スライド 1

室町文化の性格
鎌倉期において、武士階級が支配的地位を築く中で伝統的な
武家文化
(① 公家文化
)に加えて (②
)が形成され、文化の二元性の元に
発達していく。室町期においては、武士独自の文化が形成され、公
有職故実 )文学の注釈
家は伝統的文化に固執し、(③
)の研究、(④
五山
的研究がなされたのに対して、南北朝時代を背景に鎌倉時代から室
町時代にかけての過渡期の文化を形成していく。(⑤
) による
足利義満
足利氏の政権確立期には(⑥
)文化が、(⑦
)の時代には
北山
政情混乱・社会動揺
を背景に、(⑧
) 色彩が濃厚な(⑨
)
足利義政
文化が形成されていった。また、中国との貿易を通じて、(⑩
)
禅宗的
東山
の中国文化(とくに禅宗)の影響で、幕府の保護を受けて、(⑪
宋・元・明)
宗が発展し、(⑫
) 文学、(⑬ )学、絵画では(⑭
)が流行す
臨済
る。生活文化では、今でも伝統的な文化として残る(⑮
)、
五山
朱子
(⑯水墨画
)が発展した。
茶の湯
生け花
武士階級が支配的地位を築くことは、元々武士階級が(① 地方
) を拠
庶民
点としてきたことと、農民を含めた(② ) との接点が多かったことで、
庶民の芸能・文芸の発達が庶民の枠を超えて、(③ ) 階級やさら
武士
公家
には貴族・(④
) 階級にまで普及していった。庶民の芸能であった
田楽は、(⑤
) にまで昇華していき、歌謡は(⑥
猿楽・能、狂言 )の
方式によって、舞は(⑦
)となって、いずれも集団で楽しむもの
に
連歌
発展していく。
盆踊り
元々は荘園の管理をする(⑦ ) であった、武士階級や地方の有力
被官
農民や、技能を持った庶民が台頭し、文化の担い手となり、また
(⑧
) 大名・(⑨
) 大名が(⑩
) に中央の文化を移植する
守護
戦国
領国
ことで文化が地方へ普及すると同時に、庶民の台頭が文化の地層
を広げ、応仁の乱などが契機に、(⑪
) が地方への下向すること
公家
で、文化の地層は一層広がり、 多層の文化が融合することで、今日
的な意味での「(⑫
) 」がの形成されていったと考えられる。
日本文化
南北朝文化
南北朝時代は、鎌倉から室町の(① 過度
) 期に当り、過度期の動乱
悪党
に登場する新興の(② ) や、没落する者たちが織りなす歴史書や
軍記物語が誕生した。歴史書では、(③ ) 親房の 北畠
南
『(④ 神皇正統記
) 』があり、(⑤ ) 朝の正統性を理論的に主張した
増鏡
歴史書である。その他、四鏡の最後の『(⑥ ) 』もこの時代のもの
記の仕方に「大根(=今)水増し」)。源平争乱後の朝廷の歴史を、南
朝の立場から扱っている。軍記物語は、この時代も盛んで、
『(⑦
) 』は、その中でも傑作で、(⑧
) 側の立場で書かれてい
太平記
る。口語文的な表現から、読みやすさか特徴で、後世
「(⑨
)読
南朝
み」といわれるようになる。『(⑩太平記
) 』は、太平記と双璧の歴史書・
軍記物語で、(⑪
) の正統性と一門の繁栄を「梅」と「松」に例
梅松論
足利幕府
えて論じている。遠江の守護大名で九州探題、歌人としても有名な
今川了俊の『(⑫
) 』がある。古典『太平記』を難ずる意味の
難太平記
歴史書で、応永の乱における自らの立場や、太平記に記されない
一族の功績を記している。
日本三大史論=愚管抄(慈円・鎌倉初期)、神皇正統記(北畠親房・南北朝期)、読史余論(新井白石・
江戸中期)
有職故実とは古来からの先例に基づき、官職・儀式・装束などを研究すること。
『徒然草』に、「有職の振る舞ひ、やんごとなきことなり」という表現がある。意味は
「儀式・官職の故実に通じた行いは、りっぱなことである」ということ。有識とは、
「知識」を「有」する。つまり知識を持っていること。
字源的には、故実の「古」は、かたくなった頭骨、故は「攴(動詞の記号)+音符古」
です。つまり、かたまって固定した事実を意味。故実の「實」は、「宀(やね)+周
(いっぱい)+貝(たから)」で、つまり、家の中に財宝をいっぱい満たすという意味。
そのことから、故実は、「法令・儀式・作法・服装などについての古代のたくさんの
習慣・先例」となった。「コジツ」ケではない。旧来の支配層である公家が、地方武
士(足利尊氏や新田義貞)や新興の武士(楠木正成や赤松則村などの悪党)に対
して威張れるのは、過去の行事や先例や習慣の知識です。
後醍醐天皇は、『建武年中行事』を書いています。
北畠親房は、『職原抄』を著しています。
有職故実書の中でも、源高明の『西宮記』、藤原公任の『北山抄』、大江匡房の
『江家次第』の三書は「後世の亀鑑」と仰がれ別格扱いであった。室町時代の一
条兼良はこの三書を、『西宮記』は古礼、『北山抄』は一条天皇の時代以降の儀
式、『江家次第』は後三条天皇の時代以後の儀式と記している
永保寺開山堂
鶴林寺本堂(国宝)
室町時代初期の応永四年(1397)に再建と
内陣宮殿(厨子)の棟札に 記されている。 建
