学園通信 №74 57 期 沖縄修学旅行 2008 年 2 月 13 日㈬ ~ 16 日㈯ 修学旅行を終えて 園田 直史 (修学旅行委員長) 沖縄は温暖な気候かと思いきや、空港を出たら案外涼 しい、というよりむしろ寒いくらいだった。沖縄には米 軍基地があるため、空を戦闘機やヘリコプターが飛んで おり、物凄い音を鳴らしていたが、正直、神奈川県にも 横須賀や厚木のアメリカ軍基地があるため、それといっ て驚くことでもなかった。沖縄の中心となっている国際 通りに行ってみたが、軒を連ねる店はほぼ土産物店で、 売っている内容も同じようなものばかり。コンビニもあ ればファーストフード店もあって、何一つ珍しい物が無 い。強いて言えば海が本土より綺麗であったが、そんな 所には大抵リゾートホテルがそびえ立っており、なんだ か自然を感じられる雰囲気ではなかった。 しかし、少し離れるとやはり沖縄らしいと思えるよう な家や墓、史跡などが見られる。沖縄の人々は 1879 年 の廃藩置県まで、本土とは異なる独自の王国を約 700 年 保ち、 また古くから異国の人々の交流の地であったこと、 四季の区別があまり無い亜熱帯の気候であったことなど から、独特の生活文化が生れた。その当時の史跡等を見 るとやはり本土には全く無いようなものばかりで、同じ 日本国内とは思えなかった。こんなごちゃ混ぜの文化を 「チャンプルー文化」と言ったりもするらしい。 (チャン プルー:沖縄の方言で「ごちゃ混ぜ」 ) そんな沖縄も 1945 年、日本の太平洋戦争敗戦の後、 アメリカに占領されアメリカ化された部分も多く、1972 年、アメリカから日本に返還されたが、観光地としての 沖縄は同じ日本という国に日本 (本土) 化されていった。 その結果、沖縄独特の文化が薄れていき、国際通りに 見られるように、特にそれといった新鮮さも感じられな い沖縄が出来てしまったのだろう。 私はこの修学旅行で、 良い意味でも悪い意味で も、色々な影響でごちゃ 混ぜにされてしまった現 代の沖縄の「チャンプル ー文化」を強く感じた。 2008.3.19 (11) 行程表 1日目 羽田空港 7 時集合 7:55 発 那覇 10:40 着 17 時までグループ別那覇周辺自由行動 那覇セントラルホテル泊 夕食後、安里要江さんの講話 2日目 南部戦跡見学(クラス別バス) 轟壕 摩文仁(平和の礎 平和祈念資料館など) 魂魄の塔 白梅の塔 嘉数高地 那覇セントラルホテル連泊 3日目 コース別体験活動 ①慶佐次 カヌー・マングローブ・マリンクラフト ②国頭 清流トレッキング 古宇利島ビーチ ③恩納村(サンマリーナホテル) ダイビング ④座間味島 ホエールウォッチング ⑤恩納村エイサー+沖縄カトリック高校訪問 ⑥史跡めぐり 中城・勝連・座喜味城址他 かりゆしビーチリゾート恩納泊 4日目 A サトウキビ収穫・黒糖づくり+嘉手納 B 美ら海水族館+今帰仁城址 那覇空港 17:45 発 (1 時間遅れ) 19:50 羽田解散 ◎以下は、修学旅行委員による、行程・コースごとの 感想です。 1 日目昼間 自由行動 伊部 直樹 沖縄に着いた時、思ったより寒いと感じた。地元の人 がいうには、 この時期にしては気温が低いということだ。 僕達はまず、空港からモノレールにのって壷川まで行っ た。ここには漫湖自然公園がある。この湖は、湿地を保 護するラムサール条約に登録されていて、マングローブ が茂っていると本に書いてあった。しかし、実際に行っ てみると、湖岸は整備されて遊歩道となっていて、マン グローブもほとんどなかった。ここはちょっと時間が空 いた時に行く、という程度にしか勧めない。 次にモノレールに乗って終点の首里駅まで行った。こ こで昼時になったので、首里城近くの「首里そば」で沖 縄そばを食べた。 沖縄のそばは、 こっちのそばとちがい、 そば粉は使わず小麦粉で麺を作り、つゆも塩味である。 このそばはけっこう量もありおいしかった。この後、首 里城を見学して、近くで休憩してから再びモノレールに 乗って安里駅まで行った。 