田中麻子 - 立教大学

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第 2 回 2005 年 4 月 21 日
ジョージ 1 世のイギリス国外滞在時におけるイギリス政治
谷藤智弘
本報告では、報告者の卒業論文の内容を紹介した。
卒業論文においては、ジョージ 1 世がイギリス国外に滞在している間イギリス政治がどの
ように運営されたのか、という問を立てた。そして、「国王代理」となった人々の分析や、時
期を限定して具体的な事象を紹介することを通じて、問に答えることを試みた。
卒業論文の第 1 章では、ジョージ 1 世のイギリス国外滞在時に、イギリスでその代わりを
務めるため任命された人物を扱った。2 度目の国王国外滞在時(1716 年から 17 年)には皇
太子が国王の代行の任を果たしたが、それ以外にそうした役割を担ったのは「国王代理」
(Lords Justices)であった。
1 度目の国王国外滞在期間(1714 年)に任命された「国王代理」は、3 度目(1719 年)から
7 度目(1727 年)の国王国外滞在期間における「国王代理」と異なる特徴を有していた。第
一に、「国王代理」の人数が 25 名で、その他の時期と比べて多かった。第二に、その 25 名
の内から役職上就任した人を除いた、新国王即位予定者(後のジョージ 1 世)指名メンバ
ー19 名中に、ジョージ 1 世の治世を通じ政権の座にあったホイッグに属さないメンバー(ト
ーリ 4 名)がいた。これらの特徴は、アン女王死後のハノーヴァ家による王位継承を円滑に
進めるため、ハノーヴァ家を支持する人物が幅広く「国王代理」に任命されたことから生じ
た。
「国王代理」に任命されたメンバー全体(ジョージ 1 世の治世全体を対象)を分析すると、
以下の三つの点が指摘できる。第一に、ジョージ1世の治世における「国王代理」のほとん
ど全員が爵位貴族であった。第二に、3 度目以降の国王国外滞在時に任命された「国王代
理」のほとんどは、「国王代理」に任命された時期に行政府や宮廷の高位官職を保有して
いた。第三に、「国王代理」となったメンバーには変化が少なかった。それらの事実から、
当時の政界で爵位貴族の勢力が大きく、高位の官職は彼らにほぼ独占されていたことがう
かがえる。また、「国王代理」にたびたび就任する人物の多さから、ホイッグ内部で権力争
いはあったものの政権の座にあった人物が大幅に変化するような大きな政権交代はほと
んど無かったジョージ 1 世の治世の状況をのぞめる。
ジョージ 1 世の1度目のイギリス国外滞在時におかれた「国王代理」は、新国王と連絡を
取ったり彼から指示を受けて業務を果たしたりした。しかし、国王国外滞在時における皇太
子や「国王代理」の権限は非常に制限されており、2 度目以降のこうした時期に彼らが果た
した仕事は形式的なものしか確認できなかった。
「国王代理」が 3 度目以降のジョージ 1 世国外滞在時に任命された背景には、国王の代
わりを務めうる王族がいても、その人とジョージ 1 世の関係が良好でなかったことが挙げら
れる。
卒業論文第2 章では、6 度目のジョージ 1 世イギリス国外滞在期(1725 年から 26 年)に起
こった事象を取り上げた。当時、ウォルポール政権が相対的に安定した時期を迎えていた。
こうした特徴があるため、7 回のジョージ 1 世イギリス国外滞在期から 1 回を考察対象として
選ぶに当たり、この時期を扱うことにした。
2
まず、国内問題として麦芽税(Malt Tax)課税に反対してスコットランドで生じた騒擾を取り
上げ、それをめぐっての臣下やジョージ 1 世の動きを扱った。政権首班のウォルポールは、
アイレイ伯(Archibald Campbell, Earl of Ilay, 兄の死後 3rd Duke of Argyll, 1682-1761)のよう
なスコットランドの有力者と協力しつつ事件の収拾に当たった。ジョージ 1 世はイギリス国
外に滞在していても事件をうけて官職任免権を行使したが、これはウォルポールに要請さ
れて行ったことで、国王の主体的な行動とは言いにくい。
次に、この時期の外交上の事件としてハノーファ条約締結を取り上げた。この条約は、ス
ペインとオーストリアの同盟に対抗して、イギリスとプロイセンとフランスが結んだものであ
る。この条約が結ばれるに当たっては、スペインとオーストリアが老王位僭称者を支援して
自らの王座を脅かそうとしている、と懸念したジョージ 1 世の意向が大きく働いた。また、ヨ
ーロッパにおける勢力均衡政策を採っていたタウンゼンド子爵が重要な役割を担った。
本報告のまとめとして、以下のことを述べた。「国王代理」は実質的権限をほとんど有さな
