特集 脳脊髄液・血液バイオマーカーの現状と今後の課題 - 笑顔とこころで

認知症に取り組む人々の輪を支える温かな心
【スプリングマインド】
2011 no.6
医療法人財団友朋会 嬉野温泉病院﹁目指すは、
家よりも快適に過ごせる治療空間﹂
特集 脳脊髄液・血液バイオマーカーの現状と今後の課題
認知症フィールドワーク
﹁認知症の治療﹂
Ring a Bell
紐解き・認知症研究
﹁糖尿病は認知症発症のリスクになるか﹂
認知症治療の今を知る
脳脊髄液・血液バイオマーカーの現状と
脳脊髄液を検査することによって軽度認知障害(MCI)の段階から 80 ∼ 90%の確率でアルツハイマー
病を診断できることが明らかとなってきました。アルツハイマー病におけるより正確な評価基準を確立す
るため、現在 J-ADNI(Japanese Alzheimer's Disease Neuroimaging Initiative)という大
規模多施設研究が日本でも行われています。本稿では、アルツハイマー病のバイオマーカーとして期待さ
れる脳脊髄液中のアミロイドβとタウタンパクについて解説します。
弘前大学大学院医学研究科脳神経内科学講座 教授 東海林幹夫
(しょうじ みきお)
1980 年群馬大学医学部医学科卒業。同大学医学部神経内科講師の後、1991 年米国ケースウェスタンリザーブ大学
留学。2001 年岡山大学大学院医歯薬学総合研究科神経病態内科学助教授を経て、2006 年より現職。1993 年サン
ド老化および老年医学研究基金受賞。専門分野は臨床神経内科学、内科学、脳血管障害、認知症。
軽度認知障害(MCI)の段階でも
アルツハイマー病の診断が可能に
日本だけでなく先進各国やアジア諸国で高齢化が進ん
髄液中のアミロイドβとタウタンパクです。
患者の脳に老人斑を形成するアミロイドβ
でおり、それにともなって認知症の患者数も増加してい
アルツハイマー病に特有の脳の変化に老人斑の形成が
ます。認知症の患者数は世界で約2500万人、日本では約
あります。これは脳の神経細胞の外側にアミロイドβと
220万人と推計されています。アルツハイマー病は認知
いうタンパク質が蓄積し凝集したものです。
症患者の約半数を占めますので、世界で1千万人、日本で
は百万人を超えていることになります。
老人斑からアミロイドβが発見された当初は、アミロ
イドβは異常代謝によって生成されるタンパク質だと考
アルツハイマー病については分子病態の研究が国際的
えられていました。ところが、その後の研究によりアミ
に急ピッチで行われており、根本治療薬の開発も進んで
ロイドβは神経細胞の細胞膜にあるアミロイド前駆体タ
いますが、現時点では治すことができない病気です。し
ンパク( APP)が2種類の酵素によって切断されて生成さ
かしながら、症状の進行を薬物治療等によりある程度抑
れる物質(図1)であり、健常者にも普通にみられるもの
制できるようになりました。一方で、認知症の中には治
であることがわかってきました。ただし、健常者の脳で
るタイプの認知症もあります。そのため、どのタイプの
はアミロイドβはすぐに分解されてしまうため、脳に蓄
認知症なのかをできるだけ早期に鑑別することができれ
積することはありません。
ば、適切な治療がより早期に開始できるのです。
アミロイドβもしくはその前駆体が生体内でどのような
認知症の診断はMMSEや長谷川式簡易知能評価スケー
働きをしているのかはまだ明らかになっていませんが、
これ
ル(HDS-R)などの神経心理検査で認知機能を評価し、さら
が脳内に蓄積し凝集するとシナプスの情報伝達を阻害し、
記
に血液検査やCT、MRI、PETなどの画像診断を行って原因
憶障害を引き起こすのではないかと考えられています。
となる病気を特定するという手順で行われています。
ただ、このようにして診断できるのは、すでに認知機
脳内で生成されたアミロイドβは、
通常6時間ほどで脳脊
髄液中に移行し、
2日以内に代謝されます。アルツハイマー
能の低下が認められる患者であり、軽度認知障害( MCI:
病に罹患し、
アミロイドβが脳内に蓄積するようになると、
Mild cognitive impairment)の段階ではアルツハイマー病
