にも 注 目 し な け れば な らず 、 最 中 国 と いう核 保 有 国 が いる こと 一歩 を 踏 み出 し た こと に過 ぎ な 至 る厳 し い道 のり への、 ほ ん の と では あ るが、 究 極 の核 廃 絶 ヘ いこと をも 頭 に入 れ ておく 必 要 終 的 に原爆 ド ー ムが世 界 遺 産 と な る こと にも 、 これ か ら越 え ね があ る。 に着 く こと が出 来 た 。 や っと 私 達 は スタ ー ト ライ ン ば な ら な い ハード ルが いく つか 存 在 す る こと を 私 達 は認 識 す べ き であ る。 であ る。 も し、 これ を 果 たす こ ︵ 元 広島 弁 護 士会 会 長 ︶ 国が世界遺産条約を批准 し て以 と が出来 な け れば 、 人 類並 び に こ の地球 に未 来 は な く 、破 減 が スタ ー ト は これ か ら な のだ ” 平成七年九月 二十 一日、遂 に 来、各方面から起 り、所轄 の文 産委員会 へ登録推 せ んす ること を決 めた。 五万余を集 めた ﹁ 原爆 ドームの る最大 の原動力 が請願署名 一六 否 か は、 フラ ン ス、 中 国 の最 近 の状 況 を み ても 明 ら か な如 く 、 そ し て核 廃 絶 を達 成 しう る か 訪 れ る に 違 いな いと いう こ と が、 私 の確 信 であ る。 今 回 の来 日 は 一九 八 八年 締 結 を さ ら に深 め る こと にな った 。 会 代 表 団を 迎え て日中 友 好 の絆 2月 7 広 島 ユネ ス コ協 会 では 1 中国代表団 2 ︲月来広 2.世 紀 中 に人 類 が果 た さ ね ば 文化庁 は世界 の文化遺産 と して 化庁 への働き かけが行 われ て来 な ら な い最大 の テー マは核 廃 絶 原爆 ドー ムを ュネ ス コの世界遺 原爆 ドームを核廃絶 に進む ベ 民運動 であ った こと は動 かし難 世界遺産化をすす める会﹂ の市 決 し て為 政者 にか か って いる の 発 効 翌 年 c 有 効 4年 ︶ さ れ、 ︵ たが、今回 の文化庁 の決定 に至 き 人 類 共 通 の悲 願 の象 徴 と し て、世界遺産 リ スト ヘ登録 しよ く、極 め て民主的 な方法 で 一般 の市 民 の双 肩 にか か つて いる こ では な く 、 何 2 肩書 も な い普 通 い。 は大変喜 ば し て結 実 し た こと の国 家意 思 と し ち核 が人 類 を 減 亡 の測 に追 いこ ん で いる事 実 を 人 々 に伝 え 、核 自 覚 す る必 要 があ る。 私 達 は 、地 道 に核 の脅 威 、 即 リ ー ドす べき存 在 であ る こと を り 、 世 界 の核 廃 絶 へ の 世 論 を が国 民 が特 別 の意 味 を も ってお と 、特 に唯 一の被 爆 国 であ るわ は か るも のであ る。 派 遣 し て相 互 理解 と友 好 親 善 を 的 、物 的 交 流 を 目指 す も ので、 来 日 であ る。 一次 か ら通算 4回 目 の も ので、 ユネ ス コ友 好 姉 妹 協 定 に基 づ く 九 二年 再 締 結 さ れ た第 二次 日中 日か ら 4日間 、 北京 ユネ ス コ協 うとす る動き は、三年程前 わが の意 思 が わ が 国 市 民 の核 廃 絶 ヘ に登 録 さ れ るた 廃 絶 を 実 現 す る運 動 の輪 を より 爆 資 料 館 、 原爆 ド ー ム見 学 のほ ド ー ムが世界 遺 今 回 の文 化 庁 の世 界 遺 産 登録 産 と し てリ スト 推 せ ん決 定 は、大 変喜 ば し いこ 催 の中 国 ブ ロ ック研 究 会参 加 者 を含 む歓 迎 パ ー テ ィを計 画 中 。 