物の規模は、桁行(正面)7間、梁間(側面)6
間あり、単層入母屋造本瓦葺の、 加古川市
内最大の建築である。 建築の様式は、鎌倉
時代に中国(宋)から唐様式(禅宗様式)と天
竺様式(大仏様式)が もたらされ、これが和
様式と折衷された新和様式(折衷様式)であ
る。 この本堂は、折衷の意味を忠実に示し
た貴重な建物である。
北山文化=足利政権確立期の文化
三代将軍(① 義満
) の時代の文化を北山山荘の名から(②
北山
)文化
公家
大陸
と呼ばれ、(② ) 社会の伝統と(③
) 文化が基調となって(④
)
守護
や(⑤ ) 将軍
大名のもとに育成された。伝統的な様式に(⑥
) 様が加
禅宗
味され、武家独自の文化はまだ育たず、武家の公家文化へのあこが
れ、武家の奢侈的で濃厚な性格が示す建築物に(⑦
) (三層の
金閣寺
楼閣。一層は寝殿造、三層は禅宗様)をなしている。
室町時代の宗教の背景には(① 公 ) の没落にともない、彼
家
等に保護されていた興福寺・延暦寺・醍醐寺等
(② 天台・真言
) の旧仏教が主流的地位を喪失し、没落し、
将軍尊氏が帰依した夢窓疎石の禅宗の(③
) 宗が発
臨済
展し、武士・農民・商工業者への信仰拡大を受けて、新仏
教が教団を形成していった。鎌倉末期頃から北条氏は南
宋にならい(④ ) 制度を導入し鎌倉五山を選定したが、
五山
幕府滅亡後に建武の新政が開始されると五山も京都本位
に改められ、義満の時、南禅寺を別格とする臨済宗の寺
の天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺が(⑤
)で
選ばれ、五山に次ぐ寺院に十刹の制、諸山の制等、寺社
五山の制
の統制を行い幕府権威に宗教的側面を付加させた。
鎌倉五山=建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺
五山文学
鎌倉末期から室町時代にかけて
五山文学は、五山・十刹の禅宗寺院によった禅僧らの漢詩文をさ
し、五山文学は、五山文化の中心で、宋元禅林においても文学が
占める位置は非常に大きかったが、入宋僧や入元僧らにより、その
禅風が伝わると、皆、文学への志が高まることとなった。
鎌倉五山や京都五山(京五山)では、幕府の外交文書を起草する
という必要性もあって、四六文の法語や漢詩を作る才が重視され、
五山文学が栄えることとなった。
禅の法語をはじめ、詩文、日記、論説などの分野にも及び、代表
的な詩文集に、義堂周信の『空華集』、絶海中津の『蕉堅稿』など
がある。また、漢文学の盛行で、木版出版も起こり、14世紀後半、
京都の天龍寺雲居庵や、臨川寺で、春屋妙葩らが盛んに出版活動
を展開した。これらの木版印刷を五山版と呼ぶ。その大多数は、日
本に伝わった宋版や元版を覆刻したものであり、古様を伝えるもの
も多く、版本学的な資料価値が非常に高い。
名僧の輩出
夢窓疎石(1275~1351)
・足利尊氏の帰依→尊氏、諸国に安国寺と利生塔を、
天龍寺を建立して疎石を開山とする
・春屋妙葩、義堂周信らを育成
春屋妙葩(1311~1378)=最初の僧録、五山文学に隆盛をもたらす
義堂周信(1324~1388)=高潔な僧、初期五山文学の代表者、
詩集「空華集」など
絶海中津(1336~1405)=義堂とともに初期五山文学の代表者、
著作「蕉堅藁」
臨済僧の活動=本来の宗教活動以外のことに熱心
(a) 室町幕府の政治、外交顧問
(b) 朱子学の研究
(c) 五山文学の隆盛=漢詩文の作成
→五山版の出版(禅の経典、漢詩文集)
・義堂周信・南北朝時代…可翁、黙庵
北山文化
五山の禅僧には中国から渡来僧や留学僧が
水墨
多く、禅の精神を具体化した(①
)画(=墨の
濃淡と強弱の描線による東洋独特の絵)が広
がり、室町時代は日本水墨画の全盛期を形成
した。京都の相国寺からは如拙、周文、雪舟を
はじめとする画僧を輩出した。また、東福寺の
画僧・明兆(みんちょう)は、濃彩の仏画から水
墨画まで幅広い作品を制作した。
明兆の『(②
五百羅漢図
』が有名である。
禅僧の如拙は水墨画の先駆
者で『(③)
』はひょ
うたんで鮎をおさえる禅の公
瓢鮎図
案の禅機図)である。禅僧周
文は、水墨画を発展させ、
俗世間から遊離、奇っ怪な
動作の『寒山拾得図』描出。
明兆室町初期、東福寺の僧、作品「五
百羅漢図」
瓢鮎図
如拙筆
紙本墨画淡彩
111.5 x 75.8 室町時代(15世紀)
<国宝(京都 退蔵院)>
十二類絵巻
室町時代には子供たちにもわかるおとぎ話
の絵巻も作られるようになりました。ここでは
そんなおとぎ草紙の絵巻を取り上げている。
伎楽、散楽から能・狂言まで
6世紀頃に(① 中国
) 大陸より日本に伝わり、聖徳太子の奨励など
伎楽
によって(② )は寺院楽としてその地位を高めた。また、奈良時代
散楽
に大陸から移入された(③ )は、朝廷によって保護される芸能と
なったが、物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、
