通訳翻訳論 講義資料

通訳翻訳論 2008.06.25
翻訳・通訳の理論(1)
言語について
「一般言語学講義 」(ソシュール)
・ランガージュ(langage):言語活動。人間のことばを使
う能力と、ことばを使って行なう具体的な活動。
・ラング(langue):言語。言語活動の歴史的・社会的所産
として同じ共同体の成員が共有する記号体系。システ
ムとしての個別言語。
・パロール(parole):ラングの規則にしたがって個人が意
思を表現・伝達する一回ごとの発話行為。
○ 翻訳通訳の対象となるのは「パロール」であって、「ラ
ング」ではない。
翻訳・通訳とは?
 言語:ラング(個別言語)を対象として研究
 翻訳・通訳:パロールによって成立する行為
 パロールの拠って立つところ:個別言語
 翻訳・通訳はラングに対する知識を基礎とし、
パロールを扱う
 翻訳・通訳のプロセス:起点言語(SL)の「解
釈」→目標言語(TL)への「転換」→文字また
は音声による「表出」
翻訳・通訳が担う責任
 原文に対する忠誠(送り手への責任)




語から語へ一対一対応
文構造、テクスト結束性を反映
SL受け手とTL受け手に同じ反応
テクスト・タイプ、言語使用域と社会的位置づけ
 訳文に対する忠誠(受け手への責任)
 5W1Hを伝達
 受け手に応じた、場に相応しいスタイル
 個別言語に対する忠誠(言語変革への責任)
 新たな語彙、新たな概念、新たな思想の輸入者
二つの異なったコードによる二つの等価なメッセージ
Source
Target
発信者:伝達したいメッセージをコード化する(M1)
翻訳者:コードを手がかりにメッセージを解釈する
解釈して得たメッセージをもとにコード化する
受信者:コードを手がかりにメッセージを解釈する(M2)
翻訳の要件:
翻訳はコードの解釈を伴う行為であること。
M1とM2が等価であること。
ユージン・ナイダの提唱した“dynamic equivalence”
等価なメッセージ?
□意味・意図
■音声認識
□語彙選択・文構成 ■語彙・文構成分析
□音韻構成→発話
■音声認識
■語彙・文構成分析
■発話の意味・意図理解 ■発話の意味・意図理解
↓
□語彙選択・文構成
□その場の状況(コンテキスト)による調整
□音韻構成・発話
翻訳における等価と効果
語彙、文法のレベルで価値が完全に等しい訳出
を行うことはできるか。
 数式や化学元素記号などはもともと言い換えを必要
としない。
 自然言語におけるテクストの形式的な等価は同じ文
法形態を持つ言語間でも不可能。
Traduttore, traditore
 翻訳者は裏切り者
 翻訳者は反逆者
 訳者はやくざ
等価なメッセージ?
適切な訳語
適切な文体
原文の結束構造と結束性の維持
テクストの目的を達成(スコポス理論)
適切な言語使用域
 SLテクストをTL個別言語に移植
受け手に応じた柔軟な対応と選択
「言語使用域」(Register)という概念
 あるメッセージが発信者から受信者に正確に伝達され
るためには、その場に適した「言語使用域」が必要
SL(M1)の社会における位置
=>TL(M2)の社会における位置
場面とテクストの内容にふさわしい表現
●
●
言語使用域
 SLテクストの社会的位置づけと文体を保存
したTLの産出
 翻訳された論文もまた論文でなければならない
 訳された歌詞は歌えなければならない
 首相の演説は演説らしく
 「相手の口ぶりによって訳す」
 もしこのテクストを書いたのがTL母語話者なら
 聞き手の期待する談話の“格調”とは
“I love you”の訳し方?
 二葉亭四迷の翻訳
(女性のせりふ)
「死んでも、いいわ」
 夏目漱石の翻訳
(男性のせりふ)
「君といると、月がきれいですね」
翻訳小説と役割語
 日本語における役割語の使用とその効果
 誰のセリフですか?
1.
2.
3.
4.
5.
「わしはとっくに知っておったんじゃ」
「わたくしはとうに気づいておりましたわ」
「わたし、それ、知ってたアルよ」
「オウ、ソノコト、ワタシ、シッテマシタネー!」
「そんなこたぁ、こちとらぁ、とっくのとんまにご存じよ!」
1.老博士
3.謎の中国人
5.江戸っ子
2.お嬢様
4.外人
翻訳における「役割語」の役割
 メリット
 誰が話しているか分かりやすい
 TLの読者に受け入れやすい
 翻訳の省力化(工夫が要らない)
 デメリット
 ステレオタイプに陥りやすい
 安易な翻訳態度を助長する
 オリジナルにない味付けをしてしまう
 外国人スポーツ選手の話し方?
