(平成24年10月発行) News Letter No.3 - 大阪学院大学

イラクの塩害と砂漠化の環境史
研究課題番号:2331190
研究プロジェクト 代表挨拶・・・2
新メンバー紹介・・・3
大英博物館調査・・・3
平成23年度第3回研究会報告・・・4
平成24年度第1回研究会報告・・・5
イラク古環境プロジェクト
今年も年の瀬が迫ってまいりました。皆様のご支援のおかげで「イラクの塩害と砂漠化の環境史」研究
も、2年目を迎えることができました。前号でご報告した後の研究活動について、簡単にまとめてみたい
と思います。
古代メソポタミアの古環境を復元するための有力な生物環境指標として、私たちは粘土板文書に含まれ
る「珪藻」に注目しています。メンバーの辻彰洋氏は、平成20年8月にはじめて大英博物館収蔵の粘土板
を顕微鏡で観察し、珪藻を含む粘土板があることを史上初めて発見しまし
た。これは粘土板が文字以外の「ことば」を語りはじめた、歴史的な瞬間
でした。しかし、当時は博物館からサンプル採取の許可が下りなかったた
め、珪藻があることを確認できながらも「種」の特定まで至れず、とても
悔しい思いをしました。今回は、昨年9月頃から調査申請書の作成を始め、
途中で申請方法が変更されたことを知って、改めて12月初旬に調査申請を
行いました。ようやく2月11日に大英博物館から正式な許可をもらうこと
ができました。4年越しの挑戦でした。
調査は3月1216日の間に集中して行われ、辻氏が渡英して調査を行ったほか、ロンドン大学UCLの
博士課程に在籍するアンケ・マーシュさんにも、助手として調査に協力してもらいました。はじめに、4
年前の調査で珪藻を確認した16枚の粘土板との再会を果たし、それらの再調査に加えて、新たに83枚の粘
土板について表面観察を行いました。またこの調査を行っていた最中の3月15日に、大英博物館の学芸員
や科学者らを対象とした博物館のランチタイム・レクチャーの場で、本研究
について講演する機会がありました。粘土板分析を通してどのような古環境
復元を試みているかについて、関係者に理解してもらうよい機会でした。こ
の大英博物館調査の詳細については、辻氏の記事をご覧ください。またこの
機会に、M.アルタウィール氏(ロンドン大学考古学部専任講師)と、衛星画
像を使った現代イラクにおける塩害の分析について意見交換を行いました。
ちょうどこの頃、日本ではNHKスペシャルとしてドキュメンタリー「ヒューマン なぜ人間になれた
のか」という番組が放映されていました。この番組を制作されたディレクターの浅井健博氏と居石麻里氏
は、すでに4年前から番組制作の準備を始め、メソポタミアの古環境と人間の関わりについて取材を重ね
られました。第3集の「大地に種をまいたとき」、第4集「そしてお金が生まれた」には、恩師J. オーツ
博士はじめケンブリッジ大学のA. マクマホン博士、ダーラム大学のT. ウィルキンソン教授、ウィーン
大学のG. ゼルツ教授など、本研究の海外メンバーたちが番組に関わっています。中でも第4集は、オー
ツ博士が番組冒頭から登場し、35年以上にわたって発掘調査を続けてきたシリアのテル・ブラク遺跡につ
いて現地で詳しく解説されています。現地の撮影は、ちょうど一連の「アラブの春」が始まった頃、シリ
アの情勢も不穏になり始めた昨年春に決行されました。今のシリアの状況を思えば、いかに貴重な映像と
なったかを思い知らされます。
昨年度最後となった第3回目の研究会を3月21日に、ならびに今年度初回の研究会を6月30日に開催し
ました。研究会の詳しい内容につきましては、井氏ならびに三輪氏の記事をご覧ください。また、昨年
9月にMOU(了解覚書)を交わしたウィーン大学との農業文書に関する共同研究について、今年8月
井氏にウィーンに渡航いただき、ゼルツ教授と一緒に文書の読解をする研究会が実現いたしました。この
報告は、次号ニュースレターに掲載させていただく予定です。
なお、昨年7月の第2回研究会でアルタウィール氏を交えて協
議したスレイマニヤ博物館(イラク・クルド自治区)との共同研
究について、この春から新たに科学研究費の助成を受けて、「ス
レイマニヤ博物館収蔵の楔形文書の産地同定とティグリス河流域
の地質学的研究(課題番号:24401016)」としてスタートできる
こととなりました。この研究では、スレイマニヤ博物館に収蔵さ
れる楔形文書について、使われている素材(粘土)の化学組成な
らびに物理的特徴を分析し、粘土板の産地同定を行うことを目的
としています。いつかニュースレターでこの調査の報告をさせて
いただくのを、今から楽しみにいたしております。
2
山田 重郎
