経済社会秩序と人間存在の自存性 - 中央大学 総合政策学部

総合政策研究 第 20 号(2012.3)
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経済社会秩序と人間存在の自存性
―カントの道徳形而上学とアリストテレスの倫理学・形而上学に基づく
経済社会秩序の原因性への考察―
早 川 弘 晃
Socio-economic Order and the Spontaneity of Human Existence:
Kant’s Moral Philosophy and Aristotle’s Ethics and Metaphysics
in Search for the Moral and Ethical Cause of a Socio-economic Order
Hiroaki HAYAKAWA
Abstract
This paper expounds the idea that a socio-economic order is a spontaneous and abstract order of productive activities, conjoining it with the Aristotelean notion that the essence of human existence consists
in living a spontaneous life of activities for the fulfillment of its ultimate end. The spontaneity of the former is grounded in that of the latter, but human existence as a life of activities has no real value without
a socio-economic order in which this life unfolds. Arguing that this order, if it is to persist and thrive,
must be founded on moral principles, this paper scrutinizes the metaphysical foundations of moral
laws and principles through an exegesis of Kant’s moral philosophy (i.e., his notions of absolutely
good will, autonomy, freedom, moral laws, and the kindgom of ends), and relating it to Aristotle’s
concept of entelecheia as the ultimate end of human existence. Kant’s moral philosophy is founded on
human existence rooted in the world of senses dictated by natural necessity as well as in the world of
understanding governed by moral necessity. The moral necessity requires that human will to choose on
actions must be determined autonomously by rational principles in accordance with the universal laws
legislated by reason alone. This philosophy accords with Aristotle’s metaphysics and ethics that the
essence of the life of rational beings is to live a virtuous life of activities in accordance with rational principles and that this life requires that non-rational beings exist as resources for activities. Thus, Kant’s
metaphysics of universal moral laws as the categorical imperatives of human actions and Aristotle’s
ethics of virtuous living guided by phronesis (practical wisdom) are united to provide the moral and ethical cause of a socio-economic order in which humans as rational beings interact, unfold, and fulfill their
lives of activities.
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Key Words
socio-economic order, human existence as a
経済社会秩序,自生的秩序,抽象性,人間存
life of activities, spontaneous order, sponta-
在の抽象性,カントの道徳哲学,行為的意志
neous existence, Kant’s moral philosophy,
の規定,絶対に善なる意志,意志の自律,自
absolutely good will, autonomy of will, free-
由,道徳的法則の立法,定言的命法,実践理
dom, legislation of moral laws, categorical
性,アリストテレスの倫理学・形而上学,理
imperatives, practical reason, person,
性的存在者,エネルゲイア,エンテレケイア,
Aristotle’s metaphysics and ethics, rational
経済社会秩序の道徳的原因
beings, the first principle, energeia, entele
cheia, moral laws as the cause of a socio-economic order
拠が存在しないというのがその主な理由のようで
目 次
1.
経済社会秩序と人の行為の道徳性 ― 何をどう考
え整理したらよいのか
2.
カントの道徳形而上学と実践理性
2a.
「可能的目的の主体」と「目的の王国」
2b. 自由という原因性の理念
3.
ある.そのため,多くの人は,既に道徳的に振る
舞うことをよしとするにも拘らず道徳律そのもの
については表だってあまり多くを語らない.或い
は,人は,道徳律を社会的な規範と同じようなも
のと考え,道徳律に従うかどうかは,規範から逸
結語―カントの「絶対的に善なる意志」とアリ
脱したときの社会的制裁の強さによると考えて,
ストテレスの「エンテレケイア」
そのア・プリオリな原理について語ることを避け
ているようでもある.根拠が何であるにせよ,道
1. 経済社会秩序と人の行為の道徳性
―何をどう考え整理したらよいのか
徳律なくして,人は自分の行為的意志を決めるこ
とはできない.行為は目的のために為されるため,
人は必ず目的を達成する諸々の個別的な手段のな
人は社会に生まれ,社会で育ち,常に個別的事
かから,その目的をよく達成する手段を選んでい
柄に関わりながら行為し,活動的人生をおくる.
る.同時に,どの行為を行なうにせよ,人は,行
行為は目的という善のために為され,活動はその
為が必要とする外部的手段を正しく選択するだけ
完全性という善のために為される.行為の善も活
でなく,行為が社会の相手と関わるかぎり,行為
動の善も,外部から規定されるものではなく,内
を為す意志そのものをどのような法則によって規
発的動機としてすべての人の内側から自発的に生
定したらよいのかについて己の方針を明確にして
まれるものである.そうであれば,人の行為は,
おく必要がある.相互依存のなかで互いに支え合
社会のなかで何をどのような手段によって達成す
って生きる我々にとって,行為そのものが従うべ
るのかという知恵と,社会における行為はどのよ
き法則を確立しておくことは最も重要な課題なの
うな法則に従うべきかという知恵を必要とする.
である.
前者の知恵が必要であることについては異存はな
我々が如何に道徳を文化固有の社会的規範とし
いにしても,後者の知恵が必要であることについ
て相対化しようとも,道徳律ほど明確な原理を持
ては多くの異論がある.何が道徳律であるのかに
つものはない.何故なら,それは我々の理性が
ついての考えは人によって異なり,また文化や民
ア・プリオリに知っていることだからである.科
族や時代によって異なるため,それには絶対的根
学の重要性を認識しながらも,道徳を相対化して
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
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その重要性を認めようとしない人は,科学の発展
は自由意志による取り引きに基づいている.そう
原理そのものが厳しい道徳律に支えられているこ
であれば,この活動は自由意志が従う法則に基づ
とを再認識する必要がある.科学は人類の共同作
いていることは明白である.アダム・スミスは
業である.従って,この作業は従うべき厳しい規
「道徳的情操論」(以下 TMS)において,経済社
律の下で為されなくてはならない.この規律は国
会の発展原理を二つの原理のなかに見出してい
や民族や文化の違いを超越するものであり,科学
る.一つは道徳的感情(moral sentiments)であ
に関与する人が絶対的に従わなくてはならない極
る.人には善いものを肯定し,醜いものを避けよ
めて抽象的で普遍的な規律である.それは「嘘を
うとする感情があり,従って他人からよく見られ
ついてはならない」とするものである.この命法
たり思われたりするものを願い,他人が否定する
は,どのような場合には嘘をついてはならないの
ものを避けたいとする感情がある.こうした道徳
かというような形での条件付き命法ではなく,ど
的感情があるがゆえに,そこから社会で成功しよ
のような場合でも嘘をついてはならないとする絶
うとする野望が生まれ,この野望を満たそうとす
対的命法である.即ち,科学に携わる者は,どの
る努力が経済社会の発展原理になる.この野望な
ような方法によって何を検証したのかを,すべて
しでは経済活動は成立しないし経済秩序は拡大し
の人にわかる仕方で提示しなくてはならないので
ない.しかし,この野望だけでは経済社会はその
あり,データを改ざんしてはならないのである.
秩序を維持することができない.この重要な役目
真に「何がどうなっているのか」を明らかにする
を果たすものが,情念や愛着の美醜を区別する直
ことを目指す科学は,思考と実験結果について,
観的能力と自らの行為の善悪を判断することので
そのすべてをあるがままに開示しなくてはならな
きる道徳的能力である.アダム・スミスによれば,
い.この命法が要求する義務は,単に,科学を志
一般的に行為の規律は,具体的経験を通してどの
す者は概ね多くの科学者が合意したルールに従う
ような行為が適切な行為なのかを見極めることに
ことが望ましいという意味での義務ではなく,科
よって形成されるものであり,最初から何らかの
学は人間が目指す最高の客観性を追求しなくては
行為の規律が存在し,この規律に対して整合的な
ならないという理念的意味での崇高な義務なので
行為を我々が選び行なうという訳ではない.そう
ある.このような道徳律なくして科学は成立しな
した規律は,行為の善悪に関する哲学的な考察に
い.況やその発展など望むべくもない.従って,
先行するものである.道徳的規律を遵守すること
道徳律を否定することは,科学を否定するだけで
は人の義務であり,アダム・スミスは,この規律
なく,それに基づく人類社会の発展を否定するこ
こそが人生にとって最も重要な原理であり,大半
とと同じことなのである.
の人はそれによって行為のどうあるべきかを指示
道徳律が社会における我々の活動を支えている
すると述べている.規律に即して行為する人は原
ことは,明らかに経済社会についても言えること
理をもつ名誉ある人であり,そうでない人は無用
である.経済活動は利益を求める活動であるとし
の人である.アダム・スミスは,この道徳的能力
て,また人は利益のためなら道徳律に違反する行
を道徳的感情の上に置いているが,その理由は,
為も辞さないであろうとして,経済活動は反道徳
もし人にこの能力が具わっていないならば,人の
的になりがちであると思い込んでいる人は,その
行為は道徳的規律に従わず,それでは経済社会秩
ような勘違いを厳しく見直す必要がある.我々の
序は崩壊してしまうからである.そして,アダ
経済活動は,一人一人の自由な意思決定に基づく
ム・スミスは道徳的規律を遵守することが真の意
取り引きの機会が自発的に生み出す秩序(経済社
味での自己利益(self-interest)であると述べてい
会秩序)のなかで進行する.人間一人一人が自由
る.スミスにとって自己利益とは自分を慮ること
に意思を決定する存在であり,すべての経済活動
だけでなく他人をも慮ることを意味しているので
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ある.創造主の無限に善なる知恵が人の心に植え
観察される事実を理性的に解釈する能力が最初に
付けた命法に背いたり或いはそれを無視したりし
あってそれを起源として生まれてくるのではな
ても,そのようなことに罰が伴うわけではないが,
く,観察される事実に対応していく習慣から生ま
それは無益で不条理なことであるだけでなく,不
れてくるのである.この伝統は,それに従えば何
遜で不自然なことなのである.
が発生することを期待できるのかを人に示すので
同じように,ハイエクは,「法と立法と自由」
はなく,状況に合わせて,如何に行為すべきかを,
(Law, Legislation and Liberty)のエピローグにお
或いはどのような行為を避けるべきかを人に教え
いて,人間の価値の源泉について述べている.ハ
るのである(Fatal Conceit, pp. 21 ― 22)
.我々の文
イエクによれば,人間の価値には,
遺伝子が
明がもたらした秩序は,人類の多様な存在様式や
理性が合理的
存在規模において偉大なものであるが,このよう
決定づけている内部的な価値,
思考によって構築した人工的価値,
文化或い
な秩序をもたらしたのは,進化した行為の規律で
は伝統という形で継承されている価値,という三
ある.それらは,所有,契約,交換に関する規律
種の価値があるとしている.文化的・伝統的価値
であったり,競争や獲得の様式に関わる規律であ
には,文化的進化の過程で形成され伝承されてき
ったり,また私的自由の有り様に関する規律であ
た行為の抽象的規律も含まれている.そして,こ
ったりする.そして,そうした規律には誠意が深
の文化的・伝統的価値を本能と理性の中間に置
く関与している.これらの規律は,伝統・習得・
き,拡大を続ける経済社会秩序の進化は本能によ
模倣によってもたらされるが,それらは主に人の
るものでも,また理性の力によって生み出される
意思決定の範囲を指示するような禁止令という形
ものでもないと主張する.また,ハイエクは,理
をとる.実に人類は,本能・衝動の要求を拒むよ
性というものは,道徳律と同じように,進化の過
うな抽象的規律を発達させ,それを習得すること
程で自然淘汰(選択)された結果として生まれて
によって文明を開拓してきたのである.文明は,
くるものであると考えている.彼によれば,理性
地域に限定された民族を超えて,多くの民族に及
が最初に存在しその理性によって我々はものを生
ぶものであり,それが可能になるのは,多くの民
み出す技能を身につけることができると考えるこ
族の人達が,すべての民族に通用する抽象的規律
とは致命的欺瞞(fatal conceit)である.道徳に関
に従うからである.こうした規律は,一つ一つの
しても,理性がより高い批判的立場に位置し,理
小さな民族を束ねて協力を確保し,社会の拡大に
性が裏書きした道徳的規律のみが妥当な規律であ
とってはむしろ妨げになった自然的道徳律(natu-
ると考えてはならないとハイエクは警告する
ral morality)を抑止する.このような抽象的な道
(Fatal Conceit, p. 21)
.人は生まれつき賢明な存在
徳律こそが,道徳と呼ばれるべきものである
なのではなく,教えられてそうなるのである.ど
(Fatal Conceit, p. 12)
.こうしたハイエクの考えは,
のように行為するのかを学ぶことは,内観・理
Constitution of Liberty (Ch.4)においてもよく展開
性・悟性の働きがその結果としてもたらすもので
されているが,そこにはアダム・スミスの考えと
はなく,むしろ順序は逆であり,学ぶ行為がそう
通じる点があることも指摘しておきたい.アダ
した理性的働きそのものをもたらす源泉なのであ
ム・スミスは,道徳的規律を遵守する義務を果た
る.我々の知性が道徳律を生み出したのではなく,
さなくてはならないとする自然的な義務感の育成
道徳的規律に従って相互に作用し合うところから
は,不確かで遅々として進まぬ哲学的究明に託さ
理性の働きが育まれ,そこからこの働きに基づく
れるべきではなく,むしろ宗教における畏敬の念
能力が育つのである.人は本能と理性の中間に位
にこそ託されるべきであるとしている(TMS, pp.
置する伝統によって知性的な存在となり学ぶこと
233)
.旧約聖書の出エジプト記にはモーゼが神か
が可能になるのである.そして,伝統そのものは,
らさずかった十戒が記されているが,それらは,
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
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どのような条件のもとでは何をしてはならないの
なくてはならない.このとき我々は,考える能力
かという形で具体的に表現されている戒律ではな
(理性の能力)と言語の能力との関係に意識を向
く,無条件的に従うべき戒律として抽象的に表わ
ける必要がある.何故なら思考は言語を媒介にす
されているのである.こうした戒律は道徳律の重
るからである.人が言語を習得するには,社会に
要な一例である.
生まれ社会で育たなくてはならない.人間には最
道徳律が社会的規範であろうと理性に基づく抽
初から理性の能力が具わっていて,それを基にす
象的法則であろうと,この道徳律と言語の関係を
れば人は自分なりの言語を開発することができる
頭に入れておくことは極めて重要である.もとも
と考えることはできない.何故なら言語能力は人
と道徳律は,人間の生そのものが行為的生であり,
との意思伝達(コミュニケーション)を通して開
この行為的生が社会のなかで他の人々との関わり
発されるものだからである.そうであれば,最初
を通して営まれていることと深く関係している.
にあるのは共同社会であり,そこにおいて意思を
自分一人で生きるのであれば,自分の行為的意志
伝達しようとする意志そのものである.この共同
をどのように規定するのかという問題は発生しな
社会での意思伝達から言語が生まれる.意思の伝
い.そのことは,この世に自分しかいないのであ
達はルールを必要とする.最初にすべてのルール
れば,言語を話す上において「規則に従って話す」
を決めておいて言語を話すわけではないので,こ
といった命法は何の意味も持たないことと同じで
のルールは言葉らしきものを話すなかから生まれ
ある.ただ,人は自分一人で生きていけるわけで
てくると考えるのが自然である.こうして獲得し
はなく,また,一人で生きていても言語能力が発
た言語能力を媒介にして人は同時に理性の能力を
達するわけではないので,このように仮定的に物
開発する.言語の発達と理性的能力の開発は互い
事を語ることはできないのは当然である.我々が
が互いを補完するのである.ここで重要なのは理
道徳を語るときの出発点は,人間は社会のなかで
性の開発には言語が不可欠だという事実である.
生きているという事実そのものであり,それを通
我々が知性の働きによって自らの行為的生を最善
して自分の人生の善を求めるという揺るぎない事
のものにすることができるのは,社会から習得し
実である.そうであれば,我々は誰が何を言おう
た言語能力とそれに基づく思考力があるからであ
と自分の行為的意志を規定しなくてはならない.
る.この能力がなければ,理性は働かず,社会の
我々の行為は情念の影響を受けるが,行為的意志
なかで行為的生を充実したものにすることはでき
の規定,或いは行為の普遍的形式を何処に置くの
ない.またこの能力がなければ,協業も成立しな
かという課題の追究は,感性ではなく理性によっ
い.即ち,共同社会から自然発生的に生まれてき
てなされなくてはならない.行為は無為になされ
た言語を媒介にするのでなければ,科学のような
ることはなく,常に何らかの目的のために為され
知的活動を含めて人間のすべての有意義な活動は
るものである.そうであれば,我々は,行為と目
生まれてこない.我々は,言語を学ぶとき言葉の
的を繋ぐ関係を理性的に意識しなくてはならな
共通の意味を学ぶと同時に,言葉の配列には規則
い.また目的を達成する上において必要となる個
があることを学びとる.或いはより根本的には,
別的事柄(手段)についても理性的に熟慮する必
漠然とした対象を文節する仕方を学び,それによ
要がある.情念は,そのときそのときの状況のな
って外界が何であるのかを記述する術を学ぶので
かにおいて生まれてくるものであり,そのような
ある.そして,我々は,こうして学んだ意味と文
偶然的なものを頼りにして意志を事前的に規定す
法的規則に従って意思伝達を行なおうとする.注
ることはできない.同時に,もし行為的意志の規
意すべきは,我々が,言語を話す上において言語
定に理性が関与するのであれば,我々はこの理性
的規範に従っていることである.社会に生まれ社
の機能がどのようにして発達してきたのかを問わ
会で育ち社会で活動的人生をおくる人間は,社会
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から学んだ言語という手段を規範に従って使い,
道徳的規律であり,人間関係を支えているのも道
思考と意思疎通を図り,協業し合うことによって
徳的規律であり,更に根本的にそれらすべてを支
自らの人生を有意義なものにするのである.ここ
えている言語と思考を成立させているのも規律で
に重要な社会的(言語的)規範の遵守が見てとれ
あるとすれば,道徳的規律や社会的規範について
る.それは,社会の言語を,これまでに蓄積され
理性的な考察を進めることは人間と社会の存在の
てきたルールと意味に従って話すというものであ
根幹に関わる極めて重要な課題なのである.「人
る.先に,科学においても経済的活動においても,
間にとって道徳的法則などというものが客観的に
道徳的法則或いは規範の遵守が不可欠であること
存在するわけではない,それは道徳的規範と同じ
について述べたが,そのような規範の遵守以前に,
ように相対的なものであって社会の変化とともに
我々には人間としての活動に不可欠な言語そのも
変わるものである」とする立場をとる人も,そう
のを規範に従って使うという義務が課せられてい
した考えを言語を介して表現しなくてはならず,
るのである.この義務を果たさなければ,我々は,
その時,その人は言語の規律に既に従っているの
人間の存在を意義あるものとすることができない
である.このことはまた,思惟そのものが従う思
ばかりか,社会の秩序を継続して維持することは
惟の法則においても言えることである.人は,言
できないのである.こうして見ると,道徳的法
語のルールとそれが可能にする思考のルールに従
則・社会的規範を守らなければならないとする
わなければ,自ら思惟することもできなければ,
我々の義務は,何が自分の行為的生を支えている
思惟した結果を表現し相手に伝えることもできな
のかについての直接知に基づいていると言えるの
いのである.順序からすれば,共同社会から言語
である.
が発生し,それと同時に理性的思考力が育まれ,
このように考察を進めると,我々が,人間の存
それによって知識(科学)や技術が誕生して優れ
在に関わるすべての活動分野において,また言語
た協業が可能になり,行為的生の善の追求が可能
とそれに基づく思考活動において,道徳的法則或
になる.しかし,同時に,アリストテレスが述べ
いは社会的規範を遵守し,それによって自らの行
ているように,我々人間の存在がそれのために存
為的意志を規定しているのは事実である.人間が
在するという意味での第一原理からすれば,人間
社会的存在であり,社会なくしては人間の行為的
の活動的生を完全なものとすることが人生(人間
生は成立しないのであれば,我々は道徳的法則の
存在)の第一原理であるならば,この第一原理は
必然性を直接知っている,と考えることができる.
道徳的法則・規律を必然的条件とする.ソクラテ
人は刑が課せられるから人を殺さないのではな
スは,古代ギリシャの自然哲学者が自然の第一原
く,人は最初から人を殺してはならないことを直
理を求めて哲学的考察を行なったのに対して,人
接知として知っているのである.だからこそ,殺
が生きるとはどういうことかという人間存在の根
人に対する刑が成立し,また条件によってどの低
本課題へと哲学的考察の方向を転換したのであっ
度の刑を課すのかという課題も生まれるのであ
た.ソクラテスの哲学には,己の人生を顧みると
る.それは,虚偽の行為をしてはならないという
いう厳しい姿勢が貫徹している.この精神は今日
ことについても同じである.我々は,虚偽の行為
においても,まったくその力を失ってはいない.
を行なうと罰が課せられるから虚偽の行為を避け
教育の現場において,批判的に物事を思考するこ
るのではなく,最初から虚偽の行為をしてはなら
と,自分の考えを大切にすること,議論を通して
ないことを知っている.だから虚偽の行為の度合
互いの考えの過ちに気づくこと,といったことの
いに応じて罰則を考えることができるのである.
重要性が主張されるとき,それはすべてソクラテ
社会を成立させているのも道徳的規律であり,社
スが教えてくれたこと,即ち「吟味されないよう
会の活動の一部である科学を成立させているのも
な人生は生きるに値しない」とする精神への回帰
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
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であり,それはまた「汝自らを知れ」の精神の発
い」
,
「泥棒してはならない」
,
「虚偽の行為をして
現でもある.今日,学問が爆発的に多岐にわたり,
はならない」
,
「嘘をついてはならない」
,
「約束を
もはや何が客観的であるかのについての意見が分
破ってはならない」といった道徳律は,無条件的
散し,あらゆる物事の相対化が進んでいるが,こ
に表現されていて,時代や文化や個人差を超えた
うした相対的意見を物事の本質と取り違えること
普遍的なものである.多くの宗教が教える道徳的
によって社会のあらゆる活動にとって不可欠な道
法則は明らかにこうした法則である.このような
徳的法則を見失うことはいかにも危険なことであ
普遍的法則によって生きるべきなのか,それとも
る.また,今日,自分にとって道徳的法則などと
道徳的法則に反してでもそのつどそのつどの自分
いうものは何の意味も持たないと言って憚らぬ者
の利益を優先して行為すべきなのかに関して,
は,自分が何を言っているのかを知らない者であ
我々には選択の余地があるのかと問われれば,そ
る.人は道徳をどのように相対化しようとも,自
れには「否」と答えざるを得ない.利益とは人と
分が何をどのように為しているのかを知らない者
の関わりを基とする経済活動から生まれるもので
はいない.もし知らないような者がいれば,それ
あり,それは必ず他の人々が道徳的規律に従って
は人ではなく物に過ぎない.非道徳的行為を行な
約束を守り誠意を尽くすことから生まれるもので
う者は,それが非道徳的行為であることを知って
ある.もしこの条件が満たされないならば,自ら
いる.何故なら,非道徳的行為を為す者は,発覚
の努力だけによって利益を確保することはできな
した場合のことも考慮して細心の注意を払ってそ
いのである.このことは,利益という概念は道徳
れを為すからである.また,そのような行為によ
的法則という概念と必然的に結びついていること
って他人に嫌がらせを行なおうとする者は,内心
を意味する.後者がなければ,前者は存在しない.
それが相手に嫌がられる戦略であることをよく知
この意味で道徳的法則は何らかの利益を求める
っていなくてはならない.そのことを知らずして
我々の活動の必然的条件なのである.更に,アリ
嫌がらせを行なうことは不可能だからである.
ストテレスが述べているように,我々の生は行為
道徳的法則が,理性によってもたらされるの
的生であり,この生の第一原理は,理性的可能態
か,それともそれは社会の進化のなかから生まれ
である我々が完全現実態となって活動することに
てきた社会的規範を法則のレベルにまで高めたも
あるとするならば,利益とはこうした活動から生
のなのかということは論ずるに値することではあ
まれるものである.利益とは収益から費用(代償)
るが,我々がこうした法則の意義について考え,
を差し引いたものであるから,利益という概念を
自らの行為的意志を理性的に規定することは,自
理解するには,収益という概念と費用という概念
らの行為的生の完全性の原理から言っても,また
の両方を理解する必要がある.我々の活動が社会
社会の存続を可能にするという意味での存続原理
のニーズに応えることができなければ我々の生産
の視点から言っても,
絶対的に重要なことである.
