偶 感 二 題

偶 感 二 題
仰げば尊し
依田 昌三
分かれ目」だと思っている人も多いという。歌詞の意味
が十分理解されているとはいえないようだ。
ほかにも「仰げば尊し」が敬遠された理由としては、
教え子に恩を売るような歌を教師が生徒に歌わせるのは
厚かましいとか、
「身を立て名を挙げやよ励めよ」という
歌詞が立身出世主義的だと一部の父兄に攻撃されたから
だとも言われる。さすがに最近はそうしたかたよった考
え方をする人は少なくなったようだが……。
なぜ私は「仰げば尊し」が好きなのだろうか。特別に
楽しい学校生活を送ったわけではない。それどころか、
殴られたりして悲惨な毎日であった。おとなしく言われ
この三月学校を卒業した若い人たちは、新しい学校や
は校歌と「仰げば尊し」
、
「蛍の光」の三点セットが定番
たとおりにしていないと、反抗的ということで殴られる
義に凝り固まっていたので、事あるごとに罵倒されたり
であったが、最近は「仰げば尊し」に替わって「旅立ち
のだからたまったものではない(この教師は敗戦後たち
小学校五、六年生の時は担任の教師が国粋主義・軍国主
の日に」や「贈る言葉」などの新しい歌の方が好まれて
まち熱烈な民主主義者に変身して世間の嘲笑を浴びたが)
。
職場で元気にやっているだろうか。卒業式といえば嘗て
いると聞いて「仰げば尊し」が好きな私は残念に思って
それでもこの歌を聴くと涙腺が緩むのは、もう帰らない
卒業式で、金髪のアメリカ人留学生が「仰げば尊し」
幼少期への感傷であろうか。
いた。
しかし、今年はアンジェラ・アキが各地の中学校で開
いた「手紙~拝啓十五の君へ~」の演奏会で「手紙」の
を歌いながら涙を流しているのを見たとお茶ノ水女子大
明治十年代に編纂された小学唱歌に載っている古臭い文
前に必ず「仰げば尊し」を歌っていたので存分に聞くこ
「仰げば尊し」があまり歌われなくなった理由の一つ
語体の歌で、特別美しい旋律やリズムを持っているわけ
学の藤原正彦教授が書いているのを読んだことがある。
は、文語調で難しい言葉が多く意味がわからないからと
でもない。それでもこの歌には老翁や紅毛碧眼の外国人
とが出来て満足した。
いうことのようである。何しろ小学生のときから聞き覚
の心も揺さぶる不思議な力があるような気がする。
っていたが、アンジェラのテレビ番組で「いと疾し」と
物館で開催されていた「国宝阿修羅展」が閉幕した。六
六月七日、興福寺創建千三百年記念と銘打って国立博
阿修羅のひげ
えで歌っていて、歌詞の意味などあまり教わったことが
ないから無理もない。現に私も「思えばいととしこの年
字幕が流れているのを見てやっと正解にたどりついた始
十一日間の会期中の入場者数は日本美術の展覧会として
月」の「いととし」は「幾年」の古い言い方だろうと思
末である。若い人の中には「今こそ別れめ」は「今こそ
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たのも当然であろう。特に阿修羅像は、史上初めてガラ
との出来ない寺宝も沢山が展示されたから、人気を集め
八部衆像や十大弟子像などの国宝を始め、普通は見るこ
は史上最多の九十四万人あまりというが、阿修羅を含む
集がいろいろ出ており、モノクロでは目立たなかったひ
ていた頃が懐かしい。今は素晴らしい大判のカラー写真
像・イコノグラフイー」を頼りに仏像の観賞をしたりし
伝えてくれていた。やはりモノクロの岩波写真文庫「仏
仏像の観賞手引きもたくさん出版されていて、専門的
げもはっきり写るようになって悲喜こもごもである。
いう展示方法にしたというから人気が沸騰したのもうな
で詳しいものも少なくない。しかし、仏像の種類、姿勢、
スケースなしで、三六〇度、どの角度からも見られると
ずける。是非拝観たいと思ったが、拝観券を買うにも一
降魔の大役が果たせないのだろうか? 阿修羅という完
衣裳、持ち物、印相などの解説が主体で、残念ながらひ
璧な造形美を作り出した天才仏師が、いらないものを付
時間以上行列しなくてはならず、入場すれば入場したで
上野へ出かける代わりにいくつか図版や写真集を買っ
げについての記述は見つからなかった。いったい阿修羅
て眺めることにしたが、ある日阿修羅像に「ひげ」があ
け加えるはずが無いから、この「ひげ」には深い意味が
立錐の余地もないくらい混んでいると聞いて、体力に自
ることを発見してショックを受けた。あまり長いもので
あるのではないかと思い、いつかそのなぞが解けるのを
にとってひげは不可欠なものだろうか? ひげ無しでは
はないが下唇の両端と中心の下に黒々と「どじょうひげ」
楽しみにしている。
信のない私は諦めた。
か「なまずひげ」のようなものが描かれている。
国立博物館の喧騒を避け、図版によって阿修羅像と差
であった。少し暗い感じではあるが、軽く下唇を噛んで
学生時代を関西で過ごした私は、地の利を生かして
何かに耐えているような様子が正面の像の明るい凛々し
し向かいの時間を作るつもりが、とんだ謎解きに明け暮
うか。それとも、像を美化するために、見てはいけない
さとは違う魅力を持っていてすばらしい。阿修羅展は東
時々古いお寺や仏様の拝観に出かけた。興福寺へも何度
ものを見たようにひげを意識から払い落としていたのだ
京の閉幕後七月から九月まで九州へ行く予定と言う。晩
れてしまった感がある。しかし正面から見て左側(阿修
ろうか。三面六臂の異形ながら、細く長い腕が巧みに組
秋か初冬か、涼しくなって過熱も収まったころ奈良へ出
羅像にとっては右側)の像の美しさを発見したのは収穫
まれて違和感が無く、軍神というよりは純真清楚な美少
かけて、新発見の右側面を実物でゆっくり拝観したり、
たのは、ガラス越しの上明るさも不十分だったせいだろ
年である。ひげはあまり似つかわしくなく、違和感を感
ひげの様子をもう一度確かめてみたいと思う。
も行って、阿修羅も拝観しているがひげに気づかなかっ
じずにはいられない。阿修羅展に便乗して新聞広告など
(個人会員)
にも阿修羅の写真が氾濫したが、ひげが目立たないよう
に撮った写真が多いが、ここにもひげが無い方を佳しと
する人々の気持ちが反映されてしているような気がする。
昔は古寺や仏像の写真はほとんどモノクロで、入江泰
吉や土門拳の作品は実物を離れて別の芸術的な雰囲気を
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