所属・肩書:筑波大学人文社会学科研究科・教授。人文社会科学研究科国際地域研究専攻長
研究内容:アッシリア学、特に楔形文字資料の文献学的・歴史学的研究、シリア北東部テル・タバン出土文
書の解読・研究、西アジアの歴史観と歴史記述の比較研究などが中心的な研究テーマです。
抱負:古環境、粘土板の作製方法と作製地、粘土板文書間の諸関係など多くの事実が、モノとしての粘土板
の観察や胎土分析により明らかにされる可能性があります。文書の内容にとどまらず粘土板そのものを分析
する本プロジェクトは、粘土板研究に書誌学的研究という新たな地平を切り開くかもしれないと期待してい
ます。文献学・歴史学の立場からプロジェクトに参与したいと思います。
主な業績:S. Yamada,The Construction of the Assyrian Empire: A Historical Study of the Inscriptions
of Shalmaneser III (859-824 BC) Relating to His Campaigns to the West, Leiden, 2000; H. Tadmor and
S. Yamada, The Royal Inscriptions of Tiglath-pileser III (744-727 BC) and Shalmaneser V (726-722 BC),
Kings of Assyria, The Royal Inscriptions of the Neo-Assyrian Period, Vol. 1, Winona Lake, 2011.
趣味: 卓球、水泳、旅行、庭いじり、料理、将棋、読書
大英博物館での粘土板文書調査は、2008年の8月に、金属顕微鏡を使って
38枚の粘土板表面の観察を行ない、欠損して内部の粘土が露呈している部分
に、珪藻が存在することを確認したのが始まりである。同館での調査は当初
より、調査の許可申請に時間と手間がかかり、2008年の時の調査も、顕微鏡
観察のみ(採集などは一切行わない)との条件であれば、reading roomでの、
粘土板の解読と同じであるとの解釈で、直前に許可が下りたものであった。
この時の調査で、粘土板文書上に珪藻が存在することが明らかになったわ
けであるが、顕微鏡の解像力の問題や観察方法の技術的課題によって、珪藻
の種を明らかにすることは出来ず、あくまで存在が明らかになったに過ぎな
かった。本来の目的である、古環境の復元のためには、種レベルでの同定を
行う必要がある。そのための方法としては、SEM(走査型電子顕微鏡)による直接表面観察か、試料を採集して
の破壊分析を行う必要がある。当初は非破壊分析としての低真空型のSEMを用いる予定であったが、粘土板を借
り出すことが困難であったこと(一つの可能性として私がいつもお世話になっている大英自然史博物館のSEMを
用いる可能性も考えられた)、BM科学部門のSEMを用いることが難しそうなこと、そして低真空SEMにおい
ても試料室内での粘土板の破壊などの事故があり得ることなどなどの課題があり、実現が出来なかった。
今年の3月の調査は、その点で2008年に確実に珪藻が観察されたタブレットから試料を採取し、日本側に持ち帰
った。今回は、本研究のために購入した金属顕微鏡での観察を行った。この顕微鏡は、小形で重心が低く、2008年
のものよりも振動の影響が受けにくかった。また、顕微鏡観察は、非常に疲れるため、ロンドン大学UCLのアンケ・
マーシュさんと共同で行った。最初に2008年の調査で珪藻が見つかった16個のタブレットをアンケさんと一緒に観
察し、珪藻の見え方を確認した。これとは別に83個のタブレットを観察し24個から珪藻(およびその可能性のある
もの)を見いだした。中心類珪藻と思
われたものは、極めて小形(10以下)
で球状の鉱物との区別がつきにくかっ
たため、‘centric diatoms?’として
扱った。現在、これらの試料を解析途
中であるが、珪藻の存在量の少なさに
苦労している。このことについては、
次の機会に述べたい。
3
昨年度の3月21日に早稲田大学で行われた平成23年度第3回研究会において、
共同研究者のハイダル・オライビ氏(イラク考古総局職員・国士舘大学大学院グ
ローバル・アジア研究科博士課程)による講演と質疑応答が行われました。この、
講演を通してオライビ氏により、イラク考古総局が手がけたウム・アル・アカリ
ブでの発掘について、パワーポイントによる遺跡の映像をはじめとして、さまざ
まな情報が私たちに提供されました。ウム・アル・アカリブは、シュメール時代
の都市ウンマ(イラク南部)の中心から南南東の方角約7kmのところに位置した。