その分、
脳脊髄液中に移行するアミロイドβの量が減少し
か否かを鑑別することはできません。しかし、MCI段階以
ます。その変化量を確認することで、
アミロイドβがバイ
前からでもアルツハイマー病の発症予測を可能とするバ
オマーカーとして使えるのです。正確に言うと、
何種類か
イオマーカーとして世界標準となりつつあるのが、脳脊
あるアミロイドβのうち、
42個のアミノ酸からなるAβ42
2
今後の課題
の値は減少し、
アミノ酸40個からなるAβ40の値は少し上
図1 老人斑の形成
昇することがわかっています。
タウタンパクがリン酸化され凝集したのが
神経原線維変化
アルツハイマー病患者の脳では、老人斑に加えて神経
神経細胞の細胞膜を貫いて存在
しているAPPというタンパクが
「はさみ」の役割をする2種類の
酵素により、図のように2カ所で
切断されることでアミロイドβ
ができる。これが神経細胞の外
側で凝縮・蓄積し、老人斑を形成
する。
老人斑
原線維変化が認められます。これは、物質輸送に関与す
る微小管の部品であるタウタンパクがリン酸化されて微
β-セクレターゼ
小管から遊離し、神経細胞の軸索に凝集したものです(図
アミロイド β
2)。アミロイドβによる老人斑が細胞の外に形成される
のに対して、神経原線維変化は細胞の中に形成され、やが
て神経細胞を死滅させるため、様々な認知機能障害を引
き起こすのではないかと考えられています。また、神経
細胞が破壊されることによって、リン酸化タウが脳脊髄
γ-セクレターゼ
液に出現します。
3
アルツハイマー病のバイオマーカーとしては、
「 リン
断感度は81%、
特異性は87%と報告されています2)。
酸化タウの値」、
「 リン酸化されていないタウも含んだ総
その後、世界各国で行われた研究でも、総タウとアミロ
タウの値」のどちらか、もしくは両方が使われます。但
イドβによる診断感度は最も低い研究で59%、最も高い
し、アルツハイマー病に特有なのは「リン酸化タウ」の方
ものでは97%、特異度は80∼90%という結果が得られて
です。総タウの値は、脳梗塞などが原因で脳の神経細胞
おり、
2004年ごろまでにアルツハイマー病の臨床診断に
の一部が破壊された場合にも上昇するため、アルツハイ
おける脳脊髄液バイオマーカーのエビデンスは、ほぼ確
マー病に特有ではありません。しかし、アミロイドβや
立されたと言えるでしょう。
他の検査結果と組み合わせれば、総タウの値でもアルツ
さらに2004年から、アルツハイマー病の早期診断と
ハイマー病のバイオマーカーとして役立てることがで
発症予測のエビデンスをめざす国際的な共同研究、ADNI
きます。
( Alzheimer s Disease Neuroimaging Initiative)が始まり
2004年にはアミロイドβとタウがアルツハイマー
病のバイオマーカーとして有用であることを確認
ました。米国で実施されたUS-ADNI研究の結果から、脳
脊髄液のAβ42が最も感度の高いアルツハイマー病バイ
オマーカーであることがわかりました。また、総タウ/A
1991年、脳脊髄液中にアミロイドβが発見されました
β42比でみると、診断感度は86%、特異度は85%と報告さ
が、同じ頃にタウも脳脊髄液中に出現することが報告さ
れています。ANDI研究でも、1年以内にアルツハイマー
れ、これらがアルツハイマー病の臨床診断のバイオマー
病を発症した37例のMCIのうち33例(89%)で総タウ/Aβ
カーとして使えるのではないかという研究が始まりまし
42比が上昇していました3)。
た。1998年に世界初の大規模多施設追跡調査が日本で行
ADNI研究報告から、脳脊髄液中のアミロイドβ値は
われました。この調査では、総計236例において脳脊髄液
MCIより遙かに前から変化がみられ、その蓄積は40歳代
中の総タウ、
Aβ40、
Aβ42を測定し、その診断感度や特異
から始まっていることがわかります。
性を検討しました。その結果、
アルツハイマー病の診断感
アミロイドβの蓄積の次に変化するのはFDG-PETや
度は71%、
特異度は83%となり、
継続的な追跡調査におけ
MRIで観察可能であるシナプス障害、その次に動きがある
