YMN004008

鉄幹から啄木 へ|
明治四十三年の短歌史的意味
|
近代短歌史の構想というこころみは、眉大な基礎的資料の集成で
太
田
登
篠 弘コ近代短歌論争史口は 、﹁ 近 代 短歌に
おいて、いわば滅亡論が 、いっそう各個の作歌の原点を みつめ ろう
かかる意味において、
ある﹁明治大正短歌資料大成﹂全三巻︵昭お ・
ようになり、数多くの論争を喚起することになったのではないか。
近代短歌典 は、まさに論争の歴史にほかならなかったのである﹂と
し、これまでの短歌史への批判的立場を明白にするにとどまらず、
白楊社︶をききがけとするものの、窪Ⅲ鶴次郎 ﹁近代短歌
史 展望﹂ 昭豹 ・Ⅱ和光 社︶、因幡聖人太郎﹁近代短歌典研究﹂
あった。さらにいえば、﹁近代短歌は、いわば滅亡諭と のたたかい
短歌典を創るという自覚的な方法をきわめて明噺に握 下するもので
春秋社︶、水 俣修 ﹁近代短歌の史的展開
﹂︵昭如・ 5
ていた、 八短歌における近代とは何か V という根源的な 問いかけが
であった﹂とする 篠 弘の視角には、それまでの短歌典で は 看過され
61 %.6
明治書院︶、新聞進一﹁近代歌壇史 ﹂︵昭盤 ・
ェ塙 書房︶、久
自明のことながら、この根源的な問いかけを命題とし てこそ近代
内包されていた。
短歌史の構想そのものが確立きれることはいつまでもない。この点
において、﹁自然主義文学における人間としての自党が、いちはや
ば、いまだ顕著な実績を見出すことができないという現状にある。
なる独自の方法がいまなお確立されていないからである
なぜならば、従来の結社・歌壇の動向に偏重した短歌典観 とは異
短歌論争史 ・明治大正編﹂︵昭訂 ・皿 角川書店︶などを別にすれ
保田正文﹁近代短歌の構造﹂︵昭巧 ・2 永田書店︶、篠弘 ﹁近代
︵
昭鍋 ・3 桜楓社︶、渡辺順二一﹁定本近代短歌典﹂二巻 ︵
昭㏄
㏄・6
出版部︶の成果をふまえた小泉茎 三の門近代短歌典・明治篇﹂︵昭
4 立命館
八
歌理論の論理化を推進することとなり、明治四0年代と
なる段階において、短歌の可能性と限界が職別に意識 き れてき
という 篠 弘の創見は、明治四十三年という年を明治三十四年、
二年とともに近代短歌史の大きな転換点として設定した
たしのひそかなもくろみに重要な立脚地をもたらすも のであ
したがって、ここでは近代短歌史の展開における与謝野鉄幹 と石
Ⅲ啄木という二人の歌人的位相を考察することによって、明治四十
三年の短歌史的意味を明らかにしておきたい。
感傷に よる自己批評の系譜
明治六年生まれの鉄幹と十九年生まれの啄木とは、律令的にち よ
うど一回りち が ぅ。世代論的にいえば、鉄幹は日清戦争、啄木は日
日
震 戦争のさ なかにそれぞれ豊かな感受性をもって詩人としての華麗
麗
な文学的山発をなしている。日清、日露の両戦役における知識青年
年
像の典型と してみられるいわゆる 八感傷による自己批評 V の系譜の
ありように ついては、すでに拙稿﹁啄木八皿に染めしV 歌の成立に
ら
ついて﹂ 省 啄木短歌論考・野情の軌跡﹂所収︶で論証したよう に、
感傷と 据倣という﹁矛盾する二つの魂を内包させた樗牛 ・鉄幹ら
ロマン的 資性 ︵Ⅱ主観的・感傷的本性︶をどのように統一的にと
最晩年にっぎのように啄木を評し ている
え発展させてゆくかが、啄木の文学的出発における重要な 課題で
あった﹂。
ところで、鉄幹はその
