巨鼇山 雲辺寺々務中之坊地蔵院之導 - 明日に架ける橋

▲萩原寺大門
歴史特集・本文 P.4 ∼ P.10
キ ョ ゴ ウ ザ ン
巨鼇山雲辺寺々務中之坊地蔵院之導
を持つことの大切さを忘れていない
りも、テレビが取り上げるとすごい
だろうか。「大人も子供も一緒の文
人だとなる。バーチャルな(擬似)体験
化」、これは有史以来、初めてのこと
で、見ず知らずの人はありがたがっ
だ。なんでも知ってしまえば、誰と
ても、それはどこまでいっても、か
大人と子供が一緒に同じテレビ番
会っても何を見聞きしても感動はな
かわりのない人だ。
組を見る。いかにも微笑ましい風景
い。比べる対象がすでにバーチャル
交通、情報の行き来する範囲の狭
だ。しかしよくよく考えれば、その
な(擬似)体験をしたものだから、極端
い時代、それは経験でしか直接の知
時間が多ければ多いほど、大人も子
な言い方をすれば、すでに世界的な
識が蓄積されなかった。歳をとれば
供も同じことしか知らないというこ
ものをみたつもりになっているのだ
とるほど、家でも家庭でも大切にさ
とになる。なんでもテレビが教えて
から、
「たいしたことないじゃないか」
れたのは当然のことだ。
くれるということだ。マスを対象に
となってしまう。フェイス to
フ
そして現在、どこへでも行け、求
した大衆社会をだれもが享受してい
ェイス、自らの経験でしか分らない
めなくとも情報の氾濫する時代にな
る時代とも言える。「くだらないテレ
もの(絶対感覚)を大切にしたい。
った。ある意味では素晴らしいこと
社会テレビ、情報の量と質
の均質化がもたらしたもの
多田羅 譲治
マスコミによる一方的な受容、そ
に違いない。が、だからこそ、毎年
だってテレビは幼児からお年寄りま
れは知らず知らずに、自らを傍観者
毎年、それぞれがどんな経験をつみ
で一緒に見せようと作っているもの
(評論家)にしてしまう。一方で絶対感
かさねられるかが問われているとも
なのだから。経験すれば、理解力が
覚(自分と比べる)を忘れないことで、
いえるのだ。
ついていけば、分ることはたくさん
バランスがとれる。
ビばかり!」それは当たり前のこと。
テレビ文化(大衆社会)をへて今、イ
ある。それをお手軽に体験できる。
子供のころ、足の速い友だち、絵
ンターネット、BS・ケーブルテレビ
誰もがいま分るということは、それ
のうまい友だち、歌の上手な友だち、
など、情報の細分化と深化、そして
だけのことだということだ。
… …、自分にはできないことに、
情報コストが低下してきた。個の蓄
みほれた経験は誰にもあるはずだ。
積が可能になって、一人一人の生き
ている、それが子供が大人を尊敬す
傍観者になってしまうと、日本で一
方が問われる時代となったのだ。新
る所以だ。同じ情報の量と質なら、
番足の速い人でも、オリンピックで
しい文化の到来が、情報の量と質の
子供の方が記憶がいいのは当たり前
負けると、「なぁんだ、遅いじゃない
均質化を壊し、新しい個人の尊厳を
のことだ。大人は尊敬されるはずは
か」となる。
回復し、家庭、社会を築きなおす可
大人は子供の知らない世界を知っ
ない。大人は大人の世界、子供は子
自分の周りを自分でながめて、こ
供の世界、それぞれが、独自の世界
んな人があると大切に嬉しくなるよ
−1−
能性を持ってきたことに、注目し期
待したい。
CONTENTS
香川の歴史と文化を語ろう
第 6号
(2000 年冬号)
<巻頭特集>
4
37
巨鼇山雲辺寺々務中之坊
地蔵院之導
38
斉藤 茂
15
戦国乱世からの転生−
39
戦国三好一族の伊吹島三好氏
48
出水康生
<自然>
<歴史>
32 EM自然農法は生きがいの出会い
14 古代阿讃の歴史が蘇る
久保隆彦
林 博章
33 讃岐のEMエコスポットご紹介
18 古代瓦が語る讃岐神話
36
柏 美香
42
33 ミミズ箱のあるエコフェスティバル
46
中條加寿男
19 滝宮の念仏踊り
20
立木博子
杉村重信
47
34 自然エネルギーの普及とグリーン電力 30 屋島の狸
馬場弘美
<地域>
28 宇多津町そしてすばらしきかな人 基金 兼平裕子
49
<健康>
49
40 会議は踊る 50
マダム議長
山崎良樹
41 あなたの常識、わたしの非常識6
31 松島町 9 丁目 77 番地
松見哲雄
遠藤竹二
−2−
50
51
讃岐、その土地とヒトを探る
現在から過去へとさかのぼる。タテ書きが未来軸なら、ヨコ書きは過去軸。いま
があるのは、過去があるから。"さぁかす"は、自分の周りを見つめなおすことで、
地域を変えようと考えている。いつのまにやら、家の中から、地域の中から、語
り部がいなくなった。そんな語り部探しからスタートだ。
そして地に根ざして何かをやっている人を大切にすること、それが地域見直しへ
の呼び水だ。
<芸術>
7 イタリアオペラの危機 森田 学 52 写真ギャラリー サタケタクヤ
8 21 世紀に生まれ育つ子供達のために
54 誌上イラスト展
「木内千鶴子の愛弟子たち」
川西芳啓
9 撮影快調! 山守義雄
56 <さぁかすからのお知らせ>
毎週⃝曜日はさあかすの日
日曜はとんぼ玉
8 ただ書きまくって! No.2 大西 恵
火曜はファンタジー広場
<エッセイ>
木曜は心の駅
金曜は「えっちゃん」と
0 女たちのマンダラ 恵比須暁美ほか
60 ギャラリーさあかすのご案内
6 G による海のドラマ 田中貞二
▼
P.19 滝宮の念仏踊り
2 サークル紹介・塩江町ゴルフ教室
▼ P.30 屋島の狸
6 おじいちゃんのひとりごと 武田幸男
7 香川におけるインターネット 鍋島 厚
9 死の5秒前 豊田武之
0 続メリット 武田信道
0 知覚のラビリンスへ 松隈正徳
1 さぬき弁まるだし 阿井蘭士
▲ P.42
サークル紹介
塩江町ゴルフ教室
▼
9 さぁかす歌壇
P.56
毎週日曜日は
とんぼ玉
−3−
▼萩原寺大門
キ ョ ゴ ウ ザ ン
巨鼇山雲辺寺々務中之坊地蔵院之導
悠久の昔、我々の祖先は遊牧の民で
あり、所謂食物を求め今日はこの地、
寺の性格
地蔵院(郷ノ坊・現萩原寺、中ノ
りしとある。また宮居を九天に象っ
明日はあの地へと、男は狩りをし女
坊・現薬師堂)、持宝院(奥ノ坊・現
内、門戸に人の入るを禁ずる意味で
は貝や草木の実を採りつつ移動する
雲辺寺山頂)、千手院(現観音堂)は
ある。
生活であった。倭とか大和という国
小野派6院のひとつ憲深方の正統を
雲辺寺の名は、雲辺=雲上=九重
号はまだなく、高い山、広い海、大
継承し僧侶の資格を得られる寺であ
(宮中)すなわち皇居を示す。これは
きな木や岩などを目印にやっと地名
り、歴世の知事、師団長の任退官の
が起こった時代である。
時は必ず参詣する慣わしがあった。
当時、東アジアにはシルクロ−ド
伏見醍醐寺町に在る報恩院は、醍
文化を持つ「戦国の七雄」という七
つの大国があった。この中の一族
醐五門跡の一つである。法流は報と
恩の片字を取って幸心院と称し、憲
「伊邪那岐ノ大神」は、「神代七世」
深に始まるのでその名を冠して憲深
と云われるように 200 年の歳月をか
方と呼び、東密(真言)36 流のひと
けて日本に渡り安住した。彼らは高
つに数えられるに至った。憲深の創
度な稲作技法を伝え、王者となり王
始した報恩院流は修法が正しく初学
宮を造ったという。王朝の名は「伊
者にも理解し易いことから、新古両
邪之二名嶋」。この地方の「宗像祠」
派を通じて一般に行なわれた。伝法
たとも云う。禁中はごしょ、御所の
この地に王城があったことを秘し、
古代の聖地である皇居の地に築いた
寺院であると推測されるところに、
この寺院の持つ意義の深さが知られ
る。
院流の豊山派などは近年まで報恩院
伊邪那岐神は、天の沼矛を持ち
天の浮橋に立って海中をかき廻
し上げ、滴り落ちる雫が固まっ
て島となることは勢力圏の樹立
を表す。
(古事記)
り語り継がれている。
四国の古刹「巨鼇山雲辺寺々務中
流を用いた。
伊邪=イヨ、伊余、伊予、那=安ん
之坊地蔵院」の秘められた歴史に、
濫觴
古代大野原を見た。
◆なぜ雲辺寺と呼ばれたか。
(ムナカタハン)には、土の記憶で残
じる、岐=分ける、分封、よって伊
雲辺=くものへ、雲上=くものへ、
邪那岐神はイヨに分かれて安んじる
神、いわば定住したことを表わす。
この伝説は、伊邪那岐神は武力で
雲井=くものうえ、雲上=ここの
瀬戸内海(特に燧灘周辺?)を征服
へ=九重(宮中、禁中、禁裡)。九重
し制海権を手中にしたことであり、
は昔、支那の王城は九重に造る制な
日本に初めて王朝が誕生したことを
−4−
斎藤 茂
三豊郡大野原町萩原
▼中ノ坊、郷ノ坊、奥ノ坊
昔話にしたものと理解される。
古代は四国全域がイヨ(伊余、伊
予)と呼ばれた。その後、燧灘四周
には小国家が出現した(燧灘文化圏
と云う私の説です)。四国中央部に出
現した小国家は「讃岐・愛比売(エ
ヒメ)」の国名を持ったことが古事記
から推定され、この国家を支配した
首長(王家)は、神社仏閣の縁起か
ら景行天皇の皇子の末裔であること
は真実であろう。景行天皇廿三癸己
年(333 年)、日本武尊の7才下の
実弟神櫛王が蝦夷征伐の王命を享け
て来地し別家したものと考える(讃
岐分国論)。阿波、讃岐、伊予の接目
(はぎめ)、当大野原地方で蝦夷征伐
をした伝承はひとつの勢力圏(小国
家)の存在を示したものであるから、
美馬(阿波)苅田(讃岐)宇摩(伊
予)の三郡が同一行政地域であると
理解してよい。
伊邪那岐神が軍団を率い日本に来
地、武力で原住民を従属させて住居
し国家を創めて樹立したり、その後
神櫛王が蝦夷征伐に来地して別家し
たことに加え、佐伯氏が蝦夷の支配
に来地してから此処に役所(田所=
タトコロ)を置いた遺跡を雲辺寺
(皇居)として草創したことが真の歴
史ではないか。雲辺寺地蔵院中ノ坊
には、この様に深い歴史の秘密があ
った。
大野原町は古来「四国の辻」と呼
ばれたように、上代(奈良・平安時
代)には苅田郡の中心地に当り郡衙、
柞田駅家院も存在した。また郡寺に
推定される大寺もあった(安井廃寺、
また青岡大寺とも呼ばれた)。地蔵院
はこれらを支配した点もあり、巨石
古墳と考え合わせた時、地蔵院は上
代における首長(王家)に関係した
遺跡の可能性が極めて強くなる。(私
が燧灘文化圏として研究する根拠に
している。)
◆残影を示す地名は位置を教えるか。
岐(苅田部)、伊予(宇摩部)は地図
地名を参考にして図を作成したと
で表すと一ヶ所になり、当地方を指
き、8丁に 12 丁の寺域がはっきりす
す。大野原町海老済は、このような
ることに驚いた。これは偶然にも寺
伝に一致した。
歴史と結びつくようだ。
佐伯の直の家系に生まれた空海上
佐伯氏が支配した時、青葉に家臣
人は、宿縁あるこの地に祖先の顕影
が住居したり、大造(オオゾウ)は
と供養をしたと理解できる。
王像坊(オオゾウボウ)との関係も
考えられ役所(田所)ではなかった
夢ニ当 住宅之西方有一座 山頂有八
か。そして佐伯氏が代々の霊堂であ
幡神之宮殿 (七宝山縁起)
る仏舎を建立したことが寺の始まり
ではなかろうか。
空海上人の住宅は、琴弾山の東方
空海上人はこの有縁の地に条里制
に準拠して寺域を経始し、中央に中
に在ったことが七宝山縁起から推定
される。このような歴史を示した土
ノ坊、周辺に四十九院を配置したの
地が地図上に表された。
ではなかろうか。地名から中ノ坊の
伽藍配置は法隆寺様式か池泉式様式
由緒
のものと推定される。
◆中之坊地蔵院縁起の起筆者は萩原
古代、荒服(エビスフク)の地方
に夷族を配移させた歴史がある
(記:西讃府志)。
この夷族を佐伯部、監督する家を
佐伯の直(アタイ)と呼んだ。播磨、
阿波、讃岐、伊予、安芸の5ヵ国に
配移しているが、阿波(美馬部)、讃
−5−
殿直仁親王か。
縁起の内容は鎌倉時代のことが極
めて詳しく記されているから、この
時代に近い人が書いたことが真実で
ある。(6P 縁起参照)
◆中之坊地蔵院縁起
◆草稿三豊郡史
地蔵院 巨鼇山 萩原寺 中之坊ト号ク 真言宗大覚寺末寺
相伝フ 大同二年 空海雲辺寺山ニ登リ 夙志ニ依テ一霊場ヲ立ントス
時ニ霊木ヲ求テ 千手観音ノ像ヲ製リ 一寺ヲ造立シテ千眼院ト云 又
四十九院ヲ発キテ 其中院タルヲ以テ 中之坊トモイヘリ 夫ヨリ十世ヲ経テ禅
智坊ト云アリ弘安三年山下ノ坊ニ移リ居レリ 爰ニ伽羅陀山ノ地蔵尊ヲ安
置ス 因テ地蔵院トヨベリ 其村ノ名ニヨリ萩原寺ト称ス 中之坊ノ寺務ヲ相
兼ス 故ニコゝヲモ中之坊トイヘリ 当時本州四箇ノ談議所ノ一ナリ 中世細
川河野等ノ諸氏帰依寺ニテ 其寄附書札等相伝ヘテ 今ノ尚アリ什物空
海所持 ノ 乾陀絨子袈裟赤銅宝部五鈷 并 ニ 金 ノ 割五鈷 同自筆 ノ 急
就章 金五種鈴 九鈷鈴杆 葦原磬燭台 壬生忠岑硯等珍蔵 ス
此他書画軸木像等 ノ 諸佛 凡五十餘種 高僧良工 ノ 作 ル 処 多 ク 枚
挙ニ遑アラズ 明応ノ比 伊予 阿波 讃岐等ノ諸国ニテ 門末二百八
十寺アリ 今僅ニ三十七寺存レリ 其中属院 三坊 新蔵坊 岡之
境内東西四十間 南北六十間 寺田
坊 千手院 并ニ寺家 ニ ア リ
高三石九斗七升 林一所 四至生駒家ヨリ免許ノ證券アリト云
右開基ノコト 地蔵院縁起ニヨレリ 一説ニ空海千手地蔵ノ二像ヲ作リ
千手ヲ山上ニ地蔵ヲ山下ニ安置シテ 二寺ヲ一時ニ造立ス 山上ナル雲辺
寺ヲ奥院トシ 此寺ヲ本院トセリ 弘安三年マテ ゙ハ 住侶相兼テ是ヲ持テリ
因テ二寺ノ別ナカリシヲ 各住侶ヲ置シヲリ カク別レタリトイエリ 是非詳ナラズ
(西讃府志)
88
後嵯峨
89
後深草
(持明院)
92
92
伏見
後伏見
当院は行基菩薩の草創なり。
その後空海上人御修造す。色々
沿革ありて細川勝元朝臣の時、
この寺の慶恵上人に帰依して繁
昌すと云う。今末寺40ケ寺残
る。明応の頃、阿讃予の三ヶ国
に末寺280ヶ寺在りと云う。
多くは伊予の地に在り。地蔵院
は真言宗大覚寺末往古七談議所
のひとつなり。本尊地蔵尊は空
海作、伝曰空海は千手、地蔵の
二像を作り地蔵は本院に安置、
千手は山上に鎮座して奥之院と
云う。雲辺寺は旧古、地蔵院の
奥之院たり。然るに寺僧の争い
ありて公訴するに及び、終いに
一寺となりしと云う。
▼本尊地蔵尊〈萩原寺蔵〉
95
花園
(萩原法皇)
90
91
94
亀山
後宇多
後二條
直仁親王
(萩原殿)
96