る診断感度は91%まで高くなることが明らかとなりまし
のがリン酸化タウの蓄積です。
た1)。さらに総計507例まで検討を継続した結果、その診
タウの蓄積がある程度進んだ段階で、
MCIと判定できる
程度の認知機能の低下がみられるようになることから、
図2 神経原線維変化
アミロイドβとタウは早期診断と発症予測のバイオマー
微小管
カーとして非常に有用であることがわかります。
アルツハイマー病の根本治療法として、アミロイド前
駆体タンパクを切断する酵素の阻害薬やアミロイドβを
タウタンパク
リン酸化
標的とした免疫治療薬が研究されており、その効果に期
待されていますが、すでに形成された老人斑を消失させ
ても認知機能の改善はみられなかったというデータも報
告されています。薬物治療の効果をあげるためには早期
に治療を開始することが重要であり、そのためには早期
に診断することが不可欠になります。
さらに、今後開発される新薬の効果判定にも、この2つ
のバイオマーカーは大きな役割を果たすことになると考
タウタンパクは神経細胞内の「微小管」を結びつけているがリン酸化すると、
微小管への結合力が低下する。
リン酸化したタウタンパクは微小管から遊離し、
たがいに凝集して神経原線維変化をつくる。
4
えられます。MCIやそれ以前の段階で、病状が改善したか
否かを評価するためには、このバイオマーカーを使う以
外ないからです
(表1)
。
脳脊髄液検査の普及をめざして
の測定は非常に難しく、測定者の技量によって数値に変
アミロイドβとタウタンパクを測定するためのキット
動が出る危険性をはらんでいますが、正確に測定可能なA
や専用の測定装置は、
すでに国内外のメーカーから商業ベ
β40を指標とすることで、
Aβ42値の精度がどの程度で
ースで販売されています。しかし、
現在のところ我が国で
あるのかを推測することに役立てられると思うのです。
はアルツハイマー病の診断を目的とした脳脊髄液検査は
頭脳明晰な状態から軽度の認知機能低下がみられるま
ごく一部の施設でしか行っておらず、
行っている施設でも
でには、
脳は長い年月をかけて変化していきます。画像診
そのほとんどは研究目的です。実施が限定的であるのは
断で異常所見が認められず、本人も家族もまだ不審を抱
保険適用されていないことが最大の理由ですが、
脳脊髄液
かない段階であれば、脳のなかの異常を知るにはバイオ
採取が侵襲的であるため、
一般内科ではあまり行われてい
マーカーしか頼る術がありません。
ないこともハードルとなっています。なお、
血液ではこれ
日本でも現在、全国の認知症専門医療機関の専門医が
らを測定することができません。アミロイドβは血液中
参加してJ-ADNI研究が行われています。この研究により、
にも出現するのですが、脳脊髄液の1/10ほどの量だけで
日本人はもちろん、人種的に近いアジア諸国での診断に
すし、
タウタンパクは血液中には出ないためです。
も非常に有用となる評価基準が得られのではないかと期
また、先述した研究報告でAβ42のみを検討しているこ
待されています。
とからわかるように、
Aβ40を測らずAβ42のみをバイオ
保険適用の問題、脳脊髄液の採取および測定の難しさ
マーカーとする考えが一般的となっていますが、私はAβ
など、幾つかの問題点が残されていますが、これらを解決
42とAβ40を同時に測るべきだと考えています。その理
し、アミロイドβとタウの値をアルツハイマー病のバイ
由は、大きく2つあります。アミロイドβの蓄積が始まる
オマーカーとして普及させていくことが重要であると考
と、脳脊髄液中のAβ42が減ってAβ40が増えるため、病
えています。
気の進行に伴ってその差は大きくなります。そこで、
両者
の差を確認するとより正確な診断を行うことが可能とな
るというのが一つ目の理由です。二つ目の理由は、
Aβ42
参考文献
1) Kanai M, et al.: Ann Neurol, 44(1), 17-26, 1998.
2) Shoji M, et al.: Ann Neurol, 48(3), 402, 2000.
3) Shaw LM, et al.: Ann Neurol, 65(4), 403-413, 2009.
