会報48号

ふるさとぶらり町歩き【1】
2012年
東大阪文化財を学ぶ会
花園~川中新田
3月25日
事務局 TEL&FAX
会 報 NO 4 8
06-6777-2137
第1回例会
4月
15日(日)小雨決行
1.集合時間
午前9時(時間厳守)
2.集合場所
近鉄奈良線
何かあったら
河内花園駅改札出て北側
南携帯
ロータリ付近
090-8375-9655へ
3.参 加 費
無料
4.参加申込
今回は事前参加申込をとりません。集合場所に遅れずに参集して下さい。
5.案内解説
東大阪文化財を学ぶ会員による解説があります。
6.昼
午後1時頃解散予定。弁当不要。
食
7.コース(予定)
河内花園駅→花屋敷遺跡(パザパ花園)→富景楼跡→「松一」の銘菓『甚兵衛』→西昌寺(慶長14
年銘の十三仏板碑、地蔵菩薩)→「塞」の神(堤防跡)→吉田の春日神社→吉田墓地(松尾芭蕉供養碑
と吉田思玄の墓)→松原南地蔵尊(松原宿跡)→賽の神神社→中甚兵衛顕彰碑→吉田駅
①花屋敷遺跡
江戸時代の吉田川と菱江川の堤防跡地に立った花園商店街が消えた。滅びた。だけど、花園駅前・シ
か
き
ョッピングセンター東側の地下2メートルから、13世紀~15世紀の「瓦器破片」が大量に出土した。
中世の顔が見えてきた。さきの「瓜生堂遺跡」(寺跡が出土)が13世紀。英田南小学校の塀際(北
側)にある「一石二尊地蔵」が室町時代(13世紀)といわれているからつながってきた。居宅跡かも
しれないと言うから胸がわくわくする。遺跡名が荻田昭次先生が調べておいた「花屋敷」遺跡である。
大量の瓦器破片。瓦器は11世紀から14世紀にかけて瓦質燒成の土器、灰黒色の”黒色土器”の系
列につながる。
火鉢、壺、甕、鍋、焙烙、すり鉢などの日常の瓦器を”瓦質土器”として椀や小皿類を”瓦器”とし
ているから、製作技法の違いから、楠葉、大和、和泉、紀伊、丹波、近江、伊賀型と流通圏がわかって
いる。地下2メートルの砂質面より、遺物が出土しているのは、ここが旧吉田川の流域、商店街は堤防
跡、もう一つの川「菱江川」が象の鼻のように旧市役所跡へ向かっていた川の分岐点吉田(「ヨシ
タ」)である。この場所に現在駅前再開発ビル「パザパ花園」が建っている。
≪参考≫
○14世紀末に守護代遊佐氏によって若江城築城(河内国守護所1477年まで)
城下町が若江小学校、幼稚園あたりに城郭があった。
○出土した遺物
旧玉串川の自然堤防の微高地に建物群跡。柱穴、丸瓦、井戸、貯水施設(桶)。溝
陶磁器
中国製の白磁、青磁。愛知の常滑焼、瀬戸焼。備前焼、土師器多数。漆器椀
機織、鉄滓
北宋の銅銭、大觀通寶、元符通寶(2枚)
-1-
木簡二札、
たてまつる
「西方源三 上 」
西方国賢(嘉吉の変1399年以後、畠山持国に近侍。河内国守護代に)
「□(吉か)田八郎小麦十九把又ハ□(苧か)カラ六把」苧(からむし)茎は繊維の材料の一種。
地名(字名)「市場」「川島」「花屋敷」
吉田、 ヨシタと読む。濁らない。
あかた
もと英田郷で六鄕荘と呼んでいたが吉田村と言う。(大阪府全志より)ヨシタはアイヌ語で一本の河
が二つに分かれる分岐点をいい、津原神社裏(花園北小)で吉田川と菱江川に分かれている。
②富景楼跡
吉田思玄は、「農にして学を好み、家にて数千巻の書籍を蔵せし」「宅辺に書院を築き富景楼と名付
け近隣の文化人来たれり」と大阪全志にあり、しかも片桐侯はこれを聞いて感激し和漢の書籍と田地二
百石を贈ったという。図書館の第一号である。なお、生駒山人が作った「富景楼十景」がある。
③「松一」の銘菓『甚兵衛』
大和川付け替え工事は宝永元年(1704)である。南から北へ河内平野を横切って淀川と合流して
