った。
「教室へ行かなくっちゃ……」
「そうか」
いつのまにか魚住は巧妙に新しい仮面をつけて
いた。そしていくぶん青くなっている私の顔を見
下ろしながら、彼は平生の、人を馬鹿にしたよう
な表情を浮べていた。
*
7
さいぐさ
五月になってから、私たちの部屋に三枝と云う
私の同級生が他から転室してきた。彼は私より一
や
つだけ年上だった。彼が上級生たちから少年視さ
れていたことはかなり有名だった。彼は瘠せた、
ば
ら
静脈の透いて見えるような美しい皮膚の少年だっ
うらや
た。まだ薔薇いろの頬の所有者、私は彼のそうい
ぬす
う貧血性の美しさを 羨 んだ。私は教室で、しば
くび
しば、教科書の蔭から、彼のほっそりした頸を偸
み見ているようなことさえあった。
、三 枝 は 誰 よ り も 先 に 、二 階 の 寝 室 へ 行 っ た
寝室は毎夜、規定の就眠時間の十時にならなけ
やみ
れば電燈がつかなかった。それだのに彼は九時頃
から寝室へ行ってしまうのだった。私はそんな闇
のなかで眠っている彼の寝顔を、いろんな風に夢
みた。
しかし私は習慣から十二時頃にならなければ寝
のど
室へは行かなかった。
ある夜、私は喉が痛かった。私はすこし熱があ
8
るように思った。私は三枝が寝室へ行ってから間
ろうそく
もなく 、西 洋 蝋 燭 を 手 に し て 階 段 を 昇 っ て 行 っ た 。
そして何の気なしに自分の寝室のドアを開けた。
そのなかは真暗だったが、私の手にしていた蝋燭
か っこ う
が、突然、大きな鳥のような恰好をした異様な影
を、その天井に投げた。それは格闘か何んかして
いるように、無気味に、揺れ動いていた。私の心
臓はどきどきした。……が、それは一瞬間に過ぎ
なかった。私がその天井に見出した幻影は、ただ
蝋燭の光りの気まぐれな動揺のせいらしかった。
なぜなら、私の蝋燭の光りがそれほど揺れなくな
まくら
った時分には、ただ、三枝が壁ぎわの寝床に寝て
いるほか、その 枕 もとに、もうひとりの大きな
ふ き げ ん
男が、マントをかぶったまま、むっつりと不機嫌
そうに坐っているのを見たきりであったから……
「誰だ?」とそのマントをかぶった男が私の方を
あわ
ふりむいた。
私は惶てて私の蝋燭を消した。それが魚住らし
9
いのを認めたからだった。私はいつかの植物実験
室の時から、彼が私を憎んでいるにちがいないと
よご
信じていた。私は黙ったまま、三枝の隣りの、自
分のうす汚れた蒲団の中にもぐり込んだ。
のど
三枝もさっきから黙っているらしかった。
私の悪い喉をしめつけるような数分間が過ぎ
た。その魚住らしい男はとうとう立上った。そし
て何も云わずに暗がりの中で荒あらしい音を立て
ながら 、寝 室 を 出 て 行 っ た 。そ の 足 音 が 遠 の く と 、
私は三枝に、
き
「僕は喉が痛いんだ……」とすこし具合が悪そう
に云った。
「熱はないの?」彼が訊いた。
「すこしあるらしいんだ」
「どれ、見せたまえ……」
そう云いながら三枝は自分の蒲団からすこし身
こめ かみ
体 を の り 出 し て 、 私 の ず き ず き す る 顳 の 上 に 彼
の冷たい手をあてがった。私は息をつめていた。
10
てくび
それから彼は私の手頸を握った。私の脈を見るの
みゃくはく
にしては、それは少しへんてこな握り方だった。
それだのに私は、自分の脈 搏の急に高くなった
のを彼に気づかれはしまいかと、そればかり心配
していた……
翌日、私は一日中寝床の中にもぐりながら、こ
れからも毎晩早く寝室へ来られるため、私の喉の
なお
痛みがいつまでも癒らなければいいとさえ思って
いた。
せき
数日後、夕方から私の喉がまた痛みだした。私
はわざと咳をしながら、三枝のすぐ後から寝室に
行った。しかし、彼の床はからっぽだった。どこ
へ行ってしまったのか、彼はなかなか帰って来な
かった。
一時間ばかり過ぎた。私はひとりで苦しがって
いた。私は自分の喉がひどく悪いように思い、ひ
ょっとしたら自分はこの病気で死んでしまうかも