かったが、彼らを分析することは、政界の状況や任命された人物の政権や宮廷との近さを
知る上で有意義である。ジョージ 1 世の 1725 年から 26 年のイギリス国外滞在期を見ると、
国王はイギリスの内政にはあまり関与せず臣下が重要な役目を果たしたことが指摘できる。
しかし、外交においては国王の存在が大きかった。
3
〈レジュメ〉
西洋史演習3
2005 年 4 月 21 日
立教大学大学院文学研究科史学専攻博士課程前期課程 1 年 谷藤智弘
1、現在の問題関心
初期ハノーヴァ朝における、イギリス国王のイギリス国外滞在
同時期のイギリス国王権力
など
2、卒業論文題目
「ジョージ 1 世のイギリス国外滞在とイギリス政治―『国王代理』・1725 年の二つの事象」
3、卒業論文執筆に際しての主要参考文献および史料
二次文献
青木康「選挙区・議会・政府」近藤和彦編『長い 18 世紀のイギリス―その政治社会』山川
出版社、2002 年、82‐114 頁、註 43‐46 頁。
近藤和彦「連合した王国」近藤和彦編『長い18世紀のイギリス―その政治社会』山川出版
社、2002 年、21‐52 頁、註 28‐35 頁。
松園伸『産業社会の発展と議会政治―18 世紀イギリス史―』早稲田大学出版部、1999
年。
Dickinson, Harry T., Walpole and the Whig Supremacy, London, English Universities Press,
1973.
Fryde, E. B., Greenway, D. E., Porter, S., and Roy, I. eds., Handbook of British Chronology, 3rd
ed., London, Royal Historical Society, 1986.
Hatton, Ragnhild, George Ⅰ, New Haven and London, Yale University Press, 2001(1st pub.
entitled George Ⅰ: Elector and King, London, Thames and Hudson, 1978).
印刷一次史料
Journals of the House of Commons, Vols.XVIII-XX.
Journals of the House of Lords, Vols.XX-XXIII.
London Gazette.(1714-27 年の部分を使用)
4、卒業論文要旨
4
はじめに
本論文の目的
ジョージ 1 世(George Ⅰ, 1660-1727, 在位 1714-27)がイギリス国外に滞在している間、
イギリス政治がどう運営されたのか考察する。
・1 度目のジョージ 1 世イギリス国外滞在期間
アン女王(Anne, 1665-1714, 在位 1702-14)の死去からジョージ 1 世のイギリス上陸
までの 1 ヶ月と 18 日間
・最後(7 度目)のジョージ 1 世イギリス国外滞在期間 9 日間
・その他のジョージ 1 世イギリス国外滞在 2 年から 3 年に1度という頻度で、1 回につき
数ヶ月間
第1 章
ジョージ 1 世の代理たち
第1 節
皇太子・1714 年における「国王代理」の特徴
・ジョージ 1 世のイギリス国外滞在時に、イギリスでその代わりを務めるために任命され
た人物
2 度目の国王国外滞在時(1716 年から 17 年)以外には、「国王代理」(Lords Justices)
2 度目の国王国外滞在時のみ、皇太子が国王の代行
・1 度目の国王国外滞在期間(1714 年)に任命された「国王代理」が持つ特徴
①人数がその他の時期に比べて多い―25 名(下記内訳を合計すると 26 名だが、重
複が 1 名ある)
内訳:役職上就任した人物
7名
新国王即位予定者(後のジョージ 1 世)指名メンバー 19 名
②上記 19 名中、トーリ(Tory)4 名
これらの特徴は、アン女王死後のハノーヴァ家による王位継承を円滑に進めるため、そ
れを支持する人物が幅広く「国王代理」に任命されたことから生じた。
第2 節
「国王代理」就任メンバー全体を見た際の特徴
・ジョージ1世の治世における「国王代理」―ほとんど全員が爵位貴族
・3 度目以降の国王国外滞在時に任命された「国王代理」のほとんどは、「国王代理」に
任命された時期に行政府や宮廷の高位官職を保有(例えば、本レジュメ 6 頁の表参照)
5
・「国王代理」となったメンバー―変化が少ない。
以上 3 点から、
→当時の政界で、爵位貴族の勢力が大きかった。
高位の官職は、爵位貴族がほぼ独占していたことがうかがえる。
