15 年度「比較経済史」第 16 回講義 Resume 「南北戦争」とアメリカの再編→「アメリカ型資本主義」の完成 2015/05/30 (はじめに) 南北戦争によってアメリカは国民経済を確立し資本主義を確かにした。 その後の急速な経済発展はそれを象徴している。 Ⅰ.「南北戦争」全体についての概観 1、研究史における南北戦争の位置づけ *省略⇒ HP 参照 2、政党史よりみた南北戦争 1,建国初期の政党 *フェデラリスト党(ハミルトン、ジェー、マジソン等) *リパブリカン党[1796 年選挙で結党→ 1824 年選挙で分裂](ジェファーソン、マジソン、モンロー等) 2)、 1820 ~ 50 年代 *民主党[1828 年選挙で結党→ 1824 年選挙で分裂した左派・ナショナルリパブリカンを中心に結党。A.ジ ャクソンを大統領に当選させる。→ホィッグ党解党後は南部では民主党1党支配が始まった] *ホィッグ党[1834 ~ 36 年選結党。リパブリカン右派(ナショナルリパブリカン)の流れを汲む。クレイ、 ウエブスター、テーラー等。1854 年のカンサス=ネブラスカ協定で党内の北部派と南部派が決定的に分裂 →解党→民主党、共和党、自由党(1839 年結党)、自由土地派、アメリカ党(ノー・ナッシング党)等に分 裂 3)、 1850 ~ 60 年代 ・民主党[1860 年の選挙では、大統領指名を巡って北部のダグラスと南部のヤンシーが対立し、南部の議 員が候補者指名大会で退場し、党が分裂した。これに伴い南北戦争は避けられなくなった] ・共和党[1854 年反奴隷制を共通の目標に結束→ 60 年にはリンカーンが当選] 共和党は政策綱領に、公有地の入植者への自由処分(無料提供)を掲げ、西部農民を取り込んだ。これが 南部に一層の不満を募り、南北戦争の引き金になったとする陰謀説もある。 Ⅱ.南北戦争の経緯 *省略⇒ HP を参照 Ⅲ.国内における地域的諸利害の対立-南北戦争の原因(第 15 回講義で紹介済み) ①保護関税:「北部」賛成、「南部」反対、「西部」最初反対後に賛成 ②国立銀行の設立: 「北部」賛成、「南部」反対、「西部」最初反対後に賛成 ③国内交通の改善: 「北部」賛成、「南部」反対、「西部」賛成 ④公有地処分: (安価な条件の処分に)「北部」賛成、「南部」反対、「西部」賛成 Ⅳ.南北戦争の諸結果 1、北部を中心としたより強力な「国家」の成立 2、奴隷制解体後の「分益小作制(シェアークロッピング制)」、「作物質権制(クロップリエン制」への再 編、黒人の小作農、債務奴隷化の始まり 3、新南部の幻想ー工業化と産業の多角化の夢 4、黒人人種差別の始まり 1866・1875 年公民権法成立、1870 年黒人選挙権を獲得したものの、1883 年最高裁は 1875 年の公民権法を 違憲とした。1890 年ミシシッピー州黒人の選挙権を剥奪、以後他の州もこれに続く。これ以後黒人に対 するリンチや差別が激しくなる。1896 年最高裁「分離しても平等なら差別ではない」とするプレッシー 判決を出す。 Ⅴ.南北戦争の評価 *省略⇒ HP を参照 Ⅵ.南北戦争後の南部 1,南部の再建 1),黒人に対する土地配分挫折 “1頭のラバと 40 エーカーの土地を!”のスローガンの挫折 サクストン将軍(共和党急進派)の土地分配計画実施にジョンソン大統領(民主党)は返還命令を出す。その 後も、G,ジュリアン、C,サムナー、T,スチーブンス等(共和党急進派)によって土地改革案が出されたが何 れも挫折した。 1866 年には通称「南部ホームステッド法」が制定され、南部の未入植公有地に黒人1人当たり 80 エーカ ーまで無料で土地を与える法律が制定されたが、入植は進まなかった。それでも 1900 年黒人農民の 25% が土地を取得するに至っている。 2),再建時代の終焉 (1)再建前進期 *1867 年(軍事)南部再建法:黒人を含む 21 歳以上の男子に普通選挙権を与える。 *1868 年憲法修正 14 条で国民に公民権法成立。州による個人の人権制限の禁止を条件に南部の連邦への 復帰を認める。 *1870 年憲法修正 15 条によって黒人に選挙権を付与 *1875 年公民権法成立 *州立学校法の開始によって 1877 年までに 60 万人の生徒が学校に通うようになる。 (2)再建後退期 *奴隷法(スレーッブ・コード)から黒人法(ブラック・コード)へ *1876 年テネシー州で KKK 発足 *1876 年大統領選挙で「ヘイズ=チルデンの妥協」により連邦軍は南部から引き上げ、南部に自治を認める ⇒再建民主化の後退[民主党のチルデンが得票的には優位にあったが、投票の再調査の結果共和党のヘイ ズが逆転勝利] *1883 年 最高裁 1875 年公民権法を違憲に判決 -1- 2,シェアクロッピング制(分益小作制)の開始 自由労働制への黒人及びプランターの不適応⇒妥協の産物としてシェアクロッピング制への移行 3,金融上の再編 農村商人の支配:かっての北部商人の代理人(Cotton Factor)によって南部のプランターは金融面で支配 されていたが、戦後は彼等に代わって農村商人(rural merchant)が台頭した。農村商人は多くがよろずや (general store)を兼営しており、小作人への信用前貸しなどを通じて将来の収穫物に作物抵当(crop lien)を 与えた→「作物抵当権制」。 