第 4部 『 日本書紀』の復元 181 一 ―― 一 ― ―‐ ― ^― ― ――Ll_上 `」 Л 皿 第 1章 「 神功紀」の復元 183 l q‐ L 「 神功紀」の問題点 (1)空 白期 間 「神功紀Jに は長い空白期間がある。 1神 功紀 │の 構成 は次 の よ うに な って い るc □「神 功紀 」 の構成 。 元年 。 ・ 二年 三年 ・ 五年 ・ 十二年 ・ 四 十六年 ・ 四十七年 ・ 四十九年 ・ 五十年 ・ 五十一年 ・ 五十 二 年 ・ 六 十二年 ・ 六 十九年 「神功紀 Jは (神 功 )十 二 年 か ら四十六年 まで空 白で あ る。 33年 間 も記 述 が ない cま た五十 二年 か ら六 十 二年 まで の 10年 間 も神功 皇后 に関す る記述 は な い。何故 、 この よ うな空 白期 間が あ るのだ ろ うか。 184 ― ― ― ― ― ― ― ― ― 」 JIIlhL」 JJIIIIII口 買 │1日 製 一 (2)神 功 皇 后 の 在 位 年 数 「神功紀 Jは 六十九年条 まである。神功皇后 の在位は 69年 間とい うことで ある。あまりにも長 い。 (神 功 )元 年は仲哀天皇が熊襲 に伐 たれて戦死 した翌年であるc神 功皇后は その時 20才 前後であるとして も神功皇后は 90才 で死去 したことになる。11 時の平均寿命は 50才 くらいで あるか ら在位年数が 69年 もあるのは史実で はないであろう。 (3}仲 哀九年条 の問題点 仲哀天皇は (仲 哀 )九 年二月に死去 し、神功皇后は二月に熊襲征伐 と新羅征 伐を している。 ■ (仲 哀 )九 年二月、仲哀天皇死去 ■ 九年二月、熊襲征伐 ■ 九年十月、新羅征伐 熊襲征伐は筑紫 と肥前を討伐 してまわる。これだけで も一年以上はかかるで あろう。ところが一年足 らずで熊襲征伐 と新羅征伐を している。これは無理で はないだろうか。 (仲 哀 )九 年条はあまりにも異常である。 「神功紀 Jは このよ うに疑問点が多 いc 185 2 神功皇后の逃亡 (1)忍 熊 王 との戦 い へ (仲 哀 )九 年 の翌年は (神 功 )元 年である。神功皇后は九州を離れて京 向 か う。 (神 功 )元 年二月、皇后、群卿及 び百寮を領 (ひ き)い て穴門の豊浦 宮 に移 る。則ち (仲 哀 )天 皇の喪を収めて海路 より京へ 向か うЭ 『糸 己』 神功皇后 は九州か ら穴門の豊 浦宮へ移 り、仲哀天皇 の喪の儀 礼を行 い、御子 を連れて京へ 向か う。京 は大和であろう。 子 仲哀天皇 には神功皇后 と婚姻す る前に 二人 の子が いた。香坂 (か ごさか )皇 と忍熊 (お しくま)皇 子 である。二 人の皇子 は神功皇后が御子を連れて京へ 来ると聞き密 かに謀 りて 日う、 1今 、 (神 功 )皇 后に子 あり。群臣はみな従 うЭ 必ず共に議 りて幼 い主 (義 弟 )を 王に立てるであろう。吾等は何 ぞ兄を以て弟 に従わむや Jと い う。 二 人 の皇子 は神功皇后 の御子 (義 弟 )に 従 うことはで きないとい う。神功 皇 后 と戦 うことになる。 (2)だ ま し討 ち 神功 皇后 の 軍 はだ ま し討 ちをす る。 186 時に武内宿禰、三軍に令 して悉 く椎結 (か みあ)げ せ しむcよ りて 号令 して曰 く、「各儲弦 (う さづ る=弓 の控えの弦)を その髪の 中 に蔵 (お さ)め 、且つ木刀を侃 (は )け Jと い う。忍熊王を誘いて 曰 く、「吾は天下を貪 (む さぼ)ら ず。唯幼 い王を懐きて君王に従 )ぎ 戦 うことあらむや。願わ くば共に弦を絶 ち、兵 (器 )を 捨て、 ともに和をなさむc君 王は天業に登 り、 (中 略)専 ら万機を制せよJと い う。則ち (武 内宿禰 は)軍 中に令 して うのみ。あに距 せ (も 、 悉 く弦を裁 ち刀を解 き、河水に投げる。 忍熊王はその誘 い言を信 じて軍衆に令 して兵器を解 き、河水 に投 げ る。而 して弦を裁 つ 。 ここに武内宿禰 は三軍 に令 して儲弦 (う さづ る)を 出 して張 り、真刀を侃 き、河を渡 り進撃す る。忍熊王は欺か 『糸 己』 れ た ことを知 る。 神功 皇后 の軍 はだ ま し討 ちを して忍熊王 の軍 を破 る。『記 』の方 で も同 じよ うに書 いて い る。 各退 か ず に相戦 う。 こ こに建振 熊命 (た けも、る くま )、 権 (は か ) りて 云 わ しむ、「息長 帯 日売命 (神 功 皇后 )は 既 に崩 じぬ 。故 、 さ らに戦 うべ き こと無 し。」 と。即 ち弓弦 を絶 ち、欺 陽 (い つ わ )り て帰服す 。 ここにその将軍、詐 (い つ わ り)を 信 じて弓をはず し、兵器を蔵 (お さ)め る。 ここに頂髪 の 中か ら弦を取 り出 しそれを張 り、追い撃 ち き。 (中 略 )悉 くその軍 を斬 る。 『言 己』 『記』 『紀』はともに神功皇后 の軍はだま し討ちを したと書 いて いる。だま し討ちをす るのは兵力が弱 いか らである。 187 : ― 一 ― 一 {3)喪 船 と逃 亡 『記』は神功皇后が九州を出発するときのようすを次のように書いている。 ここに息長帯 日売命 (神 功皇后 )、 倭 に還 り上る時、人の心 は疑わ 「 しきにより、喪船を一つ用意 して、御子をその喪船に載せ、先ず 御 F・ は既 に崩 じぬ Jと 言 い漏 らさ しむ c 『記 』 御子を喪船 に乗せ「御子はす でに崩 じぬ」と言いも、らしたとある。異常な行 動を している。 喪船は死体を乗せ る船である。喪船を襲 う人はいない。神功皇后は襲われな いよ うに御子を喪船に乗せたのであろ う。 神功皇后は御子が襲われるのを心配 している。神功皇后 の兵力が弱 いか らで あろうc 神功皇后は熊襲征伐を し、さらに新羅征伐を している。何故、神功皇后は兵 力を心配 して い るのであろうか。御子を守るだ けの兵力がないので あろうかc 神功皇后 は御子を喪船 に乗せて心配 しなが ら九州か ら大和 へ 向か ってい る。 これは逃亡であろう。神功皇后は九州か ら故郷へ 向か ったのではな く九州 か ら逃げ出 したのであろう。そのため兵力が少ないので ある。 神功皇后 の本拠地は筑紫 (伊 都国 )で ある。神功皇后は大和に住んだことも ない。 『紀』は「京へ 向か うJと 書き、『記』は「倭に還 るJと 書 いてい るが 神功皇后 の本拠地は大和にはな い。九州か ら逃げ出 したことを 「京へ 向か うJ とか、「倭に還るJと 書 いているので あろう。これ も「万世一系 Jに す るため であろ う。 仲哀天皇 の遺体を九州か ら運び出 し穴間で葬儀 を しているの も九州を捨て る覚悟だか らであろう。九州には二度 と戻 って こないつ もりなので ある。 ― ― ― 新羅征伐 の二重記述 (1)逃 亡後の新羅征伐 神功皇后 は (神 功 )元 年 に九州 か ら京 へ 行 くcし たが って その後 の「神功紀 │ はす べ て大和 で ので き ごとで あ ろ う。 