中 国代 表 団来 広 に際 し て、 原 人 的 には代 表 団を 隔年 、交 互 に こ の協 定 は 日中 エネ ス コの人 め には 世 界遺 産 んな が これ に取 り組 ま な け れば か教育 施 設 視 察 、 ま た 同時期 開 し か し、 原爆 委 員 会 で の承 認 が必 要 であ り 、 な ら な いと 思 う 。 バ ー には ア メリ 一層 拡 げ 、 ま た 、 よ り真 剣 に み 二 省 員会 の メ ン カ、 フラ ン ス、 a(o82)227-0706) 広島市牛田公民館気付 編集 。発行 広島ユ ネスコ協会 (事 務局 :広 島市東区牛 田新町 l丁 目 8-3 第37号 ユ ネ ス コ ヒ ロ シ マ 20日 ① 1995年 10月 ユ ネ ス コ50周 年 が出席 してユ ネスコ憲章 を採択。憲 1945年 11月 国連文化会議 に44カ 国 章 (戦 争 は人の心 に生 まれる…)は 46年 11月 に発効。 日本は1951年 に60 番 目の加盟国 となった。 在 日外国人講師 には母国 の事 広 島 市 中央 公 園芝 生 広 場 で開催 さ れ た。 広 島 ユネ ス コ協 会 は 日本 文 化 大阪総領事館教育担当 、李春生 9日 ﹁日中文化 の似 たる 7月 2 と ころ、非な ると ころ﹂中国駐 評 を得 ま し た ︵ 前 ページ 写真 参 し、集 ま った多 く の人 び と の好 方 の指 導 によ る、 わ ら ぞう り づ く り 、 シ ャボ ン玉 遊 び 、 フライ 体 験 コー ナ ー の 一角 を 受 け 持 ち 、広 島 凧 の会 松 本 興 二郎会 長 領事 9月 6 日暮 れ て道峻 し、 1日 ﹁ 大英帝 回﹂奈良教育大 田測 五十 ス ・ラブを基 にし た造 語 で主 催 本語教育﹂広島大奥 田邦男教授 師 には専門分野 の外国 ︵ 人︶情 生教授 ︵いずれも土曜 日、午後︶ 団体 には広 島 ・ユネ ス コ協 会 を 氏 ゲ スト︶ で提起 された質問 に 指 導 の凧 づ く り を は じ め老 婦 人 報を、 一杯 の コー ヒーを飲 みな 対す る回答←中国青少年教育助 情と 日本 ︵ 人︶観 を、 日本人講 がら拝聴す る国際交流 サ ロン。 成金 に ついて。四百元 ︵ 日本円 は じ め ボ ラ ン テ イ アグ ループ に て替え が実現す る。送金先等 、 詳細は広 ユ協事務局ま で。 べあせろべ﹂ ﹁ 賑わう 2回目を迎え た恒例 の ﹁ぺあ ・ せろべ桃﹂は、広島に住むさま ざ ま な 国籍 の人 び と が 、愛 と 平 和 を旗 印 に秋 の 一日を 戸外 に集 い、 スポ ー ツや遊 び に汗 を 流 し お互 いの文 化 に触 れ て いた だ く 0月 8 日 ︵ こと を 目的 に、 1 日︶ 厚 くお礼を中 し上げます。 万円︶を寄 せられま した。 遺族 が当協会 へ寄附金 ︵ 五 河村盛明元広 ユ協会長 ご 河 村 元会 長 ご 遺 族 が寄 附 際 色豊 か な秋 の 一日を楽 し んだ ジ ア大 会 を 経 て更 に深 ま った 国 ジ ア交 流広 場 を 併 せ て訪 れ 、 ア ﹁ぺあ せ ろ べ﹂ と 同 会 場 隣 の ア な お 、当 日 は市 民 六 万 人 が、 よ る実 行委 員 会 と広 島 国際 文 化 ﹁ぺあ せ ろ べ﹂は 、英 語 のピ ー 昭じ。 し ん で遊 べるプ ログ ラ ムを 展 開 デ ィ スク、 ゴ ル フなど 子供 が楽 当協会と縁が深 か った李春生講 約 四千円︶ で児童 一人 の小学校 財 団 、広島 市 国 際 交 流協 会 が名 教授 7月度 は、広島大学留学時代 に 師を迎え るなど本年度前半も実 卒業ま で、 二〇万元 ︵ 同 二百万 円︶ で小学校 一校建設、 一〇万 を連 ね て いる。 