から収益は発生しない.また,我々の活動は必ず
自らの行為的意志をどのような法則によって規定
資源を介してなされるものである.この資源には
して生きるのかという課題は,自らの心の問題で
時間も含まれている.我々がある資源をある用途
あり,外部から強制されるものではない.我々の
に配分するときには,その資源を別の用途に配分
なかには,人が心のなかで何を意識するのかは人
した場合には何が得られるのかという犠牲が伴
によって異なり,従って道徳的規範の内容も人に
う.この犠牲のうち最も高いものが資源をある用
よって異なるのは当然であると主張する者もいる
途に配分した場合の費用(代償)と呼ばれるもの
が,驚くことに我々が心の内で知る道徳的法則は
である.そうすると,利益を得るためには,社会
時代も民族も超えて,また一人一人の違いを超え
が必要とするものを自らの活動によって生産し,
て,殆ど変化していない.「人を殺めてはならな
それにかかる費用を最小化しなくてはならない.
72
そうしなければ資源の配分において無駄が発生し
的理解が進むわけではない.データにそれが含む
ていることになるからである.我々が完全現実態
内容を語らせるには,経験に先立つ原理が必要だ
となって活動するとき,この現実態の活動に無駄
からである.
があってよいわけではない.こうしてみると,
人間学に属する諸々の分野の学問の背後には,
我々の生は行為的生である,この生の究極的目的
人間存在についての根本的見方が存在しているこ
は理性的可能態である我々が完全現実態となって
との一例として経済学を考えてみることは有用で
活動することである,この活動は社会が必要とす
ある.一口に経済学と言っても,それに含まれる
るものを生み出す活動である,生み出したものは
見方や考え方は多様であり,伝統的な見方もあれ
社会から収益をもたらしそれに必要な資源には費
ば異端的な見方もある.しかし,経済学をそれら
用が伴う,資源には限界があり無駄は許されない,
しくしているのは,やはり伝統的な見方であり,
従って,我々の活動はすべて生産がもたらす収益
その視点から経済学を見てみると,経済学は心理
とそれに配分される資源の費用との差である利潤
学,社会学,文化人類学,或いはその他の社会科
の最大化を意識してなされる,我々の生産活動は
学とは異なる特異な学問分野であることがわか
すべて他の人々の生産活動によって支えられてい
る.その理由は経済学が合理的(rational)な行
るのであって,自分だけが独立して行うような活
動を分析の対象とするからである.経済的行動は,
動は存在しない,だとすれば我々の生産活動を互
単に外から観察されるだけの行動ではなく,行動
いに支えるのは道徳的法則である,ということに
する主体の内から内省的に観察される行動であ
なる.即ち,我々の生の第一原理にとって道徳的
り,従って,この行動は,行動する主体が設定す
法則は必然的条件なのである.また,我々はこの
る目的という主観的価値と,この主体の置かれた
第一原理を言語を介して現実化している.この現
資源制約(即ち,この目的の達成に資する資源の
実化において我々は意思の伝達を言語の規律によ
使用可能な範囲)という客観的制約とが接すると
って行っているが,「言語の規律を守る」という
ころで起こるものとして認識される.即ち,経済
ことも実は道徳的法則の一部なのである.
主体の行動は,置かれた資源制約の下で,主観的
このように現実態となって活動する我々にとっ
目的が最も達成されるように資源を配分するとい
て道徳的法則が絶対的に不可欠であることを内心
う意味での最適な行動とみなされるのである.
で認めてはいるが,一方でその原理をあたかも相
我々の行動が最適化行動であることに対する批判
対的で永久に根拠を正すことのできない性質のも
はあるが(Herbert Simon (1955,1957)が主張した
ののように語ることが横行しているのも事実であ
ように,人間・企業の行動の合理性は,最適化行
る.特に,今日の教育においては経験的科学主義
動を阻む諸々の条件の下での限定的合理性である
が台頭し,自然及び倫理・道徳の形而上学的考察
とする批判はその主なものである),最適化の意
は最早意味をなさないものとして忘れ去られてい
味は置かれた資源制約下において「最善の選択を
るように見える.しかし,人間の幸福追求に資す
する(目的が最もよく達成される)」という意味
るとみなされている学問においても,それを成立
でしかない.これを主観的格律として見れば,人
させている道徳的規範があり,またその背後には
は,「その人の主観的目的が最も達成されるよう
世界をどのように見ているのか,或いは人間をど
に使用可能な資源を配分せよ」ということになる
のような存在と見なしているのかという哲学がそ
が,人は誰でもよりよく生きたいとする目的(善)
の土台に存在していることを見逃してはならな
をもつかぎり,そしてこの目的に資するもので自
い.人間の行動について経験的データを集めれば
らが諸々の用途に配分できるものはすべて資源で
それだけで因果律・原因性に基づく知識が得られ
あるとすれば,この目的の追求を,資源を無駄に
るわけではないし,それによって人間存在の本質
してはならないという条件の下で行へと命ずる格
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
73
律は,我々に強制を強いるような格律とはなり得
理性が実利的な格律によって守ろうとする合理的
ない.それはむしろ目的と手段に関する普遍的原
な自愛の原理と考えることもできる.人々は,こ
理として内的原理だからである.目的のための手
の原理に基づいてそれぞれの幸福を追求すること
段を間違えれば必ず目的はそれだけ達成すること
になる.この追求は空想によるものではなく,手
が難しくなることは否定できない.即ち,目的と
段が目的の達成にどのように繋がっているのかと
手段が何らかの実質的関係にあるからこそ,行為
いう関係を意識して,適切な手段を具体的に選択
が原因となって何かの目的が達成されるのであ
することによって実質的になされる.従って,幸
る.個人の目的は主観的であっても,目的と手段
福の追求は単なる願望ではなく実質的な原理でな
の関係は客観的でなくてはならない.この繋がり
くてはならない.経済学で提示されている人間行
が客観的に存在しなければ,手段によって目的を
動や経済現象全体への理論的見方は,この意味で
実現することは不可能である.第一義的に存在す
すべて実質的なものである.自愛の原理に基づく
るのは自らの内から自発的に生まれる目的であ
幸福追求は,個人の目的が中心に置かれているた
り,そこからこの目的達成に資する手段に有用性
め,この追求は,自己の内的な価値を中心とする
という価値が派生し,この有用性に基づいて選択
価値体系と道具的手段の体系から構成される全体
可能な範囲から最適な手段を選択するという概念
的体系に基づいている.自分の目的がすべての手
が導かれる.経済学の発展に多大な影響を与えた
段に目的への貢献度に応じた価値を与え,選択可
カール・メンガーが,「経済学原理」において,
能な手段のなかから最も目的への貢献度の高いも
我々にとって有用なものの価値のすべてを,我々
のが選択される.交換すべきか,どれだけの情報
が最終的に求めるものの価値から演繹的に導きだ
を取得すべきか,如何なる戦略によって事に臨ん
したのは画期的なことであった.しかし,この選
だらよいのか,対人関係においてどのような態度
択の原理が普遍的原理であるのは,すべての人は
で接したらよいのか,
どのような言語を話すのか,
その人固有の目的と手段の体系のなかで,自らの
会話にどれだけの時間を費やすのか,共同作業に
目的を追求する存在であるからである.経済学に
どの程度参加したらよいのか等々,およそ考えら
おけるこのような見方は,経験に先行するもので
れる人間の意思決定において「どのように行動し
あり,我々が自らの行為を内省的に観察するとき
たらよいのか」が問題になるとき,それに指示を
に見える行為の実践的形式を明確にしたものであ
与えるとされる原理は,自らの実質的幸福を追求
ると言ってよいであろう.
する自愛の原理に還元されるのである.すべての
この目的を単純に欲求或いは欲望という言葉
行動の動機がこの原理に還元されるのであれば,
で置き換えることには問題はあるが,そのような
人間関係も経済の取引関係も社会の繋がりもすべ
置き換えを認めるとすれば,個人の欲求はその人
て実利に基づく全体的体系であることになる.し
固有のものであるから,目的の追求は,個人的な
かし,このような幸福追求の原理が我々の意志の
欲求・欲望の満足という概念へと変貌する.そし
すべてを支配すれば,我々は人の行動をすべから
て,人は,他の誰かがその人に代わってこの目的
くこの視点から把握し理解することになる.こう
を遂行してくれるわけではないので,自らが責任
した理解のもとでは,如何なる行動においても,
をもってこの欲求・欲望の満足に努めることにな
目的達成に貢献するという実利がその動因とな
る.そうなると,詰まるところ,経済的な現象は
り,それ以外の動因はすべて排除されることにな
欲求が自発的に発生させる現象となり,従って,
る.結果,実利が認められなければ人がなぜ行動
道徳的法則に意味があるとすれば,それは欲求・
するように行動するのかを説明することができ
欲望の原理に基づかなければならないとされてし
ず,実利を超越した理論は空論であるということ
まうのである.欲求・欲望の満足という原理は,
になる.このような世界観にはそれなりの信憑性
74
があることは認めざるを得ない.人は実際のとこ
択」という意味に解釈されることから,「自由な
ろ空虚な想像的満足ではなかなか動かないからで
選択現象」であると解されてもよいが,それは物
ある.
理的な均衡現象に類似する性質のものであり,カ
自分の実質的幸福という目的を中心に添えると
ントが「道徳の形而上学」及び「実践理性批判」
なると,我々はこの目標に或る種の形而上学的的
で問題にしている「自由」に基づくような選択の
存在を認めなくてはならないことになる.確かに
ことではない.効用という目的を中心にそえる限
我々の行為は何らかの目的(善)を目指してはい
り,手段の選択は,あたかも人間が明確な目的を
るものの,殆どの場合目指した目的を追求する過
追求することを命じられた機械のように選択する
程から一体何が得られるのかは実は事前的にわか
様相を呈することになるのである.この意味では,
っていない.にも拘らず人間の行動を資源制約下
目的と手段の実利的体系に基づく選択理論は,効
での目的追求という形式によって分析するため
用の存在を前提するかぎり,機械論的な理論に帰
に,経済学は,目的を有益性に基づく効用という
結してしまい,カントが問題にしている自由の原
概念によって抽象化し,それを事前的に与えられ
理とは一線を画することになる.
たものとみなすのである.この意味で「効用」は
ここで注意すべきは,方法論的に効用の存在を
形而上学的概念,即ち形式である.効用という形
認めるということは,この尺度のもとですべての
式的概念が前提されれば,現実にそれが何である
人間の行為或いは選択の対象となる手段が,それ
かを誰も直感によって把握することができない
が何であろうとも,比較可能な有益性の量に還元
が,すべての手段の体系は,単独によっても或い
されるということである.幸福の追求に資する財
はそれらの結合によっても,手段がどれだけの効
だけでなく,道徳的行為までもが,効用という内
用をもたらすかという有益性の価値尺度で計られ
的価値によって計られるのである.道徳的法則を
た体系となる.効用の存在が中心に置かれること
守った場合に得られる利益とそれを守らなかった
によって,現時点で視野の中に入るすべての手段
場合に得られる利益を効用によって計り,前者が
の効用価値も,或いは将来のいかなる時点におい
後者を上回れば道徳的法則を守り,そうでなけれ
ても視野に入るであろうすべての手段の効用価値
ば道徳的法則に反してでも行為するという具合で
も,同じ効用によって計られ,選択可能な手段の
ある.我々の行動はすべて資源という制約によっ
全集合から選ばれる多期間にまたがる「最適手段
て繋がっている以上,自己利益を優先するかぎり
の選択」は,配分された一つ一つの資源の最後の
このことは必然であるように見える.義務を果た
一単位の目的達成度が均衡するように為されるこ
そうとして,それに必要な時間を工面すれば,そ
とになる.人はこのようにして己を中心に置きな
の時間には必ず別の用途から得られる利益という
がらあらゆる道具的手段に何らかの有益性の価値
代償(犠牲)が伴う.或いは,心意に基づいて義
を付与して選択を行っているのである.そして,
務を果たすことを当然のこととして受け入れ,そ
時の推移とともに,置かれる環境も自分自身が設
れを果たそうとする徳が積まれていれば,義務の
定する幸福追求という目的の内容も,またそれに
履行は時間の節約に結びつくかもしれない.別の
連れて内的価値の体系も変化するため,目的と手
言い方をすれば,すべての行為は,それが道徳的
段の全体的価値体系も,またどのような手段を最
行為であろうと,自愛に基づく実質的行為であろ
適な手段として選択するのかという選択計画も常
うと,時間という資源によって繋がっているかぎ
に変化することになる.これらの変化は経験を通
り,あらゆる行為が例外なく必要とする時間は,
して実感されるため,幸福追求の実質的原理は経
必ず他の行為から得られる価値を犠牲にするとい
験に依存することになる.また,最適手段の選択
う意味での費用を伴うのである.実はそれだけで
という均衡現象は,選択という言葉が「自由な選
はない,道徳的行為は,例えば嘘をつくことによ
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
75
って他人に誤った情報を与える場合であれ,或い
り得る行為を選択するということになる.詰まる
は約束を違える場合であれ,それが他人の行動計
ところ,法則は我々の行為の原因性が自らの内に
画を狂わせ,結果として直接的に関与する他人の
あることによって説明されなければ,歴史を運動
みならず,これらの人々と何らかの関係にあるそ
法則によって説明することは自由という原因性と
の他の人々が達成できたであろうものをも犠牲に
矛盾する.更に追加すれば,我々は,歴史的事実
する.従って,効用の存在は道徳的行為を含めて
と言われるものが一体何を含んでいるのかという
すべての行為を同一の数量で表される内的価値に
ことを忘れてはならない.歴史上起こったすべて
還元するが,この還元によって人々の繋がりを意
の人の行為が記録されているわけではない.また
識した道徳的行為の価値,或いは非道徳的行為の
その時の環境が如何なるものであったのかを詳細
費用といったものを一応論ずることはできる.効
にわたって総括的に把握できるものでもない.も
用理論にはもう一つの決定的に重要な有益性があ
し,我々に,歴史上起こったすべての行為を示す
る.それは人間の行動を先験的に(ア・プリオリ
膨大なデータが示されたならば,我々はそのデー
に)
分析することを可能にするということである.
タから何を読みとったらよいのであろうか.この
他の経済理論と違って効用理論は人の行動を最適
時我々が構築しうる理論は無数にあるであろうこ
選択として先験的に導出する.このことの重要性
とは容易に想像がつく.無論,我々にそのような
は見逃され易いが,他の経済理論の多くが歴史的
データが与えられているわけではない.それは現
観察に基づいていたり,或いは人間の行動の実験
在の時点についても同様である.一人一人が,置
的観察から導き出された仮説であることを考える
かれた状況のなかで何を選択して実行したのかが
と,その違いは明瞭である.従って,効用理論に
すべて記録されていたと想定するならば,我々が
基づく経済理論は先験主義的な理論であると言え
理論化によってなしえるのは膨大な事実の捨象に
る.効用理論とは反対に,歴史的観察に基づく理
よってである.我々は,こうした捨象によって歴
論は歴史の運動の法則を歴史そのものから抽出し
史を解釈するのである.想像もしていなかった新
ようとする.こうした理論は,歴史の動きを法則
しい事実が発見されれば,歴史の解釈は大転換を
的に説明できれば,この法則に自然法則に似た妥
迫られる場合もあるし,また現代の視点が要請す
当性を与えることになる.しかし,この法則は,
る新しい解釈の必要性によっても歴史は常に見直
その信憑性を疑うに足る多くの事実を捨象した上
される.従って,歴史的諸法則なるものは,それ
でしか成立しない.
一見もっともらしく見えるが,
が如何に信憑性があるように見えようとも,歴史
この歴史的運動法則の必然性は,我々の選択の自
を事実に基づく可能的解釈の全体として捉え,常
由という概念にも,またこうした選択が生み出す
に一つの解釈には限界があることを意識しておか
取り引きから生まれる秩序の自生性の概念にも矛
なくてはならないのは当然のことである.これと
盾するし,また,運動法則があるとすれば,我々
同様に,我々の行動の観察についても,観察結果
は,如何なる目的と手段の体系に基づいた選択の
は行動における自由の原因性(資源制約下での最
結果としてそのような法則が現れるのかを説明し
適選択という行為の形式)によって説明されなけ
なければならない.現象の法則性は,先に述べた
ればならない.人間は観察されるように行動する
我々の行為の形式によって根拠づけられなくては
というだけでは,観察されるような行動を自由な
ならないのである.法則は,何が原因として起こ
選択結果として説明したことにはならず,結局観
れば何が結果として起こるのかという因果的繋が
察から引き出される一見事実と思い込まれがちな
りがなければ成立しない.それを目的と手段の体
経験的諸法則や経験的事実に依拠する理論は,そ
系から言えば,我々は何をすると何が得られるか
れだけでは我々の選択そのものを説明したことに
を前もって知っているので,望む結果の原因にな
はならない.歴史的法則の必然性と同じように,
76
観察結果に見られる諸法則の必然性も,結局は自
とながら構造方程式の関係が先験的に導出されて
由の原因性に基づく選択の結果として説明されな
いないとするものであった.先験的に導出すると
くてはならないのである.このようにして,歴史
は,構造方程式の関係を目的と手段の体系から規
の観察,行動の観察といった経験的事実を土台と
範的に導出することであり,それは,経済主体の
する理論は,同時に先験的な選択の理論(人間の
最終目的である効用を,資源という手段の制約条
行為の先験的形式)を要請するのである.効用理
件下で,最大化するという形式から導出すること
論は経験的事実を超越した形式である.この理論
を意味する.合理的期待形成仮説によってこの批
は,我々の行動を先験的に把握することを可能に
判は一気に進むことになり,この批判によって今
するのである.
日では如何なる理論も目的と手段の体系に基づく
効用理論に代わって一世を風靡した理論にケイ
先験的関係をその基盤とするようになったのであ
ンズ経済理論があるが,この理論は実は経験的事
る.ところで,効用理論によって目的と手段の体
実に基づいた理論でもなければ先験的理論でもな
系から行動を先験的に導出するということは,こ
い.ケインズの理論は,経済の主要変数間の構造
の理論が本質的に未来志向型であることを意味し
方程式を基として構築された理論的モデルであっ
ている.我々の行為は現在から将来へと計画を通
て,大恐慌のような不況の出現を説明することが
して繋がっているのであり,効用理論は,現在の
できるという意味で,それを十分に説明すること
選択肢も将来の選択肢も同様に同じ効用という尺
ができなかったとされる古典派理論に対して画期
度に還元する.そのことが我々の行動を先験的に
的な見方を提供したことは事実である.しかし,
現在から将来にわたる行動計画として導出するこ
構造方程式が表している変数間の関係は,後の計
とを可能にするのである.また効用理論が現在か
量経済学の発展がその関係の推計に貢献したので
ら将来にわたる選択肢すべてを包括すると,この
あるが,最初から経験的に割り出されたものでは
理論は必然的に将来の経済環境の予測を必要とす
ないし,また経済行動を資源制約の下での最適化
る.このことから最適に期待を形成するとはどう
行動として捉える経済理論から導出されたもので
いうことかという問いが生まれ,それに答えて最
もない.細かいことを捨象すれば,主な構造方程
適期待形成理論の一環として合理的期待形成理論
式には,今期の消費は今期の所得に依存するとい
が舞台に登場し,それが構造方程式や過去依存型
う関係,今期の投資は今期の金利に依存するとい
期待形成理論を軸とするケインズ理論的経済予測
う関係,或いは,今期の貨幣需要は今期の所得や
に伴う矛盾を露呈したのである.こうした経済理
今期の金利に依存するという関係といったものが
論の興亡の詳細については別紙で論じたが(早川,
あるが,これらの構造方程式は前提されているだ
2011),効用理論そのものが先験的導出を可能に
けで,それらには効用理論のような先験的裏付け
したこと,またこの理論が包括する選択肢が現在
がない.従って,経済での生産・所得・雇用に見
の選択肢だけではなく将来の選択肢にまで及ぶ
られる変化は,将来への不安が引き起こす投資家
と,効用理論はそれまで以上に理論的力を発揮す
の不安心理が引き金となって起こる投資の変動
るに至ったことは事実である.この理論的展開は,
が,限界消費性向に起因する乗数過程によって増
我々は常に目的を設定することによって選択計画
幅された反応結果とみなされる.将来への見通し
を立て,この計画の一環として現時点で何を為す
が期待の概念を通して導入されても,将来への期
べきかを決めている事実と符号する.人間の行動
待はやはり過去の経験に基づいて形成されるとい
は,過去に誘発されるようなものではなく,常に
う形で導入される.従ってケインズ理論のモデル
未来に設定する目的を達成するような行動だから
そのものは大まかに言って過去依存型の理論であ
である.我々の過去の行動は,現在自分が保有す
る.この理論に対して続出した批判は,当然のこ
る資本(人間資本という能力を含めて)・資産を
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
77
形成するものであり,そのかぎりにおいて過去の
及ぶものではないことを知っている.我々の理性
行動の結果は現時点での初期条件を成し我々の将
は,目的と手段の実利的体系を超越することが可
来の行動の範囲を限界づけるものである.しかし,
能であることを知っているからである.人の行為
それだからといって過去の行動が現在及び将来の
はその人が設定した目的によって決まると考える
行動に必然的に結びつくわけではない.現在にお
ならば,すべての選択行動はこの目的との関連で
いて我々が何を為すべきかを知ることができるの
しか把握することができないのは当然である.で
は,現在の可能的選択肢が我々が将来に設定する
はあるが,同時に目的と手段の実利的体系は安定
目的にどれだけ貢献するのかが(想像の域をでな
的なものではなくむしろ非常に不安定なものであ
い場合もあるが)或る程度見えるからである.別
り,社会で生きる人間の規範になるにはあまりに
の言い方をすれば,アリストテレスがニコマコス
も脆弱なものである.何故なら目的そのものも自
倫理学において述べているように,将来に設定す
発的に変化し,どのような手段が開示されてくる
る目標があって初めてそれを達成する副次的目的
のかも常に変化するからである.人間はすべてこ
がわかり,更にそれらを達成するためのより副次
うした体系によって行動すると仮定してしまえ
的な目的がわかり,と言うようにこうした関係を
ば,互いの行動は,それが当てにしている実利に
辿っていくことによって最後に現時点で何を為す
よって解釈され,誠意ある行為も義務を守る行為
べきかが見えるのである.行為の善(目的)がな
もすべからく実利が伴わなければ為されない行為
ければ,我々は今為すべきことを知ることはでき
とみなされ,その内的価値は,他の道具的手段と
ないのである.
同様に比較可能な価値として存在することはあっ
人間の行動をこのような目的と手段の実利的体
ても,比較を超越した価値としては存在しないこ
系として把握することが当然のこととして認めら
とになる.我々の選択の多くは確かに実利に基づ
れると,また効用理論が道徳的行為を含めて我々
いた選択であり,そしてこの選択が幸福を実質的
の行動の説明にそれなりの有用性を持つことが認
に実現しようとする我々の努力と不可分利的に繋
められると,我々は人間のすべての行為をそのよ
がっていたとしても,我々は実利に基づかない選
うなものとして解釈することになる.こうした見
択があり得ることを理性の働きによって知ってい
方の説明力・応用力が強ければ強いほどその傾向
るのである.実は実利的行為があるということを
は強くなる.しかし,我々の理性は,目的をどの
知っているということは,逆に実利に基づかない
ように達成したらよいのかについて考えるだけの
行為があり得ることを知っていることを意味す
能力を具えているだけではない.我々の純粋な理
る.もしすべての行為が実利的行為であるとする
性は,人間の行動をどのように理論的に把握しよ
ならば,我々はもともとそれがどのような行為な
うとも,理論はすべて仮説であることを知ってい
のかを知ることはできない.対立する二つの概念
る.しかし,仮説ではあっても,人の行為は目的
があって初めて,それぞれの意味が理解できるか
と手段の実利的体系に基づくとする見方の有用性
らである.効用をもたらす実利によってしか活動
は認めざるを得ない.何故なら,人は何らかの実
しないのであれば,我々の存在は,効用の最大化
利的動機がなければ行動しないであろうことを
が支配する機械と何ら変わらなくなる.自由に選
我々は自分自身の行為の内的な観察によって知っ
択していると思い込んでいても,効用機械を想定
ているからである.如何に「そうすべきではない,
するかぎり,同じ効用尺度に支配された人間は置
こうすべきである」と叫んでみても,人は動機と
かれた資源の制約が同一であるかぎり必ず同じ行
なり得る実利的な何かがないかぎり,そのような
動をする機械的存在になってしまうのである.
