10/17

通訳翻訳論 第4 回
翻訳・通訳の規範
言語について
「一般言語学講義 」(ソシュール)
・ランガージュ(langage):言語活動。人間のことば
を使う能力と、ことばを使って行なう具体的な活動。
・ラング(langue):言語。言語活動の歴史的・社会的
所産として同じ共同体の成員が共有する記号体系。
システムとしての個別言語。
・パロール(parole):ラングの規則にしたがって個人
が意思を表現・伝達する一回ごとの発話行為。
○ 翻訳通訳の対象となるのは「パロール」であって、
「ラング」ではない。
翻訳・通訳とは?
言語学:ラング(個別言語)を対象として研
究
 翻訳・通訳:パロールによって成立する行為
 パロールの拠って立つところ:個別言語
 翻訳・通訳はラングに対する知識を基礎とし、
パロールを扱う
 翻訳・通訳のプロセス:起点言語(SL)の
「解釈」→目標言語(TL)への「転換」→文字
または音声による「表出」

翻訳・通訳が担う責任

原文に対する忠誠(送り手への責任)





訳文に対する忠誠(受け手への責任)



語から語へ一対一対応
文構造、テクスト結束性を反映
SL受け手とTL受け手に同じ反応
テクスト・タイプ、言語使用域と社会的位置づけ
5W1Hを伝達
受け手に応じた、場に相応しいスタイル
個別言語に対する忠誠(言語変革への責任)

新たな語彙、新たな概念、新たな思想の輸入者
二つの異なったコードによる二つの等価なメッセージ
Source
Target
発信者:伝達したいメッセージをコード化する(M1)
翻訳者:コードを手がかりにメッセージを解釈する
解釈して得たメッセージをもとにコード化する
受信者:コードを手がかりにメッセージを解釈する(M2)
翻訳の要件:
翻訳はコードの解釈を伴う行為であること。
M1とM2が等価であること。
ユージン・ナイダの提唱した“dynamic equivalence”
等価なメッセージ?
□意味・意図
■音声認識
□語彙選択・文構成 ■語彙・文構成分析
□音韻構成→発話
■音声認識
■語彙・文構成分析
■発話の意味・意図理解 ■発話の意味・意図理解
↓
□語彙選択・文構成
□その場の状況(コンテキスト)による調整
□音韻構成・発話
翻訳における等価と効果

語彙、文法のレベルで価値が完全に等しい訳出
を行うことはできるか。



数式や化学元素記号などはもともと言い換えを必要
としない。
自然言語におけるテクストの形式的な等価は同じ文
法形態を持つ言語間でも不可能。
Traduttore, traditore



翻訳者は裏切り者
翻訳者は反逆者
訳者はやくざ
等価なメッセージ?
 適切な訳語
 適切な文体
 原文の結束構造と結束性の維持
 テクストの目的を達成(スコポス理論)
 適切な言語使用域

SLテクストをTL個別言語に移植
 受け手に応じた柔軟な対応と選択
「言語使用域」(Register)という概念

あるメッセージが発信者から受信者に正確に伝
達されるためには、その場に適した「言語使用
域」が必要
SL(M1)の社会における位置
=>TL(M2)の社会における位置
場面とテクストの内容にふさわしい表現
●
言語使用域

SLテクストの社会的位置づけと文体を保
存したTLの産出




翻訳された論文もまた論文でなければならな
い
訳された歌詞は歌えなければならない
首相の演説は演説らしく
「相手の口ぶりによって訳す」


もしこのテクストを書いたのがTL母語話者なら
聞き手の期待する談話の“格調”とは
翻訳の等価と効果
二葉亭四迷の翻訳


I love you. → 「死んでもいいわ」
翻訳小説と役割語



日本語における役割語の使用とその効果
誰のセリフですか?
1.
2.
3.
4.
5.
1.老博士
2.お嬢様
3.謎の中国人
4.外人
5.江戸っ子
「わしはとっくに知っておったんじゃ」
「わたくしはとうに気づいておりましたわ」
「わたし、それ、知ってたアルよ」
「オウ、ソノコト、ワタシ、シッテマシタネ!」
「そんなこたぁ、こちとらぁ、とっくのとんまにご存じよ!」
翻訳における「役割語」の役割