後醍醐
(皇胤紹運録)
皇胤紹運録には上記のことが記さ
千手の二像を同時に製り、地蔵は本
雲辺寺来歴汚隆記、中之坊地蔵院
れている。署名の は直の正字であ
るから、応永5年(1400 年)に亡く
院に安置し中之坊地蔵院とし、千手
は山頂に安置し奥院・雲辺寺を建立
縁起は全く同一のものであることを
知り、両寺について調査しなければ
なった直仁親王が書いたことが知り
したことが真実だと思われる。山は
本当の歴史は知り得ない。
得る。また当地方が皇室領であった
地理上の山とは限らず、寺のことを
ことなどが裏付けられる。
山内と云う。山上参りは行者参り、
行者は修験者。空海の孫弟子・聖宝
沿革
当地方は土佐街道や伊予街道の出
(理源大師)が醍醐寺を開山した過程
発点であった。また阿波も近く古来
行基自身、または法類になる方が
は、空海の雲辺寺開山と法式が同じ
「四国の辻」と呼ばれ各方面から多く
創建したので行基菩薩の開基と云う。
である。(観音寺神恵院と似通うので
の人々が往来し、この寺を中心に発
この地方には広く行基菩薩の足跡が
伝承として残っているから無縁では
はないか。)
私は修験者か聖優姿塞が空海上人
展した。
地蔵院は建立当時は役所の職務を
ないだろう。
の真の姿と考えており、山頂を山獄
持ち、荘園の起りかけた中世の頃か
◆私の見解
空海上人は阿讃予三地方の中心、
修行場として初めから二院を造った
らは支配者が仏法の力を借りた治政
三国に跨る雲辺山(大山とも云う)
と判断する。これを証明するには至
に利用し、近世には庶民の信仰や教
に登り、苦行をして山頂に達し修法
らないが、非常に注目される点があ
育などで生活の中心になったという
の結庵を草創した。この時、地蔵・
る。
のが歴史のアウトラインであろう。
−6−
▼萩原寺本堂
▼火伏地蔵〈萩原寺〉
▼粟井神社
◆式内社のすべてが、この寺の支配を享けている。
粟井神社 社僧・大円坊(地蔵院末寺)紀伊郷
山田神社 社僧・延命寺(地蔵院末寺)柞田郷
加麻良神社 社僧・宝珠寺(地蔵院末寺)高尾郷
高尾神社 社僧・蓮光院(宝珠寺末寺)高尾郷
黒島神社 社僧・薬王寺(地蔵院末寺)山本郷
(西讃府志)
昔、寺は神社を支配した。延長5
尾観音堂(千手院)に仏像を祀った。
年(927 年)の延喜式格に、讃岐は
また植田の天神さんに「天神松」を
24 社で苅田郡には6社とある。式内
植えたことは式内社と国司の関係が
社の祭祀は国司自身が行なうことを
示され、当時萩原・安井・植田に式
国司の任務とされる。仁和4年
内社が在ったことを物語ってはいな
(888 年)菅原道真が当地に来遊、高
▼高尾観音堂
いか。
醍醐帝 延喜三年冬十月 賜極楽寺干談議所号
朱雀帝 天慶二年春正月 四箇談議所富田経蔵始
以明海為年預行事
五岳山誕生院 萩原山地蔵院
宝憧山地蔵院 紫雲山宝蔵院
天慶二年秋九月 賜御祈・僧膳料
與州馬郡以萩原山為納所行事
(宝蔵院古暦記)
醍醐帝 延喜三年冬十月 賜極楽寺干談議所号
朱雀帝 天慶二年春正月 四箇談議所富田経蔵始
以明海為年預行事
五岳山誕生院 萩原山地蔵院
宝憧山地蔵院 紫雲山宝蔵院
天慶二年秋九月 賜御祈・僧膳料
與州馬郡以萩原山為納所行事
(宝蔵院古暦記)
◆勅賜談議所号のこと
地蔵院は談議所になると共に、馬
(宇摩)郡の年貢を取り扱った。
※持宝院=雲辺寺のこと
〈千手観世音坐像・雲辺寺蔵〉
※王像坊=大造の地名に関係か
〈千手観世音坐像・高尾千手院蔵〉
※菩蔵坊=善法寺の前身か
〈行基作の仏像(伊予三島柏村に存在)
薬師三尊佛・常楽寺蔵(川之江市)
〉
※年行事=豊楽寺に有縁か
〈薬師釈迦阿弥陀堂(国宝)〉
太田山大願院豊楽寺は大豊町太田口
にある。藤原期の仏像(重文)を蔵
する事実に秘められたものはなかろ
うか。
支配者の寄進は、寺の法力を借り
承安三年(1173 年) 橘右馬允公忠 大洗口寄附
承元元年(1207 年) 佐々木經蓮 本尊寄進
天福元年(1233 年) 粟井名主重遠 竹成名寄進
(雲辺寺来歴汚隆記、中之坊地蔵院縁起)
−7−
た治政と理解し得る。これらから、
寺が行政の中心的役割を果たした重
要な院(役所)であったことが推察
される。
▼
◆落人の伝説は寺の法界、庇護では
千手観世音坐像〈高尾観音堂〉
ないか。
文治元年(1185 年)八島の落人(伝 阿弥陀如来坐像という)
建暦三年(1213 年)鎌倉の落人(和田の乱)
寛元二年(1244 年)道範(神恵院 32 世)流刑で来地
宝治元年(1247 年)鎌倉の落人(三浦の乱)
弘長元年(1261 年)時頼の回国
(西讃府志)
亡命者が来地、仏縁の加護を求め
たことが考えられる。四国中央部は
地蔵院地域であった故に、世を憚っ
て渡世した人々いわゆる敗者とか落
人と伝わる人が山中に住んだ。よっ
てさまざまな口伝や数多くの仏像な
どの文化財が残っているものと考え
る。中でも鎌倉の落人、井関左衛門、
有木左衛門、比田左衛門、川内兵衛、
関谷兵衛の5名は、それぞれ開地し
た土地に地名が残った。その他、和
田、三ノ浦(箕浦)、村松、寒川と注
目すべき地名が多々あり、和田は古
代熟田津(にぎたづ)の遺跡が極め
て強い地点である。
最明寺:弘長元年(1261 年)
北条相模守時頼入道最明公が
諸国巡錫の時、最明谷(さめ
だに)に創始した。
(北条市史)
時頼回国の話が各所に在ることは、
反対分子の動向を調べたのではない
かと疑う。
◆郷ノ坊は現在地(現萩原寺)か。
中之院三十二代常光上人隆覚号廟之法院印 賜紫内供人王八
十九主 亀山天王文応二年勅願ノ事アリ 綸旨度々降ル 後二条院
嘉元三年五月十五日亀山院帝崩御 翌春奉送後遺髪 於当山令
筑御廟ヲ桜ケ岡陵是也 所奉添 後遺髪三足蛙之香炉及玉硯色々
当山ノ重宝トシテ上人守諒闇而廬御廟前コト三年其菴ヲ号四ッ葦菴之ナリ
(悉大永三年記録見)
此所有彼仏法石俗云 王之輿懸石ト毎歳七月十三日一山之衆徒於
御廟前理趣三昧行之 (或説云亀山之后妃詣 御廟節 輿懸此
石故名アリ) 隆覚 第九十主後宇多天王 弘安三年庚辰十二月
十五日化去 (雲辺寺過去帖)
年行寺 第四十一代 薩■法印義誠
文明二年 亀山法王 修補瓶萱 (雲辺寺過去帖)
◆亀山院帝の御陵「桜ケ岡陵」があ
る。
亀山院帝は晩年雲辺山に遊び崩御
す(資延家々記)。法皇の没年地は今
も不確かであるが、ここにはこのよ
うに明らかに記されている。この院
帝は山伏であったらしく亀割道・櫃
負観音や大だらいの地名が残り、萩
ノ局の艶話などの昔話が伝わってい
る。
桜ケ岡は萩原かもしれない。菊の
入った壷が五輪塔の下から出土して
いる。
承安三年(1173 年) 橘右馬允公忠 妃ノ郷大洗口寄附
弘安三年(1280 年) 権律師襌智坊移郷坊
文和二年(1352 年) 円頓房隆金遷惣門於郷坊
永亨十一年(1439 年)真恵上人徒寺務於郷坊 (雲辺寺来歴汚隆記、中之坊地蔵院縁起)
これまでが前期の歴史である。現
在の仁王門は鎌倉様式を伝える(全
国に2例)から郷ノ坊に遷した惣門
に比定も出来る。戦国末期か江戸初
期に改造したことで建立当初と違っ
たことが惜しまれる。細川勝元は護
摩堂を寄進したが、仁王門と混同し
て伝わったのではないか(研究を要
す)。真言寺院の一般様式とは異り、
方丈のある禅宗様式を持つところに
当時の経始(縄張り)を忠実に残し
ているようだ。方弘坊、新蔵坊は僧
兵のいたところの口伝がある。強力
な武将も法力を利用した治政が必要
な点を考慮した時、この郷ノ坊は斎
藤氏が貞和二年(1346 年)来地し藤
目城ができるまで寓居したと考えら
れ、長井左近将監は一族に当たるか
らこの法縁も関係するだろう。
地蔵堂免田 (略)
応永十六年 政所明覚(地蔵院文書)
縁起から抽筆した時、郷の坊は現在
銘の「永亨五年三月八日権律師大阿
地に相当すると判断し得る。
闇梨亮宥」とは、金堂跡に薬師堂を
古文書に「真恵上人、川向かいで
祀った年月を裏付けると理解できる。
ある現在地に中興すると共に、山頂
は輪番の住侶を置くに至った。草創
地は金堂跡に薬師堂を残して荒廃し
▲京城の推定地
た。」とある。また薬師如来坐像胎内
(タカススキ山頂から)
−8−
▼金堂跡(現薬師堂)
▼仁王門
◆長曾我部元親が本陣にして讃岐押
①仁王門〈昭和 58 年6月 28 日町文
領した。
化財指定(建造物)〉
人王百七主正親町院天王ノ頃
長 曾 我 部 元 親 公 問 尋 数 度
(雲辺寺過去帖)
にある。屋根は本瓦葺きで門として
地蔵院中興、真恵上人は風早の護
当地には四国の要、藤目城があっ
間口が三間、入り口が一ヶ所、控柱
持院の住僧である。真恵上人は応永
た。天正四年(1576 年)正月頃から
が八本からなる。棟の下に位置する
の末頃来地、当院に入院、郷ノ坊に
長曾我部は讃岐に手兵を送り、小競
り合いの後5月と9月に大きな争い
四本の親柱は丸く、親柱の前後にあ
る控柱は四角にするなど正規の造り
になり藤目城に斎藤一族は討ち死に
で、組物は舟肘木とし棟は一棟とす
した。讃岐連合軍はすぐ反撃し(1
るなど木割の細い簡素なものとして
ヵ月後と言われる)敗退させた。天
いる。柱の面取りは大きく、強い反
正六年(1578 年)に再来し藤目城を
りをもつ垂木や延びのある肘木など
取り、この寺を本陣にして讃岐攻め
に江戸時代初期の建築手法がうかが
をした。この為、多くの寺宝が残さ
われる。しかし、過去の改造が大き
れたことは寺には幸いであった。天
く当初の姿を損じていることが惜し
正十三年(1585 年)秀吉四国征伐に
長曾我部は敗退し土佐に帰った。
まれる。(大野原町の文化財)
密護山護持院神護寺
嘉元元年(1303 年)開基
今恵日山観音寺光徳院
(蒔田清員住職)
北条市高田甲 797 番地(北条市史)
永亨五年(1433 年)移ったことが真
実のようである。
◆細川勝元の祈願所になる。
歳暮之祈祷之巻数給候目出度候也
恐 々 謹 言
十二月晦日 地蔵院 勝元
花押 (地蔵院文書)
慶恵上人に帰依した細川勝元公は、
この寺を戦勝の祈願所にしたり四国
大門より本堂に向かう山道の途中
はめずらしい寄棟造りの形をとり、
門の形式は三間一戸八脚門といって
②彩絹墨書急就章(伝弘法太師筆)
の総本山にして寺の振興に力を尽く
◆持宝院と地蔵院の二つの寺になっ
〈大正5年5月 24 日重要文化財指定
したことから、当山で最古の建物と
た。
(書蹟)〉
認められる護摩堂はこの時寄進した
前半の 600 年は全く一寺であった
「急就章」とは漢の史游の書いた
と考えることが妥当ではないか。仁
が、真恵上人が中興して現在地に移
四巻三十四章の手習本で、中には人
王門のことと護摩堂とが混同されて
ってからは山頂にも輪番僧を置くよ
名や動植物楽器などいろいろな物の
はいないか。宝徳元年(1449年)
うになった。
名が覚えやすく書き並べてあり重宝
の護摩堂建立寄進が真実であれば建
幾度かの変遷はあったが、元禄五
年(1692 年)寺僧の争い(領主の争
がられたものである。
萩原寺の「急就章」は五色の練絹
いで公訴することになったと思われ
に流麗な草書で書かれたもので、各
物と一致するところである。
る)から、山頂の持宝院は宝永7年
文字の傍には楷書で小さく朱記され
(1710 年)仁和寺直末になって二寺
ている。寺伝によると、空海は中国
に分かれた。今でこそ雲辺寺と言う
留学中皇帝から王義之の書いた「急
が、江戸時代はどの記録にも持宝院
就章」を拝領した。帰朝後、嵯峨天
となっている。千手院は高尾観音堂
皇がそれを所望されたので写しを作
のことであり、雲辺寺は歴史の真実
り、それを留めて献上した。その写
を狂わせてしまった。
しが当院に伝えられたものである。
「急就章」は古来文人墨客の間に
は有名で、徳川綱吉もこれを閲覧し
た。その時僧隆光は、東寺の南谷に
▲護摩堂
−9−
▼彩絹墨書急就章(伝弘法太師筆)
▼絹本著色観経曼荼羅図(恵心僧都筆)
命じて楷書で書かせた。これが「急
は慈覚大師円仁(794 ∼ 864 年)が
④絹本著色観経曼荼羅図(恵心僧都
就章点譜」で、僧隆光はその様を
中国・唐より請来したと考えられる。
筆)〈大正8年8月8日重要文化財指
「急就章弁見記」に記した。いずれも
しかし、実際に日本で製作されるよ
定(絵画)
〉
当寺に保存されている。(大野原町の
うになったのは11世紀末頃からと
観経曼荼羅図は「観無量寺経」の
文化財)
思われる。図様全体は的確に描かれ
経説を視覚化したもので、観経変相
描線はのびのびしており、その製作
図とも呼ばれ、また阿弥陀仏の浄土
が鎌倉時代前期であることを示して
いる。県下に現存する密教絵画中の
を表現しているので阿弥陀浄土変相
図とも呼ばれる。本図は、つぶさに
最古最優秀作品であるばかりでなく、
は中国・唐の善導大師(613 ∼ 681
現存する法華曼荼羅のうち異色ある
年)が著した「観経師帖疏」によっ
善・息災のために修せられる法華会
図像として貴重な作品の一つと言え
て描かれている。日本で最古の遺品
の本尊に用いられるもので、日本ヘ
る。(大野原町の文化財)
は奈良・当麻寺にある綴織の観経曼
③絹本著色 法華曼荼羅図
〈昭和 42 年6月 15 日重要文化財指
定(絵画)
〉
法華曼荼羅図は密教で滅罪・生
荼羅図で、当麻曼荼羅図の名で知ら
れている。本図は、その当麻曼荼羅
図を四分の一の大きさに縮めて描い
たものである。現在、絵画には剥落
などの損傷がかなり認められるもの
の、全体として旧態をよく残してい
る。その製作は鎌倉時代末期であろ
う。(大野原町の文化財)
⑤萩〈県自然記念物大野原町文化財〉
萩原寺境内には約二千株の萩が生
い茂り、九月になると森厳な霊域に
紅や白の花が美しく咲き乱れ観光客
を楽しませる。
昭和 46 年、県自然記念物の指定を
受けテレビ紹介されてから一躍有名
になり、盛期には県内はもちろん遠
く阪神・山陽方面からの来客も多く
交通規制が行なわれる程である。萩
原寺と町観光協会の協力で肥栽管理
も行き届き、萩祭りには文化協会の
協力により楽焼きや盆栽・墨彩画の
展示会やら萩の花に囲まれての茶の
湯も行なわれる。
▲絹本著色 法華曼荼羅図
−10−
戦国乱世からの転生
「戦国三好一族の伊吹島三好氏」
◆伊吹島
観音寺港の沖合海上三里、伊吹島
に定期船伊吹丸が一日4往復する。
豊後水道、鳴門海峡を出入口とする