ホイッグ(Whig)内部で権力争いはあったが、政権交代はほとんど無かった時代状況
第3 節
代理たちの仕事と権限・1719 年以降における「国王代理」任命の背景
・国王の代わりを務めた人々の仕事
ジョージ 1 世の1度目のイギリス国外滞在時
新国王と連絡を取る、彼からの指示を受けて業務を果たす。
2 度目以降の国王国外滞在時
皇太子や「国王代理」の権限―非常に制限
彼らが果たした仕事は形式的なものしか確認できなかった。
例:授権状(commission)冒頭に、国王に代わって名が記される。
・臣下である「国王代理」が、3 度目以降のジョージ 1 世国外滞在時に任命された背景
王族はいたものの、国王の代わりを務められるほどの関係にはなかった。
第2 章
1725 年に起こった二つの事象
第1 節
スコットランドでの反麦芽税騒動
第2 章では、ジョージ 1 世の 6 度目のイギリス国外滞在期(1725 年から 26 年)に生じた事
象を取り上げた。
・麦芽税(Malt Tax)課税に反対する騒擾
・政権首班のウォルポール(Sir Robert Walpole, 1742年から1st Earl of Orford, 1676-1745)
スコットランドの有力者と協力しつつ事件を収拾
・ジョージ 1 世 イギリス国外滞在時であっても、事件をうけて官職任免権を行使
スコットランド担当の国務大臣ロクスバラ公(John Ker, 1st Duke of Roxburghe,
c.1680-1741)解任
・国王に随行して大陸に滞在していたイギリス人臣下とイギリスに残った政治家が、書簡
6
で情報交換
第2 節
ハノーファ条約締結
・ハノーファ条約(Treaty of Hanover)
イギリスとプロイセンとフランス間に結ばれた。
防衛同盟の性格を持つ。
スペインとオーストリアの同盟に対抗
・スペインとオーストリアが同盟したことで自らの王位に不安をいだいた、ジョージ 1 世の
意向
・ヨーロッパにおける勢力均衡政策を採っていたタウンゼンド子爵(Charles Townshend,
2nd Viscount Townshend, 1674-1738)が担った役割
おわりに
「国王代理」は実質的権限をほとんど有さなかったが、彼らを分析することは、政界の状
況や任命された人物の政権や宮廷との近さを知る上で有意義であろう。ジョージ 1 世の
1725 年から 26 年のイギリス国外滞在時を見ると、国王はイギリスの内政にはあまり関与せ
ず、臣下が重要な役を担ったことが指摘できる。しかし、外交においては国王が大きな役
割を果たしていたのであった。
5、今後の課題―三つの方向性
・ 卒業論文で扱ったことの中から課題を見つけ、研究をより深める。
・ ジョージ2世(George Ⅱ, 1683-1760, 在位1727-60)の治世に考察時期を移すが、卒業
論文と同様の、政治面からのアプローチをする。
・ ジョージ 1 世の治世を対象に、国王国外滞在問題に対するアプローチの仕方を変え
てみる。(例:国王一行の行列の様子)
7
1725 年 6 月 1 日付で『ロンドン・ガゼット』に公示された「国王代理」
16 名
William Lord Archbishop of Canterbury
1
カンタベリ大主教ウィリアム・ウェイク
Peter Lord King Baron of Ockham, Lord Chancellour
2
大法官オッカム男爵キング卿
William Duke of Devon, Lord President
3
枢密院議長デヴォン(デヴォンシァ)公
Evelyn Duke of Kingston, Lord Privy Seal
4
玉璽尚書キングストン公
Lionel Duke of Dorset, Lord Steward
5
宮内府長官ドーセット公
Charles Duke of Grafton, Lord Chamberlain
6
式部長官グラフトン公
Charles Duke of Bolton, Constable of the Tower
7
ロンドン塔長官(司令官)ボルトン公
John Duke of Argyll and Greenwich, Master of the Ordnance
8
軍需品部(兵站部)長官アーガイル及びグリニッジ公
John Duke of Roxburghe, one of His Majesty’s Principal Secretaries of State
9
国務大臣ロクスバラ公
Thomas Holles Duke of Newcastle, one of His Majesty’s Principal Secretaries of State
10
国務大臣ニューカースル公