いたのを、洪水を防ぐ目的で国分から西へ真っ直ぐに流そうとした立役者が中甚兵衛であり、今米には
川中邸の南隣りに中甚兵衛像がある。
郷土の英雄。中甚兵衛さんを郷土菓子に仕立てたのが「松一」の銘菓『甚兵衛』賞味あれ。
④西昌寺の十三仏板碑
西昌寺の本尊は元禄
12年の銘のある美し
い姿の阿弥陀如来だが 、
境内には慶長14年(1
609)の銘のある十
三仏板碑がある。近畿
では珍しく上部が三角
形で高さ100㎝巾5
5㎝砂岩に十三仏を二
段(上段中央に一体、
左右に各三体、下段に
六体)に配している。
この年は秀賴が京都方
広寺の大仏殿建立をは
じめた年で対島宗氏が
朝鮮国との間に貿易協
定を結び、倭館が釜山につくられた。つまり、家康の強硬姿勢が強まろうとする時代でもあった。
十三仏は、初七日から三十三回忌に至るまで、十三回の供養、仏事に使われていた。初七日(不動明
王)、二七日(釈迦如来)、三七日(文殊菩薩 )、四七日(普賢菩薩)、五七日(地蔵菩薩)、六七日(弥
勒菩薩)、七七日(薬師如来)、百ケ日(観世音菩薩)、一年(勢至菩薩)、三年(阿弥陀如来)、七年
-2-
(阿閃如来)、一三年(大日如来)、三三年(虚空蔵菩薩)の順に仏(如来と菩薩)が配当され板碑に
彫られている。
川勝政太郎は、「室町時代の初め、極楽浄土信仰と地蔵尊信仰が結びついた」という。髪切の慈光寺
裏山の十三仏は有名だが、市内に5基、生駒山を中心に大和、河内、摂津に密集しているというのも面
白い。我々にとって身近な仏さんが彫られた十三仏板碑は、大別すると追善供養塔と逆修作善塔に分け
られる。逆修作善塔は建立者が生前の善行によって功徳を積み、まだ生きている内に自分やその家族の
死後の安楽を願って造られたもので、造立の場所は寺院境内もあるが、道路の辻や見晴らしの良い場所
など人目につきやすい場所に立てられたという。
西昌寺の十三仏板碑は老いた者が生き残り、若い者の冥福を祈った逆修追善供養塔ではないかと考え
られる。
⑤流れてきた子安地蔵尊(西昌寺境内)
この地蔵菩薩像も作者、年代とも不詳だが、一本木造りで等身大の立派な像で彫りの深さや丁寧さか
ら見て鎌倉中期の作品と考えられる貴重な地蔵菩薩だ。室町時代に洪水の後、上流から吉田川に流れて
きて、この辺りに漂着した地蔵菩薩を一貫上人が地蔵堂を建てここに祀ったという言い伝えがある。実
はこの話に付録があり、口伝によると、幾躰(3躰)か作られた像のうち、この像のお顔がふできで川
へ流したところ、吉田辺りの川中から後光がさすのを見た人たちが「勿体ない」と拾い上げ、一時堤の
上で丁寧に祀っていたが、もとの大和小泉の善隣寺へ返すことになった。しかし、河内吉田の人々の人
情の温かさに心動かされたのか、しきりに「吉田に帰りたい」といわれて、そこで改めて大和小泉、矢
田へ出向き貰い受け、爾来、この地に祀られているとのこと。(*江戸時代、吉田は大和小泉藩の領
地)
そのような言い伝えのある地蔵さんだが、霊験あらたかなお地蔵さんとして、地元の信仰が今も厚い。
不思議なことに、黒いお顔から想像できないが目からは霊験あらたかな光が出ている。一度ご覧になる
といいかと思う。
地元の人によると親の代より何代も前からこの地域に地蔵講が組織されていたようで、代々地域ぐる
みでこの地蔵菩薩を守り崇敬されてきた。日常的な世話や、月2回ご詠歌や地蔵盆でのお祭りなど生活
の中に地蔵菩薩が生きており、子ども達にとって大変良い情操教育になっている。また、平成4年には立
派なお堂も再建されており、地域の信仰心の篤さを実に物語っている。なお、この地蔵堂の前には役行
者堂があり毎年若者を中心として大峰山へ修業に出かけている。
この吉田は、我が子の健やかな成長を願うだけでなく村全体の平穏で豊かな暮らしを願う村落共同体
