ࢶ ɬ ၐ ȫɊ 尾池 和夫 し た 山 か ら 浸 食 さ れ て 土 砂 が 流 出 し、 プ レ ー ト 運 動 で 大 地 が ず れ、隆 起 や平野にあるという こ と に 由 来 す る 。 京阪神奈良の都市が活断層性の盆地 それは世界的に見て珍しいことである。 都 の 置 か れ た 京 都 に は 城 壁 が な い。 入口から南へ、地蔵院、浄住寺を通過 を通り、ほぼ南へ向かって西芳寺への へ向かい、松尾大社の本殿の背後の崖 へ渡って突き当たった山裾から南南東 によってたどる。断層線は渡月橋を南 樫原断層を嵐山から都市圏活断層図 は樫原断層と光明寺断層などがある。 高 速 扇 状 地 と 堆 積 層 を 形 成 し た。そ こ に して住宅地を抜け、京都大学桂キャン 神 大 量 の 水 が 溜 ま り、都 市 が 形 成 さ れ パスのある丘陵の東のふもとに沿って 南 へ、樫 原 廃 寺 跡、淳 和 天 皇 火 葬 塚、 桓武天皇皇后陵の東から南東方向へ、 た い。京 都 西 山 活 断 層 群 は 丹 波 山 地 から光明寺の入口、京都西山短大の東 光明寺断層は、大原野の灰方、上羽 はい が た が京都盆地の上にのし上がるように の山裾、西山公園を抜けて長岡天満宮 向日市の競輪場に達する。 動 く 活 断 層 群 で、上 下 の ず れ を 起 こ のある山ろくを通過して南東へ向か い げの や ま す か ら、地 表 の 地 図 で た ど る と 曲 が い、恵解山古墳まで延びる。 西山の断層系の崖を新幹線などか ちに竹の子を掘り出す。 節 が 一 つ で き る か ら、竹 の 子 の 皮 の 道 大地震の繰り返しで破砕された山 数と横の竹の節の数が同じというこ 竹の子は同じ根の竹のクローンで の ふ も と は 崩 れ や す い。人 々 は 竹 を と に な る。 何 十 年 に 一 度 か は、竹 は れた尾根の末端面が三角形になって 植 え て 災 害 を 防 い だ。活 断 層 が 盆 地 花が咲いて枯れて遺伝子を交換する。 あ る。節 の 数 は 根 の つ な が る 竹 で 同 と 山 地 の 境 に あ る お か げ で、お い し 竹 の 子 の 栄 養 価 は 高 い。三 月 か ら い る。こ れ を 三 角 末 端 面 と 呼 び、活 い 竹 の 子 が 京 都 盆 地 の 名 産 と な っ た。 五 月 に か け て こ の 辺 り で は、朝 掘 り じ に な る。竹 の 子 の 皮 の 一 枚 に つ き、 明 治 の 陸 地 測 量 部 の 地 図 を 見 る と、 の 竹 の 子 を 使 っ て、木 の 芽 和 え や 薄 幹線 名 線 道本 長岡京市 東海 道新 東海 路 さまざまな竹の子料理を味わうこと 切 り に し た 竹 の 子 の 刺 身、焼 竹 な ど 西山では竹やぶに赤土を入れて手 〈おいけ かずお〉 京都造形芸術大学学長。1940年東京都生まれ、 高知育ち。京都大学理学部卒。京都大学総長な どを経て、2013年4月から現職。主な著書は 『新版 活動期に入った地震列島』、 『日本列島の巨大地 震 』、 『 変 動 帯の文 化 』、 『 四季の地 球 科 学 』、 『2038年南海トラフの巨大地震』 など。 が で き る。自 前 で 竹 や ぶ を 持 っ て い ているのがわかる。 竹林の列と活断層がみごとに対応し 断層である証拠の一 つ に な る 。 ら 見 る と、活 断 層 の 運 動 で 切 り 取 ら あ る。京 都 西 山 断 層 帯 の 南 東 半 部 に りくねったり分岐したりして複雑で で京都西山断層帯に沿って歩いてみ 京都盆地を形成した活断層帯の中 菓子や酒が造られた 。 た。地 下 水 を 元 に 茶 の 湯 が 生 ま れ 和 かたぎはら 京都西山断層帯と 竹の子の産地 324 入 れ を す る。赤 土 が 酸 化 を 防 い で 白 桂川 る 料 亭 な ど で は、質 を 保 つ た め に や 京都 い や わ ら か な 竹 の 子 が 育 つ。赤 土 が 松尾大社 ぶの手入れを怠ることがない。 嵐山 もり上がってきたら顔を出さないう 京都御苑 総本山光明寺 松尾橋近くの桂川沿いから西山方面を望む
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