「退官後すでに 20 数年」 大阪大学名誉教授 西田俊夫 大阪大学工学部に新設された応用推計学講座の担当教授として、 私は昭和 42 年(1967 年)2 月に赴任し、平成 2 年(1990 年)3 月に 退官するまで、23 年間にわたり応用物理学教室にお世話になった。 その間、3 代にわたり助教授(今は准教授というらしい)として、 児玉正憲、田畑吉雄、石井博昭の諸君に全面的に支援していただ いた。また助手(今は助教)では、中島信之、栗栖 忠、竹田英二、 塩出省吾、大鋳史男、新森修一の諸君が活発に働いて下さった。 これらの方々のうち約半数の方はすでに定年を迎え退職してお られる。まだ現役の方はそれぞれ要職について活躍しておられる。 日本 OR 学会は私の関係する学会のうちで主要なものであり、私は現在名誉会員であるが、行方常幸君は北 海道支部長、大鋳君は中部支部長を経験され、現在は塩出君が関西支部長、大橋 守君が中国四国支部長をし ておられる。阪大での私の研究室の諸君は北海道から沖縄まで広範囲に分布しており、地方の旨い酒の案内 に事欠くことはない。 阪大工学部全体の同窓会である阪大工業会が主催し、1976 年に始まった夏期数学講座には最初から私は関 係していたが、今年は 37 回を無事終了した。これだけ長期にわたりよく続いたものだと自分でも感心してい る。この講座に応物出身の方も何人か聴講しておられる。毎年、 “来年も生きていたら、またお会いしましょ う”といいながら、すでに数年経過してきた。 私が阪大に着任したときは、工学部はまだ東野田にあった。新設講座なので研究室を一ケ所にまとめるこ とができず、方々に分散していた。一つの研究室は裏門のそばで、怪しげな旅館がすぐ前に見え、研究環境 としてはあまり良くなかったが、学生諸君は真面目によく勉強していた。その頃からぼつぼつ学年運動が盛 んになり、会議も頻繁にあり、夜遅くなることが多かったが、京橋辺には飲み屋も多く便利であつた。 工学部は 3 年がかりで東野田から吹田へ移転した。1970 年には大阪万博が開催され、私の部屋からソ連館 がすぐ前に見えた。私は自宅が箕面にあるので車で通勤するにはよかった。しかし夜の会合もかなりあり、 電車通勤も多かつた。車では 15 分くらいのところが電車では 1 時間半もかかった。 私の勤務した大学は 4 つあり、神戸大学に 9 年、甲南大学に 3 年、大阪大学に 23 年、大阪国際大學に 13 年、合計 53 年にわたった。それぞれ学部、学科、講座、大学の新設であり、その都度、設備、図書などゼロ から出発し苦労も多かつたが、伝統にとらわれず自由に行動できる点は良かったと思っている。各大学の同 窓会とは現在も関係があり、会合にも時々出ている。 このようにして完全に退職したのは 75 才のときである。それから現在まで 10 年余りである。その間、ベ ンチャービジネスに関係していた。最初のうちは、会長として毎週何回かは会社に出ていた。製品は主とし て FRP であつた。FRP の原料はガラス繊維、樹脂、そして特殊な土であり、その混合比率と生産方法により、 性質と品質にかなりの差を生じる。FRP はヨット、地下鉄、パイプなど強度を必要とする製品に多く利用さ れている。鉄よりはるかに強く、また腐蝕しにくい。当社では強化 FRP の開発を目的としている。製品の主 体はパイプで中国の石油掘削用を目指していた。 中国の山東省の有名な泰山の麓にある泰安市に巨大なガラス繊維の会社があり、そこと取引があったので 私も行ったことがある。泰安の近くには曲阜があり孔子のいた頃の魯の国の魯は現在でも山東省の車の番号 プレートに用いられている。泰安へは上海の国内空港の虹橋(ホンチャオ)から飛行機で山東省の省都であ る済南へ飛び、そこから車で 1 時間あまりである。最初は強化 FRP の研究開発を主体としたパイロツトプラ ントで出発したが、中国の無錫に工場を作り、そこへ私も行った。当時は無錫へは上海から汽車でも車でも 2
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