と ころが (神 功 )四 十六 年条 に「斯 摩宿禰 を卓淳 国 に遣 わす 」とあ り、 (神 功 )四 十九年条 には「 と もに卓淳 国に集 い新羅 を撃 ち破 るJと あ るc神 功 皇后 たた び新羅征伐 を して い る。神功皇后 の新羅征伐 は (仲 哀 )九 年条 と (神 はバ、 功 )四 十九年条 の二 度 あ る。 二 度 目の新 羅征伐 は神功皇后 が大 和 へ 逃 げて 48年 後 の ことで あ る。48年 後 に神 功 皇后 は新 羅 征伐 を して い る とい う。 九 州 か ら大 和 へ 逃 げ た の は (神 功 )元 年 で あ る。 この とき神功皇后 は 20才 くらいだ った と して も (神 功 )四 十九年 で は 70才 にな る。 この 年齢で は新 羅征伐 はで きな いで あ ろ う。 二 度 目の新羅征伐 の とき斯摩宿禰 を卓淳 国へ 派遣 して い る。斯摩宿禰 は伊都 国 の 隣 りの 福 岡県糸 島郡志摩 町 の 人で あ る。九州 の宿禰 を朝鮮 半 島へ 派遣 して い る。神功 皇后 はス、 たたび九 州 へ 来 たので あ ろ うか。 (仲 哀 )九 年十月 の新 羅征伐 で は 「和珂 津 よ り発 つ │と あ る。和耳 津 は対 馬 で あ るc対 馬 か ら出発 し、 1風 が順調 に吹 き、海 中 の魚 が 浮か び船 を た す け、 櫂 を漕 ぐ労 もい らず に新羅 に到 る Jと あ る。 朝鮮 半 島 の南 部 に到 着 して い る。 そ こか ら新羅 征伐 を して い るc ところが (神 功 )四 十六 年条 で は斯摩宿禰 が卓淳 国 に着 くと卓淳 国 の 王は神 功 皇后 の 貴 国が ど こに あ るか を知 らな い とい うc卓 淳 国 は朝 鮮 半 島南部 に あ る。 (神 功 )四 十九年条で は神功皇后 の軍 は「 と もに卓淳 国 に集 いて 新羅 を撃 ち破 る │と あ るか ら卓淳 国 は新羅征伐 の拠 点 にな って い る。 (仲 哀 )九 年 の 最 初 の新 羅征 伐 の 時 もおそ ら く卓淳 国 は拠 点 にな って い るで あ ろ う3:li7享 国 の 協 189 │ ‐ ■‐ 力を得て新羅征伐を していると思われる。 ところが卓淳国王は神功皇后 の 国 (貴 国)を 知 らないとい う。何故 であ ろうか。 このよ うに神功皇后 の新羅征伐には多 くの疑間と矛盾がある。 (2)仲 哀九年条 と『記』 『記』の方の「神功記」の構成は次 のよ うにな っている。 □ 「神功記」 (『 古事記』) a.訂 志比宮 (橿 日宮 )に 座 して熊 曽国を撃たむとす。 b.新 羅を征討す る。御杖を新羅 の国主の間に突 き立てて還 る。 c.筑 紫国に渡 り御子を生む。 d.亦 筑紫の末羅縣 の王 島里に到 る。 e.倭 に還 り上るとき、香坂王・忍熊王 と戦 う。 (九 州か らの逃亡 ) 『記』の方では神功皇后 は熊襲征伐や新羅征伐を した後に九州か ら近畿へ 逃 げて いる。九州へ もどる ことはない。『記』の方には矛盾はない。 『記 』 と『紀』の 内容を比較 してみると『記』は『紀』の (仲 哀 )九 年条 と (神 功 )元 年条 のみに対応 していることがわかる。 『紀』 のその後に対応す る 記述がない。 □「神功紀」 (『 日本書紀』 ) a.(仲 哀 )九 年二月、熊襲征伐 b.(仲 哀 )九 年四月、肥前国松浦縣の王 嶋里へ行 く。 C.(仲 哀 )九 年十月、新羅征伐 d.(仲 哀 )九 年十二月、御子生 まれる。 190 出T ― ▼ _ _ 二 LI e.(神 功 )元 年 二 月 、二 月 、九州 か ら京 へ 向か う。か ご坂皇子・ 忍 熊皇 子 と戦 う。 『紀 』 の (仲 哀 )九 年条 。 (神 功 )元 年 条 の 2年 間 と 『記 』 の記述 は一致 す る。 『記 』 の方 で も神功皇后 の一生 を記述 して い るはず で あ る。神功 皇后 の主 な 事績 は漏 れ な く書 いて い るはず で あ る。神功 皇后 が九州 か ら大和 へ 逃亡 した後 たたび九州 に来 て新 羅征伐 を して い るので あれ ば 『記 』の方 に もそれが記 にバ、 録 されて い るはずで あ る。 (3)「 神 功 紀 」 の構 成 『紀 』 で は神功皇后 は 2回 も新 羅征伐 を して い る。 しか し『紀 』 の記述 を み る と神功皇后 が新羅征伐 を 2回 も行 った とい う認識 はな い 。■回 も行 ったので あれ ば 二 度 目の ときにはそれ な りの記述が あ るはずで あ る。しか しその よ うな 記述 は ま った くみ られ な い。逆 に卓淳 国王 は三 度 目の新 羅征伐 の ときに神功皇 后 の 国 (貴 国 )が 何処 にあ るのか を知 らな い と答 えて い る。新 羅征伐 は この と きが は じめて だ った ので は な いだ ろ うか。神 功 皇后 の新羅 征伐 は 一度 で あ り、 それが 二 重 に記述 されて い るので はな いだ ろ うか。 中哀天 皇 は (イ 中 (仲 哀 )九 年条 に書かれて い る新 羅征伐 は史実 とは思 え な い。イ 哀 )九 年 二 月 に死去 し、二月 か ら十 二 月 まで の 10ヶ 月 間に熊襲征伐 と新 羅征 伐 を行 って い る。 この短 期 間 に熊襲征 伐 と新 羅征伐 をす るのは無 理 で あ ろ う。 (仲 哀 )九 年条 の 熊襲征伐 と新羅征伐 は疑 わ しい。 神功 皇后 の新羅征伐 は (神 功 )四 十九年条 の「 ともに卓淳 国 に集 いて 新羅 を 撃 ち破 る」で あ ろ う。新 羅征伐 は この一 度 だ けで ある と思 われ る。それが (仲 哀 )九 年条 に も記述 されて い るので あ ろ う。それ は次 の よ うな理 由か らで はな いだ ろ うか。 191 lmJ■ 『 仲 哀天 皇 は (仲 哀 )ノ L年 二 月 に熊 襲 に撃 たれて 戦死 して い るc仲 哀天 皇 の記 述 を この ままで終 わ らせ る と仲哀 天 皇の山i目 が 立た ない。そ こで i紀 』の編纂 者 は その 直 後 に神 功 皇后 が熊 襲 征 伐 を して 仲 哀 天 皇 の仇 を と った こ とを載 せ たので あ るの それが (仲 哀 )九 年 二 月条 の熊襲征伐 で ある。 ところが lξ 襲征伐 は新羅征 伐 と深 い 関係 にあ る。 (仲 哀 )八 年九月 、群 臣 に詔 して以 て熊 襲 を討 つ ことを議 (は か )る 3 時 に神 有 り、皇后 に託 して 曰 く、 │(仲 哀 )天 皇 よ、何 ぞ熊 襲 が服 さざるを憂 うや。 これは空国である。 この国よりも宝のある国があ る。金銀、彩色が多 くその国にある。それは新羅国とい う。吾を祭 れば刀に血を塗 らずにその国は 自ら服するであろう。