第11章 第三世界の模索 1 第三世界とは? 冷戦体制期に、 西側陣営(アメリカを中心とする資本主義陣営) 東側陣営(ソ連を中心とする社会主義陣営) 第三世界・・・・東西両陣営のはざまにあって、自己 を主張する勢力として台頭してきた旧植民地・従属 諸地域。 第二次大戦後次々と独立した諸国 地球上の人口の大部分が住む地域・・・アジア・アフリカ 戦略物資などが豊富に存在する地域 工業的には後進地域、未発達地域。農業社会・伝統社 会 2 1 第三世界の独立と非同盟中立運動 第二次大戦後、150カ国が独立・ないし誕生 人類史上画期的な多数の国家の形成・自立 それを可能とした条件は? 戦勝国・連合国・人類の先進的人々がかかげた領 土不拡大・民族自決の大原則=人類的共通目標 とそれを実現するための世界の人々の努力 植民地・従属地域の人びとの独立運動・民族解放 運動。 3 独立の在り方に影響を与えた諸要因 (1)植民地化される以前の状況 一定の政治的・文化的集団を形成していた場合・・・その 集団が独立運動の単位を形成 インド、ベトナム、インドネシア、朝鮮 既存の社会集団の構成が無視され、列強が機械的に 地域を分断し植民地として統治した場合・・・統一した独 立運動の形成が困難、独立後もの国家経営も困難 アフリカ諸国の多く 4 入植者の量と期間、定着度 (2)宗主国の移住者(入植者=植民)が大量で、長 期に定着し、支配的地位を確立していた場合(アル ジェリア、南アフリカなど) 宗主国からの独立(運動)への抑圧・弾圧 現地・入植者=植民グループの反独立運動 5 権力の空白(期間)の影響 (3)敗戦国の武装解除と宗主国の弱体化・衰退 日本が占領していたベトナムやインドネシアの場合 日本の敗戦・・・日本軍の武装解除 弱体化していた宗主国(フランスやオランダ)が、復帰す るまでの空白期間があった。 独立運動・民族解放運動には大きなチャンス。 自由貿易の原則を掲げ、植民地主義(宗主国によるその 地域の独占・再植民地化)に反対するアメリカが、この地 域に進出。 6 宗主国衰退の場合 カリブ海域諸国・・・宗主国の衰退・・・植民地経営コスト を負担しきれなくなる。 「門戸開放」というかたちで、大きな抵抗なく独立 7 冷戦対抗との関係 民族独立運動の担い手の違い 有産階級か無産階級か? それによるアメリカの態度の違い。 独立運動が共産主義に反対する有産階級の勢力によ って担われている場合、アメリカは、宗主国の撤退を求 め、独立運動との友好な関係を維持し、経済的機会の 拡大を図った。(インド、インドネシア、フィリピン) 共産主義者が主導の場合、有産階級・保守勢力を支 援。(中国で、ベトナムで・・・) 8 非同盟中立運動 冷戦激化の状況下で、 1955年アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催 東西の陣営に属さず、独立した第三世界諸国が結束し て独自の発言権を持つことを意図。 これを引き継ぐ形で、ユーゴスラヴィア・エジプト・インドの 代表者の会談、 1961年 25カ国が参加する第一回非同盟諸国首 脳会議 平和共存に基づく自主外交、民族解放運動への支持、 軍事ブロックへの不参加が、加盟条件 9 2 独立後第三世界諸国の政治・経済 第三世界は、戦後50年間における地球上の人口 急増の大部分を担った。 先進資本主義諸国の人口は、20世紀初頭に地球上の 人口の3分の1だったが、世紀末には15%。 第三世界は、その人口増に見合った国民生産の 増大はなく、先進諸国との格差は拡大。 一人当たりの国民生産でみると、1970年には先進諸国 の14.5分の1、 1990年では、24分の1 10 第三世界諸国と先進国の経済関係 商品作物の栽培、木材の伐(き)り出し、鉱産物の 抽出 自立的な自国工業化はできず、低開発。 多くの国が、食糧や農薬・除草剤・化学肥料を先進 諸国から輸入。 伝統的農村社会は急激に衰退し、外貨依存型工 業の安価な労働力の供給地に。 1970年代以降、先進諸国の製造業が、安価な労 働力を求めて、第三世界諸国に工場移転。(先進 諸国の工業の「空洞化」・工業雇用の減少) 11 1970年代以降の大きな変化 韓国をはじめとする新興工業諸国(NICs)の台頭 ・・・・先進諸国の工場の移転・・・第三世界諸国の工 業化。 