的な雰囲気がまだまだ残る町だ。
このほか境内に天保11年(1845)の線香立てや手水鉢、花立がある。
なお、西昌寺門前の角に道標がある。この道標はユニークな絵文字が使われており見る者の心が和み
楽しくなる。
⑥「塞」の神
ここの「ヨシタ」の地名は一本の河が二つに分かれる分岐点をいい、実際、津原神社裏で吉田川と菱
江川に分かれていた。この辺りは大きな洪水もあったが、土地が肥えて作物もよく育ったので「吉田」
とも言ったと考えられる。
文政 1 3年(18 30)の村明細帳によると、小祠は2ケ所にあり、「何神とも相知不申候」と記され
-3-
ているが、吉田川の堤防跡にある石造物(祠)これと同じモノが英田北小学校の北西の小山にある。両
方とも川があふれたら村落を守るために堤防をきる場所である。だから、平素からムラの入り口を守る
神、「塞の神」である。ご神体は、実は12個のきれいに洗われた河原の石で、江戸時代、文化文政の
頃大水が出て12軒の人が吉田新家(字名)に移った人たちが二度と洪水が起こらないように「祠」を
つくり以来お祭をしてこられたからである。文化文政の頃以来、実に200年近く続いているが、今年
も8月12日にお祭をされていて、「祠」の草を刈り、お供えを供え12軒の人たちが集まって一斉に
「かしわ手」を打って家内安全、村内平和を祈っておられた。また、塞の神は、「歯神さん」と呼ばれ
歯痛を治す神としてもあがめられていた。上の写真の祠正面に小さな穴が開いているが、この穴に”抜
けた歯”を入れて新しい丈夫な歯が生えてくることを祈った。
右写真は、石造りの明神鳥居で文政13年の銘がある。
この塞の神(道祖神)は、大きな自然に対して「祈る」ことで、自然を守り、自然に対して謙虚に生
きようとしてきた人々の切ない願いが込められた民間信仰の典型のように思った。
ほこら
吉田川の堤防跡に立ててある石造物( 祠 )これと同じモノが英田北小学校の北西の小山にある。両方
とも川があふれたら村落を守るために堤防を切る場所である。だから、平素からムラの入り口を守る神
「歯神さん」と呼ばれ歯痛を治す神としてあがめられていた。
⑦吉田春日神社は、「ラグビーの守り神」
この辺りは市場(字名)といわれ、村の旧記によると、奈良の春日神社の四柱の神(アメノコヤネ
神、、ヒメ神、フツノヌシ神、タケミカヅチ神)を勧請したとある。創立年不明だが、古くは「松の
宮」と称し当地の先祖を神として祀った氏神社だった。本殿は江戸時代(享保5年、1720年)に建
立されたもので、東面する「二間社入母屋比翼造」とする春日造で全国でも稀有な構造であり、桧皮葦
の社殿二棟を渡り廊下でつなぎ彫刻、彩色の非凡さを併せ、1つの社殿に二柱の祭神を祀る相殿は珍し
い形式であり貴重な建造物である。昭和49年、市の有形文化財に指定されている。
秋例大祭が毎年10月15、16日に行われており、15日には神酒献上の儀式ともいえる、農作物
の豊かな穰りを神に感謝する「酒くらべの神事」があり、16日の夕刻には、各地域の自慢のだんじり
(地車)太鼓台(ふとん太鼓)の宮入行事がある。
注目すべきは高校ラグビーのメッカ、近鉄花園ラグビー場が近くにあることもあるが、祭神が「武
人」の神、フツノヌシ大神、タケミカヅチ大神が祀られていることからかラガーの守護神となり「ラグ
ビー神社」と呼ばれるようになってきた。社殿にはジャンボラグビー絵馬が奉納されている。また、初
詣をかねて「必勝祈願」に参詣する高校、大学、社会人チームが多くなった。大会中には東大阪の企業
グループがラグビーグッズを販売しているが、その中でも名物にもなっているのが「ラグビーお守り」
である。
⑧吉田の二尊仏