SLテクストをTLの社会に移植する
 言語内翻訳
 同じ個別言語内で言い換える
 受け手の解釈による差異が大きくなりがち
 言語間翻訳
 異なる社会において異なる言語で生み出さ
れた作品を翻訳する
 古典の現代語訳、外国語訳
 言語内翻訳と言語間翻訳にまたがる翻訳
古典現代語訳の例
 『桃尻語訳 枕草子』 橋本治 河出文庫
 訳者のことば:これは正真正銘の“直訳”、言葉を補っ
て訳すということはしていない。
 原文:冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜の
いと白きも、またさらでも、いと寒きに、火などいそぎおこして、炭
もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行け
ば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。
 翻訳:冬は早朝(つとめて)よ。雪が降ったのなんか、たまんない
わ!霜がすんごく白いのも。あと、そうじゃなくても、すっごく寒い
んで火なんか急いでおこして、炭の火持って歩いてくのも、すっご
く“らしい”の。昼になってさ、あったくダレてけばさ、火鉢の火だっ
て白い灰ばっかりになって、ダサイのッ!
持統天皇の和歌
春過而 夏来良之
白妙能 衣乾有 天之香来山
春すぎて 夏来(き)たるらし
白妙(しろたへ)の衣(ころも)ほしたり
天(あま)の香具山(かぐやま)
現代語へ「直訳」
春が過ぎて夏が来てしまったようだ
天の香具山に白い衣が干してある
持統天皇が現代の歌人なら?
ゆれる せんたくもの
お日さまの においが一杯。
深みどり色の 夏のはじめ。
松村よし子『新釈・平成イラスト版 恋の百人一
首』(文化出版局)
持統天皇が
英語/中国語話者なら?
 Spring is over and the summer seems
to have come now,
I look at white dresses spread to be
dried up in the sunshine
at the foot of mountain Kaguyama.
 春方姗姗去,夏又到人间
白衣无数点,晾满香具山
※訳し戻し(back translation)してみよう!
文学以外の翻訳・通訳
目的達成をめざす翻訳・通訳
 送り手が期待する反応を引き起こす
 交渉、指示などの通訳
 標識、案内図、注意書き、
操作マニュアル……などの翻訳
情報を伝達する翻訳・通訳
 新聞雑誌記事の翻訳、報告の通訳など
もしこのドアが中国やアメリカにあったら?
伝達の目的、予測される結果などにより起点言
語から目標言語への対応が決定される
立
ち
入
り
禁
止
関
係
者
以
外
闲
人
免
进
STAFF
ONLY
たまに変な翻訳も見つかる……
翻訳とコード制約
一義的に訳語が決まる語彙や表現
VS
様々な解釈を許容する語彙や表現
科学技術用語、テクニカルタームなどは訳語へ
の置き換えを正確に行うこと
文学、とくに詩歌では言語資源の活用度が大き
いため、様々な工夫が必要になる
翻訳理論から言えば高度な技術翻訳は容易
翻訳の実践から言えば必ずしもそうではない
翻訳通訳と言語コミュニケーション
 翻訳通訳にはかならず発信者・翻訳者・受信者が存在
する
 三者二言語モデル
 翻訳通訳では三者が共有する知識が問題
 言語の理解と産出を支える知識
 言語知識
 世界知識
 場の知識
 専門知識
 翻訳通訳はコミュニケーションの問題として捉えることが
できる
三者二言語モデルの図式
(Kirchhoff.1976)
翻訳について
 「翻訳の言語学的側面について」 ヤコブソン
 「翻訳論における誤った設問と正しい設問」 コ
セリウ
 「翻訳者の課題」 ベンヤミン
 魯迅の翻訳論 ー 社会変革と翻訳 ー
 林語堂 ー 翻訳はアートである ー
「翻訳の言語学的側面について」
ロマーン・ヤコブソン
 言語内翻訳 rewording 同じ個別言語内
で解釈する→言い換え
 言語間翻訳 translation 異なる個別言語
によって解釈→いわゆる翻訳
 記号法間翻訳intersemiotic translation
異なる記号体系の記号によって解釈する
→移し換え
言語内翻訳
言語A
起点言語
SL
言語B
目標言語
TL
伝達すべきメッセージ
情報、意図、感情
言語内翻訳の例(1)
 私は学生時代、通訳なしでは男子生徒とコミュニケー
ションをとれなかった時期がありました。通訳とはなん
のことかっていうと、私が男子生徒とやりとりをしなけ
ればいけない場合、私と男子生徒だけだと会話が成
り立たないので間に女子生徒が入って私のかわりに
意思を伝えてくれていたということです。男子生徒の
前だと簡単な単語すらできず固まっていましたから、
そんな固まった状態になると男子生徒が「おーい誰か
通訳してくれ!」って言って女子生徒を呼ぶんです…
言語内翻訳の例(2)
 -今後の目標を教えてください。
工藤 僕はまずは試合に出られるように頑張
ります。
佐藤 どうやって?