4,南部の「工業化」の挫折 再建後の南部は「農業の多角化」と「工業化」を目指したが、綿作モノカルチャーからなかなか離脱が出 来ず、工業も 70 年代末北部から綿工業が南部へ移動して来たほかは見るべきものがなかった。被雇用者 数からいえば南部最大の工業は木材関連である。 Ⅶ.19 世紀末の西部 1,西部農業の発展とポピュリスト運動 19 世紀初頭、アメリカ(国民)経済が自立し、産業革命に至る契機をなしたのが「地域」としての“西部 ”の出現であった。南北戦争後のアメリカ経済の発展を促進したのもある意味で“西部”における農業の 発展と鉄道建設であった。しかしながら、農業は量的には(生産高の増加)したが、質的(農家の所得) にはむしろ 19 世紀末は厳しい状況にあった。<ここでいう“西部”は以前の西部とは地域を異にしてい ることに注意せよ> 1),中西部(オハイオ・イリノイ・ウイスコンシンエ tc.,)・西部(ミネソタ・アイオワ・ミズリー~モンタナ・ワ イオミング・コロラド・ニューメキシコ)農業の発展 ①中西部;大豆、トウモロコシ、それらを飼料に家畜飼育に特化して行く傾向にあった。②西部;当初こ の地域の作物はとうもろこしが中心だったが、春小麦・冬小麦とも、この地域、特にカンサス・ネブラス カ(春小麦)~ダゴタ(冬小麦)にかけての土壌はプレーリー土と呼ばれ、世界で最も肥沃な土壌の一つで ある。1874 年メノー派がカンサス州に持ち込んだ硬質冬小麦は耐寒性・耐病性にすぐれ、その後の品種 改良もあって「世界最良の小麦地帯」と呼ばれるようになった。 ③西部西部山岳部では牧畜も重要な産業となっている。 ④農機具の発明・改良;戦前の犂に加え、播種、植え付け、刈り取り、脱穀、収穫などあらゆる分野で機 械化が進んだ。特に、草原地帯の草土の根を効果的に粉砕する「ソッド・バスター」(鋳鉄急冷犂 cchilled-iron plow)の発明改良はこの地域の耕地拡大に貢献した。 2),農民運動の発展ーグレンジャー運動とポピュリスト運動 ①グレンジャー運動 1867 年農務省派遣官吏 O.ケリーによる“グレンジ(農民共催組合)”(The National Grange of the Patorons of Husbandary)創設;共同購入・出荷・販売、家畜の品種改良、農場、建物の維持・改善、経営の多角化など 農業の科学化に共同で取り組んだ。外に向かっては、当時鉄道建設のラッシュ最中にあり運賃の規制を要 求した。こうしてイリノイ、オハイオ、ウイスコンシン等ではグレンジーが中心になって、最高運賃規制、 差別運賃の禁止を盛り込んだ鉄道規制法が成立した。1875 年には会員数 85 万人にも及んだ。ぶ。 1870 年代末になると農業不況も去り、農民運動の中心はカンサス、ネブラスカなどさらに西に移る。 ②ポピュリスト運動 グレンジ運動は西部の富裕な農民を中心とした純粋に農民組合的運動であったが、ポピュリスト運動は南 部(特にテキサス)や中西部(カンザス)を中心とした、外に向かっての政治運動としての色彩が強かった。 1887 年「全米農民協同組合同盟」(ルイジアナ州州とウイスコンシン州の農民組合が合同)、88 年にはアー カンソー州の農民組合も加わり「全米農民・労働者組合」と称した。1886 年にはヒューストンで「黒人 全国農協組合同盟」も設立されている。 1889 年にはセントルイスで南北同盟の合同大会が行われ、1892 年にはそのオマハ大会で「人民党 Peples Party」が結成された。そこでは(1)銀貨の自由、無制限鋳造(2)国法銀行の廃止(3)鉄道・通信の国有(4) 累進所得税(5)外国人の土地所有禁止(6)大統領・副大統領、上院議員の直接選挙等々の6原則を確認した。 そして大統領候補にはアイオワ州のウィーバー(J.B.Weaver)を選出。92 年の選挙では 103 万票を獲得し国 内の第三党としての地位を確立した。しかし 4 年後の 96 年選挙では内輪もめから単独候補を立てられず 民主党候補のブライアン(W.J.Bryan)を支持した。⇒以後ポピュリスト運動は既成政党にその要求を吸い 上げられ霧散していく *人種差別が始まったのは、ポピュリスト運動の最中、白人の農民と黒人の農民が団結し、農民として資 本家など支配者階級に抵抗し始めたためそれを分断する意味で始まったとする見解もある。 Ⅷ.19 世紀末の革新主義 19 世紀末の大企業による独占と労働運動・農民運動は、中産階級や専門職の人々にも危機感を抱かせた。 革新主義運動の背景には、1890 年代の不況との下で、失業が増え、社会不安が広がる中で、社会経済の 構造が根本的に変わったことを認識する事なしに、正しい方策は取れないと都市に住むエリート達は考え 始めた。 彼らは改革の仮題として次の4つをあげた。①企業構造の変化に対応した改革②政府自体の改革③労働者 や貧困者にかかわる経済的公正の実現④より広範な社会的正義の実現、などである。 こうした動きが、1920 年代の禁酒法制定につながり、さらには 1930 年代のニューディール政策の中で社 会保障法となって実現し、その後の福祉国家アメリカの原型に成った。 -2-
© Copyright 2024 ExpyDoc