冷戦体制崩壊(1989年ベルリンの壁崩壊―東欧、 ソ連の解体1991年)後、かつての東側地域と第三 世界の工業化の急激な進展 中国、インド、ブラジル、ロシア (BRICs) 12 第三世界の急激な工業化の問題 自然破壊と大量人口移動 先進国から第三世界への資本輸出・・・・先進国の公害 産業が第三世界に進出・・・公害をまき散らす。 大規模な森林伐採・・・・自然資源の輸出による先進国 財貨の購入。 第三世界から先進国への人口移動・・・先進国における 移民問題 13 第三世界の政治的不安定と戦乱 多くの国々で国家的な規模で行動する集団は軍部 中心。 冷戦体制下で、両陣営は、これらの諸国に軍事援 助。 軍部による政治支配。 経済開発と軍部・官僚の結びつき・・・政治腐敗の 構造。 武器援助・・・大半は先進国からの輸出。 犠牲者の圧倒的多数は第三世界の民衆。 14 3 キューバ革命、ベトナム戦争、 中東紛争、イラン革命 キューバ 1898年のアメリカ・スペイン戦争以後、カリブ海でアメリ カ覇権。 1951年1月、キューバで、親米バチスタ政権を打とする 革命が成功。指導したのはフィデル・カストロ。(当初は 社会主義者を掲げることもなく、共産党員でもなかっ た。) アメリカ企業の資産没収や農地改革、基幹産業の国有 化などの急進的政策を推進。 アメリカはカストロ政権転覆活動へ・・・亡命キューバ人 の武装訓練、送り込み。 15 カストロ政権のソ連接近→ 「キューバ危機」 亡命キューバ人部隊の撃退 カストロ政権は社会主義宣言、ソ連援助。 ソ連は、キューバにミサイル基地を建設。 →「キューバ危機」 ケネディ・フルシチョフ・・・妥協。 ソ連は核ミサイル基地撤去を約束。 アメリカはキューバに侵攻しないことを約束。 しかしアメリカは、キューバ政府への敵対姿勢をとり続け ている。 16 キューバの社会主義 一方におけるアメリカの圧力、経済制裁、他方にお けるソ連東欧の崩壊などさまざまの危機に遭遇し ながら、持ちこたえている。 ラテンアメリカ諸国ではもっとも医療・教育が充実、 有機農業の分野でも先進的成果を上げている。 17 ベトナム ベトナム・・・フランス植民地 第二次大戦中、日本軍が占領。 日本降伏後、それまで抵抗運動を指導してきたイ ンドシナ共産党の指導者ホー・チ・ミンが、ベトナム 民主共和国の樹立を宣言。 共産党は、フランスの復帰に備えて、共産党を解 散し、農地改革などの急進的改革を避け、非共産 党員を閣僚に登用する民族統一戦線政策を採用。 18 冷戦対抗とベトナム ベトナム民主共和国・・・共産党中心の政権。 アメリカは、ベトナム南部に復帰したフランスを後押し。・・・ フランス植民地主義の克服は? ホー・チ・ミンは、中国・ソ連に接近。 朝鮮戦争を戦っていた中国は、アメリカが中国への軍事的 進入路としてベトナムを選ぶ可能性を考慮し、ベトナム援 助を開始。 ホー・チ・ミンは、革命の「中国モデル」採用を明言。共産 党をベトナム労働党として復活させた。 地主から土地を取り上げる農地改革を強行。 19 ベトナム独立戦争 2010/12/2 2010/12/2 ベトナム軍(北) 対 フランス軍(南) 1954年、ベトナム軍がフランス軍の拠点ディエンビ エンフーを陥落させる。 ジュネーブ和平会議(主要大国と現地代表) ジュネーブ協定・・・・国土を17度線で南北に二分。 ベトナム共和国軍は北に引き上げること。 21 フランスに代わり、アメリカが前面に アメリカ・・・ベトナム南部で親米的ゴ・ジン・ジエム を押し立ててベトナム共和国を樹立。 ジエム政権は、農地改革で土地を得た農民から土 地を奪い返し、反対勢力を厳しく弾圧。 ベトナム労働党・・・南部における武装闘争の開始 を決定。 1961年12月には、南ベトナム解放民族戦線を結 成。 22 ベトナム共和国(南)政府の支配の行 き詰まりとアメリカの軍事介入 抑圧的ジエム政権・・・苦境で弾圧強化。 僧侶の抗議・・・焼身自殺。 アメリカ、軍事顧問団を派遣。南ベトナム政府軍を指導し て、解放戦線の封じ込めを図る。 南ベトナムではクーデタが繰り返され、戦況は不利になる ばかり。 