工藤 だから、練習中からアピールして。
佐藤 何をだよ?
工藤 だから、試合に出られるように。
岡本 誰か通訳してよ(笑)。
言語間翻訳
言語A
起点言語
SL
言語B
目標言語
TL
伝達すべきメッセージ
情報、意図、感情
言葉と意味、あるいは記号表現と記号内容
木の椅子 wood chair 木の実 nut
木で鼻をくくったような返事をする
give someone a curt reply
森林伐採業者
tree butcher
記号法間翻訳
言語記号によって表されたSLを言語以外
の記号体系(手旗信号、ゼスチャー、映画、
音楽等など)によって再現する
語彙の翻訳可能性と不可能性
 バートランド・ラッセル
「チーズについて、言語による以外の知見
を持たないならば何人もCheeseという語
を理解することはできないであろう」
「ある語を理解する」とはどういうことなのだろう?
自分の目で見られる、さわれる物しか我々は理解
できないのであろうか? 神話や伝説に出てくる空
想上の動物、珍しい外国の料理など説明を要する
語はある。しかし翻訳によって「理解させられない」
ことは証明できない。
ある語彙が訳出言語にない場合
 既存の語彙で説明する
 ねじ→回転する釘、チョーク→字を書くせっけん
 新しい語彙を作る
 万年筆、個人、持続的発展
 類似したものを利用する
 中華そば、活動写真、電気馬車、陸蒸気
 そのまま借用する
 コンピュータ、チーズ、プライバシー、アイデンティティ
文法範疇の問題
 ロシア語の双数の概念
 1、2、3以上に区別する
 英語は単数(1)と複数(2以上)の区別のみ。
 では“She has brothers”はロシア語に訳せるか?
(1)伝達することは可能か?
(2)全て伝達する必要があるのか?
 彼女には二人かあるいは三人以上の兄弟がいる。
 個々のテクストの全体的な意味に影響を与えるかど
うかによって伝達の必要性が決まってくる。
「翻訳論における誤った設問と正し
い設問」 コセリウ
 誤った設問
 翻訳および翻訳行為の問題性を個別言語(ラング)
に関わる問題性として扱う
 翻訳言語には原点で表現しようと意図されているこ
とを全て再現する手段がないため、翻訳はその本
質上すでに「不完全な」ものであるとする
 個別言語に関わる技術としての翻訳(言い換え)を
翻訳者の行為と同一視する
 翻訳には、抽象的なレベルでの最適の普遍性があ
ると仮定する
翻訳は個別言語の問題か
 個別原語間にはもともと一対一、一対多で対応す
る語はない。だが単語や文構造は翻訳されない
のである。翻訳されるのは個々のテクストであっ
て、テクストは個別言語を超えたものである。
 翻訳によって保持されるべきもの
 素材関連:テクスト中で指示されている事物
 意味:テクストで述べられている事それ自体
 意義:テクストで述べられた事によって伝達または表
現しようとしている意図
翻訳は本質的に不完全なものか
 ある語を聞いたときに起こる何らかの感情
 感情は語によって起こるのではなく実体によって起こる
 言語表現と結びつけられる連想(表現のしかた)
 適合させる
 解釈の二様性を持つ言葉遊び(かけことば、地口)
 素材関連と意義の両方を保持することはできない
 個別言語におけるメタ言語的使用
 翻訳の中にそのまま持ち込む
翻訳の限界
翻訳の対象となるのは
言語化されたことのみ
翻訳には本来、
合理的な限界がある
言語外的実体は翻訳できない
テクスト外の意味は翻訳されない
技術としての翻訳と芸術としての翻訳
 言い換え:個別言語に関する技術としての翻訳
 素材関連の点で等価値のものを確認する行為
 翻訳行為:翻訳者が行う芸術としての翻訳






言い換える、または言い換えない
新しい概念を表す表現法を創造する
適合させる
模倣する
説明する
注や解釈をつける
 翻訳行為には理論的な限界はない。個別言語に関する経
験的な限界があるのみである。
抽象的レベルでの最適の翻訳?