表1 MCIにおける主なバイオマーカー研究
(2004年∼2009年)
報告者
[報告年]
対象
MCIからAD発症
[観察期間]
Hampel
[2004]
57 MCI
93 AD
10 cont
29/52
(56%)
[8.4カ月]
Parnetti
[2006]
55 MCI
100 AD
14 DLB
11 FTD
11/55
(20%)
20/55
(38%)
に開始時に
2つ以上のマーカー異常
[1年間]
Hansson
[2006]
137 MCI
39 cont
Fagan
[2007]
マーカー
感度
その他
Aβ42 100%
t-tau 90%
European
Cohort
ADを発症したMCIの10/11
(91%)
に2つ以上のマーカー
異常
stable MCIの
29/33
(88%)
は
マーカー正常
Mayo Clinic
Cohort
57 AD
(42%)
21 non AD dementia
(15%)
56 stable MCI
(41%)
[4∼7年間]
Aβ42/t-tau 95%
Aβ42/t-tau/p-tau181 95%
Aβ42/t-tau 83%
Aβ42/t-tau/
p-tau181 87%
prospective
study
90 CDR 0
33 CDR 0.5
16 CDR 1
認知症があってもなくてもCSF
Aβ42はPIB-PETによる脳アミ
ロイ
ド沈着に完全に相関
[1∼8年間]
t-tau/Aβ42やp-tau/Aβ42はCDR 0からCDRの
悪化を予測
(hazard raito 5.21. 4.39)
PIB-PETとの
相関
Show
[2009]
100 AD
191 MCI
114 cont
37/191
(19%)
[1年間]
t-tau/Aβ42が89%のAD発症を予測、
Aβ42が脳
病理と最もよく相関
US-ADNY
Mattsson
[2009]
750 AD
529 MCI
304 cont
271 AD/750 MCI
(36%)
59 non AD dementia/750 MCI
[>2年間]
Visser
[2009]
60
37
71
89
8/22 CSF/AD naMCI
(36%)
27/53 CSF/AD aMCI
(51%)
[3年間]
SCI
naMCI
aMCI
cont
Aβ42 59%
t-tau 83%
特異性
Aβ42,
t-tau,
Aβ42,
t-tau,
p-tau181
83%
73%
開始時にCFS/ADはcontrol 31%、
SCI 52%
naMCI 68%、
aMCI 79%
AD 発症全例でCSF/AD
CFS/AD aMCIで有意な危険因子
12 centers
Europe/US
DESCRIPA
study
Europe study
cont : 健常対照、SCI : 主観的もの忘れ、naMCI : 非健忘性 MCI、aMCI : 健忘性 MCI
5
目指すは、
家よりも快適に過ごせる治療空間
医療法人財団友朋会 理事長 嬉野温泉病院院長 中川 龍治
今も
「理想の治療環境づくり」
という
創作活動が続く
精神科医療に芸術療法を積極的に取り入れ、理想的
な治療環境を作り上げることをライフワークとした故
中川保孝創設理事長。総面積128,644㎡、総床数770と
嬉野温泉病院誕生について中川龍治院長は、
「昭和40
いう現在の友朋会の姿は、いわば生涯をかけた氏の一
年3月に106床の単科精神科の病院として創設理事長が
大作品とも言える。それは現理事長の手に引き継がれ、
開設しました。きっかけは大きくふたつあります。イ
今も作り続けられている。そう、建築家ガウディ亡き
ンターン時代に精神科医療の現状を知り、もっと良く
後もその建設が止まることなく続けられているスペイ
したいと思ったことと、一時期真剣に画家としての道
ンの未完の塔、
サグラダファミリアのように。
を選択しようかと思ったほどの自らの芸術的志向を患
者さんのために役に立てられないかと思ったこ
とです。創設理事長はこのふたつの考えを
融合し、これまでにない、精神科病院の
固定概念を払拭するほど大胆な外
観を持つ病院を作りたいと思
ったわけです」
と話す。
計画に基づきデザインされたひとつの町。広大な病院敷地内へ一歩足を踏み入れた途端、そういった印象が私た
ちを包んだ。山の緑を背景に、ヨーロッパの街角にある建築物を思わせる病棟が立ち並ぶ。今回訪れたのは佐賀
県嬉野町にある嬉野温泉病院。美術館のある病院として知られている。病院全体で芸術療法に取り組むという国