James Earl of Berkeley, First Commissioner of the Admiralty
11
第一海軍委員バークリ伯
Francis Earl of Godolphin, Groom of the Stole
12
宮内次官補ゴドルフィン伯
Charles Lord Viscount Townshend, one of His Majesty’s Principal Secretaries of State
13
国務大臣タウンゼンド子爵
Simon Lord Viscount Harcourt
14
枢密院議員ハーコート子爵
John Lord Carteret, Lord Lieutenant of Ireland
15
アイルランド総督カートレット卿
Sir Robert Walpole, Knight of the Bath, First Commissioner of the Treasury
16
第一大蔵委員サー・ロバート・ウォルポール
8
ヘイスティングズの戦いの背景について
田中麻子
ヘイスティングズの戦いとは、軍事史において騎兵の歩兵に対する優越を決定的に立
証し、イングランドのみならず中世のヨーロッパの戦場すべてに歩兵戦術から騎兵戦術へ
と大きな変化をもたらした戦いであり、基本的に、歩兵に対し騎兵を用いたからウィリアム 1
世は勝利を得たのだというのが一般的な見方であるが、戦いに至るまでの状況を考慮に
入れても勝因はそれほど単純なものではない。騎兵主体、あるいは歩兵主体の編成や戦
術にかかわりなく、ヘイスティングズの戦いの勝敗をもたらしたものは、最終的にはイング
ランドとノルマンディーの「社会の条件」にあった。そしてその「社会の条件」とは、イングラ
ンドにおいては伝統的に王権の優位が認められながらの協調的な封建制の発達を、ある
意味では諸侯の 1 人が王となることによってバランスを崩し、かつそのバランスを取り戻し
ていない状態であったこと、一方のノルマンディーでは相対的であるにしろノルマンディ
ー公ひとりに権力を留めた集権的封建制を確立していたことであった。そのため、ノルマ
ンディー公国が国内外の勢力を結集して征服事業に乗り出すことができたのに対し、イン
グランド側は、王位についたハロルドが同じように国内の勢力を彼のもとにまとめることが
出来なかった、なぜなら彼は確かに王位を狙えるほどの権力を持った伯ではあったが、し
かしそれはイングランドにおいて王権が伯に奪われるほどに一時的にせよ衰退していたこ
とをも意味した。そしてハロルドの手に入れた王権は、外敵の侵入に対して国内の諸勢力
を結集するほどには強力ではなかったからである。そのためにヘイスティングズにおいて
ハロルドは敗れ、勝利したノルマンディー公がイングランド王に即位するという、イギリス史
上に置ける重大事件のひとつ、ノルマン征服は成立した。
9
〈レジュメ〉
西洋史演習 3
2005 年 4 月 21 日
05JC007E 田中麻子
題目「ヘイスティングズの戦いの背景について」
目次
はじめに
第 1 章 ヘイスティングズの戦い
第 1 節 カヌートからエドワードまで
第 2 節 1066 年―9 月 25 日まで
第 3 節 ヘイスティングズの戦い
第 2 章 ノルマンディー公国
第 1 節 国制
第 2 節 軍制
第 3 章 イングランド
第 1 節 国制
第 2 節 軍制
まとめに
付録・図表
参考文献一覧
・Battle &District Historical Society ,TheNorman Conquest : Its setting and
impact,Eyre&Spottiswoode,Lndon,1966
・David C. Douglas, English historical documents v. 2. 1042-1189, London : Routledge, 1996
・Nicholas Hooper & Matthew Bennett, Cambridge illustrated atlas, warfare : the Middle Ages,
768-1487, New York : Cambridge University Press , 1996
・Stephen Morillo, The Battle of Hastings : sources and interpretations, New York : Boydell
Press, 1996
・Charles Oman,A History of the art of war in the middle ages,Methuen,1978