古代遺跡ですオライビ氏の講演は、日本ではまだ知られていない多くの情報を含
んでおり、とても貴重なものでした。以下で、その講演について振り返ってみた
いと思います。
故ドニー・ジョージ教授の指揮により、ウム・アル・アカリブの発掘が始まったのは、1991年のことでした。そ
の頃既にイラクの古代遺跡の多くは盗掘が相次いでいたので、この最初の発掘自体さらなる盗掘を食い止める意図
で始められたようです。講演においては、まずこの90年代に行われた8度にわたる発掘の概要が以下のように述べ
られました。
最初の発掘によって、遺跡北部に西から東へと古代の運河が走っていたことが確認されました。運河はこの町の
水利施設に大きな影響を与えていたようです。煉瓦で造られた大規模な井戸も発見されました。この井戸は地表か
ら6mの深さまで発掘されていますが、更に深く続いていたことが確認されています。用水路も町に張り巡らされて
いたようで、代表的なものとして、20cmの直径のある排水用のパイプが発掘されています。この町を取り囲んでい
た市壁の一部も、63mの長さに渡って第一次の発掘で出土しました。壁は日乾レンガでできていました。また、極
めて良く計画された街路の跡も出土しています。大型建造物としては、初期王朝III期に属する宮殿が発見されて
います。少なくとも16本の柱を持っていた壮大な神殿の痕跡も見つかっていますが、初期王朝III期に属するもの
としてはシュメールで最大の規模を誇ります。この神殿からは、ラガシュのエンシ、エンメテナと刻まれた碑文が
見つかっています。この時代、何故に、ラガシュの影響がウム・アル・アカリブに及んでいたかは解明が待たれる
ところです。祭壇もいくつか出土しました。第七次の発掘では、レンガの上にアスファルトが塗られた入浴施設も
見つかっていますし、初期王朝期の墓地もこの時期の発掘によって見つかったものの一つです。
加工された石と加工道具が発見された部屋は、第四次の発掘の際に見つかったのですが、出土品から考えて、こ
の工房は神殿への奉献品が制作されていたであろうと考えられています。円筒印章が何点か出土したのも、この第
四次の発掘に際してでした。文字資料については、上述の碑文以外にも、約30点の粘土板が出土しました。そのほ
とんどが行政経済文書ですが、3点の語彙リストもそのなかに含まれることは特筆に値するでしょう。
講演の後半でオライビ氏は、2003年以降に再開され、氏もそ
の中心を担った第九次と第十次の発掘について情報を提供して
くださいました。2003年まで、発掘が一時中断を余儀なくされ
ていた間にも、盗掘が進んでいた跡が認められたということで
す。その中には4mの深さに渡って盗掘用の穴が掘られていた事
例もありました。そのようななかで、二回にわたる発掘は、以
下のような成果をもたらしました。
© Abdulamir Hamdani & Italian Carabineer
重要な建造物としては、瀝青の保管庫と穀物貯蔵庫が見つか
り、後者においては円筒印章も出土しました。全部で350ほど
が見つかった墓に関しては、代表的な二基についての紹介があ
りました。一基からは、青銅器製の副葬品が出土しましたし、
75もの副葬品が出土している墓もあります。大量の副葬品が見つかったこの墓には、二体の遺体が埋葬されていま
したが、この二体は母子であったらしく、母親はラマッスの円筒印章を持っていました。また別の墓からは、甕の
中に収められた子供の遺体も発見されています。二回に渡る発掘によって出土した遺物は豊富でしたが、特筆すべ
きものとしては、土製の戦車風の玩具が見つかっています。また青銅製の斧も出土したとのことでした。
以上の発掘報告は、私たちの調査の対象であるイラクの古代遺跡の生の姿を伝えるものです。ウム・アル・アカ
リブの運河や水路の状況がさらにわかってくると、塩害との関係で私たちの研究にも示唆を与えてくれるかもしれ
ませんし、文字資料の解読が進めば、まだ知られていない農業関係の情報が得られるようになるかもしれません。
そのような期待を抱かせてくれるような講演でした。正式な発掘調査の報告が切に待たれます。
4
平成24年度第1回合同研究会が「イラク古環境・スレイマニヤ共同研究」のテーマで、6月30日土曜日の午後、
14時から17時まで行われました。場所は全回と同様、早稲田大学理工学術院(西早稲田キャンパス)の環境資源工
学科会議室でした。出席者は、研究代表者の大阪学院大学の渡辺千香子氏、早稲田大学の内田悦夫氏、慶応義塾大
学の井啓介氏、国立科学博物館の辻彰洋氏、国士舘大学で研究をしておられるイラク出身のハイダル氏に加え、