内でも珍しい治療スタイルはどういったものなのか。お話をうかがったのは理事長でもある中川龍治院長。創設
理事長である父、故中川保孝氏の意志を引き継ぎ、精神科医療と真摯に向き合い続けている。(取材班)
感覚を刺激する陶芸の力
の自分の作品の出来を気にして、うまく出来ないと恥
ずかしいと思う傾向があるのです。その点、陶芸は手
びねりで作りますから、
何度でもやり直しがききます。
病院開設当時、
芸術療法を取り入れていた医療機関は
うまくいかなかったらこわして作り直すことができる
おそらくまだ少なかっただろう。
「確かに病院全体で取
のです。そういう意味で陶芸療法は、認知症の患者さ
り組むという形は少なかったと思います。
創設理事長は、
んにとって手を動かして使うこと、人目を気にせずに
精神科の患者さんが社会に復帰することを前提として考
すむところなど適応する部分は多いと思います。
えていましたから、
技術を習得するためにも芸術療法を
また、たとえ昨日まで作っていた作品のことを忘れ
やりたいという明確な意識をもっていました。そのため
てしまったとしても、カメラなどで撮影しておいた制
に絵画だけではなく陶芸も同時に始めました」
(院長)
。
作過程の記録を見せながら説明すると、患者さんが自
嬉野周辺は、
有田、
伊万里など陶芸が盛んな地域であ
分で作ったものなのだと納得していただけます。その
ったため、当初陶芸療法には患者さんが退院した後に
ことで自分にもこういう作品を作ることができるのだ
就業するための職業訓練的な要素もあったという。た
という自信を新たに持っていただけますし、その自信
だ長期入院を余儀なくされている慢性期患者を対象と
が良い刺激になります」
と院長は説明する。
していたために、陶芸を退院後の職業にするというこ
とは非常に難しかったそうだ。しかし、見て触って匂
いをかいで粘土の触感や質感を実感することで五感を
刺激し、感情の緊張を解きほぐす要素もある陶芸療法
の効果は大きかった。
創造性の獲得と家族との
つながりへの影響力
「陶芸の場合は、
できあがった焼き物を実際に使うこと
ができます。家に持って帰って食器としたり花を生けた
「認知症の患者さんは昨日のことをあまり覚えてい
りして使っていただけます。するとご家族に
『こんな作
ないという一面がありますから、自分が作成した作品
品を作ることができたのか』と新たな一面を発見しても
を翌日には忘れていらっしゃる。また、毎回制作途中
らうことにつながるのです。我々のところへ来られる認
目指すは、家よりも快適に過ごせる治療空間
変化が生じてきます。それが認知症の患者さんにとっ
てとても大切なことなのです」
。
失敗行動を起こせば、どうしても家族はイライラし
がちだ。ところが視点が変わるとイライラせずに
「仕
方ないな」という受け止め方になる。患者さん本人に
この変化は大きく伝わるという。日々の暮らしのなか
で芸術療法がもたらす効果として、これはとても重要
なことなのだ。
ただし、認知症の症状が進行すればだんだん物の形
を作ることができなくなることもあるため、芸術療法
の効果は初期に始めるほど高いと院長は話す。
「創設
理事長も同じ考えで、
これまでやってきた医療や看護、
芸術療法が、認知症の初期対応でどのような成果をも
たらすかをみたいと平成11年、福岡に認知症専門の外
来クリニック、
『ものわすれメンタルクリニック』を開
設しました。認知症の初期でBPSDもあまり認められて
いない患者さんが多く、芸術療法を進めて毎年作品の
展示会を開催しています。当初の考えどおり、かなり
効果は高いと実感しています」
。作品を前に、
患者さん
と家族が笑顔で会話を交わしている展示会の様子が目
に浮かぶようだ。
知症の患者さんは、
問題行動を起こして周囲の方々から
は困った存在としか受け止められておらず、
家族の方も
患者さんのBPSDの大変さを訴えるばかりといった状況
芸術療法を行う前提条件は
「安心できる場」
でした。ところが芸術療法によって患者さんの作品が出
認知症患者さんがスムーズに絵を描くために、何か
来上がると、
『家で使っています』
『
、こんな絵が描けると
条件はあるのだろうか。院長は
「良い会話ができてい
は非常に驚いた』といったように、
これまでとは違った話
るときは描きやすいようです」と話す。例えば風景画
が出てきます。患者さんはこれまで陶芸や絵画などを行
を模写するときも、
「 こんなところに行ったことがあ
ったことがない人がほとんどなので、