干満の海流が瀬戸内海の燧灘でちょ
うど停止して潮目をつくる。そこに
伊吹島が浮かぶ。
海底からブクブクと気を吹く「気
吹き」からとも、また弘法大師が丈
六の薬師像を彫刻した光を放つ「異
木」から、また水の不足する島に杖
をもって恵みの閼伽井を湧かせた
「井吹」からとも、イブキの名の由来
が伝承される。
「井戸に樋(とい)かけよと急ぐ島の
喜雨」と詠まれるように、天水を頼
りとした生活であったが、1984 年に
吉野川の池田ダムから分水された香
川用水の延長として海底水道が敷設
されて渇水の憂いがなくなった。天
水に頼った跡が「平井の泉」、「つく
だの泉」などに遺されている。
台状地の伊吹島には高台に人家が
密集している。人口は 1956 年には
4448 人に達していたが、現在は
1193 人。それでも、故郷を伊吹島と
する本籍人口は現在 4657 人とピ−
ク時よりも多い。出稼ぎで住居を移
しても故郷への強い絆を保ち、盆と
秋祭りと正月には帰省し同族と共に
再会を喜び合う。
伊吹島は米の生産がない島だが、
燧灘の潮目は絶好の漁場であって、
かつては「日本一のイリコの島」で
あった。海辺の低地には赤、青、緑
と 18 の網元のイリコ加工場の屋根が
並び、1985 年にはカタクチ鰯の漁獲
高は4万4千トン、販売額は 40 億円
を越えるほどであったが、最近は7
千トンほどにまで減っている。それ
でも伊吹島漁協は、県下有数の組合
として観音寺港にも拠点をもってい
る。
◆ 戦国三好盛衰記
本四三橋時代として、秀吉の「四
国征伐」のル−トに明石大橋・淡路
島・鳴門大橋、坂出・児島の瀬戸大
橋、今治・尾道のしまなみ海道が開
通、それに伴うχハイウェイの連結
で阿波、伊予、讃岐、土佐の四国が
「阿伊の讃土(あいのさと)」として結
−11−
ばれるようになった。
徳島高速道が、戦国三好氏の本拠
のひとつであった岩倉城跡(美馬郡
脇町岩倉)を串刺しにして進んだ。
そのことに悲憤慷慨、一過性の祝賀
イベントを横目に『戦国三好盛衰記
―阿伊の讃土、青嵐の群像―』(PH
P京都)を発刊した。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の
出現する直前に、堺、京、畿内を支
配した戦国三好一族の壮烈な生死の
様を、三好元長の弟で奇跡的に 80 有
余年を生きた笑岩三好山城守康長の
独り語りの形式で紹介した。
戦国三好一族の盛衰は応仁の乱か
ら信長、秀吉による天下統一までの
約100年間の間、系図では三好之
長からの五代である。
讃岐の宇多津、阿波の秋月、勝瑞
を拠点として讃岐、阿波、淡路を支
配した細川氏の威勢をうけて三好氏
が勢力を拡大、応仁の乱後に之長が
京畿で活躍して基礎を固め、元長の
時代には足利義維(よしつな、後に
義冬)と細川晴元を将軍、管領とし
て「堺幕府」
(今谷明『戦国三好一族』
新人物往来社刊)を開き、その後の
長慶らの時代(1549 年∼ 1568 年)
に天下をとったのである。
堺が「黄金の日々」を謳歌したの
は三好氏の時代で、そこに三好海船
館、海船政所を開き、堺の会合衆の
天王寺屋津田宗達・宗及、武野紹鴎
の後を継いだ今井宗久、佗び茶の大
成者の千利休、油屋伊達常言・常祐
らと共生して堺を兵站基地とした。
三好長慶、義賢、冬康、一存(カス ゙ マ
サ)の四兄弟が一族の同名衆や国人衆
に支えられながら、長慶が京畿、義
賢が阿波、水軍の安宅家を嗣いだ冬
康が淡路、嗣子のなかった十河景滋
の後を嗣いだ一存が讃岐を支配し、
互いに連携して威勢を拡げた。最大
の勢力範囲は阿波、讃岐、淡路を本
拠に摂津、河内、和泉、山城、大和
の五畿内、丹波、東播、東予など 11
ヵ国に及んだ。
その全盛時代の 1556 年には、長慶
が堺に東西八丁、南北三丁の寺域へ
壮大な南宗寺を父元長の 25 回忌に建
立。また義賢が帰依した日晄に東西
三丁、南北五丁の寺域を寄進し、日
晄の父の油屋常言、兄の常裕らの寄
進によって妙国寺を建立して、現在
もその名と遺品を残している。後に
十河一存の子であった義継が、逆縁
で死んだ長慶の嫡子義興の後を嗣ぎ、
長慶の菩堤を弔うために大徳寺聚光
院を建立した。聚光院は大徳寺方丈
に一番近く位置し、その隣りが秀吉
によって建立された信長菩堤のため
の総見院である。また聚光院には千
利休も葬られて千家茶道の本拠とさ
れ、毎年2月 28 日の利休忌には盛大
な茶事が催されている。
戦国三好一族の斜陽は豪傑の十河
一存の病死から始まり、三好義賢の
久米田の合戦での討死、松永久秀の
讒言によるとされる長慶による安宅
冬康の謀殺、そして長慶の病死によ
って決定的となる。
長慶の死後、三好の威勢は松永久
秀と三好日向守長縁(ながゆき)、三
好下野守政康、石成主税介友通の三
好三人衆の合議制で維持された。
三好三人衆と松永久秀は、1565 年
に室町幕府第十三代将軍足利義輝を
▼
三好之長、元長、長慶肖像
二条館に攻めて拭逆し、第 14 代将軍
に阿波(平島)公方足利義栄(よし
ひで=義冬の子)を就位させた。義
冬、義栄父子の執念の将軍就位が実
現したのは 1568 年2月から9月迄の
間であった。その前年 10 月には、三
好三人衆と松永久秀、三好義継の二
派に分裂して東大寺で合戦し、大仏
殿を炎上させ盧舍那大仏を溶解させ
る悲劇を発生させていた。
1568 年9月には、尾張、美濃から
鬼神の織田信長が足利義昭(義晴の
子、義輝の弟、義栄と従兄弟)を奉
じて上洛し、三好勢は京都から追わ
れ、14 代将軍足利義栄は阿波の撫養
(むや=鳴門市撫養町)に逃れたが9
月 20 日に病死した。
松永久秀は茶器の大名物九十九茄
子(つくもなす)の茶入れを信長に
生命乞いに献上して許され、信貴山
城主となった。三好勢のうち義継が
河内若江城(東大阪市)に存続を許
され、義継は、義昭が信長を御父と
した蜜月の期間に信長の媒酌で義昭
の妹を娶った。
将軍の権威を誇る義昭と天下布武
を旗印とする信長の蜜月は長く続か
ず、1573 年には破局を迎えて義昭が
宇治の槙島城に篭もり織田勢に抵抗
したが、一蹴されて京から追放され
室町幕府の滅亡ということになる。
この時、義昭は槙島から逃れ、途中
で土一揆勢に襲われて乞食のような
姿で義弟の義継の若江城に転がり込
んだ。義兄の義昭を匿ったことで、
義継の若江城は織田勢の佐久間信盛
の大軍に包囲された。11 月 19 日に義
継の家老の多羅尾綱知、池田教正、
野間佐吉が示し合わせて反信長を説
−12−
く金山駿河守を謀殺して信盛の軍勢
を城内に引き入れた。そのために義
継は多勢に無勢で天守閣に追い詰め
られ、奮戦のあと十文字に切腹して
果てた。義昭は十日前に若江城から
堺に、さらに紀伊由良の興国寺に逃
れていた。
◆伊吹島三好氏
三好左京大夫義継の若江城落城、
そして討死の悲運の時に、義継の血
を承けた義兼、義茂の兄弟が別れ分
かれに逃れた。
義茂は京の公家に匿われ、大川市
太郎と改名して讃岐獅子ケ鼻城(豊
浜)の大平伊賀守国祐を頼って落ち
延び、伊吹島に家臣と共に住んだ。
義兼は若江城から阿波勝瑞に帰国
したが、勝瑞は安住の地とはならな
かった。阿波が内乱状況となったの
である。細川持隆の遺子細川真之
(さねゆき)が反三好の細川旧臣の勢
力に支えられて那賀郡の仁宇谷(鷲
敷町)へ勝瑞城から脱出し、三好長
治が討伐の軍勢を出したところ、一
宮城の一宮成助らに背後から謀かれ
て別宮浦で自刃に追い込まれること
になる。長治の後を讃岐十河氏を継
いでいた存保(まさやす)を呼び戻
して継がせたが、三好勢の内紛に乗
じて土佐の長宗我部元親が阿波の反
三好勢と結びながら進攻し、1582 年
に中富川(藍住町)で三好勢五千余
りと長宗我部勢二万余りが激突、中
富川を血に染めた。討死にした名の
ある将兵で首級注文帳に記されたの
は三好勢 763 名、土佐勢 560 名とさ
れる。十河存保は勝瑞城を明け渡し
て讃岐虎丸城(大内町)に敗退した。
出水 康生(いずみやすお)
徳島市八万町在住
本名:泉康弘。神戸大学文学部卒業、'99 年 3 月まで徳島県内で教論。傍ら、徳島
地方史研究会、徳島ペンクラブに所属し阿波藍流通史、藍商人、関寛斎等を研究。
著書に「私のエンマ帳」「藍の豪商」「ふるさとの思い出写真集 小松島」「戦国三
好盛哀記」、共著に「歴史評伝 蜂須賀斉祐・維新の迷妄」(徳島新聞連載)。現在
「知恵の輪と和の無尽講・吉野川文化研究所」を主宰して作家、文筆活動。
その時、義兼主従八十余騎が弟の義
茂が移住していた伊吹島に渡ったと
言われる。
長宗我部元親が阿波讃岐に進攻し
て讃岐を支配下に入れ、伊予も手中
にして四国制覇を誇ったのは 1585 年
の春のことであったが、その時には
織田信長の威勢を継いだ豊臣秀吉の
「四国征伐」が準備されていた。6月
には、秀吉の弟の秀長率いる三万、
秀次の率いる三万が淡路の福良で合
流して鳴門の渦潮を大小八百余艘の
船で押し渡って阿波に攻め入り、蜂
須賀、黒田、宇喜多勢は讃岐から阿
波へ、毛利勢は新居浜に上陸して総
勢九万余が阿波の各城を主戦場とし
て戦い、7月下旬には長宗我部勢は
土佐一国の安緒で土佐に退却した。
阿波十八万石は蜂須賀家政に、讃
岐十七万六千石のうち二万石を十河
存保、十五万六千石を仙石秀久に、
伊予三十五万石は二万三千石を安国
寺恵瓊、一万四千石を久留島康親、
三千石を土居助兵衛、三十一万石を
小早川隆景に与えられた。
伊吹島は瀬戸内海水運の要衝でも
あって、四方への警戒をしながら三
好義兼、義茂(大川市太郎)兄弟ら
は伊吹島で時勢の鎮まるのを息をひ
そめて待った。先住の合田島之輔が
開拓を始めていたところに三好義茂
主従が移り住み時勢を待って共生し
ていたが、その後に兄の義兼主従の
八十余騎が移住した時に摩擦が発生
した。長宗我部勢が天霧城の香川信
景を調略し、信景の聟である大平伊
賀守国祐の娘聟に島之輔の嫡男の合
田助十郎がなり家老の地位にあった
ことで、伊吹島の合田勢と三好勢が
対立することになったのである。両
勢は 1588 年伊吹島内で合戦し、合田
島之輔は討ち死にし義兼も島の最も
高所の鉄砲石で切腹して果てたとい
う。この4年前、九州征伐の途次の
豊後戸次川の合戦で、島津勢の釣り
鐘戦法の術中に軍監の仙石秀久の短
慮によって陥り、十河存保、合田助
十郎らの讃岐勢、長宗我部元親の嫡
子信親が壮烈な討ち死にをして、讃
岐、土佐の形勢が変化していたのに
である。
この合戦以後、合田勢は島の東部
の中低地、三好勢は島の西部の高地
部の高岸を中心に住み分け、互いの
婚姻関係は持たぬ暗黙の対立が長く
続いたという。
島の守護神の八幡神社の祭礼には、
西 部 ( 三 好 )、 東 部 ( 合 田 )、 南 部
(中立)の祭り屋台「ちょうさ」が担
ぎ出され、互いの威勢を競い合って
きた。神輿は大漁旗で飾られ、船に
載せられて島の要所を巡る。八幡神
社は島民の合一を図るものとして祀
られ、重厚で威厳を備えて島の中央
部に鎮座する。八幡神社には三好中
務少輔義兼、同苗甚太郎義次の名を
刻む大鏡、義兼と嫡子源兵衛、二男
裕右衛門、三男三郎兵衛、四男十郎
右衛門の名と、天正十五年八月十五
日(1585 年)と刻まれた小鏡の二枚
の白銅鏡が奉納されている。
伊吹島には、言語学上で注目され
る京言葉、アクセントや民俗学で注
目される「出部屋(=産院)」の習俗
が残っていた。また、伝統行事の
「百々手祭り」が故郷の伝承として残
され、それはNHKテレビで放映さ
れた。
1873 年の「壬申戸籍」では、戸数
186 戸、人口 1075 人、そのうち三好
姓 55 戸、合田姓 26 戸、伊瀬姓 11 戸、
篠原姓 10 戸、久保姓9戸、真鍋姓6
戸、川端姓5戸、吉田姓5戸などの
ように、三好姓が圧倒的多数を占め
た。義兼の四人の子の四系統が本
家・分家の関係を保ちながら、三好
を名乗ったのである。義兼は白幡大
明神として祀られ、合田島之輔の墓
も写真のように存在する。
戦国乱世から四百年余り、戦国三
好氏の血を承けた人々が島の墓所の
墓石に三好の三階菱、釘貫や変形の
違い枡の紋章を刻んで、戦国三好一
族の末裔の心意気を伝えている。
この夏の盆の墓参に帰省していた
三好兼光さんの案内で、豊浜の加地
善一夫妻、その長男さんと共に島内
の遺蹟を巡った。八幡神社では神主
の宇都さんに貴重な鏡を拝見させて
頂き、民俗資料館では久保 次郎さ
んが長い年月をかけて収集した貴重
な資料の説明を川端館長から伺った。
また、兼光さんが三好一族の方々に
声を掛け、同行して泉蔵院を参拝し
た。
兼光さんの本家の三好八千子さん
が、父の辰治さんが盲学校の後藤博
校長に描いてもらった三好之長、元
長、長慶の三幅の肖像掛軸を持参し
て下さり、三好の末裔の心を伝える
ものとして感動した。また、兼光さ
んの父の秋光さん、八千子さんの父
辰治さんが調査された多くの資料に
よって伊吹島三好氏のことが教示さ
れた。
春日旅館での夜は、枡屋系統の本
家当主の三好八十徳さんらに古文書
資料を拝見し、共に伊吹島の今昔を
偲んだ。
▲合田島之輔の墓
▲白幡大明神(三好義兼)
▲伊吹八幡神社
−13−
林 博章
〒 771 − 0142
徳島市川内町沖島 447 − 20
Tel 088 − 665 − 2060
Fax 088 − 665 − 7381
さあ、今回も楽しく紙面を使って
やまと
「倭国(邪馬臺国)は
阿波・東讃だったのか!」
古代阿讃の失われた歴史の記憶
もう月日の経つのは本当に早いも
坂東氏に現地を案内してもらったり、
ので、創刊号から5号まで、順調に
自分で神社の写真を撮りに行ったり、
古代阿波と東讃の失われた歴史を紹
古代遺跡を調べたりしているうちに、
介してきました。その紹介を続けて
これは真実だと確信するようになり
いる間に不思議にも、そのことを裏
ました。その中でも驚きなのが、坂
付ける大きな発掘成果が全国紙を賑
東家に代々伝わる空海の予言でした。
わせました。今回読者の皆様方に伝
それは、「鉄の橋が四国と本土の間に
えたい事実は、先月8月に徳島新聞
架かった時、3匹の狐が阿波に帰っ
等に大きく紹介された鳴門市の「大
てきて、失われた歴史が明らかにな
代古墳」発掘成果から見える倭国は
ってくる。」というものであり、21
(邪馬臺国)阿波・東讃だったのか!