娯楽
(④ ) 的要素の濃く、その庶民性の強さや猥雑さからか、桓武天
皇の時代、延暦元年(782)に散楽戸制度は廃止されたが、寺社や
街頭などで以前より自由に演じられ、庶民の目に触れるようになっ
ていった。そして都で散楽を見た地方出身者らによって、日本各地
に広まっていった。日本の芸能は、そうした散楽が神事(⑤ ) とし
芸能
て発展した(⑥ ) 能と民間で発展した芸能である(⑦
) 能の二
系統が、色々な芸能を含んで、その中から(⑧
猿楽
田楽 ) の形をとる
歌舞・演劇
能が発展したものが能楽である。能楽師は他の芸能者と同じく
(⑨ ) を形成し、(⑩ ) の保護を受け、(⑪ ) や武家の庇護を
座
寺社
公家
も得つつ、(⑫
) に発展していった。
能・狂言
観阿弥・世阿弥による能・狂言の大成
前から(① 大和
) には、四座の(② 猿楽
) 座があり、発生地名からの座
名から、のちにそれぞれ(③ ) (こんぱる)・(④
) (こんごう)・
金春
金剛
宝生
観世
(⑤ ) (ほうしょう)・(⑥
) (かんぜ)となった。観阿弥・世阿弥の観
義満
世父子が将軍(⑦ ) の保護をえて、猿楽能を完成し、田楽や曲舞
歌舞
の(⑧
) 的要素を導入する一方、花、幽玄が旨、気品、哀れの
美、かすかな奥ふかさ求め、写実と幽玄を根本とした能の真髄を深
めた。
世阿弥の著には(⑨ 風姿花伝
) ・(⑩
世阿弥が能の真髄を伝えている。
) ・(⑪
申楽談儀
) があげられ、
花鏡
鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派の寺院。通称金閣寺
(きんかくじ)、山号は北山(ほくざん)。中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、金
閣は、漆地に金箔を押した三層の建物で正式には舎利殿と称する(金箔を貼るの
は二・三層のみ)。初層・二層・三層のそれぞれに異なる様式を採用した特異な建
築である。初層は寝殿造風で「法水院」(ほっすいいん)と称し、中央に宝冠釈迦如
来像、向かって左に法体の足利義満像を
安置する(安置仏像を「阿弥陀如来」と
する資料もある)。二層は住宅風(武家
造)の「潮音洞」で、岩屋観音像と四天
王像を安置する。三層は禅宗様の仏殿
風で仏舎利を安置し「究竟頂」(くっきょう
ちょう)と称する。屋根はこけら葺きで上
には鳳凰が飾られている。
東山文化 室町時代中期の文化
8代将軍(① 義政
)が義満にならって京都の(② ) 東山
に造営した山荘で
慈照寺銀閣
ある(③
) は、対照的に東山文化を象徴する存在として知ら
心空殿
れる。(③)は初層の「(④
) 」は住宅風、上層の「(⑤
) 」は
潮音閣
方3間(柱間の数が正面・側面とも3つ)の(⑥
) (唐様)の仏堂で
書院
ある。(⑦ 禅宗様
) につながる和風の住宅風意匠が取り込まれており、
造
東山文化の代表的建築物である。その東求堂内の一室(⑧
)
同仁斎 ) は禅宗寺院や
は茶室の起源ともいわれる。この頃より、(⑨
書院造
武士の住宅に積極的に採用され、庭園にも室町以降は禅宗の影響
も受け岩石と砂利を組み合わせて象徴的な自然を「山水河原者」と
呼ばれた庭師によってつくり出され(⑩
) が好んで用いられた。
枯山水
その名園としては竜安寺・大徳寺大仙院・(⑪
) などがある。小
西芳寺
堀遠州は回遊式庭園の形式を発達させ、各地に名庭園を築いた。東
山文化は武家、公家、禅僧らの文化が融合して生まれ、その基調は
禅浄一味の世界にあり、幽玄・閑寂を宗とし、わび・さびの観照の世
界にあり、それは広範な庶民の芸能・文化を土台としている一面を見
落とすことはできない。
銀閣寺 枯山水庭園
東求堂内襖絵
銀閣寺庭園
東求堂内の四畳半書院同仁斎
(ドウジンサイ)は、草庵茶室の
源流、また四畳半の間取りの始
まりといわれています。
・東山文化期-写実的山水画=宗教画からの脱出
雪舟=備中出身、宝福寺で修行、周文に学び入明して大陸の
風物に接する、水墨画の大成者
大内氏や大友氏の庇護のもと活躍、作画技術を大成(中国の模倣か
らの離脱) 作品:水墨画の流行=禅の精神の具象化(絵入りの公案)、
宋・元の画風
「天橋立図」
循環する四季 雪舟 四季山水図巻(山水長巻)
紙本墨画淡彩 39.7×1592.0cm 山口毛利博物館蔵
「秋冬山水図」
「四季山水図」伝雪舟筆 室町時代
周茂叔愛蓮図
狩野正信
大徳寺大仙院花鳥図
狩野元信
秋冬山水図 雪舟
四季山水図巻 雪舟
狩野派の誕生
日本絵画史上最大の画派
室町中期(15世紀)~江戸末期(19世紀)
狩野派(かのうは)は、およそ400年にわたって、
画壇の中心にあった専門画家集団で、室町幕
府の御用絵師となった狩野正信がその始祖。
その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊
臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その
時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を
占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇
面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンル
の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本
美術界に多大な影響を及ぼした。
山入烟雲旦暮兪、竹籠茅舎
路崎嶇、松間落雪爆千尺、想可銀河一滴無
金華景三「景三」(朱文方印)「横川」(白文方印)横川景三
(1429~1493)の賛
狩野正信筆
絹本墨画淡彩観瀑図
狩野正信(1434? – 1530)は当時の日本人としては長寿。(通説では97歳
で没)。正信の出自は伊豆方面ともいわれ、足利市の長林寺に残る
墨画の『観瀑図』は比較的初期の作品と考えられている。正信の画
業として記録に残る最初の事例は、応仁の乱の直前の寛正4年
(1463年)、30歳の時に相国寺塔頭に観音と羅漢図の壁画を制作し
たという。この時点で正信がすでに京都において画家として活動して
いたことがわかる。正信が壁画を描いた雲頂院の本寺である相国寺
は室町幕府3代将軍足利義満創建の禅寺で、如拙、周文、雪舟らの
画僧を輩出した室町画壇の中心的存在である。正信が、8代将軍義
政に重用されていたことは諸記録から明らかである。10年にわたっ
た応仁の乱終結の数年後の文明13年(1481年)、室町幕府の御用絵
師であった宗湛が死去しており、狩野正信は、宗湛の跡を継いで幕
府の御用絵師に任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷の絵
所預(えどころあずかり)の職にあった大和絵系の土佐光信と、漢画
系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。
狩野元信(1476~1559)は、狩野派の祖・狩野
正信の子で、幼より画を能くし、父・正信の画風
を継承するとともに、宋元名家に土佐派や周文
雪舟を研究。その画は細密滋潤にして清秀、山
水・人物・花鳥みな優れ、土佐光信・雪舟と共に
本朝三傑と称される、狩野派の基礎を築いた。
狩野元信は、狩野派2代目で、近世狩野派の画
風の大成者であり、近世における狩野派繁栄の
基礎を築いた画家である。また将軍義政・義澄
に仕えて越前守に任じられた。
元信は、幕府、朝廷、石山本願寺など、時の有
力者より庇護を受けつつ、戦国の乱世を生き抜
いた絵師であった。
元信の作品は、漢画(大和絵に対して中国風の
画を指す)系の水墨画法を基礎としつつ、大和
絵系の土佐派の様式を取り入れ、書院造建築
の装飾にふさわしい日本的な障壁画様式を確立
した点に特色がある。
白衣観音図 狩野元信・画
ボストン美術館所蔵)
土佐 光信(生没年不詳)
土佐派中興の祖
室町中期から戦国にかけての絵師。土佐派中興の祖とされ、8代
将軍足利義政の絵所預に輔任されている。右近将監を経て、1496
年(明応5年)には刑部大輔に任じる旨が出され、絵師としては最
高の位を得た。公家や武家、寺社のため多くの作品を描き、大和
絵の題材・技法・様式を拡大した。
土佐(常盤)光長、土
佐光起とともに土佐
派三筆と称される。
作品には「星光寺縁
起」のほか「清水寺
縁起」「北野天神縁
起」など数多くの作
品が残っている。
「星光寺縁起」
後藤祐乗(ごとうゆうじょう、1440~1512)
装剣金工の後藤家の家系で幕末までつづいた祖。美濃国生。室
町幕府8代将軍足利義政の側近として仕えたが、それを辞して装
剣金工に転じたと伝えられる。義政の御用をつとめ、近江国坂本
に領地300町を与えられた。祐乗の彫刻は刀装具という一定の規
格のなかで、 小柄(こづか)、笄(こうがい)、目貫(めぬき)の三所
物(みところもの)が主で、金や赤銅の地金(じがね)に龍・獅子・虎
などの文様を絵師狩野元信の下絵により高浮彫で細緻な文様を
施し装飾効果をあげるというもので、以後17代にわたる後藤家は、
将軍家や大名家の御用をつとめたところから、この家の作は「家彫
(いえぼり)」と称され、在野の装剣金工家による「町彫」とは格式を
異にした、江戸時代における金工にも大きな影響を与えた。
鎌倉時代以降、(⑫ 喫茶
) の風習は諸階層にも広がり、禅宗風の喫
茶の作法が公家・武家に普及し、洗練された茶の湯が「殿中の茶
天目
の湯」も行われ、(⑬ ) や龍泉窯の青磁茶碗が好まれていたが、
そのように高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、村田珠光は粗製の
珠光青磁
《(⑭
) 》などの粗末な道具を使用し、当時庶民のあいだに
