旅日記から

旅日記から︵明治四十二年︶
一
四月一日
シャンハイ
朝 の う ち に は 緑 色 を し て い た 海 が だ んだ んに 黄 み を 帯
びて来ておしまいにはまっ黄色くなってしまった︒船の
とも
歩みはのろくなった︒艫のほうでは引っ切りなしに測深
うず
機を投 げて船あしをさぐってい る︒とうとう船が止 まっ
ど ろ みず
た︒推進機でかきまぜた泥水が恐ろしく大きな渦を作っ
う げん
て潮に流されて行く︒右舷に遠くねずみ色に低い陸地が
5
見える︒
かもめ
日本から根気よく船について来た 鷗 の数がだんだん
てい はく
鷗だろう︒
四月二日
ウースン
こにも山らしいものは見えない︒
こ じき
ね
けたのを甲板へさし出す︒小船の苫 屋根は竹で編んだ円
とま や
シナ人の乞食が小船でやって来て長い竿の先に網を付
さお
呉 淞 で 碇泊 し て い る ︒ 両 岸 は 目 の届く 限り 平坦 で︑ ど
へい たん
いつのまにかまた数がふえている︒これはたぶんシナの
に減ってけさはわずかに二三羽ぐらいになっていたが︑
6
がま
頂で黒くすすけている︒艫に大きな飯たき釜をすえ︑た
ひつ
きたての飯を櫃につめているのもある︒その飯の色のま
っ白なのが妙に目についてしようがなかった︒そしてど
ういうものか悲しいようなさびしいような心持ちを起こ
させた︒
テンダーに乗って江をさかのぼる︒朱や緑で塗り立て
たジャンクがたくさんに通る︒両岸の陸地にはところど
ころに柳が芽を吹き畑にも麦の緑が美しい︒ペンク氏は
⁝⁝宿の小僧に連れられて電車で徐家滙の測候所を見
ジ カ ウ エイ
﹁どこかエルベ河畔に似ている﹂と言う︒⁝⁝
7
に 行 く ︒ 郊 外 へ 出 る と 麦 の 緑 に 菜 の 花 盛 り で そ ら豆 も 咲
れん が
だけ逆立った毛を残した︑そして関羽のような顔をした
かん う
廊下へはいって見ると︑頭を大部分剃って頂上に一握り
そ
あるく︒向こう側にジェスウィトの寺院がある︒僧院の
測候所では二時に来いというからそれまで近所を見て
ものがある︒墓場だと小僧が言う︒
ぐらいの高さに長方形に積んだ低い家のような形をした
ところどころ土饅 頭 があって︑そのそばに煉瓦を三尺
ど まん じゆう
をたらした小児が羊を繩でひいて遊んでいる︒道ばたに
なわ
いている︒百姓屋の庭に︑青い服を着て坊主頭に豚の尾
8
男が腕組みをしてコックリコックリと廊下を歩いてい
る︒黙っておこったような顔をしてわき目もふらず歩い
て行ってまた引き返して来る︒⁝⁝異国へ来たという事
実がしみじみ腹の中へしみ込んだ︒
寺院の鐘が晴れやかな旋律で鳴り響いた︒会堂の窓か
らのぞいて見ると若いのや年取ったのやおおぜいのシナ
み かげいし
の婦人がみんなひざまずいてそしてからだを揺り動かし
て拍子をとりながら何かうたっている︒
よ
道ばたで薄ぎたないシナ人がおおぜい花崗石を細かく
ふるい
砕いて 篩 で選り分けている︒雨が少し降って来た︒柳
9
マ
はく あ
ロ
ぬ
はや し
帰りに四馬路という道を歩く︒油絵の額を店に並べて︑
ス
⁝⁝少しセンチメンタルになる︒
を入れて持って来た︒熱湯で湿した顔ふきを持って来た︒
耳の痛くなるほど騒がしかった︒ふたをした茶わんに茶
り︑甲高い悲しい声で歌ったりした︒ 囃 の楽器の音が
かん だか
装を着た役者がおおぜいではげしい立ち回りをやった
夜福 州 路の芝居を見に行った︒恐ろしく美々しい衣
ふく しゆう ろ
ちになる︒⁝⁝
画の小船がもやっていた︒なんだか落ち着いたいい心持
のある土手へ白堊塗りのそり橋がかかってその下に文人
10
げい ぎ
こし
美しく化粧をした童女の並んでいる家がところどころに
し よ う ろう
ある︒みんな 娼 楼だという︒芸妓が輿に乗って美しい
扇を開いて胸にかざしたのが通る︒輿をささえる長い棒
がじわじわしなっていた︒活動写真の看板に﹁電光彩戯﹂
と書いてある︒
四月三日
ぐ えん
電車で愚園に行く︒雨に湿った園内は人影まれで静か
か らす
である︒立ち木の枝に 鴉 の巣がところどころのっかっ
ている︒裏のほうでゴロゴロと板の上を何かころがすよ
う な 音 が し て い る ︒ 行 っ て 見 る とイ ン ド 人 が 四 人︑ ナ イ
11
たま
︵ 大正九年六月︑渋柿︶
ランカランという音が思い出したように響いていた︒
頭を傾けて黙ってこっちを見ていた︒⁝⁝ゴロゴロ︑カ
出しながら外へ出る︒木のこずえにとまった一羽の鴉が
内へ響き渡る︒リップ・ヴァン・ウィンクルの話を思い
ンカランという音がして︑それが小屋の中から静かな園
沈鬱な顔をして黙ってやっている︒棍棒が倒れるとカラ
ちん うつ
立てた棍棒のようなものを倒す遊戯をやっている︒暗い
こん ぼう
ンピンスというのだろう︑木の球をころがして向こうに
12
二
ホンコンと九竜
ウースン
とも
夜の八時過ぎに呉淞を出帆した︒ここから乗り込んだ
チンタオ
青島守備隊の軍楽隊が艫の甲板で奏楽をやる︒上のボー
トデッキでボーイと女船員が舞踊をやっていた︒十三夜
ぐらいかと思う月光の下に︑黙って音も立てず︑フワリ
フワリと空中に浮いてでもいるように︒
日曜で早朝楽隊が賛美歌を奏する︒なんとなく気持ち
四月四日
13
がいい︒十時に食堂でゴッテスディーンストがある︒同
見える波も︑みんな音楽に拍子を合わせて動いているよ
らモクモクと引っ切りなしに出て来る黒い煙も︑ 舷 に
ふな ば た
甲板の寝台に仰向きにねて奏楽を聞いていると煙突か
が島の名もわからない︑福 州 の沖だろうという︒
ふくしゆう
の掃除をしているかわいらしい子供の船員に聞いてみた
そう じ
朝甲板へ出て見ると右舷に島が二つ見える︒窓ガラス
四月五日
おかしくない︒
じ事でも西洋の事は西洋人がやっているとやはり自然で
14
うな気がする︒どうも西洋の音楽を聞いていると何物か
が断えず一方へ進行しているように思われる︒
あか
黒服を着た顔色の赤い中年の保母が︑やっと歩きだし
くま
たくらいの子供の手を引いて歩いている︒そのあとを赫
ひげ
鬚をはやしたこわい顔の男がおもちゃの熊を片手にぶら
下げてノソリノソリついて歩く︒ドイツ士官が若いコケ
ットと腕を組んで自分らの前を行ったり来たりする︒女
しり め
Grob と
! 言ったように思われ
は通りがかりに自分らのほうを尻目ににらんで口の内で
何かつぶやいた︑それは
た︒
15
四月六日
くりゆう
昨夜雨が降ったと見えて甲板がぬれている︒いかめし
⁝⁝
植物園では仏桑花︑ベコニア︑ダリア︑カーネーショ
ぶつ そう げ
の美しさではなくて︑どうしても油絵の美しさである︒
いように美しい絵になっている︒それは絵はがきや錦絵
にしきえ
によごれくすんでいるが︑それがまたなんとも言われな
に い ろ い ろ な 建 物 が 重な り 合 っ て 立 っ て い る ︒ み ん な 妙
はいるのだ という︒山 の新緑が美しい︒山腹には不規則
く と が っ た 岩山 が 見 え る ︒ ホ ン コ ン と 九 竜 の 間 の 海 峡 へ
16
ン︑それにつつじが満開であった︒暑くて白シャツの胸
板のうしろを汗の流れるのが気持ちが悪かった︒両手を
ふと
見るとまっかになって指が急に肥ったように感じられ
た︒
ケーブルカーの車掌は何を言っても返事をしないです
きゆう
ましていた︒話をしてはいけない規則だと見える︒ 急
こう ばい
勾配を登る時に両方の耳が変な気持ちになる︒気圧が急
に下がるからだという︒つばを飲み込むと直る︒ピーク
で降りるとドンが鳴った︒涼しい風が吹いて汗が収まっ
た︒頂上の測候所へ行って案内を頼むと水兵が望遠鏡を
17
わきの下へはさんで出て来ていろいろな器械や午砲の装
寝台を売りに来たのを買って涼みながらT氏と話してい