命令には従わないものである.しかし,同時にま
効用理論を受け入れるかぎり, 我々は人間の
た我々の理性は,この仮説が人の行為の全範囲に
すべての行動を効用という同一の尺度に還元し,
78
何を為すべきかを衡量によって決めているという
目的を求める行為において,その行為が従うべき
ように解釈することになる.効用そのものは形而
道徳的法則を意識する.例えば,嘘をつかずに目
上学的概念であるにも拘わらず,結果として我々
的を達成する,誠意を尽くして仕事を行う,など
は道徳の価値を他の道具的手段と同じ比較可能な
の場合である.その場合,この法則に従ったとこ
土台に乗せてしまうのである.道徳と他の道具的
ろでどれだけの実利が得られるのかを計ることな
手段を比較することは不可能であるとして,道徳
ど到底できない.ただ,虚偽の行為が大きな被害
的な行為には,道具的手段の効用とは別にそれ自
をもたらすことについては誰でも経験的に知って
体の特異な効用があるとして,道徳的行為の選択
いるので,こうした経験的知識を援用して道徳的
をそれ固有の効用によって分析しようとする動き
法則を破ることが相手にもたらすであろう被害を
はある(Etzioni 1988).しかし,両者に効用に基
推測し,それを道徳的法則を守ることの実利と考
づく序列があるかぎり,それらが個人のなかでど
えることはできる.しかし,このような被害が直
のように包括的に処理されるのかについては未解
接的に或いは間接的にどれだけの相手に及ぶのか
決の問題が多く残っている.先にも述べたように,
は我々の想像を遥かに超えている.また,我々は
確かに道徳を効用の視点から分析することはある
不完全ではあるが,相手が誠意を尽くして接して
範囲内で可能であり,このような分析は実利に基
くれる場合には,同じく誠意をもって接したいと
づいた分析であるため,対象となる道徳的行為は
思い,相手が虚偽の行為をしなければ,同じよう
この意味で現実性を獲得する.そしてこの分析可
に虚偽の行為をしないようにしたいと思う.こう
能性を延長して,人間のすべての行為は実利的行
した行為の組み合わせが登場することにも我々は
為であると思い込んでしまえば,理性はその解釈
注目すべきである.
に基づいて道徳的行為の是非を合理的に判断する
我々が行為の全範囲を考察する際,注意したい
ことになる.このような考え方がこの世界には充
ことがある.我々は実利を求めて行為する存在で
満しているように見受けられる.あたかもそれは,
あるという考え方がそれなりの魅力をもつもので
行動はすべて何らかの目的を達成するための実利
あることは既に述べた.人間が実利のみしか求め
的行為であるとして,そのような原理に基づいて
ないとすれば,そしてそのような原理が人間その
経済社会を解釈した上で己の行動を決めるほうが
ものに内在するとすれば,我々はあえて実利を意
理性への負担が少なくなるかのようである.しか
識する必要はない.我々は,あたかも機械である
し,我々の理性は,行為が実利に基づかずに為さ
かのごとく動因となる何かがそうさせるように最
れる場合を想像することもできるし,また我々自
も実利が得られる方向へと行動をとるからであ
身そのような行為を実際に実行することができる
る.「実利を求めよ」という命令は行為の格律で
ことも知っている.我々がある人を尊敬する場合,
はあり得ないのである.それに従わないという行
その理由はその人が大きな実利的成功を収めたか
動が考えられない以上,我々の行為はすべからく
らでも社会的名誉を得たからでもない.その人の
我々の自由な意思決定によって決まるのではな
行為は既に報酬によって報われている.行為がそ
く,内在する効用が命じるままに行動するからで
れに見合う何らかの報酬によって報われていると
ある.我々の行為には最早意思決定が介在するこ
き,我々がその行為を為す人を尊敬することはあ
とはないのである.先にも述べたが,我々の行動
り得ない.また人間の人格性が持つ尊厳は,実利
が実利的行動であるとするのは一つの仮説であ
にも名誉にも基づくものではない.人は,明らか
る.我々の行為が実利的行動であるといっても実
に実利や名誉といったものを求める行為とは別の
利はすべて時の経過とともに経験的に得られるも
行為を為し得る存在である.この行為は一体どの
のであり,この実利がどのような確率をもって実
ような行為なのであろうか.或いはまた我々は,
現するのかは殆どの場合我々の予想の範囲を超え
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
79
ている.それにも拘わらず,もしこの仮説が或る
分の意志によって決めなければならない.そのと
程度の信憑性をもつならば,この信憑性がどうし
き会話を通して他の人と繋がろうとする意志が働
て生まれるのかを考えてみる必要がある.我々の
いているように思われるのである.無論,不十分
存在の背後には,行動そのものがそうした解釈を
ではあるが,会話の場合でも,会話から得られる
或る程度可能にはするが,しかしより根本的には
内的価値を効用という形で捉えることによって,
何か別の原理が働いていると考えることはできな
会話への時間配分も他の用途への時間配分も最初
いのか.例えば,我々が,実利とは関係なく,そ
は事前的に予想される効用によって決められ,会
れ以前の行為として他の人々に繋がろうとしたと
話が進行するにつれて発生した予期せぬ展開を見
してみよう.すると互いの間に実利をあげる機会
ながら追加的時間からの期待効用を修正しなが
が自生的に発生し,結果実利が得られたというこ
ら,時間の用途すべてについて再配分していると
とになる.実利は別に物資的なものである必要は
考えることも可能ではある.しかし,ここでは便
ない.自分が得る内的価値も実利的価値とみなす
宜的説明に満足することなく,より根源的な意志
ことができるからである.我々が進んで会話に参
の規定を問題にするため,そのような説明が含む
加しようとするとき,その会話から何かが得られ
矛盾に眼をつむるわけにはいかない.事前的に内
ることが予測できるわけではない.会話は自生的
的価値がわからない場合でも,我々の行為には他
に展開するので,それは自分が事前に期待するよ
の人々に繋がろうとする意志が働いていることは
うな内容を提供するわけではない.全く予想もし
事実である.我々が考察しなければならないのは,
なかった情報をもたらすかも知れないし,その会
他の人々に繋がろうとする我々の意志が,事前的
話を通して新しい人間関係が開けるかもしれな
内的価値がわからないのに,どのようにして自ら
い.何を得たかは会話がどのように展開したかに
の意志を行為という形で開示するのかという問題
よるのである.会話が終了した後,これに参加し
である.会話の場合でも,明らかに,繋がろうと
た人にその会話から何を得たのかを聞けば,それ
する意志は会話のルールを守らなくてはならな
ぞれが何らかの内的価値を得たと答えるであろ
い.また,このルールは一つの会話のみに適用さ
う.しかし,このことは会話はこの内的価値を得
れるものではなく,現実に起こるかどうかを問わ
るための行為であったということにはならない.
ず,可能的に考えられる会話すべてに当てはまる
この内的価値は実現して初めて感じられるもので
規則でなくてはならないため,会話のルールは詰
あり,事前的にそれがどのようなものであるのか
まるところすべての人に妥当する普遍的なルール
がわからないからである.それにしても,会話が
でなくてはならない.我々の意志がこのようにし
延々と続かないことを考えると,やはり会話に費
て自らの意志を規定しなければ,会話は普遍的な
やす時間には,それを別の用途に配分すれば何が
ルールによって展開されることはない.我々の行
得られたであろうかという費用が伴っていると思
為のなかには,その実利が事前的に見えないため,
われる.しかし,他の選択肢の場合と違って,会
意志が,実利を媒介にすることなく,行為するか
話の場合には費用が事後的にしかわからない.会
どうかを直接決めなければならないものがあるの
話が面白くなければ,時間の費用は得られる内的
である.その場合,意志が自らをどのような普遍
価値を上回るので会話は早く終わる.反対に会話
的な法則によって規定するのかが問題になるので
が面白く展開すれば,時間の費用は内的価値を下
ある.
回るので,会話に費やす時間はそれだけ長くなる.
我々の行為において,その内的価値が事前的に
どちらにしても,会話に自主的に参加する場合,
評価できないようなものについては,意志は自ら
それから得られる内的価値を事前的に決めること
を直接規定しなくてはならない.この論文で,私
はできず,そのため会話に参加するかどうかは自
は,
人間は抽象的存在であること,
この
80
存在は自由の理念のもとで自由に他の人々との繋
装置でないのは,そのなかで活動する人間の活動
がりを求めることのできる抽象的な場を必要とす
が自発的,即ち抽象的だからである.カントは人
ること,
この場が市場という抽象的場である
間の行為的意志の道徳性を経験的原理から分離し
市場に参加する者はすべて自らを普遍
純粋に形而上学的に考察したのであるが,彼が残
こと,
的法則によって律しなければならないこと(即ち,
した「道徳形而上学原論」と「実践理性批判」は,
道徳性は市場に参加する者すべてに要請されるこ
人間の道徳律の抽象性を見事にまで分析してい
と)
,
そして市場の第一原理は他の人々との繋
る.カントの道徳形而上学はその後の倫理学・道
がりを求めることにあること(これを瀰漫性の原
徳哲学に多大な影響を与えただけでなく,直接間
理と呼ぶことにする)
,
接を問わず経済哲学にも大きな影響を残してい
市場での繋がりが自生
効用理論に基づ
る.人間存在と経済社会秩序の抽象性を論ずるた
く市場理論は自生的秩序としての市場を理論化す
めには,この先駆者の業績を明確に把握しておく
るには不十分であること,
必要がある.従って,本論では,我々は,まず,
的秩序を形成していること,
市場は自生的秩序
であるため,それに参加することによって,或い
カントの偉業である「道徳形而上学原論」と「実
はそのなかで行為することによって得られる実利
践理性批判」を徹底的に吟味し,カントが論じた
を事前的に予測することは不可能であるこ
目的の王国とは如何なる秩序なのか,実践理性と
と,
我々が他の人々との繋がりを通して得る
は如何なる理性なのか,カントが論じた道徳的法
ことのできる「先験的知識と経験的知識の体系的
則とは如何なる法則なのか,カントは如何にして
秩序」もまた自生的な秩序であること,
そし
この法則に辿り着いたのか,カントはどのように
て他の人々との繋がりに関わる行為すべてに道徳
して自由の理念と定言的命法を結びつけたのか等
性が要求されること,について論じたいと思うの
の問いを解明し,彼の道徳形而上学の全容を明ら
である.こうした問題を論ずることは易しいこと
かにする作業を行うことにしたい.我々の行為に
ではない.必然的なものと経験のような偶然的な
は理性が関与している.従って,理性が如何にし
ものが混在してしまい,それらを区別する作業が
て自らの意志を規定するのかを解明することは,
極めて難しいからである.これらの問題を論ずる
なかんずく,カントが究明したように,何故に
前に,我々は行為の形而上学と道徳の形而上学に
我々はすべての理性的存在者を意識して,普遍的
ついて吟味する必要がある.人間は他との関わり
妥当性を有する形式によって自らの意志を規定す
のなかで自らの行為的意思を規定する存在である
るのかを解明することは,抽象的存在としての人
が,この関わりは自発的に拡大するものであり,
間と,この人間が,共存在としての他の人々と活
それは特定化された目的のためのものではない.
動を共にする市場という抽象的場との関係を論ず
また人間の活動を構成するそれぞれの行為はその
る上で極めて重要である.この重要性を意識して,
都度の具体的目的のために為されても,人間の活
私は,カントの道徳の形而上学における諸々の概
動が自発的なものであるかぎり,それは特定の目
念の繋がりを詳細にわたって明確にしたいと思う
的のためだけの活動ではない.このことは人間の
のである.カントは行為的意志の道徳性・普遍性
存在そのものが抽象的であることを意味する.同
を論じたのであるが,それは単なる道徳の形式論
時に人間の活動の場である市場は具体的な目的の
とは違う.カントの道徳哲学の背後には,人間存
ためにデザインされたものではなく,その本質は
在は具体的目的ではなく自発的に生まれる目的を
それが抽象的秩序であることにある(Barry 1982)
.
追究しながら生きる自存的存在(これをカントは
人間存在も抽象的ならば,市場の秩序もまた抽象
目的そのものと呼ぶ)であるとする確信と,人間
的なのである.後者の抽象性の根拠は前者の抽象
同士の関わりの範囲を時空を超えて拡大していく
性にある.何故なら,市場が具体的目的のための
と,どの人も必ずすべての人間に通用する不動の
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
81
道徳的法則に辿り着くとする確信がある.カント
この知性によってその都度自発的に生まれる目的
の道徳哲学は,我々の目を曇らせるすべての経験
を,個別的な事柄を熟慮しながら達成しようとす
的原理が排除されなければ,人間存在の自存性と
るのであるが,同時に我々の知性は,如何なる人
道徳的法則の関係を見ることはできないことを,
も人格であることを直接知として知っているので
我々に示している.カントの道徳形而上学を,人
り,すべての人々の行為の背後にある心意が如何
間存在の自発性(抽象性)と経済社会秩序(市場
に重要であるのかを知っている.この心意の世界
秩序)の抽象性との原因関係を究明する視点から
を支配する法則こそが道徳的法則と呼ばれてよい
吟味する作業は極めて重要である.市場経済が如
ものである.この世の秩序は,他の人々の人格を
何なる秩序なのか,この秩序は人間存在に対して
意識しない自己利益の追求によってだけでは維持
どのような意義を有するのかを,道徳的存在とし
されない.この秩序は,道徳的法則が支配する心
ての人間の自発性に基づいて理解しないかぎり,
意の世界にその基礎を置いているのである.我々
我々は両者を本質的に理解したことにはならない
がカントの道徳形而上学の根本原理と実践理性の
からである.
正体を吟味するのはこの心意の世界を支配する法
先にも述べたが,アリストテレスによれば,
則を明らかにしたいがためである.我々が認識す
人は自らに具わる素質的能力を開発して完全なる
るしないに拘わらず,この世の秩序は行為の背後
活動を行うまでは可能態である.この可能態が現
にある心意の世界に支えられていることは間違い
実態となって活動するためには,可能態は社会に
ない.この心意の世界の法則を明らかにしないか
おいて教育を受け,その能力を開発しなくてはな
ぎり,この世の秩序の原理を真に把握したことに
らない.それはすべて我々の知性によってなされ
はならないと私は強く思うのである.
る.アリストテレスは「ニコマコス倫理学」の最
以下,カントの「道徳形而上学原論」からの
後に,「人間は死すべき存在であるが,だからと
引用は篠田英雄訳からのものである.この引用文
いって死すべき事柄を考えるのではなく,できる
にある括弧〔 〕内の語句は訳者が付加したもの
だけ自分自身を不死なものにするために,自分の
である.また,ドイツ語で記された括弧内の文・
なかにある最も優れたもの,即ち知性に従って生
引用はカントの原著である Grundlegung zur
きなければならない,そして人はこの知性によっ
Metaphysik der Sitten からの引用であり,英語に
てその人自身になり自らの生を選ぶ」
(p. 478)と
よって記された括弧内の言葉と引用は, Thomas
述べている.知性の働きによってのみ我々は自分
Kingsmill Abbott によるこの原著の英訳である
自身となり自分の活動的生を生き,この生の第一
Fundamental Principles of the Metaphysic of
原理である完全現実態を目指すのである.この完
Morals からのものである.以下この訳からの引
全現実態においては,人は同じ具体的目的を常に
用を括弧を付けて付すが,その際,1998 年に
同じ制約の下で追求するなどということはあり得
Cambridge University Press から出版された Mary
ず,自らの内から自発的に発生する目的を,常に
Gregor による訳も参考にして,引用部分の意味
変化する制約条件の下で追求する.この現実態の
を確認したことを付け加えておきたい.
活動が織りなす取引の機会の全体系が市場の秩序
であるならば,我々は,この現実態が目指す完全
2. カントの道徳形而上学と実践理性
現実態という第一原理が,我々の行為的意志の規
しばしば引用される言葉であるが,カントは
定に課す法則について考察する必要がある.アリ
「実践理性批判」の結びにおいて,仮想界につな
ストテレスは知性こそが我々のなかの最も神聖な
がる叡智者としての自らの存在に目を向け,それ
ものであると述べているが,この知性はいかにも
に驚嘆するさまを見事に表現している.
カントは,
不思議なものである.我々は,この世において,
仮想界と自分とを繋げる道徳的法則を意識すると
82
き,この法則こそが叡智者としての我々の人格の
で占めている場所から始めて,私自身をもつな
価値を高めることに,この法則が感性界とは独立
いでいる連結の範囲を拡張して,もろもろの世
した生を自らに開示することに,更にまた道徳的
界を超えた彼方の世界や体系の,そのまた体系
法則によって自己の存在の運命が,この世の条件
を包括する測り知れぬ全体的空間に達し,また
と限界を超えて無限の未来に続くものであること
これらの世界や体系の周期的運行と,その始ま
に驚嘆するのである.道徳的法則は,この仮想界
りおよび持続とをうちに包むところの無際限な
に私たちを繋げる法則である.可視界は感覚的世
時間に達するのである.また第二のものは,私
界でありそれは変化するが,仮想界は永遠の世界
の見えざる「自己」すなわち私の人格性に始ま
である.この仮想界を通してのみ我々の生はその
り,真実の無限性を具えて僅かに悟性のみが辛
永遠性を獲得する.不思議なことに,私たちはこ
うじて跡づけ得るような世界〔可想界〕におい
うした道徳的法則を直接知として知っている.こ
て,〔可想的存在者としての〕私をあざやかに
の世に「虚偽の行為をしてはならない」という道
顕示する.そして私は,この世界(しかしまた
徳的法則を知らない者はいない.我々は,人に教
この世界を介して,同時に自余いっさいの可視
えられたからこの法則があることを知っているの
的世界)と私とのつながりが,第一の場合〔経
ではなく,自分が口に出して表現したことが心の
験界〕におけるとは異なり,もはや単なる偶然
なかで思っていることと違うことを明確に知って
的連結ではなくて普遍的必然的連結であること
いるがゆえに,この法則がどのようなものである
を知るのである.無数の世界群を展示する第一
のかを知っているのである.だからこそ,この法
の景観〔自然界の〕は,動物的被創造者として
則は時代を超え文化を超えて普遍的なものとして
の私の重要性なるものを無みする.このような
存在する.カントは,こうした道徳的法則が自ら
被創造者は,暫時(私はその長短を知らない)
の心の内で揺るぎないものとして歴然と存在して
生命力を付与されたのちに,彼を形成している
いることに驚嘆するのである.この法則の存在に
物質〔身体〕をこの遊星(これは宇宙における
気づいた者は,この驚嘆を共有するはずである.
ただの一点にすぎない)に返却せねばならない.
何故なら,この法則を除けば,我々の意識に去就
これに反して第二の景観〔可想界の〕は,叡智
するあらゆる物事は忘れ去られてしまう一時的出
者としての私の価値を,私の人格性を通じて無
来事にしか過ぎないからである.
限に高揚する.道徳的法則はこの人格性におい
な
て,動物性にかかわりのない――それどころか
「ここに二つの物がある,それは――我々が
全感性界にかかわりのない生を私に開顕する.
その物を思念すること長くかつしばしばなるに
すくなくとも,私の現実的存在がこの法則によ
つれて,常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念と
って合目的に規定されているということから推
をもって我々の心を余すところなく充足する,
知せられる限りでは,まさにこの通りである.
すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のう
そして私の現実的存在のかかる合目的規定は,
ちなる道徳的法則である.私は,この二物を暗
此世における生の条件や限界に制限されている
黒のなかに閉ざされたものとして,あるいは超
のではなくて,〔来世にまで〕無限に進行する
越的なもののうちに隠されたものとして,私の
のである.
」(
「実践理性批判」, pp. 317 ― 318)
視界のそとに求め,もしくはただ単に推測する
ことを要しない.私は,現にこれを目のあたり
我々は自然界についても,或いは我々の意志・
に見,この二物のいずれをも,私の実在の意識
行為の世界についても,その最高原因が何である
にそのままじかに連結することができるのであ
のかを追求する.我々は,理性によって,自然界
る.第一のものは,いま私が外的な感性界の中
については生起するものが如何なる必然性をもっ
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
83
て生起するのかを解明し,また,意志・行為の世
情についてカントは,「道徳形而上学原論」を次
界については「生起すべきもの」が如何なる必然
のように結んでいる.
性をもって生起するのかを,生起を必然たらしめ
る条件によって解明しようとするのである.この
「理性を,自然に関して思弁的に使用すると,
条件を追求するということは,我々が,真に無条
世界にはなんらかの最高原因がなければならな
件的に必然的なものを意識すること(即ち,最も
いという絶対的必然性に到達する.また理性を,
普遍性の高いものを理性的に認識すること)を意
自由に関して実践的に使用しても,やはり絶対
味する.しかし,無条件的に必然的なものを認識
的必然性に到達する,ただ同じ必然性でもこち
することは,我々の理性の使用においては,不可
らのほうは,およそ理性的存在者である限りの
能である.にも拘らず我々はそのようなものが存
存在者の行為を規定する法則の絶対的必然性で
在することを想定して,理性的認識を押し進める.
ある.そもそも理性的認識を押し進めてこの認
道徳的法則に関しても,最終的に如何なる無条件
識の必然性を意識せしめるのが,我々のあらゆ
的なものが我々をして道徳的法則によって意志を
る理性使用の本質的原理である(実際,このよ
規定させるのかを理解しようとしても,理性的認
うな必然性がなかったら,およそ認識は理性的
識においてはそれは不可能である.しかし,理解
認識と言えないであろう).ところがこの理性
できなくても,我々がすべての理性的存在者を意
には,またしても本質的な制限がある,すなわ
識して,普遍的に妥当な法則によって意志を規定
ち―存在するもの,生起するもの或いは生起
しようとしても,それはおかしなことではないば
すべきものをかくあらしめるための条件が根底
かりか,こうした法則の存在を否定することは意
に存しないと,理性は,この存在するもの,生
識と意志を有する理性的存在者のなすべきことで
起するものの必然性も,また生起すべきものの
はない.意志の自由という理念は正にこの最終的
必然性も理解できない,ということである.だ
に無条件的な必然性を具えた理念であり,自由が
がこのようにして条件を絶えず追求していく
何であるのかを認識することは我々の理性の認識
と,理性の満足は先きへ先きへと延ばされるば
力を超越している.認識できなくても,我々は自
かりである.すると理性は,無条件的に必然的
由でありたいと願うのである.理性の思弁的使用
なものを求めて止まないが,しかしこの無条件
においても,或いは我々の意志を実践的に規定す
的に必然的なものを自分に理解させるための手
ることにおいても我々は確かに自由でありたいと
段を欠いても,なおこのものを想定せざるを得
願う.我々は「自由ではない」と主張する人も,
ないのである.そこで理性は,このような前提
自由に思考した結果そのように主張するのであ
〔無条件的に必然的なもの〕と折り合えるよう
り,思考を更に重ねた結果,明日自らの主張を撤
な概念を発見できれば,それでじゅうぶん仕合
回することもできるのである.我々の存在が何か
せなのである.それだから理性が無条件的な実
によって規定されてしまえば,人間の存在はそれ
践的法則(定言的命法のようなものでなければ
までである.自由の理念が我々の理性認識を超越
ならない)を,その絶対的必然性に関して説明
していても,我々の道徳的法則はこの理念によっ
できないのは,道徳性の最高原理について我々
て初めて最高法則となり,その絶対的必然性を具
の試みた演繹に責任があるのではなくて,むし
えるに至る.我々が,道徳的法則とは如何なる法
ろ人間理性一般に加えられねばならない批判で
則なのか,この法則に基づく定言的命法の必然性
あろう.理性が或る条件を設定したうえで―
は何に由来するのかを哲学的に究明すると,究極
というのは,根底に置かれたなんらかの関心に
的に無条件的必然性を有するのは自由の理念であ
頼って,説明を試みようとしないのは,なにも
ることがわかるとカントは主張する.こうした事
理性に対する非難にはなり得ないからである.
