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〔研究ノート〕
言論活動 としての青 森新聞
橋
本
正 信
して、このみ ちのくでも 展開され、 彼はその一翼 を担ったの である。彼
青森県の自由民権運動に寄与した「青森新聞」の役割
一
が本県の 民権運動に果 たした役割と 、民権家 ではない代わ りに知識人と
果た した役割は大 きい。青森県 に於いて は、雑誌とし ては東奥義塾 で発
き く、筆者が、 東大明治文庫 や、弘前 の八木橋文庫 から調べ上げ た、若
従っ て、本県の自 由民権を語る 時、この 青森新聞の果 たした役割は 大
して青 森新聞発行に 寄与した功績 は大きい ものである。
行 された「開文 」雑誌は有名 であるが 、教育や啓蒙 活動に重きを 置き、
干の資料を紹 介すること によって、 本県の自由民 権運動研究 の参考とし
自由民 権運動期に於 ける言論活動 に、各県 で発行された 新聞、雑誌の
直接民権活動に寄与したものではない。しかし 、「青森新聞」は、その
たい。
「開文」雑誌 と「青森新 聞」の主張
ま ず 「 開 文 」 雑 誌 の 主 張 で あ る が 、「 県 会 開 設 の 期 近 キ ニ ナ ル ト 聞
二
論説の中で も、民権運 動の動静に関 しても、 詳細に記述し ている。旧斗
南藩士 の小川渉とい う知識人に、 その功績 を認めるもの であるが、若 き
日の 陸羯南、当時 は陸実と名乗 ったが、 彼の果たした 役割も大きい 。も
っ とも、彼の入 社期間は短い のだが、 それでも本県 の民権運動昂 揚期に
在社して、本 県の民権家の 動きや、 集会の紹介、 さらには青 森の蓮華寺
) の 中で 「 世 の 論 者 ハ 夙 ニ 立憲 政 体ノ 興 立セ ン コト ヲ 悃
ク」
(
小川 渉が青森新聞 に国会開設尚 早論の論 陣をはり、岩 手の日進新聞 や
ヲ 起立シ立憲政 体ヲ確立スル ノ階梯」 であるから県 民は「憤発勉 励」す
人民 ガ初メテ参政 権ヲ地方事務 ニ進取ス ルノ好際会」 であり「他日 国会
年二月廿六 日発売
明治十二
で開かれた 、県下民権 家の一人とし て、請願書 の起草者と も推定されて
請シ議 院国会ノ開設 アランコトヲ 冀望シテ 已マザル」が 、本年は「我 邦
第 四号
いるの である。
盛岡新誌に反論されたことは詳細に報告した(「国会開設運動期の動向
る よ う 強 調 し て い る 。 続 い て 、「 県 会 傍 聴 余 論 」(
三月三十一日発売
明治十二年
)では 、
―明治十二年代を中心に―」弘前大学國史研究五一号所収 )。当時の本
「政府幸ヒ ニ参民ノ権 利ヲ人民ニ分 割付与シタ ル」のであ るから、人民
第五号
県の民情を 勘案しての 論であるが、 中央で展開 された論争 と時を同じく
- 63 -
議院ノ基 礎ヲ」鞏固に する必要性を 説いてい る。
出来ない 、
「永ク自由 ノ恩汲ニ沐浴 スル能ハサ ルコト」な きよう 、
「国会
は 「志念ヲ拡大 ニシ権利ヲ 国会ニ進取 スルヲ務メテ 」瞬時もお ろそかに
なりと聞 く 。
」
郎、今宗蔵 、蒲田公、伴 野雄七郎、 服部吉之丞 、蒲田貞一の 諸氏
一 、菊地九郎、 赤石行蔵、 八十沢彰、 田中眠叟、今 規弘、土岐 八
「右の 委員より青森 近辺の十 八名へ手簡を 送られしが、 国会開
)
このよ うな「開文」 雑誌を発行し た東奥義 塾における教 育や、啓蒙活