注︶ 7月度 サ ロン ︵ 李春生 ︵ りあ るサ ロンが展開 され、今 月 0回を迎え る。 第6 上半期 の経過 は次 のど おり。 7日 ﹁ 5月 2 戦後 0 5年 の意義 と 将来 の課題﹂広島修道大吉 川元 元 ︵ 同百万円︶ で小学校校舎 建 4日 ﹁ 6月 2 外 国人 に対す る日 ︿ 7月 サ ロン ・ 李 春 生 講師 ﹀ rヽ 'メ χX… … わ`χ 取 誌 繁 、藤井孝行 両理事参加 ▽ 0 1月 8日 ●ぺあせ ろべ% ※国 田 化財保護審議会︶ 業計画 ▽2.日 /原爆 ドー ム 世界遺産化推 せん決定 ︵ 文 ッ 活 究会開 企画 ▽ ク 動 研 催 0月発行 6日/広報部会 ∼1 機関紙編集案 、紙面刷新案 6日 /理事会 ∼下半期事 ▽︲ 之副会長、藤原隆範 理事参 6日 /常任理事会 加 ▽2 9月 1日 ′組織部会 ∼中国ブ ロ 昭博常任理事 が記念講演 ▽ 6 ′第 5回高校生 7 日 ∼ 日 2 ・ 海外 研修 ︵ 中国︶ ※深崎敏 市 三滝少年自然 の家 ※高橋 5日∼8日 第 4.回全国高 校 ユネ ス コ研究大会。広島 のタ ベ ︵ュネ ス コ共催︶ ▽ ン広島 一∼世界 の子供合唱 8月 2日 ′ピ ー スワールド ・イ 9日 李春 9日 同葬儀 ▽2 生氏を囲む パー ティ 4日 ′理事会 6月 2 7月 8日 ′河村盛明元会長逝去 親会 5月 0 1日 ′常任理事会 ∼新年度 7日 〓総会、懇 役員人事 ▽2 日 3日 原爆 ドームの世界遺 ・ … … … … ④ 1995年 10月 20日 ヒ ロ シ マ ・ ユ ネ ス コ 嘉 窓 原爆 犠 牲 者 慰 霊碑 に ﹁ 推せ 産 化 を す す め る会 委 員会 、 ん決 定 ﹂ を報 告 、献 花 ※信 井 正行 副 会 長 参 加 ◇高橋 昭博さ ん ﹁ヒ ロシ マいのち の伝 言 ∼高 ﹁ 地球 上 には人 類を 殺 し て余 橋 昭博 の0 平 凡社︶出 版 5年﹂ ︵ 2日、広島 リーガ 記念会 が 7月 1 ロイヤ ルホ テルで開かれた。 りあ るだけ の核兵器 があ ふれ て いる。血 の通 った被爆者援護法 も手 に出来 て いな いc核兵器廃 絶と真 の被爆者援護法 の実現を 願 い、そ のため に費 やしてきた 私 の半世紀を振り返 った。本書 は未来 への伝言 であり、私 の履 ◇ 深崎敏之さん 同書まえ がき︶ 歴書 であ る﹂ ︵ 広島市職員時代 に携 った広島 アジ ア大会 の誘致 から開催決定 ま で舞台裏 をまと めた ﹁ 地方都 市 の国際化を目指 した広島 アジ ア大会﹂ ︵ 邦 ・英文︶を発刊。 ﹁ 開催 地 決定 の経 過 は、多 様 性 のあ るアジ ア地域 が国際的 に 意思統 一す る方法を学 ぶうえ で ◇加藤朗 一さん も重要と思 い作成 した﹂。 高 田郡向原町 の実家 へ転居。 今秋 から山陽女子短大講師 に。 ② 1995年 10月 20日 ユ ネ ス コ ヒ ロ シ マ 第37号 ド イ ツのリ ヒ ア ルト ・ 0年 に、・ に賛 同 した か ら であ る。 1 9 6 済人と の交流ばかり で、他 の分 を経営 し ております関係から経 私は広島市中区舟入 で材木 屋 信井正行 、◎上橋穏詔、佐 々木 末重文男、︵ 事務局︶事 務局長 ・ 橋昭博 、◎古 田硯永、◎木村進 匡、○木原亮 、○中山修 一、○ 籍 、宗 教 、 風 俗 、 習慣 を 超 越 し 真 に国 を 知 る こ と と 同 時 に 国 じ て地方 の自 然 と文 化 を 学 び 、 よう にな って、青 少 年 が旅 を 通 文化機関と聞 いても、具体的活 ありません でした。しかし、現 動とな る焦点 が浮かんで来な い。 在、駐大阪総領事館 の李春生領 ユネ ス コの意義 を勉強 し、 よ 事 が広島大学学生時代 にわが家 行動す る 一員 でありた い。 