また熊襲 も服 す るで あ ろ うの 」 とい う。 『紀 』 (概 略 ) 仲哀天皇は群 臣と熊襲征伐について協議 していたcそ の とき神が神功皇后に の りうつ り、熊襲征伐をす る前にまず新羅征伐を しろとい うの新羅を撃つ と熊 襲は自然に服す るであろ うとい う。 この ように熊襲征伐 と新羅征伐は対になっているc熊 襲征伐を書 くと新羅征 伐 も書かなければな らない。 この ような関係にある。 『紀』は熊襲征伐を して仲哀天皇の仇を討 ったことを記述 した。そのため新 羅征伐 も記述せ ざるを得ない。 こうして (仲 哀 )九 年条に熊襲征伐 と新羅征伐 が書かれる ことにな ったので あろ う。 「新羅征伐 Jは 神功皇后の事績であるか ら「神功紀 Jに 記述 される。それが (神 功 )四 十九年条である。 しか し仲哀天皇の仇を討 ったことを仲哀天皇が戦 死 したす ぐ後に載せたいのこうして 「新羅征伐 Jが (仲 哀 )九 年条に も記述 さ れることにな った。その結果 「新羅征伐 Jは 11重 に記述 されたのである。 この ように解釈するとすべ ての矛盾が解決する。 192 ― │ ― 神功 皇后の新羅征伐は一度 である。神功皇后 は熊襲征伐や新羅征伐を した後 たたび九州に来 るようなこ に九州か ら大和へ逃げて いる。大和へ逃げた後にも、 とはない。 斯摩宿禰を卓淳国に派遣 したとき卓淳国王が貴国 の位置を知 らな いと答え たの もこのときがは じめて の新羅征伐 だったか らである。 (仲 哀 )九 年条にあま りにも多 くの事件が集 中 しているの もその後 の事績 が まとめて書かれているか らである。 (4}復 元 された「神功紀」 「神功紀」 はこのように種 々の 問題を含 んでいる。そこで 「神功紀 Jを 正 し く復元 してみよう。 まず (イ 中哀 )九 年条 の熊襲征伐 と新羅征伐は史実ではない。したが って これ を除 く。 次に (神 功 )元 年条 の九州か ら大和 へ の逃亡は (神 功 )四 十九年条 の新羅征 伐 よりあとになる。 (神 功 )五 十二年条は百済 との交流であるcこ のH寺 点まで は神功皇后は九州にいたのであろう。 (神 功 )五 十 二年条 か ら (神 功 )六 十二 年条 までの 10年 間は神功皇后に関す る記述がない。空白期間である。 (神 功 ) 六十 二年条には武内宿禰 が責国の天皇にな っている。したが って神功皇后 はこ の 間に九州か ら大和へ逃げて いるのであろ う。 このよ うな前提で「神功紀 Jを 復元する。復元 される「神功紀 Jを 「神功本 紀 Jと する。「神功本紀」の元年は神功皇后 が貴国を建国 した 364年 である。 それ以前は (即 位前紀 )に なる。 193 l l_│ 』││I Jll □復 元 され た「神功本 紀 」 ■ (即 位前紀 ) 福井県敦賀市か ら穴 門へ 来 る。 穴門か ら橿 日宮 へ 来 る。 (362年 ) (仲 哀 )九 年 仲 哀天 皇、熊襲 との 戦 いて 戦死 ■元年 (364年 ) 熊襲 を討 ち貴国を建 国 ■三 年 (366年 ) (神 功 )四 十六年 、斯摩宿禰 を卓淳 国 へ 派遣 ■四年 (367年 ) (神 功 )四 十 七年 ■六 年 (369年 ) (神 功 )四 十九年 、新羅征伐 ■九年 (372年 ) (神 功 )五 十 二 年 、百済 、七枝 刀を献ず : (神 功 )元 年 九州 か ら大和 へ 逃 亡 ■二 十 六 年 (389年 )(神 功 )六 十九年 、神功 皇后死去 ■ c 「神 功本 紀 Jで は神功皇 后 は 1元 年 」か ら │二 十六年 二まで の 26年 間の在 位 とな る。 「 神功紀 Jで は神功 皇后 は 69年 間 も在位 して い る。 この 問題 も解 決す る。 また「 神功本紀 」は 364年 ((神 功 )四 十 四年 にあた る)か らは じまるので (神 功 )十 二 年か ら (神 功 )四 十六年 までの す る。 4 神功皇后 の年齢 {1}神 功皇后 の崩年 神功 皇后 は (神 功 )六 十九年 に死去す るc 194 33年 間 も空 白とい う問題 も解 決 (神 功 )六 十九年四月、皇太后、稚桜 宮において崩ず。時に年一百歳。 (中 略 )是 年己丑。 『紀』 (神 功 )六 十九年は 2運 くり下げると 389年 である。 (神 功 )六 十九年条には「是年己丑」とある。「 己丑年 Jは 389年 である。 年代 が一致する。「神功紀 Jは 干支に基づいて正確に記述 されているといえる。 神功皇后が (神 功 )六 十九年 (389年 )に 死去 したのは史実であろ う。 (2}神 功皇后 の年齢 神功皇后 の年齢について考えてみよ う。 『記』『紀』はともに神功皇后は「一百歳 Jで 死去 したと書 いて い る。神功 皇后 は 389年 に死去 しているか ら 100才 で死去 した とすれば 289年 に 生まれたことになる。 しか し当時の平均寿命は 50才 くらいで ある。100才 まで生きたとは思え ない。「一百歳」は 2倍 年暦であろう。神功皇后は 50才 で死去 したとすれば 丁度当時の平均寿命である。 神功皇后は 389年 に 50才 で死去 したのであろ う。そ うであれば生まれた のは 339年 である。 仲哀天皇 は 362年 に死去 してい るか ら神功皇后 はその とき 23才 で あ る。 □ 神 功 皇 后 の年 齢 ■ 339年 ……・ 生 まれ る ■ 362年 ・… … ■ 389年 ……・ 23才 50才 (0才 ) 仲哀天 皇 の死 神功皇后死去 195 │ , │ 11』 ││ロ (3)(仲 哀 )九 年条 と神功皇后 神功皇后 は 339年 に生 まれて い る3339年 は (神 功 )1・ 九年 にあた る。 (神 功 )元 年 には神功皇后 は まだ生 まれて いな いЭ (仲 哀 )九 年 ((神 功 )元 年 の 前年 )条 で、神功 皇后 は熊襲征伐 や新羅征 伐 を して い るが神功 皇后 は生 まれ る前で あ る。や は り (仲 哀 )九 年条 の 熊襲征伐 や新羅 征伐 は史実 で はな い。 いわゆる「三韓征伐」 につ いて (1)「 三韓征伐」 とは (仲 哀 )九 年十月条 の新 羅征伐 の記 事 の 最後 に │こ れ いわ ゆ る三韓 な りJ あ る。 (仲 哀 )九 年十月 、 (神 功 )皇 后 の所杖 (つ 樹 (た )け る矛 を新羅 王の 間 に )て 後 葉 の 印 と為す。故 、 その 矛 は今 も猶 、新羅 王 の 間 に樹 て り。 ここに新 羅 王 波沙来錦 (は さむ きん )、 即 ち微 叱 己知 波珍 千 岐 (み しこちは と りか ん き )を 以 て 質 と為す 。 (中 略 )新 羅 王 、常 に八 十 船 の 調 (み つ ぎ )を 以 て 日本 国 に貢 ぐ。 