84
もしそのようなことをしたら,実践的法則は道
行為する存在なのである.このように考えること
徳的法則―すなわち〔意志の〕自由という最
によって,カントは思弁的理性が自由の概念を導
高の法則でなくなるであろう.それだから我々
入することによって陥る矛盾,即ち自由の理念と,
は,なるほど道徳的命法の実践的な無条件的必
人間が感性的存在として従わざるを得ない自然法
然性を理解できないにせよ,しかしこの命法は
則がもつ必然性との間の矛盾,を解消する道筋を
もともと理解できないものであるということを
示したのである.ここで重要なことは,自由の理
理解するのである.そしてこれが,道徳の原理
念は人間という可想的存在者の行為の原因性の理
に関して人間理性の限界を究めようとする哲学
念だということである.行為は目的を追求してな
に対して,公正に要求せられ得るすべてであ
されるが,そのときそのときの目的は人間の意志
る.
」
(pp.176 ― 177)
がそのつど何を求めているのかという実質によっ
て決まるが,この目的は我々が何を具体的に求め
我々理性的存在者の意志を規定する道徳的法則
るのかという事情(即ち,人間の性質や行為が為
(行為の普遍的に妥当な純粋形式)に究極的な根
される環境)が変わればそれに応じて変化するた
拠を与えるのは自由の理念であるとすれば,そし
め,人間はこうした特殊的,具体的目的として存
て人間は自由の理念の下で目的を追求する存在で
在しているのではなく,可能的目的の主体そのも
あるならば,人間は条件による規定的理解を超越
のとして,常に何らかの目的を追求する抽象的な
した存在であり,自由の理念を内的な動因として
存在であるとみなされなければならない.自由の
含む存在であるということになる.人間という存
理念はこうした可能的目的の主体としての人間と
在は本来理念的な存在である.自由の理念は意志
不可分離的に結びついている.ここから理性的存
の自律を意味する.意志の自律は,自愛の原理に
在者の「目的の王国」という理念が生まれる.そ
集約されるようなあらゆる動因を排除するのであ
して,この王国では,すべての理性的存在者は自
る.これらを排除しなければ,意志の規定原理は
分自身を含めてあらゆる理性的存在者を可能的目
他律となってしまい,そこには自由の法則なるも
的の主体として目的そのものとみなさなくてはな
のは最早存在しないからである.我々の道徳的法
らず,この条件から普遍的法則に従う格律,即ち
則の根拠が自律であるならば,自律する理性的存
道徳的法則が引き出されてくる.そこで我々は
在者が成員である王国(Kingdom)とは如何なる
「目的の国」についてのカントの記述を詳しく見
国なのであろうか.
る必要がある.まず,カントは,人は,具体的目
的ではなく自存的目的・可能的目的の主体・可能
2a. 「可能的目的の主体」と「目的の王国」
的な絶対に善なる意志の主体であることについ
カントの道徳哲学は,道徳形而上学として,純
て,そしてすべての理性的存在者をこの自存的目
粋理性がア・プリオリに求めることのできる諸原
的そのものとみなして行為することと,普遍妥当
理に基づいている.道徳的法則は普遍性をもたね
的格律に従って行為することとは同一の原理であ
ばならず,その普遍性は自由の理念から導かれる
ることについて次のように述べている.
ものである.カントは人間を,感性界に身を置く
存在であると同時に,「ものそのもの」が属する
「理性的存在者を他の存在者から区別する顕
悟性界に身を置く可想的存在ともみなしている.
著な特性は,前者が自分自身に対してみずから
感性界に属するかぎりでは人間が経験する現象の
目的を設定するところにある,そしてこのよう
すべては自然的因果の法則に従うが,悟性界に属
な目的がそれぞれの善意志の実質をなすと言え
する可想的存在としての人間は「自らの行為は如
るだろう.しかし(あれこれの〔特殊的〕目的
何なる意志の法則に従うべきであるか」を考えて
を達成するという)条件にいささかも制限され
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
ない絶対的な善意志という理念においては,お
85
同じ意味だからである.
」 (pp. 122 ― 123)
よそ実現され得る目的(この種の目的は,どん
な意志をも単なる相対的な善意志にしてしまう
これにすぐ続いてカントは,この議論から余地
だろう)は,すべて排除されねばならない.そ
のない二点の結論を引き出している.第一に,目
れだからここに言うところの目的は,実現され
的自体である理性的存在者は,どのような法則に
得る目的としてではなく,自存的な目的(selb-
服従しようとも,その法則について自分自身を普
ständiger Zweck, an independently existing end)
遍的に立法するものとみなさなければならない,
として,従ってまたまったく消極的にのみ,考
何故ならば彼の格律が普遍的立法に適しているこ
えられねばならないだろう,換言すれば,我々
と(diese Schicklichkeit seiner Maximen zur allge-
はかかる目的に反して行為してはならないし,
meinen Gesetzgebung, this fitness of his maxims
それだからまたこの目的は,いかなる意欲にお
for universal legislation)こそが,彼が目的自体と
いても単に手段としてでなく常に同時に目的と
して存在していることを示しているからである.
してのみ考えられねばならない.するとこのよ
第二に,理性的存在者が有するところのすべての
うな目的は,取りも直さずいっさいの可能的目
自然的存在者に優越する価値(特権)(W ü rde,
的の主体(das Subject aller möglichen Zwecke,
dignity)が何に依拠するのかと言えば,それは彼
the subject of all possible ends)そのものにほか
自身の意志の格律が自分自身のみならずすべての
ならない,そしてこの主体はまた同時に可能的
理性的存在者を普遍的立法者とみなす観点から導
な絶対に善なる意志の主体(das Subject eines
出されるということにあるのである.すべての理
möglichen schlechterdings guten Willens, the
性的存在者が普遍的に立法するものとして自らの
subject of a possible absolutely good will)でも
意志の格律を立法すれば,彼らの世界は目的の王
ある,絶対に善なる意志は,矛盾なしには他の
国として実現可能なものとなる.このように立法
いかなる対象の下位にも置かれ得るものでない
された格律の形式的原理は「君の格律が,あたか
からである.そこで「およそいかなる理性的存
も同時に普遍的法則(すべての理性的存在者に妥
在者(君自身ならびに君以外の他の人達)に関
当する)として役立つかのように行為せよ」とい
しても,彼が君の格律において同時に目的自体
うことになる.自然の国は外部からの作用原因に
とみなされるように行為せよ」という原理は,
よって成立する一方,目的の国は,その全成員が
「すべての理性的存在者に例外なく通用すると
普遍的に立法する者としてすべての理性的存在者
ころの普遍的妥当性を,みずからのうちに含む
に妥当する法則によって自らの意志を規定するこ
ような格律に従って行為せよ」という原則と,
とによって成立するのである.ここには明らかに
根本においては同一である.というのは,「ど
普遍的立法者としての目的の国の成員の間には補
んな目的のために手段を使用するにしても,私
完的な関係が存在する.無論,我々の全員がその
は自分の格律を,およそいかなる主体に対して
ように意志を規定するとはかぎらない.その限り
も法則として普遍的に妥当するという条件に制
において,目的の国は実現可能性はあっても現実
限すべきである」ということは,―目的の主
には実現することはないであろう.それでも,
体すなわち理性的存在者そのものは,単なる手
我々は,すべての理性的存在者を普遍的に立法す
段として使用さるべきでなく,およそ手段を使
る者とみなして,「君は,単に可能的であるに過
用する際の最高の制限的条件として,換言すれ
ぎない目的の国においても普遍的に立法する成員
ばいついかなる場合にも同時に目的〔自体〕と
の格律に従って行為せよ」という定言的命法に従
して,行為を規定するすべての格律の根底に置
うべきである.なぜならば,もし我々が,他の理
かれねばならない」ということとは,まったく
性的存在者が普遍的立法によって自らの意志を規
86
定することを怠るからといって,それに影響され
Wesen (mundus intelligibilis) als ein Reich der
て自らの意志に普遍的法則を課すことを怠れば,
Zwecke m ö glich und zwar durch die eigene
我々の意志の規定原理は他律となってしまうから
Gesetzgebung aller Personen als Glieder. In this
である.また,道徳的法則に従う意志の格律が,
way a world of rational beings (mundus intelligi-
自然法則に従う物の世界において,我々の幸福の
bilis) is possible as a kingdom of ends, and this
実現に資するとはかぎらない.もし,幸福の実現
by virtue of the legislation proper to all persons as
に資することが道徳的法則に従うことの条件であ
members.) 従って理性的存在者は,いついか
るならば,我々の意志の規定は自らの立法によっ
なる時にも普遍的な「目的の国」において立法
てなされたことにはならない.そのような意志の
する成員であるかのように行為せねばならな
規定は,偶然的でしかない経験を頼りにする自愛
い.するとこれの格律の形式的原理は,「君の
の原理のような,他律の原理に従っているのであ
格律が,あたかも同時に普遍的法則(すべての
る.カントは次のように述べている.
理性的存在者に妥当する)として役立つかのよ
うに行為せよ」
(Handle so, als ob deine Maxime
「そこで上述したところから論議の余地のな
zugleich zum allgemeinen Gesetze (aller
い結論が生じる,それは次のようなものである,
vernünftigen Wesen) dienen sollte. So act as if
すなわち―目的自体としての理性的存在者
thy maxim were to serve likewise as the universal
は,たとえ彼がいかなる法則に服従していよう
law (of all rational beings) .)ということになる.
とも,これらいっさいの法則に関して,自分自
それだから目的の国は,自然の国との類推によ
身を同時に,普遍的に立法するもの(allge-
ってのみ可能である,尤もこの場合に,目的の
mein gesetzgebend, legislating universally)と見
国は格律に従ってのみ―換言すれば,理性的
なさねばならない,彼の格律が普遍的立法にふ
存在者がみずから自分自身に課した規則に従っ
さわしいということこそ,目的自体としての彼
てのみ可能であるし,これに対して自然の国は,
の特性を顕示するものだからである.また次の
外部から強制された作用原因に従ってのみ可能
一事も,同じように結論される,それは―理
となる.それにも拘わらず我々が自然全体に対
性的存在者は,およそ単なる自然的存在者に優
しても自然の国という名称を与えるのは,たと
越する尊厳(特権)
(Würde (Prärogativ) , digni-
え自然全体は一個の機械と見なされるにせよ,
ty (prerogative))を具えているが,彼はこれを
しかしその場合にもこの自然全体は,その目的
次のような観点―すなわち,彼は自分の格律
としての理性的存在者に関係しているという理
を,いつでも彼自身のみならず,同時に他のい
由にもとづくのである.ところでかかる目的の
かなる理性的存在者もまた立法する存在者(そ
国は,定言的命法がすべての理性的存在者に指
れ故に彼等もまた人格 (Personen, persons) と呼
定するところの規則と一致するような格律によ
ばれる)にほかならないという観点から得てこ
って―それもこの国の全成員が,ひとり残ら
なければならない,ということである.このよ
ずこれらの格律を遵守するならば,――実現す
うにして,理性的存在者たちの世界(可想界)
るであろう.しかし或る理性的存在者が,自分
(eine Welt vernünftiger Wesen, a world of ration-
だけはかかる格律を厳守するにしても,しかし
al beings (mundus intelligibilis)), は,目的の国
それだからといってほかの理性的存在者まで
として可能になる,しかもそれはこの国の成員
が,ひとり残らずこれを忠実に遵守するであろ
としてのすべての人格がそれぞれ自分自身に法
うということは,期待できるものでない.同様
則を与えることによって可能となるのである.
にまた,自然の国とその合目的な秩序および組
(Nun ist auf solche Weise eine Welt vernünftiger
織が,理性的存在者自身によって可能であるよ
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
87
うな目的の国にふさわしい成員としての彼と一
するものと見なさねばならない,そしてこの観
致するであろうということも―換言すれば,
点から,自分自身と自分の行為とを判定すべき
かかる理性的存在者の懐く幸福への期待の実現
である.ところでこのような理性的存在者の概
に資するであろうということも,やはり当てに
念は,この概念と密接に関連する極めて豊饒な
できないのである.それにしても「君は,単に
概念―すなわち目的の国という概念に到るの
可能的であるにすぎない目的の国において普遍
である.
的に立法する成員の格律に従って行為せよ」
ところで私は国というものを,それぞれ相異
(Handle nach Maximen eines allgemein geset-
なる理性的存在者が,共通の法則によって体系
zgebenden Gliedes zu einem blo ß mö glichen
的 に 結 合 さ れ た 存 在 ( die systematische
Reiche der Zwecke, in seiner vollen Kraft, weil es
Verbindung verschiedener vernünftiger Wesen
kategorisch gebietend ist. Act according to the
durch gemeinschaftliche Gesetze, the union of
maxims of a member of a merely possible king-
different rational beings in a system by common
dom of ends legislating in it universally.)という
laws)と解する.この場合に法則は,その普遍
件の法則は,依然として十分な効力を保持して
妥当性を建前として目的を規定するものである
いる,この法則は,定言的に命令するものだか
から,もしすべての理性的存在者の個人的差異
らである.........」
( pp. 124 ― 126)
と,彼等の個人的目的が含む多種多様な内容と
を度外視すると,いっさいの目的(目的自体と
では,カントは「目的の王国」をどのような秩
しての理性的存在者と,各自が自分自身のため
序と見なしているのであろうか.このことについ
にそれぞれ設定する〔特殊的〕目的と)を体系
て,カントは上記の記述に先立って,「目的の王
的に結合した全体――すなわち,上述したいく
国」は,構成するすべての理性的存在者が,立法
つかの原理に従うことによって可能であるよう
者として互いを目的自身とみなして自分自身の意
な目的の国というものが考えられるのである.
志を普遍妥当な法則に基づく格律によって規定す
(Ich verstehe aber unter einem Reiche die
る場合に実現する体系的な結合の全体(die sys-
systematische Verbindung verschiedener
tematische Verbindung verschiedener vernünftiger
vern ü nftiger Wesen durch gemeinschaftliche
Wesen durch gemeinschaftliche Gesetze, the union
Gesetze. Weil nun Gesetze die Zwecke ihrer all-
of different rational beings in a system by common
gemeinen Gültigkeit nach bestimmen, so wird,
laws)であり,それは普遍的立法がもたらす理性
wenn man von dem persönlichen Unterschiede
的存在者という目的自体と,それぞれが設定して
vernünftiger Wesen, imgleichen allem Inhalte
追求する主観的な特殊的目的が体系的に結合する
ihrer Privatzwecke abstrahirt, ein Ganzes aller
ことによって発生する或る種の体系的秩序である
Zwecke (sowohl der vern ü nftigen Wesen als
と述べている.また,そこにおいては各理性的存
Zwecke an sich, als auch der eigenen Zwecke, die
在者は臣民であると同時に元首であるとも述べて
ein jedes sich selbst setzen mag) in systematisch-
いる.臣民としては普遍的法則に従わなくてはな
er Verkn ü pfung, d.i. ein Reich der Zwecke,
らないし,元首としては他者に服従することなく
gedacht werden können, welches nach obigen
自ら普遍的格律を立法しなければならない.その
Principien möglich ist.
箇所を見てみよう.
By a kingdom I understand the union of different rational beings in a system by common laws.
「およそ理性的存在者は,各自が常に自分の
Now since it is by laws that ends are determined
意志の格律によって,自分自身を普遍的に立法
as regards their universal validity, hence, if we
88
abstract from the personal differences of rational
のためにそれぞれ設定する〔特殊的〕目的と)を
beings and likewise from all the content of their
体系的に結合した全体」と表現している「目的の
private ends, we shall be able to conceive all ends
国」の秩序に注目する必要がある.この国は単な
combined in a systematic whole (including both
る抽象的な(或いは形式的な)国ではなく,それ
rational beings as ends in themselves, and also
は手段と目的の体系的全体をなす.構成員一人一
the special ends which each may propose to him-
人は,可能的目的主体として,その都度自発的に
self), that is to say, we can conceive a kingdom of
生まれる目的を実現するために,自らが置かれた
ends, which on the preceding principles is possi-
制限の下で,最適な手段を選択しようとし,こう
ble.)
した手段は市場における等価交換によって獲得さ
それというのも,理性的存在者は自分自身な
れる.そうした交換によって人々が必要とする
らびに他のいっさいの理性的存在者を単に手段
諸々の手段には市場価値が生まれ,こうした価値
として扱うべきでなく,いついかなる場合でも
が相対的価値の体系をなす.このようにして人々
同時に目的自体として扱うべきであるという法
の内から自発的に生まれる具体的目的と手段の相
則に服従しているからである.そうすると共通
対的価値の体系が秩序を形成する.ここまでは,
の客観的法則による理性的存在者たちの体系的
社会の構成員が自らの意志を普遍的法則によって
結合(eine systematische Verbindung vernünf-
規定するしないに拘わらず実現する体系である.
tiger Wesen durch gemeinschaftliche objective
「目的の王国」の秩序の実現には,もう一つの条
Gesetze, a systematic union of rational beings by
件が加わる.それが,「自らの行為的意志を自ら
common objective laws),すなわち一個の国が
が立法する普遍的法則によって律する」
,或いは,
成立する.この国では,これらの客観的法則の
同じことであるが,「すべての成員を目的自体と
意図するところは,理性的存在者たち相互のあ
みなして自らの意志を規定せよ」という命法であ
いだに,目的と手段という関係を設定するにあ
る.国のすべての構成員が,自らの自発性が生み
る,それだからこのような国は,目的の国(も
出す具体的目的を実現するための行為を,自らが
ちろん一個の理想 (ein Ideal) にすぎないが)と
立法する普遍的命法に即して行うとき,道徳的法
呼ばれてよい.
則に基づくあたらしい国の秩序が生まれる.後ほ
ところで理性的存在者は,まず成員(Glied,
ど言及するが,カントは人間が守るべき義務とし
member)としてこの目的の国に属する,その
て,「自らの命を絶ってはならない」,「他人に虚
場合には,彼はこの国でなるほど普遍的に立法
偽の行為をしてはならない」
,
「自らに具わる素質
するが,しかしまた彼自身の与える法則にみず
を放置してはならない」
,
「他人の幸福を積極的に
から服従しているのである.次に彼はまた元首
促進しなくてはならない」の四つを挙げているが,
(Oberhaupt, sovereign)としてこの国に所属す
それらはすべて人間が可能的目的の自存的主体
る,その場合には,立法する者として,他者の
(即ち,目的そのものとしての主体)であること
いかなる意志にも服従することがない.
目的の国は,意志の自由によって可能となる,
この国においては,理性的存在者は,この国の
に基づいている.こうした義務の遵守が「目的の
王国」の秩序を維持するだけでなく,その発展の
原理となるのである.
成員としてにせよ或いは元首としてにせよ,自
カントによれば,どの国であろうとも,ものの
分自身をいついかなるときにも立法者と見なさ
価値は二つの類に分けられる.一つは,等価物に
ねばならない.........」
( pp. 112 ― 114)
よって交換されるもの,従って相対的価値を持つ
我々は,ここでカントが「いっさいの目的(目
ものであり,もう一つはあらゆる価値を超越した
的自体としての理性的存在者と,各自が自分自身
価値をもつために等価物による交換を許さないも
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
89
の,即ち尊厳,或いは尊敬という絶対的価値をも
は,感情価(einen Affectionspreis, a fancy value)
つものである.前者は,我々の傾向・欲望と関わ
をもつ.しかし或るものが目的自体であり得る
るものであるか,それとも我々の心情・趣味に関
ための唯一の条件をなすものは,単なる相対的
わるものであるかのどちらかである.これらは
価値すなわち価格をもつものではなくて,内的
我々によって目的の手段として或いは感情価をも
価値すなわち尊敬を具えているのである
つものとして使用されるが,後者は理性的存在者
(einen innern Werth, d.i. Würde; an intrinsic
が,自らの意志を普遍的法則によって規定するが
worth, that is, dignity)
.
」
(p. 116)
ゆえに具有することができる人格性である(p.
116)
.すべての理性的存在者はそのつど自らが具
これに続いて,カントは「道徳性は,理性的存
体的に設定する目的を追求し,目的の達成に役立
在者が目的自体となり得るための唯一の条件」で
つ手段を利用する.その際こうした存在者は最終
あると述べているが,我々が如何に多種多様な目
的な目的として幸福を追求する.しかし,人は,
的を追求しようとも,我々を自存的目的
如何なる場合にも,行為の普遍的法則性(道徳性)
(selbständiger Zweck, an independently existing
を重んじ,他の人を手段として利用してはならな
end)そのものとして存在せしめるのは行為の道
い.そのとき初めて人は尊厳という人格性を具有
徳性以外にはありえない.自存的目的そのもので
し,
「目的の国」なるものが実現する.
「目的の王
あることによって我々の人間性は尊厳を具有し,
国」は,そこで活動するすべての人が尊厳という
それに対して我々は尊敬の念を抱くのである.道
絶対的価値を獲得する秩序であると同時に,人間
徳的行為は結果のもたらす利益や効用を意識して
の活動的生の自発性が十分に発揮される秩序であ
なされるものではなく,心意によってなされるの
る.我々が自ら立法する道徳的法則が,この真の
である.カントは,「心意とは,たとえ行為が思
自発性を保証する.こうしたことについてカント
い通りの成果を挙げなくても,そのようなことに
は次のように述べている.
かかわりなく,いつでも行為において自分自身を
開示しようとするところの意志の格律である(in
「目的の国では,いっさいのものは価格
den Gesinnungen, d.i. den Maximen des Willens,
(einen Preis, value)をもつか,さもなければ尊
die sich auf diese Art in Handlungen zu offenbaren
厳(eine Würde, dignity)をもつか,二つのう
bereit sind, obgleich auch der Erfolg sie nicht
ちのいずれかである.価格をもつものは,何か
begünstigte; in the disposition of mind, that is, the
ほかの等価物(etwas anderes als Äquivalent,
maxims of the will which are ready to manifest
something else which is equivalent)で置き換え
themselves in such actions, even though they
られ得るが,これに反しあらゆる価格を超えて
should not have the desired effect」
(p. 117) と述
いるもの,すなわち価のないもの,従ってまた
べているが,自存的目的そのものである人は,そ
等価物を絶対にゆるさないものは尊厳を具有す
のようなものとして心意に基づいて自らを開示し
る.
なくてはならない.この開示が行為の格律の普遍
傾向と欲望(menschlichen Neigungen und
法則性,道徳性によって為されるのである.カン
Bedürfnisse (needs), the general inclinations and
トは,「実践理性批判」において,我々は幸福を
wants of mankind)とは人間に通有であるが,
求めて行為するが,それによって幸福が得られる
これらに関係するところのものは市場価格をも
かどうかは事前的にはわからないと述べている
つ,また欲望を前提しないで,或る種の趣味に
が,同じように,我々が利益や効用を得ようとし
適うもの―換言すれば,我々の心情の諸力に
て行為しても,そうした行為が期待した利益・効
よるまったく無目的な遊びにおいて生じる適意
用をもたらすとはかぎらない.何故なら,社会に
90
生きる以上,我々が行為によって何を得るのかは
きである.実現可能性や損得を超越して,道徳的
自分の努力だけによっては決まらないからであ
法則は我々に君臨する.なぜなら,我々に具わる
る.そうしたなかで,我々が唯一理性によって知
純粋理性が,人の行為の「べき」はすべての理性
ることのできる道徳的法則があるのである.そし
的存在者に妥当する普遍的行為の形式にのみ基づ
て,我々の行為は,見かけではなく心意において,
くということを見抜くからである.従って,如何
道徳的法則に則して為されなくてはならない.
なる打算・計算があろうとも,或いは理想の国の
我々が可能的目的の主体そのものとして存在す
実現可能性は現実的には皆無であったとしても,
るということは,道徳的視点から見れば,自分自
純粋理性にとっては,「理想の王国」を想い描く
身を含めてあらゆる理性的存在者を同じように可
ことができて,その上,その王国から発せられる
能的目的の主体とみなさなければならないことを
命法による以外に我々が自らを原因性として(自
意味する.そこには,他の存在者を己の幸福追求
由に)行為することができないことを知れば,そ
のための手段とみなしてはならないという法則が
れで十分なのである.その他のことは,それがど
働くはずである.また,人は可能的目的の主体で
んなことであっても,道徳的法則においては微塵
あると同時に可能的な絶対に善なる意志の主体で
も考慮されるべきことではない.我々は道徳を何
もある.この絶対に善なる意志は如何なる事情の
らかの理想の実現可能性や実利に結びつけようと
もとでも比較されたり序列が与えられたりしてよ
する.そうしたものが約束されないならば,一体
いものではないのである.自らの内に己の行為の
なぜ道徳的法則に従わなければならないのか納得
原因性をもつ理性的存在者は,すべての理性的存
できないと思い込んでいるからである.しかし,
在者に対して,他の人を手段として使用してはな
それは,道徳的法則と,実利(或いは幸福の実質)
らないとする普遍的法則によって己の行為の格律
を求める自分の動機を混同しているからである.