は生まれて始めて見るような気がする︒⁝⁝シナ人が籐
とう
空気の奥にいきいきとしてまたたいている︒こんな景色
やエメラルドのような一つ一つの灯は濃密な南国の夜の
をちりばめた王冠のようにキラキラ光っている︒ルビー
ふもとから頂上へかけていろいろの灯がともって︑宝石
ひ
夕 飯 後に 甲 板 へ 出 て 見 る と ま っ 黒 な ホ ン コ ン の山 に は
⁝⁝
薬まで見せてくれる︑一シリングやったら握手をした︒
18
ると︑浴室ボーイが船から出かけるのを見たから頼んで
さんばし
絵はがきを出してもらう︒桟橋へあやしげな小船をこぎ
よせる者があるから見ていると盛装したシナ婦人が出て
来 た ︒白 服 に 着 か え た 船 のボ ーイ が 桟橋 の上 を あち こ ち
と歩いている︒白のエプロンをかけた船のナースがシェ
ンケでポルト酒かなにかもらってなめている︒例のドイ
ツ士官のコケットもきょうは涼しそうに着かえて歩きま
わっている︒
く り ゆう
朝食後に上陸して九竜を見に行く︒⁝⁝海岸に石切り
四月七日
19
がけ
よ
み かげいし
ナの女がかわいい西洋人の子供を遊ばしている︒その隣
たらインド人の頭巾であった︒⁝⁝町の並み木の影でシ
ず きん
美しい緑の草原の中をまっかな点が動いて行くと思っ
生していた︒⁝⁝
も暑くて喉がかわく︒道ばたを見るとそら色の朝顔が野
のど
る︒その煙突からいらだたしくジリジリと出る煙を見て
を道路に敷くのだと見えて蒸気ローラーが向こうに見え
のくずを方七八分ぐらいに砕いて選り分けている︒これ
ぶ
な 塊 がはまっているのを火薬で割って出すらしい︒石
かたまり
場がある︒崖の風化した柔らかい岩の中に花崗石の大き
20
ぶつ そう げ
では仏桑花の燃ゆるように咲き乱れた門口でシャツ一つ
になった年とった男が植木に水をやっていた︒
測 候 所 の 向 か い は 兵 営 で ︑ イ ン ド 人 の 兵 隊 が体 操 を や
けい こ
っている︒運動場のすみの木陰では楽隊が稽古をやって
いるのをシナ人やインド人がのんきそうに立って聞いて
いる︒そのあとをシナ人の車夫が空車をしぼって坂をお
りて行く︒
船へ帰ると二等へ乗り込むシナ人を見送って︑おおぜ
さん ばし
いの男女が桟橋に来ていた︒そしていかにもシナ人らし
くなごりを惜しんでいるさまに見えた︒中には若い美し
21
い女もいた︒そしてハンケチや扇にいろいろの表情を使
い
す
しろ じま
は かま
ホンコンから乗った若いハイカラのシナ人の細君が︑
せている︒黒い素足のままで︒
着に 紺 青 に 白 縞 の は い っ た 袴 を着て二人の子供を遊ば
こん じ よ う
の子がそっとのぞきに来た︒黒んぼの子守がまっかな上
こ もり
甲板の寝椅子で日記を書いていると︑十三四ぐらいの女
ね
あるのでそう暑くはない︒チョッキだけ白いのに換える︒
甲板へズックの日おおいができた︒気温は高いが風が
見送りの船で盛んに爆竹を鳴らした︒
い分けて見せるのであった︒十二時過ぎに出帆するとき
22
まき た ば こ
シンガポール
︵ 大正九年七月︑渋柿︶
巻煙草をふかしていた︒夫もふかしていた︒
三
四月八日
ぞう じ よ う じ
朝から蒸し暑い︒甲板でハース氏に会うと︑いきなり︑
しば
芝の増 上 寺が焼けたが知っているか︑きのうのホンコ
ン新聞に出ていたという︒かなりにもう遠くなった日本
から思いがけなくだれかが跡を追って来てことづてを聞
23
かされるような気がした︒
かご
船客の飼っている小鳥が籠を放れて食堂を飛び回るの
で 行 く と聞 い た ら ス ペ イ ン へ と 言 う ︑ ス ペ イ ン 人 か と聞
きのう日記をつけている時にのぞいた子供に︑どこま
かに広がって行く︒
細かい波紋が起こってそれが大きなうねりの上をゆるや
しずくを引きながら︒そして再び波にくぐるとそこから
飛び魚がたくさん飛ぶ︑油のようなうねりの上に潮の
い大洋のまん中だとは夢にも知らないのだろう︒
をつかまえようとして騒いでいた︒鳥はここが果てもな
24
くとそうだといった︒
全部白服に着かえる︒
四月九日
ハース氏と国歌の事を話していたら︑同氏が﹁君が代﹂
を訳したのがあると言って日記へ書き付けてくれた︑そ
してさびたような低い声で︑しかし正しい旋律で歌って
聞かせた︒
きのうのスペインの少女の名はコンセプシオというの
だそうな︒自分ではコンチャといっている︒首飾りに聖
母の像のついたメダルを三つも下げている︒
25
にしむら
昼ごろサイゴンの沖を通る︒
四月十一日
きょうは復活祭だという︒朝飯の食卓には朱と緑とに
オステルン
午後には海が純粋なコバルト色になった︒
れも知らん顔をしていた︒かえってきまりが悪かった︒
のでコップがすべり落ちて割れた︒そばにいた人々はだ
寝台の肱掛けの穴へはめようとしたら︑穴が大きすぎた
ひじ か
ッチをしていた︒ボーイがリモナーデを持って来たのを
朝十時の奏楽のときに西村氏がそばへ来て楽隊のスケ
四月十日
26
ろう ざい く
うさぎ
染めつけたゆで玉子に蠟細工の 兎 を添えたのが出る︒
ろう
米 国 人 の お ば あ さ ん は 蠟 と は 知 ら ず か じ っ て み て 変な 顔
をした︒ハース氏に聞いてみると︑これは純粋なドイツ
の古習で︑もとはある女神のためにささげた供物だそう
な︒今日では色つけ玉子を草の中へかくして子供に捜さ
うさぎ
せる︑そしてこの玉子は 兎 が来て置いて行ったのだと
教えるという︒
朝飯が終わったころはもうシンガポール間近に来てい
し ゆう う
た︑そして強い 驟 雨が襲って来た︒海の色は暗緑で陸
にじ
近いほうは美しい浅緑色を示していた︒みごとな虹が立
27
べにが らい ろ
う げん
つり橋のたもとの煙草屋を見つけて絵はがきと切手を買
たばこ や
ける︒祭日で店も大概しまっており郵便局も休んでいる︒
西村氏が案内をしてくれるというのでいっしょに出か
緑の樹木と対照してあざやかに美しい︒
に見える懸崖がまっかな紅殻色をしていて︑それが強い
けん がい
船はタンジョンパガールの埠頭に横づけになる︒右舷
ふ とう
の光彩が輝いているのであった︒
た︒ミラージュも見えた︒すべてのものに強い強い熱国
の上には大きな竜巻の雲のようなものがたれ下がってい
たつ まき
ってその下の海面が強く黄色に光って見えた︒右舷の島
28
み かげいし
う ︒ 三 銭 切 手 二 十 枚 を 七 十五 銭 に 売 る か ら 妙 だ と 思 っ て
聞くと﹁コンミッシォン﹂だと言った︒
くりゆう
九竜で見たと同じ道普請のローラーで花崗石のくずを
な ら し て い る ︒ そ の 前 を 赤 い 腰 巻 き を し たイ ン ド 人 が赤
旗を持ってのろのろ歩いていた︒
エスプラネードを歩く︒まっ黒な人間が派手な色の布
を頭と腰に巻いて歩いているのが︑ここの自然界とよく
調和してい ると思って感心した︒
宝石屋の前を通ると︑はいって見ろと無埋にすすめる︒
こう
見るだけでいいからはいれという︒自分の持っている蝙
29
もり がさ
で︑かすかな電扇のうなり声を聞きながら︑白服ばかり
多 い ラ イ ス カ レ ー を く っ て 氷 で冷 や し た み か ん 水 を の ん
オテルドリューロプで昼食をくう︒薬味のさまざまに
物すごい笑顔が見えた︑と思う間に通り過ぎてしまう︒
え がお
ェランダに更紗の寝巻のようなものを着た色の黒い女の
さら さ
いわゆる日本街を人力車で行った︒道路にのぞんだヴ
した︒
いうと︑また一人が
石 と 換 え ぬ か と い う ︒ T 氏 の傘 を 見 て
と
This no good.
と訂正
This good, but that the best.