ここに 高麗 ・ 百済 の 二 国 王 、新 羅 が 日本 に降 る と聞 き、密 か にその軍 勢 を伺 わ しむ。す なわ ち勝 つ ことの 無 い ことを知 り、 叩頭 (の 196 )み て 曰 く、 「 今 よ り -7 ________― 】L ―一 ¨ _ I]■L__11_ 以後 は西蕃 と称 し、朝 貢 を絶 た じJと い う。 よ りて 内官家 屯倉 (う ちつ みや け )を 定 め る。 これ いわ ゆ る三韓 な りЭ 「紀 』 この記 事 は「新 羅征伐 」とい われて い るが「 これ いわゆ る三韓 な りJと あ る ことか ら「三 韓征伐 Jと もい われて いる。 ところが後 半 には新羅 を含 めて高麗・百済 も 日本 に帰服 した とあ るc新 羅 ・ 高麗 (高 句麗 )。 百済 は「三 国」で あ り、「三 韓 Jで はな い 。「 三韓 」は馬韓 ・ 辰韓 ・ 弁韓 で あ る。 「 「是 れ い わゆ る三韓 な り」 とあるか ら 三 国 」で はな く「 三韓 Jの ことで あ ろ う。神功 皇后 (日 本 )が 高句麗 を征伐す るはず はな い。 (2}三 韓 とは (仲 哀)九 年十月条の新羅征伐 (三 韓征伐)は (神 功)四 十九年条の新羅征 伐 のことである。 (神 功 )四 十九年条には平定 した国名が書かれて いるc (神 功 )四 十九年 (369年 )二 月、荒田別・鹿我別を以て将軍 と為 す。則 ち久氏等 と共に、兵をととのえ渡 り、卓淳国 に至 り、将 に新 羅を襲わん とす。 (中 略 )と もに卓淳国に集 い新羅を撃ち破 るの よ りて比 自体 。南加羅・ IIF国 。安羅 ・多羅・ 卓淳・ 加羅 の七 国を平定 『糸己̀ す。 l 平定 した国 は比 自体・ 南加羅・ 味国 。安羅 。多羅・ 卓淳・加羅 の七 国 で あ る。 『紀 』 は これ を 「卓淳 国 に集 い新 羅 を撃 ち破 るJと 書 いて い る。 これが 1新 羅 征伐 Jで あ る。 ところが平 定 した国の 中 には新羅 はな い。新羅征伐 とはいえ な いc「 新 羅征 伐 」で はな く「七 国平定 」 で ある。 197 1 11」 七国 は朝鮮半 島南部 の 国 々で あ る。任那 といわれ た地 域 で あ る。任那 が滅亡 した ときの記 事 に これ らの国 々の名前が 出て くる。 (欽 明 )二 十 三 年 (562年 )、 新羅 、任那 の 官家 を打 ち滅 ぼす 。 一 に云 う、 二 十 一 年 に任那滅 ぶ 。総 じて任那 とい う。別 (わ け )て は加羅 国 。安羅 国・ 斯 二 岐国 。多羅 国・ 卒麻 国 。古嵯国 。子他 国 ・ 散半下 国・ 乞詮 国 。稔膿 国 とい うの合わせ て十 国な り。 『糸 己l 任那 の 中に加羅国・ 安羅国 。多羅国がある。「七国」の中に も安羅 。多羅 加羅がある。 「七国」はやは り任那 であ り、新羅 ではないことがわかる。 (欽 明 )五 年条に も任那の国 々が出て くる。 (欽 明 )五 年十一月、百済、使いを遣わ し日本府・任那 の執事を召 し て曰 く、「今、 日本府 の 臣、および任那国の執事、来 た りて勅を聴 き、同 じく任那を議 (は か )れ 」とい う。 日本 の吉備臣、安羅の 下 早岐大不孫・久取柔利 、加羅の上首位 古殿笑 ・卒麻君・ 斯二 岐君・ 散半笑君の児、多羅の二首位詑乾智、子他の早岐、久嵯 の早岐、よ りて 百済 へ 行 く。 1糸 己 │ 日本府 と任那の執事が出て くる。日本府の臣は吉備臣である。それ以外はす べ て任那 の国 々である。その 中に安羅 。加羅・多羅 ・卒麻・斯 三岐・散半笑・ 子他等がある。朝鮮半島南部の国 々である。 ここに もやは り新羅はない。 (仲 哀 )九 年条 の 1新 羅征伐 (三 韓征伐 )│や (神 功 )四 十九年条 の「新羅 征伐」は誤 りである。「新羅征伐 Jで はな く任那 の「七国平定 Jで ある。 198 l . │ l lI― (3)「 六 国 平 定 」 「七国Jの 中に多羅国が含 まれている。 ところが 『 日本書紀』の版本 の 中に は「七国Jの 中に「 多羅国 Jが 入 っていない もの (北 野本 ・ 熱田本・ 伊勢本 ) があるとい う (岩 波書店 の『 日本書紀』の註 )。 信頼性 の高 い北野本・熱田本・ 伊勢本 に多羅国がないのは重要である。 神功皇后は多羅族 である。多羅族が同 じ種族の多羅国を伐 つ はずはない。し か も多羅国は内陸にある。他の国 々は朝鮮半島の南岸 にある。多羅国のよ うな 内陸まで進撃するとは思われな い。貴国は 364年 に新 しく建国されたばか り の国であ り、中国東北地方か ら逃げてきた人 々が樹立 した国である。朝鮮半島 の 内陸部まで侵攻す るだけの軍事力や経済力があるとは思えない。平定 したの は朝鮮半島南部の海岸よ りの地域であろう。│七 国Jか ら多羅国は除 くべ きで ある。 「七国平定 Jで はな く「六 国平定 Jが 史実 であろ う。北野本・熱田本・ 伊勢本 の方が史実を正 しく伝えて い ると思われる。 6 「 七支刀」 (1)七 支 刀 とは (神 功)五 十二年条に百済は七枝刀と七子鏡を献 じるとある。 (神 功)五 十二年九月、久氏等、千熊長彦に従い詣る。則ち七枝刀一 日・七子鏡一面、及び種 々の重宝を献 じる。 199 『紀』 1 11Л この ときの七枝 刀 と思 われ る刀 が奈 良県 天 理 市 の 石上 神 社 に伝 え られ て い る。表裏 には金象嵌 の 銘 が あ りこれ に「七 支刀 Jと あ る。 図 18七 支刀 (『 稲荷 山古墳 と埼 玉 古墳群 』 (三 一 書房 )よ り) 銘文 には判読不 能 な文 字が あ り、多 くの学者が それ を補 い なが ら解 釈 して い る。そのため 異説 が多 い。宮崎市定氏 は 『謎 の七 支刀 』 (中 公新 書 )の 中で銘 文 や その解釈 、 お よび 自説 を紹介 して い る。 〇七支刀 の銘文 (表 面 ) ■泰□ 四年五月十六 日正 陽 造百練 鋼七支刀 □辟 百兵 宜供供侯王□□ □□□ (裏 面 ) ■先代以来未 有此刀 百涼 世子 奇生 聖徳 故 為倭 王 □造 伝 示後世 〇宮 崎氏 の解釈 (表 面 ) ■泰 始 四年 (468年 )夏 の 中月 な る五月 、夏 の うち最 も夏 な る 日の十 六 日、火徳 の旺ん な る丙午 の 日の正午 の亥1に 、百度鍛 え た る鋼 の七 支刀 を 造 る。これ を以 て あ らゆ る兵器 の害 を免 れ るで あ ろ う。恭謹 の徳 あ る侯 王 に栄 え あれ 、寿命 を長 くし、大吉 の福祥 あ らん ことを。 (裏 面 ) ■先代以来未 だ此 の ご とき刀 はなか った 。百済 王世子 は奇 しくも生 まれ な が らに して聖徳が あ った cそ こで 倭 王 の為 に嘗 (は じ)め て造 った。後 世 に伝示 せんか な。 200 {2)年 号 の問題 七支刀 の銘文 には最初 に年号がある。