に貢献出来 るよう に、主体的 に 放送 の亀井 さんから の勧誘 で、 に下宿 された時 から ユネ ス コと の関わり が生まれ、そ の後 中国 野 の方 々と の交 わりはほと んど 一九九 五年度広島 ユネ ス コ協 7日、広島市 国際 会総会を 5月 2 青年会館研修室 で開き 、本年度 肇 、◎松岡盛人、○国 田繁、○ た 国際 的 交 わ り の中 にお いて、 入会 させ て いただきました。 入会後 は国際交流 サ ロン、講 世 界 を知 る こと と いう 目的 と相 ユー スホ ス テ ル運動 にか か わ る 事業計画と予算を決定 。ま た、 ユネ ス コ、国際連合教育科学 シ ル マ ン に よ って始 め ら れ た 役員選出 では、新副会長 に広協 岡平裕次 、監事 ・吉岡尊治、成 田鍼雄 ︵ ◎常任 理事 、○理事︶ く討議 し研究 し て、社会 の発展 初 の女性副会長 が誕生 し、協会 活性化路線 を予兆 させる役員人 事とな った。 ※広島市立古 田中学校長退任 題意識 や会員 の層 の広 さを深く 通 ず るも のがあ る こと も 入会 の 感 じ て います。 演会等を通じ て会員 の皆様 の問 な いかと 思う し、後 継 者 と し て 後 、現在 、鈴峯女子中学校 ・高 若 い世代 の育 成 を ど う考 え た ら 等学校英語教員。囲碁 五段 。 入会 の動機 は、高橋 昭博 氏か 一因 ではあ る。奉 仕 。ボ ラ ンテ ら のお誘 いがあ つた ことと、教 ィ ア活 動 も会 の重 要 な内 容 では 名誉会長 ・平岡敬 /顧問 ・永 よ いかと 思 いを めぐ ら し て いる 今後 は会員 の皆様 のご叱咤を 育 ・科学 ・文化を通 じ て国際理 頂戴 し てお役 に立ちた いと考え て います。 ※大塚製材所社長 会 長 ご在任 中 の最大 の事業 は世界 初 の民間 ユネ ス コ運動 世界大会 広島 開催 ︵ 1 98 4年︶ でした。そ のシ ンポジ ウ ム の テー マ ﹁ 平和 と人権﹂ を受 け て、会 長 は 世界 の ユネ スキ ャン平和運 動家 が集 う大会 成功 のた め陣 頭指揮 を され、大き な成 果を挙 げ る に至りま した。 ま た、 モ 不ス コの日中交 流 の先 べん役 も務 められま した。先 生 は、今 日も 継続 中 の広島 北京 ユネ ス コ協 会 姉妹提携 のさき がけと な った ロ ユ協 と 中国教育 国際 交 流 協会 と の間 の交 流計画 締結 に際 し訪 中 団 の日本 代表 と し て訪 中 、調印 さ れま した。 二 つH のご功績 は、 これも今 日も継 続 され て成 果を収 め て いる国際交 流 サ ロン の創設 ど実 践 です。 、文 これ ら枚 挙 に暇 のな いご功 績 は先 生 の マス コミ、 歌壇 ︵ アラ ラギ、未 来 ︶ 筆 ︵ 出 版本多 数 ︶ の諸 活動 に加え広 島市 の平和活動 に ︵ 広島 平和文 化 セ ンター理 事 長︶ に携 わ って来 られた実 績 が土台 とな って結実 したも のと言えま し ょう。 戦 下 の下、静 かな る反戦歌 ︵ 戦 に命 死 ぬ べしと ⋮︶ を詠 ま れ てか ら 五十年 。今 年 は終戦 ・被 爆 五十周年 の年 でも あ ります。 そ の年 に己 れ の生命 の終 焉 を重 ね合 わ せた いと され る壮 絶な ご意 志 がおあ りだ つたと 、思え てなりま せ ん。 こ のほど原爆 ド ー ムの世界遺 産化 の推 せんを手 中 にしま した。 と ロシ マは 五十 年 を終 え て次 な る方 途 の構 築 を求 め られ て います 。私共 は、 河村先生 の遺 訓 を継 承 し つつ、 そ 不ス コ精神 の実 践と と ロシ マの責務 を全 う す るた め に今後 努 め る こ とを お誓 いし て追悼 のことば とさせ て頂き ます。 