地下茶
伝わっていた地味で簡素な 「(⑮
) の湯」を取り取り入れ、禅
の精神を加味して閑寂の境地をひらいた。これらを統合し、草庵で
の静けさを求める(⑯
) を創案したのが(⑰
)であり、彼
侘び茶
が目指した茶の湯の境地とは
「枯れかじけ寒かれ」で、信楽や
武野紹鴎
(⑱
) を好んだ。これが通常わび茶の始まりとされるが、このよ
備前
うに様式としてのわび茶とは、唐物を尊ぶ既成の価値観への反抗
を母体として発生したといえる。そして、戦国時代に侘び茶を大成し
たのが(⑲
)である。珠光のあと「弟子の宗珠、武野紹鴎らがわ
千利休
び茶を発展させ、千利休がこれを完成させた」といわれている。
連歌 南北朝を経て室町時代が連歌の最盛期
室町時代には、民衆の地位の向上により、武士や公家だけでなく、
民衆が参加し楽しむ文化がうまれたのも大きな特徴である。連歌は
下の句
和歌を(①
) と(②上の句
) にわけ、一座の人びとがつぎつぎに
連作
(③
) して五十句・百句にまとめた共同作品であった。連歌は
能楽
(④
) と並び室町文化を代表する遊戯の1つとされる。室町時代
良基
には二条(⑤ ) 、(⑥
) 、心敬などの連歌師が出現し、貴族の
宗祇
邸宅や有力寺社などで連歌会が催された。応仁の乱で京都の文化
が(⑦
) すると、連歌も畿内だけでなく、日本各地で行われる
地方伝播
ようになる。二条良基は『(⑧
) 』を撰し、連歌の規則書として
『応安新式』を制定したが、この『菟玖波集』が(⑨
) に準ぜら
菟玖波集
れてからは、(⑩
) と対等の地位をきずいた。さらに(⑪
)の
勅撰集
理想とした「(⑫
) 、幽玄、長高し」の美意識のもとに厳しい選句
和歌
がなされ、当時の(⑬
) 連歌の模範と典型を示した
宗祇
有心
正風
『(⑭
) 』『水無瀬三吟百韻』がでて正風連歌を確立。
新撰菟玖波集
一方これに対し、山崎宗鑑がより自由な気風を持つ俳諧連歌をつ
くりだし、『犬筑波集』を編集した。連歌はこれを職業とする連歌師
が各地を遍歴し普及につとめたので、地方の大名や武士だけでな
く、民衆のあいだでも愛好されて流行した。 15世紀には黄金時代
を迎え、二条良基による正風連歌の確立によって中世文芸の中心
的地位をしめるようになった。当時の典型作といわれる宗祇 ・宗
長・肖柏による水無瀬三吟百韻は、1488年正月、後鳥羽上皇の霊
を慰めるために奉納したものであるが、そこには乱世をはかなむ
無常観と憂愁の心を基底とした「わび」の境地がうたい込められて
いる。連歌は能楽と並び室町文化を代表する遊戯の1つとされる。
室町時代には二条良基、宗祇、心敬などの連歌師が出現し、貴族
の邸宅や有力寺社などで連歌会が催された。応仁の乱で京都の
文化が地方伝播すると、連歌も畿内だけでなく、日本各地で行わ
れるようになる。
集団制作による詩形である連歌は講と結びついて発展した。とく
に鎌倉時代後期から天神信仰と結びついた。連歌を目的とする
天神講を特に天神講連歌会と呼ぶ。講を結び、図像をかかげて
天神供養を行い、もって連歌を手向けとするものである。こうした
連歌会は大和国を中心に発達し、室町時代を通じて畿内から各
地へ伝播していった。天神講連歌会記録としては大和国の室生
村の染田天神連歌文書などが伝来する。
庶民が文化の担い手となっている点では文学についても同様で
あった。御伽草子や小歌集である『閑吟集』などはその例である。
また能の合間に演じられる狂言は日常生活に題材を求め、また
反権威の作品なども生み出された。
御伽草子(おとぎぞうし)室町時代の庶民的な短編小説で内容は
多種多様 室町から江戸に成立した、短編の絵入り物語
御伽草子の「御伽」は、高貴な人の側につきそって、話相手になり、
退屈をなぐさめることや人をいう。「草子」は綴じた本、絵入りの大
衆本などのことです。語源的には、『千夜一夜物語』のように、富豪
を相手に、夜な夜な、話をするテーマということになります。
立身出世譚(一寸法師・文正草子)
=一寸法師が貴族になる 身分が低い(と思われている)ものが、知恵・才覚で困難を乗り
越え、出世する。鹿島大明神の大宮司の下男だった文太は追放されて後、製塩業を営み、
たちまち大長者となり、文正と改名。そしてたいていは、出世した後、主人公は実は高い身
分の人の落とし胤(貴種)であったことがわかる。
異界流浪譚(浦島太郎)
異類婚姻譚(狐女房・蛤の草紙)
=○龍宮城に行って戻ってくる異次元の世界を旅して、特異な経験をして帰ってくる。「三
年が程は、鴛鴦の衾の下に比翼の契りをなし」ここで異類婚姻譚のモチーフ。○命を助け
られた狐が人間の娘に化けて妻となり恩返しをしするストーリーである。女化の狐女房譚
の興味深い点は、更に話が子供の代、孫の代へと展開。
○漁師が獲った蛤をにがしてやると、蛤が女房になって、美味しいみそ汁を作るが、蛤女
房のオシッコだったということで、家から追い出され、海に帰っていく話。
