第7課 顔をなくしたふるさと 背景知識 たん‐か【短歌】 和歌=「倭歌(やまとうた)」とも。 漢詩(からうた)に対する日本の歌すなわち 「やまとうた」の意。長歌・旋頭歌・片歌な どを含む。平安時代以降は短歌と同じ意味に 用いられるようになる。 たん‐か【短歌】 和歌の一体。五・七・五・七・七の5句31音からなる歌。 発生については諸説あるが、万葉時代には成立し、平 安時代(へいあんじだい、794年-1185年頃794年に桓武 天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕 府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分 の一つ。)以降、長歌・旋頭歌(せどうか)などがほとん ど作られなくなり、和歌といえば短歌をさすように なった。みそひともじ。みじかうた。 【長歌】 和歌の一体。5音と7音の2句を交互に3回以上繰り 返し、最後を多く7音で止めるもの。ふつう、そ のあとに反歌を添える。万葉集に多くみえ、平安 時代以降は衰えた。ながうた 長歌=和歌の一形式。五七の句を三回以上繰り返 し終わりを七七で結ぶ。普通はその後に反歌を伴 う。しかし平安時代以後はほとんど詠われなく なった。 石川(いしかわ) 啄木(たくぼく) 1886-1912。詩人、歌人、評論家。本名一(はじ め)。岩手県の僧家に生まれる。与謝野(よさ の)鉄(てっ)幹(かん)の知遇(ちぐう)を得(え)、 詩人としてデビュー。代表作に、詩集『あこが れ』(1905)、歌集『一握の砂』(1910)など。 大逆事件を契機に社会主義思想に目ざめたが、 肺疾患と窮乏(きゅうぼう)のうちに死んだ。 『一握の砂』 東海(とうかい)の小島(こじま)の磯(いそ)の白砂(しらすな)に われ泣(な)きぬれて 蟹(かに)とたはむる 頬(ほ)につたふ なみだのごはず 一握(いちあく)の砂(すな)を示(しめ)しし人(じん)を忘れず(わ すれず) 一握の砂 函館なる郁雨宮崎大四郎君 同国の友文学士花明金田一京助君 この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君 の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はこ こに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人 なるを信ずればなり。 また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本 を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。こ の集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の 見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。
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