全国コンクール 三部 優秀賞 『感謝~美味しいお米にありがとう~』 韮崎;pdf

全国コンクール 三部 優秀賞
『感謝~美味しいお米にありがとう~』
韮崎市立韮崎東中学校一年
佐藤 文哉 さん
僕の家の庭に一本の大きな柿の木がある。入り口に近い半端
な場所に植えられているが、その理由をこれまでは特に気にする
事は無かった。しかしこの柿の木は、ぼくの知らない歴史を知っ
ていた。
毎年田植えの時季になると、九十三才になる祖母は決まって
語りはじめる。
「昔はうんとこさえらかっただよ。家には三町歩(三十反)の田ん
ぼがあってさあ。」
語りはじめはいつも決まっていた。
「今は便利になったもんだよ。」
祖母が嫁に来た時は、終戦間近の昭和十九年。僕の家の周り
は、桑畑と田んぼだらけだった。今の様な農機具も車も無い時代、
家では牛や馬を飼っていた。米作りには欠かせない、しろかきを
するための大切な原動力だったという。その牛や馬をつないでお
くために当時植えられたのがこの柿の木である。
籾まきからご飯として食卓に上るまでほとんどが手作業だったこ
の頃は、田植えの時季になると沢山の人の手を借り、それでも一
週間かかる大仕事になったという。それぞれの田んぼまで苗を運
ぶにもリアカー。舗装されていないあぜ道では、バランスを取る
だけでも大変だった。水を張った田んぼでは岸から岸まで縄で
線を引き、一反を五人で植えても丸一日かかったらしい。収穫ま
では毎日水の調整や草とりなどの作業をこなし、秋の実りの時季
を迎える。コンバインなど無かった昔は、稲刈りも全て手作業。刈
り取った稲は田んぼに直接並べて乾燥させたという。その後、藁
にゅうと呼ばれる先の尖った円柱のように積み上げていき、中心
の穂の部分は、雨水がかからない様に保護する。脱穀できるま
ではこの状態で積み重ねられていた。手動の機械を使っての脱
穀作業も大変な仕事だった。脱穀した籾は殻を取り除いて磨臼
にかけ、唐箕で殻や粃を除き、千石通しで穀粒を選別した。どの
器具も民俗資料館などで目にした事があった道具ばかりである。
ここまで苦労して収穫し、かま土で炊き上げたご飯は一粒一粒
がまるで宝石の様に見えたに違いない。
そんな熱心な米づくりが認められ、皇室にお米を献上したことも
あったという。そういえば祖母の家の客間には、床の間の脇に二
枚の写真が飾ってある。皇居で写された写真で祖父母は正装し、
一枚は昭和天皇、皇后様と、もう一枚は二重橋の前で写ってい
る写真だ。天皇に直接お会いし、献上できるなんて、とても光栄
ですごい事だと思う。その時、昔の大名様の立派なお屋敷に宿
泊させてもらった事、覧所で休ませてもらった事など、当時を懐
かしむ様に語り続ける祖母の顔は、少し誇らし気で昔の苦労など
少しも感じさせない程穏やかだった。朝三時には起き牛や馬の
エサにする草を刈り、子育てをしながら米作りに精を出す、当時
は十人家族の台所も任されていたと言う。今でも祖母が元気で
農作業が出来るのは、
「米作りで鍛えられた体とおいしいお米があるからだよ。」
と祖母は笑う。
当たり前の様に毎日口にしていた家のごはんには知られざる歴
史と大変な苦労があった。家でとれたおいしいお米をお腹いっぱ
い食べられる、こんな幸せに心から感謝し、僕も受け継がれて来
た田んぼを守り自分の作ったおいしいお米を食べ続けていきた
い。
我が家の田んぼには、今年も順調に稲が育っている。緑一面
の田んぼは、今では僕の通学コース。今朝も炊き立てのご飯を
お腹いっぱい食べ、全力で自転車のペダルをこいで行く。