を規定する責務を負うのである.ただ,カントが
自分の傾向や欲望に左右されて行為の方針を決め
指摘するように,自分だけが普遍的法則に基づく
れば,そのような行為は常に相対的であり基準を
格律に従っても,他の人が同じような格律に従っ
失う.状況が変化すれば,新しい状況のなかで己
て行為するとはかぎらない.自分だけが,道徳的
の実利を如何に上げるのかを考えるところから次
法則に従っていてもまわりが非道徳的であれば,
の行為が決まるのだとすれば,そしてそのように
自分だけが「損」をしているという感覚に襲われ
決まる行為が如何に相対的なものであろうともそ
がちである.また,一部の理性的存在者だけが道
れには何の問題もないと考えるならば,私たちの
徳的法則に従っていても,すべての成員がそれに
行為は普遍的な基準を失い,他の理性的存在者を
従わなければ「目的の王国」は実現しない.しか
も平気で手段として利用することになる.だが,
し,それにも拘わらず,道徳的法則に従って行為
純粋理性は,すべての実質的なるものを排除して
せよという命法はその威厳を失うことがない.な
行為の普遍妥当的な純粋形式にたどり着くことが
ぜなら,このように行為することを純粋理性その
できる.純粋理性は,この形式が可能であること
ものが我々に命法として要請するからである.す
を実践的に示すことによって,道徳的法則という
べての人が道徳的法則に従えば「目的の国」が実
「小径」を通して我々を「目的の王国」へと導く
現する可能性はあっても,そんなことは絶対に無
のである.「目的の王国」はただ意志の格律の普
理であるとする諦め,道徳的法則に従えば自分に
遍的形式によって成り立つにしても,それは空虚
利益がもたらされるのではないかといった打算的
な想像物ではなく,実践的理念として我々の行為
期待,或いは,自分だけが普遍的法則を重視して
によって実現させることのできるものなのであ
行為するのは精神的負担が重すぎて「損」である
る.(p. 121) 「目的の国」は構成員であるすべ
といった計算は,道徳的法則からは排除されるべ
ての理性的存在者と各存在者が追求する特殊な目
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
91
的とを体系的に結合した全体的秩序,即ち目的と
められていたのである.かかる理性的存在者は,
手段の関係の体系的秩序なのである.しかし,理
およそいっさいの自然法則に制約されることな
性的存在者は,自由の理念のもとで立法する者で
くそれ自体まったく自由であり,ただ彼が自分
あるがゆえに,必ず普遍的法則に従う.そのため
自身に与えるところの普遍的法則だけに服従す
互いが互いを手段とみなすことはないのである.
る,また彼の格律はかかる法則に従って普遍的
「目的の王国」は正に道徳性の原理が君臨する国
であり,人類の理念なのである.
立法(彼自身がまた同時に服従するところの)
に与ることができるのである.何ものといえど
カントはここで重要な問いを発している.それ
も,法則がそのものに定める価値しかもち得な
は,一体何が道徳的に善なる心意にかくも高い要
いからである.しかしすべての価値を規定する
求を提起する権利を与えるのか,という問いであ
ところの立法そのものは,まさにその故に尊厳
る.この問いへのカントの答えは,我々は本性に
すなわち比較を絶する無条件的価値をもたねば
よって目的自体として普遍的に立法するように定
ならない,そして理性的存在者がかかる尊厳或
められていて,従って我々には「目的の国」の成
いは無条件的価値に致すべき尊重の念を表現す
員になる特権があるというものである.我々は自
るにふさわしい唯一の語はすなわち尊敬であ
然法則に従うことなく自由であり得る存在なので
る.それだから自律は,人間の本性およびすべ
あって,そうであれば我々は普遍的法則によって
ての理性的存在者の本性の尊厳の根拠をなすも
意志を規定しようと思えばそうすることができる
のである.
」
(pp. 118 ― 119)
存在である.そして,我々は,普遍的に立法する
ことによって,尊厳という無条件的価値をもち,
カントは,これらの記述に先行して,同一の普
それに尊敬の念を抱くことができる存在なのであ
遍的命法或いはその原理の三つの異なった様式を
る.詰まるとことろ,我々は,自然法則に従うこ
論じているが,一つの様式は,「君の行為の格律
となく己の意志を普遍的立法によって規定するこ
が君の意志によって,あたかも普遍的自然方式と
とによって,「目的の国」の成員になることがで
なるかのように行為せよ」(p. 86)であり,二つ
きるという特権を有するがゆえに,道徳的に善な
目の様式は,「君自身の人格ならびに他のすべて
る心意(徳)に普遍的に立法せよという要請を課
の人の人格に例外なく存するところの人間性を,
すことができるのである.カントは次のように述
いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として
べている.
使用し単なる手段として使用してはならない」
(p. 103)であり,そして三つ目の様式は,原理を
「それならば道徳的に善なる心意すなわち徳
表現したものであるが,その原理とは,「各人の
(die sittlich gute Gesinnung oder die Tugend,
意志こそ,すべてその格律を通じて普遍的に立法
virtue or the morally good disposition)に,これ
する意志にほかならないという原理」
(p. 110)で
ほど高い要求を提起する権利を与えるものはい
ある.カントは,これらには主観的,実践的差異
ったいなんであるか.それはかかる道徳的心意
はあるものの,すべての法則としての格律は三要
が,理性的存在者をして普遍的立法に関与せし
素を含まねばならないと述べている.一つ目の要
め,またそうすることによって,可能的な「目
素は,意志の主観的原理には普遍的自然法則とし
的の国」の成員たることを得しめるところの特
て妥当な格律が選ばれなくてはならないとする普
権(der Antheil, the privilege)にほかならない.
遍的形式の要素であり,二つ目の要素は,理性的
このような理性的存在者は,目的自体として,
存在者は目的自体なのであるから相対的,随意的
またそれ故にこそ目的の国において普遍的に立
目的を制限しなければならないとする条件の要素
法するように,彼自身の本性によってすでに定
であり,三つ目は上記三様式によってすべての格
92
律を規定しなければならないとする完備性(或い
する概念」
(p. 112 ― 113)
は完全性)の要素である(p. 120). これら三様
(das Princip eines jeden menschlichen Willens,
式と三要素を原文と英訳を添えて列記すると次の
als eines durch alle seine Maximen allgemein geset-
ようになる.
zgebenden Willens; der Begriff eines jeden
vernünftigen Wesens, das sich durch alle Maximen
A. 道徳的命法(普遍的命法)の原理の三様式
seines Willens als allgemein gesetzgebend betrach-
A1. 「君は,
〔君が行為に際して従うべき〕君の格
ten muß, um aus diesem Gesichtspunkte sich selbst
律が普遍的法則となることを,当の格律によって
und seine Handlungen zu beurtheilen)
〔その格律と〕同時に欲し得るような格律に従っ
てのみ行為せよ.
」
(p. 85)
(the principle that every human will is a will
which in all its maxims gives universal laws; the
(Handle nur nach derjenigen Maxime, durch die
conception of the will of every rational being as one
du zugleich wollen kannst, daß sie ein allgemeines
which must consider itself as giving in all the max-
Gesetz werde. Act only on that maxim whereby
ims of its will universal laws, so as to judge itself and
thou canst at the same time will that it should
its actions from this point of view)
become a universal law.)
或いは,別の表現を使えば次のようになる.
「君の行為の格律が君の意志によって,あたか
も普遍的自然法則と〔自然法則に本来の普遍性を
もつものと〕なるかのように行為せよ」
(p. 86)
(Handle so, als ob die Maxime deiner Handlung
durch deinen Willen zum allgemeinen Naturgesetze
B. 道徳性を表現する三様式に含まれる
三つの要素
B1. 普遍性を本旨とする形式という要素
意志の主観的原理には普遍的自然法則として妥
当な格律が選ばれなくてはならないとする普遍的
形式の要素
werden sollte. Act as if the maxim of thy action
(eine Form, welche in der Allgemeinheit besteht,
were to become by thy will a universal law of
und da ist die Formel des sittlichen Imperativs so
nature.)
ausgedrückt: daß die Maximen so müssen gewählt
A2. 「君自身の人格ならびに他のすべての人の人
werden, als ob sie wie allgemeine Naturgesetze gel-
格に例外なく存するところの人間性を,いつでも
ten sollten)
またいかなる場合にも同時に目的として使用し単
なる手段として使用してはならない.
」
(p. 103)
(a form, consisting in universality; and in this
view the formula of the moral imperative is
(Handle so, daß du die Menschheit sowohl in
expressed thus, that the maxims must be so chosen
deiner Person, als in der Person eines jeden andern
as if they were to serve as universal laws of nature.)
jederzeit zugleich als Zweck, niemals bloß als Mittel
方式(formula):「意志の主観的原理には,そ
brauchst.)
(So act as to treat humanity, whether in thine
own person or in that of any other, in every case as
れがあたかも普遍的自然方式として妥当するかの
ような格律が選択されねばならない.
」
(p. 120)
B2. 実質(Materie)すなわち目的(Zwecke)と
an end withal, never as means only.)
いう要素
A3. 「各人の意志こそ,すべてその格律を通じて
理性的存在者は目的自体であるから相対的,随
普遍的に立法する意志にほかならないという原
意的目的を制限しなければならないとする条件の
理」(p. 110),或いは,「およそ理性的存在者は,
要素
各自が常に自分の意志の格律によって,自分自身
(eine Materie, nämlich einen Zweck, und da sagt
を普遍的に立法するものと見なさねばならないと
die Formel, daß das vernünftige Wesen als Zweck
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
seiner Natur nach, mithin als Zweck an sich selbst
93
である.
)
jeder Maxime zur einschr ä nkenden Bedingung
aller blo ß relativen und willk ü rlichen Zwecke
dienen müsse)
カントは,道徳性の原理を,理性的存在者が,
自らを立法者とみなして普遍的法則に基づいて彼
(a matter, namely, an end, and here the formula
の意志を規定して行為するという原理以外に求め
says that the rational being, as it is an end by its
ることは間違いであると述べている.道徳的原理
own nature and therefore an end in itself, must in
においては,普遍的に妥当な格律による意志規定
every maxim serve as the condition limiting all
も,自らの行為は道徳的法則に従わなくてはなら
merely relative and arbitrary ends)
ないとする義務も,またこの義務を果たさなくて
方式(formula) : 理性的存在者は本性において
はならないという責務も,すべて強制,魅力,実
目的自体であるが故に,すべての格律において単
利を必要とするものではなく,自らの意志が自律
なる相対的,恣意的目的として使われてはならな
しようとして,積極的に果たすことである.この
い.
自律の原理がなければ,道徳性の原理は崩壊する
「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格
のである.
に例外なく存するところの人間性を,いつでもま
たいかなる場合にも同時に目的として使用し単な
「道徳性の原理を見出そうとして,我々がこ
る手段として使用してはならない.
」
(p.103)
れまで傾けてきたいっさいの努力の跡を顧みる
B3. 上記三様式によってすべての格律を余さず規
と,かかる努力が水泡に帰せざるを得なかった
定することとする完備性(完全性)の要素(或い
ことは,少しも不思議でない.我々は,人間が
は,すべての格律は以下の方式によって表現する
彼自身の立法ではあるが,しかし普遍的である
ことができるとする完備性の要素)
ような立法にのみ服従するものであるというこ
(eine vollständige Bestimmung aller Maximen
と,また彼自身の意志ではあるが,しかし自然
durch jene Formel, nämlich: daß alle Maximen aus
の目的に従って普遍的に立法する意志のままに
eigener Gesetzgebung zu einem möglichen Reiche
行動するよりほかはないということに気づかな
der Zwecke, als einem Reiche der Natur, zusam-
かったのである.我々は,自分の意志が訳もな
menstimmen sollen)
く法則(それがどのようなものであるにせよ)
(a complete characterization of all maxims by
に服従しているとだけ考えていたために,この
means of that formula, namely, that all maxims
法則はなんらかの関心を魅力或いは強制として
ought by their own legislation to harmonize with a
伴わねばならないことになったのである,しか
possible kingdom of ends as with a kingdom of
しそのような法則は,彼自身の意志から,法則
nature)
として発生したものではなくて,彼の意志が合
方式(formula):「すべての格律は,それ自身
法則的に何か他の或るものに強要され,或る仕
の立法によって,自然の国としての可能的な「目
方で行為せざるを得なかったからである.この
的の国」と調和すべきである.
」
(p. 120) (ここ
ような,まったく必然的な推論があるので,義
で,als einem Reiche de Natur (as with a kingdom
務の最高の根拠を見出そうとするいっさいの労
of nature)は,「自然の王国と調和するように」と
力はすべて失敗に帰し,再び取り返しがつかな
訳せば,この格律は,「すべての格律は,それ自
くなったのである.これによって諸人が得たと
身の立法によって,自然の王国と調和するように,
ころのものが,義務ではなくて,或る種の関心
可能的な「目的の王国」と調和すべきである」と
にもとづく行為の必然性にすぎなかった.かか
なる.Gregor の訳は as with a kingdom of nature
る関心には,自分自身の関心もあったろうし,
94
また他人の関心もあったであろう.だがそうな
が普遍的法則に基づいていれば,この法則はすべ
ると命法は,常に条件付きのものにならざるを
ての理性的存在者に妥当する法則でなくてはなら
得なかったし,それだからまた道徳的命令たる
ない.従って,そのような法則は理性的存在者の
に堪えなかったのである.私はこの原則を,意
主観的,経験的原理にその根拠を求めることはで
志の自律の原理と呼びたい,そしてこの原理は,
きない.すなわち普遍的法則に基づく格律は意志
私が上述の理由からすべて他律のなかに算え入
があらゆる他律を排除してしか規定することがで
れるようないっさいの原理と対立するのであ
きないのである.そうすると,普遍的法則に基づ
る.
」
(pp. 111 ― 112)
く格律を規定するのは「自らの意志を自らの立法
によって規定しようとする意志」そのものという
2b. 自由という原因性の理念
ことになる.つまり,普遍的法則性は意志の自立
カントによれば,理性的存在者の道徳性は,自
的立法を必要とするのである.反対に,意志の自
らの意志をすべての理性的存在者に対して普遍的
立的立法は,意志があらゆる他律的原理を排除し
に妥当性を有する法則によって規定することに,
てのみ可能であるから,そのような意志が規定す
即ち,自らが普遍的法則を立法しそれに服従する
る格律は,あらゆる主観的,経験的原理を超越し
ことに存する.この規定・立法においては経験的
た普遍的な法則に基づくものでなくてはならな
要素は,それらはすべて主観的なものであるがゆ
い.そうすると,法則の普遍性と自立的立法とは
えに,排除されなければならない.先に見たよう
必要十分条件関係をもつことになり,それらは同
に道徳的命法(道徳性の原理)は三つの条件
義であることになる.更に,法則の普遍性は,人
―
格を手段として使うことを許さない.なぜなら手
格律は普遍的法則に基づいていなくては
人格は目的自体であり
段として使うことは,格律が主観的目的によって
手段として使用してはならないとする条件,そし
都合よく規定されていることを意味するからであ
て
各人の意志は自ら立法する意志でなくては
る.だとすれば,法則の普遍性は,人格をすべて
ならないとする条件――のどれかによって表現さ
目的自体とみなすことを必要とする.逆に,人格
れるが,このように表現された格律はすべて,理
が目的自体であり,決して手段として使われては
性的存在者が自分自身に与える法則(自らが立法
ならないのであれば,意志の格律は自らの主観的
する法則)は「目的の王国」と調和すべきである
目的から独立していなければならない.すると,
ならないとする条件,
とする原理に帰結する.なぜならば,「目的の王
意志の格律は普遍的法則に基づかなくてはならな
国」が実現するためには,我々は自ら立法する意
いことになり,普遍的法則性は人格が目的自体で
志であること,この意志が立法する格律はすべて
あることの必要十分条件となる.このように吟味
の理性的存在者に妥当な法則であること,そして
してみると,「格律が普遍的法則に基づくこと」,
人格は目的自体であって手段として使われてはな
「人格が目的自体であること」,「各人の意志が自
らないことが必要だからである.逆にこれら三つ
ら立法すること」の三つはすべて同義であること
の条件が満たされていれば,我々の意志の格律は
がわかるのである.こうした同義性の関係がある
「目的の王国」と調和する.従って,三つの条件
ので,道徳的命法は「それ自身を同時に普遍的法
が満たされていることと,「目的の王国」と調和
則たらしめ得るような格律に従って行為せよ」
すべきであるとする原理は同義でなくてはならな
(p. 120)
(Handle nach der Maxime, die sich selbst
い.しかし,三つの条件の間の必要条件関係,十
zugleich zum allgemeinen Gesetze machen kann.
分条件関係を吟味してみると,どの二つをとって
Act according to a maxim which can at the same
も必要十分条件を満たすこと,従って三つの条件
time make itself a universal law.)という格律によ
は互いに同義であることがわかる.例えば,格律
って十分に表現され得るのである.また,上の同
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
95
義性によって,「目的の王国」と調和しなければ
すなわち普遍的法則に従うことによってのみ道徳
ならないとする原理は,三つのうちのどの条件と
性を生起させることができるのである.絶対的に
も必要にして十分な関係にあることがわかる.こ
善なる意志は,普遍的法則であることを自らが願
うして道徳性の原理(この原理がそれを構成する
い得るような自分自身の格律に基づいて,如何に
どの条件によって表現されても)は,「目的の王
行為すべきかを決めるべきであるとする命法に従
国」と調和しなければならないとする原理と同一
うのである.このような命法が定言的命法である.
の原理であることが明らかになるのである.「目
また,存在する物は一般的法則によって普遍的に
的の王国」は理性に基づく立法がもたらす王国で
連結しているが,意志が普遍的法則の妥当性をも
あるが,この王国はキリスト教の伝統にあるすべ
つということは,この連結性に類似するものであ
てが完全に調和する神の国(City of God)に通じ
る.そして,ただ類似するだけでなく,我々の意
るものである(Leibniz: Monadology §85, §86,
志がそうした妥当性を具えるとき,意志は道徳的
Discourse on Metaphysics §36, and Theodicy, Part
な行為を生起させることができるのである.即ち,
Two, §225 ― 228; St. Augustine, City of God, Book
一般的な意味において,道徳的行為の世界(可想
XIV, §28)
.
界)においては,道徳的行為が生起するための条
「道徳形而上学原論」におけるカントの最大の
件(普遍的法則に従うという条件)が満たされて
関心は,絶対的に(無条件的に)善なる意志とは
初めてそうした行為が生起する意味での自然法則
如何なる意志のことか,またこの意志と定言的命
が君臨しているのである.確かに,可想界という
法との関係は何かを明確にすることである.意志
自然(行為の世界の自然)は,無法則な世界では
が主観的,経験的原理に基づいて規定されていれ
なく,それは道徳的行為を生起せしめる自然法則
ば,こうした原理は相対的であるがゆえに,その
によって明らかに支配されている.しかし,この
ような意志は自己矛盾を,すなわち悪を避けるこ
法則は,我々を外部から強制するものではなく,
とができない.自分の経験的都合によって,また
我々が自らの意志によって立法する法則でなくて
接する人によって行為の仕方が変わるからであ
はならない.従って,絶対的に善なる意志は,道
る.自己矛盾するような意志は絶対的に善なる意
徳的行為が生起することを支配する自然法則たり
志とは言えない.意志が自己矛盾しないためには
得るような格律に基づいて行為せよ,という命法
(即ち,どのような場合でも,またどのような人
に従うのである.また,絶対的に善なる意志は,
に対しても,同じ仕方で意思を規定するためには)
自らの意志そのものをこうした自然法則たらしめ
意志の格律は普遍的法則に従わなければならな
ることによって,目的の王国を実現することにな
い.従って,カントは,絶対的に善なる意志とは,
るのである.当然,目的の王国が実現するために
その格律が普遍的法則に従っているため自己矛盾
は,我々はすべての理性的存在者を目的自体とみ
することがない意志,つまり行為の道徳性を生起
なし決して手段として使用してはならないし,普
せしめ得る意志であると考えるのである.それだ
遍的法則によって意志を規定しなくてはならな
から,絶対的に善なる意志は定言的命法(道徳的
い.また,我々は自ら普遍的法則を立法する者で
法則,普遍的法則)に従う意志なのである.我々
あらねばならない.先に見た通り,これらの条件
が意志を規定する根拠を傾向や欲望(或いはそれ
(普遍的法則による格律,人格は目的それ自体,
らが集約されるところの幸福の実質)に求めるな
立法する意志)はすべて同義であると同時に「目
らば,我々の格律は主観的で相対的なものに留ま
的の王国」が実現するための必要十分条件である.
り,すべての理性的存在者に妥当する普遍性を具
従って,意志が絶対的に善であるということは,
えることはできない.従って,我々の意志は,そ
意志が自己矛盾しないように自ら普遍的法則を立
の格律が,あらゆる主観的原理を排除してのみ,
法して道徳的行為を生起せしめることを意味する
96
のであり,それは「目的の王国」が実現すること
である.
」
(p. 122)
の必要十分条件をなすのである.それだから,意
志が絶対的に善であることと行為の世界が「目的
こうしてカントは,道徳性の最高原理は意志の
の王国」であることとは同義なのである.カント
自律にあるという命題に,また意志の他律は道徳
は,これらのことについて次のように述べてい
性の「偽の原理」であるという命題に至る.カン
る.
トは,
「自律の原理」を,
「意欲が何かを選択する
場合には,その選択の格律が当の意欲そのものの
「ここにおいて我々は,最初の出発点であった
なかに,同時に普遍的法則として含まれているよ
ところの,無条件的に善なる意志(eines unbe-
うな仕方でしか選択してはならない」
(p. 129)と
dingt guten Willens, an unconditionally good
いう原理であるとする.意志が自律の原理(実践
will)という概念をもって終わることができる.
的規則)によって制約されているという原理は総
絶対に善なる意志とは,悪になり得ない意志で
合的命題であり,それに含まれる概念を分析する
あり,従ってまたその格律は普遍的法則とされ
だけではそれは証明されない.だとすれば,自律
ても決して自己矛盾に陥ることのあり得ない意
の原理は,純粋な実践理性としての主体の批判に
志である.それだからこの原理はまた意志の最
よってア・プリオリに認識されなければならな
高の法則でもある.それは―「君の格律がい
い.しかし,道徳性は我々が自らの意志を普遍的
つ如何なる場合でも同時に法則として普遍性を
に立法する存在であることに存すること,そして
もち得るような格律に従って行為せよ」
自律の原理がなければ我々は普遍的立法者として
(Handle jederzeit nach derjenigen Maxime,
存在することはできないことを考えれば,自律の
deren Allgemeinheit als Gesetzes du zugleich
原理こそが道徳性の絶対にして唯一の条件だとい
wollen kannst. Act always on such a maxim as
うことになる.
thou canst at the same time will to be a universal
カントは,自律の原理が道徳性の唯一の原理で
law.)である.これは意志が決して自己矛盾す
あることを次のように説明している.自律の原理
ることのあり得ないための唯一の条件である,
は,我々が意欲に基づいて選択する場合,「意欲
そしてかかる命法がすなわち定言的命法なので
は常に我々の選択の格律を普遍的法則として理解
ある.物の現実的存在の普遍的連結は普遍的法
するような仕方で選択を行え」ということである.
則に従っている,そしてこの連結は自然一般の
しかし,このような実践的規則(ルール)が命法
形式的概念をなすものである.すると意志が,
であるということを証明するとなると,即ちすべ
可能的行為を規定する普遍的法則として妥当す
ての理性的存在者の意志がこの命法に必然的に結
ることは,この普遍的連結と類似しているとこ
びついているということを証明するとなると,そ
ろから,上記の定言的命法はまた次のように言
のような証明は,自律の原理に含まれる諸概念を
い現すことができる,すなわち―「君の格律
分析するだけでは不可能である.「自律の原理に
が自分自身を対象とする場合に,その対象が同
基づいて選択せよ」という実践的ルールが命法で
時に自然法則と見なされ得るような格律に従っ
あるという命題を証明するには,我々は対象の認
て行為せよ」(Handle nach Maximen, die sich
識を超えて,純粋実践理性という主体が何である
selbst zugleich als allgemeine Naturgesetze zum
かを批判的に解明しなくてはならない.何故なら
Gegenstande haben k ö nnen. Act on maxims
ば,この命題はア・プリオリに全体的に認識され
which can at the same time have for their object
なければならないからである.しかし,自律の原
themselves as universal laws of nature.)