そこから歩いて壷屋通りまで行き、琉球ガラスや陶器 などを見てまわり、ここでお土産を買った。この近辺は 国際通りより安くお土産が買えるのでお勧めである。 (12) 学園通信 1 日目夜 安里要江さん講話 №74 渡辺 怜 夕方までの自由行動を終えホテルで夕食を済ませた僕 達は、安里さんの戦争体験の講話を聞いた。倫理の授業 で沖縄について学習した中で、安里さんの沖縄戦の体験 が書かれた本を読んだので、今回はそのご本人から直接 お話を聞くことのできる貴重な機会となった。 ( 『沖縄戦 ―― ある母の記録』高文研) 「今から 63 年前のことですが、昨日今日のように思 います。 」―― 安里さんは去年米寿を迎えられた。当時 25 歳だった安里さんは幼い 2 人の子供を含めた一家と ともに、 戦火の中を避難し続け、 家族の多くを亡くした。 戦後もしばらくはご自身の体験を語ることについて、口 が重かったようだが、次第に体験を語る「責任・義務」 のようなものを感じるようになったとおっしゃっていた。 そして現在、平和の語りべとして講演活動をなさってい る。この日も安里さんは既に別の講演をされてきたとい うことだった。 「降参すれば平和で穏やかになったんでしょうけれど ……」飽き足らずに戦い続けて沖縄戦に突入した ――。 僕はこの「平和」という二文字の言葉が、実際に戦争を 体験した安里さんの口から出てきた時、この言葉には深 くて、 切実で、 リアルな意味が込められていると感じた。 逃げ回る中で聞いた機関銃の「バリバリ」という音、人 がごった返す道の様子を、安里さんは少し熱を帯びた口 ぶりで語る。 栄光生も熱心に、 静かにそれを聞いていた。 本の中で僕が一番印象に残った場面の話も聞いた。 壕の暗闇の中で安里さんは抱いていた 8 ヶ月になる娘 がだんだん弱っていき、ついには冷たくなってくること に気づく。けれども暗闇の中、手の感触を必死に目の代 わりにして娘の様子を確かめようとするが、ついに顔を 見ることができないまま娘は亡くなってしまう。安里さ んはその後もしばらくは抱き続け、何度もなでたが生き 返ることはなく、 「親の目の前で、悲しい」と思いずっと 沖縄戦の体験を語る安里要江さん 2008.3.19 抱いていたかったけれども、狭い壕の中で周りの人に迷 惑をかけるからと壕の奥の方に埋葬した。 「ごめんね、後 で追っていくからね。戦争に生まれ、生かせなかった」 ――安里さんがどんな思いであったかはご本人以外には 決してわからないが、とても悲しかったと思う。 以上は講演のごく一部である。本を読んだ時、初めて 知ること、印象に残ること、考えることがあったが、今 回直接お話を聞くことで、より印象に残ったことがあっ たし、体験を知ることに少し近づけたと思う。安里さん は 27 年間語りべとして活動し、沖縄から平和を広げた いと願っている。詳しく知りたい人は、先に紹介した本 を読んでほしい。 最後に、これは僕だけかもしれないが、講演が終わり 拍手の中、杖をつきながら退室していく安里さんの姿が 印象的だった。 2 日目 南部戦跡見学 漆崎 優 最初に訪れたのは白梅の塔である。この塔は、学徒勤 労動員令によって野戦病院の従軍補助看護婦にされた第 二高等女学校の生徒やその先生が祀られている塔である。 案内をしてくれたボランティアガイドの方によると、僕 らと同い年くらいの若者達(しかも女性)が戦争に駆り 出され、満足な医療設備や敵襲防御の手段もないままに 戦争に参加させられ、そして野戦病院の解散が命じられ てからは戦争の真っ只中を右往左往することを運命づけ られたという。 次に向かったのは轟の壕である。この壕はまず入口か ら滑りやすく狭い危険な道となっていた。懐中電灯を片 手に携えながら歩くのにも困難必至で、何度か滑って転 びそうになった。戦時中は、このガマに急いで逃げ込む ことさえも命がけで危険なことだったのだろうと思う。 更に、ガマの中は思ったよりも暗かった。