(
設請 願に決議せし 上は遊説家 を差し出す べく諸先生方 は愛国の心
)
動は 、やがて共同 会を設立し、 全国的な 民権運動の流 れに呼応して 、国

(
情 五察申すによ り兼て町村 会議長議員 などに右の模 様を協議し て
くれよとの意 にて、十八 の内に弊舎 の実、渉もあ りましたが 、右
返事は別に。」
(以上、 一五八号同 年二月十四日 )
郡へ 派出したる由 にて、当地 及び南郡地 方へは小山内 貢、今宗蔵 、
「兼て も報道せし弘 前の国会 開設請願の事 に付、遊説委 員が各
日に東奥義塾へ集会したる由聞けり。」
(一 五五号明治十 三年二月
服部吉之丞、伴野雄七郎、三浦英方の五氏が参りました。」
( 一六
志を募る事、 第二条各郡に 遊説家を 派出する事、 第三条有志 集会
事 の案は発起人 なる田中眠叟 の立案に て、第一条は 県下一般に同
議長 の特権を以て 本多庸一、 今宗蔵の二 氏を選定せら れしが、議
投票あ りしに議長は 杉山龍江氏 、副は笹森 要蔵氏に決し 、書記は
つき東奥義 塾へ会集せ し人は、大 凡そ百余名 にて、議長副 議長の
同十三年二月二十八日 )「今や国会開設ノ事ハ既ニ社会一般の翼ス所ト
ていると思われる。後期の紙面では「非国会論者ニ告グ 」(第一六五号
グ 氏よりアメリ カの大統領制 を聞いた ことを紹介し ていることも 影響し
別名 工藤、第一五 号)を掲載し ている。 これは、小川 渉がジョン・ イン
方、論 説は、初期の 紙面にては 、
「議 員撰挙者ニ告 グ 」
(塾生 外崎覚蔵、
かように、 青森新聞は 、国会開設 運動の動き を詳細に報じ ている。一
「前号にて報 道せし弘前 の有志輩が 去る七日国会 開設のこと に
所を弘前本 町々会所と 定むべき事 、第四条三月 十五日を以 て総会
註
(
)陸実のこ と。後、羯南と称す 。「日本」の 社長兼主筆。国民精神の昂
ナリ 」
(陸実 筆か)の主張 が見られる 。
〇号同年二月 十八日)
八 日)
「此頃 弘前の有志者 が国会開 設の儀を政府 に請願すると て昨七
きを詳述 している。
「青森新聞」 の論調は、 明治十三年 一月頃からの 弘前の民権 運動の動
会 開設を要求し て行くので ある。
(四)
(五)
を青森 に開く事、第 五条仮委員 十名を撰ぶ べき事、第六 条撰文委
員々 数ハ各郡の適 宜に委かす 事、等にて 議決の模様跡 よりと報知
のまゝ。」
( 一五七号同年 二月十二 日)
「弘前の国会 論者の議長は 杉山氏な りと前号に揚 げしは誤りに
て、笹森要 蔵氏なりと 。また委員 二十名の選挙 ありしに、 本多庸
揚 に 務 め 、 官 僚 主義 と 藩 閥 政 府 を 攻 撃 ( 九 山 真 男 「 陸 羯 南 と 国 民 主 義 」
1
- 64 -
(一)
(二)
(三)
明治史料叢 書第四巻所収 )、若き日の 陸は、明治十三年三月十七日の青
それぞれに 問い合わせを した結果が 、次の通り である。
紛 失。寄贈先が 、東奥日報 社か、県立 郷土館でない か、と聞く に及び、
第 一号(明治十 二年三月六 日)~第二 〇号(明治十 二年四月十 六
聞」 紙面は、左記 の通りである 。
記録は 残っていない ということ。 ちなみに 、社が所有し ている「青森 新
まず東奥 日報社である が、青森市 の斎藤材木 店から寄贈さ れたという
森蓮華寺集会の出席委員二十一名の一人として参加。民権家として活躍。
国会開設建白書の起草者の一人としてあげられている。
( )斗南藩士、小川渉のこと。最初は国会開設尚早論者であり、岩手の日
と明治時代」一四頁
伊藤 徳一 編「 東奥 日報
)
進新聞や盛岡新誌の攻撃を受けるが(後述)、気骨があり、新聞記者とし
「青森新 聞」発行に関 する若干の 資料
て、讒謗律、新聞紙条例違犯により数回の検挙を受ける。
(
三
先人の研 究
青森新 聞は、現在の 東奥日報の前 身である が、現在残っ ているのが少
なく 、収集に困難 である。明 治の十年代 が欠史時代と いわれる所 以であ
唄
る 。その中で、 本県の新聞 に関する研 究では、伊 藤徳一氏の業 績があり、
欝
新聞発行以 前のものでは 、盛田文雄 氏の研究が すぐれている 。
日)。東京大学明治新聞雑誌文庫が所蔵しているものをコピーし一
冊の製本 にしたもの。
第二〇 号(明治十二 年四月十 八日)
第二 二号(明治十 二年四月二 十日)
第 二三号(明治 十二年四月二 十二日)
第二四号(明 治十二年四 月二十四日 )
第三一八号 (明治十四 年一月八日 )
これは 、昭和五十一 年に富山市 の方から寄 贈された紙面 のコピー
聞」収 集過程におい て、現在知り 得たこと 、また不明で ある点を明ら か
月七日 )。所蔵先は分からないが、紙面のコピー一冊の製本したも
した もの。
にし 、本県の明治 前期の政治動 向を究明 する史料とし て、今後の 研究に
のである。
詳 しい こ と はそ れ に ゆ ずる と し て、 本稿 の 目的 は、 筆者 の「 青森 新
資 したいがため である。尚 、本稿は、 筆者が弘前大 学國史研究 会で発表
郷土館には 、青森市の 斎藤氏から 寄贈をうけた 資料はない 。が、しか
である。
以 上が弊社所有 の「青森新聞 」だが、 原紙はなくい ずれもコピー 資料
のコ ピー。
号数不 明。明治十三 年四月二十 九日頃発行 のものと思わ れる紙面
第 一五四号(明 治十三年二月 六日)~ 第一六九号( 明治十三年三
し た 内 容 に 、 東 奥 日 報 社 資 料 ( 松 田 勲 氏 提 供 )、 青 森 県 立 郷 土 館 資 料
見 つかったとい う報を聞き 、二人で来 訪、写真撮影 までしたの であるが、
実は 、八戸在住の 三浦忠司氏よ り、青森 市の斎藤材木 店で青森新聞 が
完した ものである。
』)で補
(3)
(太田原慶子氏提供 )、末永洋一氏論考(『市史研究あおもり
(4)
7
- 65 -
(1)
(2)
2
1
1
第350号
明治14年(1881)4月26日
2
第351号
明治14年(1881)4月28日
3
第352号
明治14年(1881)4月30日
4
第353号
明治14年(1881)5月3日
5
第354号
明治14年(1881)5月5日
6
第355号
明治14年(1881)5月7日
7
第356号
明治14年(1881)5月9日
8
第357号
明治14年(1881)5月11日
9
第358号
明治14年(1881)5月13日
10
第359号
明治14年(1881)5月15日
11
第360号
明治14年(1881)5月18日
12
第361号
明治14年(1881)5月20日
13
第362号
明治14年(1881)5月22日
14
第363号
明治14年(1881)5月25日
15
第364号
明治14年(1881)5月27日
他に第13号(複製)1面と4面のみ。
第13号(明治12年8月26日付)は常設展示。
五〇~三六 四号がある 。
(表
)
ま とめておられ るので、そ れも後ほど 紹介したいと 思う。
周知のよう に、明治七、 八年以後政 府が厄介視 した新聞も、 明治五、
六年まで は、人民の知 見を啓発する 上におい て良き手段と 見なされてい
た。当 然の結果とし て、明治政府 も県庁も 、新聞、雑誌 の育成に努め た。
しか らば、本県の 青森新聞の実 態はどう であったろう か。二氏の著 書
で 紹介したい。
伊藤徳一 氏の業績
亀 田慎二
記者
亀田 慎二、小川 渉、陸実、元 木貞雄
小川渉、 元木貞雄、今 宗蔵、花田 平爾、
菊地九 郎、榊喜洋芽 、本多庸 一、須藤元雄 、兼松良らの
記者
と 。このことに ついては、筆 者が卒論 作成の為、恩 師宮崎道生先 生の紹
るよ うだが、実際 には調査確認 していな いので日付等 詳細は不明と のこ
東 大明治文庫で 現物を確認し ており、 伊藤となって いる。また、 後者の
胤が いないことや 、廃刊十六年 に疑問が ある。前者に ついては、筆 者が
ここで末永洋一氏の論考が参考となるので、左記に(一 )(二)とし
廃刊十六年に ついては後述 したい。
筆者の 調べでは、こ れと大体変わ らないが 、初期の青森 新聞に伊藤祐
斎藤璉、山 鹿元次郎
東奥義塾結社 人
経 営者
十四 年三月~同十 六年)
△青森 新聞(右の青 森新聞を東 奥義塾が引 きつぎ経営し たもの。同
経営者
△青森新聞( 明治十二年 ~同十四年 三月)
こ で青森新聞の 経営者並びに 従業者を 次のように整 理されている 。
特に 本論と関係の ある部分は、 東奥日報 創刊以前の項 があるが、氏 はこ
「東奥 日報社史 」
、後に 「東奥日報 と明治時代 」にまとめら れている 。
(1)
介で、東大の 明治文庫や、 弘前在住 の八木橋武実 宅に訪問し、 原本を筆
さらに 現存する青森 新聞のほとん どは、弘 前市立図書館 が所蔵してい
ては確かめ ようがない 。
この原本と思 われるが、電 話帳にて も材木店の所 在わからず 、今となっ
の ものを複写し たものと思わ れる。私 と三浦氏が写 真撮影したも のは、
(明治十一年八月二十六日付 )、一面のみを展示している。斎藤氏所蔵
郷土館 には 、
「北斗 新聞 」
(青森 新聞の前身 )も複写コピ ー第一〇〇 号
1
写している ので、後ほ ど紹介したい と思う。ま た末永洋一 氏が手際よく
- 66 -
発行日
番号
し、平成十一 年に弘前市 の個人の方 から寄贈を受 けた「青森 新聞」第三
(表 1 )青森県立郷土館「青森新聞」受贈リスト
発行地
第一号~第 二〇号
(二)青 森新聞
)
青森県庁門際
青森 県庁廊内 番外一番地