第 1字 は「泰 Jで あるが第 2字 は判読できないとい う。 そのためいろい ろな説が出されて いる。宮崎氏は それ らを整理 して紹介 している。 西晋 268年 口「泰初 (=始 )四 年」説 西晋 268年 ■「泰始四年」説 菅政友、高橋健 自 喜田貞吉、大場巌雄 ■「泰 (=太 )和 四年」説 東晋 369年 福田敏男、枢本社人、西 田長男、三 品彰英、 栗原朋信 ■「泰 (=太 )和 四年」説 北魏 480年 李進熙 ■「泰和四年」説 百済年号 金錫亨 図 18七 支 刀 現 時点 で は「太和 四年 」説が最有力 で あ る。「 太和 四年 作 し、3年 後 の (神 功 )五 十 二 年 (369年 )Jに 製 (372年 )に 献 じた とい う ことにな り、『紀 』 の年代 と も合 う。 201 ,1 _■ ― この説 では年号 の「太和」を七支刀では「泰和Jに 変更 していることになる。 第 1文 字 の「泰」を「太」の字 の借字 とする。 これについては「泰 Jと 「太」は字音 も意味 もまった く同 じであ り、古来相 通 じて用い られたとい う。栗原朋信氏は「太和 Jを 「泰和」としている例をあ げて いるとい う。 ○東晋 の海西公 の年号 ■『晋陽秋』 …… 1太 和 J ……泰和 ■『晋起居注』 ……・泰和 ■『隋書』「経籍志 J… …・『晋泰和起居注』 (3)私 の 説 と七 支 刀 七支刀の年号が「太和四年 (369年 )」 であるとすれば私にとっては大き な問題である。七支刀に「倭王」とあるからである。私は「倭Jの はじま りは 398年 か らであると考えている。 369年 に 1倭 王Jが 出て くると私の説は 根底か ら崩れる。 (神 功 )五 十 二 年条 の「七枝 刀 │が 石上神 宮 の i七 支刀 」で あ り、 しか も「 太 和 四年 (369年 )Jに 作 られ て (神 功 )五 十 二 年 (372年 )に 日本 に献 じ られ た ので あれ ば私 の 説 は再 検 討 しな ければな らない。 (4)宮 崎市定説 宮 崎氏 は同書 の 中で 「 太和 」説 に異 議を唱え て い る。 202 a.泰 和年号について 中国の年号は「大和」である。その「太和」年号を七支刀では「泰 和」に していることになる。百済は中国王朝か らみると藩国である。 その藩国が中国王 朝 の年号を書き換えて後世 まで証拠に残 る金石 の 上に「泰和 Jと 彫 らせ るとは常識では考え られない。 b.「 五月十六 日Jの 意味 七支刀には「五月十六 日正陽」とある。銅鏡 では「五月丙午 Jが 慣 用句 とな っている。火力が もっとも盛んな時をい う。旧暦 の夏 は 4 月、 5月 、 6月 である。 中の月である 5月 が もっとも火気が旺んな 月である。その中で「丙午」の 日は「丙」が 「 ヒノエ =火 の兄」で あり、「午」は正 南方、すなわち太陽 の方角にあたる。夏の 日の中 で もっとも夏 日である日時をい う。 「五月十六 日」が問題である。十六 日は夏二月 (4、 5、 6月 )の 中 日をい うので あろう。十六 日が夏 二月 の 中日になる年号を調べ れば よい。月には大 (月 )月 ヽ(月 )が ある。 ○ 「五月十六 日」が夏二月 の 中国になる年号 ■南朝宋 の泰始四年 (468年 ) 4月 (小 月 )、 5月 (大 月 )、 6月 (大 月 ) 二月間の 日数は 89日 であ り、 その 中 日は五月十六 日である。それ 以前に 44日 、以後に 44日 がある。 その他 の説 では中 日はすべて「五月十五 日」になる。東晋 の大和四 年 も中日は五月十五 日である。 ■東晋 の太和四年 (369年 ) 4月 (大 月 )、 5月 (大 月 )、 6月 (小 月 ) 203 1 11マ WL_ c.諄 を避 ける風習 銘文 には百済が「 百濾」 とな っている。「濾 Jは 字書 にも無 い字 で ある。何故 自国の 国名を「百済 Jと せ ずにわ ざわ ざ字書にもない字 を使 っているのであろうか。宮崎氏は倭 王済 の諄を避 けるために「百 済 の済」を「濾 Jに したのであろ うとい う。 「太和四年 (369年 )J説 ではこの 説明ができない。 d.百 済 の朝貢のは じま り 百済がは じめて晋王朝に朝貢するのは咸安二年 太和四年 (372年 )で ある。 (369年 )は それよ り 3年 も前である。朝貢す る前か ら 晋 の年号を使 っていることになる。 宮崎氏 は この よ うな理 由を挙 げて 1大 和 四年 」説 に反 対 し、1泰 始 四年 (4 8年 )J説 を 唱えて い る。 (5)金 廷鶴説 金廷鶴氏 は 『百済 と倭 国』 (六 興 出版 )の 中で次 の よ うに述 べ て い る。 a.中 国年号 の使用 泰和 (大 和 )四 年 説 で は 369年 に百済 は東 晋 の 年 号 を使 った こ と にな る。 しか し百済が 初 めて東晋 に遣 使 し、 その 爵号 を もら った の はそれ よ り 3年 後 の 372年 で あ るの 中国 の 慣例 は 中国 王 朝 の研 封 を受 け た 時 に暦 書 を授 け られ 、 その 年 号 を使用 す る ことに な って い る。 中国 王 朝 の年 号 を使用す る ことは その王 朝 の 勝封 を受 け た しる しで ある。 204 │lll l ‖ 11■ ■口Hll1 1‖ b.3年 11_ 1 日閥鵬ユ ▲ │ Jl T'」 L : _ 間 の保 留 百済は 369年 に七支刀をつ くり 3年 後 (372年 )に 日本 へ お く ったことになる。 ところが 『紀』による と 369年 の翌年 の二月 に 「荒 田別等が百済よ り還 ったJと あり、また夏五月に「 千熊長彦・久 (371年 )に 「百 済王 、亦久 氏をつ かわ し朝貢す Jと ある。 369年 に七支刀が作 ら れて いるとすれば 370年 、 371年 と続 けて 日本 へ使 いをつかわ 氏等、百済 よ り至 る」とある。また、その翌年 していなが ら何故七支刀をお くらなか ったのであろうか。 (6)鈴 文 化 日 と長 剣 文 化 圏 七支刀とともに「七子鏡」が献 じられている。七子鏡は銅鏡の周囲に7個 の 鈴 を つ けた もので あ ろ う。 (神 功 )五 十 二 年九月 、久氏 等 、千熊長彦 に従 い詣 る。則 ち 七枝 刀 口・ 七子鏡一 面、及 び種 々の重宝 を献 じる。 森浩一氏は『甦る古代へ の道』 (徳 間書房 )の 中で 「鈴文化圏J ‐ 「紀 」 1長 剣文 化圏 Jに ついて次のように述べ ている。 a.長 剣文化 圏 埼 玉 県 行 田市 の 稲 荷 山古墳 出 土 の 鉄 剣 は 日本 で は数 少 な い長 剣 で す。栃 木県 小 山市 の桑 五七号 墳 か らも 73cmと い うほぼ 同寸法 の 長剣 が 出て い る。 長野 県 の 諏訪神 社 に近 い フネ古墳 か らは蛇 行鉄 剣 (72.5cm)が 出て い ます 。