・Dorothy Whitelock, English historical documents v.1.500-1042, London : Routledge, 1996
・デヴィッド・ウィルソン著、中田康行訳『アングロ=サクソン人』晃洋書房、1983 年
・ルードルフ・ヴェルトナー著、木村寿夫訳『ヴァイキング・サガ』法政大学出版局、1997 年
・リン・ホワイト,Jr.著、内田星美訳『中世の技術と社会変動』思索社、1985 年
・青山吉信「アングロ=サクソン時代における軍事的諸負担の賦課」『史学雑誌』
、1976 年
・青山吉信編『世界歴史大系 イギリス史1』山川出版社、1991 年
・大沢一雄『アングロ・サクソン年代記研究』ニューカレントインターナショナル、1991 年
・大類伸「ヘスチングズ役及び其の戦術史上の価値に就て」『史学雑誌』第 19 編第 11 号、1908 年
・樺山紘一他編『世界歴史大系 フランス史1』山川出版社、1991 年
・倉澤一太郎 「1066 年のイングランド王位継承を巡る問題」『文明』76 号 東海大学、1997
年
・瀬戸一夫『時間の民族史 教会改革とノルマン征服の神学』勁草書房、2003 年
・田中正義『イングランド封建制の形成』御茶の水書房、1977 年
10
・戸上和夫「後期サクスンイングランドの鋳貨製造人について」イギリス中世史研究会編『中世イ
ングランドの社会と国家』山川出版社、1994 年
・富沢霊岸「アングロ・サクソン期の gefol について royal tax か feudal tax か」
『史林』第 47 巻
第 4 号、1964 年
・同『封建制と王政』ミネルヴァ書房、1968 年
・同「イギリス中世王権の発展系譜」
『西洋史学』91 号、1973 年
・同「アングロ・サクソン時代の軍役 Fyrd について」『西洋史学』71 号、1976 年
・永井一郎「アングロ・サクソン農民の軍役参加について」『社会経済史学』第 36 巻、1960 年
・中佐古克一「バイユーのタピストリー」『東洋大学紀要 教養課程編』第 32 号、1993 年
・中村敦子「十一世紀前半のノルマンディーと副伯ゴツ家」『西洋史学』190 号、1998 年
・福田誠「後期サクソン・イングランドの水軍 ―スカンディナヴィア人傭兵の使用をめぐって―」
イギリス中世史研究会編『中世イングランドの社会と国家』山川出版社、1994 年
・森義信『西欧中世軍制史論』原書房、1988 年
・山代宏道「ノルマン征服をめぐる『危機』の諸相―危機認識と危機管理―」『広島大学文学
部紀要』第 58 巻 1998 年
・山代宏道編『危機をめぐる歴史学 ―西洋史の事例研究―』刀水書房、2002 年
・山辺規子『ノルマン騎士の地中海興亡史』白水社、1991 年
・ヨーロッパ史研究会編『西洋中世資料集』東京大学出版会、2000 年
・渡邊昌美「ヨーロッパの戦争と軍隊」 木村尚三郎他編『中世の政治と戦争』学生社、1992
年
はじめに
ノルマン征服 … 1066 年のノルマンディー公ギョーム 2 世(GuillaumeⅡ,1028-87 在位
1035-87)即ちイングランド王ウィリアム 1 世(William the Conqueror,
在位 1066-1087)によるイングランド征服をいう。異民族支配に夜に
よる征服と支配の結果強力な国王集権体制、封建的軍事的土地所
有制が展開された。
ヘイスティングズの戦い … 1066 年 10 月 14 日イングランド南東部ヘイスティングズ近
郊のセンラックの丘で繰り広げられた戦い。騎兵を主
力としたノルマンディー公国軍が歩兵を主力としたイ
ングランド軍を破った。イングランド王ハロルドはこのと
き戦死し、ノルマンディー公ギョームはさしたる障害も
ないままロンドンへ入り、同年クリスマスにイングランド
王ウィリアム 1 世として即位した。ノルマン征服を決定
付けた戦い。
軍事史においてこのヘイスティングズの戦いは、騎兵の歩兵に対する優越を決定的に
立証し、イングランドに歩兵戦術から騎兵戦術へと大きな変化をもたらしたとされる。しかし
第一章で述べるように、必ずしもそうとは言い切れない。ヘイスティングズにおける勝敗の
要因は、ノルマンディーとイングランド両国の国制・軍制の違いにあったのではないかと仮
定する。
11
第 1 章 ヘイスティングズの戦い
978 年 Ethelred2 世(EthelredⅡ,966?-1016 在位 978-1016)即位。このころからデーン人
(ヴァイキング)襲来の第二波始まる。
991 年 モールドンの戦い。デーン人との講和金「デーンゲルド」の開始。
1002 年 Ethelred によるイングランドのデーン人の虐殺。デーン人の更なる侵略。