世紀を迎えた今それが現実のものと
いきたいと思います。阿波と東讃が
日本の歴史の発祥地であった。その
ことを考えるだけで、胸がワクワク
してきませんか。また、歴史をひも
ときながら、混迷する日本の未来に
この阿波・東讃からメッセージを発
信しましょう。
前回までのポイント
前回までの基本説は、古代阿波研
究会の坂東一男氏(著「狐の帰る国」)
に学んだことを中心として、岩利大
閑氏の著書「道は阿波より始まる」
及び「シナリオ道は阿波より始まる」
シナリオ・脚本笹田孝至氏/監修岩
利大閑氏を参考にしながら、最近の
調査結果及び発掘成果を重ね合わせ
た上で構成しています。その要点は
次のようなものです。
です。倭国(邪馬臺国)阿波であり、
して浮上してきていることに私自身
近畿大和は、大倭であったとの説は、
驚きの念を隠せません。坂東家に伝
古代阿波研究会の坂東一男氏著「狐
わる空海の伝承は、次回以降に詳し
の帰る国」・阿波国国史研究会の岩
く紹介したいと思いますが、四国の
利大閑・笹田孝至氏が「道は阿波よ
謎を解明するキーワードは空海の果
り始まる」「シナリオ道は阿波より始
たした役割、とりわけ現在、世界遺
まる」等の中で説かれていました。
産登録の動きが日増しに高まってい
それが、いよいよ、考古学発掘成果
る四国霊場の謎を説くことにあると
女王国の東、海を渡ること千余里。
とあいまって日本の歴史の表舞台に
いえるでしょう。香川県も空海四国
また国あるも、皆倭種なり。
登場しようとしています。
霊場に纏わる謎をひもとけば何か一
筋の糸が見えてくると思います。
坂東一男氏との出会い
私は倭国は阿波であったとの話は、
今から4年前に徳島市八多町に住む
坂東一男氏の家に訪れた時に知りま
した。そして、興味をひかれた私は、
その後何十回と坂東氏が戦後40年
間に渡って歩いて調べてきたことを
聞いてきました。その中には、まだ
どこにも発表していない驚くべき事
実が多々あります。古事記・日本書
紀を片手に持って、坂東氏に教えて
いただいている時、現在の日本史の
枠組みの中では信じられないと思っ
た時も幾度となくありました。
しかし、回数を重ねるに連れて、
−14−
①魏志倭人伝と阿波・東讃
邪馬臺国は「やまと」と呼ばれて
いた。多くの学者がこの説を支持し
ています。
②魏志倭人伝と阿波・東讃
この一節からは、畿内説・九州説
などこの一節だけで該当しない。該
▼鳴門・大代古墳から吉野川南岸をながめる。
鳴門・大代古墳から出土した津田町火山産の石棺。
鳴門・淡路・津田とが同じ海洋民勢力でつながっていた可
▼能性が高くなった。また、大阪へも石棺を輸出していた。
当するのは四国東部だけ。邪馬臺国
時代の日本最古の地名書である倭名
石棺を使用できたのは、畿内周辺地
土佐説を説いている橋詰氏もこの一
抄には、「難波」は寒川郡にしか見当
域の極めて有力な豪族だけだったと
節を支持・注目し、昨年は土佐邪馬
たらず、仁徳・応神天皇の活躍の舞
云われている。大代古墳の他に火山
臺国のシンポジウムを開催している。
台は記紀に記載されている歌からも
産の石棺が用いられた古墳は、香川
昨年、彼に会ってきましたが、四国
四国東部にあったのではないか。
県に6例と大阪府岸和田市の久米田
は広い意味で手を結ぶ必要性がある
のかもしれません。
貝吹山古墳、岡山県備前市の鶴山丸
鳴門市・大代古墳の発掘成果
古墳があり、このうち、『久米田貝吹
■ 2000 年9月 13 日、倭国(邪馬臺
山古墳』は、大代古墳と石室の構造
③魏志倭人伝と阿波・東讃
国)阿波・東讃説を一層裏付ける衝
や構築方法が酷似しており、石室に
国々に市ありて、有無を交易し、大
撃の発掘調査結果が、徳島新聞・四
は、徳島県の吉野川流域産の板石
倭をして之を監せしむ。
国新聞を通じて発表されました。
(青石)が使用されていたのです。ま
平安時代の延喜式からは、阿波が
「さあかす」に投稿をはじめてから一
た、同古墳は、阿讃山脈山麓の標高
「倭(やまと)、奈良が大倭(おおや
年、合計今回で6回目の原稿となり
43mの尾根上にあり、全長54m
まと)と呼ばれていたことが分かる。
ますが、「さあかす」で原稿を発表す
で、後円部中央に造られた竪穴式石
阿波・東讃は古代は「倭(邪馬臺)
ることに合わせるかのように、原稿
室は、吉野川流域の板石(青石)を
国」と呼ばれていた。倭(やまと)
を裏付ける発掘成果が発表されてき
積み上げて築かれており、南北3,
の国は近畿本土に進出し、奈良に全
ます。日本の歴史の真実が明らかに
7m・幅が1mあります。石棺は、
国を監視するための前線基地である
なる時が満ちてきているのでしょう。
約40キロ離れた香川県津田湾から
大倭(おやまと)を置いた。
この紙面で書かせていただけること、
海上を運ばれた後にこの鳴門市大津
その事実の裏付ける大きな証拠は次
心から感謝しています。
町の大代古墳尾根上まで運び上げら
のものである。
■さて、その発掘成果とは徳島県鳴
れたと考えられています。この大代
奈良の王墓のルーツは鳴門西山2号
門市大津町にある「大代古墳」のこ
古墳の被葬者について徳島県埋蔵物
墳及び阿波・東讃の積石塚古墳群
とです。大代古墳は、四国横断自動
センターの菅原康夫調査課長は、「津
車道の建設ルートに伴う徳島県埋蔵
田湾岸の首長と密接な関係を持ち、
10 号墳等)
文化財センターの発掘調査によって
鳴門海峡とその一帯の港湾を掌握し
新聞等でも報道されたように、近畿
明らかになったのです。
ていた大首長ではないか」と話し、
大和王朝の発祥地と呼ばれる纏向の
■新聞発表によると大代古墳は、古
また、森浩一同志社大学名誉教授
地で東阿波型土器の大量発見され、
墳時代前期末の4世紀後半に築造さ
(考古学)は、「被葬者は、鳴門一帯
邪馬臺国時代は、四国東部勢力は朝
れた徳島県内では最大規模の前方後
の海上交通権を掌握した『海の王』
鮮半島等と積極的に交流した海洋民
円墳であり、その竪穴式石室からは、
ともいえ、南海道の祖型といえる古
であり、四国東部から機内勢力は、
香川県大川郡津田町火山産の「くり
代の瀬戸内海ルートである鳴門・紀
古墳の築造技術を導入したことは、
ぬき式舟形石棺」が発見されました。
淡海峡ルートがあったこどか確実と
香川県は全国で最も早く、4世紀代
なった」と語っています。この発見
に「くりぬき式石棺」の製作を始め
で4世紀の四国の歴史が大きく塗り
④古代「難波」は、讃岐国寒川郡し
た地域で、津田町の"火山(ひやま)"
替えられる可能性が大きくなったと
かなかった。
と綾歌町の"鷲の山"の2ヶ所が製作地
報道されたのです。
(その他:鳴門萩原1号墳・寒川町奥
「上記黒字」の事実を証明している。
岩利氏等が指摘したように、平安
として知られている。4世紀当時に
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大代古墳出土の日本最古の鎧。
▼文化的にも日本の先進性を誇っていたことが理解できる。
大代古墳出土の剣・鉾・刀。その他管玉や勾玉等の副葬品
も大量出土。被葬者は、鳴門一帯を掌握した「海洋民の王」
▼であった。
古代に阿波と東讃が繋がっていたこ
地のない事実であり、今後は同じ瀬
るでしょう。しかし、国造りの主役
とが証明された。
戸内海を支配した海洋民「海の王」
となったのは「阿波に至るための路
■この鳴門大代古墳の発掘から判明
がいたとして考えを進めるべきだと
である島」と命名された『淡路島』
した事実は、鳴門の海洋民族と津田
考えます。
と鳴門一帯の物語であり、ここに古
代日本の歴史の解釈を誤った最大の
町とは密接な関係があったというこ
とでした。私の推測では、新聞報道
淡路島・鳴門一帯の海洋民勢力が国
原因があると考えられるのです。
でも明らかなように、徳島・香川に
造りの主人公であった
■また、古事記ではイザナミとイザ
は、近畿大和朝廷に先駆けた王墓の
∼国生みは淡路島(阿波路島)から∼
ナギの国生みの際には、まず淡路島
先駆けとなる積石塚文化圏が存在し
■鳴門大代古墳の発掘成果は、私達
ている事実からは、鳴門と津田とは、
に大きな歴史的事実を提供していま
と呼ばれる四国を生んだとあります。
同族の古代海洋民族で瀬戸内海地域
す。鳴門と津田との海洋民の勢力圏
近畿大和地方は、最後の8番目に登
を掌握していた『海の王』がいたも
が繋がっていたことは説明しました
場するのです。しかも、古事記の記
のと考えています。現在こそ、香川
が、そのことを裏付ける記述は古事
述には、近畿大和地方は、「大倭豊秋
県と徳島県は県境が策定され、別々
記にも求めることができます。古事
津島=天虚空豊秋津根別」と記され、
の国であった感覚がありますが、古
記によれば、『イザナミ神とイザナギ
本国なるものから分かれたと、正確
代はそうだったとはいえない筈です。
神が日本の国生みをする前に、天の
に『根別』の国として記録されてい
古代倭国が阿波・東讃であったとす
沼矛を天地の間に架かった梯子上か
るのです。この事実は、古代阿波研
れば、その中心地は徳島市の気延山
ら下ろして掻き廻し、潮をゴロゴロ
究所会員である三村氏から教えてい
を中心とした国府町矢野付近?(ま
とかき鳴らして引き上げられる時、
ただきましたが、その事実と坂東家
た、次回以降に後述します)であり、
その矛の先からしたたり落ちる潮水
に伝わる『伝承の歌』との内容が一
鳴門から阿讃山脈を越えた津田にか
が積もってオノコロ島となった』と
致していることに驚きを感じました。
けては、倭国の前線基地・防衛基地
記述されています。この神話の原型
また、坂東家の伝承と古事記の「根
の拠点であり、貿易の中心基地であ
は淡路島一帯の海人の伝承によるも
別」の記載は、魏志倭人伝の記述
ったと推測されるのです。阿讃山脈
のとされていますが、この記述から
『国国に市あり、大倭をしてこれを監
の北側に貿易の拠点、国防上の拠点
は、渦潮が巻く鳴門海峡と淡路島、
せしむ』の記述を見事に証明してい
を構えておけば、阿讃山脈が障壁と
そして製塩造り(鳴門一帯が古代製
るのです。この日本の国生み即ち、
なって、万一他国から攻撃を受けた
塩造りの根拠地)がイメージされる
日本建国に大きな役割を果たしたの
場合において中心地を守ることがで
のです。この神話に描かれる世界は、
は、淡路島から鳴門一帯(東讃を含
きるのです。おそらく、坂東氏等が
世界一の渦潮がなびく鳴門海峡一帯
む)に住む海洋民族であったことは、
古代難波津であったと推測している
の描写とほぼ一致します。つまり、
古事記の記述にも裏付けられますし、
津田湾一帯は、中国・朝鮮半島から
淡路島から鳴門一帯・津田にかけて
また、近畿大和の王墓のルーツとな
の外国使節を受け入れたり、大倭で
の海洋民族が古事記にいう国づくり
った西山谷古墳の発掘、津田町の海
ある近畿側へ使節を差し向けるため
に大きく関わった、もしくは中心と
洋民と密接な関係を持ち、大阪岸和
の拠点であり、現在の横浜港として
なったことを如実に暗示しているの
田市にまで進出していたことは今回
の役割を果たしていたのでしょう。
です。近畿大和勢力が中心となって
の大代古墳が立派に裏付けているの
いずれにせよ、阿波と津田とは密接
国造りを進めたのであれば、近畿が
です。
な関係があったことはもはや疑う余
舞台の記述が古事記の最初に登場す
−16−
(阿波路島)を生み、次に伊予二名島
▼津田湾と天滝山…難波津とよばれた津田湾は、倭国(日本)の貿易拠点であり、防衛拠点であった。
鳴門と大阪への技術の移動
ことは、古墳技術等の移動、技術者
非ご連絡いただければありがたいで
∼東讃の難波と大阪の難波∼
の移動と共に、地名も当然、技術国
す。次回は、東讃一帯に広がる卑弥
■今回の大代古墳の発掘で、さらに
の地名がそのまま移されたとは考え
呼説も出されているヤマトモモソヒ
大きかったのは、津田町から鳴門そ
るのが常識ではないでしょうか。大
メ伝承の謎について迫ります。ご期
して淡路島を通過して大阪にまで達
阪の難波は、東讃の古代難波からの
待下さい。
する古代南海道ルートの存在が立証
技術の移動に伴う海洋民の移動によ
できたことでした。前々回の「さあ
って地名が後に付けられ、また、大
かす」に、古事記に記述されている
阪の地名も同様に海洋民の移動によ
仁徳・応神天皇が歌った歌は通説の
って付けられた。そう考えなければ
大阪市難波説では全く合致せず、東
説明がつかない成果が次々と明るみ
讃を難波とした場合にのみ成立する
になってきているのです。阿波・東
と紹介しました。ここで、平安時代
讃の方々は、様々な発掘成果が明る
の倭名抄に『難波』の地名は東讃に
になった今、技術移動・文化移動の
だけ唯一存在し、東讃難波の南、阿
ベクトルの方向を、東四国から近畿
▲速吸之門(鳴門海峡)と渦潮…
讃山脈に、2ヶ所『大坂峠』の地名
へと転換する必要性があるでしょう。
古事記も淡路鳴門を一帯とした国生
が残されていることに今一度注目す
■新世紀を迎えた今、真の古代日本
みからはじまる。そのことは、阿
る必要があると思います。
歴史が次第に表舞台に登場しようと
波・東讃の海洋民族が近畿大和朝廷
■西山谷古墳及び今回の大代古墳発
しています。鳴門西山谷2号墳・大
の土台をつくったことを意味する。
掘の成果からは、古墳技術等の移動
代古墳が発掘された今、阿波と讃岐
の方向・ベクトルが、従来の通説で
とで古代日本史(先史時代も含める)
ある奈良・大阪から東四国に向いて
の書き換えをベースとした、人々の
いるのではなく、阿波・東讃地域か
広がりができること祈っています。
ら技術が近畿に渡った事実が、ほぼ
21世紀は目前に迫っています。趣
明らかになっているのです。という
旨に賛同する方おいでましたら、是
−17−
中條 加寿男
補完性原理・環境・人権・惻隠の情
ブレジール飛鳥創造研究所代表
21世紀国益研究・讃岐神話研究・樹恩ネットワーク
茨木市西駅前町10−313
FAX 0726−27−3624
古代瓦が語る讃岐神話
先日、郷土で開催された国民文化
心礎は2m×1.15mで柱座の直
は、漢の霊帝の苗裔で綾氏の先祖の
祭の坂出万葉祭りに参加し、古代瓦
展で高句麗様式瓦の出土解説を初め
径は68cm、また坂出市の鴨寺は
仏舎利孔30cm、塔心礎1.77
讃留霊王(讃岐に留まった霊王)の
父日本武尊・賞田別・倭武天皇・仁
て聞き、この時から私の中で讃岐神
m×1.5m、柱座径71cmで、
徳天皇こそ讃王であり、この人物は
話の想像力が走り始めた。
法隆寺の3倍の規模と言われる飛鳥
阿知使主(阿智王)の子の都古使主
さて、讃岐神話の始めは、讃岐高松
寺の塔心礎が2.4m四方、仏舎利
(都加王)で、漢の霊帝の曽孫の直系
石清尾山石塚古墳にある。その特徴
孔30cmであることからも、年代
で桃太郎的人物である。讃王の特徴
は高句麗様式で平壌地域の漢の古墳
も規模も従来の説には大きな疑問が
は倭国王と自称していないことが他
の様式である。(京大考古学研究報告
ある。四天王寺型(長尾町、極楽寺)
の王と決定的に違う。彼は404年
第12冊)鏡類は 前漢鏡の「内行花
も、法隆寺型(丸亀市郡家町、宝憧
帯方郡から倭国に帰化し、413年
紋精白鏡」の最高品質のものが出土
している。「清白而事君志治之合明」
寺)も出土している。また、高松市
西春日、坂田寺跡から奈良初以前の
朝貢外交をした国際センスの持ち主
である。彼は179縣の部民を持つ
及び「願永思而母紀」の銘文がある。
統治機構で、備讃瀬戸、播磨灘の制
「長宣子孫内行花紋鏡」には、「生如
海権を掌握し、鬼の国讃岐を制して
山石」の隸書銘文があり、平壌の漢
この地を四国・九州・中国経営の本
の郡県の遺跡のものと同じである。
拠地とした。また国際的には、史記
「三角縁獣帯鏡」には、「吾作明竟大
の蘇秦・張儀の合従・連衡論で戦乱
吉宣子」とあり、獣形四、飛禽・怪
の倭国を統一していった連合体(吉
人物各一の精巧な浮彫りがある。
備氏の外権となり、狛族=宗像氏、
「三角縁 四獣鏡」には「吾作明竟自
有己
明而明世少有
延年盆寿兮」
甲族=中臣氏、木地族=秦氏)の一
王で、史記三国史を熟知した司馬曽
とあり、龍虎各二の精巧な浮彫りの
達を外交官にして、全国の豪族と文
ある漢末∼六朝のもの。これ等は全
化力、文明力、政治力で統一し、狗
国的に見ても特別の品質であり、そ
奴国と戦いながら邪馬台国の統治権
の他独特の小銅剣、鉄剣等多数出土
を継承したものと思う。珍王は、象
していた。
頭山の大井八幡の弥都波能売命で、
次に、古代廃寺は讃岐に34ケ所
金銅釈迦誕生像10cmが2体出土
讃王の弟で済王(武殻王、武卵王、
あり、畿内49寺、伊予19寺、備
している。石工、仏師、瓦師、すべ
讃留霊王)の養育者であろう。讃王
前・備中・備後の各20寺と比較し
て平野の小さい讃岐に34は多すぎ
て超一流の人材が讃岐に居たのでは
ないか、讃岐に本当の本居地が42
との関係で重要な継体天皇系とは、
越前の高句麗様式古代寺でつながる
る。ハイテク、経済力がない限り無
0年頃からあり、東征して行ったの
ので矛盾がないと思う。
理である。452年に班田制が実施
ではないか。
された後は畿内寺領田畠化している
埋蔵文化の発掘調査は始まったば
さて、神話であるが、讃岐の讃は、
かりで、各県ごとに少人数の専門職
ので、それ以前に建立され、周辺畠
