主なお殿様 主な出来事 初代 忠将(ただまさ) 島津中興の主とも薩摩の聖君とも呼ばれた島津忠良「日新公」の二男で兄は 15 代貴久。関ヶ原の「敵中突破」義 弘の叔父に当たる。文武に優れ、三州統一に尽す。日本で初めて戦場で火縄銃使用。福山廻で戦死、42 歳。 2代 以久(ゆきひさ) 荒崎城(元垂水)に居城。慶長8年初代佐土原3万石藩主として移る。墓は佐土原高月院。 3代 彰久(てるひさ) 朝鮮出陣。文禄4年、朝鮮で 29 歳病死。室は義久の次女(新城様) 4代 久信(ひさのぶ) 慶長 16 年林之城(現在の垂水小)、お長屋等を建てる。島津相模守久信から「さがんさあ」と呼ばれ、鹿屋安養 寺に墓があり士族を中心に「さがんさあ参え」が行われたが戦後途絶えた。墓は現在垂水島津家墓地にあります。 7代 久治(ひさはる) よめじょ川疎水工事(3万両=現在の約 50 億円)を手掛ける。福山廻の忠将の石塔再建。 9代 貴儔(たかとも) 本家 21 代吉貴の二男。25 代島津重豪の祖父。長女都美は重豪の母で徳川 11 代家斉の御台所茂姫の祖母。 よめじょ川疎水工事完成。垂水商店街が出来る。 10 代 貴澄(たかすみ) 県内2番目の学問所「文行館」を創る(跡地は垂水高校西側)。 徳川 11 代家斉は島津重豪の娘、茂姫を正室に迎え、子宝と長寿に恵まれた。既に2人の若い奥方を亡くしている 14 代 貴敦(たかあつ) 13 代家定は茂姫にあやかり薩摩からの嫁がほしいと、重豪の 13 男の南部信順の娘(茂姫の姪)の於朝(おとも =八百姫)に話が持ちかけられたが於朝は垂水島津家 14 代貴敦と婚礼を済ませていた。 15 代 貴徳(たかのり) 明治初頭に垂水小・柊原小・水之上小・協和小校長務める(駕籠に乗り登校)。母は八百姫。 16 代 貴暢(たかみち) 男爵、奥方は草子(そうこ)女史。草子女史は我が国初の女性医学・文学博士。垂水島津家墓地内に「碑」有り。 垂水島津家最後の領主。 ↑垂水城跡(元垂水) ↑昔を偲ばせる石垣(上馬場通り) ↑都市計画では白山(神社)に向かって測量 がなされています(中馬場通り) 【垂水島津家林之城築城四百年記念事業】 ■主催 垂水島津家林之城築城四百年記念事業実行委員会 ■共催 垂水市、垂水市教育委員会 15 代貴徳 市内小学校長 を務める ■後援 垂水史談会、垂水市文化協会、垂水市地区公民館連絡協議会、 16 代・貴暢 1886 明治 19 垂水市商工会、垂水市観光協会、NPO 法人 まちづくりたるみず 八百姫死去 ◎問い合わせ先 垂水市文化会館 ☎ 0994-32-7551 15 代・貴徳 1877 明治 10 1873 明治6 1871 明治4 1868 慶応4 1867 慶応3 1866 慶応 2 1863 文久 3 明治時代 廃藩置県 13 Tarumizu City Public Relations 鳥羽・伏見の戦い (戊辰戦争開戦) 徳川慶喜 大政奉還を奏上 薩長同盟 成立 薩英戦争
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