壕の奥に着い た後、ガイドの方が「それでは懐中電灯の光を消してみ ガマ《轟壕》に降りていく 学園通信 №74 2008.3.19 (13) てください」というと辺りは一寸先も見えなくなり、手 探りで岩を感じたりガマの奥の方で僅かに聞こえる水の 流れる音以外には五感はまったく失われてしまった。そ 僕が当時生れていたのならその被害は不可避であったろ うということだ。また、ボランティアガイドの方の説明 も実に印象的であった。沖縄戦の凄惨さを伝えるという れに加えて、ガマの奥の方はなんとなく空気が薄い感じ がした。実際にはこのガマに 600 人もの人がいたという のだ。僕は数分間いただけで不安な心細い気持ちになっ たというのに、沖縄戦を生き抜いた人たちは何日間もこ の空間に閉じ込められていたのだと考えると、その過酷 さがリアルに感じられた。 次に平和祈念館に向かった。その前には平和の礎があ った。 沖縄戦没者の名前を国籍を問わず刻んだ碑である。 僕はその数に驚かされた。資料館で沖縄戦の歴史につい て学習した後、摩文仁の丘に行った。各都道府県毎にそ の戦没者が祭られていて、それぞれの碑には各県の特徴 が出ていて実に興味深かった。 昼食をひめゆり会館で済ませた後、 魂魄の塔に行った。 この塔は沖縄戦終了後かなり早い段階で作られたもので、 沖縄戦の犠牲者の遺骨が国籍や立場に関係なく収められ、 特に唯一県の塔を持たない沖縄の人にとっては平和の礎 よりも祈りの対象であるらしい。建てる前に米軍の許可 をなかなか得られなかったという経緯もあったというこ とだ。 最後に訪れたのが嘉数高地である。丘の上に掘られた 壕は、中に潜り上方を通過する戦車に向かって手榴弾を 投げつけるという大変死亡率の高い作戦に使用されたと いう。しかもその作戦を実行した者の多くは僕らほどの 若い兵だったとのことだ。 展望台からは普天間基地が見えた。基地ではちょうど 戦闘機の離着陸訓練を行っていて、基地からは相当の距 離にある展望台にいるにもかかわらず離着陸の度に轟音 が聞こえた。また、戦闘機は市街地のすぐ傍らを飛んで いて非常に危険な印象を受けた。 全体を通して感じたのは、戦争の悲惨さ、それももし 意思よりむしろそれを伝えなければならないという義務 感を感じた。もう 2 度とこのような戦争は起ってほしく ないものだ。 白梅の塔の上のガマでガイドの説明を聞く 3 日目 コース別体験活動 ①カヌー・マングローブ・クラフト 朝廣 賢哉 沖縄の修学旅行に行くにあたり、いくつかあった選択 のコース。どれもこれも自分にとっては初体験となるも のばかりで、魅力的なものであった。そのなかでも一際 目を引いたのはカヌーだった。 3日目、その日は前日の夜に割と早めに寝て(友人と の談話にも大いに心惹かれたが…) 、 カヌーという未知の 体験にホテルからのバスの中で早くも浮かれていた。 やんばる自然塾というマングローブ林の中での野外ス ポーツを売りにしている所に着いてガイドさん2人と注 意を交えての挨拶を済ませた後に午前中のプログラムで ある、マリンクラフト作り(砂浜に多数落ちている貝 etc で色々な物を作ろうというもの)が始まった。 本音からいけば午前中のこのプログラムとカヌー体験 の後に続くマングローブ林観察はまったく興味がなかっ たのである。しかし、実際にやってみるとありきたりな 感想ではあるが中々にハマる。 気に入った貝はなかなか見つからないものだし、それ にしては気になる貝は時々落ちている。そしてなんとい っても紐を使って実際にアクセサリーを作る過程で披露 してくれるロープワーク、単純な様で細かいところに気 を使うと普通に店で売っているようなレベルになる。僕 は、壊れていた筆箱のファスナーの引く部分を自分で作 った。そして寒風の中外で昼食、まあ数少ない渋い経験 だった。 午後からは待ちに待ったカヌーの体験である。簡単な 操作の後、各々パドルを持ってカヌーに乗り込んだ。カ ヌーの操作は思ったよりも容易ではあったが、乗り終わ った後に腕が少し震えているほど、重かった。マングロ ーブ林を両岸に見つつ、国の保護指定にかかっているマ ングローブをパドルで傷つけたりしてしまいながら川を 上り、下りは海の直前まで下った。 