この 3本 は奇 しくも 73cm内 外 で 形 も変 わ って いた り、金 象嵌 されて いた りで 、 い うなれ ば 異様 な貪」な ので す 。七支刀 も 74.8cmと ほぼ 73cmに 近 い。 205 I1 1 11lⅢ I 埼玉、栃木、長野にまたがる異形の「長剣文化 圏Jが あるc b.鈴 付き馬具 稲荷山古墳か らは鈴付 きの帯金具、鈴付 き杏葉 (馬 の胴 につ り下げ る飾 り)や 環鈴が出土 している。杏葉 の 古い例は 5世 紀後半 とみ ら れる和歌山市の大谷古墳か ら出土 した ものです。 c.鈴 文化圏 稲荷 山古墳か らは鈴付帯金具・鈴付杏葉・環鏡 のほかに、鈴鏡を腰 につ けた女性 の埴輪が濠か ら出て います。 「鈴」を非常 に大切にす る文化があ ったことをあ らわ しています。栃木県小山市の桑五七号 墳 か らは鈴その ものが 出て い ますc 鈴鏡 とは銅製の鏡 の周囲に鈴をつ けた ものを い う。鈴鏡や鈴杏葉は 長野・群馬・栃木・埼玉などにかたまっている。これを 1鈴 文化圏J と呼びたい。 d.長 剣 と鈴文化 圏 鈴文化圏は重要な問題を 内包 している。一つ は長剣の問題です。 7 3cm内 外 の異様な長貪1の 分布は鈴鏡を必要 とした地域 と重な りま す。時期 もほぼ同 じです。 e.百 済 との関係 百済のテ リ トリーにあたる全 羅北道 の金城里の石椰墓か ら 75cm の蛇行鉄剣が出土 してお り、その くね り方が フネ古墳や兵庫県泉町 の亀山古墳 の もの と酷似 してお り、桑五七号墳 の もの とも類似 して い ます。 また鈴 鏡 と一脈通 じる八鈴 の銅製品がのちの百済 のテ リ トリー (全 羅南道 の大谷里 )か ら出土 しています。 日本の文化圏 の 問題を考え る場合、百済 の地が重要にな って きます。 f.七 支刀 の年代 石上神宮の 七支刀について、年代 は泰和四年を東晋 の太和四年 と し て 369年 にあてること も再検討の必 要性がお こ りそ うです。 とい 206 うのは 73cm前 後 の異様 の長剣がいずれ も 5世 紀 中頃か ら 6世 紀 の前半 の古墳に副葬 されているか らです c 森浩一氏 はこのように述べているЭ 宮崎市定氏や金廷鶴氏や森浩一氏 の研究か ら 1太 和四年 (369年 )J説 は 成立 しないで あろう。七支刀 の年代は 5世 紀 中頃とす るのがよいと思われる。 宮崎説 の「泰始四年 (468年 )」 説が可能性は高 い。 そ うであれば (神 功 )五 十二年条は捏造 されたことになる。七支刀は (神 功 ) (372年 )に 献 じられたのではない。「七支刀」に「倭王Jと ある の も 369年 ではないとい うことになる。私 の説 も影響を受 けない。 五十二年 しか し (神 功 )五 十二年条はその前 の記述 と関連があ り、捏造され たと も思 えないところがある。 (神 功 )五 十二年条は自説 とは矛盾するが完全には捨て きれな い。七支刀 の銘文には判読不明な文字 もあるので現時点では (神 功 )五 十二年条は残 された課題 と しておきたい。 207 l 第 2章 「 応神紀」 と「仁徳紀」の年代問題 209 1 'l LE___ 『 日本書紀Jの 年代問題 (1)「 応神紀」の実年代 「神功紀 」の紀年 は 2運 (120年 )く り下 げ る と実年代 に合 う。「神 功紀 J の次 は「応神紀 」で あ る。「応神 紀 Jも 2運 (120年 )く り下 げる と実年代 と合 う。 「 神功紀 Jは (神 功 )六 十九年 (389年 )で 終 わ るか ら (応 神 )元 年 は 3 90年 にな る。 (応 神 )三 年条 に次 の記 事が あ る。 (応 神 )三 年 、是歳 、百済 の辰斯 王立 ちて貴 国 の 天皇 に礼 を失す。故 、 紀角宿 禰 。羽 田矢 代宿禰 ・ 石 川宿禰 。木菟宿禰 を遣 わ し、其 の礼 な き状 を噴譲 (せ )め る。是 に よ り百済 国 は辰 斯 王 を殺 して謝 す。紀 角宿禰 等 は阿花 王 を立て 王 と為 し帰 るc 『糸己』 (応 神 )三 年条 に「 阿花 王 を立てて王 と為 し帰るJと ある。阿花王の即位 は 390年 であるか ら (応 神 )三 年 は 39 『 2年 になる。 三 国史記』をみると阿華王 (阿 花 王 )の 即位はやは り 392年 (応 神 )三 年である。 (応 神 )元 年は である。 (応 神 )十 六年条 も実年代 と合 っている。 (応 神 )十 六年、是歳、百済の阿花王莞る。天皇、直支 (と き)王 を 召 して謂 いて曰 く、「汝、国へ返 り位を嗣げ」 という。 210 『紀』 (応 神 )十 六 年 に「 百済 の 阿花 王が 莞 るJと あ る。 (応 神 )元 年 が 390年 で あ るか ら (応 神 )十 六年 は 405年 にな る。『二 国史記』をみ る と阿華王 (阿 花 王 )の 死 去 は 405年 で あ る。 この よ うに 「応神紀 」 も 2運 (120年 )く り下 げ る と実 年代 に合 う。 (2)「 応神紀」の年代 のずれ 「応神紀」の年代は (応 神 )十 六 年までは実年代 に合 っているの ところがそ の後は実年代 と合わな くなる。 (応 神 )十 六年 (405年 )に 阿花王は死去 し、直支 (と き)王 が即位す る。 その直支王は (応 神 )二 十五年条に死去するとある。 (応 神 )二 十五年、百済 の直支王莞 る。 『糸 己』 (応 神 )十 六 年 は 405年 で あ るか ら (応 神 )二 十 五 年 は 414年 にな る。 ところが 直支 王 の死 は 『三 国史記 』に よる と 420年 で あ る。 420年 は (応 神 )三 十 一 年 にな る。『紀 』の紀年 は (応 神 )二 十 五 年 にな る と 6年 のず れ を 生 じて い る。 (3)(雄 略)二 十年条 『紀 』 の紀年 は (神 功 )四 十六年 年 )ま で は 2運 (120年 )く (366年 )か ら (応 神 )十 六年 (405 り下 げる と実年代 に合 う。 ところが (応 神 )十 六 年以 降 は実年代 とずれて い る。歴史 を復 元す るには年代 の復 元 か ら しな けれ ばな らな い。 どこか らどの よ うにず れて い るか を究 明 し復 元す る必 要が あ る。 211 それを調べ るには実年代の確実な記事を探 し、前後か ら絞 ってい くのがよい であろ う。 『紀』の 中で実年代 と『紀』の紀年が一致 している確実な記事は (雄 略 )二 十年条 である。 ■ (雄 略)二 十年冬、高麗王 、大 いに軍兵を発 し、百済を ことごと く伐つ。 (中 略 ) 『百済記』 に云 う、蓋歯王の乙卯年 (475年 )冬 、狛 (高 句麗 )の 大 軍が来て、大城を攻める こと七 日七夜。王城降陥 (や ぶ )れ て遂に尉膿 を失 う。