メリット




誰が話しているか分かりやすい
TLの読者に受け入れやすい
翻訳の省力化(工夫が要らない)
デメリット



ステレオタイプに陥りやすい
安易な翻訳態度を助長する
オリジナルにない味付けをしてしまう

外国人スポーツ選手の話し方?
SLテクストをTLの社会に移植する

言語内翻訳



言語間翻訳


同じ個別言語内で言い換える
受け手の解釈による差異が大きくなりがち
異なる社会において異なる言語で生み出され
た作品を翻訳する
古典の現代語訳、外国語訳

言語内翻訳と言語間翻訳にまたがる翻訳
古典現代語訳の例

『桃尻語訳 枕草子』 橋本治 河出文庫

訳者のことば:これは正真正銘の“直訳”、言葉を補っ
て訳すということはしていない。

原文:冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜
のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火などいそぎおこして、
炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行
けば、火桶の火も白き灰がちになりてわろし。

翻訳:冬は早朝(つとめて)よ。雪が降ったのなんか、
たまんないわ!霜がすんごく白いのも。あと、そうじゃ
なくても、すっごく寒いんで火なんか急いでおこして、
炭の火持って歩いてくのも、すっごく“らしい”の。昼に
なってさ、あったかくダレてけばさ、火鉢の火だって白
い灰ばっかりになって、ダサイのッ!
持統天皇の和歌

春過而 夏来良之
白妙能 衣乾有 天之香来山
春すぎて 夏来(き)たるらし
白妙(しろたへ)の衣(ころも)ほしたり
天(あま)の香具山(かぐやま)

現代語へ「直訳」
春が過ぎて夏が来てしまったようだ
天の香具山に白い衣が干してある
持統天皇が現代の歌人なら?
 ゆれる
せんたくもの
お日さまの においが一杯。
深みどり色の 夏のはじめ。
松村よし子『新釈・平成イラスト版 恋の百人一首』
(文化出版局)
持統天皇が
英語/中国語話者なら?


Spring is over and the summer seems to
have come now,
I look at white dresses spread to be dried up
in the sunshine
at the foot of mountain Kaguyama.
春方姗姗去,夏又到人间
白衣无数点,晾满香具山
※訳し戻し(back translation)してみよう!
文学以外の翻訳・通訳
 目的達成をめざす翻訳・通訳
送り手が期待する反応を引き起こす
 交渉、指示などの通訳
 標識、案内図、注意書き、
操作マニュアル……などの翻訳

 情報を伝達する翻訳・通訳

新聞雑誌記事の翻訳、報告の通訳など
もしこのドアが中国やアメリカにあ
ったら?

伝達の目的、予測される結果などにより起点言
語から目標言語への対応が決定される
立
ち
入
り
禁
止
関
係
者
以
外
闲
人
免
进
STAFF
ONLY
たまに変な翻訳も見つかる……
翻訳とコード制約




一義的に訳語が決まる語彙や表現
VS
様々な解釈を許容する語彙や表現
科学技術用語、テクニカルタームなどは訳語へ
の置き換えを正確に行うこと
文学、とくに詩歌では言語資源の活用度が大き
いため、様々な工夫が必要になる
翻訳理論から言えば高度な技術翻訳は容易
翻訳の実践から言えば必ずしもそうではない
翻訳通訳と言語コミュニケーション

翻訳通訳にはかならず発信者・翻訳者・受信者
が存在する


三者二言語モデル
翻訳通訳では三者が共有する知識が問題

言語の理解と産出を支える知識





言語知識
世界知識
場の知識
専門知識
翻訳通訳はコミュニケーションの問題として捉え
ることができる
三者二言語モデルの図式
(Kirchhoff.1976)
翻訳について