それが終わり、マングローブ林の観察。神奈川では絶 対に見られない光景に植物の知恵に皆で飽きる事なく感 心しながら遊歩道を歩いた。 長くなるのでこれで終わるが、沖縄での体験は忘れら れないものとなると思う。 (14) 学園通信 ②トレッキング 沖縄の自然に触れて 道下 貴弘 歩くのが好きだったので3日目のコースはトレッキン グにした、那覇のホテルを出てバスで1時間ほど走り沖 縄北部のやんばるの森についてから川の中を歩いて滝つ ぼを目指した。川の中は沖縄だからといって冷たくない なんてことはなく十分冷たかったが沖縄独特の植物を見 ながら川の中をじゃぶじゃぶ進むのは楽しかった。滝つ ぼにつくと海パンで来ていて準備万端だった上村は滝つ ぼで泳いでいたが、自分やほかのその他大勢はもちろん そんなことはしなかったが川の近くや少し森の中に入っ てお弁当を食べながらやんばるの森を満喫した。食後散 歩がてら歩く途中にあった穴に入って奥を見て見た、ガ イドさんにハブがいるかもしれないので気をつけるよう にいわれていたのでハブが出てきそうで恐かったが結局 何もいなかった。 その後ガイドさんに従ってバスに戻り島の名前は忘れ たが長い橋によって沖縄本島とつながっている離島のビ ーチに行った。この離島のビーチが本当に綺麗であり言 葉で言い表せないほどだったけれどサンゴのビーチの白 さと空の青さのバランスが良くて本当に感動した。ビー チでは上村はもちろん泳いでいたが大多数はビーチコー ミング(貝殻を拾う)をした。今その貝殻は那覇で買っ た琉球ガラスにいれて自分の部屋に飾ってあってとても 綺麗である。ちなみに上村君はその後風邪をひいたみた いだ。なんかへんな文章になりましたが沖縄の自然の魅 力が少しでも伝われば幸いです。 №74 2008.3.19 それからゴーグルやシューズをもらって船に乗り込みま した。船の上では、水中での互いの合図の仕方や酸素ボ ンベの使い方、ダイビングでは必須の「耳ぬき」と言わ 僕たちは 8 時 15 分に出発し、到着したホテルでカン タンな説明を受け、海へ向かいました。海についてから すぐそばにあった小屋で本格的なダイビングスーツを着 ました。スーツは思っていたよりきつくて着るのにかな り時間がかかってしまい、その上動きにくかったです。 れる耳の中の圧力の調節法を教えてもらいました。船が 出発してからは酸素ボンベ、おもり、足ヒレなどをイン ストラクターの方に装着してもらったのですが、僕は乗 り物に弱く、酔い止めを飲んでいたにもかかわらず、少 し気分が悪くなっていました。 船がダイビングスポットに到着すると、一人ずつイン ストラクターの指示に従って、海に飛び込んでいきまし た。僕は早く自分の番にならないかとわくわくして待っ ていたのに、いざ自分の番が近づいてくると、少し怖く なりました。なぜなら、みんな後ろ向きに飛び込んでい くからです。これは酸素ボンベの重さを考慮した飛び込 み方なのでしょうが、見ているとどんどん怖くなってき ます。それでも自分の番になると、インストラクターが ささえてくださったからか、すんなりと海に入ることが できました。 しかし海に入ったとたん、僕はまた怖くなりました。 今度は息が苦しいのです。口だけで呼吸している状態は 思った以上に苦しくて、僕はなかなか潜ることができま せんでした。が、ふと下を見ると先に飛び込んでいた友 達が海底で列を作っていて、それを見て安心したのか、 無意識にそこに行きたくなったのか、呼吸が苦しくなく なって、海底まで潜ることができました。潜っていく最 中は耳がすぐに痛くなったので、耳ぬきを頻繁に行いま した。海底に着いてからは、インストラクターにいきな り魚の切り身を渡され、魚の餌付けをしたのですが、面 白いくらいに魚がよってきて、中には僕の手をつっつい て直接餌を奪おうとするものもいました。 しばらくしてから 2、3 人のグループになってインス トラクターと海底を泳ぎまわりました。