最近は石川啄木の名が非常に高い。啄木は友人であったので
あふ いつた行き万では、 新誌
それが世にもてはやきれるのは嬉しいが、生誕五十年のお祭
騒ぎをするのはどうかと思ふ。
には啄木の先進で、もつとうまいのがめた。香川本抱と
がその人である。一体啄木のう たは甚だ技巧的であって、の
に スバルに入ってから平野万里氏などと争ってゐて、手 細な
を見ると平野君を罵ったものなどが見えるが、人物とし ての
﹁国
は平野君とは比べものにならぬ。私には、今日のやう な ぽ木
流行は解することが出来ない。︵﹁ コ明星 ロの 思ひ出﹂
と 国文学﹂ 昭 9.8 ︶
生誕五十年の狂熱 的な啄木現象に疑念をいたく鉄幹の三一 ロ辞は 、
それは﹁
めれこそ啄木の文学的資性を誰よりもよく知る理解者であるとい
抑えがたい心情をあられすものであった。別言すれば、
幹の第一の後継者は、不幸にも鉄幹より早く死んでし まったが 啄
であろう﹂︵佳孝三ことの表明にほかならなかった。
かかる精神的脈絡において、二人の出会いは運命的であ つこ
辛
@。
都は国中活動力の中心なる故万事清瀬々地の趣あり
八三
@
り
仕
の
ち
ど
柄
の
語
お
う
欽
本
の
6。 5わ正
大たらく
」 た短
八四
時代はすでに去りて、如何なる者も社会の一員として大なる 奮
意美の自由のために 闘ひ、 進んで、雑兵乍ら名誉の戦% :: 矢
たツ 、大兄らの花々しい御活動に尾して、私もこの後は 一
のみならず、のちに啄木みずからが告白するように、
闘 を経ざるべからずなれり 。人の値は 、 大なる 戦 ひに雄 々しく
敗の伝記を作りたいのであります。申すも小精 であり ますが、
文芸の士の、一室に閑居して筆を弄し閑 隠 亡一味に独り楽しめる
9 日記︶
,
@
も
す。詩は我生命である。向後は随分大胆な事もやって見 る ︵
私は、詩神の奴隷の一人としてこの世に生れたと信じて 居りま
勝ちもしくは雄々しく敗 くる時に定まる。︵ 明 ㏄・℡
石川 臼頗の名で﹁血に染めし﹂歌をもって明治三十五 年 十月号
りでありますが、
金田三 %助宛 ︶
たッ 枯腸遂に錦繍を織るに由なきを如 何せん
る啄木少年
﹁明星﹂に初登場し、﹁自己の理想郷を建設せん﹂とす
@
まさに﹁詩神の奴隷の一人﹂として、﹁名誉の戦死﹂﹁
︵
明 w.3. り
敏 にして強き活動力を有せるV詩人として深い感銘を与えずには お
にとって、上京直後にはじめてまみえた新体詩界の先達鉄幹は八機
をめざすというヒロイズムこそ、﹁詩は理想界の事也 ﹂ ﹁雄々しく
失 敗の伝記﹂
かなかった。なぜならば、
勝ち雄々しく欺 けて後初めて値ある詩人たるべし﹂と規定する鉄幹
翌十日にふたたび鉄幹と会見すべく新語
ある。
社を訪れた啄木はつぎのように先達の談話を書きとめているからで
からずと。文宏 ふ、和歌も一詩形には相異なけれどもム﹁後の詩
き事に非ず、由来詩は理想界の事也直ちに現実界の材料 たるべ
目するよ
ず、 言は は 、小生の詩は 、即ち小生の詩に御座候ふ﹂と士旦
詩 にせよ、誰を崇拝するにもあらず、誰の糟粕を営むるものにあら
西南北﹂︵ 明鶴 ・7︶の自序に、﹁小生の詩は、短歌 にせよ、新体
の詩人論にみちびかれたものであった。もっとも、第一詩歌集﹁ 東
人はよろしく新体詩上の新開拓をなさざるべからずと 。文宏
うに、鉄幹のい う 八話 V は 八明治の詩 V 八時代の詩 Vをめざす二十
さぎよ
