内戦から中華人民共和国の成立へ

内戦から中華人民共和国の成立へ
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蒋介石のもとの統一中国
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中国:世界の大国と肩を並べる国際的地位を獲
得。
第二次大戦終結時の連合国の合意・・・中国にお
ける内戦勃発を回避し、蒋介石率いる国民政府の
もとに、統一された中国を作る。
ソ連・・・日本への対抗のために、中国東北部に利
権を確保しておくという条件付きであったが、大戦
終結直前の1945年8月14日に締結された中ソ友
好同盟条約で、国民政府を支持し、対中援助は国
民政府に供与することを約束。
中国:世界各国からの援助と貿易統制により、巨
額の外貨準備を保有。
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終戦時の共産党(軍)の勢力
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抗日戦争で積極的な役割。勢力拡大。
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しかし、終戦時の兵力でいえば、
国民政府軍の430万人に対して、
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共産党軍の兵力は120万人。
45年8月20日に、スターリンが毛沢東に対して、
「中国共産党は内戦を起こしてはならない」という
電報を打ったという説もある。
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毛沢東の重慶(国民政府首都)訪問
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1945年8月28日、話し合いのため、重慶に乗りこ
む。・・・各党派の連合政府を求める。
ただし、話し合い路線一本にしたわけではなく、ソ
連軍が入っている東北地方には、大規模な軍隊を
送り込む命令を8月26日に発した。
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国民党側の態度
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圧倒的に優勢な軍事力によって、共産党の勢力の
排除を計り、あくまでも自らの主導権のもとで強力
な政府を樹立する考え方が強かった。
しかし、最大の援助者であったアメリカは、内戦回
避を希望。
国民の間に強い平和への期待。
話し合いの継続・・・10月10日協定成立(双十協
定)・・・国民党の優位を認めつつも、共産党をはじ
めとする他の党派の合法的な存在と党派間の協 5
議の場を設けることが約束された。
国民党と共産党の衝突と調停
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アメリカはマーシャル特使を派遣して、調停に乗り
出し、
また、45年12月にモスクワで開催された米英ソの3
国外相会議でも、「国民政府のもとにおける統一さ
れた民主的な中国」を望むことが表明された。
1946年1月10日、両党は、戦闘行動の停止を指示
することで合意に達し、毛沢東も「平和と民主主義
の新段階」が訪れたとして、連合国大国の強調が
存在しているもとで、中国でも、国民党との話し合
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いによる連合政府樹立の展望があることを強調。
政治協商会議
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1946年1月10日から31日にかけて、国民党8人、
共産党7人を含む各党派、無党派知識人38人によ
る政治協商会議、開催。
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憲法草案や政府組織法案などを採択。
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最高の国民政府委員会は、定数40人のうち、
半数は国民党以外の各党派や知識人に充てること
などが合意された。
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ソ連の撤退、両党軍隊の衝突
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ソ連軍の撤退が始まった中国東北部に国民党の
軍隊が進駐を開始。
すでに大幅に増強されていた共産党の軍隊との衝
突が各地で発生。
1946年3月開催の国民党中央委員会では、国民
党以外の国民政府委員の選任も、国民党の中央
常務委員会で行うことなど、政治協商会議での合
意を覆すような決定が行われた。
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毛沢東の態度変化
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1946年4月、「各国の人民は、やはり、異なった状
況に応じて異なった闘争を行うでだろう」として、
事実上、大国に支持されていた「蒋介石のもとに統
一された中国」を拒否する姿勢を示した。
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46年5月4日、抗日戦争中は国民党との統一戦線
を維持するために控えていた土地改革を再開する
指示を出した。
国民党の農村における支持基盤だった地主に挑戦
する姿勢を明確にした。
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インフレ・・・民心離反
圧倒的な軍事的優勢を誇っていた国民党の支配は、
3年間で急速に崩壊。その二つの大きな要因。
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第一は、インフレによる経済状態の悪化。
大戦終結時、国民政府は巨額の外国為替準備。
これを背景に、1946年2月、外国為替市場の開放、
貿易自由化などの経済自由化政策を実施。