(
小川渉は本県新聞界の草分け的存在であり、「北斗新聞」の後継新聞で
青 森県庁廊内 番外一番地
て 掲げる 。
(「明治期に発行された新聞」より)
第三四号~四 五号
日 新堂
ある「青森 新聞」にも関 与している 。
発行地
第三四号~ 四五号
(一)北斗 新聞
発行所
第一 五四号~第五 一八号
編集人・主幹 ・印刷人
北斗 新聞社
利堯
真文舎
加賀
発 行所
編 集人
第一号~ 第二〇号
祐胤
駒治
伊藤
戸塚
実
実
編集 兼印刷
印刷人
陸
陸
渉
貞雄
渉
編集 長
渉
駒治
編集長
小川
元木
小川
駒治
小川
仮編集
戸塚
渉
印刷長
主幹
編集長
戸塚
印 刷長
貞雄
第一五 四号~第一六 九号
印刷 人
小竹市 太郎
元木
第七 六号~一〇〇 号
編 集者・印刷者 等
第三四号~四 一号
第四二 号~四四号
第 四五号
主幹
印刷人
小川
頼道
第二〇四号~ 第二二二号
編集長
高津
印 刷長
主 幹兼編集
元木
小川
元木
渉
貞雄
渉
貞雄
第七六号~ 一〇〇号
印刷人
主幹兼 編集
小川
渉
第二 二三号~第三 〇五号
印刷長
小川
右の 通り、明治十 一年八月二 十六日発行 の第一〇〇号 をもって終
編 集兼印刷
所蔵箇所
小川は十 月まで発 売したと言っ ている 。
)
青森県立図 書館
第四三 五号~第四三 七号
刊 となっている 。
(註
第三四号~ 四五号
国立国会 図書館
第三二四号~ 第四三四号
第七六 号~一〇〇号
平爾
渉
花田
渉
小川
印 刷長
小川
主 幹兼編集
主幹
第四 五四号、四五 六号
第五一〇号、 五一三号、五 一八号
平爾
編集兼 印刷
花田
(八 〇号、九七号 、九九号は欠 )
な お、
「 北斗新聞」は 本県新聞の嚆 矢であり 、小川渉の回 想などから 、
同紙は明治十 一年三月六日 、亀田慎 二によって発 行されたこと が知られ
ている。亀 田慎二は石 川県出身で、 当時印刷業 を営んでい たとされる。
- 67 -
発 行と終刊
(
註
)
日本新聞
)小川については、伊藤徳一「東奥日報と明治時代」昭和三十三年、東
奥日報社一五~一六頁に詳しい。
)伊藤前掲書八頁。
)伊 藤徳一「青森県新聞 史 」( 社
( 日
) 本 新 聞協 会 編 「 地 方 版
日本新聞協会)一三頁。
史」昭和三十一年九月所収
)同書一七頁、陸に関しても同書一六~一七頁などを参照。
盛 田文雄氏の 研究
「青森県議会史 」(明治元年~同二十三年)の「県会書記と新聞」の
ので、政府の趣意にも報いるものだから」、
「管内の市 長あるいは里 正等
「 新聞は自然に 人智を明か にし、いわ ゆる開化を 進める一助と なるも
その 中から抜粋す ると、
本県の 新聞事情を知 る上で、非常 に興味の ある史料が列 挙されている 。
項が詳しい(四四二頁~四頁 )。ここでは、明治五年から七年頃までの
(
(
(
第一号は明 治十二年三月 六日に発行 されている 。また現在確 認されて
いる最終 号である第五 一八号は、明 治十五年 八月七日発行 である。

(
伊藤に よると 、
「青森 新聞」は利益 が上がら なかったこと と 、
「一方 に
)
は官憲の圧迫が甚だしかったために一両年間発行しただけで 」、あるい

(
は 「二、三年で 」廃刊した とされる。
もし、これが 正しいとす れば、最終 号はもっとも 遅い時期と しても、
明治十五 年三月ごろと なる。
しかし 、これまでに 見つかったの は、明治 十五年八月七 日発行のもの
であ り、発刊から 三年五か月ほ ど経過し ている。
当 時は同じ題名 の新聞が、そ れ以前の 新聞との関係 が明らかでな いま
まに発行され ることもし ばしばあっ たが、同紙に 関しては、 小川渉が一
貫して関係 しているこ とからして、 同一の新 聞であったと 考えられる。
従って 、「青森新聞」は明治十五年八月までは、即ち、少なくとも、
な お、一〇〇号 代から二〇〇 号代にか けて編集長で あった陸実、 即ち
を「 郵便で当察に 差出すように すれば新 聞に掲載」す るというも の(前
貰」いたい(明治五年三月)。また、県庁の仕事や県内の「奇事異聞」
の ほか こ れ と同 じ よ う な階 級 の 人に 、 一部 宛一 ヶ年 取り き めて 買っ て
陸羯南が同紙 に関係したの は、明治 十二年四月の 「賄征伐事 件」で司法
島逓頭)。
「 官省の布達を 人民に弁知 させねばな らぬ」という 観点から東
三年 五か月間にわ たって発刊さ れていた とすべきであ る。
省法律学校 を退学処分 となり、郷里 青森県に帰 郷してから 翌十三年九月
)
京新聞社に 頼んで普及を はかってい たが、最近 の部数減少を 嘆いている