本当に新しい能力
る」と幼い頃の思い出を語りながらであれば筆が進む
を獲得できた状態でもあるのです。そうなると、
ご家族
ようなのだ。
「そのときの感情をうまく引き出すこと
にとって患者さんへの新しい見方が生まれます。これは
が重要です。それには何よりも今いる所が安心してい
認知症の方にとって、
大変重要なことです」
(院長)
。
患者さんへの見方が変われば、家族との関係にも変
化が起こると院長は話す。
「芸術療法を行うことで問
題行動が全てなくなるわけではありませんし、在宅期
間が延びるとも言いきれません。依然として困った症
状などは残るわけです。しかし、それまでは患者さん
の問題点しか見えなかったのが、視点が変わることで
良い面も見えるようになり、家族との関係性に良好な
8
医療法人財団友朋会 嬉野温泉病院
院長は
「私の解釈ですが」と前置きして、
「ほとんどの
精神科の患者さんは、病棟へ入ることに抵抗感があり
ます。自分は病気ではない、治療の必要はないと考え
ます。せっかく外来に来ても、
その先が鍵のかかる重々
しい雰囲気の病棟であれば足がすくんでしまいます。
もちろん外観だけの問題ではないかもしれませんが、
創設理事長には、ここなら治療してみようと思っても
らえるような施設にしたいという思いが根本にあった
られる場であることが大前提です。例えばスタッフを
と思います」
と語る。
怖いと感じれば、落ち着いて絵を描くことはできませ
これまでの精神科病院のイメージを変えるには、少
ん。うまく過去に回帰して思い出を引き出しながら創
しではなく大胆に変える必要があると考え、創設理事
作するためには、患者さんが落ち着いて描ける場を提
長は海外の建築物を参考にして建設を始めたのだそう
供することが大事です」
。
だ。開設当初の病棟もスイスの山小屋風だったという
スタッフも勉強は欠かせない。
「当初は創設理事長が
から、周辺の住民は驚いただろう。この施設の建物を
自らも絵を描いていたので直接患者さんに教えていま
見た人は、おそらく精神科医療施設のイメージが大き
した。しかしそのようなカリスマ的な指導者がいなく
く変わったに違いない。病棟改築時にはできる範囲で
なり、
穴が開いたような現実に直面してからは、
『中川保
病床数を少なくしたため、現在は広々とした空間がゆ
孝の芸術療法』から
『友朋会スタッフと患者さんとの芸
ったりと入院患者さんを包んでいる。目指すところは、
術療法』へ転換しようという私の考えで全体を組織化す
より治療的な空間。空間から受ける圧迫・ストレスが
ることに力を入れてきました。考え方は基本的に変わ
減ると患者さん同士の摩擦も少なくなる。まさに家族
りません。創設理事長が立ち上げた西日本芸術療法学
が安心して託すことができる治療の場だ。
会は今年で40回目になりますが、
スタッフも毎年発表す
るなどして研鑽を重ねています」
と院長は語る。
「現在も急性期の患者さんの新しい病棟を建ててい
ます。不透明な時代だからこそ我々の持つ最良の資質
を生かし、
地域の皆さんとも連携し、
胸を張って医療と
目指すは、より治療的な治療空間
福祉の拠点づくりを続けたいと思っています」
。生涯
をかけて理想を追求した創設理事長・故中川保孝氏の
「安心できる場」という言葉をきっかけに、当施設の
ユニークな外観についてもうかがってみた。そのこだ
理念が、今も脈々と受け継がれていることを感じた言
葉だった。
わりの原点はどこにあったのだろう。
医療法人財団友朋会 嬉野温泉病院 佐賀県嬉野市嬉野町大字下宿乙1919
TEL.0954-43-0157
第6回「認知症の治療」
認知症治療の今を知る
認知症は進行性の疾患で、一部の疾患を除き根本的な治療法はみつかっていませ
ん。そのため、認知機能向上やBPSD低減を目指す薬物療法とともに、生活障害改
善とQOL向上のために、適切なケアやリハビリなど非薬物療法を行うことが大変重
要となっています。認知症の治療には医療とケアの両方の介入が必要です。
認知症治療の概要
非薬物療法の介入を基本として、適切な薬物療法の導入が望まれます。
薬物療法は、認知機能向上やBPSD(周辺症状)の低減を目的として行われ、非薬物療法のケアは生活障害を改善し、認知症患者
が、その人らしく暮らせるように支援すること、
リハビリは認知機能、生活能力、QOLの向上を目的としています。
●薬物療法(有害事象のチェック、評価)
⃝認知機能の向上
⃝認知症の行動・心理症状(BPSD:Behavioral and psychological symptoms)低減