海の中は冷たか ったけれど、さんご礁や色々な魚達がいて、それを見て やんばるの森トレッキング スーツを着けてダイビングスポットに向かう ③ダイビング 岸 亜星 学園通信 №74 2008.3.19 (15) いる間は寒さを忘れてしまいました。海に入ってからし ばらくは泳ぐのに夢中だったのですが、ある程度泳ぎま わった時から自分が今とても不思議な世界にいる感覚を (他の船では近くで見られたものもあったようだ。 ) そん なこんなで皆の驚きも薄れていき、眠くなるほどだった 人もいた。船が港に向かって帰りはじめたちょうどその 何度か覚えたのです。本当は自分が居続けられない世界 に浮いている、まるで宇宙飛行士になったかのようなあ の感覚は、言葉では伝えきれないものでした。 一通り遊泳が終了して、僕たちは船に上がりました。 そして、船の上で熱いお茶をインストラクターにかけて もらいながら、船着場に戻って来て、最後にお風呂に入 ってダイビングは終了しました。いつもと違う世界へ行 くダイビングという体験は本当に楽しかったし、また予 想以上に疲れもしていたみたいで、お風呂も極楽、そし て終わった後に食べたお昼ご飯のカレーがとてもおいし かったです!! とき、 「クジラが跳ねた」という声が聞こえたとか聞こえ ないとかでよけいにテンションが下がり、ホエールウォ ッチングは終わりをむかえた。 港に戻った後自由時間になり、一路食堂へ。焼きそば を食べたが、麺が沖縄そばのそばを使っているようで、 コシがあってよかった。その後、砂浜で時間をもて余し た後に、 「おみやげ・飲みもの」と書かれた売店で残り 1 つのアセロラドリンクを買ってみた。……1ヶ月賞味期 限が切れていた。 帰りのフェリーは何事もなかったが、到着が遅れて、 結局ホテルについたのは夕食ギリギリだった。夕食は回 転テーブルの上の料理を皆で分け合ってたべたので、割 と楽しかった。 ホエールウォッチングは、やっぱり最初はすごいと思 ったが、大胆な動きをするわけでもなく、人間の期待通 りにいくものではなかった。船長のアシスタントの方も 「これだけ船が集っているのに逃げようとしないのはす ごい」と言っていたし、長い時間見られただけでもよか ったのだろうと思った。 ④ホエールウォッチング 恋川 真己 この日の天気は曇りときどき雨、鯨を見るにはあまり いい天気というわけではなかった。 バスの出発字にトラブルがあるも、なんとか船には間 に合い、高速船で座間味島へ。港でこの日見るクジラの 種類や大きさ、ちょっとした豆知識の説明を受けた。そ していよいよ 4 隻の船に分乗して出発。途中揺れたが、 友人Aが言っていたような「99%酔う。昨年はそうだっ たらしい」というほどでもなかった。朝クジラが 3 頭観 測されたというポイントにつくと、栄光生の乗った船以 外も集ってきた(最終的に 8 隻に。 ) いざクジラが見え始めると皆から歓声があがり、一斉 にカメラを手にとった。僕もカメラはあったが十数枚撮 ったところで電池切れになってがっかりした。この日見 れたクジラの動きは、いわゆる「潮吹き」のブロウと、 尾ビレを水面の上げ、潜行に入るフルークアップ/ダウ ンタイプがほとんどだったが、どの時も船の位置どりが あまり良くなく、間近で見ることはあまり出来なかった 慶良間諸島(外地島沖合)でクジラを見る ⑤エイサー+沖縄カトリック高校 樋口 祐介 このコースは午前中に簡単なエイサーを体験し、午後 に現地にある沖縄カトリック高等学校を訪問し交流を図 るという流れである。 他のコースと比べるとやはり魅力が感じられなかった のか、参加者は 16 人と一番少ない。しかもこのコース を第一希望にしていた人は少数で、当日になっても皆の 気分は高ぶらなかった。だが終わってみるとかなり楽し いプログラムで、参加者からも「良かった」という声が ちらほら聞こえる程であった。 エイサー特訓中 (16) 学園通信 №74 2008.3.19 まず午前のエイサー体験の報告から。エイサーとは一 部を除いて男性は太鼓を叩きながら、女性は何も持たず に踊るものである。