ふ、 人は大なるたⅠ か ひに逢ひて百方面の煩雑なる事条 に 通じ
年代の﹁国詩﹂樹立の風潮に負う ところが大きい。 島 沖忠夫が指摘
氏日く 、文芸の士はその文や詩をぅ りて食するはい
雄々しく勝ち雄々しく敗 けて後初めて値ある詩人たる べし、
明 ㌍・ 9 ︶ と第セ号
するように、﹁明星﹂第六号 -
という名称がはじめて用いられた。その一方で、三十四年 九月号か
、 V
間で、鉄幹自身の意志として、旧来の八和歌V にたい し 、八短歌
明郎・ 皿 - の
︵
と 。文宏 ふ、 君の歌は奔放にすぐと。
すでに石井 功次郎も洞察するように、十一月九日の日記に 記され
た 啄木の言葉は 、実は鉄幹の語録そのものであったことがわかる。
十一年一月号までの間、八短歌V は 八 短詩 V として 位 置 づける
わ ぎを、早 う 各々 身 ひとつには為遂げむとすなる。
あは れさき
ム﹁はたこれらのうち わ かき
人達を加へぬ。われら如何ばかりの宿善ある身ぞ、か Ⅰる文芸
には藤村・粒重・有明の君達あり、
﹁新し
復興の盛期に生れ遭ひて、あまた期やう に め づらかなる 才人の
ハ自我独
ようや
詩 V をめざす新詩社﹁明星﹂派の丈学 運動にあっては、
歌を確立するためには、新時代の文学ジャンルとして、
八 いといと 殊
八 わかきどち V ならぬおの れの立場を
心情にもたらした微妙なう どきを見のがしてはならないであろう。
ぬ る認めるならば、年少詩人への予想外の評判が誇りたかき鉄幹の
鮮明にするものでもあった。いわゆる鉄幹命名説にあえて議論の余
い日の衿侍を想起きせつつ、
に年 わかなる詩人 V の天分を発掘したという自負は、鉄 幹自身の若
ることはあきらかなことである。当然のことながら、
誕生に深く関与したという鉄幹の先達としての自尊心が脈動してい
コあこがれ ロ の祓丈 には、 ﹁啄木﹂
ありき ま をも観るものか。
︶
@キ
V
j@
。
j
なかったという事情﹂︵水 俣 修︶がゆるぎなく介在して Ⅱ
くて啄木は﹁今後の詩人はよろしく新体詩上の新開拓をなさざ
名 で発表
からず﹂という鉄幹のすすめにしたがい詩作に没頭することに
。明治三一十六年十二月号﹁明星﹂にはじめて啄木の筆
﹁愁謝 ﹂ 五篇の詩がその成果であることはいう までもな
明に 啄
冒頭に上田敏
司あこがれ﹂の年少詩人﹁啄木﹂の誕生を華々しく
喧伝することで、まさに八われら如何ばかりの宿善ある身ぞ V とい
なぜならば、
実はむかちがたく連動している。
という雅号を廃し、本名の寛にあらためたということとの 二つの事
の長話﹁啄木﹂が掲載されたということと、その号から鉄幹が鉄幹
﹁あこがれ口が・刊行された三十八年五月号﹁明星﹂の
ぐ ﹂と、
えている
また周知のことであるが、与謝野晶子や北原白秋が伝,
勝る﹂と称揚されるものであった。﹁君の歌は奔放にす
を熱心に勧告した鉄幹ではあったが、かかる鴎外の過分
いは﹁君の歌は何の創新も無い﹂とし、新体詩に活路を見出す
期せぬものであったにちがいない。
石Ⅲ啄木は年頃わが詩社にありて、高村砕雨 ・平野万里な
これらわかきどちの作を読めば、新たに詩壇の風調を建つる い
ぅ声 とともに明治詩壇から潔 よく退場せんとする、先達者鉄幹の意
八五
きざし火の如く、おぽかたの年 たけし人々が一生にも, んなき ぬ
ど云ふ 人達と共に、いといと殊に年 わかなる詩人なり。
この明治三十八年五月刊行の