●非薬物療法
⃝リハビリテーション
認知症は進行性疾患のため、認知機能向上効果は期待
できない。
しかし、廃用を防ぎ残存機能を高め、二次的
に認知機能の向上が期待できる。
脳を活性化して生活能力を維持・向上させるリハビリの原則
①快刺激であること
②他者とのコミュニケーション
③役割と生きがいの賦与
④正しい方法を繰り返しサポートすること
⃝認知症ケア:パーソンセンタード・ケア
(person-centered care)
介護者の都合を優先するケアから認知症患者の尊厳や
思いを優先するケアへ対応法が転換され、本人の言動
を本人の立場で考えてみる認知症ケア方法。認知症患
者が「その人らしく」暮らせるように支援する
(人間の尊
厳を高める)。
認知症ケアの原則
①尊厳、利用者本位:その人らしく生きられるように支援
②安心・生の充実:叱責や否定されない環境で安心、
快適に
③自立支援、
リハ:残存している認知機能を見極めて何ら
かの役割の賦与により、心身の力の発揮を支援
④安全・健康・予防:余病併発に注意して安全・健やかな
QOLの達成(医療職とケア職の連携)
⑤家族や地域とともに進むケア:なじみの暮らしの環境を
継続
10
薬物療法
アルツハイマー病の認知機能障害の進行抑制にコリンエステラーゼ阻害薬が推奨されています。
向精神薬
抗認知症治療薬
● 抗精神病薬
● コリンエステラーゼ阻害薬
● 抗うつ薬
● グルタミン酸(NMDA)受容体阻害薬
● 抗不安薬・睡眠導入薬(抗けいれん薬)
セクレターゼ阻害薬
免疫治療薬
キノリン誘導体 など
漢方薬
脳代謝改善薬
BPSD
(周辺症状・随伴症状)
開発中の根治薬
中核症状
(認知機能障害)
記憶障害
失語
失行
失認
遂行機能障害 など
● 行動症状
暴力・不穏・徘徊・焦燥性興奮・
性的脱抑制 など
● 心理症状
不安・うつ症状・
幻覚・妄想・睡眠障害 など
【注意点】
①少量で開始し、緩やかに増量する
(Small)
高齢の認知症患者では過剰反応や有害事象を生じやすい。特有の有害事象に
注意を払いながら、多剤服用をなるべく避けて定期的に薬剤に種類、過量投
与、長期投与等処方の見直しを行う。
②薬剤用量は若年者より少なくする
(Small)
③薬効を短時間で評価する
(Short)
3S
④服薬方法を簡易にする
(Simple)
⑤多剤服用を避ける
(Simple)
⑥服薬コンプライアンス
(アドヒアランス)
を確認する
非薬物療法
薬物療法を開始する前に、適切なケアやリハビリテーションの介入を考慮しなければなりません。
⃝生活能力、QOL、認知機能の維持・向上 治療介入の標的とされるのは、認知、刺激、行動、感情の4つです。用いられる
手法は、心理学的なもの、認知訓練的なもの、運動や音楽等芸術的なものに大
別されます。
認知症に対する非薬物療法
【認知】
に焦点をあてたアプローチ:見当識訓練(Reality Orientation:RO)や認知刺激療法
【刺激】
に焦点をあてたアプローチ:活動療法、
レクリエーション療法、芸術療法、芳香療法、ペットセラピー、
マッサージ等
【行動】
に焦点をあてたアプローチ:行動異常を観察し評価することに基づいて介入方法を導き出すもの
【感情】
に焦点をあてたアプローチ:支持的精神療法、回想法、バリデーション
(是認)療法、感覚統合、刺激直面療法等
⃝介護負担の軽減
介入手法
精神面(主観的な負担)
:心配、不安、
フラストレーション、
疲労等
生活面(客観的な負担)
:患者の示す諸症状あるいは介護
者が経験する困難に関連して生
じる出来事・活動
介護者の心理教育:ストレスマネジメント、認知行動療法
対応技術の指導:疾患教育、ケースマネジメント、介護上の問
題を解決する能力を高めるトレーニング
カウンセリング:個人および家族カウンセリング、
ピアカウン
セリング
(患者、家族会)
休 養:ショート・ミドルステイ等のレスパイトケア
その他:環境の調整等
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紐解き 認知症研究
∼研究論文ピックアップ∼
「糖尿病は認知症発症のリスクになるか」
糖尿病は合併症の病気といわれ、多くの疾患を引き起こす要因と
関与するという研究があることから、
インスリンが脳内のアミロイド
して重要視されている生活習慣病である。
この連載で、同じく生活習
の蓄積を促進することによって認知症を引き起こす可能性を説いて
慣病のひとつである高血圧の認知症との関連を取り上げたが、糖尿