1013 年 Ethelred、王妃Emma の兄ノルマンディー公リシャール 2 世(RichardⅡ,974-1026
在位 996-1026)を頼って亡命。デンマーク王 Swegn1 世(SwegnⅠ,945?-1014
在位 980-1014)、ウィタンによってイングランド王と認められる。Swegn の死後
は彼の次子 Cnut(?-1035 在位 1016-1035)が軍の指揮を取る。
1016 年 Ethelred 死去。最初の妻 Ælfgifu との間の子 Edmund the Ironside(剛勇王
988?-1016 在位 1016) が王位を継ぐが 1016 年 10 月 18 日、アシンドンの戦
いで大敗を喫す。Cnut と和解。Edmund の死後 Cnut がイングランド王即位。
Ethelred 王妃 Emma と再婚。
1035 年 Cnut 死去。
この間前妻 Ælfgifu との間の子 Harold(HaroldⅠ,1016?-1040 在位 1035-1040)、
Emma との間の子、デンマーク王 Hardacnut(1018-1042 在位 1040-1042)が
即位するが相次いで死去。
1042 年 Ethelred と Emma の子エドワード(Edward the Confessor,St 1003-1066 在位
1042-1066)即位。
エドワードはノルマンディーの宮廷で長年過ごしたためフランス語で話し、ノルマン
ディーの慣習を尊重しノルマン出身の臣下を重用した。
1051 年 ブーローニュ伯 Eustace(EustaceⅡ,Count of Boulogne,1030-1093)、国王エドワー
ドを訪問。その帰途ドーヴァーにおいて市民と彼の部下の間に紛争が起こり、
双方に死傷者が出る。
エドワードは王妃の父ゴドウィンにドーヴァーへ軍を進めるよう命じたがゴドウィンはこれを拒否。→内乱の危機
王の他の有力者マーシア伯Leofric(?-1057?)とノーサンブリア伯Siward(?-1055)は王の側についた。
1052 年 ゴドウィン一族の亡命。エドワードは更に多くのノルマン人を登用、ゴドウィン派
の貴族はこれに一層の不満を募らせる。
ゴ ド ウ ィ ン 、 ケ ン ト と サ セ ッ クスの 水軍を手に 入れ 息子ハ ロ ルド (Harold
Ⅱ,1022?-1066 在位 1066)と共にテムズ川をさかのぼってロンドンに迫り、ここ
にゴドウィン一族の復権が確立。
ノルマン人の多くは追放。カンタベリ大司教には Robert of Jumièges に変わりウィンチェ
スタ司教Stigand(在位1052-1070)が任じられた。
→教皇庁は彼の大司教位を認めなかった
1066 年 1 月 5 日、エドワード証聖王死去。
1 月 6 日埋葬。同日ハロルド、ウィタンによって選出されイングランド王即位。
→しかしノルマンディー公ギョーム、ノルウェー王 Harold Hardrada(Harald
Ⅲ,1015-1066 在位 1045-1066)もまたイングランド王位の継承を主張した。
12
追放されていたハロルドの弟 Tostig(1026?-1066)は復権を図り同年ワイト島に上陸して南岸
各地を荒らしたがノーサンブリア伯Edwin(?-1071)、マーシア伯Morcar(?-1090)に敗れ逃亡、
Harold Hardrada と合流。
ハロルド→サンドウィッチで艦隊を編成しワイト島に渡る。夏と秋の間そこでギョームの襲
来に備えた。海岸沿いのいたるところに部隊を配置。しかし 9 月 8 日には食料の供給が尽
き、兵をそこに留めることが出来ずに fyrd は解散し帰還を許された。そのためハロルドが
動員できる兵力は housecarls のみとなる。更に艦隊はロンドンに戻る際暴風雨に遭遇、多く
が失われた。
ギョーム→国内の勢力を結集し、また国外からもブルターニュ、メーヌ、アキテーヌ、南イタ
リアなどからも兵力を集めて侵攻に備える。カンタベリ大司教 Stigand の就任を認めなかっ
たローマ教皇から旌旗を授かったとも伝えられる。しかし逆風のためディーヴ川河口にとど
まる。
9 月 15 日 ノルウェー王 Harold Hardrada、Tostig、300 隻のノルウェー艦隊とともにヨークシ
ャー海岸に上陸・略奪。ハロルドはその知らせを聞いて急いで北上
9 月 20 日 フルフォードの戦い(Battle of Fulford)
イングランド北部諸侯のEdwin、MorcarがHarold Hardradaと対戦→ノルウェー軍
勝利
9 月 25 日 スタンフォード・ブリッジの戦い(Battle of Stamford Bridge)