貴種伝説譚(物ぐさ太郎)
3年寝たままの物ぐさが皇族と判明する
擬人型伝説譚(鼠の草子)
鼠の権頭が人間と結婚し、畜生道から逃れようとするが女にばれて、
出家する。
異類世界譚(さるかに合戦・十二類絵巻 )
○かにの子が臼や蜂の協力で猿に復讐する。
○十二支の動物が歌合せをし、狸が反逆・出家する
人間と人間以外のものが結婚する。女が人ではない場合は、男が
約束を破って不幸になる。
などで、「御伽草子の基調は庶民の口承文芸であり、内容は物語
文学であり、描写は類型的な昔話である」と大島建彦氏はいう。
その他、主な作品を解説します。
(1)酒呑童子=源頼光が大江山の酒呑童子を退治する
(2)福富草子=放屁の特技で富み栄える福富と、それをまねて失
敗する隣人を描く
渋川版『御伽草紙』酒呑童子
十二類絵巻
十二類絵巻
十五夜(じゅうごや)の夜、
鼠、牛、虎などの十二支
(じゅうにし)の動物たちが、
和歌のコンテスト(歌合(う
たあわせ))をしました。その
時に審判(判者(はんじゃ))
になったのは鹿でしたが、こ
れが終った後の宴会でたい
そう大事にもてなされました。
小歌
流行歌などの小歌曲→はやりうた
小歌は、民間で歌われていた俚謡(りよう=流行歌)などのはやりう
たをいう。自由な詩型で歌われたが、恋の歌が多い。
『閑吟集(かんぎんしゅう)』全1巻(1518)=編者不詳だが、連歌
師の宗長(1448~1532)が編集したという説もある。
小歌・宴曲・童謡など室町後期の歌謡310余首を収録
室町時代に流行した「小歌(民間の卑俗な歌で、軽く肩のこらない
娯楽的なもの)」226種の他、「吟詩句(漢詩)」「猿楽(謡曲)」「狂
言歌謡」「放下歌(ほうかうた:「放下」は中世・近世に行われた芸
能の一つで、小切子(こきりこ)を打ちながら行う歌舞)」「早歌(そ
うか:別名「宴曲」とも言う、鎌倉末期から室町時代にかけて、武
家を中心に貴族、僧侶などの間に流行した宴席のうたいもの)」な
どを合わせて、311首が収録されています。内容的には、恋愛を
中心として当時の民衆の生活や感情を表現したものが多く、江戸
歌謡の基礎ともなりました。
室町期の宗教
室町時代の仏教 仏教界の状況
旧仏教は不振←保護者の(① 公家
) の没落、収入源の(② 荘園
) の崩
壊
新仏教は発展=鎌倉新仏教が普及するのは室町時代
(a) 新興階層
教団
((③ 庶民
) 、武士など)の帰依、(④ ) の形成、布教地域の拡大
(b) 各宗の大まかな状況
・(⑤
) =公家・武士に普及(それなりに繁栄)
・(⑥ 浄土宗
) =農民層に浸透(大いに繁栄)
・(⑦ 浄土真宗
) =鎌倉時代(大いに繁栄)に比べてやや下火
・(⑧ 時宗
) =幕府と結び繁栄(幕府崩壊後は経営困難化)
・(⑨ 臨済宗
) =総持寺派が繁栄(臨済宗と比べれば大きくない)
・(⑩ 曹洞宗
) =西日本でも布教活動、京都の町衆にも浸透
日蓮宗
禅宗=五山派(五山に列された(① 臨済宗
) 寺院の僧侶)
室町時代前半=(② 足利
) 氏の保護を受けて、政治・外交・
文化の面で隆盛をきわめる
・政治=(③ 義満
) の信頼を受けて幕府の政治を担当
遣明使
・外交=相国寺の管轄のもとに、(④
) に任命
・文化=(⑤ 五山
) 文学(漢詩文の作成)、(⑥
) の研究、
朱子学
五山版の出版(禅の経典、漢詩文集)
応仁の乱の前後以降→宗教活動は衰退へ
・保護者の喪失(室町幕府の衰退)
・本来の宗教活動からの乖離、民衆の支持の喪失
林下(五山のあり方に不満を持つ僧侶、五山に列されなかった寺
院の僧侶)=臨済宗、曹洞宗
林下=山林ともいう、叢林(五山派)に対しての言い方
隠遁
教団
・(⑦ 修行
) 第一主義 ←(⑧ ) 主義、(⑨
) の否定
臨済宗(大応派が有名)
・大徳寺=一休宗純が有名、一休は在家的・
(① 民衆
) 的な禅を説いて民衆の中で布教
京都生れで(② 後小松
) 天皇の落胤という京都
の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそう そうどん)
の弟子に、『洞山三頓の棒』という公案に対
し、 「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み
雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟より
(③ 一休
) の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い
悟り
(④ 煩悩
)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは(⑤ ) (仏)の世界
を指す。
・妙心寺=臨済宗妙心寺派(⑥ 大本山
) の寺院→日本にある臨済
宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。
曹洞宗=(⑦ 地方