11
知れないなぞと考えたりしていた。
彼はやっと帰って来た。私はさっきから自分の
まくらもと
枕 許に蝋燭をつけぱなしにしておいた。その光
りが、服をぬごうとして身もだえしている彼の姿
を、天井に無気味に映した。私はいつかの晩の幻
を思い浮べた。私は彼に今までどこへ行っていた
のかと訊いた。彼は眠れそうもなかったからグラ
ウンドを一人で散歩して来たのだと答えた。それ
はいかにも嘘らしい云い方だった。が、私はなん
にも云わずにいた。
「蝋燭はつけて置くのかい?」彼が訊いた。
「どっちでもいいよ」
「じゃ、消すよ……」
そう云いながら、彼は私の枕許の蝋燭を消すた
まつげ
めに、彼の顔を私の顔に近づけてきた。私は、そ
の長い睫毛のかげが蝋燭の光りでちらちらしてい
こうごう
る彼の頬を、じっと見あげていた。私の火のよう
にほてった頬には、それが神々しいくらい冷たそ
12
うに感ぜられた。
こ
私と三枝との関係は、いつしか友情の限界を超
え出したように見えた。しかしそのように三枝が
私に近づいてくるにつれ、その一方では、魚住が
ますます寄宿生たちに対して乱暴になり、時々グ
ラウンドに出ては、ひとりで狂人のように円盤投
げをしているのが、見かけられるようになった。
そのうちに学期試験が近づいてきた。寄宿生た
ちはその準備をし出した。魚住がその試験を前に
して、寄宿舎から姿を消してしまったことを私た
ちは知った。しかし私たちは、それについては口
をつぐんでいた。
*
夏休みになった。
私は三枝と一週間ばかりの予定で、ある半島へ
13
旅行しようとしていた。
いた ず ら
あるどんよりと曇った午前、私たちはまるで両
親をだまして悪戯かなんかしようとしている子供
らのように、いくぶん陰気になりながら、出発し
た。
のこぎり
私たちはその半島の或る駅で下り、そこから二
里ばかり海岸に沿うた道を歩いた後、 鋸 のよう
な形をした山にいだかれた、ある小さな漁村に到
着した。宿屋はもの悲しかった。暗くなると、何
処からともなく海草の香りがしてきた。少婢がラ
ンプをもって入ってきた、私はそのうす暗いラン
プの光りで、寝床へ入ろうとしてシャツをぬいで
いる、三枝の裸かになった背中に、一ところだけ
背骨が妙な具合に突起しているのを見つけた。私
は何だかそれがいじってみたくなった。そして私
はそこのところへ指をつけながら、
あか
「これは何だい?」と訊いてみた。
「それかい……」彼は少し顔を赧らめながら云っ
14
せきつい
あと
た 。「 そ れ は 脊 椎 カ リ エ ス の 痕 な ん だ 」
「ちょっといじらせない?」
ぞうげ
そう云って、私は彼を裸かにさせたまま、その
背骨のへんな突起を、象牙でもいじるように、何
な
くすぐ
度も撫でてみた。彼は目をつぶりながら、なんだ
か 擽 ったそうにしていた。
翌日もまたどんよりと曇っていた。それでも私
たちは出発した。そして再び海岸に沿うた小石の
多い道を歩きだした。いくつか小さい村を通り過
ぎた。だが、正午頃、それらの村の一つに近づこ
うとした時分になると、今にも雨が降って来そう
な暗い空合になった。それに私たちはもう歩きつ
かれ、互にすこし不機嫌になっていた。私たちは
その村へ入ったら、いつ頃乗合馬車がその村を通
るかを、尋ねてみようと思っていた。
その村へ入ろうとするところに、一つの小さな
板橋がかかっていた。そしてその板橋の上には、
15
び
く
五六人の村の娘たちが、めいめいに魚籠をさげな
がら、立ったままで、何かしゃべっていた。私た
ちが近づくのを見ると、彼女たちはしゃべるのを
止めた。そして私たちの方を珍らしそうに見つめ
ていた。私はそれらの少女たちの中から、一人の
眼つきの美しい少女を選びだすと、その少女ばか
りじっと見つめた。彼女は少女たちの中では一番
年上らしかった。そして彼女は私がいくら無作法
に見つめても、平気で私に見られるがままになっ
ていた。そんな場合にあらゆる若者がするであろ
うように、私は短い時間のうちに出来るだけ自分