蝠傘 をほめ て︑売ってくれと言う︒売るのがいやなら宝
30
の男女の外国人の客を見渡していると︑頭の中がぼうと
り
す
して来て︑真夏の昼寝の夢のような気がした︒
し ばふ
植物園へはいる︒芝生の上に遊んでいた栗鼠はわれわ
れが近よるとそばの木にかけ上った︒木の間にはきれい
ひ いろ
や
し
な鳥も見かける︒ねむの花のような緋色の花の満開した
ぶつ そう げ
のや︑仏桑花の大木や︑扇を広げたような椰子の一種も
じ んぷ ん
ある︒背の高いインド人の巡査がいて道ばたの木の実を
さる
指さし﹁猿が食います﹂と言った︒人糞の臭気があると
いうドリアンの木もある︒巡査は手を鼻へやってかぐま
ねをしてそして手をふって﹁ノー・グード﹂と言い︑今
31
とら
お なが ざる
度は食うまねをして﹁ツー・イート・グード﹂と言う︒
コソ話し合っていた︒
お
かす み
や
ゃ ぼ ん ︑ そ れ か ら 獣 肉 も 干 し 魚 も あ る ︒ 八百 屋 がバ イ オ
や
市 場 へ 行 く ︒ 玉 ね ぎ や 馬 鈴 薯に 交じ っ て 椰子の 実や じ
ば れいしよ
陰のベンチに人相の悪い雑種のマライ人が三人何かコソ
見 え る 土 地 が ジ ョ ホ ー ル だ と い う ︒ 大 きな 枝 を 張 っ た 木
水道の貯水池の所は 眺 望がいい︒暑そうな 霞 の奥に
ちようぼう
﹂といった︒たぶん死んだとでもいう事だろう
finished
と思った︒
動物はいないかと聞いたら﹁虎と尾長猿︑おしまい︑
32
かじゆう
リンを鳴らしている︒菓汁の飲料を売る水屋の小僧もあ
かん
き罐をたたいて踊りながら客を呼ぶ︒
うち
船へ帰るとやっぱり宅へ帰ったような気がする︒夕飯
には小羊の乗った復活祭のお菓子が出る︒夜は荷積みで
騒がしい︒
四月十二日
さん ばし
さら さ
さん
朝から汗が流れる︒桟橋にはいろいろの物売りが出て
とう
おう む
いる︒籐のステッキ︑更紗︑貝がら︑貝細工︑菊形の珊
ご しよう
出帆が近くなると甲板は乗客と見送りでいっぱいにな
瑚 礁 ︑鸚鵡貝など︒
33
った︒けさ乗り込んだ二等客の子供だけが四十二人ある
こう べ
I say ! Herr Meister ! Far
ラ ン グ ・ サ イ ン ﹂ を 歌 っ た ︒ 船 の上 で も 下 で も 雪 白 の 服
船が出る時桟橋に立った見送りの一組が﹁オールド・
さん ばし
away, far away ! One dollar, all dive な
! どと言っている
らしい︒自分はどうしても銭をなげる気になれなかった︒
ってもぐって拾い上げる︒
ばへ群がって来て口々にわめく︒乗客が銭を投げると争
マライ人がカノーのようなものに乗って︑わが船のそ
たのに︒
と ハ ー ス 氏 が 言 う ︒ 神 戸 で 乗 っ た 時 は 全体 で 九 人 で あ っ
34
ペナンとコロンボ
︵ 大正九年八月︑渋柿︶
を着た人の群れがまっ白なハンケチをふりかわした︒
四
四月十三日
く じやく
さん
⁝⁝馬車を雇うて植物園へ行く途中で寺院のような
こぶ
や
し
所へはいって見た︒祭壇の前には鉄の孔 雀 がある︒参
けい しや
詣者はその背中に突き出た瘤のようなものの上で椰子の
から
殻を割って︑その白い粉を額へ塗るのだそうな︒どうい
35
う意味でそうするのか聞いてもよくわからなかった︒ま
ようであった︒しかしこれは自分の問いに
た だ こ の 尻 上 が り に 発 音 し た 奇 妙な 言 葉 が 強 く 耳 の 底に
しり あ
答えたのか︑別の事を言ったのだかよくわからなかった︒
と答えた
︱
分の顔をにらむようにしてただ一言﹁スプロマニーン﹂
てあるゴッドの名はなんというか﹂と聞いたら上目に自
の す み に し ゃ が ん で い る 年 と っ た 土 人 に ︑﹁ こ こ に 祭 っ
あって︑土人の子供がそれをかぶって踊って見せた︒堂
に 向 か っ た 回 廊 の 二 階 に 大 き な 張 り ぬ き の 異 形な 人 形 が
っ 黒な 鉄の鳥の背中は油 を 浴びたように光っていた︒壇
36
さ さい
刻みつけられた︒こんな些細な事でも自分の異国的情調
を高めるに充分であった︒
ぼうおく
ささ
かき ね
立派なシナ商人の邸宅が土人の茅屋と対照して何事か
し
を思わせる︒
や
椰子の林に野羊が遊んでいる所もあった︒笹の垣根が
か こうしや
至 る と こ ろ に あ っ て 故 国 を 思 わ せ る ︒ 道 路 は シ ン ガポ ー
べんが らい ろ
ルの紅殻色と違ってまっ白な花崗砂である︒
かしわ
植物園には 柏 のような大木があったり︑いったいに
さん ばし
夜船へ帰って︑甲板でリモナーデを飲みながら桟橋を
どこやら日本の大庭園に似ていた︒
37
見ていると︑そこに立っているアーク燈が妙なチラチラ
ねずみぐらいなねこが一匹いた︒海面には赤
計を模しているのだとハース氏がいう︒西欧の寺院の鐘
しろいメロディーを打つ︒あれはロンドンの議事堂の時
ハース氏夫妻と話していると近くの時計台の鐘がおも
く光るくらげが二つ三つ浮いていた︒
なねこ
︱
ポンプで本船へくみ込んでいた︒その小船に小さな小さ
た︒船の陰に横付けになって︑清水を積んだ小船が三艘︑
そう
と同時に外のアーク燈も皆一度に消えてまっ暗になっ
した青い光と煙を出している︒それが急にパッと消える
38
声というものに関するあらゆる連想が雑然と頭の中に群
がって来た︒
きのうの夕食に出たミカドアイスクリームというのは
少し日本人の気持ちを悪くさせる性質のものではないか
と ハ ー ス 氏 に 言 っ た ら ︑﹁ そ ん な 事 は な い ︑ そ れ よ り 毒
滅という薬の広告のほうがはるかにドイツ人にわるく当
す
たる﹂と言って笑った︒
四月十四日
い
夜甲板の椅子によりかかってマンドリンを忍び音に鳴
らしている女があった︒下の食堂では独唱会があった︒
39
四月十五日
自分らの隣の椅子へ子供づれの夫婦が来た︒母親がど
も
きのう紛失したせんたく袋がもどって来た︒室のボー
四月十七日
競技や音楽会をやる相談である︒
喫煙室で乗客の会議が開かれた︒一般の娯楽のために
四月十六日
口笛を吹いたりしても効能がない︒
泣き声を出す︒父親が子守り歌のようなものを歌ったり︑
こ
こかへ行ってしまうと︑子供はマーンマーマーンマーと
40
イの話ではせんたく屋のシナ人が持っていたのだそう
な︒
四月十八日
顔を洗って甲板へ出たらコロンボへ着いていた︒T氏
と西村氏と三人で案内者を雇うて馬車で見物に出かけ
た︒市場でマンゴスチーンを買っていたら︑子供がおお
ぜいよって来て銭をねだり︑馬車を追っかけて来たがと
ふ とう
うとう何もやらなかった︒埠頭から七マイルの仏寺へ向
かう︒途中の沼地に草が茂って水牛が遊んでいたり︑川
べりにボートを造っている小屋があったり︑みんなおも
41
しろい画題になるのであった︒土人の女がハイカラな洋
った︒
ら
はアラバスターの仏像や︑大きな花崗石を彫って黄金を
み かげいし
あるという仏足や仏歯の模造がある︒本堂のような所に
葉を採ってみんなに一枚ずつ分けてくれた︒カンジーに
病気で熱があるとかいってヨロヨロしていたが菩提樹の
ぼ だい じゆ
をすすめる老人もある︒ここの案内をした老年の土人は
けるようにして買え買えとすすめる︒貝多羅に彫った経
ばい た
寺へ着くと子供が蓮の花を持って来て鼻の先につきつ
はす
装をしてカトリックの教会からゾロゾロ出て来るのに会
42
ね はん ぞう
塗りつけた涅槃像がある︒T氏はこれに花を供えて拝し
ていた︒
帰途に案内者のハリーがいろいろの人の推薦状を見せ
て自慢したりした︒N氏の英語はうまいがT氏のはノー
グードだなどと批評した︒年を聞くと四十五だという︒
そ
われわれは先祖代々の宗教を守っているのに︑土人の中
や
には少し金ができるとすぐイギリス人のまねをして耶蘇
しん じや
信者になるのがある︑あれはいけない︑どの宗教でもつ
まり中身は同じで︑悪い事をすな︑ズーグードと言うだ
けの事だ︑などと一人で論じていた︒ヴィクトリアパー
43
ら
うちわ
ク の 前 の レ ス ト ラ ン で ラ ム ネ を 飲 ん で い た ら ︑ 給 仕 の土
ばい た
︵ 大正九年九月︑渋柿︶
うれしそうにニコニコしていた︒
穴にさしたからT氏と自分もそのとおりにした︒馬丁は
い花を一輪ずつとってくれた︒N氏がそれを襟のボタン
えり
だ︒馬丁にも一杯飲ませてやったら︑亭前の花園の黄色
ていぜん
人が貝多羅の葉で作った大きな団扇でそばからあおい
44
五
四月二十日
アラビア海から紅海へ