歩兵同士の戦い。不意を付いたハロルドの勝利、ハーラル3世と Tostig は戦死
ただしイングランド側も主力の housecarles の被害が大きかった。
9 月 28 日 ノルマンディー公 Pevensey 上陸。ケントとサセックスを略奪。
10 月 1 日か 2 日 ハロルドがノルマンディー公の上陸を知りロンドンへ急行。
10 月7日か 8 日 ロンドン着。南イングランド中部地方の fyrd(州兵)を召集・編成。
西部・北部の兵は徴集が間に合わない。→不十分
10 月 13 日
ヘイスティングズ着
イングランド軍は丘の頂上に布陣し、地理を心得有利だったにもかかわらず、接近戦のた
めの武器のみで武装し騎兵を欠く歩兵は、弓兵と騎兵を組み合わせるノルマンディー軍
に決定的に敗北した。
ノルマンディー側の勝因が単純に騎兵の優越だけではないことは明らかである。弓兵の
配置、フルフォード、スタムフォード・ブリッジの戦いを経たイングランド軍の疲労、時をお
かず決戦に至ったため充分な兵力を集め切れなかったことも挙げられる。また騎兵のみ
に注目しても、偽りの敗走を演じ途中で向きを変えて包囲殲滅に切り替えるだけのレベル
を保った騎兵を組織し、海上輸送するノルマンディー側の国力の充実も無視できない。
ノルマンディー側の勝因もイングランド側の敗因も、1 つではなく様々に存在した。戦術
の違い(騎兵隊歩兵)、戦略の違い(ハロルドは腹背に敵を抱え、ギョームは対イングランド
に集中できた)、タイミングの問題、または当時の年代記が記すように双方の指揮官の性格
の違いも挙げられるかもしれない。
→しかしこれらの要因は、突き詰めれば両国の軍制、国制に求められるのではないか。
13
第二章 ノルマンディー公国
公の生存中に後継者を決める→治世の安定と公権力の確立
地方行政 ・伯 … 公の委任によって任免。世襲化×
(代々続く自治性の強い大領主が公の地位を脅かさない土壌)
・子 … 公の行政官僚。任免は公が決定したが忠実であれば世襲も可。
中央統治機構→未熟。むしろノルマン征服以降に発達。
教会→ヴァイキングの侵入等の混乱で機能衰退。後に公の援助によって復興。=公の権
力下
ルーアン大司教はノルマンディー公の弟が就任することが多い。
司法→伯、子に裁判権が託され、通常の裁判官は子が務めるが統制は厳格。権利の細分
化・家産化は阻止。
税制 ・ベルナージュ … 公国の殆ど全土で農民によりその保有地の大きさに応じ燕麦で
支払われる税。
・グラヴァリ … 貨幣で納められる税。
・流通税(トンリュー) … 徴税権を公が独占。
・他 森林権、貨幣鋳造権
→土地が多く、貨幣も豊富で税制を独占していたため、諸侯・教会に対して強権を発揮
することができた。
軍制→専門的な騎士階層、傭兵が中核。ヴァイキング襲来の第二波に際して軍事力増強
のため、フランス人であれドイツ人であれブルターニュ人であれ、国内外を問わず
能力上価値のある者に土地を与えて騎士に任じ、公の土地を軍事力の提供と引き
換えた。
ただし 1 人の保有者にまとまった土地を与えることは避け寄木細工のように切れ切れ
に与え、他の保有者の土地と交錯させた。
第三章 イングランド
地方行政 ・Cnutの下で全イングランドはノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、ウ
ェセックスの 4 伯領(アールダム)に分けられ、有力貴族を伯として任じて大規
模な権限を与え、統治を委託。
・さらに各州に州知事(Sheriff)設置
→行政官僚的存在でありつつも財政・司法・軍事(王領地管理、国王への貢租、公共奉仕の徴発、通
貨の維持、公正な取引の維持と認証、被告の調査、賠償の取り立て、一定の範囲内での裁判権の行使、軍事的役割として
は fyrd の徴発・指導)において独特の権力を行使し、封建的豪族に発展する余地があ
った。
・ハンドレッズマン … ハンドレッド(郡)において 4 週ごとに集会を開き平和の
維持、徴税や軍役の割り当て、司法などの職責を果た
す。
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・タイジングマン … ハンドレッドを構成する各村(タウンシプ)に作られた、
治安維持や出廷義務を連帯責任で強制されたタイ
ジング(10 人組)の代表者。
中央統治機構→執事ないし膳部官(Seneschal or Steward)、式部官(Butler)、王室官
(Chamberlain)、警安官(Marshal or Constable)、書記官など。
それぞれの役職に数人が任命されて輪番制で奉仕。
Staller … からなる役職。Cnut によって創設。
警安官的な役割→housecarls の指揮官?一般的な行政官?
