フランシスコ・カンディド・シャビエル Francisco Candido Xavier 1910.4.2 - 2002.6.30 メッセージの内容の全てを、 自らの真なる模範を持って示し、生きた人 ここに書かれた内容は、霊的に受けたメッセージ ではなく、人生の様々な状況の中で、自らの個人的 な経験に基づいて伝えられた言葉です。 キリストは多くを私たちに求めたわけではありません。誰に もエベレストに登れとか、大きな犠牲を払いなさいと言ったわ けではありません。 私たちに「お互いに愛し合いなさい」とだけ求めたのです。 意味のない善の行いなど存在しません。天高く伸びる 木々も小さな種にその元があるのです。 善の行いが与える影響は私たちの想像を 遙かに超えています。 神に仕えるためには誰も自分の いる場所から離れたり、自分の 持つ以外にあれこれと条件を求 める必要はありません。 霊界の仲間達はいつでも私たちを助けてくれる準備ができ ています。しかし、私たちは少なくとも助けてもらうための基 礎をつくる必要があります。 多くの人たちが天からの助けに対する 期待を膨らませますが、自分を革新す るという努力を好みません。霊達が人 々の人生に割り込んできて、そうした 人たちの問題を解決して欲しいと願っ ているのです。 しかし、イエス・キリストさえも、地球に生まれて来 たときには誰かの固有の問題を解決しようとはし ませんでした。 イエス・キリストは私たちに道を示してくれること にとどまり、私たちが自分のために歩まなければ いけないことを教えてくれたのです。 誰の宗教をも変えようとは思っていませ ん。なぜなら、Aの宗教がBの宗教よりも 優れているということは全く信じていない からです。あらゆるキリスト教の起源には イエスの考えがあります。 福音の教えを守ることです。 もしアラン・カルデックが、「スピリティズムなしには救われませ ん」と書いていたなら、私は別の道を選んでいたでしょう。神の おかげで、彼は「慈善なしには救われません」、もしくは「愛なし には救われません」と書いたのです。 政治家や役人のために祈らなければなりま せん。権力の誘惑というのは非常に大きな ものです。彼らの立場にありたいとは思い ません。 義務を行える者の不履行、人々を助けない事は、社会全体に 対する犯罪に匹敵します。地上で公的な立場にありながら、 霊界において悲しい状況にある霊を多く見ています。 落胆は病です。大きな困難の前に傷つけら れた人々は、どんな人もそうなるように、気 を狂ってしまう可能性があります。そうする と自分の分別をも失ってしまうのです。 そうなってしまうことは悲しいことです。 しかしそうしたことは教育の不在、特に宗教的 教育の不在によっておこります。 神が心のなかに不在だと、来る世代は地球の運命に大きな危 機を与えることになります。人類の成し遂げる技術進歩がどん なにすばらしくとも、私たちの判断に神が影響を与えることがな ければ、人類は平和に生きることは不可能です。 必ず訪れることになる戦争を回避するために私 たちはあらゆることを行わなければなりません 。そのことは人類の進歩にとって大きな遅れを もたらすことになります。大きな規模の戦争が おきると、ほとんど全てが取り壊され、全てが 始めからやり直さなければいけなくなります。 霊界の扉が彼らに対して開いてくれるだろうと思いながら 死んでいく人がいます。しかしそれは思い違いです。 私たちが何であったのか、何を持って いたのか、社会のどんな位置を占めて いたのか、などということは誰にも聞か れません。 自分自身にどれだけの光を輝かすこと ができるようになったかということだけ が問われるのです。 他の宗教に対する敬意を払った上で言いますが、リイ ンカーネイションの概念なしには、神の存在をも含めた 思慮深い説明を見つけることはできません。 善霊達から学んだことの一つに、誰の 自由意志をも妨げてはならないというこ とがあります。私とともに生きた人たち は皆、何でもしたいことをする自由があ りました。 ささいなことで傷ついたり、気分を害したりする人がい ます。ほんの小さな苦しみによって、侮辱されたと感じ る人がいます。 しかし、私たちはバラ色の世界に生まれてきたわけで はありません。 私たちは多くの負債をかかえる霊なので す。私たちの中で、過去がより大きな声 を発しています。私たちはそんなに気性 がはげしくあるべきではありません。 出会った困難に対して感謝します。それらがなければ、 私は同じ場所から動くことはできなかったでしょう。簡単で あることは、私たちの歩みを阻むことになります。