を強くその少女に印象させようとして、さまざま
な動作を工夫した。そして私は彼女と一ことでも
か
いいから何か言葉を交わしたいと思いながら、し
ゆる
かしそれも出来ずに、彼女のそばを離れようとし
ていた。そのとき突然、三枝が歩みを弛めた。そ
して彼はその少女の方へずかずかと近づいて行っ
た。私も思わず立ち止りながら、彼が私に先廻り
16
してその少女に馬車のことを尋ねようとしている
らしいのを認めた。
私はそういう彼の機敏な行為によってその少女
の心に彼の方が私よりも一そう強く印象されはす
まいかと気づかった。そこで私もまた、その少女
に近づいて行きながら、彼が質問している間、彼
女の魚籠の中をのぞいていた。
はに
少女はすこしも羞かまずに彼に答えていた。彼
しゃが
女の声は、彼女の美しい眼つきを裏切るような、
妙に咳枯れた声だった。が、その声がわりのして
いるらしい少女の声は、かえって私をふしぎに魅
惑した。
今度は私が質問する番だった。私はさっきから
のぞき込んでいた魚籠を指さしながら、おずおず
か
たま
と、その小さな魚は何という魚かと尋ねた。
「ふふふ……」
お
少女はさも可笑しくって溜らないように笑っ
。そ れ に つ れ て 、他 の 少 女 た ち も ど っ と 笑 っ た
17
よほど私の問い方が可笑しかったものと見える。
あか
私は思わず顔を赧らめた。そのとき私は、三枝の
顔にも、ちらりと意地悪そうな微笑の浮んだのを
認めた。
私は突然、彼に一種の敵意のようなものを感じ
出した。
私たちは黙りあって、その村はずれにあるとい
う乗合馬車の発着所へ向った。そこへ着いてから
も馬車はなかなか来なかった。そのうちに雨が降
す
ってきた。
空いていた馬車の中でも、私たちはほとんど無
言だった。そして互に相手を不機嫌にさせ合って
いた。夕方、やっと霧のような雨の中を、宿屋の
あるというある海岸町に着いた。そこの宿屋も前
日のうす汚い宿屋に似ていた。同じような海草の
ほの
よみがえ
かすかな香り、同じようなランプの仄あかりが、
わずかに私たちの中に前夜の私たちを 蘇 らせ
18
た。私たちはようやく打解けだした。私たちは私
たちの不機嫌を、旅先きで悪天候ばかりを気にし
て い る せ い に し よ う と し た 。そ し て し ま い に 私 は 、
明日汽車の出る町まで馬車で一直線に行って、ひ
ま
と先ず東京に帰ろうではないかと云い出した。彼
も仕方なさそうにそれに同意した。
その夜は疲れていたので、私たちはすぐに寝入
った。……明け方近く、私はふと目をさました。
三枝は私の方に背なかを向けて眠っていた。私は
寝巻の上からその背骨の小さな突起を確めると、
昨夜のようにそれをそっと撫でてみた。私はそん
な こ と を し な が ら 、ふ と き の う 橋 の 上 で 見 か け た 、
魚籠をさげた少女の美しい眼つきを思い浮べた。
その異様な声はまだ私の耳についていた。三枝が
か す か に 歯 ぎ し り を し た 。私 は そ れ を 聞 き な が ら 、
またうとうとと眠り出した……
翌日も雨が降っていた。それは昨日より一そう
霧に似ていた。それが私たちに旅行を中止するこ
19
いや お う
とを否応なく決心させた。
ひびき
雨の中をさわがしい 響 をたてて走ってゆく乗
合馬車の中で、それから私たちの乗り込んだ三等
客車の混雑のなかで、私たちは出来るだけ相手を
苦しめまいと努力し合っていた。それはもはや愛
の休止符だ。そして私はなぜかしら三枝にはもう
これっきり会えぬように感じていた。彼は何度も
私の手を握った。私は私の手を彼の自由にさせて
いた。しかし私の耳は、ときどき、どこからとも
なく、ちぎれちぎれになって飛んでくる、例の少
女の異様な声ばかり聴いていた。
別れの時はもっとも悲しかった。私は、自分の
家へ帰るにはその方が便利な郊外電車に乗り換え
るために、ある途中の駅で汽車から下りた。私は
混雑したプラットフォムの上を歩き出しながら、