いる。
病についてはどうだろうか。
ここで紹介する3報より、糖尿病がもたら
一方、米国University of CaliforniaのWhitmerらによる研究
(Whitmer RA et al.,
す認知症リスクについて紐解いていこう。
オランダのErasmus University Medical SchoolのOttらによる研
, 2009;301:1565-1572)
では、低血糖エピ
ソード(低血糖による昏睡など)
と認知症リスクの関連性を報告し
, 1999; 53: 1937-1942)、
ロッテルダ
た。認知症でない55歳以上の糖尿病患者16,667名を平均3.8年間追
ム近郊に住む55歳以上の6,370名を対象に、糖尿病と認知症の関係
跡調査したところ、1,822名(11%)が認知症と診断された。
このうち
について平均2.1年間の追跡調査を行った。追跡期間中に126名
低血糖エピソード経験者は250例で、低血糖エピソードのない患者
(2.0%)が認知症を発症したが、糖尿病の有無が影響したかどうか
と比較して認知症発症リスクは1.44倍であった。
さらに、低血糖エピ
を解析したところ、糖尿病患者では、糖尿病でなかった人のほぼ2倍
ソードを起こす回数が多いほど発症リスクは高くなっており、糖尿病
に発症リスクが高まることが分かった。
タイプ別では、アルツハイ
の重症度と認知症リスクは相関している可能性が示唆された。
究では(Ott A et al.,
マー病1.9倍、血管性認知症2.0倍、
その他の認知症は1.6倍であった
低血糖エピソードは、糖尿病の重症度が高くインスリンなどの薬
という。高血糖は血管障害につながることから、血管性認知症発症
物療法を行っている患者が空腹時や激しい運動を行った時に起こ
の黒幕になるであろうことは推察できるが、
アルツハイマー病やそ
りやすくなる。Craftらのレビューで示されたように、インスリンその
の他でも同様にリスクが上昇していた。
ものが認知症発症に関与する可能性があることから、
この研究で
また、
インスリン投与中の糖尿病患者に至ってはリスクが4.3倍で
は、
インスリン投与の影響について補正した結果を算出しており、低
あった。
これについて著者らは、インスリン投与中の患者は重症度
血糖エピソードそのものが認知症のリスク増大に関与していると結
の高い集団であり、糖尿病が重症になるほど認知症のリスクが高ま
論づけている。低血糖エピソードが神経細胞死や、脳内血管の劣化
る傾向にあることを示しているのではないかと論じている。
を促し、認知症リスクを増大させると考察している。
インスリンと血糖値コントロールは切っても切れない関係である
以上のように、糖尿病は高血糖がもたらす血管障害に起因する血
が、
インスリンそのものが認知症発症に影響を及ぼす可能性がある
管性認知症だけでなく、インスリンがアルツハイマー病の発症リス
ことを、米国University of Washington School of Medicineの
クを高めること、
また糖尿病の重症度が高いほど認知症リスクも高
Craftらがレビュー
(Craft S et al.,
くなるということが分かった。
, 2004;3:169-178)に
まとめている。かつて脳は「インスリンの影響を受けない臓器」
と考
軽度の糖尿病では自覚症状がほとんどないため、治療の意識を
えられていたが、近年、インスリンは脳に作用し神経活性や認知機
高めるためには合併症の恐ろしさについての周知が重要である。糖
能などに直接影響を与えていることが明らかになってきた。
とくに、
尿病患者に接する際には、他の合併症と同様に認知症のリスクにつ
アルツハイマー病の原因といわれているアミロイドの分泌と分解に
いても説明に加えてみてはいかがだろうか。
編集委員
編集主幹 井原
康夫・同志社大学生命医科学部医生命システム学科教授 編集委員(五十音順)池田 学・熊本大学大学院生命科学研究部脳機能病態学分野(神経精神科)教授
宇高 不可思・財団法人住友病院副院長 東海林 幹夫・弘前大学大学院医学研究科脳神経内科学講座教授 武田 雅俊・大阪大学大学院医学系研究科精神医学教室教授
発行
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編集:株式会社エム・シー・アンド・ピー
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2011年11月作成
RVT-SP06