国王 、及び大后・ 王子等、皆敵 の手に没す。 『紀』 百済は高句麗 (高 麗 )に 攻め られて城は落ち、国王 。大后・王子等が敵 の手 に落ちたとい う。百済は このとき一 時滅びて いる。 475年 のことである。 (雄 略 )二 十年条には前年 の事が書かれて いる。 (雄 略)十 九年が乙卯年 (4 75年 )に あたる。 (雄 略 )十 九年は『紀』 の紀年 で も 475年 である。『紀』の紀年 と実年代 が一致 している確実な年代である。 ■ (雄 略 )十 九年 = 475年 (4)天 皇 の在位年数 と実年代 実年代が確実なのは (応 神 )十 六 年 (405年 )と (雄 略 )十 九年 (475 年 )で あるcこ れを もとに して年代のずれを探 して行 けばよいc 関係 の ある天皇は 15代 応神天皇か ら 21代 雄略天皇である。これ らの天皇 の在位年数は次のようになっている。 212 ││ │: '171・ .1 1 1 1司 ・'「 J● ハ _ □天皇 の在位年数 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 15代 16代 17代 18代 19代 20代 21代 天皇 在位年数 応神天皇 仁徳天皇 41年 87年 履 中天皇 6年 反 正 天皇 5年 允恭天皇 42年 安康天皇 3年 雄 略天皇 23年 (応 神 )十 六 年 (405年 )か ら (雄 略 )十 九年 (475年 )ま で の 『紀 』 の紀年 (天 皇 の在位 年数 )に よる年数 は次 の よ うにな る。 ○ 『紀 』 の紀年 によ る (応 神 )十 六 年か ら (雄 略 )十 九年 まで の年数 15代 16代 17代 18代 19代 20代 21代 応神天皇 仁徳天皇 26年 (十 六年 か ら四十一年まで ) 87年 反 正天 皇 6年 5年 允恭 天皇 42年 履 中天 皇 安康 天皇 雄 略天皇 合計 3年 19年 (十 九年まで ) 188年 188年 にな る。 ところが (応 神 )十 六 年 は 405年 で あ り、 (雄 略 )十 九年 は 475年 で あ で あ る。 るか らこの 間 は 475-405+1=71年 71年 が 『紀 』の紀年 で は 188年 にな って い る。『紀 』の年代 は「応神紀 」 (応 神 )十 六 年 か ら (雄 略 )十 九年 まで は 『紀 』の紀年 で は か ら「雄 略紀 Jの 間で大 き く狂 って い るc 213 │ ‖ 2 'JI 『古事記Jの 崩年干支と『 日本書紀」 (1)崩 年干支 のある天皇 『古事記』には一部の天皇に崩年干支が書かれている。水野裕氏は崩年 干支 か ら崩 年を求めている。水野裕氏の『 日本古代の国家形成』 (講 談社現代新書 ) の表に天皇名を追加 したのが次 の表である。 □『古事記』の崩年千支 のある天皇 と崩年 漢風 誼号 (天 皇名 ) 崩年千支 崩年 ■崇神天皇 (御 真木入 日子印恵 ) 戊寅 ■成務天皇 (若 帯 日子 ) 乙卯 ■仲 哀天皇 (帯 中 日子 ) 壬成 ■応神天皇 (品 陀和気 ) 甲午 ■仁徳天皇 (大 雀 ) 可 ■履 中天皇 (伊 邪本和気 ) 壬申 ■反 正 天皇 (水 歯別 ) ll 丁― ■允恭天皇 (男 浅津間若子宿禰 ) 甲午 ■雄 略天皇 (大 長谷若建 ) 己巳 318年 355年 362年 394年 427年 432年 437年 454年 489年 527年 535年 584年 587年 592年 628年 ^J日 ■継体 天皇 (衰 本抒 ) ■安 閑天皇 (廣 国押建金 日) 未 「 乙卯 ■敏達天皇 (沼 名倉太玉敷 ) 甲FFK ■用 明天皇 (橘 豊 日) 丁未 ■崇 峻天 皇 (長 谷部若雀 ) 壬子 ■推 古天皇 (豊 御食炊屋 比売 ) 戊子 214 ― ・ J口L′ ― ― ― ― ――― ▲JL 工 ― (2)「 安康 紀 」 の 実年代 (雄 略)十 九年は 475年 である。これから遡り『紀』の紀年のずれている ところを探 していこ う。 (雄 略 )十 九年は 475年 であるか ら (雄 略)元 年を求めると 457年 にな る。 ■ (雄 略 )元 年 …… 「 457年 J(推 定 ) ■ (雄 略 )十 九年 …… 475年 第 21代 雄略天皇の前は第 20代 安康天皇である。安康天皇の実年代を調べ よう。 安康天皇には崩年千支がない。しか し雄略天皇 の元年は 457年 であ ろうと 推定 される。安康天皇は 457年 か、その前年に死去 していると思 われる。 安康天皇の即位年は第 19代 允恭天皇の崩年がわかればよい。允恭天皇には 崩年千支があ り、その崩年は 454年 である。次の第 20代 安康天皇は第 19 代允恭天皇が死去 した翌年 に即位 したとす ると安康天皇の即位は 455年 に なる。 第 21代 雄略天皇 の (雄 略 )元 年は 457年 であると推定 されるので安康天 皇の在位は 455年 -457年 の 3年 間となる。 『紀』は安康天皇の在位期間を 3年 と記 している。 『記』の崩年千支か ら求 めた安康天皇の在位期間と『紀』の在位期間は一致する。 19代 ■第 20代 ■第 20代 ■第 21代 ■第 21代 ■第 允恭天皇の崩年 …… 安康天皇の即位 …… 安康天皇の崩年 …… 雄略天皇の即位 …… 雄略天皇十九年 …… 215 454年 455年 457年 457年 475年 (推 定 ) (在 位 3年 ) 上 ■ ___ _ハ 19代 允恭天皇 の崩年 (454年 )か ら (雄 略)十 九年 (475年 )ま で 第 見事 につ ながることが判明 した。 これによ って (雄 略)元 年 は 457年 でよい ことが立証 された。 「安康紀」の実年代 は次のようになる。 □「安康紀 │ の 実年代 (安 康 ) 元年 (安 康 ) 二 年 (安 康 ) 二 年 455年 456年 457年 (注 )安 康天皇 の 即位年 は允恭 天皇 の崩年 の 454年 で もよ い。 この 場 合 は安康天 皇 の在 位 は 454年 か ら 456年 の 3年 間 とな り、雄 略天 皇 は 翌年 の 457年 に即位 した ことにな る。しか し安康 天 皇 は眉輪王 に よ っ て殺 されて い る。異常 な事態で あ る。この よ うな場合 は雄 略天皇 は安康 天皇 が殺 され た年 に即位 した と考 えて よいで あ ろ う。 「安康紀 」 は実年代 に合 って い るといえ る。 「 安康紀 Jに は年代 を狂 わせ る 要素 はな い 。 (3)履 中 0反 正天皇 の在位 と崩年干支 さ らに遡 り第 17代 履 中天皇 。第 18代 反 正 天 皇・第 19代 允恭天 皇の実年 代 につ いて調 べ て み よ う。 『紀 』 は履 中天皇 と反 正 天 皇 の在位 年数を 6年 、 5年 と書 いて い る。 第 16代 仁徳天 皇 の崩年 は 427年 432年 で ある。