刺 とした面貌をかがやかしつつあった八話V に基盤を 求めざる
いたという事実も見のがすことはできない。つまり、
四
る
れ
て
く
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る
よ
る
い
別
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べ か 得 溺 短
な
し
れ
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も
う
と
る
木
は
あ
こ
は
予
八六
啄木と白秋がそれぞれ語るよう に 、 ﹁あこがれ﹂刊行 は 新詩社に
推察できることと思ふ。︵﹁明治大正詩史概観﹂︶
尤も、新詩社の運動が過去に於て日本の詩壇に貢献 した 事
おける新体詩運動の先鋒がもはや鉄幹から啄木へと移行 しているこ
何 をそこに読みとることができるからである。
の砂 少でないのは後世史家の決して見遁してならぬ事で ある。
とを詩壇に決定づけるものであった。のみならず、その ことは鉄幹
﹁相聞﹂と 二握 の 砂ヒ
ためることになった。
太 田 正雄 ら
号からそれまでの長詩、短詩という呼称をそれぞれ詩、 短歌とあら
書きしるす啄木のもとに届けられた﹁明星﹂は、明治四十一年一月
かくて、きわめて痛烈な新詩社および鉄幹への批判をそ 0 日記に
二
ならぬ寛に短詩ならぬ短歌への関心をうながすことにもなった。
云ふ より寧ろ 奨 勘者 鼓
︵略︶新体詩に於ての勢力は、実行者と
吹者の体度 で、与謝野氏自身の進歩と、斯く云ふ石 Ⅲ ぽ木を生
んだ 事 ︵と云へば 新詩社で喜ぶだらりが実は自分の作を 常に 其
︵
明蛆 ・ェ
機関誌上に発表させた事 ︶ と其他幾 十人の青年に共作 を世に問
はしむる機会を与へた事が其 効果の全体である。
3 日記︶
啄木は極めて早熟の詩人であった。二十歳すでに一巻 の詩集
新詩社にあってはその前年の末に北原白秋、吉井勇、
セ 名が連 映 退社し、﹁明星﹂の廃刊はもはや時間の問題 であった。
年少も
とより詩魂定まって、その作るところの多くは先進粒重、有明
そうした衰退期にあって啄木ひとりその独自の作品を一
﹁あこがれ口三十八年五月︶を公刊して世を驚かした。
の模倣であった。あまりに巧みな模倣、若しこの両者の詩 を読
のは、﹁明星﹂終刊の明治四十一年であった。たとえば、四十一年
小すにいたる
むことなくして初めて啄木の詩に接したならば誰しもその流麗
セ同号の巻頭を飾った﹁ 石破棄﹂百十四百 は 、﹁我等の 斬 らしき 歌
は、 己が感想を、出来るだけ大胆に、詞などの型 付を,フけずに 歌ひ
︵中略︶
ただ詩に於て、白秋が未だ青少年雑誌﹁文庫﹂に在って同じく
出づべきもの﹂として、﹁明星﹂に清新なロマンチシズ ムを喚起さ
自在なる天稟の才筆に感嘆するであらう。
風雲を望んで ぬ た当時に 、彼が時の王国Ⅰ明星 L 誌上に 続々に
小生は盛んに短歌人が今までの所謂新派和歌よ り脱出
せようとする啄木の意欲作 であった。
詩技の達成といち早い躍進とが
発表した長篇詩を見て如何に心悸の冗ぶりを禁じえなか つたか
といふことを知ればその
候
一特長たる内面的客観性、絶対化性、虚無的傾向、
て、更に近代人的情操を歌ふに至らむことを希望いたし居候。
近代思想の
否定性等は多少小生の作にもあらはれをる事と存候。
四7.