1964年8月2日、「トンキン湾事件」(アメリカ艦隊が北ベト ナムによって砲撃されたとする事件・・・1971年、アメリカ国 防総省秘密報告書でこの砲撃は実際にはなかったことが 明らかにされた)・・・アメリカ、北ベトナム爆撃開始。 23 「ホー・チ・ミン・ルート」による攻勢 ベトナム労働党・・・正規軍の公然たる越境と17度線での 軍事衝突を避ける作戦。 徒歩でひそかに南下させる作戦。 アメリカによる「ホー・チ・ミン・ルート」の爆撃。 南ベトナム解放戦線は次々と勝利、政府軍に大打撃。 65年7月、アメリカは戦闘部隊の直接投入を決定。 24 アメリカの戦闘部隊の投入拡大 65年7月から73年まで。 最大時、54万人のアメリカ兵を投入。 中国に参戦の口実を与えないため、北ベトナムに直接地 上軍を侵攻させず、南ベトナムでの戦いに全力・・・「南ベト ナムでの戦争は勝ち目がない」とさとらせる作戦。 民間人の大量虐殺 枯葉剤の大量散布 第二次世界大戦期に全世界で投下された何倍もの量の 爆弾投下。 25 北ベトナムの抗戦 「北爆」下で、集団農業方式による民衆の結束。 ソ連や中国の援助。 大量の物資や兵士を南ベトナムに送り出した。 南ベトナムでは、解放戦線が、民兵と主力軍部隊の戦闘 を組み合わせて戦い、米軍を苦しめた。 1968年1-2月、全土で攻勢に出て、一時アメリカ大使館 を占拠するなどアメリカ側に戦略的打撃(テト攻勢)・・・・ 「アメリカはベトナムではもはや勝てない」との認識を広め る。・・・反戦運動高揚。 26 アメリカの分断政策・ 中国・ソ連への接近 68年3月31日、アメリカのジョンソン大統領は、北爆の部 分停止を表明。 アメリカは、南ベトナム政府軍の強化と米軍の撤退を進め る一方で、 ソ連や中国に穀物輸出や技術提供を申し出て、両国との 緊張緩和をはかり、その見返りとしてベトナムへの支援を 抑制させる戦術。 アメリカと中国は接近。 中国とソ連の対立は激化。 27 戦闘継続の一方で、和平交渉 73年1月27日パリ和平協定 米軍の撤退と米兵捕虜の釈放。 73年10月、石油ショック・・・世界的な経済不況・・・アメリカ の経済援助によって支えられていた南ベトナム経済は破 綻。 南ベトナム政府軍は雪崩を打って敗走。 75年4月30日、臨時革命政府が成立。 間もなく南北統一が達成された。 28 犠牲者 アメリカは、300万人の兵士を投入し、6万人弱の死者。そ の他多数の肉体的精神的障害者。 犠牲になったベトナム兵は、120〜170万人。 民間人を含めると犠牲者数は膨大。 不発弾が大量に残存。 枯葉剤などの化学物質の大量散布によって奇形児、多 数。 29 冷戦構造への揺さぶり アメリカの中ソへの接近 世界各地での人種・エスニック少数派の差別撤廃 運動を激励。 アメリカ、ヨーロッパ、日本における反戦・平和運動 の高揚。 30 中東戦争 19世紀末、シオニズム・・パレスチナにユダヤ人国家を建 設。 第1次大戦におけるイギリスの約束(二枚舌) 一方で、バルフォア宣言・・・ユダヤ人によるイスラエル建国 承認。 他方で、フサイン・マクマホン書簡・・・この地域のアラブ人 の独立。 アメリカ・・・パレスチナのユダヤ人国家建設を支持。 ソ連・・・・ソ連東欧のユダヤ人の受け入れ地として支持。 31 1947年11月 国連決議と戦争 人口比に応じた面積割り当てて、パレスチナ分割。 アラブ側はこの国連決議の受け入れを拒否。 48年、イスラエルの一方的な建国宣言。 第一次中東戦争 イスラエルは勝利し、国連決議の1.5倍の地域を確保。 1956、67、73年と4次にわたる戦争。 そのつど、パレスチナの多数のアラブ人が近隣諸国に難 民として追い出された。 32 イラン革命 1953年、国王派軍部のクーデタ・・・資源ナショナリズムの 立場に立つモサデク政権を倒した。 国王派軍部は、アメリカの援助を受けながら、強権的政治 体制を強化し、近代化を推進。 反共軍事同盟。 貧富の格差拡大、都市への人口集中。 社会的矛盾は激化。 1979年、イスラーム宗教指導者ホメイニの指導下に多数 の民衆が決起して、国王をアメリカ亡命に。 「イスラーム革命」、「ホメイニ革命」 33
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