) 武士に広まる(「臨済将軍、曹洞土民」)
・(⑧ 永平寺
) 派=道元の教えを継承、厳しい出家主義で拡大に限界
・(⑨ 総持寺
) (能登)派=現世利益を祈祷、公共事業推進、民衆化
→全国的に
浄土宗→(① 法 ) の死後、多くの門流に分派
・西山派((② 然京都
) が中心)と鎮西派(九州で成立)が有力
・鎮西派は(③ 東国
) へ布教拡大
日蓮宗→京都内では(④ 禅宗
) に次いで繁栄
日蓮の死後
(a) 鎌倉時代=東国の武士間に普及
(b) 南北朝時代=京都を中心に畿内一帯~西日本に布教、
日親
(⑤ 日像
) (1269~1342)、(⑥ ) (1407~88)
日親の活動→中国、九州地方への布教活動
立正治国論
(a) 「(⑦ 鍋かぶり
) 日親」=「(⑧
) 」を義教へ提出、他宗との
宗論、寺院建立を盛んに行う → 義教の怒りに触れ、焼けた鍋を
7回頭に被せられる
(b) 京都の(⑨ 町衆
) の支持(町衆は日蓮宗の信者)
→ 京都では禅宗に次ぐ反映
法華一揆(1532~36) →日蓮宗側で
は「天文法難」と呼び、一般は「天文
法乱」とも呼ぶ。
・日蓮宗の信仰が町衆の大半に浸
透し、極めて強い勢力を誇っていた。
1532年(天文元年)、一向宗徒の入
京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆
は細川晴元らの軍勢と手を結んで一
向宗寺院を焼き討ちした。山科盆地
に、土塁に囲まれた伽藍と寺内町を
構えていた一向宗の本拠である山科
本願寺はこの際の焼き討ちで全焼し
た。
この後、日蓮宗門徒は京都市中の
警衛などにおける自治権を得て、地
子銭の納入を拒否するなど、約5年
間にわたり京都で勢力を拡大した。
天文法華の乱(1536) → 法華勢
力は延暦寺僧徒の逆襲をうけ京都
内21寺院を焼き払われ、京都から一
掃
一向宗(浄土真宗) → 農民層に浸透 → 一向一揆
親鸞の死後、(① 本願寺
) 派(正統)、専修寺派、仏光寺派などの分派
が成立し、本願寺派はあまりふるわなかった。(② ) が登場し、本
蓮如
願寺第8代法主となり、本願寺の建て直し、本願寺派は大いに繁栄、
「(③ ) 」による門徒の(④ 講
) 化、門徒の自主的な活動で北陸、東
組織
海、近畿の(⑤ ) への浸透、御文(蓮如の手紙=平易な文章で教
惣村
理を説く)、(⑥ ) による現世利益の肯定した「御文(御文章)」によ
念仏
る布教活動、蓮如が越前に構えた道場の(⑦ ) 道場
吉崎
御坊
(⑦
)(1471)の建設によって、北陸布教の根拠地となったが、蓮
如退去後は衰える。
蓮如のときに摂津国石山に、石山本願寺(石山坊)の建設、蓮如
寺内町
の隠居坊から、次第に拡大して(⑧
) を形成して商工民などが
住み自治が行われた。ここを崇敬する門徒も多く、本山であった
山科
(⑨ ) 本願寺をも圧倒する勢いを見せ、これを危惧した蓮如の後
実如
継者(⑩ ) は永正元年(1504年)石山門徒の鎮圧に踏み切った
(「大坂一乱」「河内国錯乱」とも)。のちに信長に対抗。
一向一揆
坊主に組織化された一向宗門徒の一揆
→ 大名勢力に対抗
加賀の一向一揆(1488~1580)
1488年ごろ~1580年にかけて、加賀国の(③ 本願寺
) 門徒らが中心
の一向一揆。
蓮如は1474年から1475年までの間、吉崎御坊(福井県あわら
市)に滞在した。蓮如は親鸞以来の(④ 血脈
) 相承を根拠として、北
陸の浄土系諸門を次々と統合。1473年に(⑤ ) 富樫
政親の要請で、
守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代を倒した。蓮如はこ
れによって(⑥ ) の保護を受ける事を期待していたが、逆に政親
守護
は本願寺門徒の勢いに不安を感じて1475年門徒の(⑦ ) を開
弾圧
始、蓮如は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越
中国に逃れた。
その後、足利将軍(① 義尚
) の近江
六角氏討伐に、政親も家臣・国人
衆を率いて出陣することになり、
兵糧
(② ) 米や軍夫を農民から供出さ
せたことから、加賀国に大規模な
一向一揆
(③
) が起こり、政親は
1488
年、一揆軍に高尾城を攻められて
敗死 (長享の一揆) 。
以後、加賀に(④ ) 代理の一門
宗主 ) 層から
衆が在住し、次第に(⑤
(⑥
) による加賀支配に移行し
国人
本願寺
ていったが、本願寺中央が
(⑦
) を抑圧しようとした事から、
一門衆
1531年には
(⑧ 大小一揆
) と呼ばれる内紛に発展して多くの一門衆やこれに従った国
尾山
人衆が粛清された。1546年に(⑨ ) 御坊(金沢御堂)が建設され、そ
れを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。
文化の地方普及の要因
室町期中期、領国支配の強化に成功した守護大名は権能を肥大