う げん
昨夜九時ごろにラカジーブ島の燈台を右舷に見た︒こ
れ か ら ア デ ン ま で 四 五 日 は も う 陸 地 を 見な い だ ろ う と 思
うと︑心細いよりはむしろゆっくり落ちついたような心
持ちがした︒朝食後甲板で読書していたら眠くなったの
で室へおりて寝ようとすると︑食堂でだれかがソプラノ
でのべつに唱歌をやっている︒芸人だとかいうオランダ
人の一行らしい︒この声が耳についてなかなか寝られな
45
かった︒それで昼食後に少し寝たいと思うと︑今度はま
ろう
る︒女も美しい軽羅を着てベンチへ居並ぶ︒デッキへは蠟
けい ら
一等室のほうからも燕尾服の連中がだんだんにやってく
えん び ふ く
クの天井の下につるし並べてイルミネーションをやる︒
も旗を掛け連ねた︒赤︑青︑緑︑いろいろの電球をズッ
旗で通風管や巻き上げ器械などを包みかくし︑手すりに
ついた︒夕飯後からそろそろ準備が始まった︒各国の国
それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目に
午後九時から甲板で舞踏会を催すという掲示が出た︒
たテノルの唱歌で睡眠を妨げられた︒
46
かなにかの粉がふりまかれる︒楽隊も出て来てハッチの
上 に 陣 取 っ た ︒ 時 刻 が来 る と 三 々五 々踊 り 始め た︒少 し
ほお
風があるのでスカーフを頬かぶりにしている女もある︒
四つの足が一組になっていろいろ入り乱れるのを不思議
よ こ はま
に思って見守るのであった︒横浜から乗って来た英人の
Cがオランダの女優のいちばん若く美しいのと踊ってい
た︒なんとなく不格好に︑しかし非常に熱心に踊ってい
るのがおかしいようでもあったが︑ハイカラでうまく踊
る他の多くのダンディよりこのほうが自分にはいい気持
ちを与えた︒舞踏というものは始めて見たが︑なるほど
47
セ ン シ ュ ア ル な 暗 示 に 富 んだ も の で あ る ︒ こ れ を 引 き 去
いう︒
品のよくないブラムフィールド君が独唱をやると︑その
英国人で五十歳ぐらいの背の高い肥ったそしてあまり
ふと
ずつ集めてロイド会社の船員の寡婦や孤児にやるのだと
夜九時から甲板で音楽会をやった︒一人前五十ペンス
四月二十二日
で談笑している一組もあった︒
反対の側のデッキには︑舞踏などまるで問題にしない
ったらあとには何物が残るだろうと思ったりした︒
48
ロ
歌 は だ れ で も 知 っ て い る のだ と 見 え て 聴 衆 が み んな い っ
ソ
しょに歌い出してせっかくの独唱はさんざんに押しつぶ
されてしまった︒おかしくもあったが気の毒でもあった︒
なんだかドイツ人の群集の中で英国人のある特性そのも
ちよ うしよ う
のが 嘲 笑 の目的物になっているような気がした︒そし
てその特性は自分もあまり好かないものであるのにかか
わらず︑この時はなんだか聴衆の悪じゃれを不愉快に感
じた︒それでもやっぱりおかしい事はおかしかった︒ブ
ラムフィールドという名前がこの人とこの小事件とにな
んとなく調和していると思った︒
49
自分の室付きのボーイの兄のマクスが皆から無理にす
いと思ったがおおぜいの客の眼前に気がひけてついそ
オリンをひいているマクスを見いだした︒声をかけた
フェーにはいったら︑そこのオーケストラの中でバイ
︵ この時から一年余り後にハンブルヒである大きいカ
げた︒
衆は盛んな拍手をあびせかけて幾度か彼を壇上に呼び上
目を輝かせ肩をそびやかして勇ましい一曲を歌った︒聴
今まで謙遜であった彼とは別人のように︑燃えるような
けん そん
すめられて演奏台に立った︒美しいテノルで歌い出すと︑
50
のまま別れてしまった︒彼の顔はなんだか少しやつれ
︶
ていたような気がした︒
四月二十三日
さ げん
朝食後に出て見ると左舷に白く光った陸地が見える︒
ちょっと見ると雪ででもおおわれているようであるが︑
無論雪ではなくて白い砂か土だろう︒珍しい景色である︒
なんだかわれわれの﹁この世﹂とは別の世界の一角を望
Weirdという英語のほかに適当な形容
む よ う な 心 持 ち が す る ︒﹁ 陸 地 の幽 霊 ﹂ と で も い い た い
ような気がする︒
51
詞は思いつかなかった︒⁝⁝あれがソコトラの島だろう
さん ご
もや
つの
羽扇︑藁細工のかご︑貝や珊瑚の首飾り︑かもしかの角︑
わ ら ざい く
土人がいろいろの物を売りに来る︒駝 鳥 の卵や羽毛︑
だ ちよう
の中からいろいろの奇怪な伝説が生まれたのだろう︒
ように起伏した砂漠があるらしい︒この気味のわるい靄
さ ばく
に暑そうな靄のようなものが立ちこめて︑その奥に波の
もや
緑も見えないようである︒やや平坦なほうの内地は一面
へいたん
シック建築のようにとがり立った岩山である︒草一本の
朝九時アデンに着いた︒この半島も向かいの小島もゴ
と言っていた︒
52
ふか
がくこつ
鱶の顎骨などで︑いずれも相当に高い値段である︒
船のまわりをかなり大きな鱶が一匹泳いでいる︒その
腹の下を小さい魚が二尾お供のようについて泳いでい
テスベラド
る︒あれがパイロットフィッシュだとだれかが教える︒
ばり
オランダ人で伝法肌といったような男がシェンケから大
つ
きな釣り針を借りて来てこれに肉片をさし︑親指ほどの
あさなわ
ふか
麻繩のさきに結びつけ︑浮標にはライフブイを縛りつけ
げん そく
て舷側から投げ込んだ︒鱶はつい近くまで来てもいっこ
自分と並んで見ていた男が︑けさ早く鯨の潮を吹いて
う気がつかないようなふうでゆうゆうと泳いで行く︒
53
ふか
こ はく
海峡を過ぎた︒熱帯とも思われぬような涼しい風が吹い
たので五 時半ごろまで寝た︒夜九時にバベルマンデブの
一時に出帆︒昨夜電扇が止まって暑くて寝られなかっ
て甲板に押し上がろうとする商人を制していた︒
の巡査が︑赤帽を着て足にはサンダルをはき︑鞭をもっ
むち
布 切 れ に 貫 ぬ い た の を 首 に か け た の が い た ︒ や は り土 人
人の中には大きな石鹼のような格好をした琥珀を二つ︑
せつ けん
土人が二人︑甲板で手拍子足拍子をとって踊った︒土
に はな か っ た ︒
いるのに会ったと話していた︒鱶はいつまでも釣れそう
54
キヤビン
て船室の中も涼しかった︒
四月二十五日
十二使徒という名の島を右舷に見た︒それを通り越す
と香炉のふたのような形の島が見えたが名はわからなか
った︒
一等客でコロンボから乗った英国人がけさ投身したと
話していた︒妻と三人の子供をなくしてひとりさびしく
故国へ帰る道であったそうな︒
午 後 T 氏 が わ ざ わ ざ 用 意 し て手 荷 物 の 中に 入れ て来 た
四月二十六日
55
せん ちや き
紅海から運河へ
ツ ウイ ン
︵ 大正九年十月︑渋柿︶
午前右舷に双生の島を見た︒一方のには燈台がある︒
う げん
四月二十七日
六
ェーファースとビスケットであった︒
一等のN氏とを食堂に招待してお茶を入れた︒菓子はウ
夫妻︑神戸からいっしょのアメリカの老嬢二人︑それに
こう べ
煎茶器を出して洗ったりふいたりした︒そしてハース氏
56
ちょうど盆を伏せたような格好で全体が黄色い︒地図で
デイブルーデル
見ると兄 弟 島というのらしい︑どちらが兄だかわから
なかった︒
アデンを出てから空には一点の雲も見ないが︑空気が
な ん と な く 濁 っ て い る︒ ハ ー ス 氏 の 船 室 は 後甲 板 の上 に
ちり
あるが︑そこでは黒の帽子を一日おくと白く塵が積もる
と言っていた︒どうもアフリカの内地から来る非常に細
さ じん
かい砂塵らしい︒
これは二人が帆桁の上へ向かい合いにま
ほ げた
午後乗り組みの帰休兵が運動競技をやっ た︒綱引きや
ハーネン カンプ
︱
ら 闘 鶏
57
まくら
である︒将校が一々号令をかけているのが滑稽の感を少
こつけい
んごを口でくわえる芸当︑ Wurst Schnappenは頭上につ
るした腸詰めへ飛び上がり飛び上がりして食いつく遊戯
き 出 し て い る と こ ろ は た し か に 奇 観 で あ る ︒ Aepfel
Suchen im Wasserというのは︑水おけに浮いているり
出 し て ま っ 白 に な っ た 顔 を あ げ て︑ 口 に た ま っ た 粉 を 吐
てある銀貨を口で捜して取り出すのである︒やっと捜し
ある︒それから
Geld Suchen im Mehlというのは︑洗
めん ばち
面鉢へ盛ったメリケン粉の中へ顔を突っ込んで中へ隠し
せん
たがって︑ 枕 でなぐり合って落としっくらをするので
58
なからず助長するのであった︒