(
いたが 、
「今般 当所の角田平 左衛門が 活版社を設立 」したので 、
「正内 に
もの(明治七年七月布達)。
「東京活 版社が印刷 を停止」した ため困って
北海道 紋別製糖所に 、赴任するま での間で あったとされ る。
また 、明治三十五 年、新たに「 青森新聞 」が発行され た。本紙との 直
接 的な関係はな いものと思わ れるが、 詳細は不明で ある。
漏 れな く 配達 」さ れるよ う申出 るこ と(明 治八 年五月 二十八 日布達 )
。
以 上のことなど がある。
- 68 -
1
2
3
4
(2)
の講 釈者を用いた という上書( 明治七年 七月二十日弘 前市庁庶務縣 ~小
弘前町 新聞展覧所の 利用者が少な いので、 文盲の輩にも 聴聞させるた め
東京 日 々新 聞を 警察 出張所 で縦覧 させ る布達 (明 治八年 八月十 四日 )
、
れたのであ るが、当時の 人民の新聞 に対する関 心は非常に少 なかった。
各 地の新聞との 交換もして いたので、 まだ各県に残 っているも のもある
そう いった人達の 旧家を訪ねる ことが先 決だと思って いる。また、 東北
もない 。当時、県会 議員や地域の 有力者に 配布されてあ ったのだから 、
今のとこ ろ、以上のこ としか筆者 は知り得な い。県内各地 の図書館に
頁、同編「 地方別日本新 聞史」一二 頁掲載
同十三年八 月(二五二 号の一部) ―伊藤徳一編 「東奥日報 社史」二
川 権大属―後述 ―宛文書) など、当局 はさまざま苦 労したよう である。
かも知れない 。東大の明 治文庫をは じめ、各県の 図書館は回 った積りで
⑤
なお本県の印 刷業につい ては『青森 市史』第五巻 四六五~四 七二頁が
あるが、 これから各地 で続々発掘さ れるのを 願っているの は、筆者ばか
県 は、人民の啓 蒙と布告布 達の徹底の ため、新聞の 普及に特別 力を入
詳しい。 ただ前述の角 田平左衛門と 青森日進 堂との関係が はっきりしな
りでは ないだろう。 戦災による青 森の史料 散失が惜しい 。
次に 、筆者が見る 機会を得た青 森新聞を 通して、その 創刊と廃刊、 発
行 回数や部数に ついて、若干 の考察や 推察を計りみ てみたい。
( )明治九年八月盛岡にて創刊。最初月三回発行から後、隔日、日刊とな
註
る。同十六年一月改組、その後「岩手新聞」に改題し、変遷を経て現在
の「岩手日報」となる。当時、県の保護奨励により成長、不偏不党をモ
ットーとしていた。
(「地方別日本新聞史」二二頁)
創刊と 廃刊

(
)
青森 新聞の創刊は 、明治十二年 三月六日 である。その 論説欄に創刊 の
辞 が述べられて いる 。
( 小川渉の筆に なると思 う。
)
「(前略)回顧スレバ、北斗新聞社ノ青森ニ勃興スルヤ実ニ明治十年
三月ニ在 リ、吾輩共主 幹ニ任シ、 昨十一年十 月ニ至ルマテ 陸続発売
ス……第百号の多キニ登リ事業意ニ成ラス。(中略)然ルニ吾青森
- 69 -
い。
現 存する青森新 聞
現存するもの のみならず 、その存在 や内容を伝え るものを次 に上げる。
)
同十三年 二月六日(一 五四号) ~同十三年三 月七日(一六 九号)―
定 される切抜き 。その他年代 不明のも の―八木橋武 美氏所蔵
同十二年の三 五号、三六号 、三七号 の切抜き。三 八・一一〇号 と推
の記事
九月十日(三四六号)、同十八日(三五〇号)に転載された青森新聞
部を伝えるもの―日進新聞―同十二年八月十七日(三三四号)、同年

(
明治十二年 八月三日(六 九号)の 一部と、八・ 九月中(推定 )の一
京大 学明治新聞雑 誌文庫所蔵
明 治十二年三月 六日(一号) ~同十二 年四月十六日 (二〇号)― 東
但し、私の 探訪し得た 範囲であるこ とを、あ らかじめ断っ ておきたい。
①
②
③
④
八木橋武美 氏所蔵
1
3
2
於テ、第一 回議員選挙会 ヲ開クヘキ 旨布達セラ ル……吾輩憤 然躍起
県 令ハ、明治十 二年三月ヲ 期シ県会ヲ 開創シ……昨 十一年十二 月ニ
ある。発行 所は、本局― 青森県庁廊 内番外壱番 地(二号から 青森県庁門
青 森新聞第一号 の体裁は、 半紙二つ折 、表紙とも四 ページ、三 段制で
編輯 兼印刷―伊藤 祐胤である。 二〇号ま でこの形であ るが、一五四 ~一
際となっ ている。末永 氏は「廊内番 外一番地 」は二〇号ま でとし、県庁
余輩 、……大ニ新 聞ノ体面ヲ 改良シ、専 ラ実地目撃ス ル所ニ就キ
六 九号はタブロ イド型であ る。いつか らそうなった かはわから ない。三
シ、再ヒ 廃業ヲ挽回シ 、自ラ論壇 ニ上リ、博 ク与論ノ在リ 所ヲ公衆
其 理由ヲ究明シ テ、夫ノ宇 内ノ大勢、 国政ノ方向等 ノ如キ、余 輩ノ
五号などの切 抜きが、タ ブロイド型 のように思わ れるので、 比較的早か
「門際 」は第五〇号 ~第三八〇号 としてい る。現物と異 なる)真文舎 、
偏見ヲ以テ容 易ニ論了シ 難キハ、措 テ之ヲ顧ミス 。専ハラ一 県内ノ
ったので はないか。一 六九号の体裁 は、普通 新聞紙の二分 の一ページの
ニ示シ ……此ノ機ニ 乗シ、此ノ 社ヲ設クル 所ナリ 。
(中略 )
奇事異聞 ヲ揚ケ、普々 一県内ノ事 情ヲ明ニセ ント欲ス 。
(後略 )
」
大きさ で、表紙とも 四ページ、三 段制、毎 月十五回発行 、定価一枚一 銭
)
これに よって、三つ のことがわか る。一つ は青森新聞の 前身であり、
二厘 、一か月前金 十六銭である 。主幹― 元木貞雄、編 集長―陸実、 印刷
)
明 出来ない。こ の間の事情を 知る上で 次の史料が参 考になる。
治一覧表 。)役員三名を元木、陸、小川としても、創刊以来の伊藤が説

(
が亀田慎二となっており、役員三名、社員なしである 。(明治十三年県
ここで問題 になるのは 社員のこと である。県 の届出では、 社の持主名

(
本県 最初の新聞で ある「北斗新 聞」が、 明治十年三月 創刊、同十一 年十
長 ―小川渉。発 行所は、本局 ―前記二 号に同じ。支 局―弘前市土 手町六
)
月廃刊、一〇〇号まで発行されたこと。(この廃刊については疑問があ
十三番地とな っている。

(
る。前述した ように、郷 土館に複写 コピーではあ るが、第一 〇〇号が、
明治十一年八月二十六日付であるから、多分小川の記憶違いであろ
う。
)
)
もう 一つは、青森 新聞が、公選 議員によ る正規の議会 としては、初 め

