14 年度「比較経済史」第 13 回講義 Resume アメリカの独立と「国民経済」の形成 2015/05/23 (はじめに) 今回のテーマは、独立戦争(市民革命)、「合州国憲法制定」(資本主義発展の制度作り)、「国民経済」(資 本主義発展の枠組み作り)の構築です。これら一連の制度作りによってアメリカの資本主義発展が準備さ れます。 Part.Ⅰアメリカの独立革命 1.イギリスによる植民地建設 1)、重商主義政策をより徹底させるため植民地を建設(旧植民地体制) 2)、S.モリソンはイギリスによる植民地の建設動機として、①本国イギリスでの過剰人口の処理②毛織物 製品の市場③貴金属鉱山の開発④地中海地方の特産物、北欧の木材・タール・索類の調達⑤インド航路へ の近道⑥プロテスタンの布教等々を上げている( 『アメリカの歴史1巻』参照)。 2)、植民地体制の矛盾 (1)植民地工業の発展 毛織物工業= 第Ⅱ部門、消費財生産部門、鉄工業= 第Ⅰ部門、生産財生産部門 ①毛織物工業:1699 年,毛織物条例、1718 年, 毛織物機械・用具、熟練工の輸出禁止 ②鉄工業:1750 年,鉄条例(1757 年,追加条例) ③その他:1705 年,船舶用品条例、1728 年, 帽子条例 (2)局地的市場圏の形成⇒アメリカの近代化(=資本主義経済)形成の歴史的起点 植民地初期のタウン= 自給的村落、18 世紀のタウン= 局地内での分業( 自給) (3)イギリスの植民地規制と資本主義の発展 1651 年クロムエル航海条例、1660 年スチュアート航海条例( 列挙品目の規制)、1663 年改正航海条例( 指定市場制),1673 年植民地輸出条例,1741 年 MASS 土地銀行禁止,1754 年通貨条例,1757 年仏英戦争(政策 の転換),1764 年砂糖条例,1765 年印紙条例,1766 年宣言線条例,1767 年タウンゼント諸法制定, [イギリス本国]1760 年代~ 1830 年代イギリス産業革命、1646 年穀物法廃止,1849 年航海条例廃止 2.独立革命 1773 年,12 月 16 日, ボストン茶会事件、74 年 9 月 5 日, 第 1 回大陸会議、75 年 4 月 1 日, レキシントンで 武力衝突、76 年 7 月 4 日, 独立宣言、82 年 10 月 19 日, ヨークタウンで英軍降伏,83 年 9 月 3 日, パリ和 平条約/ 1,独立革命の原因 ①植民地工業の発展と重商主義植民地体制の対立 貿易規制: 植民地工業規制: 貨幣・金融規制 ②免役地代- 特に南部植民地 ③イギリスに対す負債- ファクトリッジシステムによる南部プランターの収奪 ④西部進出の禁止-64 年宣言条例,74 年ケベック条例 2,アメリカ革命における内部構成 *ロイヤリスト( 王党派) ①植民地私領主、本国派遣の官吏、アングリカン教会の牧師と信者 ②植民地の支配階級としての大土地所有者と大商人 ③その(②) 政治的・思想的影響下にある人々 *パリアト( 愛国派) ①中核は独立自営農民、独立手工業者等「中産的生産者層」 ②大土地所有者・大商人の一部 右派(保守派)G,ワシントン etc., パリアトの分裂 左派(急進派)T,ペイン etc., 3. アメリカ革命の歴史的意義 「民族独立革命」並びに一定の限界を持ちながら「市民革命」であった! 1,市民革命の側面 ①重商主義植民地体制の解体ー営業自由の獲得 ②免役地代の廃止 ③大土地所有の没収・処分 ④前期的商業資本の打倒 ⑤相続における前期的性格の廃止ー長子相続制の廃止 2,市民革命としての限界 植民地下での産業資本の未成熟が独立後に土地投機業者、独占的大商人等、「前期的商業資本」の復活を 許した。特に、南部の奴隷制を存続させたことが、最大の限界を示す。 Part.Ⅱ アメリカ「国民経済の形成」ーアメリカ資本主義の構築(ハミルトン体制」から「アメリカ体制」) 1,独立直後の危機 1)、危機の時代‘Critical Period’(あるいは「連合会議の時代」) 1783 年パリ和平条約から 1788 年合衆国憲法制定に至る6年間はアメリカ史の上で通常「危機の時代」と 呼ばれている。特に、1786 年のシエィズの反乱は「危機の時代」を代表する事件であった。危機は対外 -1- 的・対内的の二重の危機であった。[1781 年 13 邦が連合規約を承認→憲法制定まで続く] 2)、アメリカ合衆国の樹立⇒憲法制定 かかる諸利害の対立するなか、貿易不振、正貨流失にともなって経済恐慌が起った。 そのため、富裕階級は一刻も早く強力な中央集権国家の樹立を急いだが、ジエファーソンなどの反連邦主 義者の抵抗にあう。1786 年フェラデルフィアに各州の代表が集り、憲法制定の審議を採択した。そのさ なかで、保守を中心として謂わば‘反革命’が展開され、 1788 年 6 月合衆国憲法が成立した。⇒憲法の制 定によって、アメリカにおける資本主義発展の制度・枠組みが出来上がる。特に経済活動における、連邦 の州にたいす優位。最高裁の経済活動における介入はその後の資本主義の発展を助長した。る 2,アメリカ国民経済建設の構想:ハミルトン体制(the hamiltonian system) 1)、 Alexander Hamilton (1756 ~ 1804 年) 初代財務長官(1789 ~ 95 年在職) ハミルトンの議会への報告書 ① Fist Repot on the Public Credit(第1回公信用に関する報告書) 1790 年 ② Report on a National Bank (中央銀行に関する報告書)1790 年 ③ Report on Manufactures (製造工業に関する報告書:邦訳あり)1791 年 ④ Second Report on the Public Credit 1(第2回公信用に関する報告書)1795 年 (Report on Vacant Land(公有地に関する報告書 1790 年も彼の執筆とする説もある) (1)、経済理論 1791 年の「製造工業報告書」において、工業に対する悲観論ないし否定論に反論するという形で具体的 に示されている。 ①農本主義的反対論に対して: 工業の育成を基にした「分業論」・「国内市場論」 ②自由放任論に対して: 「保護主義論」 ③労働力・資本不足論に対して: 「労働力論」 ④特定階級優遇論に対して: 「分業論」・ 「国内市場論」、「分業論」、「国内市場論」、「保護主義論」「労働 力論」からなっていた「幼稚工業」の保護・育成による国内市場形成論である {ドイツ歴史学派の始祖F.リストの経済理論( 『政治経済学の国民的体系』1841 年)に極似 →逆に、 ハミルトンがリストの考え方に影響を与えた!} (2)、経済政策 ①公債の整理ー独立革命の戦費調達のために発行した公債残高 中央政府(外債 1,171 万$、内債 4,042 万$)、各州公債合計(2,500 万$)、その他公債未払利子(約 400 万$)/当時(1789-91 年)の平均歳入 459 $ 1790 年:公債借換法 funding act :ハミルトンは旧額面価格を維持したまま新政府発行の公債に切り換えた / 3%~ 6%利子付き新連邦公債 1792 年:減価基金 sinking fund の設立: 公債償還と市価を維持するため ②税制の確立ー公債借換法の制定により政府は 800 万$以上の負債、財源確保急務 1789 年:関税法制定: 重量税ー指定品目 36、従価税ーそれ以外は一律 5%の従価税 1789 年:トン税法: 外国船の入港に対してトンあたり 50 ¢/ 平均税率 7,5% 1791 年:国内消費税法( 通称ウイスキー税) 1794 年:車、酒等の販売税、精糖税、競売税等の間接税の追加 ( ①②はいわば財政政策で,1785 年の土地条例による公有地処分も重要) ③中央銀行の設立と通貨制度の整備: 生産資本増大と政府への貸付、租税の収納を行いえる中央銀行の設 立と通貨の混乱を収拾し統一的国内通貨の制定の必要 1791 年:第1合衆国銀行設立: 資本金 1000 万$、特許 20 年間 業務: 預金、貸付、手形割引、発券(1000 万$まで)租税の収納 拠点: 本店 philadelphia,支店 boston,N.Y,baltimore,chareston 1792 年:鋳貨法: ドルを合衆国の貨幣単位と定め、本位貨幣として金銀複本位制(金銀比価 1 対5)、1 $ 金 24,5grain 銀 371,25gurain(1grain=0,064 ㌘) ④国内工業の保護・育成ー「幼稚工業」の保護・育成の為保護関税、奨励金などの諸方策を提案したが、 経済政策に中で最も重視したこの分野において在任中見るべき成果がでなかった 1789 年・1792 年関税法共基本的には財源確保の為の財政収入関税 1791 年:「ニュー・ジャージー有用工業設立協会」( いわゆる the “S.U.M ”) 北部の貿易商人、土地投 機業者の資本を導入し、外国から熟練工を誘致して大規模工場会社を設立/50 万$の資金( 公債による払 込可)1792 恐慌で倒産/(Gerschenkron Model の先取り) 4)、ハミルトン体制の歴史的意義 アメリカの資本の本源的蓄積政策を「極めて意識的、計画的かつ体系的」(楠井)に推進した点。それは 同時に、先進国イギリスの経済攻勢から自国経済を防衛し、自立的再生産構造をもった「国民経済」建設 の第一歩であった[ドイツ歴史学派 F,Rist/アメリカ体制学派 M,Cary『政治経済学論』1822 年,D,Reymond 『政治経済学要綱』1823 年, H,C,Cary『経済学原理』1837 ~ 40 年,etc.,などへの影響] 2,アメリカの工業化路線への方向転換 アメリカは第2次英米戦争(1812-14)を契機に起こった国内工業が、20 年代に入ると着実に発展し始める (産業革命の開始)。このような流れを受けてアメリカは北部を中心に工業化路線への転換を図るが、同 時にこれは綿花輸出に依存する南部の自由貿易路線と鋭い利害対立を招くことになる。 3,H.クレイによる「アメリカ体制」の演説(1824) 西部出身のクレイは、工業製品を始めとしアメリカで必要な物はアメリカで生産するよう 1824 年の議会 で“Americaan System”の演説を行った。保護貿易派は 27 年ハリスバーグ(Penn)に集まり高率保護関税 を求める集会を開いた。これに対して「南部自由貿易」派経済学のリーダー・T.クーパーによる「アメリ カ体制」批判(1827)が行われた。 4,保護関税時代の到来 1816 年関税法(関税政策の転換)⇒ 1824 年関税法⇒ 1828 年関税法(南北戦争前期最高税率の関税法)⇒ 1832 年関税法(24 年レベルへの回帰)・サウス・カロライナ州同法案への無効宣言 5,H.C.ケアリーによる「アメリカ体制」派経済学の確立 保護関税論の擁護と“balanced national economy”論の完成 【参考文献】 田島恵児『ハミルトン体制研究』勁草書房、宮野啓二『アメリカ国民経済の形成』お茶の水書房書房 -2-
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