倭の五王の讚の字であるが、この解
員の指導で行われているのが現状の
を寺領として運営されていたはずで、
釈は晋の武帝司馬曽達を大夫として
ようである。郷土に眠る無尽蔵の観
それが突然無くなったのは、飛鳥、
朝貢したことは史記を知る者・聖人
光資源を発掘し、神話創造を夢見る
白鳳、藤原京へ遷都で移設されたか
賢者である証、特に国際センス抜群
のは私だけであろうか。まだまだ情
らで、寺領田畠だけが残ったと思わ
れる。高句麗様式の寺は、越前(深
で高句麗・西南夷と銅頭大師像と方
物を献じている。(高句儷への仏教伝
報不足で矛盾も多々ある。ご批判、
ご意見をいただければ幸いである。
草 廃 寺 )、 備 中 ( 賞 田 廃 寺 )、 備 後
来は375年である)賞讃すべきこ
(神福廃寺)に各一寺ある。
寒川町にある石井廃寺の礎石の塔
との意味から文帝が讃の字を好字と
選した。前述の様なことが出来るの
−18−
杉村重信
綾南町滝宮 明治44年1月14日生まれ
香川県農事補修講習所で修行。仲多度高篠補修学
校教授を皮切に、農業の後継者育成、並びに発展
のため力を尽くす。90才の現在も、元気で、
楽々園理事を務めている。
∼13才の子供が袴をはき、たすき
を掛け、花笠を被って打ちます。中
踊りの二人は、錦の袴をつけ、青笠
の緑に赤・青の紙片の房を垂らした
ものを被り、鉦を鳴らして「ナンモ
デ」と唱えます。一踊り終えれば下
知(げんじ)の号令で一同拝礼し、
次の組と交替します。踊りが終われ
滝宮の念仏踊り
ば総員笛・太鼓・鉦を打ち鳴らし、
社殿を三回廻り拝礼して終わります。
これを「宮巡り」とも「揚庭(あげ
滝宮念仏踊りの由来は、滝宮天満
現在の踊りは、その後300年を
は)」とも言います。滝宮の念仏踊り
宮の祭神、菅原道真公(以後菅公さ
経た頃、法然上人がこの地に巡錫
は、昭和37年4月14日無形文化
ん)に始まります。菅公さんが讃岐
(じゅんしゃく)の折り、この踊りを
の守として在任された仁和4年(8
見て振り付けを新しくし、「大声で念
財香川県指定、昭和46年11月1
1日無形文化財文化庁選択(記録作
88年)、その年の3月頃から全く雨
仏を唱えながら踊りなさい」と教え
成などの措置を講ずべき無形文化
が降らず、5月に入っても更に干天
続きで、池や川はことごとく涸れ、
られたと伝えられています。
この念仏踊りは、綾上町6組、綾
財)、昭和52年5月17日重要無形
ムギは枯れ、田植えの準備もできず、
南町5組、合わせて11組あり、毎
昔日、阿野(あや)・鵜足(う
百姓の辛苦は目も当てられない状態
年旧暦7月25日、滝宮天満宮の社
た)・那珂(なか)の三郡に、南条
でした。
前で奉納されていました。昭和38
組、北条組、坂本組、七箇組みの四
年からは、新暦8月25日に奉納す
組がありました。
ることに変更されました。
この状態を見た菅公さんは、讃岐
に限り雨が降らないのは自分の不徳
民族文化財に指定されています。
の所為であり、これ程民人を苦しめ
踊り組は4班に編成され、毎年1
現在坂本組が三年ごとに踊りを奉
納しています。この念仏踊りは、過
るのは罪悪であると深く自らを咎め
班ずつ踊りますが、5年目には綾踊
去千年以上も踊りが継がれてきまし
られました。そして、府中の城山が
霊験あらたかな神であるというので、
りで11組全組が踊ることになって
います。
た。不思議なことに踊りの当日まで
その年の5月6日(太陽暦6月22
踊りは、境内に一同が勢揃いし、
どんな干天続きでも念仏踊りが終わ
ると必ず雨が降ると言い伝えられて
日)斎戒沐浴し、祭文を城山神社に
菩薩を象徴する子踊りを中心に、威
います。誠に雨乞い念仏踊りに相応
雨を祈ること7昼夜に及びました。
儀正しく警護に守られ、ほら貝、鉦
しい、郷土を代表する民俗芸能です。
その時百姓たちは死出の服装をして
の音に連れて行列入場します。この
この地に集まり、今や遅しと雨を待
儀式を入庭(いりは)と言います。
ちました。身命を捧げて祈る菅公さ
神前に輪を作り、神職の修祓の儀の
んの至誠が神に通じたものか、満願
後、薙刀の悪魔払い、次いで錦の
の日、天たちまち曇り雷鳴四方に轟
袴・梅鉢の定紋入りの陣羽織着た下
き、大雨が三昼夜にわたって降り続
きました。枯れかかった作物は蘇生
知(げんじ)は、太鼓・笛・鉦・ほ
ら貝の囃子に合わせて、月日を書い
し、農民たちは我を忘れて喜び勇み、
た団扇をひらめかし、周りに並ぶ警
牛頭天皇(現 滝宮神社)前に集ま
護の「ナンマイドーヤ、ナンマイド
り、神に感謝し、菅公さんの徳を称
ーヤ」と節を付けて唱える歌詞に合
えて踊り狂ったとのことです。
わせて踊ります。太鼓打ちは、12
−19−
(参考資料
綾南町誌、滝宮念仏踊
保存会滝宮念仏踊り)
女たちのマンダラ
「青春とは、人生の一時期を指す
のではなく心の様相を言う……」
があります。精神的に不安定な人の
「トラウマ」の原因は、その頃までに
私の「結婚の条件」
(現在27才の女性の体験より)
私は、美人の姉が、結婚なんてし
誰の言葉であったか忘れたが、30 代
植えつけられた感情が癒されていな
の頃強く印象づけられた詩の一節で
す。幾つになっても、心に湧き出す
い場合が多いのだそうです。
私の知り合いにも「兄弟たちの中
た。理知的で、なんでも出来るしっ
泉を持ち続け夢を追うとき、それは
で、自分だけが浮いている存在に感
かり者の姉は、妹としてジェラシー
「青春」そのもの。いくら若くても、
じられていたのですが、ある時母か
を感じるほどでした。母も娘の私が
明日に夢を描けなければ若々しい感
ら、”あんたがお腹のなかにいたとき
言うのもおかしいですが、料理上手
性は枯れてしまう。
は、生活が苦しくて、中絶しようと
でテキパキしていて自慢の母です。
あなたは、今、青春を生きていら
思っていた”という言葉を聞いた。
ないというのかが分かりませんでし
大学生になって、私も人並に恋を
っしゃいますか?!青春と言えば
私の淋しさの原因はこれだったかも
しました。姉には、何でも相談して
「恋」。どんな人を愛し、そこから何
しれないと思った。少しの間、母に
いました。「好きな人が出来たの」と
を学ぶか。
「恋心」は永遠に続くも
のではないでしょう。一人の人と一
対するわだかまりの気持ちがあった
けれど、当時の母親の気持ちが何と
言うと、姉は一瞬とまどった表情を
見せました。そして、「そう、どんな
生を共にし、ともに輝き続ける…。
なく分かるようになったら、母親の
人?」「大学の先輩なの」「それで、
結婚ーーーそれは、人と人が深く理
ことを許している自分を感じた。そ
その人は、どんなうちの人?」「よく
解し合い、男女を越えて人間として
して次には母を愛しているという感
は分からないけど、結構ボンボンっ
相手を信頼しともに研鑽しながら生
情が湧き始めた」と聞きました。
て感じかな。うちとは大違い。でも、
昨今の性風俗の乱れは……、そん
とてもいい人。純粋で朗らかで面倒
そして、「恋」は、「愛」に変わり簡
な事を言いたいのではありません。
見のいい頼り甲斐のある人ってとこ
単には壊れない相互信頼関係が生ま
中絶はいけないと叫ぶつもりもない。
ろかな」「良かったね。でも、羽目を
れると思います。童話のシンデレラ、
若いときは皆、異性に興味をもち、
はずさないで、真面目に付き合うこ
眠れる森の美女、これらの物語は王
熱情に流されそうになる。自分の生
とね。結婚を意識しているわけでは
子様と結婚するところでハッピーエ
ンドになっています。大人たちは、
き方に疑問が生まれたとき、それは
ないでしょうけど、釣り合わぬは不
自分を振り返り生き方を変えるチャ
縁のもとって言葉もあるから」
この二人の本当の物語が、ここから
ンス。一時の衝動が、一つの命を育
始まることを知っている・・・。
み、その命にたいして「親としての
きていくこととではないでしょうか。
日本の神話は、いざなぎの命とい
ざなみの命の二人が始めた国作りの
責任」というものが生まれ、その命
は次の時代を作っていく……。
そんな、会話をしたけれど、さほ
ど深刻に考えてもいなかった。
私の卒業を待って結婚しようと言
って彼は卒業して就職。東京と高松
話です。社会の最小単位は家庭。そ
そんな、小さな出来事の積み重ね
の遠距離恋愛が始まりました。手紙
して、家庭は一人の男と一人の女が
が、未来の社会に影響を与えている
と電話だけの物足りない日々ではあ
出会い、恋をし、家を持ち、子供を
ことを考えるために、「愛について」
りましたが、彼を信じ切っていたそ
作る、それがどんな家庭になるか、
考える機会を持ちたいとテーマに選
んでみました。
の頃の私は、学校から帰るとポスト
をのぞき込むのも、楽しい習慣にな
全ては二人が恋を育て愛を育む中で
っていました。
決定されとも言えますね。
「恋」は誰
子供の犯罪ーーーそれは、愛し方
にでもできる。それを、
「愛」に高め
を知らない大人たちが育てた子供た
姉は、私のそんな様子を心配そう
ることができたカップルが、子供を
ちとも言えるのではないかと思うの
に見ていましたが、何も言いません
を作る。愛し合う二人の間に生まれ、
ですが……。
でした。私は、自分も卒業したら、
愛されているという実感を持つ子供
は、健やかに育つ。
三つ子の魂 100 までもという言葉
今回は、結婚前段階の人達の「恋」
の話を特集してみました。最初は、
私の知人から聞いた話です。
−20−
上京し就職するつもりでした。勿論、
彼との結婚を夢見ていました。
絶望は、突然に訪れました。
「君とは、結婚できない。理由は、君
カミソリを持った。
のおかげで20代前半の頃、人を見
私の人生は、私が始末をつけるし
る度に“ナンテいい人なんだろう”
それは、一方的な電話でした。手紙
かない。母や姉のことを思うと、カ
と思っていた私も、やっと人を見る
と電話の回数が、徐々に減っていた
ミソリを持つ手が振るえた。
「ゴメ
目も出来たと思う(?)
ことは気になっていましたが、社会
ン!でも私にはこれしか道がない」
私は、どうも“甘い言葉”に弱い
人になったばかりの彼が「忙しいか
私の手頚には、深いカミソリの傷
らしい。あまりピンとこない人でも
ら・・・」と言えば信じるしかあり
痕がある。その傷痕が消えることは
優しい言葉を掛けられると“断った
ません。というより、私は、信じ切
ないけれど、私は姉と心を開いて話
ら悪いかな”と思ってしまうところ
っていたのです。
をすることが出来たお陰で救われた。
がある。ナサケナイ!でも、私の守
私には、彼の言っていることの意
姉は、傷付くのが嫌で近付いてく
り本尊の「観音様」にいつもお願い
味がよく分からなかった。ただ、自
る男性を遠ざけていたという。そん
しているので、自分にふさわしくな
な姉が結婚した。
い人とは親密にならないで済むとい
のほうが分かっているはず」
分は捨てられたのだということだけ
は、はっきりしているようだ。
「私、部落の子なの」と、付き合うこ
うラッキーな私です。
とを拒否するつもりでいたら「だか
というのは、誘われても出かけら
つかない時を過ごした。私は、自分
らどうしたの?」とさらりという男
れない仕事の用事があったり、急用
の気持ちの整理をするために最後の
確認のつもりで電話をした。
性に巡り会ったのだ。私に姉と同じ
ような男性が現れるかどうかは分か
があったり、無理に創作して断り文
句を考えなくても自然とそのように
「もう一度、別れる理由だけはっきり
らない。それでも、姉の毅然とした
なるのです。 これって、考えてみる
聞きたいの。このままでは、私すっ
生き方は私に勇気を与え、希望を与
とラッキーなのかアンラッキーなの
きりしない。他に好きな人が出来た
えた。
か(!?)根が楽天的なので、
「観音
茫然としたまま、数日の間何も手に
のであれば、それでもいいから、教
結婚だけが全てではない。しかし、
えて」
自分の人格ではなく自分の家系を拒
「・・・、君、部落の子だろ」
否する人と結婚しなくても構わない
意外な言葉に、愕然とした。知らな
という、そんな強さを持つことがで
かった。しかし、それで説明のつく
きたことを、姉に感謝したい。
こともある。
何故、姉が結婚なんかしないとか
たくなにいい続けるのか・・・。
様、お導き有難うございます」と感
謝しています。
と言うわけで、只今、恋人募中!
私は、保母の仕事をしています。
現在7年目。いつの間にか、中堅に
私にとって、自立した人生が今始
なり責任のある仕事を任されるよう
まろうとしているのかも知れない。
になり、超多忙の日々を送っていま
次は、おちゃめな三姉妹の登場です。
す。その上、ダンス、詩吟、エレク
トーン・・・、次々やりたいことが
何も考えられなかった。初めて愛
し、結婚を夢見た彼に捨てられただ
御縁がありましたら・・・。
出てきます。やりたいことは即始め
けではなく、その理由が、私にはど
Misuzu(26 才)保母
るのが私の流儀なので、バランスを
うすることもできないこと。生まれ
た家が悪いと言われても、私がどん
なに頑張っても変えられないことな
のだから。
20 代も後半(?)になって、本人
崩すとダウン。でも、始めたら止め
は自覚していないのに結婚を意識さ
られない性格で時間が足りないとい
せられる。
つも思っています。
「結婚する予定は?」
仕事、趣味と忙しく過ごしている
何となく、そのことは知っていた
ような気がする。しかし、確かめる
そんな言葉をよくかけられるのです。
そんなときは決まってこう答えるこ
うちに、精神的にひよわだった私も
強くなりました。職場では、先輩、
のが恐くて知らないでいようと思っ
とにしています。
同僚、後輩から、人間関係や指導技
ていたことも事実。
「部落の子」…。
「ご縁がありましたら・・・」
。
術を学ばせて頂き、子供からはパワ
でもね、心の中では“ほっといて!
ーをもらう。そして、おかあさんか
あんなにもやさしく、頼れる人と
と、あっかんべーをしているハチャ
らは将来主婦(なれるかな?)にな
思っていた人が、あんな言葉を吐く
メチャ☆おちゃめな性格の私です。
ったときの心得を教わる。
なんて、残酷な言葉だろう。
なんて。
私は、衝動的に風呂場に飛び込み、
人との出会いは特別多い。誘われ
そして、少し男性的になり過ぎた
たら飲み会(コンパ)にも参加!そ
かな・・・、と反省しているとき、
−21−
A・キアヌ・リーブス
アンリさんにお会いした。アンリさ
素晴らしい人生を、素晴らしいパ
んって素敵!!!会った瞬間、素敵
ートナーとともに送る。その理想の
Q・姉妹について
マークがスパークしました。
実現のために、私は、(いい女)(素
A・姉はやさしい。おっちょこちょ
出会った場所は、ナントお寺。ラ
敵な女)になりたいと思っている。
いなので心配。妹は甘えん坊でかわ
テンなご住職、長尾宗学さんのお話
一番の近道は、日常生活をより一層
いい。二人が姉妹でよかった。
を伺っていたときでした。宗学さん
は、お不動様。アンリさんは何だろ
充実させることかな!
次は、次女をご紹介しましょう。
Q・思っていることや、気になるこ
と(最近)
う?分からないけど、両性具備の魅
彼女は、書くのは苦手とのことで、
A・彼の頭がうすくなっていること。
力が爆発していたのかな!感動的で
Misuzu さんのQに答える形で。
おでこの生え際が特に・・・。
Q・好きなこと、嫌いなこと
した。
スミマセン!私、仏様が大好きな
女の子なもので、つい表現がマニア
誰かの役にたつ人でありたい
(自称・ Momonga)
A・好きなことーーーごろごろしな
がらマンガを読むこと。食べること。
1975 年生まれ 看護婦
映画、ビデオを見ること。日曜日の
Q・今の仕事に対する思いは
昼下がりにおしゃれなカフェでお茶
ジーパン生活から、スカート生活に
A・今の生活が仕事中心
すること。
変わってしまいました。恋人募集中
Q・将来やってみたいこと・夢(仕
嫌いなことーーー掃除、真夏に長時
と言いながら、結婚なんてシナイか
事、趣味、etc)
間外にいること
もしれないと思っていたのに、女ら
A・曲を作りたい。悩み相談室とか
しくなりたい。素敵な男性に巡り会
も・・・。
いたい。と本気で思うようになりま
Q・仕事のたいへんなところ、うれ
した。
しいところ
も、内心はやさしい。家では天下人。
A・すべてが勉強。看護婦なので
みんなからこわがられているが、家
ックになってしまいました。
アンリさんに出会ってから、私、
今、考えると、仕事が中心の生活
Momonga のこと by Misuzu
しっかりしていて、気が強い。で
族だからこそ我がままを許している。
の中で男性的な考え方をするように
(身体)と(頭)と(心)を使って、
なっていたのかも知れない。自分の
フルパワーで働いている。みんなに
子供の頃から無口で頭がよくしっ
中の「女の子」の部分に、意識を向
喜んでもらえるととてもうれしい。
かりしていたが、人前に出るのはキ
けてくれたアンリさんに感謝しなけ
れば・・・。
Q・恋愛とは
A・お互いが成長できる。相手を思
ライだった。高校に入ってから、登
山部に入ったり活動的になる(たく
いやる心を育てる。
ましく?)
今、子供たちに絵本を読み聞かせ
ながら、私の王子様はいつ目の前に
Q・結婚しても仕事を続けたいです
受験の時のこと、妹は看護科に
現れるかしらと考えています。夢見
か?どういう家族にしたいですか?