吉田5丁目にガラス張りの小堂にあって、高さ54㎝幅50㎝の長方形(花崗岩)に、左に地蔵菩薩、
右に阿弥陀如来、建立年日や建立者の銘なく、室町時代後期(15世紀~16世紀)といわれいる。
この時代のものとしては、大伽藍のあった瓜生堂遺跡や岩田墓地の東北隅で、鎌倉、室町時代の瓦が
出土していることから考えて、人が住んでいた様子がうかがえる。
⑨芭蕉供養碑と吉田思玄の墓
-4-
道しるべの石造碑は、西昌寺前の高さ81㎝の四角錐の道標。東面は「平野本山道」。西面は、「右
山吉田村忠兵衛」北面に「弘化4未年(1847)」とある。又、商店街の北に「おふくさん」は戦
前、下島にあった。「おかみ屋のおふくさん」のこと。
芭蕉供養碑は吉田墓地にあって高さ64㎝巾47㎝で、花崗岩の自然石で深く「芭蕉」と刻まれ、台
石に「門人」とあり、かっては吉田村は文化人の集まる佳き地であった。庄屋・吉田思玄の墓もある。
⑩松原南地蔵尊(松原宿跡)
今は道標一つが奈良街道の面影を残しているが、300数年前に作られた河内名所図会を見ると、当
時の松原村は街道が東西に走り、道をはさんで家並みが細長く続いている。村の西はずれには川があり、
堤に松林が描かれている。ひときわ目立った松林が松原の地名の由来と思われる。暗越奈良街道が東西
に通っており、松原はこの街道の中で唯一の宿場があったところであった。380年程前、16軒の宿
屋があったという。明暦年間(1655~58)大坂町奉行曾我丹波守より、松原・水走両村に人馬継
立を命ぜられ松原の宿場をおいたのがはじまり。
町筋は英田北小の東の南北の道筋と北へ突き当たって東へ折れるL型の道筋だが、ここに峠屋など1
4~16軒の旅籠屋があり、町筋の出入り口に松原南地蔵尊と東町地蔵尊(現在も祀られている)があ
った。
松原南地蔵尊は、お体は少し小さいが、錫杖、光背が彫られた木彫りの地蔵菩薩立像で、線香台には
安政4年の銘があるところから見て松原宿の昔からここに祀られていたようだ。また、同じ時代に建て
られた東町の地蔵尊は石造の地蔵尊である。地蔵尊と併せて絵馬堂か地蔵堂に掲げられていたのか「極
楽地獄絵」が残されているのも面白い話しだ。松原南地蔵尊の「極楽地獄絵」の額縁には、「松原宿」
と書かれ万延元年奉納と記されている。
⑪ 賽の神神社と謎のご神体石
宝永元年(1704)の大和川付け替え後、旧吉田川の左岸の小高い堤上に祀られている。ご神体は
自然石で道行く人を災難から守り、村人の安全、若い人の縁結びなど霊験あらたかな神といわれている。
このご神体石は門外不出、非公開で社殿建立後は、誰も見ていないそうだ。
b ここが「艮(うしとら)」といわれてい.のは吉田春日神社の「艮」の方向に位置していることから。
現在の社殿は昭和14年(1939)に村の人からの寄進があり「賽の神神社」として整備されている。
以後、奉賛会が結成されて玉垣や参道の階段等が整備された。また、昭和61年(1995)今までの
樽御輿の奉納運行から太鼓台の奉納運行が行われるようになり今現在に至っても大変な賑わいを見せて
いる。祭礼日は、珍しく春に催され、3月4日とされているが、最近は、この日に近い第一日曜日。ま
た、秋は、吉田春日神社の祭礼にあわせて太鼓台保存会、若中会による提灯奉納行事を行っているそう
だ。
この旧吉田川の堤防の上に祀られた賽の神神社。道祖神、いわゆる「幸神」は、地域の人々の守り神
として洪水などの自然の猛威から身を守る神様として今日まで信仰を集めてきている。ここ、賽の神神
社は、地域の全ての人の篤い信仰心が伝わってくる神社だ。
⑫中甚兵衛顕彰碑
この顕彰碑は、大正 4 年に中甚兵衛の大和川付け替え工事に対する功労に対し従五位が贈られたの
を記念して、生地の旧今米春日神社跡に建立されたもの。