.絶対的
理が道徳の唯一の原理であることは,道徳性の諸
に善なる意志の方式とは,実にこのようなもの
概念を分析することによってすぐさま示され得る
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
97
のである.何故なら,我々は,この分析によって
純粋な実践的理性の批判に進まねばならないだ
自律の原理は定言的命法でなくてはならないこ
ろう.必然的に(apodiktisch, apodeictically)
と,また,この命法の命ずることはこの自律その
命令するところのこの総合的命題は,あくまで
ものであることを知るからである.すなわち,
ア・プリオリに認識せられ得ねばならないから
我々は,定言的命法は自律の原理の必要条件であ
である.しかしこれはまだ本章でなすべき仕事
ると同時に十分条件でもあることを知るのであ
ではない.それにしてもこの自律の原理が,道
る.(p. 129) 確かに,自律の原理が道徳性の最
徳哲学における唯一の原理であるということ
高の原理であることは,我々が自らの意志を普遍
は,道徳の諸概念を分析するだけで十分に説明
的に立法する存在であることに存すること,そし
できる.自律の原理は,一個の定言的命法でな
て自律の原理がなければ普遍的立法者として存在
ければならない,そしてこの命法が命令するの
することはできないことを考えれば,明らかであ
はまさにこの自律であり,それ以上でもなけれ
る.そして,カントは,他律の原理は,それが経
ばそれ以下でもないということは,かかる分析
験的なものであろうと,或いは(何らかの完全性
によって明らかにされるからである.
」
(p. 129)
の原理に基づく合理的なものであろうと,道徳的
法則の根拠には成り得ないとするのである.自律
の原理が道徳性の最高原理であることについて,
カントは次のように述べている.
道徳性の最高原理が自律の原理そのものなら
ば,道徳性の原理を他律(Heteronomie)の原理
に―それが経験的な原理であろうと或いは何ら
かの完全性(人間或いは神の完全性)の原理であ
「意志の自律(die autonomie des Willens, the
ろうと―求めることは誤りであることになる.
autonomy of the will)は,意志の特性であり,
カントはあらゆる他律の原理は道徳性の原理には
意志はこの特性によって(意欲 (Wollens, voli-
なり得ないとして否定するが,他律の原理のなか
tion) の対象のもついかなる性質にもかかわり
でも経験的原理は我々にとって特に重要な意味を
なく; unabhängig von aller Beschaffenheit der
もつものである.何故ならば,経験的原理は幸福
Gegenstände des Wollens; independently of any
の原理(自愛の原理)を含むからである.この幸
property of the objects of volition)自分自身に対
福の原理は自然的感情に基づいている場合もあれ
して法則となる.すると自律の原理はこうであ
ば何らかの道徳的感情に基づいている場合もあ
る,―「意欲が何かを選択する場合には,そ
る.無論,ここでの道徳的感情は,そういう感情
の選択(Wahl, choice)の格律が当の意欲その
が最初から人間には存在するとして前提された感
もののなかに,同時に普遍的法則として含まれ
情のことであって,道徳的法則に従うことが生み
ているような〔選択する意欲がその選択の格律
出す人格の尊厳に対する尊敬の念という道徳的感
を,同時に普遍的法則として含んでいるような〕
情のことではない.また,我々には他人の幸福を
仕方でしか選択してはならない」.しかしこの
喜び不幸を悲しむという同情の念もあるが,この
実践的規則が一個の命法であるということ,換
ような念も或る種の前提された道徳的感情であ
言すれば,おのおのの理性的存在者の意志は,
る.我々は,自らの幸福に資するものを善と見な
条件としてのこの実践的規則によって必然的に
して,経験的な原理に基づいて主観的な格律(例
制約されているということは,この自律の原理
えば,自らの利益を促進せよと命ずる怜悧な格律)
のなかに現れる概念を分析するだけでは証明で
を規定することを普遍的な原理であると考え,道
きない,この原理は総合的命題(synthetische
徳的法則に従うかどうかもこの原理に基づいて判
Satz, synthetical proposition)だからである.す
断してしまいがちである.即ち,我々は,徳のな
ると我々は,客体の認識を超えて主体すなわち
せることも悪徳のなせることもすべて自愛の原理
98
に帰し,行為が善であるかどうかを,それが最終
い,さりとてまた人を幸福にすることと善人に
的に自分の幸福の経験的実質に資するかどうかで
すること,人を怜悧にして抜け目なく自分の利
判断する傾向が強いのである.カントは,このよ
益を図ることと人を有徳にすることとはまった
うな経験的原理がすべて排除され,意志が意欲そ
く別であるから,このような経験的原理は道徳
のものを普遍的法則という形式のみによって規定
性の確立にいささかも寄与するものでない,と
しないかぎり,すなわち,経験的原理を超越して
いう理由によるだけでもない.そうではなくて,
意志の主観的格律が道徳的法則と一致するように
この原理が道徳性の基礎に据えようとしている
立法されないかぎり,我々には,意志・行為の道
諸般の動機は,道徳性を土台ぐるみ顛覆させて
徳性という計り知れない価値を得ることはできな
その崇高さをことごとく滅却するからである.
いとする.経験的原理はすべからく主観的なもの
要するにこのような動機は,徳に向かわせる動
であり曖昧なものである.それは人間の本性とい
因と悪徳に趣かせる動因とを同列に置き,もっ
う特殊性にも,また置かれた環境の偶然性にも影
ぱら打算に長じることを教え,徳と悪徳とのあ
響を受ける.そのような曖昧なものであるにも拘
いだの特殊な区別をまったく払拭し去るのであ
わらず幸福の原理は一見尤もらしく見える.これ
る.これに反して道徳的感情―このいわゆる
こそ我々が最も陥り易い罠なのである.経験的原
特殊な感官 *(このようなものを引き合いに出
理について,「この原理が道徳性の基礎に据えよ
すのは確かに浅薄である,それにも拘らず,物
うとしている諸般の動機は,道徳性を土台ぐるみ
事を思考する力の足りない人達は,普遍的法則
顛覆させてその崇高さをことごとく滅却する」
に関する事柄についてすら,感情の助けをかり
(p. 133)というカントの言葉は鋭い.この言葉は,
てその場を切り抜けることができると思ってい
アダム・スミスが「道徳的情操論」のなかで述べ
るのである.ところが感情はその性質上,無限
た,道徳的能力がなければ社会は無へと崩壊する
の程度の差を含むところから,善と悪とを判定
という言葉に通じるものである.経験的原理に頼
すべき一定不変の標準を与えることができな
る危険性についてのカントの説明には耳を傾ける
い.それだからもし或る人が,自分の感情を標
べき内容が凝縮されている.カントは次のように
準にして他人を判断するとしたら,その判断は
述べている.
妥当であろう筈がない)はとにかく道徳性とそ
の尊厳とに敬意を表し,また徳に対する満足と
「ところでこれらの経験的原理は,まったく
これを尊重する念とを直接に徳に帰するし,
道徳的法則の根拠たるに堪えないのである.道
我々を徳に結びつけるのは,徳の美わしさでは
徳的法則は,すべての理性的存在者に普く妥当
なくて利益だけであるなどということを,徳に
すべきであるが,道徳的法則のかかる普遍性と,
面と向かって放言しないだけでも,道徳性とそ
この普遍性によってすべての理性的存在者に等
の尊厳とに〔自己の幸福を主張する原理よりも〕
しく課せられる無条件的必然性とは,この法則
いっそう近いわけである.
」
(pp. 132 ― 134)
の根拠が,人間の本性の特殊な構造や,或いは
かかる本性が置かれている偶然的環境に求めら
この箇所に付された * 印は,カントが付した注
れでもしたら,すべて失われてしまうからであ
を示すものである.この注でカントは次のように
る.しかし自分自身の幸福を旨とする経験的原
述べている.
理が最も非とせられるのは,この原理が誤って
いて,あたかも人間の安楽はその人の善良な行
「私は,道徳的感情という原理を,やはり幸福
状に相応するかのような尤もらしい説が実際の
の原理に算える.およそいかなる経験的関心も,
経験に矛盾するという理由からばかりではな
けっきょく何か或るものが我々に与える快適に
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
99
よって生じるからである,その場合にこの関心
も導出することが可能である.しかし,道徳性の
が,利益を目当てにしないで直接に生じるか,
原理は,「絶対に善なる意志は,その意志の格律
或いは利益を顧慮して生じるかは問うところで
が普遍的法則とみなされるところの自分自身を常
ない,いずれにせよかかる経験的関心は,我々
にみずからのうちに含んでいるような意志であ
の仕合せへの寄与を約束するにすぎないのであ
る」という総合的命題である.そうだとすれば,
る.同様に我々は,他人の幸福を念とする同情
絶対的に善なる意志を意志の普遍的法則性(道徳
の原理を,ハチスンと共に,彼の想定した道徳
的法則性)に結びつける第三の概念が必要である.
的感官に算えざるを得ない.
」
この第三の概念が自由の積極的概念なのである.
では,この総合的命題が自由の積極的概念によ
カントは,「自由の概念は意志の自律を解明す
って可能であることをどのように示したらよいの
る鍵である(Der Begriff der Freiheit ist der
であろうか.絶対的に善なる意志とは,矛盾しな
Schl ü ssel zur Erkl ä rung der Autonomie des
い意志のことであった.矛盾しないためには,意
Willens; the Concept of Freedom is the Key that
志の格律を自分の主観的目的(衝動に基づこうと,
explains the Autonomy of the Will)として,意志
欲望に基づく幸福の原理に基づこうと)を含めて
は理性的存在者に属する一種の原因性であり,そ
あらゆる他律から独立させる必要がある.主観的
の特性は理性的存在者が外的な原因から独立して
目的を達成するための行為においては,その行為
作用し得ることにあるとする.カントは,自由を
が意図した結果をもたらすためには,行為と結果
「あらゆる外的原因から独立して作用する能力」
は法則によって結ばれていなければならない.こ
というように考えるかぎり,そのようにとらえら
の法則は自然法則である.一方絶対的に善なる意
れた自由はまだ消極的概念であるが,しかし同時
志は他律の原理,即ち自然法則に従う意志ではな
にそこから自由の積極的概念も生じると述べてい
く,自律の原理に従う意志でなければならない.
る.自由が一種の原因性であれば,そしてそれは
この自律は,自分を自分自身に対して普遍的法則
自然法則に従うものではないとすれば,自由は自
たらしめることである.自らを普遍的法則たらし
然法則とは別のある一定不変な法則に従うはずで
めることは,積極的意味における自由な意志によ
ある.自由の積極性とは,意志の自律がいっさい
ってのみ可能である.従って,絶対的に善なる意
の行為において自分自身に対して普遍的法則たら
志は自由な意志によってのみ可能な意志であるこ
んとすることにある.自らが自らに対して法則で
とになる.また,自由な意志は,すべての他律を
あるということは,自らの意志を普遍的法則であ
排除することによってのみ得られる.この他律の
り得るような格律によって規定することを意味す
排除は,意志が自分自身に対して普遍的法則たら
る.このような格律が,定言的命法であり,従っ
んとすることによってのみ可能である.意志が普
て道徳性の原理となり得るものである.このよう
遍的法則に従えば,その意志は矛盾しない意志,
にして,カントは,自由という原因性の概念と定
即ち絶対的に善なる意志となる.このようにして,
言的命法,即ち道徳性の原理とを結びつけるので
絶対的に善なる意志は,自由の原因性によって,
ある.自由意志とは,道徳的法則に従う意志と同
矛盾を引き起こさないために自らをあらゆる他律
一のものである.
から解放し,積極的に自分自身を普遍的法則たら
意志の自由の概念から,定言的命法によって意
しめる意志となり,従って道徳的法則に従う意志
志を規定する意志,或いはそれと同一である道徳
と同一のものとなる.別の言い方をすれば,絶対
的法則に従う意志が導出されるのであれば,意志
的に善なる意志は,その自由によって積極的に自
の自由が前提されれば,この概念を分析すること
ら普遍的法則を立法する意志であり,道徳的行為
で,意志の普遍的法則性も,意志の道徳的法則性
が生起する原因となる意志なのである.
100
律には従わないという原理を表現したものにほ
「意志は,生命をもつ存在者が理性を具えて
かならない.ところがこれはまさに定言的命法
いる限り,かかる存在者に属する一種の原因性
の方式であって,道徳性の原理を成すものであ
である.また自由は,この種の原因性―すな
る.それだから自由意志と,道徳的法則に従う
わちこれらの存在者を外的に規定するような原
意志とは,ひっきょうは同一のものなのであ
因にかかわりなく作用し得るという特性であ
る.
」
(pp. 140 ― 142)
る.それはあたかも自然必然性がいま一つの原
因性の特性―すなわち理性をもたないすべて
このようにして,カントは自由な意志と道徳
の存在者を外的な原因の影響によってはたらく
的法則に従う意志とは同一のものであることを
ように規定するという特性であるのと同じであ
示したのである.また,カントが示そうとする
る.
命題は,「絶対に善なる意志とは意志の格律がそ
自由に関する上述の説明は消極的であるか
の格律それ自体を普遍的法則(universal law)と
ら,自由の本質を理解するには,効果的とは言
して内含し得るような意志のことである(ein
えない.しかしまたこの説明から自由の積極的
schlechterdings guter Wille ist derjenige, dessen
概念が生じる,この概念は積極的であるだけに
Maxime jederzeit sich selbst, als allgemeines
いっそう豊富な内容をもち,従ってまたいっそ
Gesetz betrachtet, in sich enthalten kann; an
う効果的である.ところで原因性の概念は,必
absolutely good will is that whose maxim can
然的に法則の概念を伴っている,我々が原因と
always include itself regarded as a universal law)」
呼ぶところの或るものによって,原因とは異な
という総合的な命題である.これまでの論議を通
る或るもの,すなわち結果が,かかる法則に従
して見えてきたことは,意志の自由が前提されれ
って生じるからである.ところで自由は,なる
ば,この総合的命題が可能であるということであ
ほど意志の特性ではあるが,しかし自然法則に
った.そこで,カントは次に,意志の自由はすべ
従うものではない,だがそれだからといってま
ての理性的存在者の意志の特性として前提されな
るきり無法則というわけではなくて,自由もや
ければならないとするのである.カントは,意志
はり一定不変の法則に従うような原因性なので
を有する理性的存在者とは,自由の理念のもとで
ある.とはいえこの原因性は特殊な種類のもの
しか行為することのできない存在者であるとす
でなければならない,さもないと自由意志など
る.理性的存在者が意志を有するということは,
と言ったところで,それは空想の所産でしかな
この存在者は理性の対象(普遍的法則)に関して
いだろう.自然必然性は,作用原因による他律
自ら原因性を具えていなければならないからであ
であった,およそいかなる結果も,何か別の或
る.しかし,理性を具えている存在者が,この原
るものが作用原因を規定して原因たらしめる
因性を具えていながら同時に他律の原理に従うこ
〔原因を規定して作用せしめる〕という法則に
とはあり得ない.他律の原理に従うことは(理性
よってのみ可能だからである.すると意志の自
が理性以外からの影響に従うことは)理性自らが
律は,自律―すなわち自分が自分自身に対し
理性の対象に対して原因性をもつことに矛盾する
て法則であるという,意志の特性をほかにして,
からである.従って,理性は実践的理性(自らの
いったいなんであり得るだろうか.ところで
意志が従うべき法則を自らが立法してそれを実践
「意志は,いっさいの行為において,自分自身
する理性)として本来自由でなくてはならないの
に対して法則である」というこの命題は,自分
である.このことについてカントは次のように述
自身を同時に普遍的法則として対象となし得る
べている.
ような格律に従ってのみ行為し,それ意外の格
「たとえどのような理由からにもせよ,我々
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
101
の意志は自由であると断定するだけでは十分で
と.そこで私はこう主張する,―およそ意志
ない,そのためにはこの同じ自由がすべての理
を有する限りの理性的存在者はまた自由の理念
性的存在者にも等しく賦与せられているという
をも必然的にもたねばならない,彼はこの理念
ことの十分な根拠を必要とする.道徳性が我々
のもとでのみ行為するのである,と.我々は,
にとって法則の用をなすのは,ほかならぬ我々
このような存在者であれば,実践的であるよう
が理性的存在者だからである.してみると道徳
な理性―換言すれば,理性の対象に関して原
性はすべての理性的存在者にも同様に妥当せね
因性をもつような理性を具えているに違いない
ばならない.また道徳性が,自由という特性だ
と考えるからである.ところで我々は理性であ
けから導来されねばならないとすると,自由も
りながら自分の判断に関して,その判断は自分
またすべての理性的存在者の意志の特性である
が下したものであるという自覚をもつにも拘ら
ことが証明されねばならない.そうすると自由
ず,更にまたどこかほかから指導を受けるとい
を人間の本性に関する或る種の経験なるものか
うような理性を思いみることは不可能である.
ら説明するのは十分でない(このことは実際に
そうだとしたら,この場合に行為の主体は,判
もまったく不可能である,自由はア・プリオリ
断の規定を彼の理性からではなくて,なんらか
にしか説明され得ないものなのである),われ
の衝動から受けることになるであろう.およそ
われは自由を,理性的でかつ意志をも賦与され
理性は,はたからのさまざまな影響にかかわり
ているような存在者一般の活動に属するものと
なく,自分自身を自分の原理の創定者(als
して証明せねばならない.そこで私はこう言お
Urheberin ihrer Principien ansehen unabhängig
う,―自由の理念のもとでしか行為し得ない
von fremden Einflässen, as the author of its prin-
ような存在者は,まさにそのことの故に,実践
ciples independent of foreign influences)と見な
的見地においては実際に自由である,と(Ein
さねばならない,従ってまた理性は実践理性と
jedes Wesen, das nicht anders als unter der Idee
して,すなわち理性的存在者の意志として,こ
der Freiheit handeln kann, ist eben darum in
の理性そのものによって自由と見なされねばな
praktischer Rücksicht wirklich frei, d.i. es gelten
らない,要するに理性的存在者の意志は,自由
für dasselbe alle Gesetze, die mit der Freiheit
の理念のもとでのみ,彼自身の意志であり得る,
unzertrennlich verbunden sind, eben so als ob
それだから実践的見地においては,このような
sein Wille auch an sich selbst und in der theo-
意志が,すべての理性的存在者の一人びとりに
retischen Philosophie g ü ltig f ü r frei erkl ä rt
賦与されねばならないのである.」(pp. 143 ―
würde. Now I say every being that cannot act
145)
except under the idea of freedom is just for that
reason in a practical point of view really free, that
ここでカントは,「およそ意志を有する限りの
is to say, all laws which are inseparably connect-
理性的存在者はまた自由の理念をも必然的にもた
ed with freedom have the same force for him as if
ねばならない,彼はこの理念のもとでのみ行為す
his will had been shown to be free in itself by a
る」
,
「およそ理性は,はたからのさまざまな影響
proof theoretically conclusive.) それはまたこう
にかかわりなく,自分自身を自分の原理の創定者
いうことでもある,―自由と不可分離的に結
と見なさねばならない,従ってまた理性は実践理
びついているすべての法則がかかる存在者に妥
性として,すなわち理性的存在者の意志として,
当するのは,あたかも彼の意志が,それ自体と
この理性そのものによって自由と見なされねばな
してもまた理論哲学における証明によっても,
らない」,また「理性的存在者の意志は,自由の
自由であると言明されているかのようである
理念のもとでのみ,彼自身の意志であり得る」と
102
述べている点に特に注目したい.我々が自分自身
カントは,自由の理念から行為は法則によって規
の意志を有する理性的存在者であるとするなら
定されるべきであるという意識が生まれるとして
ば,即ち,自分自身が自分の行為の原理(原因性
いる.すなわち,自由の理念のもとで意志を規定
という原理)であるとするならば,そのことは自
するということは,主観的格律が普遍的原則とし
由の理念のもとでのみ可能なのであって,他律の
て妥当する立法となることを意味する.しかし,
もとでは我々は理性的存在者としての意志をもつ
我々は,何故理性的存在者として普遍的法則によ
ことはできない.理性は,自らを自由とみなさな
って自らの格律を立法する原理に従うのか,その
ければ,実践理性として(理性的存在者の意志と
実践的理由を知らねばならない.カントは,その
して)機能しないのである.従って,我々の理性
理由は,我々が理性的存在者であると同時に感性
が実践理性であるならば,即ち,理性的存在者と
に触発される存在であることによるとする.理性
しての我々が自由の理念のもとで自らの意志の格
が,感性によって触発されることなく,実践的で
律を規定するならば,そのような格律は必然的に
あるとするならば,理性的存在者において「べし」
それ自体を普遍的法則として含むような格律でな
と「欲する」の区別は存在せず,行為はすべて客
ければならない,ということになる.最も重要な
観的必然性を具えるはずである.しかし,我々は,
ことは,意志を有する理性的存在者とは自由の理
理性的存在者であると同時に感性という動機によ
念のもとで行為する存在であるということであ
っても触発される存在であるため,理性が感性か
る.自由でない理性的存在者が原因性として自ら
ら独立して自らの意志を規定するとはかぎらな
の意志を有することはあり得ない.また,自由な
い.このような存在者の主観から見た行為の必然
意志を有する存在者が理性的存在者ではないとい
性は「べし」という形をとる.だからこそ,我々
うこともあり得ない.だとすれば,意志をもつ理
は自らが普遍的法則となり得るように立法しよう
性的存在者とは自由な意志の持ち主であると言え
とするのである.
(pp. 146 ― 147)
るのである.理性的存在者は自由の理念を行為の
同時にカントは,意志と理性を具える理性的存
根底に置くことによって実践的に自由であり得る
在者は自由の理念のもとでのみ行為し得ることに
のである.自由の理念のもとで行為する存在者は,
ついては明確になったが,結局のところ自由の理
意志を自律の原理によって(普遍的法則に従って)
念に基づく意志の自律という原理(道徳的法則の
規定する.そして,意志の自律こそが道徳性なの
原理)は前提の域を出なかったと述べている.従
であるから,理性的存在者の意志は道徳性を具え
って,自律の原理をなす普遍的法則の実在性や客
ることになるのである.
観的必然性をそれ自体として証明することはでき
このようにして,カントは,道徳性の概念が自
なかったし,この原理の妥当性や実践的必然性に
由の理念に帰することを示したのである.しかし,
ついて前進したとは言えないと述べているのであ
自由の理念を我々自身,或いは人間の本性のうち
る.そして,次の三つの問いにも満足のいく答え
に実在するものとして証明することはできない.
を提供することはできない.
明確になったことは,「もし我々が自分自身を,
格律の普遍妥当的な法則性が我々の行為を制約す
理性と行為に関する彼の原因性の意識すなわち意
る条件でなければならないのか,
志とを賦与されているような存在者と思いなそう
志を普遍的法則によって規定することに極めて大
とするならば,我々はこれとまったく同じ理由か
きな価値を認める根拠は何か,
ら,理性と意志とを賦与せられている限りのいか
法則に基づいて規定することに人格的価値を感得
なる存在者もまた自由の理念のもとで彼自身の行
すると信ずる人間が,この価値を快適な或いは快
為を規定するという特性をもつことを認めねばな
適ではない状態の価値を遥かに超過せしめる理由
らない」(p. 146)ということであった.そして,
は何か,等々の問いである.
(pp. 147 ― 148)
何故に,我々の
我々が,意
意志を普遍的
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
103
こうしてわかったことは,自由の理念と意志の
いことになる.これでは何故意志が道徳的法則に
自律,道徳性の関係である.自由の理念のもとで
よって意志を拘束するのかについての根拠が,或
意志を規定するということがなかったならば,意
いは何故我々は自由でなければならないのかにつ
志の自律(道徳性)はあり得ない.このことは,
いての根拠が不明確なままとなる.カントは,こ
自律の原理をなす普遍的法則の実在性や客観的必
こで循環論証から抜け出る一つの方策を提示す
然性は,また自律の原理の妥当性や実践的必然性
る.その方策とは,我々自身が,ア・プリオリに
は,自由の理念に依拠するかぎり,それ自体とし
作用する原因(causes efficient a priori)なのか,
て証明することはできないことを意味している.