何度も振りかえって汽車の中にいる彼の方を見
た。彼は雨でぐっしょり濡れた硝子窓に顔をくっ
つけて、私の方をよく見ようとしながら、かえっ
20
て自分の呼吸でその硝子を白く曇らせ、そしてま
*
すます私の方を見えなくさせていた。
こはん
八月になると、私は私の父と一しょに信州のあ
る湖畔へ旅行した。そして私はその後、三枝には
会わなかった。彼はしばしば、その湖畔に滞在中
の 私 に 、 ま る で ラ ヴ ・レ タ ア の よ う な 手 紙 を よ こ
した。しかし私はだんだんそれに返事を出さなく
なった。すでに少女らの異様な声が私の愛を変え
せきつ い
ていた。私は彼の最近の手紙によって彼が病気に
なったことを知った。脊椎カリエスが再発したら
しかった。が、それにも私は遂に手紙を出さずに
しまった。
秋の新学期になった。湖畔から帰ってくると、
私は再び寄宿舎に移った。しかしそこではすべて
が変っていた。三枝はどこかの海岸へ転地してい
21
た。魚住はもはや私を空気を見るようにしか見な
かった。……冬になった。ある薄氷りの張ってい
る朝、私は校内の掲示板に三枝の死が報じられて
あるのを見出した。私はそれを未知の人でもある
かのように、ぼんやりと見つめていた。
*
それから数年が過ぎた。
その数年の間に私はときどきその寄宿舎のこと
か んぼ く
を思い出した。そして私はそこに、私の少年時の
へび
美しい皮膚を、ちょうど灌木の枝にひっかかって
いる蛇の透明な皮のように、惜しげもなく脱いで
きたような気がしてならなかった。――そしてそ
が、それらの少
の数年の間に、私はまあ何んと多くの異様な声を
した少女らに出会ったことか!
女らは一人として私を苦しめないものはなく、そ
れに私は彼女らのために苦しむことを余りにも愛
22
していたので、そのために私はとうとう取りかえ
かっけつ
しのつかない打撃を受けた。
私ははげしい喀血後、かつて私の父と旅行した
ことのある大きな湖畔に近い、ある高原のサナト
は い け っか く
ば
ら
リウムに入れられた。医者は私を肺結核だと診断
した。が、そんなことはどうでもいい。ただ薔薇
がほろりとその花弁を落すように、私もまた、私
し らか ば
の薔薇いろの頬を永久に失ったまでのことだ。
私の入れられたそのサナトリウムの「白樺」と
いう病棟には、私の他には一人の十五六の少年し
か収容されていなかった。
かいふくき
その少年は脊椎カリエス患者だったが、もうす
っかり恢復期にあって、毎日数時間ずつヴェラン
ダに出ては、せっせと日光浴をやっていた。私が
私のベッドに寝たきりで起きられないことを知る
と、その少年はときどき私の病室に見舞いにくる
くちびる
ようになった。ある時、私はその少年の日に黒く
焼けた、そして 唇 だけがほのかに紅い色をして
23
ほそおもて
いる細 面の顔の下から、死んだ三枝の顔が透か
しのように現われているのに気がついた。その時
から、私はなるべくその少年の顔を見ないように
した。
ま どぎ わ
ある朝、私はふとベッドから起き上って、こわ
ごわ一人で、窓際まで歩いて行ってみたい気にな
った。それほどそれは気持のいい朝だった。私は
さるまた
す
ぱだか
そのとき自分の病室の窓から、向うのヴェランダ
ま えこ ご
に、その少年が猿股もはかずに素っ 裸 になって
日光浴をしているのを見つけた。彼は少し前屈み
になりながら、自分の体のある部分をじっと見入
っていた。彼は誰にも見られていないと信じてい
るらしかった。私の心臓ははげしく打った。そし
てそれをもっとよく見ようとして、近眼の私が目
を細くして見ると、彼の真黒な背なかにも、三枝
のと同じような特有な突起のあるらしいのが、私
の眼に入った。
私は不意に目まいを感じながら、やっとのこと
24
でベッドまで帰り、そしてその上へ打つ伏せにな
った。
少年は数日後、彼が私に与えた大きな打撃につ
いては少しも気がつかずに、退院した。
底本「日本の文学
堀 辰雄」
発行
中央公論社
昭和三十 九年九 月五日