菅原芳子 宛 ︶
明星の歌は ム﹁第二の革命時代に逢着したるものの如く
︵
明 Ⅲ・
かかる啄木の創作的意欲や自負とはう らはらに﹁明星﹂ 廃刊はま
題 と向かいあわねばならぬことを意味していだ。さらにいえば、 か
らなかった。
かる根源的な問いかけのためにこそかれらによってコ相聞 ﹂ 弗
3 ︶ と司 一握の砂﹂︵ 弗 ・は︶とは編まれなければな
では、同相間日 と コ一握の砂 口という歌集は、明治四十 三年を重
要 な転換期としてとらえる近代短歌典のうえ でどのよ,ヮに位置づけ
るべきであろうか。
もとより。明治四十三年という年は、一月に若山牧水 ﹁独り歌へ
る L、三月に前田夕暮﹁収穫﹂、金子薫園﹁覚めたる歌 L 、四月に
ぬかれぬ事態となった。
予 自身もそ
㍉別離し、土岐 哀 栄司名臣 杏毛尼囚わこ 、九月に 士押井勇 ﹁酒は
﹁あはれ、前後九年の間、詩壇の重鎮として、そして
戦った明星は 、遂に今日を
0戦士の一人として、与謝野氏が社ム百と
握の
はじめとする近代短歌の本質にかかわる重要な提起を看過すること
の存在にほかならないが、創刊号の﹁所謂スバル派の歌を 評す﹂ を
かかる現象を高揚きせたのは、この年の三月に創刊きれた ﹁創作﹂
代 と呼称するにふさわしい名歌集が誕生したことは自 明 であろう。
がひ ﹂などのように、三十四年につづく近代歌集史 の策 二期黄金時
という啄木
︵
明蛆 ・Ⅱ
以て終刊号を出した。巻頭の謝辞には涙が籠ってゐる﹂
6 日記 - 。﹁ 予 自身もその戦士の一人として、
えったにちが
の脳裏には、﹁雄々しく勝ち雄々しく放 けて後初めて 値 ある詩人た
るべし﹂というかつての鉄幹語録があざやかによみが,
いない。いわばロマン的資性によって鉄幹とともに新語社の文学運
はできない。なぜならば、後述するように、﹁柑聞 ﹂ 6%
砂白 もいずれも﹁創作﹂によって提起された短歌滅亡論 と密接にか
動を推進してきたという目覚があればこそ、終刊号の謎 辞を涙しな
がら読む啄木であった。ともあれ、四十一年十一月の﹁
かわるものであったからである。別言すれば、四十三年という年に
明星﹂廃刊、
四十二年一月の﹁スバル﹂創刊は、すくなくとも鉄幹と 啄木にとっ
論 とのたたかい V を自党的内発的にとらえていたかという点にあ
ものに内在
て短歌の可能性と眼界についてあらためて問いかけなおすきっかけ
した方法意識があるとすれば、それはこれらの歌集がいかに入滅亡
刊行 @れ
.t
たi
同相聞 ロと コ一握の砂しとにおける作品その
八短歌における近代とは何かV とい,っ根源的な 命
となった。と同時に、それはかれら自身が当時の自然生 議論の激し
い波動のなかで、
八セ
る。
日再感覚 と
八八
こ そ、﹁ 刹
うまで
心 ﹂をもって ハ いのちの一秒 V とい ぅ瞬間
短歌の可能性を見出そうとする コ相聞二のこころみ
々の感じを愛惜する
とることができる﹂。さらに、﹁瞬間の感じの表現とい
こ
ところで、 篠弘はコ 自然主義と近代短歌二のなかで、
み えよ う としたコ一握の砂 L の方法でもあったことはい
み
八 短歌における 近代 V の意味
読 の
木
相聞 ロ 0巻頭でおのれの感傷的資質を誇らかにづたいあ 。けた鉄
鶏の砂をば浴ぶるこころよさ我も求めてあざけりを浴
ぅろ はしき肉をめぐりて犬じもの吠ゆる心を見るが楽し
わが 心 われと小暗し 眼とぢ居ぬ 悪趣へならぬ誘惑なが ら
わが浜野分の中にひるがへる萱草の葉のしづくの如し
大空の塵とはいかが思ふべき熱き涙のながるるものを
隠れする八時代 V の陰影を凝視するまなざしが二人の歌人 には
い日常的感覚をたえず洗練・拡充しながら、現実生活の背後に
課題であった﹂ことはたしかであり、ややもすれば平 俗に流れ
一人にとどまらず、明治末の近代短歌の成熟過程の全体こ
@,
カカ
︶
ぅ のは、
だわりには、自然主義と象徴主義の交錯を示す独特のねじれを
味
る