(難しいところ)行きたい。
「もしす
るユメ子さんと言われるかもしれな
A・仕事はやめたい。子供のために
べったら」と反対する母と「彼女の
いけれど、自分と一緒に歩く人ーー
家にいてあげたい。
気持ちを尊重して」という私(Mi
ー尊敬できて、心の暖かい人ーーー
Q・現在の悩み
suzu)とがケンカになった。結
互いに支え合い、協力し会い、とも
A・最近の10代の子を見ていると、
局は受験して無事合格。
に学び会う人生を築きたい。
自分の老後が心配。
妹は、私にいつもヒントをくれる。
Q・今の自分の気持ち
いつも、助けてくれる。厳しいこと
迎えるとき“ありがとう”と笑って
A・世の中、冷めた人が多い。もっ
も言うけれど、当たっているだけに
言える・・・。そんな人と一緒にな
とHOTにならなきゃ・・・。
何も言い返せない相手である。
れたら、この上ない幸せだろう。
Q・自分の彼氏について
そして、どちらかが先に(死)を
子供の頃、私がおしゃべりだった
いろんな人との出会い、毎日の生
A・すごく尊敬している。明るくて
分、妹はおとなしかったが、陰で私
活の中でいろんなことを発見して、
楽しくて前向きなところが好き。目
のケンカ相手に仕返しを黙ってして
それを自分の中で「力」に変えてい
がくりくりしてかわいい。
いたらしい… 。姉思いである。
く・・・。そして、その積み重ねが
Q・どんな人がタイプかな?(理想
自分を内側から輝かせる。
の人)
母に聞いた話だが、病院で仕事を
バリバリこなし信頼されているらし
−22−
い。(末は、総婦長…、などと噂され
る。私は、自分が悪くないと思えば
ている。小学生の頃から夏は家族み
ているのを本人は知らない)
絶対に謝らない性格でどっちかが引
かないと、仲直りできないため、い
んなで協力して生活してきた。朝早
つも彼が引いてしまう。
る中、私たち子供もそれぞれ役割を
何故か、偶然交通事故に出会うこ
とも何度かあり、プライベートタイ
くから夜遅くまでみんな桃をしてい
ムも救急しているらしい。時として
いちおう結婚はお互い考えている
持っていた。桃をちぎってカゴに入
機嫌が悪いのだが、私を理解してく
が彼がこの氷河期といわれている就
れ運ぶ役割や、風呂たき(私が高校
れる妹に感謝している。もう一人、
職をクリアしなければ結婚までは到
3年生になるまでお風呂はマキでし
こんなこわーい妹とうまく付き合っ
達しない。彼といるとありのままの
た)、食事作りなど。私達はちぎるこ
てくれている彼氏にも感謝。彼は、
自分が出せてほっとする。いわば居
とはさせてもらえず力仕事が多い。
時々家に遊びに来るので家族みんな
心地がよいのだ。この関係がずっと
知っている。かっこいいジャニーズ
続くようにがんばりたい。
系の彼は明るく社交的。アウトドア
きっと、これからもつまらない事
スポーツが好きで、二人でよく外出
でケンカをたくさんするだろう。私
している。
末っ子の Yukari さんは、さて。
ももう少し彼を立てて、自分が引か
お米はいまだに昔からのはぜ作り。
これがおいしいお米の秘密で、太陽
いっぱいにあびてかわかしたお米は
とても甘くておいしい。
このはぜ作りも家族みんなで行う。
なければならない所は引いて、精神
みんなそれぞれの役目がある。家が
的にも大人にならなければいけない
農家なので、ケンカしながらでも、
ありのままの私でいたい
と思う。仕事も恋愛も人とのつなが
自然の中で仕事が出来るせいか、元
Yukari 1978 年生まれ
りがとても大切だと思う。
気で過ごせて有り難いと思っている。
(歯科衛生士)
私はまだ21才の、子供でもなく
お姉ちゃんたちを見習いながらが
んばろうかなぁ(?)と思う。
大人にもなりきれていないひよっ子
次は、ケースワーカーをしながら、
子育て。学生時代から音楽、イラス
ト、脚本書きと多才なプロ並みの技
術をボランティア活動に生かしたい
しても、経験が浅く頼まれたものの
この三姉妹のお宅は農家です。ご
両親もそれぞれ仕事を持つ兼業農家。
何を書いていいのか分からないのが
その仕事ぶりを Misuzu さんに伺っ
おられるパワフルな福家さん(現在
素直な気持ちである。
てみました。
40 代)に、20 代の頃の恋の話を語
である。仕事面にしても、恋愛面に
仕事は、歯科衛生士というあまり
知られていない職業だが、私はこの
と更に活躍の場を広げようと考えて
って戴きました。
私の家の仕事
夢、過ぎ去りし時間
仕事に誇りを持っている。いろいろ
私の家には、田んぼと畑がある。
な人との出会いが多く、人間が生き
夏は桃、秋は米。自分のうちで食
ていく上で、最も重要な(歯)にか
べる野菜や果物も作っている。夏の
かわって多くのことが学べるからだ。
時期は桃が本格的で今は口コミでお
そして、歯科衛生士の自信をもっ
いしいと全国にお中元として送られ
て行えるスケーリング(歯石除去)
という秘密兵器で患者さんの歯周病
を予防できることが何よりも嬉しい。
仕事について、まだ二年目の甘ち
ゃんだが、これからも日々勉強して
もっと信頼される歯科衛生士になり
福家明子 たいと心の中で誓っている。
昭和 32 年3月 19 日生れ
恋愛においても、私には珍しく彼
その日は、成人式だった。私の晴れ
氏と1年8ケ月ぐらいも付き合って
着は、オーバーオール。両手に紙袋
いる。しかし、同い年のため、いつ
を下げて、朝ご飯もそこそこに転が
もつまらないことでケンカしてしま
るように家を出た私は、叔父に貰っ
う。そして、その度に彼のほうが謝
たカローラに乗り込んだ。
−23−
行き先は、とある縫製工場の寮。
そこには、私がその日初めて出会う
の子に声を掛けられても不思議なこ
ている女族によくありがちな、偽善
とではない。
的で理屈っぽい食えない女だった。
( この後、明子さんはK子さんと彼
化粧も下手だし、髪も念入りにとか
ていた。早く会って話がしたかった、
の間に挟まれて右往左往する。そし
して家を出たつもりでも、彼に会う
ずっと何をするのも一人だった私に、
てK子さんの積極的なアプローチに
ときはすでにぼろぼろくしゃくしゃ
仲間ができるかもしれないという期
待は、私を少し浮き足立だたせてい
嫌気がさしたバンカラ男の彼は、き
っぱりK子さんに別れを告げる。そ
だったりした。そんな時、彼は自分
の部屋に私を黙って引っ張って行っ
た。
して、その彼は明子さんに、交際を
て、ドライヤーで奇麗にブローして
申込む。それを聞いたK子さんは
くれた。どこで教わったのか、私よ
ボランティアグループの仲間が待っ
母は、成人式にそんな格好で走っ
て出ていく娘に、少し腹を立ててい
「なんで、あたしより、ふぅなんだよ」
り余程手慣れて上手だった。
た。口を効く気にはなれない、そん
と言いながらも、でもあんたならし
夜、遅くなってバスがなくなった
な感じだった。私のほうは、最初か
ようがないよね」と認めてくれる。
ら、私の家までタクシーで送ってく
ら成人式なんて行く気がなかったか
紙面の都合で、この部分カットさせ
れた。両親にも、きちんと遅くなっ
ら、社会福祉協議会の係長からこの
ていただきました )
た事を謝ってくれて、気難しい私の
話があったとき、嬉しくて仕方がな
彼との付き合いは、それまで本当
母の信頼も、彼はあっというまに勝
かった。窮屈な着物を着て、会場に
に殺風景極まりのない暮らしをして
ち取った。どんなときにも、必ず家
ひしめき会った渦の中、退屈な式に
いた私にとって信じられないほど鮮
まで送って来てくれた。帰るお金が
居眠りするよりも、ずっと私らしい
烈だった。
なくて、6時間も歩いて自分の部屋
最初の驚きは二度目のデートの時
に帰ったことがあると後で聞いたと
そんな私を新しい仲間は、とても
だった。彼は黙って私をブティック
き、私のような女の身の上に、こん
暖かく迎えてくれた。定時制高校に
に連れていきワンピースと靴を買っ
な良くできたドラマが突然降って湧
通う彼女たちは、私より3つも4つ
てくれた。戸惑う私の手を引っ張っ
いてくるなんてとても、信じられな
も年下なのに、みんなとても大人び
て今度は化粧品店で口紅の色まで決
かった。こんな自分に誰かがそれ程
ていて、私のほうが子供っぽくはし
めてそれを買った。それから喫茶店
のことをしてくれる筈がないと、心
ゃいでいたような気がする。
に入って、美容院代を私に渡してこ
のどこかで思いながら、それでも、
人形劇をしよう!私は出かける前
からそう決めていた。彼女たちも賛
う言ったのだ。
「 そこの美容室でその髪なんとかし
私の中で少しずつ、彼を大切な人だ
と思う気持ちは強くなっていった。
成してくれて、その日から、私と彼
てきなよ」
女たちは、人形劇を中心にした、坂
美容院を出てくるまで、彼は喫茶店
認める、いわゆる公認の恋人同士に
出市で初めてのボランティアグルー
で待っていてくれた。それから食事
なっていた。
プを結成することになったのだった。
を済ませた後、彼は私にこう言った。
成人式になると、そう思えたからだ。
私達は、次第に両親、友人たちの
彼が、大学卒業の年、いよいよ下
「 次に俺と会うときは、その服と靴
宿を引き払うというその前日、彼は
部屋に戻り友達のK子に電話をかけ
を履いて、ちゃんと化粧をしておい
熱があるのにわざわざ誕生日のプレ
た。ところが、あちらも少し事情の
で。あんた、自覚がないかもしんな
ゼントを持って雨の中、友達の車を
違うことで、私と同じくらい有頂天
いけれど、結構可愛いんだからさ」
借りてやってきた。今日中にあんた
になっていた。電話をかけた途端、
本当に今でもあんなにドキドキし
に渡したかったのだと言って手渡し
成人式で出会った香大生の男の子達
たことは無い。どちらかと言えば、
てくれたモンブランの万年筆の包み
の話をK子は延々と喋りまくった。
人に命令されたり、押しつけられた
は、暖かな雨の匂いがした。「 毎日
私の話しは殆ど耳に入らない様子だ
りするのは大嫌いな私だった。それ
会えなくなっても、これで俺にいっ
った。
なのにその時は、何故か腹が立たな
ぱい手紙を書くんだぞ」
家に戻り不機嫌な様子の母を避け、
かった。怒るより、ぽかんとして、
大学を卒業してからも、東京の寮
私はどこか羨ましいような気分でそ
彼の言葉に頷いてしまう自分が不思
から、毎日のように電話をくれて、
の話を聞いた。いつもオーバーオー
議で不思議で仕方がなかった。
毎月一度は必ず香川に来てくれた。
次元の低い奴だ、と思いながらも、
ルで化粧っ気もなく走り回る私と比
しかし、頷いてはみたものの、私
最初から最後まで、こんなにきちん
べて、ピアノとケーキ作りが上手な
はそれまで、オーバーオールで化粧
と付き合ってくれたのは、彼だけだ
K子は、着るものも物腰も、女らし
くて可愛かった。まあ、成人式で男
なんか滅多にしたことがない。ボラ
ンティアとか福祉とかを必死でやっ
ったような気がする。けれども、今
思えば、彼は必要以上に無理をして
−24−
だという訳ではない。
いた。彼のギリギリいっぱいだった
私は、母が言っていたとおりの生
だろう大人びた背伸びに、その時の
き方をしてきた。つまり、男に頼ら
今、私はすでに他界した父と、現
私は鈍感だった。
ない生活。かつての上司が、女子社
在も元気で私を叱咤激励する母が、
員の採用面接では質問するのは一つ
それなりにいい夫婦だったのかもし
のそういう鈍感さのせいだった。私
だけだと言っていたのを思い出した。
れないと思い始めている。父は、し
が福祉の仕事を本気でしたいと彼に
言った時、彼は反対した。職場を辞
「貴女のご両親について聞かせて
ください。お父さんと、お母さんは
っかり者の母と結婚したからノー天
気に生きることができた。母は、一
めて資格を取るために京都に行くと
仲が良いですか」というものだ。両
人でも生きていける人だが、父がい
言ったとき、彼は京都の下宿まで送
親の仲が良い家の子供は、男性に対
たから賢婦人として生きたという自
ってくれた。でも、もうすでに彼の
して素直な人が多いという。この上
負心を持つ生き方が出来たと思う。
気持ちは、私から遠くなっていた。
司は、営業マン教育を担当していた
私の人生は私の考えたとおりの結
京都に向かう車の中で、東京に気に
ので、秘書役に良い人材の見分け方
果になっている。「思い」は実現して
なる女 ( ひと ) が出来たという話を聞
としてこの質問を考えたのだろう。
いる。私が独身なのは、両親の結婚
突然の別れがきたのは、きっと私
私は秘書ではないが、この上司の
生活の中で「男性を信じてはいけな
りを実感した。涙が止まらなかった。
面接を受けていたら入社出来なかっ
い」という教訓を選び取ったから。
私の20才は、そういう思い出深い
ただろう。九州男児のこの上司から
姉は夫を支え続けた素晴らしい母を
恋愛が始まった最初の年だ。もしも
「恵比須は可愛くない奴だ」と言われ
お手本にして、しっかりものの妻と
彼との出会いがなかったら、私は一
続けたが、最後にはよく面倒を見て
なった。人生は与えられた環境の中
生恋とは縁遠い、殺伐とした女でい
もらった。男同士になったのだろう
で何を学び取るかで行き先が決まる。
たのかもしれない。
か?!
いたとき、出来過ぎたドラマの終わ
両親の夫婦仲が良い場合は、子供
「 一度、誰かと結婚して、ばぁさ
お子さんのいないご夫婦だった。
は自然と愛し会い支え会うことを学
んになったあんたにまた会いてぇな」
働きざかりに亡くなったこの上司は、
習する。逆の場合は、親の所為にす
と、そう言って別れた彼の言葉を、
愛妻の為にマンション経営で食べて
るのではなく、変えたほうがいいと
多分、私は一生忘れない。
いけるようにと全てを取り仕切って
思う部分を観察することだ。
ありがとうね、A君。本当に。ま
た、ばぁさんになったらどこかで会
おうね、きっと。
「夫婦仲」は遺伝する?!
恵比須暁美 1947年生まれ
旅立たれた。
「出しゃばる女は嫌いだ」
さて、私はこれからどんな生き方を
と平気で口にするが、何故か嫌いで
はなかった。その理由が今はとても
するのだろう。遅ればせながら、男
性不信にバイバイ。恋人をゲットす
よく分かったように思う。
るのだろうか。興味津津で高見の見
と言うわけで、53才になった今
物の友人たちを、アッと言わせてや
も独身。まさか、いまだに男性不信
りたいという悪戯心と、やっぱり一
私はいい恋ができない。その原因
人が気楽という怠け者で面倒くさが
は、分かっている。内緒の話(?)