(
「(前略)抑北斗新聞ハ我地方新聞ノ嚆矢ニシテ……当時、其版権者
て の県会に間に 合わせて発行 を急いだ こと。いま一 つは、全国各 地の新
聞が、天下国 家を論じ、互 いに論難 し合い、あた かも治外法 権の如き様
版権 ヲ予ニ譲ル… …版権ヲ還納 セシ…… 慎二カ再ヒ版 権ヲ乞ウ青森
タルモノハ 即チ庁舎ノ 事主慎二( 註……亀田慎 二のこと) ニシテ、
事実 、二〇号まで の青森新聞紙 面の大部 分は、県会傍 聴録であり、 論
新 聞 ヲ 刊 行 ス ル ニ 至 ル 。 乃 チ 其 脈 絡 ハ 北 斗 新 聞 ニ 貫 通 シ テ 、( 中
相を呈して いるのに反 発し、其地に おいて、其 地の情況が 知り得る新聞
説 にもさほど見 るべき主張は ない。し かし反面それ らは、官令、 雑報、
略 ) 将 来 ノ 旺 盛 ハ亦 新 タ ニ得 タ ル 所 ノ 貞雄 ( 註 …… 元 木 貞 雄の こ
刊行セントスルニ際シ予(註……小川渉のこと)ニ謀テ、(中略)
寄書、物価、 広告の各欄と 共に、当 時の県会や、 県内事情を知 る上で、
と)、実(註……陸実のこと)ノ諸子ト相謀り……草創以来相共ニ
を作り 、公衆の実益 に供する目的 であった こと。以上三 つがある。
恰好の資料 といえる。
- 70 -
勉 強従事スルモ ノハ、事主 者タル慎ニ 予ト佑胤子( 註……伊藤 祐の
参考にしな がらまとめて みると、
伝 」がもっとも 信頼される ので、これ をもとにし、 伊藤徳一氏 前掲書を
経営者― 菊地九郎、本 多庸一、榊 喜洋芽、田 中耕一、兼松 良、等東奥
こと)ノミ 。
(後略 )
」
(青森新 聞、明治十三 年三月七日 、一六九号 、小川渉の論 説)
会計 監督―須藤元 雄
義塾結 社人
森新 聞になっても 相協力し合い 、新たに 元木、陸を得 たことになる 。従
会 計主任―山鹿 元次郎
これに よると、亀田 、小川、伊藤 は、北斗 新聞以来の盟 友であり、青
っ てその創刊号 は代表者の み銘記し、 後、詳しくし たのであろ う。員数
記者―小川渉 、元木貞雄 、義塾教師 である今宗蔵 、花田平爾 、斎藤璉、
菊地と 本多は、青森 県の自由民権 運動の中 心人物であり 、後年、それ
等である 。
は、県の届出 数と合わな いが、この 五名で運営し ていたこと は、ほぼ間
違いない 。
右の史 料から北斗新 聞社の経営は 、経営難 から亀田と小 川が替わり番
ぞれ 、東奥日報社 長と青山学院 長になる 。
そ の他、東奥義 塾関係者民権 運動を推 し進めた人た ちばかりであ り、
青森新聞と本 県の政治動 向との関係 は深い。
さて、青森 新聞の廃刊 はいつか。 創刊は現物 があるから問 題はない。
しかし 、廃刊号はい つか。それに は二つの 説がある。
明治 十五年八月( 明治文化全集 一七巻六 一九頁。西田 長寿「明治時
代 の新聞と雑誌 」七二頁―内 務省図書 局目録等を参 考―)

(
)
明治十六年( 菊地九郎先生 小伝一一 三頁)
この他に仙 台で発行さ れた東北新 報の同十五年 五月三日付 「青森景況
欄」に 青森新聞発行 中の記事があ る。この ことから、十 五年代までは 発
- 71 -
にや っていること 、青森新聞の 路線も「 北斗」以来の 民党系新聞の 伝統
と 精神を引き継 いでいること がわかる 。亀田は金沢 、小川は会津 、伊藤
は京都出身と 、それぞれ 他県人であ ることが興味 深い。新聞 事業が本県
人によって 行われるの は、青森新聞 発行が、 東奥義塾に引 きつがれる明
治十四 年三月からで ある。
この 間の政治の動 きを見ると、 全国的に 国会開設の請 願が渦のよう に
ま き起り、各地 の新聞もその 筆鋒を明 治政府に向け た。いわゆる 自由民
権運動である 。青森新聞も 、創刊以 来の方針を守 ってはいた が、大勢に
)
乗り、民権 思想や運動 の普及につと めた。これ らの考察は 別の機会にし