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輸入の急増・・・巨額の貿易赤字。
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内戦の軍事費支出も増大。
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政府の財政状態悪化・・・深刻なインフレの発生。
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経済混乱のもとでの官吏の腐敗
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共産党は土地改革を実施
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軍事的力関係は不利・・・農民の支持を獲得するこ
とが極めて重要。
地主や富農の土地を、貧しい農民や土地なし農民
に分け与え、耕す者に土地を与える土地改革を実
施。
地主を基盤とする国民党の農村支配を揺るがす。
内戦で貧しい農民から広範な共産党への支持を獲
得。
土地改革・・・・・農民にとっては、国民党との闘い
が、「保田保家(田畑を守り、家を守る)」のための
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闘い、という意味を持つ。
47年10月中国土地法大綱、公布
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地主や富農の土地や財産を没収して、
それを貧しい農民や土地なし農民に均分するとい
う、土地改革政策の実施策の実施に踏み切った。
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大綱における定義
地主・・・「土地を所有し、自らは労働せず、あるいは
付帯的労働を行うだけで、搾取によって生活してい
る者」、
富農・・・「みずから労働に参加しているが、つねに搾
取に頼ることをその生活のよりどころにとしている」
者。
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実際の土地改革のプロセス
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実際には、農民の共産党への支持を確保すること
を主要な目的として改革が行われたため、厳密で
科学的な調査によって地主とか富農という階級へ
の所属(階級成分)が判定されたわけではなく、
自己申告された所属階級を、さまざまのレベルの
農民の大衆集会で検討して決定するという方法が
実施された。
そのため、実際には、家庭の総収入に占める搾取
収入の比率という階級区分の原則よりも、
「生活水準」といった、普通の農民の感覚で判断しう
る「常識」が、地主と富農の判定に大きな意味をも 13
った。
土地法大綱による改革の停止
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少しでも暮らしぶりの良い農民が地主や富農と判
定されて、財産を没収されるといった事態が頻発す
る。
そこで、
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内戦が有利に展開するようになる1948年春には、
土地法大綱による急進的な土地改革を、新しい開
放区については停止し、農村の安定と生産の回復
を重視するようになる。
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人民解放軍の快進撃
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1947年、内戦の局面が大きく変化。
人民解放軍と称するようになった共産党軍は、5月
に東北地方での反攻に転じ、
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1948年1月には、東北を基本的に解放した。
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華北の状況も、1948年中に大きく変化し、
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1949年1月には人民解放軍が北京に入城。
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4月21日、人民解放軍は揚子江(長江)を渡り、4月
23日には国民政府の首都だった南京を陥落させ
た。・・・10月1日、毛沢東、中華人民共和国を宣
言。
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アメリカの国民党援助強化
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48年6月、アメリカは中国援助法を制定し、国民党
への援助を強化。
しかし、国民党支配の崩壊を食い止める有効な手
立ては持っていなかった。
この時期、アメリカ外交は、冷戦的色彩を強めてお
り、共産主義の脅威への対抗を重要な政策とshぎ
てはいたが、その重点は西ヨーロッパ先進国に向
けられていた。
49年2月、アチソン国務長官・・・「ほこりがおさま
る」のを待って対策を立て直す、中国における共産
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党の勝利はやむをえず、周辺諸国への波及阻止。
ソ連の態度
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中国での共産党の勝利を手放しでは喜ばず。
49年1月―2月、ソ連共産党の政治局員だったミコ
ヤンが中国共産党支配地域を訪問。共産党指導
部と会談。
ミコヤンは、スターリンの意を介して、毛沢東らに、
人民解放軍が揚子江を渡って国民党を追い詰める
と、アメリカが出兵し、中国に「南北朝」が出現する
かもしれないという危惧を伝達したとされる。
49年7月、内戦の帰趨が明確になった段階で、劉
少奇がモスクワを訪問。毛沢東は「向ソ一辺倒(ソ
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連と同一陣営に属する)」と表明。