私たち が受ける非難も私たちを大いに助けてくれます。 エマヌエルはいつもこう言います。「シ ッコ、あなたに向けられた非難が本当 であるなら、文句を言ってはいけませ ん。もし本当でないのであれば、気に しなければ良いのです。 神のお陰で数多く苦しんだ私に対する攻撃に対して対抗 したことを覚えていません。もちろんそうした攻撃というの はどれも私に教えをもたらすことを目的としていたのです 。また私を苦しめようとした人を意識的に苦しめたことも 記憶にありません。 エマヌエルはいつも言いました。「シッコ、 人を助けるための言葉が見あたらないの であれば、口を開かないことです。」 ある程度の資産を必要としていることは理解 しています。しかし主は私たちにパンを求めた り、車をもう2台とか、飛行機をもう一機望んだ りすることを教えたのではありません。私たち は自分にそれほど多くの荷を積む必要はない のです。私たちは今日にも霊の世界に呼び戻 されられるかもしれません。 私たちに必要がないのに生み出してしまうもの は、皆苦しみや衰弱を生むことになります。 病気とは私たちの不完全性を流す配水管の ようなものです。 無意識のうちに霊は自分の精神にとってな じまないものを排出しようとするのです。 実際にはどんな病気も私たちの魂の 治療のための過程なのです。 私たちのことを心配してくれたり、愛してくれたり、必要なとき に対応してくれる人たちを祝福しなければなりません。 私たちを助けてくれる友達や私たちに感心を持ってくれる人、 私たちに便りをくれる人、私たちがどうしてるか尋ねて電話を くれる人を大事にしましょう。 友情は神からの贈り物です。将来、私たちをひとりぼっちにさ せなかった人たちのことを懐かしく思うようになるでしょう。 慈善は霊的な訓練です。善を行う者は魂 の力を働かせることになります。 霊達があきらめることなく私たちに慈善の 行いを勧めてくれるとき、彼らは私たちを 進歩へと指導してくれているのです。 単に倫理的な指針を示しているわけでは ありません。深い哲学的な意味が込めら れているのです。 善のために行えることは全て、先に延ばすべきではありま せん。悪の前に対抗するダイナミックな力を出すために努 力を惜しむべきではありません。 誰にも怠る権利はありません。 苦しみから私が学んだことのうち特 に美しいことは次のことです。 決めつけてはいけません。 誰であっても、決して決めつけては いけません。 模範とは、直ちに、遠くにも近くに も反響する力です。 他人がその 人生において行うことに対して私 たちは責任を負うことはできませ ん。誰にも自分にとってしたいこと を決める自由があります。 しかし、私たちの態度が、善であ れ悪であれ、人のとる態度に影響 を与えるということを否定すること はできません。 友達からの賞賛は、私がま だ至っていないと認識してい る状態になるための刺激で あると、いつもとらえてきまし た。 誰かが私を攻撃すると悲 しくなりますが、もし私が 誰かを攻撃していたなら 間違いなくもっと悲しいこ とだと思います。 人を苦しめることは恐ろ しいことです。 私たちは居心地の良さや、怠けることと戦わなければなりま せん。もし、そうしなければ、私たちは空虚な気持ちで霊界に 帰っていかなければならなくなります。 私は多くを行ったと言われますが、私はやらなければいけな いことの十分の一もやっていないのです。 死後の霊にとって、最も苦しい問 題は、時間を無駄にしてしまった という認識でし。 私は時間が経つのを感じなかったと申し上げ ます。どんなに長く見えても、地上における経 験というものは大変短いものです。 私の死後に対して望むことは唯一、働き続け る可能性が残されることです。 死と呼ばれる招集がかかるこ とを受け入れなければなりま せん。それは昼が夜の到着を 受け入れるのと同じです。ー すぐにまた新たに日が昇ると いう確信のもとに。 なににもその栄華と衰退があります。そうあることは自然なこと です。しかし、全てが「無」と想像するところに集まると、すばらし く美しい命が現れるのです。再開という無限の祝福の中に新し い葉、新しい花があらわれるのです。 Textos do Livro: “O Evangelho de Chico Xavier” Carlos A. Baccelli Música: “Evergreen” Formatação: EnA [email protected]
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