しかし他の職が征服前後も長く存続したのに対し Steller は
ノルマン征服後に消滅。
ウィタン(witan,有識者) … 成立が 6 世紀にさかのぼる助言者の集団。形の定
まった制度ではないが影響は大きい。
教会→Cnut、エドワードらによる厚い保護。大土地所有者が多くその特権も広範囲にわた
る。
司法→聖界、俗界の封建領主がハンドレッド法廷開廷権を獲得している例がある。州知事
(=王権の司法における支配)の排除。
Cnut による国王専管事項(平和破壊罪 mundbryce、家屋侵入罪 hamsocm、待ち伏せ
罪 forestal、犯人隠匿罪、軍役怠慢罪など)設定 = それ以外の犯罪裁判権は一
般の領主に当てられていた。それを認めた上での行使の規制。
税制→王領地からの貢納、裁判罰金の収納、デーンゲルドが国王の主な収入。州知事が
一定の請負額を徴収。
貨幣鋳造権も把握。貨幣流通が広まったことにより、金銭と引き換えに土地を特権を
手に入れることが可能となった。
軍制→三大公共義務(trinoda necessitas) 「防塁・城壁の建造・防備」
「橋梁の製造・修繕」
「軍役」Fyrd
fyrd … 国民軍的存在。階層にかかわりなく、一定の土地所有者にかかる国家的義務。
封建領主の所領からも等しく招集される国政的機構の一部。シャイアごと、ハ
ンドレッドごとに編成。歩兵。召集に時間がかかり装備は自弁のため劣悪。デ
ーンゲルドによる経済力の低下。
↓
土地所有の貴族戦士thegn、thegnを領主とする上層農民が台頭。国民軍から専門戦
士層へ。
housecarles … かつてのデーン人との講和金デーンゲルドによってまかなわれた常設
の国王直属の親衛隊。傭兵を常設軍化。軍の中核。スタムフォード・ブリ
ッジからヘイスティングズの戦いまで終始ハロルドに付き従い、最後ま
で戦い続け最終的には組織として壊滅した。
まとめに
ギョームは、自分に反抗する恐れのあるような有力者が、そもそも出現しないように代々
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つとめていたノルマンディー公国の王であり、己の強力な王権を持って国内外の勢力を結
集してノルマン征服に乗り出すことが出来た。しかし一方のハロルドは、王位にはついたも
ののギョームと同じように国内の勢力を彼の元にまとめる事が出来なかった。彼は確かに
王位を狙えるほどの権力を持った伯ではあったが、しかしそれは王権が伯に奪われるほ
どに一時的にせよ衰退していたことをも意味した。そしてハロルドの手に入れた王権は、
外敵の侵入に対して国内の諸勢力を結集するほどには強力ではなかったからである。
この時期の両国は、初期封建制度が芽生え始めた状態にあるという点ではさほど変わり
なかった。とはいえ、一方は相対的であるにしろ公ひとりに権力を留めた集権的封建制を
確立し、もう一方は伝統的に王権の優位が認められながらの協調的な封建制の発達を、あ
る意味では諸侯の 1 人が王となることによってバランスを崩し、かつそのバランスを取り戻
していない状態にあったのだといえる。ヘイスティングズの戦いの背景にはこのような状況
があり、それこそが最終的な勝敗を決したのだと結論する。
反省点
・参考文献の数が少なく、かつ古い。
・はじめに結論ありき、な構成。落ちが弱い。
これからの研究
・ リチャード 3 世、ボズワースの戦いを通してその権力基盤と軍制について。
・ 先行研究をなぞるだけにならないように。
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【討議】
全体の進行はいわば二部構成で、谷藤報告ののち、質疑応答、ついで田中報告と質疑
応答という形で進められた。それぞれの質疑においては今後、いかなる議論が展開しうる
かという点をめぐって、きわめて活発なコメントやアドバイスが飛び交ったことを付け加えて
おく。
谷藤報告については、まず、具体的に今後、「国王代理」をどのような論点から分析する
かという質問があり、前後の時代との比較、例えばウィリアム期との比較などの重要性が喚
起された。また、「『国王代理』の権限」という表現をめぐり、権限は当該人物に属するのか、
職そのものに属するのか、今後の課題として議論された。ついで、当該期のイギリスにお
ける国王不在という状況そのものをめぐる議論がなされた。すなわち、ジョージ 1 世の出国
の際の公的な理由はいかなるものであったか、イギリス出発からハノーファ着までの期間
はどれくらいであったか、国王はハノーファで何を行っていたか、イギリスに戻る契機は何
であったか、渡航費はどこから捻出されたか等、今後調査すべき課題についての提起が
なされた。同時に、イギリスを離れた国王に随行した政治家と国内に留まっていた政治家
の違いは何か、「国王代理」はハノーファを含め「外国」をいかなる眼で見ていたのか等が
問われた。さらに、全体について、国王が移動するということの意味を考察する重要性が
指摘された。
田中報告については、卒業論文で扱った時期からなぜリチャード 3 世期に移動するの
かがまず質問され、それに対しては、テューダー朝を見据え、中世と近世との区分と連続
を見るという答えがなされた。つぎに、軍制と国制との関連性について、きわめて多岐に及
ぶ議論がおこなわれ、土地制度と国制の関係や、兵士の動員を論点とすべきなどのコメン
トが述べられた。また、軍事革命論との関連から、軍事史の視点からどのような視点をとる
べきか、史料は何を用いるかといった提言が相次いだ。(筆記:大和久)