それとも我々の行為の結果(effects)なのかを考
だからこそ,上記の三つの問いには完全な答えを
察することである.
(p. 150)
提供できないのである.そして,カントは,我々
カントはこの考察を次のように進める.我々が
が人格的性質に関心をもつのは,また人格的性質
対象を認識するのは,これらの対象が感官を触発
は幸福に値いするとみなすのは,我々が道徳的法
することによって生じる現象の認識を通してのみ
則の重要性を前提として認識しているからである
であって,我々は対象を物自体として認識するこ
とする.しかし,経験的関心を捨てないかぎり,
とはできない.この区別は,外部から受動的に与
人格に,すべての経験的なものの価値を失っても
えられる表象と,我々の内から自己の活動を通し
その損失を償うに足る価値を見出すことはできな
て造り出す表象との違いがもたらすものである
い.このことから,人格の価値は,我々は自由で
(allenfalls bloß durch die bemerkte Verschiedenheit
あっても,経験的な原理からの影響をすべて排除
zwischen den Vorstellungen, die uns anders woher
して自らの意志を普遍的法則(道徳的法則)によ
gegeben werden, und dabei wir leidend sind, von
って規定することに存することがわかるのであ
denen, die wir lediglich aus uns selbst hervorbrin-
る.しかし,道徳的法則がこのような拘束力をど
gen, und dabei wir unsere Thätigkeit beweisen; per-
こから得てくるのかについては,まだ不明確のま
haps merely in consequence of the difference
まである.
(pp. 148 ― 149)
observed between the ideas given us from without,
カントによれば,我々が「目的の秩序のなかで
and in which we are passive, and those that we pro-
道徳的法則に服従する」ためには,我々は作用原
duce simply from ourselves, and in which we show
因の秩序のなかで自由でなければならないとす
our own activity).この区別は,あらましではあっ
る.逆に,我々が自由であれば,我々は目的の秩
ても,感性界(Sinnenwelt, a world of senses)と
序のなかで道徳的法則に従うことになる.従って,
悟性界(Verstandeswelt, the world of understand-
目的の秩序のなかで道徳的法則に従うことと,作
ing)の区別をもたらす.感性界は,観察者の感
用原因として自由であることとは同義なのであ
性が与える印象によって異なるが,感性界の基礎
る.つまり,両者は互に交換概念(reciprocal
をなす悟性界は同一不変である.こうした区別は
conceptions,相互補助的概念,互恵的概念)をな
我々人間についても同様に成立する.人間は内的
すのである.そして,両者が同義であるのは,意
感覚によって得た知識から自分自身が何者である
志が自由であることも,意志が自らに道徳的法則
かを知ることはできない.何故なら,人は自らを
を与えることも自律の原理に基づいているからで
創造したわけではなく,また自分自身の概念を
ある.
(pp. 149 ― 150)
ア・プリオリにではなく経験的にのみ得るため,
こうした論法は循環論証的であるとカントは言
人が自分自身について得ることのできる知識はた
う.我々が自由であることが想定されれば,道徳
だ内的感官によってのみ得られ,従って,人の本
的法則によって意志が規定されることになり,後
性の現れである現象とその意識は人が内的感覚に
者が想定されれば,意志は自由でなければならな
よって触発される仕方を通してのみ得られるから
104
である.かくして,我々は,単なる知覚と感覚の
的法則によって自らの意志を規定するからこそ,
受動性については感性界に属し,感性を介するこ
悟性界に属しているのである.意志と理性を具え
となく直接意識に到達する純粋な活動に関しては
る理性的存在者の行為は,すべての理性的存在者
可想界(英知界,悟性界,intellectuellen Welt,the
に妥当する普遍的法則によって規則性をおび,理
intellectual world)に属する.ただ可想界について
解可能なものとなるのである.このことは,我々
は我々はそれ以上のことは知らない.(pp. 150 ― 153)
が互いに理解できるのは道徳的行為だけであり,
ここでのカントの記述は極めて重要である.我々
経験的な原理(すなわち幸福の原理)に基づく行
人間は,単なる知覚や感覚の受動に関しては感性
為は理解できないことを意味する.我々は,具体
界に属するが,感性を介することなく直接意識に
的目的として存在しているのではなく,能動的な
達する純粋な活動に関しては可想界(the intellec-
活動の主体として目的自体として自存的に存在し
tual world)に属する.そして,これら二つの世
ている.この主体,すなわち「私」は現象界を超
界に属する人間は,内的感覚によって得た現象の
越した存在であり,その正体は感性によって受け
知識と意識がこの現象に触発される仕方から自分
取る感覚や知覚によって解明し規定し得るもので
自身が如何なる者であるかを知ることはできない
はない.しかし,この主体が行う行為は,感性界
のである.人間は,自分自身がア・プリオリに作
に属するものとして為された場合には幸福の原理
用する原因としての「私」であるが,この私は行
に基づく主観的行為となり,悟性界に属するもの
為の結果として現れる「私」の現象とは違うので
として為された場合には普遍的原理に基づく行為
ある.能動的に活動する「私」は可想界に属する
となる.前者は,主観的なものであるがために,
存在であり,この世界は,感性界が自然法則に従
当事者にとってもその都度変化する性質のもので
うのと同じように,この世界固有の一定不変の法
あるため,理性的存在者一般が理解できる性質の
則に従う.可想界とは悟性界のことであるが,悟
ものではない.我々は,幸福の原理に基づく他人
性とは規則によって世界を統一的に理解する能力
の行為が当事者にとってどのような意味をもつ行
を意味している.従って,悟性界とは正に
為なのかを理解することができないのはそのため
Verstandeswelt(the world of understanding,理解
である.しかし,後者は,理性的存在者一般に妥
の世界)のことである.理解可能という視点から
当する法則に従うため理解可能なのである.更に,
我々の行為を見てみると,我々の行為が無法則で
悟性界には信頼や尊敬の念が生まれると考えられ
あるならば,我々はそのような行為を規則に従っ
る.信頼は,相手の行為が理解できるかぎりにお
て,或いは規則立てて真に理解することはできな
いて可能だからである.そうであれば信頼は道徳
いということになる.我々の行為が法則に従って
的法則に従う行為を心意において行う主体に対し
いるかぎりにおいてそれは理解可能なのである.
てのみ置かれるものである.信頼の反対は懐疑で
この理解をもたらすものこそが行為の法則性,即
ある.我々が互いの行為を理解でき,また互いを
ち道徳的法則そのものなのである.道徳的法則に
可能的目的の主体として信頼できるならば,我々
従わない行為を理解することは不可能である.あ
は互いを信頼し尊敬しあうことができるのであ
る行為が当事者の如何なる目的の為に為されてい
る.
るかを理解することは,この目的が経験的原理に
カントは,我々人間には我々を他のあらゆる物
基づいた主観的なものであるかぎり,不可能であ
からも,また対象によって触発される自分からも,
る.従って,我々が悟性界に属するということは,
自分自身を区別する能力を具えていると述べてい
我々の行為が,道徳的法則という普遍的法則に従
る.そしてこの能力こそが理性であるとする.こ
うかぎり,法則という規則によって互いに理解可
の理性は純粋に自らが自主的に活動するものであ
能であることを意味している.逆に,我々は道徳
り,それは理解する能力を超えた能力である.理
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
105
解する能力が,感性のもたらす直感を統一的に規
かぎり,自分自身を感性界ではなく悟性界に属す
則的に認識する(意識にもたらす)ことを助ける
るものとみなさなければならないとしている.従
悟性概念以上の概念をもたらすことはできない,
って,理性的存在者は二つの視点から彼自身を観
そしてそれは感性がもたらすものなくしては思考
察し,彼の諸能力を,従って彼のすべての行為を
することはできない.しかし,理性は,理念にお
支配する法則を認識することができるのである.
ける純粋な自主的活動を為すものであり,理性は
感性界に属する者としては,彼は自然法則という
それによって感性の与えるものをすべて超越す
他律に従うのであり,悟性界(可想界)に属する
る.その最も重要な機能は感性界を悟性界から区
者としては,経験ではなく理性のみに基礎をもつ
別すること,そしてそれによって理解する能力そ
法則に従うことになるのである(p. 155)
.
のものの限界を示すことである,とカントは述べ
ている.
カントは続ける.人間は,理性的存在者として,
従って可想界に属する者として,意志の原因性を
自由の理念を条件としてでしか考えることができ
「ところが人間は,自分自身が実際に一種の
ない,何故なら感性界の決定原因(determinate
能力をもっていることを知っている,彼はこの
causes)から独立していることが自由だからであ
能力によって,自分をほかのいっさいの物から
る.理性はかかる独立性を自分自身の特性とみな
―それどころか対象によって触発される限り
さなくてはならない.自由の理念は自律の概念と,
の自分自身からも区別する,その能力とはすな
従って道徳性の普遍的原理と不可分離的に結びつ
わち理性である.理性は,純粋に自主的にはた
いている.道徳性の普遍的原理は理性的存在者の
らくものとして,悟性にすら優っている.悟性
すべての行為の基礎である.それは自然法則がす
もやはり自主的にはたらくし,また感覚と異な
べての現象の基礎であるのと同様である(p.
り,物によって触発されて(従って受動的に)
156)
.
生じるような表象だけを含むものでない,しか
こうして,自由から自律へ,自律から道徳的法
し悟性がそのはたらきによって作り出すことの
則へと論理を展開したことが循環論証ではないの
できるのは悟性概念だけである,そしてこの概
かという疑念が解消されるのである.循環論証の
念は感性的表象を規則のもとに摂し,こうして
疑念は次のようなものであった.我々は自由の理
これらの表象を一つの意識のなかに統一する用
念を道徳的法則のために置いたのであるが,それ
をなすにすぎない,しかもその場合に悟性は,
は道徳的法則が自由の理念から導かれるためであ
感性の使用をまたなければ,何ひとつ思惟でき
った.しかし,その結果道徳的法則に根拠を与え
ないだろう.これに反して理性は,理念とよば
ることはできなくなり,結局この法則の原理は自
れる理性概念によって純粋な自発性を顕示し,
由の理念を要求する原理として提示されたに過ぎ
こうしておよそ感性が悟性に供給するいっさい
なかった.そして,この疑念の解消は次のように
のものを遥かに超出するのである.更にまた理
為されたのである.我々が自由であるとみなすと
性は,感性界と悟性界とを区別し,こうするこ
き,我々は自分自身を悟性界に属する者としてみ
とによって悟性そのものに,この認識能力の受
なしているのであり,その場合我々は意志の自律
くべき制限を指示して,理性の最も重要な仕事
を,それから帰結する道徳性と共に,認識してい
がここにあることを証示するのである.」(p.
る.一方,我々が,自分自身を義務に従う者とみ
154)
なす場合には,我々は感性界と同時に悟性界に属
する者であると考えているのである.即ち,我々
カントは,理性的存在者は,叡智者(intelli-
が悟性界に属する者であれば,我々の意志は感性
genz, intelligence; 知性的存在者)として存在する
界を支配する自然法則(他律)には従わないので
106
あり,この意味で我々の意志は自律の原理に従う
間の矛盾をどのように解決したらよいのであろう
ことになる.我々の意志が自律の原理に従えば,
か.カントは,意志の自由と自然必然性は一見矛
そこから道徳的法則が導出される.我々が感性界
盾するように見えるが,この矛盾から理性の弁証
と悟性界の両方に属する者であるからこそ,我々
法(a dialectic of reason)が生まれるとしている.
は幸福の原理を基にして感性にも触発されるがゆ
そしてカントは,思弁的目的のために使われる理
えに義務の概念が生まれるのである(pp. 156 ―
性は,自然必然性の道のほうがより容易く,また
157)
.
それを自由の道よりもより適したものとみなす
また,カントは,感性界と悟性界を区別するこ
が,しかし実践的目的のためには自由の小径こそ
とによって,我々の意志を規定する定言的命法の
が,我々の行為において理性を使用することので
「べし」が総合的命題である理由を明らかにした
きる唯一の道であると喝破している.従って,極
のである.その理由は,感性界に属するがために
めて巧みに構築された哲学も,人の極常識的な理
感性的欲求に触発される我々の意志に,悟性界に
性と同じように,自由を議論によって否認するこ
属する純粋な実践的意志(自律を原理とする意志)
とは不可能なのである.だとすれば,哲学は,自
が加わるためである.悟性界に属する意志は感性
然の概念も自由の概念も放棄できない以上,自由
界に属する意志を制限する最高条件を含むもので
と人間の行為の自然必然性との間には矛盾は全く
ある.感性界の現象に関するア・プリオリな総合
存在しないことを前提としなければならない.自
的命題は感性界の直感に悟性概念(カテゴリー)
由が如何にして可能なのかを我々は決して理解で
が付け加わることによって可能になるのと同じよ
きないかもしれないが,この矛盾は納得のいく形
うにして,感性界の意志に悟性界の意志が付け加
で排除されなくてはならない.何故なら,もし自
わることによって,感性界の意志を規定する定言
由の思想がそれ自体矛盾したり或いは自然必然性
的命法の「べし」をなすア・プリオリな総合的命
と矛盾するならば,自由は自然必然性との競争の
題が可能になるのである.
(pp. 158 ― 159)
なかで放棄されてしまうからである.カントはこ
カントは,人間はだれでも自分の意志は自由だ
のように述べているのである.(p. 162)
と思っているが,この概念は経験的概念ではない
では,この矛盾はどのように解決されるべきで
としている.自由とは理性の理念に過ぎないもの
あろうか.カントは,人が自然法則に従って行為
であり,その客観的実在性はそれ自体疑わしいも
をしていると考えるかぎり,この矛盾は解決され
のである.一方,生起するすべてのものが自然法
ないとしている.そこで,カントは,この矛盾か
則に従って決定づけられていることもまた必然的
ら脱することができなかった理由として,これま
であるが,この自然の必然性という概念も,必然
での思弁哲学の思い違いを指摘している.この思
性という概念を,従ってア・プリオリな認識とい
い違いは,我々が自然の法則に従うものとみなす
う概念を,伴っている.ただ,自然のシステムは
場合と,我々の意志が自由であるとみなす場合と
経験によって確認されるものであり,経験が可能
では,人間そのものを異なった意味と関係におい
であるならば,即ち感官の対象についての一般法
て考えていることに起因する.従って,思弁哲学
則に基づく結合された知識なるものが可能である
の避けることのできない課題は,この矛盾に関す
ならば,自然のシステムという概念は必然的に前
る幻想がこの思い違いに起因していることを示す
提されなければならない.自然とは経験の事例に
ことである.即ち,思弁哲学は,意志の自由も自
おけるその現実性が証明され,また証明されなけ
然必然性も共存し得るだけでなく,同じ主体のな
ればならない悟性概念なのである.では,人間の
かで必然的によく一致し得ることを示さなくては
意志が自由であることと,この世に生起するあら
ならないのである.もしそれができないならば,
ゆるものは自然法則に従うという自然必然性との
我々は,自由の理念が自然必然性と矛盾なく和解
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
107
できる可能性があるにも拘らず,何故に理性に自
規定するために,即ち理性が実践的であるために,
由の理念という重荷を負わせ,その理論的使用に
設定されたにしか過ぎない.しかし,悟性界は,
おいて理性を当惑させるような仕儀に巻き込むの
理念として,その体系が感性界の自然の体系(機
かがわからなくなってしまうからである(pp. 163
械的装置)とは異なる法則に基づくものであり,
― 164)
. しかし,カントは続ける.このように矛
物そのものとしての(また目的自体としての)理
盾があるからといって,我々は実践的哲学には限
性的存在者の体系的秩序である.そこでは我々の
界が課せられたと考えてはならない.何故ならば,
理性は,意志が従うべき普遍的法則を形式的条件
この矛盾についての論争なるものは実践哲学には
によってのみ立法し,それに自らが従うのである.
属さないからである.実践哲学はただ思弁的理性
これこそが実践理性であり,その原理は意志の自
に対してこの矛盾的不調和に終止符を打つことを
律そのものである.しかし我々は実践理性につい
要求するだけなのである.この終止符を打つこと
てこれ以上のことを知るものではない(pp. 167 ―
ができれば,実践理性は,自らが打ち立てたいと
168)
.
願う基礎を確保できるだろうからである(p.
164)
.
カントによれば,自由は理念であって,その客
観的実在性を自然法則によって(従って可能的経
人間が意志の自由を原因性として具有する存在
験によって)説明することも,それがどのような
であること,また感性界に属する者として自然法
ものであるのかを実例によって類推し理解するこ
則の必然性に従う存在であることの間にある矛盾
とも不可能である.しかし,意志を感性の影響を
について,カントは,両者には全く矛盾が存在し
排除して理性のみによって規定できると確信する
ないと言明するのである.感性界での我々の行為
者にとっては,自由は理性が置く必然的前提なの
は現象であり,それらは自然法則の必然性に従う
である.自由は,悟性界に属する理性的存在者が,
が,当の行為を為す人間それ自体が何であるかを
自らの意志を普遍的法則という形式によって規定
理解することは我々の能力を超越している.しか
するための概念であって,悟性界の体系が感性界
し,それ自体としての人間は理解の世界,すなわ
を説明する自然法則によって説明されるものでな
ち悟性界に属する存在であり,この存在は意志の
いかぎり,それは理念として弁護されなくてはな
自由を具有するのである.悟性界に属する我々そ
らない.我々は感性界に属する者としては自然法
のものは,理性を使用する存在であり,この存在
則に従うが,悟性界に属する者としては自然法則
は感性界での現象からは独立しているのであり,
に従わない者として(感性によって理性の原因性
その影響を受けないのである.実に,意志の自由
としての意志を規定しない者として)自由は守ら
が存在しなければ,悟性或いは理性の使用は不可
なければならない理念なのである(pp. 168 ― 170)
.
能であり,正に意志の自由とは理性使用の自由で
また,自由の理念を説明できないのは,どうして
あると言える.当然のことながら,悟性或いは理
我々が道徳的法則に関心を抱くのかを説明できな
性の使用は論理的でなければならない.すなわち,
いのと同じである.そうした関心は,我々の内部
理性の使用はすべての理性的存在者に妥当する普
に道徳的感情が最初から賦与されているから生ま
遍的法則に従ってなされなければならない.我々
れるのではなく,我々が普遍的法則によって意志
が意志の自由を具有する存在者であり続けるに
を規定するからこそその結果として我々の内部に
は,我々の行為は道徳的法則に基づいて為されな
発生する性質のものなのである(p. 170)
.
ければならないのである.ただ,悟性界という概
念について我々が何かを知っているわけではな
い.この概念は,我々が感性の影響を全く受けず
に,普遍的な法則のみに従う格律によって意志を
108
3.
結語―カントの「絶対的に善なる意志」
とアリストテレスの「エンテレケイア」
本論における道徳性の究明における最大の関心
事は,
はそのときそのときの状況によって変化するもの
であり,従って怜悧の命法もまた必然性を具えて
はいない.それらはすべて条件に左右される仮言
的命法でしかない.必然性を具えるものがあると
人間存在は自発的存在(即ち人間は自
すれば,それはあらゆる偶然性を排除したすべて
らの内にある原理によって自発的に行為し活動す
の人に妥当する法則のみである.この法則によっ
る存在)であり,従って抽象的存在であるこ
て意志を規定した場合にのみ,その意志から発す
と,
る行為が道徳的法則を満たすのである.そして,
我々の自発的活動はすべて他との繋がり
を介して為されるかぎり,我々の意志は普遍的原
普遍妥当的な法則によって意志を規定すべきであ
理によって規定されなければならず,それこそが
るとするのが定言的命法の指令である.
道徳性の根本的原因であること,特に
我々の
カントの道徳律は自律の原理に基づいている.
活動が益々豊かなものとなり,その本来の究極的
自律とは,あらゆる他律の原理を排除し自らの内
目的を達成するためには,我々相互の活動の繋が
なる理性的原理のみによって行為的意志を規定す
りを原理とする市場が必要であること,そし
ることである.従って,他律の原理をすべからく
て,
市場は道徳性の原理によって成立し,拡
排除する意味において,自律は自由の原因性以外
大しながらその究極的善に向かうこと,を明らか
の何ものでもない.そして,自律する意志は三位
にすることにある.市場は構造でもなければ,一
一体として表される.それは「自らが自らに立法
定の目的のための人為的装置でもない.それはま
する意志」であり,またそれは「自らの心意にお
さに,他との繋がりのなかで人間が自らの内にあ
いて普遍的法則に従う意志」であり,更にまたそ
る原理によって行為することから生まれる活動の
れは「すべての人を人格とみなして行為する意志」
自発的秩序である.この点を明らかにするために,
である.こうした三つの表現は互いに必要十分な
私は本論においてカントの道徳形而上学の体系を
関係にあり,従ってそれらは自律の原理を同義的
解明する作業を行ったのである.この体系を究明
三面によって表したものである.丁度,それらは,
する理由は,カントの道徳哲学こそが,人間存在
父なる神とイエスキリストと精霊が三位一体をな
の自発性と道徳性との関係を形而上学的に解明し
すのと似ている.また,一なる原理として人格が
た哲学だからである.
あり,人格は経験を通して自我という多を生み,
カントの「道徳形而上学原論」の最大の関心は,
この多の関係のなかから普遍性という概念に基づ
絶対に善なる意志の正体を余すところなく示すこ
く行為の原理が生まれると考えてもよい.こうし
とであった.このような意志が矛盾することはな
て人格が人格と見なされる人間関係・活動関係が
い,ここにカントの道徳哲学の出発点がある.自
生まれ,「目的の王国」という秩序の体系が生ま
己矛盾しない意志とは,矛盾を引き起こす条件に
れる.それは,「目的それ自体である人」と「一
左右されない意志のことである.そのためには,
人一人が自らの内から自発的に生みだす目的」が
意志は,自己矛盾の原因を徹底的に排除しなくて
織りなす総合的な秩序の体系である.カントは,
はならない.自己の経験はすべて偶然的なもので
自然界が必然的に自然法則に支配されているのと
あり,従ってそれに依拠する意志の規定は必然性
同じように,自らの内なる原理によって行為する
を具えることはできない.また,当然,経験に基
世界,即ち道徳性を旨とする人間存在が属する悟
づいて各個人が何を幸福と考えるのかも偶然的な
性界もまたそれ固有の必然的法則によって支配さ
ものでしかなく,それを求める意志規定にも必然
れていると考える.この悟性界は自由の原因性が
性はあり得ない.人々が,自らの幸福を追究しよ
支配する世界であり,それを支配する法則は,こ
うとして怜悧の命法に従うとき,その命法の内容
の法則が満たされれば,必ず道徳的行為が実現す
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
ることを約束する法則である.カントにとって,
109
求するが,悟性界に属する者としては自律の原理
「目的の王国」とは,悟性界に属する人間の目指
に従うことから義務の概念が生まれることを明ら
す自律の原理・自由の原因性にのみ基づく「理念
かにし,悟性界の純粋な自律的意志が,感性的欲
の王国」であり,我々が他律の原理を排除するか
求に触発される我々の他律的意志を,その最高条
ぎりにおいて実現することのできる理想の王国で
件によって制限するところから,ア・プリオリな
ある.我々が感性的存在であるかぎり,意志規定
総合的命題である定言的命法の「べし」が生じる
は経験に基づく幸福の原理によって影響を受け
ことを示したのである.こうした義務の理性的考
る.それがために「目的の王国」は簡単に実現す
察からカントは四つの原則を引き出している.そ
る秩序ではなく,それはむしろ理念として,道徳
れらは,人は人格であり物件ではないとする根本
的存在でありたいと願う我々の行為的世界に君臨
原理に基づいている.それらの原則は,第一に
するものである.我々はこの王国を目指すのであ
「虚偽の行為をしてはならない」
,第二に「己の命
る.人間は正に自由を理念とする道徳的存在なの
を自ら絶つことをしてはならない」,第三に「己
である.カントにおいては,自然界と悟性界が対
の能力を開発することなく放置してはならない」
,
置されている.自然はその秩序が自らの内にある
第四に「他人の幸福を促進することに努めなくて
原理によって支配されている秩序であり,従って
はならない」というものである.こうした原則は,
そこで起こるどの現象も,それを引き起こす先立
すべての人に妥当する普遍的原則であり,「目的
つ別の原因によって支配されている.反対に,悟
の王国」という理念の実現に資する原則である.