りやの私が、葛藤している。もっと
だが、私の両親はいつも(喧嘩)ば
も、私のような男性的で攻撃的な女
かりしていた。父は、自称ハンサム。
性を好む男性が、私の目の前に現れ
遊び人。若い頃は、彼女を外に持っ
るかどうかのほうが、周囲の関心事
ていたらしい。母は、
「子供さえいな
ではあるのだが・・・。
ければ別れたい」とよく泣いていた。
私は、少女の頃から「男なんて、結
婚した女房には釣った魚に餌はやら
ない動物」と思っていたようだ。
母は口癖のように、
「女も経済力が
あれば、一人で生活するのが一番」
と言っていた。ただし、母は、自分
が子供の前でそんなことを言ってい
たという自覚はないらしく姪の婿に
「子供の前で喧嘩するのだけはやめな
さい」と説教しているのを聞いた。
−25−
女たちのマンダラ番外編
マンダラ欄外
「常磐」にまつわる話から
たて続けに「常磐」が目に入った。
最初は、宇多津町の郷照寺にある
「常磐明神」。何をお祀りしてあるの
かは、よく分からなかったが、鳥居
私が女になろうとしたわ・け(2)
アンリ
なる。それは、現代の人が思ってい
平成7年の夏、アンリはお盆の頃
る以上に大きな決断を要したことだ
の忙しい仕事も一段落ついたあとの
ろう。
「米糠3合(?)あれば養子に行くな」
休日、吉野川ぞいに一人でドライブ
をしていました。ある看板が目につ
の横に可愛らしい「狸」が立ってい
そんな言葉がまかり通った時代のこ
いたのですが、無視してひたすら車
た。次に、同じ日、古本屋で見つけ
となのだ。 やんちゃで、秀才で、大
を西へと吉野川の上流をめざして走
た本に「常磐御前」の話。源義経の
学時代から文部大臣になって教育界
っていました。ところが、どうもさ
母。常磐御前は子供たちの命乞いの
を変えたいという理想を語っていた
っきの看板が気になって車をもどし
為に、平清盛の女になった人。翌日、
とか・・・。理想のためなら、捨て
てみました。
新聞で坂出市常盤公園に立つ三土忠
なければならないものもある。
「お花権現入口」と書かれた看板で
した。ご存じの方も多いと思います
造の記事を読んだ。最後、原稿を掲
これは、たしか何処かで誰かに聞
載してくれる「さぁかす」は、常磐
いた話に似ている。この常磐町の人
が、お花権現さんは夫婦和合の神
町にある。
も中傷を受けつつ理想の実現のため
様?仏様?Sexの神様ですよね。
明神さん、常磐御前、三土忠造、
「さぁかす」。
に一歩も引かぬ覚悟で歩いている。
もう捨てるものはない、背水の陣。
吉野川沿いの道から南へ、細い車
が一台通れるかどうかの道をたどっ
多くの共感を得るために何をアピー
て行きました。民家の庭に車を止め
人を助けようとして自分が汚名を着
ルしてくるのだろう。みんな、刮目
させてもらって山道を登っていきま
たり傷付いたりする。時々人を困ら
(かつもく)して見守っている。そして、
した。 通称お花権現。正式には何と
せるが悪意がないので可愛い。もう
応援団も、何かを失ってもという覚
いうのでしょうか。地元では「お花
少し、うまく化けてくれればたくさ
悟が要求される時が来る。いや、来
さん」として親しまれていて御利益
んの人が救われるのに、悪知恵は働
ている。
もあるという、とても強い神様です。
明神さんの狸。狸はいたずらっ子、
かない。
死ぬより屈辱的な道を選んだ常磐
御前。子供たちが生き延びるためな
らと自分に言い聞かせ、常磐御前は
「常磐の話」、時代を変える力と意
思を持っている人達に今、考えて戴
きたい話だ。
時代を大きく変えようとする人に、
社殿やその周辺には、男性のシン
ボルや女性器そっくりの石や木がい
っぱい祭られていて、あまりSex
には縁も興味もほとんどなかったア
清盛に抱かれる。常磐の決断がなけ
犠牲を強いるものは、一人一人を取
ンリにとってはとてもショッキング
れば源氏の復権はなかったとも言え
り巻く「お家の事情」。それで、引き
な光景でした。
る。このことで、義経は、母への屈
返すのならば、笑って手を振ろう。
折した愛情を心にしまいこむことに
もう、後戻りは出来ないと言ってい
なる。英雄の心に暗い陰を落とす常
る人にこれ以上のことを望むより、
「女になれますように、すてきな男性
磐御前の身の処しかたであるが汚名
「本気」で応援する人の力で、その人
が現れますように」ムネだけで心に
をも恐れぬ強さに、目を向けるべき
に「自信」と「活力」を送ろう。も
念じました。とても、むし暑い日だ
だろう。逆に平清盛は、常磐御前の
う、終わってしまった過去に注文を
ったことを覚えています。
色香に迷い禍根(かこん)を残した。
つける時は終わった。
常盤公園の三土忠造さんは、大内
どんなに努力をしても、みんなの
社を守っているおばあさんにすす
められて、社殿に上がります。
おばあさんからいただいたお茶を
よばれてお守り札をいただきました。
「心願成就」、どうか願いがかないま
町水主の人。香川県の生んだ初めて
気にいるようには出来ない。「あなた
の大臣だそうだ。水主神社に三土忠
は、頑固に言い続けていなさい。後
造の寄付の石碑を見た時、坂出の人
はみんなでフォローするから!」今、
が何故・・・、と思った。天才とま
その人に必要なのはその一言だけ。
頑張ってきて、頑張れば頑張る程う
応援団のあなた、
まく行かないので自分の人生、かな
で言われた子供が大学を出て、大臣
になるには、お金も必要だし後援者
「to be、or not to be。It'S A
すように・・・。
それまでのアンリは、男性として
り悲観的になっていました。
も必要。 三土は養子先の姓だったと
question」と気取っている場合では
自分らしく生きれば、なんとかな
新聞で読み納得。生まれた村ではな
く、妻の実家のそばの公園で銅像に
ないかも… …。それは、私自身に
も答えを迫られている問題だ。(暁)
るかもしれない。子供の頃からの夢
だった”女になりたい”それだった
−26−
ANNRI(アンリ)
香川県生まれ。ニューハーフ、性転換中。子供の頃よ
り不思議体験をいっぱい経験する。現在、FM 高松パ
ーソナリティー。公害防止主任管理者の資格を持つ。
ら、何とか生きていけるかもしれな
男性の体に外部から女性ホルモン
い。そんな思いがつのっている頃で
が入ると、どうなるのでしょうか。
髪を伸ばしはじめると大変。上に
した。
くなっていきます。
体が女性化します。当り前ですが、
アップにできるまでは、暑さと湿気
それから一週間後、ある雑誌の交
全ては副作用です。肝臓は弱くなり
とに大変なたたかいでした。
際欄で、偶然高松に住んでいるS・
ます。血栓症の可能性は高くなりま
Hさんを知ったのです。大阪からこ
ちらに転勤で来られている方でした。
す。肌が弱くなります。男性特有の
たんぱく質同化作用が弱くなります。
らないものです。感情は豊かになり
ました。男性だと押さえる怒りや嫉
さっそく発行社を通じて連絡を取り、
つまりケガが治りにくくなるのです。
妬心は強くなって。それが顔の表面
会うことができました。
ヒフもバリアが弱くなり紫外線に対
に現れます。よく泣くようになって
心の方は、何か起こらないとわか
S・Hさんも関西方面ではかなり
しては無防状態になります。ヒフガ
しまいます。嫉妬深くもなります。
有名な(その道)の方でした。男性
ンの可能性だってあります。乳房も
でも、嫉妬心は男性のほうが強いか
の時は、超ハンサム、とても真面目
ふくらむ代わりに乳ガンの可能性も
もしれませんが・・・。
な会社員でした。それから、いろい
うんと高くなります。ただ、まだ正
一年たって、初めての夏を迎えま
ろ話をし、アンリの話を聞いていた
確なデーターがありません。医学界
した。薄着になり、胸のふくらみが
だきました。
でも未知の分野なのです。
目立つようになりました。Tシャツ
S・Hさんは、アンリを女にすべ
そんなリスクを知って、なおかつ
く病院を紹介してくれました。その
その覚悟でもって女性となる決心を
ャツを着るようにして胸を隠します。
道の情報については、さすが大阪の
したのです。女性ホルモンを体にい
ヒップは前にも増して大きくなり、
人だけあって詳しかったのです。病
れたからといって、誰でも女性化で
後ろ姿からは女性とよく間違えられ
院の先生といろいろ話して、その決
きるものでもないのです。
るようになりました。髪もだいぶ伸
心を聞いてもらって、いよいよ女性
でも、うれしいものでした。当初
なんか着られません。前ボタンのシ
びています。太陽光線が腕にあたっ
ホルモンの投薬が始まりました。お
は 10 日に一回の割で病院に通いまし
てとても痛く思えます。実際よく焼
花権現から一カ月が経っていました。
た。卵庖ホルモンを注射で1cc、
けているようになります。日差しを
アンリにとっては生まれて初めて、
黄体ホルモンを錠剤で毎日一錠づつ
自然に避けるようになります。夏や
希望に向けての第一歩の始まりです。
飲み始めました。体の変化を医者に
冬の風はとても痛いことが分かりま
でも、リスクもうんと、うんと重
いのです。本気でない方は絶対マネ
細かく報告しながら。
女性ホルモンの投薬を受けだして
した。なぜ女性が日傘を使うのか実
感できるようになりました。
しないでください。命取りになりま
3ケ月。体重が少し増えました。体
す。人生を棒に振る結果になるかも
全体に脂肪がついてきたのが分かり
知れません。自分は幸せになるかも
ます。全体に丸くなっていきます。
しれませんが、家族のある方は不幸
胸にしこりを感じます。乳首が服や
にすることになります。社会的な地
物に触れたりすると痛みを感じ始め
位のある方は、全てを失いかねませ
ます。おそらく女性の方は自分の思
ん。奥さんや子供のある方は特にそ
春期の頃を思い出すはずです。女性
うです。
と同じような症状を短い期間に通り
アンリは一人だし、・・・。リス
抜けていっているのが分かります。
クに対しての覚悟はしています。た
6ケ月後、少し胸がふくらみ始め
またま、今はうまくいっているだけ
ます。走ると少し重く感じます。お
の事かも知れないのです。でも、人
尻が大きくなってこれまでのズボン
生の保証や仕事の保証は絶対にあり
が合わなくなります。アンリはまだ
ません。世間もまだ十分に性同一性
女性の姿はしてはいません。この頃
障害についての理解はしてくれてい
の男性の姿のままです。
ません。一般の仕事は難しいと思い
当然のことですが、女性の長い髪
ます。体はなおの事です。絶対にこ
には男性もあこがれますよね。女性
わします。女性ホルモンは女性のた
化の第一歩は姿からだと思い髪を長
めのものであって男性のものではな
いのです。
くすることにしました。女性ホルモ
ンのせいか髪はしだいに細く柔らか
−27−
▲
塩
田
を
完
全
復
元
し
て
製
塩
を
続
け
て
い
る
入
浜
塩
田
と
釜
屋
な
ど
宇多津町・
すばらしきかな人
ひ と
そして
記述/山崎 良樹
人口約15000人の宇多津町は、
七世紀後半にはすでに海上交通の港
町、港町、塩の町として栄えた歴史
にふれることができます。
(津)、鵜田津と呼ばれる自然港が、
現れた歴史のある町です。
今回は町が制定した町政功労賞の
第一回の受賞者の三浦数一先生の、
数々の功績の内の一端(二つ)を紹
うたづハーモニープラン21
室町時代には将軍足利義滿の側近
介いたします。
入浜塩田の復元
の細川頼之の居館が置かれて、管領
の中心地として栄えました。お寺の
21世紀とともに更に変貌を遂げ
江戸時代中期から始まった塩田は
ていく宇多津町が目指しているの
更に拡大され日本一の生産地となり
多いことはそれに関係しています。
は、「調和がつくるひとにやさしい
ましたが、昭和47年(1972年)
また全国一の塩の生産地として栄え
未来の街」。
に幕を閉じました。
た歴史ももっています。
現在の宇多津町の基盤を作ったと
新しい鼓動と、歴史に培われてき
た文化との調和、新しいものと伝統
その後この歴史を風化させてはな
らないと提唱して、塩田の復元を立
いえる塩の生産が始まったのは、江
的なもの、市街地と農地や自然、生
上げたのが三浦数一先生でした。
戸中期ですが、明治中頃には塩田が
活の向上と環境の保全といった、と
グランドレベルは埋め立てによっ
次々と拓かれて、最盛期には日本一
もすれば対立的に捉えられがちな事
て4メートル上がっていますが、往
の生産量を誇る「塩の町」として全
国に知られていました。
柄に調和をとりながら、四国の玄関
時のままの方法を復元させるために
口にふさわしい豊かなまちづくりを
特別な技術を開発しています。また
すすめています。
これは香川県建築士会より、優良建
現在も既成市街地には、往時を偲
ばせる古い町並が残っており、門前
築賞を受けています。
▲数々の歴史を持つ町には今も至るところに往時の町並が−。 ▲ますます発展が期待されている宇多津町新都市方向を望む
−28−
▲
伊勢神宮から完全移築した宇夫階
▼製塩の完全復元のためには、条件が変わって
神社本殿、前例のないこの出来事は
いるだけに特殊な基礎工法が必要でした。香
大きな話題となった。
川県建築士会優良建築賞を受けています。
▼宇夫階神社拝殿
宇夫階神社本殿を伊勢神宮から移築
郷土の氏神「宇夫階神社本殿」の
改築に当たり、伊勢神宮の下宮多賀
ひととなり
大正9年1月宇多津町本町で出生
・宇多津町文化協会顧問(前会長)
高松工芸学校、陸軍経理学校卒業
・宇夫階神社、西光寺総代、など
宮の旧社殿をそのまま移築。実現の
現在の主な役
快挙の原動力でした。
・三浦一級建築士事務所所長
主な賞
・昭和天皇より恩賜の銀時計賜る
神宮は20年ごとにお建て替えさ
・宇多津町観光協会副会長
・香川県建築士会郷土建築調査特別
(陸軍経理学校首席卒業)
れるが、前例はなく広く大きな話題
委員会委員長
・宇多津町第一回町政功労賞受ける
となりました。
・香川県建築士会名誉会員
・叙勲−勳五等瑞宝章 ・香川県建築士事務所協会相談役
・地域安全活動により警察庁長官表
公共関係の主な役
彰、など
・宇多津町社会教育委員長
宇多津町
助役 林 正章 氏(談)
三浦先生の町の発展に尽くされた
▲油絵大作「伸びゆく宇多津町」を町に寄贈。左側は米澤正文町長、
右側三浦数一画伯。
多方面にわたる活躍には常々敬服し
ブ
が
買
上
げ
、
市
へ
贈
ら
れ
て
い
ま
す
。
ております。
シンの底から町を愛されている心
情や、発想の着眼点のたかさ、それ
に年齢を思わせない若々しい活動ぶ
りには、頭が下がります。
かって塩田が入浜式から流架式に
変革する時代にも研究、改革の先頭
に立って活躍されております。
町が制定した「町政功労賞」の、
第一番の受賞者は先生でした。もち
ろん自慢できる町民が、先生である
ことは誰もが認めるところと思いま
す。
▲自宅アトリエで50号油絵制作中の三浦数一画伯
−29−
丸
亀
市
制
百
周
年
に
は
丸
亀
ラ
イ
オ
ン
ズ
ク
ラ
紙
に
も
度
々
採
用
さ
れ
て
い
ま
す
。
ザ
ー
ル
展
入
選
な
ど
数
々
の
賞
の
ほ
か
、
雑
誌
表
術
館
に
お
け
る
第
一
回
文
化
祭
美
術
展
入
選
、
ボ
界
の
レ
ベ
ル
で
、
香
川
県
美
術
展
入
選
、
東
京
美
●
三
浦
数
一
先
生
は
、
画
家
と
し
て
も
プ
ロ
の
世
馬場弘美
高松市屋島西町在住
屋島山土の狸
お尚を北嶺に案内して寺を建立した、
293メートル、屋島の山のてっ
ぺんに暮らし始めて100年、いや
今でもその跡が残っとる、季節もこ
いや本当はもっと昔から身を隠して
住んでおった。じゃけん屋島のこと
ろあいじゃ、北嶺へ足を運んでええ
風に当たると気持ちが落着く、この
はよーう知っとる。
話が本当じゃが今では鑑真和尚じゃ
のうて弘法大師を案内したことにな
ほうら、ええかおりがしてきた、
っとる。
横の広場の隅に金木犀の木があるじ
ゃろ、東の風が吹くとわりと広い家
1100年ほど前に北嶺から今の
の中でもこんなにええにおいがして
場所に寺を移したのは弘法大師なん
気持ちがええもんじゃ、この金木犀
じゃ。屋島寺の大師堂と本堂の間に
は夫婦で一本が枯れたらもう一本も
岩がありその上に小さな祠がある。
すぐ枯れると云われとる、じゃけん
水は時々やらないけん、しんどいけ
この祠が屋島狸の住みかとなってお
る。
蓑山大明神として親しまれ、四国
んど…の。
の狸の総大将として有名なのじゃ。
わしは太三郎という、知っとるか
の、この姿では、もうちょっと、そ
家庭円満、縁結び、商売の神とし
うやの20年位は大丈夫元気でおる、
て大勢の人が参ってくれるのじゃ、
明治・大正・昭和・平成と世は変わ
有りがたいの。他にもあるある、屋
っていっきょって下界のことはよう
島寺の中に雪の庭があっての、屋島
分からんが、屋島のことならたいて
寺の住職が代わるたびに雪の庭で源
いのことなら知っとる。
山の上のみんながここで暮らすよ
平合戦を演じて住職をもてなしたの
じゃ。今の住職さんは見てないと云
うておるが、善をつんでおればその
うになる前からわしは屋島寺の前に
でんと陣どって寺を守っておった。
変わり茶店じゃのうてみやげを売る
内見ることも有るじゃろう。日露戦
店を息子がしっかりやっとる。手作
争の時はからだの毛をぬいてそれを
チリン」と鳴らし山内をくぐって寺
りのクラフト、カンカン石、藍染等、
兵隊に見せて大活躍をした、この話
へ入って行く姿は何ともいえぬ風情
嫁の自作の俳句をローケツで染めぬ
を知っとる人はようけはおらんけん
があっての、それも一人遍路が昔は
いたというのれんもかっとる。カン
のう、当時屋島寺本堂の横にある祠
多かった。同行二人と書いた金剛杖
カン石のことは十月のさあかすの本
にようけ載っとったの、あの写真は
の回りに武運長久を祈る小旗が林立
お遍路さんが鈴の音を「チリン、
を持って夜道でも弘法大師と二人で
いると思うて心丈夫に八十八ヶ所を
宮脇馨子さんの、年をとったげに写
回っておった、そんなお遍路さんに
っとる。わしが宮脇さんの寺へ行っ
熱いお茶を一服出すと、それはそれ
て馨石を風呂敷にくるんで「よいし
は大変な喜びようで、お遍路さんや
ょ」というて肩にかけるとあの娘も
旅の人の喜ぶ顔を見るのが嬉しゅう
「よいしょ」といいおった行儀のええ
て店を止めずに今もやっとる。世が
娘じゃった。カンカン石とは長い付
しておった、まだまだ太三郎狸の話
はあるがこの辺で終りにしとこかの。
次は屋島山上の「血の池」の話で
もするとしよう、また来るがええ。
毬栗の色つきて鳴る寺の鐘 き合いじゃなあ。
屋島の太三郎狸の話を
してほしいとか、聞きた
いか、ほなぼつぼつと。
唐の僧、鑑真お尚が屋
島山上の北嶺に寺を建て
た。知っとるかの、鑑真
和尚は目が不自由での屋
島の山上に来た時は雨が
降っておって難儀をした、
▲屋島寺
太三郎狸が蓑笠を着て鑑真
−30−
▲屋島寺の「雪の庭」
遠藤竹二(えんどうたけじ)
東京都町田市成瀬台 4-15-6
Tel:042-725-7003
高松市出身。香川大経済学部'60 年卒。
'98?野村総合研究所を定年退職。
現在、地域ボランティア・グループ「町田日本語の会」
の活動等に参加。
松島町 9 丁目 77 番地
少年時代に戻っていた。
「広っぱ」を後にして、「水門」の
サマガエルを突いたり、空気銃で雀、
つぐみ、からす、果ては近所の木にな
「よく遊んだなー」・・・ 60 才を過
方へと向った。小学校高学年から中学
っているイチジクや、石がけで昼寝し
ぎた元少年達は懐かしさで胸が一杯に
生になり遊び場は周囲に拡がっていっ
ている青大将まで撃った。田んぼの中
なり声をはずませた。平成 12 年 8 月
た。当時長屋のまわりには未だ自然が
で牛に追いかけられ必死で逃げた事も
19 日午前 11 時、東京から駆けつけた
一杯残されていた。土手沿いに御坊川
あった。
修ちゃん(土屋修一)竹ちゃん(遠藤
が流れ、近くの下千代田橋ではハゼや
あっという間に昼過ぎになり八栗の
竹二)と高松在住の隆彦さん(久保隆
チヌが釣れたしイナの大群が川を上っ
山田屋へ入った。「ぶっかけうどん」
彦)明ちゃん(三谷明)の 4 人は琴電
てきた。東側には直ぐ田んぼ(畠や水
を食べながら初老の男達が名前らしき
瓦町駅東口で感激の再会を果たした。
40 数年振りである。
「何はともあれま
田)が広がり、麦踏み、田植え、秋の
獲り入れ、積上げたわらぐろ、と四季
ものに「ちゃん」とか「さん」とかつ
けて大きな声で喋り合ってる様子に、
ず行こう」と隆彦さんの車に乗込む。
こもごもの風景を見せていた。町はず
周りの人もさぞ驚いたであろう。3 時
松島小学校を右に見ながら東へ一路、
れの静かな田園地帯といえば聞こえは
ごろ隆彦さんの家にお邪魔し思いがけ
千代橋を渡り左へ曲れば懐かしい土手
良いが、変電所やゴミ焼却場、水門と
ずご両親、お兄さんにお会いする。お
の道だ。舗装されているがまだあった。
言った少し危険な場所もあわせ持って
ばさんには特にお世話になった。我が
暑いも寒いも、嬉しい時も悲しい時も
いた。私達はこの環境を「遊び場」と
子同様に可愛がってもらった。これま
ここを通った。一丁程行ったところに
して最大限利用した。中でも水門には
た感激の再会である。考えてみれば、
私達少年を育んでくれた「松島町 77
よく泳ぎに行った。この辺一帯の田ん
50 年前に子供からみたおばさんも当
番地」の大地がある。
ここには昭和 12 ∼ 3 年頃に建てら
ぼの用水路が小川となってここに集め
られ小池になっていた。水抜きをする
時は 30 才代、若くてキレイなお母さ
んであった。夕方から屋島へドライブ。
れた長屋が土手をはさんで 7 棟ほどあ
ところは可成り深かった。内側の浅い
元旦まだ暗いうちから登り初日の出を
り約 30 数家族が住んでいた。長屋の
小川と池で泳ぎを覚え、10 才を過ぎ
拝んだこともあった。獅子の嶺巌から
方へ入る道は少し坂になっていて一番
る頃には水門の石橋から外側の川へ飛
暮れなずむ高松の灯を眺め感傷にひた
広くてゆるやかなのが七条の坂であっ
び込んでいた。夏の暑い日は殆ど毎日
る。「想いでかる夢かえる 夕月淡き
た。下りていくと左手にラムネ工場が
泳ぎに行った。中学生になると、もう
瀬戸の海・・・」と修ちゃんが高松夜
あり、その前が 20m 四方位の空き地
少し先の「角」(御坊川と詰田川の合
曲の一節を口ずさむ。一路西へ大的場。
になっていた。冒頭の広っぱがここで
流点)まで行き、6 尺フンドシを締め
女木島を眼前に美味しい海の幸で夕
ある。もともと子供の遊び場ではなか
ったであろうが、長屋の家は表も裏も
て向う岸に渡っては、少し大人の気分
になった。「この水門を抜いた時吸い
食。ここでも話しは延々と続く。お互
い惜別の念に駆られながら 9 時頃散
道が狭く子供達は連れ立って広っぱへ
込まれそうになり必死で門にしがみつ
会。一瞬の一日であったが、再会の喜
遊びに出た。終戦直後から本格的(?)