化し、幕府はいわば守護大名の連合政権の様相を呈し、守護大名
や家臣が京都在住し、京都で文化的な生活を体験し、中央の文化
に対する憧れ、財力を持った守護大名は城下町の建設し、文化人
を迎える基盤の形成、とくに応仁の乱後は、公家、僧侶らは応仁の
乱による邸宅焼失、荘園制の崩壊(生活基盤の消滅)することで地
方へ疎開する一方、富豪化した戦国大名は、領国に小京都を築き、
学者、文化人を招聘する様になっていく。文化の地方普及に寄与
した文化人としては、一条教房(一条兼良の子)が所領であった土
佐に下向し、分家が戦国大名化し土佐一条家となった。
桂庵玄樹(1427~1508)は、周防国の山口生、9歳で臨済宗の南
禅寺で修行し、40歳で渡明、7年間滞在し,朱子学を修めて帰国。
当時、応仁の乱を避け、九州を転々、島津忠昌の招きで1478年に
鹿児島に入り、島津氏をはじめ家臣,僧侶たちに朱子学を教え、
薩南学派の祖となった。
大名の文化奨励
A.儒学の積極的な需要 ←為政者の学ぶべき学問としての位置づけ
B.大名の動向
(a) 大内氏(周防、山口が中心) ←日明貿易による繁栄
・文化人の招聘…雪舟、宗祇
・儒学者の輩出…桂庵玄樹、南村梅軒
・文化活動
大内版の刊行…大内氏が刊行した書籍 → 良書の収集
(b) 菊池氏(肥後)…桂庵玄樹の招聘、城下隈府に孔子廟を建立
(c) 島津氏(薩摩)
明に渡海して蘇州などを遊学 →日本で初めて朱熹の
『四書集註』を講義し、国内最初の朱子新注本を出版
・桂庵玄樹の招聘
→薩南学派の成立(→京学の成立(藤原惺窩))
・薩摩版の刊行…島津氏が刊行した書籍
それまで五山の禅僧の間での教養
の一部であった儒学を体系化して京
学派として独立させた。
(d) 吉良氏(土佐)…南村梅軒の招聘 → 南学(海南学派)の成立
吸江庵の忍性、
土佐における朱子学
宗安寺の如渕、
雪蹊寺の天質、
吉良宣経などに伝えられ
地方の教育
A.足利学校の再興
(a) 足利氏が鎌倉時代(?)に一族の学校として下野国足利(現・栃木県足利市)
に設立した学校
(b) 上杉憲実が1439年に再興 → 北条氏康の保護を受けて全盛期(一時的に
3000人を超える)
(c) 「坂東の大学」…宣教師フランシスコ=ザビエルの言葉
B.武士の教育
(a) 子弟を寺院に入れて教育…文字の読み書き、さらに高度な教育
(b) 教科書
・往来物……「庭訓往来」「実語教」「童子教」など
・「貞永式目」
※往来物…往復の手紙を集めてつくった手習いの教科書、後には手紙の形式を
採らなくても教科書の意味で使用
C.商工業者の教育
(a) 文字の読み書きを習うものの増加、必要上計算も学習
(b) 往来物を教科書として使用
(c) 「節用集」の刊行……日用語句の辞書
D.農村の教育……農村の指導者層に文字の読み書きが浸透
室町時代の生活
○衣服 ①男子a 礼服-直垂・大紋。常服-素襖
b 中流以下-素襖の袖を略した肩衣・半袴
②女子a 礼服-小袖
b 常服-袴無しの着流し
c 公家の礼服-小袿
○化粧-月代、歯黒、白粉、頬紅
○食-1日3食
①主食-強飯・姫飯
②副食-野菜中心(禅僧の影響)
③調味料-味噌・醤油
④加工品-麺類、豆腐、納豆、心天(ところてん)、こんにゃく、
蒲鉾
⑤間食(禅僧の天心の影響)餅・串柿・干芋・羊羹・うどん・饅頭
○住 ①寝殿造→書院造
②町屋-板屋
③農村-土間に草屋根ホ娯楽-西国三十三か所・四国八十八か所
への巡礼、熊野・伊勢参詣
民衆文化
惣村の成立や都市の発達により、庶民が文化の担い手となって、
民衆が参加する娯楽が出現し、それは、民衆が共同(複数、集団)
で参加する娯楽であった。
庶民の間でも読み書きの出来るものが増え、短編の読み物集で
ある御伽草子が読まれ、連歌の流行、狂言や小唄、幸若舞などの
庶民芸能が流行する。
本来は盆によばれる精霊を慰めるという意味をもつ「盆踊り」、正
月、盆、祭礼時に華やかな姿で踊る風流踊り、鉦・太鼓を叩きなが
ら念仏や和讃を唱えて踊る念仏踊りも盛んになっていった。
権力者に茶が流行すると、民衆も茶の異同をより分けて賭けを
行う闘茶の流行。
食文化では、味噌、醤油、豆腐など日本料理の基本要素が出
揃った。醤油を除き、中国から伝わっていた要素で、室町時代の商
工業発達によって普及した。
足利学校
平安時代初期、もしくは鎌倉時
代に創設されたと伝えられる中
世の高等教育機関。室町時代
から戦国時代にかけて、関東
における事実上の最高学府で
あった。
教育の中心は儒学であったが、
易学においても非常に高名で
あり、また兵学、医学も教えた。
戦国時代には、足利学校の出
身者が易学等の実践的な学問
を身に付け、戦国武将に仕え
るということがしばしばあったと
いう。学費は無料、学生は入学
すると同時に僧籍に入った。享
禄年間(1530年頃)には火災で
一時的に衰微したが、第7代庠
主(校長)九華が後北条氏の保
護を受けて足利学校を再興し、
学生数は3000人と記録される
盛況を迎えた。