しん ぺき
船首の突端へ行って海を見おろしていると深碧の水の
くらげ
中に桃紅色の海月が群れになって浮遊している︒ずっと
えび
深い所に時々大きな魚だか蝦だか不思議な形をした物の
影が見えるがなんだとも見定めのつかないうちに消えて
しまう︒
う げん
右舷に見える赤裸の連山はシナイに相違ない︑左舷に
はいくつともなくさまざまの島を見て通る︒夕方には左
のこぎ り
にアフリカの連山が見えた︒真に 鋸 の歯のようにとが
だいだいいろ
り 立 っ た 輪 郭 は 恐 ろ し く も 美 し い ︒ 夕ば え の 空 は 橙 色
59
れつ か
から緑に︑山 々の峰は紫から朱にぼかされて︑この世と
こうかい
旗を立てたランチが来て検疫が始まった︒
層のありあり見える絶壁がそばだっている︒トルコの国
朝六 時にスエズに着く︒港の片側には赤みを帯びた岩
四月二十八日
されるような気がした︒
時に﹁地球の大きさ﹂というものがおぼろげながら 実 認
リアライズ
も減りはしなかった︒しかしそう思って連山をながめた
としいて思ってみても︑眼前の大自然の美しさは増して
は思われない崇厳な美しさである︒紅海は大陸の裂罅だ
60
土 人 の売 り に 来 た も の は絵 はがき ︑ 首 飾り ︑ エ ジ プ ト
かん らんじ ゆ
模様の織物︑ジェルサレムの花を押したアルバム︑橄欖樹
で作った紙切りナイフなど︒商人の一人はポートセイド
まで乗り込んで甲板で店をひろげた︒
十 時 出 帆 徐 行 ︒ 運 河 の土 手 の 上 を ま っ 黒 な 子 供 の 群 れ
が船と並行して走りながら口々にわめいていた︒船では
だれも相手にしないので一人減り二人減り︑最後に残っ
こつ けい
た二三人が滑稽な身ぶりをして見せた︒そして暑い土手
を と ぼ と ぼ 引 き 返 し て 行 っ た ︒ 両 岸 こ とに ア ラ ビ ア の 側
さ ばく
は 見 渡 す 限 り 砂 漠 で と こ ろ ど こ ろ の く ぼ み に は か わ き上
61
けんがい
がった塩のようなまっ白なものが見える︒アフリカのほ
ごつ
ば
もあった︒砂漠にもみぎわにも風の作った 砂 波 がみ
サンド リツプル
いたりした︒みぎわには蘆のようなものがはえている所
あし
駱駝が二三匹いたり︑アフリカ式の村落に野羊がはねて
らく だ
帯らしくない顔をして遊んでいた︒岸べに天幕があって
さすがに樹木の緑があって木陰には牛や驢馬があまり熱
ろ
暑くなった︒ところどころにあるステーションだけには
思いのほか涼しい風が吹いたが︑再び運河に入るとまた
の ほ う は ミ ラ ー ジ ュ で 浮 き上 が っ て 見 え た ︒ 苦 海 で は
ビツター シー
うにははるかに兀とした岩山の懸崖が見え︑そのはずれ
62
ふう しよく
ごとにできていたり︑草のはえた所だけが風 蝕 を受け
ど まんじゆう
ないために土饅 頭 になっているのもあった︒
夜ひとりボートデッキへ上がって見たら上弦の月が赤
さ ばく
く天心にかかって砂漠のながめは夢のようであった︒船
もや
橋の探照燈は希薄な沈黙した靄の中に一道の銀のような
光を投げて︑船はきわめて静かに進んでいた︒つい数日
ポーラリス
前までは低く見えていた北極星が︑いつのまにか︑もう
見上 げるように 高くな っていた︒
スエズで買ったそろいのトルコ帽をかぶったジェルサ
レム行きの一行十人ばかり︑シェンケの側の甲板で卓を
63
囲 ん で︑ あ す 上 陸 す る 前 祝 い で で も あ る か ビ ー ル を 飲 み
︵ 大正九年十一月︑渋柿︶
ポートセイドからイタリアへ
フラミ ンゴー
鶴
の群れがいっぱいいると思ったら︑それは夢であった︒
った︒⁝⁝際限もなく広い浅い泥沼のような所に紅
どろぬま
昨夜おそく床にはいったが蒸し暑くて安眠ができなか
四月二十九日
七
ながら歌ったり踊ったりしていた︒
64
時計を見ると四時であるのに周囲が騒がしい︒甲板へ出
て見るともうポートセイドに着いていた︒夜明け前の市
街は暑そうなかわいた霧を浴びている︒粗末な家屋の間
にあるわずかな樹木も枯れかかったのが多かった︒
こう べ
神戸からずっといっしょであった米国の老嬢二人も︑
コンチャーの家族も︑いよいよここで下船して︑ジェル
サレムへ︑エジプトへ︑思い思いに別れて行くのであっ
た︒老嬢の一人はねんごろに手を握って﹁またいつか日
﹁お早う︑今日は﹂と日本語で呼びかけるものがある︒
本 で会い ましょう﹂など と言った︒
65
ことになった︒
さら さ
たばこ う
赤い斑点のはいった更紗を着た女とが︑もたれ合ってギ
はん てん
やつっている︒その前には麦藁帽の中年の男と︑白地に
むぎわらぼう
をしたトルコ人だかアルメニア人かがゆるやかに櫂をあ
かい
ネードのようなものをやっている︒まん中には立派な顔
一隻のかなり大きなボートに数人の男女が乗って︑セレ
せき
音 楽 が 水 の 上 か ら 聞 こ え て来 る ︒ 舷 側 か ら 見 お ろ す と
げん そく
辞を言ったりした︒結局は紙巻き煙草を二箱買わされる
横浜にいたことがあるとか言って︑お定まりらしいお世
見ると︑若いスマートなトルコ人の煙草売りであった︒
66
ターをかなでる︒船尾に腰かけた若者はうつむいて一心
にヴァイオリンをひいている︒その前に水兵服の十四五
歳の男の子がわき見をしながらこれもヴァイオリンの弓
を動かしている︒もう一人ねずみ色の地味な服を着た色
ちんうつ
の白い鼻の高い若い女は沈鬱な顔をしてマンドリンをか
き鳴らしている︒船首に一人離れて青い服を着た土人の
子供がまるで無関係な人のようにうずくまっていた︒こ
のような人々の群れの中にただ一人立ち上がって︑白張
こう もり がさ
りの蝙蝠傘を広げたのを逆さに高くさし上げて︑親船の
舷側から投げる銀貨や銅貨を受け止めようとしている娘
67
ふと
が あ っ た ︒ 緑 が か っ た ス コッ チ の ジ ャ ケ ツ を 着 て︑ ち ぢ
む ぞう さ
こ
らしく肩から胸が大きく波をうっていた︒楽手らはめい
の肩につかまったりした︒そうして息をはずませている
落ちて行った︒時々よろけて倒れそうになって 舷 や人
ふなばた
た ︒ 上 か ら 投 げ る 貨 幣 の あ る 物 は傘 か ら はね 返っ て 海 に
りながら︑あちらこちらと活発に蝙蝠傘をさし出してい
こう もりがさ
それで精一杯の愛 嬌 を浮かべて媚びるようなしなを作
あい き よ う
、ば
、
た色白な顔は決して美しいと思われなかった︒少しそ
ほお
おしろい
、す
、のある頬のあたりにはまだらに白粉の跡も見えた︒
か
れ た 金 髪 を 無 雑 作 に 桃色 リ ボ ン に 束 ね てい る ︒ 丸 く 肥 っ
68
めいただ自分の事だけ思いふけってでもいるようにまた
自分らの音楽の悲哀に酔わされてでもいるように︑みん
な 思 い つ め た よ う な 暗 い 顔 を し て い た ︒滅 び た 祖 国 ︑ 流
浪の生活︑熱帯の夏の夜の恋︑そんなものを思わせるよ
うな︑うら悲しくなまめかしい音楽が黄色く濁った波の
上を流れて行った︒波の上にはみかんの皮やビールのあ
き び ん な ど が 浮 い た り 沈 んだ り し て 音 楽 に 調 子 を 合 わ せ
ていた︒⁝⁝淡い郷愁とでもいったようなものを覚えて︑
げん そく
立 っ て 反 対 の 舷 側 へ 行 く と ︑ 対 岸 を ま っ 黒な 人 と ま っ 黒
な石炭を積んだ船が通って行った︒
69
七時に出帆︒レセップの像を左に見て地中海へ乗り出
朝からもうクリート島が右舷に見えていた︒島という
四月三十日
まいにはまたドロップの瓶入りを買わされた︒
びん い
﹁ドイツ語がおじょうずですね﹂などと言われて︑おし
は縁が切れたのだと思う︒⁝⁝午後船の散髪屋へ行く︒
地中海は雲一つ見えなかった︒もういよいよアジアと
は朝日に輝いていた︒
はいり﹂と言っているように見える︒運河会社の円頂塔
キユーポラ
して行った︒レセップは右手を運河のほうへ延ばして﹁お
70
にはあまり大きいこの陸地の連山の峰には雪らしいもの
が見えていた︒まさか雪ではあるまいとハース氏と言っ
ていたが︑とうとう
と言って承認し
Es ist doch Schnee
た︒甲板は少し寒かった︒寒暖計はそんなでもないのに︑
Kinderfestを催すと
長い間暑さに慣れて皮膚が甘やかされているのであっ
た︒
午後三時十五分から子供の祝宴
いう掲示が出た︒
ハース氏がその掲示文を読んで文章のまずい所を指摘
し て 教 え て く れ た ︒ 時 刻 が来 る と お おぜ い の 子 供 が 甲 板