(
行さ れたと見てい いが、十六年 には疑問 がある。東奥 義塾の民権派 に理
聞を圧迫し た。官憲が 、新聞紙条例 を盾にとり 民権派を弾 圧した時代で
郷田県令は、 ただちに官僚 擁護の陸 奥新聞を発行 して、民党系 の青森新
同十 四年三月から 青森新聞の経 営者が変 わったのであ るが、これに 関
参照) にある。
解 のあった山田 県令は、同十 五年一月 上京中に死去 しており、代 わった
ている (弘前大学「 國史研究」第 三三号、 五一号拙稿論 文参照 )
。
(二) (一)
す る新聞は、弘 前市立図書館 (末永氏 前掲論文参照 )と県立郷土 館(前
掲表
また、昭和 十年に発行 されている 長谷川竹南編 集の「菊地 九郎先生小
1
あ る。青森新聞 の印刷所が 、県庁注文 の印刷物によ って辛じて 経営して
いればなお さらである。 とすれば十 六年まで続 けられたとは 思えない。
の十六年 は、十四年三 月から数え て「両三年 」という計算 から割り出
したも のであるから 、本の性格上 、記憶に よる推定とみ てよかろう。
従っ て、コピーが 見つかった以 上、正式 な届出を尊重 するとして、
の 十五年八月を とらざるを 得ない。末 永氏前掲論文 では、五一 八号、同
十五年八月七 日発行まで わかってい る。
その後、青森新聞の伝統は、「青森新報 」、「秋田、青森、函館新聞」
に受け 継がれるが、 いずれも官憲 の弾圧で 廃刊を余儀な くされた。待 望
の「 東奥日報」が 菊地や東奥義 塾関係者 によって発行 されたのは、 明治
二 十一年十二月 六日である。
(
(
二十六日付一面のみ―展示―)結着はついた。
)」五五五頁―写
また、それまでの手がかりは、明治十一年四月八日(八一号)付のも
のを知るのみ であった(小野久三「 青森県政治史(
真版 として東奥日報社にて 保存、現物の所在不明― )。創刊からこの八
一号まで計算すると月六回強の発行。発行回数一〇〇として廃刊時期を
考えると、八月説でいい。
がしかし、以前の考え方は、経営者が交替し合いながら細々と続いた
という青森新聞の回顧談。並びに明治十一年二月九日付朝野新聞「青森
県通信」に官吏の愚民 観をいましめながら 、「当地にも新聞紙あれども
月三・四回 の発売にて旧聞のもの 多し 」、と嘆いて いることから考え、
計算して十月説も一時妥当と思われていたのは事実である。
)明治十一年四月から五月にかけての第二回地方官会議で、いわゆる三
新法の一つ府県会規則三十五か条が決められ、それに基づいて各府県に
府県会が設立された。本県も同十二年三月に県議会が開かれたのである。
)陸 羯南の 実名。明 治十三 年三月青 森蓮華 寺国会開 設建白会議に参加
(『青森県総覧』四九頁 )、後 、「日本」の社長兼主筆。国民精神の昂揚
樋手通有編―参照 )
。
に努め、官僚主義と藩閥政府を攻撃(『陸羯南全集』第一巻―西田長寿、
)参照。
て、後「会津 教育考」や「しぐれ草 紙 」、自伝「陸奥事情」などの著書
を残す。詳しくは註(
)この中で青森新聞の株金が二〇〇〇円、役員の給料一八〇円、売高の
純益金が二三〇〇円と記載されている。北斗新聞同様、経営は決して楽
)「北斗新 聞」の発行については 、再び、青森新聞発行一周年の明治十
三年三月七日一六九号に、小川渉が創刊号同様の文を書いているし、同
ではなかったと思う。このことは別の機会に考察してみたい。
) 拙 稿 「 青 森 県 の 自 由 民 権 運 動 ― 弘 前 地 方 を 中 心 に ― 」( 同 三 三 号 所
治文化全集』一七巻六 一一頁 。(創刊は一致している )―。ところが、
は本文を同じ十一年十月説であり、今一つは同年八月説である。―『明
しかし、廃刊については、前述した通り二説ある。詳述すると、一つ
議事が立案され、県下遊説の事、委員の選任、檄文作成が決まっている。
会合が開かれたのは、明治十三年二月七日である。ここで六条からなる
動の動きを追ってみた。これによると、弘前有志による国会開設請願の
収 ) で は、 青 森 新 聞 雑 報 欄 か ら 、 明 治 十 三 年 代 の 弘 前 地 方 の 国 会 開 設 運
号にも報じられており、創刊は間違いない。
廃刊号が見つかったので(郷土館所有コピー第一〇〇号、明十一年八月
(
じ頃出版された東奥義塾発行の「開文雑誌」同十一年九月二十九日第一
(
1
5
6
註
(一)
( )斗南藩士。会津から青森県に移住し、官吏や新聞記者、県会書記を経
(
6
- 72 -
3
4
(二)
1
2
さらに遊説家の斡旋、派遣など、二月八日、十二日、十四日、十八日付
に克明に載っている。二十六日付には国会開設請願の檄文がある。これ
には国政参与を天賦の権とする、進んだ民権主張も見られるが、なんと
いっても、国家の独立。国力の充実を図る、国権的民権論であった。
また、拙稿「国会開設運動期の動向―明治十二年代を中心に― 」(同
五一号所収)では、前論文で考察されなかった明治十二年代の動きを、
青 森 新 聞 を 通 し て 追 っ て み た 。( 尚 、 こ の 論 文 は 、 こ の 年 の 史 学 雑 誌
「回顧と展望」に取り上げられた。また、文部省学術奨励金(B)の援
助を受けたものである)
明治十二年八、九月には、千葉県桜井静(県会議長ではなく、一村会
議長であったと、恩師東京経済大学教授色川大吉より御教示を受けた)
~
)」は、遅れ た東奥を興すことを主 眼としているが、当時の経済思
が、なんといっても、青森新聞の主張をリードしていたのは小川渉で
想を知る上で面白い。
あり、彼の思想的背景の究明が、青森新聞の性格づけになると思う。こ
小川の論は、当時の青森県の民情を非常に意識しており、その立場は、
れについては拙稿前掲論文でも若干考察した。
必ずと いってそこから出発 している。彼の随筆「陸奥事情 」(東京の御
子息牧師 小川喚三氏宅訪問、 写真版にす 。)には、青森県の人民をして
「 無 気 力 な り 、 無智 識 な り 、 鄙 屈 な り 、 固 陋 な り 、 怠 惰 な り 、 教 化 に 浴
せざるものなり、礼儀を知らざる者なり」と酷評し、中でも津軽の民は
「愚にして黙な れる 」、南部の民は「 愚にして真なる」としている。彼
の 長 年 の県 会 書 記 と し て の 目 か ら 映 っ た も の か 。 し か し 、 そ れ を 打 開 す
る ため に は 、
「如此き民を統治する官吏」は 、
「自由自治を主義」とせず
に 、「誘掖引導を主義」と すべきであるという。青森新聞の発行も、こ
の「国会開設懇請協議案」に対する、青森県会議長大道寺繁禎の、再三
にわ たる断りの返書が載っ ている 。(対 照的に、岩手県会議長上田農夫
)自由民権派の新聞で、社長―高瀬真之介、編集長―小沢車民、印刷人―
ういった考えから出発したと思う。
」
(表 2 )
は賛成である。両県の違いは、次の論争にも表われている)
。
(
青 森新聞は 隔日発行であ った。しかし 、必ずし
もその通り発 行されて はいない。明 治十二年三月

(
から、同 十三年八月 までを調べて みると、一 年間
推定すること は容易で ある。しかし 、前項で見た
五 年八月に廃 刊となった として、その 発行回数を
従っ て、このま まのズレで 順調に発行さ れ同十
に一か 月のズレが あり、二か 月平均十四回 である。
)
小柳津親雄である。政府攻撃も鋭く、東北有志会の動きが詳細にわかる。
138
13
1.1~12.31
168
14
1.1~3.5
同じ頃、同十二年八月三日付には、青森新聞記者の小川渉が、国会開
3.6~12.31
設尚早論をかかげ、岩手の日進新聞記者矢幅政教と、再三にわたる「み
発行 回数
29
12
- 73 -
9
発行回数
ちのく国会開設論争」を行っている。その後、岩手の雑誌盛岡新誌もこ
7
月 日
4
明治年
れに一枚加わっていることが判明し、前掲論文にも紹介している。
このことについては 、「東奥日報」昭和四十二年十二月二十一日付夕
335
計
刊に「津軽、南部の国会開設論争」と銘うって発表した。この論文は、
青山学院大学教 授沼田哲氏より 、「こういう地道な研究が大事」と称賛
され、黒瀧十二郎博士からも誉められた。
この時期の青森新聞の論説の主なもの を拾ってみると、一六五号の
「 非 国 会 論 者 ニ 告 ク 」( 陸 実 筆 か ) や 、 一 五 四 号 の 「 議 員 選 挙 者 ニ 告
ク 」(外崎覚蔵―工藤― )があり、国会開設や県会の重要性を訴えたも
のである。さらに一五五号から一六八号まで連載している「合資論(
1
通 り、十四年に 経営者も変 わり、次第 に官憲の圧迫 も強くなり 、発行部
数も減って きていること (後述)か ら、それ以 前よりは相当 なズレをも
って発行 されたとしか 考えられない 。
にな
に 四・五月が二 ・三日置きに 発行
今、十 二年から十四 年初頭までの 発行回数 を推定してみ ると表
る。 十四年三月以 降については 、表
さ れている。し かし、経営 も東奥義塾 に移り、印刷 業が主で新 聞が副業
であったこと 、経営も苦 しかったこ とから、それ 以上の発行 を推定する
日 が よ う や く 一六 九 号 と な っ て い る 。 大 体 一 年 に 一 か 月 の ズ レ が あ る と
したのは、このためである。この計算でいくと、十三年八月に二五二号
が発行されたこととも合う。
ただし、この計算は、隔日発行なので、日曜、大祭日、年末年始を考
慮していない。
発行部数
部弱 となる 。
)
県に届出さ れている 青森新聞の発 行部数は、 次の
北 斗新聞と思わ れる。こ れについては 前述した。こ
「毎 月十五回、 枚数一四一 、五〇〇枚、 管内配
ように なっている 。
770枚
青森新聞( 毎月十五 回)発行部数 表(明治四十
年、青森県治 一覧表)
達数 七八〇枚、管外配達数七二〇枚」(明治十三
(1)
ことは難 しいので、こ こでは割愛し た。
29
)
五年四 月十一日発 行東奥日報第 七〇〇九号 「本誌
と本文
の発行回数 (推定)を使 って、各年
発行 前後の新聞 」より )
(表
表
に
から 、明治十 二年は、一、 五八〇部強 、
における一回 の発行部 数を推算して みると、表
なる 。
(表
にあ る明治十一年 のものは 、
同十三年 は、二、 四〇〇部強、 同十四年は、 七七〇
の表
れを、十一年 だけで推 算すると、一 、三〇〇枚近 く
るとして 、一回四〇 〇部が妥当と 思われる。
なるので、 十年三月創刊 から十一年 八月廃刊ま での一〇〇号 を指してい
同 14年
この表 で見ると、二 年間で三三五 回、一年 間では、一六 八回弱となる 。
正式 な隔日発行だ と一八二回強 であるか ら、大体順調 な発行といえ る。
1.1~3.5
(2)
従 って、一年間 の発行回数は 一六八回 より下回るも のと考えられ る。割
14
3
愛した十四~ 十五年にか けては、十 五年八月の廃 刊号が見つ かった。十
同 13年 404,765枚
4
四年は最初 は二・三日 置きの発行で あったが 、十五年の廃 刊まではよく
同 12年 218,467枚
2,400枚
4
わから ない。
1,580枚
168
4
註
( )現存する一号から二〇号(明治十二年三月六日~四月十六日)を調べ
138
1.1~12.31
3
てみると、一~四号まで隔日発行、五号で一日遅れ、六~一六号まで隔
日、一七、一八号一日遅れ、一九号で一日短縮、二〇号一日遅れとなっ
ている。従って、最初の一か月間(三月六日~四月四日)に一日のズレ
だけで、比較的順調に発行されたと見てよい。しかし、二〇号までに三
日の遅れとなり、その後、八月三日に六九号が出ているのだから、大体
3.6~12.31
13
明治11年
2
一か月に三日のズレを持って発行されたことになる。翌十三年二月六日
22,320枚
12
3
- 74 -
5
月 日
1回の
発行回数 発行部数
1
に一五四号が出 ており(順調にいけば 一六九号に当たる )、同年三月七
(表 3 )
(表 4 )
40,150枚
明治年
(2)
1

