3 満州事変から国際的孤立へ

3
満州事変から国際的孤立へ
1930年代に入ると,日本の陸軍や
満州事変の勃発
まん しゅう
きょ りゅう みん
満州の日本人居留民などのあいだ
から,中国の反日民族運動の高まりに対して,このままで
けん えき
5
き
き かん
は日本の権益が守れないとする危機感が高まった。とりわ
かん とう ぐん
だ
は
け,関東軍の中から,軍事力でこの危機を打破しようとす
る計画が進められた。
さん ぼう
1931
(昭和 6 )年 9 月18日,関東軍の一部の参謀たちがひ
ほう てん
しん よう
みなみ まん しゅう
(現,瀋陽)
付近の南満州鉄道の線路
そかに満州の占領を計画し,奉天
ばく は
10
りゅうじょう こ
(柳条湖事件)
。関東軍はこれを中国側のしわざと
をみずから爆破した
ちょうしゅん
ちょう がく りょう
(張学良軍)
への攻撃を開始した。こう
して,奉天・長春などで中国軍
( → p.112)
じ へん
わか つき れい じ ろう
しで はら き
して満州事変が始まった。日本政府(第 2 次若槻礼次郎内閣,幣原喜
じゅう ろう
ふ かく だい
重郎外相)は,事変不拡大を国内外に声明したが,関東軍は政府の不
( → p.112)
柳条湖事件を報じる新聞記事(﹃東
京朝日新聞﹄1931〈昭和 6 〉年 9 月19
ごう がい
日付)
多くの新聞は写真号外を発
行して,日本軍の行動を大々的に報
道した。また国内各地で,新聞社が
ニュース映画を上映して,国民の戦
争熱をあおり立てた。
(朝日新聞社
蔵)
拡大方針を無視し,つぎつぎに満州各地で軍事行動を拡大していった。
まん
15
日本の多くの有力新聞は,事変の前から「満
国内世論の事変支持
もう
ぼっ ぱつ
蒙の危機」を国民に訴えていた。事変が勃発
いっ せい
さん び
すると,新聞は一斉に関東軍の軍事行動を支持・賛美する記事や写真
う
で紙面を埋めた。政府の不拡大方針にもかかわらず,新聞をはじめジ
ャーナリズムの活動を通じて,国内には戦争熱がいちだんと高まり,
よ ろん
20
関東軍の軍事行動拡大を熱狂的に支持する国民世論が形成されていっ
た。若槻内閣は
「関東軍の独走」
と国民世論の突き上げをおさえ切れず,
きつ
満州事変要図 満州とは奉天・吉
りん
こく りゅう こう
林・黒竜 江の三つの省(東三省)を
いう。中国国民政府は,この地域を
とうほく
﹁東北﹂と呼んだ。
史料
日本軍の進路
▶満州事変での日本軍の行動を支持する新聞記事❶
わざわい
もと
り
ひ
な
シ
ナ
ぞう じょう まん
んばやまないとする支那側の増上慢❷であって,今日
え
しん ぼう
なか むら たい い
せき しん
そそ
は かい
かん にん ぶくろ
路の破壊は積薪に火を放ったもの,日本の堪忍袋の
み ごと
しん
いきどお
いち げき
内
華
古
奉
天 長春
長春
32.2
31.9
1931. 9.18
熱 河
奉天
奉天
32.1
タンクー
天津 塘沽
朝
鮮
旅順
花
松
32.4
ハルビン 林
︵日本領︶
国
江
柳条湖事件
北京
第 5 章 第二次世界大戦と日本
民
蒙
山海関
そして一日も早く現場を収拾して事件を解決せよ。
❶﹃東京朝日新聞﹄1931
(昭和 6 )
年 9 月20日付夕刊,﹁今日の問題﹂欄。
❷十分な力がないのに,おごりたかぶること。❸参謀本部員の中村
大尉とその部下が,北満州で軍事目的のための地誌の調査中,1931
じゅうさつ
(昭和 6 )
年 6 月,中国軍に捕えられ 銃 殺された事件
( 8 月に公表)
。
たきぎ
❹積み上げた薪。
江
32.6
31.11
州
錦錦州
日本軍の強くて正しいことを徹 底的に知らしめよ。
中
げん じょう
チチハル
モンゴル
モンゴル
人民共和国
人民共和国
せん りょう
てっ てい
114
愛琿
黒竜江
緒は見事に切れた。真に憤るものは強い。わが正義
の一撃は早くも奉天城の占領を伝ふ。
竜
あいぐん
まん てつ
中村大尉事件❸は積薪❹に油を注いだもの,満鉄線
お
32.10
ソ 連
黒
(興安)
が まん
まで事なきを得たのは,日本の辛抱強い我慢のため
であった。
500km
0
だ とう
・・・・・・禍の基は理も非も無く,何ものをも打倒せず
32.4
吉