にな り ま し た。 お手 伝 いを さ せ て いた だ く こと こ の度 、広 島 ユネ ス コ協 会 の 井滋郎 、松原博巨、沖 原豊、倉 ※比治 山 女 子 中 ・高 等 学校 校 と こ ろ であ る。 長。 0 約 二年 に及 ぶ闘病 ののち今年 7月 8日、お亡く なり になりま した。 2 7歳 でした 心 から哀悼 の意 を表 します 。 河村 先生 は富山県 のご出 身 で、京 都 大学 国文科在 学中、学 徒出陣 され、終 戦と とも に復 学 されま し た。 こ の頃 より短 歌 の道 に進ま れ、 そ の 一首 が のち に昭和万 葉集 に福ま れま した。 戦 に 本 叩死 ぬ べしと 別れ たりき 吹 雪き て青き 夜 の窓なりき 大学 卒業 後 は毎 日新 聞記者 と し て各 地 、各 部署を 歴任 ののち、広島 支 局長 から 中国放 送役 員 に転進 され、同時 に日本 ユネ ス コ協会連 盟も 主催 す る ヒ ロシ マ国際 ア マチ ュア映 画祭実 行委 員 会副委 員 長 と し てそ の推 進役を 果 たさ れま した。 これ がご縁 で同映 画祭 の ユネ ス コ代表審 査 員 であ った故 内海巌 元 日 ユ協 副会 長 か ら勧 5年 に広島 ユネ ス コ協会 の副会 長 に就任 さ れ、 1 めら れ て、 ユネ ス コ入会 、昭和 5 8︶年 に会 長 に、 やが てロ ユ協 中央委 員 にも お就 になりま した。 983 ︵ 昭和 5 広島 ユネ スコ協会会長 伊東 一 曇ニ 河 村盛 明 元会 長 の ご 逝 去 を悼 む の向 上 に努 めると いう会 の目的 和 に貢献 し、あわせ て地域社会 解と国際協力を進 め、世界 の平 会長 ・伊東亮 三/副会長 ・信 田信雄、加藤朗 一 井正行 ・深崎敏之 、竹沢臣子 ︵ 教育活動︶◎太鼓矢晋 、◎ 本家正文、◎上本忠則、○平岡 豊恵、○米山幸夫 、 ︵ 組織活動︶ ◎山崎克洋、◎北川建次 、◎藤 森巌 、〇小野文隆 、○西村憲治 、 ○ 山崎 芳彦、 ︵ 文 化活 動︶ ◎新 川貞之、◎大和喜久男、◎中谷 美保子、○光 田鉢、○住 川典文 、 ○沖 本 博、 ︵ 国 際交 流 活動 ︶◎ 永 田龍男、◎藤井正 一、◎長追 凱郎、○松尾昭彦 、○今 中圭介 、 ○藤 原 隆範 、 ︵ 広 報 活 動 ︶◎ 亀 井章、◎内 田憲至、◎由 田千鶴 子、○山本隆信、○藤井孝行、 ○ 中道 紘 二、 ︵ 平 和活 動︶◎高 第37号 ヒ ロ シ マ ・ ユ ネ ス コ 20日 中国地方 の ユネ ス コ協会会員 が 一同 に集 い、活動 の目標 と実 践をめぐ って研修 し、会員間 の 交流を はかる中国 プ ロック活動 2月 9日、 0日、広島 研究会 を 1 1 を会場 に開く。ご参加を ︱ 主 要 テー マ﹀ ﹁ 国 際交 流 。国 ︿ 国代表団招待︶ 討論 0 金会館︶ 生 年 ・8 厚 ・︰0 ︵ レセプ シ ョン ︵ 日中交流中 流 ・国際協力﹂各 県発表 ▽ 地域 におけ る国際交 長▽ ﹁ ンド編﹂日 ユ協村井了理事 ﹁ 私 た ち の生 活 ・学校 ∼イ 屋 運 動 と 世 界 遺 産 活 動﹂ 世界寺小 ▽講演とビ デオ ﹁ 安 田女子短大 川瀬啓子教授 ォーラムに参加 し て﹂ 内容 。日程﹀ ︵ 0開会 ▽講演 ﹁ 3 ︰0 世界 9日 ・1 女性会議北京大会 NGO フ ︵ アステー ルプ ラザ階上︶ てるか ∼ 2月 9日0、 0日0 ︵ 期 日﹀ 1 1 会場﹀広島市国際青年会館 ︿ ∼国際ボ ランテイアを いか に育 際協力と民間 ユネ ス コ運動﹂ ③ 1995年 10月 0 0 私 の被爆 1日 ・9 ︰0 ▽講演 ﹁ 体験と ヒ ロシ マの心﹂広 ュ 協高橋 昭博常任 理事 ▽平和 記念資料館見学 主催﹀日本 ユネ ス コ協会連盟、 ︿ L ‐ ‐ □ □ 軽くな った。