今回はアッシリア王碑文がご専門の筑波大学、山田重郎氏が出席してくださり、活発な討議が行われました。
最初に渡辺氏より1)研究メンバーの紹介があり、これ
までの研究の経緯の説明が行われ、続いて、2)平成23年
度の大英博物館調査の報告の概要を渡辺氏より、また同調
査における粘土板に含まれる珪藻の分析の技術的課題につ
いて、辻氏より報告が行われました。また後半は3)本年
度の研究計画について話し合われました。
大英博物館での粘土板調査については、辻氏、渡辺氏が
2012年3月12日から16日に博物館を訪れ、 Anke Marsh、
Jon Taylor、Mark Altaweel の各氏の協力を得て行われま
した。博物館に所蔵されている粘土板を資料として使うこ
とがいかに困難なことであったか、御苦労がしのばれます。
すでに2008年から申請していて、2011年に書類を書き換えて、さまざまな条件を付けられてようやく可能となりま
した。5000年以上の時を経た粘土板をわずかに削り取り、その中から珪藻を探し出すということで、博物館側もそ
の調査のプロセスを厳重にチェックしながらの許可でした。辻氏が顕微鏡の入ったスーツケースを博物館内に持ち
込み、博物館員が見つめるなか、ようやく調査許可が出ました。
また調査期間中、3月15日にはBritish Museum Middle East Lunchtime Lecturesで報告の機会を得て、大英博物館
関係者を対象に、「A project ‘Ecohistory of salinisation and aridification in Iraq’: The challenge to
reconstruct palaeoenvironment through clay tablets」とのテーマで、このプロジェクトの紹介と3日間の成果報
告が渡辺氏より行われました。
続いて、辻氏による粘土板に含まれる珪藻分析の技術的課題についての報告では、いかに粘土板から珪藻を見つ
け出すか、その方法の説明が行われました。珪藻には表面に襞がついていて、その数から淡水性のものか、海水性の
ものかが同定でき、当時の古環境の塩類集積の様子を推定する手掛かりとなります。淡水に生息する珪藻は大半が2
ミクロン程度の大きさで、粘土板から削りとったわずかな試料を水で処理し、ろ紙で受け止めて、それに付着した珪
藻を顕微鏡で見出す作業を行います。ミクロのレベルの分析だけに、空気中の珪藻が紛れ込む可能性があったり、試
料中の密度が低く見出しにくかったり、あるいは顕微鏡観察以前の前処理で失われてしまったりなど、さまざまな困
難が伴い、分析技術の精度を高めることが求められます。サンプル数を増やし、統計処理できるところまで持ち込む
ことが今後の課題となります。
以上の報告2題のあと、最後に本年度の研究計画について、①イラク南部「河の泥プロジェクト」、②エール大学
における調査、③ウイーン大学における文献調査、④大英博物館における調査(珪藻)、⑤大英博物館における調査
(化学組成)、⑥スレイマニヤ調査について、時期ならびに参加者の確認などが行われました。
14時から17時までの息つく暇のない、
タイトなスケジュールで行われた合同
研究会ですが、熱のこもった活発な討
議、意見交換が行われ充実した午後と
なりました。その後、暑さが幾分和ら
いだ夕刻、西早稲田キャンパスから近
くの韓国料理店に場を移し、ビールを
飲みながらの楽しい懇親会をもって今
回の合同研究会は幕を閉じました。
5
表 紙:「ウルのスタンダード」戦闘図(部分)
前 2600 年頃/材質:ラピスラズリ・紅玉髄・貝殻/イラク、ウルク出土/大英博物館蔵
裏表紙:「王宮庭園の中のアッシュルバニパル王と王妃」浮彫り(部分)
前 645 ∼ 640 年頃/材質:雪花石膏/イラク、ニネヴェ出土/大英博物館蔵
編集後記
私たちのプロジェクトも二年目を迎え、ニュースレターも第三号を発行
することができました。原稿をお寄せくださった先生方有難うございます。
編集はいつも富田さんに任せっきりで恐縮です。研究に参加しているメン
バーがどういった課題を、どのように分担しているのか、ニュースレター
はそのことに改めて触れる良い機会ではないでしょうか。これまでお伝え
してきた、米国・英国での粘土板の化学組成、生物指標の分析に加えて、
今年度からは、いよいよ調査のフィールドがイラクにまで到達します。次
号では、そのイラクでの調査についてご報告できることを楽しみにしてい
ます。 (編集委員長 井)
発行日 2012 年 10 月 31 日
発 行 大阪学院大学
イラク古環境プロジェクト
〒564-8511
大阪府吹田市岸部南二丁目 36-1
TEL 06-6381-8434