これに従い僕らも太鼓を一人一つず ⑥史跡めぐり 青葉 忠智 つ持たせてもらった(三種類ある太鼓のうち最も小さい もので、直径 20cm 程度) 。ここで実際どのように踊った かを書くのは難しいが、僕がお知らせしたいのは案外動 きが激しいということである。恐らくエイサーにあまり 馴染みのない方は女性が手をかざしてゆったりと踊る姿 を想像するだろうが、太鼓を持って踊るパートはとにか く動きが止まらず、曲も長い。僕らが体験を終えた頃に は皆うっすらと汗を掻いていた。 (当時は沖縄では珍しく 寒かった。 ) そして午後の学校訪問。本来の目的はお互いの学校の 文化の違いを感じ取ることであろうが、皆の専らの狙い はその高校が共学だというところにあっただろう。事前 には人数的にほとんど女子校と聞かされていたので少し は期待があったはずだが…行ってみると普通の共学の様 子。寧ろ男子の方が多い。皆が少し固まったのが印象的 だった。 互いの代表挨拶や学校紹介を済ませた後、向こうがエ イサーや獅子舞を披露してくれた。そのまま勢いで午前 に習いたてのエイサーを踊ったが、何とかなりその場は 楽しく過ごせた。こちらは成田君と渡辺君が漫才を披露 し、流れで向こうも漫才を始め…。これでいいのかとい う訪問ではあったが、交流を図るという点では大成功だ っただろう。 恐らく来年の沖縄修学旅行でもこのようなコースは残 ると思うので、この文章を読んでいる後輩にはそれを是 非お勧めしたい。行ってみたら実は楽しいなどという話 はあまり信用出来ないかもしれないが、少なくとも僕は このコースを選んで良かったと思っている。 まず最初に向かったのは中村家住宅。戦前の沖縄の住 居建築の特色を非常に良く表した建築物として、国の重 要文化財にも指定されている。戦災を受けた沖縄本島に おいて、これほど被害がなく済んだ戦前の建築物はとて も珍しい例だそうである。 次はそのすぐそばにある中城城址。世界遺産。阿麻和 利と沖縄で覇権を争った護佐丸が拠点とした城の址であ る。この城跡は勝手口と正門とで岩壁の造りが違い、そ こから作られた年代の違いなども見ることが出来て、非 常に面白かった。 続いて向かったのは佐喜真美術館。普天間基地に周囲 を囲まれ、その中にぽつりと孤立しているようなこの美 術館、昼間は米軍飛行機の離着陸が大変迷惑な騒音にな り、 沖縄戦が今に残していったものを感じざるを得ない。 この美術館には沖縄戦を描いた絵が多数展示してあり、 ここでは丸木位里・俊さんの絵に関する貴重なお話を伺 うことができた。このあと昼食。 昼食後最初に向かったのは勝連城址。こちらも世界遺 産に登録されている。非常に見晴らしが良い高い所まで 昇ることが出来て、登り道には雨を流すための工夫がな されていた。 続いて向かった座喜味城址も世界遺産。敵を行き止ま りへ追い込むための仕掛けがある城壁を歩いて体感する ことができた。さらに、この城跡からは海を一望するこ とができた。 もっと海を近くで見ようと、次に向かったのは残波岬 である。ごつごつした岩場の海岸を歩くと潮の香りを感 じることが出来た。時折打ち寄せる波しぶきも迫力があ った。最後に行った万座毛では、波に削られた面白い形 の海岸の沢山見た。これでコースは終了。最後はバスの 中でガイドさんの歌声を聞きながら、宿泊先へ。 メンバーが 28 人、引率の教員が 2 人だったが、大半 の人がこのコースに満足していたという。 このコースは7箇所めぐるうち実に3箇所が世界遺産 という、贅沢なコースである。 4 日目 A サトウキビ/道の駅かでな 沖縄カトリック高校生と記念撮影 藤林 雅宏 最終日はそれまでの曇り、にわか雨の天気と打って変 わって、非常に天気が良く暖かく、ようやく期待してい た沖縄の陽気を実感できる日だった。この日はA:サト ウキビ収穫体験と、B:美ら海水族館見学の 2 つのコー スに別れて行動した。