(
)
部 数も大体この 前後である ―)
①は、前に 北斗新聞につ いて述べた 史料「弘前 五六十、県下 四百」か
a 表の明治十一 年だけは、 会計年度方 式をとり、そ れも大まか に十年
の発行月から数えたものと思う。と同時に、四〇〇部というのは 、「北
ら計算し て二倍、即ち 、八〇〇部近 いという ことになる。 ②も二倍とい
で も十
斗新聞……弘前ニテハ五六十……県下ニテハ四百ニ満タズ…… 」(開文
の表
4
4
)
聞経営の 困難さから想 像すると、最 盛期でも 、八〇〇部ぐ らいであった
)統計寮の調査が暦年であったのに対し、内務省図書局の調査は、わが
国が、当 時、採 用してい た会計 年度によ ってな されている( 西田長寿
(

(
と考えら れるから、十 二年にもかか っている し問題はない 。しかし、十
)
は、いずれ も県への届出 資料が基 となっている が、当時の状 態

(
従って、次 なる青森新 聞部数に関 する史料を 、参考にする 他はない。
「『 遐 邇 新 聞 』 発 行 に 関 す る 若 干 の 資 料 」 新 聞 学 評 論 一 四 号 所 収 四 七
の県治一覧表は、その方式をとっていると思われる
の資料は暦年方式と思う。ただ、明治十一年に限り例外と見たの
)伊藤徳一前掲書五頁でも、明治十三年は二〇〇〇部近い発行があると
である。
が、
と にな る 。 本 論 の
頁 )。会計 年度方式だと前年の七 月一日から当年の六月三十日を指すこ
「毎 号 発 行ス ル 所 ノ多 寡 ヲ 比 較セ バ、 実ニ 北 斗新 聞ニ 倍シ …… 」
)
(
(
(1)
(青 森新聞明治十 三年三月七日 一六九号 、小川渉の論 説)

(
弘前では「購読者僅か七十余軒、百軒に増さんと努力……」(明治
十二・三年、 青森新聞社弘 前支局開 設当時、支局 長であった 山鹿元次
郎回顧談― 伊藤徳一「 東奥日報社 史」六頁、右 田十郎「山 鹿元次郎小
伝」四 六頁―)
「明治十二・ 十三年の頃… …新聞発 行部数は、七 、八百枚で、 日刊
)
ではなかった。」
( 菊地九郎先生 小伝一一 二頁)

