レビ記 • ヘブル語書名は,五書のほかの場合と同じく,こ の書の最初のことばである〈ヘ〉ワッイクラー, 「そして彼は呼んだ」となっている.「レビ記」は70 人訳の〈ギ〉リューイティコンに由来している.こ れは,ビブリオン(書物)を形容することばで,両 者でレビの書という意味になる.この書の内容が 直接間接に礼拝祭儀に関するものであることや, また祭司がレビ族を背景としていることからは妥 当な名であると言えよう.ユダヤ人の文書では 「祭司の律法」「祭司の書」「ささげものの書」など という名もある.この書の内容はあくまでも神の 民イスラエル全体のためのものであり,決して祭 司に限定されてはいないからである. 内容 1.出エジプト記とのつながりとその 意味 2.内容とその統一性 3.著者問題 4.レビ記と新約聖書 1.出エジプト記とのつながりとその意味 • この書の内容のほとんどがいわゆる祭儀 律法であるため,一見すると出エジプト記 とは異質のように見える.しかしこの書は 明らかに出エジプト記の継続であり,これ と補完関係にある.イスラエルは神にとっ て「祭司の王国,聖なる国民」(出19:6)と なるはずである.イスラエルの存在そのも のが祭司的なのである. 1.出エジプト記とのつながりとその意味 • しかしこのことはイスラエル自身が,まず 聖なる民としての歩みを整えなければなら ないことを示している.出エジプト記におい てすでに,イスラエルは契約の民として律 法を受け,主の臨在のための幕屋が設営 された.そして幕屋と律法という2つの中心 主題が,このレビ記全体にわたって扱われ ている. 1.出エジプト記とのつながりとその意味 • レビ1‐10章は,幕屋の記事の継続であり その結論である.言い換えると聖なる方に 近づく道であり,犠牲と祭司制がそのため に備えられた手段である. • レビ11‐27章はシナイ律法の継続であり完 結である.つまり聖潔に至る道であり,外 的な汚れと内的な汚れからの聖別の道で ある. 1.出エジプト記とのつながりとその意味 • 出エジプト記の末尾で,どこで神を礼拝するかが 明らかにされたとすれば,レビ記においてはどの ようにして神を礼拝するかが語られているとも言 える. • ここで,主題の上での継続性だけでなく,構造上 の連続性に特に注意する必要がある.それに よってレビ記の性格が示されているからである. この書の冒頭が「主はモーセを呼び寄せ」という 説話形式であるのを初め,いくつかの例外を除 いて,ほとんどの章が「主はモーセに告げて仰せ られた」という定式で始まっている.しかも内容が ほとんど律法であることにこの書の特質があると 言えよう. 1.出エジプト記とのつながりとその意味 • つまり律法が説話の枠組みの中に組み込まれて いるということになる.この書は創世記から申命 記に至る一貫した説話の流れの中に位置づけら れており,そのことの当然の表れがここにあると 言うべきであろう.このことはまた律法が事実, 荒野でのイスラエルの歩みの中で与えられてき たことを示している.それはまた荒野でさまようイ スラエルの人たちの間で,時々起ってくる問題に 対応するためにモーセに啓示された律法である ことをも示している. 2.内容とその統一性 1.いけにえについての律法1‐7章 2.祭司の任職についての律法8‐10章 3.汚れとそのきよめ11‐16章 4.実際的な聖潔への道17‐27章 2.内容とその統一性 • V・P・ハミルトンは「主はモーセに告げて仰せられた」とい う表現が2,3,5,7,9,10,26章を除く各章の初めに繰り 返されていることに注目している.それはあくまでも神の 直接の啓示によるのだという理解である. • またこのハミルトンはレビ記に「聖」ということばが90回も 用いられ,形容詞,動詞等の形で出てくるものを合せると 150回に及ぶとしている.そしてこのことから,レビ記がイ スラエルの民を聖なる生活に招き入れることを目的とした 書であるとしている. • また,この書を,「聖い神御自身」が「聖くない民」の間に 共に住むための定めの集成と見るB・K・ワルトゥケは「わ たしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう」との 神のことばの中に,レビ記の一つの中心を見ている. 2.内容とその統一性 • 特に1‐16章の構成の論理は明らかである.まず1‐7章で 各種の犠牲について説明されている.これはこれらのい けにえの制度が,これからの記述において前提とされて いるからである.8‐10章の祭司の任職に関しては,3つの 異なったいけにえが必要とされ,14‐16章のきよめの儀式 においても別のいけにえが必要とされていた.8‐9章の祭 司職についての記述は,いけにえをささげるために必要 なのである.11‐16章ではどのような時に犠牲をささげる かについて示している.汚れは個人を汚すだけでなく,神 の臨在の場としての幕屋さえも汚し,結果として神を排除 してしまう恐れがある.したがって一つ一つの定めは単に その時その時の必要のための定めであるだけではない. それは神の民としてのイスラエルの存続の条件としての 意味を持つのである. 2.内容とその統一性 • レビ記の残りの部分ではこうして保たれるイスラ エルが,民族として聖潔の民とされなければなら ないことが強調されている.ここでは避けなけれ ばならず除かれなければならないという種類のこ とから,聖い歩みへの積極的な転換がある.