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大和川付け替え工事は、宝永元年(1704)年に行われており、大和川を石川の合流点から大阪湾
まで真っ直ぐ西へ付け替えられた。
大和川が付け替えられたのは、大きくは、当時の河内、特にこの辺りの地形の特徴によっている。今
から6000年前、縄文海進といって地球が温かくなり海面が高くなっていた。そのころの河内平野は
「河内湾」と呼ばれる海が広がっておった。その後、海面の低下や北の淀川、南の大和川より運ばれて
きた土砂によって河内湾がやがて「河内潟」とよばれる干潟が河内湾縁辺に発達した。さらに今から2
000年前には「河内湖」となり深野池、新開池と呼ばれた沼沢地は河内湖の名残としてあった。付け
替え以前の大和川は大和盆地の水を集めて生駒山脈を横断し、柏原に出て石川と合流して河内平野を南
東から北西に五本の指を広げたように水系を広げ大阪城の北で淀川に合流して大阪湾に注いでいた。そ
のような低地にあった河内は歴史を遡ってみても幾度となく洪水が襲っていたことが記されている。
特に寛文6(1666)年から延宝2(1674)年にかけての洪水によって玉櫛川、吉田川、菱江
川、深野池、新開池の堤防の30個所も決壊し大きな被害をもたらし完全
に天井川化した。以来、大
和川流域の人たちは大雨のたびに大規模な洪水に苦しみ、江戸幕府に治水工事を願い出た。今米村の庄
屋であった中甚兵衛さんもその中の一人で、「大和川の川違え」に大きな役割を果たした。明暦3(1
657)年、甚兵衛が19歳の時、父九兵衛が他界したあと、父の遺志を受け継ぎ、大和川の付け替え
を幕府に請願し続けた。幕府はこの請願には消極的であり河内平野の開拓と治水という中甚兵衛の考え
が莫大な費用が必要ということもあって認めようとはしなかった。
しかし、再三請願する中で、大坂東町奉行所の代官、万年長十郞の進言もあって元禄16(170
3)年、ついに幕府は大和川付替の命を下した。時に甚兵衛65歳。50年かけた悲願が実を結んだ。
大和川の付け替え工事によって1060町(1町=約1ha)が開発されることとなり、幕府は地代
金をとって新田開発と耕作の権利を与えた。川中新田、深野新田、鴻池新田などが開拓・開発され河内
木綿の栽培も盛んになり河内は豊かな土地となった。以後、大雨の度に洪水にを恐れていた旧大和川流
域の人々は、少しは安心して暮らすことが出来たようだ。しかし、新川流域の人々にとって、この付け
替えは如何なものであったのだろうか。
大和川の付け替えは、治水対策という従来考えられてきた側面と経済成長、幕府の財政安定優先の
「新田開発」促進という側面があったといえる。
<解題> 吉田村の影武者・家康
『史疑』の幻の家康論を書いた礫川全次は94年に桑田忠親の『戦国史疑』(新人物往来社)をほ
めている。(231ページ~232ページ)
桑田忠親は、「家康が大阪夏の陣で眞田方に討たれ、その死を厳秘にすることにして、その替え
玉に選ばれたのが、吉田村の百姓、矢惣次であった。
「榊原康勝は(徳川本陣の右備之部隊長)二千数百の軍を率いて、吉田村へ豊臣勢の残党捜しの
点検中に66歳の矢惣次が、当時74歳の家康に酷似していることに驚き連れ去った。」という。
のち特訓を受けて家康になりすまし二条城から駿府の城へ移ったが、翌年の4月17日に鯛の油揚
げにあたって死んだとされている 。「大御所徳川家康・享年75歳にて御他界」という通説を流し
た。実は矢惣次の67歳の死であったという。
吉田は歴史の宝庫である。
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