71
さら
午後にはもうイタリアの山が見えた︒いよいよヨーロ
五月一日
って︑ハース氏に贈るべき品物を選み出したりした︒
いた︒⁝⁝T氏と 艙 へはいって︑カバンを出してもら
ふな ぐ ら
についた︒おとならはむしろうらやましそうに見物して
国の国旗を持ち︑楽隊の先導で甲板を一周した後に食卓
いトルテや菓子も出ている︒子供らは
N. L. D.の金文
字を入れた黒リボン付きの紙帽子をかぶり︑手んでに各
ーと紙旗とをのせたのを並べてある︒見るだけでも美し
へ集まる︒食卓には日本製の造花を飾り︑皿にクラッカ
72
ッパへ来たのかと思った︒夕食時にはメッシナ海峡の入
り口へかかった︒左にエトナが見える︒富士山によく似
ているという人もあったが︑自分の感じはまるでちがっ
う げん
て い た ︒ 右 舷 の 山 に は 樹 木 は 少 な い が ︑ 灰 白 色 の 山 骨は
かん ぼく
美しい浅緑の草だか灌木だかでおおわれている︒海浜に
はまっ白な小さい家がまばらに散らばっている︒だれか
の漁村の詩にこんな景色があったような気がした︒もう
﹁東洋﹂と﹁熱帯﹂の姿はどこにもなかった︒まもなく
右にレッジオ︑左にメッシナの町の薄暮の燈火を見て過
ひ
ぎる︒メッシナは大地震のために破壊されて灯の数は昔
73
の比較にならないとハース氏が話した︒
けつべつ
九 時 ご ろ か ら 喫 煙 室 で N 君ハ ー ス 氏 ら と 袂 別 の心 持 ち
るいはまたこの﹁地中海の燈台﹂と言われる火山をでき
た︒故国に近づく心の興奮をおさえきれないように︑あ
とどなりながら甲板を忙しげに行ったり来たりしてい
な腹を突き出して︑
﹁ストロンボーリ︑ストロンボーリ﹂
の低い肥ったバリトン歌手のシニョル・サルヴィは大き
ふと
の光はただわずかにそれと思われるくらいであった︒背
リの火山島が見えた︒十五夜あたりの月が明るくて火口
で シ ャ ン ペ ン の 杯 を あ げ た ︒ ⁝ ⁝ 十 時 過ぎ に ス ト ロ ン ボ
74
アクセント
るだけ多くの旅客に見せたいと思っているかのように︑
シラ ブル
最後から二番目の綴音﹁ボー﹂に強い揚音符をつけてま
た幾度か﹁ストロンボーリ︑ストロンボーリ﹂と叫んで
いた︒月夜の海は次第に波が高くな って︑船は三十度近
くも揺れるので︑人々はもうたいてい室の毛布にくるま
︵ 大正九年十二月︑渋柿︶
って︑あす着くナポリの事でも考えているだろうに︒⁝⁝
75
八
ナポリとポンペイ
ていろいろの美しい連想に結びつけられたこれらの美し
に叫んでいる︒いろいろの本で読んだ覚えのある︑そし
ながら︑あれがソレント︑あすこがカステラマレと口々
いそと甲板を歩き回って行く手のかなたこなたを指ざし
て来た︒遠い異郷から帰って来たイタリア人らは︑いそ
が巌壁に照りはえて美しい︒やがてヴェスヴィオも見え
が ん ぺき
朝甲板へ 出て見ると︑もう カプリの島が見える︒朝日
五 月 二日
76
い地名が一つ一つ強い響きを胸に伝える︒船が進むにつ
れて美しい自然と古い歴史をもった市街のパノラマが目
の前に押し広げられるのである︒子供の時分から色刷り
どう
石版画や地理書のさし絵で見慣れていて︑そして東洋の
かた い な か
日本の片田舎に育った子供の自分が︑好奇心にみちた憧
けい
憬の対象として︑西洋というものを想像するときにいつ
も思い浮かべた幻像の一つであったあのヴェスヴィアス
が︑今その現実の姿をついそこにまのあたり現わしてい
た︒しかし思っていたほどの煙は吐いていなかった︒同
かさ
様に絵で見なれたイタリア松の笠をかむったようなのが
77
丘の上などに並んでいるのもなつかしかった︒
さん ばし
検疫がすんで桟橋へつくと︑案内者がやって来てしき
む がい
はどうしても今の世のものではなかった︒金光燦爛たる
さんらん
とある寺院へはいって見た︒古びたモザイックや壁画
め込まれてナポリの町をめぐり歩いた︒
人の厄介になることにした︒無蓋の馬車にぎし詰めに詰
やつ かい
イツ大尉夫妻と自分と合わせて五人の組を作ってこの老
背広はみすぼらしいものであった︒T氏とハース氏とド
の顔はどこかフランスの大統領に似ていたが︑着ている
りにポンペイ見物をすすめた︒年取ったふとった案内者
78
ろう そく
ひ
祭壇の蠟燭の灯も数世紀前の光であった︒壁に沿うて交
こう し
ご
ざん げ
番小屋のようなものがいくつかあった︑その中に隠れた
そう りよ
僧侶が︑格子越しに訴える信者の懺悔を聞いていた︒そ
れはおもに若い女であった︒ここでも罪を犯したものの
ほうが善人で︑高徳な僧侶のほうが悪人であった︒なん
となくこういう僧侶に対する反感のこみ上げて来るのを
かた
どうする事もできなかった︒尼僧の面会窓がある︒さな
ろう や
がら牢屋を思わせるような厳重な鉄の格子には︑剛く冷
くぎ
たくとがった釘が植えてあった︒この格子の内は︑どう
しても中世紀の世界であるような気がした︒
79
こうばい
ここを出て馬車は狭い勾配の急な坂町の石道をガタガ
土
と大きく書いてあるのを︑行く先の駅名かと
Fumatori
停車場へ着いてポンペイ行きに乗る︒客車の横腹に
ただあわただしく走り 過ぎ て行っ た︒
れ一組の観客の前を︑美しくよごれた南欧の町の光景が
地の人の目にはさだめて異様であったろうと思うわれわ
それぞれの思いにふけっておし黙っていた︒その
︱
保っているかのように多くは黙っていた︒T氏と自分も
一人でよく話していたが大尉夫妻はドイツ軍人の威厳を
タ揺れながら駆けて行った︒ハース氏はベデカを片手に
80
思ったら︑それは喫煙車という事であった︒客車の中は
存外不潔であった︒汽車は江に沿うてヴェスヴィオのふ
もとを走って行った︑ふもとから見上げると海上から見
ようがん
たほど高くは見えなかった︒熔岩が海中へ流れ込んだ跡
いなか や
も通って行った︒シャボテンやみかんのような木も見ら
どろ つち ぬ
れた︒粗末な泥土塗りの田舎家もイタリアと思えばおも
しろかった︒古風な木造の歯車のついた粉ひき車がその
ような家の庭にころがっているのも珍しかった︒青い海
のかなたにソレントがかすんで︑絵のような小船が帆を
たたんで岸に群れているのも︑みんなそれがイタリアで
81
あった︒⁝⁝トルレ・デル・アヌンチアタで汽車をおり
った︒
える︒もうそこがポンペイの入り口である︒入場料を払
ホ テ ル ・ ド ゥ ・ ヴ ェ シ ュ ー ヴ と 看 板 を か け た旗 亭 が 見
き てい
と白く輝く家屋の壁とは強い特徴のある取り合わせであ
道を走って行った︒ところどころに孤立したイタリア松
馬車が古い昔の町を通り抜けると馬鈴薯 畑 の中の大
ば れ い し よ ばたけ
強く新しくよみがえって来るのであった︒
れていたいろいろの場面が︑この駅の名の響きに応じて
た︒アンデルセンの﹃即興詩人﹄を読んだ時に頭に刻ま
82
っ て 関 門 を 入 る と ︑ そ こ は 二 千 余 年 前 の 文 化 の 化 石 で︑
し がい
見渡す限りただ灰白色をした低い建物の死骸である︒こ
えん すい か ざん
の荒涼な墓場の背景には︑美しい円錐火山が︑優雅な曲
線を空に画してそびえていた︒空に切れ切れな綿雲の影
が扇のように遠く広がったすそ野に青い影を動かしてい
た︒過去のいろいろの年代にあふれ出した熔岩の流れの
跡がそれぞれ違った色彩によって見分ける事ができるの
であった︒しかし火山は昔の大虐殺などは夢にも知らな
い よ う な 平 和 な 姿を し て ︑ 頂上 に ただ あ るか な し の白 い
煙を漂わせているだけであった︒
83
わだち
みぞ
狭い町は石畳になって︑それに車の 轍 が深い溝をな
ろ
はだ
せん とう
なが い
す
ているのもおもしろかった︒風呂にはいっては長椅子に
ふ
壁が二重になっていた︒脱衣棚が日本の洗湯のそれと似
だ つ い だな
きな浴場の跡もあった︒たぶん温度を保つためであろう︑
た︒それには狩猟や魚族を主題としたものもあった︒大
富豪の邸宅の跡には美しい壁画が立派に保存されてい
ねっていた︒
あがった 鰻 を思わせるような無気味な肌をさらしてう
うな ぎ
水道の鉛管がはみ出していた︒それが青白くされ鏽びて︑
さ
して刻みつけられてあった︒車道が人道に接する所には︑
84
寝そべって︑うまい物を食っては空談にふけって︑そし
シエスタ
てうとうとと昼寝をむさぼっていた肉欲的な昔の人の生
もうせん
活を思い浮かべないわけにはゆかなかった︒
テアトロ
び じん そう
劇場の中のまるい広場には︑緑の草の毛氈の中に真紅
ぐ