歴史感覚という二つの視点によって、
えで明察したごとく、﹁啄木の詩歌論に見られる断片 刹那 へ
い。ただし、すでに木股 知史が 篠私 の 八心の微動 V 論を ふまえ
と
わ
す
をきわめて繊密に検証し、﹁個の日常感覚が 、ついに 歴 史感覚に結
に
々
を
や
え
びつきえなかった遠因は、近代の創成された明治四十年代からはじ
いずれも 現
まっていたのではなかったか﹂、とのべている。この篠 弘の卓抜な
短歌史観にしたが うならば、﹁相聞﹂と二種の砂﹂は
実生活に根ざした日常感覚をできるかぎり微細に描出する一方、 あ
るべき現実のありかを批評精神をもって認識せんとする鋭敏な歴史
感覚をも内在させていたといえよう 。
落鏡 ちて前に砕けぬかばかりのこともいとこそ泣かま ほ しけれ
なたまめの煙管のやにをじいと吸 ふこの気持をば油蝉 なく
人お ほ きていぶるの 隅匙 とりて片目をしかめの 000臣 な ぞ 吸ふ
青みたる春のくれがた公園の噴水泣きて引詰りする
薄暗き法界節がまた通る漂泊の音りんとこ、りんとこ
いう よ う に 、
これらの歌は、鉄幹みずからが﹁相聞﹂の後記に、﹁詩 歌を我家
へ快く飲まむとす﹂と
の酒 とする著者の嗜好は、 常に一味に偏するを喜ばず、
偶感を出だして、自家の矛盾をさ
繊細な日常感覚をよりどころとした心理の機微を刹那的に表出して
いるところに特色がうかがえる。こうした八 刹那刹那の 偶感 V の 表
那 現
も
な
う
見
つ
た
あ
、 八犬じもの吠ゆる 心 V や入鶏の砂をば浴ぶるこころ よさ V
『
泣かずにはいられぬ 八 わが 心 V の暗部のありかを見据 えようと
に幹
、 は
て
よ
せ
な
か
し
する。
て
東海の小島の磯の白砂に
口歌壇﹂選者の仕事を通して自然主義的な現実感覚を積極 的に 摂取
朝
えば、啄木という拝債主体の成長にとってゆるがせにで 、さない ﹁
八九
われ拉きぬれて
木は短歌を八散文の自由の国土 Vから敗走せざるをえない自己 批評
見
タ ぐれの永代橋に立っわれと並 びて 司秋口も行く水を見る
も
病院の暗き窓より空をさしははと笑 へる狂人の指
白き犬行路病者のわきばらにさしこみ来り死ぬを見守る
いわば八時代V の病巣を別出するかのように、都市生活者として
の日常感覚をできるかぎり鋭角的にうた ねぅとする姿勢が歌集の終
撃
のよりどころとしてきびしくとらえていたことがわかる。それ は短
て
を問いただすという歴史感覚に結びつけようとする独自の発想が整
@%
く
む
と
秩序立構成を装いながら個としての日常感覚をもってあるべき現実
ぬ
に
蟹
ピ
誰
伊
歌 という表現の存亡にたいする危機意識のちがいでもあった。 たと
覚
木部に散見される。そしてそのきわまりが﹁伊藤博文卿を悼む歌﹂
十六百として コ
相聞 Lという作品の終幕を飾ることになる。
」
男子はも言挙するはたやすかり伊藤の如く死ぬは誰 ぞも
あはれなる隣の国のものしらぬ下手人をのみいたく各 むな
な憂ひそ君を継ぐべき新人はまた微脇より起らむとする
かつての再三にわたる渡韓体験を通して、伊藤博文の暗殺を歴史
的民族的政治的な状況として把握する冷徹なまなざしがここにはあ
る。あらためて﹁大空の塵とはいかが思ふべき﹂の巻頭歌と、 ﹁な
れ、
て
ぬと作品世界に内在していたことがわかる。
憂ひそ君を継ぐべき﹂の最終歌とを読みかえすならば、いかにも無
み
え
宛
と
Ⅱ
舌譲
八
掴
と
な
しようとした啄木にたいして、そうした自然主義に触発された歌壇
においては自然主義の受容というありかたを通して多彩な作品・ 理
期 であった﹂とのべている。かかる近代日本の思想史的状況が文学
九O
からの孤立感を深めて単身渡欧の旅にでかけた鉄幹で あったよう
統語 ︵と同時に近代詩でもある︶短歌のありかたも
問 いなおされる
況 のなかで伝
ば、 ﹁その街気 と誇張と感傷とにみちた歌風のうちに、
べき機運を招来した。その顕著なあらわれが四十三年二