これから報告するAコースは、3 日目の夜を過したホテル 「かりゆしビーチリゾート恩納」 学園通信 №74 2008.3.19 (17) からバスで 30 分ほど行った恩納村でサトウキビ収穫と 黒糖づくりの体験を 2 時間半ほどして、読谷村の「むら 咲むら」で昼食、 「道の駅かでな」という米軍嘉手納基地 B 美ら海水族館+今帰仁城址 が屋上から一望できる施設に寄り、最後に那覇空港でB コースと合流するというものだった。 サトウキビ収穫体験では、まず恩納村のサトウキビ農 家の方からサトウキビ農業と作業内容、農具の使い方の 説明や注意を受けた後、作業に入った。作業は 1 人 2 本 ずつサトウキビを根元からオノで刈り取る→サトウキビ の葉と根、不要な先端部分をキビ鎌でそぎ落とす→サト ウキビを運搬車に積み込んで終了。その後多目的広場へ 移動して、収穫したサトウキビを押し切りで切ったり、 搾り機で搾って煮沸して作ったキビジュースを飲んだり、 黒糖を作ったりした。この 3 つの作業は空いている所に 並んで各自で行ったが、終盤には最も時間のかかる黒糖 作りに全員が集った。クラスごとに別れて行ったが、各 クラスとも数人ずつ成功を祈って先導して盛り上げる人 たちが現れて盛り上がり、最後にどろどろに溶けたキビ 汁を鉄板に流し込んで完成したときは、各クラスで歓声 が上がっていた。できあがった黒糖、押し切りで切った 生のサトウキビはお土産として持ち帰った。全ての作業 が終了した後、農家の方から、沖縄では人が別れるとき には踊って盛り上がり、また沖縄の方言では「さような ら」という言葉はなく「また会いましょう」の意の言葉 しかないと聞き、その言葉(残念ながら僕は忘れてしま ったが)を叫んで踊ってさらに盛り上がった。以前の修 学旅行のことは分からないが、あれほど盛り上がったこ とはないのではないかと僕は勝手に思っている。 昼食の「タコライス」は、サトウキビ収穫で疲れてい たこともあって非常においしかった。 この日は沖縄で過した時間は一番短かったのだが、他 の日に劣らないくらい密度の濃い、充実した一日であっ たと思う。 ンゴの海の水槽を見てから、館内の自由見学となった。 その時間は 2 時間弱、回るにはかなり厳しい時間だ。 入るとまずヒトデなどに触れるタッチプールがあった。 その近くにラックがあり、 「美ら海観察ガイド」と書かれ た紙が入っていた。16 枚全て集めてみると水族館の全て の展示を確認できるようなので、集めながら進んでみる ことにする。途中サンゴの海や熱帯魚の海を通りつつ進 んでいくと、個水槽の前に着いた。そこでは沖縄の海に 住む危険生物が、危険部位が光るというギミック付きで 展示されていた。そこで思った以上に時間をくってしま い、他の展示物を見る時間が減ってしまった。その後サ メ博士の部屋などを通りつつ、メインの巨大水槽の前に 着いた。何よりその大きさがケタ違いで大小いろんな生 物が動き回っていた。一番目についたのはやはりジンベ イザメで、その大きさは鹿児島のそれとは比べものにな らない。バッテリーぎりぎりのカメラで写真を撮ってい たところで集合時間が迫ってきたので、おみやげを買っ て水族館を後にした。 昼食はホテルでバーベキュー。30 分ですぐに出発にな るのでさっさと食べてバスの中へ。その後、世界遺産の 一つである今帰仁城跡に向かった。今帰仁城跡はただひ たすらに石垣がつみ上げられていて、城跡というよりは 丘という印象が強かった。自由時間も 15 分と何も見る 時間もなかったし、 ちょっと回ってすぐにバスに戻った。 途中「飲めば分る」と書かれた看板がある店があり、さ とうきびジュースなどを売っていたのだけが心に残った。 このようにこの日は時間が足りなくて非常にバタバタ していたが、結局飛行機が 55 分も遅れて空港でしばら く休憩することになり、どっと疲れたように感じた。 サトウキビを搾った汁を煮てアクをとり、ジュースを作る 恋川 真己 最終日、黒糖づくりを選ばなかった僕らは、海洋博記 念公園・美ら海水族館に行った。到着してまず外からサ 黒糖づくりを終え、カチャーシーでフィナーレ
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