の虞美人草が咲き乱れて︑かよわい花弁がわずかな風に
とり かぶ と
ふるえていた︒よく見ると鳥 頭 の紫の花もぽつぽつ交
じって咲いていた︒この死滅した昔の栄華と歓楽の殿堂
れん が
の跡にこんなかよわいものが生き残っていた︑石や煉瓦
かまど
酒屋の店の跡も保存されてあった︒パン屋の 竈 の跡
はぽろぽろになっているのに︒
85
や
うす
しようか
十いくつとかの
verschiedene Stellungenを示したもの
だとハース氏が説明して聞かした︒青や朱や黄の顔料の
く壁を取り巻いてさまざまの壁画が描かれてあった︒何
低い暗い部屋というだけであった︒よく見ると天井に近
へ
ベンチのようなものがいくつか並んでいるだけで︑狭い
た︒街路の人道から入り口へ踏み込むとすぐ右側に石の
うの辻でわれわれを待ち合わせるように取り計らわれ
つじ
の入り口の軒には大きな石の
penisが壁から突き出て
いた︒大尉夫人だけはここでひとり一行から別れて向こ
や︑粉をこねた臼のようなものもころがっていた︒娼家
86
そ ぼく
色の美しいあざやかさと︑古雅な素朴な筆致とは思いの
ほかのものであった︒そこには少しもある暗い恐ろしさ
がなかった︒
ぜん そく
少し喘息やみらしい案内者が
No
time, Sir と
! 追い立
ミ ユ ゼ オ
てるので︑フォーラムの柱の列も陳列館の中も落ち着い
く もん
て見る暇はなかった︒陳列館には二千年前の苦悶の姿を
し がい
そのままにとどめた死骸の化石もあったが︑それは悲惨
の感じを強く動かすにはあまりにほんとうの石になり過
ぎているように思われた︒それよりはむしろ︑半ば黒焦
げになった一握りの麦粒のほうがはるかに強く人の心を
87
遠い昔の恐ろしい現実に引き寄せるように思われた︒
き てい
火山 の名をつけた旗亭で昼飯を食った︒卓上に出て来
ぶ どう しゆ
るものだとしか思われなかった︒名刺をもらって見ると
なかった︒それはさびしい旅客のある心持ちを適切に語
語で話しかけるのに
Ja !はおかしいと言ってハース氏
は私の耳につぶやいた︒しかし自分はおかしいとは思え
Ja と
! いってうなずいて見せた︒こちらがわざわざ日本
ス氏が﹁アナタハニホンノカタデスカ﹂と話しかけると
卓にただ一人すわっている日本人らしい若い紳士にハー
た葡萄酒の名もやはり同じ名であった︒少しはなれた食
88
それは某大学の留学生で法学士のN氏であった︒N氏の
話によると自分の旧知のK氏が今ちょうどドイツからイ
タリア見物の途上でナポリに来ているとの事であった︒
自分は会いたかったが出帆前にとてもそれだけの時間は
なかった︒思いもかけぬ異郷で同じ町に来合わせながら︑
そのままにまた遠く別れて行くのをわびしくもまたおも
しろくも思った︒
旗亭の入り口に立ってギターをひく若者があった︒そ
の曲が︑なんだかポートセイドの小船の楽手らのやって
いたのとよく似た心持ちを浮かべるものであった︒同じ
89
ようにせつないやるせのないようなものであった︒自分
少し波が出て船が揺れた︒
十シリングにつけたら負けてよこした︒⁝⁝五時出帆︒
が目についた︒双眼鏡の四十シリングというのをT氏が
た︒古めかしい油絵の額や︑カメオや七宝の装飾品など
いで見ただけで船へ帰ると︑いろいろの物売りが来てい
ナポリへ帰って︑ポーシリッポの古城もただ外から仰
なものに襲われ たのであった︒
めているうちに︑不思議な透明なさびしさといったよう
はこれを聞きながら窓掛けの外に輝く南国の日光を見つ
90
九
五月三日
ゲノアからミラノ
︵ 大正十年二月︑渋柿︶
朝モントクリストの島を見て通った︒鯨が潮を吹いて
いた︒地中海に鯨がいてはいけない埋由はないだろうが
なんだか意外な感じがした︒昼過ぎから前方に陸が見え
三十五日間世話になった船員にそれぞれトリンクゲル
だ し五 時 ご ろ に い よ い よ ゲ ノ アに 着い た ︒
91
トを渡さなければならないのに ︑ちょうど食事時でボー
Glückliche Reise な
! どと
んのカバンや行李をおろさせた︒税関の検査は簡単に済
こう り
へおりた自分らに見張り番をさせておいて船からたくさ
てい ると荷物な んかさらわれるからと言って︑先に 桟橋
さ んば し
ハース氏は︑イタリアの人足はずるくて︑うっかりし
言った︒
ひげの立派な顔をしゃくって
れ た ︒ 彼 ら は そ れ を か く しに ね じ 込 みな が ら︑ カ イ ゼ ル
んだ︒狭い廊下で待ち伏せして一人一人渡すのに骨が折
イ ら は 皆 食 堂 へ 出 て い る の で ぐ あいが 悪 く て 少 し 気 を も
92
んだ︒自分がペンク氏から借りて持って来た海図の巻物
を︑なんだと聞かれたから︑いいかげんのイタリア語で
カルタマリーナと答えたら︑わかったらしかった︒
や
ホ テ ル・ ロ ア イ ヤ ー ル とい う の の 馬 車 でハ ー ス 氏 の 親
へ
子三人といっしょに宿へ着いた︒ハース氏が安い部屋を
とかけ合ってくれて︑ No.65
という三階の部屋へはいる︒
あまり愉快な部屋ではない︒窓から見おろすとそこは中
庭で︑井戸をのぞくような気がする︒下水のそばにきた
ぶ どう
ない木戸があって︑それに葡萄らしいものがからんでい
なわ
る︒犬が一匹うろうろしている︒片すみには繩を張って︑
93
つぎはぎのせんたく物が干してある︒表の町のほうでギ
窓の外の例の中庭の底のほうから男女のののしり合う声
夜久しぶりで動かない陸上の寝室で寝ようとすると︑
したりした︒
﹁エンリョはいりません﹂など取っておきの日本語を出
本場だからたくさん食えと言ってハース氏がすすめた︒
た︒デセールの干し葡萄や干し無花果やみかんなどを︑
い ち じ く
ていた︒夕食には自分らのほかにはたいして客もなかっ
て来た︒遠くの空のほうからは寺院の鐘の旋律も聞こえ
ターにあわせて歌っている声もこの井戸の底から聞こえ
94
が聞こえて来て︑それが妙に気になって寝つかれなかっ
た︒ことに女の甲高なヒステリックな声が中庭の四方の
壁に響けて鳴っていた︒夫婦げんかでもしているのか︑
それとも狂人だかわからなかった︒
五月四日
︵ みなし子︶に
Waisen
朝八時四十分に立つハース氏を見送って停車場まで行
った︒﹁きょうからわれら二人は
電車でカンポサントへ行った︒もっとさびしみのある
なる﹂と言ったら︑﹁早くベルリンへついて︑ Weise Kinder
︵ 賢い子︶におなりなさい﹂と言って笑った︒
95
所かと思ったら意外であった︒堅い感じのする回廊の床
がけ
ふじ だ な
ルディの平原へ出る︒桑畑かと思うものがあり︑また麦
らしいものが咲き乱れているのもあった︒やがてロンバ
と赤 瓦 の家がいかにも美しい︒高い崖の上の家に藤棚
あか が わ ら
た地方のトンネルをいくつも抜ける︒至るところの新緑
十一時の汽車でミラノへ向かう︒しばらくは山がかっ
は日本で見るような雑草の花などが咲いていた︒
単な十字架の並んでいるのは気持ちがよかった︒そこに
がうるさいほど並んでいた︒しかし中庭の芝地の中に簡
も壁も一面に棺で張りつめてあって︑あくどい大理石像
96
畑 も あ っ た ︒ 牧 場 の よ う な 所に は た だ 一 面 の 緑 草 の 中に
ところどころ群がって黄色い草花が咲いている︒小川の
やな ぎ
岸には 楊 やポプラーが並んで続いていた︒草原に派手
な色の着物を着た女が五六人車座にすわっていて︑汽車
のほうへハンカチをふったりした︒やがて遠くにアルプ
ス続きの連山の雪をいただいているのも見えだした︒と
れん が
ある踏切の所では煉瓦を積んだ荷馬車が木戸のあくのを
待っていた︒車の上の男は赤ら顔の肩幅の広い若者での
きせる
んきらしく煙管をくわえているのも絵になっていた︒魚
しろうと
網を肩へかけ︑布袋を下げた素人漁夫らしいのも見かけ
97
たてじま
し
ンドグラスの説明には年号や使徒の名などがのべつに出
から日が差し込むという事だけはよくわかった︒ステイ
ドイツ語はよく聞き取れなかった︒夏至の日に天井の穴
げ
物に行く︒案内のじいさんを三リラで雇ったが︑早口の
子供の給仕人が日本の切手をくれとねだった︒伽藍を見
が らん
二時ごろミラノ着︒ホテル・デュ・パルクに泊まる︒
の塔だけは高くそびえているのであった︒
先には水田のようなものがあった︒どんな寒村でも︑寺
んたくしているのも美しい色彩であった︒パヴィアから
た︒河畔の緑草の上で︑紅白のあらい竪縞を着た女のせ
98
て来 たが︑別に興味を動かされなかった︒塔の屋根へ登
って見おろすと︑寺の前の広場の花壇がきれいな模様に
なっている事がよくわかった︒しかし寺院はやっぱり下