いて助かったんだ」「こっちの真水で
びは一生の思い出となった。
な遊び年代に入った私達には恰好の遊
はシジミが一杯取れたな」「潜ってカ
び場となった。パッチン、キンキンに
ニも捕ったよ」と話しは続く。
「あそこが隆彦さんとこの家だから、
この辺が広っぱだよ」
「そうだそうだ」
(後記)私達は修ちゃんが昭12年生で、
「角」を右へ曲がり観光道路へ出る
あとは昭 12 年生である。それでいて
馬跳び、駆逐水雷、輪まわし、コマの
道に来た。この辺は家もなくお墓があ
学年は 4 人とも別々であった。勉強の
追かけ、さらに、ドッヂボールやイン
って何となく淋しいところだったので
ハナシをした記憶が殆どない。そんな
サ、キャッチボール、三角ベース野球
等々遊びには事欠かなかった。今は 1
肝だめしをよくやった。この道から長
屋の東側まで見渡す限り田んぼであっ
ことは関係無かった。学校の友達とは
違うのである。
棟を残して長屋は全て取り壊され駐車
た。農家の人達の苦労をよそに元少年
場になっている。真夏の陽射が照りつ
達は走りまわり遊びまわった。ふな釣
ける中、元少年達は半世紀前に想いを
り、どじょう掬い、トンボ、イナゴ、
馳せた。自分達の姿が走馬燈のように
バッタ、キリギリス、なんでも捕った。
次々浮かんでくる。四人の心は完全に
蛍も捕った。ゴム仕掛けの針金でトノ
はじまり、ケンパ、カン蹴り、陣取り、
−31−
久保 隆彦
〒761−1014 高松市高松町2105−2
Tel & Fax 087-841-6320
著書「EM 産業革命」、「EM 環境革命」、「救世自然農法と
EM技術」
「THE FUNAI、
(本物の生き方)
、
(船井幸雄と天才
たち part 2)
、
(共生時代の地域おこしまちづくり)
」いずれも
共著その他雑誌類など。元高松市産業部参事 出来ました。
それから、3年後になって、やっと
高松市内の農協が、EM 産直店「ふれ
あい市場」を各地区で開設し始めまし
た。
EM技術と出会って以来、生ごみの
処理から農業生産や畜産業、養殖漁業、
更には食品業から工業製品に至るまで
の物が、高松に来れば、全て分かるま
でに成りましたので、多くの方々が全
国から訪ねて来てくれました。しかも、
最近になって農業関係以外の方々ま
で、訪ねて来ます。しかし、「さあか
す」に二回ほどEM技術を紹介しまし
EM 自然農法は生きがいの出会い
私は、宮沢賢治に憧れ、農学の道に
そして、忘れもしない平成4年3月
たが、残念ながら読者からの反響はあ
まり、ありません。
平成12年7月16日、
「元気くん」
進み30年余、自然農法を細々と研究
9日、高松市内の農協の、組合長全員
の谷川和世さんの紹介で、遠藤栄子社
して参りましたが、なかなか成果があ
の出席のもと、講演会は大成功を収め
長さんに出会いました。そして、これ
がらず、先駆者の真似をしたり、孤軍
奮闘の歳月ばかりが流れました。
ました。その後、この技術(EM 自然
農法)を使って無農薬、無化学肥料で
までの経験や体験から、本当に人間に
昭和の終わり頃になって、微生物農
生産した農産物をどうやって販売する
とって無公害で本物の商品は、自分で
作るしかないとの思いで開発して出来
法の研究会に出会い、勉強を始めまし
か、検討しましたが、なかなか農協の
たのが、メダカワールドの、お化粧品
た。この技術を取り入れることで、近
対応は出来なかったが、EM−1号を
や栄養補助食品の数々なのだと聞きま
代農法と対等に、対抗出来るのではな
日本で始めて市内の農協で販売する事
した。メダカの住めるような環境を作
いかと、直感しました。そして、農家
が出来たことは、大変な意義がありま
り出したい為に、あえて、非イオン系
と新しく研究会を作り実践し、また、
した。
の洗剤をトウモロコシから作ったそう
香川大学とも共同研究を始めました。
そんな時に出会ったのが、谷川和世
です。実際に使ってみて、手が荒れな
平成2年の秋、琉球大学の比嘉照夫
さんとご主人でした。そして、「元気
いし、汚れがよく落ちるし、食器洗い
教授の講演を聞く機会があり、今まで
の常識では考えられない連作や、限界
くん」と言う名前の店を作り、EM農
産物(EM 栽培無農薬農産物)の販売
から、食べる物まで洗える洗剤です。
金魚鉢(60×30×45センチ)
突破の巨大な作物の数々に、信じがた
を手がけていただく事に成りました。
に洗剤の原液を蓋のキャップ一杯ほど
い脅威すら感じました。これが本当な
次には、牟礼町に「美土理の里」がオ
流し込みましたが、金魚は元気に泳い
ら、農業の革命だと思いました。そし
ープンしました。
でいます。この量は、洗濯機一回分に
そして、船井幸雄先生が、市役所に
入れる分量ですから、流しても環境に
ろ、それが本物の技術である事を確認
私を訪ねていただき、更には、ご本に
優しいものだと思います。こんなに良
する事が出来ました。翌年、沖縄の土
「元気くん」や「美土理の里」を紹介
い物も、併せて、どんどんと広めて行
壌微生物応用研究会に、農協の役員を
されました。そして、先生ご自身もお
きたいと考えています。
連れて参加をして、農家の事例発表を
聞き驚きました。この技術がここまで
店を訪ねてくださり、全国から毎日の
ように大勢の視察者が来るように成り
私たちもまた、河川の汚れをEM技
術で改善しようと「米のとぎ汁」を活
進んでいるとは知りませんでした。
ました。
性化させたものを、台所の流しやトイ
て、すぐに実証実験を始めましたとこ
私は、このEM自然農法を広める為
レなどから流す運動を瀬戸内海浄化作
岐阜県可児市環境課の方々と高松市の
には、このような産直店が是非とも必
戦として(さあかす2号、柏 聖香記
我々だけでしたので、大会終了後、比
要だと考えていましたので、全国各地
事)行っています。こんな洗剤が一般
嘉教授と面談する事が出来、来年、高
に出来れば、現代病で苦しんでいる
に普及すれば、更に、我々の運動が加
松市での、講演を依頼し、快諾を取り
方々の一助になればと願っていまし
速するものと思います。
付けました。
た。お蔭様で本当に多くの店が全国に
その時、行政とし参加していたのは、
−32−
柏 聖香(かしわ みか)
ミミズ箱アラカルト
立本 博子
新北町在住
丸亀高校・日本女子大住居科卒
徳島大歯学部卒・歯科医師
〒761−8044
高松市円座町2001−5
TEL&FAX:087−815−7660
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箱型コンポスター(ヒノキ材)
「シアトル・ティルス」のベンチ型
ミミズ箱(CDX 等級外装用ベニヤ板)
注文製作販売 約 1,7000 円
カーロプロジェクト
http://www.gsp-net.org/project/mimizu
自分でつくる 材料費 4000 円∼ 5000 円
「だれでもできるミミズで生ゴミリサイクル」
合同出版
生ゴミリサイクル全国ネットワーク会員
高松生ゴミリサイクルをすすめる会主宰
世紀を担うこどもたちの健やかな成長
春日保育園は乳幼児からのお子さん
を願い、育児ノイローゼなどで悩む母
をお預かりしています。手の消毒も塩
と子を支援するために造られた建物。
素は使わず、EM活性液。人が飲めば
私が尊敬して止まない、園長の野町文
害になる塩素を、幼児の手の消毒に使
枝先生のアイデアのもと、建設されま
うなんてナンセンスだと思いません
3月に地元高松に戻り、やっとこさ自
した。
ここには、EMの最新技術がいろん
か?良くないと思いながら決まりだか
らと普通にやってることって多いです
分のペースを取り戻し始めました。私
な形で組み込まれています。例えば敷
よね。私も同じです。でも、その概念
ができる地元でのEM活動もようやく
地内の磁場をよくするためにEMを土
を変えてしまう程の信念を持って貫き
スタート。讃岐の環境浄化に向けて、
に直に散布したり、基礎のコンクリー
通している、春日保育園の皆さん、と
歩き出しています。
ト、壁のコンクリートなどにEMXセ
っても素敵です。EMの活動は「私1
今、私がはまっている、とっても素
ラミックスを混入したり、塗料にも混
人がしてもではなく、私1人からでも」
敵なエコスポットが高松市春日町にあ
ぜるなどをすることで、ホルムアルデ
をモットーに進められて来ました。そ
ります。9月から「EMエコライフす
くーる」という、EM(有用微生物群)
ヒドなどによる環境ホルモン汚染の対
んな大海の1滴のような存在が、きっ
策になったり、コンクリートの冷たさ
とこの讃岐を、そしてこの国を、世界
を使ってライフスタイルをよりエコロ
の感じない、天然素材のぬくもりを感
中を大きく変えていくのだと思います。
ジカルなものにするための学習会(香
じる空間になっています。
「氣」を感じ
川県EM普及協会主催)を、月1回の
る人ならすぐに全身の感覚受容器で、
ペースで行っています。もちろん講師
この感動を受け止めることが出きるは
は私がつとめさせて頂いております。
ず!まさに、建物からエコなのです。
その開催場所になっているのがここ、
トイレもEM活性液(EMを培養した
春日保育園の敷地内にある「香川・地
液体)を流していて、とても気持ちが
域子育て支援センター」
。ここは、21
良いのです。
▲野町文枝園長と春日保育園の子どもたち
有する山間の町である。そのダムの
上流に、ゴミの最終処分場が建設さ
体ゴミになるのか?それは、飲み
物・食べ物の容器が、最も多いゴミ
れるという計画が持ち上がり、その
となる。彼女たちの工夫は、テント
反対運動に立ち上がった主婦たちに
をひとつ余分に立てて、専用の洗い
夏まつりの季節である。食中毒事
件の多い昨今、食べ物のバザーをす
より、'水を守るグループ'が結成され、
いまや町ぐるみのゴミ減量化運動を
場を用意したことである。飲み物は
るのは反対意見に押されて難しい。
展開しているのである。
洗ってかえす。たこ焼き・フランク
讃岐のEMエコスポットご紹介!!
高松市春日町 ∼ 春日保育園 ∼
読者の皆様、お久しぶりです。今年
ミミズ箱のある エコ・フェスティバル
すべてビンにして、飲んだらそこで
私の住む高松市新北町でも、何年か
8月2日、高松市の自然派生活協
フルトソーセージなどのトレー(発
ぶりに夏祭りをしようということに
同組合オリーブコープで、この吉永
泡スチロール)も、そこで洗ってリ
なったが、すったもんだのあげく
町の'水を守るグループ'の女性2名を
サイクルにまわす。食べ残しは、ミ
結局食べ物いっさいなしで、盆踊り
招き、親子環境講座が開かれた。ゴ
と金魚すくいだけの企画となってし
ミ最終処分場建設反対運動を続ける
ミズ箱を設置しておいて、その中に
入れる。事前にこれらのことをよく
まった。お祭りに、たこ焼きも焼き
中で、ゴミを出している自分自身も
周知しておいたので、みんな協力し
ソバもビールも無いのは、まことに
被害者であると同時に加害者である
てくれていままではトラック一杯で
さみしいものである。
ところで、日本一ゴミの少ない町、
のだと気づき、ゴミを出さない生活
をめざし努力するようになった話や、
ていたゴミが、普通のゴミ袋3個に
岡 山 市 吉 永 町 で は 、 昨 年 ( 9 9 ,)
一昨年環境先進国であるドイツに学
もないようで実はスゴイと思う。お
「吉永町サマーフェスティバル」を、
ぼうと、グループの女性10名がド
祭り会場の片隅に、そっと置かれた
「ゴミのでないフェスティバル」とし
イツ・フライブルク市を訪問した時
ミミズ箱を想像すると、私なんかと
の話や、ミミズによる生ゴミ堆肥化
ってもうれしくなって、ちょっとニ
ヤリとしてしまう。これを読まれた
て開催したそうだ。
知らない方も多いと思うので少し
説明させていただこう。吉永町は、
人口5400人、水源となるダムを
の話などを聞くことができた。
さて、「ゴミのでないフェスティバ
ル」のはなしにもどろう。なにが一
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おさまったそうだ。これは、なんで
方は、ぜひ参考にしていただきたい。