(
「 青 森 新 聞 、 日 に 九 〇 〇 枚 余 」( 明 治 十 四 年 一 月 三 日 付 「 東 北 新
報」の青森 新聞に関す る記事―尚 これによると 、東北各地 の新聞発行
(2)
①
註
と思う 。
いずれにせよ 、当時の交 通不便な東 北地方、とり わけ、青森 県での新
四 年代は減って きている。
う点で は大体合う。 ③は、このこ とを裏づ けしていると いえよう。④ も
が大体一 致するのは 、明治
雑誌第三号、明治十二年一月三十一日付「東奥推励論 」)と一致するか
の表
部数 は近いが、十 四年代という ことにひ っかかる。前 の
と
らで ある。
し からば青森新 聞であるが 、
(2)
は十三 年のもので あるが、会計 年度方式を とっている
(1)
三年は 多すぎるし、 十四年は少な 過ぎる。 十四年に部数 が減る理由は 、
十二年である 。
(2)
してはいるが、頗る疑わしいとも言っている。
で述べた通り、
) 伊 藤 前 掲 書 、 並び に こ れ を 引 用 し た 『 弘 前 市 史 』 明 治 、 大 正 、 昭 和 編
四一一頁では、明治十二年としている。しかし、本文
載っている。十二年中に作られたことを否定するわけではないが、両書
現存する青森新聞では、十二年のものに弘前支局名がなく、十三年には
3
②
③
④
1
2
3
- 75 -
(1)
前述 した外部条件 が作用してい るとして 、十三年はわ からない。
と
(2)
から見て必ず しも正確な ものとは言 えない。
(1)
(
の元になっている山鹿元次郎も十二年とは言っていないのである。青森
事件」と「 青森新聞」の 紙面の分析 である 。
「事件 」
(後述)に ついては、
であるが、今後の課題としたい。さらに課題としたいのは 、「弘前紛糾
は明治 十四年の ものであるが 、末永氏論考 に
たい 。陸実も関係 した建白書を 携えて本 多庸一、中市 稲太郎の両名 総代
「弘前 紛糾事件」に 至るまでの、 本県の自 由民権運動の 動向を概観し
なかった と思うが、小 川渉が事件を 報じたか 興味がある。
塾の面々の動 向が知りた い。菊地は 事件の渦中に あり、それ どころでは
見 故、推測の域 を出ない。 当時の記者 小川渉、経営 者菊地九郎 や東奥義
ある 五一八号は明 治十五年八月 七日の発 行である。残 念ながら筆者 は未
あれば 大発見である 。表
従来「青 森県総覧」か らのみ引用さ れている 。もしも青森 新聞に記載が
新聞が発行された年を言ったのであり、話の内容も十四年頃までのもの
を一括して回顧している。従って、筆者は今のところ十二年より十三年
をとっている。ここでは慎重を期して十二・三年とした。
)「日々」が日 刊を指すかどうか、詳 らかでない。十二・三年頃まで隔
日発行で、十四年に日刊となったとは、当時の新聞経営上から見て考え
られない。従って、ここでは「一回」と解したい。
( )西田長寿前掲論文四八頁では、東北でも古い秋田の「遐邇新聞」の場
合、明治十二年度、年間発行回数二五〇回として、一日の発売高七六五
部強と推定されている。この新聞は日刊ではあるが、東北の裏日本各県
の発行部数は、大体このように少なかったと考えられる。
と して上京し、 国会期成同盟 第一回大 会開催の翌月 、すなわち十 三年四
以上 述べた如く、 本県の新聞 界は、中央 から十年ぐら い遅れて動 き始
われた 集会条例が出 され、民権運 動への大 きな障害とな った。国会開 設
時を同じくして、「苛令酷律の圧迫 」(『自由党史』上二七九頁)とい
月十二日に元 老院に提出 した 。
(近事評 論第二六〇号 四月十八日)
め たといって よい。北斗新 聞でさえ明 治十年から 、青森新聞に 至っては
上願 書も拒否され た同年十一月 、国会期 成同盟第二回 大会が開かれ 、青
及び、民権運 動は平民民権 へと傾斜 し革命的色彩 を帯びてき た。菊地九
同十二年創 刊である。大 きく見ると 明治政府が 、自由民権派 を抑えるた
地方に おいて、文明 開化と自由民 権が時期 を異にして継 起したのでは
郎は「不慮 に備え、以 て後顧の愛を 絶」つ遭変 者扶助法名 簿に、有志一
森 を含めた二府 二二県の同盟 員一三万 余人の代表者 六四名が参加 するに
なく 、同じ時期( 明治十年代 )に重なり 合い絡み合っ て機能した (色川
等十三人と 共に会の趣 意書決議した 。
大会終了後、 菊地は、本多 庸一と共 に東北有志会 に参加し、河 野広中
自 由党 」
( 服部之総『明 治の革命』一 二五頁) が生まれたの である。
ここに「我日本国民の当に同権なるべき 」(同三五頁)を信ずる「暫定
五〇名 総代として名 を連ねたので ある 。
(『自由党史』中一九~二六頁)
めに新聞 の取り締りを 始めた時期に 、本県の 新聞は創刊さ れた。
おわり に
1
大 吉『明治精神 史』三八三 ~四頁)と いう。
本県の新聞 が、民権派と して誕生し たは過然で はない。当時 、本県に
薩長奸賊 という意識が あった。それ にもまし て、開かれぬ 地方を興さね
ばなら ぬという先覚 者の使命感が 、青森新 聞をして、発 行せしめた。
その 新聞経営上の 困難点の究明 に、今一 つ肉迫出来な かったのが 残念
- 76 -
4
5
6
こ の筆者の見解 に広島大学 の河西英通 氏より、もっ と大局的に 全国的
本稿は 、当初「青森 新聞に関する 若干の資 料」と題して 、史料紹介の
こ の内容は、国 家は個人の 自由権…「 此権利を失う ときは生命 財産を
権利を 拡張し、社会 を改良し、以 て道理の 境域に逍遙せ ん」というき び
積り で提出した。 しかし、こち らの草稿 の意図が編集 者に伝わらず 、そ
に事件を分 析すべきとい う御指摘を 受け、本多 、鈴木、河野 の「東北の
しい 現状からくる 決意が見られ る 。
(『河野磐州伝』上三八〇頁~一頁)
の 後収集した史 料と並列し て出した結 果、今少し、 内容のブラ ッシュア
保ち得ない 」…を保護せ んが為にあ るという国 家論、国民の 権利と自由
続 いて翌十四年 一月二十九 日付東北新 報に「東北有 志会原案」 が発表さ
ップとレベル アップを要 請され、題 名も本県の自 由民権運動 と連動させ
三傑」の 考察も今少し 深めたいと思 っている 。
れ「権利自由 ノ主義ヲ」 妨げる者は 「之ヲ排斥ス ル」という 遭変者扶助
る執筆方 法をとった。
が殆んど「其過半を掠奮せられたる如し」、
「吾党同 志を結び本会 を設け、
法が加わ り、会の性格 は、絶対主義 政府に対 抗するブルジ ョア民主主義
私の ライフワーク は「自由民権 運動史」 であり、もっ ともな御指摘 と受
当初は 、秋田の新聞 を紹介した西 田長寿氏 の手法を真似 たのであるが 、
由党 」の結成を見 るに及んで、 河野の合 法主義と戦術 的考慮が現わ れて
け とめ書き直し た。しかし、 これは本 当の意味の本 県の自由民権 運動史
革命の 色を濃くした が、会におい て採択さ れず、同年三 月「東北七州 自
い る。党の結成 には、本多の 他竹内千 代太郎、桜田 静が参加して いる。
由民権史を とりあげて おり、それと の統合、 融合が出来て いない。果た
ではない。筆 者は別に、 県内にある 「八戸地域史 」に数回南 部地方の自
政府の国会 開設の詔勅 で、自由党 の成立を見 る。青森県か らは服部吉
して「 青森新聞」が 八戸地方で読 まれてい たのかも探求 し得ないでい る
(東北新報明 治十四年三 月十日)
之丞唯 一人であった 。
(『自由党史』中七九~八三頁)青森県は反対派の
ので ある。
(はしもと ・まさのぶ
弘前大学國 史研究会会 員)
げ、県全体の 運動史は、今 後の課題 としたい。
従 って、本題の 青森県は津軽 地方に限 られた論考で あることを申 し上
攻撃 の前に、菊地 、本多が苦慮 、いわゆ る「弘前紛糾 事件」である 。
拙 稿「青森県の 自由民権運動 ―弘前地 方を中心に― 」では、この 「事
件」を次のよ うに分析して いる。保 守派上級士族 大道寺繁禎 、笹森儀助
等は共同会 の主張に反 対、山田県令 が本多、菊 地等十二名 を集め双方の
和解を 試みたが(同 十四年十月) 保守派の 反対が強く、 翌十五年山田 県
令の 病死と共に表 面化し、旧藩 主も動員 しての共同会 攻撃の前に、 同十
六 年四・五月頃 共同会解散 。
(『青森県総覧』五五~五七頁)
保守派勢力の 強い土地の官 民調和的 民権運動も、 単なる士族争 いに終
始した。
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