この ことは19:2の「あなたがたの神,主であるわたし が聖であるから,あなたがたも聖なる者とならな ければならない」という勧告によって代表されて いる.同様な表現が,定式のようにして26章まで に頻繁に用いられていることも,この部分の性格 をよく示しているものだと言える. 2.内容とその統一性 • • レビ記全体の統一性を考える上で参考になる箇所の1つが17:10‐11 の「血を食べることの禁止」である.禁止そのものは3:17,7:26‐27で も記されている.しかしそのいずれにおいても禁止の理由について は何も言われていない.17:11でこれが説明されているのは,この箇 所によって3:17などほかの箇所を理解すべきだという関係を示して いるのである. また汚れたものについての規制において,7:21と11‐15章は切り離 せない関係にある.10:10は11章にある汚れたものときよいものにつ いての,詳細の説明によって補足されるべき性格を示している.11: 44以下で繰り返されている「あなたがたは聖なる者となりなさい.わ たしが聖であるから」という表現も19:2,20:7,21:8,22:16の例と共 に全体の構成の一貫性を示すものとして考えられよう.6‐17章にわ たって繰り返されている,「ついで主はモーセに告げて」という表現も 全体を結びつける役割を果している.17:2の「主が命じて仰せられた ことは次のとおりである」は8:5において原語では全く同じ表現となっ ている.このような内的な証拠から,レビ記の背景に全く独立した資 料の存在を考える理由はないように思われる. 3.著者問題 • 主がモーセに語られたという事実への言及は多い.しか し語られたことを文字に記録するようにとの命令は,出エ ジプト記の場合とは対照的に,全く見られない.レビ記自 体の内容がモーセを通して与えられた啓示であることの ほかに,記者についての言及も暗示もないのである.文 書資料説の一般的な立場では,今なおJ・ヴェルハウゼ ンによるイスラエル宗教の進化発展の図式に従って,レ ビを祭司資料(P)に分類し,それを捕囚期以後のものと して片づけてしまっている. 3.著者問題 • この説によればイスラエル宗教のほかの面と同様,礼拝という ことももともときわめて単純で自由であったと言う.それが時と 共にしだいに複雑になり,ついにはレビ記に示されているよう な律法主義,儀式主義の礼拝になったと考えるのである.サ ムエルの時代にはどこで礼拝してもよかったのが,ヨシヤ王の 時代にはエルサレムの神殿に限られることになった.レビ記 (17:1‐9)では,すべてのいけにえは幕屋でささげられなけれ ばならないとされている.これを,エルサレム神殿を過去の モーセの時代に投影し,あてはめて幕屋として表現したものと 考えるのである.また,初めは何をささげてもよかったのに,し だいにそれが限られ,細かく指定されるようになる.ささげる人 も一家の家長になり,レビ人になり,レビ人の中のアロンの子 ら,というように細かく限定されるようになる.レビ記では大祭 司が重要な存在として認められるが,これは捕囚後のイスラエ ル宗教を反映するとされている.この立場から見たレビ記の成 立年代は,比較的古い資料の存在を認めても,結局は前5世 紀の末頃とされることになる. 3.著者問題 • • 多様化している批評学の立場でも,いわゆる聖潔法典(H―Holiness Code,17‐26章)を別個の法典とする理解は共通している.1877年の クロステルマン以来の考え方である.17‐26章は独自の初め(17:1, 2)と終り(26:46)を持ち,独自の用語,表現を含んでいる.記者の立 場はエゼキエルときわめて類似している.それでエゼキエル書とHが 同時代のものであって,エゼキエル自身がこの2つの書の著者だとさ え考えられるという.しかしいずれにしてもHを別個の存在として証明 する根拠とならないことは言うまでもない. これに対し,B・K・ワルトゥケは,文書資料説に代表される考え方を 退ける立場から,「後の人が,モーセのものである素材を現在のよう な形に整えたということがあり得ても,モーセ自身がその務めを果さ なかったとする理由もない」と言っている.聖書を見ても,出40:1,17 と民1:1を比べると,これらの律法が出エジプト後2年目の初めの月 に与えられたと考えられる.またモーセに神が語られたという表現の 重みは決して小さいものではない.そしてレビ記の記事もそれを反映 している. 3.著者問題 • この,モーセを実質的な記者とする立場を支持する要素としては次 のようなことがあげられる.モーセが律法を与えられたのは,荒野の 状況を背景にしてであった.いけにえは神殿ではなく幕屋でささげら れ,らい患者は町の外ではなく,宿営(天幕)の外に住まなければな らなかった(レビ1‐7章,13:46).イスラエルの民はみな主の幕屋か ら近いところにいた(17:1‐9).さらに,レビ記の内容は捕囚期以後 のイスラエルの必要に全く合わないのである.たとえばエズラ,ネヘ ミヤの時代に大問題となっていた異邦人との結婚についての記述が, 結婚について述べた18,20章の記述に全く含まれていないのである. レビ記の祭儀律法の形式には,シュメール,ウガリット等の例による 裏づけがある.しかしレビ記そのものに明確な結論につながることば がないことも事実である.聖書自身の信頼性を無視しての仮説を退 け,モーセの役割の大きさを確認しつつも,決定的なことは言えない のが現実であると思われる.
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