から見るものだと思う︒
ダヴィンチの像の近くのある店先に日本の水中花を並
べてあった︒それには
Fiori magicaという札を立てて
あった︒宿近くの公園を散歩する︒新緑の美しさは西洋
へ来て以来いちばん目についたものでまた予想以上のも
のである︒何かしら薄紅の花が満開している︒そこで子
供がディアボロを回して遊んでいた︒
99
夕飯はまずく︑米粒入りのスープは塩からかった︒夜
えずっていた︒
だ い が らん
︵ 大正十年三月︑渋柿︶
バ ム を 買 っ た ︒売 り 子 は 美 し い 若 い 女 で 軽 快 な 仏 語 を さ
さそうにも思われた︒ドーム前の露店で絵はがきやアル
しんとしていた︒そこらにある電燈などのないほうがよ
ず ん だ 空 に は ま っ 白 な 漣 雲 が 流れ て︑ 大 理 石 の 大 伽 藍 は
れん う ん
またドームの広場まで行く︒ちょうど満月であった︒青
100
十
五月五日
ミラノからベルリン
七時二十分発ベルリン行きの
に乗る︒うっか
D-Zug
りバーゼル止まりの客車へ乗り込んでいたが︑車掌に注
意 され て あわ て て ベ ル リ ン直 行 の に 乗 り 換 え た︒
コモやルガノの絵のような湖も見られた︒ボートの上
にカンバスをかまぼこ形に張ったのが日本の屋根舟より
はむしろ文人画中の漁舟を思い出させた︒きれいな小蒸
汽が青い水面に八の字なりに長い波を引いてすべって行
101
くのもあった︒
いし がき
牧場の周囲に板状の岩片を積んだ低い石垣をめぐら
開 か れ て︑ そ の 両 側 に は 新 緑 の並 み 木 が 規 則 正 しく 並 ん
ら谷を見おろすと︑緑の野にまっ白な道路が真一文字に
の が あ る か と 思 っ て た の も し い よ う な 気 も し た ︒山 腹 か
さい優しみのある趣のものであった︒西洋でもこんなも
く 地 蔵 様 や 馬 頭 観 世 音 の よ う な ︑ し か し も う 少 し 人間 く
そして道ばたにマドンナを祭るらしい 小 祠はなんとな
しよ う し
当たりのいい山腹にはところどころに葡萄 畑 がある︒
ぶ どう ばたけ
し︑出入り口にはターンパイクがこしらえてあった︒日
102
でいるのが︑いかにも整然と片付いた感じを与えるので
あった︒
オーストリア人で︑日本へ遊びに行った帰りだという
童顔白髪の男と話す︒富士屋ホテルの案内記のような小
冊子をカバンから出して見せたりした︒隣席のドイツ人
も話しかけて︑これから通過する鉄路のループの説明を
してくれたりした︒山の腹の中でトンネルが大きな輪を
描いていて︑汽車は今はいった穴の真上へ出て来るので
ある︒T氏が特に興味をもって根ほり葉ほり聞いていた
ら︑そのループのプランをかいた図面をくれてよこした︒
103
けんがい
だんだん山が険しくなって︑峰ははげた岩ばかりにな
もみ
建物が排置よく入り交じっている︒そのような平和な景
見える︒新緑のあざやかな中に赤 瓦 白壁の別荘らしい
あ か が わ ら し ら かべ
しい白 や 薄紅の花が︑ ちょうど 粉でも振りかけ たように
原には草花が咲き乱れ︑ところどころに 李 やりんごら
すもも
湖に近づく︒湖畔の低い丘陵の丸くなめらかな半腹の草
から食堂車にはいるとまもなくフィヤワルドステッター
にたれ下がっていた︒サンゴタールのトンネルを通って
こ か し こ に は 不 滅 の 雪 が 小 氷 河に な っ て 凍 っ た 滝 の よ う
り︑谷間の樅やレルヘンの木もまばらになり︑懸崖のそ
104
色のかたわらには切り立った懸崖が物すごいような地層
のしわを露出してにらんでいたりする︒湖の対岸にはま
っ 黒な 森 が 黙 っ て 考 え 込 ん で い る ︒
ルツェルンも想像のほかに美しかった︒ここから先の
よこはまおおふな
地形が︑なんとなく横浜大船間の丘陵起伏の模様と似通
すそ
っていた︒とある農家の裏畑では︑若い女が畑仕事をし
くつ
くわ
ているのを見つけた︒完全に発育している腰から下に裾
は かま
の広がった 袴 を着けて︑がんじょうな靴をはいて鍬を
ふるっている︑下広がりのスタビリティのよい姿は決し
て見にくいものではなかった︒ここに限らず女の農作を
105
しているのを途中でいくらも見かけたが︑派手なあざや
シュワルツワルドを遠くに見て︑ライン地方の低地を過
郷に帰った時のそれに似たものがあった︒フォスゲンや
と目ざす国の国境をはいった心持ちには︑長い旅から故
バーゼルからいよいよドイツへはいるのである︒やっ
かりであるような気がした︒
、に
、色ば
このへんの風物に比べると日本のはただ灰色やや
色がどれもこれもまたなんとなく美しく輝いて見えた︒
く調和 していた︒そして遠くから見ると日に焼け た顔の
かなしかし柔らかな着物の色がいずれも周囲の天然によ
106
やな ぎ
ぎて行くのである︒至るところの緑野にポプラや 楊 の
並み木がある︒日が暮れかかって︑平野の果てに入りか
かった夕陽は遠い村の寺塔を空に浮き出させた︒さびし
い 野 道 を 牛 車 に 牧 草 を 積 んだ 農夫 が ただ 一 人 ゆ る ゆ る 家
路へ帰って行くのを見たときにはちょっと軽い郷愁を誘
われた︒カールスルーエからはもうすっかり暗くなって︑
月 明 か り は あ っ た が 景 色 は 見 えな か っ た ︒ 科 学 を 誇 る 国
だけに鉄路はなめらかで︑汽車の動揺や振動は少ない︒
ただ大風のような音を立てて夜のラインランドを下って
行った︒フランクフルトで十時になった︒ Rrrreisekissen !
107
Die Decken と
! 呼びあるく売り子の声が広大な停こう車おん場の
きゆうじよう
穹 状 の屋根に響いて反射していた︒そのrの喉音や語
きつすい
どと聞いたりした︒このいやな老人はまもなく下車する︒
で あ っ た ︒ ヤ パ ン で は 男 女 混 浴だ と い う が ほ ん と う か な
た が そ の た め に か え っ てな ん の 事 だ か わ か ら な く な る の
てむやみにゆっくり一語一語を区切って話す老人もあっ
ろんな話をしかける︒言語がよくわからないと見てとっ
食う︒ここでおおぜい乗り込んだ人々が自分ら二人にい
の耳に吹き込むものであった︒パンとゆで玉子を買って
尾の自然な音韻が紛れもないドイツの生粋の気分を旅客
108
取って代わって派手な制服を着た男が日本に対するお世
辞のような事をいうから︑こっちも答礼としてドイツの
科 学 の す ぐ れ て い る 点 を あ げ て や っ た ︒ 服装 で軍 人か と
思ったらフルダの市吏員であった︒おりる時に握手して︑
機会があったら遊びに来いなどと言った︒やっと二人き
りになったのでそのまま横になって一寝入りする︒四時
ごろ一人はいって来た客が︑自分らが起き上がろうとす
るのを︑ビッテビッテと言って押しとどめて腰掛けのす
みのほうへ小さくなって腰かけていた︒
109
五月六日
目がさめると︑もう夜が明けはなれていた︒自分ら二
しま
ようにおどった︒そしてこの風車が何かしらいい事の前
びつけられているあの風車であった︒自分の心は子供の
ていた︒それは自分の頭の中でさまざまな美しい夢と結
大きな羽根がゆるやかに回転しながら朝日にキラキラし
え︑そして小高い丘の頂上には風車小屋があって︑その
斑点や縞が見え︑低い松林が見え︑ポプラの並み木が見
はん てん
目さめていた︒ゆるやかに波を打つ地面には麦畑らしい
人の疲れた眠り足らない目の前に︑最初のドイツの朝が
110
兆ででもあるような気がするのであった︒
いつのまにか汽車はくすぶった大都会の裏町を通って
いた︒そして大きな数階の家の高い窓に干してあるせん
たく物が目についたりした︒午前七時三十五分にアンハ
ルター停車場に着いた︒H氏が迎いに来ていていきなり
握手をした︒それが西洋くさい事には最も縁の遠い地味
なH氏であるだけに︑妙な心持ちがしたが︑これから自
分らが入るべき新しい変わった生活の最初の経験として
無意味な事とは思われなかった︒ドロシケを雇ってシェ
ーネベルヒの下宿へ行く途中で見たベルリンの家並み
111
は ︑ 絵 は が き や 写 真 で 想 像 し た の に 比 べ て 妙 に 鈍 い 灰色
︵ 大正十年四月︑渋柿︶
も 流れ 出 よ う と し て す き ま を 求め て い た ︒
空虚な頭の底によどんでいた長い長い旅の疲労が︑今に
が眠っているようであった︒そしてなんとなくさびしく
をしていた︒空気がなんとなくかすんだようで︑日の光
112