急な男坂 と緩 やか な女坂と があり、私 はせ っかく 来 た のだ からと男坂 の方を選 ん なか った ので景色を よく見 るこ だ。女坂 よりもず いぶん人 が少 と が出来 た。木 の生 い茂 る山 の 中 に永遠 と続く長城を見 て、北 方 の匈奴 の侵入を長 い間 にわた って防ぎ続けた力強 ざと、中国 なら では のスケールの大き さを 感 じた。流石 に男坂だけあ って 後援 ﹀広島県教育委員会 、広 ︵ 会 、広島県 ユネ ス コ連絡協 議会、広島 ユネ ス コ協会 に及 ぶ実施計画を終え、若 い世 そし て今回 の中国と 五年 、五回 1991年 に始 めた海外研修 は、各年、 アメリカ、 ョー ロ ッ パ、東南 アジ ア、オセ ア ニア、 7 生 8名 ︵ 引率者 3名 ︶を 8月 1 日から十 日間、派遣 した。 は 5年 目を迎え て本年度 は中国 ︵ 北京 、 西安、 敦 慢︶ へ、高 校 コ協会主催 、多 山報恩会助成︶ 高校生海外研修 ︵ 広島 ユネ ス あ る里 にす ると 一万 三千里 で 一 メート ルもあり、中国 の単位 で き た ら し い。 全 長 が 六 千 キ ロ にも強化 や修復 が繰り返 され て の長城を築 いてから、ど の時代 れた所だ った。秦 の始皇帝 が こ 登 った のは、明 の時代 に修復 さ り、万里 の長城 であ る。私達 が 感 じ る こと が 出 来 た のは や は でも最も強く中国 の深 い歴史を 験をす ること が出来 た。そ の中 出来 な い、多 く のすば らし い体 中国 に行 く ことが出来 て本当 に て意志 の疎 通を図 ることも出来 た。 この海外研修 に参加出来 、 ら中国 の方 々と紙 に漢字を書 い とが出来、また買 い物 をしなが ど多 く の歴史縁 の地を訪 れるこ こ の他 にも兵馬桶坑 や故官 な 感動 でそんな ことも吹き飛 ぶく ら い胸 が 一杯だ った。 の長城 に登 ったと いう充実感 と よか った ので暑く、汗だく にな って気持 ちが悪 か ったが、万里 は登れなか った。天気 がと ても かなり急 な斜面だ った。階段 は ほと んど直角 で、手 すりなし で 第 0回 国際 6 交 流 サ ロン 代 に世界 へ眼を開かせた事業 の 万里を越え て いる ので ﹁ 万里 の 広響客員奏者 =パヴ ェ ・フルート/トーク ゲ スト﹀ ︿ ン ︿ 会 場﹀本 通 リ ア ンデ ルセ 島市教育委員会 3 ︿ 日時︶ 0 1月 2.日0 1時半 幕を閉 じる。 よか った。 ここで学 んだ多 く の ことを、 これから私 が成長 し、 ま でが長 い坂道 で登 る前 から足 た レ ンガを横 に並 べると地球 を 中 国紀 行 塩谷 裕美 広 島 大 附 属高 校 2年 今年 の夏休 みに、幸運 にも私 が引き締 ま ったせ いか急 に体 が 本 当 にあ り が と う ご ざ いま し た。 長城﹂と名付 けられた。使 われ ル ・フオルティ ン ︵ チ エコ︶ ・共演 /トークのお相手 バイオリ ニスト =中畝 み のり ︿ 会費﹀千円 に十 日間中国 へ行く機会 が訪 れ た。そ の旅 の中 で普段 は決 し て がだ るくな ってしま ったが、入 口に着き、 いざ登 るとな ると気 歩 いて いく中 で生かし て いき た 上 。凧作り 下 。ワラぞうり入門 バ スを降り てから長城 の入 口 ぺ あせろべ'95 一周す ること が出来 るそうだ。 EI‐ い。 このよう な機会を与え て下 さり、支援 し て下さ った皆様 、 中国 ブ ロ ック ユネ ス コ協議 五]… ■ SPO丁
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