「翻訳の言語学的側面について」 ヤコブソン


「翻訳論における誤った設問と正しい設問」
コセリウ
「翻訳者の課題」 ベンヤミン

魯迅の翻訳論 ー 社会変革と翻訳 ー

林語堂 ー 翻訳はアートである ー
「翻訳の言語学的側面について」
ロマーン・ヤコブソン



言語内翻訳 rewording 同じ個別言語内で
解釈する→言い換え
言語間翻訳 translation 異なる個別言語に
よって解釈→いわゆる翻訳
記号法間翻訳intersemiotic translation 異な
る記号体系の記号によって解釈する →移し
換え
語彙の翻訳可能性と不可能性

バートランド・ラッセル
「チーズについて、言語による以外の知見
を持たないならば何人もCheeseという語
を理解することはできないであろう」
「ある語を理解する」とはどういうことなのだろう?
自分の目で見られる、さわれる物しか我々は理解
できないのであろうか?
あなたは「神」や「幽霊」や「人魚」を理解できます
か?
ある語彙が訳出言語にない場合

既存の語彙で説明する


新しい語彙を作る


万年筆、個人、持続的発展
類似したものを利用する


ねじ→回転する釘、チョーク→字を書くせっけん
中華そば、活動写真、電気馬車、陸蒸気
そのまま借用する

コンピュータ、チーズ、プライバシー、アイデンティティ
文法範疇の問題

ロシア語の双数の概念



1、2、3以上に区別する
英語は単数(1)と複数(2以上)の区別のみ。
では“She has brothers”はロシア語に訳せるか?
(1)伝達することは可能か?
(2)全て伝達する必要があるのか?

彼女には二人かあるいは三人以上の兄弟がいる。

個々のテクストの全体的な意味に影響を与えるかど
うかによって伝達の必要性が決まってくる。
「翻訳論における誤った設問と正し
い設問」 コセリウ

誤った設問

翻訳および翻訳行為の問題性を個別言語(ラング)に
関わる問題性として扱う

翻訳言語には原点で表現しようと意図されていること
を全て再現する手段がないため、翻訳はその本質上
すでに「不完全な」ものであるとする

個別言語に関わる技術としての翻訳(言い換え)を翻
訳者の行為と同一視する

翻訳には、抽象的なレベルでの最適の普遍性がある
と仮定する
翻訳は個別言語の問題か

個別言語間にはもともと一対一、一対多で対応
する語はない。だが単語や文構造は翻訳されな
いのである。翻訳されるのは個々のテクストであ
って、テクストは個別言語を超えたものである。

翻訳によって保持されるべきもの



素材関連:テクスト中で指示されている事物
意味:テクストで述べられている事それ自体
意義:テクストで述べられた事によって伝達または表
現しようとしている意図
翻訳は本質的に不完全なものか

ある語を聞いたときに起こる何らかの感情


言語表現と結びつけられる連想(表現のしかた)




素材関連と意義の両方を保持することはできない
個別言語におけるメタ言語的使用


適合させる
解釈の二様性を持つ言葉遊び(かけことば、地口)


感情は語によって起こるのではなく実体によって起こる
翻訳の中にそのまま持ち込む
翻訳の対象となるのは言語化されたことのみ
翻訳には本来、合理的な限界がある
言語外的実体は翻訳できない
技術としての翻訳と芸術としての翻訳

言い換え:個別言語に関する技術としての翻訳


翻訳行為:翻訳者が行う芸術としての翻訳









素材関連の点で等価値のものを確認する行為
言い換える、または言い換えない
新しい概念を表す表現法を創造する
適合させる
模倣する
説明する
注や解釈をつける
理論的な意味での「不可能な翻訳」:言い換え
実際に存在する翻訳:翻訳行為
翻訳行為には理論的な限界はない。個別言語に関する経験
的な限界があるのみである。
抽象的レベルでの最適の翻訳?