 翻訳行為:目的を持ち、歴史的制約を受ける
 読者、種類、時代背景、翻訳の目的等に応じて、最適な翻訳は
そのつど異なる
 翻訳の理想
参照「聖書翻訳の歴史」
 ルター(1522年旧訳聖書をドイツ語に翻訳)
 聞く相手に応じて(人々の「口ぶりを見て」)翻訳する必要性
 『表現の原理』 ファン・ルイス・ヴィヴェス 1533年
 重視されるのは何か(意義、表現法、意義と表現法)で差異
 言葉どおりに訳すか、自由に訳すか(直訳か意訳か)
 テクストの性質、テクストの部分部分の性質に応じて適用する
 普遍妥当の翻訳の理想などない
「翻訳者の課題」ヴァルター・ベンヤミン
岩波文庫『暴力批判論』所収
 翻訳は原作を読めない読者のために行われ
るものなのだろうか
 そもそも原作は読者のために書かれたのか
 原作が読者を想定して書かれたのでないなら
ば翻訳もまた読者のためになされるものでは
ないはずである
 翻訳は純粋言語を志向して行われるものだ
 翻訳者の使命は純粋言語の種子を成熟させ
ることにある
同化する翻訳と異化する翻訳
Lawrence Venuti [The Scandals of Translation]
 「同一性の倫理(an ethics of sameness)」
「差異性の倫理(an ethics of difference)」
 good morning は朝の挨拶であるから同一の意
味を持つ日本語「おはよう」に置き換える立場が
「同一性の倫理」、言葉や文化の差異を明確に示
すため「いい朝だ」と置き換える立場が「差異性の
倫理」
翻訳における「同化」と「異化」
 同化(domestication)
異化(foreignization)
 文化的差異を感じさせない「すらすら読める翻訳」
起点文化の独自性を保つ「違和感のある翻訳」
 意識的に異文化を感じさせる翻訳を行うことの意
味とは?
社会変革と翻訳
魯迅
『文芸と批評』1930年
 訳者の能力不足と、中国語本来の欠陥から、
訳し終えて読んでみると文章が晦渋で難解
のところすらまことに多い、複合句をばらば
らにすればそれでは原文の語気が失われる。
私としては、やっぱりこのような硬訳をするし
かしかたがない、でなかったら翻訳をあきら
めるほかない。残されただひとつの希望は、
読者がただ我慢して読んでいってくれること
だけである。
社会変革と翻訳
魯迅
「『硬訳』と『文学の階級性』」 『二心集』1931年
 「私の訳書は、もともと読者の「爽快」を得よ
うとするものではなく、それどころかしばしば
不愉快を与え、甚だしきに至っては人を悩ま
せ、憎悪させ、憤らせるものである。……い
ろいろな句法は新しく作る--悪く言えば無
理に作る必要がある。中国文が新しく造られ
ることを期待するが故に、いままでの中国文
には欠陥があると言うのである。
社会変革と翻訳
魯迅
「『硬訳』と『文学の階級性』」 『二心集』1931年
 永遠にこのボヤけた言葉を使い続ければ、
文章を読んで大変すらすらと読めたような
気がしても、結局残るのはボヤけた影であ
ります。この病気を直すために私はひたす
ら苦くて異様な句法を詰め込んでいく。
翻訳はアートである
林語堂
 翻訳の芸術が頼るのは、第一に翻訳者の
原文の字句と内容に対する徹底的な理解、
第二に翻訳者の非常に高度な母語の運
用力、つまり達意の中国文を書く能力、第
三に翻訳の訓練を積むこと、翻訳者は翻
訳の基準と処理の方法について正確な見
解があること、である。この三者を除いて
翻訳にはいかなる規範も存在しない。
翻訳はアートである
林語堂
 忠実の四基準
 逐語訳:読者の理解を配慮しない
 翻案(超訳):原作者の意図を歪曲する
以上は「翻訳」とは呼べない
 「直訳」、「意訳」という用語はやめよう
語句から語句へ訳すのではなく、文章から文章へ訳
す
 翻訳は個人の自由な裁量に依存する芸術だ。
 翻訳には絶対的正解はない
今日のまとめ
 翻訳は可能か、不可能か
 可能とも言えるし、不可能とも言える
 何を言っているのかを伝達する翻訳であれば可能
 どう言っているのかを完全に再現するのは不可能
 翻訳の規範はどこにあるのか
 翻訳は個々のテクストについて行うべきである
 個々のテクストの読者、時代、目的等によって様々に異なる
翻訳が求められる
 理想的な翻訳、模範的な翻訳
 絶対的な理想の翻訳はない