一月に創刊の
に。あるいは、八時代 V を批評するという歴史感覚につ
政治への関心の面を継承せる後年の傾向の一端﹂︵小泉
茎 % を四
﹁創作﹂であったことは前述のとおりであるが、くりか
えしていえ
与謝野寛の
十一年の啄木短歌は見せていたが、﹁啄木が鉄幹を抜いたのは明治
初の哲学の萌芽である﹂自然主義の洗礼によって、危機意識をつの
ば、啄木のいう ﹁明治の日本人が四十年間の生活から
編み出した最
︵佳孝三所以がここにある。
らせた入滅亡諭とのたたかいVそのものが近代歌人たちにとっての
四十三年七月以降、あの大逆事件の影響をぅ けてのちと 見られる﹂
ともかく近代における短歌のありかを問う というこころ みがかれ
相聞ヒコ一握の砂しなどの歌集は、短歌
かかる意味において、 コ
抜き差しならぬ試練であり課題でもあった。
かった。かくて、コ相聞﹂と ョ 握の砂﹂という作品によって 、短
%式がもはや自己表現という近代文学の要求に十全にこたえられな
V に ほかならな
歌 にとって近代とは何か、という難題を問うことがこころ みられた
いとする尾上柴舟らの滅亡諭そのものにたいする痛烈な
らによって可能であったのは八 滅亡 諭 とのたたかい
明治四十三年という年の短歌唄内意味を確認しておかねばならな
事ま、だ
﹂とし、四十二、三年という時期は明治期の矛盾が 体制的に
期が 、明治四十二・三年であったということは、十分注意してよい
郎 という二人の思想家が﹁その学問的生涯の最初の礎石 をもった 時
へかけての文学史的視角のなかで考察しながら、河上肇、西田幾多
漱石研究者の玉井敬之は、明治型知識人の問題を明治末から大正
においても可能であることを証明した。
的映像的立体的にづたいあげるというこころみが、短歌という表現
近代人としての感性や心象風景をイメージのひろがりを通して物語
う。しかも浪漫主義的、象徴主義的、自然主義的な手法 によって、
という自覚がかれらをして意欲的な作品をつくらせたともいえよ
また近代文学のジャンルとして自律的自立的に存続するものである
えた。短歌の存亡を危機的にぅけとめることで、短歌という表現も
も 思想的にもきわだち、﹁近代日本におけるもっとも緊 張 した一時
た能個
性 とのら匹敵
本さ 治短 そいっは
れう
実篠
た
のべるように、﹁自然主義の影響によって、はじめて短 歌
6.4
社︶
世界思想
明ぬ伯が
扁口 ︵
昭叩 ・6
白楊社
・如月
和 見小去M
め
至
叫
︶
日
Ⅲき目
伍
@︶
木股 知史﹁﹁一握の砂﹂の時間表現﹂︵﹁一握の砂| 啄木短歌の
界 ヒ早
小泉冬二﹁近代短歌典・
八感傷による自己批評 V
う になり、近代文学の一環に加
はなかったか﹂。だとすれば、
篠弘 ﹁近代短歌論争 史| 明治大正編﹂︵ 昭訂
やその人生を捉えうるよ
ン師資性を同時代の詩人として共有した鉄幹と啄木とが
昭㈹・Ⅱ明治書院︶
島津忠夫﹁和歌から短歌へ﹂︵﹁和歌典口昭 ㏄・ 4
﹁自然主義と近代短歌﹂︵
りかを問いながら、その同質性と異質性をきめたたせた明
玉井敬之﹁夏目漱石論﹂︵昭駐 ・
皿桜楓社 ︶
同相間ロ と司 一握の砂 L とによって、ともに近代におけ
年 という短歌史的状況は実にはかりしれない意味をも つ 。
九一
桜梅 社 -
十階﹁与謝野鉄幹﹂
4︶
昭弼 ・2
大逆事件の発覚、韓国併合という緊迫した社会状況は、 啄
いわゆる八時代閉塞の現状V をつよめ、そのことによっ
・ とする 可
の清新な日常感覚が鋭利な歴史感覚に結びつ こぅ
十三年以降の近代短歌から閉ざされてゆくという事実をわ
は 忘れてはならない。
の志向について﹂︵﹁新日本歌人﹂昭
改造社︶
佳孝二﹁啄木短歌の研究﹂︵昭牡 ・6 " 楓社︶
北原白秋﹁明治大正詩史概観﹂︵昭8
水俣修 ﹁新詩社と浪曇主義運動﹂︵﹁明治短歌典口昭33 2
杵@
春秋
石井仙次郎﹁初期啄木における八名誉の"死 V|八失敗 の 伝記 V へ
参考文献
し
世