翻訳行為:目的を持ち、歴史的制約を受ける


読者、種類、時代背景、翻訳の目的等に応じて、最適
な翻訳はそのつど異なる
翻訳の理想

ルター(1522年旧訳聖書をドイツ語に翻訳)


聞く相手に応じて(人々の「口ぶりを見て」)翻訳する必要性
『表現の原理』 ファン・ルイス・ヴィヴェス 1533年


参照「聖書翻訳の歴史」
重視されるのは何か(意義、表現法、意義と表現法)で差異
言葉どおりに訳すか、自由に訳すか(直訳か意訳か)

テクストの性質、テクストの部分部分の性質に応じて適用する

普遍妥当の翻訳の理想などない
ヴァルター・ベンヤミン

「翻訳者の課題」
 翻訳は原作を理解しない読者のために行われる
のではない
 原作は読者に奉仕することを目的としただろうか
 翻訳は作品の「死後の生」によって表出する
 翻訳は純粋言語への志向を持つ
 翻訳は純粋言語の種子を成熟させるという課題
においてなされるべきものである
岩波文庫『暴力批判論』所収
同化する翻訳と異化する翻訳

「同一性の倫理(an ethics of sameness)」
「差異性の倫理(an ethics of difference)」
Lawrence Venuti [The Scandals of Translation]
 good morning は朝の挨拶であるから同一の意味
を持つ日本語「おはよう」に置き換える立場が「同一
性の倫理」、言葉や文化の差異を明確に示すため
「いい朝だ」と置き換える立場が「差異性の倫理」

同化(domestication)、異化(foreignization)

文化的差異を感じさせない「すらすら読める翻訳」と
起点文化の独自性を保つ「違和感のある翻訳」
社会変革と翻訳

魯迅
訳者の能力不足と、中国語本来の欠陥から、
訳し終えて読んでみると文章が晦渋で難解
のところすらまことに多い、複合句をばらばら
にすればそれでは原文の語気が失われる。
私としては、やっぱりこのような硬訳をするし
かしかたがない、でなかったら翻訳をあきら
めるほかない。残されただひとつの希望は、
読者がただ我慢して読んでいってくれること
だけである。
『文芸と批評』1930年
社会変革と翻訳

魯迅
「私の訳書は、もともと読者の「爽快」を得よう
とするものではなく、それどころかしばしば不
愉快を与え、甚だしきに至っては人を悩ませ、
憎悪させ、憤らせるものである。……いろいろ
な句法は新しく作る--悪く言えば無理に作
る必要がある。中国文が新しく造られることを
期待するが故に、いままでの中国文には欠
陥があると言うのである。
「『硬訳』と『文学の階級性』」 『二心集』1931年
社会変革と翻訳

魯迅
永遠にこのボヤけた言葉を使い続ければ、
文章を読んで大変すらすらと読めたような気
がしても、結局残るのはボヤけた影でありま
す。この病気を直すために私はひたすら苦く
て異様な句法を詰め込んでいく。
「『硬訳』と『文学の階級性』」 『二心集』1931年
翻訳はアートである

林語堂
翻訳の芸術が頼るのは、第一に翻訳者の
原文の字句と内容に対する徹底的な理解、
第二に翻訳者の非常に高度な母語の運
用力、つまり達意の中国文を書く能力、第
三に翻訳の訓練を積むこと、翻訳者は翻
訳の基準と処理の方法について正確な見
解があること、である。この三者を除いて
翻訳にはいかなる規範も存在しない。
翻訳はアートである

忠実の四基準





林語堂
逐語訳:読者の理解を配慮しない
翻案(超訳):原作者の意図を歪曲する
以上は「翻訳」とは呼べない
「直訳」、「意訳」という用語はやめよう
語句から語句へ訳すのではなく、文章から文章へ訳す
翻訳は個人の自由な裁量に依存する芸術だ。
翻訳には絶対的正解はない
今日のまとめ

翻訳は可能か、不可能か

可能とも言えるし、不可能とも言える




何を言っているのかを伝達する翻訳であれば可能
どう言っているのかを完全に再現するのは不可能
翻訳の規範はどこにあるのか

翻訳は個々のテクストについて行うべきである

個々のテクストの読者、時代、目的等によって様々に
異なる翻訳が求められる
理想的な翻訳、模範的な翻訳

絶対的な理想の翻訳はない