履 中天皇 は 427年 で あ る。次 の第 17代 履 中天皇 の 崩年 は に即位 し、 432年 に死 去 した とす れ ば 216 :L■ 履 中天 皇 の在位 は 427年 -432年 Ш J■ ■ ■ ■ の 6年 間 とな る。 『紀 』の記 す在 位年 数 (6年 )と 一 致す る。 崩年 干支 。第 。第 16代 仁徳天皇 17代 履 中天皇 ○履 中天 皇 の在 位期 間 崩年 427年 壬申 432年 427年 -432年 丁卯 次 の第 18代 反 正天皇 の崩年は 437年 である。第 た翌年 (6年 間 ) 17代 履中天皇が死去 し (433年 )に 即位 したとす ると反正天皇の在位期間は 433年 -43 7年 の 5年 間となる。これ も『紀』の記す在位年数 と一致す る。 「履中紀 Jと 「反正紀 Jの 実年代は次 のよ うになる。 [∃ 「履 中紀 」 の実年代 (履 中 ) 元年 (履 中 ) 二年 (履 中 ) 二年 (履 中 ) 四年 (履 中 ) 五年 (履 中 ) 六年 427年 428年 429年 430年 431年 432年 □ 「反正 紀 J の実年代 (反 正 ) 元年 (反 正 ) 二年 (反 正 ) 二年 (反 正 ) 四年 (反 正 ) 五年 次 に第 433年 434年 435年 436年 437年 19代 允恭天皇 は第 18代 反 正 天 皇が死去 した翌年 (438年 )に 即 位 した とす る。允 恭 天皇 の崩年 は 454年 で あ るか ら允恭 天 皇の在位期 間 は 4 38年 -454年 とな る。 217 1 l lJ これ まで に判明 した天皇 の在位期 間 と在位年数 は次 の よ うにな る。 在 位期 間 日 16代 仁徳天 皇 ■ 17代 履 中天 皇 ■ 18代 反 正 天皇 ■ 19代 允恭 天皇 ■ 20代 安康 天皇 ■ 21代 雄 略天 皇 『記 』 の 崩年 干支 は第 -427年 427年 -432年 433年 -437年 438年 -454年 455年 -457年 (即 位 =457年 ) 在位 年数 (6年 (5年 (17年 (3年 間) 間) 間) 間) 16代 仁徳 天皇 か ら第 19代 允恭 天皇 まで の す べ て を 使用 して い る。 ○使用 した 『記 』 の崩年干支 ■ 16代 仁徳天皇 丁卯 ■ 17代 履 中天皇 壬申 ■ 18代 反 正 天皇 丁丑 目 19代 允恭 天皇 甲午 427年 432年 437年 454年 『記 』 の 崩年千支 か ら『紀 』 の実年代 を求 め る こ とがで きた。 『記 』 の崩 年 千支 は正 しい といえ る。 (4)允 恭天皇 の在位年数 の問題 第 17代 履 中天皇 か ら第 21代 雄 略天 皇 まで をみて きた。「 履 中紀 J、 「反 正 紀 J、 「 安康紀 」は 『紀 』 の在位 年数 と一致 して い るの ここには 『紀 』 の年 代 を狂 わせ る要素 はないc「 雄 略紀 Jに も問題 はな い。 218 ▼ ' ・ ところが「允恭紀」には問題があ る。『紀』の允恭天皇 の在位年数 は 42年 である。『記』の崩年干支か ら得 られた允恭天皇 の在位 は 438年 -454年 の 17年 間である。42年 -17年 =25年 間の誤差がある。「允恭紀Jは『紀』 の年代を 25年 狂わせている。 「允恭紀」 には空 白期間が多 い。 ○「允恭紀 Jの 構成 ・ 元年 ・ 二年 ・ 三年 ・ 四年 ・ 五年 ・ 七年 ・ 八年 ・ 十年 十一年 ・ ・ 十四年 。二十三年 ・ 四十二年 「允恭紀」は (允 恭 )十 四年か ら (允 恭 )二 十二 年 までの 10年 間が空 自で あ り、 (允 恭 )二 十 三年か ら (允 恭 )四 十二年までの 20年 間も空 自である。 42年 間の在位期間の うち 30年 間が空 白である。 30年 間の空 白は『紀』の在位年数 (42年 )と 『記』の崩年千支か ら求め た允恭天皇の在位年数 (17年 )の 差である 25年 に近 い。「允恭紀」の在位 期間は実際は 17年 間ではないだろ うか。『紀』はそれを 42年 間に水増 しし ているのであろう。そのため 30年 間の空 自期間ができていると思われ る。 219 ll 口 │11:l (5)4世 紀 -5世 紀 の天皇 の在位期 間 4世 紀 -5世 紀 の 人 lilに つ いて そ の 在 位 期 間 を ま とめ る と次 の よ うに な るc ■ ■ ■ 崇神天 皇 垂仁天皇 景行天 皇 成務天皇 反 正天 lil ■ 19イt 允恭 天 皇 20代 21代 安康 人 lil ■ ■ ■ ロ 応神天 皇 400年 頃 427年 433年 438年 455年 457年 仁徳天皇 履 中天皇 雄 略大 11 一 一 一 ■ 15代 16代 17代 18代 ロ 364年 仲哀 天皇 神功 皇后 ■ 285年 頃 319年 310年 頃 333年 頃 一 一 一 一 ロ 10代 11代 12代 13代 14代 一 一 一 ■ 318年 340年 333年 355年 362年 389年 394年 427年 432年 437年 454年 457年 489年 頃 頃 (注 )仁 徳天 皇 の 即位年 は応神 天皇 の崩年 とつ なが って い な いc fi徳 天 皇 の即位年 が 400年 頃 で あ る ことは後 述す る。 (6)問 題 は「 応 神 紀 」 と「 仁 徳紀 」 (405年 )か ら (雄 略 )│‐ 九年 (475年 )の 71年 を「紀 J の紀 年 は 188年 に して お り 117年 の 誤差 を生 じて い る。 そ の うち 「允恭 紀 │で は 25年 を狂 わせ て い る (応 神 )十 六 年 c 220 残 るのは「応神紀」 と「仁徳紀」である。『紀』の年代を大き く狂わせてい るのは「応神紀」 と「仁徳紀」であろう。 (応 神 )十 六年 (405年 )ま では実年代に合 っているか ら (応 神 )十 七年 か ら仁徳天皇 の崩年 ((仁 徳 )八 十七年 )ま でを調べ ればよい。この 間の『紀』 の年数は次 のよ うにな る。 ○ (応 神 )十 七年か ら (仁 徳 )八 十七年 までの年数 ■「応神紀」 ■「仁徳紀」 ■ (応 神 )十 七年 一四十一年条 25年 87年 (仁 徳 )八 十七年条 まで 112年 合計 『紀』 の紀年 では (応 神 )十 七年か ら (仁 徳 )八 十七年 までは 112年 であ る。 実年代 は (応 神 )十 六年条が 405年 であ り、仁徳天皇 の崩年は 427年 で あるか ら (応 神 )十 七年か ら427年 までは 22年 である。 427-405 = 22年 22年 が『紀』の紀年では 112年 になって いる。『紀』の年代を大き く狂 わせて いるのは「応神紀」 と「仁徳紀」である。 221
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