性界は道徳的行為の世界であり,それに属する理
また,それらは絶対的に善なる意志の原則でもあ
性的存在者が自らの理性によってあらゆる他律の
る.こうした義務は,抽象的に表現されてはいる
原理を排除し,普遍的法則に基づいて行為的意志
が,我々に行為の指針を提供するだけでなく,そ
を規定する世界である.道徳的法則はそれに従う
れらが果たされれば,理想である目的の王国は必
ことを我々に強制する法則ではなく,他律を廃し
ず実現するという確信と希望を与える.また,こ
理性のみによって自らが自らに立法するとき,立
うした原則は我々のすべてが参加する市場の秩序
法する意志が必然的に辿り着く法則である.我々
を根底から支えるものである.それは当然である.
人間の存在が自発的活動からなる生を生きる存在
市場では虚偽の行為は許されない.何故なら,そ
であるならば,そしてこの生は他との繋がりを介
のような行為は他人の活動・他人の目的追求を阻
して初めてその究極的な意義を実現するならば,
むからであり,従って自由な取引を旨とする市場
理性的存在者の意志は,絶対的に善なる意志であ
原理に矛盾するからである.そうした行為を為す
ることを目指すかぎり,かならず普遍的な法則に
者は信用を失い,活動の機会を制限される.能力
至る.この意志が条件によって左右されたり偶然
を開発する者は,開発された能力が市場において
的なもので満足することはないからである.この
多くの人々の活動を促進することをもって報わ
法則に至ったとき,こうした存在者は必ず定言的
れ,そうした開発を続けるよう期待される.また
命法によって己の意志を規定するのである.
市場を介する我々の活動は例外なく他の人々のニ
カントの道徳形而上学は,人間存在の自発性か
ーズに応える形を通して為されるため,それらは
ら道徳的法則が導かれることを示している.この
すべて他人の幸福に資する活動となる.他人のニ
形而上学は,普遍的法則という抽象的原理に基づ
ーズに応えない活動は市場では維持することがで
いているがために,内容がないとする批判は多い.
きず消滅するのである.当然のことながら,自ら
しかし,カントは,我々人間が悟性界と感性界の
の命と他人の命を同じように大切にすることなく
両方に属するがゆえに,我々の意志は感性界に属
して,市場は成立しない.何故なら市場は個人個
する者としては感性に触発されて自らの幸福を追
人の活動が織りなす経済活動の機会(取引の機会)
110
が生み出す秩序だからである.また,市場で価値
害する要因を排除し自発的取引の機会を拡大する
を有する財は,それらが将来どれだけ我々の幸福
ことによって互いの活動が幸福追求に資するよう
追求に資するかによって評価される.そして,財
に図る意味において,更にまた,自由な取引なく
の生産にかかる代償は,その財を生産するのに使
しては絶対に現実界の発展はないという意味にお
われる諸々の資源が他の財の生産に回されたと
いて,自由取引は市場経済の絶対的理念をなすも
き,それらは我々の活動にどれほど資するかによ
のである.この理念があるがゆえに,我々は法に
って計られる.価値も代償もすべて未来に向けて
よって自由取引を阻む障害を排除しようとするの
の我々の活動の価値によって計られているのであ
である.ここには自発的な取引は必ずそれに関わ
る.市場経済は,何かの具体的目的を達成するこ
る人々の幸福追求に資するとする根本的哲学が君
とを意図する制度ではなく,そのなかで自発的目
臨している.何故なら,個人には取引する自由も,
的を達成しようとする人々が自由に他の人々と取
取引しない自由もある以上,自発的な取引は両者
引することができる抽象的秩序なのである.市場
の幸福追求に資するかぎりにおいて成立するから
秩序が「目的の王国」の秩序と異なるのは,市場
である.こうした意味において,市場秩序という
秩序が,定言的命法に基づく道徳的行為だけでな
現実界は,我々が,自律によっても或いは幸福の
く,経験に基づく幸福の原理から導かれる怜悧の
原理という他律によっても,自らの意志を自発的
命法(格律)に基づく行為をも同時に含むからで
に規定することによって現実のものとする世界秩
ある.しかし,我々は怜悧の命法を許容しながら
序である.しかし,この現実界は,道徳的法則の
も,その命法に基づく行為が他人の幸福追求を阻
存在なくしては存在することができない半悟性
害しないよう,それを法によって制限し,或いは
的・半感性的な世界であり,本来の自由の理念な
また実際に危害が発生した場合には法に基づいて
くしては,その進むべき方向を見失う世界である.
それを罰するのである.このようにしてみると,
そこでは,他律をすべて排除するという意味での
我々は,カントの悟性界には「目的の王国」とい
カントの自由は,公正を旨とする法(即ち,すべ
う秩序があり,感性界と悟性界の両方に属する
ての人に妥当する法)以外には誰からも制約を受
我々人間にとっては現実界ともいうべき「市場の
けることなく取引することができるという意味で
秩序」が存在することを知ることになる.この現
の自由へと転換するが,このように転換はしても,
実界を崩壊から守るのは当然のことながら道徳的
本来の自律的自由は我々にとって灯台の光の如く
法則に基づく行為であり,先に述べた四つの義務
理念的指針であり続けるのである.
である.何故なら,それらが微塵も守られないよ
うな市場秩序はもともと秩序として存在し得ない
最後に,「person」の概念に触れておきたい.
「person」は人格と訳されるが,この訳は適切で
からである.道徳的法則或いは義務の遵守が市場
はないと私は考えている.何故なら,person と
秩序の存続に絶対に不可欠である意味において,
いう概念は,神にも,イエスキリストにも,人に
カントの意味する原因性としての自由は,市場秩
対しても,或いは理性的存在者一般にも使われる
序の理念でもある.市場は参加したい者すべてが
からである.本来,person という語の内容を見
参加することのできる取引の場であり,この取引
ても,そこには人という言葉は含まれてはいない.
は自由を原則として為される.無論,ここでの自
そこにあるのは,per という言葉と son という言
由は,すべての他律を廃して意志を規定する意味
葉だけである.per は英語では through を意味し,
での「自由の原因性」のことではないが,互いに
son は sound(Latin 語で sonus,音,響く)を意
己の利益を促進するために自発的に取引をすると
味する.従って,person とは sound through する
いう意味で,この自由は市場経済秩序を支える根
ことを,また sound through する主体・存在のこ
本原則であり,また,互いの利益追求・取引を阻
とを意味する.即ち,person とは,自らの内に
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
111
ある原理による活動が響きわたることを意味する
どちらの道を進むのかを選択しなくてはならな
言葉なのである.神は自らの活動を自らの原理に
い.また,この活動を行うためには非理性的存在
基づいて行う存在であり,イエスキリストもまた
者が必要であることもアリストテレスは指摘して
自らの活動を自らの原理によって行う存在であ
いた.我々が自らの活動に必要とする非理性的な
り,人もまた自らの活動を自らの原理によって行
存在物は我々にとって資源である.我々はこうし
う存在である.人は神のイメージによって創造さ
た資源を介した活動によって,究極的な目的を目
れたと言われるとき,person という概念は正に
指すのである.Person という概念は,自らの内
そのイメージを代表する概念である.person は
にある理性的原理に即して完全現実態となって活
状態を意味する言葉ではなく,活動そのものを意
動する理性的存在者の概念に通じる.カントが人
味する言葉である.活動とは,ここにいて響きわ
は人を person とみなさなければならないという
たる活動であり,これほど確かなものはこの世に
のは,person が自らの内にある原理による自発
は存在しない.アリストテレスは,「形而上学」
的活動によってその存在を鳴り響かせる存在だか
第九巻において,活動と運動を明確に区別してい
らである.人がこのような存在であるとき,我々
た.運動の原因は自らの外にあり,活動の原理は
に人を物件とみなすことが許されるわけがない.
自らの内にある.活動するものは,活動によって
カントにとっては,理性のみによって自らに立法
現実態となる(そこに活動する存在となって現れ
する意志,普遍的法則によって自らを規定する意
る).そして,原理を内に持つ活動はすべて「よ
志,そして人を person とみなす意志の三者は同
りよく活動する」ことを目指すのであり,その究
じ意志の同義的三面なのである.その中核に理性
極的目的は,活動の目的が活動そのものに現在し
的存在者という概念が,理性という理念を掲げて
ているような活動を行うことである.こうして現
かまえている.カントはこの人間の実践理性とし
れた活動態(現実態)こそが,完全なる活動態
ての意志の構図を自律という概念で総括している
(完全現実態)である.Person を活動する主体或
のである.
いは活動そのものと解せば,person の究極的目
我々人間は多くの行為の繋がりを介して活動的
的は,活動の目的が活動そのものに現れる活動を
生を生きる.一つ一つの行為は個別的な事柄に関
行うことである.神の活動の目的は神の活動のな
わりながら資源を介してその目的のために為され
かに一体となって現れ,イエスキリストの活動の
る.多くの行為から成り立つ活動もまた何かの目
目的はこの救世主の活動のなかに一体となって現
的のために為される. 活動も行為も,有形無形
れる.そして人である我々は,未だ完全活動態と
を問わず,目的として何かを生み出す生産的行為
なって活動するに至っていなくても,それを目指
である. このとき,行為と活動において,結果
して活動する活動態であり,それが我々の活動的
として生産されるものとその生産に必要な手段と
生の目指す第一原理なのである.活動態としての
を結びつけなくてはならない.さもなければ,期
活動は,理性的存在者としての活動である.何故
待する生産物は得られず,活動は無為に終わるか
なら,理性的存在者でなければ,活動の原理を自
らである.この生産されるものと生産手段の関係
らの内にもつことはないからである.アリストテ
は自然必然性に基づく因果の関係である.我々の
レスは,非理性的存在者(存在する原理を自らの
活動が必ずこうした因果の関係に基づくとすれ
内にもたないもの)と理性的存在者を,また可能
ば,自然必然性による因果関係は我々の活動を根
態と現実態を区別していた.我々人間は理性的存
底から支えるものである.アリストテレスが,理
在者であり,その目的は理性的原理に即して活動
性的存在者の活動には非理性的存在物の存在が必
し,完全現実態となって活動することである.そ
要であると述べるとき,理性的存在者が生産する
のとき可能態である人間は,理性的原則によって
ものと,生産手段として利用される非理性的存在
112
物とを結びつける関係は,主観によるものではな
が,自然必然性に基づく因果の世界がなければ
く,自然必然性に基づく客観的な因果関係でなく
我々の活動は成立しない.活動が成立しなければ,
てはならない.しかし,同時に,我々が社会的存
アリストテレスが述べている活動的生の究極的目
在であるならば,こうした活動はすべて他の人々
的である完全現実態を実現することはできない.
との関係性のなかで為され,そしてこの関係性は
活動の原理は活動する主体の内にある.そして,
取引という形態を通して実現する.従って,活動
活動はよりよく活動することを目指し,その究極
にはこの関係性を意識した意志規定の形式が必要
的目的は,活動の目的が活動そのものに現在化す
である.カントは,本論で詳細にわたって吟味し
る活動を行うことにある.活動が自らの内にある
たように,「道徳形而上学原論」において,道徳
原理によって為されるならば,活動する主体の意
的法則は形式である,と述べていた.道徳的法則
志は,主体(意志そのもの)の内にある原理によ
はあらゆる限定条件を超えた普遍的法則でなくて
って規定されなくてはならない.主体の内にある
はならない.そうであれば,それは,具体的内容
原理とは理性の原理のことである.こうして見る
をすべて排除した形式によってのみ表される.ま
と,我々人間が活動的生の究極的目的を追い求め
た,カントは人間は感性界に身を置く存在として
るためには,自然必然性と道徳的必然性の両方が
は感性に触発されるが,悟性界に身を置く存在と
必要なのである.カントは,感性界からの触発が
しては理性に基づく立法によって道徳的行為を発
なければ,悟性・理性の能力はただそこにあるだ
現させる主体であると述べていた.更に,カント
けで機能するものではないと述べているが,それ
は,悟性或いは理性は,感性からの触発がなけれ
と同じように,実践理性は,我々が,感性界に身
ば,それだけで作動することもないと述べている.
を置く者として行為しようとしなければ機能しな
ここにカント道徳哲学の要諦がある.即ち,我々
いのである.我々の悟性には世界を規則的に理解
人間が,感性界に身を置き,自然必然性による原
し構築する力が,そして理性には世界で起こるこ
因に基づく因果の関係が成立している世界におい
との原因を追究する力が具わっている.また,
て活動することがなければ,自身の意志を道徳的
我々には,己の行為や活動を理性的原理に即して
法則によって規定する必要は全くないのである.
行う能力も具わっている.更にまた,我々は,他
最初にあるのは,我々の活動であり,この活動が
の人々とどのように関わるのかを決める上で決定
社会において為されるという事実が,我々をして
的に重要な役割を果たす実践的理性の能力も具え
他の人々の活動への関わり方を意識させるのであ
ている.しかし,アリストテレスが「形而上学」
る.そして,道徳が法則となるためには,そのと
第九巻で語る如く,我々は視る力が具わっている
きそのときに関わる人だけを意識して意志を規定
から見るのではなくて,見ようとするから見える
するだけでは不十分なのである.そのような意志
のだということにこそ活動の真理があるとすれ
規定の在り方は相対的であり,条件に左右される
ば,我々は,悟性や理性の能力があるから,感性
いいかげんなものである.直接関わる目に見える
界に触発されて思考し,現象についての知識を構
人から遠く間接的に関わる目には見えない人にま
築し,現象の原因を追求するのではなく,現象界
で意識を及ぼし,更には,過去から現在そして未
について思考し知識を構築したいからこそ,悟性
来へと繋がるあらゆる人々を意識して,すべての
や理性の能力が発揮されるのである.また,我々
人に妥当する普遍的法則によって規定するという
は,理性の能力があるから,それによって意志を
ことがなければ,道徳的法則は,道徳的行為を発
規定するのではなくて,理性によって意志を規定
現させる悟性界の自然法則にはなり得ないのであ
したいからこそ,意志規定において理性は立法す
る.
る力を発揮するのである.思弁的理性においても,
我々は,経済社会秩序という現実界に身を置く
実践理性においても,現象について知ろうとする
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
113
意志,行為において無条件的に自らの意志を規定
態であり,完全な活動を目指さない意志には絶対
しようとする意志が先行する.カントが「絶対的
的に善なる意志は不必要だからである.アリスト
に善なる意志」を道徳哲学の根底に置くとき,そ
テレスが,人は視る力があるから見るのではなく,
れは絶対的に善であろうとする意志のことであ
見ようとするから見るのである述べるとき,「見
り,常によりよい善であることを望む意志である.
る」という活動は,視力と見る対象だけを介する
意志の原理はその内にある.そうであれば,意志
のではなく,その中心には見ようとする意志があ
はこの原理によってよりよい意志であることを目
るのである.考えることにおいても,人は考える
指すのであり,それは究極的に最も善なる意志と
力があるから考えるのではなく,考えようとする
なることをもって完成する.
から考えるのである.考えるという活動には,考
アリストテレスは人の存在の第一原理(究極的
える力と考える対象がなくてはならないが,その
原理)を完全なる活動態に置いていた.それは,
中心にはやはり考えようとする意志があるのであ
活動の原理が活動する主体の内にあるならば,活
る.また,意志によって「見る」
,
「考える」とい
動はすべてよりよく活動することを目指すからで
う活動には,既にその目的が現在化しているので
ある.活動は諸々の行為の繋がりから成り,行為
あり,それらには「よりよく見る」
,
「よりよく考
はすべて意志の決めることである.そうであれば,
える」という原理が貫徹している.このことは,
アリストテレスが述べる完全活動態の原理は完全
より一般的には,「意識する」という活動におい
なる意志の原理を必要とする.このようにして,
ても言えることである.我々が意識するのは,意
アリストテレスの倫理学の原理とカントの道徳哲
識する力があるからではなく,意識しようとする
学の原理は根底において根を等しくする原理であ
からである.意識する力と意識する対象がなけれ
ることがわかる.活動は自然必然性に基づく因果
ば意識は成立しないが,中心にあるのは意識しよ
の関係の上に成り立つが,意志がどのような活動
うとする意志であり,意識の原理は「よりよく意
をどのような仕方で行うのかは,意志以外の原因
識する」ことにある.意識は能動的活動或いは超
によって自然必然的に決まるのではなく,それは
越的活動であると言われるのはそのためである.
道徳的必然性に基づいて意志自らに具わる原理に
主体性に貫徹された人間にとって,思弁的理性で
よって決められなくてはならない.カントの用語
あろうと実践的理性であろうと,それらはすべて
を使えば,完全活動態の原理は,感性界と悟性界
我々の意識活動である.思弁的理性は「よく考え
にまたがっているのである.また,カントの道徳
よく知る」という原理に基づき,実践理性は「よ
的哲学の原理は,カント自身が,感性界からの触
く考えよく行為する」という原理に基づいている.
発がなければ,悟性だけでは何事も決まらないと
この原理によって我々人間は,知ることにおいて
述べているように,感性界を介する活動がなけれ
も,行為することにおいても,人間存在の究極的
ば,悟性界はその役目を果たすことができないこ
原理である完全現実態を目指すのである.先に述
とから出発している.このようにして,己の活動
べた person の概念には,こうしたすべてのこと
的生をできるだけ完全なものにしたいと思い,他
が含まれている.person は意識する主体である.
の人々の人格を尊重し誠意をもって己の行為的意
我々が,すべての人を person とみなして己の意
志を規定することのできる絶対的に善なる意志で
志を規定しなくてはならないのは,person こそ
あろうとする意志と,理性的原理に即して活動す
がその内なる原理によって己の可能性を開示し,
る活動態の意志は,同じ絶対的意志を二つの側面
それによって実在性を獲得するからである.
で捉えたものである.そして,前者は後者を必要
カントは「純粋実践理性批判」において,「純
とし,後者は前者を必要とする.何故なら,絶対
粋実践理性の分析論」と題する第一篇のなかで,
的に善であることを望まない意志は不完全な活動
このように展開された道徳性の原理を幾つかの定
114
理と課題に整理して提示している.この分析論の
参考文献
目的は,我々の純粋理性は如何なる他律的原理に
1. Aristotle. Metaphysica, translated by W. D. Ross. In
も依拠することなく,それ自体で意志を規定し得
ることを証明することである.まず,カントは,
我々が理性によって自らの意志を規定する場合に
生じる実践的原則(規則)を二種類に分類する.
The Basic Works of Aristotle, edited by Richard
McKeon. New York: Modern Library, 2001.
2. アリストテレス,『形而上学』(上下), 出隆訳, 岩
波文庫, 2005 年.
3. Aristotle. Ethica Nicomachea, translated by W. D.
これらの原則は目的を実現するための手段を指定
Ross. In The Basic Works of Aristotle, edited by
するという意味において理性の所産である.意志
Richard McKeon. New York: Modern Library, 2001.
規定の条件が主観のみに妥当する場合には,実践
4. アリストテレス,『ニコマコス倫理学』, 朴一功訳,
的原則は主観的原則であり格律と呼ばれ,この条
件がすべての理性的存在者に妥当する場合には,
実践的原則は客観的原則となり実践的法則と呼ば
れる.意志が理性だけではなく感性的動因にも影
京都大学学術出版会, 2002 年.
5. Barry, Norman. The Tradition of Spontaneous Order,
Literature of Liberty, Vol.V, no.2, 1982, pp.7 ― 58.
6. Hayek, Friedrich A. The Contsitution of Liberty.
London: Routledge, 1960; reprinted 1999.
響される場合には,実践的規則(格律であれ実践
7. ハイエク, 『自由の条件, Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ』, 気賀健三, 古
的法則であれ)は命法となる.命法は,意志が所
賀勝次郎訳, 春秋社, 発版第一刷 1986 年, 新版第一
定の目的を実現するために規定されるか,さもな
刷 2007 年.
くば目的を全く無視して意志が意志として規定さ
8. Hayek, Friedrich A. Law, Legislation and Liberty,
れるかのどちらかである.前者の場合の命法は仮
Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ. Chicago, IL: The University of Chicago
言的命法と呼ばれ,後者の場合の命法は定言的命
法と呼ばれる.道徳性についての最大の関心事は,
我々の理性が自ら意志を規定するに十分な根拠を
Press, 1973, 1976, 1979.
9. ハイエク,『法と立法と自由,Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ』, 矢島鈞
次, 水吉俊彦訳, 春秋社, 発版第一刷 1987 年, 新版
第一刷 2007 年.
自らのうちに含んでいるかどうかということであ
10. Heidegger, Martin. Being and Time, translated by
る.(K, pp. 48 ― 50) カントは,ここで,「道徳形
John Macquarrie and Edward Robinson. Oxford:
而上学原論」で展開された内容を踏まえて,道徳
性の問題を四つの定理,一つの系,二つの課題と
して提示している.私は,この論文の第二部にお
いて,これらの内容を更に追求し,カントの実践
理性批判が示す道徳的秩序を今一度明快に把握
し,カントの道徳哲学と市場経済秩序という現実
Blackwell Publishers Ltd., 2001.
11. ハイデガー,『存在と時間, Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ』, 原佑, 渡邊
二郎訳, 中央公論社, 2003 年.
12. Kant, Immanuel. Grundlegung der Metaphysik der
Sitten, 1785.
13. Kant, Immanuel. Fundamental Principles of the
Metaphysic of Morals, translated by Thomas
界の関係を解明する作業を更に進行させたいと考
Kingsmill Abbott. Available at: http://www.guten-
えている.我々人間とはどのような存在であり,
berg.org/cache/epub/5682/pg5682.html and
どのような原理に基づいて己の行為的意志を規定
http://www.archive.org/stream/cu31924029021612
するのか,そしてこの意志規定の原理と市場経済
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の原理はどのように繋がっているのかを解明する
14. Kant, Immanuel. Groundwork of the Metaphysics of
ことは,市場秩序という現実界の秩序を理解する
Morals (1785), translated and edited by Mary
上で最も重要な作業だと思うからである.
Gregor. Cambridge, UK: Cambridge University
Press, 1998.
15. Kant, Immanuel. Kritik der praktischen Vernunft, 1788.
Available at http://www.IntraText.com/IXT/DEU0024
/_INDEX.HTM
16. Kant, Immanuel. The Critique of Practical Reason,
早川:経済社会秩序と人間存在の自存性
translated by Thomas Kingsmill Abbott. Available at:
http://www.gutenberg.org/cache/epub/5683/pg568
3.html
115
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leibniz/monad.htm.
24. Leibniz, Gottfried W. Discourse on Metaphysics and
17. Kant, Immanuel. Kritik der reinen Vernunft, 1781
the Monadology, translated by George R.
(First Edition). Available at: http://www. IntraText.
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com /IXT/DEU0058/
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18. カント,『道徳形而上学原論』, 篠田英雄訳, 岩波
文庫, 1960 年.
19. カント,『純粋理性批判』(上中下), 篠田英雄訳,
岩波文庫, 1980 年.
20. カント,『実践理性批判』, 波多野精一, 宮本和吉,
篠田英雄訳, 岩波文庫, 1979 年.
25. ライプニッツ, 『モナドロジー・形而上学序説』,
清水富雄, 竹田篤司訳, 飯塚勝久,中央公論新社,
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26. Menger,Carl. Principles of Economics, translated
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introduction by F.A. Hayek. New York: New York
21. Leibniz, Gottfried W. Theodicy: Essays on the Justice of
University,1976 and 1981. The first printing in
God and the Freedom of Man in the Origin of Evil, in
German, 1871. The 1976 version is available at:
Three Parts (1710), translated by E. M. Huggard,
http://mises.org/resources.aspx?Id=34a9969a-118f-
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4992-a098-b8f8ac573d74
November 2005.
22. Leibniz, Gottfried W. Discourse on Metaphysics
(1686), available online at http://www. anselm.edu
27. Simon, Herbert A., A Behavioral Model of Rational
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28. Simon, Herbert A., Model of Man: Social and
(unknown provenance). Translation by Jonathan
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Bennett is also available online at: http://www.early-
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moderntexts.com/pdf/leibdisc.pdf.
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23. Leibniz, Gottfried W. The Monodology (1968),
translated by Robert Latta, available online at:
29. Saint Augustine, City of God, translated by Matcus
Dods. New York, NY: The Modern Library, 1993.